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梅雨の時期を迎え雨の降る日が続くこの頃、稗田阿求女史におきましては益々の善行に日々専念なされているかと存じます。
お蔭さまで彼岸の勤務も滞りなく進んでおり、繁忙期たる盆時期を目前に控えまして私も日々、裁判執行という大役を任されております。
さて此度は私事で大変恐縮では御座いますが、来たる水無月の十五日昼過ぎから翌日の朝に掛けまして梅雨の休暇、外泊の許可を頂く事が出来ましたので、ご都合がよろしければ再度、稗田亭に足を向けさせて頂きたく、厚かましくも手紙をしたためさせて頂きました。
ご面倒だろうとは思いますが、稗田家の使用人の方々へのご通知の方、よろしくお願いしたく存じます。
どうぞお身体にお気をつけて、十五日に再会出来る事を、楽しみにしております。
四季映姫・ヤマザナドゥ
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等とまあ、何とも堅苦しい手紙を受け取った私はと言えば、思わず「えー……」なんて失礼千万な声を漏らしてしまう。
楽園の最高裁判長こと、四季映姫・ヤマザナドゥ。
御阿礼の子である私の転生に関して、全面的に協力してくれる閻魔様。
ある人曰く、真面目が服を着て歩く仕事の鬼。ある人曰く、活動する説教のバーゲンセール。死者を裁く仕事が休みになれば、彼女の担当地区である幻想郷の此岸までやって来ては、誰彼構わず有難いお説教をクドクドと並べてくれる、大変に仕事熱心な女性だ。
しかしながら私の渋面の理由としては、どれも当て嵌まらない。
「阿求様。そのお手紙は、閻魔さまからという事でしたが……」
便箋を私の部屋まで運んで来てくれた侍女の弥恵が、何やら深刻そうな表情を浮かべて、恐る恐る、といった風に問いかけてくる。
閻魔からの手紙と来れば、転生の儀を連想してしまうのも無理は無い。何か良からぬトラブルでも……と私を心配してくれている弥恵に、私は首を横に振る。
「心配いりません。四日後に彼女が遊びに来るってだけです」
私の言葉に、弥恵はホッとしたと言わんばかりに胸を撫で下ろす。
「……と言う事は」
「えぇ。十五日と十六日のお昼までは、全員お休みを取って下さい。申し訳ないのですが前回と同じように、住み込みの方々は――」
「はい。存じ上げております。どこかに宿を見つけましょう。博麗神社脇の温泉宿なんか良いでしょうねぇ」
ほぅ、と溜め息を吐く弥恵。恐らく前回、映姫さんがやって来た時の休暇を思い出しているのだろう。
映姫さんが私の家に泊まる時の決まりごと。
それは私と彼女以外の家の者に休暇を出して、家の中を我々二人だけにするという事。
何ともまぁ正直な所、客人としては出過ぎた真似というか、碌なお持て成しもできなくなるという奇妙なお願い事ではあるのだけれども、世にも珍しい閻魔さまの我が儘と言われれば、私としては断る事ができる筈も無い。
それに前回彼女が来た時を思い返せば成程、彼女の不躾に近い申し出も納得できると言うか、正直私も家の者が居てくれなくて良かったと思ったと言うか……。
「それでは十四日の晩までには、当日のお食事の準備やお掃除を済ませておくように致しますね」
「ご面倒でしょうが……」
「いえいえ滅相も無い……阿求様におきましても、どうか頑張ってくださいね」
頑張ってください、の部分に熱を込めて言うと弥恵は辞令を皆に伝えに行くのだろうか、頭を垂れて私の部屋を後にした。
四季映姫・ヤマザナドゥの説教好きに関しては、里の人間の中にも被害者が多数いる関係で、最早里の中に知らぬ者も居ない程に有名な事だ。だから弥恵は今回も前回と同じように、私が映姫さんから夜を徹してお説教を喰らうのだろう、と思っているに違いない。
……本当は全然、そうじゃないんだけど。
◆◆◆
迎えた十五日は、昨今の日々を束ねる梅雨時期から漏れない空模様だった。
使用人の方々が居ない屋敷の中というのは、普段以上に仰々しく、かつだだっ広く感じられる。普段の心地いい喧騒は絶え、襖の向こう側から聞こえて来る雨降りと、庭に誂えられた鹿威しの音がシン、とした空間に染み入って来るばかり。
今更そわそわした所で何もないと知っている私は、いつも通りに自室で書に筆を走らせていた。使用人が誰も居ないので、文机の傍らに置いたお茶も自分で淹れた物だ。いつもよりも薄い気がする。紅茶に関しては少々自信があるけれど、舌を喉の渇きを潤す目的で傍らに置いておく緑茶に関しては、やっぱり弥恵が淹れてくれる物の方が美味しい。
等と思いつつ、こちらも自分で切った不揃いな羊羹に手を伸ばし掛けた辺りで、玄関口から「御免下さい」との凛とした声が聞こえて来る。
言わずもがな、映姫さんのご到着だ。
「はい。少々お待ちを」
日頃声を張る事など殆どない私のその声が、果たして玄関外に居るであろう彼女に聞こえたのかは定かでは無い。ともあれ私は筆を硯に置いたまま彼女の待つ玄関へと向かう。長い廊下にも人の気配はまるで無く、何だか私は自分の屋敷とよく似た別の空間に居るんじゃなかろうか、等と良く判らない錯覚を覚える。
角を曲がって玄関口に出ると、硝子戸の向こう側には小柄なシルエットが大仰な傘を差しているのが窺えた。突っ掛け草履を足袋の股に通して戸を開けると、神妙な面持ちを壁掛けの能面の様に張り付けた四季映姫・ヤマザナドゥが立っていた。
「お久しぶりです。稗田阿求女史。この度は私の不躾なお願い事を聞いて頂きまして、心より感謝いたします」
休暇だと言っていたのに制服に袖を通している彼女は、制服の色と合わせたのか紺色の番傘を畳んで雨粒を払いつつ、慇懃に頭を下げて来る。
「いえいえ、お構いなく」
彼女が来訪した前回の事を思い出していた私は、彼女の真面目な仕草に苦笑を漏らしつつ、御座なりな挨拶を済ませる。
「あの……お手紙にしたためましたけれども、前回同様に屋敷の皆様は……」
申し訳なさそうに、歯切れ悪く切り出した映姫さんに、私はコクリと一度頷く。
「はい。確かに誰も居ませんし、急な用事で帰って来る事も無いよう、念を押して置きました」
「そうですか……お心遣い、感謝いたします」
私の返答にホッとしたらしく、番傘を傘置き用の壺に差しながら彼女が表情を和らげる。
「お茶の準備をしますので、私の部屋で待っていて下さい。場所は、判りますよね」
「えぇ。ありがとう」
後ろ手に戸を閉めた映姫さんは、抜け目なく鍵を掛けつつ微笑みかけてくる。
――兆候が既に出てるな。なんて、彼女の返答を聞いて私は思う。
前回は判らなかったけれど、普段の彼女ならば「ありがとうございます」と一息に言う。言葉尻を崩す様な真似は決してしない。
「それでは、後程」
「うん」
その無邪気な頷きが、第二段階。
靴を脱ぐ彼女を尻目に、私は台所へと向かってお茶の準備に入る。霖之助さんから頂いた『がすこんろ』なる外界の道具を取り出し、それのツマミを回して火を点け、お湯を沸かす。戸棚に仕舞って置いたダージリンの缶を開け、ティーポットを引っ張り出して紅茶の準備。お茶請けは一昨日、「作り過ぎちゃったから」と紅魔館の咲夜さんから頂いたクッキーにしておく。私が紅茶好きだと言って以来、時々持って来てくれるのだ。
やがて湯が沸く。沸騰させた湯で茶器を温める。注いだ湯を捨て、ティーポットに茶葉を入れる。なるべく高い位置からヤカンの湯をポットに流し込む。ジャンピングという技術なのだと、これまた咲夜さんから教わった。
紅茶の支度を進める私の心境としては、中々にカオスだ。
文筆業を生業にしているにも拘らず、私の感情を掬い取る事はどうにも難しい。
彼岸に居る際には常に行動を共にしている映姫さんとの記憶は、転生の折にほとんど失われてしまうのが常なのだが、彼女と一緒に居ると欠落していた筈の記憶がふと蘇って来たりする。
求聞持の能力を有する私にとって、『思い出す』というのは何とも稀有な体験。
私以前。つまりは御阿礼から始まって阿弥まで。九人分の私たちと四季映姫・ヤマザナドゥとの生活は、当然その代毎に違う。記憶を取り戻す事が、おしなべて素晴らしい経験かというと実はそうでもない。
何と言っても現在の御阿礼は他でも無い私であって、私は紛う事無き少女であるわけで……。
これ以上の想起は、ひとまず止めておこう。
また顔が耳まで熱くなってきた。
タイミング良く紅茶も入った事だし、お盆を取り出してソーサーとカップを二組乗せる。皿に並べた咲夜さんのクッキーも備え、ティーポットを設置したら準備も完了。自室へと向けて廊下を進んで行く。最初の異変は、角を曲がってすぐの場所に転がっていた。
――帽子。
帽子が落ちている。
言わずと知れた閻魔の帽子。四季映姫・ヤマザナドゥという肩書を体現するに相応しい重厚な帽子は今、無造作にも廊下のど真ん中に転がっていた。
二度目の事なので私は驚かない。帽子を跨いで、更に廊下を進む。次なる異変は帽子が転がっていた場所から七歩ほど離れた場所にあった。
今度は上着。もちろん映姫さんの制服。服を畳むという概念すら忘失したのか、揉みくちゃに壁際で佇む閻魔の権威は、どうやら布製の小山へと、ぞんざいな変貌を遂げている。
最後の異変は私の部屋の前。
歪な円を描くそれは驚く事無かれ、紺色のスカートである。
持ち主は最早、言うまでもない。
前回見た時には驚きの余りに、早めの転生を済ませてしまう所だった。
襖同士の継ぎ目を遮る短めのスカートを、恐れ多くも私は足で除ける。どうせ後で拾うのだ。それに掃除も行き届いている。打ち捨てられた権威の残骸にあたふたする必要も無いと私は知っている。
「紅茶を淹れて来ましたよ」
襖を開けると、そこには当然四季映姫さんがいらっしゃる。しかしながら今の彼女を、果たしてどこの誰が想像できると言うのだろうか。
断言する。居ない。
二つ折りにした座布団を控えめな胸の下に敷いて、シュミーズとパンツ、そしてニーハイソックスのみを身に纏っただけという、だらしない事極まりない姿で畳の上に寝転がり、勝手に私の書棚から持って来たと思しき本を捲りつつ、勝手に緑茶と羊羹に手を伸ばしている楽園の最高裁判官の姿など、一体どこの誰が想像し得るだろうか。
「あー、あきゅちゃん、ありがとー」
天真爛漫な笑顔と共に彼女の口から出てくるその言葉には、責任感、真面目、堅物、仕事の鬼、閻魔、etc……etc……。そんな四季映姫・ヤマザナドゥを形作っていた筈の硬質さなどは爪の欠片ほども存在しない。シュミーズの肩ひもが肘近くまで降りている事すら、気にしていない様子。
仰天した貴方。それは正しい反応です。
前回私は、自分の見ているソレが信じられなくて、部屋の入口で腰を抜かしました。頭がおかしくなったのかとさえ思いました。すわ幻術か。写輪眼か。月詠か。そのどれでも無いと知り、脱ぎ散らかされた服を見た時以上に転生の足音が間近に聞こえました。
これこそが、映姫さんが人払いをしてくれと頼みこんで来た理由。
映姫さんが、我が家に休暇という名目でやって来る時の決まりごと制定の根源。
真面目が服を着て歩いている様、という表現は間違いだった訳だ。帽子を脱いで、制服を脱ぎ散らかした彼女は性格が変わるというよりはむしろ、封じられし第二の人格が解放されると言った方が正しい位。閻魔としての正装をキャストオフした彼女は、服を脱いだ真面目という中間地点をすっ飛ばして、この有様へと変貌する。
ドライアイスみたいだ。
液状の二酸化炭素は存在しない。
中間をすっ飛ばしてしまう辺りは、それと大体同じ。
「映姫さん。前にも言いましたけど、はしたないです」
そんな違和感しか無い閻魔さまの痴態も二度目の目撃とあって、平静を保ったまま私は溜め息を吐く。
「良いじゃん。良いじゃん。私とあきゅちゃんの仲なんだしぃ」
んふふー、と鼻から笑い声を垂れ流し、【虚無の騎士(シュタインヒェン=ド=バルサ・ザール)】と金文字で書かれた本を放ってごろりと寝返りを打つ映姫さん。おへそが丸見えだ。
その余りの自由さ加減と砕けた口調から、私はこの状態の映姫さんを見ると、宵闇の妖怪を思い出す。案外ルーミアと映姫さんは似ているのかもしれない。ルーミアのリボン型お札を取り外したら、普段の映姫さんみたいな人格が現れるのかも。なんて。
「……前にも言いましたけど、私は彼岸での貴女との生活を殆ど覚えてないんですけどね」
文机の片隅にお盆を置き、書き途中だった書を丸めて仕舞いつつ、私は半裸の映姫さんに肩を竦める。
「あきゅちゃんは忘れんぼさんだからねー」
これまで一度も聞いた事が無い指摘をしつつ、映姫さんは両手の上に顎を乗せて笑う。
「転生の度に、彼岸で過ごした私との生活を忘れちゃうんだから……甘える相手が居なくなって寂しいよぅ」
「小町さんとかどうです?」
「ダメ。小町はダメ」
「どうして?」
「私のこんな姿見られたらサボりを正当化されそうだし。何より恥ずかしいもん」
恥の体現以外の何物でもない下着姿のまま、映姫さんが不満げに唇を尖らせる。
「私なら良いんですか」
「あきゅちゃんじゃないとダメぇ」
両手を交差させてバツを作る映姫さんが、小町さんに聞かれたら刺されそうな事を平然と言ってのける。ちょっぴり罪悪感。
彼岸に渡った御阿礼の魂は、転生用の肉体ができるまでは地獄に赴き、閻魔の補佐をして百年近くを過ごす。
彼女の言う彼岸での生活とはつまりその事で、そうなると私と映姫さんは、かれこれ千年近くずっと一緒に居る存在になる訳だ。そもそも映姫さんが幻想郷担当の閻魔になった経緯も、私が幻想郷に居るからという理由が大きいとの事。
となると、当然の事ながら他の誰よりも映姫さんと親しい存在が(殆どその期間の記憶が無かろうとも)私となるのは自明の理で、だからこそ映姫さんは私の前でだけ、こうして羽目を外すのも納得はできる。
あくまで理屈としては、の話。
歴代の御阿礼の子の記述にも無かったこの映姫さんの姿は、二度目じゃまだ現実として素直に受け入れるにはギャップが激しすぎる。絶対書かないで、と前回念を押された事から察するに、今までの御阿礼の子達。阿礼乙女たちや阿礼男たちもまた、今の私と同じように映姫さんの痴態に仰天し続けて来たであろう事は想像に難くない。
ともあれ誰も知らない閻魔さまの一面を独り占めしている事実、というより相手側が全面的に心を開いてくれているというのは純粋に嬉しいし、私の知らない私の話を聞くのも、興味深くはある。
ただ、今の映姫さんの心は、服装以上に開けっ広げなのだ。そこが少し問題。
前回など突然「14!」と叫んだ映姫さんに「何の事です?」と聞いた所、「私のホクロの数。阿悟君が教えてくれたの」なんて言う物だから、色々と死ぬかと思った。
その仰天発言を呼び水にして、彼岸にて自分が阿悟だった時の記憶がほんの少しだけ甦ってしまって以降、私の魂は若干の分裂を経験している。私自身の認識は真面目一辺倒な閻魔さまだと判断する映姫さんの事を、阿悟だった時の認識記憶は、恋人以上の存在だと喚き立てるのだから、純粋乙女である筈の私の自我が揺さぶられて敵わない。
その辺りが私の中のカオスの根幹。台所での赤面の理由。手紙を受け取った時の「えー……」の原因。
要は、気恥ずかしくて堪らないという単純な理屈。
そこまで親しくないと思い込んでいた相手の身体の、どこにどんなホクロがあるのか、それを知ってしまっている私の心中は、お察し願いたい。私自身は好きな男の子に対する片恋慕の経験さえ、まだだと言うのに。転生を繰り返して堆積していく魂の弊害とでも言うべきか。やれやれだ。
「良い匂いだぁ」
凛としていた声音を甘ったるく融解させた映姫さんが、文机に置いたポットから漂う紅茶の香りをクンクン嗅いだ後に、ほぅと溜め息を吐く。
「お粗末な手際ではありますが……」
「んーん。美味しそう。嬉しいな。あきゅちゃんが、私の為に用意してくれたって事が嬉しい」
空になっていた羊羹用の小皿や湯呑を盆に戻す私の膝元へと、匍匐前進の要領で寄って来た映姫さんが、漸うシュミーズの肩ひもをあるべき場所に戻した。
「クッキーも、あきゅちゃんが焼いたの?」
