あなたは彼女の舟に乗っている。
肌寒い春の夜明け前、三途の川の霧は深い。
彼女はあなたに話しかけるだろう。
「とうとうあんたを乗せる日が来たか」
その声はあなたにしか聴こえない。川には他に誰もいない。
「随分長かったような、あっという間だったような」
舟が霧の中を行く。彼女が言葉を途切れさせると、あとは舟と水面の奏でる、ちゃぷ、ちゃぷという音だけである。
あなたはじっと、それを聴いている。
「いろいろ話はしたけれど、実際乗るのは初めてだろ。乗り心地はどうだい」
悪くはない、とあなたは思うだろう。決して良くもない、とも。
「そうだろそうだろ、この豪華客船に不満はないな」
どうか彼女の妄言は見逃してあげてほしい。恨むならば貧乏を、是非曲直庁の財政難を恨んでほしい。このボロ舟が精一杯なのだ。
彼女は快活に笑って、暫く舟を漕いでいくだろう。
あなたはじっと、それを見ている。
「屋台通りは見てきたかい? 時々顔見知りが店長になるんだ。あんたもそういう輩と会ったかもしれないね。無駄遣いはいけないけど、ここで取られるもあそこで遣うも同じことだ」
ここに辿り着くまでに、あなたはその道を通っただろう。
中有の道の屋台通りは、死者と生者が入り乱れる。残念ながらあなたには、知り合いを見つけられなかった。
「あたいがここに居てよかったな。向こうまでの道で知り合いに逢える確率は、四季様が天国行きを命じるより低い」
どうか彼女の妄言は聞き流してほしい。割合の問題で、たまたまちょっと偏っているだけなのだから。
それについては後でゆっくり、あなたと話し合えるだろう。
肌寒い春に朝が来て、川の霧は変わらず深い。
「わざわざ言うまでもないけど、この川幅は手持ちの金額で変わる。あんたはもうちょい少ないと思ってたよ」
あなたは舟に揺られながら、此岸が見えなくなったことに気が付くだろう。
「あれだけ好き勝手やってたのに、随分慕われてたんだねえ」
あなたは仲の良かった人物を、ひとりひとり思い浮かべる。
氷精、河童、天狗、鬼、巫女。大体そんなところだろうか。
「でもやっぱり、一人分くらい多い気がするんだよ。あたいの知らない誰かがいるのかねえ」
あなたは少し戸惑うだろう。大丈夫、それは彼女の思い違いだ。
その一人分はあなたの目の前で、ちゃんと舟を漕ぎ続けている。
「しかし、随分長く生きたもんだ――」
あなたはそれに頷くだろう。長く生きた。神仙くらいにはなれたかもしれない。
だけれどその道は選ばなかった。それを、あなたは誇っていい。
「それに、随分いろんな話をした。憶えてるかい?」
もちろんあなたは憶えている。その殆どは世間話だ。
彼女がサボっているのを見つけては、くだらない話をしに行った。
「あそこの団子屋が美味いだの、人里で起きた事件だの、そういう話ばっかりしたな」
あなたはそれを、じっと思い出している。
霧はとうとう濃くなって、彼女の姿さえおぼろげに見える。
ただ、ただ、彼女の声だけが、三途の川に響いている。
「あんたに言いたいことがあった。そんな気が、ずっとしていたんだがねぇ」
彼女はそう言って、舟を漕ぐ手を止めるだろう。
「何か言おう、あんたに言おう、って思っていたんだけれど」
霧は彼女を覆い隠して、あなたは何も見えなくなる。
「おかしいねぇ、何も言えない。あたいの大事な友人に、かけてやれる言葉が出ない」
あなたは彼女の声が、震えていることに気が付く。
だけれどあなたにも、何も言えはしないだろう。
深い深い霧のなかで、あなたは彼女を見失う。
「あたいたちは、本当に長く生きすぎたんだねえ――」
静まり返った三途の川に、すん、と鼻を啜る音だけがしている。
そのほかに聴こえるのは、舟と水面の奏でる、ちゃぷ、ちゃぷという音だけである。
霧はゆっくりと晴れはじめている。彼女の赤い髪を、あなたは見付けることができる。
春の日差しはあたたかに、あなたたちを照らしはじめるだろう。
そうして彼女は、再び舟を漕ぎだすだろう。
だけれど、今は。
――この霧がすっかり晴れてしまうまでは、彼女のサボりを見逃してほしい。
それがあなたに積める、最後の善行なのだから。
肌寒い春の夜明け前、三途の川の霧は深い。
