此徒譎詐百端、一も信憑すべからず
(大正二年六月二十九日報知新聞社説)
一、無線の通話
「シラサギからウグイス」
『ウグイスです。どうぞ』
「状況は?」
『カッコウが追跡中です。警戒されている様子はありません』
「了解だ。続けさせろ」
『カッコウから各位。カラスが目的地に到着します』
「カッコウ、聞こえるか? シラサギだ」
『こちらカッコウ。聞こえてます』
「そのまま、その場に待機だ。カラスに動きがあれば、すぐ知らせてくれ」
『カッコウ了解』
二、
「配属の初日から、面倒な仕事に付き合わせちまって悪いな」
男は申し訳なさそうな素振りを微塵も見せずにそう言った。
「今日当番だったアキバの野郎が、突然腹の調子が悪いとかぬかしやがってな。野郎、年に何回かは、こうして仕事に穴をあけやがる。全く」
どうしようもない奴だと男は毒づいた。
「そういや、ここのスタッフの紹介もまだだったよな。今日は、顔見せと簡単な説明だけにしようと思ってたんだがな」
言いながら男は、真新しい作業着の上下と帽子を私に遣す。
「とりあえず、こいつに着替えてくれ」
俺達のユニフォームだと男は言った。
「もう気付いてると思うが、ここのスタッフは殆どが俺やあんたと同じ日本人か、もしくは日系人だ。この国の田舎の農村じゃ、未だに金髪は目立つんでな」
金髪は皆、プロレスラーかプロ野球の助っ人外人だと言って、男は笑った。
「荷物を積んじまうんで、ちょっと待っててくれ」
男は資材の山に掛けられたブルーシートを乱暴に取り除く。ブルーシートの下には、縦二メートル、幅五十センチ、高さ三十センチ程の木箱が山積みにされていた。男は手押し式のリフトを器用に操り、慣れた操作で木箱の山をトラックの荷台に並べていく。
トラックの荷台には、極平凡な運送会社の社名がペイントされていた。私と男の着るグレーの作業着の左胸にも、同じ社名が刺繍されている。無論、これはカヴァーだ。我々は運送会社の社員ではない。
木箱の山は、僅か数分でトラックの荷台に全て納まった。男はトラックの運転席に乗り込みエンジンをかける。
「助手席に乗ってくれ。出発するぞ」
私は急いで助手席に乗り込んだ。
トラックはスロープを登って、地下の駐車スペースから地上へ出る。搬入用のゲート前で停車すると、武装した警備員が二人、トラックに近づいて来る。警備員の一人が、荷台にペイントされた社名を見て怪訝な表情を見せる。もう一人が運転席に近づき、身分証の提示を求める。
「毎度ご苦労なことで」
男は言いながら自分の身分証を差し出す。
警備員は男の身分証とトラックの社名をしばらくの間見比べていたが、やがて何かを察したらしく、身分証を男に突き返した。
「通せ」
警備員が短く言うと、程なくしてゲートの遮断機が上がる。
トラックはゲートを潜り、在日米軍横田基地を後にした。
三、無線の通話
『カッコウからシラサギ』
「シラサギだ」
『カラスが動き出しました。ハクトウワシも一緒です』
「車両か?」
『トラックです。一台』
「カワセミに追尾させる。カワセミ、聞こえたか?」
『もう、やってますよ』
「よし。ウグイスとホトトギスは、カワセミのバックアップだ」
『ウグイス了解』
『ホトトギス了解』
四、
先日読んだ新聞記事によると、東京都の人口は、今年ついに一千万人を超えたらしい(※1)。基地の周辺も、ここ数年でずいぶんと建物が増えたように感じる。
運送会社に偽装したトラックは、木造民家の建ち並ぶ国道を軽快に走り抜ける。午後のこの時間帯、交通量は少なく人通りもまばらだ。
どこまで聞いてるか知らないがと前置きしたうえで、運転席の男が話し始める。
