決してとある妖怪の生活サイクルの、そのとある時期を見計らった上で誰かが狙い済ましたかのように、その騒ぎを起こしているわけではない。
八雲紫がここ最近で――ようやく長い冬眠から目覚めて気になった話題の中に一つ、どうも無視出来ない物がある。昔のお話とかに出てきそうなそれは、内容が内容だけに目を逸らすことが出来なかった。
――妖怪に成りかけの人の話。
紫自身、これはこうであるべきと言う強い押し付けは持ち合わせてはいないが、他の妖怪からすれば――例えば我の強いことで知られる風見幽香がこの話を聞けば、妖怪は生まれたときから妖怪であり生まれたときから人間である人間が成れるものではない、ときっぱり言い放つだろう。
かと言って成れないわけではない。現に人から妖怪へ成った実際の例は存在する。人は妖怪にも、祟りのような現象にも、畏れの対象である鬼にも成れるのだ。
さらにはその反対、妖怪が人になる――と言っても解りやすい例えで言うなら人魚姫や鶴の恩返しのような一時的なものだが、ともあれ人になる例もある。
その実例があるからと言って、妖怪に成ったところで幻想郷がどうのこうのなるわけでもなし。と言う考えで今まで紫は流れ出る噂を無視していたわけではない。ただ単にあまりそう言った噂に関わるのが面倒なだけである。
関わったところで結局は妖怪に成ろうとする人間が、その存在自体を大きく変換する事象に耐え切れず、元の形を維持出来ないまま醜い姿になる。心苦しいとは言わないが、見ていてその様は吐き気を禁じえないのだ。
だが今回だけはそう言った個人的な我侭で関わらないと言うわけにもいかなかった。事態が事態なのだ――彼女が覚えていないだけで前例はあるだろうけれど、しかし思いつく限りではその例が無い。
「ごきげんよう、霊夢――またお茶飲んでる。水っ腹になるわよ?」
「その分動いてるわ。冗談言ってないでさっさと座りなさいよ」
時刻はお昼時。日が心地よい時間だ。
博麗神社のある一室。畳八畳ほどの広さのその部屋でちゃぶ台を挟むように八雲紫とこの神社の巫女、博麗霊夢が互いに座る。
「私の分のお茶は?」
「それじゃあお賽銭を頂こうかしら」
「ケチねぇ……それじゃあここは一つ、我慢でもしてみましょうか」
「……ちぇっ」
面白くない、と言葉を漏らして渋々と別の部屋へと言ったかと思えば、戻ってきたときにはお茶とお茶うけを持って戻ってきた。
「まっ。お茶でも飲んで何か食べながらじゃないと、そのー、ねぇ……話してられないのよね、これ」
「聞いておくけど霊夢、今回のはどれくらい危険なの? そもそもなんで貴女がそれほど嫌そうになるくらいの異変が私の耳に入らなかったのかしら。気づかない私にも落ち度はあるけれど」
「それはっ!」
ばきん、と勢い良く煎餅を――の割にはとても堅そうではあったが、それを難なく噛み砕いて口に収めながら霊夢は言葉を返す。
「んぐんっ……ぷはっ。それは日がな一日中眠ってばかりだったせいだろうし、そもそも冬眠と称してよもや半年前から眠っていた所為でもあるし、それにこの話はそこまで大きくなってないからでしょうよ」
「大きくなっていないって……」
話の全容は噂ながら従者である八雲藍から聞いたものだ。
しかしどう考えてもおかしい話でしかない。この話が、この一件が広まっていないことが、おかしいのだ。
「騒ぎ立てないようにしてる、とかじゃないでしょうね?」
「そんなことしないわよ、面倒じゃないの。それに隠し通せるような相手でもないでしょうし」
「壁に耳あり障子に目あり――例えどこにいようとも隙間で覗くだろうしって言いたいのかしら?」
「そうねぇ。でも実際にそれだけのことしそうだもの」
くすくすと笑う霊夢。柔らかな表情のまま笑わない紫。
今日はやけに本題に入りたがらない、と紫は思う。
いつもならもう少し割り切ってすぐに本題に入るだろうに、今日に限って出し渋っている、と言うのか言い出しづらいのか。
「霊夢、いい加減に本題でも話したらどうかしら」
話さないのなら、と紫は自分から話を切り出す。
この流れに霊夢は少し驚いた様子を見せるが、はいはい、と言葉を挟んでようやく口を開いた。
「妖怪に成りかけている人間の話、聞いてるわよね?」
「それでここに来たんじゃない。何度も言わせないで」
「その人間――あー、人間と言っていいのか判断つかないけれど、その人間がちょっと特殊でね、これが」
「どう特殊か言いなさいよ。じれったい」
ため息を一つ、零して。
霊夢は間をじっくり置いて紫に言う。
「人間を食べるのよ、そいつは」
その言葉を聞いて紫は若干間が抜けたような表情になって、しかしようやく言葉の内容を理解したその上で霊夢に言うのだ。
「それがどうしたって言うのかしら」
八雲紫は妖怪だ。
妖怪に成りかけの人間――もうそれも妖怪として変質しつつあるのなら、人間を食べると言われても別に何も感じないし、何も思わない。
妖怪は人を攫うし、惑わすし、ときとして食べもする。人に何かをする妖怪に成るのなら当然だろう。
特別、紫がそう言った人食を趣としていない以上、彼女自身共感出来てはいない点ではあるが大抵の妖怪とあれば当然の行為なのだ。
生きるために食べるのだから、当然なのだ。
「人間は生きてる魚を切って刺身にして食べ、焼いてでも食べるわ。豚や牛も、生きながら殺して焼いて食べるでしょう? 確かに道徳的な見方をすれば人食――他の言葉で言うならカニバリズムは人間側からはあまり褒められたものではない、と言うより軽蔑すべき行為でしょうけど、もしそれが生きるためなら」
「――そう言う常識非常識云々は聞き飽きたのよ、私は」
酷く冷め切った口調で、霊夢は紫の言葉をばっさりと切り捨てた。
「山の上にいる神様にも、寺にいる尼さんにも、知識人はこぞって似たり寄ったりのことを言ってきたわ――さすがに妖怪よりの言い分ではなかったわよ」
「そうね。付け加えるなら雑食の人間はそれほど美味しくないのよね。あえて言うなら不味いわ」
「味の感想なんかいらないのよ」
茶化す空気じゃないでしょうに、と珍しく霊夢に怒られてしまった。
「と言うかそれなら普通の人食者じゃない。それが何なのよ」
「――まぁそこについても聞きたいのだけど、紫、人のまま妖怪にって成れるものなの?」
「成れないわよ」
紫はきっぱりと、はっきりと否定した。
「何かが何かに成るときはその器を変容させなくてはならない――人魚姫は人間に成るときに魚の下半身を人の物に変えたし、人だってその姿では鳥のように飛べないからと蝋の羽を作ったわ。何かに成るときにはそのままではダメよ」
妖怪とはとかく非常識なのだ。
妖怪とはつまり非科学なのだ。
現実を好みそれしか見なくなった人間にとって、妖怪は異質そのもの。そんな妖怪に成ると言うことは人間だった体を――現実を幻想に変えなくてはならない。
実際には成る、と言うより変わる、の方が正しい言い方なのだろう。
人間は今までの姿を捨てて、より幻想的な、より空想的な姿に変わるしかない。
誰だってそのままの姿で鳥のように空を飛べることなんて、魚のように何時間もずっと水の中にいることすらも叶わないのだから。
「前例とかはないのね?」
「さぁ……全知全能じゃないんだから、そこまで聞かれても自信のある回答は出せないわ」
やっぱりかぁ、と霊夢は呟いてまた一つ煎餅を手に取った。まったく今日はいつになくはっきりしない、と紫はいぶかしむ。
そもそも異変が起きているのであればなんだかんだと言いつつも、霊夢が事件に対して動き、解決に向かうはずである。
特に相手は聞く限りでは人食いの人間。妖怪ではないとは言え幻想郷にも殺人に対しての処罰を科す必要がある。