「いえ、こちらは紅魔館の咲夜さんから頂いた物です」
「そ」
心なしか肩を落として呟いた映姫さんが、腹這いの体勢のまま皿の上に手を伸ばし、クッキーを口の中へと放る。だらしないなぁ。だらえーき、という造語が脳裏を過る。
「ん、美味しい」
「咲夜さんはお菓子作りにも精通してますしね」
クッキーを咀嚼しつつ、味わう様に目を細める映姫さんを横目に、カップへ紅茶を注ぐ。
「あきゅちゃんだって、好きだったじゃん。お菓子作るの」
「そうなんですか?」
「阿七ちゃんの時だったかなぁ……あの子は和菓子党だったけど」
流石に紅茶は寝転がったまま味わえないと気付いたのか、のそのそと身体を起こした映姫さんが、足を投げ出す体勢で文机の前に座る。
「ふむ……そう言えば確かに、阿七の日記には和菓子が頻出しますね」
「あの子、甘味中毒だったからねー……三日間餡子を食べないと、挙動不審になるの」
「そうなんですか……」
そこまでは日記にも書いてなかった。甘味中毒とはどんな症状なのだろう。体中を掻き毟ったり、血が出るまで爪を噛んだりしたんだろうか。一応は自分の事ながら、全く想像がつかない。
注ぎ終えた紅茶を映姫さんに差し出すと、「ありがとぉ」とこれまた砕け切ったお礼が返って来た。
「紅茶が好きなのは、あきゅちゃんが初めてかなぁ」
緋色の液面に目を落としつつ、小首を傾げた映姫さんが言う。
「そうですね。私の代から」
「なんか、不思議だよねぇ……同じ魂が同じ過程で同じ家系に生まれてるのに、趣味嗜好がちょっとずつ違うんだもん……性格も」
カップに唇を寄せて傾けたかと思うと、「あちち……」と舌を出しつつ映姫さんが驚いた様な挙動で、カップから離れる。猫舌だったか。
「映姫さんでも、不思議に思うんですね……この身体を用意して下さったのも、転生の許可をして下さるのも、貴女なのに……」
「きっと、私よりももっと高位の理が関係してるんじゃないかなぁ」
ふーふー、と紅茶に息を吹きかけて冷まそうとながら、映姫さんがさっきとは反対方向へと首を傾げる。
「先代の記憶の殆どを引き継げないのも、男女の性別が代わるのも、私の与り知らない領域だからねー……阿礼さんを転生させて阿一君になった時、彼岸での生活を忘れられてたのショックでさぁ、二回目の転生の時には色々頑張ってみたんだけど、阿爾君もやっぱり私の事、忘れてた。そんなもんかぁ……でも良いかな、此岸に遊びに来てみると、断片的に思い出してくれる事もあったし、阿礼さんの目的はきちんと引き継がれてるんだから、私情なんて二の次……なんて思ってたら、阿爾君の次は阿未ちゃんだったもんだから、もうびっくりよ。転生って、性別まで変化し得るんだ……みたいな?」
カップを持ったまま、映姫さんが肩を竦めて溜め息を吐く。紅茶で舌を湿らせ、クッキーに手を伸ばしつつも、私は彼女に視線を固定させていた。
「阿未が女性になったこと自体は、ショックでしたか?」
私は少々立ち入った質問を投げ掛ける。御阿礼から阿爾まで。それでも三百年以上を共に過ごした異性が、同性になってしまった事。それを彼女がどう受け止めたのか。私自身も女である以上、ちょっと気になったのだ。
しかし冷ました紅茶に唇を寄せる彼女は、逡巡も無く即座に「んーん」と首を横に振り、上目遣いで私を見る。
「びっくりしただけ」
区切る様に言うと、映姫さんは紅茶を一口含み、嚥下してからソーサーにカップを戻す。
「確かに、阿未ちゃんが成長するまで、ちょっと悩んだのは本当だけど、実際に休暇を作って、今こうしてるみたいに阿未ちゃんと喋ってみたら、何だろう……匂いみたいな、雰囲気というか、そういうのはやっぱり、それまでの人たちと同じだった。それで私、すっごく安心したんだ。あぁ、変わらないな……って。性格が変わっても、私の事、覚えてなくても、やっぱり同じ魂なんだな……ってね」
そう言って彼女はまたクッキーに手を伸ばして口の中に放り込むと、咀嚼しながら小さく溜め息を吐く。唇の端に笑みを携えていて、私はその溜め息が安堵のそれだと知る。
「それは、私も?」
「うん。変わらない。だから、一緒に居ると凄く安心する」
「そうですか……」
前回は全く持って青天の霹靂だっただけに、困惑というか緊張というか、立ち入った話もできなかったが故の苦手意識と精神的カオスが、映姫さんのその安らいだ表情を見て和らいでいる事に私は気付く。
私自身であるにもかかわらず、記憶の欠落が故に、どこか他人の様に思えてしまう御阿礼の子たち。転生と欠落が産む自意識の隔絶はその実、四季映姫という個人の存在によって繋がっていると知れた事は、私にとっては新しい発見だった。
……何だろう。純粋に、嬉しい。
「そういう訳なので――」
文机に両肘を立てて身を乗り出し、顎を乗せる体勢になった映姫さんが唇だけでニッコリと微笑んでくる。
「一緒にお風呂に入ろう」
「どういう訳ですか」
センチメンタルな空気をぶち壊しにする発言に、思わず私は紅茶を噴き出しそうになる。
何故そうなる。唐突過ぎる。コンテクストガン無視なその提案に、和らいだ筈の苦手意識と精神的カオスが舞い戻って来た。
「イヤ? 一応、恒例行事なんだけど」
「やです。恐れ多い。大体なんでこのタイミングでお風呂なんですか」
「空気が湿っぽくなったのが嫌だったし、何より肌寒くなって来たんだもん」
「下着姿で居りゃ、寒くもなるでしょうよ。服着て下さい」
襖の向こうにまだ散らばっているであろう衣服群を指差しながら突っ込む。すると映姫さんは「んふふー」なんて鼻歌みたいに笑いながら首を横に振った。
「やーだぁ」
……うわぁ。
何だこの人。何だこの人。何だこの人。
私が知らなかっただけで、実はお馬鹿だったのか。
「本当は別の目的があります」
「聞きましょう」
「あきゅちゃんの発育状態をしっかりと確認したい」
「貴女、本当に四季映姫さんですか? 狸が化けてるんじゃ無いでしょうね」
あぁ……。
四季映姫・ヤマザナドゥの権威が失墜していく。
下着姿でダラダラしてる状態がどん底だと思ってたら、更に深い場所へと落ちて行ってしまった。
なんて思ってると不意に映姫さんがスッと背筋を伸ばし、真っ直ぐと力強い視線で私を射抜く。あの凛とした雰囲気が再来した。
「――稗田阿求。湯で身体を清めるという事は、単純な身体の老廃物の除去に留まらず、日常におけるハレとケの境を明確に分断するという事。公事と私事を分かつという事。メリハリの付いた規則正しい生活を送る事は、善行を積む上で欠かす事のできない土台であるのです。そう、あなたは少し公私を混同しすぎている――」
「……」
どういう事でしょうか?
公私混同とお風呂、関係無くないですか?
「貴女は適切な公私の判断を誤っている。現状を公的な態度で臨んでいるというその姿勢。それ自体が既に取り返しの付かない誤謬なのです。どこの世界に、下着姿の女の子を敬う必要性のある空間がありますか」
「まぁ、無いでしょうけど……」
「また敬語を使った。私が裁判を担当するなら、貴女は地獄へ落とすわね」
「え? 敬語で?」
「私は歴代御阿礼の子との生活を下地にした上でここに来ているつもりです。敬語は相手との距離を遠ざける因子である可能性を、あなたは忘れている。あなたはここで少し、裁かれる必要がある。嫌なら司法取引です。私と入浴を共にするならば、裁きの中止を視野に入れましょう」
「えっと、ごめんなさい。こんな事、言うべきじゃないんでしょうけど、判ってるつもりなんですけど、言いますね。貴女、馬鹿なんですか?」
「やだー! あきゅちゃんに馬鹿って言われたー!」
名残り雪が地面に触れて融けるよりも早く、閻魔としての張り詰めた空気をかなぐり捨てた映姫さんが、駄々っ子の様に喚きながら畳の上をゴロゴロ転がって向こう側へと遠ざかって行く。
「お風呂! お風呂! おーふーろー!」
うん。決定。この人、馬鹿だった。
ただ、私の中に堆積する御阿礼の子達としての記憶故か、若干その様が可愛いと思えてしまっているので、愛すべきお馬鹿とフォローしておきましょう。
「……他の御阿礼の子たちの時も、そんな感じだったんですか?」
転がるのを止めた映姫さんに聞いてみると、「まぁね。阿弥ちゃんの時には、『馬鹿なんですか?』じゃなくて、『死んでください』だったよー」と即答される。どうやらこの茶番劇も含めての恒例行事だったらしい。
そうだろうなぁ……。
同性である私を始めとした阿礼乙女なら兎も角、異性だった時の御阿礼の子の拒絶は、私よりももっと激しかっただろうなぁ……。「本当ですか! やった!」なんて二つ返事で了承する御阿礼の子が居たら、多分私は軽蔑する。凄く軽蔑する。軽蔑の対象もまた自分だけど。
「とまぁ、冗談は兎も角として……」
立ち上がった映姫さんが、シュミーズの肩ひもを両方とも二の腕まで降ろしたまま、こちらへと歩いて戻ってくる。転がる過程でずり落ちたのか、ニーハイソックスの絶対領域は左右で高さが違った。
「お風呂には入りたいから、お風呂場、借りるね」
「あ、それじゃ私、沸かして来ますよ……?」
「ダーメぇ」
立ち上がり掛けた私の動きを、ニヤニヤ笑いの映姫さんが首を横に振って制する。左右に振った首の動きがシュミーズのズリ落ちを誘発して、無防備な鎖骨が丸見えになる。
「お風呂位、自分で沸かせるよ。閻魔だからってプライベートが無い訳じゃないんだし。あきゅちゃんはその間に、ご飯の支度してて」
「でも……」
「残念、決定事項です」
リュックを背負う要領で、両肩ひもを有るべき位置に戻した映姫さんが肩を竦める。お皿の上のクッキーを抓み上げると、気後れする私を尻目に「ご飯、お願いね」とだけ残してサッサと私の部屋を後にしてしまった。
何とも自由だなぁ……なんて今更な感情が去来する私。
しかしながら困惑する自意識を置き去りにして、操作不可能な私の無意識は、やりたい放題な彼女の行動を全面的に許してしまっている。予測の範囲を出ないよね、みたいな正体不明の納得感。それどころか度肝を抜かれっ放しな映姫さんの行動を見て、安心感さえ抱いている自分が確かに存在する。
何でだろう。
頭を捻りつつ半分ほど残っていた紅茶を一口含む。
私を構成する表層的なロジックが、
一、これまでの御阿礼の子が幾度も彼女と相対して来た事。
二、その度にこんなやり取りを経験して来たであろう事、
三、それを私が忘れているだけという事。
との推測を投げ掛けて来て漸く、私の無意識が享受している安心感の源泉について理解するに至った。
つまり使い回されている私の魂には、四季映姫という個人が深く深く刻み込まれているという訳だ。私の脳みそから抜け落ちている記憶はしかし、御阿礼の魂が受け止めてる、という単純な理屈。前世の記憶はしっかりと、無意識の海に堆積してる訳か。
「……カオスだなぁ」
独り言。『私と貴女は前世で恋人同士だったのですよ!』という電波な理屈が現実的に成り立ってしまっている事実に、思わず苦笑してしまう。まだ実感こそできないけれど、つまりはそういう事なんだろう。
ともあれ任された以上、ご飯の用意をしなくちゃ。
茶器の類をお盆に重ねて台所へと向かう。
廊下に脱ぎ捨てられていた洋服は映姫さん自身によって拾い上げられたらしく、既にして影も形も無かった。
◆◆◆
ご飯の用意と言われても、大体の準備は昨日の夜までに使用人の皆さんが済ませてくれていたので、そこまで面倒でも無いし、時間自体も掛からなかった。
煮染めたしいたけや、花の形に飾り切りを済まされた人参、錦糸卵や絹さや等、色取り取りの具材が、ふんだんにあしらわれたチラシ寿司。
出汁を存分に吸い込んだ高野豆腐。
ほうれん草のお浸し。
火に掛けるだけで準備が整うお吸い物。
湯通しした菜の花と白胡麻の和え物。
鮮やかで何ともハレの匂い漂うお料理の数々は、盛り付ければ準備が済むように配慮が行き届いていて、用意をしてくれた使用人の方々の優しさが嬉しい。
今頃は彼女たちも、温泉に浸かって羽を伸ばしているのだろうか。宿場経営のノウハウなんて無い霊夢さんに代わって、里の有志が管理している博麗神社脇の温泉宿。
折を見て足を運べたらきっと楽しいだろうな、なんて考える。小鈴にでも声を掛けて、いつか一緒に行ってみようかな。
広間の机の上に料理や箸など諸々の支度を済ませた私は、準備が済んだ旨を伝える為にお風呂場の映姫さんの下へと足を向ける。雨はまだ止む気配も無く、日中から薄暗かった廊下は夜を目前にして、薄闇が跋扈を始めていた。
……自分の家ながら薄気味が悪い。
黒ずんだ板を踏む私の足音だけが、鳴動する雨音を掻き分ける静謐。思わず身体を抱く。自慢ではないが、私は怖がりだ。
脱衣所へと至る木戸の隙間からは、湯気が染み出て来ていた。廊下に膝を付き「映姫さん?」と声を掛けてみる。返答は無い。脱衣所に居ないとなると、まだ湯船に浸かっているのだろうか。
「……失礼、開けますよ」
私を取り巻く静寂に、声を上げる事が少々躊躇われる。それは動物としての本能だ。声を上げる事は、他者に自分の存在を知らしめる事。逢魔が時を迎えた屋敷の雰囲気に、私は飲まれているのかもしれない。木戸に指を掛け、横に引く――。
「――バァ!」
「ひゃあ!」
木戸の隙間に顔を寄せて声を上げ、まんまと私の虚を突いた映姫さんが、思わずあげてしまった私の悲鳴にクスクス笑いを漏らす。
「あきゅちゃん引っ掛かったぁ」
目に鮮やかな緑髪を湿らせたままの映姫さんは、何故か私の着物を身に纏っている。彼女よりも私の方が小柄なので、脛よりも下まで隠す事は叶わないようだった。
「な、な、何をするのですか! 心臓が止まるかと思いましたよぅ!」
「ドッキリ大成功! V!」
両手のピースサインで自分の顔を挟む映姫さん。
閻魔としての面影、ゼロ。
何だかどこまでも女の子だ。
「そんなダブルピースなんかして……えっちな妖怪に目を付けられても知りませんから」
「えー……その時はあきゅちゃんが守ってよぅ」
「やです。知りません。勝手に私の服まで持ち出して……」
頬を膨らませてプイとそっぽを向くと、「あきゅちゃんは可愛いなぁ」とにへらにへら間延びした声が映姫さんの口から漏れる。
「阿余ちゃんの時に同じ事したら、反射的に引っ叩かれたもん」
「意外とアグレッシブな私も居たのですね……」
「で、どうかした? ご飯のお誘い?」
「えぇ、まぁ。呼びに来たんですが――」
手拭いで撫でつける様に髪を拭く映姫さんをジロリと睨み付ける。上気した頬を持ち上げる様に、彼女の唇は笑みを描いていて、私を脅かした余韻に浸っている事をありありと物語る。ひ弱な私の心臓は、胸の内でまだ早鐘の様に肋骨を叩いていた。
「――意地悪をする人にご飯を上げる必要性について、今は考えてます」
「えー!? そんなぁ!」
目を丸くする映姫さんの様子が面白いので、もう少し弄ってみる事にする。
「時に閻魔って、果たして食事は必要なのでしょうか? 食べなくても大丈夫なのではないでしょうか」
「やだよぅ! お腹空いたよぅ! あきゅちゃんのご飯食べたいよぅ!」
駄々っ子みたいに喚きつつ私に縋りついてくる楽園の最高裁判官。
四季映姫・ヤマザナドゥのこんな姿は、私しか見れないんだなぁ……。
そんな意識から、私は敢えて彼女から顔を逸らしたまま、更に言葉を繋げる。
「多々良小傘さんは人を脅かす事で空腹を満たすそうですね? 付喪神にできる事が、まさか閻魔さまにできない筈も無いのでは? 私の悲鳴でお腹一杯になったんじゃないですかね?」
「無理! 無理だよぅそんなの!」
「ハ……どうだか……」
「うわああん! ごめんなさい! 調子に乗ってました! だからご飯を下さい!」
「判ればよろしい」
不必要に私の身体をベタベタと触って来る映姫さんの手から逃げる様に立ち上がると、四つん這いの彼女に笑い掛ける。
だんだん、今の映姫さんの扱い方を理解して来たように思う。そんな意識が私の心中に染み込むと、何だか映姫さんの痴態に慌てふためき、右往左往していた以前までの自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。