「俺達の任務は、ある施設への物資の搬入だ。で、何で補給部隊でもない俺達が、こんな運び屋同然の仕事をしてるかって話なんだが。これが、色々と訳ありなんだ」
男は声のトーンを僅かに落とす。
「なんでも、この施設ってのが、戦前に旧日本軍が使用していたものらしいんだ」
私は努めて冷静に、日本軍ですかと答える。
「そうだ。登戸研究所って名前、聞いたことあるか?」
私は首を横に振る。
「正式には、陸軍科学研究所登戸出張所だったかな。戦前から生物兵器や、化学兵器なんかの研究をしていた軍の研究機関だ。いわゆる秘密研究所ってやつだな。中には、風船爆弾だの怪力光線だの、ちょっとブッ飛んだ兵器を研究してたって噂もある」
有名な秘密研究所だと、男は矛盾したことを言った。
「戦時中に組織改変があってな。陸軍の研究施設は、第一から第十までの十個の研究所に再編されたんだ。登戸研究所はその九番目、つまり第九陸軍技術研究所だな」
「では、我々がこれから物資を搬入する場所というのが、その……」
「いや、俺達が行くのは登戸じゃない。俺達が荷物を届ける先は、第零陸軍技術研究所だ」
男は零の部分を強調して言った。
「煙草、いいか?」
私は、どうぞと答える。
男は運転席側の窓を半分ほど開けてから、咥えた煙草にライターで火を点ける。
「旧日本軍の秘密研究は、ポツダム宣言の受諾直後に、殆どが破棄されちまってる。まあ、敵国の手に渡るくらいなら、火付けて燃やしちまった方がマシってことだな。だが、資料を焼いたくらいで過去は消せない。その研究に、実際に携っていた職員が存命のうちはな」
人の口に戸は立てられないと男は言う。
「戦後、占領政策の中心にあったGHQは、終戦当時陸軍の研究所に勤務していた職員を徹底的に洗い出し、新しい仕事と地位を与えると約束して引き抜こうとしたんだ。もちろん、戦争に負けたからって、はいそうですかと、昨日まで敵だった国の軍隊に寝返る奴は殆どいない。誰だって、裏切り者だと思われたくはないからな。だが、GHQとその後を引き継いだ在日米軍は、その後十数年にも渡って引き抜き工作を続けたんだ。そうやって、徐々にではあるが、秘密研究の内容は開示されていった。但し、これは第零研究所を除いての話だ」
男は煙草の煙で肺を満たし、ゆっくりと吐き出す。
「第零研究所に関連する資料は、研究内容はもちろん、研究所の所在、研究予算の配分、職員の構成や勤務状況に至るまで、全て処分されていた。第零研究所に至る、あらゆる人、金、物の流れを全て断ち切って、研究所の存在そのものを隠蔽しようとしたんだ。そして、その目論見は成功した。GHQは当初、第零研究所が存在すること自体把握していなかった。それともう一つ、こっちの方がより重要なんだが――」
男は長くなった煙草の灰を、ダッシュボードの灰皿に落とす。
「第零研究所について知る当時の職員は、終戦後悉く音信不通なんだそうだ」
「口封じ、ですか?」
関係する職員全員の口を封じる。それも一切の痕跡を残さずに。そんな事が可能だろうか。訝しむ私の心を見透かしたように、男が言う。
「言っておくが、俺だって全部信じてる訳じゃないぜ。だだの噂話だからな」
五、どこかの執務室
一面に敷かれた赤い絨毯。壁を埋める大小様々な勲章。賞状。若き日の写真。過去の栄光を記した新聞記事。レリーフに彫られた白頭鷲の凝った意匠。星条旗。ここにある物は、どれも記号だ。
《権威》を象徴する記号。この部屋の主の威厳を称え、見る者全てに尊敬の念を擁かせる。巧妙に配置されたオブジェクト群。欺瞞に満ちた舞台装置。