だと言うのに当の動かなくてはいけない本人は情報収集とお茶飲みしかしていない。大問題だ。
「さて霊夢。今回の騒動の犯人が一体どんなやつかは解ったから、素性を教えなさいな。別に渋る必要も無いでしょう?」
「ただの村人よ」
「そうそう、ただの村人ね。それならまぁ然るべき処罰を――はい?」
下して、と言う前に。霊夢の言った言葉を反復する。
――ただの村人。
紫はてっきり半人半妖の類で、だから人間がうんとかとか、妖怪に成れるかどうとか言っていたのかと少し考えやすい方に考えていた。
「えーっと。それはつまり?」
「私だってなんて言えばいいのか解んないわよ」
霊夢は投げやりに答える。
「処分をするのは簡単よ。人も殺しちゃってるし。でも妖怪なら食事の方法がもし人を食べるくらいしかないってときは、見逃すのも仕方ないのよね。現に人食を主にしてる妖怪がいるでしょ?」
「まぁそうね。でも」
「そう、でもよ、でも。人間なのよね。のうのうと村の外で人食をしている……もっと言うならその行動が知られていないのよ」
「どうしてよ。証拠は嫌でも残るでしょ? だから霊夢も知ってるんじゃないの」
「それは偶然見かけることが出来たからよ。もう終わりかけってところだったけど。何せ証拠も残さないように、所持品から服まで、肉も骨の欠片も残さず食べちゃうんだもん。血だって零さないし」
人を食べることすら異常なのにその徹底した食べ方すらもまた異常だと言う。
霊夢が見たそのときは相手が身に着けていた服も、持っていた財布も中の金銭も、目玉も脳髄も内臓も骨も、ともかく片端から口に入れては噛み砕き、飲み込んでいった。
何一つ残さず。完食した。
「人間が食べる量でも食べる物でもないわよ――明らかに何かおかしいわ」
「ふーん。だから霊夢は変てこなことを聞いたわけね……そもそも偶然見かけたって言ったけれど、もしかしてその一回だけ?」
「そうよ、それっきりよ。見かけたのは半年前。それからはずっと監視しているけれど、いまだにそれらしい素振りがないわ」
「監視――ねぇ」
半年前からずっと監視を続けている。その間に動きは無い。
そもそもの話。異常食欲――過食症と言うのが世の中にはあるにしても、それが転じて人を、ましてや衣類まで食べると言うのはいくら八雲紫とは言え想像がつかない。
妖怪だって味わう。人の肉がいくら雑食で不味かろうとも、少なからず味覚を刺激するものはある。だが服とかは別だ。そもそも食べるものでもない。
「霊夢――それは本当にただの人間なの?」
「何かが化けてるとかは疑ったわよ。でも本当に、正真正銘、人の腹から生まれた人間よ。下調べも済んでるわ」
ただの人間が、妖怪退治のスペシャリストに寒気を覚えさせるほどの狂気を見せる。
ともかく何でも喰らい尽くす。跡形も無く、食べ残しも食べ零しも無く、その全てを。
「ふーむ……」
ここまで話を聞いても紫はどうも信じることが出来なかった。
高がただの人間が妖怪に匹敵する狂気を持ち合わせているなんて、それこそおかしな話である。
「まぁいいわ。私も少し様子を見てみましょう。被害の幅が解らない以上――そも、そうやって被害が出ているにもかかわらず、なぜ話が広まっていないのかも気になるところだし」
「そ、助かるわ……くれぐれもあんまり下手な真似はしないでね。いきなり何も言わずに処分すると、彼、村の中でもそれなりに信頼が厚いみたいだし、何かよってたかって言われたら面倒だから」
「はいはい」
妖怪に近い人間――これほどまでに好奇心をくすぐられるものはそうはいない。
八雲紫は今回起きている、誰にも知られずひっそりと始まった異変に、進んで自ら加わった次第である。
―――
「こりゃまた面白そうな話をしているな」
「そうですねぇ……」
紫と霊夢がいる部屋の外、縁側の下に忍んで聞き耳を立てる一人と一羽。
魔法使いの霧雨魔理沙と鴉天狗の射命丸文である。
魔理沙はただ気が向いただけでここに来ただけであり、文は神社に向かう途中だった魔理沙を見つけて一緒に来ただけだった。
そして二人で取りとめの無い幻想郷のくだらない話をしつつ神社に来て見れば、境内に八雲紫の姿を見かけたものだから、これはもしかしなくても何かがあるのでは、と感づいたわけである。
「話の内容からして人食いが起きてるようですね。それで、それをやってしまった人間の処罰をどうするか悩んでいる、と」
「しかもその人間がかなりキナ臭い――下手すると前代未聞レベルの妖怪の可能性があるときたもんだ。厄介な話を聞いてしまったぜ」
厄介、とは言うが魔理沙自身は楽しみが増えたかのように笑顔のままでいる。
「それに。個人的に人食ってのを見てみたいし、まぁその噂の青年でも見張ってみるか」
「お、奇遇ですね。私も新聞のネタを捜してたところなんでお手伝いしますよ」
「ふーん。じゃあお互い手を貸し合って協力するとしようぜ」
こうして。
紫も霊夢も知らない、とても近い場所でただの好奇心だけで物事に関わることになった二人である。
―――
村人――生まれて今年で二十五歳となった青年は、自分が生まれ育った村の中でも信頼が厚く、若くて力強くそして頭も良く、また正義に前向きで勧善懲悪を志す男であった。
村の誰もが彼のことを素晴らしいと称え、また頼るようになり、将来の村長格であると揃って言った。
青年もその評価を素直に受け止め、しかし慢心することなく、またいつのときでも自分に正々堂々であるようにと日々を暮らしていた。
それが如何にして人食を行うようになったか。
事の発端は霊夢が初めて行為を見た二年前に遡る。
その当時、村の収穫はあまり良くなく、このままでは食べるものも無いと言うことで隣村へと助けを求めたのだ。
前にはこちらが向こうを助けたこともあり、おそらくはこちらの都合も理解してくれるだろう、と村一同が思ったわけである。
結果として。
「すまないがこちらとしても収穫があまり良くないのだ。本当に、申し訳ない」
援助の申し込みは断られてしまった。それも話を出した途端にである。
これも後に解ることだが――援助の出し渋りをし続けて、本当の本当に切羽詰ったときに助けてやれば、恩を大きく売ることが出来ると隣村の村長が考えたのだ。
大人の世界ではよくあること、と言えば聞こえの悪い知恵である。だが青年は気づいてしまったのだ。
賢いがゆえに、気づいてしまったのだ。
さて。正義に正直な彼が、かの悪代官のような悪知恵を働かせる隣村の村長に、一体何をしたのか。
青年は大して怒るでもなく、申し込みに来たときのように礼儀正しく正面から村長の屋敷に入り、またこれも来たときの様に下手に出て、相手に今日はただ様子を見に来ただけですと言い、そして。
丁重にもてなされ連れて来られた屋敷の大広間。二人きりになったとき。
「お恥ずかしい話ですが、私、お腹が空きまして」
唐突に脈路も無く話を切り出した。
自身の腹を大切に、壊れ物を扱うかのように撫でながら、青年は言う。
「腹と背が引っ付く、と言う言葉を今大変噛み締めている次第です」
「お、おぉ……大丈夫かね?」
「なので村長、この前のお願いとは別のお願いなんですが。いえ、はは……大して難しいお話ではございません」
すっと立ち上がり、何食わぬ顔で村長へ一歩ずつ歩み寄る。
「お腹が空いたので――今から食事を」
――食べさせてください。
そう言って。
左手で無理矢理に相手の口へ布をあてがって。
青年はざくっと村長の心臓を突き刺した。
懐に忍ばせた包丁を、深く捻り込むように。
悲鳴は屋敷に響くことなく、血は畳に音も無く広がり、誰にも知られずに村長は倒れてしまった。
「……はぁ」
二人きりの大広間。ここに来る途中村長は呼ぶまで誰も来ないで欲しい、と家に仕えていた奉公人たちに言っていた。
