ざあっ、という音で私は目を覚ました。寝惚け眼で窓の外を見ると、どうやら今日も雨が降っている様子である。ここ五日ほど、幻想郷は雨続きであった。天狗の新聞はいつもより一週間ほど早い梅雨入りは外界の影響だどうだと騒ぎ立てているが、私のような普通の人間にとっては、そんなことは正直どうでもよかった。それよりもずっと知りたいことは、この雨がいつ降りやんでくれるのか、という一点だけだ。
誤解の無いように言っておくと、私は雨は嫌いではないのだ。もちろん好きなわけでもない。しかし、こうも長い間雨が降り続くと、いい加減に鬱陶しさを覚えるのが人間の性というものである。農業に携わる人里の人間たちにとっては恵みの雨なのかもしれないが、こんな辺鄙な場所に住んでいる身としては、不便なことこの上ない。それに、そろそろお天道様の顔も見たいところだ。朝焼けを浴びながら幻想郷の上空を飛ぶよりも気持ちいいことはない。毎日様々な出来事が起こる幻想郷の中でも、格別の一時であると私は思っていた。
小さなあくびをして、軽く伸びをする。どうやらいつもより少し寝過ごしてしまったようで、私の胃は朝食をまだかまだかと待ち構えている様だ。さてその期待に応えてやるかと寝室を出て台所に向かう。しかし、ここで思ってもいなかった事態が私を襲った。
「……げっ」
私の栄養源である米が切れていたのである。おかずもない。そういえばここの所あっちへふらふらこっちへふらふらしていて、食糧の残量を確認していなかった。私としたことが、迂闊なミスである。とはいっても、食べられるもの、という括りだけで言うのなら、この間アリスにもらったパイが残っている。ならそれを食えばいいじゃないか、と思うかもしれないが、とんでもない。朝には米と味噌汁を食べる。これは鉄の掟であろう。私は今まで生きてきてたったの十三枚しかパンを食べたことが無い程に和食派だ。朝にパンなど食べてしまっては、和食派としての面子が丸つぶれなのだ。
「とはいっても、なぁ」
食料が無いことは紛れもなく現実である。ならば買い出しに行かねばならないということは自明の理であるが、外はあいにくの雨。空を飛んでいくにしても濡れてしまうし、傘を差して歩いていくしかない。その事が、買い出しに行くことをとても面倒臭いことに思わせていた。普段空ばかり飛んでいる人妖は、地に足を付けて歩くことを酷く嫌う。かくいう私もその一人であった。
「うーむ」
私の心の天秤は、ゆらゆらと何度も上下に揺れて、最終的に片側へと傾いた。
「よし、買いに行こう」
和食に対する執着が雨への倦怠感を上回った結果である。私って案外頑固なんだなぁと自分で自分に驚きながらも、長い間使っていなかった傘を引っ張り出し、家の軒先に立った。空は相変わらず機嫌を直してはくれず、どんよりと曇った灰色から雨の粒を降らせている。あんたも大概頑固だぜ、と一人毒づいて、人里への短いながらも険しい道のりへと一歩を踏み出した。
――その十数分後のことである。私は、一体の地蔵と共に雨やみを待っていた。いや、途方に暮れていた、と言い直したほうが適切である。先程傘を持って行ったじゃないか、と疑問に思うかもしれない。しかし、このような状況に陥っているのにはいわゆる不可抗力というものが働いていた。長い間使っていなかったおんぼろ傘は、十分間ほど雨粒を受け止めただけでその機能を発揮しなくなった。家に帰るにも幾分かの距離が開いてしまっていて、にわかに強さを増してきた雨の中では、大変な苦労を強いられることが目に見えている。しかし人里へ向かうにも傘が無い。仕方がないので、こうして近くにあった地蔵のお堂で雨宿りをさせてもらっているという訳である。
狭いお堂の中には、当然ながら私の他に誰もいない。ただ、物言わぬ地蔵が表情を変えずにじっとこちらを見つめて来るだけである。魔法の森近くにあるお堂に参拝するものなどいるのかと思ったのだが、意外に中は小奇麗に整えられていて、寂れた雰囲気は感じさせない。供え物も置かれているところを見ると、人里の誰かが定期的に世話をしに来ているのかもしれない。以前、地蔵関係で痛い目に遭った私としては、地蔵はなるべく敬遠したい対象であったのだが、近くでまじまじと見てみると、なかなかどうして愛嬌のある顔をしていた。どうせすることがあるわけではないので、なんとなしに話しかけてみる。
