今日もまた記事になることがなかった。もちろんそれはいつものことで、後は何とか自分の知恵を振り絞って、
書くことをひねり出す必要がある。それは正しいことではない。大きな事件や、新しい施設の建設、
著名人からの重大発表などの出来事をいち早く嗅ぎつけ、適切な取材の後に書き上げる。それこそが記事というものだから。
失意の元に我が家へ帰らんとせんとするところ、眼下に広がる森に奇妙なものを見つけた。
そこには踊る人間がいたのだ。
~ダンス・イン・ザ・ウッド~
藤色の髪の少女が踊っている。足をゆっくり開き、片腕をまっすぐに振り上げたかと思えば、すばやく両足を交差させ、
両手をそろえて前に出す。私は引き込まれるようにそこへ向かった。
背の高い木々に囲まれた、かまぼこのような潰れた円形の広場。背の低い草が茂るその場所は、正午の日を余さず受け取り、
明るい緑に輝いていた。正午に森を通過することが少なかったせいか、今日までこんな場所があることは知らなかった。
いや、単純にただの森になど興味がなかったのだ。
少女の足は草に隠れ、時おり彼女が大きく足を上げるときだけ、白いたびと、明るい色の下駄が見える。
見入ってしまう。おかしなことね。踊りは決して上手いものではなくて、目を引くほどきれいな容姿でもないのに。
私が彼女の前に降り立つと、うるさそうに目を少し閉じて、そのまま踊り続けた。額にはもうじっとりと汗が浮かんでいる。
なんと声をかけたらいいのかひと通り悩んだ後、私はやっと正常な判断力を取り戻した。
「阿求さん、こんなところで何をしているのです」
私がそこで初めて、草を踏む以外の音を立てると、彼女は眉間にしわを寄せて歯をむきだした。
“踊っているんだ。邪魔をするな。うるさい。”とでも言いたそうな顔だ。自らの体をかき抱いて背を反らし、
次の瞬間、ばっと腕を開いて、片方を回し始めた。ぶるんぶるんと、風の音でも立ちそうなほど。
驚いてあとずさってしまった。彼女は首を横に向け、まっすぐその先の木を見つめながら、前後にステップを取る。
「こんなところにひとりでいたら、危ないですよ」
返事は無い。代わりに、兎のように草を“だんだん”と踏んだのだ。なんだかおかしくなってしまった。
普段は家から出ずに、ただ筆を取って紙に墨を落とす。そんな彼女が森の中でひとり、踊っているのだ。
彼女は私をにらみつけた。右足、左足、の順で横に移動し、円を描くように両腕を上げ、頭のってっぺんでハンドスラップ。
左足、右足、体を戻して、同じように頭の上で手を叩く。静かな森に、手を叩く音が響き渡る。生き生きとした表情で楽しそうだ。
しばらくその反復横移動とハンドスラップが続いた。私はこのおかしな状況に、徐々に笑いがこみ上げてくる。
いったい阿求さんは何を考えているんだろう。声をかける者を無視するくらい、踊りに集中するときって、どんなとき。
そして私は、今こそまさに記事にするべきことが目の前にあることにやっと気付いた。
だけれど、メモを取るより話を聞くより、ただただ阿求さんを見ていたくて、私は動けなかった。
右足、左足、“パン”。左足、右足、“パン”。繰り返されるその動作が、
幻想の名を冠する場所にあってなお幻想的な光景をつくっている。手を叩くときには背を伸ばし、ほほが大きく持ち上がり、
喜びを体で表しているといった様子だ。私はもう笑うことを止められなかった。何もないけれど、笑うだけだ。
記事の題材なんてもうどうでもいい。
なんておかしいことかしら。彼女は何をしてるのかしら。
いいえ彼女は踊っています。何もおかしくありません。正午に深い森の中、ひとりいるのを除いては。
私が笑い始めると、彼女はこちらに近付いてきた。
