今日はさとりと定期的に行っているお茶会の日だ。月に一回、私は来客皆無の地霊殿にさとりのお客として招かれる。
始まりは確か地上から人間がやってきた後くらいだった。あの一件以降、橋を通る者が増えたことをさとりに報告しに地霊殿に出向いた時に、もてなしとして出された紅茶を私が気に入ったのだった。地底にはお酒を売る店ばかりで、そういうお洒落な飲み物はどこにも売ってなかったから、私は初めて飲んだ珍しい味に強い関心を持った。
「この飲み物美味しいわね。何というのかしら」
「これは紅茶と言って西洋のお茶です」
「西洋の……。興味深いわ。こんな美味しいものをいつでも好きな時に飲めるなんて妬ましいわね」
「パルスィがお客として来て頂ければ、いつでも淹れて差し上げますよ」
さとりは表情を変えずに言った。その譲歩するような口調が、来客が来てほしいということを暗喩しているように思えた私は試しにこう言った。
「それじゃあ、たまに飲みに来ようかしら」
「……」
表情をあまり変えないさとりの口元が若干動いたのを私は見逃さなかった。すぐさま追撃を行う。
「冗談よ。誰があんたみたいな奴の屋敷に好んで来るものですか」
「……そうですか」
俯く直前にさとりが残念そうな表情をした。それを確かめてから私は続けて言った。
「でもこの紅茶は捨てがたいわね。あんたに会いにくるのは嫌だけど」
するとさとりは少し考え込んでから一つの提案を示した。
「そ、それならこうしましょう、パルスィ。あなたは橋の通行状況をひと月に一度定期的に報告しにくる。そうしたら私が紅茶を提供する。どうですか?」
「あんたがそうしたいならそれでいいわよ」
紅茶を飲みたいと言い出したのは私なのに、上から目線での発言についてさとりは言及しなかった。彼女は自分が内心喜びを感じていることを悟られまいと必死に隠しているようだった。
きっと友達が欲しいのだろう、と私は思っていた。私は分かっていた。さとりは定期報告だろうが何だろうが、お客がやってきてほしいと思っていたことを。
さとりは未だにそんなことを思っている。
「な、何を言っているのですか。違いますよ。私はお客など求めていません。私が求めているのは地上から橋を渡ってくる得体のしれない連中の情報です。勘違いも甚だしい……。とにかくパルスィ、そういうことでいいですか?」
「はいはい」
焦りからまた無表情へと戻ったさとりは、「それじゃあ一か月後に会いましょう」と私に背を向けた。横からちらと覗き見ると、さとりはやはり口元を動かす独特な笑い方をしていた。
こうして私は定期的に地霊殿に招かれるお客となったのだ。
◆ ◆ ◆
初めのうちは紅茶を飲みながら報告をし、紅茶を飲み干すとすぐに帰っていくだけだった。しかし、そのうちにさとりが遠回しにあの手この手を使い、私を帰らせないように仕向け始めた。今日はたまたまクッキーを焼いたから食べて行きなさいだとか、昨日の晩御飯のシチューが余っているのだとか、ペットのことで相談があるだとか、それはもう必死だった。
私は時には面倒そうに、時には満更でもないようにしながらさとりに付き合ってあげた。
最初は義務的に地霊殿に通っていた。しかししばらくして、私はさとりの表情を見て楽しむ術を覚えた。私の考えることがさとりには否が応でも分かってしまう。つまり私が変なことを考えれば、あいつはそれを読み取って動揺するのだ。その動揺を我慢している様子が私には面白く見えたのだ。口元がぴくぴくと動いたり、眉がひくひくと動いたりするさとりの顔を、私はニヤニヤと笑いながら眺めていた。
最初は嫌いだったさとりのサードアイを、私は面白おかしく戯れる道具に用いたのだ。
そしていつの間にか、私は紅茶だけでなくさとりを見るのを目当てにして通うようになった。表面上は紅茶目当てで来た風を装いながら。さとりには私の考えが筒抜けのはずなのに、この表面上の態度と内心との差異について、敢えて問い詰めるようなことはしなかった。
私が内心でどう思っていようが、さとりには関係ないのかもしれない。ただ私が会いに来てくれるのが嬉しくて、さとりにとっては私の心など些事に過ぎないのかもしれない。
こうして、私たちは少しずつ親しくなっていった。私はお客として、そしてさとりの友達として地霊殿に通うようになった。
地霊殿を訪れ、さとりと紅茶を飲みながらの会話。そんな関係がしばらく続いたある日のことだった。私は前日に勇儀さんに誘われて徹夜で飲み会をした。そのせいで地霊殿でもずっとうとうとしていた。すると「私の寝室を使う?」とさとりは尋ねてきた。
あわやティーカップを落としそうになるほど眠かった私は、その言葉に甘えてベッドを借りることにした。そして私がベッドに入ってしばらくすると、さとりがするすると私の隣に潜り込んできて「私も一緒に寝ていいかしら」と恥ずかしそうに顔を伏せて尋ねてきた。既に意識が薄くなっていた私は適当な返事をして眠りに沈んだ。
意識が回復したとき、私は腹部に重圧を感じた。
「……スィ、パルスィ……」
近くからさとりの声が聞こえてきた。
「さとり……?」
目を開くとさとりが私の身体に馬乗りになって胸部をまさぐろうとしていた。私は何も考えられず条件反射に近い形でさとりの身体を強く突き飛ばした。さとりは勢いあまってベッドから落ちた。
「さとり。あんた何してんのさ」
自分でも驚くほど低く冷たい声が出た。さとりは床の上で沈黙したままだった。突然の出来事に動揺しているのは私だけで、さとりはむしろ放心状態になっていた。
「黙ってないで何とか言いなさい。これはあんたがやったんでしょ?」
はだけて前が露わになっているのも気にせず私はさとりを問い詰めた。
「答えないというのなら、もうあんたとはお別れね。二度と来るもんですか」
「待って!」
さとりは「行かないで」とこちらに右手を伸ばし懇願する。しかしその手はさとりの目から溢れ出す涙を受けるために引っ込められた。
さとりの涙を見て少し冷静さを取り戻した私は衣服を直した。ようやく働くようになった頭で先ほどの光景を想起すると、恐ろしさのあまり身体が震えた。
「あんたほんとに何してんのさ。こんな強姦まがいなこと……。しかも女相手にだなんて」
「違うの。これは強姦なんかじゃない」
「じゃあ何だって言うのよ。寝ている奴の服を脱がせて身体触ろうとしてたじゃない。誰がどう見ても」
「違う!」
さとりは一際大きな声を上げる。そこだけは譲れないという信念を持っているように、顔色を変えて主張してきた。私はその声の大きさに驚いて黙ってしまった。しかしそのおかげで冷静に会話ができるだけの余裕が生まれた。
「何が違うのよ」
「強姦まがいのことをしたことは謝るわ。ごめんなさい。でも私は決してあなたを犯そうと思っていたわけじゃないの。信じてちょうだい」
さとりは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら訴えた。そして「自分でも何故あんなことをしたのか分からない」と申し訳なさそうに言った。
さとりの涙を見るのは私も心苦しい。しかし私は本当に身の危険を感じたのだ。焦りもするし怒りもするのは当然だろう。
「私も少し言い過ぎたかもしれないわ」とさとりに謝った。だが、彼女がしたことを許したわけではなかった。最後までさとりを責めたままだと気が悪いからだ。
「説明できないのならもういい。私は帰る。じゃあねさとり」
すぐにでもその場から立ち去りたかった。それ以上そこにいるとさとりに心無い言葉をぶつけてしまいそうだった。私はベッドから降りて速足で寝室の扉に向かった。ドアノブに手をかけたとき、さとりが「待って」と私を引き留めた。
「また、一か月後に来てくれる?」
神に許しを乞う人間のようにさとりは私に縋った。その表情に少しだけ私の心が動いた。
「……紅茶を飲みに来るだけならね」
私はやや乱暴にそのドアを閉めて地霊殿を後にした。
帰り道で私は先ほどの出来事を思い返した様々な感情が複雑に入り混じっていて、私はその絡まった糸を少しずつ解いていった。
人に身体を触られたことに対する気持ち悪さ、不快感。寝込みを襲われたことへの驚き。そして何より私の心には怒りが渦巻いていた。
何故私はこんなに怒っているんだろう。さとりの行動のどこに怒りを覚えたのだろう。さとりが自分勝手な行動をしたから? 倫理的に問題があるから?
私は自分の感情のことが分からなかった。
◆ ◆ ◆
次の定期報告がやってきたとき、私はそれほど憂鬱ではなかった。いつものように報告を済ませ、紅茶を飲んで帰るだけだと割り切っていた。一か月前のことはできるだけ思い出さないようにしていた。嫌な事件を忘れることで記憶から消し去ろうとしていたのだ。
私はダイニングのドアをノックして中に入る。さとりは一か月前と変わらず定位置の椅子に座っていた。そして「いらっしゃい」と常套句を口にした。
さとりは紅茶を入れるためにお湯を沸かし始めた。私は最近魔法使いが数回地底にやってきただけだと報告した。
紅茶が淹れられて私の前にカップが出ても、沈黙は保たれたままだった。普段なら、ここから紅茶を飲みながらさとりが世間話でもするのだけれど、さとりの口は一向に開かない。しかしその間もサードアイだけは私から視線を外さなかった。
黙っているくせに人の心だけは読み続けている。私はそんなさとりの態度が苦手だった。多少は慣れたとはいえ、やはり心を読まれるのは妖怪にとって不快なものである。
居座ることに苦痛を感じた私はさっさと紅茶を飲んで帰ろうと思った。長居するとまた嫌なことが起きるかもしれない。この時ばかりは好みの紅茶も美味しく感じられなかった。
私はカップを置いて立ち去ろうとする。しかし直前に「パルスィ、話があります」とさとりに呼び止められてしまった。当たってほしくない予感が脳を掠めた。
「なに?」
「この前のことです」
できれば触れてほしくない部分だった。あの時の悪夢の記憶が頭を掠めたがすぐに振り払った。
「そうです。私はあのとき身勝手な理由でパルスィに苦痛を与えてしまった。ごめんなさいパルスィ」
さとりは立ち上がってわざわざ頭を下げた。その仰々しさに私は少しうろたえる。
「もういいわよ。忘れることにしたから。もうその話はしたくない。あんたが反省しているのは態度を見れば分かるわ」
「待って。少し私の話を聞いて」
「聞きたくない」
「お願いパルスィ。聞いてちょうだい」
「さとりが私に言うことなんて何も無いじゃない。出てくる言葉は全て言い訳にしか聞こえないのよ」
「お願い……。私、あなたがいないとだめなの。ねえ、見捨てないで。パルスィ。見捨てないで」
さとりは泣きながらこちらに歩いてきて私の足に縋り付いた。まるで子どもが親に泣きついているようだった。私は困惑した。
「見捨てるって何よ。別に最初から面倒見るなんて言ってないわよ」
「あなたは私の唯一の友達なの。だから見捨てないで……」
私にはさとりの見捨てるという言葉が理解できなかった。今日みたいに紅茶を飲みに来たら、それは見捨てたとは言わないと思うのだけれど。いったいどこが不満だと言うのか。
「まさかとは思うけど、この前のようなことをもう一度しても見捨てないでと言う気かしら」
そんなのは傲慢すぎるだろう。
「…………」
「どうなのさとり?」
「……パルスィは、どうして私に会いに来てくれるの」
「どうしても何も、定期報告と紅茶のためよ。他に何があると言うの」
私が来るとさとりが嬉しそうにするのも楽しみの一つだけれど、それは敢えて言わない。
「……そうですか。私が嬉しそうにしているのが分かりますか」
しまった。さとりの能力をすっかり忘れていた。普通に会話をしていたからとはいえ迂闊だった。
さとりは私の足にしがみついたまま上目遣いをしてきた。そしてペットが飼い主に必死にお願いするような目で話を続けた。
「お願いだから私の話を聞いて。私があなたに酷いことをしたのは、決してそういう欲望が抑えきれなかったわけではないの。私の中に湧き起こったのは肉欲なんかではなく、もっと高次で複雑な、精神的な作用によるものだったの。あなたは私の唯一の友達で、大切な存在なの。私はあなたと仲良くなるまでは一人でも平気だった。でも今はだめなの。孤独から抜け出してしまったから、もう戻れないの。あなたが傍に居てくれないと私は……。あなたの素敵な耳が、特徴的な目が、落ち着いた声が、そして存在の証となる肉体が、私には必要なの。自分勝手な理論でごめんなさい。でも私はもうそれなしで生きていくことがたまらなく辛いの。この前の行為は行き過ぎたと反省している。今の私はもうあんなことは繰り返さない。あなたが隣に居てくれるだけでいいの。それだけでいいって気づいたの。だからお願い、パルスィ。私の隣から居なくならないで」
さとりの訴えは私の心を多少揺さぶった。確かに頼られるのは光栄だったし、私のことをそこまで思ってくれているのも嬉しかった。
それに私は、さとりが悪いやつではないと知っている。気難しい性格と能力のせいで嫌われているが、話してみれば性格は穏やかで物腰柔らかで丁寧だ。読んだ心をそのまま口にする嫌味な部分もあるが、それを私は否定しない。それは彼女の妖怪としての自己同一性……さとりを「覚り妖怪」たらしめているものだからだ。
「私はあなたのその考えが何よりも嬉しいのですよ」と、さとりは私の顔に近づきながら言った。
「私に出会う者は皆口をそろえて私の能力を否定し、忌避するの。気持ち悪いって。そして当人達は自覚が無いのでしょうけれど、私にとってその言葉は『私自身が気持ち悪い』と言われていることと同義なの。あなたも妖怪なら分かるでしょう。パルスィに嫉妬をするなと言うのは、存在を否定するも同じ。あなただけが私の存在を認めてくれたの。私は覚妖怪として生きてもいいと。あなたが認めてくれないと、私はこの世界に居ても居なくても同じことなの。私にとってパルスィは地底に指す希望の光で」
私が相槌を打たないとさとりは一人でどこまでも喋り続けた。私の存在がどれだけさとりに影響を与えるのか、そんなことを延々と繰り返した。その言葉の一つ一つが、私の心にさとりの切実な思いを訴えかけてきた。その熱意に私はついに屈服した。
「分かった、分かった。あんたの想いはよく分かったから。とりあえず落ち着いて。少しは私の意見も聞きなさい」
さとりは安堵したように少しだけ笑った。私は子どもに話しかけるような優しい口調を使った。
「この前のことについてはもう許してあげる。あんたに私を求める強い気持ちがあることは理解した。私だって求められるのは嫌じゃない。でもね、私が寝ているときに襲うのだけは止めてほしい。あれだけは許さない。次にやったら絶交するわ」
「分かったわ」とさとりは頷いた。そして立ち上がって私の肩にもたれかかり、耳元で「ありがとう」と呟いた。さとりの口元があの独特の動きを見せた。
心を読まれないように私は何も考えずさとりの背中に腕を回した。彼女の柔らかい身体の感触を受け止めた。しばらくすると、さとりは満足したのか自分から身体を離した。
「また来てくれる?」
「来るわよ。紅茶を飲みにね」
私は心にある思いを隠して別の言葉を放った。さとりはまたあの笑い方をした。きっと心の中がばれてしまったのだろう。
早く帰りたい。早くさとりの能力が及ばないところに行って、そこでゆっくり考えたいと思った。さとりに知られたくない思考がいくつもあったのだ。私は一度も振り返らずにダイニングのドアを開いて廊下に出ると、そそくさと地霊殿から抜け出した。
私は私自身の思考を考察したかった。しかしさとりの目の前でするのはいささか問題があった。きっとこれはさとりにとって知らないほうがいいことだろうと直感的に思ったからだ。足早に橋に帰ってきた私はさっそく地霊殿での会話を振り返った。
どうして私はさとりのことを、この前の出来事を許してしまったのだろう。さとりに泣きつかれたから?