彼女はあなたに話しかけるだろう。
「とうとうあんたを乗せる日が来たか」
その声はあなたにしか聴こえない。川には他に誰もいない。
「随分長かったような、あっという間だったような」
舟が霧の中を行く。彼女が言葉を途切れさせると、あとは舟と水面の奏でる、ちゃぷ、ちゃぷという音だけである。
あなたはじっと、それを聴いている。
「いろいろ話はしたけれど、実際乗るのは初めてだろ。乗り心地はどうだい」
悪くはない、とあなたは思うだろう。決して良くもない、とも。
「そうだろそうだろ、この豪華客船に不満はないな」
どうか彼女の妄言は見逃してあげてほしい。恨むならば貧乏を、是非曲直庁の財政難を恨んでほしい。このボロ舟が精一杯なのだ。
彼女は快活に笑って、暫く舟を漕いでいくだろう。
あなたはじっと、それを見ている。
「屋台通りは見てきたかい? 時々顔見知りが店長になるんだ。あんたもそういう輩と会ったかもしれないね。無駄遣いはいけないけど、ここで取られるもあそこで遣うも同じことだ」
ここに辿り着くまでに、あなたはその道を通っただろう。
中有の道の屋台通りは、死者と生者が入り乱れる。残念ながらあなたには、知り合いを見つけられなかった。
「あたいがここに居てよかったな。向こうまでの道で知り合いに逢える確率は、四季様が天国行きを命じるより低い」
どうか彼女の妄言は聞き流してほしい。割合の問題で、たまたまちょっと偏っているだけなのだから。
それについては後でゆっくり、あなたと話し合えるだろう。
肌寒い春に朝が来て、川の霧は変わらず深い。
「わざわざ言うまでもないけど、この川幅は手持ちの金額で変わる。あんたはもうちょい少ないと思ってたよ」
あなたは舟に揺られながら、此岸が見えなくなったことに気が付くだろう。
「あれだけ好き勝手やってたのに、随分慕われてたんだねえ」
あなたは仲の良かった人物を、ひとりひとり思い浮かべる。
氷精、河童、天狗、鬼、巫女。大体そんなところだろうか。
「でもやっぱり、一人分くらい多い気がするんだよ。あたいの知らない誰かがいるのかねえ」
あなたは少し戸惑うだろう。大丈夫、それは彼女の思い違いだ。
その一人分はあなたの目の前で、ちゃんと舟を漕ぎ続けている。
「しかし、随分長く生きたもんだ――」
あなたはそれに頷くだろう。長く生きた。神仙くらいにはなれたかもしれない。
だけれどその道は選ばなかった。それを、あなたは誇っていい。
「それに、随分いろんな話をした。憶えてるかい?」
もちろんあなたは憶えている。その殆どは世間話だ。
彼女がサボっているのを見つけては、くだらない話をしに行った。
「あそこの団子屋が美味いだの、人里で起きた事件だの、そういう話ばっかりしたな」
あなたはそれを、じっと思い出している。
霧はとうとう濃くなって、彼女の姿さえおぼろげに見える。
ただ、ただ、彼女の声だけが、三途の川に響いている。
「あんたに言いたいことがあった。そんな気が、ずっとしていたんだがねぇ」
彼女はそう言って、舟を漕ぐ手を止めるだろう。
「何か言おう、あんたに言おう、って思っていたんだけれど」
霧は彼女を覆い隠して、あなたは何も見えなくなる。
「おかしいねぇ、何も言えない。あたいの大事な友人に、かけてやれる言葉が出ない」
あなたは彼女の声が、震えていることに気が付く。
だけれどあなたにも、何も言えはしないだろう。
深い深い霧のなかで、あなたは彼女を見失う。
「あたいたちは、本当に長く生きすぎたんだねえ――」
静まり返った三途の川に、すん、と鼻を啜る音だけがしている。
そのほかに聴こえるのは、舟と水面の奏でる、ちゃぷ、ちゃぷという音だけである。
霧はゆっくりと晴れはじめている。彼女の赤い髪を、あなたは見付けることができる。
春の日差しはあたたかに、あなたたちを照らしはじめるだろう。
そうして彼女は、再び舟を漕ぎだすだろう。
だけれど、今は。
――この霧がすっかり晴れてしまうまでは、彼女のサボりを見逃してほしい。
それがあなたに積める、最後の善行なのだから。
送るとき、複雑でしょうねえ。
何とも言えない感じになりました
誰だろう。華扇かなー?
なかなか雰囲気がありました。