左右交互のステップが、斜め前へと変化して、桂馬のように迫りくる。
彼女は私に手を伸ばし、私は笑って手を出して、彼女の意のまま踊りだす。
指を絡めて手を合わせ、彼女の腰に腕を巻く、ここは二人のステージだ。
「よろしくお願いします」
つないだ手を前に突き出す。そして彼女は誘うように足を踏み出した。私の足がついていく。
私達はゆっくりと弧を描き、前へ、後ろへ。長く三日月を描いたところで足を止め、私は阿求さんの顔を覗き込んだ。
薄く笑っている。唇はわずか、角を上げ、目元は緩んでいる。私が混乱しているためにそう見えるのかもしれない。
彼女の白い花飾りが揺れた。風も踊れと言っているのだ。
やがて、阿求さんの顔を見ている余裕はなくなった。四角く足を運ぶ彼女に必死でついていく。
動きがかみ合わなくなり、彼女の腰から腕が外れてしまった。その勢いで彼女は飛び出し、私とつないだ手を高く上げて一回転。
足で弾みをつけて、逆回転して私に抱き付く。びっくりして固まっていると、彼女は私の腕をつかみ、
引っ張って腰にまわした。何も考えずに彼女の背中にぴたりと手の平を貼り付ける。二人でその場でくるりと回り、
動かない彼女の顔と、横に走る三百六十度の背の高い木々を見た。
人のことは言えないが、彼女の踊りはずいぶんとぎこちない。私もひどく不恰好な動きをしているから、
もし誰かが見ていたら、眉をひそめることだろう。そう考えるとおかしくてたまらなくなった。
おかしくておかしくて、悩んでいたのがバカらしくなった。そもそも何を悩んでいたんだっけ。
次々変わる景色のせいで、考える暇がないわ。
「わからない。教えて、どうしてここで踊っているの」
やはり返事は無い。彼女は急に私から離れた。突然だったので、前につんのめってしまった。顔を上げて彼女を見ると、
腰に手を当ててつま先で地面を突いている。私が彼女に歩み寄って手を伸ばすと、彼女は左にするりと避けた。
やり場のない手を下ろして、左に一歩スライドすると、彼女は右に一歩避ける。私が右に足を出せば、
彼女は左に足を出す。私が左、彼女が右、右、左、左、右。しばらくそれを繰り返し、もう一度手を伸ばす。
彼女はどこか誘うような笑みで――実際私は何かを感じ、鼓動が速まったのだ――手を伸ばし、回りだす。
私も慌てて回りだし、私たちは互いの手を中心に、草の宇宙を巡り始める。
「何をしてるの」
高くて、弾んだ声が、静かな森に染み渡る。阿求さんは声が聞こえても変わらず踊り続けるが、私は声の方向に顔を向ける。
たまに見る、虫の妖怪だ。彼女は興味津々で私たちの方に近付いてくる。その目に好奇心の光を宿し、
背の低い草を音もなく踏みしめて。
阿求さんが、動きの鈍くなった私から離れて、ぴっと片腕を真上に上げ、手の平を反らした。
そのまま反対の手を腰にあて、ポーズをとる。私は急いで彼女を追った。
「踊っているの」
それだけ答えてステップを踏む。私のおぼつかない足取りに、虫の妖怪は笑いを抑えられなかったようだ。
“くっく”と息が漏れるのが聞こえる。だけれど今は、目の前に集中するときである。
目を閉じて足を交差させ、ぴたっと止まる阿求さん。私がもう一度手を差し伸べると、彼女の周りに沢山の光が揺れた。
素早く瞬く光は弱く、ゆっくり瞬く光は強い。周波数の逆数に比例するそれは、私がその性質を聞き知っているせいか、
心に安穏をもたらす。自然の色に囲まれ、自然の音に囲まれ、自然の光に囲まれる。不自然な状況の中で、
しかし私はそれを楽しんでいた。
「うわあ、うわあ」
空の高くから、羽ばたきと元気な声が聞こえる。鰻屋台の女将さんだ。阿求さんはうるさそうにそちらをにらんだが、