私がさとりに向ける感情は、一般的に友達に向けるそれと比べて歪んではいないだろうか。そもそも私がさとりに向ける感情は友情なのだろうか。私は友情からさとりのことを許したのだろうか。これからも会うと約束したのだろうか。
それはどこか違っている。私の持っている思いは友情というよりもむしろ同情であった。情けであった。「かわいそう」という言葉が私の心の奥で唸っていたのだ。
さとりはかわいそうだ。能力のためにあらゆる種族の者に嫌われ、傷つけられ、虐げられてきた。孤独の道を選択せざるを得なかった。だからと言って、自分の能力をなくすわけにはいかない。それは妖怪としての誇りであり、自我を保つための大事な要素であるから。
さとりはかわいそうだ。
だから私は手を差し伸べるのかもしれない。かわいそうな者に手を差し出して善人気取りをしているだけなのかもしれない。同情してあげて感謝してもらうことで恍惚感を得ようとしている、醜い存在なのかもしれない。
さとりはかわいそうだ。だから、私が傍にいてあげないといけない。
そのような義務感を勝手に背負い、それを果たすことに喜びを見出した。
私だけがさとりのことを理解してあげている。そんな特別な存在になって満足している。あんな酷いことをされた一か月後にまた地霊殿を訪れたのも、全ては自己満足を満たすためだった。
「私はきっと最低だ。結局自分のためにしか行動できない哀れな妖怪なんだ」
橋には誰もいない。また誰かが通る様子もなかった。私の自己嫌悪の呟きは、地底の闇に吸い込まれて消えていった。
◆ ◆ ◆
私は一か月後に何事もなかったかのように地霊殿を訪れた。その次の月も、そのまた次の月も。さとりは私が来ると嬉しそうにしていた。そしてその表情を見て私は満足感を得ていた。
私とさとりは決していい関係ではないように思えた。曖昧な部分から目を逸らして都合のいいところだけを見つめていた。
いつしかさとりは紅茶の後にお昼寝しようと誘うようになった。最初はもちろん断っていた。過去にさとりの寝室で起きた事件のことを考えれば当然であった。もう一度あれを繰り返すことになる。
しかしその点に関してさとりはしつこく迫ってきた。私はますますさとりの考えが分からなくなった。そこまでして私に近付こうとする、触れようとする理由が何なのか。理解が及ばなかった。
しかしある日、私は魔が差したのだろう。とうとうその誘いを受けてしまった。猫撫で声ですり寄るさとりを追い返せなかった。断った時の残念そうな表情を見たくなかった。さとりの願いを叶えることで得られる自分の喜びの大きさが、あの事件の不快感を勝ってしまったのだ。
でもそれはきっと渡ってはいけない橋だった。渡ると二度と戻れない橋だったのだ。
この橋を渡ってから、私たちの今までの関係は崩れてしまったんだと思う。
初めの頃は本当に二人でお昼寝するだけだった。だがそのうちにさとりは「身体を抱きしめてほしい。それだけでいいの」と要求してきた。私はベッドの上で彼女の身体を胸に抱いた。私の細い腕の中で、彼女は安らかに眠った。まるで子どもが母親の腕の中で眠りにつくようだった。
それからまた数か月経ったころ、今度は「おやすみのキスをしてほしい」と言ってきた。私は仕方なく頬に口づけをした。そうするとまたさとりは幸せそうな表情を浮かべて静かに眠りに入っていった。
さとりは非常に要求の上手なやつだった。私が要求になれてきた頃合いになると、また新しい要求をしてきた。その頃の私はもはや、さとりの幸せを見ることを自分の喜びとして感じていた。要求に応えることこそが私の喜びとなっていたのかもしれない。
枷をなくしてしまった私たちは、未知の扉を開いて先に進んでいった。
それが破滅へと向かう道だと分かっていても、私たちは止まることができなかった。
頬へのキスはいつの間にか唇に変わった。手の甲や首や肩など、要求されるがままに私は唇を落とした。そのような触れ合いはいつしか双方向になり、彼女もまた私の首や肩にキスをした。
お互い服を脱ぎ、お互いの身体を愛撫したこともあった。さとりの手つきは、自らに必要なものを探し求めているような感じがした。さとりの求めるものがそこにあったかどうかは私には分からない。さとりは暗闇で物を探すように私の手や太ももや腰や胸に遠慮なく手を這わせた。
くすぐったさが快感に変わるまでそう時間はかからなかった。だが私が感じたのは快感だけではなかった。さとりに身体を触られるたびに、言葉ではうまく説明できない想いが胸の中で複雑に絡まっていった。
彼女の手は私の肌の上を滑り、私の感情を高ぶらせた。逆に私の手がさとりの身体を撫でると、彼女は甘い声を口から漏らした。その声を聞けることが私にとっては幸せだった。
私が求めたものは快感ではなく、さとりからの承認のようなものだったのかもしれない。傍にいることを認められている。それだけでよかった。
そうして二人の心が満たされると、私たちは肌と肌を重ね合わせ、安らぎと温もりの中で眠りに落ちていった。
こんなのは友達じゃない。こんなのはおかしい。そう分かってはいるが、抜け出す手段を持っていなかった。
◆ ◆ ◆
ある寒い日のことだ。私はその日も意気揚々と地霊殿に向かっていた。旧地獄街道を歩く妖怪達は皆私を避けていく。
しかしその中で、ある鬼が私の進行方向の道の真ん中で仁王立ちをしていた。その鬼は私を見つけるとあからさまににやりと笑った。普段のさとりの表情と比べると格段に分かりやすかった。
「よお、パルスィ。最近めっきり会わなくなったね。地上旅行にでも行ってたのかい?」
「勇儀さん。私は地上なんかに行きませんよ。ずっと橋を見張っているんですから」
「そうかい。まあそれはいいとして。久しぶりに二人だけで飲まないかい?」
そう言って勇儀さんはこちらに一歩詰め寄ってきた。言葉の上では勧誘のようだが、実際私には鬼の勇儀さんのお酒を断ることはできない。勇儀さんもそのことは分かった上で誘っている。
「どうした? この後予定でもあるのか?」
「……いいえ、特には」
さとりに会いに行くことは伏せておこうと反射的に思った。それは隠しておくべきことのように感じた。さとりと私の関係は決してほめられたものでは無いと思っていたから。
「それじゃあ二人だけで飲もう。今日は静かなところで飲みたいんだ。パルスィの橋まで行こうじゃないか」
「別に私の橋ではないけれど」
「ずっと見張ってるんだからもうパルスィのものさ」
陽気な声で笑い飛ばすと勇儀さんは私の腕を掴んでずんずんと橋に向かって歩き始めた。私は半ばさらわれるようについて行った。
その日はさとりに会いに行く日だった。きっとさとりは私のことを待っていた。でも私はそれを言い出すことはできなかった。私はさとりに会いに行くことに後ろめたさを感じ始めていた。
心に闇を抱えて歩く私と対照的に、勇儀さんは機嫌がよさそうだ。口笛を吹きながら、片手で一升瓶を振り回したり、投げてはキャッチしたりして遊んでいる。相変わらずの腕力に私は妬ましさを覚えた。
やがて渡る者の途絶えた橋まで来ると、勇儀さんは欄干に体重を預けて座り込んだ。私も勇儀さんの隣に腰を下ろした。
「ここは静かでいいな。しかしこんなところで見張りなんかしていて退屈じゃないかい?」
「退屈でいいの。私はここで静かに誰かを妬むの。私のように退屈していない奴を。地底で楽しそうにお酒を飲む奴を。そうして私は力を保っているの」
「ふーん。やっぱり退屈なんだな」
勇儀さんは一升瓶を開けていつも持っている巨大な盃に注ぐ。そういえばさっきは持っていなかったけどどこから取り出したのだろうか。とにかく勇儀さんはその盃でお酒を一気に飲むと、もう一度注いで私に盃を持たせ、「パルスィもぐいっと行こう」と言った。
盃を傾けるとお酒の味が私の舌を刺激した。そのまま一気に飲むと喉のあたりが急に熱くなった。
「これ、度数いくら?」
「25度」
「喉が焼け爛れそうよ」
「お酒ってそういうもんだろ」
盃を返すと勇儀さんは一人でどんどんお酒を注いでは飲んでいった。勇儀さんはお酒を飲んでいる時が一番幸せそうで一番妬ましい。そうして嫉妬の感情を燃やして緑眼を光らせた時、勇儀さんが私の肩を掴んだ。私は呆気にとられて身動きができなかった。
「突然どうしたの勇儀さん」
「なあパルスィ、一つ聞きたいことがある」
「何かしら」
肩に勇儀さんの力を感じながら、勇儀さんを見つめる。勇儀さんの赤々とした目が私の緑眼を捉えた。嫉妬の感情がばれたんじゃないかと私は動揺した。
「最近よく地霊殿に行ってさとりと会っていると、風のうわさで聞いたんだが、それは本当なのか?」
「えっ、それは……」
予想の斜め上の質問だった。答えないと、と思っても口が動かなかった。さとりとの関係はできれば話したくなかった。だが鬼の勇儀さんに嘘をつくのは憚られた。そういったジレンマから私は黙り込んでしまった。
「酒の席でみんなが口々に言うんだ。誰も近寄らないはずの地霊殿に、月一回程度の頻度で行くやつがいるんだって。そいつの特徴が、金髪に緑眼だ。地底にそんななりをしたやつなんてパルスィしかいない。もちろん私はそれはパルスィだなんて言わない。もしパルスィが肯定しても誰にも言わない」
勇儀さんは言わないといえば必ず言わない。鬼は素直でまっすぐで嘘をつかないから。真剣な面持ちで見つめてくる彼女に、私は嘘をつくことなんてできなかった。
そのまっすぐさが、妬ましい。
「本当よ……私は地霊殿に通っている」
「どうして、そんなことをする?」
勇儀さんは眉をひそめた。肩を掴んでいた手に少し力が加わる。勇儀さんの鋭い視線が私の眼を捉えて離さない。
「あいつが地底で最も嫌われているということを知らないはずはないだろ。そんな奴に会いに行くなんて、決していいことはない。そんなことを続けていたら、いつかパルスィまでもが地底の嫌われ者になってしまう。私はパルスィに地底でまで嫌われ者にはなってほしくないんだ。だからこうやって忠告してるんだ。私の言ってることが分かるかい?」
「分かるわ。勇儀さんの気持ちは痛いほど伝わってくる」
「あいつとはどういう関係なんだ?」
「……」
「言えないような関係なのか?」
初めは紅茶を一緒に飲むだけの関係だった。でも今は違う。
「あいつとは……さとりとは、お互いの存在を求める関係よ。彼女には私が必要で、私には――彼女が必要なのよ」
言葉の一つ一つを心の中で噛みしめながら私は言った。勇儀さんもまた、私の一言一句を聞きのがすまいと集中して耳を傾けていた。
「パルスィはさとりじゃなきゃだめなのか? さとりはパルスィじゃなきゃだめなのか? それは、本当に代替不可能な相互的関係なのか?」
代替不可能な相互的関係。やや複雑な文言が私の頭で繰り返された。それはとても特殊で奇異な関係だ。他者との関係の中でもかなり特異的であるのだ。私は返事に詰まった。
勇儀さんがお酒を飲むとき、その相手と勇儀さんは代替可能な関係だ。勇儀さんは飲む相手を選ばない。誰とでもお酒を飲む。
では私とさとりは? 橋の交通状況の報告は私にしかできないが、他はどうだろうか。一緒に紅茶を飲んだりクッキーを食べたり、寝室で戯れて身体を抱きしめることは、私にしかできないことだろうか。そう自分に問いかけた。
そんなことはないのだろう。そもそも、この世に存在する関係で代替不可能なもののほうが圧倒的に少ない。勇儀さんは「誰とでも」お酒を飲むし、私は「誰にでも」嫉妬する。「誰でもいい」という関係がほとんどなのだ。だからきっと、さとりも「誰でもいい」のだろう。勿論そこにはある程度の条件があるだろうけど、その条件さえクリアすればやはり「誰でもいい」のだろう。
「気づいたようだけど、さとりとパルスィは決して代替不可能な関係じゃない。さとりはパルスィじゃないとだめなんてことはないはずだ。そしてパルスィも――あんたがさとりに何を求めているのかは知らないけど、それは決してさとりだけにしか求められないものではないはずだ。パルスィがさとりの不幸に同情する必要なんてない。それはさとりの妖怪としての運命であり、受け止めなければならないのはさとり自身であり、パルスィが代わりに背負うものではないはずだ」
勇儀さんの必死な訴えに私は少したじろぐ。肩の痛みがさっきよりも増していた。
