今日も人里は、平和だった。
連日、聴衆を賑わせていた決闘の数々も、最近ではすっかり下火となり、人々はいつも通りの生活を取り戻していた。厭世観や絶望感。そういった負の感情はもはや消え失せ、さりとて夜を支配した感情の喪失も埋められて久しい。
そう。人々には、正常な感情が戻っていた。
喜怒哀楽と、それをさらに細分化した六十六の機微。今、人里を支配しているのは、そんな当たり前の人間の感情だった。
ただ少し。今まで失われていた反動か、里の活気の中には、未来への希望が強く滲んでいるようには感じられた。だが、人が希望を抱くのは本来良いことである。そもそもが、人々に希望を抱かせるためにこそ、彼女は一連の騒ぎに参じたのだから。
そんな、いつもの日常を取り戻した人里の往来を、
「まったく、どういうことなのこれは!」
そう呟きながら、肩を怒らせて行く人影があった。
豊聡耳神子。一四〇〇年の眠りより復活した仙人にして、現代の幻想郷に降り立った救世主である。
神子は、確かに幻想郷を救った。今回の騒ぎを起こした付喪神を倒し、人々から希望が失われることとなった原因を取り除くことで。すなわち、面霊気に新たな希望の面を与えることで、人々を救ったのだ。
その結果、里の民草は皆、復活した聖徳太子の偉業に畏敬を抱き、道教を信仰することになるはずであった。
そして神子自身も、己のあずかり知らぬところで自らが生み出した存在に自信を深め、悲願の不老不死へ向けて、よりいっそうの精進を続けることを決意していた。
その矢先に――――
「なんで、なんであの子は、よりにもよってあんなところにいるのですっ!?」
※
事の発端は、数刻前に遡る。
今朝も神子達は、いつものように仙界にて食卓を囲んでいた。
「どうですか、お味は?」
不安げにそう訊いてくる屠自古に、
「うむ、悪くない」
と神子は頷く。
「特に、この味噌汁が素晴らしい。まさに毎朝飲みたい味といったところですかね」
「そんな、褒めすぎですよ。すでに毎朝飲んでる程度の味ですし」
そっけなく屠自古が答えた。やや顔が赤くなっているのを見るに、口調とは裏腹に喜んではいるらしい。
と、そんな屠自古に、すかさず茶々を入れてくる人物がいた。
「あらあら、屠自古ちゃん。以前に言ったことをもう忘れましたの?」
青娥である。今朝も気まぐれに仙界を訪れていた彼女は、味噌汁の入ったお椀を持ち上げて見せながら続けた。
「この国では、毎朝味噌汁を作ってくれ、というのは、一種のプロポーズの言葉だと教えたじゃありませんか。豊聡耳さまは、つまりはそういうことを仰っているのですわ」
「いやそんな大層な意味は……」
というか、元々妻だし。と神子が口を挟んだのを無視して、青娥はさらに屠自古を煽っていく。
「いやぁ、長い長い花嫁修業の甲斐がありましたわねぇ」
「ちょ、あんた!」
屠自古が泡を食って立ち上がるのと同時、神子も眉をひそめて呟く。
「花嫁修業?」
「ええ、そうですわ」
青娥がニンマリと笑う。
「だって、古代のやんごとなき身分の方々といったらもう、結婚しても自分で家事をなさることなどまずありませんでしたでしょう?このままでは豊聡耳さまが復活しても、屠自古ちゃんは、身の回りの世話も満足にできないダメ嫁の烙印を押されること間違いなし」
ですから、と青娥は続けた。
「それを憂いた私は、大祀廟の掃除から食事の支度まで、ありとあらゆる時代時代の家事作法、妻のあり方を屠自古ちゃんに叩き込んだのですわ」
「屠自古、あなた、そんなことをしてたんですか?」
「え!?いや、その――――」
うぐぐ、と屠自古が唸るあたり、どうやら本当のことのようだ。
神子にも思い当たるフシはあった。自分が目覚めた時、一四〇〇年も経っている割には、大祀廟は異様に綺麗だった。そして、復活後の日々を暮らす上で必須の、毎日の家事をすすんで買って出たのも屠自古だった。
ありし日に、屠自古は皇太子の妻であった女だ。そんな彼女に、まともに家事ができるものだろうか、と神子も当初は心配したものである。結果的にそれは杞憂に終わり、今では、屠自古は立派に家事をこなしてくれていたわけだが、その裏にはこういうカラクリがあったのか。神子は今さらにそれを理解した。
「ご理解いただけましたか?」
青娥が、何故か勝ち誇ったように言った。
「そんな地獄のミレニアム花嫁修業を経たからこそ、今の良妻屠自古ちゃんがいるのです。この通り、毎日の食事も美味しいですし、育てた私としても鼻が高いですわぁ」
「人を千年単位の行き遅れみたいに言うな!」
「屠自古、抑えて抑えて」
死別後に再会したという特殊案件ではあるが、今となってはミレニアム夫婦みたいなものだし。神子は笑顔で言った。
「あなたの献身に、私はいつも助けられている。だから、なにも恥ずかしがることはない。むしろ胸を張って、誇りなさい」
「うえ!?」
素っ頓狂な声を上げて、屠自古の顔が瞬く間に真っ赤に染まる。
「あ、そんな、勿体ないお言葉ですよ太子様……」
そして、彼女はストンと椅子に腰を下ろすと、ボソボソとそう呟きながら顔を伏せてしまった。
「ほほほ、屠自古ちゃんは可愛いですわねぇ。いつまで経っても初心で」
口元に手を当てて、そんな年寄りじみたことを言い出す青娥。満足そうなその顔が、なんとも憎たらしい。
「このために千年も仕込みをしてたんですか?」
とんだ暇人だな、と若干呆れながら神子は訊ねた。
「まさか」
しかし青娥は、心外だ、というような顔でそう答えた。
「この程度、まだまだ序の口ですわ。食事、家事、ときたらもう一つ、夫婦生活には欠かせないものもきちんと仕込んでありますわよ」
「欠かせないもの?」
なんだそれは、と言いかけた神子の鼻先を、
「黙れこの邪仙があああああああああああ!」
屠自古の咆哮と共に、一条の雷光が横切っていった。
「あ、あぶなっ!?」
神子の横に座っていた青娥が、転げ落ちるように椅子から離れた。
「ちょ、屠自古ちゃん?今の完全に直撃コースでしたわよ!?」
地面から身を起こしながら、青娥が本気で焦った声で言った。その様子を見て、神子は今のが屠自古の発した雷であると遅ればせながら理解する。
「黙れ!」
全身から、目に見える怒りのオーラをバチバチと発しながら、屠自古が立ち上がった。
「いいから黙れ!それ以上言ったら殺す!」
「それ以上?ああひょっとして、房中――――」
「あああああああああああ!」
青娥がなにか言いかけたのを、屠自古が叫んでかき消す。
「だから言うなっていってるだろうが!もう金剛不壊でも壊す!むしろいたぶって壊す!」
再び数条の雷が、神子の眼前を横切っていった。
「と、屠自古ちゃん!?目が、目がマジですわ!完全に怨霊の目ですわ!」
「やかましい!祟りなめんな!」
もはや問答無用、とばかりに身体を浮かせながら、屠自古は次々と雷撃を送る。
「これは、とても話を聞いてもらえる状態じゃなさそうですわね!」
それらを巧みな身のこなしで避けながら、青娥が言った。
「なればなんとする!?もう謝っても許さんぞ!」
完全に怨霊モードで、青娥を睥睨する屠自古。
「決まっていますわ」
対する青娥は、負けじと屠自古を見返しながら、不敵に笑った。そして、
「かくなる上は、今日のところは退散いたしますわ!」
高らかにそう宣言すると、まさしく脱兎の勢いで居間の扉から飛び出していった。
「ちぃ!小細工を!」
ただでさえ頭に血が上りやすい屠自古である。そんな態度を取られて、彼女が黙って見過ごせるわけがない。
「逃がすか!今日こそ息の根止めてくれる!」
思いっきり物騒なことを言い残して、屠自古もまた、青娥を追って飛び出していく。
「まぁ、ほどほどにね」
聞こえてないだろうが、一応。とばかりに、その背中に声をかける神子。
「分かってます!ほどほどに殺します!」
扉の向こうに消えた屠自古から、そんな声が聞こえてきた。どうやら聞こえてはいたようだ。理解されたかは、甚だ疑問だったが。
「やれやれ」
神子は思わず溜め息を吐いた。
屠自古、布都は言うに及ばず、あんな青娥でも一応は昔からの馴染みである。共に不老不死を目指す同志として、できれば三人には誰一人として欠けて欲しくはない。神子はそう思っているのだが、いかんせん、青娥は煽りのスペシャリストで、屠自古は煽られ耐性が皆無ときている。二人の相性は、生前より最悪であった。
あの二人を仲良くする方法は、さしもの聖徳太子といえども思いつかない。自分にも、まだまだできないことはあるのだ。神子は、身内から己の無力を実感させられた。
とはいえ、無理に外野がとやかく言うことでもない。たまには、青娥も痛い目を見るといい。どうせ簡単には死なない身体だ。神子は強引に気持ちを切り替えて、自身の食事に戻ることにした。
と、
「――――」
「ん?」
ふいに視線を感じて、神子は再び顔を上げた。
「布都?」
その視線の主は、布都であった。今まで一言も発さずにいたが、彼女も最初から食卓にいたのだった。
「布都、どうしたんです?今日はいやに大人しいじゃないですか?」
神子は怪訝な顔で訊ねる。いつもなら、屠自古がいじられていたら、喜び勇んで自分も参戦しているというのに。
「うむ。その。実は、ですな」
直接訊ねられては、だんまりを決め込むわけにもいかない。布都が茶碗を置いて、しぶしぶといった様子で口を開いた。
「言おうか言うまいか、ずっと迷っていたことがありましてな」
どうやら布都は、食事に没頭していて、黙っていたわけではなかったらしい。
「――――今度はなにをやったんですか?」
神子は反射的にそう訊いてしまう。寺に火を点けたとか、妖怪相手に無闇に喧嘩を売ったとか、いわゆるそういう話かと思ったのだ。
少し前までと違い、今はそんな騒ぎを起こしても人気など上がらない。ただの迷惑なヤツである。せっかく神子が異変を解決したというのに、身内がそんなことを起こしたのでは信仰も地に落ちるというものだ。
「いやいや、そういう話ではありませぬ」
しかし布都は、そう言って小さく手を振ってみせた。
「そもそも、面霊気の時に一番盛り上がっていたのは、他ならぬ太子様ではありませぬか。我は至極大人しく、むしろあふたーけあに勤しんでいたのですぞ?」
「あー、ええと。それはまあ、置いておくとして」
ちょっと久々に為政者の血が疼きすぎたのだ。仕方ない。神子は目を泳がせつつ、ゴホン、と咳払いを一つ。
「じゃあ、一体なんの話なのですか?」
話逸らしついでに、本道へ強引に巻き戻した。
「うむぅ」
布都は今度こそ話す決心をしたとみえて、腕を組んで大仰に頷いた。
「こうなったら、話さぬわけにもいきますまい。話というのは、他でもない。件の面霊気のことなのです」
「面霊気?こころが、どうかしましたか?」
面霊気――――名を、秦こころ。人々の感情が暴走する遠因となった、感情を操る妖怪である。彼女は、ある意味で神子が作り出した存在でもあった。
故に神子は、こころが感情を暴走させた原因である、希望の面の喪失という穴を埋めるため、新たに面を作り出して彼女に渡した。同じ作者が同じ面を作って渡せば、すべては元通りになるという寸法である。現に、そうして人里は平穏を取り戻し、事なきを得たはずではなかったか。
「私の処置に、なにか問題があったとでも?」
つい詰問するような口調になりながら、神子は訊ねた。
「いえ、そういうわけではないのでしょうが」
布都は腕を組んだまま、苦い顔をしてみせる。
「人里は確かに平穏を取り戻しておりますし、人心も太子様を拠り所として安定しているように思えまする。故にこれは、太子様のあずかり知らぬところでおきた、いわば偶発的な事象だと言えましょう」
「ふむ?」
布都の話は、いまいち要領を得なかった。なんだかんだと、未だに核心を話していないからだ。
「埒が明きませんね。そんなに話しづらいことなのですか?」
「それはまあ。なんというか、間違いなく、面白くないお話でありますが故に」
こうまで焦らされると、神子の方としても俄然その内容が気になってくる。しかも、こころが関わっているらしいとなれば、自分にも完全に無関係とは言えない。
「構いませんよ、布都」
神子は深く椅子に腰掛け、悠然と構えて言った。
「臣下の忠言を受け止めるのは、上に立つ者の義務です。それがどんな内容でも、たとえ面白くない内容でも。むしろ、そういう内容にこそ、身のある話が隠れていたりもするものです」
だから話せ、と。神子は目線で、布都を促した。
「ふ、この構図、昔を思い出しますな」
布都が苦笑を浮かべた。
「では、恐れながら、申し上げさせていただきます」
そして布都は、組んでいた腕を解き、左右の手を互いの袖に仕舞いこみ。
「この物部布都が、最近人里にて耳にした情報にございますが、実は例の面霊気――――」
恭しく合わせた両の腕を掲げ、軽く頭を垂れると。
「最近、命蓮寺に出入りしているようにございます」
その情報を、告げた。
「は――――?」
神子は一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。みょうれんじ?それは一体、どこだったっけ。いやいや待て待て。じ、と付くからには寺であろう。そしてこの幻想郷には、寺は一つしかない。
そこまで考えたところで、神子の脳裏には、あの打撃系僧侶の顔が浮かんできて。
「はあああああああああああああああああああああ!!!!????」
神子は思わず席から立ち上がりながら、そう叫んでいた。
「ちょ、命蓮寺って!?一体それはどういうことですか布都!?」
そのまま神子は歩いて食卓を回り込むと、座ったままの布都に詰め寄った。
「こころが、私の作り出した面の付喪神が、よりによってなんで命蓮寺になどいるのですか!面を渡した後にどこに行ったのかと思えば、まさか命蓮寺に!私だってそんなの予想できませんよ!」
「わわわわ我は、そういう話を聞いただけにございますすすす!ど、どういうことと申されましてももももも!!」
神子にガクガクと肩を揺らされながら、布都はなんとかそう答えた。
「む?そうなんですか?」
神子は我に返って、布都の肩から手を離した。ということは、なにか。布都としても、直接本人に会ったわけではないということか。
「我はあくまで、そういう噂を聞いただけでございますよ太子様」
布都が揺すられていた肩を抑えながら、荒い息でもう一度そう言った。
「なるほど。そういうことですか」
神子は納得して頷くと、すぐさま虚空から笏を取り出した。そして、笏の裏面に仙界の制御デバイスの端末画面を呼び出す。
「座標入力……」
すぐさま、エラー、と表示が出た。神子は舌打ち交じりに言う。
「ちっ、さすがに直接転移はできないようになっているか。仕方ない。この時間ならすでに開門しているだろうし、里から回り込んでいこう」
「あ、あの、太子様?」
「大体、門程度ならば、仮に篭られても破るのは容易い。いざとなれば、外から攻撃するという選択肢もあるし」
「ええと、太子様?」
「私の物を奪っておいて、ただで済むと思うなよ。こころは、意地でも取り戻す。そのための手段は選ばない」
「いや、だったら外から攻撃したら本末転倒では?」
「ん?」
布都のもっともな指摘に、神子は顔を上げた。
「確かに。攻撃するのは、こころを取り戻してからですね。私としたことが、手段と目的を履き違えるところでした。忠言感謝します、布都。私は良い部下を持って幸せですね」
「それほどでも……ありますな!」
布都が胸を張って言った。
「うむ。では私は、これから命蓮寺に殴りこみをかけるので、留守は任せましたよ」
そのドサクサに紛れて、神子は里への門を開いた。このまま流れで押し切れば、ここはいける場面だと判断した。
「お任せあれ!ご武運を祈っておりまする!」
案の定、布都は神子の発言を特に気に留めることなく、笑顔で見送りをしてくれた。
