男は参謀本部測量局に勤める軍人で、階級は陸軍少佐だと名乗った。
私が怪訝な顔をしていると、男は今年地圖課と測量課が統合され、測量局が新設されたのだと付け加えた。あいにく地圖課も測量課も、私は知らない。(※1)
男は黒の軍服と軍帽を身に着け、西洋風の軍刀を腰から提げている。年齢は私よりも一回り以上若く、二十歳そこそこにしか見えない。この若さで少佐なら、おそらく平民の出ではあるまい。
私は逡巡の後、男を客間へと招き入れた。
客間は縁側の障子が開け放たれ、午後の日差しが差し込んでいた。
男と私は座卓を挟んで、向かい合わせに座る。
茶を運んできた家内が立ち去ったのを確認してから、男は話を切り出した。
「本日伺いましたのは、我々がこれまで書簡にて申し上げてきた事柄につきまして、是非一度、先生に直接お会いして、専門家としての御意見を拝聴したいと考えまして……」
男の言う《我々》とは、軍の上層部のことだろう。軍部と私の間には、既に何通かの書簡による遣り取りがあった。軍部から内密に送られてくる書簡の内容は、どれも私の研究に関するものだった。
「私の研究に興味を持ってもらうのは、おおいに結構なことだが、一つ確認しておきたいことがある。もし、何処ぞの新聞か何かで、私について書かれた記事を読んで、それで私の研究に興味を持ったということであれば……」
「その心配は、無用です」
男は、ぴしゃりと否定した。
「一部の新聞が、先生の研究を面白可笑しく装飾し、先生の評判を、まるでペテン師か何かの如く貶めていることについては、我々も先刻承知しております」
「左様。新聞という奴は、私の研究成果のごく一部を掻い摘んでは、やたらと誇張した表現で、やれ物が消えただの、やれ人が消えただの、妖術だ、幻術だとありもしない空想を並べ立てる。またぞろ、今度はそれに反発する輩が現れて、こんなものはペテンだ、まやかしだと触れ回る。まったく、本人そっち除けで、よくもあそこまで盛り上がれるものだ」
私は茶を啜り、溜め息を一つ吐いた。
柱時計の針が、かちりと動いた。
「人間は目で見た事柄を全て意識出来る訳ではない。目で見た事柄を脳髄が処理することで、始めてそれを意識出来るのだ」
男は黙って聞いている。
「例えばここに、そうだな、これくらいの石ころが置かれていたとしよう」
私は親指と人差し指で輪を作り、仮想の石ころの大きさを示す。
「君は、なぜ座卓の上に石が置かれているのかと、不審に思うだろう」
思うかも知れません、と男は言った。
「しかし、同じ石ころが道端にあったならどうだ。君は道端の石ころに興味を惹かれるだろうか」
男は黙って首を横に振る。
「同じ物でも、ある環境の下では強く意識されていたものが、違う環境の下では全く意識されなくなる。これは、脳髄が目で見た情報の中から、意識に上らせる情報を、取捨選択しているからに他ならない」
別の例を話そう、と私は言った。
「どれだけ探しても見つからなかった失せ物が、もう見つかる筈がないと諦めたその時になって、ふいに目の前に堂々と置かれていることに気付き愕然とする。あれだけ探していたのに、どうして今の今まで気付かなかったのかと首を捻る。そんな経験はないかね」
男は頷く。
「これも脳髄が起こしている現象に他ならない。失せ物を見たという情報は脳髄に伝えられるが、脳髄が処理しなければ意識に上ることはない。失せ物が《見えて》いるにも関わらず《認識する》ことが出来ないのだ」
男は僅かに目を細める。
「周囲の環境がある一定の《条件》を満たすとき、人の脳髄はそこにあるものを認識出来なくなる。さっきの失せ物の例では、周囲の環境が偶然にも、その《条件》を満たしてしまったがために、脳髄が失せ物を認識できなくなったのだ。逆に、失せ物が見つかったときは、何かのはずみで、その《条件》が崩れたために、脳髄が再び失せ物を認識出来る状態に戻ったのだと考えられる」
私は続ける。
「つまり、この《条件》を満たすように、周囲の環境を操作することができれば、人の意識から自在に物を隠すことが出来る。無論《条件》には多少の個人差があり、万人の脳髄を等しく欺こうとするなら、それなりの環境を整える必要がある。とりわけ、神経衰弱状態にある脳髄は、健常者のそれとは異なる反応を示すことが知られている」(※2)
あくまで脳髄を欺くだけであって、実際に物が消える訳ではないのだと、私は念を押した。
男は深く頷いた。
柱時計の鐘が、五つ鳴った。
「そろそろ教えてくれてもよいだろう。軍部は私の研究を応用して、いったい何を隠したいのかね?」
私は単刀直入に尋ねてみた。
男の目がきらりと光る。
「――郷を」
「さと?」
郷と言ったのか?