すぐに踊りに戻っていった。
「ねえねえ、何やってるの」
「踊ってるんだって。楽しそうでしょ」
“ふふっ”と笑い合う二人。その笑い声を聞いて、倒れるように、阿求さんが私の腕にずっしりと背中を預けてきた
次に体をぐっと反らす。髪が揺れて、私はその姿を“なんて美しいだ”と感じる。そして体を起こした彼女と二人、歩き出す。
観客二人、演者が二人の舞踏会が始まった。でも、すぐに観客はいなくなるのだ。
「私たちも踊りましょう」
「そうしましょう」
蛍は川辺に踊るのに、今は森で踊ってる。雀は空に踊るのに、今は森で踊ってる。重みのない虫と鳥は、漂う様に草を踏んだ。
やがて鳥は歌いだし、音楽はこの、森の中の小さな草むらを包む。三拍子の響き渡る声。その色は楽しそうで、
その律動は体を奮わせた。歌を聴いて、阿求さんが静かに口を開く。“犬が咬んでも、蜂が刺しても、悲しくても、
好きなものを思い浮かべれば、気分は悪くない。”女将さんはそう歌っているのだと。
私には舶来の言葉はわからないが、なるほど言われれば、この歌はそのようであるかもしれない。そう感じられる。
歌に耳を傾け、踊りに足を集中させている折、ふと擦りあげるような音が耳を刺す。
「歌にはそれだけで価値がある。だけれど演奏に出会ったとき、その価値はより一層引き出されることになる」
バイオリンを携えた霊は、無表情に言葉と音を紡ぐ。歌に旋律が絡みあう。三拍子の曲の中で、弦の音色は不安定から始まり、
安定し、また心を脅かし、落ち着かせた。即興演奏音楽全般に言える、何とも言えぬ心地よさに引き込まれる。
そしてミスティアの声の出と、弦の音の出がぱちりと重なり、快感は増すばかりだ。即興演奏の音楽には、さらにもう一つある。
奏者が笑っているのだ。奏者は自身の音と他者の音が溶け合ったとき、至上の悦びを得られる。
あまりの快さに零れた奏者の笑みを見るのも、また一つの醍醐味である。
とろけるような調和の中で、私たちは踊り続ける。阿求さんの額には汗が滲んでいるが、その踊りは一向に衰えない。
腕をぎゅっと引かれる。彼女の力がこんなに強いのは、明らかにおかしい。それでも今は、そんなことより、踊るのだ。
私を軸に彼女が回る、彼女を軸に私が回る。繰り返して回りながら、私たち二人は弧を描いて進んでいく。
私の足の間に阿求さんの足が入る。雰囲気に慣れた私は、距離が近付き、急速に恥ずかしくなってきた。
けれど、彼女は全く意に介さないようだ。ぴたりと止まったそのときに、正面の木の陰から妖怪が飛び出す。
白面金毛、なるほど森には獣が似合う。足を上げたかと思うと、宙返り、回転、跳ねる。頭だけで逆立ちし、大回転。
そして手だけを地に突いたと思ったら、開脚し、手を片方ずつ上げて足をくぐらせる。
およそ音楽に合わない動きだったが、不調和こそこの空間の調和である。
「油揚げだけが生に潤滑を与えるのではない」
「はあ」
狐は手だけで体を支え、しゃちほこのようにぴたりと止まり、虫の妖怪の感嘆の声が漏れた。
彼女達が止まっても、音楽は止まらない。止まらぬ音楽に震える空気に、靄のようなものが走る。
ただちにそれは、強い妖気となって実体化する。
「こぶを預かった鬼はね、踊りのうまい爺さんが来るのをずっと待ってたんだ」
鬼が現れるとは、もしかしてこの不可思議も彼女の仕業だったのだろうか。いや、きっと彼女も誘われたのだ。
私には断定できた。何故かはわからない、だがそれがわかることだけはわかるのだ。酒を一息にあおり、手を開けば、
次々に集まってくる妖怪の気配。そして曲はいつの間にか変わっていた。“木星や火星の春がどのようか、私に見せて。”