「勇儀さん、ごめんなさい。その、肩を」
「あ、悪い」
勇儀さんは徐々に力がこもってきていたことに気づいていなかったようだ。私の肩から手を離すとばつの悪そうに横を向いた。
勇儀さんは私のことをとても大事に思ってくれている。勇儀さんの言葉からそれがとても伝わってきた。頭ごなしにさとりを否定しているわけではない。ただ、私の地位が脅かされることを疎ましく思っているのだ。
「勇儀さんは私のことをかわいそうだと思う?」
「思わない」
「同情しない?」
「しない」
何を聞いているんだ私は。勇儀さんはそんなことをしない。私みたいに、さとりをかわいそうだと思ったり同情したりはしない。さとりの運命はさとりが背負うべきだと言い、私の運命もやはり私が背負うべきだと言うのだろう。
「勇儀さんはどうしてそこまで私のことを気にかけてくれるのかしら」
「私はパルスィのことを悪い奴だとは思っていないからだ。パルスィは明るくて温厚でいい奴じゃないか」
嫉妬を操る私のことを勇儀さんがそのように言えるのは、鬼という妖怪の中でもとりわけ勇儀さんが嫉妬と無縁であるからだろう。地底では力の強い者がルールになる。かつて地上の山で四天王だった勇儀さんに力で叶う者などいるはずがない。つまり、勇儀さんは強者であり頂点でありルールであり、嫉妬する対象など周囲にいないのだ。私の能力は他者に嫌われるものであるが、それが勇儀さんにはそもそも発揮されない。
いや待て。それでも私が嫉妬に狂う様子を見て下賤だという鬼はいくらでもいる。だが勇儀さんはそんなことを一切言わない。勇儀さんは何故か私のいい部分ばかりを見てくれる。
「私は嫉妬を操る妖怪。人間の世界では七つの大罪に数えられるほど醜くて汚らしい感情が私の中には渦巻いているのよ。この緑色の眼は醜いものの象徴であり、つまり私自身が醜いものの象徴なのよ。いくら性格が、内面がよかろうと、この醜い外見を肯定する理由にはならないはず」
「なるよ。人間の世界での決まり事なんて、私には関係ない。嫉妬が緑色なんて、だれが決めた? 私はパルスィのその鮮やかな緑色の眼が好きだよ。勿論性格も好きだ。人間がどれだけその緑色を醜いと言って虐げたとしても、その緑色は紛れもなくパルスィの色であり、パルスィの妖怪としてのアイデンティティであり、存在の証明じゃないか。だから私はその緑色の眼を受け入れる。受け入れて初めて私はパルスィの存在を認めるんだ」
その時私は雷に打たれたのではないかと思うくらい強い衝撃を受けた。驚きの表情でこの目をいっぱいまで開いて勇儀さんを見つめた。
そうか。そういうことだったのか。
勇儀さんの必死な声の中に、さとりがかつて私に縋り付きながら放った言葉と同じものがある。私はそこに気づいてしまった。
さとりのサードアイを気持ち悪いと言うことは、さとり自身を気持ち悪いと言うことと同義であると。そして私に嫉妬をするなと言うことは、存在を否定するも同じだと。さとりは言っていた。
同じだ。
同じなのだ。
勇儀さんの私に対する思いと、私のさとりに対する思いは同じ。
勇儀さんは私の緑眼を認め、私はさとりのサードアイを認めたのだ。どちらもそれが妖怪としてのアイデンティティであるその「眼」を、肯定し受け入れた。
「勇儀さん。あなたは私の緑眼は認めても、さとりのサードアイは認めないのかしら」
「な、何を言ってるんだパルスィ。どうしてパルスィの緑眼とさとりのサードアイを比べるんだ」
「私にとってのアイデンティティがこの緑眼なら、さとりにとってのアイデンティティはあのサードアイになるのよ」
「パルスィの目はただ緑色に光るだけだが、あいつのあれは違うだろ。あんな質の悪い目はパルスィの目とは比べ物にならない」
「でもそれがさとりにとって存在の証明なのよ。勇儀さんが私を認めてくれるように、私はさとりを認めているのよ。そこには何一つ違いがない。私が地霊殿に通うのは、私がさとりを認めているからなのよ。この地底に、あの目を認める奴は他にいない。私だけがさとりを認めている。私だけが彼女の理解者なの。代替不可能な、さとりにとって唯一の存在なのよ」
口を固く閉じ胡坐をかいたままの勇儀さんは、赤い目で私を刺すように見つめる。鬼の威厳と風格をまじまじと表しているその態度に若干の恐怖を覚えた。
「私が何と言おうと、パルスィはさとりと仲良くするつもりなのか」
勇儀さんはしばらく私を見つめ、やがて眉をひそめた。しかしその表情は疑念や不快を表しているものではない。分からないはずもない。私が真っ先に感じることのできる感情が、その表情の奥に潜んでいた。
さすがの私も驚いた。でもそれは間違いなく嫉妬の感情であった。私を求めるさとりへの、そしてさとりを選ぶ私への嫉妬が勇儀さんの中で激しく燃えていた。その大きく激しい感情を必死に抑えようとして、拳を震えるほど握りしめている勇儀さんを見るのは辛かった。
「こんなに苦しい思いをするのは初めてだよ。欲しいものは全て力で手に入れてきた私に、こんな経験はかつて一度もなかった」
勇儀さんは再び無防備な私の肩をつかんだ。そして力を加えて私を押し倒そうとする。しかしそこで何かに気付いたようにハッとして、力を加えるのを止めて肩から手を離した。私の身体は少し後ろに傾いたところで止まり、また元の位置に戻った。俯いて表情を隠していた勇儀さんだったが、口元では歯がぎりぎりと音を立てそうなくらい強く噛みしめられているのが見えた。
勇儀さんは何をしようとしたのだろうか。さとりのように、私を押し倒して犯そうとしたのだろうか。これまでそうしてきたように、力でねじ伏せてしまおうとしたのだろうか。
理性では抑えきれないほどの強い感情が勇儀さんの心の中で灼熱地獄のように燃えているのを感じる。
「頂点に立つものは感情を押し殺すのが苦手なんだ。パルスィなら分かるだろ」
「…………」
「私はパルスィが好きだ」
ずしっ、と重たい言葉が勇儀さんの口から落ちてきた。それは勇儀さんにとって運命を分けるほどの重大な言葉のようだった。
「私はパルスィが好きだ」
二度目の台詞も一度目と同じくらいの重さを保っていた。いや、むしろさらに重くなっているように感じた。
告白されるのは素直に嬉しい。だがそれは実らない告白であると思うと、かえってその言葉を聞くのが辛くなる。
「私はパルスィが、好きだ。明るく温厚な性格も、鮮やかに光る緑色の目も、嫉妬に狂い爪を噛む姿すらも好きだ。私はパルスィが欲しい。パルスィに唯一選ばれる存在になりたい」
「でも……」とそこで勇儀さんは言葉を切る。苦痛や嫉妬という負の感情によってその表情は歪んでいる。
「でもそれはきっと無理だ。パルスィが選ぶ相手は私じゃなくさとりなんだ。私がパルスィを求めるように、パルスィはさとりを求めるのだろう。私のこの思いを正確に伝えることは、パルスィのさとりへの思いを語ることになる。そうだろうパルスィ」
「……」
返事はしなかった。私がわざわざ肯定しなくても勇儀さんは納得してしまっているから。
「だからこれ以上は何も言わない。私はパルスィが好きだ。それだけでいいから受け取って欲しい」
「ええ。すごく嬉しいわ」
勇儀さんにここまではっきりと告白されても私は揺るがない。さとりと勇儀さんの間には決定的な違いがあるはずだから。
「勇儀さんは、私を抱きたいと思う?」
「抱きしめたいとは思うよ」
「そうじゃなくて、人間の男女がするようなことをしたいかってこと」
勇儀さんは口を開けたまま不思議そうにじっと私を見つめた。やや間があってから静かに口が動いた。
「いや、そうは思わない」
「そう……」
「パルスィは私と寝たいのか?」
「ううん。そうじゃないの」
「私はパルスィが好きだけど、そういうのはまた別の話だろう」
「そうよ。別の話。だって私たちは人間じゃないもの」
不審そうな目をする勇儀さんは、やがて面倒そうに言った。
「ここで私がどう答えようが、パルスィはさとりを選ぶんだろう」
「……ええ。ごめんなさい」
「いいや、謝ることはない。パルスィがそうしたいならそうすればいい。私も今まで通りやりたいようにやるさ。パルスィに会いたくなったら会いにくるし、飲みにも誘う。地底で嫌われ者になったとしても私はパルスィが好きだ。だからまたいつか、縁があったら一緒に飲もう」
あまりの潔さに私は何も言えなかった。しばらくしてから「ありがとう……」と伝えると、勇儀さんは悪戯っぽく笑った。
勇儀さんは立ち上がり、私に背を向けて歩き出す。途中で、悠然と立ち去るその足元に何かのしずくがぽたりと落ちた。それは盃に注いだお酒だったかもしれないし、或いは勇儀さんの涙だったかもしれない。しかし私にそれを確かめる術はない。
徐々に小さくなっていく勇儀さんの背中を無言で見送った。地底の闇に消えていくまで、とうとう勇儀さんは一度も振り返らなかった。
勇儀さんが去った橋の上で私は座ったままだった。立ち上がれなかったと言ってもいい。まるで人形のように動かずにそこに留まり、思考に集中していた。
初めて紅茶を飲んだ日。あの時はただ紅茶にしか興味がなかった。しばらく通い続け、私はさとりにも興味を持ち始めた。さとりが私を求めていることには薄々気付いてはいたのだが、それが何かまでは分からなかった。
さとりは私に何を求めているのか、また私はさとりに何を期待しているのか、その時にはまだ薄暗い夕闇に隠されていたかのように不明瞭なものだった。
でも今なら分かる。勇儀さんが全て教えてくれた。隠されていた答えを見つけてくれた。
私はそれを今からさとりに伝えに行く。そしてさとりとの関係について、曖昧にせずにちゃんと向き合って話し合う。そう心に誓った。
◆ ◆ ◆
ダイニングに入るとさとりは「いらっしゃい」といつもの言葉を口にした。平静を装っているようだけど、ドアを開ける瞬間に表情を変えたのを私は見逃さなかった。私の来訪がいつもより遅いことに不安を抱いている表情がそこにあった。
「不安にもなりますよ。いつも同じ時刻に来るはずのパルスィが、今日は2時間も遅刻したんですもの」
「もう来ないと思った?」
「思ってません!」
肯定したら「さとりは寂しがりやさんだなあ」とおどけるつもりだったが、さとりはそれを読んだのかはっきりと否定した。
さとりはすぐに紅茶を淹れてくれた。だが私はそれを一口飲んだだけでソーサーに戻した。
思えば、この紅茶から私たちの関係は始まったのだった。私たちの奇妙な関係は、この紅茶が繋いでくれた。でも、それも今日で終わりだ。
もう、紅茶は必要ないのだ。
「……パルスィ? それは、どういう意味?」
「大丈夫よ。別にもう来なくなるとかそういう意味じゃないわ。ただ、紅茶を口実にする必要はもうないっていうことよ」
さとりは不安そうにこちらを見つめ、必死に心を読もうとしている。私は手をさとりへ突き出してそれを制した。
「ちゃんと説明するから。今日遅刻したのは、私とあなたとの関係について考えていたからなのよ。そして私はある答えを見つけた。それを今から話すから。そんなに不安そうな顔をしないで」
目を閉じて一度深呼吸をする。頭の中にある答えを正確に引き出さなければならない。私のさとりへの想いは複雑で歪だけど、確かにここにある。勇儀さんの忠告を無視してまで、私がさとりを選ぶ理由が。
「できれば最後まで黙って聞いていてほしいんだけど」
「まあ、努力はしますが……」
自信なさげなさとり。この様子だときっと途中で口を挟むだろう。できれば邪魔はされたくないけど、思ったことをすぐに口にするのはさとりの性分だから仕方がないのかもしれない。それもまた、さとりのアイデンティティの一つだ。
そうやって、私はさとりを受け入れてきたのだ。
私はもう一度大きく呼吸をし、頭の中を整理しながら話し始めた。
「私とさとりがどうしてこんな関係になってしまったのか、私はずっと考えていた。でも、あんたの考えはまるで分らなかったし、私自身の感情さえ私には分からなかった。それが今日になってやっと分かったの。教えてもらったの」
勇儀さんに、というのは言わなくても伝わるだろう。
