一
八意永琳は手紙を読み終え、重ねて溜め息をついた。壁に掛かった時計を一瞥して、再び溜め息をついた。永琳ほどの腕前があれば、手紙に書かれている案件の薬は用意できる。そして、そろそろ時間である。
障子の向こうから、鈴仙のかしこまった声が飛んでくる。永琳は手紙を懐に仕舞い、鈴仙の方に目を遣る。庭に面した障子は光を受け、薄い影を広げている。
「師匠」
「どうしたの?」
「お客様です。茶室へ」
定刻より僅かながら早かった。障子を開けると、傍らで鈴仙が片膝を突いている。鈴仙は面を上げて、こう言う。
「藤原妹紅です。師匠、一つよろしいでしょうか?」
当惑を顔一杯に現す鈴仙に、永琳は心配させないように微笑を返すだけであった。しかし、懐にある手紙を届けたのは鈴仙なのである。その時も同じ顔をしていた。
「一体何を企んでいるのでしょうか?」
軋む板敷は降り注ぐ光を受け、厳しい光を周囲に永琳や鈴仙に浴びせている。永琳は引き出しを開ける。一杯になった手紙の山の一番上にあった一通の手紙を、鈴仙に手渡しながら言った。
「何も企んでいないのかもしれないわね」
疑惑の音に、永琳は平静に返した。
「……どういうことです?」
「一つじゃないの?」
「師匠はそうやって、全てを知って、悟って、何も言わないですか?」
「皆知っているわ。けど、言わないだけ。皆分かっているけど、やらないだけよ」
妹紅の元へ向かおうとした丁度その時、庭に咲いていた紅椿が落ちた。二人の沈黙の間を、紅椿の絶え絶えとした息吹が流れていた。永琳だけが、無情の陽射しを受け、閃閃としている椿を見ていた。
いつかの人間は、この様子を見て、潔いと思ったらしい。しかし永琳は大多数の人間と同じように、驚き、悲しんだ。負の感情の中で、自分には絶対訪れないという自信の表れが、残酷な喜びを芽吹かせようとしていた。
永琳は振り払うように足早に妹紅の元へ向かった。鈴仙に一言残して。
「それ、阿求にお願いね」
妹紅は小間の中で、小ぢんまりと座っていた。永琳が入るとすぐに微笑を浮かべて、軽く言う。
「ごめんなさいね、早くて」
永琳は妹紅の正面に座る。妹紅の背中から微かに覗ける丸窓から、青空へ伸びる竹林が見える。永琳の頭には、先の紅椿が竹林の中で風に揺れていた。その紅椿が閉ざされた窓から飛び込んできたら、それはざぞ美しいことであろうとすら空想に耽ったりした。
「いいわよ。これでも遅い方じゃない?」
「あまりに早いと迷惑でしょう?」
「そうね」
妹紅の声音からいつ本題を口にしようかという焦りが滲んでいた。永琳はすぐにでも本題に移る覚悟と悔しさがあった。だから、永琳も中々本題を口に出せなかった。
庭に入って来た小雀の鳴き声すら聞こえるほど、二人は何かを守るように口を閉ざしていた。視線を丸窓に投げれば、やはり竹林が見える。妹紅が重苦しく口を開けた。
「できそう?」
「返答した通りよ」
妹紅の目が一瞬大きく見開いたかと思えば、すぐに諦念の底に沈んだ。妹紅も分かっていた通りなのだろう。もしここで永琳が可能だと答えるようであれば、わざわざ返事など書かないだろう。わざわざ直接言いに来ない。
「それでは駄目なのよ」
「良い、悪いの話ではないの。作れないわ」
永琳が突き放すように言えば、妹紅の口元に薄っすらと邪悪な、乞うような笑みが浮かんだ。永琳は妹紅の笑みを見て、肌が粟立った。
言い方を間違えた。しかし、否定はできない。永琳ほどの腕であれば、作れるのである。ならば、何故、作らないのか。永琳以外の存在が邪魔をしている。つまり、作ろうと思えば作れるが、作れないのである。
作れないと答えるのが理想だった。作れるという自信と作ったところで大きな損害はないゆえの発言だったのか。妹紅がそう書いたから、自身の安全が保障されているからの発言なのか。けれども、心のどこかで妹紅と同様に、生きてほしいと願っていたのは事実である。作りたいが作れないのが本音だった。
