豚が地底の空を飛ぶようになってから、私の身には幾つかの変化が起こった。
例えば姿勢。
毎日ぼんやりと上空の翼を持った豚を眺めているうちに、長い年月をかけて醸成されてきた私の猫背はいとも簡単に直ってしまった。
案外あっけないものだ。
一度直ってしまったものをわざわざ元に戻すのも馬鹿げていたし、私はそのまままっすぐな背骨とそれに付随するささやかな特典(肩こりの解消だとか)を貰い受けることにした。
それから生活リズム。
陽の差さない地底において、時刻なんてものはあってないようなもので、大抵の者は好きな時間に起きて好きな時間に活動している。
もちろん私も例外でない。
橋守りなどというのは、はっきり言って閑職だ。
それも最近は特に。
地上との交流が多少なりとも復活した以上、地下から誰かが上に行こうが私の知ったことではない。
逆に地上から誰かが降りてきたとしても、もう追い返す必要がないのだからこれまたどうでも良い。
とりあえず私が少々サボったからといって誰かが困るような仕事ではない。
というより、最近やたら幸せそうに橋を渡っていく奴が多いので鬱陶しいのだ。
しかも大抵私より強い。
そういうわけで毎日起きてぼんやりしてから、適当に人が来なさそうな時間帯を見計らって橋に向かっていたのだ。
少なくとも先々週くらいまではそうだった。
しかし、豚の出現以降、私はそれが空を飛んでいる間、ずっと橋に縛り付けられてしまうことになった。
橋からは豚の姿がよく見えたし、それに屋外で私が毎日何時間も立っていても不自然でない場所といえば、自分自身の領分であるこの橋の上しかない。
豚を見に行くためだけに私は毎日決まった時間に起きて橋に出向き、家に帰ってからも翌朝ちゃんと起きるために深酒を断った。
ちょっと信じられないような話だ。
また、そういったことは私の精神面にも一定の影響を及ぼした。
何か腹が立つことが起こっても、それを考えなしに吐き出すのではなく、己の内側に一旦持ち込み時間をかけて無害なものへと変化させてから体の外に出すことができるようになった。
ヒステリックに叫び散らしたり、癇癪を起こして誰かに掴みかかるようなことも、まずなくなった。
数少ない知り合いたちはそうした私の挙動を見て少なからず驚いたし、私が何か企んでいるのではないかと露骨に尋ねる者さえいた。
腹立たしいが、気持ちは分からなくもない。
まあ、大体これらが私の身に起こったことである。
要するに、完全に参ってしまったのだ。
空を飛ぶ豚に。
§
変わらぬ地底の薄暗い情景、奥へ奥へと連なる家屋の向こう側から、今日もまたゆっくりと白い翼が覗く。
私は橋の手すりに体重を預けて、水筒の麦茶を飲みながらそれを見ていた。
桃色の体は暗い地底の空で奇妙な輝きを放っている。
白い翼が羽ばたく度に周囲の空気が僅かに揺らめいた。
もはや見慣れた光景だけれど、見飽きることはない。
羽の付け根は折れそうなほど細くて、針金のように豚の背中から飛び出していたが、先端の方は豊かな羽毛が分厚く彩り、豚の体を支えるだけの十分な力強さがあった。
ごく単純に言ってそれは立派な代物だったし、また、体躯や翼の先端の豪奢さに比してのその付け根の過剰な繊細さのせいで、豚のシルエットは単に立派という以上に、何かこの世のものではないような神秘性をも獲得していた。
ただ、実際にそういったことが私を惹きつけているのか、あるいは毎日ここに来て豚を見るという行為自体が私を惹きつけているのかは、はっきり言って自分でもよく分からなかった。
例えば気球だったらどうだろう?
空を飛んでいるのが気球だとしたら。
私は黙って頭を振った。
気球を見たのはずいぶん昔のことだけれど、だからといってそんなものぐらいで私の心は揺らがないと思う。
たぶん。
独りで黙って立っていると、時折ぬるい風がどこからか吹いてきた。
地底でどうして風が吹くのだろう?