閻魔の制服と共に公的態度を脱ぎ去ってしまった彼女を、自分よりも偉い存在だと認識しない事が、上手く付き合う秘訣なのかもしれない。
「さ、行きましょう」
「うん」
立ち上がるのを待って広間へと先導する。すると「……ふふふ」と跳ねる様な映姫さんの笑い声が聞こえて来た。
「どうしました?」
「いや、あきゅちゃん、やっと肩の力、抜いてくれたなぁ……って」
その言葉は今まで以上に安堵にも似た柔らかな声音だった。
おちゃらけて砕け切っていた今までの彼女の行動。それは私の公的態度を崩し、映姫さん個人と対等に接する事ができる様に、という配慮だったのかもしれない。下着姿になる事も。敬語を使わない事も。私を『あきゅちゃん』なんて呼ぶ事も。
――そこまでしなければ多分私はずっと、彼女をお客さんとして扱うって事を、知っていたんだろうな。
なんて私はそんな事を、くすぐったい様な気持ちで考えていた。
◆◆◆
「ふぅ……」
食事が終わり、片付けを申し出てくれた映姫さんの言葉にも素直に甘える事ができる様になっていた私は、就寝前にお風呂を頂く事にしていた。
並べられた食事を口に運ぶ度に「美味しい」と微笑んでいた映姫さんは、料理は使用人の方々が用意してくれた物だと語ると、少々残念そうな表情を浮かべていた事を、湯船に浸かる私は思い出す。それはクッキーが咲夜さんの物だと語った時と同じ表情だったように思う。少々の申し訳なさを覚えた。
今度彼女が遊びに来るときは、不恰好でも、使用人の方々のお料理より美味しくなくても、私が手料理を振る舞った方が、映姫さんは喜ぶのだろう。
彼女と一緒に作っても良いかもしれない。
唐突に旧知の親友ができたような新しい関係性にワクワクしている私は、もう映姫さんからの手紙を読んで「えー……」なんて言わないだろう。
転生を重ね、その度にリセットされ続けて来た関係性。
それを何度も何度も、忙しい合間に休暇を作ってまでも再構築し続けて来た映姫さん。
彼女のその行動によって、記憶の欠落が故にどうしても遠くなってしまう御阿礼の子たちが、他ならぬ自分であると私は認識できている。苦手意識は去り、精神的カオスと折り合いを付ける術を体得した私は改めて、彼女が来てくれている事に感謝した。
くすりと笑いが漏れる。
揺らぐ水面に映る自分の顔を見る。
そんな私の耳に、突然、バン――と戸が木枠にぶつかる音が届く。
「――背中を流しに来たよ!」
振り向けば木綿の布を身体に巻いた映姫さんが、風呂場の入口で仁王立ちをしていた。
「えー……」
私の淡い未来予測が、一分も持たずに崩壊した。
彼女の視線が湯煙を貫いて私の身体に向けられていることに気付き、咄嗟に諸々を隠そうと足掻く。
「……阿未ちゃん以下……阿余ちゃん以下……阿七ちゃんとは比べ物にならない位に小さく……歴代最小だった阿弥ちゃんにも劣る……」
目を細めブツブツと何事かを呟く映姫さん。その顔はどうやら憐憫染みた表情を湛えている。
「何の話ですか……いや、言わなくて良いです」
「おっぱいの大きさ」
「言わなくて良いですって言いましたよね?」
睨み付ける。映姫さんに憐れみの表情を向けられるのは、大変に納得がいかない。小町さんとの彼岸組で形成される胸囲の格差社会における、持たざる側の癖に。
「将来性に期待……かな。大丈夫。阿弥ちゃんも成人までにグン、と伸びたから」
「映姫さん。死んでください」
「うん。ここで『死んでください』が出るのは、阿余ちゃん以降の伝統だなぁ……」
しみじみと呟く映姫さんに取り敢えず、お湯をぶっかけてやる。顔面にクリーンヒットしたお湯を拭いつつ、映姫さんがカラカラ笑った。
「まさか阿礼男の時にも、お風呂場に強襲を掛けたりしていないでしょうね……」
「ん? ん? 気になる? 気になる? どうだと思う? どうだと思う?」
「痴女かよ」
映姫さんの表情からクロだと判断した途端、はしたない言葉が口から飛び出した。この期に及んで私のキャラまで崩壊しちゃ、世界が有史以前の混沌に戻ってしまうじゃないか。
「流石に阿一君と阿爾君の時はやってないよぉ。一緒にお風呂に入るまでの中になったのは、阿未ちゃん以降。それもさっきのあきゅちゃんみたく、きちんと私に心を開いてくれてから」
「てことは、阿悟と阿夢の時には入ったんですね。何考えてるんですか」
「阿礼男の時の強襲は凄く楽しいんだけどね。二回目以降は警戒が厳重になるから、無駄にカギ開けのスキルなんて習得しちゃったりして」
ワキワキと十指を蠢かせる映姫さんが、随分と下種な笑みを浮かべる。もうこの人一体誰だろうと思いつつも、それを聞いて取り敢えず、男だった時の私が、喜んで彼女とお風呂に入る類の人間では無かった事に安堵した。
「さ、お背中流しましょうね」
「私、身体を洗ってから湯船に浸かる派閥ですから、もう洗っちゃってますが……」
「細かい事言わないの。私だって日に二回お風呂に入る派閥じゃないし」
聞く耳は持たない、とばかりに弾んだ声で映姫さんが言うので私は溜め息を吐きつつ、渋々湯船から出る。促されるままに風呂椅子に腰掛けて、彼女に背中を向けた。
「御阿礼の子って、本当に肌が綺麗だよねぇ……」
手拭いが背中を上下する感覚を追って、映姫さんが溜め息交じりに言う。
「まぁ、外にあまり出ませんしね」
「判る。外に出ないとどうしてもねぇ……」
「映姫さんもあまりお外に出ないからか、真っ白ですね」
「白黒はっきりさせる性分だもん。白なら白。黒なら黒。今後ちょっとでも日焼けとかしちゃったら、その時は真っ黒にする」
「それは止めた方が……」
一時期里の若い女性の間で、『ガン黒』なる文化が流行してしまった時の事を思い出す。里の男性連中はその流行を大いに嘆き批判し、私はと言えば焦っていたのか蒼ざめた表情を一様に浮かべた使用人の方々から『やらないで下さいまし!? 絶対にやらないで下さいまし!?』と、前振りみたいな心配をされた。
里のモb……もとい、一般的な人間の女性ですら相当な落胆の対象となるのだ。映姫さんが『ガン黒』に目覚めてしまったら、彼岸が崩壊するのではないかと薄ら寒さを覚える。
「ところで小町の肌が、何なら私よりも白くて綺麗なのは、なんか納得いかない」
私の背中に手桶のお湯を掛けつつ、映姫さんはポツリと呟く。
「あぁ、確かに小町さんも肌白いですね」
「なんで? 外勤な上に、しょっちゅうサボって草むらに寝てるのに。内勤女性としてのアドバンテージを奪われてる気さえする」
「いや、私に聞かれても……」
「メラニンが乳に行ってるのかな?」
「恐ろしい想像をしないで下さい」
一瞬、『ぱんだ』なる外界の動物みたいに、身体の一部だけが黒く染まっている小町さんを思い浮かべてしまう。何だろう。見たらトラウマになりそうだ。
「あぁ、それと、終わったよ」
「ありがとうございます。今度は映姫さんの番ですね」
「あれ、やってくれるの?」
弾んだ声に振り向くと、稀少本を見つけた小鈴位に満面の笑みを浮かべる映姫さんの顔が、視界に飛び込んでくる。
「個人的には、このままあきゅちゃんの背中を、ただただ愛でたり撫でたりする方向にシフトしようかとも思ってたんだけど」
「それを回避する思惑も少しありました」
「ちぇ。読まれてたかー」
唇を尖らせる映姫さんだけれども、ツンと突き出した唇の端は不満を演じきれずに緩んでいる。あぁこの人、本当に私の事が好きなんだなぁ……なんて。そんな自意識過剰めいた感情を私は抱いた。
立ち上がって風呂椅子に促すと、そわそわ顔の映姫さんが素直に従い、身体に巻いていた布を取り払う。木綿が彼女の肌を滑って風呂場の床に軽やかな音を立てて着地する。露わになった彼女の背中に、少しだけドキリとさせられる。
右の肩甲骨の下に一つ。
腰骨の上に二つ。
右の二の腕には一つ。左には三つ……。
私が知らない筈の彼女のホクロの数が、脳裏をサッと過る。反射的な無意識に宿る、歴代御阿礼の子の記憶。早鐘の様に打つ心臓を黙らせようと唾を一飲み。私の身体に内包された御阿礼の記憶を抜きにしても、やっぱり映姫さんは綺麗だった。
手桶に湯を汲んで、彼女の背中に掛ける。肌理の細かい背中の皮膚の上を、弾かれたお湯が玉状に纏まって転がり落ちる。呼吸の度、僅かに上下する身体。隠す物の何もない彼女の身体は、閻魔の重責に耐えられるとはとても思えない程に小さく見えた。
石鹸で泡立てた布を、映姫さんの背中に押し付ける。ビクリと彼女が震え、言い訳みたいに「ひゃ、くすぐったい」との声が追う。泡塗れの布越しでも、彼女の背中に余分な脂肪が皆無であることがハッキリと判った。何でか私は、とんでもない事をしている様な錯覚に陥る。
「……最近のお仕事の調子は、どうですか?」
沈黙にこの場を支配されてしまうのが怖くて、私は思いついた当たり障りの無い話題を投げ掛ける。「んー?」と間延びした映姫さんの声。反応が返って来た事に安堵を覚えた。
「ま、いつもとあんまり変わんない感じ。平和だろうが戦乱中だろうが人は死ぬし、簡略化された裁判は流れ仕事だもんね。ほとんど変化はないかなぁ」
「――映姫さんにとって」
「うん?」
「死者を裁くとは、どんな気持ちのする行為なのですか?」
それは単純に好奇心。この魂は輪廻転生に値する。この魂は地獄行き。そんな死者への膨大なラべリング作業。本来手の届かない領域に居る閻魔という存在。人間には触れ得ぬ理を管理する機関。
転生を繰り返しているとはいえ、私も人間。そんな存在は、一体何を思って人を裁いているのか。そんな思いがふと過ったが故の質問だった。
「……うーん」
映姫さんが腕を組んで考え込み始める。固唾を飲んで、彼女の導き出す答えを待っているが故に、気付けば私の手は止まっていた。
「特に考えた事は無かったけど強いて言うなら……千羽鶴を折る様な気分かなぁ?」
「千羽鶴? ですか?」
矢庭に出て来た彼女の例えを上手く飲み込めず、私は首を傾げる。
「うん。病気になった人に、『どうか元気になります様に』って、そう願いながら鶴を折るでしょ? 多分それと同じ感情。輪廻転生を許可する魂には、『次の命も善行に満ちた物であります様に』。地獄に落とす魂には、『勤めが終わってからの命が、今度は良い物であります様に』。解脱を成し遂げた魂は、『おめでとう。よく頑張りましたね』……。一つ一つの作業が簡略化されても、裁判の本質は同じ。そうして最終的には、『一つ一つの魂が寄り集まってできる此岸が、良き世界になります様に……』っていう纏まった願いになる感じ……かな? 無理矢理言葉にすると、そんな感情だと思う」
「……そう、ですか」
布を握ったまま、私は彼女の言葉を噛みしめていた。
閻魔とは恐ろしき者。善行、善行と口喧しい者。
そんな存在の行動原理が、慈愛と優しさに満ちていた物であったという事実は、私をどうしようもなく安心させてくれた。
切実な願いを秘めているからこそ、恐ろしくもなる。
必死だからこそ、口喧しくもなる。
人の触れ得ぬ理。しばしば無慈悲も映る、感情の通じない歯車。
しかしその源泉は斯くも優しくて……。
「――私、映姫さんがこうして来てくれて、本当に良かったって、思ってます」
彼女の背中に湯を掛けながら、私は胸の内の本心を語る。
「本当? じゃあ、結婚しよっか」
ニコニコ笑いながら振り向いたかと思うと、またぞろセンチメンタリズムをぶち壊しにする言葉を吐いた映姫さんに、水瓶に貯めていた冷水をぶっかけた。
◆◆◆
――夜が更けている。
障子から差し込む朝の静謐な空気と青灰色の空の気配で、私はふと目を覚ました。
映姫さんは私の隣に敷いた布団の中に丸まって、静かな寝息を立てている。
雨の音は無い。夜の内に、どうやら晴れてくれたらしい。そんな事を思いながら、私は縁側へと出て朝の香りで肺を満たす。雨の匂いが混じった冷たい空気が清々しい。
昨日お風呂から上がった後の時間は、あっという間に過ぎてしまった。
茶碗を洗うついでにお布団を敷いたと胸を張る映姫さんの言葉をありがたく思いつつ自室の襖を開ければ、一組の布団に二つの枕が並んでいる様を見せつけられた。
黙ってもう一組布団を出したら、「何でよぅ何でよぅ」と文句を言われた。
布団の上でお酒を飲み始めたら余程疲れていたのか、冷酒一杯で映姫さんは目をトロンとさせ、おつまみが半分も無くならない内に眠ってしまった。
そんな訳で、お泊り会と言えば夜更かしをするのが相場な気はするけれどその実、私は普段よりもずっと早く床に就いたのだ。朝日が昇る前に目を覚ました要因が、それだ。
「んぅ……」
開け放していた障子の隙間の向こうから、映姫さんの声が聞こえて来る。衣擦れの音がそれを追い、振り向くと上体を起こした彼女が眠そうな目を擦っていた。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「ふわぁ……あきゅちゃん、おはよ」
欠伸を一つ零した映姫さんが、私に笑い掛ける。つられて私も微笑み、「おはようございます」と返した。
「今日は、いつまでですか?」
「んー……昼には戻らなきゃ……裁判は無いけど事務処理とか書類とか、残ってるし……」
立ち上がった映姫さんが、グッと伸びをする。寝巻は私が普段使っている白の襦袢。寝起きながらも全く乱れの無い肌着から、彼女に染み付いた真面目さの片鱗が窺えた。
「朝食、食べて行かれますよね?」
「うん」
「私が、作りますね。作り置きじゃなくて、私の手料理を」
「ほんと? 嬉しい」
布団の上で柔軟を始めた映姫さんが、まだ少し蕩けている表情で微笑む。
「味は保証できませんが、良いですか?」
「味じゃないよ。重要なのは、気持ち。栄養摂取の必要が無い種族には、特にね」
「はい」
コクリと頷くと、映姫さんが満足げに「んふふ」と笑い声を漏らした。
「まだ寝ていても結構ですよ? 準備ができたら起こして差し上げますから」
「手伝わなくても大丈夫?」
「えぇ」
「それじゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
込み上げた欠伸を噛み殺した映姫さんが、のそのそと緩慢な動きで布団の中へと舞い戻って行く。それを見届けた私は襖を閉め、調理場へと向かった。
庭を流れる風は梅雨のジメジメとした暑気を払う様に涼しく、湿った松の木の枝には雀が止まり、朝日を待たずして連歌合の様に唄っていた。良い朝だ。私の頬が自然に緩むのを感じた。
「……何を作りましょう」
さて、とばかりに意気込んで台所に入ったは良い物の、あまり厨房に立った経験も無い私は手始めに何をすればいいのかも見当がつかない。いやしくも箱入り娘である私にとって、朝食とは寝ぼけ眼の合間に出される物であり、誰かに提供するという概念自体に乏しい。食材自体は買い置きされているから困る事は無いのだろうが、その豊富さが逆に私を惑わせる。
彼岸での生活。
映姫さんの補佐を担う地獄での日々。
私から欠落したその期間には、こうして彼女に朝食を用意する場面もあったのだろうか。
布団に横たわる彼女の姿を思い描く。
するとその着想を追って刹那染みた光景が私の脳裏をふと過る。
包丁を握る手。青菜を切り、味噌を取り出し、厚揚げを視界の片隅に確認する。
そんなあまりにも具体的な、既視感。
「……?」
一瞬、動揺する。自然な調理の光景。その記憶。しかしながら私は、そんな光景に覚えがない。何だろう。今のイメージは。映姫さんの事を考えた途端に、降って湧いた様な調理風景は――。
再度私は、映姫さんの事を脳裏に浮かべてみる。寝ている彼女を。これからの彼女を待つ、閻魔としての業務を。おっかなびっくりな思考に、フラッシュバックが再来する。
今度はより鮮明に。より具体的に。より肉感を持って。
台所に立つ私。やるべき事が身体に染み付いている、という自覚。自信。即座に脳内を廻る、洗練された作業工程。
白米を炊く。
その合間に青菜を切り、味噌汁を作る。
鍋に具材を入れたら、漬物を取り出して――。
連想ゲーム染みた既視感。経験した筈の無いルーチンワーク。朝食の用意。映姫さんと自分が食べる朝食を調理するという事。その工程。碌に包丁を握った事も無い私が……?