妹紅は念を押すように言う。
「作れないのね?」
永琳は腹をくくり、はっきりと答えた。
「そうよ」
「どうして、作れないの?」
「稗田阿求の許可が降りていないこと。許可が取れなくなってからではいいのなら、それならそれで考えるわ」
「それだけ?」
「八雲紫と四季映姫・ヤマザナドゥの許可も必要ね。稗田阿礼の転生の旅に終止符を打つのだから」
「あの堅物の説得は、紫に任せたわ」
妹紅の余裕気な言い方に、永琳は煽るように訊いた。
「怖いの?」
「当たり前じゃない。相手はあの閻魔よ? できる相手に任せるにきまっているじゃない」
「八雲紫が、できる、ね……」
「おかしいことだけど、乗るしかないのよ。時間が惜しい」
四季映姫は、八雲紫にとって苦手なタイプである。にも拘らず、自ら、話し相手になると言ったのだろうか。何を企んでいるのであろう。会って、話してみる必要があるようだ。
八雲紫は基本的に傍観者に意識が強い。本当に幻想郷に危機が訪れなければ動かないだろう。紫が動いている。それだけで、事はとても大きく感じる。否、実際、大事なのだ。不老不死だから感覚が麻痺している。人一人の生を操ることは、大事なのである。
永琳は気を引き締め、妹紅に確認を取る。
「阿求の許可は得られそうなのかしら?」
丸窓の向こうに伸びる雲が、影を運んできた。二人の顔色は自然と暗くなる。調子すら一つ落ちた気がした。
「まだ、よ」
「言わないの? それとも……言いたくないのかしら? 自分と同じように不老不死になろうと」
曇天の午後の小間は少し肌寒くなった。隙間風に大寒の気配を察した。藤原妹紅は小雀の鳴き声のように小さく答えた。
「目を見て、ちゃんと、はっきりと、真剣に、共に生きようって言うことが恐ろしいの。いざ言おうとしたら……」
永琳は安心したように口元に微笑を浮かべて言った。
「それでも、生きたいのでしょう?」
「ええ。貴方と輝夜のような関係ではないのよ。易々と言っていいことではないの」
まるで生娘なように言い方に永琳は驚きながら危なげな喜びを感じていた。
危なげな喜びを? 妹紅と阿求との関係が一線を越えてしまう。流転の外に放り出されも永遠に続くと信じている妹紅の純情は、あまりに脆く、危険といえる。
やはり、作れない。だからといって、妹紅を突き放すわけにはいかない。不老不死は薬でもあり毒である。永琳一人が、不老不死になれる物を作れるわけではない。コントロールできる今のうちに、悔いの残らないように動いてもらわなければならない。
「ねぇ、永琳」
「どうしたの?」
「貴方達の主従関係のように、ただただ純粋な愛情はこの世に存在するかしら。エゴイスティックを超えた、ただただ純粋な、真摯な、片方が片方を思いやるなんて可能なのかしら? ねぇ永琳、二人でいる時の方がずっとずっと寂しいのね」
永琳は答えられなかった。純粋ゆえに妹紅は傷つき、阿求も傷つけてしまう。妹紅には相手を思いやる気持ちが足りていない。阿求に言わず、内緒で事を進めているのが何よりも証拠である。しかし、阿求に全てを打ち明けたところで、その純情は得られるのであろうか。
本来ならば、一生の中で育まれるべき情愛である。限りなく人間に近く殆ど人間ではない二人が、人間と同じようにそういう感情を得られるかどうかは怪しい。
もし仮に、純粋な愛情が実ったとしよう。至高な瞬間であろう。しかし、自身の死を退けてしまった以上、純粋な愛情の枯渇の方が早い。この幻想郷には、時が止まったからといって魂を奪う悪魔はいない。
実ってからの二人はどうなる。見るも無残な人生を歩むに違いない。そうして、再び、今のように永琳の元に訪れるかもしれない。死を望むために? ならば最初から、阿求だけでも人間的な理を破らなければいい。