「初めてさとりの寝室に行ったとき、さとりのしたことについて私は怒りを覚えたわ。この怒りは、倫理的に問題だとか不道徳だとかそういうことじゃなかったの。あれは、さとりに『裏切られた』という思いからくる怒りだったのよ。あの頃の私はさとりの気持ちに薄々気が付いてはいたわ。あんた、表情を隠すのが下手だから。さとりは私のことが気に入ってるんだなと思ったし、もしかしたら好かれてるのかなとも思ったわ。実は、私はあんたに少し期待してたのよ。だから、あんたに身体を触られていると気づいたとき、私は裏切られた気分になった。さとりが私に向ける思いは、こんなものだったんだって。結局私の身体にしか興味がないんだって、絶望したわ」
でもそれは違うんだってさとりは否定した。今になって思い返せば、さとりがあの時言っていた言葉の意味が分かる。肉欲なんかではなく、もっと高次で複雑な、精神的な作用。
さとりは私の心の独白を聞いているのか何も喋ろうとしない。
「考えてみればおかしな話よ。私たち妖怪に人間の性欲のようなものが備わっているはずがない。まあ、そういう妖怪もいるかもしれないけど、少なくとも覚妖怪は違うだろうし、もちろん私も違う。つまりさとりが私の身体に触れたのは肉欲のためではなく、またその行為自体を目的としているわけではなかったのよ。そうでしょう?」
さとりは無言でうなずく。私の口はまだまだ止まらない。
「いつしか私とさとりはお互いの身体を求めるようになったけど、私たちは肉体的な愛を求めたわけじゃない。肉体に惹かれたわけじゃないのよ。私たちは互いに精神的に惹かれ合った。あんたが何に惹かれたのかは分からないけど。私はさとりという存在に。さとりという存在を構成する精神に惹かれたのよ。身体を求める行為は、精神的な愛情を表現するための手段の一つにすぎない。心の内に存在する相手への精神的愛情を、私たちは表現し、互いの愛情を確かめ合っているのよ」
私の熱弁をさとりは穏やかな表情で聞いている。二つの目は閉じられているけど、サードアイは変わらず私を見てくれている。
「独りよがりな話し方でごめんなさい。これはあくまでも私が勝手に出した答えだから」
「いいんです。続けてくださいパルスィ」
さとりは私の言葉を遮った。優しげな紫色の目が私をちらりと見た。そして少しの沈黙の後に「私もパルスィと同じですから」と言った。ぎこちないけど、そこには確かにさとりの笑顔があった。
同じですと言われると私は急に強い安心感に包まれた。すると次に伝えようと思っていた言葉が途端に出てこなくなってしまった。胸がぎゅっと締め付けられたような感覚に陥る。喉の奥まで出かかっているのに、言葉が詰まって、舌が上手く動かない。悲しくもないのにまぶたに涙が滲んだ。
「もう十分ですよ。パルスィの気持ちは痛いほど伝わってきました。あなたが言葉にしなくても、私はそれを読み取ることができる。もう十分です。ほんとに、それ以上は、もう……」
見るとさとりは顔に手を当てて涙を隠そうとしていた。私の心を一体どこまで読んだのだろうか。あんなに表情を崩すさとりも珍しい。
私はさとりの元へそっと寄り添い、首に巻いていたスカーフを外してさとりに渡した。
「汚れてしまいますよ」
「いいのよ。あんたのためなら」
さとりはスカーフを受け取ると、自分の涙を拭かずに私の顔にそれを近づけ、私の目元をそっと拭った。その動きがあまりにも自然で素早かったせいで、私はあっけにとられてしまった。
「パルスィも泣いてるんでしょう?」
「……」
「私と同じよ」
抑えきれない思いが体の内側から湧き上がってきていた。それがさとりの一言で決壊し、溢れ出した。
私は座ったままのさとりを抱きしめた。持てる力全てをもってさとりの身体を強く抱いた。さとりへの愛情がその力を一層強くする。さとりも立ち上がって私を抱きしめてくれた。互いの力が互いの身体を引き寄せ、私たちの身体は密着した。
さとりの腕から手の指先から――身体に触れている全ての部分から、さとりの愛情を感じることができる。
「場所を変えましょう」
「そうね」
そう言いながらもお互いその場を動こうとはしない。身体を離したくないから。もういっそずっとこのままでもいいと思えるくらい、私たちは幸せだった。さとりから感じる体温は愛情そのもののようにすら感じた。
「パルスィ」とさとりが抱きしめた合ったまま耳元でささやく。
「なあに?」
「大好き」
その言葉は音となり波となり、まるで血液のように鼓膜から全身に広がっていった。胸がきゅうっと締め付けられる。それなのに全身の筋肉はだらりと弛緩し、私は自力で立っていられなくなり、へなへなと倒れて身体をさとりに預けた。
「ばか。さとりのばか」
「私は言わないと伝わらないから」
「分かってるわよ。私もさとりが大好きよ」
「知ってますよ。ずっと聞こえてきますから」
「私だって声に出して言いたいの」
「私も声に出して言って欲しかったわ」
「好き。大好き」
「私もパルスィが好きです。大好きです」
「同じね」
「ええ、同じですよ」
私たちは同じなんだ。私もさとりも、嫌われ者で、地底に封じられた。私は緑眼を下賤だといって虐げられ、さとりはサードアイを気持ち悪いといって嫌われてきた。
同じだからこそ、最初は同情したのだ。まさしく「同情」だ。孤独なさとりに同情することで、自分自身を間接的に慰めていた。さとりをかわいそうだと思ったのも、心の奥では自分のことをかわいそうだと思っていた。寂しそうなさとりに会いに行くことで、自分の寂しさも和らげようとした。さとりの傍にいてあげないといけないなんて思いつつも、本当は自分がさとりの傍にいたかったのだ。
全ては私とさとりが同じであるというところから始まっていたのだ。
「私、勇儀さんに告白されたの」
「知ってますよ。断ったのでしょう」
「ええ。勇儀さんは優しいし、すごく私のことを思ってくれている。でも勇儀さんは決して同情はしない」
「絶対にしないでしょうね。それじゃあパルスィは同情が欲しいの?」
「分からない。でもきっと違うの。勇儀さんは私のことを緑眼も含めて好いてくれるけど、私の辛さを理解することはきっとないわ。勇儀さんは私が背負うべき運命は私が背負うべきだと言うから。強い妖怪だから仕方ない。自分のことは全て自分で何とかできる強い妖怪だから。でも私は勇儀さんみたいに強くない。自分の運命を背負うことすらままならない、弱い妖怪なの。私と勇儀さんはきっとうまくいかない。私は、私の運命を理解してくれて、受け入れてくれて、そして共有してくれる相手じゃないとだめなの」
「そうね。私もきっと同じですよ。私もとても弱い妖怪だから。地底の奥に閉じこもって一切の会話を絶ってしまうくらい弱いから」
さとりはまた私の耳元で「私も同じ」と言ってくれた。その言葉が何よりも私を嬉しい気持ちにさせてくれる。
「浮気しないでよ。私は嫉妬深いわよ」
「するはずがないわ。こんなに心を開いて会話できる相手はパルスィだけよ」
さとりが私の少し尖った耳を噛んだ。全身の毛が逆立ち、ぞくぞくしてとろけてしまいそうになる。私は何とか持ちこたえ、お返しとしてさとりの耳の裏を撫でてあげた。さとりは静かな吐息を漏らして感じているようだ。
トロンとした瞳でさとりは私を見つめる。私は慈愛に満ちた視線を返す。私たちの間ではそれだけで意思の疎通が行われていた。
もう言葉は必要がないように思えた。
私たちはさとりの寝室に移動した。私が先にベッドに横になるとさとりは上から身体を重ねてきた。抱き合ったまま横になったり私が上になったりしながら、互いの身体を触りあった。腰に触れ、背中に触れ、胸に触れ、肩に触れ、首に触れる。そこに肉欲は存在しない。さとりという存在そのものを、その精神を私は愛している。
私が愛するさとりの精神は、今触れているこの身体に宿っている。そう思うと、もっと近づきたい、できることなら中にまで入っていきたいという欲求に駆られた。
私はさとりの服を一つ一つ丁寧に脱がし、その白くて華奢な身体つきを隅から隅まで見つめた。頭のてっぺんから足の指先まで。これがさとりの存在の証明となる肉体。だけど、身体の美しさは関係ない。この身体の奥に潜むものこそ、私が求めているものなのだ。
自らの服を自分で脱ぎ、抱きしめ合ってお互いの肌を合わせた。互いに足を絡ませ、手のひらを合わせて指を絡ませた。頭の頂点から足の先まで、さとりの体温に包まれているような感覚だった。さとりの身体が、私の身体に直に触れている。この瞬間がどんな時よりも一番さとりに近づいている。最も幸せな瞬間だ。
寝室の中で私たちの心音だけが響いている。互いの音を互いの両胸で感じている。
言葉なんていらない。
私たちは深く固い結びつきを得たから。
私がさとりに向ける愛情と、さとりが私に向ける愛情。
この二つはどこまでも精神的だ。
始まりは確か地上から人間がやってきた後くらいだった。あの一件以降、橋を通る者が増えたことをさとりに報告しに地霊殿に出向いた時に、もてなしとして出された紅茶を私が気に入ったのだった。地底にはお酒を売る店ばかりで、そういうお洒落な飲み物はどこにも売ってなかったから、私は初めて飲んだ珍しい味に強い関心を持った。
「この飲み物美味しいわね。何というのかしら」
「これは紅茶と言って西洋のお茶です」
「西洋の……。興味深いわ。こんな美味しいものをいつでも好きな時に飲めるなんて妬ましいわね」
「パルスィがお客として来て頂ければ、いつでも淹れて差し上げますよ」
さとりは表情を変えずに言った。その譲歩するような口調が、来客が来てほしいということを暗喩しているように思えた私は試しにこう言った。
「それじゃあ、たまに飲みに来ようかしら」
「……」
表情をあまり変えないさとりの口元が若干動いたのを私は見逃さなかった。すぐさま追撃を行う。
「冗談よ。誰があんたみたいな奴の屋敷に好んで来るものですか」
「……そうですか」
俯く直前にさとりが残念そうな表情をした。それを確かめてから私は続けて言った。
「でもこの紅茶は捨てがたいわね。あんたに会いにくるのは嫌だけど」
するとさとりは少し考え込んでから一つの提案を示した。
「そ、それならこうしましょう、パルスィ。あなたは橋の通行状況をひと月に一度定期的に報告しにくる。そうしたら私が紅茶を提供する。どうですか?」
「あんたがそうしたいならそれでいいわよ」
紅茶を飲みたいと言い出したのは私なのに、上から目線での発言についてさとりは言及しなかった。彼女は自分が内心喜びを感じていることを悟られまいと必死に隠しているようだった。
きっと友達が欲しいのだろう、と私は思っていた。私は分かっていた。さとりは定期報告だろうが何だろうが、お客がやってきてほしいと思っていたことを。
さとりは未だにそんなことを思っている。
「な、何を言っているのですか。違いますよ。私はお客など求めていません。私が求めているのは地上から橋を渡ってくる得体のしれない連中の情報です。勘違いも甚だしい……。とにかくパルスィ、そういうことでいいですか?」
「はいはい」
焦りからまた無表情へと戻ったさとりは、「それじゃあ一か月後に会いましょう」と私に背を向けた。横からちらと覗き見ると、さとりはやはり口元を動かす独特な笑い方をしていた。
こうして私は定期的に地霊殿に招かれるお客となったのだ。
◆ ◆ ◆
初めのうちは紅茶を飲みながら報告をし、紅茶を飲み干すとすぐに帰っていくだけだった。しかし、そのうちにさとりが遠回しにあの手この手を使い、私を帰らせないように仕向け始めた。今日はたまたまクッキーを焼いたから食べて行きなさいだとか、昨日の晩御飯のシチューが余っているのだとか、ペットのことで相談があるだとか、それはもう必死だった。
私は時には面倒そうに、時には満更でもないようにしながらさとりに付き合ってあげた。
最初は義務的に地霊殿に通っていた。しかししばらくして、私はさとりの表情を見て楽しむ術を覚えた。私の考えることがさとりには否が応でも分かってしまう。つまり私が変なことを考えれば、あいつはそれを読み取って動揺するのだ。その動揺を我慢している様子が私には面白く見えたのだ。口元がぴくぴくと動いたり、眉がひくひくと動いたりするさとりの顔を、私はニヤニヤと笑いながら眺めていた。
最初は嫌いだったさとりのサードアイを、私は面白おかしく戯れる道具に用いたのだ。