私の困惑を余所に、私の身体が勝手に朝食の支度に取り掛かる。釜を出す。米の量を測る。それを研ぐ。恐々と挑戦するそんな工程の一つ一つは、実践すると驚く程に私の身体に馴染んだ。調理の初心者である筈の私の手付きは、しかし実に小慣れている様に思えた。
無意識が、私を急き立てる。
一つの作業に取り掛かるその間に、私の脳細胞は次の作業の工程を組み上げている。
米を洗い終わったな。それじゃ次は水を入れろ。
火を焚いて、釜を乗せろ。蓋を忘れるな。
その次は味噌汁だ。映姫さんは厚揚げと青菜の味噌汁が好物だろ。
青菜の切り方。厚揚げの切り分け方。その手付き。その全ては自明であるとでも言わんばかりに最適解を導き出し続ける。次。その次。これが終わったら、次はこの作業をやらねば……。
調理。食事の支度。手慣れた者にとっては、その工程の全ては自明だ。忙しなく立ち回る身体の動線から無駄を省き、手早く、簡潔に、それで居ながら決して手は抜かない。洗練された行動の積み重ね。解せないのは、その行程を、料理などしたことも無い私が完璧に熟しているという事実。まるで今まで幾百度も繰り返して来たかの様な……。
――あぁ、そうか。
ご飯、お味噌汁、お漬物。その三つの準備を終えた私は、漸うその理由に辿り着く。
私は、これまでの私は、私が阿求となる前のこの魂は、数え切れない程に映姫さんへ朝食を提供し続けて来たのだ。
阿一、阿爾、阿未、阿余、阿悟、阿夢、阿七、阿弥。
九番目の御阿礼である私の魂に。私の無意識に。映姫さんの為に作る料理の工程が、全て刻み込まれているのだ。
どんなに記憶が欠落しても、私が心を許しきった彼女に戸惑っていても、私が彼女と共に過ごした千年以上の年月は、失われずに私に受け継がれているのだ。
四季映姫・ヤマザナドゥはどうしようもなく、『私』を、『私たち』と連結させてくれているのだ。
この感情を、どう呼ぼう。定義不可能な思い。戸惑っていた私が、精神的カオスと呼んでいたその思念。それは混沌などでは無かった。阿求としての身体で再会した映姫さんを歓迎する、堆積した無意識の集合体。それに、ただ私が気付かなかっただけなのだ。
「……ありがとう」
『私』が、『私たち』であるという確たる証拠を明示してくれる調理工程の参集群を見て、私は自然とその言葉を口にしていた。うん。この気持ち。この感情だ。ありがとう。ありがとう。私と一緒に居てくれて。私たちを愛してくれて。暖かさが胸中で膨れ上がり、その末節が私の目頭にまで届く。滲んだ視界を袖で明瞭に戻すと、朝食ができた旨を知らせる為に自室へと小走りで戻った。
千年以上続いて来た朝の一時が、再来する。
微睡んでいた映姫さんの肩を叩き、「朝食ができましたよ」と告げる。私の口から出たその言葉もまた、私の舌に、声帯に、唇に、馴染み深い一言の様に思われた。
「あー、ありがとう……」
布団に包まったまま目を擦り、私に微笑みかける映姫さん。ゆったりと上体を起こす彼女を急かす様に、「ほら、ほら」と肩を叩く。
早く私が作った朝食を見て欲しかった。それを味わって欲しかった。私の無意識、魂に染み込んでいた行程が、彼女の為に練磨された物だと証明して貰いたかった。
込み上げる欠伸を片手で覆う映姫さんの手を引き、広間へと誘う。昨日敷いたままだった座布団の上に彼女を座らせると、ウキウキとした心地で「少々お待ちを」と残して台所へと引っ込む。
盆を取り出す。茶碗に白米をよそう。小皿に漬物を並べ、味噌汁を注ぐ。箸を取り出す。行程の一つ一つを確かめる。私の骨身に作業が染み付いていると再確認する。
私が私である事の確認。
『私』が『私たち』である事の自認。
込み上げる感情が錯覚などでは無い事を、映姫さんに認めて欲しかった。
だからこそ、盆を持って廊下を歩く私の胸に、予兆と期待に先行する不安が忍び寄りつつあった。
本当に、私の作った朝食を気に入って貰えるだろうか。
口にした彼女が、眉を顰めたりはしないだろうか。
全ての工程は、本当に正しかったのだろうか。
不意に訪れた不安に、手が震える。器がカタカタと小刻みに鳴動する。
「――お待たせしました」
襖を開けた先で、映姫さんは柔らかく微笑んでこちらを見ていた。
「うん、ありがと」
その表情に、その首肯に、ほんの少しだけ私の不安が和らぐ。しかし緊張の波はすぐさま小規模な安堵を飲み込んでしまう。
卓に盆を置く。彼女の前に食器を並べる。朝の静謐な空気が未だ充満していた広間に、食事が棚引かせる湯気がフワリと靡く。並べ終わった食事を眺める映姫さんの目を、私は不躾ながらもジッと観察していた。観察せざるを得なかった。
「どうぞ」
その場に腰を降ろして促した私の声音は、微かに震えていた。不安と緊張に締め付けられて、胸の奥で心臓が鼓動を速めている。
「……あきゅちゃんのは?」
「用意してます。ちゃんと一緒に食べます。でもその前に、映姫さんに味を見て貰いたいのです」
「――そっか」
一言で、彼女は私の思う所に気が付いてくれたようで、深く追求せずに微笑んでくれた。
「いただきます」
手を合わせ、彼女が箸を持つ。その手は味噌汁へと迷う事無く伸びる。椀を掴む彼女の指。手繰り寄せ、液面に浮かぶ青菜を眺め、そして彼女が一口、啜る。
……あぁ。
吐息。嘆息とも安堵とも不明瞭な純粋に発せられる声。私は息を飲む。彼女が続けて発するだろう言葉を聞き逃さぬよう、前のめりになる。しかし彼女は何も言おうとしない。ただただ手に持った椀の液面を眺めている。
何を思っているのだろう。
……まさか、不味かったか。
味噌の分量を間違えたか。青菜の切り方が気に入らなかったか。そんな錯綜する私の思考を余所に何の前触れも無く、彼女の瞳から涙が滲む。
ツゥ、と。流れた涙が彼女の頬に一筋の跡を描く。
「――御阿礼の子の、味だぁ……」
ポロリと零れた言葉の後を追う様に、再度涙が彼女の頬を伝う。後から。後から。止め処なく零れる涙に私は、何を言う事もできずに佇んでいた。
「阿一君の味……阿爾君の味……阿未ちゃんの……阿余ちゃんの……。阿悟君の、阿夢君の、阿七ちゃんの、阿弥ちゃんの、作ってくれるお味噌汁の味だよ……いつも彼岸で作ってくれる味……彼岸でしか食べられない筈の……懐かしいな……この味……温かい、味……美味しいよ……美味しい。凄く、美味し……」
映姫さんが身体を折る。味噌汁の入った椀を抱きしめる様に。その手が震えている。歓喜に。感涙に。嗚咽を漏らす彼女が、目頭を拭う。こちらを向く。私を見る。赤く腫れぼったくなり始めている瞳が、ふにゃりと笑みを描いた。
「あきゅちゃん……すっごく美味しい。何年振りかな……嬉しい。凄く嬉しいよ。一緒に食べよ? あきゅちゃんが作ってくれたご飯、一緒に食べよ?」
「――はい」
たったそれだけを紡ぎ出すのに、詰まった胸では酷く難儀してしまった。
あぁ、良かった。
『私』に堆積されている『私たち』は、やっぱり、彼女と一緒の時を過ごして来たのだ。私の目頭を熱する歓喜。それは証明の達成より、純粋に映姫さんが喜んでくれた事への感情だった。
その指向性。映姫さんが喜んだ事その物が無上の喜びであるという、その事実。
どうしようもなくそれが嬉しくなってしまって、私もまた、彼女と同じように泣いてしまった。
再来の前の、ほんの少しの間だけ。
◆◆◆
「――すっかりお邪魔になってしまいまして、感謝します」
玄関口で靴を履いた映姫さんが、慇懃無礼に頭を深々と下げて来る。閻魔の制服をきちんと身に纏った彼女は、また格式ばった姿勢を取り戻していた。
「もう、私にはそんな姿勢じゃなくても良いのに」
名残惜しい思いを胸に抱く私は、本心からその言葉を贈る。微笑む彼女はしかし、柔らかく首を横に振る。
「そういう訳にも行きません。閻魔の制服を纏えば、私は四季映姫個人では無いのです。何よりも閻魔でなくてはならない。理を構成する歯車でなくてはならないのです。この姿勢を例え貴女の前ででも変えてしまったら、ヤマザナドゥとしての自分に齟齬が生じてしまうのです」
「……不器用、なんですね」
「えぇ、自分でも呆れてしまう程に」
照れ臭そうに、映姫さんが指先で頬を掻く。彼女が閻魔に戻ってしまった事が、私は何だか寂しくて仕方が無かった。仕様の無い事だと判っていても。
「……それでは、そろそろ失礼します」
傘を携えて、映姫さんが小さく頭を下げる。
「はい」
「どうか、お体にお気をつけて」
「映姫さんこそ」
「また、遊びに来てもよろしいでしょうか?」
「当然。いつでもいらしてください」
「……それを聞いて、ホッとしました」
では、と残して再度、最敬礼をした彼女が、稗田の家を後にする。突っ掛けを履いた私も彼女の背中を追って戸口へと出る。長雨が去って深く澄んだ青空には、東の方に入道雲が登っている。
直に夏が来る。季節が流転する。廻り廻り廻る四季を謳歌して、私もまたいつの日か彼岸の『四季』の下へと旅立つのだ。
「さようなら!」
去って行く彼女の背に、千切れんばかりに腕を振る。閻魔然とした権威を身に纏った彼女は公的立場を逸しない程度に、それでも最大限に私の見送りに答えてくれた。
青い空の下。日に日に夏の匂いを孕み始める戸外で、私は今まで、転生がちっとも怖くなかった源泉について、悟ったのであった。
Fin
梅雨の時期を迎え雨の降る日が続くこの頃、稗田阿求女史におきましては益々の善行に日々専念なされているかと存じます。
お蔭さまで彼岸の勤務も滞りなく進んでおり、繁忙期たる盆時期を目前に控えまして私も日々、裁判執行という大役を任されております。
さて此度は私事で大変恐縮では御座いますが、来たる水無月の十五日昼過ぎから翌日の朝に掛けまして梅雨の休暇、外泊の許可を頂く事が出来ましたので、ご都合がよろしければ再度、稗田亭に足を向けさせて頂きたく、厚かましくも手紙をしたためさせて頂きました。
ご面倒だろうとは思いますが、稗田家の使用人の方々へのご通知の方、よろしくお願いしたく存じます。
どうぞお身体にお気をつけて、十五日に再会出来る事を、楽しみにしております。
四季映姫・ヤマザナドゥ
◆◆◆
等とまあ、何とも堅苦しい手紙を受け取った私はと言えば、思わず「えー……」なんて失礼千万な声を漏らしてしまう。
楽園の最高裁判長こと、四季映姫・ヤマザナドゥ。
御阿礼の子である私の転生に関して、全面的に協力してくれる閻魔様。
ある人曰く、真面目が服を着て歩く仕事の鬼。ある人曰く、活動する説教のバーゲンセール。死者を裁く仕事が休みになれば、彼女の担当地区である幻想郷の此岸までやって来ては、誰彼構わず有難いお説教をクドクドと並べてくれる、大変に仕事熱心な女性だ。
しかしながら私の渋面の理由としては、どれも当て嵌まらない。
「阿求様。そのお手紙は、閻魔さまからという事でしたが……」
便箋を私の部屋まで運んで来てくれた侍女の弥恵が、何やら深刻そうな表情を浮かべて、恐る恐る、といった風に問いかけてくる。
閻魔からの手紙と来れば、転生の儀を連想してしまうのも無理は無い。何か良からぬトラブルでも……と私を心配してくれている弥恵に、私は首を横に振る。
「心配いりません。四日後に彼女が遊びに来るってだけです」
私の言葉に、弥恵はホッとしたと言わんばかりに胸を撫で下ろす。
「……と言う事は」
「えぇ。十五日と十六日のお昼までは、全員お休みを取って下さい。申し訳ないのですが前回と同じように、住み込みの方々は――」
「はい。存じ上げております。どこかに宿を見つけましょう。博麗神社脇の温泉宿なんか良いでしょうねぇ」
ほぅ、と溜め息を吐く弥恵。恐らく前回、映姫さんがやって来た時の休暇を思い出しているのだろう。
映姫さんが私の家に泊まる時の決まりごと。
それは私と彼女以外の家の者に休暇を出して、家の中を我々二人だけにするという事。
何ともまぁ正直な所、客人としては出過ぎた真似というか、碌なお持て成しもできなくなるという奇妙なお願い事ではあるのだけれども、世にも珍しい閻魔さまの我が儘と言われれば、私としては断る事ができる筈も無い。
それに前回彼女が来た時を思い返せば成程、彼女の不躾に近い申し出も納得できると言うか、正直私も家の者が居てくれなくて良かったと思ったと言うか……。
「それでは十四日の晩までには、当日のお食事の準備やお掃除を済ませておくように致しますね」
「ご面倒でしょうが……」
「いえいえ滅相も無い……阿求様におきましても、どうか頑張ってくださいね」
頑張ってください、の部分に熱を込めて言うと弥恵は辞令を皆に伝えに行くのだろうか、頭を垂れて私の部屋を後にした。
四季映姫・ヤマザナドゥの説教好きに関しては、里の人間の中にも被害者が多数いる関係で、最早里の中に知らぬ者も居ない程に有名な事だ。だから弥恵は今回も前回と同じように、私が映姫さんから夜を徹してお説教を喰らうのだろう、と思っているに違いない。
……本当は全然、そうじゃないんだけど。
◆◆◆
迎えた十五日は、昨今の日々を束ねる梅雨時期から漏れない空模様だった。
使用人の方々が居ない屋敷の中というのは、普段以上に仰々しく、かつだだっ広く感じられる。普段の心地いい喧騒は絶え、襖の向こう側から聞こえて来る雨降りと、庭に誂えられた鹿威しの音がシン、とした空間に染み入って来るばかり。
今更そわそわした所で何もないと知っている私は、いつも通りに自室で書に筆を走らせていた。使用人が誰も居ないので、文机の傍らに置いたお茶も自分で淹れた物だ。いつもよりも薄い気がする。紅茶に関しては少々自信があるけれど、舌を喉の渇きを潤す目的で傍らに置いておく緑茶に関しては、やっぱり弥恵が淹れてくれる物の方が美味しい。
等と思いつつ、こちらも自分で切った不揃いな羊羹に手を伸ばし掛けた辺りで、玄関口から「御免下さい」との凛とした声が聞こえて来る。
言わずもがな、映姫さんのご到着だ。
「はい。少々お待ちを」
日頃声を張る事など殆どない私のその声が、果たして玄関外に居るであろう彼女に聞こえたのかは定かでは無い。ともあれ私は筆を硯に置いたまま彼女の待つ玄関へと向かう。長い廊下にも人の気配はまるで無く、何だか私は自分の屋敷とよく似た別の空間に居るんじゃなかろうか、等と良く判らない錯覚を覚える。
角を曲がって玄関口に出ると、硝子戸の向こう側には小柄なシルエットが大仰な傘を差しているのが窺えた。突っ掛け草履を足袋の股に通して戸を開けると、神妙な面持ちを壁掛けの能面の様に張り付けた四季映姫・ヤマザナドゥが立っていた。
