宵の口。どうしても暇が過ぎた私は、のそのそと床を抜け出して、人間の里にまで降りた。
暇であるなら寝ているべきなのであろう。実際、私だってさっきまで惰眠を貪り、お酒のつまみを貪り、倦怠のうちに安眠を夢んで万年床の中で芋虫になっていた。しかしあまりの暑さ、湿気の猛威に煽られて、はたと目が覚めてしまったのである。それからは如何に眠らんとしてもすぐに起き出し、噴き出した汗に翻弄され、妙に曲がった尻尾に頭を抱え、多大なる精神の力を浪費した。
そこで、夕闇の中を散歩しようと思い至ったのだ。屋敷に居ても暑いなら、外に出てもそれは同じである。だったら、出会い生みうる夕涼みに興じる方が賢いと言えよう。
里の大通りまで這い出れば、そこかしこの暖簾がひっきりなしに揺らめいているのが見えた。道行く人間たちの顔は夕日によって橙色に染められていて、心なしか喜色に満ちているように映る。私には、その様子がめくるめく夜の世界への扉が幾つも口を開いているように思えて、にわかにくらくらとした。
誰かの付き添いで夜の里を歩いた事はあるものの、こうして一人で闇を裂いて行くのはあまり経験がない。目の前に阿弥陀籤を描く大路、路地の行く末を想像すると、なんだか楽しくなった。
今の私は正真正銘の自由の真っ只中にあり、その広大っぷりにともすれば呆然としそうである。己の好奇心をひたすらに焚き付けながら、裏参道に潜り込めば、次に私を迎えたのは魑魅魍魎の百鬼夜行である。人の形をした者も異形の者も、混ざって騒ぎながら大路を流れていく。
むふふん。楽しそうではないか。
私はゆらりと尻尾を振って、宵の徘徊を開始した。幸い、お財布の中身はたくさんある。これを全部お酒にしたって、誰も文句は言わない。しがらみのお酒というのは、何よりも幸せなモノだ。
恍惚としながら、近くに差した光の筋を押し広げて入った。すると、うっとりするようなお酒の匂い、お肉の匂いが鼻腔を擽る。同時に人妖の喚く声が、一斉に耳に飛び込んできた。逸る気持ちを抑えつつ、隅っこの席に腰をおろす。こんなにも楽しい気分になったのは久し振りだったから、くらりと視界が揺らいだ。
そのまま暫く一人で盃を干していた。私のお腹が膨れるたびに、懐が風船の様に軽くなる錯覚を覚える。しかしそんな事で止まるほど、私の意志は薄弱ではない。
なおもがつがつやっていると、はたと隣に気配が生まれた。振り向いてみれば、マミゾウである。妖怪めいた笑みを浮かべて「やぁ」などと言っている。孤独な幸福を謳歌していたところに闖入されて、ほんのちょっぴりむっときたが、まぁよかろう。私はそれを受け入れて、にやりと笑い返した。
「珍しい、おぬしも一人でこんなところに来るのかね」
「たまの暇潰しよ。俗世間に身を晒しているのだ」
マミゾウは腕を振り上げ、日本酒を注文した。すぐに卓の一角に一升瓶がどかりと置かれる。
「たまに、ねぇ。通りでぎこちないと思ったぞい」
「口を出すな。私は私なりに夜を楽しむつもりなの」
「夜の世界は厳しく険しいモノじゃ。共に行く伴侶がなけりゃあメイルストロームに流されてしまう」
「どこに伴侶がいるってのよ」
「おや、それは儂が世話好きと知っての言葉かえ」
この時点で、どうやらマミゾウは私に夜の世界を教え込む算段をすっかり組み終わっているようだった。ちょっぴり意地悪をしたくなったが、しかしその申し出はなかなかに魅力的である。私は二、三言に渡る自己アピールをのらりくらりとかわしてから、その申し出を承諾した。
そうしてその店のお酒を二人で空っぽにしてから、再び夜の街へ繰り出したのだ。
マミゾウは沢山の事を知っていた。夜道を歩く途中、多分に含蓄のある無駄知識の数々を話してくれた。鳥獣伎楽の突発的ライブ地点の予測であるとか、密造酒の流通経路であるとか。或いは、妖怪肉料理を提供している料亭であるとか。
一体如何にして仕入れたのか予測もつかない知識の数々は、すぐに私を籠絡した。せがめばせがむ程に湧き出す夜の世界。それはずぶずぶの沼の如き様相をたたえながらも、同時に透けて見える水底の美しさに心奪う魅惑の世界であった。
それらを知って眺めれば、闇夜に漏れ出した光は彩りを増し、ここよここよと手招きしているかのような錯覚を覚えた。幻想郷の夜とは、私の計算など及ぶべくもない数えきれぬ要素を孕んでいる。私の見識は狭く、闇を裂くには満たぬという事も知った。
「どうやってそんな情報ばっかり手に入れるの?」
「もとよりここに住む者よりも、余所から来た者の方が却ってよくよく見えるというものよ。おぬしも気分を一新すれば、きっと色々見えてくる」
かように語るマミゾウはこの上なく上機嫌である。吐く息は酒臭く、話す薀蓄は嘘臭い。浮ついた声などは、今にも夜空に消えていってしまいそう。
そんな時、マミゾウは立ち止まり、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「さて、そろそろ本当の夜を見してやろう」
辺りを見回せば、そこは里有数の高級料亭の正門の目の前であった。一体なにをおっぱじめるつもりだろうか。耳を澄ませば、奥の方から酒宴に沸く人間たちの声が聞こえてくる。
暫く呆然としていると、夜空にマミゾウの指笛が響いた。なにごとか、すぐに地面が轟いて、何かがこちらに近付いてきている。なんということか、道の向こうを見やれば、提灯の灯りの下に阿波踊りに狂う集団がいるではないか。これは由々しき事態である。
阿波踊りはすぐさま我らの周囲を取り囲み、ぐるぐると回りながらますますその規模を拡大していく。私はもうわけがわからず目を回すばかりであったが、マミゾウだけはしたり顔を浮かべ、満足げにそれを見ていた。
「やだよマミゾウ、なんだか気色が悪い」
「情けないのう、まあ見ておれよ」
そう言って、門の方を指差した。指先に従って、阿波踊りの集団が殺到する。門は障子戸のようにけやぶられ、不気味な雪崩が闇夜に吸い込まれて行った。
後に残ったのは沈黙と、遠く響く悲鳴だけである。
「さぁ藍、人に化けよ」
真偽を図りかねている私を尻目に、マミゾウは既に人の身となっていた。ちんちくりんな普段の姿とは打って変わって、綺麗な成人女性に扮している。私もそれにならって、子供に化けた。尻尾と耳を隠したばかりであるが。
そうこうしている内に、マミゾウも門の奥に向けて悠然と消えていく。慌てて追い付いても、足を止める様子はない。
「待てよ、何をするつもりなのさ」
「見てればわかる。これが妖怪の夜じゃよ」
マミゾウは土足のまま、料亭の畳を踏みしめて侵入を果たした。向かう先は宴会用の大広間であるようだ。我らの前には、阿波踊り団体のものと思わしき足跡がべたべたと付着している。目を凝らせば、それは狸の足跡であった。
大広間は混沌の様相を呈していた。少し顔を覗かせれば、阿波踊りがそこら中を席巻しているのが見える。如何にも活動家然とした人間たちが十重二十重に囲まれて、へたへたとへたり込んでいるのが見えた。
その空間に一歩踏み込んで、マミゾウは大きな咳払いをした。こちらに注目が集まる。私は多数の大人の視線に辟易して、マミゾウの影に逃げ込んだ。
すると。
「魔の者よ、去るが良い。おぬしらのおるべき世界はここではない」
荘厳でわざとらしく落ち着き払った声が響いた。驚いた事に、これがマミゾウのものである。私が目を丸くしている間に、阿波踊り達はあっという間に去って行った。嵐の通り過ぎた後の様に静まり返った空間の中に、ふん、とマミゾウの唸る息だけが巻き起こった。
やがてぽつりぽつりと我を取り戻した人間たちがこちらに近寄ってきた。私は耳を塞いで丸くなっていたが、どうやらマミゾウを賞賛しているらしい。人間の鑑だ、宝だなどと老人が吠えている。
これは一体どういう事だろう。あの阿波踊り団体はマミゾウが呼び出したものである。それを自ら追い払っただけだ。それで賞賛されている。それどころか、招き入れられてお酒を注がれているではないか。
私はその側まで駆け寄って、マミゾウの袖を引いた。
「何やってるんだよ、わけがわからない」
「何って、お礼じゃよ。化け物を退治したのだから当然であろう。ほれ」
私の目の前にグラスを突き出して、マミゾウが言う。そこには悪びれる様子など微塵もない。恐る恐る受け取ると、すぐにお酒が注がれた。