でも、とにかくそれは起こるのだ。
私の知ったことではない。
左手に持っていた水筒からまた麦茶を一口飲んだ。
ついでに小さな羽虫がその手の甲についているのを見つける。
もう片方の手で水筒に栓をしてから、虫を指でつついて追い払おうとする。
虫は糸のような足に力を込めて踏ん張っていたが、やがて私の爪に負けてうんざりしたように飛び立った。
その行き先を目で追おうと、ほとんど無意識に顔を上げると、そこに彼女はいた。
「ハロー」
私よりも頭半分だけ低い位置でくすんだ色の癖っ毛が揺れている。
彼女のおでこが私の鼻にくっつくような距離だ。
「おはよう」
驚いたことを教えてやるのが癪で、仏頂面を努力して保ったままで答える。
取り繕っても無駄だったか、と一瞬悔やんだすぐ後で、そういえばこの子は瞳を閉じたんだったと思い至ってこっそりと安堵する。
彼女はそんな私のあまり褒められたものではない内面を知ってか知らずか、後ろ手に組んでにこにこと黙ったまま私の顔を眺めている。
私は橋にもたれていた体の重心をぐいと右にずらしてから、気取られないように一歩二歩と距離を取った。
こんな容姿でも、この妖怪がその気になれば私を叩きのめすことなど容易い。
顕現する事物が、どれほどその本質とかけ離れているのかということを、ある種の心の動きを操る私は嫌というほど知っている。
それを手に取るように視ることが出来た彼女にしても、やはり同じはずだ。
「悟り妖怪さんが私に何か用?」
「こいしだよ」
「知ってるわよ」
こいしは後ろ手に持っていた黒い帽子をぽんと自分の頭に被せた。
いつも思うのだけど、地底で帽子を被るのに何の意味があるのだろう。
そうぼんやりと思っているとこいしは口を開いた。
「いつもここで豚を見ているんだよね。知ってるよ、私」
沈黙。
彼女の声から揶揄の響きは聞き取れなかったが、それでも私は表情を変えないように全神経を払った。
こいしは私の顔を見て首を傾げた。
私が何も答えずにいると、こいしは痺れを切らせたように再び口を開いた。
「誰もが気がついている訳じゃないんだよ。地底で空を見上げるなんてことに、普通なら何の意味もないからね。そして気がついたとしてもそんなこと人には言わない。豚が飛んでいるだなんてさ。馬鹿げてる。ね?」
一息をついて、こいしは右手を橋の手すりに這わせた。
話している間も体勢を変える間も、彼女の目は一時も離れずに私の両目をのぞき込んでいて、そのことが私をずいぶん落ち着かなくさせた。
こいしは再び口を開く。
「もしもそれが自分にしか見えていない幻だったらどうしようってね。他人に笑われて、陰で気違いだって触れ回られたらどうしようって。ここは本当に狭い世界だからね。そうなったら逃げ場がない。みんなそっちを考える。で、そういう危険に比べたらさ、空に何が飛んでいようが別にどうでも良くなっちゃうんだね。別に悪さをするわけでもないしさ。だけど、そうやって知らんぷりをしているうちに本当に目に入らなくなっちゃうんだ、これが」
こいしは一気にまくし立てた。
私は我慢ができなくなって遂に口を開いた。
「だけど、あれは実際に飛んでいるでしょう。幻なんかじゃない。誰だってそれくらいのことは分かる」
私はまさに羽を広げて地底の天井近くまで昇ろうとしている豚を指さした。
こいしはにっこりと笑って言った。
「うん。でも、あなただって人には言わなかった。そうでしょう? 今だってさ、私が豚の話をしても途中まで何のことか知らないって顔してたよね。そういう風にさ、誰にも語られない物事は少しずつ現実性を失っていくんだよ。この世界から居場所を失って、ちょっとずつ人々の無意識の中に溶けていくんだ」