そしていつの間にか、私は紅茶だけでなくさとりを見るのを目当てにして通うようになった。表面上は紅茶目当てで来た風を装いながら。さとりには私の考えが筒抜けのはずなのに、この表面上の態度と内心との差異について、敢えて問い詰めるようなことはしなかった。
私が内心でどう思っていようが、さとりには関係ないのかもしれない。ただ私が会いに来てくれるのが嬉しくて、さとりにとっては私の心など些事に過ぎないのかもしれない。
こうして、私たちは少しずつ親しくなっていった。私はお客として、そしてさとりの友達として地霊殿に通うようになった。
地霊殿を訪れ、さとりと紅茶を飲みながらの会話。そんな関係がしばらく続いたある日のことだった。私は前日に勇儀さんに誘われて徹夜で飲み会をした。そのせいで地霊殿でもずっとうとうとしていた。すると「私の寝室を使う?」とさとりは尋ねてきた。
あわやティーカップを落としそうになるほど眠かった私は、その言葉に甘えてベッドを借りることにした。そして私がベッドに入ってしばらくすると、さとりがするすると私の隣に潜り込んできて「私も一緒に寝ていいかしら」と恥ずかしそうに顔を伏せて尋ねてきた。既に意識が薄くなっていた私は適当な返事をして眠りに沈んだ。
意識が回復したとき、私は腹部に重圧を感じた。
「……スィ、パルスィ……」
近くからさとりの声が聞こえてきた。
「さとり……?」
目を開くとさとりが私の身体に馬乗りになって胸部をまさぐろうとしていた。私は何も考えられず条件反射に近い形でさとりの身体を強く突き飛ばした。さとりは勢いあまってベッドから落ちた。
「さとり。あんた何してんのさ」
自分でも驚くほど低く冷たい声が出た。さとりは床の上で沈黙したままだった。突然の出来事に動揺しているのは私だけで、さとりはむしろ放心状態になっていた。
「黙ってないで何とか言いなさい。これはあんたがやったんでしょ?」
はだけて前が露わになっているのも気にせず私はさとりを問い詰めた。
「答えないというのなら、もうあんたとはお別れね。二度と来るもんですか」
「待って!」
さとりは「行かないで」とこちらに右手を伸ばし懇願する。しかしその手はさとりの目から溢れ出す涙を受けるために引っ込められた。
さとりの涙を見て少し冷静さを取り戻した私は衣服を直した。ようやく働くようになった頭で先ほどの光景を想起すると、恐ろしさのあまり身体が震えた。
「あんたほんとに何してんのさ。こんな強姦まがいなこと……。しかも女相手にだなんて」
「違うの。これは強姦なんかじゃない」
「じゃあ何だって言うのよ。寝ている奴の服を脱がせて身体触ろうとしてたじゃない。誰がどう見ても」
「違う!」
さとりは一際大きな声を上げる。そこだけは譲れないという信念を持っているように、顔色を変えて主張してきた。私はその声の大きさに驚いて黙ってしまった。しかしそのおかげで冷静に会話ができるだけの余裕が生まれた。
「何が違うのよ」
「強姦まがいのことをしたことは謝るわ。ごめんなさい。でも私は決してあなたを犯そうと思っていたわけじゃないの。信じてちょうだい」
さとりは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら訴えた。そして「自分でも何故あんなことをしたのか分からない」と申し訳なさそうに言った。
さとりの涙を見るのは私も心苦しい。しかし私は本当に身の危険を感じたのだ。焦りもするし怒りもするのは当然だろう。
「私も少し言い過ぎたかもしれないわ」とさとりに謝った。だが、彼女がしたことを許したわけではなかった。最後までさとりを責めたままだと気が悪いからだ。
「説明できないのならもういい。私は帰る。じゃあねさとり」
すぐにでもその場から立ち去りたかった。それ以上そこにいるとさとりに心無い言葉をぶつけてしまいそうだった。私はベッドから降りて速足で寝室の扉に向かった。ドアノブに手をかけたとき、さとりが「待って」と私を引き留めた。
「また、一か月後に来てくれる?」
神に許しを乞う人間のようにさとりは私に縋った。その表情に少しだけ私の心が動いた。
「……紅茶を飲みに来るだけならね」
私はやや乱暴にそのドアを閉めて地霊殿を後にした。
帰り道で私は先ほどの出来事を思い返した様々な感情が複雑に入り混じっていて、私はその絡まった糸を少しずつ解いていった。
人に身体を触られたことに対する気持ち悪さ、不快感。寝込みを襲われたことへの驚き。そして何より私の心には怒りが渦巻いていた。
何故私はこんなに怒っているんだろう。さとりの行動のどこに怒りを覚えたのだろう。さとりが自分勝手な行動をしたから? 倫理的に問題があるから?
私は自分の感情のことが分からなかった。
◆ ◆ ◆
次の定期報告がやってきたとき、私はそれほど憂鬱ではなかった。いつものように報告を済ませ、紅茶を飲んで帰るだけだと割り切っていた。一か月前のことはできるだけ思い出さないようにしていた。嫌な事件を忘れることで記憶から消し去ろうとしていたのだ。
私はダイニングのドアをノックして中に入る。さとりは一か月前と変わらず定位置の椅子に座っていた。そして「いらっしゃい」と常套句を口にした。
さとりは紅茶を入れるためにお湯を沸かし始めた。私は最近魔法使いが数回地底にやってきただけだと報告した。
紅茶が淹れられて私の前にカップが出ても、沈黙は保たれたままだった。普段なら、ここから紅茶を飲みながらさとりが世間話でもするのだけれど、さとりの口は一向に開かない。しかしその間もサードアイだけは私から視線を外さなかった。
黙っているくせに人の心だけは読み続けている。私はそんなさとりの態度が苦手だった。多少は慣れたとはいえ、やはり心を読まれるのは妖怪にとって不快なものである。
居座ることに苦痛を感じた私はさっさと紅茶を飲んで帰ろうと思った。長居するとまた嫌なことが起きるかもしれない。この時ばかりは好みの紅茶も美味しく感じられなかった。
私はカップを置いて立ち去ろうとする。しかし直前に「パルスィ、話があります」とさとりに呼び止められてしまった。当たってほしくない予感が脳を掠めた。
「なに?」
「この前のことです」
できれば触れてほしくない部分だった。あの時の悪夢の記憶が頭を掠めたがすぐに振り払った。
「そうです。私はあのとき身勝手な理由でパルスィに苦痛を与えてしまった。ごめんなさいパルスィ」
さとりは立ち上がってわざわざ頭を下げた。その仰々しさに私は少しうろたえる。
「もういいわよ。忘れることにしたから。もうその話はしたくない。あんたが反省しているのは態度を見れば分かるわ」
「待って。少し私の話を聞いて」
「聞きたくない」
「お願いパルスィ。聞いてちょうだい」
「さとりが私に言うことなんて何も無いじゃない。出てくる言葉は全て言い訳にしか聞こえないのよ」
「お願い……。私、あなたがいないとだめなの。ねえ、見捨てないで。パルスィ。見捨てないで」
さとりは泣きながらこちらに歩いてきて私の足に縋り付いた。まるで子どもが親に泣きついているようだった。私は困惑した。
「見捨てるって何よ。別に最初から面倒見るなんて言ってないわよ」
「あなたは私の唯一の友達なの。だから見捨てないで……」
私にはさとりの見捨てるという言葉が理解できなかった。今日みたいに紅茶を飲みに来たら、それは見捨てたとは言わないと思うのだけれど。いったいどこが不満だと言うのか。
「まさかとは思うけど、この前のようなことをもう一度しても見捨てないでと言う気かしら」
そんなのは傲慢すぎるだろう。
「…………」
「どうなのさとり?」
「……パルスィは、どうして私に会いに来てくれるの」
「どうしても何も、定期報告と紅茶のためよ。他に何があると言うの」
私が来るとさとりが嬉しそうにするのも楽しみの一つだけれど、それは敢えて言わない。
「……そうですか。私が嬉しそうにしているのが分かりますか」
しまった。さとりの能力をすっかり忘れていた。普通に会話をしていたからとはいえ迂闊だった。
さとりは私の足にしがみついたまま上目遣いをしてきた。そしてペットが飼い主に必死にお願いするような目で話を続けた。
「お願いだから私の話を聞いて。私があなたに酷いことをしたのは、決してそういう欲望が抑えきれなかったわけではないの。私の中に湧き起こったのは肉欲なんかではなく、もっと高次で複雑な、精神的な作用によるものだったの。あなたは私の唯一の友達で、大切な存在なの。私はあなたと仲良くなるまでは一人でも平気だった。でも今はだめなの。孤独から抜け出してしまったから、もう戻れないの。あなたが傍に居てくれないと私は……。あなたの素敵な耳が、特徴的な目が、落ち着いた声が、そして存在の証となる肉体が、私には必要なの。自分勝手な理論でごめんなさい。でも私はもうそれなしで生きていくことがたまらなく辛いの。この前の行為は行き過ぎたと反省している。今の私はもうあんなことは繰り返さない。あなたが隣に居てくれるだけでいいの。それだけでいいって気づいたの。だからお願い、パルスィ。私の隣から居なくならないで」
さとりの訴えは私の心を多少揺さぶった。確かに頼られるのは光栄だったし、私のことをそこまで思ってくれているのも嬉しかった。
それに私は、さとりが悪いやつではないと知っている。気難しい性格と能力のせいで嫌われているが、話してみれば性格は穏やかで物腰柔らかで丁寧だ。読んだ心をそのまま口にする嫌味な部分もあるが、それを私は否定しない。それは彼女の妖怪としての自己同一性……さとりを「覚り妖怪」たらしめているものだからだ。
「私はあなたのその考えが何よりも嬉しいのですよ」と、さとりは私の顔に近づきながら言った。
「私に出会う者は皆口をそろえて私の能力を否定し、忌避するの。気持ち悪いって。そして当人達は自覚が無いのでしょうけれど、私にとってその言葉は『私自身が気持ち悪い』と言われていることと同義なの。あなたも妖怪なら分かるでしょう。パルスィに嫉妬をするなと言うのは、存在を否定するも同じ。あなただけが私の存在を認めてくれたの。私は覚妖怪として生きてもいいと。あなたが認めてくれないと、私はこの世界に居ても居なくても同じことなの。私にとってパルスィは地底に指す希望の光で」
私が相槌を打たないとさとりは一人でどこまでも喋り続けた。私の存在がどれだけさとりに影響を与えるのか、そんなことを延々と繰り返した。その言葉の一つ一つが、私の心にさとりの切実な思いを訴えかけてきた。その熱意に私はついに屈服した。
「分かった、分かった。あんたの想いはよく分かったから。とりあえず落ち着いて。少しは私の意見も聞きなさい」
さとりは安堵したように少しだけ笑った。私は子どもに話しかけるような優しい口調を使った。
「この前のことについてはもう許してあげる。あんたに私を求める強い気持ちがあることは理解した。私だって求められるのは嫌じゃない。でもね、私が寝ているときに襲うのだけは止めてほしい。あれだけは許さない。次にやったら絶交するわ」
「分かったわ」とさとりは頷いた。そして立ち上がって私の肩にもたれかかり、耳元で「ありがとう」と呟いた。さとりの口元があの独特の動きを見せた。
心を読まれないように私は何も考えずさとりの背中に腕を回した。彼女の柔らかい身体の感触を受け止めた。しばらくすると、さとりは満足したのか自分から身体を離した。
「また来てくれる?」
「来るわよ。紅茶を飲みにね」
私は心にある思いを隠して別の言葉を放った。さとりはまたあの笑い方をした。きっと心の中がばれてしまったのだろう。
早く帰りたい。早くさとりの能力が及ばないところに行って、そこでゆっくり考えたいと思った。さとりに知られたくない思考がいくつもあったのだ。私は一度も振り返らずにダイニングのドアを開いて廊下に出ると、そそくさと地霊殿から抜け出した。
私は私自身の思考を考察したかった。しかしさとりの目の前でするのはいささか問題があった。きっとこれはさとりにとって知らないほうがいいことだろうと直感的に思ったからだ。足早に橋に帰ってきた私はさっそく地霊殿での会話を振り返った。
どうして私はさとりのことを、この前の出来事を許してしまったのだろう。さとりに泣きつかれたから?