阿求さんが歌うように言う。この歌は人間のものであろう。享楽について、妖怪は人間に勝てるようで勝てない。
そんな遠くの季節を夢見ることができるなど――もちろん私にはそういったことは無意味だった――少し羨ましくもある。
その後、次から次へと妖怪が踊りに加わった。空気が熱くなり、はしゃぎ声はますます大きく、足音はますます高くなっていく。
この森の小さな草原に、妖怪がひしめいて踊っている。地底の蜘蛛に、お山の天狗。竹林兎に、毒人形。
阿求さんと私が横走りすると、皆道を開け、しかしすぐに自分達の踊りに戻る。妖怪回り、木々が回り、
私と阿求さんは回るのだ。
けれど楽しい時間は突然終わる。この陽気な舞踏会を、破壊する者がやって来た。
「妖怪共が楽しそうね」
攻撃的な態度を隠そうともせず、今のこの場の誰もの敵は、不敵に笑う。なんとなく予感はしていた。妖怪あるところ、巫女あり。
この紅白の人影、間違いない。
「なんと禍々しい光景でしょう。百足の交尾よりおぞましい」
いや、緑色の方もいた。演奏は続く、歌も続く。しかし、踊りはぴたりとやんで、百組の目が敵を射抜く。
邪魔はさせない。この至上の宴に、巫女は呼ばれていないのだ。歌が止み、旋律が変化した。新しい曲だ。
どの妖怪の力なのか、頭の中に情景が浮かんでくる。
「貴方がくれたのは白い猫。私が欲しかったのは黒い猫。だからもう、遊んであげない」
巫女達に言い放つ。阿求さんは私の手を離した。きっと行けと言っているのだ。巫女達は笑う、笑う。
「頭がおかしくなったのかしら」
「いやですね、妖怪は頭がおかしい。それだけです」
この静かな森の中を賑やかす妖怪達の舞踏会、邪魔する巫女は馬に蹴られる。私達は沸きあがった。あの不快な人間共を、
今すぐ打ち落とさんと。
「霊夢さん、どちらが多くの妖怪を殺せるか競争です」
「ええ、いいわよ」
「首をはねたら加点は二、トランスアキシャル面を切断したら加点は三。これでどうです」
「乗った。ふふ、妖怪をくびり殺すことに長けているのは私か、貴方か。これではっきりするわね」
「ええ、楽しみましょう」
なんてことなの。こんな奴らが“退治”などと言っている。どちらが退治されるべきなのか。
「さあ行くわよ早苗。指先からゆっくり挽肉にされたいのは誰」
「うふ、ただちに死ねるとは思わないことです。苦しみ、足掻き、悶える声を聴かせて下さい」
「妖怪を甘く見るな。叩き殺す。皮を剥がれ風に吹かれる貴方達の姿が、私には見えるわ」
物騒な言葉を口にしつつ、しかし彼女達も私達も、カードを手にするのだった。
~~
書いて置かねばなるまい。私は永遠亭の薬を服用し、身を賭して森へ行った。人間の敵である妖精の、
その知能の程度をより正確に計るためだ。森の中に開けた草地を見つけた私は、そこで踊り続け、妖精の出現を待った。
しかし、集まってきたのは妖怪であった。彼女らは森の中で一人踊る私を警戒せず、なんと自らも踊り始めたのだ。
結論を一文にまとめる。
“妖怪とは一見賢そうな者も、その実まるで話にならないほど愚かしい。なればこそ、妖怪は居場所を失ったのだ。”
この調査結果から言えのは、いざとなれば、妖怪を一網打尽にすることは容易であるということだ。ただ、一人の人間にとって妖怪が脅威であるのは変わらない。
期待していたのと違う結果が得られたが、そこそこの収穫だった。
一度筆を置いて、あらためて見れば、少々言い過ぎであったかもしれない。
だが、妖怪の――それも普段から自身が賢いと吹聴するような者も含め――集って踊る様は、本当に呆れ果てるものなのだ。
書くことをひねり出す必要がある。それは正しいことではない。大きな事件や、新しい施設の建設、