「そちらこそ、任せてください。私が仕損じたことが、今までありましたか?」
神子は、ニヤリと笑ってそう言い放つと、
「さあ、出陣だ!」
仙界から里へのゲートに飛び込んだ。
※
そして神子は、今、人里を命蓮寺に向けて歩いていた。
「ホントにもう、なにを考えているのだあの娘は!」
数歩おきに漏らしている呟きを、神子は再び漏らす。
自分になにか不備があったのか。希望の面になにか不具合があったのか。考えても考えても、出てくるのは、分からない、という思いだけだった。
「くっ、こんなことなら、面を渡した時点で仙界に連れ帰るべきだった……」
そもそも、こころは神子の作った物なのだ。多少強引な手段を使っても、手元に置いておくべきだったのかもしれない。
そこまで考えて、神子は衝撃の発想に思い至った。
「はっ、そうか!そういうことか!」
多少強引な手段を使っても、手元に置いておく。これこそがまさに、今回の件の真相に違いない。
あの、妖怪保護なんてお題目をしたり顔で掲げている物理系僧侶のことだ。どうせその持ち前の説法という名の肉体言語で、まだ自我の希薄なこころのことを連れ去ったに違いない。
「許すまじ、聖白蓮!」
神子がそうやって新たな怒りをチャージしたのと同時、ついに目的地が目の前に現れた。
木製のまだ新しい山門。大きく広く開かれたその扉は、一切衆生を拒まぬ仏の教えを、形で示している。そして、横にかけられたこれまた新しい木札には『命蓮寺』の文字が躍っていた。
そう。この場所こそ、こころを攫い、軟禁している悪魔の巣。略取系僧侶聖白蓮が住職を勤める、命蓮寺であった。
「まさに伏魔殿といったところね」
嘲るように言って、その只中へ一歩を踏み出そうとしたところで、
「待てよ?」
と神子は足を止めた。これから自分は、こころを連れて帰るつもりだが、果たしてこのままの格好でいいものだろうか。そう思ったのだ。
急いでいたのとオフだったのもあって、今日の神子は、こころの異変の時のようにマントを付けてきていなかった。何気にアレ、重くて動きづらいのだ。
しかし今は、そんなことを言っていられる状況ではない。こころの本当の感情がどうあれ、妖怪篭絡系僧侶が、自分がこころを連れて行くのを黙って許すはずがない。きっと色々余計なことを言ってくるに決まっている。そんな中、神子はこころに、お前を救ってやる、守ってやる、だから安心して付いてこい、とアピールしなくてはならないのだ。
「ならば、格好から入るのも必要なこと!」
神子は仙界への扉を開くと、
「はっ!」
その向こう側からマントを取り出して、羽織った。
「うむ!これでこそ、我が身の高貴さをこころに伝えられるというもの!」
準備は万端。あとは、奪還に移るだけである。
だが、奇襲などという真似はしない。これは戦ではなく、示威戦だ。己の威光を示すためにも、正面から向かっていく必要がある。
「たのもー!」
寺の中に足を踏み入れながら、神子は腹の底からの叫びを上げた。
「たーのーもー!」
「はいはいどちらさま?」
そう言いながら現れたのは、一人の尼だった。
雲居一輪。入道を連れた彼女とは、以前にも面識がある。決闘という形で。
「って、え?聖徳太子?」
驚きの声を上げる一輪に、神子はマントを靡かせながら答えた。
「そう。私だ、仏の徒よ。今日はそなたらに返して貰いたいものがあって、ここへ来た」
「返して貰いたいもの?」
「その通りだとも!」
首を傾げる一輪に、ビシッと笏を突きつけて、神子は叫んだ。
「ここに我が娘、こころが囚われているのは知っている。故に私は、その身柄を取り戻しに来たのだ!」
バサッ、とマントを翻しての啖呵。決まった、と神子は思った。まさか、その邪悪な企みを喝破されるとは思っていなかっただろう彼女は、慌てふためくに違いないと。
「……はぁ、こころさん」
しかし一輪の反応は、予想に反して薄かった。
「囚われてるとかなんとか、意味はまったく分かりませんけども。こころさんなら、また聖様と一緒にお堂にいるんじゃない?最近の公開説法には、いつも参加しているし」
聞き捨てならない言葉であった。
「いつも参加しているですって!?」
神子は驚愕の声を上げた。
「なんということだ。こころは恐喝系僧侶に、一体どんな弱みを握られているというのか」
「いや、別にそういうわけじゃないと思うけど」
「ではなんだと言うのだ?」
ずいと詰め寄る神子を面倒くさそうに見ながら、一輪は言った。
「私みたいな転向組には分からない悩みが、きっとこころさんにはあるのよ。だから、彼女は救われに来ているんでしょう」
「はっ!」
神子は一輪の言葉を鼻で笑った。
「人の弱みにつけこんで、救いをチラつかせて信徒を集める。それこそまさに、弱みを握られているということではないか」
やはりこころは、騙されているのだ。救済詐欺系僧侶に。
「真理を探究し、理解し、己を高める。その果てに、すべての悩みすらも超越できる道教の導きこそ、今まさにこころに必要なものだろう。仏の道など、我が娘にはいらぬ」
「……広めたのは誰よ」
それはそれ。過去の話である。しかも神子は、別に妖怪の救済のために仏教を奨励したわけではない。
「なるほど。今回のカラクリ、私には全て分かった」
神子は頷いて、一輪の向こうに見える本殿へ向き直った。
「やはり、こころを救えるのは私しかいない。私の作った面が変じた妖怪であるならば、最初から自明の理であったな」
「そう簡単に行くかねぇ」
呆れたようにそう言う一輪だったが、彼女は予想に反して素直に道を開けた。
「ん?てっきり、妨害にくるものだと思ったが?」
「あぁ、うん。そのつもりだったけど、私がやらなくてもどうせ充分妨害されるだろうし」
それに、とげんなりした顔で一輪が続ける。
「最近の聖様の態度を見るに、私が手を出しても、ただの邪魔にしかならなさそうだからね。私が言えるのは、ただ一つ――――」
一輪は、本堂を右手で示しながら言った。
「連れて帰れるものなら、連れて帰ってみなさいよ」
「フッ、言われるまでもない」
それに、神子は不敵に笑って答えた。
「子が道を違えようとしているならば、それを正すのが親の務め。さあ待っていろ、こころ!今、私が迎えに行ってやるぞ!」
バサッと最後にマントの翻りを残して、神子は本堂へと歩き出した。
「ああ、アレは重症だわ。ウチの姐さんといい勝負。こりゃ、今日の説法は中止かな……」
最後に一輪がなにか言っていた気がしたが、もはや神子の耳には届いていなかった。
※
神子が鼻息荒く歩き出したその頃、一輪の予想通り、白蓮はお堂の中にいた。
「いつもごめんなさいね、こころさん。手伝って貰っちゃって」
共に説法の用意をしながら、白蓮はこころに呼びかける。こころは例の異変が落ち着いてからこっち、ほぼ毎日のように寺に出入りして、こうして手伝ってくれているのだった。
「いえいえー、平気です。これも修行の一環、というヤツですから」
抑揚のない声と無感情な表情で、こころがそう答える。それでも嫌々ながらではないと分かるのは、彼女が説法の度に、最前列で熱心に聞いてくれている事実があるからだ。
「なにか掴めそうですか?」
こころに感情を制御する修行を勧めたのは、他ならぬ白蓮である。自分の話が、彼女の存在にどういう影響を与えたのか。妖怪救済を掲げる身としては、気になるところだった。
「うーん?」
こころは首を傾げて、困り顔の面を着けた。
「よく、分からない。なにを掴めばいいのか」
「それは、そうですよねぇ。最初からそれが見えていれば、皆、悟りの境地に達せますし」
白蓮は溜め息混じりにそう答える。
こころは、非常に不安定な妖怪だった。人間の感情を左右する、という能力を持ちながら、しかし自らの感情は希薄。数多の仮面による感情表現自体は可能だが、自我というものがどうにも薄いのだ。
そもそも付喪神というものは、その成立の経緯からして、恨みと慕情に偏った人間への強烈な依存心を持っていることが多い。そして依存心は、裏返せば献身にだってなる。故に白蓮は、そういった、妖怪が妖怪となった理由に焦点を当てることで、彼女の救済になるのではないかと考えていたのだが、ことはそう上手くはいかないらしい。
「なにか、取っ掛かりになるようなものがあればいいんですけど……」
と視線を泳がせた白蓮の目に、あるものが飛び込んできた。
それは、一つの面だった。こころが持つ六十六の面の内、最も新しいものだ。
すなわち、希望の面。その形は、白蓮の脳裏にある人物の姿を思い起こさせる。
「……あの方なら、どうなさいますかね」
ポツリ、とそう漏らしてしまってから、白蓮は慌てて首を振った。自分は一体、なにを寝ぼけたことを言っているのか。むしろ、そっちが頼りにならないから、自分がこうして頑張っているんだろう。
「そうよ。私が、こころさんを救わないといけないの。どこかの放蕩道士に代わって!」
白蓮が、自分に言い聞かせるようにそう呟いた、まさにその瞬間だった。
「こころ!」
お堂の入り口から、そんな声が聞こえてきたのは。
「!?」
聞き覚えのある声に、白蓮は弾かれたように振り返った。なんというタイミングだ。まるで、見計らっていたかのようではないか。
「あ、神さまだ」
こころが、翁面を被って嬉しげに言った。
「そう、私だよ、こころ」
その言葉に満足そうに頷いたのは、放蕩道士こと豊聡耳神子であった。神子はマントを羽織って、腕組みをして、異様な存在感で以ってそこに立っていた。
「なにをしに来たのです?」
白蓮は警戒心を隠そうともせず、自然とこころの前に立ちながら訊ねた。
「む?」
その態度に、神子がわずかに眉を顰める。
「フッ、そんなの決まっているだろう?」
しかし彼女は、すぐに気を取り直して尊大に答えた。
「私は、邪教の徒に軟禁されている我が娘、こころを助けに来たのだ!」
「な、なんだってぇ!?」
またしても面を変えて、こころがわざとらしく叫ぶ。
うむ、とその反応に気を良くしたのか、
「さあ観念しろ、聖白蓮」
笏をこちらに突きつけながら、神子が続けた。
「幼子をかどわかしたその罪、大人しく身柄を返すならば見逃してやらぬこともない。だが、邪魔立てしようというなら、こちらも相応の手段を取らせてもらうぞ!」
ノリノリであった。感情の異変がまだ続いていて、その空気にでも当てられているのではないかと思えるほどに、神子はノっていた。
「へぇ」
そんな神子の雰囲気を圧するようにして。
「聖徳太子さまは、面白いことを言うのね」
白蓮は、ズイ、と前に出ながら言った。
「軟禁した?かどわかした?なんの話をしているのでしょう。私はあくまで、こころさんの自由意志に任せてますし、こころさんもその上でここにいるのです」
もはや完全に、神子の視界からこころの姿を隠すように立って、白蓮は続けた。
「ですから、貴方に非難される謂われなどありません。とんだ言いがかりです。よって、こころさんをあなたに渡す必要もありません」
「な、なん……だと……」
ヒク、と唇の端を吊り上げながら、神子が言った。
「どういうことだ、こころ!?君は、私が希望の面を作ってやったことで、もはや暴走などしていないはずだろう!?」
「あー、うん。それは、そうなんだけど」
抑揚のない声で、白蓮の背後のこころが小さく漏らす。
「太子さま?」
それを守るように手を広げて、白蓮は威圧的な笑顔を浮かべて訊ねた。
「今のは、どういう意味だったのでしょうか?暴走しているから寺に来ている、とでも言いたいように思えましたが?」
「ええ、まさにそういう意味ですよ?」
負けじと笑顔で答えながら、でも、と神子は続けた。
「それは訂正しましょう。私が作った希望の面に、誤りなどあるはずがない。こころ、また失くしたりなどはしていないでしょうね?」
「持ってるよー」
白蓮の背後から、手だけを出して希望の面を見せるこころ。お世辞にも良いとはいえない芸術センスの産物が、白蓮の視界を踊る。
「よろしい」
神子は満足そうに頷いて、白蓮と目を合わせた。
「これではっきりしましたね」
「なにがでしょう?」
「フッ、決まっている」
嘲るように言いながら、神子はやれやれと両手を広げてみせた。
「先程の白々しい物言いのことです。暴走していないなら、こころがここにいる理由は一つしかない」
「ほう、それは?」
白蓮の問いに、神子はマントを翻しながら答えた。
「確かに君の言う通り、軟禁、誘拐の二つは行っていないのだろう。さらに一見すると、こころの自由意志に見えるように細工もしてあるのだろう」
しかし、と神子は続ける。
「こころは、不安定な存在だ。まだまだ感情というものの理解が未熟で、そして判断力も弱い。つまり彼女は、騙されやすいのだ」
「なんだと!?」
驚愕の面を付けたこころが叫んだ。
「自由意志などとは、ちゃんちゃら可笑しい。君はそんなこころを、言葉巧みに騙くらかして寺に連れ込んだのだろう!?」
「お前、私を騙したのか!?」
今度は般若面に変えて、こころが叫ぶ。なんというか、影響されやすい娘なのは間違いない。しかし、
「騙してなどいませんよ」
白蓮は背後のこころを振り返って、笑みを浮かべた。
「私はあくまで、一つの道を示しただけです。他の道をこころさんが知り、我が寺を旅立っていくと言うならば、私はそれを喜んで見送りましょう」
「そうなの?」
無感情にこころが訊ねる。
「ええ。こころさんが、それで己の存在を確固たるものとできるなら、これほど喜ばしいことはありませんし」
ですが、と白蓮は神子に向き直った。
「だからといって、今、貴方にこころさんを渡すわけにはいきませんね。それでは彼女のためにはならないと、はっきり分かるからです」
「なに?」
眉を上げてみせる神子に、白蓮は笑顔で言った。
「さて、ずいぶんと言いたい放題言ってくれましたね、太子さま?言いがかり、難癖、決め付け。貴方ほどのお人らしからぬ醜態ですが、今回はあえて不問にいたします。ですから――――」
威圧的な笑顔で詰め寄りながら、白蓮は続けた。
「ここからは、人の親としてのお説教を致しましょう」
「お説教?私に?」
ははははは、と神子が笑った。
「白蓮、こう言ってはなんだが、それこそ釈迦に説法というものだよ。君程度に教えられるほど、私の理解は浅くない」
「いいえ。貴方は理解していない」
白蓮は首を振って、神子の言葉を否定する。
「私がするのは、人の道、つまりは人道に対する説教です。仏道ならばいざ知らず、今回の件で、貴方はそれを受ける義務があります」
「義務、ですって?」
「そうです。こころさんの親を名乗るならば、ね!」
と言って、白蓮は今まで塞いでいた、こころと神子を繋ぐ線上から身をどかした。
「?」
「んー?」
神子とこころの視線が、交錯する。
「あなたはあの瞳を見て、なにも感じないのですか?」
白蓮は、横から神子にそう訊ねた。
「んんん。そうですね。なかなかの美人だと思いますけど」
「恥ずかしー」
答える側が無感情だと、どうにも締まらないやり取りだった。だが、白蓮が見ろと言ったのは、なにも顔の美醜のことではない。
「私が見ろと言ったのは、こころさんの瞳に浮かぶ親慕の情です!親を名乗るくせに、なんなんですか貴方は!娘を口説いてどうするんですか!」
「え?あ、それは気づきませんでした」
しれっとした顔でそう言う神子に、白蓮の怒りは頂点を越えた。
「気づかなかったって、よくそんなことが平然と言えますね!だから貴方には、こころさんを渡せないんです!」
「おおう」
白蓮は神速でこころの元に戻ると、その身体を思いっきり抱き寄せた。
「希望の面を作っただの、自分の所有物だの、親だのと言ったところで、貴方は所詮、こころさんのことなどどうでもいいのでしょう!?それをどうして今になって、連れ帰るなんて言い出したんですか!?」
「は?いや、なんでと言われても……」