私がさとりに向ける感情は、一般的に友達に向けるそれと比べて歪んではいないだろうか。そもそも私がさとりに向ける感情は友情なのだろうか。私は友情からさとりのことを許したのだろうか。これからも会うと約束したのだろうか。
それはどこか違っている。私の持っている思いは友情というよりもむしろ同情であった。情けであった。「かわいそう」という言葉が私の心の奥で唸っていたのだ。
さとりはかわいそうだ。能力のためにあらゆる種族の者に嫌われ、傷つけられ、虐げられてきた。孤独の道を選択せざるを得なかった。だからと言って、自分の能力をなくすわけにはいかない。それは妖怪としての誇りであり、自我を保つための大事な要素であるから。
さとりはかわいそうだ。
だから私は手を差し伸べるのかもしれない。かわいそうな者に手を差し出して善人気取りをしているだけなのかもしれない。同情してあげて感謝してもらうことで恍惚感を得ようとしている、醜い存在なのかもしれない。
さとりはかわいそうだ。だから、私が傍にいてあげないといけない。
そのような義務感を勝手に背負い、それを果たすことに喜びを見出した。
私だけがさとりのことを理解してあげている。そんな特別な存在になって満足している。あんな酷いことをされた一か月後にまた地霊殿を訪れたのも、全ては自己満足を満たすためだった。
「私はきっと最低だ。結局自分のためにしか行動できない哀れな妖怪なんだ」
橋には誰もいない。また誰かが通る様子もなかった。私の自己嫌悪の呟きは、地底の闇に吸い込まれて消えていった。
◆ ◆ ◆
私は一か月後に何事もなかったかのように地霊殿を訪れた。その次の月も、そのまた次の月も。さとりは私が来ると嬉しそうにしていた。そしてその表情を見て私は満足感を得ていた。
私とさとりは決していい関係ではないように思えた。曖昧な部分から目を逸らして都合のいいところだけを見つめていた。
いつしかさとりは紅茶の後にお昼寝しようと誘うようになった。最初はもちろん断っていた。過去にさとりの寝室で起きた事件のことを考えれば当然であった。もう一度あれを繰り返すことになる。
しかしその点に関してさとりはしつこく迫ってきた。私はますますさとりの考えが分からなくなった。そこまでして私に近付こうとする、触れようとする理由が何なのか。理解が及ばなかった。
しかしある日、私は魔が差したのだろう。とうとうその誘いを受けてしまった。猫撫で声ですり寄るさとりを追い返せなかった。断った時の残念そうな表情を見たくなかった。さとりの願いを叶えることで得られる自分の喜びの大きさが、あの事件の不快感を勝ってしまったのだ。
でもそれはきっと渡ってはいけない橋だった。渡ると二度と戻れない橋だったのだ。
この橋を渡ってから、私たちの今までの関係は崩れてしまったんだと思う。
初めの頃は本当に二人でお昼寝するだけだった。だがそのうちにさとりは「身体を抱きしめてほしい。それだけでいいの」と要求してきた。私はベッドの上で彼女の身体を胸に抱いた。私の細い腕の中で、彼女は安らかに眠った。まるで子どもが母親の腕の中で眠りにつくようだった。
それからまた数か月経ったころ、今度は「おやすみのキスをしてほしい」と言ってきた。私は仕方なく頬に口づけをした。そうするとまたさとりは幸せそうな表情を浮かべて静かに眠りに入っていった。
さとりは非常に要求の上手なやつだった。私が要求になれてきた頃合いになると、また新しい要求をしてきた。その頃の私はもはや、さとりの幸せを見ることを自分の喜びとして感じていた。要求に応えることこそが私の喜びとなっていたのかもしれない。
枷をなくしてしまった私たちは、未知の扉を開いて先に進んでいった。
それが破滅へと向かう道だと分かっていても、私たちは止まることができなかった。
頬へのキスはいつの間にか唇に変わった。手の甲や首や肩など、要求されるがままに私は唇を落とした。そのような触れ合いはいつしか双方向になり、彼女もまた私の首や肩にキスをした。
お互い服を脱ぎ、お互いの身体を愛撫したこともあった。さとりの手つきは、自らに必要なものを探し求めているような感じがした。さとりの求めるものがそこにあったかどうかは私には分からない。さとりは暗闇で物を探すように私の手や太ももや腰や胸に遠慮なく手を這わせた。
くすぐったさが快感に変わるまでそう時間はかからなかった。だが私が感じたのは快感だけではなかった。さとりに身体を触られるたびに、言葉ではうまく説明できない想いが胸の中で複雑に絡まっていった。
彼女の手は私の肌の上を滑り、私の感情を高ぶらせた。逆に私の手がさとりの身体を撫でると、彼女は甘い声を口から漏らした。その声を聞けることが私にとっては幸せだった。
私が求めたものは快感ではなく、さとりからの承認のようなものだったのかもしれない。傍にいることを認められている。それだけでよかった。
そうして二人の心が満たされると、私たちは肌と肌を重ね合わせ、安らぎと温もりの中で眠りに落ちていった。
こんなのは友達じゃない。こんなのはおかしい。そう分かってはいるが、抜け出す手段を持っていなかった。
◆ ◆ ◆
ある寒い日のことだ。私はその日も意気揚々と地霊殿に向かっていた。旧地獄街道を歩く妖怪達は皆私を避けていく。
しかしその中で、ある鬼が私の進行方向の道の真ん中で仁王立ちをしていた。その鬼は私を見つけるとあからさまににやりと笑った。普段のさとりの表情と比べると格段に分かりやすかった。
「よお、パルスィ。最近めっきり会わなくなったね。地上旅行にでも行ってたのかい?」
「勇儀さん。私は地上なんかに行きませんよ。ずっと橋を見張っているんですから」
「そうかい。まあそれはいいとして。久しぶりに二人だけで飲まないかい?」
そう言って勇儀さんはこちらに一歩詰め寄ってきた。言葉の上では勧誘のようだが、実際私には鬼の勇儀さんのお酒を断ることはできない。勇儀さんもそのことは分かった上で誘っている。
「どうした? この後予定でもあるのか?」
「……いいえ、特には」
さとりに会いに行くことは伏せておこうと反射的に思った。それは隠しておくべきことのように感じた。さとりと私の関係は決してほめられたものでは無いと思っていたから。
「それじゃあ二人だけで飲もう。今日は静かなところで飲みたいんだ。パルスィの橋まで行こうじゃないか」
「別に私の橋ではないけれど」
「ずっと見張ってるんだからもうパルスィのものさ」
陽気な声で笑い飛ばすと勇儀さんは私の腕を掴んでずんずんと橋に向かって歩き始めた。私は半ばさらわれるようについて行った。
その日はさとりに会いに行く日だった。きっとさとりは私のことを待っていた。でも私はそれを言い出すことはできなかった。私はさとりに会いに行くことに後ろめたさを感じ始めていた。
心に闇を抱えて歩く私と対照的に、勇儀さんは機嫌がよさそうだ。口笛を吹きながら、片手で一升瓶を振り回したり、投げてはキャッチしたりして遊んでいる。相変わらずの腕力に私は妬ましさを覚えた。
やがて渡る者の途絶えた橋まで来ると、勇儀さんは欄干に体重を預けて座り込んだ。私も勇儀さんの隣に腰を下ろした。
「ここは静かでいいな。しかしこんなところで見張りなんかしていて退屈じゃないかい?」
「退屈でいいの。私はここで静かに誰かを妬むの。私のように退屈していない奴を。地底で楽しそうにお酒を飲む奴を。そうして私は力を保っているの」
「ふーん。やっぱり退屈なんだな」
勇儀さんは一升瓶を開けていつも持っている巨大な盃に注ぐ。そういえばさっきは持っていなかったけどどこから取り出したのだろうか。とにかく勇儀さんはその盃でお酒を一気に飲むと、もう一度注いで私に盃を持たせ、「パルスィもぐいっと行こう」と言った。
盃を傾けるとお酒の味が私の舌を刺激した。そのまま一気に飲むと喉のあたりが急に熱くなった。
「これ、度数いくら?」
「25度」
「喉が焼け爛れそうよ」
「お酒ってそういうもんだろ」
盃を返すと勇儀さんは一人でどんどんお酒を注いでは飲んでいった。勇儀さんはお酒を飲んでいる時が一番幸せそうで一番妬ましい。そうして嫉妬の感情を燃やして緑眼を光らせた時、勇儀さんが私の肩を掴んだ。私は呆気にとられて身動きができなかった。
「突然どうしたの勇儀さん」
「なあパルスィ、一つ聞きたいことがある」
「何かしら」
肩に勇儀さんの力を感じながら、勇儀さんを見つめる。勇儀さんの赤々とした目が私の緑眼を捉えた。嫉妬の感情がばれたんじゃないかと私は動揺した。
「最近よく地霊殿に行ってさとりと会っていると、風のうわさで聞いたんだが、それは本当なのか?」
「えっ、それは……」
予想の斜め上の質問だった。答えないと、と思っても口が動かなかった。さとりとの関係はできれば話したくなかった。だが鬼の勇儀さんに嘘をつくのは憚られた。そういったジレンマから私は黙り込んでしまった。
「酒の席でみんなが口々に言うんだ。誰も近寄らないはずの地霊殿に、月一回程度の頻度で行くやつがいるんだって。そいつの特徴が、金髪に緑眼だ。地底にそんななりをしたやつなんてパルスィしかいない。もちろん私はそれはパルスィだなんて言わない。もしパルスィが肯定しても誰にも言わない」
勇儀さんは言わないといえば必ず言わない。鬼は素直でまっすぐで嘘をつかないから。真剣な面持ちで見つめてくる彼女に、私は嘘をつくことなんてできなかった。
そのまっすぐさが、妬ましい。
「本当よ……私は地霊殿に通っている」
「どうして、そんなことをする?」
勇儀さんは眉をひそめた。肩を掴んでいた手に少し力が加わる。勇儀さんの鋭い視線が私の眼を捉えて離さない。
「あいつが地底で最も嫌われているということを知らないはずはないだろ。そんな奴に会いに行くなんて、決していいことはない。そんなことを続けていたら、いつかパルスィまでもが地底の嫌われ者になってしまう。私はパルスィに地底でまで嫌われ者にはなってほしくないんだ。だからこうやって忠告してるんだ。私の言ってることが分かるかい?」
「分かるわ。勇儀さんの気持ちは痛いほど伝わってくる」
「あいつとはどういう関係なんだ?」
「……」
「言えないような関係なのか?」
初めは紅茶を一緒に飲むだけの関係だった。でも今は違う。
「あいつとは……さとりとは、お互いの存在を求める関係よ。彼女には私が必要で、私には――彼女が必要なのよ」
言葉の一つ一つを心の中で噛みしめながら私は言った。勇儀さんもまた、私の一言一句を聞きのがすまいと集中して耳を傾けていた。
「パルスィはさとりじゃなきゃだめなのか? さとりはパルスィじゃなきゃだめなのか? それは、本当に代替不可能な相互的関係なのか?」
代替不可能な相互的関係。やや複雑な文言が私の頭で繰り返された。それはとても特殊で奇異な関係だ。他者との関係の中でもかなり特異的であるのだ。私は返事に詰まった。
勇儀さんがお酒を飲むとき、その相手と勇儀さんは代替可能な関係だ。勇儀さんは飲む相手を選ばない。誰とでもお酒を飲む。
では私とさとりは? 橋の交通状況の報告は私にしかできないが、他はどうだろうか。一緒に紅茶を飲んだりクッキーを食べたり、寝室で戯れて身体を抱きしめることは、私にしかできないことだろうか。そう自分に問いかけた。