著名人からの重大発表などの出来事をいち早く嗅ぎつけ、適切な取材の後に書き上げる。それこそが記事というものだから。
失意の元に我が家へ帰らんとせんとするところ、眼下に広がる森に奇妙なものを見つけた。
そこには踊る人間がいたのだ。
~ダンス・イン・ザ・ウッド~
藤色の髪の少女が踊っている。足をゆっくり開き、片腕をまっすぐに振り上げたかと思えば、すばやく両足を交差させ、
両手をそろえて前に出す。私は引き込まれるようにそこへ向かった。
背の高い木々に囲まれた、かまぼこのような潰れた円形の広場。背の低い草が茂るその場所は、正午の日を余さず受け取り、
明るい緑に輝いていた。正午に森を通過することが少なかったせいか、今日までこんな場所があることは知らなかった。
いや、単純にただの森になど興味がなかったのだ。
少女の足は草に隠れ、時おり彼女が大きく足を上げるときだけ、白いたびと、明るい色の下駄が見える。
見入ってしまう。おかしなことね。踊りは決して上手いものではなくて、目を引くほどきれいな容姿でもないのに。
私が彼女の前に降り立つと、うるさそうに目を少し閉じて、そのまま踊り続けた。額にはもうじっとりと汗が浮かんでいる。
なんと声をかけたらいいのかひと通り悩んだ後、私はやっと正常な判断力を取り戻した。
「阿求さん、こんなところで何をしているのです」
私がそこで初めて、草を踏む以外の音を立てると、彼女は眉間にしわを寄せて歯をむきだした。
“踊っているんだ。邪魔をするな。うるさい。”とでも言いたそうな顔だ。自らの体をかき抱いて背を反らし、
次の瞬間、ばっと腕を開いて、片方を回し始めた。ぶるんぶるんと、風の音でも立ちそうなほど。
驚いてあとずさってしまった。彼女は首を横に向け、まっすぐその先の木を見つめながら、前後にステップを取る。
「こんなところにひとりでいたら、危ないですよ」
返事は無い。代わりに、兎のように草を“だんだん”と踏んだのだ。なんだかおかしくなってしまった。
普段は家から出ずに、ただ筆を取って紙に墨を落とす。そんな彼女が森の中でひとり、踊っているのだ。
彼女は私をにらみつけた。右足、左足、の順で横に移動し、円を描くように両腕を上げ、頭のってっぺんでハンドスラップ。
左足、右足、体を戻して、同じように頭の上で手を叩く。静かな森に、手を叩く音が響き渡る。生き生きとした表情で楽しそうだ。
しばらくその反復横移動とハンドスラップが続いた。私はこのおかしな状況に、徐々に笑いがこみ上げてくる。
いったい阿求さんは何を考えているんだろう。声をかける者を無視するくらい、踊りに集中するときって、どんなとき。
そして私は、今こそまさに記事にするべきことが目の前にあることにやっと気付いた。
だけれど、メモを取るより話を聞くより、ただただ阿求さんを見ていたくて、私は動けなかった。
右足、左足、“パン”。左足、右足、“パン”。繰り返されるその動作が、
幻想の名を冠する場所にあってなお幻想的な光景をつくっている。手を叩くときには背を伸ばし、ほほが大きく持ち上がり、
喜びを体で表しているといった様子だ。私はもう笑うことを止められなかった。何もないけれど、笑うだけだ。
記事の題材なんてもうどうでもいい。
なんておかしいことかしら。彼女は何をしてるのかしら。
いいえ彼女は踊っています。何もおかしくありません。正午に深い森の中、ひとりいるのを除いては。
私が笑い始めると、彼女はこちらに近付いてきた。
左右交互のステップが、斜め前へと変化して、桂馬のように迫りくる。
彼女は私に手を伸ばし、私は笑って手を出して、彼女の意のまま踊りだす。