「お久しぶりです。稗田阿求女史。この度は私の不躾なお願い事を聞いて頂きまして、心より感謝いたします」
休暇だと言っていたのに制服に袖を通している彼女は、制服の色と合わせたのか紺色の番傘を畳んで雨粒を払いつつ、慇懃に頭を下げて来る。
「いえいえ、お構いなく」
彼女が来訪した前回の事を思い出していた私は、彼女の真面目な仕草に苦笑を漏らしつつ、御座なりな挨拶を済ませる。
「あの……お手紙にしたためましたけれども、前回同様に屋敷の皆様は……」
申し訳なさそうに、歯切れ悪く切り出した映姫さんに、私はコクリと一度頷く。
「はい。確かに誰も居ませんし、急な用事で帰って来る事も無いよう、念を押して置きました」
「そうですか……お心遣い、感謝いたします」
私の返答にホッとしたらしく、番傘を傘置き用の壺に差しながら彼女が表情を和らげる。
「お茶の準備をしますので、私の部屋で待っていて下さい。場所は、判りますよね」
「えぇ。ありがとう」
後ろ手に戸を閉めた映姫さんは、抜け目なく鍵を掛けつつ微笑みかけてくる。
――兆候が既に出てるな。なんて、彼女の返答を聞いて私は思う。
前回は判らなかったけれど、普段の彼女ならば「ありがとうございます」と一息に言う。言葉尻を崩す様な真似は決してしない。
「それでは、後程」
「うん」
その無邪気な頷きが、第二段階。
靴を脱ぐ彼女を尻目に、私は台所へと向かってお茶の準備に入る。霖之助さんから頂いた『がすこんろ』なる外界の道具を取り出し、それのツマミを回して火を点け、お湯を沸かす。戸棚に仕舞って置いたダージリンの缶を開け、ティーポットを引っ張り出して紅茶の準備。お茶請けは一昨日、「作り過ぎちゃったから」と紅魔館の咲夜さんから頂いたクッキーにしておく。私が紅茶好きだと言って以来、時々持って来てくれるのだ。
やがて湯が沸く。沸騰させた湯で茶器を温める。注いだ湯を捨て、ティーポットに茶葉を入れる。なるべく高い位置からヤカンの湯をポットに流し込む。ジャンピングという技術なのだと、これまた咲夜さんから教わった。
紅茶の支度を進める私の心境としては、中々にカオスだ。
文筆業を生業にしているにも拘らず、私の感情を掬い取る事はどうにも難しい。
彼岸に居る際には常に行動を共にしている映姫さんとの記憶は、転生の折にほとんど失われてしまうのが常なのだが、彼女と一緒に居ると欠落していた筈の記憶がふと蘇って来たりする。
求聞持の能力を有する私にとって、『思い出す』というのは何とも稀有な体験。
私以前。つまりは御阿礼から始まって阿弥まで。九人分の私たちと四季映姫・ヤマザナドゥとの生活は、当然その代毎に違う。記憶を取り戻す事が、おしなべて素晴らしい経験かというと実はそうでもない。
何と言っても現在の御阿礼は他でも無い私であって、私は紛う事無き少女であるわけで……。
これ以上の想起は、ひとまず止めておこう。
また顔が耳まで熱くなってきた。
タイミング良く紅茶も入った事だし、お盆を取り出してソーサーとカップを二組乗せる。皿に並べた咲夜さんのクッキーも備え、ティーポットを設置したら準備も完了。自室へと向けて廊下を進んで行く。最初の異変は、角を曲がってすぐの場所に転がっていた。
――帽子。
帽子が落ちている。
言わずと知れた閻魔の帽子。四季映姫・ヤマザナドゥという肩書を体現するに相応しい重厚な帽子は今、無造作にも廊下のど真ん中に転がっていた。
二度目の事なので私は驚かない。帽子を跨いで、更に廊下を進む。次なる異変は帽子が転がっていた場所から七歩ほど離れた場所にあった。
今度は上着。もちろん映姫さんの制服。服を畳むという概念すら忘失したのか、揉みくちゃに壁際で佇む閻魔の権威は、どうやら布製の小山へと、ぞんざいな変貌を遂げている。
最後の異変は私の部屋の前。
歪な円を描くそれは驚く事無かれ、紺色のスカートである。
持ち主は最早、言うまでもない。
前回見た時には驚きの余りに、早めの転生を済ませてしまう所だった。
襖同士の継ぎ目を遮る短めのスカートを、恐れ多くも私は足で除ける。どうせ後で拾うのだ。それに掃除も行き届いている。打ち捨てられた権威の残骸にあたふたする必要も無いと私は知っている。
「紅茶を淹れて来ましたよ」
襖を開けると、そこには当然四季映姫さんがいらっしゃる。しかしながら今の彼女を、果たしてどこの誰が想像できると言うのだろうか。
断言する。居ない。
二つ折りにした座布団を控えめな胸の下に敷いて、シュミーズとパンツ、そしてニーハイソックスのみを身に纏っただけという、だらしない事極まりない姿で畳の上に寝転がり、勝手に私の書棚から持って来たと思しき本を捲りつつ、勝手に緑茶と羊羹に手を伸ばしている楽園の最高裁判官の姿など、一体どこの誰が想像し得るだろうか。
「あー、あきゅちゃん、ありがとー」
天真爛漫な笑顔と共に彼女の口から出てくるその言葉には、責任感、真面目、堅物、仕事の鬼、閻魔、etc……etc……。そんな四季映姫・ヤマザナドゥを形作っていた筈の硬質さなどは爪の欠片ほども存在しない。シュミーズの肩ひもが肘近くまで降りている事すら、気にしていない様子。
仰天した貴方。それは正しい反応です。
前回私は、自分の見ているソレが信じられなくて、部屋の入口で腰を抜かしました。頭がおかしくなったのかとさえ思いました。すわ幻術か。写輪眼か。月詠か。そのどれでも無いと知り、脱ぎ散らかされた服を見た時以上に転生の足音が間近に聞こえました。
これこそが、映姫さんが人払いをしてくれと頼みこんで来た理由。
映姫さんが、我が家に休暇という名目でやって来る時の決まりごと制定の根源。
真面目が服を着て歩いている様、という表現は間違いだった訳だ。帽子を脱いで、制服を脱ぎ散らかした彼女は性格が変わるというよりはむしろ、封じられし第二の人格が解放されると言った方が正しい位。閻魔としての正装をキャストオフした彼女は、服を脱いだ真面目という中間地点をすっ飛ばして、この有様へと変貌する。
ドライアイスみたいだ。
液状の二酸化炭素は存在しない。
中間をすっ飛ばしてしまう辺りは、それと大体同じ。
「映姫さん。前にも言いましたけど、はしたないです」
そんな違和感しか無い閻魔さまの痴態も二度目の目撃とあって、平静を保ったまま私は溜め息を吐く。
「良いじゃん。良いじゃん。私とあきゅちゃんの仲なんだしぃ」
んふふー、と鼻から笑い声を垂れ流し、【虚無の騎士(シュタインヒェン=ド=バルサ・ザール)】と金文字で書かれた本を放ってごろりと寝返りを打つ映姫さん。おへそが丸見えだ。
その余りの自由さ加減と砕けた口調から、私はこの状態の映姫さんを見ると、宵闇の妖怪を思い出す。案外ルーミアと映姫さんは似ているのかもしれない。ルーミアのリボン型お札を取り外したら、普段の映姫さんみたいな人格が現れるのかも。なんて。
「……前にも言いましたけど、私は彼岸での貴女との生活を殆ど覚えてないんですけどね」
文机の片隅にお盆を置き、書き途中だった書を丸めて仕舞いつつ、私は半裸の映姫さんに肩を竦める。
「あきゅちゃんは忘れんぼさんだからねー」
これまで一度も聞いた事が無い指摘をしつつ、映姫さんは両手の上に顎を乗せて笑う。
「転生の度に、彼岸で過ごした私との生活を忘れちゃうんだから……甘える相手が居なくなって寂しいよぅ」
「小町さんとかどうです?」
「ダメ。小町はダメ」
「どうして?」
「私のこんな姿見られたらサボりを正当化されそうだし。何より恥ずかしいもん」
恥の体現以外の何物でもない下着姿のまま、映姫さんが不満げに唇を尖らせる。
「私なら良いんですか」
「あきゅちゃんじゃないとダメぇ」
両手を交差させてバツを作る映姫さんが、小町さんに聞かれたら刺されそうな事を平然と言ってのける。ちょっぴり罪悪感。
彼岸に渡った御阿礼の魂は、転生用の肉体ができるまでは地獄に赴き、閻魔の補佐をして百年近くを過ごす。
彼女の言う彼岸での生活とはつまりその事で、そうなると私と映姫さんは、かれこれ千年近くずっと一緒に居る存在になる訳だ。そもそも映姫さんが幻想郷担当の閻魔になった経緯も、私が幻想郷に居るからという理由が大きいとの事。
となると、当然の事ながら他の誰よりも映姫さんと親しい存在が(殆どその期間の記憶が無かろうとも)私となるのは自明の理で、だからこそ映姫さんは私の前でだけ、こうして羽目を外すのも納得はできる。
あくまで理屈としては、の話。
歴代の御阿礼の子の記述にも無かったこの映姫さんの姿は、二度目じゃまだ現実として素直に受け入れるにはギャップが激しすぎる。絶対書かないで、と前回念を押された事から察するに、今までの御阿礼の子達。阿礼乙女たちや阿礼男たちもまた、今の私と同じように映姫さんの痴態に仰天し続けて来たであろう事は想像に難くない。
ともあれ誰も知らない閻魔さまの一面を独り占めしている事実、というより相手側が全面的に心を開いてくれているというのは純粋に嬉しいし、私の知らない私の話を聞くのも、興味深くはある。
ただ、今の映姫さんの心は、服装以上に開けっ広げなのだ。そこが少し問題。
前回など突然「14!」と叫んだ映姫さんに「何の事です?」と聞いた所、「私のホクロの数。阿悟君が教えてくれたの」なんて言う物だから、色々と死ぬかと思った。
その仰天発言を呼び水にして、彼岸にて自分が阿悟だった時の記憶がほんの少しだけ甦ってしまって以降、私の魂は若干の分裂を経験している。私自身の認識は真面目一辺倒な閻魔さまだと判断する映姫さんの事を、阿悟だった時の認識記憶は、恋人以上の存在だと喚き立てるのだから、純粋乙女である筈の私の自我が揺さぶられて敵わない。
その辺りが私の中のカオスの根幹。台所での赤面の理由。手紙を受け取った時の「えー……」の原因。
要は、気恥ずかしくて堪らないという単純な理屈。
そこまで親しくないと思い込んでいた相手の身体の、どこにどんなホクロがあるのか、それを知ってしまっている私の心中は、お察し願いたい。私自身は好きな男の子に対する片恋慕の経験さえ、まだだと言うのに。転生を繰り返して堆積していく魂の弊害とでも言うべきか。やれやれだ。
「良い匂いだぁ」
凛としていた声音を甘ったるく融解させた映姫さんが、文机に置いたポットから漂う紅茶の香りをクンクン嗅いだ後に、ほぅと溜め息を吐く。
「お粗末な手際ではありますが……」
「んーん。美味しそう。嬉しいな。あきゅちゃんが、私の為に用意してくれたって事が嬉しい」
空になっていた羊羹用の小皿や湯呑を盆に戻す私の膝元へと、匍匐前進の要領で寄って来た映姫さんが、漸うシュミーズの肩ひもをあるべき場所に戻した。
「クッキーも、あきゅちゃんが焼いたの?」
「いえ、こちらは紅魔館の咲夜さんから頂いた物です」
「そ」
心なしか肩を落として呟いた映姫さんが、腹這いの体勢のまま皿の上に手を伸ばし、クッキーを口の中へと放る。だらしないなぁ。だらえーき、という造語が脳裏を過る。
「ん、美味しい」
「咲夜さんはお菓子作りにも精通してますしね」
クッキーを咀嚼しつつ、味わう様に目を細める映姫さんを横目に、カップへ紅茶を注ぐ。
「あきゅちゃんだって、好きだったじゃん。お菓子作るの」
「そうなんですか?」
「阿七ちゃんの時だったかなぁ……あの子は和菓子党だったけど」
流石に紅茶は寝転がったまま味わえないと気付いたのか、のそのそと身体を起こした映姫さんが、足を投げ出す体勢で文机の前に座る。
「ふむ……そう言えば確かに、阿七の日記には和菓子が頻出しますね」
「あの子、甘味中毒だったからねー……三日間餡子を食べないと、挙動不審になるの」
「そうなんですか……」
そこまでは日記にも書いてなかった。甘味中毒とはどんな症状なのだろう。体中を掻き毟ったり、血が出るまで爪を噛んだりしたんだろうか。一応は自分の事ながら、全く想像がつかない。
注ぎ終えた紅茶を映姫さんに差し出すと、「ありがとぉ」とこれまた砕け切ったお礼が返って来た。
「紅茶が好きなのは、あきゅちゃんが初めてかなぁ」
緋色の液面に目を落としつつ、小首を傾げた映姫さんが言う。
「そうですね。私の代から」
「なんか、不思議だよねぇ……同じ魂が同じ過程で同じ家系に生まれてるのに、趣味嗜好がちょっとずつ違うんだもん……性格も」
カップに唇を寄せて傾けたかと思うと、「あちち……」と舌を出しつつ映姫さんが驚いた様な挙動で、カップから離れる。猫舌だったか。
「映姫さんでも、不思議に思うんですね……この身体を用意して下さったのも、転生の許可をして下さるのも、貴女なのに……」
「きっと、私よりももっと高位の理が関係してるんじゃないかなぁ」
ふーふー、と紅茶に息を吹きかけて冷まそうとながら、映姫さんがさっきとは反対方向へと首を傾げる。
「先代の記憶の殆どを引き継げないのも、男女の性別が代わるのも、私の与り知らない領域だからねー……阿礼さんを転生させて阿一君になった時、彼岸での生活を忘れられてたのショックでさぁ、二回目の転生の時には色々頑張ってみたんだけど、阿爾君もやっぱり私の事、忘れてた。そんなもんかぁ……でも良いかな、此岸に遊びに来てみると、断片的に思い出してくれる事もあったし、阿礼さんの目的はきちんと引き継がれてるんだから、私情なんて二の次……なんて思ってたら、阿爾君の次は阿未ちゃんだったもんだから、もうびっくりよ。転生って、性別まで変化し得るんだ……みたいな?」
カップを持ったまま、映姫さんが肩を竦めて溜め息を吐く。紅茶で舌を湿らせ、クッキーに手を伸ばしつつも、私は彼女に視線を固定させていた。
「阿未が女性になったこと自体は、ショックでしたか?」
私は少々立ち入った質問を投げ掛ける。御阿礼から阿爾まで。それでも三百年以上を共に過ごした異性が、同性になってしまった事。それを彼女がどう受け止めたのか。私自身も女である以上、ちょっと気になったのだ。
しかし冷ました紅茶に唇を寄せる彼女は、逡巡も無く即座に「んーん」と首を横に振り、上目遣いで私を見る。
「びっくりしただけ」
区切る様に言うと、映姫さんは紅茶を一口含み、嚥下してからソーサーにカップを戻す。