ちびりと舐めれば、なるほど高級料亭らしい素晴らしいお酒である。すぐに飲み干してしまい、そして己の浅はかさを呪った。
「これで共犯じゃな」
「なっ、なにを……」
はし、と口を塞がれた。事情でもあるのだろうか。
周囲の会話を集めると、大方の事情は知れた。
この宴会は、どうやら暴力的妖怪駆逐団体のものであるらしかった。今夜はその活動内容の確認説明を兼ねた酒の席だそうだ。恐らく英気を養うためになけなしの贅沢を奮ってこんな料亭に集ったのだろう。
妖怪をみれば囲んで棒で叩く。出会えば囲んで棒で叩く。聞けば囲んで棒で叩く。妖怪と話している人間も囲んで棒で叩く。そんな算段を組んでいたところに、阿波踊りが突入してきたのだ。会はあっという間に混乱し、人々は逃げ惑い、互いを棒で叩き合った。
そこに現れた謎の女性が、それを払ってくれた。ならば賞賛し、きっと妖怪排斥家であるはずだから歓迎しよう。お酒もあげる。
そんな流れであるらしい。しかし残念な事に、その歓迎された女性は妖怪である。マミゾウである。みんな騙されている。
マミゾウは自作自演で宴会に紛れ込み、ただ酒をかっくらっているのだ。如何にも妖怪らしい、神をも恐れぬ所業と言えよう。
こいつの舌は本当によく回るようだった。人心に取り入る術たるや、恐らく並ぶ者はあるまい。私はそのおこぼれを舐めながら、肝の太さ、悪魔的発想に恐怖した。
しかし、こうして飲むお酒もなかなか美味い。人を騙してくつくつ笑うなど、妖怪にしか出来ぬ飲み方である。
私は盃を抱えてがぶがふと浴びるように高いお酒を飲んだ。マミゾウも、同じように樽を抱えてがぶがぶと高いお酒を浴びた。周囲の人間たちも我々の酒気に当てられてお酒を飲んだ。
美味しいのはお酒だけではなかった。肴として提供されたお肉が、これが体験したこともない程に美味しかったのである。こうなってはもうたまらない。私はとめどなく飲み、喰らい、夜に溺れた。
そうしてやがて料亭のお酒が底を突いた頃、マミゾウはちょろりと尻尾を出した。すわ種明かしかと身構えたが、どうやらそれが違うらしい。酔いつぶれて化けの皮が剥がれただけであるようだ。周囲の視線が毛玉と化したマミゾウに集まった。同時にいくつかの視線が私を睨んだ。
これはいけない。囲んで棒で叩かれてしまう。私はそそくさと尻尾を出して、その場から逃げ出した。幸い尻尾を掴む者はない。
しばらくそうして逃げた後で、マミゾウを残したままであると気付いた。
再び一人になった私は、なんとなく覚束ない足元にふらつきつつも里の徘徊を再開した。既に日を跨ぎ、いよいよ大路の人通りも少なくなりつつある。しかし帰るにしても中途半端な時刻であるように思えたし、まだ夜の全てを暴いたとは思えなかったのだ。
なんとなく高揚する気分の正体はすぐに知れた。空に煌々と輝く満月のせいだ。狂気が降り注いで、私の徘徊本能を逆立てるのだ。
狂人の真似とて大路を走らば実際狂人であると言う。しかし既に狂気に魅入られていた私は、鼻歌を歌いながら大路の真ん中を跳ねて歩き出した。尻尾がゆらりと揺れる。夜風が心地よい。永遠にこの時が続けば、それが一番良い。
そんな折。月明かりの下に、おめでたそうな影を発見した。紅白のひらひらしたのが、きょろきょろと辺りを見回している。
「おや」
「あら」
互いの視線が交錯し、私は立ち止まった。
「そこにいるのは霊夢じゃないか」
「藍じゃない。こんなところでなにやってるのよ」
子供はとうに寝る時間であるはずだが、はて。なぜに霊夢が里にいるのか。ふわりと大欠伸なんぞをかましているのを見るに、眠そうである。携えた大幣が月明かりに揺れていた。
「私? いや、なんか変な騒動があるって聞いて出てきたのよ」
「騒動?」
「でも来て見てもなにもないし、全く無駄足だったわ」
私の勘がビンビンと反応したが、噛み付かれても困るので黙っている事にした。
「そうだ、暇だし付き合いなさいよ」
かくして、私の伴侶はマミゾウから霊夢へと移り変わったのだった。少なくとも、一人で大路を走っているよりは二人の方が良く思える。狂人だって一人より二人がずっと良い。
霊夢と行く夜の里は、マミゾウと見るのとはまた違った顔を私に見せてくれた。
表参道の提灯が赤く我々の行く末を照らす。その風景はなんとも幻想的で、なんだかふわふわとした気分になった。一歩先を行く霊夢の背が、なんだか遠くにあるように思える。なんとなく不安にかられて、質問を投げかけた。
「霊夢、どこに行くの?」
「まぁまぁ、付いてきて」
振り向きもせずにそう言うのだから情緒がない。仕方なく私は地を蹴って、霊夢の手を掴んだ。これなら良い。少なくとも、風船のようにどこかに行ってしまうという事はなさそうだ。霊夢は不思議そうに首を傾げたが、すぐにふふんと笑うのだった。
我らは路地裏に路地裏を通り過ぎ、裏表参道を縫い歩き、しめやかに夜を切り開いて行った。言葉数は少ないものの、しかし心は躍る。夜の世界は大人の世界、それを人間の子供に先導されながら歩くというのは、なんともフシギな感じを受ける。
果たしてどこに向かっているのか。
とうとう里の外れまで到達すると、空き地が見えてきた。何故かゴミだらけの開けた土地の真ん中にはなにやらぴかぴかと光る箱が一つ。目を凝らせば、屋台の様だ。
霊夢がむふふんと笑った。そして私の手を引いて、その屋台に突入したのだった。
「まだ良いわよね」
「はいはい、いらっしゃい」
その屋台を経営しているのは夜雀であった。私たちの来店を受けて翼が揺れ、鱗粉が鼻をくすぐった。
私はこれまで、屋台で盃を傾けたという事がない。大体は屋根の下、壁の向こうで閉じこもったお酒ばかりを飲んでいたから、これはなかなか新鮮である。めくるめく夜の世界の新たな一側面が見えた気がして、少し呆然とした。
霊夢に導かれるままに席に着けば、左斜め前に座る客と目があった。奇抜な形をした金髪と、奇抜な色をした二色髪の二人である。記憶をたどってみれば、それらはそれぞれ豊聡耳神子、聖白蓮であると知れた。
二人は巫女と狐という組み合わせに面を食らったようであったが、すぐに妙な妄想を思い描いたらしく、微笑んだ。
「やぁ、巫女殿」と、大盃を振り上げて神子が言う。霊夢は面倒臭そうにそれに応え、ふふんと唸った。
「新興宗教の頭が二人揃ってなにやってんのよ」
「新興宗教とは失礼ね」
「私から見りゃあんたらはいつまでも新参よ。で、どうしたの?」
「里でなにか騒動があると聞いてね。私は妖魔を退治しに来た。こちらの阿闍梨はお仕置きに来たのだそうです」
私の勘がビンビンと反応したが、噛みつかれては面倒なので黙っていた。霊夢はそれを見て、「馬鹿ねぇ」なんて言っている。どの舌が回っているのかわかったものではない。
白蓮がやけに静かなので、蚊帳の外同士気にかけて見てみれば、顔を真っ赤にして舟を漕いでいた。どうやら潰されてしまったようである。お酒を飲めぬ相手に飲ませるとは、聖人もなかなか意地が悪い。地獄に落ちるぞ、と忠告しかけたが、そういえばこいつは死なないのだった。
「残念ながら無駄足でした。だからこうしてお酒を飲んでいるの」
続いて、「君こそ何をしているのだ」と言う。
「夕涼みよ」
「それにしては暑そうな伴侶を連れている」
「……涼みすぎると危ないから、ねぇ」
ねぇ、と言われても困る。私は聞こえなかった振りをして、やつめうなぎの蒲焼をお酒で流し込む事にした。
屋台のお酒は料亭のそれよりは安っぽい匂いがするが、しかし独特で幻想的な味がして悪くない。ぐいっと飲むのと、舐めるように飲むのとでは舌触りも違う。正体が気になって店主に聞いてみれば、裏表ルートから入手した密造酒だと言う。
罵り合いに盛り上がるみこみこを尻目にさらに詳しく話を聞けば、四年程前に突然流通しだしたらしい。そのころと言えば、地下から怨霊が飛び出し、封ぜられた妖怪が放たれた年である。「地底の怪しい成分が入ってるかもねー」と、店主は語った。
先ほどから体内に入れているこの液体の正体とは一体なんなのか。少しぞっとしない気分になったが、しかし美味しい物は美味しいのだから止まらない。
幻想郷の夜をあまねく不思議なお酒。なんとも素敵である。私は喜んでそれを飲み、夜を満喫せんと努力した。
はたと、神子が飲んでいるのが普通のお酒ばかりであると気付いた。こんなに美味しい密造酒に目をつけないとはなにゆえか。気になって訊いてみれば、「それは私の口には合わないのだ」と返ってきた。それならばしょうがない。誰にでも好みというのはあるのだ、責めるべくもなかろう。