困ったように視線を逸らす神子に、白蓮は核心を口にする。
「どうせ、自分の物が仏教の徒の元に置いてあるのが気に入らない、とかそんなくだらない理由でしょう」
「うぐっ――――」
図星を突かれたらしく、神子がよろめいた。心なしか、マントが色落ちしているような気もする。
「まあ、やはりそんな理由なのですね!?」
呆れ果てて、頭痛がしてきて、白蓮は思わずこめかみを押さえた。
「最初からおかしいとは思っていたんです。太子さまの作った物から生まれた付喪神だと判明して、希望の面まで作ってもらっているのに、どうして一人でフラフラとしているのかって――――」
「ふぇ!?いや、それはですね――――!?」
焦って言い訳をしようとする神子に、
「私、一人ぼっちだったの、しくしく」
とこころが無感情に追い討ちをかける。演技の余地がない分、なんというか、真に迫っている感じがした。
「ぐはぁっ!?」
神子が背後の壁にもたれかかりながら、力なく確認する。
「わ、私の住処……教えてませんでした、っけ?」
「教えてもらってるわけないだろうが!」
狐面で怒鳴るこころ。当然である。
「ほら見なさい。そんなことも覚えていないぐらい、貴方にとってこころさんはどうでもいい存在なんでしょう。いや、というよりも――――」
ビシと神子を指差して、白蓮は言った。
「貴方は、致命的に親というものに向いていないのです!」
「な――――っ!」
電撃に打たれたように、一瞬硬直する神子。しかし彼女とて、為政者だった者。そうそうヤワな精神の持ち主ではない。
「し、失敬な!」
すぐに態勢を立て直して、神子は反論した。
「私とて、生前は人の親をやっていた身ですよ!それを言うに事欠いて、致命的に向いていないとか!私の妻と子に謝りなさい!」
「それと、貴方が親として優れているかは別問題でしょう!」
負けじと、白蓮も答える。
「仮にも皇太子たる身分であった貴方が、自らの手で子育てを行っていたとは到底考えられません。第一、あの頃は、子は妻の家で育てられるもの。どうせその時の常識のままに、放っておいても子は育つとでも思っていたのでしょう?」
「む、う、ぐぐぐぐぐ」
唸ることしかできない神子である。
「その点、私は困っている妖怪を見捨てたりはしません」
勝ち誇ったように言って、白蓮はこれ見よがしにこころを抱きしめてみせる。
「創造主に見捨てられた付喪神も、こうして受け入れますし。その悩みを解決するために、話だって聞いてあげます。アドバイスだってしてあげます。寂しい思いなんてさせません」
そこまで言うと、白蓮は周囲に浮かぶ面の中から、希望の面を手にとってみせた。
「もちろん、このような、別の宗教に傾倒した者の製作物を持っていたって、私はなにも言いませんし。こんなものであっても、こころさんにとっては、大切な親との思い出の品です。それを否定するような狭量にはなりたくないものです」
「大切大切」
と無表情で頷くこころに、白蓮は希望の面を持たせる。
「そうですよね。子は、親を選べないもの。だからどんな親でも、それが全てなんですよね」
そう言って、白蓮は神子に目を戻した。
「――――――――」
神子は下を向いたまま、黙り込んでいた。それが、次なる舌戦にむけてか、諦め故にかは分からない。
「さあ、分かっていただけましたか?」
しかし白蓮は、それを好機と見て一気に畳み掛けることにした。
「これからは、私が責任を持って、こころちゃんを育てます」
「ちゃん付け!?」
猿面を被り、驚きの声を上げるこころ。その身を固く抱きしめて、
「ですから貴方は、どうぞお引取りください」
白蓮はその言葉を口にした。お前には、この子は渡さない。そういう思いを、全身で表現するようにして。
「――――――――」
対して、神子は答えなかった。相も変わらず下を向いて、黙り込んでいる。
と、
「――――よ」
その肩が、
「――――なよ」
次第に、プルプルと震えだした。
「――――るなよ」
それと同時に、何事か、小さな呟きが届く。
「この期に及んで、なにを言うつもりですか?」
その、白蓮の言葉が最後の引き金となったか。
「ふざけるなよこの邪僧めがあああああああああああああ!」
神子が、爆発した。
「先程から黙って聞いていれば、親失格だのなんだのと言いたい放題!挙句、希望の面を、ダメ親が唯一買ってくれたプレゼント、みたいな言い方して美談にみせかけようとして!そもそも、こころの面は全て私の作だろう!六十六枚もプレゼントしてるじゃない!」
叫ぶ神子の目尻には、微かに涙の粒が光っていた。結構、ショックを受けていたようだ。
「家のことを教えなかったのだって、この幻想郷では、妖怪は独立して生きるものだと思っていたからだ!仙人に保護される妖怪なんて、それこそ、こころのためにならない不名誉だろう!」
それは確かに、一理ある話だった。妖怪は、その格を上げるためにも、仙人を狙うものだとされている。それが逆に保護されているとあっては、むしろ格が下がって、元の道具に戻ってしまうかもしれない。
「でもなによりも我慢ならないのは、聖白蓮!よりにもよって、君が私に親のなんたるかを説くことです!」
笏を再び突きつけて、神子が叫んだ。
「確かに、私は自分の手で子を育てたことはない。妻や、そのお付きの者に任せてはいました。でも私は、一応それでも親をやっていたんですよ!」
「――――うっ」
神子の言わんとしていることに気づいて、白蓮は思わず顔を顰めた。
「それに比べて、君はどうなんですか!?人間時代は、寺での修行以外になにかやっていたんですか!?そもそも、結婚だってしていたんですか!?子供を産んだことがあるのですか!?」
とそこまで言って、神子は、ハッ、と鼻で笑ってみせた。
「あるわけありませんよね!尼が結婚なんてご法度ですし!」
「む、ぐぐぐぐ」
今度は、白蓮が唸る番だった。
「フン!それでよく私に、親として、とかなんとか言えたものですね!君のそれは、つまり全部借り物の台詞だということです!妖怪達に慕われていっぱしの求道者を気取るのは構いませんが、それ以前に貴方は、人としての道を思い出すのが先じゃないの!?」
「そこまで言うことないじゃありませんか!」
白蓮は思わず、そう叫び返していた。
「私はただ、善意でこころさんを助けたかっただけです!それがどうして、人道の話になるんですか!?」
「先に言い出したのはそっちでしょう!私だって、ただ自分の物を取り戻しに来ただけです!」
「また、そうやって――――」
白蓮は、こころを抱いていた手を解いて、神子の方に歩き出した。
「自分の物、自分の物、って、こころさんはもう一人の独立した妖怪なんですよ!?一〇〇〇年単位のネグレクトのくせに、今更しゃしゃり出てきて所有者面なんて、性質が悪いにも程があります!」
「封印期間をさらに長引かせようとしたヤツの言うことか!」
そんなの、白蓮としても相手が誰か知っててやったわけじゃない。
「大体、貴方はこころさんを連れて帰って、どうするつもりなんですか?」
つかつかと詰め寄りながら、白蓮は加えて訊ねる。
「自分でさっき、仙人に保護される妖怪なんて、とか言っておきながら、もう連れて帰る気でいるみたいですけど、下手したら彼女の存在自体に関わるかもしれない行為なんですよ、それ」
「もちろん、分かっていますよ。ですが――――」
と神子は、己の背後に広がる命蓮寺の境内を示しながら、言った。
「この寺の教義が、信仰による自己の確立で妖怪の存在を保つ、というのなら、私がこころにそれと同じことをすればいいだけです。妖怪仙人、いいじゃないですか。妖怪本尊なんかより、よっぽど神秘的です」
「こんな場面でも、仏教をあげつらって腐すんですか!」
呆れた、と白蓮は、もはや至近にいる神子を睨みつけた。
「どうしても、譲ってはいただけないのですね」
「どうしても、譲るつもりはないのですね」
対する神子も、負けじと睨み返しながら言った。
二人の間で、火花が散る。
「もういい!」
その硬直を破ったのは、神子の方であった。
「元より、分かりあえるなどとは思っていなかった。いざとなったら、力ずくで連れて帰るつもりだった」
「あら、帰れるつもりでいるの?力ずくで、というのは、守る側にだってある選択肢なのに」
お互いの視線が、もはや音を立てんばかりにぶつかり合う。
「表へ出なさい!」
神子が叫んだ。
「そちらこそ!」
白蓮が応えた。
そして二人はお堂の中から身を躍らせると、そのまま境内の上空に飛び立っていった。
「おお、激しい」
その姿を、こころは無表情で見送っていた。
※
真昼の寺の境内を、極彩色の光が彩る。
「大体君は、僧侶のくせに慎みがなさすぎるんですよ!」
神子の叫ぶ声が。
「貴方が僧のなんたるかを語るんですか!?私だって、貴方がそんな人だなんて思いませんでしたよ!」
白蓮の叫ぶ声が。
「私の人となりなんて、君になんの関係があるんですか!」
「こころの教育に悪影響です!」
「どうして君がそんな心配をする必要があるの!」
「困っている妖怪を助ける責務があるんです!」
激しい舌戦が、弾の音に混じって繰り広げられていた。
「はぁー、綺麗ですねー」
ぼんやりとそれを見上げながら、こころは無感情な声で呟いた。
「暢気なものね。誰のせいでこうなってると思ってるの?」
そんな声と共に、こころの後頭部が、ぽす、と叩かれた。こころが振り返ると、、そこには一輪の姿があった。
「やれやれ、やっぱりこうなったか。説法中止の案内を出しておいて正解だった」
「?」
小首を傾げるこころに、一輪は山門の方を指差してみせる。
「ほら、あれ」
そこでは、一輪といつも一緒にいる入道――――雲山が、大きな立て札を持って浮遊している姿があった。
「用意周到だな!」
狐面を被って、一輪を褒めるこころ。
「いや、それは別にいいから」
しかし一輪には、あまり評判が良くなかった。
「そんな仮面使った感情表現より、さっきみたいなのの方が、よっぽどあんたらしいよ」
「さっきってのは、なんだ?」
まだ面を付けたまま、こころは訊ねる。らしい、とはどういうことなのだろう。
「首を傾げてたでしょ?そういう仕草のこと」
一輪は腕を組んで、苦笑しながら言った。
「面で作られた表情じゃない、何気ない、あんたならではの動きよ。顔はまだまだ無表情だけどさ。あんたの修行ってのも、あながち無駄じゃなかったのかも知れないね」
「よく、分からない」
面を外して、こころは無表情で呟く。自分では、なにも変わっていないようにしか思えないのだが。
「君はなんで毘沙門天を信仰しているのに、大陸の神の技を使っているんですか!その信仰は飾りですか!?」
「仏の道も、元々は大陸の神の教えでしょう!そもそも全く別の技を使ってる貴方に、そんなことを諭される謂われはありません!」
神子と白蓮の攻防が、激しさを増していく。
と、
「ちょっと、なんの騒ぎなのこれ?」
そんな新たな声が、山門の方から聞こえてきた。
「うげっ、あの声、博麗の巫女じゃない!?」
一輪が慌てた様子で、走り出す。
「どこのどいつよ、まだ暴れてる阿呆は。それも人里で。そういうのは、もう終わったはずでしょうが」
その声には、こころも覚えがあった。
博麗霊夢。彼女もまた、こころが起こした異変の折、この幻想郷の希望にならんと動いていた宗教家の一人だった。
「まあまあまあまあ、とりあえずこちらに来ていただいて……」
「なによ、気持ち悪い。上の馬鹿共を叩き落せばそれで丸く収まるんでしょう?」
物騒なことを言っている霊夢の背中を押して、一輪が戻ってきた。
「あれ、こころじゃない。あんた、こんなところでなにしてるの?」
「衝撃の再会!」
こころは猿面を付けて、ポーズを取ってみせる。
「質問に答えなさいよ。腹立つわね」
ガス、と面の真ん中にお払い棒を叩きつける霊夢。
「痛い……」
「痛いようにやった」
理不尽な霊夢の物言いに、こころはしゃがみこんで頭を押さえた。こういう時の顔は、どういうのが正解なんだっけ。ぼんやりと、そんなことを考える。
「ええとですね」
そんなこころに助け舟を出すように、一輪が言った。
「これには、実は、話すと長い事情があるのです。ですからその、なんというか、この場だけを収めても、また再発する可能性があるというか」
「え、なにそれ。その度に私が出てこないといけないってこと?それは面倒ねぇ」
「怠け者め!」
般若面で、こころが言った。
「いいのよ、怠け者で」
しかし霊夢は、怒ることもなくそう言ってのける。
「怠けるために効率よく仕事を片付ければ、その分暇ができるじゃない。無駄な働き者より、よっぽどいいと思わない?」
「思う、かもしれない」
無表情で、こころはそう答える。判断としては、確かに間違っていないと思えた。
「こころは、私の作った希望の面を、あんなに大事に持っているじゃないですか!つまり、私のところに来たいに決まっている!」
上空で、神子が新たな弾幕展開しながら叫んだ。
「おめでたい頭ですね!だったら毎日説法を聞きに来て、半住み込み状態のウチでは、こころさんはもう家族みたいなものね!」
弾幕の間を恐ろしい速さで抜けながら、白蓮も叫んだ。
「私は、お前達が家族だなどと認めんぞ!」
「どこの頑固親父ですか貴方は!ウチには間に合ってますよ!」
相変わらずの激しい舌戦。飛び回りながら、よく息が続くものである。
「……あいつら、なんで戦ってんの?」
そんな二人とこころを交互に見ながら、呆れたように霊夢が言った。
「こころさん、答えて」
丸投げしてくる一輪。彼女としても、呆れ果てているのだろう。
「ええと……」
困り顔、困り顔、とおうな面を被り、こころは説明する。
「実は、あの二人、どちらが私を引き取るかで揉めているんです……」
「はぁぁ!?」
霊夢が脱力と共に首を傾げた。
「は?ホントに?道教と仏教とかじゃなくて?」
「いやまあ、それはこの前に充分やったから。今回は、本当に個人的な事情」
補足、とばかりに一輪がそう告げた。
「うっそ、え、冗談でしょう?」
予想はしていたが、まさかそんなことはあるまい。そう思っていた、まさにど真ん中を突かれた。そんな感じで、霊夢は目を白黒させている。
そこで、こころは気づいた。霊夢の感情表現は、非常に分かりやすい。そのなんたるかをまだ理解しきれていない自分にも明確に伝わってくる。
それはまるで、面だ。分かりやすく、そのように感情を表現するために作られた、面。彼女は人でありながら、いやむしろ人であるからこそ、面霊気である自分よりも的確に、それを表現できているのかもしれなかった。
「はぁ。なるほどね」
霊夢は溜め息を漏らして、言った。
「つまり、こころをどっちが引き取るかの結論が出ないと、この場を収めても意味がないってことか。あー、ホント面倒ねぇ。人里でも騒ぎになりだしてるし、放置して帰るわけにもいかないわよねぇ」
「いや、騒ぎになってなかったら、無視する気だったの?」
「とんだグータラ巫女だな!」
すかさず、一輪と狐面こころにツッコミを入れられる霊夢である。
「やかましい。誰のせいで余計な仕事が増えてると思ってんの」
「私だけ!?」
またしてもお払い棒攻撃を喰らって、こころは地面にへたりこんだ。面をつけていなければ、頭がへこむんじゃないかと思えるほどの衝撃だ。
「一つ訊きたいんだけどさ」
そんなこころを見下ろして、霊夢が訊ねてきた。
「あんたは、どっちに行きたい、とかって考えはあるの?」
「……分からない」
今度は面を付けずに、こころは答えた。この、心の中のもやもやした感情を表現するのに最適なものが、よく分からなかったのだ。
「そうか。分からないか」
霊夢は困ったように溜め息を吐きつつも、今度は叩かなかった。
「じゃあ、訊き方を変えましょう。あんた、今のこの争いを、止めたいと思ってる?」
「好きにやらせておけばいい!」
狐面をつけて、こころはそう答えようと思った。しかし、