「確かに、阿未ちゃんが成長するまで、ちょっと悩んだのは本当だけど、実際に休暇を作って、今こうしてるみたいに阿未ちゃんと喋ってみたら、何だろう……匂いみたいな、雰囲気というか、そういうのはやっぱり、それまでの人たちと同じだった。それで私、すっごく安心したんだ。あぁ、変わらないな……って。性格が変わっても、私の事、覚えてなくても、やっぱり同じ魂なんだな……ってね」
そう言って彼女はまたクッキーに手を伸ばして口の中に放り込むと、咀嚼しながら小さく溜め息を吐く。唇の端に笑みを携えていて、私はその溜め息が安堵のそれだと知る。
「それは、私も?」
「うん。変わらない。だから、一緒に居ると凄く安心する」
「そうですか……」
前回は全く持って青天の霹靂だっただけに、困惑というか緊張というか、立ち入った話もできなかったが故の苦手意識と精神的カオスが、映姫さんのその安らいだ表情を見て和らいでいる事に私は気付く。
私自身であるにもかかわらず、記憶の欠落が故に、どこか他人の様に思えてしまう御阿礼の子たち。転生と欠落が産む自意識の隔絶はその実、四季映姫という個人の存在によって繋がっていると知れた事は、私にとっては新しい発見だった。
……何だろう。純粋に、嬉しい。
「そういう訳なので――」
文机に両肘を立てて身を乗り出し、顎を乗せる体勢になった映姫さんが唇だけでニッコリと微笑んでくる。
「一緒にお風呂に入ろう」
「どういう訳ですか」
センチメンタルな空気をぶち壊しにする発言に、思わず私は紅茶を噴き出しそうになる。
何故そうなる。唐突過ぎる。コンテクストガン無視なその提案に、和らいだ筈の苦手意識と精神的カオスが舞い戻って来た。
「イヤ? 一応、恒例行事なんだけど」
「やです。恐れ多い。大体なんでこのタイミングでお風呂なんですか」
「空気が湿っぽくなったのが嫌だったし、何より肌寒くなって来たんだもん」
「下着姿で居りゃ、寒くもなるでしょうよ。服着て下さい」
襖の向こうにまだ散らばっているであろう衣服群を指差しながら突っ込む。すると映姫さんは「んふふー」なんて鼻歌みたいに笑いながら首を横に振った。
「やーだぁ」
……うわぁ。
何だこの人。何だこの人。何だこの人。
私が知らなかっただけで、実はお馬鹿だったのか。
「本当は別の目的があります」
「聞きましょう」
「あきゅちゃんの発育状態をしっかりと確認したい」
「貴女、本当に四季映姫さんですか? 狸が化けてるんじゃ無いでしょうね」
あぁ……。
四季映姫・ヤマザナドゥの権威が失墜していく。
下着姿でダラダラしてる状態がどん底だと思ってたら、更に深い場所へと落ちて行ってしまった。
なんて思ってると不意に映姫さんがスッと背筋を伸ばし、真っ直ぐと力強い視線で私を射抜く。あの凛とした雰囲気が再来した。
「――稗田阿求。湯で身体を清めるという事は、単純な身体の老廃物の除去に留まらず、日常におけるハレとケの境を明確に分断するという事。公事と私事を分かつという事。メリハリの付いた規則正しい生活を送る事は、善行を積む上で欠かす事のできない土台であるのです。そう、あなたは少し公私を混同しすぎている――」
「……」
どういう事でしょうか?
公私混同とお風呂、関係無くないですか?
「貴女は適切な公私の判断を誤っている。現状を公的な態度で臨んでいるというその姿勢。それ自体が既に取り返しの付かない誤謬なのです。どこの世界に、下着姿の女の子を敬う必要性のある空間がありますか」
「まぁ、無いでしょうけど……」
「また敬語を使った。私が裁判を担当するなら、貴女は地獄へ落とすわね」
「え? 敬語で?」
「私は歴代御阿礼の子との生活を下地にした上でここに来ているつもりです。敬語は相手との距離を遠ざける因子である可能性を、あなたは忘れている。あなたはここで少し、裁かれる必要がある。嫌なら司法取引です。私と入浴を共にするならば、裁きの中止を視野に入れましょう」
「えっと、ごめんなさい。こんな事、言うべきじゃないんでしょうけど、判ってるつもりなんですけど、言いますね。貴女、馬鹿なんですか?」
「やだー! あきゅちゃんに馬鹿って言われたー!」
名残り雪が地面に触れて融けるよりも早く、閻魔としての張り詰めた空気をかなぐり捨てた映姫さんが、駄々っ子の様に喚きながら畳の上をゴロゴロ転がって向こう側へと遠ざかって行く。
「お風呂! お風呂! おーふーろー!」
うん。決定。この人、馬鹿だった。
ただ、私の中に堆積する御阿礼の子達としての記憶故か、若干その様が可愛いと思えてしまっているので、愛すべきお馬鹿とフォローしておきましょう。
「……他の御阿礼の子たちの時も、そんな感じだったんですか?」
転がるのを止めた映姫さんに聞いてみると、「まぁね。阿弥ちゃんの時には、『馬鹿なんですか?』じゃなくて、『死んでください』だったよー」と即答される。どうやらこの茶番劇も含めての恒例行事だったらしい。
そうだろうなぁ……。
同性である私を始めとした阿礼乙女なら兎も角、異性だった時の御阿礼の子の拒絶は、私よりももっと激しかっただろうなぁ……。「本当ですか! やった!」なんて二つ返事で了承する御阿礼の子が居たら、多分私は軽蔑する。凄く軽蔑する。軽蔑の対象もまた自分だけど。
「とまぁ、冗談は兎も角として……」
立ち上がった映姫さんが、シュミーズの肩ひもを両方とも二の腕まで降ろしたまま、こちらへと歩いて戻ってくる。転がる過程でずり落ちたのか、ニーハイソックスの絶対領域は左右で高さが違った。
「お風呂には入りたいから、お風呂場、借りるね」
「あ、それじゃ私、沸かして来ますよ……?」
「ダーメぇ」
立ち上がり掛けた私の動きを、ニヤニヤ笑いの映姫さんが首を横に振って制する。左右に振った首の動きがシュミーズのズリ落ちを誘発して、無防備な鎖骨が丸見えになる。
「お風呂位、自分で沸かせるよ。閻魔だからってプライベートが無い訳じゃないんだし。あきゅちゃんはその間に、ご飯の支度してて」
「でも……」
「残念、決定事項です」
リュックを背負う要領で、両肩ひもを有るべき位置に戻した映姫さんが肩を竦める。お皿の上のクッキーを抓み上げると、気後れする私を尻目に「ご飯、お願いね」とだけ残してサッサと私の部屋を後にしてしまった。
何とも自由だなぁ……なんて今更な感情が去来する私。
しかしながら困惑する自意識を置き去りにして、操作不可能な私の無意識は、やりたい放題な彼女の行動を全面的に許してしまっている。予測の範囲を出ないよね、みたいな正体不明の納得感。それどころか度肝を抜かれっ放しな映姫さんの行動を見て、安心感さえ抱いている自分が確かに存在する。
何でだろう。
頭を捻りつつ半分ほど残っていた紅茶を一口含む。
私を構成する表層的なロジックが、
一、これまでの御阿礼の子が幾度も彼女と相対して来た事。
二、その度にこんなやり取りを経験して来たであろう事、
三、それを私が忘れているだけという事。
との推測を投げ掛けて来て漸く、私の無意識が享受している安心感の源泉について理解するに至った。
つまり使い回されている私の魂には、四季映姫という個人が深く深く刻み込まれているという訳だ。私の脳みそから抜け落ちている記憶はしかし、御阿礼の魂が受け止めてる、という単純な理屈。前世の記憶はしっかりと、無意識の海に堆積してる訳か。
「……カオスだなぁ」
独り言。『私と貴女は前世で恋人同士だったのですよ!』という電波な理屈が現実的に成り立ってしまっている事実に、思わず苦笑してしまう。まだ実感こそできないけれど、つまりはそういう事なんだろう。
ともあれ任された以上、ご飯の用意をしなくちゃ。
茶器の類をお盆に重ねて台所へと向かう。
廊下に脱ぎ捨てられていた洋服は映姫さん自身によって拾い上げられたらしく、既にして影も形も無かった。
◆◆◆
ご飯の用意と言われても、大体の準備は昨日の夜までに使用人の皆さんが済ませてくれていたので、そこまで面倒でも無いし、時間自体も掛からなかった。
煮染めたしいたけや、花の形に飾り切りを済まされた人参、錦糸卵や絹さや等、色取り取りの具材が、ふんだんにあしらわれたチラシ寿司。
出汁を存分に吸い込んだ高野豆腐。
ほうれん草のお浸し。
火に掛けるだけで準備が整うお吸い物。
湯通しした菜の花と白胡麻の和え物。
鮮やかで何ともハレの匂い漂うお料理の数々は、盛り付ければ準備が済むように配慮が行き届いていて、用意をしてくれた使用人の方々の優しさが嬉しい。
今頃は彼女たちも、温泉に浸かって羽を伸ばしているのだろうか。宿場経営のノウハウなんて無い霊夢さんに代わって、里の有志が管理している博麗神社脇の温泉宿。
折を見て足を運べたらきっと楽しいだろうな、なんて考える。小鈴にでも声を掛けて、いつか一緒に行ってみようかな。
広間の机の上に料理や箸など諸々の支度を済ませた私は、準備が済んだ旨を伝える為にお風呂場の映姫さんの下へと足を向ける。雨はまだ止む気配も無く、日中から薄暗かった廊下は夜を目前にして、薄闇が跋扈を始めていた。
……自分の家ながら薄気味が悪い。
黒ずんだ板を踏む私の足音だけが、鳴動する雨音を掻き分ける静謐。思わず身体を抱く。自慢ではないが、私は怖がりだ。
脱衣所へと至る木戸の隙間からは、湯気が染み出て来ていた。廊下に膝を付き「映姫さん?」と声を掛けてみる。返答は無い。脱衣所に居ないとなると、まだ湯船に浸かっているのだろうか。
「……失礼、開けますよ」
私を取り巻く静寂に、声を上げる事が少々躊躇われる。それは動物としての本能だ。声を上げる事は、他者に自分の存在を知らしめる事。逢魔が時を迎えた屋敷の雰囲気に、私は飲まれているのかもしれない。木戸に指を掛け、横に引く――。
「――バァ!」
「ひゃあ!」
木戸の隙間に顔を寄せて声を上げ、まんまと私の虚を突いた映姫さんが、思わずあげてしまった私の悲鳴にクスクス笑いを漏らす。
「あきゅちゃん引っ掛かったぁ」
目に鮮やかな緑髪を湿らせたままの映姫さんは、何故か私の着物を身に纏っている。彼女よりも私の方が小柄なので、脛よりも下まで隠す事は叶わないようだった。
「な、な、何をするのですか! 心臓が止まるかと思いましたよぅ!」
「ドッキリ大成功! V!」
両手のピースサインで自分の顔を挟む映姫さん。
閻魔としての面影、ゼロ。
何だかどこまでも女の子だ。
「そんなダブルピースなんかして……えっちな妖怪に目を付けられても知りませんから」
「えー……その時はあきゅちゃんが守ってよぅ」
「やです。知りません。勝手に私の服まで持ち出して……」
頬を膨らませてプイとそっぽを向くと、「あきゅちゃんは可愛いなぁ」とにへらにへら間延びした声が映姫さんの口から漏れる。
「阿余ちゃんの時に同じ事したら、反射的に引っ叩かれたもん」
「意外とアグレッシブな私も居たのですね……」
「で、どうかした? ご飯のお誘い?」
「えぇ、まぁ。呼びに来たんですが――」
手拭いで撫でつける様に髪を拭く映姫さんをジロリと睨み付ける。上気した頬を持ち上げる様に、彼女の唇は笑みを描いていて、私を脅かした余韻に浸っている事をありありと物語る。ひ弱な私の心臓は、胸の内でまだ早鐘の様に肋骨を叩いていた。
「――意地悪をする人にご飯を上げる必要性について、今は考えてます」
「えー!? そんなぁ!」
目を丸くする映姫さんの様子が面白いので、もう少し弄ってみる事にする。
「時に閻魔って、果たして食事は必要なのでしょうか? 食べなくても大丈夫なのではないでしょうか」
「やだよぅ! お腹空いたよぅ! あきゅちゃんのご飯食べたいよぅ!」
駄々っ子みたいに喚きつつ私に縋りついてくる楽園の最高裁判官。
四季映姫・ヤマザナドゥのこんな姿は、私しか見れないんだなぁ……。
そんな意識から、私は敢えて彼女から顔を逸らしたまま、更に言葉を繋げる。
「多々良小傘さんは人を脅かす事で空腹を満たすそうですね? 付喪神にできる事が、まさか閻魔さまにできない筈も無いのでは? 私の悲鳴でお腹一杯になったんじゃないですかね?」
「無理! 無理だよぅそんなの!」
「ハ……どうだか……」
「うわああん! ごめんなさい! 調子に乗ってました! だからご飯を下さい!」
「判ればよろしい」
不必要に私の身体をベタベタと触って来る映姫さんの手から逃げる様に立ち上がると、四つん這いの彼女に笑い掛ける。
だんだん、今の映姫さんの扱い方を理解して来たように思う。そんな意識が私の心中に染み込むと、何だか映姫さんの痴態に慌てふためき、右往左往していた以前までの自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。
閻魔の制服と共に公的態度を脱ぎ去ってしまった彼女を、自分よりも偉い存在だと認識しない事が、上手く付き合う秘訣なのかもしれない。
「さ、行きましょう」
「うん」
立ち上がるのを待って広間へと先導する。すると「……ふふふ」と跳ねる様な映姫さんの笑い声が聞こえて来た。
「どうしました?」
「いや、あきゅちゃん、やっと肩の力、抜いてくれたなぁ……って」
その言葉は今まで以上に安堵にも似た柔らかな声音だった。
おちゃらけて砕け切っていた今までの彼女の行動。それは私の公的態度を崩し、映姫さん個人と対等に接する事ができる様に、という配慮だったのかもしれない。下着姿になる事も。敬語を使わない事も。私を『あきゅちゃん』なんて呼ぶ事も。
――そこまでしなければ多分私はずっと、彼女をお客さんとして扱うって事を、知っていたんだろうな。
なんて私はそんな事を、くすぐったい様な気持ちで考えていた。
◆◆◆
「ふぅ……」
食事が終わり、片付けを申し出てくれた映姫さんの言葉にも素直に甘える事ができる様になっていた私は、就寝前にお風呂を頂く事にしていた。
並べられた食事を口に運ぶ度に「美味しい」と微笑んでいた映姫さんは、料理は使用人の方々が用意してくれた物だと語ると、少々残念そうな表情を浮かべていた事を、湯船に浸かる私は思い出す。それはクッキーが咲夜さんの物だと語った時と同じ表情だったように思う。少々の申し訳なさを覚えた。
今度彼女が遊びに来るときは、不恰好でも、使用人の方々のお料理より美味しくなくても、私が手料理を振る舞った方が、映姫さんは喜ぶのだろう。
彼女と一緒に作っても良いかもしれない。
唐突に旧知の親友ができたような新しい関係性にワクワクしている私は、もう映姫さんからの手紙を読んで「えー……」なんて言わないだろう。