そのまま四人、実質三人で屋台のお酒を飲み干し、それから屋台を後にした。
里の裏参道を二つの影が行く。私の背には霊夢、神子の背には白蓮、それぞれ背負ってふらふらと歩く。
「狐よ、君は一体何をしているのか」
「ただの散歩だよ。安心しろ、何も取って食いやしない」
「その言葉、どうやら信じる他はないようですね。君からは一つの欲しか感じない」
「一つ? 欲?」
胸に手を当てて考えてみても、思い当たる節はない。私は大方の仙人らしく適当な事を知った風に吹聴しているのだろうと思いながらも、まぁ聴いてやるかと会話に乗った。
どちらにせよ、互いにお酒に溺れた身である。どうせ明日になれば、酔いと一緒に立ち消えてしまうような儚い記憶なのだから、塞いで無視するのよりは互いに気持ちよく言論を交わすと言うのも悪くない。
「と言っても、私にも上手く正体は掴めていない。君の欲は少し複雑すぎる」
「私はもっと単純に生きているつもりなのだけれど」
「そうだろうとも。必ずしも欲が生き方に影響を与えるとは限らない」
「私が言うのはもっと深いところだ」などと言う。
「秘めたる欲、自覚なき欲。君からはそんなモノの気配を感じるのです」
なるほど確かに、言われてみればそんな気がしてきた。自分でも見失っていた欲を言い当てられるとは、聖徳道士恐るべし。私は静かに打ち震え、次の言葉を期待した。
「君は苦しくないのかい」
「言われてみれば苦しい気がしてきた」
「その苦痛を解消する術を知りたいかい」
「言われてみれば知りたい気がしてきた」
神子はにんまりと笑う。提灯灯りに照らされたその顔は如何にも多分の含蓄がありそうで、仙人らしい。半ば恍惚とした私は、「教えてください」といつの間にか敬語になっていた。
「お酒を飲みましょう。それはもう、浴びる程」
「おやまぁ、そんな事で良いのか」
「ついでに分け与えると良い。隣人に」
「吝かではない」
かくして、私と神子、そしてお荷物二人は丑三つ時の夜の下を蠢いて、そこいらの居酒屋と言う居酒屋、酒宴という酒宴を荒らして回った。一席埋める度に私の財布は軽くなる。しかし心は軽くなるような気がして、お酒を飲んだ。膨らんだ風船にお酒を注ぎ込む勢いで飲み続け、地に落とさんと努めた。隣の神子はにんまりと笑顔であり、背中の霊夢は真っ赤になりながらも酩酊の海を泳ぎ回り、白蓮は始終ぐったりとしていた。
これは良い。良い夜だ。
我々はそのうちに里中の屋台を一箇所に集めてすべて飲み干すという意味不明な八面六臂っぷりを発揮し、同時に打ち立てた偉業に夜をあまねいていた人妖を大いに湧かせた。
里の大路は百鬼夜行の大騒ぎとなり、安眠の床を突沸させながら、列はますます規模を増す。数多の人間、妖怪は手に一升瓶を携えて、長大なる人垣を作り上げた。その中心にあって、私は天頂の紅い月を仰ぎ見ながら、霊夢をぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
「ふふふ、楽しいなあ、楽しいなぁ」
「そうね、楽しいわね」
霊夢の目は眠気と酒気に焦点を見失っていたが、しかし巫女の本能がそうさせるのか、大幣だけはしっかと握りしめて、私の背をぺしんぺしんとはたいている。寝惚け眼がなんとも可愛らしい。
こいつと出会った時はもっと静かな夜になるだろうと思っていたのに、すっかり騒がしくなってしまった。それが悪いとは思わないが、少しだけもったいなく思える。
せめて喧騒の中では、寄り添ってやらねば後が怖い。私は霊夢の手を握って、はふぅ、と酒臭い息を吐いた。
そんな時。私と霊夢からほんの少し離れたところで、ちょっとした騒ぎが巻き起こった。視線を向けてみれば、一部妖怪がわたわたと蠢いて白蓮と話している。白蓮は未だに最初のお酒が抜け切っていない様子であったが、しかし目を見開いて妖怪達を叱責していた。舌は少し回っていないけど。
どうやら百鬼夜行の群に寺の妖怪が混じっていたらしい。この群にいると言う事は、即ち多かれ少なかれお酒を飲んだはずである。それが白蓮の怒りに触れたのであろう。
「戒律を破ると言うのはいけない」「その上これは人に怪我をさせてしまうかもしれない行為である」「思慮がない」「明日はご飯抜きです」「おしゃけなんてなりません」
かように語る本人がべろんべろんなのだから世話がない。聴衆は笑い、一部の者は、というか聖徳道士は彼女の頭を撫でたりなんかしている。白蓮はもうもうと唸って、すっかりありがたみの抜けた説法をわめき散らした。
妖怪達はそれを持て囃して、神輿の上に白蓮を掲げて集団移動を開始した。前後不覚に陥った彼女は、虚空に向けてアリガタイ言葉を投げかけている。敬虔なる仏教徒が見れば憤死しそうな光景であった。
神輿は里を東西南北奔走し、お酒の匂いと迷惑と説法を余すところなく頒布しながら進んでいく。そんな刹那的光景をおいながら、私は霊夢とお酒を飲んだ。
「藍ーっ! この女狐がーっ!」
さっきに満ち溢れた声が聞こえてきたのは、瓶を三本ほど空にした時だった。声の方に視線を投げかければ、マミゾウの姿が見える。大きな鉄の箱の上に仁王立ちしていた。
さらに目を凝らすと、鉄の箱の周りには沢山の人間がいた。全員がその手に松明を携え、一目でただ事でないのがわかる。あれらの敵意が全て私に向いているのだとしたら、これは無事で済むかわからない。
鉄箱の集団は我ら人妖百鬼夜行の行方を阻むようにして相対し、両者は無言の内に睨み合いを開始した。静まり返った空間の中で、マミゾウの罵声と白蓮の説法だけが響く。互いに様子を伺い合い、静かに闘志を高めている。
よく見れば、マミゾウ側の人間たちは、先ほど料亭で宴会をしていた者たちではないか。それが一体なにをしているのか。まさか謀った私を亡き者にせんと、マミゾウと手を組んだのか。
「女狐め! 許さんぞ!」
「待て待て、そんなに暴れると危ないぞ。落ちたら死ぬぞ」
奴が立っているのは、長屋の二倍近くの高さを持った箱の上である。そこでぶんぶんと松明を振り回しているというのだから、見ていて危なっかしい事この上ない。
冷静になって見てみれば、妖怪排斥団体の連中はマミゾウを囲んで棒で叩こうとしているようでもある。となると、あれは引き連れているのではなくて、己を囮にして誘導してきたと言うのが正しいらしい。ますます落下すると危ない。
「これ、嫗。君は何をしているのか」
神子もその危なっかしさが気にかかったらしく、そう呼び掛けた。マミゾウの視線がそちらに移る。私は少し安心したが、「黙れ詐欺師め」とだけ言ってすぐにこちらを睨み直したものだからたまらない。
読経に入れ込んでいた白蓮も事の次第に気付き、はたと立ち上がった。
「あらマミゾウさん、何をしてるんです」
酔いが回った口から飛び出した言葉はなんともおっとりとしている。これで場も和やかになれば良い、と期待したのだが、却って火に油を注ぐ結果となった。
「なんじゃなんじゃ、よく見れば巫女殿もおるではないか。よってたかって
、これはどうせお主の仕業じゃろう!」
マミゾウはずびしと私を指差して、鉄箱を神輿に激突させた。衝撃で双方化けの皮が剥がれ、ぼとぼとと狐、狸が散っていく。それに合わせて、鉄箱も神輿も小さくなった。
妖怪排斥団体も行動を開始した。そこいらの動く者を人妖問わず囲んで棒で叩いている。一部妖怪は逃げ出し、一部は報復を開始し、大路はあっという間に混沌に包まれた。
マミゾウは地を行く連中の頭を踏みしだきながら飛び跳ね、私を探している。その手には猟銃が。つつ口から細く出ている青い煙が、狐的恐怖を擽る。あれで撃たれてはたまらない。
私は一升瓶を放り出し、霊夢の手を取って逃げ出した。
背後に喧騒が轟くのをするするとすり抜けて、近くの細い路地の闇に紛れ込む。
これは理不尽だ。何故私が狙われるのか。確かに、奴を放っておいて保身に走ったのは私である。そこには非もあろう。しかしそもそも、あんな状況に陥ったのは人を騙くらかしたマミゾウのせいであろう。私が責められる謂れはない。
ならば堂々と受けて立ち説得を試みるべきなのだろうが、しかしそう出来ない理由もあった。
背後を振り向く。霊夢はまだ状況がわかっていないらしく、しきりに首を傾げていた。