「信仰で力を増すのなら、この雨を止ます御利益をくれんかねぇ」
自分の馬鹿な考えに思わず苦笑する。私は神仏の類を信仰などはしていないし、むしろ対極に位置する魔に携わる者である。こういう時にだけ力を借りようとするのは虫の良い話だというのは分かっているのだが、困ったときにはついつい神頼みとなってしまうのは仕方のないことだろう。とはいえこんなことを考えていてはまた閻魔に叱られるなぁ、と考えたところで、そういえばあの閻魔も地蔵出身だったな、ということを思い出した。となると、この地蔵も将来信仰を集めればあんな可愛げのない堅物閻魔になるのだろうか。ぞっとしない話だ。
「あんたはあんな堅物になるなよ」
微妙に嫌だったので釘を刺しておいた。しかし、地蔵が口を利く訳もなく、少し時間が経つと沈黙が場を支配しはじめた。機嫌を直すそぶりを見せない空を恨めしく思いながらも、私は何をするわけでもなく雨粒が地面に落ちる音を聞いていた。
ぽたっ、ぽたっ。
ぽたっ、ぽたっ。
お堂の屋根から滴り落ちる雨粒が規則正しく地面を叩く音を、じっと耳を澄ませて聞いていると、うつらうつらと、思わず船をこぎそうになる。いかん、と一瞬は思ったが、起きていても何かすることがあるわけでもないと思い直し、暫しの間眠気に身を任せることにした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『……は……』
『……は……らんか……』
「ん……」
なにかが聞こえて、私は目を覚ました。どれくらい眠っていたのかはわからないが、相変わらず雨は降り続いているようである。はぁ、と一つ溜息を吐き、これからどうしようかと考えをめぐらせようとしたところで、私はその存在に気が付いた。
「傘はいらんかね」
水色の髪の少女であった。特徴的なオッドアイ。愛嬌のある丸顔。茄子色をした傘。下駄。ここまで情報がそろっているならば、自ずとその正体は分かってくる。私はもう一度はぁ、と溜息を吐き、その少女――愉快な忘れ傘、多々良小傘に、素朴な疑問をぶつけた。
「……何やってるんだ。人を驚かせるのは止めたのか、唐傘妖怪」
「って、あれ。あの時の人間。また会うなんて奇遇ね」
「気付かなかったんかい……」
話していて気の抜けるやつだ。思いきり呆れた目線を向けるも、目の前の妖怪は全く意に介していない様子である。異変解決時に二回も退治してやったというのに、図太いやつだと思いながらも、図太くなければ幻想郷で暮らしていくなど不可能だろうなと思いなおして、とりあえず相手の意図を確認してみることにした。
「で、何をやってるんだ。こんにゃくで驚かせる作戦はやめたのか」
「あ、そうだ。こんにゃく使っても全然効果なかったじゃない。金髪の子供に使ったら食べられたし」
「……そいつは多分人間じゃなくて妖怪だ」
「そうなの?まあそれは置いておいて、私が今やってることね」
「ああ」
「貴女みたいに雨に降られた人間に傘を貸すぼらんてぃあ。あなたもどう?」
「へっ、ボランティア……?」
思わず変な声が出た。それは、目の前の妖怪のイメージとボランティアなどという殊勝なことが、イコールで結ぶにはあまりにもかけ離れ過ぎていたからである。念を押すように、もう一度確認する。
「お前がボランティア……?熱はないよな」
「今私のこと馬鹿にしたでしょ。私にだっていろいろ考えがあるんだから」
「そ、そうか……」
「それで、傘借りるの?借りないの?あなたみたいなの、他にもいるかもしれないから、探しに行きたいんだけど」
「あ、ああ。それじゃ借りるぜ。渡りに船ってやつだ」
「それじゃ、はい」
唐傘妖怪は、差している傘の中にスペースを少し作り、そこに入れという風に促している。貸してくれるんじゃないのかよ、と思ったが、口には出さないでおいた。それにしても……。
「相変わらず古臭い傘だな」
「なんと、わちきが時代遅れともうすか」
「そのキャラ作ってるだろ。まあそれについてはとやかく言わないぜ、貸してもらう側だしな」
「しくしく、あの巫女と同じようなことを言われた。それで、どこへ行くのかしら」
「人里に。食料が切れたもんでな」
「了解。それじゃ、行きましょ」
こちらの意向を伝え、人里へと歩き出す。とりあえず無言なのもなんなので、少し話題を振ってみる。
「多々良、だよな」