「――――――――」
霊夢の、この吸い込まれそうな目を見ていると、そうやって面を付けるのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。もっと、心の底から搾り出すようななにかが感じられて。
「……止めたい」
こころは、思わずそう呟いていた。
「二人には、争って欲しくない」
面を付けない状態で、搾り出すように漏らす。
「そ」
霊夢が、素っ気なく答えた。
「だったら、取って置きの方法を教えてあげるわ」
そして彼女はニヤリと笑って、こころにそれを耳打ちする。
「――――え?そんなことするの?」
「そうよ。そんなことだから、するのよ」
霊夢はそう言うと、お払い棒を両手でペシペシと鳴らす。
「ちなみに、面は使っちゃダメよ。あくまでも、あんた自身の感情の声じゃないと意味がないから」
やったら、分かってるよな?霊夢の目が、そう言っていた。
「そんなー」
無表情のまま途方に暮れて、こころはそう呟いた。自分にできるだろうか。いや、できるわけがない。心底そう思う。
「まぁまぁ、そんなに気負わなくてもいいんじゃない?」
励ますようにそう言いながら、一輪が肩を叩いた。
「これも修行の一環だと思って。失敗したって、霊夢さんの仕事が増えるだけだし」
「なに、あんた、喧嘩売ってるわけ?」
「だったら、もう一つ仕事が増えますね」
「はぁー、いい性格してるわねぇ。これだから坊主は……」
「尼です、尼」
そんな二人のやり取りの緩さは、こころに妙な安心を与えてくれた。まあ、頑張ってみれば?なんて、そんな風に言われているような気がした。
だから、こころは。
「すぅぅぅ――――」
思いっきり息を吸うと。
「おとうさーん、おかあさーん!私のために争うのは、もうやめてええええええええ!」
その言葉を、戦い続ける二人に向けて、思いっきり叫んだ。
「ふぁ!?」
神子が。
「ええ!?」
白蓮が、上空で動きを止める。
「お、おと……こころ、今、なんて……」
「こころさん、今、その、お、おかあさん、って……」
あたふたとこちらを見ながら、二人が奇妙な表情を浮かべた。
それは、泣いてるような、笑っているような。まるで、喜びが行き過ぎて限界を超えたような、そんな表情に見えて――――
次の瞬間。
「あ、避けないと当たるわよ」
「「え?」」
霊夢の言葉通り、お互いがお互いの放った弾幕の直撃を受けて、神子と白蓮は地面に落下していた。
「う、雲山!受け止めて!」
「――――ッ!」
一輪がそう言うのを待たずに、雲山はすでに動き出していた。二人の落下地点にその身を伸ばして、見事にキャッチする。
「ふぅ、危ない」
きちんと神子の方も受け止めているあたり、雲山はいい人なのかもしれない。
「う、ううううう」
「いたたたたたた」
地面に下ろされた二人は、最初こそ、そうやって自分の身を押さえていたが。
「はっ!そうです、こころ!」
「あっ、こころさん!」
我に返るなり、二人揃ってすごい速度でこころに詰め寄ってきた。
「さっき、私のことを、お父さん、と呼んでくれたね!?」
神子が自分を指差しながら、キラキラとした笑顔で訪ねた。
「先程、私のことを、お母さん、と呼びましたよね!?」
これまた自分を指差しながら、うっとりとした顔で白蓮が訊ねた。
そしてすぐに、
「はぁ?なんであなたがお母さんなんですか。ただの聞き間違いでしょう。自惚れるのも大概にしなさい」
「そちらこそ、自分がどうしてお父さんだと思ったんですか?そうやって転生しながら、いつまで父親気分なんですか?」
お互いを睨みつけながら、そんなことを言い始める二人。
「なにこいつら。鬱陶しいんだけど」
その後頭部を、霊夢が無慈悲にお払い棒で打ちつけた。
「いだっ!?」
「あいたっ!?」
すごい音がして、二人が悲鳴と共にうずくまった。今のは、見てるだけでも痛い音だった。
「あんたらに暴れられると、ウチが迷惑するの。だからこの騒動をこれっきりにするためにも、どこに行きたいのかは、こころに決めてもらうわよ」
腕を組んで二人を見下ろしながら、霊夢が言った。
「いやしかし、私は彼女の父親であって……」
「私は、その、こころさんの母親であって……」
うずくまりながらも抗議の声を上げる二人に、
「あぁ?」
お払い棒を鳴らしながら、威圧的な声を上げる霊夢。
「あぁ、いや、なんでもないです」
「ごめんなさい」
さしもの二人も、また殴られるのはご免のようだった。下を向いて、大人しくなる。
「さあ。そういうわけだから」
それを確認して、霊夢はこころに向き直った。
「こころ、あんたが決めなさい。どこに行きたいのか。どっちと行きたいのか」
「私が、決める」
「そうよ。それで、両者恨みっこなし。選ばれた方も選ばれなかった方も、以降一切、相手に余計な手出しはしない。これは、私、博麗の巫女が預かる協定とします」
「お、横暴ですよ!」
「そうです!家庭の問題に!」
「家庭の問題でドンパチやる馬鹿がどこにいるか!痴話喧嘩なら、食卓か床ででもやりなさいよ!」
お払い棒を突きつけてそう言う霊夢から目を逸らして、
「いや、と、床って……」
「な、なに言ってるんですか霊夢さん……」
なんてもじもじとする二人。
「あ、なんかまたしてもイライラしてきたわ」
「ぼ、暴力反対」
両手を挙げて、降参の意を示しつつ神子が、
「和を以て貴しと為す、ですよ」
同じく、白蓮がそう言った。
「あんたら、わざとやってるでしょ?」
溜め息を吐いて、霊夢はお払い棒を下ろした。
「じゃあ、こころ。お願い。どっちか一人は、これで痛い目を見るわけだし。それを見て、私は満足することにするわ」
「さ、最低ねこの巫女……」
一輪がボソッと呟く。これにはこころも、確かに、と少し思ってしまった。
そして、こころが顔を上げると。
「――――――――」
「――――――――」
期待と不安の入り混じったような、二人の熱烈な視線があった。
「う――――」
それに気圧されて、こころはなにか面をつけようと探る。
しかし、こういう時に最適な感情が浮かばない。怒りではない。悲しみでもない。さりとて、喜ばしいわけでも、楽しいわけでもない。無数にある感情から、なにを選べばいいのか。
「悩むことなんてないわよ」
霊夢が、ポリポリと頭を掻きながら、つっけんどんに言った。
「あんたがどうしたいか、なんだから。視線がウザイって言うなら、こいつらに後ろ向かせておくけど……」
傍若無人である。隠そうともしないその感情表現は、ある意味、憧れる。
そこで、こころはようやく、己の〝心〟を悟った。
そうだ、私が行きたいのは――――
「私は――――」
スッ、と一枚の面を被る。
それは、最近失い、そして増えた面。希望の面。
「こころ!」
神子が、歓喜の声を上げる。
「そんな――――」
白蓮が、悲嘆の声を上げる。
しかしこころは、
「やはり、私と来てくれるか!歓迎するぞ!今すぐにでも行きたいというなら、連れて行くぞ!?」
そうやって立ち上がろうとする神子に。
「私は、神さまとは行かない」
そんな絶望の言葉を、告げた。
「なっ――――」
神子が腰を抜かして、へたり込む。その姿に、少し胸が痛んだ気がした。
「では、こころさん!」
それとは対照的に、満面の笑みを浮かべたのは白蓮だ。彼女としては、神子が選ばれなかったならば、自分が選ばれるのが必然。喜ぶのも無理はない。
だが、その白蓮にも。
「ごめんなさい。私は、白蓮とも、一緒には行かない」
「――――え?」
白蓮が硬直する。凍りついたように張り付いたままの歓喜の顔は、まさに自分の面を見ているかのようだった。
「ちょ、ちょっと、じゃあどうするのよ、あんた?」
困ったようにそう言ったのは、霊夢だ。これでは、場が収まらない。そう思ってのことだろう。
でも――――
「心配はいらない」
こころはそう言うと、希望の面をつけたまま、霊夢の方に向き直った。
「何故なら私は、貴方と行くから」
「は?」
「え?」
「なに?」
三人の、唖然とした表情が並んだ。こころはそれを、少し楽しいと思った。
「「「ええエええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!??」」」
そして続く、三人の驚きの声。共鳴した感情が、痛いほどにこころにも伝わってきた。
「ど、どういうことですか霊夢!?八百長ですか!?」
「そうですよ霊夢さん!前々から思っていましたけど、そこまで汚い手を使う人だったんですか!?」
ものすごい勢いで霊夢に詰め寄る、神子と白蓮。
「ち、違うわよ!そんなわけないでしょ!ていうか汚い手って、私のこと普段どんな目で見てんのよ!?」
そう言って後ずさりながら、霊夢はこころに視線を向ける。
「ていうか、どういうことよこころ!?私だって、全く意味が分かってないんだけど!?」
「うん」
だろうと思った。霊夢はそういう、腹芸、みたいなことをしない人物だ。それをこころは、誰よりもよく知っている。
「だから、かな」
面で顔を隠しながら、こころは霊夢に近づいていった。
「真っ直ぐで、明け透けで、隠れたところがなくて、まるで感情の見本市みたいで」
それは、こころの持つ面と同じようで、しかし全然違うこと。
「人間の感情を、抑えることなく全部持ってて。それを歪みなく表現できて」
面などなくても、その場その場の感情を的確に選び取って。
「周りの人達にも、自然とそれを伝えられて」
それはさながら、感情を司るかのように。
「そんな貴方だから、行きたいと思った」
ひょっとしたら、その姿こそ、自分という存在の目指すべき、未来の〝希望〟かもしれないと思って。こころは、霊夢と行きたいと思ったのだった。
「ダメ、かなぁ?」
こころの顔から、面が外れた。
その下に浮かんでいたのは、こころこそ気づいていなかったが。
「しょ、しょうがないわね」
霊夢が、顔を微かに赤らめて視線を逸らすほどに、
「じゃあ、ウチ、来る?」
「うん」
見る者全てを虜にするような、あどけなくも美しい、希望に満ちた笑顔だった。
しかし、それで丸く収まるほど、事態は容易くなかった。
「納得がいきませんよ、こんなの!」
神子が立ち上がって、抗議の声を漏らす。
「そうですよ!横から現れて攫っていくなんて、それが巫女のやることなんですか!?」
白蓮も便乗して、声を上げる。
「だあああ、うるさい!私に文句言うな!」
霊夢はお払い棒を構えて、二人に向き直った。
「当初の予定とは違っちゃったけど、選ばれなくても文句は言わない約束でしょうが!博麗の巫女の定めたルールに文句つけるわけ!?」
「こんな時だけ真面目な巫女面するなんて、卑怯です!」
そう言う白蓮の肩を、神子が叩いた。
「心配要りませんよ、白蓮」
「太子さま?」
「なに、博麗の巫女のルールに文句をつけるということは、すなわち決闘を行うということ。そして決闘を行ってルールを破壊してしまえば、同時に、こころの面倒を見る権利だって宙ぶらりんになるということではないか」
ニヤリと神子が笑った。
「ああ、なるほど」
それに応えて、白蓮もニコリと笑う。
「つまり私達が協力して、この場で霊夢さんを倒してしまえばいいのですね?こころさんをどちらが迎えるかは、その後で決めればいいと」
「そういうことです」
フッフッフッ、と不気味な笑い声共に、二人が構えを取る。
「へぇ。いい度胸してるわね」
そんな二人を、霊夢はお払い棒で肩を叩きながら、不遜に見返した。
「巫女のルールをぶち壊す、なんて宣言して向かってくるって、それ要するに幻想郷に対する反逆よ?」
「父の愛を舐めるなよ、博麗」
「母は強し、という言葉の意味を教えてあげましょう」
いつの間にか、神子が父で白蓮が母、ということで合意が成り立っていたらしい。驚愕である。
「いいわ。受けて立ちましょう」
霊夢が獰猛に笑いながら、告げる。
「こころの前であんたらを消滅させるわけにもいかないから、ルール破りだけど、命名決闘法で挑ませてあげるわ。どうせ大した協定でもないし」
「大したことない問題に協定を持ち出すなんて、大人気ないと思わないの!?」
「グータラどころか、職権乱用巫女ね!」
「やかましい!」
そう一喝して、霊夢は地面を蹴った。霊夢の身体がふわりと浮き上がり、宙に舞う。
「足を引っ張らないでくださいね、お母さん」
「そちらこそ、無様な姿だけは見せないでくださいね、お父さん」
お互いを皮肉交じりに鼓舞しつつ、神子と白蓮もその後に続く。
「あんたら、やっぱわざとやってんでしょ?」
白い目でそう言う霊夢に、
「なんの話ですか?」
「わけがわかりません」
と答える二人の姿を見送って、こころは思う。
あの二人、実は仲がいいんじゃないか、と。
「姐さんも意地っ張りだからねぇ」
楽しげに笑う一輪に、こころは向き直った。
「今までありがとう」
寺に住んでいた間、一輪にはずいぶん世話になった。こういう時は、お礼を言うものだと知っている。
「いいのよ。生まれたての妖怪なんてそうそう見る機会なかったから、いい経験になったよ」
そう言うと一輪は、軽くこころの肩を叩いた。
「んじゃ、元気でね。上手くやりなよ」
「うん。上手くできたら、また見せるよ。暗黒能楽」
「いや、そこは普通の能楽でいいや」
苦笑交じりに、一輪がそう言ったと同時。
「さあ、かかってきなさい!」
霊夢がそう告げて、ついに開戦となった。
「聖様!頑張って!」
すぐさま応援を始めた一輪を見て、こころは希望の面に軽く触れる。
「私も、応援、してみようかな」
そして、彼女は小さい声で。
「頑張れ、霊夢さん」
しかし確かな声で、自分の希望を告げるのだった。
連日、聴衆を賑わせていた決闘の数々も、最近ではすっかり下火となり、人々はいつも通りの生活を取り戻していた。厭世観や絶望感。そういった負の感情はもはや消え失せ、さりとて夜を支配した感情の喪失も埋められて久しい。
そう。人々には、正常な感情が戻っていた。
喜怒哀楽と、それをさらに細分化した六十六の機微。今、人里を支配しているのは、そんな当たり前の人間の感情だった。
ただ少し。今まで失われていた反動か、里の活気の中には、未来への希望が強く滲んでいるようには感じられた。だが、人が希望を抱くのは本来良いことである。そもそもが、人々に希望を抱かせるためにこそ、彼女は一連の騒ぎに参じたのだから。
そんな、いつもの日常を取り戻した人里の往来を、
「まったく、どういうことなのこれは!」
そう呟きながら、肩を怒らせて行く人影があった。
豊聡耳神子。一四〇〇年の眠りより復活した仙人にして、現代の幻想郷に降り立った救世主である。
神子は、確かに幻想郷を救った。今回の騒ぎを起こした付喪神を倒し、人々から希望が失われることとなった原因を取り除くことで。すなわち、面霊気に新たな希望の面を与えることで、人々を救ったのだ。
その結果、里の民草は皆、復活した聖徳太子の偉業に畏敬を抱き、道教を信仰することになるはずであった。
そして神子自身も、己のあずかり知らぬところで自らが生み出した存在に自信を深め、悲願の不老不死へ向けて、よりいっそうの精進を続けることを決意していた。
その矢先に――――
「なんで、なんであの子は、よりにもよってあんなところにいるのですっ!?」
※
事の発端は、数刻前に遡る。
今朝も神子達は、いつものように仙界にて食卓を囲んでいた。
「どうですか、お味は?」
不安げにそう訊いてくる屠自古に、
「うむ、悪くない」
と神子は頷く。
「特に、この味噌汁が素晴らしい。まさに毎朝飲みたい味といったところですかね」
「そんな、褒めすぎですよ。すでに毎朝飲んでる程度の味ですし」
そっけなく屠自古が答えた。やや顔が赤くなっているのを見るに、口調とは裏腹に喜んではいるらしい。
と、そんな屠自古に、すかさず茶々を入れてくる人物がいた。