村長は死んでしまったから、青年が呼ぶまで誰も来ない。
誰かが来ては今の惨状を見て自分が何かを言われかねない。何せ、人を殺してしまったのだから。
「あぁ……」
青年は純粋に、正義に対して動いただけだと言う思いと、恩を仇で返そうとした仕打ちに対する恨みがあって殺したのだ。
人間として、全うなのかどうかは言い訳のしようもないし、基準も無いので何とも言えないまでも、むやみやたらと無差別にやったわけでもない、理由が伴った行動だ。許されない行いではあるが。
青年も大変なことをしたと言う理解はある。だが、心の腐った男を殺してしまったがために自分が罰せられる、そもそもこの村長に対する腸が煮えくり返るような怒りがそれを理不尽だと声を大にして叫んでいた。
どうやったらこの状況を抜け出せるか――考え始めたときである。
青年の腹の虫が鳴ったのは。
「――こんなときでも腹は空くのだなぁ」
腹をさすって青年は言う。
そう言えば今日は何も食べていなかったな、と思い返して目の前の死体を眺めた。
畳に染み込んだ血が、それに濡れてしまった服が、物を言わなくなった冷たい死体が。
――とても美味しそうに見えたのだ。
それを見たとき、喉が鳴り渇きを訴え始め、腹の底から空腹が早く食べろと催促をし始めた。
殺す前に言った食事をする、と言うのは嘘だ。ただ相手に少しでも安心感を持たすために、場を和まして刺しやすくするために言っただけで。断ったがためにどれだけ自分の村が苦しんでるかを少なからずも訴えるためだった。
「は、はは……あぁ。いただきます――」
礼儀良く手を合わせてから、彼は大きく口を開けて、死体を貪り始める。
本人にして見ればお腹が空いたからこそ食べる至極当然な、しかし人と言う括りから見ればそれはあまりにも常軌を逸脱しきった、非常識そのものだった。
最初はそれこそ食べれたものではなかった。感じていた食欲もどこかへ行ってしまい、喉の渇きも同じくなりを潜めてしまう。
手にした包丁でまずは食べやすく小さく切って口に入れる。これでは早く食べきれない、とそのサイズを徐々に大きくしていって、やがて口いっぱいに頬張るサイズにまで切ってから含むようにした。
一噛みするたびに今食べているものが何かを意識してしまい、そのたびに吐き出しそうになる。
食べるのをやめようかと考えもしたが、しかし一度口に収めたのだから食べきってしまわないと、と青年はずっと死体を、血を、村長が身に着けていた全てを食べていく。
彼の中の何かがゆっくりと霞のように消えていく。
「はぁ――はは、ははは」
血が染み込んだ畳も包丁で切り取って食べた。もうそこには死体も何も無い。元通り――ではないが元から何も無かったかのように、何も残ってはいない。
食べ終わって、青年ははっと気づくのだ。
村長がいないのだ。彼が食べてしまったから当然ではあるが、もし誰かが入ってきているはずの村長がいないと気づいたら、畳に出来た穴を見られたらどうなるか。
そしてその不安を解決する方法を見つけ出す前に、障子が開いてこの惨状に奉公人が入り込んできた。
もう何が起きているのかすら思考が固まってしまった青年には解っていなかった。
だが。
「おや? お一人でどうなさったのですか? 上がっていらっしゃるならお声をかけてくださってもよかったのに。それにここ、畳の修繕がまだ終わってないんですよ」
「――えっ」
「いえいえ。この前ここに相談に来たではありませんか、援助のお話に。それからまだ日も経っていないのにここにお一人でどうしましたか? 主人は今出払っておりまして……」
一瞬、奉公人が何を言っているのか青年には本当に解らなかった。
だが頭の回転が戻ってくるうちに徐々に、何かがおかしな方向に向いているのが見えてきた。
青年は、少なくともこの部屋の中では一人ではなかったはずなのに、この奉公人はお一人でと言ってきた。援助の話も覚えているのに、まるでそのときから、それ以前からいなかったかのように村長と一緒にいた自分を一人だと言った。
「え、えぇ……村長さんにお会いしたかったのですが」
だから今、自分が食べたはずの村長がどうなったか、それを知る必要があった。
「村長は少し別の村に出ていまして。もう半時で戻ってくると思いますよ」
「……そう、ですか」
「えぇ。まぁお会いしてもいないんですし、いるのかどうかも怪しいくらい村にいることが稀なんで、そう思うのも仕方ありませんね」
くすり、と笑って奉公人が部屋を変えましょう、と誘う。
青年はいち早くこの場から立ち去りたかったところだった。ありがたいことだとそれ以上何も言わずに代理のあとに続く。
――後々に彼が聞いたのだが。この村の元々の村長は奉公人が話したとおり、あまり居つかずに他所へふらふらと出歩きに行く男が勤めているらしい。
そして。青年が食べた村長の顔を知る者は誰一人としていなかった。
誰に聞いてもそんな顔をして、そんな服装をして、そんな喋り方をして、そんな性格をした男は見たことも聞いたことも名前すらも知らないと、口を揃えて言うのである。
でも確かに青年は覚えてもいるのだ。声もまだ頭に残っているし、その顔もまだ目に覚えがある。思い出したくも無いが、その肉の感触も味もまだ覚えている。
取って付けたかのように入れ替わった村長。青年は自分で何かしたのを解ってはいても、事態がどう動いているのかはっきりと解っていなかった。
「あぁ、でも」
解ってはいなかったが。
自分が今からやることは、きっとこれしかないんだろうと、薄ぼんやりと自覚していた。
食べることで悪いやつがいなくなって、食べることで悪いやつを記憶から消すことができるなら。
「――悪いやつを食べなきゃ」
このときからだろうか。青年は定期的に人食を行うようになったのは。
都合が良いことに人食された相手はその存在そのものまで抹消されたかのように、関わってきた様々な人の記憶から消えていく。
それが一体全体どうしてなのかは青年には解らなかったが――それでもやらなくてはならないと、一種の脅迫めいた思想が彼をそうさせる。
最初の一件から一回、二回と数を重ねていく内にその事実に気づいた青年は、それからは相手を選ぶようになった。
最初こそ無作為に相手を選ばずこっそりとおびき出しては食べていた。だが自分が食べることで相手の存在を消すことが出来るなら、利用しない手はなかったのだ。
「悪いやつを食べれば、それで困ってた人が助かるんだ。それにいなくなったように皆から忘れられる。それでいい。それで全てが丸く収まる」
それは使命感からなのか。
それは本能ではないのか。
そうやって救われる人もいるのなら道徳を犯すこともいとわない。だが、何度も何度も繰り返すうちに青年の感覚は次第に麻痺していく。
なんだってそうなのだ。目一杯躊躇して、戸惑ったすえに一度でもやってしまえば、後はもう一緒だ。その後は何度でも出来る。感覚の麻痺とは、一度の経験で戸惑いが消えてなくなることなのだから。
だから――青年は迷わずに自分の正義を押し付けていく。
「誰にも気づかれないように。誰にも見られないように。誰にも悟られないように。俺は俺の正義をし続ければいいんだ」
青年の心は義に厚く、正義を愛し悪を許さない心の持ち主。
悪の芽だけを食べ尽くす。自分の道徳も、人間性も、少しずつ齧っていく。
「おーい。今日は収穫祭だぞ。皆集まってるし一緒に飯でもどうだ?」
村の仲間から青年が呼ばれる。最初の一件から二年が経った今、村もかつての実りを取り戻して久々の収穫祭を迎えた。
あのとき以降、青年への村全体の信頼は上がる一方だ。それは一重に彼がこの村のためにやってきた努力が実ったからだろう。その中には決して口には出せないようなことも含まれている。