「うんにゃ、多々良小傘。多々良なんて堅苦しいから小傘でいいよ」
「私は霧雨魔理沙だ。魔理沙で良いぜ。じゃあ、小傘。どうしてこんなことを始めたんだ?人を驚かせないとひもじいだとか言ってた気がするんだが」
「ああ、それね。話してもいいけど、少し長くなるよ?」
「別に構わないぜ。人里まで大分間があるしな」
「そう。一つ聞くけど、文々。新聞っていう新聞は読んでいるかしら?」
「射命丸の出してる新聞のことか?たまーに読んでるぜ」
「私が取材された時の新聞は読んだことない?『使い古した道具の未来は?』って題の」
「んー……」
昔の記憶を呼び起こす。とはいっても、文々。新聞を読んだことなど両手の指で数えられる程度しかないので、すぐに終わる作業である。
「無いなぁ。曖昧だけど」
「そ。まあ、以前の話だけれど、私はベビーシッターとやらをしてたのよ」
ぶっ。思わず噴き出した。
「っくく……お前がベビーシッター?ぷぷっ……」
「……まあ、笑われるとは思ってたわ。とにかく、ベビーシッターをしてたの。始まりは些細なことだったんだけどね」
小傘はベビーシッターになった経緯を話した。外界のベビーシッター――おそらくメリー・ポピンズのことだろう。パチュリーの図書館に本が置いていた。――に影響されたらしい。安直で間抜けだなあ。
「まあ、そういう訳でベビーシッターになったんだけど、これが大変でねぇ。子供をあやそうと思ったら泣かれるし、笑わせようと思ったら泣かれるし、何度かそんなことを繰り返してたら、終いには指名手配までされて」
「いや、それはお前の行動に問題がある」
そりゃそんな傘じゃあやすのも笑わせるのも無理だろう。指名手配されたのも当然の処置というべきか。
「それで一悶着あって、人里の外で途方に暮れてたのよ。自分にはベビーシッターは向いてないんじゃないか、って」
「初めにわからなかったのか」
こいつはやっぱりどこか抜けている。
「そしたら、人里の門の方から一組の親子が出てきたのね。じっと見てると、こちらに向かってくる様子だった」
「説教か?」
「私も、何か文句を言われるんじゃないかって一人で思ってたんだけどね。その子をよく見てみると、見覚えがある子だったのよ」
「?」
「私があやしたり、笑わせようとした子はほとんど泣いちゃったんだけど、その子だけは、あやしたときに笑ってくれたのよ。だから印象に残ってたの」
「そいつは物好きな子供だな」
「……まあ、否定はしないわ。それで、親御さんの方が近寄ってきたの。私は一人でびくびくしてたんだけど、かけられたのは優しい言葉だったわ」
「へえ、なんて?」
「『ありがとう、この子を笑わせてくれて』って。その子、普段はあんまり笑わない子だったらしいの。私があやした時も、大泣きして困ってたらしいわ」
「親としては子供が笑わないと不安になるだろうな」
「まさにそれね。それで、その時私があやすと、その子が嘘みたいに泣き止んで笑ったの」
「嘘みたいな話だな」
「まあ、私も思わず驚いちゃったんだけど。泣かれたことはあっても泣き止んだことはなかったから。それで、私にお礼を言おうと思ってたら、私が追手から逃げるためにとっとと退散しちゃったから、結局言えずじまいだったらしいわ」
「お前、指名手配されてもベビーシッターもどきをしてたのか……」
「そんな簡単に諦められなかったのよ。まあ、親御さんにもそこは釘を刺されたんだけど」
「そりゃな」
「『あなたはベビーシッターには向いていないけど、人助けにはとっても向いていると思うわ。そんなに優しい心を持ってるんだから』って。何だか照れちゃって、お礼を言ってすぐに逃げちゃったわ」
「なるほど、それでか」
合点がいった。確かにこいつは妖怪にしては珍しく人食いではないし、特別怖い能力をもっているわけでもない。愛嬌のある妖怪だなあ、と私も思う。人助けというのも、思い直せばいうほど突拍子のない話ではないかもしれない。
「それで、私は思ったのよ。人間の役に立つことをすることも悪くないかなぁ、って。天狗の取材でも言ったんだけどね。人間が求めてるものに、こちら側が合わせていくのが、これからの付喪神の姿なのかもしれないってね」
「はぁ。なるほどな」
「それに、実益も兼ねているのよ。私がぼらんてぃあをしたら、人間はみんな驚くの。無理に驚かせようとするよりもお腹が膨れるわ」
「そりゃそうだろうなぁ。意外に考えてるじゃないか」