「あらあら、屠自古ちゃん。以前に言ったことをもう忘れましたの?」
青娥である。今朝も気まぐれに仙界を訪れていた彼女は、味噌汁の入ったお椀を持ち上げて見せながら続けた。
「この国では、毎朝味噌汁を作ってくれ、というのは、一種のプロポーズの言葉だと教えたじゃありませんか。豊聡耳さまは、つまりはそういうことを仰っているのですわ」
「いやそんな大層な意味は……」
というか、元々妻だし。と神子が口を挟んだのを無視して、青娥はさらに屠自古を煽っていく。
「いやぁ、長い長い花嫁修業の甲斐がありましたわねぇ」
「ちょ、あんた!」
屠自古が泡を食って立ち上がるのと同時、神子も眉をひそめて呟く。
「花嫁修業?」
「ええ、そうですわ」
青娥がニンマリと笑う。
「だって、古代のやんごとなき身分の方々といったらもう、結婚しても自分で家事をなさることなどまずありませんでしたでしょう?このままでは豊聡耳さまが復活しても、屠自古ちゃんは、身の回りの世話も満足にできないダメ嫁の烙印を押されること間違いなし」
ですから、と青娥は続けた。
「それを憂いた私は、大祀廟の掃除から食事の支度まで、ありとあらゆる時代時代の家事作法、妻のあり方を屠自古ちゃんに叩き込んだのですわ」
「屠自古、あなた、そんなことをしてたんですか?」
「え!?いや、その――――」
うぐぐ、と屠自古が唸るあたり、どうやら本当のことのようだ。
神子にも思い当たるフシはあった。自分が目覚めた時、一四〇〇年も経っている割には、大祀廟は異様に綺麗だった。そして、復活後の日々を暮らす上で必須の、毎日の家事をすすんで買って出たのも屠自古だった。
ありし日に、屠自古は皇太子の妻であった女だ。そんな彼女に、まともに家事ができるものだろうか、と神子も当初は心配したものである。結果的にそれは杞憂に終わり、今では、屠自古は立派に家事をこなしてくれていたわけだが、その裏にはこういうカラクリがあったのか。神子は今さらにそれを理解した。
「ご理解いただけましたか?」
青娥が、何故か勝ち誇ったように言った。
「そんな地獄のミレニアム花嫁修業を経たからこそ、今の良妻屠自古ちゃんがいるのです。この通り、毎日の食事も美味しいですし、育てた私としても鼻が高いですわぁ」
「人を千年単位の行き遅れみたいに言うな!」
「屠自古、抑えて抑えて」
死別後に再会したという特殊案件ではあるが、今となってはミレニアム夫婦みたいなものだし。神子は笑顔で言った。
「あなたの献身に、私はいつも助けられている。だから、なにも恥ずかしがることはない。むしろ胸を張って、誇りなさい」
「うえ!?」
素っ頓狂な声を上げて、屠自古の顔が瞬く間に真っ赤に染まる。
「あ、そんな、勿体ないお言葉ですよ太子様……」
そして、彼女はストンと椅子に腰を下ろすと、ボソボソとそう呟きながら顔を伏せてしまった。
「ほほほ、屠自古ちゃんは可愛いですわねぇ。いつまで経っても初心で」
口元に手を当てて、そんな年寄りじみたことを言い出す青娥。満足そうなその顔が、なんとも憎たらしい。
「このために千年も仕込みをしてたんですか?」
とんだ暇人だな、と若干呆れながら神子は訊ねた。
「まさか」
しかし青娥は、心外だ、というような顔でそう答えた。
「この程度、まだまだ序の口ですわ。食事、家事、ときたらもう一つ、夫婦生活には欠かせないものもきちんと仕込んでありますわよ」
「欠かせないもの?」
なんだそれは、と言いかけた神子の鼻先を、
「黙れこの邪仙があああああああああああ!」
屠自古の咆哮と共に、一条の雷光が横切っていった。
「あ、あぶなっ!?」
神子の横に座っていた青娥が、転げ落ちるように椅子から離れた。
「ちょ、屠自古ちゃん?今の完全に直撃コースでしたわよ!?」
地面から身を起こしながら、青娥が本気で焦った声で言った。その様子を見て、神子は今のが屠自古の発した雷であると遅ればせながら理解する。
「黙れ!」
全身から、目に見える怒りのオーラをバチバチと発しながら、屠自古が立ち上がった。
「いいから黙れ!それ以上言ったら殺す!」
「それ以上?ああひょっとして、房中――――」
「あああああああああああ!」
青娥がなにか言いかけたのを、屠自古が叫んでかき消す。
「だから言うなっていってるだろうが!もう金剛不壊でも壊す!むしろいたぶって壊す!」
再び数条の雷が、神子の眼前を横切っていった。
「と、屠自古ちゃん!?目が、目がマジですわ!完全に怨霊の目ですわ!」
「やかましい!祟りなめんな!」
もはや問答無用、とばかりに身体を浮かせながら、屠自古は次々と雷撃を送る。
「これは、とても話を聞いてもらえる状態じゃなさそうですわね!」
それらを巧みな身のこなしで避けながら、青娥が言った。
「なればなんとする!?もう謝っても許さんぞ!」
完全に怨霊モードで、青娥を睥睨する屠自古。
「決まっていますわ」
対する青娥は、負けじと屠自古を見返しながら、不敵に笑った。そして、
「かくなる上は、今日のところは退散いたしますわ!」
高らかにそう宣言すると、まさしく脱兎の勢いで居間の扉から飛び出していった。
「ちぃ!小細工を!」
ただでさえ頭に血が上りやすい屠自古である。そんな態度を取られて、彼女が黙って見過ごせるわけがない。
「逃がすか!今日こそ息の根止めてくれる!」
思いっきり物騒なことを言い残して、屠自古もまた、青娥を追って飛び出していく。
「まぁ、ほどほどにね」
聞こえてないだろうが、一応。とばかりに、その背中に声をかける神子。
「分かってます!ほどほどに殺します!」
扉の向こうに消えた屠自古から、そんな声が聞こえてきた。どうやら聞こえてはいたようだ。理解されたかは、甚だ疑問だったが。
「やれやれ」
神子は思わず溜め息を吐いた。
屠自古、布都は言うに及ばず、あんな青娥でも一応は昔からの馴染みである。共に不老不死を目指す同志として、できれば三人には誰一人として欠けて欲しくはない。神子はそう思っているのだが、いかんせん、青娥は煽りのスペシャリストで、屠自古は煽られ耐性が皆無ときている。二人の相性は、生前より最悪であった。
あの二人を仲良くする方法は、さしもの聖徳太子といえども思いつかない。自分にも、まだまだできないことはあるのだ。神子は、身内から己の無力を実感させられた。
とはいえ、無理に外野がとやかく言うことでもない。たまには、青娥も痛い目を見るといい。どうせ簡単には死なない身体だ。神子は強引に気持ちを切り替えて、自身の食事に戻ることにした。
と、
「――――」
「ん?」
ふいに視線を感じて、神子は再び顔を上げた。
「布都?」
その視線の主は、布都であった。今まで一言も発さずにいたが、彼女も最初から食卓にいたのだった。
「布都、どうしたんです?今日はいやに大人しいじゃないですか?」
神子は怪訝な顔で訊ねる。いつもなら、屠自古がいじられていたら、喜び勇んで自分も参戦しているというのに。
「うむ。その。実は、ですな」
直接訊ねられては、だんまりを決め込むわけにもいかない。布都が茶碗を置いて、しぶしぶといった様子で口を開いた。
「言おうか言うまいか、ずっと迷っていたことがありましてな」
どうやら布都は、食事に没頭していて、黙っていたわけではなかったらしい。
「――――今度はなにをやったんですか?」
神子は反射的にそう訊いてしまう。寺に火を点けたとか、妖怪相手に無闇に喧嘩を売ったとか、いわゆるそういう話かと思ったのだ。
少し前までと違い、今はそんな騒ぎを起こしても人気など上がらない。ただの迷惑なヤツである。せっかく神子が異変を解決したというのに、身内がそんなことを起こしたのでは信仰も地に落ちるというものだ。
「いやいや、そういう話ではありませぬ」
しかし布都は、そう言って小さく手を振ってみせた。
「そもそも、面霊気の時に一番盛り上がっていたのは、他ならぬ太子様ではありませぬか。我は至極大人しく、むしろあふたーけあに勤しんでいたのですぞ?」
「あー、ええと。それはまあ、置いておくとして」
ちょっと久々に為政者の血が疼きすぎたのだ。仕方ない。神子は目を泳がせつつ、ゴホン、と咳払いを一つ。
「じゃあ、一体なんの話なのですか?」
話逸らしついでに、本道へ強引に巻き戻した。
「うむぅ」
布都は今度こそ話す決心をしたとみえて、腕を組んで大仰に頷いた。
「こうなったら、話さぬわけにもいきますまい。話というのは、他でもない。件の面霊気のことなのです」
「面霊気?こころが、どうかしましたか?」
面霊気――――名を、秦こころ。人々の感情が暴走する遠因となった、感情を操る妖怪である。彼女は、ある意味で神子が作り出した存在でもあった。
故に神子は、こころが感情を暴走させた原因である、希望の面の喪失という穴を埋めるため、新たに面を作り出して彼女に渡した。同じ作者が同じ面を作って渡せば、すべては元通りになるという寸法である。現に、そうして人里は平穏を取り戻し、事なきを得たはずではなかったか。
「私の処置に、なにか問題があったとでも?」
つい詰問するような口調になりながら、神子は訊ねた。
「いえ、そういうわけではないのでしょうが」
布都は腕を組んだまま、苦い顔をしてみせる。
「人里は確かに平穏を取り戻しておりますし、人心も太子様を拠り所として安定しているように思えまする。故にこれは、太子様のあずかり知らぬところでおきた、いわば偶発的な事象だと言えましょう」
「ふむ?」
布都の話は、いまいち要領を得なかった。なんだかんだと、未だに核心を話していないからだ。
「埒が明きませんね。そんなに話しづらいことなのですか?」
「それはまあ。なんというか、間違いなく、面白くないお話でありますが故に」
こうまで焦らされると、神子の方としても俄然その内容が気になってくる。しかも、こころが関わっているらしいとなれば、自分にも完全に無関係とは言えない。
「構いませんよ、布都」
神子は深く椅子に腰掛け、悠然と構えて言った。
「臣下の忠言を受け止めるのは、上に立つ者の義務です。それがどんな内容でも、たとえ面白くない内容でも。むしろ、そういう内容にこそ、身のある話が隠れていたりもするものです」
だから話せ、と。神子は目線で、布都を促した。
「ふ、この構図、昔を思い出しますな」
布都が苦笑を浮かべた。
「では、恐れながら、申し上げさせていただきます」
そして布都は、組んでいた腕を解き、左右の手を互いの袖に仕舞いこみ。
「この物部布都が、最近人里にて耳にした情報にございますが、実は例の面霊気――――」
恭しく合わせた両の腕を掲げ、軽く頭を垂れると。
「最近、命蓮寺に出入りしているようにございます」
その情報を、告げた。
「は――――?」
神子は一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。みょうれんじ?それは一体、どこだったっけ。いやいや待て待て。じ、と付くからには寺であろう。そしてこの幻想郷には、寺は一つしかない。
そこまで考えたところで、神子の脳裏には、あの打撃系僧侶の顔が浮かんできて。
「はあああああああああああああああああああああ!!!!????」
神子は思わず席から立ち上がりながら、そう叫んでいた。
「ちょ、命蓮寺って!?一体それはどういうことですか布都!?」
そのまま神子は歩いて食卓を回り込むと、座ったままの布都に詰め寄った。
「こころが、私の作り出した面の付喪神が、よりによってなんで命蓮寺になどいるのですか!面を渡した後にどこに行ったのかと思えば、まさか命蓮寺に!私だってそんなの予想できませんよ!」
「わわわわ我は、そういう話を聞いただけにございますすすす!ど、どういうことと申されましてももももも!!」
神子にガクガクと肩を揺らされながら、布都はなんとかそう答えた。
「む?そうなんですか?」
神子は我に返って、布都の肩から手を離した。ということは、なにか。布都としても、直接本人に会ったわけではないということか。
「我はあくまで、そういう噂を聞いただけでございますよ太子様」
布都が揺すられていた肩を抑えながら、荒い息でもう一度そう言った。
「なるほど。そういうことですか」
神子は納得して頷くと、すぐさま虚空から笏を取り出した。そして、笏の裏面に仙界の制御デバイスの端末画面を呼び出す。
「座標入力……」
すぐさま、エラー、と表示が出た。神子は舌打ち交じりに言う。
「ちっ、さすがに直接転移はできないようになっているか。仕方ない。この時間ならすでに開門しているだろうし、里から回り込んでいこう」
「あ、あの、太子様?」
「大体、門程度ならば、仮に篭られても破るのは容易い。いざとなれば、外から攻撃するという選択肢もあるし」
「ええと、太子様?」
「私の物を奪っておいて、ただで済むと思うなよ。こころは、意地でも取り戻す。そのための手段は選ばない」
「いや、だったら外から攻撃したら本末転倒では?」
「ん?」
布都のもっともな指摘に、神子は顔を上げた。
「確かに。攻撃するのは、こころを取り戻してからですね。私としたことが、手段と目的を履き違えるところでした。忠言感謝します、布都。私は良い部下を持って幸せですね」
「それほどでも……ありますな!」
布都が胸を張って言った。
「うむ。では私は、これから命蓮寺に殴りこみをかけるので、留守は任せましたよ」
そのドサクサに紛れて、神子は里への門を開いた。このまま流れで押し切れば、ここはいける場面だと判断した。
「お任せあれ!ご武運を祈っておりまする!」
案の定、布都は神子の発言を特に気に留めることなく、笑顔で見送りをしてくれた。
「そちらこそ、任せてください。私が仕損じたことが、今までありましたか?」
神子は、ニヤリと笑ってそう言い放つと、
「さあ、出陣だ!」
仙界から里へのゲートに飛び込んだ。
※
そして神子は、今、人里を命蓮寺に向けて歩いていた。
「ホントにもう、なにを考えているのだあの娘は!」
数歩おきに漏らしている呟きを、神子は再び漏らす。
自分になにか不備があったのか。希望の面になにか不具合があったのか。考えても考えても、出てくるのは、分からない、という思いだけだった。
「くっ、こんなことなら、面を渡した時点で仙界に連れ帰るべきだった……」
そもそも、こころは神子の作った物なのだ。多少強引な手段を使っても、手元に置いておくべきだったのかもしれない。
そこまで考えて、神子は衝撃の発想に思い至った。
「はっ、そうか!そういうことか!」
多少強引な手段を使っても、手元に置いておく。これこそがまさに、今回の件の真相に違いない。
あの、妖怪保護なんてお題目をしたり顔で掲げている物理系僧侶のことだ。どうせその持ち前の説法という名の肉体言語で、まだ自我の希薄なこころのことを連れ去ったに違いない。
「許すまじ、聖白蓮!」
神子がそうやって新たな怒りをチャージしたのと同時、ついに目的地が目の前に現れた。
木製のまだ新しい山門。大きく広く開かれたその扉は、一切衆生を拒まぬ仏の教えを、形で示している。そして、横にかけられたこれまた新しい木札には『命蓮寺』の文字が躍っていた。
そう。この場所こそ、こころを攫い、軟禁している悪魔の巣。略取系僧侶聖白蓮が住職を勤める、命蓮寺であった。
「まさに伏魔殿といったところね」
嘲るように言って、その只中へ一歩を踏み出そうとしたところで、
「待てよ?」
と神子は足を止めた。これから自分は、こころを連れて帰るつもりだが、果たしてこのままの格好でいいものだろうか。そう思ったのだ。
急いでいたのとオフだったのもあって、今日の神子は、こころの異変の時のようにマントを付けてきていなかった。何気にアレ、重くて動きづらいのだ。