指を絡めて手を合わせ、彼女の腰に腕を巻く、ここは二人のステージだ。
「よろしくお願いします」
つないだ手を前に突き出す。そして彼女は誘うように足を踏み出した。私の足がついていく。
私達はゆっくりと弧を描き、前へ、後ろへ。長く三日月を描いたところで足を止め、私は阿求さんの顔を覗き込んだ。
薄く笑っている。唇はわずか、角を上げ、目元は緩んでいる。私が混乱しているためにそう見えるのかもしれない。
彼女の白い花飾りが揺れた。風も踊れと言っているのだ。
やがて、阿求さんの顔を見ている余裕はなくなった。四角く足を運ぶ彼女に必死でついていく。
動きがかみ合わなくなり、彼女の腰から腕が外れてしまった。その勢いで彼女は飛び出し、私とつないだ手を高く上げて一回転。
足で弾みをつけて、逆回転して私に抱き付く。びっくりして固まっていると、彼女は私の腕をつかみ、
引っ張って腰にまわした。何も考えずに彼女の背中にぴたりと手の平を貼り付ける。二人でその場でくるりと回り、
動かない彼女の顔と、横に走る三百六十度の背の高い木々を見た。
人のことは言えないが、彼女の踊りはずいぶんとぎこちない。私もひどく不恰好な動きをしているから、
もし誰かが見ていたら、眉をひそめることだろう。そう考えるとおかしくてたまらなくなった。
おかしくておかしくて、悩んでいたのがバカらしくなった。そもそも何を悩んでいたんだっけ。
次々変わる景色のせいで、考える暇がないわ。
「わからない。教えて、どうしてここで踊っているの」
やはり返事は無い。彼女は急に私から離れた。突然だったので、前につんのめってしまった。顔を上げて彼女を見ると、
腰に手を当ててつま先で地面を突いている。私が彼女に歩み寄って手を伸ばすと、彼女は左にするりと避けた。
やり場のない手を下ろして、左に一歩スライドすると、彼女は右に一歩避ける。私が右に足を出せば、
彼女は左に足を出す。私が左、彼女が右、右、左、左、右。しばらくそれを繰り返し、もう一度手を伸ばす。
彼女はどこか誘うような笑みで――実際私は何かを感じ、鼓動が速まったのだ――手を伸ばし、回りだす。
私も慌てて回りだし、私たちは互いの手を中心に、草の宇宙を巡り始める。
「何をしてるの」
高くて、弾んだ声が、静かな森に染み渡る。阿求さんは声が聞こえても変わらず踊り続けるが、私は声の方向に顔を向ける。
たまに見る、虫の妖怪だ。彼女は興味津々で私たちの方に近付いてくる。その目に好奇心の光を宿し、
背の低い草を音もなく踏みしめて。
阿求さんが、動きの鈍くなった私から離れて、ぴっと片腕を真上に上げ、手の平を反らした。
そのまま反対の手を腰にあて、ポーズをとる。私は急いで彼女を追った。
「踊っているの」
それだけ答えてステップを踏む。私のおぼつかない足取りに、虫の妖怪は笑いを抑えられなかったようだ。
“くっく”と息が漏れるのが聞こえる。だけれど今は、目の前に集中するときである。
目を閉じて足を交差させ、ぴたっと止まる阿求さん。私がもう一度手を差し伸べると、彼女の周りに沢山の光が揺れた。
素早く瞬く光は弱く、ゆっくり瞬く光は強い。周波数の逆数に比例するそれは、私がその性質を聞き知っているせいか、
心に安穏をもたらす。自然の色に囲まれ、自然の音に囲まれ、自然の光に囲まれる。不自然な状況の中で、
しかし私はそれを楽しんでいた。
「うわあ、うわあ」
空の高くから、羽ばたきと元気な声が聞こえる。鰻屋台の女将さんだ。阿求さんはうるさそうにそちらをにらんだが、
すぐに踊りに戻っていった。
「ねえねえ、何やってるの」
「踊ってるんだって。楽しそうでしょ」
“ふふっ”と笑い合う二人。その笑い声を聞いて、倒れるように、阿求さんが私の腕にずっしりと背中を預けてきた