「そうでしょ。ふふん」
得意気な顔をしているのは気にくわないが、意外と的を得ている意見である。私は小傘の評価を少し修正することにした。案外付き合っていて面白い奴だ。――会話が終わって、少しの沈黙が生まれる。雨は何時の間にか霧雨に変わっていた。が、まだ降りやむことはないようだ。灰色に曇った空を眺めていると、少し憂鬱な気分になってくる。じっと見つめていると、その気色が伝わったのか、小傘が話しかけてきた。
「雨。気になるの?」
「ああ、ここ数日ずっと降ってるからな。いい加減止まないものかねぇ」
「私としては仕事が捗って全然かまわないんだけどね。雨の日、好きだし」
「そうか?私は好きでも嫌いでもないが、これだけ続くと嫌になってくるもんだぜ」
「ま、雨は止まないと本当の良さはわからないからね」
「そういうものなのか」
「そういうものなの。さ、人里に着いたよ」
話し込んでいると、いつの間にか人里に着いたようだ。門の前まで一緒に歩いて、小傘は不意に傘を除けて、私に背を向けた。
「私はこれ以上入れないからね。ぼらんてぃあはここまで」
「おいおい、帰り道まで保証してくれるんじゃないのか?」
「人里の中で傘を買うなりなんなりすればいいじゃない」
「お前の隣が気に入ったんだ。まあそこで待ってろよ、お礼もしたいしな」
「我が儘な人間ね。ま、そういうことならここで待ってるわ」
小傘に自慢の料理を振る舞ってやるために、私は韋駄天の如き速度で人里の中へと突っ走った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
豪華な料理の為に奮発して食料を買いあさり、門へと向かった。雨はどうやら止んだようで、一安心である。門まで行くと、小傘は空を見上げていた。
「何を見てるんだ。お宝の乗った船でも飛んでるのか?」
「あ、魔理沙。ちょうどいい所に来たね」
「何がだ?」
「言ったでしょ、雨は止まないと本当の良さが分からないって。その言葉がどう言う事か教えてあげる」
「ん……?」
「さ、ついてきて」
小傘は私に空を飛ぶように促している。箒が無いせいで調子が出ないが、ぱっと浮き上がることができた。そんなにいいものがあるのだろうか。私は期待半分疑い半分の気持ちで、小傘に着いていった。
「ほらほら、ここよ。はやくはやく」
「全く、何だってんだ……?」
人里の上空にまで上がった。小傘はある方向を指さしている。横に行き、指さす方向を見て、
目を見開き、
――そして、絶句した。
「…………こいつは、凄いな」
小傘がああも言うだけはあるものが、そこには広がっていた。それは、妖怪の山であった。しかし、いつもの見慣れている姿とは全く違う。雨上がりにかかる虹が、山を跨ぐようにしてかかり、所々に流れる川は、その水位を大きく上げながらも、決してその景観を失うことなく粛々と流れ、そして、分厚い雲の隙間から溢れ出た陽光が、山全体を照らすようにして降り注ぐ。
正に、絶景であった。
私は朝焼けに照らされながら幻想郷の上空を飛び回るよりも気持ちのいいことはないと思っていた。しかしこの、『雨上がりの妖怪の山』は、それに肩を並べるほどに美しいものだった。やはり、この幻想郷という場所は驚きの尽きない場所だ。だからこそ退屈しないのだ。
「ね、驚いた?雨の日も捨てたもんじゃないでしょ」
「……ああ、驚いたぜ。参ったな、こりゃ」
「えへへ」
今回ばかりは苦笑ではない笑顔が零れる。こんな最高の景色を見せてくれた目の前の妖怪、――いや、友達に対して、私も全力でお礼をしなければならないな、と自ずと気合が入る。
「さあて、小傘。これだけ恩をもらって、返さないのは女の恥だぜ。私の絶品料理に舌鼓を打ってもらうとするか」
「ふふっ、期待しすぎない程度に期待しておくわ」
「じゃあ、私の家に行くとするか。この最高の景色を眺めながら、な」
「――うんっ!」
小傘にも、笑顔が零れた。そうして、私たち二人は雨上がりの幻想郷の空にて、舞った。
――雨の日が、ほんの少し好きになる一日だった。