部屋に設えた応接セット。そのソファーに、ひとりの少女が座っていた。
艶やかな紫色のドレス。二の腕まで覆う長い手套。細いリボンの付いた洒落た帽子。この部屋の中で少女の存在は、明らかに異質だった。
少女の前には、紅茶の注がれたティーカップが置かれていたが、少女は一度も口を付けていなかった。
「紅茶は、お気に召さなかったかな」
窓から外の景色を眺めていた男が、振り返りながら尋ねる。
男は背が高く、軍人らしく髪を短く刈り込んでいる。軍服ではなくスーツを着用していたが、長年の軍隊生活で染み付いた、軍人特有の《臭い》とでも言うべき雰囲気を、完全に絶ちきれてはいなかった。
少女は何も答えず、紅茶の琥珀色の液面をただ見つめている。
男は、いかにも欧米人らしい仕草で、やれやれと肩をすくめてみせた。
「現行のカムフラージュ技術は、戦前から長い時間をかけて研究されてきたものだ。研究を開始したのが十九世紀の終り頃と言うから、実に半世紀以上もの時間を費やしていることになる。この技術は、今や非常に高いレヴェルに到達していると、我々も認識している」
男は少女の反応を待たずに、一方的に話し続ける。
「しかし、昨今の技術革新は目覚しい。現行の技術は瞬く間に廃れ、新しい技術がそれに取って代わる。その最新技術にしても、やはり数年もすれば過去のものとなり、より新しい技術によって駆逐される。まさに日進月歩の鼬ごっこだ」
男は執務机の鍵の付いた引き出しから、資料の束を何冊か取り出す。
「高々度偵察機がいい例だ。我々の保有するU2偵察機は、防空ミサイルで迎撃不可能と言われた高度8万2千フィートの上空から、敵国の領空内に進入して偵察を行うことができる画期的なものだった。しかし、二年前の撃墜事件(※2)以降、この機体も既に過去のものとなってしまった。東側は、成層圏まで到達可能な防空ミサイルを既に配備している」
男は資料の束を持って、応接セットの少女の向かい側の席に腰を下ろす。
「我々は、更なる高度を目指した。我々が次に目指したのは、宇宙だ。我々は、数年前から偵察衛星の開発に着手している。尤も、現状では、性能面でもコストの面でもU2より遥かに劣るがね。だが、技術的なハードルはいずれ克服される。近い将来、地球上のあらゆる場所を、衛星軌道上から監視する時代が必ず訪れるだろう」
男はテーブルに資料を並べ始める。
「そして、我々は偵察衛星の重要性と同じくらい。否、それ以上に、他国の偵察衛星に対する防衛策の重要性を感じている。ソ連は昨年、世界初となる有人宇宙飛行を成功させている(※3)。残念ながら、この分野で我々は一歩出遅れている。世界中を監視する特権は、我々だけに与えられたものではない。我々もまた、他国から監視されるリスクを負わなければならない。ここにある資料は――」
対衛星防衛技術に関する最新の研究成果だと男は言った。
少女はテーブルに並べられた資料に、おもむろに視線を移す。
『電磁的、光学的情報の遮断に関する基礎研究』
『人工大気屈折のメカニズムと高々度空撮からの拠点隠蔽技術』
『荷電微粒子散布下における各種センサーの挙動と衛星画像撹乱の可能性について』
――エトセトラ。
どの資料にも尤もらしい説明が添えられているが、実際に信頼できる技術なのか知れたものではない。
「大変興味深いお話なのだけれど……」
「郷も――」
少女が最後まで言い終わる前に、男は言葉を被せる。
「郷も、もちろん例外ではない」
少女の視線が俄に鋭くなる。
「何人も衛星の監視の目から逃れることはできない」
男は僅かに頬を吊り上げて笑った。
六、