言葉に詰まって、私はこいしを睨む。
でも、彼女の言っていることは至極まともだった。
「ねえ、でも、本当にいるのよね?」と私は訊いた。
「もちろん。ちゃんといるよ。あなたの気が狂っている訳じゃない」とこいしは言った。
私は頷いた。
私たち両方ともの気が狂っている訳じゃなければね、と思ったけれど、もちろん口には出さなかった。
そんな私を見てもう一度にっこりと笑い、こいしは手に持っている水筒から麦茶を飲む。
……私の水筒だ。
いつのまにか私の右手からはすっぽりとそれが消え失せていた。
おまけに、これもまた知らぬ間に、私の頭にこいしの帽子が被せられている。
自分の顔が赤くなるのが分かった。
「ねえ。ほんと、そういうのやめなさいよね」
こいしはくすくすと笑ってごめんと言った。
私は水筒を取り返して代わりにこいしの頭に帽子を被せた。
ぐいと一息で残りを飲み干してから、こいしを睨む。
「それで? わざわざそれだけを言いに来たわけ?」
「うーん、違うかも」
「じゃあ、なに」
「日食を見に行こうよ」
「はあ?」
§
鬼やら物の怪やらの有象無象がとぐろを巻いて連なりあって、それらを取り巻く食物、臓物、糞尿、酒の臭いが渾然一体となり形容しがたい異様な熱量を放っているのが旧都の市街である。
あまり好きにはなれない。
好きになれないのだがもちろん地底で暮らす以上は、金銭的物資的人脈的すべての面において、この地を蔑ろにしてはまず生活が成り立たない。
そのため、私もまた結局のところいつまでもこの吹き溜まりのような一角を中心として暮らしている。
「何買うのよ」
傍らのこいしは肩から下げた小さな鞄からがま口を取り出して、中の小銭を検分していた。
誰かとここを歩くのはずいぶん久しぶりな気がする。
「お弁当とおやつ」
「ふうん」
「今日は私お金持ちだよ? なんか買ったげようか」
「いらない」
それでもこいしは駄菓子屋の奥から綿菓子を2本持って出てきた。
「……ありがと」
「どーいたしまして」
二人で綿菓子を舐めながらしばらくふらふらと市街を歩く。
こいしは鞄から冊子を取り出して読んでいた。
「何それ」
表紙をのぞき込むと毛筆の綺麗な字で「よいこの日食観測」と書かれていた。
「地上で学校の先生が配ってた」
「あんたそんなとこまで出入りしてるのね」
私は感心して口の端についた砂糖の欠片を袖で拭った。
「日食とは太陽と地球の間を月が通過することによって、地球から太陽が欠けて見える現象のことであり、食の程度により部分日食、金環日食、皆既日食などに分類される……知ってた?」
「今知った」
「貸したげるから勉強したら」
こいしは得意げな顔で私の手に冊子を押しつけた。
その口の端が砂糖だらけだったので指摘すると、彼女は私を睨んで口を拭った。
月と太陽と地球の位置、観測する地点の緯度や経度によって観測される日食の種類は変わり、今日幻想郷の地上で見られるのは最も珍しい皆既日食だ。
新月が太陽の前をゆっくりと通過し、何十秒かの間それは完全に太陽を覆い隠してしまう。
次にこの現象を観測できるのは約三百年後のことであるため、今回を見逃すと次はない。
生徒諸君はこの機会に是非見ておくように。
と「よいこの日食観測」において上白沢慧音女史は述べられている。
紛れ込んでいる変わり者の悟り妖怪を除いて、生徒たちはみんな人間なのだろう。
私は歩きながら、女史の几帳面な人柄を窺わせるガリ版刷りのページを繰った。
その時、何かが私の袖を引っ張る感触があって、けれど振り向くと誰もいない。
……あれ?