その中で彼は自分がどう変化していっているのか、解っているつもりである。
自分がとてつもなく異変を孕んだ、人間の形をした何かになりつつあるのは。ただそうなりつつあっても自分の正義は何一つ間違ってはいないと信じていた。
それを知られないために、彼は平然と村で過ごし、何事も無く日々を終え、そして今までどおり悪人を見つけて食べていく。
徐々に人の道を外れているとは知らずに。
―――
「人食する人間?」
さして驚いた様子も無く紫の髪を後ろに纏めながら、少女は言う。
「別に。こちら側の常識で答えたらさすがに何とも思わないわよ。弱肉強食――弱いから食べられるのよ」
「だぁああ! なぁ、パチュリー。あくまで知識人として、あくまでこっちの人間側らしい見方で意見をくれよ。私はどうも今回の件に関して気になることがあるんだ」
場所は紅魔館の大図書館内。
魔理沙がいつものとおりに不法侵入を試みて、まんまと成功してこの部屋まで来た挙句、パチュリーと呼ばれた少女に紅茶をねだった。
その後の会話である。
「人食、人肉嗜好、カニバリズム。古くは儀礼的なものがあったと見られるわ。死者を食べることでその魂、肉体を受け継ぐことが出来る、そう言った思想があったからね」
「はえー。じゃあ私も誰かの人の肉でも食べたらそうなるのか?」
「馬鹿ねぇ……あくまで思想よ。実際にそんなことあったらどうするのよ」
「だよなぁ」
一呼吸置いて、ティーカップを片手にパチュリーは語る。
「外の世界にある法律では、当たり前だけれど人食行為には罰が与えられるそうね。そもそも暗黙の了解、人間にとってそれは道徳の崩壊、そしてタブーでもあるのだからしょうがないことよ。って、外の世界から流れてきた法律書に書いてるわ」
「まぁ確かにいくらなんでも私だって人間を食べたかないぜ」
「ちなみにどうしても餓死してしまうような緊急事態においては、この人食行為は仕方が無いと見られるようね……命を取るか人としての常識を取るか、って話かしら」
「うへぇ、しょうがないとは言え気色の悪い話だぜ」
そうね、とだけ答えて。
パチュリーはカップに口をつけずにそのまま机に置いた。
目を細め、じっくりと魔理沙を睨みつける。
「ところで――えらく変哲な話をさせるじゃない。魔理沙、何かあったのね」
「私には無かったぜ?」
「そうね。人の血の臭いがしないもの。貴女じゃないのね」
「そうかもなぁ。そんなところかもなぁ」
「思わせぶりな口調はどこぞの隙間妖怪でも真似してるのかしら……嘘は体に毒、閻魔にでも舌を切られるわよ。正直に話して」
魔理沙は、さすがにこれ以上遠回しにいろいろとは聞き出せない、と諦めた。
相手は同じ魔法使いでも年季が違う――それに土台もだ。蓄えている知識の量も桁違いだ。
自分よりも数段格上の相手に力比べで上回ることがあっても、いつまでも隠し事は出来ない。
「あぁ話すさ。まぁ――人間が人間を食ってるらしいんだ」
「それで?」
「まぁ隠れて話を聞いてただけで聞き出せた量も大して無いんだが、これがまた何でも食うやつなんだよ」
「お腹が空けば何でも食べるわよ」
「それが肉だけじゃなくて血も骨も目も脳髄も身に着けている衣服も丸々食べつくすらしいんだ」
「それ人間なの?」
怪訝な表情でパチュリーは言葉を返した。
無理も無い話だ。人の肉や骨を食べるならいざ知らず、まさか衣服まで食べるとは彼女の常識では考えも付かなかったのだろう。
それをやったのが人間ならなおのことだ。
「文とも調べたさ。今回ばかりはお互い気があってな。そしたらびっくり。ホントにそいつ人間なんだ。妖怪っぽい気配も素振りもない。いや人を食うから素振りはあるのか。で、さらに驚くことにそいつ、ご飯食べないんだよ」
「ねぇ魔理沙――それ人間の話? それとも妖怪の話?」
「妖怪に成りかけた人間の話、だと思うぜ」
「ふぅん」
そう言って。
先ほどまで興味無さ気だったパチュリーは本を閉じ、腕を組んで目を閉じて深く考え込んだ。
魔理沙がこのときに限って、この期に及んで嘘を言っているとは思えなかったのだ。そもそも、人から妖怪に成る実例は少なからず彼女の知識にはある。
「そもそも、人程度の、それもどんなやつかは知らないけれど、一般の成人男性くらいの顎じゃ骨は噛み砕けたりしないわよ。魔理沙に出来る?」
「いや。私は一般成人男性どころか女性だぜ? そんな力あるわけないって」
知識にあるからこそ――魔理沙の話があまりにも異常性を孕んでいることに、底知れない怪しさを感じるのだ。
人間が人間を食べる。そこまではいいだろう。そこまでは。ただ、その全てを食べるとなったら、それはもう異常なのだ。
食べるにも限度はある。あの堅い骨を食べているのにも、いささかどころではない疑問が残るが、人一人分の質量が高々普通の人間風情の胃袋に収まるとは考えがつかない。
むしろ考えたくない出来事だと、パチュリーは思考する。
「……妖怪はね、魔理沙。意味があるから存在出来るのよ」
「あ? いきなりどうしたんだ」
まぁ聞きなさいな、とパチュリーは魔理沙を静止して話を続ける。
「妖怪には存在する意味があるわ。たとえそれが解りにくい存在意義でも、たとえそれが小さくて意味があるかどうかすら解らないほどのものでも、それ自体が妖怪にとって生きるための生命線になるの」
私が魔法使いであることも、レミィが吸血鬼であることも、意味がある。
そう言ってパチュリーは続ける。
「人間から妖怪に成るには、人間にはあった意味が無くとも生きていけると言う絶対的な、それこそ普遍的な性質を分解してまったく別の物へ再構築しなくちゃならないわ。人間であることを放棄して、妖怪としての異常性を飲み込むために」
「難しい話するじゃないか」
「難しくないわよ。簡単よ。ただひたすら狂人になればいいの」
人を殺めすぎた人間が、鬼と言われるように。ただひたすらに自身が持っていた常識を忘れ、理性を壊し、人でなしになればいいのだ。そうすればおのずと常に狂っていなくてはならない、と言う自分自身の理由が生まれる。
早い話。人の枠にいなければいいだけだ。
妖怪に成るためには自身にある人としての境界線を越えるなり壊すなりするだけでいい。現に、パチュリー自身も大昔であるが、そう言った人間を数えるほどではあるが目にしたことはある。
どれもこれも人の姿を保てはしていないが。
「ただ代償が必ず付くわ」
「人の形を保てなくなるんだろ? よく解らんけど」
「そうよ。人であることを放棄するのだから、人でいられなくなるのは当然ね」
「妖怪に成るための代金が自分の姿、って考えるとなかなか嫌なもんだな。恐ろしいもんだぜ」
「まぁ……中には稀に人の姿で妖怪に成るのもいるみたいだけど、それは本当に極々稀の、砂漠から指先ほどの石ころを見つけるくらいに確率が低いわ。おそらくそもそもが妖怪よりの人間だったんでしょうね」
でも解らないよなぁ、と魔理沙が言う。
「妖怪に成りたいって、どうして思うんだろうな。人間のままでいたほうが都合が良いと思うんだけどなぁ。そこが全然解らないんだよ」
「妖怪でも人間に成りたいって輩はいるわよ。魔理沙はどう思う?」
「ん? まぁいいんじゃないか。人間から迫害は受けないし、行動を制限されるようなこともないだろ」
「そうかしら。私は逆に何で人間のままでいたいのか解らないわ。寿命は短いし、弱いし、すぐに病気になる。自分から進んで弱いままでいようとするなんて、馬鹿と一緒よ」
「……」
喘息持ちが何を言ってるんだか、とはおくびにも出さず。
しかしパチュリーの言うことに少なからず魔理沙は理解を示していた。