しかし今は、そんなことを言っていられる状況ではない。こころの本当の感情がどうあれ、妖怪篭絡系僧侶が、自分がこころを連れて行くのを黙って許すはずがない。きっと色々余計なことを言ってくるに決まっている。そんな中、神子はこころに、お前を救ってやる、守ってやる、だから安心して付いてこい、とアピールしなくてはならないのだ。
「ならば、格好から入るのも必要なこと!」
神子は仙界への扉を開くと、
「はっ!」
その向こう側からマントを取り出して、羽織った。
「うむ!これでこそ、我が身の高貴さをこころに伝えられるというもの!」
準備は万端。あとは、奪還に移るだけである。
だが、奇襲などという真似はしない。これは戦ではなく、示威戦だ。己の威光を示すためにも、正面から向かっていく必要がある。
「たのもー!」
寺の中に足を踏み入れながら、神子は腹の底からの叫びを上げた。
「たーのーもー!」
「はいはいどちらさま?」
そう言いながら現れたのは、一人の尼だった。
雲居一輪。入道を連れた彼女とは、以前にも面識がある。決闘という形で。
「って、え?聖徳太子?」
驚きの声を上げる一輪に、神子はマントを靡かせながら答えた。
「そう。私だ、仏の徒よ。今日はそなたらに返して貰いたいものがあって、ここへ来た」
「返して貰いたいもの?」
「その通りだとも!」
首を傾げる一輪に、ビシッと笏を突きつけて、神子は叫んだ。
「ここに我が娘、こころが囚われているのは知っている。故に私は、その身柄を取り戻しに来たのだ!」
バサッ、とマントを翻しての啖呵。決まった、と神子は思った。まさか、その邪悪な企みを喝破されるとは思っていなかっただろう彼女は、慌てふためくに違いないと。
「……はぁ、こころさん」
しかし一輪の反応は、予想に反して薄かった。
「囚われてるとかなんとか、意味はまったく分かりませんけども。こころさんなら、また聖様と一緒にお堂にいるんじゃない?最近の公開説法には、いつも参加しているし」
聞き捨てならない言葉であった。
「いつも参加しているですって!?」
神子は驚愕の声を上げた。
「なんということだ。こころは恐喝系僧侶に、一体どんな弱みを握られているというのか」
「いや、別にそういうわけじゃないと思うけど」
「ではなんだと言うのだ?」
ずいと詰め寄る神子を面倒くさそうに見ながら、一輪は言った。
「私みたいな転向組には分からない悩みが、きっとこころさんにはあるのよ。だから、彼女は救われに来ているんでしょう」
「はっ!」
神子は一輪の言葉を鼻で笑った。
「人の弱みにつけこんで、救いをチラつかせて信徒を集める。それこそまさに、弱みを握られているということではないか」
やはりこころは、騙されているのだ。救済詐欺系僧侶に。
「真理を探究し、理解し、己を高める。その果てに、すべての悩みすらも超越できる道教の導きこそ、今まさにこころに必要なものだろう。仏の道など、我が娘にはいらぬ」
「……広めたのは誰よ」
それはそれ。過去の話である。しかも神子は、別に妖怪の救済のために仏教を奨励したわけではない。
「なるほど。今回のカラクリ、私には全て分かった」
神子は頷いて、一輪の向こうに見える本殿へ向き直った。
「やはり、こころを救えるのは私しかいない。私の作った面が変じた妖怪であるならば、最初から自明の理であったな」
「そう簡単に行くかねぇ」
呆れたようにそう言う一輪だったが、彼女は予想に反して素直に道を開けた。
「ん?てっきり、妨害にくるものだと思ったが?」
「あぁ、うん。そのつもりだったけど、私がやらなくてもどうせ充分妨害されるだろうし」
それに、とげんなりした顔で一輪が続ける。
「最近の聖様の態度を見るに、私が手を出しても、ただの邪魔にしかならなさそうだからね。私が言えるのは、ただ一つ――――」
一輪は、本堂を右手で示しながら言った。
「連れて帰れるものなら、連れて帰ってみなさいよ」
「フッ、言われるまでもない」
それに、神子は不敵に笑って答えた。
「子が道を違えようとしているならば、それを正すのが親の務め。さあ待っていろ、こころ!今、私が迎えに行ってやるぞ!」
バサッと最後にマントの翻りを残して、神子は本堂へと歩き出した。
「ああ、アレは重症だわ。ウチの姐さんといい勝負。こりゃ、今日の説法は中止かな……」
最後に一輪がなにか言っていた気がしたが、もはや神子の耳には届いていなかった。
※
神子が鼻息荒く歩き出したその頃、一輪の予想通り、白蓮はお堂の中にいた。
「いつもごめんなさいね、こころさん。手伝って貰っちゃって」
共に説法の用意をしながら、白蓮はこころに呼びかける。こころは例の異変が落ち着いてからこっち、ほぼ毎日のように寺に出入りして、こうして手伝ってくれているのだった。
「いえいえー、平気です。これも修行の一環、というヤツですから」
抑揚のない声と無感情な表情で、こころがそう答える。それでも嫌々ながらではないと分かるのは、彼女が説法の度に、最前列で熱心に聞いてくれている事実があるからだ。
「なにか掴めそうですか?」
こころに感情を制御する修行を勧めたのは、他ならぬ白蓮である。自分の話が、彼女の存在にどういう影響を与えたのか。妖怪救済を掲げる身としては、気になるところだった。
「うーん?」
こころは首を傾げて、困り顔の面を着けた。
「よく、分からない。なにを掴めばいいのか」
「それは、そうですよねぇ。最初からそれが見えていれば、皆、悟りの境地に達せますし」
白蓮は溜め息混じりにそう答える。
こころは、非常に不安定な妖怪だった。人間の感情を左右する、という能力を持ちながら、しかし自らの感情は希薄。数多の仮面による感情表現自体は可能だが、自我というものがどうにも薄いのだ。
そもそも付喪神というものは、その成立の経緯からして、恨みと慕情に偏った人間への強烈な依存心を持っていることが多い。そして依存心は、裏返せば献身にだってなる。故に白蓮は、そういった、妖怪が妖怪となった理由に焦点を当てることで、彼女の救済になるのではないかと考えていたのだが、ことはそう上手くはいかないらしい。
「なにか、取っ掛かりになるようなものがあればいいんですけど……」
と視線を泳がせた白蓮の目に、あるものが飛び込んできた。
それは、一つの面だった。こころが持つ六十六の面の内、最も新しいものだ。
すなわち、希望の面。その形は、白蓮の脳裏にある人物の姿を思い起こさせる。
「……あの方なら、どうなさいますかね」
ポツリ、とそう漏らしてしまってから、白蓮は慌てて首を振った。自分は一体、なにを寝ぼけたことを言っているのか。むしろ、そっちが頼りにならないから、自分がこうして頑張っているんだろう。
「そうよ。私が、こころさんを救わないといけないの。どこかの放蕩道士に代わって!」
白蓮が、自分に言い聞かせるようにそう呟いた、まさにその瞬間だった。
「こころ!」
お堂の入り口から、そんな声が聞こえてきたのは。
「!?」
聞き覚えのある声に、白蓮は弾かれたように振り返った。なんというタイミングだ。まるで、見計らっていたかのようではないか。
「あ、神さまだ」
こころが、翁面を被って嬉しげに言った。
「そう、私だよ、こころ」
その言葉に満足そうに頷いたのは、放蕩道士こと豊聡耳神子であった。神子はマントを羽織って、腕組みをして、異様な存在感で以ってそこに立っていた。
「なにをしに来たのです?」
白蓮は警戒心を隠そうともせず、自然とこころの前に立ちながら訊ねた。
「む?」
その態度に、神子がわずかに眉を顰める。
「フッ、そんなの決まっているだろう?」
しかし彼女は、すぐに気を取り直して尊大に答えた。
「私は、邪教の徒に軟禁されている我が娘、こころを助けに来たのだ!」
「な、なんだってぇ!?」
またしても面を変えて、こころがわざとらしく叫ぶ。
うむ、とその反応に気を良くしたのか、
「さあ観念しろ、聖白蓮」
笏をこちらに突きつけながら、神子が続けた。
「幼子をかどわかしたその罪、大人しく身柄を返すならば見逃してやらぬこともない。だが、邪魔立てしようというなら、こちらも相応の手段を取らせてもらうぞ!」
ノリノリであった。感情の異変がまだ続いていて、その空気にでも当てられているのではないかと思えるほどに、神子はノっていた。
「へぇ」
そんな神子の雰囲気を圧するようにして。
「聖徳太子さまは、面白いことを言うのね」
白蓮は、ズイ、と前に出ながら言った。
「軟禁した?かどわかした?なんの話をしているのでしょう。私はあくまで、こころさんの自由意志に任せてますし、こころさんもその上でここにいるのです」
もはや完全に、神子の視界からこころの姿を隠すように立って、白蓮は続けた。
「ですから、貴方に非難される謂われなどありません。とんだ言いがかりです。よって、こころさんをあなたに渡す必要もありません」
「な、なん……だと……」
ヒク、と唇の端を吊り上げながら、神子が言った。
「どういうことだ、こころ!?君は、私が希望の面を作ってやったことで、もはや暴走などしていないはずだろう!?」
「あー、うん。それは、そうなんだけど」
抑揚のない声で、白蓮の背後のこころが小さく漏らす。
「太子さま?」
それを守るように手を広げて、白蓮は威圧的な笑顔を浮かべて訊ねた。
「今のは、どういう意味だったのでしょうか?暴走しているから寺に来ている、とでも言いたいように思えましたが?」
「ええ、まさにそういう意味ですよ?」
負けじと笑顔で答えながら、でも、と神子は続けた。
「それは訂正しましょう。私が作った希望の面に、誤りなどあるはずがない。こころ、また失くしたりなどはしていないでしょうね?」
「持ってるよー」
白蓮の背後から、手だけを出して希望の面を見せるこころ。お世辞にも良いとはいえない芸術センスの産物が、白蓮の視界を踊る。
「よろしい」
神子は満足そうに頷いて、白蓮と目を合わせた。
「これではっきりしましたね」
「なにがでしょう?」
「フッ、決まっている」
嘲るように言いながら、神子はやれやれと両手を広げてみせた。
「先程の白々しい物言いのことです。暴走していないなら、こころがここにいる理由は一つしかない」
「ほう、それは?」
白蓮の問いに、神子はマントを翻しながら答えた。
「確かに君の言う通り、軟禁、誘拐の二つは行っていないのだろう。さらに一見すると、こころの自由意志に見えるように細工もしてあるのだろう」
しかし、と神子は続ける。
「こころは、不安定な存在だ。まだまだ感情というものの理解が未熟で、そして判断力も弱い。つまり彼女は、騙されやすいのだ」
「なんだと!?」
驚愕の面を付けたこころが叫んだ。
「自由意志などとは、ちゃんちゃら可笑しい。君はそんなこころを、言葉巧みに騙くらかして寺に連れ込んだのだろう!?」
「お前、私を騙したのか!?」
今度は般若面に変えて、こころが叫ぶ。なんというか、影響されやすい娘なのは間違いない。しかし、
「騙してなどいませんよ」
白蓮は背後のこころを振り返って、笑みを浮かべた。
「私はあくまで、一つの道を示しただけです。他の道をこころさんが知り、我が寺を旅立っていくと言うならば、私はそれを喜んで見送りましょう」
「そうなの?」
無感情にこころが訊ねる。
「ええ。こころさんが、それで己の存在を確固たるものとできるなら、これほど喜ばしいことはありませんし」
ですが、と白蓮は神子に向き直った。
「だからといって、今、貴方にこころさんを渡すわけにはいきませんね。それでは彼女のためにはならないと、はっきり分かるからです」
「なに?」
眉を上げてみせる神子に、白蓮は笑顔で言った。
「さて、ずいぶんと言いたい放題言ってくれましたね、太子さま?言いがかり、難癖、決め付け。貴方ほどのお人らしからぬ醜態ですが、今回はあえて不問にいたします。ですから――――」
威圧的な笑顔で詰め寄りながら、白蓮は続けた。
「ここからは、人の親としてのお説教を致しましょう」
「お説教?私に?」
ははははは、と神子が笑った。
「白蓮、こう言ってはなんだが、それこそ釈迦に説法というものだよ。君程度に教えられるほど、私の理解は浅くない」
「いいえ。貴方は理解していない」
白蓮は首を振って、神子の言葉を否定する。
「私がするのは、人の道、つまりは人道に対する説教です。仏道ならばいざ知らず、今回の件で、貴方はそれを受ける義務があります」
「義務、ですって?」
「そうです。こころさんの親を名乗るならば、ね!」
と言って、白蓮は今まで塞いでいた、こころと神子を繋ぐ線上から身をどかした。
「?」
「んー?」
神子とこころの視線が、交錯する。
「あなたはあの瞳を見て、なにも感じないのですか?」
白蓮は、横から神子にそう訊ねた。
「んんん。そうですね。なかなかの美人だと思いますけど」
「恥ずかしー」
答える側が無感情だと、どうにも締まらないやり取りだった。だが、白蓮が見ろと言ったのは、なにも顔の美醜のことではない。
「私が見ろと言ったのは、こころさんの瞳に浮かぶ親慕の情です!親を名乗るくせに、なんなんですか貴方は!娘を口説いてどうするんですか!」
「え?あ、それは気づきませんでした」
しれっとした顔でそう言う神子に、白蓮の怒りは頂点を越えた。
「気づかなかったって、よくそんなことが平然と言えますね!だから貴方には、こころさんを渡せないんです!」
「おおう」
白蓮は神速でこころの元に戻ると、その身体を思いっきり抱き寄せた。
「希望の面を作っただの、自分の所有物だの、親だのと言ったところで、貴方は所詮、こころさんのことなどどうでもいいのでしょう!?それをどうして今になって、連れ帰るなんて言い出したんですか!?」
「は?いや、なんでと言われても……」
困ったように視線を逸らす神子に、白蓮は核心を口にする。
「どうせ、自分の物が仏教の徒の元に置いてあるのが気に入らない、とかそんなくだらない理由でしょう」
「うぐっ――――」
図星を突かれたらしく、神子がよろめいた。心なしか、マントが色落ちしているような気もする。
「まあ、やはりそんな理由なのですね!?」
呆れ果てて、頭痛がしてきて、白蓮は思わずこめかみを押さえた。
「最初からおかしいとは思っていたんです。太子さまの作った物から生まれた付喪神だと判明して、希望の面まで作ってもらっているのに、どうして一人でフラフラとしているのかって――――」
「ふぇ!?いや、それはですね――――!?」
焦って言い訳をしようとする神子に、
「私、一人ぼっちだったの、しくしく」
とこころが無感情に追い討ちをかける。演技の余地がない分、なんというか、真に迫っている感じがした。
「ぐはぁっ!?」
神子が背後の壁にもたれかかりながら、力なく確認する。
「わ、私の住処……教えてませんでした、っけ?」
「教えてもらってるわけないだろうが!」
狐面で怒鳴るこころ。当然である。
「ほら見なさい。そんなことも覚えていないぐらい、貴方にとってこころさんはどうでもいい存在なんでしょう。いや、というよりも――――」
ビシと神子を指差して、白蓮は言った。
「貴方は、致命的に親というものに向いていないのです!」
「な――――っ!」
電撃に打たれたように、一瞬硬直する神子。しかし彼女とて、為政者だった者。そうそうヤワな精神の持ち主ではない。
「し、失敬な!」
すぐに態勢を立て直して、神子は反論した。
「私とて、生前は人の親をやっていた身ですよ!それを言うに事欠いて、致命的に向いていないとか!私の妻と子に謝りなさい!」
「それと、貴方が親として優れているかは別問題でしょう!」
負けじと、白蓮も答える。
「仮にも皇太子たる身分であった貴方が、自らの手で子育てを行っていたとは到底考えられません。第一、あの頃は、子は妻の家で育てられるもの。どうせその時の常識のままに、放っておいても子は育つとでも思っていたのでしょう?」
「む、う、ぐぐぐぐぐ」
唸ることしかできない神子である。
「その点、私は困っている妖怪を見捨てたりはしません」