想定外の返答に、私は面食らった。
「郷を一つ隠すと言ったのか。君、冗談は止したまえ」
「現状で不可能なことは重々承知しております。先生には研究を継続して戴かなければなりません。しかし、もし我々の計劃に賛同して戴けるのであれば、今後必要となる研究費用は、全て軍の予算で賄うことができます」
どうやら冗談ではないらしい。
「ついでに申し上げておきますと、計劃では、特務機関が一つ新設されることになっています。当該機関には、研究の助手を務める職員の他、保秘、防衛、庶務等を担当する職員が十数名配置される予定です。先生は陸軍技術中佐の身分となり、当該機関を統括する任務に就いて戴きます」
待遇が良過ぎる。破格の待遇と言っていい。私の研究に、本当にそれだけの価値があると考えているのだろうか。
私は、もう一つ質問があると言った。
「仮に、郷を隠すことが出来たとして、君達はそれをどうするつもりだ。秘密基地にでもするつもりかね?」
男は、しばし沈黙した。
日が西に傾き、縁側から射し込む斜陽が客間に濃い陰影を作る。
影は男の顔をすっぽりと包み隠す。
「――神様に、移り住んで戴こうと考えております」
男の返答に、私はまたも面食らった。
「神だけでなく、仏や妖怪、あらゆる霊的なものを俗世から切り離し、温存するのです」
男は言う。西欧列強は近代化に伴い、神秘的な力を全て失ってしまったのだと。今、急速に近代化を推し進めるこの国には、西欧列強と同じ轍を踏まないために、あらゆる神的、霊的な力を保存する、何らかの仕組み創りが急務なのだと。
影の中の男の顔は曖昧で、表情を窺い知ることは出来なかった。
しかし、どういう訳か私には、男が笑っているように思えた。
私は冷たい汗が、背中に伝うのを感じた。
この男は、おかしい。
軍部は正気を失くしているのか。こんな計劃を本気で考えているのだろうか。
否、この計劃が軍上層部の意思だとする確証は、今のところ何もない。軍の一部が暴走している可能性だって考えられる。
否々、そもそもこの男は、本当に軍に所属しているのか。書簡の差出人は、本当に軍だったのか。私は最初から、頭のいかれた男の妄言に付き合わされているだけなのではないか。
頭の中で警鐘が鳴る。関わるべきでないと本能が告げている。
私は最悪の事態(計劃が本当に軍上層部からの命令であった場合)を想定し、男を怒らせることは得策でないと判断する。軍を敵に回すような事態は、可能な限り避けたい。
私は男の気分を害さず、やんわりと今回の申し出を断るための理由を探す。
探しながら、周囲の空間に視線を泳がせる。斜陽の作る陰影の中に――。
――居た。
紫色のドレス
人が出入りした気配は無かった。
細いリボンの付いたハイカラな帽子
いつからそこに居たのか。真逆、最初から?
二の腕まで覆う長い手套
見えていなかった。
――違う。
《見えて》いたにも関わらず《認識する》ことが出来なかった。
少女がひとり、そこに座って居た。(※3)
唖然とする私の表情を観察しながら、少女は手にした扇を口元に当て、さも楽しそうにくすくすと笑う。
「はじめまして、博麗先生。お逢い出来て光栄ですわ」
少女の笑顔は、何故かとても不吉に見えた。
(了)
物語としての起承転結が希薄過ぎてイマイチ。
最後のとってつけたような申し訳程度の東方要素もなんだか……。
是非続きを
なのだけれど、それだけにちょっと食い足りない感じも。
続編希望!
外では騒ぎになってておかしくないんですよね。
その辺まで描かれていれば良かったと思います。
独自解釈に基づく創作は大歓迎なので、是非続きを!
是非続きをお願いします。
続きを読みたいと思える内容でした。
続き期待~
この先どう調理されるか、楽しみにしています。
こういうのですよ!!
wkwkが止まりません
やや物足りない感もありましたが、おおむね面白かったです。
かなり設定が詰められているようで、続きが楽しみです。軍部の男と「博麗先生」のキャラクターがそれっぽくて良いですね。