転生を重ね、その度にリセットされ続けて来た関係性。
それを何度も何度も、忙しい合間に休暇を作ってまでも再構築し続けて来た映姫さん。
彼女のその行動によって、記憶の欠落が故にどうしても遠くなってしまう御阿礼の子たちが、他ならぬ自分であると私は認識できている。苦手意識は去り、精神的カオスと折り合いを付ける術を体得した私は改めて、彼女が来てくれている事に感謝した。
くすりと笑いが漏れる。
揺らぐ水面に映る自分の顔を見る。
そんな私の耳に、突然、バン――と戸が木枠にぶつかる音が届く。
「――背中を流しに来たよ!」
振り向けば木綿の布を身体に巻いた映姫さんが、風呂場の入口で仁王立ちをしていた。
「えー……」
私の淡い未来予測が、一分も持たずに崩壊した。
彼女の視線が湯煙を貫いて私の身体に向けられていることに気付き、咄嗟に諸々を隠そうと足掻く。
「……阿未ちゃん以下……阿余ちゃん以下……阿七ちゃんとは比べ物にならない位に小さく……歴代最小だった阿弥ちゃんにも劣る……」
目を細めブツブツと何事かを呟く映姫さん。その顔はどうやら憐憫染みた表情を湛えている。
「何の話ですか……いや、言わなくて良いです」
「おっぱいの大きさ」
「言わなくて良いですって言いましたよね?」
睨み付ける。映姫さんに憐れみの表情を向けられるのは、大変に納得がいかない。小町さんとの彼岸組で形成される胸囲の格差社会における、持たざる側の癖に。
「将来性に期待……かな。大丈夫。阿弥ちゃんも成人までにグン、と伸びたから」
「映姫さん。死んでください」
「うん。ここで『死んでください』が出るのは、阿余ちゃん以降の伝統だなぁ……」
しみじみと呟く映姫さんに取り敢えず、お湯をぶっかけてやる。顔面にクリーンヒットしたお湯を拭いつつ、映姫さんがカラカラ笑った。
「まさか阿礼男の時にも、お風呂場に強襲を掛けたりしていないでしょうね……」
「ん? ん? 気になる? 気になる? どうだと思う? どうだと思う?」
「痴女かよ」
映姫さんの表情からクロだと判断した途端、はしたない言葉が口から飛び出した。この期に及んで私のキャラまで崩壊しちゃ、世界が有史以前の混沌に戻ってしまうじゃないか。
「流石に阿一君と阿爾君の時はやってないよぉ。一緒にお風呂に入るまでの中になったのは、阿未ちゃん以降。それもさっきのあきゅちゃんみたく、きちんと私に心を開いてくれてから」
「てことは、阿悟と阿夢の時には入ったんですね。何考えてるんですか」
「阿礼男の時の強襲は凄く楽しいんだけどね。二回目以降は警戒が厳重になるから、無駄にカギ開けのスキルなんて習得しちゃったりして」
ワキワキと十指を蠢かせる映姫さんが、随分と下種な笑みを浮かべる。もうこの人一体誰だろうと思いつつも、それを聞いて取り敢えず、男だった時の私が、喜んで彼女とお風呂に入る類の人間では無かった事に安堵した。
「さ、お背中流しましょうね」
「私、身体を洗ってから湯船に浸かる派閥ですから、もう洗っちゃってますが……」
「細かい事言わないの。私だって日に二回お風呂に入る派閥じゃないし」
聞く耳は持たない、とばかりに弾んだ声で映姫さんが言うので私は溜め息を吐きつつ、渋々湯船から出る。促されるままに風呂椅子に腰掛けて、彼女に背中を向けた。
「御阿礼の子って、本当に肌が綺麗だよねぇ……」
手拭いが背中を上下する感覚を追って、映姫さんが溜め息交じりに言う。
「まぁ、外にあまり出ませんしね」
「判る。外に出ないとどうしてもねぇ……」
「映姫さんもあまりお外に出ないからか、真っ白ですね」
「白黒はっきりさせる性分だもん。白なら白。黒なら黒。今後ちょっとでも日焼けとかしちゃったら、その時は真っ黒にする」
「それは止めた方が……」
一時期里の若い女性の間で、『ガン黒』なる文化が流行してしまった時の事を思い出す。里の男性連中はその流行を大いに嘆き批判し、私はと言えば焦っていたのか蒼ざめた表情を一様に浮かべた使用人の方々から『やらないで下さいまし!? 絶対にやらないで下さいまし!?』と、前振りみたいな心配をされた。
里のモb……もとい、一般的な人間の女性ですら相当な落胆の対象となるのだ。映姫さんが『ガン黒』に目覚めてしまったら、彼岸が崩壊するのではないかと薄ら寒さを覚える。
「ところで小町の肌が、何なら私よりも白くて綺麗なのは、なんか納得いかない」
私の背中に手桶のお湯を掛けつつ、映姫さんはポツリと呟く。
「あぁ、確かに小町さんも肌白いですね」
「なんで? 外勤な上に、しょっちゅうサボって草むらに寝てるのに。内勤女性としてのアドバンテージを奪われてる気さえする」
「いや、私に聞かれても……」
「メラニンが乳に行ってるのかな?」
「恐ろしい想像をしないで下さい」
一瞬、『ぱんだ』なる外界の動物みたいに、身体の一部だけが黒く染まっている小町さんを思い浮かべてしまう。何だろう。見たらトラウマになりそうだ。
「あぁ、それと、終わったよ」
「ありがとうございます。今度は映姫さんの番ですね」
「あれ、やってくれるの?」
弾んだ声に振り向くと、稀少本を見つけた小鈴位に満面の笑みを浮かべる映姫さんの顔が、視界に飛び込んでくる。
「個人的には、このままあきゅちゃんの背中を、ただただ愛でたり撫でたりする方向にシフトしようかとも思ってたんだけど」
「それを回避する思惑も少しありました」
「ちぇ。読まれてたかー」
唇を尖らせる映姫さんだけれども、ツンと突き出した唇の端は不満を演じきれずに緩んでいる。あぁこの人、本当に私の事が好きなんだなぁ……なんて。そんな自意識過剰めいた感情を私は抱いた。
立ち上がって風呂椅子に促すと、そわそわ顔の映姫さんが素直に従い、身体に巻いていた布を取り払う。木綿が彼女の肌を滑って風呂場の床に軽やかな音を立てて着地する。露わになった彼女の背中に、少しだけドキリとさせられる。
右の肩甲骨の下に一つ。
腰骨の上に二つ。
右の二の腕には一つ。左には三つ……。
私が知らない筈の彼女のホクロの数が、脳裏をサッと過る。反射的な無意識に宿る、歴代御阿礼の子の記憶。早鐘の様に打つ心臓を黙らせようと唾を一飲み。私の身体に内包された御阿礼の記憶を抜きにしても、やっぱり映姫さんは綺麗だった。
手桶に湯を汲んで、彼女の背中に掛ける。肌理の細かい背中の皮膚の上を、弾かれたお湯が玉状に纏まって転がり落ちる。呼吸の度、僅かに上下する身体。隠す物の何もない彼女の身体は、閻魔の重責に耐えられるとはとても思えない程に小さく見えた。
石鹸で泡立てた布を、映姫さんの背中に押し付ける。ビクリと彼女が震え、言い訳みたいに「ひゃ、くすぐったい」との声が追う。泡塗れの布越しでも、彼女の背中に余分な脂肪が皆無であることがハッキリと判った。何でか私は、とんでもない事をしている様な錯覚に陥る。
「……最近のお仕事の調子は、どうですか?」
沈黙にこの場を支配されてしまうのが怖くて、私は思いついた当たり障りの無い話題を投げ掛ける。「んー?」と間延びした映姫さんの声。反応が返って来た事に安堵を覚えた。
「ま、いつもとあんまり変わんない感じ。平和だろうが戦乱中だろうが人は死ぬし、簡略化された裁判は流れ仕事だもんね。ほとんど変化はないかなぁ」
「――映姫さんにとって」
「うん?」
「死者を裁くとは、どんな気持ちのする行為なのですか?」
それは単純に好奇心。この魂は輪廻転生に値する。この魂は地獄行き。そんな死者への膨大なラべリング作業。本来手の届かない領域に居る閻魔という存在。人間には触れ得ぬ理を管理する機関。
転生を繰り返しているとはいえ、私も人間。そんな存在は、一体何を思って人を裁いているのか。そんな思いがふと過ったが故の質問だった。
「……うーん」
映姫さんが腕を組んで考え込み始める。固唾を飲んで、彼女の導き出す答えを待っているが故に、気付けば私の手は止まっていた。
「特に考えた事は無かったけど強いて言うなら……千羽鶴を折る様な気分かなぁ?」
「千羽鶴? ですか?」
矢庭に出て来た彼女の例えを上手く飲み込めず、私は首を傾げる。
「うん。病気になった人に、『どうか元気になります様に』って、そう願いながら鶴を折るでしょ? 多分それと同じ感情。輪廻転生を許可する魂には、『次の命も善行に満ちた物であります様に』。地獄に落とす魂には、『勤めが終わってからの命が、今度は良い物であります様に』。解脱を成し遂げた魂は、『おめでとう。よく頑張りましたね』……。一つ一つの作業が簡略化されても、裁判の本質は同じ。そうして最終的には、『一つ一つの魂が寄り集まってできる此岸が、良き世界になります様に……』っていう纏まった願いになる感じ……かな? 無理矢理言葉にすると、そんな感情だと思う」
「……そう、ですか」
布を握ったまま、私は彼女の言葉を噛みしめていた。
閻魔とは恐ろしき者。善行、善行と口喧しい者。
そんな存在の行動原理が、慈愛と優しさに満ちていた物であったという事実は、私をどうしようもなく安心させてくれた。
切実な願いを秘めているからこそ、恐ろしくもなる。
必死だからこそ、口喧しくもなる。
人の触れ得ぬ理。しばしば無慈悲も映る、感情の通じない歯車。
しかしその源泉は斯くも優しくて……。
「――私、映姫さんがこうして来てくれて、本当に良かったって、思ってます」
彼女の背中に湯を掛けながら、私は胸の内の本心を語る。
「本当? じゃあ、結婚しよっか」
ニコニコ笑いながら振り向いたかと思うと、またぞろセンチメンタリズムをぶち壊しにする言葉を吐いた映姫さんに、水瓶に貯めていた冷水をぶっかけた。
◆◆◆
――夜が更けている。
障子から差し込む朝の静謐な空気と青灰色の空の気配で、私はふと目を覚ました。
映姫さんは私の隣に敷いた布団の中に丸まって、静かな寝息を立てている。
雨の音は無い。夜の内に、どうやら晴れてくれたらしい。そんな事を思いながら、私は縁側へと出て朝の香りで肺を満たす。雨の匂いが混じった冷たい空気が清々しい。
昨日お風呂から上がった後の時間は、あっという間に過ぎてしまった。
茶碗を洗うついでにお布団を敷いたと胸を張る映姫さんの言葉をありがたく思いつつ自室の襖を開ければ、一組の布団に二つの枕が並んでいる様を見せつけられた。
黙ってもう一組布団を出したら、「何でよぅ何でよぅ」と文句を言われた。
布団の上でお酒を飲み始めたら余程疲れていたのか、冷酒一杯で映姫さんは目をトロンとさせ、おつまみが半分も無くならない内に眠ってしまった。
そんな訳で、お泊り会と言えば夜更かしをするのが相場な気はするけれどその実、私は普段よりもずっと早く床に就いたのだ。朝日が昇る前に目を覚ました要因が、それだ。
「んぅ……」
開け放していた障子の隙間の向こうから、映姫さんの声が聞こえて来る。衣擦れの音がそれを追い、振り向くと上体を起こした彼女が眠そうな目を擦っていた。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「ふわぁ……あきゅちゃん、おはよ」
欠伸を一つ零した映姫さんが、私に笑い掛ける。つられて私も微笑み、「おはようございます」と返した。
「今日は、いつまでですか?」
「んー……昼には戻らなきゃ……裁判は無いけど事務処理とか書類とか、残ってるし……」
立ち上がった映姫さんが、グッと伸びをする。寝巻は私が普段使っている白の襦袢。寝起きながらも全く乱れの無い肌着から、彼女に染み付いた真面目さの片鱗が窺えた。
「朝食、食べて行かれますよね?」
「うん」
「私が、作りますね。作り置きじゃなくて、私の手料理を」
「ほんと? 嬉しい」
布団の上で柔軟を始めた映姫さんが、まだ少し蕩けている表情で微笑む。
「味は保証できませんが、良いですか?」
「味じゃないよ。重要なのは、気持ち。栄養摂取の必要が無い種族には、特にね」
「はい」
コクリと頷くと、映姫さんが満足げに「んふふ」と笑い声を漏らした。
「まだ寝ていても結構ですよ? 準備ができたら起こして差し上げますから」
「手伝わなくても大丈夫?」
「えぇ」
「それじゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
込み上げた欠伸を噛み殺した映姫さんが、のそのそと緩慢な動きで布団の中へと舞い戻って行く。それを見届けた私は襖を閉め、調理場へと向かった。
庭を流れる風は梅雨のジメジメとした暑気を払う様に涼しく、湿った松の木の枝には雀が止まり、朝日を待たずして連歌合の様に唄っていた。良い朝だ。私の頬が自然に緩むのを感じた。
「……何を作りましょう」
さて、とばかりに意気込んで台所に入ったは良い物の、あまり厨房に立った経験も無い私は手始めに何をすればいいのかも見当がつかない。いやしくも箱入り娘である私にとって、朝食とは寝ぼけ眼の合間に出される物であり、誰かに提供するという概念自体に乏しい。食材自体は買い置きされているから困る事は無いのだろうが、その豊富さが逆に私を惑わせる。
彼岸での生活。
映姫さんの補佐を担う地獄での日々。
私から欠落したその期間には、こうして彼女に朝食を用意する場面もあったのだろうか。
布団に横たわる彼女の姿を思い描く。
するとその着想を追って刹那染みた光景が私の脳裏をふと過る。
包丁を握る手。青菜を切り、味噌を取り出し、厚揚げを視界の片隅に確認する。
そんなあまりにも具体的な、既視感。
「……?」
一瞬、動揺する。自然な調理の光景。その記憶。しかしながら私は、そんな光景に覚えがない。何だろう。今のイメージは。映姫さんの事を考えた途端に、降って湧いた様な調理風景は――。
再度私は、映姫さんの事を脳裏に浮かべてみる。寝ている彼女を。これからの彼女を待つ、閻魔としての業務を。おっかなびっくりな思考に、フラッシュバックが再来する。
今度はより鮮明に。より具体的に。より肉感を持って。
台所に立つ私。やるべき事が身体に染み付いている、という自覚。自信。即座に脳内を廻る、洗練された作業工程。
白米を炊く。
その合間に青菜を切り、味噌汁を作る。
鍋に具材を入れたら、漬物を取り出して――。
連想ゲーム染みた既視感。経験した筈の無いルーチンワーク。朝食の用意。映姫さんと自分が食べる朝食を調理するという事。その工程。碌に包丁を握った事も無い私が……?