何かを忘れているような気がする。
「おい、パルスィ」
正面から聞き覚えのある声がして振り返ると、主は顔馴染みの鬼だった。
ぷんと鼻にくる熟柿のような臭いに思わず顔をしかめる。
「人を見てそんな顔をするなよ。私のことが嫌いか?」
「別に」
「ほう。じゃあ何でお前は私を見てそんな糞を喰った様な顔をするんだろう」
「酒臭いのよ」
「正直でよろしい。だがわざわざここまで来ておいて呑まずに帰る道理はないぞ。どうだ、お前も一杯」
周りを見渡すと確かに市街の中でも随一の呑み屋の密集地で、どうやら私は冊子を読みながら歩いているうちに、知らずここにたどり着いてしまったようだ。
ただ、確かに酒呑みに絡まれても仕方のない状況ではあるけれど、私の目指しているのはあくまでこの通りの向こうにある食品街だ。
……なぜだか理由を思い出せないけれど、そうだったはずだ。
「また今度ね」
何はともあれすげなく断った私に向かって、鬼はわざとらしく鼻を鳴らした。
「つくづく付き合いの悪い奴だな。まあ、じゃあ、また今度」
そう言って私の肩を叩き、案外すぐに諦めて鬼はまた酒の海へと帰っていった。
「どうしてあんなに四六時中呑んでられるんでしょうね」
「外で呑んでるだけマシだよ」
独り言のつもりだったのに、傍らでいきなり暗い声がして驚いた。
こいしが帽子を手に持って俯きながらいじっていた。
私は呆気に取られてこいしを見つめた。
動悸を抑えるために何度か深呼吸をしなければならなかった。
おかしな事がいくつも起こっていた。
例えば、今、私はこの子の存在を忘れていた。
その直前まで彼女と会話をして、しかも彼女に渡された冊子を読んでいたというのに。
例えば、今の鬼はこいしにまったく気がつかずに去っていった。
知っている顔なら無差別に声をかける鬼が。
例えば、いつもならばもっとしつこい絡みが、今日に限っては妙にあっさりしていた。
馴れ馴れしくふてぶてしいあの鬼が。
どれもほとんどありえないことだ。
くじびきのくじの先端がが私に向けて突き出されていた。
当たりか外れか、その色は引いてみなければ分からない。
試してみる価値はあるかもしれない。
「なんで?」
「……」
「別に嫌なら言わなくて良いけど」
暗い顔をして黙っていたこいしは、ややあってぶっきらぼうに呟いた。
「お姉ちゃんがキッチンドリンカーなんだよ」
「……」
「ずっとお酒飲んでる。ペットも困ってる。でもふらふらしてる私にあれこれ言う資格なんかないしさ」
それだけ言ってこいしは俯いた。
幾つかの物事がパズルのピースのように音を立ててはまり、一つの形を示した。
当たりか外れかはともかく、くじびきの結果は出た。
言うべきことは何一つ見つからなかったし、それに何となくそうした方が良いような気がして、こいしの小さな肩に手を回してやる。
彼女もそれ以上何も言わず、俯いたままで私の腕の中に隠れるようにして歩いていた。
まるでただの傷つきやすい少女のようだった。
私たちはそのまま酒の匂いに満ちた通りを息を潜めてすり抜けていった。
めぼしい店で弁当(松竹梅の竹)を調達する。
おまけに新商品の甘味がついた。
水筒に水を詰め直す。
二人分の弁当を一つの袋に入れて肩から下げ、私は訊いた。
「それで、どうやって地上まで出るのよ」
え、と言って驚いたような表情でこいしはこっちを向く。
私は手の平を上に向けて両手を上げた。
「え、じゃなくて。こんな荷物持って飛んでいくの?」と私は言った。
「そりゃあ、もちろん豚に乗っていくんだよ」
こいしは如何にも当然という風に答えた。
「はい?」
「当たり前じゃん。何のための豚だと思ってたの?」
知ったこっちゃない。
§
市街を抜けてから、人気のない開けた場所を見つけてこいしは豚を呼んだ。
呼んだと言っても大声を出したり笛を吹いたりしたわけじゃない。
目の前にいる相手に向かって話しかけるようなごく普通の声でこいしは言った。
「ピンク、おいで」
ピンク、というのが恐らく豚の名前であるということに私が思い至った頃には、既にそれは猛烈な速さで音もなくこちらに向かって飛んできていた。
「え、ちょっと、うそ」
「大丈夫だからじっとしてて」
あっけに取られている間にそれはぐんぐんと視界の中で大きくなり、あっと言う間に私たちの真上にやってきた。