誤解の無いように言っておくと、私は雨は嫌いではないのだ。もちろん好きなわけでもない。しかし、こうも長い間雨が降り続くと、いい加減に鬱陶しさを覚えるのが人間の性というものである。農業に携わる人里の人間たちにとっては恵みの雨なのかもしれないが、こんな辺鄙な場所に住んでいる身としては、不便なことこの上ない。それに、そろそろお天道様の顔も見たいところだ。朝焼けを浴びながら幻想郷の上空を飛ぶよりも気持ちいいことはない。毎日様々な出来事が起こる幻想郷の中でも、格別の一時であると私は思っていた。
小さなあくびをして、軽く伸びをする。どうやらいつもより少し寝過ごしてしまったようで、私の胃は朝食をまだかまだかと待ち構えている様だ。さてその期待に応えてやるかと寝室を出て台所に向かう。しかし、ここで思ってもいなかった事態が私を襲った。
「……げっ」
私の栄養源である米が切れていたのである。おかずもない。そういえばここの所あっちへふらふらこっちへふらふらしていて、食糧の残量を確認していなかった。私としたことが、迂闊なミスである。とはいっても、食べられるもの、という括りだけで言うのなら、この間アリスにもらったパイが残っている。ならそれを食えばいいじゃないか、と思うかもしれないが、とんでもない。朝には米と味噌汁を食べる。これは鉄の掟であろう。私は今まで生きてきてたったの十三枚しかパンを食べたことが無い程に和食派だ。朝にパンなど食べてしまっては、和食派としての面子が丸つぶれなのだ。
「とはいっても、なぁ」
食料が無いことは紛れもなく現実である。ならば買い出しに行かねばならないということは自明の理であるが、外はあいにくの雨。空を飛んでいくにしても濡れてしまうし、傘を差して歩いていくしかない。その事が、買い出しに行くことをとても面倒臭いことに思わせていた。普段空ばかり飛んでいる人妖は、地に足を付けて歩くことを酷く嫌う。かくいう私もその一人であった。
「うーむ」
私の心の天秤は、ゆらゆらと何度も上下に揺れて、最終的に片側へと傾いた。
「よし、買いに行こう」
和食に対する執着が雨への倦怠感を上回った結果である。私って案外頑固なんだなぁと自分で自分に驚きながらも、長い間使っていなかった傘を引っ張り出し、家の軒先に立った。空は相変わらず機嫌を直してはくれず、どんよりと曇った灰色から雨の粒を降らせている。あんたも大概頑固だぜ、と一人毒づいて、人里への短いながらも険しい道のりへと一歩を踏み出した。
――その十数分後のことである。私は、一体の地蔵と共に雨やみを待っていた。いや、途方に暮れていた、と言い直したほうが適切である。先程傘を持って行ったじゃないか、と疑問に思うかもしれない。しかし、このような状況に陥っているのにはいわゆる不可抗力というものが働いていた。長い間使っていなかったおんぼろ傘は、十分間ほど雨粒を受け止めただけでその機能を発揮しなくなった。家に帰るにも幾分かの距離が開いてしまっていて、にわかに強さを増してきた雨の中では、大変な苦労を強いられることが目に見えている。しかし人里へ向かうにも傘が無い。仕方がないので、こうして近くにあった地蔵のお堂で雨宿りをさせてもらっているという訳である。
狭いお堂の中には、当然ながら私の他に誰もいない。ただ、物言わぬ地蔵が表情を変えずにじっとこちらを見つめて来るだけである。魔法の森近くにあるお堂に参拝するものなどいるのかと思ったのだが、意外に中は小奇麗に整えられていて、寂れた雰囲気は感じさせない。供え物も置かれているところを見ると、人里の誰かが定期的に世話をしに来ているのかもしれない。以前、地蔵関係で痛い目に遭った私としては、地蔵はなるべく敬遠したい対象であったのだが、近くでまじまじと見てみると、なかなかどうして愛嬌のある顔をしていた。どうせすることがあるわけではないので、なんとなしに話しかけてみる。
「信仰で力を増すのなら、この雨を止ます御利益をくれんかねぇ」
自分の馬鹿な考えに思わず苦笑する。私は神仏の類を信仰などはしていないし、むしろ対極に位置する魔に携わる者である。こういう時にだけ力を借りようとするのは虫の良い話だというのは分かっているのだが、困ったときにはついつい神頼みとなってしまうのは仕方のないことだろう。とはいえこんなことを考えていてはまた閻魔に叱られるなぁ、と考えたところで、そういえばあの閻魔も地蔵出身だったな、ということを思い出した。となると、この地蔵も将来信仰を集めればあんな可愛げのない堅物閻魔になるのだろうか。ぞっとしない話だ。
「あんたはあんな堅物になるなよ」