私の困惑を余所に、私の身体が勝手に朝食の支度に取り掛かる。釜を出す。米の量を測る。それを研ぐ。恐々と挑戦するそんな工程の一つ一つは、実践すると驚く程に私の身体に馴染んだ。調理の初心者である筈の私の手付きは、しかし実に小慣れている様に思えた。
無意識が、私を急き立てる。
一つの作業に取り掛かるその間に、私の脳細胞は次の作業の工程を組み上げている。
米を洗い終わったな。それじゃ次は水を入れろ。
火を焚いて、釜を乗せろ。蓋を忘れるな。
その次は味噌汁だ。映姫さんは厚揚げと青菜の味噌汁が好物だろ。
青菜の切り方。厚揚げの切り分け方。その手付き。その全ては自明であるとでも言わんばかりに最適解を導き出し続ける。次。その次。これが終わったら、次はこの作業をやらねば……。
調理。食事の支度。手慣れた者にとっては、その工程の全ては自明だ。忙しなく立ち回る身体の動線から無駄を省き、手早く、簡潔に、それで居ながら決して手は抜かない。洗練された行動の積み重ね。解せないのは、その行程を、料理などしたことも無い私が完璧に熟しているという事実。まるで今まで幾百度も繰り返して来たかの様な……。
――あぁ、そうか。
ご飯、お味噌汁、お漬物。その三つの準備を終えた私は、漸うその理由に辿り着く。
私は、これまでの私は、私が阿求となる前のこの魂は、数え切れない程に映姫さんへ朝食を提供し続けて来たのだ。
阿一、阿爾、阿未、阿余、阿悟、阿夢、阿七、阿弥。
九番目の御阿礼である私の魂に。私の無意識に。映姫さんの為に作る料理の工程が、全て刻み込まれているのだ。
どんなに記憶が欠落しても、私が心を許しきった彼女に戸惑っていても、私が彼女と共に過ごした千年以上の年月は、失われずに私に受け継がれているのだ。
四季映姫・ヤマザナドゥはどうしようもなく、『私』を、『私たち』と連結させてくれているのだ。
この感情を、どう呼ぼう。定義不可能な思い。戸惑っていた私が、精神的カオスと呼んでいたその思念。それは混沌などでは無かった。阿求としての身体で再会した映姫さんを歓迎する、堆積した無意識の集合体。それに、ただ私が気付かなかっただけなのだ。
「……ありがとう」
『私』が、『私たち』であるという確たる証拠を明示してくれる調理工程の参集群を見て、私は自然とその言葉を口にしていた。うん。この気持ち。この感情だ。ありがとう。ありがとう。私と一緒に居てくれて。私たちを愛してくれて。暖かさが胸中で膨れ上がり、その末節が私の目頭にまで届く。滲んだ視界を袖で明瞭に戻すと、朝食ができた旨を知らせる為に自室へと小走りで戻った。
千年以上続いて来た朝の一時が、再来する。
微睡んでいた映姫さんの肩を叩き、「朝食ができましたよ」と告げる。私の口から出たその言葉もまた、私の舌に、声帯に、唇に、馴染み深い一言の様に思われた。
「あー、ありがとう……」
布団に包まったまま目を擦り、私に微笑みかける映姫さん。ゆったりと上体を起こす彼女を急かす様に、「ほら、ほら」と肩を叩く。
早く私が作った朝食を見て欲しかった。それを味わって欲しかった。私の無意識、魂に染み込んでいた行程が、彼女の為に練磨された物だと証明して貰いたかった。
込み上げる欠伸を片手で覆う映姫さんの手を引き、広間へと誘う。昨日敷いたままだった座布団の上に彼女を座らせると、ウキウキとした心地で「少々お待ちを」と残して台所へと引っ込む。
盆を取り出す。茶碗に白米をよそう。小皿に漬物を並べ、味噌汁を注ぐ。箸を取り出す。行程の一つ一つを確かめる。私の骨身に作業が染み付いていると再確認する。
私が私である事の確認。
『私』が『私たち』である事の自認。
込み上げる感情が錯覚などでは無い事を、映姫さんに認めて欲しかった。
だからこそ、盆を持って廊下を歩く私の胸に、予兆と期待に先行する不安が忍び寄りつつあった。
本当に、私の作った朝食を気に入って貰えるだろうか。
口にした彼女が、眉を顰めたりはしないだろうか。
全ての工程は、本当に正しかったのだろうか。
不意に訪れた不安に、手が震える。器がカタカタと小刻みに鳴動する。
「――お待たせしました」
襖を開けた先で、映姫さんは柔らかく微笑んでこちらを見ていた。
「うん、ありがと」
その表情に、その首肯に、ほんの少しだけ私の不安が和らぐ。しかし緊張の波はすぐさま小規模な安堵を飲み込んでしまう。
卓に盆を置く。彼女の前に食器を並べる。朝の静謐な空気が未だ充満していた広間に、食事が棚引かせる湯気がフワリと靡く。並べ終わった食事を眺める映姫さんの目を、私は不躾ながらもジッと観察していた。観察せざるを得なかった。
「どうぞ」
その場に腰を降ろして促した私の声音は、微かに震えていた。不安と緊張に締め付けられて、胸の奥で心臓が鼓動を速めている。
「……あきゅちゃんのは?」
「用意してます。ちゃんと一緒に食べます。でもその前に、映姫さんに味を見て貰いたいのです」
「――そっか」
一言で、彼女は私の思う所に気が付いてくれたようで、深く追求せずに微笑んでくれた。
「いただきます」
手を合わせ、彼女が箸を持つ。その手は味噌汁へと迷う事無く伸びる。椀を掴む彼女の指。手繰り寄せ、液面に浮かぶ青菜を眺め、そして彼女が一口、啜る。
……あぁ。
吐息。嘆息とも安堵とも不明瞭な純粋に発せられる声。私は息を飲む。彼女が続けて発するだろう言葉を聞き逃さぬよう、前のめりになる。しかし彼女は何も言おうとしない。ただただ手に持った椀の液面を眺めている。
何を思っているのだろう。
……まさか、不味かったか。
味噌の分量を間違えたか。青菜の切り方が気に入らなかったか。そんな錯綜する私の思考を余所に何の前触れも無く、彼女の瞳から涙が滲む。
ツゥ、と。流れた涙が彼女の頬に一筋の跡を描く。
「――御阿礼の子の、味だぁ……」
ポロリと零れた言葉の後を追う様に、再度涙が彼女の頬を伝う。後から。後から。止め処なく零れる涙に私は、何を言う事もできずに佇んでいた。
「阿一君の味……阿爾君の味……阿未ちゃんの……阿余ちゃんの……。阿悟君の、阿夢君の、阿七ちゃんの、阿弥ちゃんの、作ってくれるお味噌汁の味だよ……いつも彼岸で作ってくれる味……彼岸でしか食べられない筈の……懐かしいな……この味……温かい、味……美味しいよ……美味しい。凄く、美味し……」
映姫さんが身体を折る。味噌汁の入った椀を抱きしめる様に。その手が震えている。歓喜に。感涙に。嗚咽を漏らす彼女が、目頭を拭う。こちらを向く。私を見る。赤く腫れぼったくなり始めている瞳が、ふにゃりと笑みを描いた。
「あきゅちゃん……すっごく美味しい。何年振りかな……嬉しい。凄く嬉しいよ。一緒に食べよ? あきゅちゃんが作ってくれたご飯、一緒に食べよ?」
「――はい」
たったそれだけを紡ぎ出すのに、詰まった胸では酷く難儀してしまった。
あぁ、良かった。
『私』に堆積されている『私たち』は、やっぱり、彼女と一緒の時を過ごして来たのだ。私の目頭を熱する歓喜。それは証明の達成より、純粋に映姫さんが喜んでくれた事への感情だった。
その指向性。映姫さんが喜んだ事その物が無上の喜びであるという、その事実。
どうしようもなくそれが嬉しくなってしまって、私もまた、彼女と同じように泣いてしまった。
再来の前の、ほんの少しの間だけ。
◆◆◆
「――すっかりお邪魔になってしまいまして、感謝します」
玄関口で靴を履いた映姫さんが、慇懃無礼に頭を深々と下げて来る。閻魔の制服をきちんと身に纏った彼女は、また格式ばった姿勢を取り戻していた。
「もう、私にはそんな姿勢じゃなくても良いのに」
名残惜しい思いを胸に抱く私は、本心からその言葉を贈る。微笑む彼女はしかし、柔らかく首を横に振る。
「そういう訳にも行きません。閻魔の制服を纏えば、私は四季映姫個人では無いのです。何よりも閻魔でなくてはならない。理を構成する歯車でなくてはならないのです。この姿勢を例え貴女の前ででも変えてしまったら、ヤマザナドゥとしての自分に齟齬が生じてしまうのです」
「……不器用、なんですね」
「えぇ、自分でも呆れてしまう程に」
照れ臭そうに、映姫さんが指先で頬を掻く。彼女が閻魔に戻ってしまった事が、私は何だか寂しくて仕方が無かった。仕様の無い事だと判っていても。
「……それでは、そろそろ失礼します」
傘を携えて、映姫さんが小さく頭を下げる。
「はい」
「どうか、お体にお気をつけて」
「映姫さんこそ」
「また、遊びに来てもよろしいでしょうか?」
「当然。いつでもいらしてください」
「……それを聞いて、ホッとしました」
では、と残して再度、最敬礼をした彼女が、稗田の家を後にする。突っ掛けを履いた私も彼女の背中を追って戸口へと出る。長雨が去って深く澄んだ青空には、東の方に入道雲が登っている。
直に夏が来る。季節が流転する。廻り廻り廻る四季を謳歌して、私もまたいつの日か彼岸の『四季』の下へと旅立つのだ。
「さようなら!」
去って行く彼女の背に、千切れんばかりに腕を振る。閻魔然とした権威を身に纏った彼女は公的立場を逸しない程度に、それでも最大限に私の見送りに答えてくれた。
青い空の下。日に日に夏の匂いを孕み始める戸外で、私は今まで、転生がちっとも怖くなかった源泉について、悟ったのであった。
Fin
青菜の味噌汁に二人が感涙する場面は、読んでいて目頭が熱くなりました。
「生まれ変わってこの先私が何度別人になっても、私の魂はあなたと共に過ごした日々を、決して忘れない」そういうメッセージを、阿求の中に今も在る『魂』から受け取れました。とても素晴らしいお話を読めて嬉しかったです。ありがとうございました。
「んふふー」からの「やーだぁ」でピチューンwww
ってせりふが楽しすぎてやばい
それだけでなく読みやすい文章もよかった
よくあるキャラ崩壊の出落ち物ではなくしっかりと話が展開していて二人の内面が伝わってきました
映姫さまのキャラも原作にはないものでしたが、こんな一面があるかもしれないと思わせる説得力のある文章だったので違和感がなかったです
...と、読み始めた最初の辺りは凄いキャラ崩壊だなと呆れたり、ニヤニヤしたりしてました。
でもやっぱり最後は泣けるようなシリアスな展開で終わってくれて、ホッとました。
朝食の場面は2番さんと同じく、目頭が暑くなるほど感動しました。
最初は違和感しかありませんでしたけど、読んでいく内に、映姫も少女だしまあいいかと思い直しました。
印象に一番残ったのは、最後の見送りです。
夏(に近付いている感じ)の風景の描写も相まって非常に良かったです。もう感涙です。
素敵な作品をありがとうございました。
お泊まり会の雰囲気はもう満点で、それからしっとりと締めた流れは素晴らしいとしか言いようがありません
千年以上に渡ってこうした関係を続けられるのは何気に凄いと思います
適度に転生を繰り返しているのが良いマンネリ防止になっているのかもしれませんね
面白かったです!
千羽鶴の例えがすごく好き。
しかしその甘さもしつこくはなく、ほんのりビターな部分もあって非常に美味しく読ませていただいた。
映姫様可愛すぎてやばい
うまい味噌汁をつくりたいなぁ・・・
映姫のかわいさもさることながら、最後の二人のやり取りに至るまで、実に素晴らしかったです!
二人とも可愛い
それをかなしく感じなかった物語ははじめてかもしれません。
素敵なお話をありがとうございます。
あなたの着想が好き!
そして良い話になっている作者様の力量に驚きです。
プライベートを共有できる相手が必要なのです。・・・阿求には。
お見事でした