妖怪に成ろうと考えたことが無い彼女にして見れば、成りたいと考えた人間の意図なんて鼻から解るはずも無かったのだ。
パチュリーもまたそうなのだろう。人間に成ろうと考えたことが無いから、同様に答えが解らない。
「だけど一つだけ言えることがあるわ」
「ん?」
「妖怪なら人間を襲ってもそれはまぁ仕方ないでしょう……人食を主とする妖怪もいることだし。でもそいつがまだ人間だと言うのなら、まだ完全に妖怪でも無い人間だと言うのなら、悪いことやってるってのは明白でしょ。頭がおかしいだけの狂人か、妖怪だからこその狂人か」
「殺人罪ってわけか……ふぅん。まぁ実際にあーだこーだするのは霊夢の役目だ。私はもう少し観察といかせてもらうぜ」
「やけに趣味が悪いじゃない」
「興味が沸いただけだぜ? 趣味じゃないよ」
魔理沙は、それじゃあまた来るぜ、と言い残してご丁寧に図書館の入り口からいそいそと退出した。
長々と話し込んで中身が有るのか無いのか解らないような会話をして、彼女は満足げに出て行ったわけだが、残されたパチュリーはと言うとそうもいかず。
「貴重な一例、とは言えあの巫女が見つけてしまった以上は処分が下るでしょうね……まぁ当然と言えば当然、か」
見てみたかった、と言葉を零すがすぐに近くにある本を手に取って開く。
本を読みながら――しかしふと読むのをやめて考え始める。
もし人間に成れるなら、もしそう言う機会に恵まれたなら、自分は人間に成るのだろうか。ありもしない空想にパチュリーは思いを馳せる。
妄想するのはいくらでも出来る。何かに縛られるわけでもない。果てしなく自由だ。
結果としてそこに至れないだけで。
もしかすると魔理沙の言う男も、自分のありもしない空想に踊っているだけなのだろうか。
「ふふ……」
叶いもしない出来事に思いを馳せることにしばしの間夢中になる、図書館の魔法使いだった。
―――
射命丸文は、霧雨魔理沙がパチュリーと話している最中、とある村へ訪れていた。
魔理沙が相談に行くと言って紅魔館へと行ったが、射命丸はと言うとその件の男を調べるべく、なんと直接会いに行ったのだ。
会いに行く、と言うよりかは観察しに行くと言うだけなのだが。
それに彼女自身、人伝に聞いた本人の話をまとめる内に奇妙な気分にかられていた。
男はさして悪い噂もなく、ばかりか働き者で人情に厚い、良く出来た人間だと言うことしか聞かないのである。
彼の噂には何一つ汚点がないのだ。
そしてこれもまた怪しむべき点ではあるのだが、どうも最近彼の周りの人物が文のメモと一致しないのだ。
つい一年前。彼が住まう村の収穫祭を取材した際に話を聞いたことがある村人の名前が彼女のメモの中にあるのだが、しかし今日来てみればその姿はどこにも無く、住まいには別の人間がいた。
村人に聞いてみても誰もその男の名も顔も知らないと言う。
また文自身もそのメモを最初に見たとき、こんな人物がいたのだろうか、といぶかしんだものである。
射命丸文がメモを見るまで思い出せなかった――彼女自身は記憶にはそれなりの自信があった。仮にも新聞記者である。それも自分が書いた記事に関係する人物を、おいそれと忘れるはずも無い。
どこぞに住む半人半妖の教師のような能力があるならまだしもだ。
血生臭い事件の裏側に隠れていた奇妙な話の真相を彼女は知りたかったのだ。
「……あやや」
しかし。運が良いのか悪いのか。
話を聞いて周り辿りついた青年の家は、ちょうど出かけているのか誰もいなかった。
さすが天下の鴉天狗と言えど無断無言で家に上がりこんで家捜しするのは気が引けるが、好奇心が勝ってしまったのか中に押し入っては何か面白いものは無いかと、いろいろと道具を探っていたときだった。
少しだけ、ほんのかすかにだが鼻を突くような異臭と、生臭い鉄の臭いがした。
「んー? これはどこから……」
部屋の奥からかすかに臭うそれを追う様に、射命丸は臭いを嗅ぎながらゆっくりと奥へと進む。
やがて一つ部屋を跨いだ先の部屋の、その隅にある押入れの前にまで来て、ようやくそこが臭いの元だと解った。
「どうやらこの中からみたいですが、さてはて」
何が出てくるのか、と一呼吸、間を置いて彼女はゆっくりと襖を開ける。
開けてみれば――就寝用の布団とその他雑貨ばかりが散乱していた。中はお世辞にも片付いているとは言い難い。
だが、その中で一つだけ彼女の目に止まるものがあった。
無造作に置かれた雑貨の中に一つだけ――埃も被っていない壺があったのだ。
「布団は毎日使いますし埃被るはずはないですからねぇ……なのに、これだけ綺麗なままって言うのも妖しいものですよ」
そっと壊さないように押入れから壺を取り出す。太さは人の顔ほど、大きさは射命丸の膝までと言ったところ。
妖怪とは言えど女の子で細身の体をしている射命丸からすると、その壺は見た目より少し重く感じた。
がちがちに締められている縄を切り、ぎっちりと閉ざされた木の蓋を無理矢理剥ぎ取って。
「――うっ」
直前まで好奇心に煽られてにこやかだった射命丸の顔が、一瞬だけ凍りついてしまった。
壺の中には色が抜け落ちた布の切れ端や、何かの貴金属が詰め込まれていた。それは頭がぐらつくほどに酷い臭いを放っている。
開けるそのときまで、壺の周りが、空気がやけに重いと感じていたのは、おそらくこれらの物品が――この家に住む人物が噂どおり何でも食べると言うのなら、胃に収めたものの消化しきれず吐き出したものなのだろう。
もう一つも同じものが入っているに違いない。
「胃液で消化できなかった分でしょうねこれは。とんでもない臭いですよ。埃が被ってないのは……故人の物だから、それを思ってのことでしょうか」
やっていることがどうにもちぐはぐだ。と、彼女は思う。
人を殺めているのは確かだ。何の理由があれど、そうしている。だと言うのに当の本人は墓を綺麗にするかのように、この壺は綺麗にしたままだ。
彼女にはまったく理解できないものである。
罪悪感を感じているからこの壺に対しては綺麗なままにしようとしているのだろう。ならばなぜこの人間はやめることを考えず、まだ続けるのか。
射命丸はずきずきと来る頭痛に堪えながら壺を元通りに戻して、押入れを閉じ、ゆっくりと足取り重くその家から出て行く。
「とんでもない、とはよくある言葉ですけれど、ね……」
ようやく喋れるようにはなったところだが、気を抜いてしまったのだろうか、途端に胃の中身が喉元まで逆流し始める。
それをどうにかこうにか寸でのところで、抑え込む。
「よく人間は妖怪は化物で、酷いことをする生き物だ、と言いますが……こんなんじゃどっちが酷いことをする生き物なのか疑いますよ」
吐き気をもよおすほどの害悪は、お互い様ですね。
とだけ最後に零し、彼女はふらふらと誰の目にもついていないことを確認してそこから飛び立った。
今見たことを魔理沙に報告するべく落ち合おうと集合場所にした香霖堂へ向かう。
そうしたときにふと考えるのだ。
家に青年はいなかったが、はたして何をしているのか、と。
―――
さて。
このまま行けば明日はどうなるか解らない日々を送り続ける青年は、とある時期を迎えていた。
と言うのも、この青年。人の肉を食べ始めてだいぶ経つがもうすでに人間らしい食事が喉を通らず、腹を満たすには人の肉を食べるしかなくなっていたのだ。
昔は美味しいと感じていた野菜の旨みも、豪華な料理として楽しみだった白米の味も、鶏肉の美味さも彼にはもう通じず、またそれを体の中に入れることすら叶わなくなったのだ。
何ヶ月も何ヶ月も、水だけを飲んで極力我慢していたが――この時点でもう人間としての身体機能が破綻しているのだが、それでも何とか青年は生き続けている。