次に体をぐっと反らす。髪が揺れて、私はその姿を“なんて美しいだ”と感じる。そして体を起こした彼女と二人、歩き出す。
観客二人、演者が二人の舞踏会が始まった。でも、すぐに観客はいなくなるのだ。
「私たちも踊りましょう」
「そうしましょう」
蛍は川辺に踊るのに、今は森で踊ってる。雀は空に踊るのに、今は森で踊ってる。重みのない虫と鳥は、漂う様に草を踏んだ。
やがて鳥は歌いだし、音楽はこの、森の中の小さな草むらを包む。三拍子の響き渡る声。その色は楽しそうで、
その律動は体を奮わせた。歌を聴いて、阿求さんが静かに口を開く。“犬が咬んでも、蜂が刺しても、悲しくても、
好きなものを思い浮かべれば、気分は悪くない。”女将さんはそう歌っているのだと。
私には舶来の言葉はわからないが、なるほど言われれば、この歌はそのようであるかもしれない。そう感じられる。
歌に耳を傾け、踊りに足を集中させている折、ふと擦りあげるような音が耳を刺す。
「歌にはそれだけで価値がある。だけれど演奏に出会ったとき、その価値はより一層引き出されることになる」
バイオリンを携えた霊は、無表情に言葉と音を紡ぐ。歌に旋律が絡みあう。三拍子の曲の中で、弦の音色は不安定から始まり、
安定し、また心を脅かし、落ち着かせた。即興演奏音楽全般に言える、何とも言えぬ心地よさに引き込まれる。
そしてミスティアの声の出と、弦の音の出がぱちりと重なり、快感は増すばかりだ。即興演奏の音楽には、さらにもう一つある。
奏者が笑っているのだ。奏者は自身の音と他者の音が溶け合ったとき、至上の悦びを得られる。
あまりの快さに零れた奏者の笑みを見るのも、また一つの醍醐味である。
とろけるような調和の中で、私たちは踊り続ける。阿求さんの額には汗が滲んでいるが、その踊りは一向に衰えない。
腕をぎゅっと引かれる。彼女の力がこんなに強いのは、明らかにおかしい。それでも今は、そんなことより、踊るのだ。
私を軸に彼女が回る、彼女を軸に私が回る。繰り返して回りながら、私たち二人は弧を描いて進んでいく。
私の足の間に阿求さんの足が入る。雰囲気に慣れた私は、距離が近付き、急速に恥ずかしくなってきた。
けれど、彼女は全く意に介さないようだ。ぴたりと止まったそのときに、正面の木の陰から妖怪が飛び出す。
白面金毛、なるほど森には獣が似合う。足を上げたかと思うと、宙返り、回転、跳ねる。頭だけで逆立ちし、大回転。
そして手だけを地に突いたと思ったら、開脚し、手を片方ずつ上げて足をくぐらせる。
およそ音楽に合わない動きだったが、不調和こそこの空間の調和である。
「油揚げだけが生に潤滑を与えるのではない」
「はあ」
狐は手だけで体を支え、しゃちほこのようにぴたりと止まり、虫の妖怪の感嘆の声が漏れた。
彼女達が止まっても、音楽は止まらない。止まらぬ音楽に震える空気に、靄のようなものが走る。
ただちにそれは、強い妖気となって実体化する。
「こぶを預かった鬼はね、踊りのうまい爺さんが来るのをずっと待ってたんだ」
鬼が現れるとは、もしかしてこの不可思議も彼女の仕業だったのだろうか。いや、きっと彼女も誘われたのだ。
私には断定できた。何故かはわからない、だがそれがわかることだけはわかるのだ。酒を一息にあおり、手を開けば、
次々に集まってくる妖怪の気配。そして曲はいつの間にか変わっていた。“木星や火星の春がどのようか、私に見せて。”
阿求さんが歌うように言う。この歌は人間のものであろう。享楽について、妖怪は人間に勝てるようで勝てない。
そんな遠くの季節を夢見ることができるなど――もちろん私にはそういったことは無意味だった――少し羨ましくもある。