勝ち誇ったように言って、白蓮はこれ見よがしにこころを抱きしめてみせる。
「創造主に見捨てられた付喪神も、こうして受け入れますし。その悩みを解決するために、話だって聞いてあげます。アドバイスだってしてあげます。寂しい思いなんてさせません」
そこまで言うと、白蓮は周囲に浮かぶ面の中から、希望の面を手にとってみせた。
「もちろん、このような、別の宗教に傾倒した者の製作物を持っていたって、私はなにも言いませんし。こんなものであっても、こころさんにとっては、大切な親との思い出の品です。それを否定するような狭量にはなりたくないものです」
「大切大切」
と無表情で頷くこころに、白蓮は希望の面を持たせる。
「そうですよね。子は、親を選べないもの。だからどんな親でも、それが全てなんですよね」
そう言って、白蓮は神子に目を戻した。
「――――――――」
神子は下を向いたまま、黙り込んでいた。それが、次なる舌戦にむけてか、諦め故にかは分からない。
「さあ、分かっていただけましたか?」
しかし白蓮は、それを好機と見て一気に畳み掛けることにした。
「これからは、私が責任を持って、こころちゃんを育てます」
「ちゃん付け!?」
猿面を被り、驚きの声を上げるこころ。その身を固く抱きしめて、
「ですから貴方は、どうぞお引取りください」
白蓮はその言葉を口にした。お前には、この子は渡さない。そういう思いを、全身で表現するようにして。
「――――――――」
対して、神子は答えなかった。相も変わらず下を向いて、黙り込んでいる。
と、
「――――よ」
その肩が、
「――――なよ」
次第に、プルプルと震えだした。
「――――るなよ」
それと同時に、何事か、小さな呟きが届く。
「この期に及んで、なにを言うつもりですか?」
その、白蓮の言葉が最後の引き金となったか。
「ふざけるなよこの邪僧めがあああああああああああああ!」
神子が、爆発した。
「先程から黙って聞いていれば、親失格だのなんだのと言いたい放題!挙句、希望の面を、ダメ親が唯一買ってくれたプレゼント、みたいな言い方して美談にみせかけようとして!そもそも、こころの面は全て私の作だろう!六十六枚もプレゼントしてるじゃない!」
叫ぶ神子の目尻には、微かに涙の粒が光っていた。結構、ショックを受けていたようだ。
「家のことを教えなかったのだって、この幻想郷では、妖怪は独立して生きるものだと思っていたからだ!仙人に保護される妖怪なんて、それこそ、こころのためにならない不名誉だろう!」
それは確かに、一理ある話だった。妖怪は、その格を上げるためにも、仙人を狙うものだとされている。それが逆に保護されているとあっては、むしろ格が下がって、元の道具に戻ってしまうかもしれない。
「でもなによりも我慢ならないのは、聖白蓮!よりにもよって、君が私に親のなんたるかを説くことです!」
笏を再び突きつけて、神子が叫んだ。
「確かに、私は自分の手で子を育てたことはない。妻や、そのお付きの者に任せてはいました。でも私は、一応それでも親をやっていたんですよ!」
「――――うっ」
神子の言わんとしていることに気づいて、白蓮は思わず顔を顰めた。
「それに比べて、君はどうなんですか!?人間時代は、寺での修行以外になにかやっていたんですか!?そもそも、結婚だってしていたんですか!?子供を産んだことがあるのですか!?」
とそこまで言って、神子は、ハッ、と鼻で笑ってみせた。
「あるわけありませんよね!尼が結婚なんてご法度ですし!」
「む、ぐぐぐぐ」
今度は、白蓮が唸る番だった。
「フン!それでよく私に、親として、とかなんとか言えたものですね!君のそれは、つまり全部借り物の台詞だということです!妖怪達に慕われていっぱしの求道者を気取るのは構いませんが、それ以前に貴方は、人としての道を思い出すのが先じゃないの!?」
「そこまで言うことないじゃありませんか!」
白蓮は思わず、そう叫び返していた。
「私はただ、善意でこころさんを助けたかっただけです!それがどうして、人道の話になるんですか!?」
「先に言い出したのはそっちでしょう!私だって、ただ自分の物を取り戻しに来ただけです!」
「また、そうやって――――」
白蓮は、こころを抱いていた手を解いて、神子の方に歩き出した。
「自分の物、自分の物、って、こころさんはもう一人の独立した妖怪なんですよ!?一〇〇〇年単位のネグレクトのくせに、今更しゃしゃり出てきて所有者面なんて、性質が悪いにも程があります!」
「封印期間をさらに長引かせようとしたヤツの言うことか!」
そんなの、白蓮としても相手が誰か知っててやったわけじゃない。
「大体、貴方はこころさんを連れて帰って、どうするつもりなんですか?」
つかつかと詰め寄りながら、白蓮は加えて訊ねる。
「自分でさっき、仙人に保護される妖怪なんて、とか言っておきながら、もう連れて帰る気でいるみたいですけど、下手したら彼女の存在自体に関わるかもしれない行為なんですよ、それ」
「もちろん、分かっていますよ。ですが――――」
と神子は、己の背後に広がる命蓮寺の境内を示しながら、言った。
「この寺の教義が、信仰による自己の確立で妖怪の存在を保つ、というのなら、私がこころにそれと同じことをすればいいだけです。妖怪仙人、いいじゃないですか。妖怪本尊なんかより、よっぽど神秘的です」
「こんな場面でも、仏教をあげつらって腐すんですか!」
呆れた、と白蓮は、もはや至近にいる神子を睨みつけた。
「どうしても、譲ってはいただけないのですね」
「どうしても、譲るつもりはないのですね」
対する神子も、負けじと睨み返しながら言った。
二人の間で、火花が散る。
「もういい!」
その硬直を破ったのは、神子の方であった。
「元より、分かりあえるなどとは思っていなかった。いざとなったら、力ずくで連れて帰るつもりだった」
「あら、帰れるつもりでいるの?力ずくで、というのは、守る側にだってある選択肢なのに」
お互いの視線が、もはや音を立てんばかりにぶつかり合う。
「表へ出なさい!」
神子が叫んだ。
「そちらこそ!」
白蓮が応えた。
そして二人はお堂の中から身を躍らせると、そのまま境内の上空に飛び立っていった。
「おお、激しい」
その姿を、こころは無表情で見送っていた。
※
真昼の寺の境内を、極彩色の光が彩る。
「大体君は、僧侶のくせに慎みがなさすぎるんですよ!」
神子の叫ぶ声が。
「貴方が僧のなんたるかを語るんですか!?私だって、貴方がそんな人だなんて思いませんでしたよ!」
白蓮の叫ぶ声が。
「私の人となりなんて、君になんの関係があるんですか!」
「こころの教育に悪影響です!」
「どうして君がそんな心配をする必要があるの!」
「困っている妖怪を助ける責務があるんです!」
激しい舌戦が、弾の音に混じって繰り広げられていた。
「はぁー、綺麗ですねー」
ぼんやりとそれを見上げながら、こころは無感情な声で呟いた。
「暢気なものね。誰のせいでこうなってると思ってるの?」
そんな声と共に、こころの後頭部が、ぽす、と叩かれた。こころが振り返ると、、そこには一輪の姿があった。
「やれやれ、やっぱりこうなったか。説法中止の案内を出しておいて正解だった」
「?」
小首を傾げるこころに、一輪は山門の方を指差してみせる。
「ほら、あれ」
そこでは、一輪といつも一緒にいる入道――――雲山が、大きな立て札を持って浮遊している姿があった。
「用意周到だな!」
狐面を被って、一輪を褒めるこころ。
「いや、それは別にいいから」
しかし一輪には、あまり評判が良くなかった。
「そんな仮面使った感情表現より、さっきみたいなのの方が、よっぽどあんたらしいよ」
「さっきってのは、なんだ?」
まだ面を付けたまま、こころは訊ねる。らしい、とはどういうことなのだろう。
「首を傾げてたでしょ?そういう仕草のこと」
一輪は腕を組んで、苦笑しながら言った。
「面で作られた表情じゃない、何気ない、あんたならではの動きよ。顔はまだまだ無表情だけどさ。あんたの修行ってのも、あながち無駄じゃなかったのかも知れないね」
「よく、分からない」
面を外して、こころは無表情で呟く。自分では、なにも変わっていないようにしか思えないのだが。
「君はなんで毘沙門天を信仰しているのに、大陸の神の技を使っているんですか!その信仰は飾りですか!?」
「仏の道も、元々は大陸の神の教えでしょう!そもそも全く別の技を使ってる貴方に、そんなことを諭される謂われはありません!」
神子と白蓮の攻防が、激しさを増していく。
と、
「ちょっと、なんの騒ぎなのこれ?」
そんな新たな声が、山門の方から聞こえてきた。
「うげっ、あの声、博麗の巫女じゃない!?」
一輪が慌てた様子で、走り出す。
「どこのどいつよ、まだ暴れてる阿呆は。それも人里で。そういうのは、もう終わったはずでしょうが」
その声には、こころも覚えがあった。
博麗霊夢。彼女もまた、こころが起こした異変の折、この幻想郷の希望にならんと動いていた宗教家の一人だった。
「まあまあまあまあ、とりあえずこちらに来ていただいて……」
「なによ、気持ち悪い。上の馬鹿共を叩き落せばそれで丸く収まるんでしょう?」
物騒なことを言っている霊夢の背中を押して、一輪が戻ってきた。
「あれ、こころじゃない。あんた、こんなところでなにしてるの?」
「衝撃の再会!」
こころは猿面を付けて、ポーズを取ってみせる。
「質問に答えなさいよ。腹立つわね」
ガス、と面の真ん中にお払い棒を叩きつける霊夢。
「痛い……」
「痛いようにやった」
理不尽な霊夢の物言いに、こころはしゃがみこんで頭を押さえた。こういう時の顔は、どういうのが正解なんだっけ。ぼんやりと、そんなことを考える。
「ええとですね」
そんなこころに助け舟を出すように、一輪が言った。
「これには、実は、話すと長い事情があるのです。ですからその、なんというか、この場だけを収めても、また再発する可能性があるというか」
「え、なにそれ。その度に私が出てこないといけないってこと?それは面倒ねぇ」
「怠け者め!」
般若面で、こころが言った。
「いいのよ、怠け者で」
しかし霊夢は、怒ることもなくそう言ってのける。
「怠けるために効率よく仕事を片付ければ、その分暇ができるじゃない。無駄な働き者より、よっぽどいいと思わない?」
「思う、かもしれない」
無表情で、こころはそう答える。判断としては、確かに間違っていないと思えた。
「こころは、私の作った希望の面を、あんなに大事に持っているじゃないですか!つまり、私のところに来たいに決まっている!」
上空で、神子が新たな弾幕展開しながら叫んだ。
「おめでたい頭ですね!だったら毎日説法を聞きに来て、半住み込み状態のウチでは、こころさんはもう家族みたいなものね!」
弾幕の間を恐ろしい速さで抜けながら、白蓮も叫んだ。
「私は、お前達が家族だなどと認めんぞ!」
「どこの頑固親父ですか貴方は!ウチには間に合ってますよ!」
相変わらずの激しい舌戦。飛び回りながら、よく息が続くものである。
「……あいつら、なんで戦ってんの?」
そんな二人とこころを交互に見ながら、呆れたように霊夢が言った。
「こころさん、答えて」
丸投げしてくる一輪。彼女としても、呆れ果てているのだろう。
「ええと……」
困り顔、困り顔、とおうな面を被り、こころは説明する。
「実は、あの二人、どちらが私を引き取るかで揉めているんです……」
「はぁぁ!?」
霊夢が脱力と共に首を傾げた。
「は?ホントに?道教と仏教とかじゃなくて?」
「いやまあ、それはこの前に充分やったから。今回は、本当に個人的な事情」
補足、とばかりに一輪がそう告げた。
「うっそ、え、冗談でしょう?」
予想はしていたが、まさかそんなことはあるまい。そう思っていた、まさにど真ん中を突かれた。そんな感じで、霊夢は目を白黒させている。
そこで、こころは気づいた。霊夢の感情表現は、非常に分かりやすい。そのなんたるかをまだ理解しきれていない自分にも明確に伝わってくる。
それはまるで、面だ。分かりやすく、そのように感情を表現するために作られた、面。彼女は人でありながら、いやむしろ人であるからこそ、面霊気である自分よりも的確に、それを表現できているのかもしれなかった。
「はぁ。なるほどね」
霊夢は溜め息を漏らして、言った。
「つまり、こころをどっちが引き取るかの結論が出ないと、この場を収めても意味がないってことか。あー、ホント面倒ねぇ。人里でも騒ぎになりだしてるし、放置して帰るわけにもいかないわよねぇ」
「いや、騒ぎになってなかったら、無視する気だったの?」
「とんだグータラ巫女だな!」
すかさず、一輪と狐面こころにツッコミを入れられる霊夢である。
「やかましい。誰のせいで余計な仕事が増えてると思ってんの」
「私だけ!?」
またしてもお払い棒攻撃を喰らって、こころは地面にへたりこんだ。面をつけていなければ、頭がへこむんじゃないかと思えるほどの衝撃だ。
「一つ訊きたいんだけどさ」
そんなこころを見下ろして、霊夢が訊ねてきた。
「あんたは、どっちに行きたい、とかって考えはあるの?」
「……分からない」
今度は面を付けずに、こころは答えた。この、心の中のもやもやした感情を表現するのに最適なものが、よく分からなかったのだ。
「そうか。分からないか」
霊夢は困ったように溜め息を吐きつつも、今度は叩かなかった。
「じゃあ、訊き方を変えましょう。あんた、今のこの争いを、止めたいと思ってる?」
「好きにやらせておけばいい!」
狐面をつけて、こころはそう答えようと思った。しかし、
「――――――――」
霊夢の、この吸い込まれそうな目を見ていると、そうやって面を付けるのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。もっと、心の底から搾り出すようななにかが感じられて。
「……止めたい」
こころは、思わずそう呟いていた。
「二人には、争って欲しくない」
面を付けない状態で、搾り出すように漏らす。
「そ」
霊夢が、素っ気なく答えた。
「だったら、取って置きの方法を教えてあげるわ」
そして彼女はニヤリと笑って、こころにそれを耳打ちする。
「――――え?そんなことするの?」
「そうよ。そんなことだから、するのよ」
霊夢はそう言うと、お払い棒を両手でペシペシと鳴らす。
「ちなみに、面は使っちゃダメよ。あくまでも、あんた自身の感情の声じゃないと意味がないから」
やったら、分かってるよな?霊夢の目が、そう言っていた。
「そんなー」
無表情のまま途方に暮れて、こころはそう呟いた。自分にできるだろうか。いや、できるわけがない。心底そう思う。
「まぁまぁ、そんなに気負わなくてもいいんじゃない?」
励ますようにそう言いながら、一輪が肩を叩いた。
「これも修行の一環だと思って。失敗したって、霊夢さんの仕事が増えるだけだし」
「なに、あんた、喧嘩売ってるわけ?」
「だったら、もう一つ仕事が増えますね」
「はぁー、いい性格してるわねぇ。これだから坊主は……」
「尼です、尼」
そんな二人のやり取りの緩さは、こころに妙な安心を与えてくれた。まあ、頑張ってみれば?なんて、そんな風に言われているような気がした。
だから、こころは。
「すぅぅぅ――――」
思いっきり息を吸うと。
「おとうさーん、おかあさーん!私のために争うのは、もうやめてええええええええ!」
その言葉を、戦い続ける二人に向けて、思いっきり叫んだ。
「ふぁ!?」
神子が。
「ええ!?」
白蓮が、上空で動きを止める。
「お、おと……こころ、今、なんて……」
「こころさん、今、その、お、おかあさん、って……」
あたふたとこちらを見ながら、二人が奇妙な表情を浮かべた。