一体何が彼にそうさせるのか。
ひたすらに生きたいと強く願うがゆえにか、それともまだこの期に及んで自分が人であると思い続けているのか。
それともその両方か――もしくは、ただ自分は何も間違っていないと思うからなのか。
だがやはり我慢にも限界がある。石の上にも三年、と言うが今回は六ヶ月程度断食することに成功した。青年にとっては長く持ったほうである。
そして次の標的はすでに確認済みだった。
「――あぁ、お腹が空いた」
青年の目はもう空ろで、焦点も定まらず、肌は荒れてかさかさしており、どんなに身なりを整えようとぼろぼろの状態だった。
心身ともに限界で、蝋燭の火よりもか細い気力で立っている。生きていることが奇跡だ。
まだ動けるうちにやっておかなくてはならない――青年は朝の内に暮らしていた村を後にして、目的地へと向かう。
人間としての大事な物が徐々に失われつつあることを彼は理解していた。悪人を食べ、その全てを消化して抹消していくにつれ――人間としての大事な意識を持っていかれているのを、自覚していた。
そうありながら、それでも彼はまだ自分は人間だと。人間であるのだと疑わなかった。
どんなに人の血が甘美に感じても。
どんなに人の肉に美味を感じても。
青年は、正義に身を預け動いているに過ぎないと疑わないのだ。
「――これからもこんな日は続くのだろうか」
人を殺め死体を食し道徳を犯す、そんな日を毎日ではないにしろ必ず迎えるようになってしまったことに、青年は心を少しずつ汚していく。
ともかく苦痛なのだ。ともかく悲壮なのだ。
愛すべき正義の実行が、その実は悪そのものになりつつあることが。
だから――。
誰も寄り付くことの無い無縁塚にやってきた彼は、遠目にだが標的としていた悪――食料を見つける。
その標的と言うのも、この地に眠る縁も何も無い土葬された死体から、金目のものを盗み出す墓荒らしだった。
例え幻想郷でなくとも立派な犯罪に当たるし、幻想郷においてもその行いは道徳に反するものである。許されざる行為だ。
犯罪者は許されない。
罰を与えなくては、ならないのだ。
「ふぅ……ふぅ……」
かちんかちん、と歯を噛み鳴らし。
がたがた、と寒さに耐えるよう体を振るわせる。
最早自分が一体何をしたいのか。どうしていたいのか。それすらも考えきれなくなって。
本能が急かすのを抑え込み、ゆっくりと、忍び寄るように標的の人間に一歩一歩近づいていく。
息を潜め。唾を飲み込み。目を細めてじっと相手の動きを観察しながら、青年はゆっくりと迫る。
「へへ。ここもまぁ捨てたもんじゃねぇや。なんでぇ……幻想郷に縁も無い人間の死体にしちゃあ、身に付けるやつには珍しいもんがありやがる。河童にでも売れそうだぜおい」
青年があともう一息と言うところまで近づいてみれば、標的の人間はどうやら死体を掘り起こした後らしい。辺りには掘り返した土が散乱し、身に着けていた道具や一緒に埋葬されていた道具を並べて眺めていた。
そのときの相手の顔は――醜く顔を歪め、しかしながら幸せそうで。
自らがしたことを棚にあげ自分だけの幸せに浸るその姿を見ただけで、青年には十分だった。
青年には――犯罪を犯した者の姿を見ただけで、理性のたがを外し、本能が赴くままに暴力を解放し、自分の信じる正義を振るうのには本当にそれだけでよかった。
「こんばんは。今日はやたらと冷えますね」
青年は何の前置きも無しに標的の、墓荒らしの前に姿を現した。
先ほどの体の震えもどこ吹く風と消えてなくなり、頭の中をぐるぐると駆け回り考えることも出来なかった状態だったはずが、今ではすっきりと晴れやかだった。
やることが決まれば迷いは無くなる。ただそれに一直線になればいいのだから。
対して、よもやこの場に自分以外の人間がいると思っていなかった墓荒らしは、死体から奪い取った道具を急いで掻き集め見えないように隠そうと必死になる。
「あぁ忙しそうですね。今日は何をしにこちらへ?」
「ひっ――う、うるせぇんだよ! 近寄るんじゃねぇ!」
「えっ?」
聞いていなかったかのように青年は一歩踏み出す。
「どうかしました? 今……何か言いましたか?」
聞こえていないふりではない。
本当に、聞こえていないのだ。
正義が悪に耳を貸すことはあってはならないと、思うがゆえに。
青年にはもう墓荒らしの声は届かないのだ。
「お、おい。なんだよ兄さん。え? 兄さん顔が怖いぜ。洒落になんねぇだろ?」
何を言われようとすでに遅く。何をしようとすでに無意味だった。
青年が発する物言わぬの気迫に圧され――その気になれば懐に忍ばせたナイフで突き刺せばいいとさえ考えていたのにそうも出来ず、膝を震わせてただただ死者から剥ぎ取った物品を後ろに隠して、手放すものかとしっかりと握っていた。
それを見て青年は思うのだ。
罪を犯してまで幸福になりたい人間の気持ちが、まったく解らない――。
「終わりだよ。貴方は罪を犯したんだ。先にも後にも戻れない。だから俺が」
それ以上最後まで言わずに、青年は墓荒らしの喉元にかぶりついた。そしてそのまま肉を噛み千切る。
ぶちぶち、と生々しい音と共に体から引き剥がされた人肉は、じっくりと青年の口の中で租借され、胃の中へと落ちていった。
そこでようやく胃が満たされた幸福な気分になっていく。味が良いわけでも、喉越しが良いわけでもない。彼にとって人の肉が胃に入ることだけで幸せになれるのだ。
さらに半年振りの感触である。飢えに飢えを重ね、強烈なまでに渇いていた欲求がたちまち満たされたその瞬間は――何事にも例えがたい一瞬だった。
どんなことをしてでも叶えたかったことが、ついに叶ったのだから。
叶えられる状況なのだから――青年はもう自分が何をするために、目の前で喉を噛み千切られて血を噴出して白目を剥き恐怖で顔を歪めたまま気を失っている墓荒らしに牙を向けたのかを忘れ、ただひたすらにかぶりついた。
貪欲な獣のように。ただ、ただひたすらに。
「はぁ――がふ――はっ!」
決して柔らかいとも言えない人肉に噛み付く。いつの間にか鋭利に尖ってきた青年の歯がその諸々を切り刻んでいく。食べ物とは言えない骨を噛み砕く。強靭なまでに成長した顎で、無理矢理に砕いては喉に押し込んでいく。決して飲みやすいと言えない血を啜り飲む。口の中に広がる鉄の味はすでに慣れてしまい、問題なく飲み干していく。
身に着けた衣服もビリビリに破り一口大にして胃に押し込む。隠していたナイフすら、その顎で見事に噛み砕き、刃物であるのに関わらず飲み込んでいった。
初めて人食をしたときは七時間もかかった――今思えば誰が来てもおかしくなかったとは言え時間がかかりすぎたとは思うが、その頃と比べれば今は一時間もかからず平らげてしまえるようになった。
昔は周りに血を撒き散らし、肉も飛び散らして汚らしい限りではあったが、今ではそんなこともなく綺麗に食べれるようになった。
何度も何度も繰り返すうちに、人を食べる方法が、上手くなっていって。
最後に残ったのは顔が血まみれの青年と、掘り起こされた死者の物品だけだった。
「――はぁ」
何事もなく、誰にも知られることもなく。墓荒らしの体は悲鳴を上げるより早く、あっという間に食されてしまった。
青年は辺りに誰もいないことを確認し、物品を元に戻そうと手を伸ばした。
瞬間である。
「待ちなさい」
「――っ! 誰だ!」
「随分と強い口調で言ってくれるじゃない。はぁ……まったく」
ややめんどくさい口調のその人物は、何も無かったはずの空間から突如として出来上がった何かからすっと出てきた。
赤と白の腋が見える特徴的な服装をした――博麗霊夢。
気だるげに状況を眺めた後、彼女は青年に視線を向ける。