そんなことはないのだろう。そもそも、この世に存在する関係で代替不可能なもののほうが圧倒的に少ない。勇儀さんは「誰とでも」お酒を飲むし、私は「誰にでも」嫉妬する。「誰でもいい」という関係がほとんどなのだ。だからきっと、さとりも「誰でもいい」のだろう。勿論そこにはある程度の条件があるだろうけど、その条件さえクリアすればやはり「誰でもいい」のだろう。
「気づいたようだけど、さとりとパルスィは決して代替不可能な関係じゃない。さとりはパルスィじゃないとだめなんてことはないはずだ。そしてパルスィも――あんたがさとりに何を求めているのかは知らないけど、それは決してさとりだけにしか求められないものではないはずだ。パルスィがさとりの不幸に同情する必要なんてない。それはさとりの妖怪としての運命であり、受け止めなければならないのはさとり自身であり、パルスィが代わりに背負うものではないはずだ」
勇儀さんの必死な訴えに私は少したじろぐ。肩の痛みがさっきよりも増していた。
「勇儀さん、ごめんなさい。その、肩を」
「あ、悪い」
勇儀さんは徐々に力がこもってきていたことに気づいていなかったようだ。私の肩から手を離すとばつの悪そうに横を向いた。
勇儀さんは私のことをとても大事に思ってくれている。勇儀さんの言葉からそれがとても伝わってきた。頭ごなしにさとりを否定しているわけではない。ただ、私の地位が脅かされることを疎ましく思っているのだ。
「勇儀さんは私のことをかわいそうだと思う?」
「思わない」
「同情しない?」
「しない」
何を聞いているんだ私は。勇儀さんはそんなことをしない。私みたいに、さとりをかわいそうだと思ったり同情したりはしない。さとりの運命はさとりが背負うべきだと言い、私の運命もやはり私が背負うべきだと言うのだろう。
「勇儀さんはどうしてそこまで私のことを気にかけてくれるのかしら」
「私はパルスィのことを悪い奴だとは思っていないからだ。パルスィは明るくて温厚でいい奴じゃないか」
嫉妬を操る私のことを勇儀さんがそのように言えるのは、鬼という妖怪の中でもとりわけ勇儀さんが嫉妬と無縁であるからだろう。地底では力の強い者がルールになる。かつて地上の山で四天王だった勇儀さんに力で叶う者などいるはずがない。つまり、勇儀さんは強者であり頂点でありルールであり、嫉妬する対象など周囲にいないのだ。私の能力は他者に嫌われるものであるが、それが勇儀さんにはそもそも発揮されない。
いや待て。それでも私が嫉妬に狂う様子を見て下賤だという鬼はいくらでもいる。だが勇儀さんはそんなことを一切言わない。勇儀さんは何故か私のいい部分ばかりを見てくれる。
「私は嫉妬を操る妖怪。人間の世界では七つの大罪に数えられるほど醜くて汚らしい感情が私の中には渦巻いているのよ。この緑色の眼は醜いものの象徴であり、つまり私自身が醜いものの象徴なのよ。いくら性格が、内面がよかろうと、この醜い外見を肯定する理由にはならないはず」
「なるよ。人間の世界での決まり事なんて、私には関係ない。嫉妬が緑色なんて、だれが決めた? 私はパルスィのその鮮やかな緑色の眼が好きだよ。勿論性格も好きだ。人間がどれだけその緑色を醜いと言って虐げたとしても、その緑色は紛れもなくパルスィの色であり、パルスィの妖怪としてのアイデンティティであり、存在の証明じゃないか。だから私はその緑色の眼を受け入れる。受け入れて初めて私はパルスィの存在を認めるんだ」
その時私は雷に打たれたのではないかと思うくらい強い衝撃を受けた。驚きの表情でこの目をいっぱいまで開いて勇儀さんを見つめた。
そうか。そういうことだったのか。
勇儀さんの必死な声の中に、さとりがかつて私に縋り付きながら放った言葉と同じものがある。私はそこに気づいてしまった。
さとりのサードアイを気持ち悪いと言うことは、さとり自身を気持ち悪いと言うことと同義であると。そして私に嫉妬をするなと言うことは、存在を否定するも同じだと。さとりは言っていた。
同じだ。
同じなのだ。
勇儀さんの私に対する思いと、私のさとりに対する思いは同じ。
勇儀さんは私の緑眼を認め、私はさとりのサードアイを認めたのだ。どちらもそれが妖怪としてのアイデンティティであるその「眼」を、肯定し受け入れた。
「勇儀さん。あなたは私の緑眼は認めても、さとりのサードアイは認めないのかしら」
「な、何を言ってるんだパルスィ。どうしてパルスィの緑眼とさとりのサードアイを比べるんだ」
「私にとってのアイデンティティがこの緑眼なら、さとりにとってのアイデンティティはあのサードアイになるのよ」
「パルスィの目はただ緑色に光るだけだが、あいつのあれは違うだろ。あんな質の悪い目はパルスィの目とは比べ物にならない」
「でもそれがさとりにとって存在の証明なのよ。勇儀さんが私を認めてくれるように、私はさとりを認めているのよ。そこには何一つ違いがない。私が地霊殿に通うのは、私がさとりを認めているからなのよ。この地底に、あの目を認める奴は他にいない。私だけがさとりを認めている。私だけが彼女の理解者なの。代替不可能な、さとりにとって唯一の存在なのよ」
口を固く閉じ胡坐をかいたままの勇儀さんは、赤い目で私を刺すように見つめる。鬼の威厳と風格をまじまじと表しているその態度に若干の恐怖を覚えた。
「私が何と言おうと、パルスィはさとりと仲良くするつもりなのか」
勇儀さんはしばらく私を見つめ、やがて眉をひそめた。しかしその表情は疑念や不快を表しているものではない。分からないはずもない。私が真っ先に感じることのできる感情が、その表情の奥に潜んでいた。
さすがの私も驚いた。でもそれは間違いなく嫉妬の感情であった。私を求めるさとりへの、そしてさとりを選ぶ私への嫉妬が勇儀さんの中で激しく燃えていた。その大きく激しい感情を必死に抑えようとして、拳を震えるほど握りしめている勇儀さんを見るのは辛かった。
「こんなに苦しい思いをするのは初めてだよ。欲しいものは全て力で手に入れてきた私に、こんな経験はかつて一度もなかった」
勇儀さんは再び無防備な私の肩をつかんだ。そして力を加えて私を押し倒そうとする。しかしそこで何かに気付いたようにハッとして、力を加えるのを止めて肩から手を離した。私の身体は少し後ろに傾いたところで止まり、また元の位置に戻った。俯いて表情を隠していた勇儀さんだったが、口元では歯がぎりぎりと音を立てそうなくらい強く噛みしめられているのが見えた。
勇儀さんは何をしようとしたのだろうか。さとりのように、私を押し倒して犯そうとしたのだろうか。これまでそうしてきたように、力でねじ伏せてしまおうとしたのだろうか。
理性では抑えきれないほどの強い感情が勇儀さんの心の中で灼熱地獄のように燃えているのを感じる。
「頂点に立つものは感情を押し殺すのが苦手なんだ。パルスィなら分かるだろ」
「…………」
「私はパルスィが好きだ」
ずしっ、と重たい言葉が勇儀さんの口から落ちてきた。それは勇儀さんにとって運命を分けるほどの重大な言葉のようだった。
「私はパルスィが好きだ」
二度目の台詞も一度目と同じくらいの重さを保っていた。いや、むしろさらに重くなっているように感じた。
告白されるのは素直に嬉しい。だがそれは実らない告白であると思うと、かえってその言葉を聞くのが辛くなる。
「私はパルスィが、好きだ。明るく温厚な性格も、鮮やかに光る緑色の目も、嫉妬に狂い爪を噛む姿すらも好きだ。私はパルスィが欲しい。パルスィに唯一選ばれる存在になりたい」
「でも……」とそこで勇儀さんは言葉を切る。苦痛や嫉妬という負の感情によってその表情は歪んでいる。
「でもそれはきっと無理だ。パルスィが選ぶ相手は私じゃなくさとりなんだ。私がパルスィを求めるように、パルスィはさとりを求めるのだろう。私のこの思いを正確に伝えることは、パルスィのさとりへの思いを語ることになる。そうだろうパルスィ」
「……」
返事はしなかった。私がわざわざ肯定しなくても勇儀さんは納得してしまっているから。
「だからこれ以上は何も言わない。私はパルスィが好きだ。それだけでいいから受け取って欲しい」
「ええ。すごく嬉しいわ」
勇儀さんにここまではっきりと告白されても私は揺るがない。さとりと勇儀さんの間には決定的な違いがあるはずだから。
「勇儀さんは、私を抱きたいと思う?」
「抱きしめたいとは思うよ」
「そうじゃなくて、人間の男女がするようなことをしたいかってこと」
勇儀さんは口を開けたまま不思議そうにじっと私を見つめた。やや間があってから静かに口が動いた。
「いや、そうは思わない」
「そう……」
「パルスィは私と寝たいのか?」
「ううん。そうじゃないの」
「私はパルスィが好きだけど、そういうのはまた別の話だろう」
「そうよ。別の話。だって私たちは人間じゃないもの」
不審そうな目をする勇儀さんは、やがて面倒そうに言った。
「ここで私がどう答えようが、パルスィはさとりを選ぶんだろう」
「……ええ。ごめんなさい」
「いいや、謝ることはない。パルスィがそうしたいならそうすればいい。私も今まで通りやりたいようにやるさ。パルスィに会いたくなったら会いにくるし、飲みにも誘う。地底で嫌われ者になったとしても私はパルスィが好きだ。だからまたいつか、縁があったら一緒に飲もう」
あまりの潔さに私は何も言えなかった。しばらくしてから「ありがとう……」と伝えると、勇儀さんは悪戯っぽく笑った。
勇儀さんは立ち上がり、私に背を向けて歩き出す。途中で、悠然と立ち去るその足元に何かのしずくがぽたりと落ちた。それは盃に注いだお酒だったかもしれないし、或いは勇儀さんの涙だったかもしれない。しかし私にそれを確かめる術はない。
徐々に小さくなっていく勇儀さんの背中を無言で見送った。地底の闇に消えていくまで、とうとう勇儀さんは一度も振り返らなかった。
勇儀さんが去った橋の上で私は座ったままだった。立ち上がれなかったと言ってもいい。まるで人形のように動かずにそこに留まり、思考に集中していた。
初めて紅茶を飲んだ日。あの時はただ紅茶にしか興味がなかった。しばらく通い続け、私はさとりにも興味を持ち始めた。さとりが私を求めていることには薄々気付いてはいたのだが、それが何かまでは分からなかった。
さとりは私に何を求めているのか、また私はさとりに何を期待しているのか、その時にはまだ薄暗い夕闇に隠されていたかのように不明瞭なものだった。
でも今なら分かる。勇儀さんが全て教えてくれた。隠されていた答えを見つけてくれた。
私はそれを今からさとりに伝えに行く。そしてさとりとの関係について、曖昧にせずにちゃんと向き合って話し合う。そう心に誓った。
◆ ◆ ◆
ダイニングに入るとさとりは「いらっしゃい」といつもの言葉を口にした。平静を装っているようだけど、ドアを開ける瞬間に表情を変えたのを私は見逃さなかった。私の来訪がいつもより遅いことに不安を抱いている表情がそこにあった。
「不安にもなりますよ。いつも同じ時刻に来るはずのパルスィが、今日は2時間も遅刻したんですもの」
「もう来ないと思った?」
「思ってません!」
肯定したら「さとりは寂しがりやさんだなあ」とおどけるつもりだったが、さとりはそれを読んだのかはっきりと否定した。