周囲の景色から人工的な建造物が少なくなり、自然の風景がそれに取って代わる。路面の状況が段々と悪くなり、トラックは上下に大きく揺れ始める。荷台に積まれた木箱が、ギシギシと不快な音を立てた。
私は男の話が矛盾していることに気付く。
「資料が全て処分されていて、職員も音信不通なら、何故その研究所の存在は知られているんです?」
男の口元に笑みが浮かぶ。どうやら、その質問を待っていたらしい。
「処分されたはずの資料の一部を、GHQに持ち込んだ奴がいるんだ」
「隠蔽工作までして、その存在を隠したのに。どうして?」
「そいつは、資料をネタにして、GHQと取引きがしたかったんだ。そしてGHQは、その取引きに応じた。そのときGHQに持ち込まれた資料は、第零研究所創設者の名に因んで『ハクレイ文書』と呼ばれている。今もどこかで厳重に保管されてるって話だ」
もちろん俺は、見たことがないがなと男は言った。
男は作業着の胸ポケットから新しい煙草を取り出し、一本だけ咥えて残りをポケットに戻す。咥えた煙草にライターで火を点ける。
「えーと、どこまで話したっけか。あーそうそう、研究内容だったな。第零研究所では超自然的な力、つまりオカルト的な力の研究をしていたんだ」
超能力って言った方が、あんたらの世代には解りやすいのかと男は言った。
「研究は結構大掛かりなもので、なんでも、郷をまるごと一つ実験に使っていたらしい。外部との往来を断つことによって、郷を外界から完全に隔離し、その隔離された環境下で、特殊な能力を持つ人間を育成したんだ」
何世代もかけて、人類を品種改良していくような研究とでもいえば、イメージしやすいかなと男は言った。
私は、あまりイメージしたくない光景を思い浮かべる。品種改良によって、獣のような体躯を得た新しい人類。背中に翼を持ち、頭に角を生やした異形の者たち。
「『ハクレイ文書』によると、研究は、ある程度成功していたらしい。つまり、陸軍内部には特殊な能力を備えた人材が、既に供給されていたってことだ。だが、当時の陸軍の幕僚連中は、この人材をあまり活用しようとは考えなかった」
「幕僚たちは信じていなかった?」
信じないだろう、普通。信じる方がどうかしている。
「あるいは逆に、信じていたからこそ、自分達の地位を脅かすことになるであろう優れた人材を、要職から遠ざける必要があったのかもな。いずれにせよ人材は活用されず、この国は戦争に負けた」
「活用されていれば、勝っていたとでも?」
「まさか。個人の能力で戦争の勝敗がひっくり返ったりはしないさ。て言うか――」
男は、ふうと紫煙を吐く。
「今話してるのは、単なる噂話だぜ。まさか信じちゃいないよな?」
七、どこかの執務室
「先日、紹介してもらった人材だが――」
男は資料を片付けながら話す。
「彼女の能力は、とてもすばらしい。エージェントとしての素質もある。一年も訓練すれば、彼女の実力ならCIAだろうが特殊部隊だろうが、どこに配属されても存分に活躍できる」
「そう」
少女は、そっけなく答える。
「我々は一人でも多くの有能なエージェントを必要としている。昨年のピッグス湾(※4)で、我々はとんだ醜態を演じてしまった。もう失敗は許されない。今や戦争の勝敗を決めるのは、16インチの主砲を備えたバトルシップの存在じゃない。戦争の勝敗を決めるのは――」
有能なエージェントが集める、正確な情報だと男は言った。
「我々からの《贈り物》は、届いているかな? いつもの場所に用意するよう手配したのだが」
「受け取っています」
「気に入って戴けたかな?」
「ええ。満足しています」
それはよかったと男は笑顔を作る。