「半年間。ここ最近ずーっと監視して――なんかストーカーみたいなことやってたけれど、ようやく尻尾を掴んだと思ったら目の前でとんでもないことをやってくれちゃって」
「全部……見ていたのか」
「監視してたんだし、当然よ。って言っても四六時中見てたわけじゃないわよ? 私の協力者が寝ぼすけで今回に限って面倒くさがってたし、手伝ってくれたのもここ最近だったから時間は限定されてたけれどまぁ上手くいったわ」
「――俺を裁くのか?」
「裁くって……はぁ、じゃあアンタ、何のために今まで、と言っても私は今回の被害者を含めて二人しか知らないのだけれど、と言うけども内一人はちらっと目撃しただけって言うか、まぁいいわ。で? 本当に何のために人を食べてたの?」
何のために人を食べていたのか。
罪を裁くためか――空腹を満たすためか。
「少なくともさっきのアンタはお腹が空いてるようにしか見えなかったわ」
「う……い」
「私が知ってる前回の被害者を調べれば、まぁそれなりに悪いことやってるのは解ったけれど、まさかアンタがこれに手を下す形でこんなことしたのかしら」
「うる――い」
「人に聞いても誰も覚えてないし、ただアンタに食べられたやつの家を漁ったら、出るわ出るわ盗品の山が。その盗品の数々を見て窃盗をしてたのは解った。けれど――こんなことやってると」
「……うるさい」
くすりと笑う素振りもなく。
霊夢は淡々と、思ったことを口にする。
「どっちが悪いか解らないわね」
「――うるさい!」
――霊夢が言った直後だった。
突如として激高し、その場から弾けるようにして青年が霊夢へと迫る。
距離にしておおよそ八メートル。ただの人間ならば一息に縮めれるはずもないその距離をあっという間に縮め、獣のように尖った歯を剥き出しにし、人の頭が丸々入るのではないかと思うくらいに口は大きく開き、霊夢を喰い破らんとばかりに襲いかかった。
対して、博麗霊夢は。
何かをするでもなく、身構えるでもなく。彼の行為に身を任せるかのようにその場に立ち尽くしていた。
猛然と脅威が迫ってきているのに彼女はそれが何事も無いように、ただぼうっと見ていて。
「――まぁそうするわよね」
呆れたようにため息を零すと。
突然、横から槍のように突き刺すような蹴りが青年を攻撃した。会心の一撃――たちどころに表情を歪めた青年は、その勢いに押され思いっきり真横へと吹っ飛んでいった。
「ひえー……あぶなっかたですねぇ」
「おうまったくだぜ。おい霊夢、ちったぁ用心くらいしろよな」
蹴った本人、射命丸文とまるで自分がしたことのように威張る霧雨魔理沙は、二人揃ってぼうっとしている霊夢に言う。
「アンタたちどっから来たのよ」
「空からだぜ。実は私たちもあいつをつけてたんだ。そしたらいきなり人に襲いかかるわ、めっちゃ食べるわ。おかげで今も吐きそうで困ってるぜ。文はうわーうわー言いながらシャッター切ってたけどな」
「右に同じく、ですね。私もまぁ先ほどまで彼の家をさらっと見てきたんですけどね。と言うか無断侵入してたんですけど」
「はぁ……どこから彼のことを嗅ぎつけたのかしら」
「それは内緒だぜ」
「右に同じく」
「……いいわ、もう。それより」
魔理沙たちに向けていた視線を、蹴り飛ばされた青年へと向ける。
わき腹を抱えて痛みに堪えるように唸っている彼に、霊夢は言った。
「急な展開になって思い通りにならなかったのは残念ね。私だって死にたくはないから誰かが助けなくても抵抗くらいはしたわよ」
「くそっ――くそっ――くそっ――くそっ!」
「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」
霊夢は――やっぱりいつもどおり、気軽な感じで言葉を口にする。
「貴方は最後まで人間でいたかったの? それとも今みたいに化物でいたかったの?」
あえて妖怪とは言わずに彼女は言う。
その質問に青年は。
睨むように霊夢を見つめ、そしてゆっくりと顔を妖しく歪めて。
彼は質問に答えることもなく、突如として空間に出来た穴に取り込まれ姿を消してしまった。
消えてしまったのだ――。
「おい消えたぞ」
「本当ですね。大方八雲紫の仕業でしょう」
「どうすんのかなぁ、あれ。どっかに送り飛ばしちゃうのかな」
「いえいえ、そんなまさか。あの空間の中でこっそり始末するんじゃないんですか?」
「うーわ。やめろよ。ちょっと考えたじゃないか」
押し黙る霊夢を他所に魔理沙と文は二人して話を広げていく。
ただ霊夢だけは青年が先ほどまでいたその場所をじっと眺めていた。
最後に彼が何と答えようとしていたのか、その答えはきっともう聞くことは無いだろう。
そうして、三ヶ月に渡る――本来は二年前から始まっている、被害者は二十人を超える今回の人食事件はようやく幕を下ろした。
―――
「好き勝手やって、好き放題に食べ散らかしてまぁどうした坊やかしらね」
くすくすくす、と笑い声。
無数のおびただしい目が浮かぶ空間に、力なくだらりと四肢を伸ばしたままの青年は、その声に応えることも出来ず、ただどこから聞こえるのだろうかと辺りに視線を泳がせるだけだった。
「最初はね。貴方を知った最初はね、すぐに潰してしまおうって思ってたのよ。だって貴方、やりすぎだもの。いくら妖怪でも布っ切れなんて食べないし、金属だなんてもってのほかだわ」
誰かはまだ言い続ける。
「でも少しは有益かしらって思ったのよ? だって貴方、勘だけは鋭いもの。人にしてはね。いえ、人だからこそ、と言うべきかしら。貴方は誰よりも悪事に鋭く、そして悪人を見つけることだけは上手だったわ。だから貴方を放置してそう言ういけないことをする輩を成敗してもらいましょうって、思ったのよ?」
ふと思っただけだ、と。
きっと上手くいくのではないか、と。
まるで子供の思い付きだったと言わんばかりに、誰かは言う。
「だから私は貴方の中の境界線を少しだけ弄ってあげたの。何を弄ってあげたかは――考えてみるといいかもしれないわね」
誰かは悪戯っぽく言う。
「でも貴方は私がわざわざ付けてあげた境界線を曖昧にしてしまったわ。正義のためにと言い訳ばかりして、貴方は結局その線を、曖昧にした挙句越えてしまったわ。自分の都合がいい方向へ、ね。それでもまだ貴方は自分が正常だって思い切っちゃうものだから、手がつけられなくなったものよね」
行き過ぎた正義の悪い見本ね、と彼女は言う。
他人事のように。
他所事のように。
彼女は、自分のことではないから、と突き放すように言うのだ。
「そろそろ始末をつけようかしらってところで、霊夢が気づいたものだからそれじゃあ人間のやったことだし霊夢に任せちゃえってことで後は適当に彼女に付き添って、終わり。そして今ここに至るってとこよ。何か言いたいことがあるかしら? あ、前もって言っておくけれど、しっかり言っておくけれど、私は貴方の味方でも敵でもないわよ? だって」
一呼吸置いて、くすりと笑い、そうしてようやく青年の視界に映るところにまで来て――。
「人間のやることなんて、勝手にやってればいいわって思うもの。この幻想郷が無事な限り、ね」
彼女に悪気があってこんなことを言っているわけではない。心底そう思っているだけなのだ。
彼女が青年のことをどうでもいいと思ってるわけてもない。ただ関心がわかないだけなのだ。
都合よく動いてくれそうだったから放っておいただけであって。その気になればどうとでも出来ただけの、簡単な話である。
くすくすといまだに子供のように笑う彼女を見て、青年は顔が引きつるような思いだった。
自分は正しいと思って今までやってきたのだ。正しいと思うからこそ、悪人を裁く意味で多くの命を文字通り食べてきて、人としての道徳を踏みにじってきた。