微妙に嫌だったので釘を刺しておいた。しかし、地蔵が口を利く訳もなく、少し時間が経つと沈黙が場を支配しはじめた。機嫌を直すそぶりを見せない空を恨めしく思いながらも、私は何をするわけでもなく雨粒が地面に落ちる音を聞いていた。
ぽたっ、ぽたっ。
ぽたっ、ぽたっ。
お堂の屋根から滴り落ちる雨粒が規則正しく地面を叩く音を、じっと耳を澄ませて聞いていると、うつらうつらと、思わず船をこぎそうになる。いかん、と一瞬は思ったが、起きていても何かすることがあるわけでもないと思い直し、暫しの間眠気に身を任せることにした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『……は……』
『……は……らんか……』
「ん……」
なにかが聞こえて、私は目を覚ました。どれくらい眠っていたのかはわからないが、相変わらず雨は降り続いているようである。はぁ、と一つ溜息を吐き、これからどうしようかと考えをめぐらせようとしたところで、私はその存在に気が付いた。
「傘はいらんかね」
水色の髪の少女であった。特徴的なオッドアイ。愛嬌のある丸顔。茄子色をした傘。下駄。ここまで情報がそろっているならば、自ずとその正体は分かってくる。私はもう一度はぁ、と溜息を吐き、その少女――愉快な忘れ傘、多々良小傘に、素朴な疑問をぶつけた。
「……何やってるんだ。人を驚かせるのは止めたのか、唐傘妖怪」
「って、あれ。あの時の人間。また会うなんて奇遇ね」
「気付かなかったんかい……」
話していて気の抜けるやつだ。思いきり呆れた目線を向けるも、目の前の妖怪は全く意に介していない様子である。異変解決時に二回も退治してやったというのに、図太いやつだと思いながらも、図太くなければ幻想郷で暮らしていくなど不可能だろうなと思いなおして、とりあえず相手の意図を確認してみることにした。
「で、何をやってるんだ。こんにゃくで驚かせる作戦はやめたのか」
「あ、そうだ。こんにゃく使っても全然効果なかったじゃない。金髪の子供に使ったら食べられたし」
「……そいつは多分人間じゃなくて妖怪だ」
「そうなの?まあそれは置いておいて、私が今やってることね」
「ああ」
「貴女みたいに雨に降られた人間に傘を貸すぼらんてぃあ。あなたもどう?」
「へっ、ボランティア……?」
思わず変な声が出た。それは、目の前の妖怪のイメージとボランティアなどという殊勝なことが、イコールで結ぶにはあまりにもかけ離れ過ぎていたからである。念を押すように、もう一度確認する。
「お前がボランティア……?熱はないよな」
「今私のこと馬鹿にしたでしょ。私にだっていろいろ考えがあるんだから」
「そ、そうか……」
「それで、傘借りるの?借りないの?あなたみたいなの、他にもいるかもしれないから、探しに行きたいんだけど」
「あ、ああ。それじゃ借りるぜ。渡りに船ってやつだ」
「それじゃ、はい」
唐傘妖怪は、差している傘の中にスペースを少し作り、そこに入れという風に促している。貸してくれるんじゃないのかよ、と思ったが、口には出さないでおいた。それにしても……。
「相変わらず古臭い傘だな」
「なんと、わちきが時代遅れともうすか」
「そのキャラ作ってるだろ。まあそれについてはとやかく言わないぜ、貸してもらう側だしな」
「しくしく、あの巫女と同じようなことを言われた。それで、どこへ行くのかしら」
「人里に。食料が切れたもんでな」
「了解。それじゃ、行きましょ」
こちらの意向を伝え、人里へと歩き出す。とりあえず無言なのもなんなので、少し話題を振ってみる。
「多々良、だよな」
「うんにゃ、多々良小傘。多々良なんて堅苦しいから小傘でいいよ」
「私は霧雨魔理沙だ。魔理沙で良いぜ。じゃあ、小傘。どうしてこんなことを始めたんだ?人を驚かせないとひもじいだとか言ってた気がするんだが」
「ああ、それね。話してもいいけど、少し長くなるよ?」
「別に構わないぜ。人里まで大分間があるしな」
「そう。一つ聞くけど、文々。新聞っていう新聞は読んでいるかしら?」
「射命丸の出してる新聞のことか?たまーに読んでるぜ」
「私が取材された時の新聞は読んだことない?『使い古した道具の未来は?』って題の」
「んー……」
昔の記憶を呼び起こす。とはいっても、文々。新聞を読んだことなど両手の指で数えられる程度しかないので、すぐに終わる作業である。