「郷と我々は、お互いが提供するものに満足している。我々には郷が必要だ。郷もまた、我々の力を必要としている。この友好な関係を維持するために、我々は最大限の努力をして行かなければならない」
男は、どうだと言わんばかりに両手を広げる。
少女は、この国の人間がしばしば見せる、自信過剰な態度が好きではなかった。
「我々には郷を守る義務がある。郷の安全が確保されてこそ、郷と我々は、より強固な関係を築くことができる。これは、郷にとっても悪い話ではないはずだ」
男の顔から笑みが消え、真剣な表情に戻る。
「プロジェクトには莫大な予算が投入されている」
我々はもう、後に引くことはできないと男は言った。
八、
トラックは単調なカーブの続く山道を走り続ける。日没の時刻が近づき、周囲の景色が夕焼けの色に染まって行く。
「『ハクレイ文書』には、もう一つ面白いことが書かれていたんだ」
妖怪の話だと男は言った。
「妖怪?」
私の脳裏に再び異形たちが跋扈し始める。
「郷には妖怪たちが住み着いているらしい。しかし、この妖怪ってのが、実はよく解っていないんだ。元々郷に住み着いていたものか。どこか別の場所から移り住んだものか……」
あるいは、実験によって特殊な能力を得た人類の成れの果てか……。私は男が挙げなかった第三の可能性を妄想する。
「とにかく妖怪については、殆ど何も解ってないんだ。唯一、解っていることと言えば――」
男は少し間を置く。
「妖怪は、人を喰うんだ」
「人を、――喰う?」
この男は、さっきから何の話をしているのだろう。
「で、その文書をGHQに持ち込んだって奴なんだがな。実は、そいつも妖怪だったんだ」
私は話の展開についていけない。
「紫色のドレスを着た少女の妖怪だったらしい。妖怪少女は文書を見せてこう言ったんだ」
「特殊な能力を持つ優秀な人材をあなた方に提供する。その見返りとして――」
私は、すぐにトラックの荷台に積まれた大量の木箱の存在に思い至る。
「――私達に《食糧》を提供して欲しい」(※5)
妖怪の《食糧》とは、つまり――。
我々が提供するものとは、つまり――。
縦二メートル、幅五十センチ、高さ三十センチの木箱の中身とは、つまり――。
木箱は全部でいくつあっただろうか。
いったい《何人》積んで来たのだろうか。
頭が、ぼうっとしてきた。男の声が妙に遠くから聞こえる気がする。
「おい、どうした。顔色が悪いぜ。しっかりしてくれよ、まったく。こんなの全部、根も葉もない噂話なんだからな」
九、
トラックは更に山奥へと進んで行く。道幅は徐々に狭くなり、道のすぐ傍まで崖が迫る。山の日没は早い。いつの間にか日は落ち、周囲は暗闇に包まれていた。鬱蒼と生茂る木々の合間から、時折円い月が見えた。
「これで、話すべきことは大体話したかな」
私の神経は、ひどく疲れていた。たぶん、この男に妙な与太話を、長時間聞かされ続けた所為だろう。
「今度は、あんたが話す番だぜ。あんたは、どうしてここにいるんだ?」
男は、まだ話を続けるつもりらしい。
「軍の人事で配属先が、たまたまここだったもので……」
「俺は、そういう事を聞きたいんじゃないんだ」
質問を変えようと男は言う。
「あんたは何が目的でここに来たんだ?」
私は、びくりと体が震えた。この男は何を訊いている?
「目的って、何です?」
私は努めて冷静な声で問い返す。
「いやなに、あんたは、ここに配属される前から、第零研究所の存在を既に知っていたんじゃないかと、そう思ってね」
私の意識を覆っていた曖昧な与太話の断片が、全て霧散する。この男は何を知っている?