マミゾウのあの調子を見るに、間違いなく巻き添えを出そうと言うのは想像に難くない。それが霊夢となる可能性も無きにしも非ず。こいつを巻き込むというのは、とてもよろしくない。
「ちょっと、どうしたのよ。いきなり走り出して」
「お前のためだっ」
暗く、灯りのない路地を二人で走る。遠く暴動の嬌声を聞くに、あちらはさらに大変であろう事が伺えた。時折、数条のレーザーが闇を切り裂き、威圧的なブディズムシャウトが聞こえてくる。
マミゾウはどうしたのだろうか。撒いたか。いやまだ油断は出来ぬ。あいつの事だから、変に油断すれば寝床にだって入り込んできそうだ。なんとかして逃げて、それからゆっくり説得、或いは撃退せねばなるまい。
そんな算段を組みながら、私は溜め息を吐いた。
どうしてこうなったのか。当初の予定では、一人でひっそりとお酒を飲むにとどめるはずだったのに、気付けば規模は無秩序に拡大し、人妖の喧嘩が始まり、挙げ句の果てに命まで狙われている。私が望んでいたのはこんな状況ではない。もしもこれが普遍的な幻想郷の夜の過ごし方と言うのであれば、私には適性がなかったのだ。夜闇の深遠に触れ、私は数百年来にそう考えた。
リテイク、やり直しを所望する。もしもこの夜を終えたら、慎ましやかにひっそりとお酒を飲む。私にはそれが似合っている。
夜の世界への憧れは、今急速にその身を縮こまらせつつあった。
そんな折。
「藍」
「なによ」
「楽しかったわよ」
霊夢がそんな事を言った。
脇を流れていく灯篭の灯りが、一歩後ろの霊夢の顔を照らす。笑っていた。よくもまぁ、そうも楽観的に思えるものである。私はその能天気っぷりに若干の侮蔑を覚えた。そして同時に、共感してしまった己の能天気っぷりまでもを侮蔑した。
「……否定はすまい」
確かに。
楽しくはあったのである。私の内に流れる妖怪の血は、先ほどまでは確かに湧いていた。冷静に立ち戻ってみればその軽率さに対して文句の一つも言いたくなるが、しかし、確かに楽しかったのだ。
私は俄に混乱し、走るのがままならなくなってその場で立ち止まった。霊夢はつんのめったが、しかし同様に立ち止まり、私を見た。
「どうしたの?」
「霊夢、私は……」
突如、ぱぁんという乾いた音が辺りに響いた。鉄砲の火を吹いた音だ。足元の石ころが爆ぜ、真っ二つになって私の耳を打った。「きゃいん」という悲鳴が次なる銃声に掻き消されたのは幸運と言えよう。
すぐに体勢を整え、逃げようとする霊夢を尻尾の内側に隠し、私は狙撃音の方向を仰いだ。屋根の上でマミゾウが猟銃を構えている。
「ようやく見つけたぞい。亡き者にしてくれる」
「待て待て、話せばわかる……っ」
「問答無用」
またもや銃声。今度は頬を掠って、背後に着弾した。
これはいけない。説得は無理そうである。となれば、逃げる他ない。私は振り返り、目の前に広がる闇夜に一縷の可能性を賭けて走り出した。霊夢はしっかと尻尾にしがみついている。本気で走っても、これならばなんとかなりそうだ。
ところが、すぐにそれは無理であると判明した。正面から不気味な影がいくつも折り重なってやってくる。
阿波踊りの集団だった。
あっという間に行く手を阻まれ立ち往生してしまう。背後からはマミゾウが勝ち誇ったような余裕の足取りで近付いてきていた。
やんぬるかな、もはやこれまでか。
「マミゾウよ、せめて霊夢だけは逃がしてあげてはくれないか」
「ならぬよ。この場であらゆる後顧の憂いを断ち切っておかねば」
「鬼畜め」
「なんとでも言え」
「妖怪狸婆め」
「なんとでも言え」
「碌でなし不良婆め」
私は半ば捨て鉢になって、記すのも憚られるような罵詈雑言を喚いた。当然カットである。私にも最期の自尊心くらいは守りたい。
マミゾウはすっかり逆上せて、鉄砲に火をつけた。その時である。
私とマミゾウの間につつ、と切れるように丸い亀裂が走ったかと思うと、突然大穴が開き、中から青い髪が這い出してきた。
「あら、ちょっと早かったみたいね」
闖入者は意味深長な事を言っている。よくよく目を凝らせば、それは邪仙、霍青娥であった。我々は一旦全ての動きを停止し、暫し呆然とした。
青娥はそれを見て「どうぞ、続けて」などと言っている。
「いやいや、待て。おぬしは一体何をしに現れた」
その場にいる者全ての疑問を、マミゾウが代表して投げかけた。全員が固唾を飲んで答えを待つ。
「何って、狸と狐の死体を回収しに」
その答えは、恐らく誰も予想していないものであった。
霍青娥はかく語る。
曰く、化生となった狐狸には様々な使い道がある。毛皮は言わずもがな、魂からは美味しいお酒が作れるし、その肉は霊薬として料亭に高く売れる。だから、彼女はこうして夜な夜な狐と狸の喧嘩を見届けては、その死体を回収して回っているのだ。
「無駄だらけの妖怪社会の無駄を少しでも解消せんとする私の慎ましやかな努力ですわ。死体の跡は綺麗に掃除するから、里の人からも手間が省けたと感謝されています」
そんな訊いてもいないところまで話す青娥の顔には、陰りの一つもない。一方で、その他現場の狐狸たちはみんなげんなりした表情を浮かべていた。
マミゾウの言っていた密造酒と妖怪肉料理の出処、そしてなにより先ほどがぶ飲みした密造酒、美味しいお肉の正体の見当がついた私は、きっとその中でも一際げんなりしていたに違いない。
そして同時に、お酒とお造りになった自分の姿を想像して、変な気分になった。
マミゾウと視線が交錯する。向こうも考えている事は同じなようである。このまま私が撃たれても、或いは抵抗して逆にマミゾウが討たれても、どちらかは邪仙に持っていかれて見知らぬ誰かの糧になってしまう。それは、なんだかとても後味が悪い。
青娥は期待に目を輝かせている。彼女には悪いが、その期待に沿えるのはごめん被る。
私たちは同時に小首を傾げ、背中を向け合い、まっすぐに歩きだした。いつの間にか阿波踊り集団はいなくなり、後には悔しそうに歯噛みする邪仙だけが残った。
触れ得たと思っていた夜の世界は、青娥によってそれはまだほんの片鱗でしかなかったと知れて、私は落胆した。夜の闇の中には更に深い覗き得ぬ闇が横たわり、俄仕込みには判別のつかないままに籠絡して取り込んでしまうのだ。
今回得た教訓は、私は決して幻想郷的夜の世界の中枢を担うに値しない、値するにしても、未だに経験が少ない存在である、という事だった。もっと上澄みの部分をかっさらうように動くのが、どうやら私には合っているようである。
さしあたって、翌日私がとったのは次のような行動であった。
「や、霊夢」
「あら、藍じゃない。どうしたのよ」
「お月見でもしないか、お酒は持ってきたから」
「今日は里には行かないの?」
「ん。それはまた今度、ね」
人事を尽くして天命を待つ。いつか再び夜に繰り出す日のために、今は他人とお酒を飲む練習をするのだ。その相手として、私は霊夢を選んだのだった。
「まぁ、そりゃ良いけどさ。お月見にしては中途半端じゃない? 満月は昨日よ」
「それもふまえて、だよ。次の満月までにはきっと立派な夜の妖怪になってみせる」
私の言葉に、霊夢はむふふんと笑った。そして私の手から一升瓶を奪い取った。
「良いでしょう、それなら私がイロイロと教えたげるわ」
「調子にのるな」
昨日とは打って変わり、今夜の月は大人しくぽっかりと浮かぶばかりである。私たちはちょびっと暗い月光の下で、まず一杯の盃を酌み交わした。
「まず、人を疑う事を覚えないとねえ。特に仙人が相手の時は」
「む、なんの話だ」
暇であるなら寝ているべきなのであろう。実際、私だってさっきまで惰眠を貪り、お酒のつまみを貪り、倦怠のうちに安眠を夢んで万年床の中で芋虫になっていた。しかしあまりの暑さ、湿気の猛威に煽られて、はたと目が覚めてしまったのである。それからは如何に眠らんとしてもすぐに起き出し、噴き出した汗に翻弄され、妙に曲がった尻尾に頭を抱え、多大なる精神の力を浪費した。
そこで、夕闇の中を散歩しようと思い至ったのだ。屋敷に居ても暑いなら、外に出てもそれは同じである。だったら、出会い生みうる夕涼みに興じる方が賢いと言えよう。
里の大通りまで這い出れば、そこかしこの暖簾がひっきりなしに揺らめいているのが見えた。道行く人間たちの顔は夕日によって橙色に染められていて、心なしか喜色に満ちているように映る。私には、その様子がめくるめく夜の世界への扉が幾つも口を開いているように思えて、にわかにくらくらとした。