「無いなぁ。曖昧だけど」
「そ。まあ、以前の話だけれど、私はベビーシッターとやらをしてたのよ」
ぶっ。思わず噴き出した。
「っくく……お前がベビーシッター?ぷぷっ……」
「……まあ、笑われるとは思ってたわ。とにかく、ベビーシッターをしてたの。始まりは些細なことだったんだけどね」
小傘はベビーシッターになった経緯を話した。外界のベビーシッター――おそらくメリー・ポピンズのことだろう。パチュリーの図書館に本が置いていた。――に影響されたらしい。安直で間抜けだなあ。
「まあ、そういう訳でベビーシッターになったんだけど、これが大変でねぇ。子供をあやそうと思ったら泣かれるし、笑わせようと思ったら泣かれるし、何度かそんなことを繰り返してたら、終いには指名手配までされて」
「いや、それはお前の行動に問題がある」
そりゃそんな傘じゃあやすのも笑わせるのも無理だろう。指名手配されたのも当然の処置というべきか。
「それで一悶着あって、人里の外で途方に暮れてたのよ。自分にはベビーシッターは向いてないんじゃないか、って」
「初めにわからなかったのか」
こいつはやっぱりどこか抜けている。
「そしたら、人里の門の方から一組の親子が出てきたのね。じっと見てると、こちらに向かってくる様子だった」
「説教か?」
「私も、何か文句を言われるんじゃないかって一人で思ってたんだけどね。その子をよく見てみると、見覚えがある子だったのよ」
「?」
「私があやしたり、笑わせようとした子はほとんど泣いちゃったんだけど、その子だけは、あやしたときに笑ってくれたのよ。だから印象に残ってたの」
「そいつは物好きな子供だな」
「……まあ、否定はしないわ。それで、親御さんの方が近寄ってきたの。私は一人でびくびくしてたんだけど、かけられたのは優しい言葉だったわ」
「へえ、なんて?」
「『ありがとう、この子を笑わせてくれて』って。その子、普段はあんまり笑わない子だったらしいの。私があやした時も、大泣きして困ってたらしいわ」
「親としては子供が笑わないと不安になるだろうな」
「まさにそれね。それで、その時私があやすと、その子が嘘みたいに泣き止んで笑ったの」
「嘘みたいな話だな」
「まあ、私も思わず驚いちゃったんだけど。泣かれたことはあっても泣き止んだことはなかったから。それで、私にお礼を言おうと思ってたら、私が追手から逃げるためにとっとと退散しちゃったから、結局言えずじまいだったらしいわ」
「お前、指名手配されてもベビーシッターもどきをしてたのか……」
「そんな簡単に諦められなかったのよ。まあ、親御さんにもそこは釘を刺されたんだけど」
「そりゃな」
「『あなたはベビーシッターには向いていないけど、人助けにはとっても向いていると思うわ。そんなに優しい心を持ってるんだから』って。何だか照れちゃって、お礼を言ってすぐに逃げちゃったわ」
「なるほど、それでか」
合点がいった。確かにこいつは妖怪にしては珍しく人食いではないし、特別怖い能力をもっているわけでもない。愛嬌のある妖怪だなあ、と私も思う。人助けというのも、思い直せばいうほど突拍子のない話ではないかもしれない。
「それで、私は思ったのよ。人間の役に立つことをすることも悪くないかなぁ、って。天狗の取材でも言ったんだけどね。人間が求めてるものに、こちら側が合わせていくのが、これからの付喪神の姿なのかもしれないってね」
「はぁ。なるほどな」
「それに、実益も兼ねているのよ。私がぼらんてぃあをしたら、人間はみんな驚くの。無理に驚かせようとするよりもお腹が膨れるわ」
「そりゃそうだろうなぁ。意外に考えてるじゃないか」
「そうでしょ。ふふん」
得意気な顔をしているのは気にくわないが、意外と的を得ている意見である。私は小傘の評価を少し修正することにした。案外付き合っていて面白い奴だ。――会話が終わって、少しの沈黙が生まれる。雨は何時の間にか霧雨に変わっていた。が、まだ降りやむことはないようだ。灰色に曇った空を眺めていると、少し憂鬱な気分になってくる。じっと見つめていると、その気色が伝わったのか、小傘が話しかけてきた。
「雨。気になるの?」
「ああ、ここ数日ずっと降ってるからな。いい加減止まないものかねぇ」
「私としては仕事が捗って全然かまわないんだけどね。雨の日、好きだし」