「どうして、わ、私が研究所のことを知っていたと思うんです?」
冷静を装うが、声が振るえてしまう。
「そういうの俺、判るんだよ。人が嘘を吐いているときとかに、見えるんだ。そんなはっきりしたもんじゃないんだけどな。イメージと言うか、何と言うか――」
嘘が見抜ける程度の能力だと男は言った。
「もう解っただろ。俺もその郷の出身なんだよ。試しに、もう一つ質問してみようか」
想定外の展開に対処できない。
「あんた間諜だろ」
「――!?」
私は何も答えることができない。
「図星だな。じゃあ続けて質問だ。あんたの雇い主は誰だ。KGBか?」
「――くそっ!!」
私は助手席のドアを思い切り蹴り開け、走行中のトラックから飛び降りた。
「ちっ!」
男はブレーキを踏み、タイヤを軋ませながらトラックを急停車させる。持っていた懐中電灯でトラックの後方を照らすが、そこに人影はなかった。
男は、もう一度舌打ちをした。
十、
かなりの距離を転がって、私の体は漸く止まる。トラックから飛び降りた勢いで、そのまま崖下まで転がり落ちたようだ。
体のあちこちが痛むが、骨折はしていなかった。
「大丈夫だ。立てる」
私は、よろよろと立ち上がる。
灯りになるようなものは、何も持ち合わせていなかったが、煌々と照らす月明かりのおかげで、幸い周囲の状況をいくらか見通すことができた。
トラックから飛び降りる前、一瞬、男の口を封じようかとも考えた。しかし、それをしたところでどうなる。どのみち、男を殺せば、郷へ至る手がかりは無くなる。私の任務は、既に失敗しているのだ。
咄嗟の判断で逃げ出したものの、先のことは何も考えていなかった。どちらに向かって歩けば、人里に出られるかも判りはしない。
私は所在無く、ただ月を見上げるしかなかった。
どのくらいの時間、月を見ていたのだろう。私は、ふと周囲が静かすぎることに気付く。木々のざわめきや、虫の鳴き声が一切聞こえてこない。私は煌々と輝く月から、地上の闇に視線を移す。
――刹那、背筋が凍りつく。
視線の先に、少女の姿があった。
「幻覚だ」
私は自分にそう言い聞かせた。男に妙な与太話を聞かされ続けた所為で、頭がどうかしているのだと。
月明かりに照らされた少女の洋服は、紫色に見えた。
私は、この少女を知っている? 一体、どこで――。
「紫色のドレスを着た少女――」
そうだ。あの男の話だ。紫色の服の少女が、GHQに取引きを持ちかけたと、男がそう話したのだ。
――何か、引っ掛かる。
あの男がしていたのは、終戦直後の話ではなかったか。だとすると、十七年も前の話ではないか。まさか男の与太話から、少女が抜け出して来たとでも言うのか。思い出せ。男は、この少女を何と言っていた?
「紫色のドレスを着た少女の妖怪だったらしい」
こいつは、人間じゃない?
「妖怪少女は文書を見せてこう言ったんだ」
トラックの荷台。木箱の山。私は、もう箱の中身を知っている。
「私達に《食糧》を――」
少女が語りかける。
「あなた、郷について知りたいのね?」
少女が不吉な笑みを浮かべる。
「なら、連れていってあげるわ」
少女が指をついと振ったその瞬間、私の周囲から全てが奪われた。
私は虚無の暗闇の奥へと落ちていった。
十一、無線の通話
「シラサギからカワセミ」
『カ、カワセミです。どうぞ』
「状況を報告しろ。どうなってる」
『それが、ですね。カラスが、その、消えました』
「消えたぁ? 撒かれたのか」
『いえ、逃げられたとかそういう意味じゃなくて。一瞬でこう、パッと消えたんです。手品師がやるみたいに。目の前から』
「てめぇ、巫山戯てんのか? もう少しマシな言い訳思いつかなかったのか?」
『……ザザッ』
「おいどうした? 何とか言えよ」
『……ザザッ……まして。……ザーッ……よう』
「おい、カワセミ。聞こえてんだろ? 応答しろよ」
『……ザッ……の身柄は、私達が確保しました』