誰かの付き添いで夜の里を歩いた事はあるものの、こうして一人で闇を裂いて行くのはあまり経験がない。目の前に阿弥陀籤を描く大路、路地の行く末を想像すると、なんだか楽しくなった。
今の私は正真正銘の自由の真っ只中にあり、その広大っぷりにともすれば呆然としそうである。己の好奇心をひたすらに焚き付けながら、裏参道に潜り込めば、次に私を迎えたのは魑魅魍魎の百鬼夜行である。人の形をした者も異形の者も、混ざって騒ぎながら大路を流れていく。
むふふん。楽しそうではないか。
私はゆらりと尻尾を振って、宵の徘徊を開始した。幸い、お財布の中身はたくさんある。これを全部お酒にしたって、誰も文句は言わない。しがらみのお酒というのは、何よりも幸せなモノだ。
恍惚としながら、近くに差した光の筋を押し広げて入った。すると、うっとりするようなお酒の匂い、お肉の匂いが鼻腔を擽る。同時に人妖の喚く声が、一斉に耳に飛び込んできた。逸る気持ちを抑えつつ、隅っこの席に腰をおろす。こんなにも楽しい気分になったのは久し振りだったから、くらりと視界が揺らいだ。
そのまま暫く一人で盃を干していた。私のお腹が膨れるたびに、懐が風船の様に軽くなる錯覚を覚える。しかしそんな事で止まるほど、私の意志は薄弱ではない。
なおもがつがつやっていると、はたと隣に気配が生まれた。振り向いてみれば、マミゾウである。妖怪めいた笑みを浮かべて「やぁ」などと言っている。孤独な幸福を謳歌していたところに闖入されて、ほんのちょっぴりむっときたが、まぁよかろう。私はそれを受け入れて、にやりと笑い返した。
「珍しい、おぬしも一人でこんなところに来るのかね」
「たまの暇潰しよ。俗世間に身を晒しているのだ」
マミゾウは腕を振り上げ、日本酒を注文した。すぐに卓の一角に一升瓶がどかりと置かれる。
「たまに、ねぇ。通りでぎこちないと思ったぞい」
「口を出すな。私は私なりに夜を楽しむつもりなの」
「夜の世界は厳しく険しいモノじゃ。共に行く伴侶がなけりゃあメイルストロームに流されてしまう」
「どこに伴侶がいるってのよ」
「おや、それは儂が世話好きと知っての言葉かえ」
この時点で、どうやらマミゾウは私に夜の世界を教え込む算段をすっかり組み終わっているようだった。ちょっぴり意地悪をしたくなったが、しかしその申し出はなかなかに魅力的である。私は二、三言に渡る自己アピールをのらりくらりとかわしてから、その申し出を承諾した。
そうしてその店のお酒を二人で空っぽにしてから、再び夜の街へ繰り出したのだ。
マミゾウは沢山の事を知っていた。夜道を歩く途中、多分に含蓄のある無駄知識の数々を話してくれた。鳥獣伎楽の突発的ライブ地点の予測であるとか、密造酒の流通経路であるとか。或いは、妖怪肉料理を提供している料亭であるとか。
一体如何にして仕入れたのか予測もつかない知識の数々は、すぐに私を籠絡した。せがめばせがむ程に湧き出す夜の世界。それはずぶずぶの沼の如き様相をたたえながらも、同時に透けて見える水底の美しさに心奪う魅惑の世界であった。
それらを知って眺めれば、闇夜に漏れ出した光は彩りを増し、ここよここよと手招きしているかのような錯覚を覚えた。幻想郷の夜とは、私の計算など及ぶべくもない数えきれぬ要素を孕んでいる。私の見識は狭く、闇を裂くには満たぬという事も知った。
「どうやってそんな情報ばっかり手に入れるの?」
「もとよりここに住む者よりも、余所から来た者の方が却ってよくよく見えるというものよ。おぬしも気分を一新すれば、きっと色々見えてくる」
かように語るマミゾウはこの上なく上機嫌である。吐く息は酒臭く、話す薀蓄は嘘臭い。浮ついた声などは、今にも夜空に消えていってしまいそう。
そんな時、マミゾウは立ち止まり、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「さて、そろそろ本当の夜を見してやろう」
辺りを見回せば、そこは里有数の高級料亭の正門の目の前であった。一体なにをおっぱじめるつもりだろうか。耳を澄ませば、奥の方から酒宴に沸く人間たちの声が聞こえてくる。
暫く呆然としていると、夜空にマミゾウの指笛が響いた。なにごとか、すぐに地面が轟いて、何かがこちらに近付いてきている。なんということか、道の向こうを見やれば、提灯の灯りの下に阿波踊りに狂う集団がいるではないか。これは由々しき事態である。
阿波踊りはすぐさま我らの周囲を取り囲み、ぐるぐると回りながらますますその規模を拡大していく。私はもうわけがわからず目を回すばかりであったが、マミゾウだけはしたり顔を浮かべ、満足げにそれを見ていた。
「やだよマミゾウ、なんだか気色が悪い」
「情けないのう、まあ見ておれよ」
そう言って、門の方を指差した。指先に従って、阿波踊りの集団が殺到する。門は障子戸のようにけやぶられ、不気味な雪崩が闇夜に吸い込まれて行った。
後に残ったのは沈黙と、遠く響く悲鳴だけである。
「さぁ藍、人に化けよ」
真偽を図りかねている私を尻目に、マミゾウは既に人の身となっていた。ちんちくりんな普段の姿とは打って変わって、綺麗な成人女性に扮している。私もそれにならって、子供に化けた。尻尾と耳を隠したばかりであるが。
そうこうしている内に、マミゾウも門の奥に向けて悠然と消えていく。慌てて追い付いても、足を止める様子はない。
「待てよ、何をするつもりなのさ」
「見てればわかる。これが妖怪の夜じゃよ」
マミゾウは土足のまま、料亭の畳を踏みしめて侵入を果たした。向かう先は宴会用の大広間であるようだ。我らの前には、阿波踊り団体のものと思わしき足跡がべたべたと付着している。目を凝らせば、それは狸の足跡であった。
大広間は混沌の様相を呈していた。少し顔を覗かせれば、阿波踊りがそこら中を席巻しているのが見える。如何にも活動家然とした人間たちが十重二十重に囲まれて、へたへたとへたり込んでいるのが見えた。
その空間に一歩踏み込んで、マミゾウは大きな咳払いをした。こちらに注目が集まる。私は多数の大人の視線に辟易して、マミゾウの影に逃げ込んだ。
すると。
「魔の者よ、去るが良い。おぬしらのおるべき世界はここではない」
荘厳でわざとらしく落ち着き払った声が響いた。驚いた事に、これがマミゾウのものである。私が目を丸くしている間に、阿波踊り達はあっという間に去って行った。嵐の通り過ぎた後の様に静まり返った空間の中に、ふん、とマミゾウの唸る息だけが巻き起こった。
やがてぽつりぽつりと我を取り戻した人間たちがこちらに近寄ってきた。私は耳を塞いで丸くなっていたが、どうやらマミゾウを賞賛しているらしい。人間の鑑だ、宝だなどと老人が吠えている。
これは一体どういう事だろう。あの阿波踊り団体はマミゾウが呼び出したものである。それを自ら追い払っただけだ。それで賞賛されている。それどころか、招き入れられてお酒を注がれているではないか。
私はその側まで駆け寄って、マミゾウの袖を引いた。
「何やってるんだよ、わけがわからない」
「何って、お礼じゃよ。化け物を退治したのだから当然であろう。ほれ」
私の目の前にグラスを突き出して、マミゾウが言う。そこには悪びれる様子など微塵もない。恐る恐る受け取ると、すぐにお酒が注がれた。
ちびりと舐めれば、なるほど高級料亭らしい素晴らしいお酒である。すぐに飲み干してしまい、そして己の浅はかさを呪った。
「これで共犯じゃな」
「なっ、なにを……」
はし、と口を塞がれた。事情でもあるのだろうか。
周囲の会話を集めると、大方の事情は知れた。
この宴会は、どうやら暴力的妖怪駆逐団体のものであるらしかった。今夜はその活動内容の確認説明を兼ねた酒の席だそうだ。恐らく英気を養うためになけなしの贅沢を奮ってこんな料亭に集ったのだろう。
妖怪をみれば囲んで棒で叩く。出会えば囲んで棒で叩く。聞けば囲んで棒で叩く。妖怪と話している人間も囲んで棒で叩く。そんな算段を組んでいたところに、阿波踊りが突入してきたのだ。会はあっという間に混乱し、人々は逃げ惑い、互いを棒で叩き合った。
そこに現れた謎の女性が、それを払ってくれた。ならば賞賛し、きっと妖怪排斥家であるはずだから歓迎しよう。お酒もあげる。
そんな流れであるらしい。しかし残念な事に、その歓迎された女性は妖怪である。マミゾウである。みんな騙されている。