それは、泣いてるような、笑っているような。まるで、喜びが行き過ぎて限界を超えたような、そんな表情に見えて――――
次の瞬間。
「あ、避けないと当たるわよ」
「「え?」」
霊夢の言葉通り、お互いがお互いの放った弾幕の直撃を受けて、神子と白蓮は地面に落下していた。
「う、雲山!受け止めて!」
「――――ッ!」
一輪がそう言うのを待たずに、雲山はすでに動き出していた。二人の落下地点にその身を伸ばして、見事にキャッチする。
「ふぅ、危ない」
きちんと神子の方も受け止めているあたり、雲山はいい人なのかもしれない。
「う、ううううう」
「いたたたたたた」
地面に下ろされた二人は、最初こそ、そうやって自分の身を押さえていたが。
「はっ!そうです、こころ!」
「あっ、こころさん!」
我に返るなり、二人揃ってすごい速度でこころに詰め寄ってきた。
「さっき、私のことを、お父さん、と呼んでくれたね!?」
神子が自分を指差しながら、キラキラとした笑顔で訪ねた。
「先程、私のことを、お母さん、と呼びましたよね!?」
これまた自分を指差しながら、うっとりとした顔で白蓮が訊ねた。
そしてすぐに、
「はぁ?なんであなたがお母さんなんですか。ただの聞き間違いでしょう。自惚れるのも大概にしなさい」
「そちらこそ、自分がどうしてお父さんだと思ったんですか?そうやって転生しながら、いつまで父親気分なんですか?」
お互いを睨みつけながら、そんなことを言い始める二人。
「なにこいつら。鬱陶しいんだけど」
その後頭部を、霊夢が無慈悲にお払い棒で打ちつけた。
「いだっ!?」
「あいたっ!?」
すごい音がして、二人が悲鳴と共にうずくまった。今のは、見てるだけでも痛い音だった。
「あんたらに暴れられると、ウチが迷惑するの。だからこの騒動をこれっきりにするためにも、どこに行きたいのかは、こころに決めてもらうわよ」
腕を組んで二人を見下ろしながら、霊夢が言った。
「いやしかし、私は彼女の父親であって……」
「私は、その、こころさんの母親であって……」
うずくまりながらも抗議の声を上げる二人に、
「あぁ?」
お払い棒を鳴らしながら、威圧的な声を上げる霊夢。
「あぁ、いや、なんでもないです」
「ごめんなさい」
さしもの二人も、また殴られるのはご免のようだった。下を向いて、大人しくなる。
「さあ。そういうわけだから」
それを確認して、霊夢はこころに向き直った。
「こころ、あんたが決めなさい。どこに行きたいのか。どっちと行きたいのか」
「私が、決める」
「そうよ。それで、両者恨みっこなし。選ばれた方も選ばれなかった方も、以降一切、相手に余計な手出しはしない。これは、私、博麗の巫女が預かる協定とします」
「お、横暴ですよ!」
「そうです!家庭の問題に!」
「家庭の問題でドンパチやる馬鹿がどこにいるか!痴話喧嘩なら、食卓か床ででもやりなさいよ!」
お払い棒を突きつけてそう言う霊夢から目を逸らして、
「いや、と、床って……」
「な、なに言ってるんですか霊夢さん……」
なんてもじもじとする二人。
「あ、なんかまたしてもイライラしてきたわ」
「ぼ、暴力反対」
両手を挙げて、降参の意を示しつつ神子が、
「和を以て貴しと為す、ですよ」
同じく、白蓮がそう言った。
「あんたら、わざとやってるでしょ?」
溜め息を吐いて、霊夢はお払い棒を下ろした。
「じゃあ、こころ。お願い。どっちか一人は、これで痛い目を見るわけだし。それを見て、私は満足することにするわ」
「さ、最低ねこの巫女……」
一輪がボソッと呟く。これにはこころも、確かに、と少し思ってしまった。
そして、こころが顔を上げると。
「――――――――」
「――――――――」
期待と不安の入り混じったような、二人の熱烈な視線があった。
「う――――」
それに気圧されて、こころはなにか面をつけようと探る。
しかし、こういう時に最適な感情が浮かばない。怒りではない。悲しみでもない。さりとて、喜ばしいわけでも、楽しいわけでもない。無数にある感情から、なにを選べばいいのか。
「悩むことなんてないわよ」
霊夢が、ポリポリと頭を掻きながら、つっけんどんに言った。
「あんたがどうしたいか、なんだから。視線がウザイって言うなら、こいつらに後ろ向かせておくけど……」
傍若無人である。隠そうともしないその感情表現は、ある意味、憧れる。
そこで、こころはようやく、己の〝心〟を悟った。
そうだ、私が行きたいのは――――
「私は――――」
スッ、と一枚の面を被る。
それは、最近失い、そして増えた面。希望の面。
「こころ!」
神子が、歓喜の声を上げる。
「そんな――――」
白蓮が、悲嘆の声を上げる。
しかしこころは、
「やはり、私と来てくれるか!歓迎するぞ!今すぐにでも行きたいというなら、連れて行くぞ!?」
そうやって立ち上がろうとする神子に。
「私は、神さまとは行かない」
そんな絶望の言葉を、告げた。
「なっ――――」
神子が腰を抜かして、へたり込む。その姿に、少し胸が痛んだ気がした。
「では、こころさん!」
それとは対照的に、満面の笑みを浮かべたのは白蓮だ。彼女としては、神子が選ばれなかったならば、自分が選ばれるのが必然。喜ぶのも無理はない。
だが、その白蓮にも。
「ごめんなさい。私は、白蓮とも、一緒には行かない」
「――――え?」
白蓮が硬直する。凍りついたように張り付いたままの歓喜の顔は、まさに自分の面を見ているかのようだった。
「ちょ、ちょっと、じゃあどうするのよ、あんた?」
困ったようにそう言ったのは、霊夢だ。これでは、場が収まらない。そう思ってのことだろう。
でも――――
「心配はいらない」
こころはそう言うと、希望の面をつけたまま、霊夢の方に向き直った。
「何故なら私は、貴方と行くから」
「は?」
「え?」
「なに?」
三人の、唖然とした表情が並んだ。こころはそれを、少し楽しいと思った。
「「「ええエええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!??」」」
そして続く、三人の驚きの声。共鳴した感情が、痛いほどにこころにも伝わってきた。
「ど、どういうことですか霊夢!?八百長ですか!?」
「そうですよ霊夢さん!前々から思っていましたけど、そこまで汚い手を使う人だったんですか!?」
ものすごい勢いで霊夢に詰め寄る、神子と白蓮。
「ち、違うわよ!そんなわけないでしょ!ていうか汚い手って、私のこと普段どんな目で見てんのよ!?」
そう言って後ずさりながら、霊夢はこころに視線を向ける。
「ていうか、どういうことよこころ!?私だって、全く意味が分かってないんだけど!?」
「うん」
だろうと思った。霊夢はそういう、腹芸、みたいなことをしない人物だ。それをこころは、誰よりもよく知っている。
「だから、かな」
面で顔を隠しながら、こころは霊夢に近づいていった。
「真っ直ぐで、明け透けで、隠れたところがなくて、まるで感情の見本市みたいで」
それは、こころの持つ面と同じようで、しかし全然違うこと。
「人間の感情を、抑えることなく全部持ってて。それを歪みなく表現できて」
面などなくても、その場その場の感情を的確に選び取って。
「周りの人達にも、自然とそれを伝えられて」
それはさながら、感情を司るかのように。
「そんな貴方だから、行きたいと思った」
ひょっとしたら、その姿こそ、自分という存在の目指すべき、未来の〝希望〟かもしれないと思って。こころは、霊夢と行きたいと思ったのだった。
「ダメ、かなぁ?」
こころの顔から、面が外れた。
その下に浮かんでいたのは、こころこそ気づいていなかったが。
「しょ、しょうがないわね」
霊夢が、顔を微かに赤らめて視線を逸らすほどに、
「じゃあ、ウチ、来る?」
「うん」
見る者全てを虜にするような、あどけなくも美しい、希望に満ちた笑顔だった。
しかし、それで丸く収まるほど、事態は容易くなかった。
「納得がいきませんよ、こんなの!」
神子が立ち上がって、抗議の声を漏らす。
「そうですよ!横から現れて攫っていくなんて、それが巫女のやることなんですか!?」
白蓮も便乗して、声を上げる。
「だあああ、うるさい!私に文句言うな!」
霊夢はお払い棒を構えて、二人に向き直った。
「当初の予定とは違っちゃったけど、選ばれなくても文句は言わない約束でしょうが!博麗の巫女の定めたルールに文句つけるわけ!?」
「こんな時だけ真面目な巫女面するなんて、卑怯です!」
そう言う白蓮の肩を、神子が叩いた。
「心配要りませんよ、白蓮」
「太子さま?」
「なに、博麗の巫女のルールに文句をつけるということは、すなわち決闘を行うということ。そして決闘を行ってルールを破壊してしまえば、同時に、こころの面倒を見る権利だって宙ぶらりんになるということではないか」
ニヤリと神子が笑った。
「ああ、なるほど」
それに応えて、白蓮もニコリと笑う。
「つまり私達が協力して、この場で霊夢さんを倒してしまえばいいのですね?こころさんをどちらが迎えるかは、その後で決めればいいと」
「そういうことです」
フッフッフッ、と不気味な笑い声共に、二人が構えを取る。
「へぇ。いい度胸してるわね」
そんな二人を、霊夢はお払い棒で肩を叩きながら、不遜に見返した。
「巫女のルールをぶち壊す、なんて宣言して向かってくるって、それ要するに幻想郷に対する反逆よ?」
「父の愛を舐めるなよ、博麗」
「母は強し、という言葉の意味を教えてあげましょう」
いつの間にか、神子が父で白蓮が母、ということで合意が成り立っていたらしい。驚愕である。
「いいわ。受けて立ちましょう」
霊夢が獰猛に笑いながら、告げる。
「こころの前であんたらを消滅させるわけにもいかないから、ルール破りだけど、命名決闘法で挑ませてあげるわ。どうせ大した協定でもないし」
「大したことない問題に協定を持ち出すなんて、大人気ないと思わないの!?」
「グータラどころか、職権乱用巫女ね!」
「やかましい!」
そう一喝して、霊夢は地面を蹴った。霊夢の身体がふわりと浮き上がり、宙に舞う。
「足を引っ張らないでくださいね、お母さん」
「そちらこそ、無様な姿だけは見せないでくださいね、お父さん」
お互いを皮肉交じりに鼓舞しつつ、神子と白蓮もその後に続く。
「あんたら、やっぱわざとやってんでしょ?」
白い目でそう言う霊夢に、
「なんの話ですか?」
「わけがわかりません」
と答える二人の姿を見送って、こころは思う。
あの二人、実は仲がいいんじゃないか、と。
「姐さんも意地っ張りだからねぇ」
楽しげに笑う一輪に、こころは向き直った。
「今までありがとう」
寺に住んでいた間、一輪にはずいぶん世話になった。こういう時は、お礼を言うものだと知っている。
「いいのよ。生まれたての妖怪なんてそうそう見る機会なかったから、いい経験になったよ」
そう言うと一輪は、軽くこころの肩を叩いた。
「んじゃ、元気でね。上手くやりなよ」
「うん。上手くできたら、また見せるよ。暗黒能楽」
「いや、そこは普通の能楽でいいや」
苦笑交じりに、一輪がそう言ったと同時。
「さあ、かかってきなさい!」
霊夢がそう告げて、ついに開戦となった。
「聖様!頑張って!」
すぐさま応援を始めた一輪を見て、こころは希望の面に軽く触れる。
「私も、応援、してみようかな」
そして、彼女は小さい声で。
「頑張れ、霊夢さん」
しかし確かな声で、自分の希望を告げるのだった。
神子様とひじりんの親バカっぷりがたまりませぬな。
こころちゃん可愛い。
こころちゃん
これからが楽しみだ!
この作品はこれから増えていくであろう「ひじみここころ」の第一号作品として
語り継がれていくことでしょう。
多くの作者がこの作品を参考にすることと思います。偉大な功績を称えます。
内容的にも大満足でしたが、ひとつだけ言うならば
ひじみこをメインに据えるなら序盤の屠自古花嫁修業のくだりはいらなかったかな、と。
ひじみこなのかみことじなのか曖昧になってしまいますな
まあ神子ちんならどっちも妻でも許されそうですけどw
後日談としてはかなり枠にはまるんじゃあないかと思います。
ようはともかく、宗教家達はみんな仲が良いってことですかね(霊夢は幅が広すぎるけど)。
それにしてもこころちゃん可愛いなあ...。
ただ唯一けちをつけるならば、他の感想にもあるように、屠自古の件は削っても良かったんじゃないかなあと。
それにしても、こころちゃん可愛いよこころちゃん
違和感が結構大きいと思いました。そこまで険悪な二人には見え無かったと思います。
>>6、14
確かに削るという選択肢もあったんですが、屠自古ちゃんが正妻でいて欲しいので、一応バランス取る意味でも残しました。あと、個人的に好きな「にゃんとじ」の布教も込めて。
>>18
子供に好かれているのはどっちかで揉める阿呆夫婦の痴話喧嘩、なイメージで書いたんですが、仲が悪そうに見えたなら単純に描写力不足です。最後の辺りの会話で、「お前ら実は仲いいだろ」感を出したつもりだったのですが、精進します。
その他、こころちゃん可愛いコメント、本当にありがとうございます。拙作が「ひじみこころ」流行の足しに少しでもなることを祈ります。
これからの心綺楼SSが楽しみになってくる作品やったんやな。
こころ可愛過ぎる。マジ大好き。
お腹いっぱい
子はかすがいとは言ったものですな。
楽しませていただきました。
こころちゃんに無表情を教えてもらいたいくらいww
みこここ、ひじここ、れいここにみこびゃくまで見れてもうお腹一杯です
親バカどもとこころちゃんに幸あれ!
ちょいやくの屠自古や一輪さんも良い味出てましたね。
もう2人が親で霊夢が姉でいいんじゃないかな。
こんなに反響があると、ビビッてゲロ吐きそうです。
>>43
子はかすがい、ってもうそれ完全に夫婦だよね。一向に構わないけども。
むしろ望むところだけども。
>>61
本物の天才だと思いました。父・神子、母・聖、長女・霊夢、次女・こころ、という構成の「はたのけ!」
あると思います。
その他、読みやすい、読みたい作品、ニヤニヤできるなど、様々なコメント本当にありがとうございます。
こんだけ言われりゃ、書いた甲斐もあるってもんさ。ひじみこころよ、永遠なれ。
母さん聖も父さんさえいなければまともそうなのに・・・
後は姉さん霊夢に頼るしかない!
皆可愛かったです
原作の立ち絵が脳内で大活躍させられるほどに。
ただ一つ、こころって確か霊夢にはさん付けだった気が。
あえてそうしていたのならすいません。
各キャラクタの掛け合いも、小ネタ散りばめられていて、とても楽しかったです
スムーズに脳内再生されました
オチも流石の王道ど真ん中! こころちゃん周りを書くことがあれば、引っ張られること必死・・・こころちゃん突っ込み上手だなぁw
良いお話を有難うございました!
太子様なら時代背景的に結婚の形は通い婚なので、みことじでありながらひじみこが可能…っ!?
ご指摘、本当にありがとうございます。本編やり直して青ざめました。
ツメが甘いなぁ、自分。
演出的にはこのままでも良さそうですが、原作時系列的に我慢できなかったので修正しました。
その他の方も、コメントありがとうございます。全てのコメントが今後の糧になります。
栄養源です。キャラ描写を褒められるってのは、確実に自信になります。重ねて、
ありがとうございます。
一輪さんもいい味出してた
ぜひとも続編を…
神子も白蓮もお父さん・お母さんしてて、思わずによによ。
霊夢とこころのやりとりにほっこり。
とても良く纏められたSSでした。ごちそうさまです。
つまり神父と聖母の子供がこころなんですねわかりますwww
とても良い作品でした。
自分ももうこんな二人の関係しか幻視出来なくなりました
…ところで屠自子と娘々の房中術レクチャーについてkwsk