「女? 誰だ、お前」
『みなさんの任務は、これで終了です。お疲れ様でした』
「お前、さてはアメ公の? 巫山戯るなよ。てめぇ等の権限が基地の外で通用すると思うなよ!」
『うふふふふ……ザザザッ……ザーッ』
「おい。聞こえてんだろ。応答しやがれ。おい!」
十二、
男は、まだその場所に留まっていた。待っていれば、逃げた間諜が戻ってくると思っていた訳でもないのだが。ただ何となく、煙草を一本吸い終るまでは、その場所を離れる気になれなかった。
遠くで悲鳴が聞こえたような気がしたが、すぐに途切れたので気のせいだったかもしれない。
KGBの工作員が郷について嗅ぎ回っている。男の所属するセクションは、既にその情報を掴んでいた。新入りに鎌をかけろと指示したのは、セクションチーフだった。男は言われたとおり能力者のフリをしただけだったが、こうも簡単に尻尾を出すとは思っていなかった。
男の所属するセクションの任務は、郷への物資の搬入。それともう一つ、郷の情報を外部に漏らさないための防諜だった。
突然、暗闇の中に車のヘッドライトが点灯する。
二台、いや三台か。尾行されていたのだ。おそらく日本の公安警察だろう。
車は三台とも急発進して、それぞれが思い思いの方向へ走り去る。一瞬の出来事だった。周囲にまた、元の暗闇と静寂が戻る。
奴等が撤収したということは、間諜の身柄が確保されたということだろう。
男は吸殻の火を踵で踏み消し、トラックの運転席へ戻った。
十三、どこかの執務室
「そうそう、先日郷の近くでソ連の間諜を捕まえたわ」
少女は、まるで珍しい昆虫を捕まえたとでも言うように、さらりと重大なことを言った。それがあまりに自然だったため、男は少女が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「間諜? そいつは、すごいな。すぐにそいつの身柄をこちらに遣してくれ。郷に近づいた目的や、背後関係を調べさせよう。我々は、この手の案件を扱う専門家を多数有している。すぐに専門の調査チームを立ち上げて……」
「その必要はないわ」
少女は、ぴしゃりと遮る。
「私ね、彼を郷のディナーに招待してあげたの。そうしたら彼、私の質問に全て正直に答えてくれたわ」
尤も、彼は食べる側では無かったのだけれど、と少女は付け加えた。
「自供したのか? 信じられん!」
「彼を使役していたのは、KGBの大佐ですって」
男は僅かに歯噛みをする。
「それでね、会って来たのだけれど、その大佐に」
「何だって!?」
男の顔に驚愕の色が浮かぶ。
「大佐も知っていることを素直に話してくれたわ。そうそう、彼、あなたのこと知ってたわよ?『あなたによろしく伝えてくれ』ですって」
「馬鹿な! そんな男、私は知らない!」
男の額にどっと汗が浮かぶ。
「情報をリークした見返りに、あなたが何を手に入れようとしたのか、ずっと考えていたのだけれど。今日の、あなたの話を聞いて、概ね理解できたわ」
男の顔色がみるみる蒼白に変わっていく。
「あなたは郷の情報の一部をソ連に漏らし、KGBを動かして郷の情報を探らせた。同時に、KGBの間諜が潜り込んでいることを、軍内部の防諜班に知らせていた。そうそう、近くには日本の公安警察も待機していたわ。これもあなたの仕業かしら。だとするとあなたの計画はこうね」
男は何も言わず、強く握った拳をわなわなと震わせている。
「計画が順調に進めば、郷の近くで間諜の身柄が拘束される。やがてその事実は、警察発表という形で公に報道される。もちろん、郷というキーワードは、伏せるよう日本政府に手を回したうえでね。ソ連という現実的な脅威が迫っていると知れば、私はあなた達のプロジェクトに頼らざるを得なくなる。よく考えたものね」
少女は、ひとりで納得するように、うんうんと頷いている。
「軍産複合体って言うのかしら。プロジェクトに注ぎ込まれた予算は、きっと軍事産業に莫大な利権を生み出すはずだったんでしょうね」