マミゾウは自作自演で宴会に紛れ込み、ただ酒をかっくらっているのだ。如何にも妖怪らしい、神をも恐れぬ所業と言えよう。
こいつの舌は本当によく回るようだった。人心に取り入る術たるや、恐らく並ぶ者はあるまい。私はそのおこぼれを舐めながら、肝の太さ、悪魔的発想に恐怖した。
しかし、こうして飲むお酒もなかなか美味い。人を騙してくつくつ笑うなど、妖怪にしか出来ぬ飲み方である。
私は盃を抱えてがぶがふと浴びるように高いお酒を飲んだ。マミゾウも、同じように樽を抱えてがぶがぶと高いお酒を浴びた。周囲の人間たちも我々の酒気に当てられてお酒を飲んだ。
美味しいのはお酒だけではなかった。肴として提供されたお肉が、これが体験したこともない程に美味しかったのである。こうなってはもうたまらない。私はとめどなく飲み、喰らい、夜に溺れた。
そうしてやがて料亭のお酒が底を突いた頃、マミゾウはちょろりと尻尾を出した。すわ種明かしかと身構えたが、どうやらそれが違うらしい。酔いつぶれて化けの皮が剥がれただけであるようだ。周囲の視線が毛玉と化したマミゾウに集まった。同時にいくつかの視線が私を睨んだ。
これはいけない。囲んで棒で叩かれてしまう。私はそそくさと尻尾を出して、その場から逃げ出した。幸い尻尾を掴む者はない。
しばらくそうして逃げた後で、マミゾウを残したままであると気付いた。
再び一人になった私は、なんとなく覚束ない足元にふらつきつつも里の徘徊を再開した。既に日を跨ぎ、いよいよ大路の人通りも少なくなりつつある。しかし帰るにしても中途半端な時刻であるように思えたし、まだ夜の全てを暴いたとは思えなかったのだ。
なんとなく高揚する気分の正体はすぐに知れた。空に煌々と輝く満月のせいだ。狂気が降り注いで、私の徘徊本能を逆立てるのだ。
狂人の真似とて大路を走らば実際狂人であると言う。しかし既に狂気に魅入られていた私は、鼻歌を歌いながら大路の真ん中を跳ねて歩き出した。尻尾がゆらりと揺れる。夜風が心地よい。永遠にこの時が続けば、それが一番良い。
そんな折。月明かりの下に、おめでたそうな影を発見した。紅白のひらひらしたのが、きょろきょろと辺りを見回している。
「おや」
「あら」
互いの視線が交錯し、私は立ち止まった。
「そこにいるのは霊夢じゃないか」
「藍じゃない。こんなところでなにやってるのよ」
子供はとうに寝る時間であるはずだが、はて。なぜに霊夢が里にいるのか。ふわりと大欠伸なんぞをかましているのを見るに、眠そうである。携えた大幣が月明かりに揺れていた。
「私? いや、なんか変な騒動があるって聞いて出てきたのよ」
「騒動?」
「でも来て見てもなにもないし、全く無駄足だったわ」
私の勘がビンビンと反応したが、噛み付かれても困るので黙っている事にした。
「そうだ、暇だし付き合いなさいよ」
かくして、私の伴侶はマミゾウから霊夢へと移り変わったのだった。少なくとも、一人で大路を走っているよりは二人の方が良く思える。狂人だって一人より二人がずっと良い。
霊夢と行く夜の里は、マミゾウと見るのとはまた違った顔を私に見せてくれた。
表参道の提灯が赤く我々の行く末を照らす。その風景はなんとも幻想的で、なんだかふわふわとした気分になった。一歩先を行く霊夢の背が、なんだか遠くにあるように思える。なんとなく不安にかられて、質問を投げかけた。
「霊夢、どこに行くの?」
「まぁまぁ、付いてきて」
振り向きもせずにそう言うのだから情緒がない。仕方なく私は地を蹴って、霊夢の手を掴んだ。これなら良い。少なくとも、風船のようにどこかに行ってしまうという事はなさそうだ。霊夢は不思議そうに首を傾げたが、すぐにふふんと笑うのだった。
我らは路地裏に路地裏を通り過ぎ、裏表参道を縫い歩き、しめやかに夜を切り開いて行った。言葉数は少ないものの、しかし心は躍る。夜の世界は大人の世界、それを人間の子供に先導されながら歩くというのは、なんともフシギな感じを受ける。
果たしてどこに向かっているのか。
とうとう里の外れまで到達すると、空き地が見えてきた。何故かゴミだらけの開けた土地の真ん中にはなにやらぴかぴかと光る箱が一つ。目を凝らせば、屋台の様だ。
霊夢がむふふんと笑った。そして私の手を引いて、その屋台に突入したのだった。
「まだ良いわよね」
「はいはい、いらっしゃい」
その屋台を経営しているのは夜雀であった。私たちの来店を受けて翼が揺れ、鱗粉が鼻をくすぐった。
私はこれまで、屋台で盃を傾けたという事がない。大体は屋根の下、壁の向こうで閉じこもったお酒ばかりを飲んでいたから、これはなかなか新鮮である。めくるめく夜の世界の新たな一側面が見えた気がして、少し呆然とした。
霊夢に導かれるままに席に着けば、左斜め前に座る客と目があった。奇抜な形をした金髪と、奇抜な色をした二色髪の二人である。記憶をたどってみれば、それらはそれぞれ豊聡耳神子、聖白蓮であると知れた。
二人は巫女と狐という組み合わせに面を食らったようであったが、すぐに妙な妄想を思い描いたらしく、微笑んだ。
「やぁ、巫女殿」と、大盃を振り上げて神子が言う。霊夢は面倒臭そうにそれに応え、ふふんと唸った。
「新興宗教の頭が二人揃ってなにやってんのよ」
「新興宗教とは失礼ね」
「私から見りゃあんたらはいつまでも新参よ。で、どうしたの?」
「里でなにか騒動があると聞いてね。私は妖魔を退治しに来た。こちらの阿闍梨はお仕置きに来たのだそうです」
私の勘がビンビンと反応したが、噛みつかれては面倒なので黙っていた。霊夢はそれを見て、「馬鹿ねぇ」なんて言っている。どの舌が回っているのかわかったものではない。
白蓮がやけに静かなので、蚊帳の外同士気にかけて見てみれば、顔を真っ赤にして舟を漕いでいた。どうやら潰されてしまったようである。お酒を飲めぬ相手に飲ませるとは、聖人もなかなか意地が悪い。地獄に落ちるぞ、と忠告しかけたが、そういえばこいつは死なないのだった。
「残念ながら無駄足でした。だからこうしてお酒を飲んでいるの」
続いて、「君こそ何をしているのだ」と言う。
「夕涼みよ」
「それにしては暑そうな伴侶を連れている」
「……涼みすぎると危ないから、ねぇ」
ねぇ、と言われても困る。私は聞こえなかった振りをして、やつめうなぎの蒲焼をお酒で流し込む事にした。
屋台のお酒は料亭のそれよりは安っぽい匂いがするが、しかし独特で幻想的な味がして悪くない。ぐいっと飲むのと、舐めるように飲むのとでは舌触りも違う。正体が気になって店主に聞いてみれば、裏表ルートから入手した密造酒だと言う。
罵り合いに盛り上がるみこみこを尻目にさらに詳しく話を聞けば、四年程前に突然流通しだしたらしい。そのころと言えば、地下から怨霊が飛び出し、封ぜられた妖怪が放たれた年である。「地底の怪しい成分が入ってるかもねー」と、店主は語った。
先ほどから体内に入れているこの液体の正体とは一体なんなのか。少しぞっとしない気分になったが、しかし美味しい物は美味しいのだから止まらない。
幻想郷の夜をあまねく不思議なお酒。なんとも素敵である。私は喜んでそれを飲み、夜を満喫せんと努力した。
はたと、神子が飲んでいるのが普通のお酒ばかりであると気付いた。こんなに美味しい密造酒に目をつけないとはなにゆえか。気になって訊いてみれば、「それは私の口には合わないのだ」と返ってきた。それならばしょうがない。誰にでも好みというのはあるのだ、責めるべくもなかろう。
そのまま四人、実質三人で屋台のお酒を飲み干し、それから屋台を後にした。
里の裏参道を二つの影が行く。私の背には霊夢、神子の背には白蓮、それぞれ背負ってふらふらと歩く。
「狐よ、君は一体何をしているのか」
「ただの散歩だよ。安心しろ、何も取って食いやしない」
「その言葉、どうやら信じる他はないようですね。君からは一つの欲しか感じない」
「一つ? 欲?」
胸に手を当てて考えてみても、思い当たる節はない。私は大方の仙人らしく適当な事を知った風に吹聴しているのだろうと思いながらも、まぁ聴いてやるかと会話に乗った。
どちらにせよ、互いにお酒に溺れた身である。どうせ明日になれば、酔いと一緒に立ち消えてしまうような儚い記憶なのだから、塞いで無視するのよりは互いに気持ちよく言論を交わすと言うのも悪くない。