本当に阿求のことを望むのならば、妹紅の選択は既に間違っている。妹紅がどれほどの理想を並べても、結局は妹紅のエゴである。どれほどの時間を用いようが、永遠にエゴイスティック的な愛情なのだ。
永琳はぐっと感情を堪えて、平静に言った。
「阿求と話でもしてきなさい。全てが終れば、もう一度、来てちょうだい」
「そうね」
妹紅は重い腰を上げ、小間から出て行こうとする。妹紅の暗い色の背中を憾むように見て、暗鬱な調子で言った。
「ねぇ、妹紅、華道は得意かしら?」
引き戸が開き、地に落ちた紅椿に、蟻がたかっているのが見えた。
「全然よ。私、不器用だから」
「そう。やってことは?」
「一度だけ。全然駄目だったわ。切って、活かすなんてね」
妹紅の肩が小さく揺れた。
「でも」
「でも、何かしら?」
「そういう方法もあるのねって学んだわ」
小間を出て行く妹紅に、永琳は反射的に叫んだ。
「それじゃ、分かっているの?」
妹紅は紅椿を避けて、何とも言わなかった。永琳の悲鳴がほとばしった。
「……ごめんなさい」
二
藤原妹紅は縁側に腰掛ける稗田阿求を見つけた。黄昏に佇む阿求はそのまま溶けてしまいそうであった。柔らかな背中に焦ったような一声をかけると、阿求は手紙から顔を上げた。阿求は微笑を浮かべて言う。
「どうされました?」
「ちょっと話がしたくてね」
妹紅は残酷な喜びに身を委ねそうになりながら、懸命に彼女を思い理性を蘇らせていた。
阿求は妹紅の真面目な声音に事の重大性を察したのか、すぐに読んでいた手紙を懐に仕舞った。そんな細かい姿すら可憐だと思った。阿求は軽く身なりを整え妹紅の方に向き、真剣な顔で尋ねる。
「お話ですか?」
「そうよ。大事な話だから、ちゃんと話し合いましょう」
阿求の正面に座った。夕闇で中で、阿求の白い顔だけが煌めいていた。引き締まった桜色の唇はいつもの癖のように微笑の影が漂っている。
妹紅は何と切り出すか悩んだ。愛の告白に酷似している。最初の一言さえ言えれば、後は流れるように言えることだろう。そうして妹紅が言葉を選んでいると、阿求が懐より先程の手紙を出した。懐から滑り出た細い指の端が震えているのを見逃さなかった。
「これを読んでください」
妹紅は受け取る。数羽の烏が屋敷の上を飛ぶ中、読み始めた。
『拝啓
この手紙を貴方が読んでいる頃、鈴仙が上手く立ち回っていれば、妹紅はまだ帰っていないことでしょう。この手紙を読み終えたら、焼くなり破り捨てるなりして、妹紅に読まれないようにしてください。
本来でしたら、妹紅が責任を持って終わらせなければならない事案です。八雲紫の元へ行き、私の所へ手紙を送り、順序良く外堀を埋めた妹紅なのです。ですので、私が最後まで書いていいのか分かりません。それでも書かなければならないことがあるので送ります。
稗田阿求として生まれ、生き、死ぬ貴方に、私はどれほどの援助が可能でしょうか? 鈴仙を通して延命、つまりは、現段階での投薬では限界があります。貴方の容態も瞬時に把握できません。昨日のことが今日になって分かる、といったものです。八雲紫を介して、との意見は、この冬で難しいことはご理解いただけかと思います。
万が一のためにも、早く、私の所に来てください。慣れ親しんだ所を離れる悲しさ、淋しさなどなどは重々承知しています。こちらには鈴仙がいますよ。
早くと書きましたが、できる限りのことはそちらで済ませてください。矛盾だらけでごめんなさい。私がこのような対策を練っている時ですが、そろそろ妹紅が来ますので筆を置きます。
できれば、このことは大切な人とちゃんと話してください。用件は、早く私の所に来る。ただそれだけです。それだけで伝わることでしょう。
敬具
八意永琳』
妹紅は手紙を読み終えると丁寧に阿求へと差し出した。読みながら、鼻の奥に痛みが走り、ぐっと熱いものが込み上げてくる。
訊きたいことがいくつもあった。言いたいこともいくつもあった。複雑に絡んでいたが、妹紅も永琳も――八雲紫も――結局は、稗田阿求の生について苦悩していることだけは分かった。