少女は手にした扇で口元を覆い隠す。少女は、たぶん笑っている。
「これは、我々を陥れるためにKGBが仕組んだ……」
「言い訳は――」
男が最後まで言い終わる前に、少女は言葉を被せる。
「言い訳は、あっちで聞かせてもらうわ」
少女が指をついと振ると、男の姿は瞬く間にその場から消え失せた。
少女は、やれやれと肩をすくめてみせた。
十四、
程なくして、トラックは目的の場所に到着した。
男は運転席から降り、立入禁止と書かれたプレートの付いたチェーンを外して、敷地内に入る。敷地内にはプレハブの倉庫が一つ建っているだけで、他には何もない。
男は持っていた鍵で倉庫のシャッターを開ける。倉庫の中には、手押し式のリフトと若干の工具類が置かれているだけで、やはり何もなかった。
ここから更に獣道を分け入った先に、小さな神社がひっそりと建っている。神社は、もう何年も前から無人で、手入れもされず、荒れ果てるままに放置されていた。(※6)
そこが、かつて第零陸軍技術研究所と呼ばれていたことを知る者は殆どいない。当時の研究を窺わせるものは、おそらく今の神社には、何も残っていないだろう。
件の郷も、その神社の近くに在るのだろうか。
我々には見えない、幻想の郷。
男は積み込んだときと同様、慣れた手付きで手押し式のリフトを操り、木箱を荷台から降ろしていく。
この倉庫に物資を搬入したところで、男の任務は終了だった。だからこの後、誰が、どこに、どうやってこの物資を運ぶのか、男は一切知らない。判っているのは、男がここを立ち去り、再びここを訪れるまでの間に、物資は全て持ち去られているということだけだ。
「ふう」
男は倉庫の床に降ろされた木箱の山を見ながら一息吐く。男は想像する。男が立ち去った後、郷の妖怪たちがここへやって来て、木箱を抱えて帰って行く。
人喰い妖怪たちの宴。百鬼夜行。
「この世界で長く生きるコツは――」
男は独りごちる。
「決して、真実を知ろうとしないことだ」
男は倉庫のシャッターを閉めて施錠を確認すると、立ち入り禁止のチェーンを元通りに取り付けた。
男はトラックに乗り込み、来た道を戻り始めた。
十五、
男が立ち去った数分後。少女は、その倉庫にいた。
少女の視線の先には、縦二メートル、幅五十センチ、高さ三十センチ程の木箱が山積みにされている。
少女が指をついと振ると、木箱の一つが音もなく開く。
少女は、そっと木箱に手を差し入れて、その中身を一掴み取り出す。顔に近づけてその香りを確かめる。
「今年の出来は、良いみたいね」
少女は満足気な笑みを浮かべる。
木箱の中には、乾燥した紅茶の葉が詰まっていた。
(了)
他の作家の名前を挙げて評されるのはお好きでないかもしれませんが、柳広司を髣髴とさせるような言葉運び、お見事でした。
むちゃくちゃ面白かったです
なんというか凄く長い文庫本で言うならば600Pくらいの長編で読みたいなと。
お疲れ様でした
幻想郷成立に関する裏話はもっと増えていいと思う
どんな「積荷」かって?さぁ?
最後の節が原作の雰囲気を醸し出していて,うまいまとめ方だなー,と思いました.
さらなる続編に期待します!
面白かったです
諜報や陰謀が暗躍するということで、なんとなく『裏切りのサーカス』という映画を思い出しました
オチが秀逸で印象深かったです
こういうふうにリアリティある世界観に接続できるのか、と感嘆しきりであります。
真実の開陳の仕方も実に巧み。
こういうのをこういうのっぽく書けるってのが凄い。
わくわくしたよ。
紫が行ったのは、尤もらしい偽の情報をばらまいて真実を覆い隠す、カウンターインテリジェンス。
何より雰囲気が翻訳版のスパイ物っぽくて良かったです。
良いですね
この時以外の紫の立ち回りもとても気になりますね
ミスディレクションのスパイ大作戦。
ありがとうございます。修正しました。