俺は誰かのために働いているんだ、と信じて疑わなかった。それをどうでもいいようなこととして扱われて、あまつさえそうだと言い切られては、彼にはもう立つ瀬が無くなる。
自分がしてきたことの言い訳も出来なくなる。
「最後に言っておいてあげるわ。人間が妖怪に成るときは確かに人間を捨てなくちゃダメだけれど、その捨てる最中に一度でも迷ってしまったら終わりなのよね」
人らしく生きること。
人らしく話すこと。
人らしく食べること。
人間としての何かを全部捨ててこそ、人間らしさの排除を徹底してこそ妖怪に成る意味が成立する。
それらを全て捨て、自分に何も残らなくなった上で何に縋って生きればいいのか。
何か意味がなくては生きていけない妖怪として、縋る意味を手に入れる重要な段階を踏むのだ。
「でも迷ってしまったらもう後にも戻れないし、先にも進めない。人間のように悪いことをする前に思い止まることも、妖怪のように悪いことをするために率先して動くことも出来なくなる。ただただ、何のために行動しているのかも解らず自制も出来ない――ただの畜生になるだけよ」
「……じゃあ」
そこでようやく青年が口を開いた。
最後の力を振り絞るように。
「じゃあ、俺は、何なんだ?」
「そう、ねぇ――」
彼女は少しばかり悩んで――しかしその思考もすぐに終わって。
手に持っていた扇子で青年を指して、にっこりと答えた。
「もうどっちでもないし、どっちにも戻れないわよ」
その言葉を最後に、青年は立方の結界に閉じ込められ、圧縮されていくその結界の中でじわりじわりと息絶えていった。
意識が途絶える一瞬まで、彼は後悔をすることも無いだろうと自分の死を待ってはいたのだが、そのときが来たときに青年はふと思うのだった。
また人の肉が食べたかった、と。
―――
事件が解決して三ヶ月。当時の空とはまた表情が違うそれを眺めながら、博麗霊夢は神社の縁側でいつもどおりにお茶をゆったりと飲んでいた。
結局あの事件はそれきり、と言うことで何事も無く本当に終了した。
あっけない幕切れではあったが。
それでよかったと霊夢は思う。どんな形で終わったにせよ、早々に人の噂から消えるべきだと。
霊夢は今でもそう考えている。
霊夢は今でも――願っている。
「あらあら。浮かない顔ね、霊夢」
そうやって上の空でぼんやりと考えている霊夢の下へ、何も無いところに出来た隙間からぬるりと這い出てきたのは少し眠たげな顔をした八雲紫だった。
「……なぁんだ。紫じゃない。今日も私のお茶をねだりに来たのかしら」
「そのお茶の葉、私がこの前持ってきたものだし、実際私のじゃない? ねだる、と言うか私のを飲みに来ただけじゃない」
「私の家にあるから私のよ。ほら……縁側で座ってなさいよ。湯飲み持って来たげるから」
そう言われて、紫は遠慮なく縁側に座ると霊夢が湯飲みを取りに行ったのを見計らい、こっそりと彼女が使っていた湯飲みに口をつけてお茶を飲む。
彼女なりの茶目っ気、らしい。
気づかれないように素早く。少しだけ飲むと紫はすぐに湯飲みを戻して大人しく霊夢を待った。
「はいはいお待たせ……なんだかやけに大人しいわね」
「霊夢。そうやって疑うのはよくないわ。そもそも私との仲じゃない、信用してないの?」
「胡散臭いくせによく言うわよ。はい、お茶」
「あらどうも」
差し出された湯飲みを紫は、紫はにっこりと笑って受け取った。熱すぎず、かと言って冷たすぎず、いわゆる適温と言う程度の良い温度だった。
「久しぶりに落ち着けているんじゃない? 最近は何も無くて暇なんじゃないかしら」
「まぁ……暇なのはいいことだと思ってるわよ。平和であることに変わりないし。あの後は何事もなく何も起きなかったし。ぐっすりと眠らせてもらったわ」
「うふふ。それは何よりね」
目を細めてそう言った紫に、霊夢は顔を向けるでも視線を合わせるでもなく、ほつほつと離れて浮いている雲を眺めながら彼女に尋ねた。
「ねぇ紫」
「なぁに霊夢」
「どうしてあのとき――あの男に一言も喋らせなかったの?」
あのとき、青年に質問した霊夢に答えを聞かせる前に隙間の中へ飲み込んでしまった紫に、ある種の疑念が出来ていた。
どうせ取るに足らないことなのだから好きにさせればいいのに、なぜ彼女は遮るような真似をしたのだろうか。
何も霊夢は紫が事の真相を最初っから知っていると思っていたりとか、裏から全部操っているのではとか思ってすらいない。そう言う類の疑いすら持ってない。
ただどうしてあのときだけ邪魔するようなことをしたのか、気になっていただけなのだ。
「別に何でもないって言ったらどうする?」
「いくら胡散臭いのが取柄とは言えさすがにそれはないでしょ」
「……そうねぇ。強いて言うなら犯罪者の戯言に耳を傾ける必要がないと思ったから、じゃダメかしら」
「無理矢理すぎない? それ」
それもそうね、と紫は苦笑して話は途切れた。
霊夢もそれ以上聞くことはなかった。
どうせ何か裏があって言い渋っているのだろう、とだけ解釈して――まさにそうではあるのだけれど、聞かなかったことが博麗霊夢の今後に大きく関わることでもない、事の発端が大妖怪の些細な気まぐれなわけであり。
ともあれ。
人知れず、かすかに人と人の間で噂になるかならないか、都市伝説のようなあるかないかのような内容の――多くの悪人を食べ続け最後には人に戻ることも妖怪に成ることも叶わなかった、とある青年の一件は幕を閉じた次第になる。
その裏で事の顛末を最初から知る大妖怪がいたことも、事件後に射命丸がひっそりと青年宅に隠してあったいわくの壺を無縁塚に埋めておいたことも。件の全てを魔理沙から聞いたパチュリーが書物にして自身の図書館に補完したことも。
そして誰も青年がいたことも忘れてしまって。
幻想郷は何事も無く、時を進めていくのであった。
ホラーでミステリーな雰囲気は好きです。人食という不気味な題材も良。ただ、終始淡々とし過ぎていて盛り上がり(恐怖感?)に欠ける気もします。今のままではホラーとしてもミステリーとしても中途半端で、結局、雰囲気だけの話になっている印象です。
あと、分かりにくかったんですが、紫は最初から全部知っていたという事でいいんでしょうか?だとすると、冒頭からの紫と霊夢の絡みは意味が無いことになります。全部知っているはずの紫が知らないふりして霊夢に話を聞きに行くのでは辻褄が合いませんし。なので、あそこは物語を動かすことになる霊夢が、真相を知っている風な紫に話を聞きにいった、とする方が自然ではないでしょうか。それなら話を渋る紫とそれに不信感を持つ霊夢という構造になり、最後のオチも納得出来たと思います。
結局男は妖怪になったのか人間のままだったのか。
ここらへんはおそらく作者様がわざとぼかしているのだと思われますが、解釈したかぎりだと「理由も原因もない」と読めました。
ただ無意味に、偶然、男は「そうなってしまった」という感じでしょうか。
人が人を食う、という話として読むより、「意味もなく理不尽」なお話って感じがしてどきどきしながら読めました。
面白かったです。
生理的にはちょっと受け付けませんでしたが。
しかし、盗掘が犯罪行為なら香霖堂の商品の大半がダメな気がしますね。
そしていくら昼間でも危険度極高の無縁塚にただの人間が行くのがちょっと違和感。
あそこって魔法の森を抜け、再思の道を終点まで行くと着く場所だったかと。
かといって突き抜けると、いくらタグや前書きで警告しても読んで嫌がる人もいますからね…難しいところです
本当に面白かったです。
それぞれがそれぞれらしい対応をしていたと思います。