はにかみながら阿求は言った。
「びっくりしました。永琳さん、全然来ないのに、こんなに心配しているなんて知らなかったのです。もっと冷淡で、私達の命なんてそれこそ一匹の虫のように思っているとばかり……謝らないといけませんね」
「そうね。ねぇ、阿求、私の話を聞いてもらってもいいかしら?」
「はい」
耳を傾けると、切り揃えられた髪の毛の隙間から紅潮した耳たぶが見えた。妹紅は落ち着いて話す。が、頭の中には先程の手紙から永琳の涙が透けて見えた。
「永琳も書いていたけど、私は貴方に黙って酷いことを考えていたわ。私、永琳、八雲紫、四季映姫・ヤマザナドゥの四人で、貴方の生を弄ろうとした」
「私の生を……どういうことですか?」
言葉を選びながら自分の責任から逃れようとする浅ましい考えがあった。何と恥ずべき行動であろう。彼女の前ですら逃げようとするのが恥ずかしかった。
何故、恥ずべきことだと思うのか。妹紅は彼女を思って、動いていたのではないか。むしろ、堂々と告白すべきことではないのか。そう思えば思うほど、萎縮してしまう。それでも妹紅は、阿求に告白した。ここで勇気を振り絞らなければ、妹紅の行動はエゴイスティックの域を出ない。
「ずっと生かそうって、私と同じように。永琳の頼んでさ、蓬莱の薬とは言わないけど、それと近しいものを作ってもらうように頼んだだよ」
阿求は慈しむように笑って、訊いた。
「どうしてそんなことをしたのですか?」
怒っているような、責めるような気配は全然感じられない。それどころか、妹紅を許すような調子である。妹紅はそんな阿求に腹立たしさを覚えた。そんな阿求に、なのではない。許されて一瞬でも安堵した自分自身にであった。
「もっと激しく、強く、拒絶するぐらい力強く、私はそんなこと望んでません! って、はっきり言えばいいじゃない」
阿求は驚いたように目を見開かせた後、意外そうな調子で言う。
「どうして、そんなことを言わなければならないのですか?」
「裏でこそこそ、本当だったら最初に、何よりも最初に言わないといけないのに! 最悪じゃない」
「言いたくなかったのですか?」
「言いたかったわよ! でも、いざ、貴方を前にすると全然言えないの」
妹紅の調子はどんどんと熱を帯びて、目にはいよいよ涙が浮かんできた。
「分かっていたの。最初から上手くいかないって。でも、私だけ、私だけが何もできないのは嫌だった。紫はできる。貴方の助けとして動ける。四季映姫も動ける。永琳も動ける。どうして、私だけが何もできないの? こんなにも……!」
そこから先は言葉にならず、嗚咽だけが響いた。阿求は妹紅の震えた手に、己の夕風を浴びたひんやりとした手を乗せて、静かに語る。
「妹紅さんも永琳さんも卑怯です。ずるいです。びっくりです。そんなに思うのでしたら、どうして、鈴仙さんみたいにはっきりと言わないのですか?
私はずっと書をしたためていましたから、どれもかしこも知識として知っているだけなのです。察するとかそんな難しいことできません。だから私は、はっきりと言います」
「妹紅さん、それほどまでに私を思うのでしたら、私は精一杯生きます。痛いのは怖いです。苦しいのは嫌いです。でも、一生懸命に生きます。ですから、ね、一緒に生きましょう」
妹紅は何度も頷いた。涙を声に変えて、しきりに頷いた。
エゴイスティックから始まった愛情は純粋ではない。ならば、エゴイスティックから始まらなかった愛情は純粋なのであろうか。同じようにどこかでエゴイスティックが絡むのではないか。この世に、二人の関係に、妹紅の望むような、純粋な愛情は存在するのであろうか。
しかし、この愛情だけは、相手を思いやることによって、現実を受け止めたことによって生じたこの感情だけは、本物だと思う。
儚い命って阿求の為にある言葉だと思っているので尚更です。