「と言っても、私にも上手く正体は掴めていない。君の欲は少し複雑すぎる」
「私はもっと単純に生きているつもりなのだけれど」
「そうだろうとも。必ずしも欲が生き方に影響を与えるとは限らない」
「私が言うのはもっと深いところだ」などと言う。
「秘めたる欲、自覚なき欲。君からはそんなモノの気配を感じるのです」
なるほど確かに、言われてみればそんな気がしてきた。自分でも見失っていた欲を言い当てられるとは、聖徳道士恐るべし。私は静かに打ち震え、次の言葉を期待した。
「君は苦しくないのかい」
「言われてみれば苦しい気がしてきた」
「その苦痛を解消する術を知りたいかい」
「言われてみれば知りたい気がしてきた」
神子はにんまりと笑う。提灯灯りに照らされたその顔は如何にも多分の含蓄がありそうで、仙人らしい。半ば恍惚とした私は、「教えてください」といつの間にか敬語になっていた。
「お酒を飲みましょう。それはもう、浴びる程」
「おやまぁ、そんな事で良いのか」
「ついでに分け与えると良い。隣人に」
「吝かではない」
かくして、私と神子、そしてお荷物二人は丑三つ時の夜の下を蠢いて、そこいらの居酒屋と言う居酒屋、酒宴という酒宴を荒らして回った。一席埋める度に私の財布は軽くなる。しかし心は軽くなるような気がして、お酒を飲んだ。膨らんだ風船にお酒を注ぎ込む勢いで飲み続け、地に落とさんと努めた。隣の神子はにんまりと笑顔であり、背中の霊夢は真っ赤になりながらも酩酊の海を泳ぎ回り、白蓮は始終ぐったりとしていた。
これは良い。良い夜だ。
我々はそのうちに里中の屋台を一箇所に集めてすべて飲み干すという意味不明な八面六臂っぷりを発揮し、同時に打ち立てた偉業に夜をあまねいていた人妖を大いに湧かせた。
里の大路は百鬼夜行の大騒ぎとなり、安眠の床を突沸させながら、列はますます規模を増す。数多の人間、妖怪は手に一升瓶を携えて、長大なる人垣を作り上げた。その中心にあって、私は天頂の紅い月を仰ぎ見ながら、霊夢をぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
「ふふふ、楽しいなあ、楽しいなぁ」
「そうね、楽しいわね」
霊夢の目は眠気と酒気に焦点を見失っていたが、しかし巫女の本能がそうさせるのか、大幣だけはしっかと握りしめて、私の背をぺしんぺしんとはたいている。寝惚け眼がなんとも可愛らしい。
こいつと出会った時はもっと静かな夜になるだろうと思っていたのに、すっかり騒がしくなってしまった。それが悪いとは思わないが、少しだけもったいなく思える。
せめて喧騒の中では、寄り添ってやらねば後が怖い。私は霊夢の手を握って、はふぅ、と酒臭い息を吐いた。
そんな時。私と霊夢からほんの少し離れたところで、ちょっとした騒ぎが巻き起こった。視線を向けてみれば、一部妖怪がわたわたと蠢いて白蓮と話している。白蓮は未だに最初のお酒が抜け切っていない様子であったが、しかし目を見開いて妖怪達を叱責していた。舌は少し回っていないけど。
どうやら百鬼夜行の群に寺の妖怪が混じっていたらしい。この群にいると言う事は、即ち多かれ少なかれお酒を飲んだはずである。それが白蓮の怒りに触れたのであろう。
「戒律を破ると言うのはいけない」「その上これは人に怪我をさせてしまうかもしれない行為である」「思慮がない」「明日はご飯抜きです」「おしゃけなんてなりません」
かように語る本人がべろんべろんなのだから世話がない。聴衆は笑い、一部の者は、というか聖徳道士は彼女の頭を撫でたりなんかしている。白蓮はもうもうと唸って、すっかりありがたみの抜けた説法をわめき散らした。
妖怪達はそれを持て囃して、神輿の上に白蓮を掲げて集団移動を開始した。前後不覚に陥った彼女は、虚空に向けてアリガタイ言葉を投げかけている。敬虔なる仏教徒が見れば憤死しそうな光景であった。
神輿は里を東西南北奔走し、お酒の匂いと迷惑と説法を余すところなく頒布しながら進んでいく。そんな刹那的光景をおいながら、私は霊夢とお酒を飲んだ。
「藍ーっ! この女狐がーっ!」
さっきに満ち溢れた声が聞こえてきたのは、瓶を三本ほど空にした時だった。声の方に視線を投げかければ、マミゾウの姿が見える。大きな鉄の箱の上に仁王立ちしていた。
さらに目を凝らすと、鉄の箱の周りには沢山の人間がいた。全員がその手に松明を携え、一目でただ事でないのがわかる。あれらの敵意が全て私に向いているのだとしたら、これは無事で済むかわからない。
鉄箱の集団は我ら人妖百鬼夜行の行方を阻むようにして相対し、両者は無言の内に睨み合いを開始した。静まり返った空間の中で、マミゾウの罵声と白蓮の説法だけが響く。互いに様子を伺い合い、静かに闘志を高めている。
よく見れば、マミゾウ側の人間たちは、先ほど料亭で宴会をしていた者たちではないか。それが一体なにをしているのか。まさか謀った私を亡き者にせんと、マミゾウと手を組んだのか。
「女狐め! 許さんぞ!」
「待て待て、そんなに暴れると危ないぞ。落ちたら死ぬぞ」
奴が立っているのは、長屋の二倍近くの高さを持った箱の上である。そこでぶんぶんと松明を振り回しているというのだから、見ていて危なっかしい事この上ない。
冷静になって見てみれば、妖怪排斥団体の連中はマミゾウを囲んで棒で叩こうとしているようでもある。となると、あれは引き連れているのではなくて、己を囮にして誘導してきたと言うのが正しいらしい。ますます落下すると危ない。
「これ、嫗。君は何をしているのか」
神子もその危なっかしさが気にかかったらしく、そう呼び掛けた。マミゾウの視線がそちらに移る。私は少し安心したが、「黙れ詐欺師め」とだけ言ってすぐにこちらを睨み直したものだからたまらない。
読経に入れ込んでいた白蓮も事の次第に気付き、はたと立ち上がった。
「あらマミゾウさん、何をしてるんです」
酔いが回った口から飛び出した言葉はなんともおっとりとしている。これで場も和やかになれば良い、と期待したのだが、却って火に油を注ぐ結果となった。
「なんじゃなんじゃ、よく見れば巫女殿もおるではないか。よってたかって
、これはどうせお主の仕業じゃろう!」
マミゾウはずびしと私を指差して、鉄箱を神輿に激突させた。衝撃で双方化けの皮が剥がれ、ぼとぼとと狐、狸が散っていく。それに合わせて、鉄箱も神輿も小さくなった。
妖怪排斥団体も行動を開始した。そこいらの動く者を人妖問わず囲んで棒で叩いている。一部妖怪は逃げ出し、一部は報復を開始し、大路はあっという間に混沌に包まれた。
マミゾウは地を行く連中の頭を踏みしだきながら飛び跳ね、私を探している。その手には猟銃が。つつ口から細く出ている青い煙が、狐的恐怖を擽る。あれで撃たれてはたまらない。
私は一升瓶を放り出し、霊夢の手を取って逃げ出した。
背後に喧騒が轟くのをするするとすり抜けて、近くの細い路地の闇に紛れ込む。
これは理不尽だ。何故私が狙われるのか。確かに、奴を放っておいて保身に走ったのは私である。そこには非もあろう。しかしそもそも、あんな状況に陥ったのは人を騙くらかしたマミゾウのせいであろう。私が責められる謂れはない。
ならば堂々と受けて立ち説得を試みるべきなのだろうが、しかしそう出来ない理由もあった。
背後を振り向く。霊夢はまだ状況がわかっていないらしく、しきりに首を傾げていた。
マミゾウのあの調子を見るに、間違いなく巻き添えを出そうと言うのは想像に難くない。それが霊夢となる可能性も無きにしも非ず。こいつを巻き込むというのは、とてもよろしくない。
「ちょっと、どうしたのよ。いきなり走り出して」
「お前のためだっ」
暗く、灯りのない路地を二人で走る。遠く暴動の嬌声を聞くに、あちらはさらに大変であろう事が伺えた。時折、数条のレーザーが闇を切り裂き、威圧的なブディズムシャウトが聞こえてくる。
マミゾウはどうしたのだろうか。撒いたか。いやまだ油断は出来ぬ。あいつの事だから、変に油断すれば寝床にだって入り込んできそうだ。なんとかして逃げて、それからゆっくり説得、或いは撃退せねばなるまい。
そんな算段を組みながら、私は溜め息を吐いた。
どうしてこうなったのか。当初の予定では、一人でひっそりとお酒を飲むにとどめるはずだったのに、気付けば規模は無秩序に拡大し、人妖の喧嘩が始まり、挙げ句の果てに命まで狙われている。私が望んでいたのはこんな状況ではない。もしもこれが普遍的な幻想郷の夜の過ごし方と言うのであれば、私には適性がなかったのだ。夜闇の深遠に触れ、私は数百年来にそう考えた。