さとりはすぐに紅茶を淹れてくれた。だが私はそれを一口飲んだだけでソーサーに戻した。
思えば、この紅茶から私たちの関係は始まったのだった。私たちの奇妙な関係は、この紅茶が繋いでくれた。でも、それも今日で終わりだ。
もう、紅茶は必要ないのだ。
「……パルスィ? それは、どういう意味?」
「大丈夫よ。別にもう来なくなるとかそういう意味じゃないわ。ただ、紅茶を口実にする必要はもうないっていうことよ」
さとりは不安そうにこちらを見つめ、必死に心を読もうとしている。私は手をさとりへ突き出してそれを制した。
「ちゃんと説明するから。今日遅刻したのは、私とあなたとの関係について考えていたからなのよ。そして私はある答えを見つけた。それを今から話すから。そんなに不安そうな顔をしないで」
目を閉じて一度深呼吸をする。頭の中にある答えを正確に引き出さなければならない。私のさとりへの想いは複雑で歪だけど、確かにここにある。勇儀さんの忠告を無視してまで、私がさとりを選ぶ理由が。
「できれば最後まで黙って聞いていてほしいんだけど」
「まあ、努力はしますが……」
自信なさげなさとり。この様子だときっと途中で口を挟むだろう。できれば邪魔はされたくないけど、思ったことをすぐに口にするのはさとりの性分だから仕方がないのかもしれない。それもまた、さとりのアイデンティティの一つだ。
そうやって、私はさとりを受け入れてきたのだ。
私はもう一度大きく呼吸をし、頭の中を整理しながら話し始めた。
「私とさとりがどうしてこんな関係になってしまったのか、私はずっと考えていた。でも、あんたの考えはまるで分らなかったし、私自身の感情さえ私には分からなかった。それが今日になってやっと分かったの。教えてもらったの」
勇儀さんに、というのは言わなくても伝わるだろう。
「初めてさとりの寝室に行ったとき、さとりのしたことについて私は怒りを覚えたわ。この怒りは、倫理的に問題だとか不道徳だとかそういうことじゃなかったの。あれは、さとりに『裏切られた』という思いからくる怒りだったのよ。あの頃の私はさとりの気持ちに薄々気が付いてはいたわ。あんた、表情を隠すのが下手だから。さとりは私のことが気に入ってるんだなと思ったし、もしかしたら好かれてるのかなとも思ったわ。実は、私はあんたに少し期待してたのよ。だから、あんたに身体を触られていると気づいたとき、私は裏切られた気分になった。さとりが私に向ける思いは、こんなものだったんだって。結局私の身体にしか興味がないんだって、絶望したわ」
でもそれは違うんだってさとりは否定した。今になって思い返せば、さとりがあの時言っていた言葉の意味が分かる。肉欲なんかではなく、もっと高次で複雑な、精神的な作用。
さとりは私の心の独白を聞いているのか何も喋ろうとしない。
「考えてみればおかしな話よ。私たち妖怪に人間の性欲のようなものが備わっているはずがない。まあ、そういう妖怪もいるかもしれないけど、少なくとも覚妖怪は違うだろうし、もちろん私も違う。つまりさとりが私の身体に触れたのは肉欲のためではなく、またその行為自体を目的としているわけではなかったのよ。そうでしょう?」
さとりは無言でうなずく。私の口はまだまだ止まらない。
「いつしか私とさとりはお互いの身体を求めるようになったけど、私たちは肉体的な愛を求めたわけじゃない。肉体に惹かれたわけじゃないのよ。私たちは互いに精神的に惹かれ合った。あんたが何に惹かれたのかは分からないけど。私はさとりという存在に。さとりという存在を構成する精神に惹かれたのよ。身体を求める行為は、精神的な愛情を表現するための手段の一つにすぎない。心の内に存在する相手への精神的愛情を、私たちは表現し、互いの愛情を確かめ合っているのよ」
私の熱弁をさとりは穏やかな表情で聞いている。二つの目は閉じられているけど、サードアイは変わらず私を見てくれている。
「独りよがりな話し方でごめんなさい。これはあくまでも私が勝手に出した答えだから」
「いいんです。続けてくださいパルスィ」
さとりは私の言葉を遮った。優しげな紫色の目が私をちらりと見た。そして少しの沈黙の後に「私もパルスィと同じですから」と言った。ぎこちないけど、そこには確かにさとりの笑顔があった。
同じですと言われると私は急に強い安心感に包まれた。すると次に伝えようと思っていた言葉が途端に出てこなくなってしまった。胸がぎゅっと締め付けられたような感覚に陥る。喉の奥まで出かかっているのに、言葉が詰まって、舌が上手く動かない。悲しくもないのにまぶたに涙が滲んだ。
「もう十分ですよ。パルスィの気持ちは痛いほど伝わってきました。あなたが言葉にしなくても、私はそれを読み取ることができる。もう十分です。ほんとに、それ以上は、もう……」
見るとさとりは顔に手を当てて涙を隠そうとしていた。私の心を一体どこまで読んだのだろうか。あんなに表情を崩すさとりも珍しい。
私はさとりの元へそっと寄り添い、首に巻いていたスカーフを外してさとりに渡した。
「汚れてしまいますよ」
「いいのよ。あんたのためなら」
さとりはスカーフを受け取ると、自分の涙を拭かずに私の顔にそれを近づけ、私の目元をそっと拭った。その動きがあまりにも自然で素早かったせいで、私はあっけにとられてしまった。
「パルスィも泣いてるんでしょう?」
「……」
「私と同じよ」
抑えきれない思いが体の内側から湧き上がってきていた。それがさとりの一言で決壊し、溢れ出した。
私は座ったままのさとりを抱きしめた。持てる力全てをもってさとりの身体を強く抱いた。さとりへの愛情がその力を一層強くする。さとりも立ち上がって私を抱きしめてくれた。互いの力が互いの身体を引き寄せ、私たちの身体は密着した。
さとりの腕から手の指先から――身体に触れている全ての部分から、さとりの愛情を感じることができる。
「場所を変えましょう」
「そうね」
そう言いながらもお互いその場を動こうとはしない。身体を離したくないから。もういっそずっとこのままでもいいと思えるくらい、私たちは幸せだった。さとりから感じる体温は愛情そのもののようにすら感じた。
「パルスィ」とさとりが抱きしめた合ったまま耳元でささやく。
「なあに?」
「大好き」
その言葉は音となり波となり、まるで血液のように鼓膜から全身に広がっていった。胸がきゅうっと締め付けられる。それなのに全身の筋肉はだらりと弛緩し、私は自力で立っていられなくなり、へなへなと倒れて身体をさとりに預けた。
「ばか。さとりのばか」
「私は言わないと伝わらないから」
「分かってるわよ。私もさとりが大好きよ」
「知ってますよ。ずっと聞こえてきますから」
「私だって声に出して言いたいの」
「私も声に出して言って欲しかったわ」
「好き。大好き」
「私もパルスィが好きです。大好きです」
「同じね」
「ええ、同じですよ」
私たちは同じなんだ。私もさとりも、嫌われ者で、地底に封じられた。私は緑眼を下賤だといって虐げられ、さとりはサードアイを気持ち悪いといって嫌われてきた。
同じだからこそ、最初は同情したのだ。まさしく「同情」だ。孤独なさとりに同情することで、自分自身を間接的に慰めていた。さとりをかわいそうだと思ったのも、心の奥では自分のことをかわいそうだと思っていた。寂しそうなさとりに会いに行くことで、自分の寂しさも和らげようとした。さとりの傍にいてあげないといけないなんて思いつつも、本当は自分がさとりの傍にいたかったのだ。
全ては私とさとりが同じであるというところから始まっていたのだ。
「私、勇儀さんに告白されたの」
「知ってますよ。断ったのでしょう」
「ええ。勇儀さんは優しいし、すごく私のことを思ってくれている。でも勇儀さんは決して同情はしない」
「絶対にしないでしょうね。それじゃあパルスィは同情が欲しいの?」
「分からない。でもきっと違うの。勇儀さんは私のことを緑眼も含めて好いてくれるけど、私の辛さを理解することはきっとないわ。勇儀さんは私が背負うべき運命は私が背負うべきだと言うから。強い妖怪だから仕方ない。自分のことは全て自分で何とかできる強い妖怪だから。でも私は勇儀さんみたいに強くない。自分の運命を背負うことすらままならない、弱い妖怪なの。私と勇儀さんはきっとうまくいかない。私は、私の運命を理解してくれて、受け入れてくれて、そして共有してくれる相手じゃないとだめなの」
「そうね。私もきっと同じですよ。私もとても弱い妖怪だから。地底の奥に閉じこもって一切の会話を絶ってしまうくらい弱いから」
さとりはまた私の耳元で「私も同じ」と言ってくれた。その言葉が何よりも私を嬉しい気持ちにさせてくれる。
「浮気しないでよ。私は嫉妬深いわよ」
「するはずがないわ。こんなに心を開いて会話できる相手はパルスィだけよ」
さとりが私の少し尖った耳を噛んだ。全身の毛が逆立ち、ぞくぞくしてとろけてしまいそうになる。私は何とか持ちこたえ、お返しとしてさとりの耳の裏を撫でてあげた。さとりは静かな吐息を漏らして感じているようだ。
トロンとした瞳でさとりは私を見つめる。私は慈愛に満ちた視線を返す。私たちの間ではそれだけで意思の疎通が行われていた。
もう言葉は必要がないように思えた。
私たちはさとりの寝室に移動した。私が先にベッドに横になるとさとりは上から身体を重ねてきた。抱き合ったまま横になったり私が上になったりしながら、互いの身体を触りあった。腰に触れ、背中に触れ、胸に触れ、肩に触れ、首に触れる。そこに肉欲は存在しない。さとりという存在そのものを、その精神を私は愛している。
私が愛するさとりの精神は、今触れているこの身体に宿っている。そう思うと、もっと近づきたい、できることなら中にまで入っていきたいという欲求に駆られた。
私はさとりの服を一つ一つ丁寧に脱がし、その白くて華奢な身体つきを隅から隅まで見つめた。頭のてっぺんから足の指先まで。これがさとりの存在の証明となる肉体。だけど、身体の美しさは関係ない。この身体の奥に潜むものこそ、私が求めているものなのだ。
自らの服を自分で脱ぎ、抱きしめ合ってお互いの肌を合わせた。互いに足を絡ませ、手のひらを合わせて指を絡ませた。頭の頂点から足の先まで、さとりの体温に包まれているような感覚だった。さとりの身体が、私の身体に直に触れている。この瞬間がどんな時よりも一番さとりに近づいている。最も幸せな瞬間だ。
寝室の中で私たちの心音だけが響いている。互いの音を互いの両胸で感じている。
言葉なんていらない。
私たちは深く固い結びつきを得たから。
私がさとりに向ける愛情と、さとりが私に向ける愛情。
この二つはどこまでも精神的だ。
登場人物たちが自分や他者の感情を推し量り、言語化しようとすることで内面の心の動きに焦点を当てた恋愛小説。読ませます。
勇儀がいやに饒舌なのが幾許かの違和感でしたが、他にあの役をやれるのは居らんでしょうから、適役だったのでしょうね。
まぐわっているのにプラトニックとはこれ如何に・・・妖怪の精神とは面妖な。
ちゃんと結ばれて良かったです。
勇儀が鬼らしくて好印象。
断じて悪い意味ではなく、濃厚な関係を目にしたこそばゆさというか