「そうか?私は好きでも嫌いでもないが、これだけ続くと嫌になってくるもんだぜ」
「ま、雨は止まないと本当の良さはわからないからね」
「そういうものなのか」
「そういうものなの。さ、人里に着いたよ」
話し込んでいると、いつの間にか人里に着いたようだ。門の前まで一緒に歩いて、小傘は不意に傘を除けて、私に背を向けた。
「私はこれ以上入れないからね。ぼらんてぃあはここまで」
「おいおい、帰り道まで保証してくれるんじゃないのか?」
「人里の中で傘を買うなりなんなりすればいいじゃない」
「お前の隣が気に入ったんだ。まあそこで待ってろよ、お礼もしたいしな」
「我が儘な人間ね。ま、そういうことならここで待ってるわ」
小傘に自慢の料理を振る舞ってやるために、私は韋駄天の如き速度で人里の中へと突っ走った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
豪華な料理の為に奮発して食料を買いあさり、門へと向かった。雨はどうやら止んだようで、一安心である。門まで行くと、小傘は空を見上げていた。
「何を見てるんだ。お宝の乗った船でも飛んでるのか?」
「あ、魔理沙。ちょうどいい所に来たね」
「何がだ?」
「言ったでしょ、雨は止まないと本当の良さが分からないって。その言葉がどう言う事か教えてあげる」
「ん……?」
「さ、ついてきて」
小傘は私に空を飛ぶように促している。箒が無いせいで調子が出ないが、ぱっと浮き上がることができた。そんなにいいものがあるのだろうか。私は期待半分疑い半分の気持ちで、小傘に着いていった。
「ほらほら、ここよ。はやくはやく」
「全く、何だってんだ……?」
人里の上空にまで上がった。小傘はある方向を指さしている。横に行き、指さす方向を見て、
目を見開き、
――そして、絶句した。
「…………こいつは、凄いな」
小傘がああも言うだけはあるものが、そこには広がっていた。それは、妖怪の山であった。しかし、いつもの見慣れている姿とは全く違う。雨上がりにかかる虹が、山を跨ぐようにしてかかり、所々に流れる川は、その水位を大きく上げながらも、決してその景観を失うことなく粛々と流れ、そして、分厚い雲の隙間から溢れ出た陽光が、山全体を照らすようにして降り注ぐ。
正に、絶景であった。
私は朝焼けに照らされながら幻想郷の上空を飛び回るよりも気持ちのいいことはないと思っていた。しかしこの、『雨上がりの妖怪の山』は、それに肩を並べるほどに美しいものだった。やはり、この幻想郷という場所は驚きの尽きない場所だ。だからこそ退屈しないのだ。
「ね、驚いた?雨の日も捨てたもんじゃないでしょ」
「……ああ、驚いたぜ。参ったな、こりゃ」
「えへへ」
今回ばかりは苦笑ではない笑顔が零れる。こんな最高の景色を見せてくれた目の前の妖怪、――いや、友達に対して、私も全力でお礼をしなければならないな、と自ずと気合が入る。
「さあて、小傘。これだけ恩をもらって、返さないのは女の恥だぜ。私の絶品料理に舌鼓を打ってもらうとするか」
「ふふっ、期待しすぎない程度に期待しておくわ」
「じゃあ、私の家に行くとするか。この最高の景色を眺めながら、な」
「――うんっ!」
小傘にも、笑顔が零れた。そうして、私たち二人は雨上がりの幻想郷の空にて、舞った。
――雨の日が、ほんの少し好きになる一日だった。
最近小傘ちゃんが主人公並みに活躍する作品が多いですが、この作品はそのなかでも一番心温まる作品だと思っております。
前作に続けて読みましたが、相も変わらず、魔理沙は乙女だなって思いました。
私もこの景色を見てみたいなあ...あと、小傘ちゃんの笑顔も。
またひとつ、素敵な幻視を見せてくれた作者さんに感謝をこめて。
この点数を受け取ってください。
ありがとうございました。
『お前の隣が気に入ったんだ』
こう言うことをさらっと言える魔理沙はジゴロの才能があると思います。
敢えて雨上がりに驚かそうとするとは小傘ちゃんたくましいな
しかし小傘ちゃんにタダで相合い傘して貰えるとは幻想郷の住民が羨ましい
そして小傘ちゃんの可愛いさにやられた。凄くいいと思います。
こちらも満たされました。
この幻想的な空間を見てしまったからかもしれない。
最初の段落から文章上手いなーと思ってましたが展開もラストの締めも完璧でもうね。
小傘好きということもあり大変満足でした。