リテイク、やり直しを所望する。もしもこの夜を終えたら、慎ましやかにひっそりとお酒を飲む。私にはそれが似合っている。
夜の世界への憧れは、今急速にその身を縮こまらせつつあった。
そんな折。
「藍」
「なによ」
「楽しかったわよ」
霊夢がそんな事を言った。
脇を流れていく灯篭の灯りが、一歩後ろの霊夢の顔を照らす。笑っていた。よくもまぁ、そうも楽観的に思えるものである。私はその能天気っぷりに若干の侮蔑を覚えた。そして同時に、共感してしまった己の能天気っぷりまでもを侮蔑した。
「……否定はすまい」
確かに。
楽しくはあったのである。私の内に流れる妖怪の血は、先ほどまでは確かに湧いていた。冷静に立ち戻ってみればその軽率さに対して文句の一つも言いたくなるが、しかし、確かに楽しかったのだ。
私は俄に混乱し、走るのがままならなくなってその場で立ち止まった。霊夢はつんのめったが、しかし同様に立ち止まり、私を見た。
「どうしたの?」
「霊夢、私は……」
突如、ぱぁんという乾いた音が辺りに響いた。鉄砲の火を吹いた音だ。足元の石ころが爆ぜ、真っ二つになって私の耳を打った。「きゃいん」という悲鳴が次なる銃声に掻き消されたのは幸運と言えよう。
すぐに体勢を整え、逃げようとする霊夢を尻尾の内側に隠し、私は狙撃音の方向を仰いだ。屋根の上でマミゾウが猟銃を構えている。
「ようやく見つけたぞい。亡き者にしてくれる」
「待て待て、話せばわかる……っ」
「問答無用」
またもや銃声。今度は頬を掠って、背後に着弾した。
これはいけない。説得は無理そうである。となれば、逃げる他ない。私は振り返り、目の前に広がる闇夜に一縷の可能性を賭けて走り出した。霊夢はしっかと尻尾にしがみついている。本気で走っても、これならばなんとかなりそうだ。
ところが、すぐにそれは無理であると判明した。正面から不気味な影がいくつも折り重なってやってくる。
阿波踊りの集団だった。
あっという間に行く手を阻まれ立ち往生してしまう。背後からはマミゾウが勝ち誇ったような余裕の足取りで近付いてきていた。
やんぬるかな、もはやこれまでか。
「マミゾウよ、せめて霊夢だけは逃がしてあげてはくれないか」
「ならぬよ。この場であらゆる後顧の憂いを断ち切っておかねば」
「鬼畜め」
「なんとでも言え」
「妖怪狸婆め」
「なんとでも言え」
「碌でなし不良婆め」
私は半ば捨て鉢になって、記すのも憚られるような罵詈雑言を喚いた。当然カットである。私にも最期の自尊心くらいは守りたい。
マミゾウはすっかり逆上せて、鉄砲に火をつけた。その時である。
私とマミゾウの間につつ、と切れるように丸い亀裂が走ったかと思うと、突然大穴が開き、中から青い髪が這い出してきた。
「あら、ちょっと早かったみたいね」
闖入者は意味深長な事を言っている。よくよく目を凝らせば、それは邪仙、霍青娥であった。我々は一旦全ての動きを停止し、暫し呆然とした。
青娥はそれを見て「どうぞ、続けて」などと言っている。
「いやいや、待て。おぬしは一体何をしに現れた」
その場にいる者全ての疑問を、マミゾウが代表して投げかけた。全員が固唾を飲んで答えを待つ。
「何って、狸と狐の死体を回収しに」
その答えは、恐らく誰も予想していないものであった。
霍青娥はかく語る。
曰く、化生となった狐狸には様々な使い道がある。毛皮は言わずもがな、魂からは美味しいお酒が作れるし、その肉は霊薬として料亭に高く売れる。だから、彼女はこうして夜な夜な狐と狸の喧嘩を見届けては、その死体を回収して回っているのだ。
「無駄だらけの妖怪社会の無駄を少しでも解消せんとする私の慎ましやかな努力ですわ。死体の跡は綺麗に掃除するから、里の人からも手間が省けたと感謝されています」
そんな訊いてもいないところまで話す青娥の顔には、陰りの一つもない。一方で、その他現場の狐狸たちはみんなげんなりした表情を浮かべていた。
マミゾウの言っていた密造酒と妖怪肉料理の出処、そしてなにより先ほどがぶ飲みした密造酒、美味しいお肉の正体の見当がついた私は、きっとその中でも一際げんなりしていたに違いない。
そして同時に、お酒とお造りになった自分の姿を想像して、変な気分になった。
マミゾウと視線が交錯する。向こうも考えている事は同じなようである。このまま私が撃たれても、或いは抵抗して逆にマミゾウが討たれても、どちらかは邪仙に持っていかれて見知らぬ誰かの糧になってしまう。それは、なんだかとても後味が悪い。
青娥は期待に目を輝かせている。彼女には悪いが、その期待に沿えるのはごめん被る。
私たちは同時に小首を傾げ、背中を向け合い、まっすぐに歩きだした。いつの間にか阿波踊り集団はいなくなり、後には悔しそうに歯噛みする邪仙だけが残った。
触れ得たと思っていた夜の世界は、青娥によってそれはまだほんの片鱗でしかなかったと知れて、私は落胆した。夜の闇の中には更に深い覗き得ぬ闇が横たわり、俄仕込みには判別のつかないままに籠絡して取り込んでしまうのだ。
今回得た教訓は、私は決して幻想郷的夜の世界の中枢を担うに値しない、値するにしても、未だに経験が少ない存在である、という事だった。もっと上澄みの部分をかっさらうように動くのが、どうやら私には合っているようである。
さしあたって、翌日私がとったのは次のような行動であった。
「や、霊夢」
「あら、藍じゃない。どうしたのよ」
「お月見でもしないか、お酒は持ってきたから」
「今日は里には行かないの?」
「ん。それはまた今度、ね」
人事を尽くして天命を待つ。いつか再び夜に繰り出す日のために、今は他人とお酒を飲む練習をするのだ。その相手として、私は霊夢を選んだのだった。
「まぁ、そりゃ良いけどさ。お月見にしては中途半端じゃない? 満月は昨日よ」
「それもふまえて、だよ。次の満月までにはきっと立派な夜の妖怪になってみせる」
私の言葉に、霊夢はむふふんと笑った。そして私の手から一升瓶を奪い取った。
「良いでしょう、それなら私がイロイロと教えたげるわ」
「調子にのるな」
昨日とは打って変わり、今夜の月は大人しくぽっかりと浮かぶばかりである。私たちはちょびっと暗い月光の下で、まず一杯の盃を酌み交わした。
「まず、人を疑う事を覚えないとねえ。特に仙人が相手の時は」
「む、なんの話だ」
夕暮れ前から飲んだくれて万年床で惰眠を貪ってたり、里に降りての暴飲暴食に乱痴気騒ぎ…
幻想郷できる女ランキングでも1、2を争うであろう藍様のイメージからはかけ離れてるけど、狐狗狸同盟で既に化けの皮が剥がれていたのですんなり読めました。
ただ、前作読んでると空回りしまくった挙げ句に紫から諭されて肩の力が抜け、実に『妖怪らしい』藍様になってるなぁと思える所が、前作を読まないとただのだらしない人にしか見えないのがちょっと残念。
なので、狐狗狸同盟も併せて読むのがオススメですね。
次回作も楽しみにしています。
マミゾウもそんな怒りっぽくないんだろうけどなあ。
猟銃を引っ提げて殺しにかかる?
絶対にありえない。
話を面白くするためとはいえ、流石に無理があるかと...。
面白かったという理由だけで、この点数で。
でも、九尾の狐って意外とアホだよ
人前で屁こいて赤面するぐらいには
自分の幻想郷とはまるで違うからまたそこがいい!
狐狗狸読んでるからなおよし!
べろんべろんに酔っ払った気狂いな空気が良かったです。
狐狗狸同盟とこれくらいしか読んでいないけど。
あの神主にこの幻想郷あり。みたいな。
相変わらずの阿呆で楽しかったです。
夜の世界…なんて恐ろしいんだ( ゜Д゜)
」
狐に猟銃と言えば…「らん、おまいだったのか。いつも酒をくれたのは」ですね。青い煙がカタユデアトモスフィア。
95点があればそれにした
呑兵衛っぷりといい能天気っぷりといい「らしい」東方キャラですね
本来、狩られる側の筈なのに不思議です。
誰が藍様とマミゾウさんの仲裁に入るんだろうと思ったら娘々とは……。
そして、その理由がまたらしくて「うわ、上手いなぁ」と純粋に思いました。
これからも藍霊の布教を頑張ってください。
あまり見ないタイプの蘭でこれまた良かったです
そして溢れる森見登美彦イズム