その後、次から次へと妖怪が踊りに加わった。空気が熱くなり、はしゃぎ声はますます大きく、足音はますます高くなっていく。
この森の小さな草原に、妖怪がひしめいて踊っている。地底の蜘蛛に、お山の天狗。竹林兎に、毒人形。
阿求さんと私が横走りすると、皆道を開け、しかしすぐに自分達の踊りに戻る。妖怪回り、木々が回り、
私と阿求さんは回るのだ。
けれど楽しい時間は突然終わる。この陽気な舞踏会を、破壊する者がやって来た。
「妖怪共が楽しそうね」
攻撃的な態度を隠そうともせず、今のこの場の誰もの敵は、不敵に笑う。なんとなく予感はしていた。妖怪あるところ、巫女あり。
この紅白の人影、間違いない。
「なんと禍々しい光景でしょう。百足の交尾よりおぞましい」
いや、緑色の方もいた。演奏は続く、歌も続く。しかし、踊りはぴたりとやんで、百組の目が敵を射抜く。
邪魔はさせない。この至上の宴に、巫女は呼ばれていないのだ。歌が止み、旋律が変化した。新しい曲だ。
どの妖怪の力なのか、頭の中に情景が浮かんでくる。
「貴方がくれたのは白い猫。私が欲しかったのは黒い猫。だからもう、遊んであげない」
巫女達に言い放つ。阿求さんは私の手を離した。きっと行けと言っているのだ。巫女達は笑う、笑う。
「頭がおかしくなったのかしら」
「いやですね、妖怪は頭がおかしい。それだけです」
この静かな森の中を賑やかす妖怪達の舞踏会、邪魔する巫女は馬に蹴られる。私達は沸きあがった。あの不快な人間共を、
今すぐ打ち落とさんと。
「霊夢さん、どちらが多くの妖怪を殺せるか競争です」
「ええ、いいわよ」
「首をはねたら加点は二、トランスアキシャル面を切断したら加点は三。これでどうです」
「乗った。ふふ、妖怪をくびり殺すことに長けているのは私か、貴方か。これではっきりするわね」
「ええ、楽しみましょう」
なんてことなの。こんな奴らが“退治”などと言っている。どちらが退治されるべきなのか。
「さあ行くわよ早苗。指先からゆっくり挽肉にされたいのは誰」
「うふ、ただちに死ねるとは思わないことです。苦しみ、足掻き、悶える声を聴かせて下さい」
「妖怪を甘く見るな。叩き殺す。皮を剥がれ風に吹かれる貴方達の姿が、私には見えるわ」
物騒な言葉を口にしつつ、しかし彼女達も私達も、カードを手にするのだった。
~~
書いて置かねばなるまい。私は永遠亭の薬を服用し、身を賭して森へ行った。人間の敵である妖精の、
その知能の程度をより正確に計るためだ。森の中に開けた草地を見つけた私は、そこで踊り続け、妖精の出現を待った。
しかし、集まってきたのは妖怪であった。彼女らは森の中で一人踊る私を警戒せず、なんと自らも踊り始めたのだ。
結論を一文にまとめる。
“妖怪とは一見賢そうな者も、その実まるで話にならないほど愚かしい。なればこそ、妖怪は居場所を失ったのだ。”
この調査結果から言えのは、いざとなれば、妖怪を一網打尽にすることは容易であるということだ。ただ、一人の人間にとって妖怪が脅威であるのは変わらない。
期待していたのと違う結果が得られたが、そこそこの収穫だった。
一度筆を置いて、あらためて見れば、少々言い過ぎであったかもしれない。
だが、妖怪の――それも普段から自身が賢いと吹聴するような者も含め――集って踊る様は、本当に呆れ果てるものなのだ。
それにしても、妖怪を輪切りにするだなんて一体どんな技なんでしょう。
詩のような文章に引き込まれました。結末が無慈悲すぎて悲しいが、これはこれで面白い。
だんだんと盛り上がる過程や、突如中断されてしまうさま、そして無慈悲なラストなどで心を動かされました。