羽を大きく羽ばたかせて滑らかに着陸しようとする。
羽から繰り出される風圧を、手で瞑った目を覆ってやりすごす。
目を開けたとき、私の目の前にはほとんど夢にまで見たあの豚がいた。
豚は鼻を鳴らして前足で地面を軽く引っかいた。
私は首を振って小さく溜め息をついた。
それは今まで見たどんな生き物よりも鮮やかな輪郭を持っていた。
それ自体が薄い光の膜を纏って、周りの空気から僅かに浮き上がっているようにさえ見えた。
肌はきめ細かく清潔で、大きな背中からあの美しい白い羽が生えていた。
生きて、呼吸をして、私の目の前にいた。
ゆっくりと羽が上下して、暖かく柔らかい風が立った。
私は乾いた唇を確かめるように舐めながら、何度か頷いた。
そうせずにいられなかった。
やがてその広い背中に小さな手を置いて、こいしは私に向かって得意気に言った。
「ピンクだよ」
「そうらしいわね」
§
私たちを乗せてピンクは地底の空き地から飛び立った。
助走する間も飛び立つ瞬間も豚の背中の上はぐらぐらと揺れて、振り落とされないように私は前に座っているこいしの細い腰にしっかりと掴まっていなければならなかった。
自分で飛ぶのとはずいぶん勝手が違う。
しかし一度飛び立ってからは嘘のように快適で、おかげで私は顔を右に向けてみるみる小さくなっていく地底の情景を見ることが出来た。
なかなか良い眺めだった。
橋の上空を抜けてピンクは地底を地上を結ぶ縦穴へと一直線に向かっていった。
点のようだった外の光がどんどん大きくなっていく。
「目を瞑って」
首だけをこちらに捻ったこいしが、羽の音にかき消されないように大声で叫んだ。
「分かってる」
怒鳴り返して目を固く瞑る。
まもなく閉じた目蓋をこじ開けるような光の奔流がやってきた。
§
涙が溢れる。
頭が痛い。
「目、開けてらんないんだけど」
「目薬持ってるよ」
「ちょうだい」
手渡された瓶の口を捻り開けて、目の上に適当に垂らす。
三度の誤射の後でようやくちゃんと目に入った。
しかしそれは表面に少しの清涼感だけを残しただけで、あえなく涙に流されて目から出ていってしまう。
「あー……」
地上だった。
あれだけ遠く感じていたのに、いざ来ようと思えばこんなに簡単に来ることが出来る。
その事実がひどく滑稽に思えた。
緑の匂いのする穏やかな風が吹いた。
「時間は大丈夫?」
「あと一時間ってところかな」
むちゃくちゃにのたうつ光の中でこいしが時計を懐から取り出して確認するのが何とか視認できた。
無理に目を開いていたらまた涙が出た。
じっくりと時間をかけて目を慣らしているうちに、少しずつ周囲の状況が見えるようになる。
私たちがいるのは背の低い草むらの上で、片方は山が、もう片方は遠くに人里が見える。
こいしは時計を懐にしまって腰を下ろした。
私も近くに座る。
後ろではピンクがむしゃむしゃと草を食べていた。
「ねえ、こんなの食べさせていいの?」
「うーん、大丈夫じゃない? 一応ごはんは持ってきてあるけど」
そう言うとこいしは鞄の中から緑の葉に包まれたとうもろこしを取り出した。
豚は目ざとくそれを見つけてこちらに歩いてきた。
「あんた、ほんと何でも持ってるのね」
私は感心して鼻を鳴らした。
「飼い主だもん。当たり前だよ」
こいしは葉を剥いて黄色い実を露出させたとうもろこしを横向きに両手で構えた。
ピンクがそれを食べるのに合わせてくるくる回す。
こりこりと気持ちの良い音が響いて、3周ほどでとうもろこしは綺麗に芯だけになった。
こいしは満足した顔で芯を草むらに放った。
私は肩から弁当を下ろして伸びをする。
面白いくらいに全身の骨が鳴った。
「もっと人がいると思ってたんだけど」
「いるところにはいるよ」
「ふうん」
水筒に直に口をつけて飲む。
当たり前の水が、何とはなしに美味く感じられた。
こいしはにっこりと笑ってぱんと胸の前で両手を合わせた。
「さあ、お昼にしよう」
§
日食は私たちが弁当をあらかた平らげた後で、おまけについていた甘味をああだこうだと品評しながら食べている時に始まった。
正確にはもう少し早い時間に始まっていたはずだけれど、少なくとも私たちがそれに気付いたのはその時だ。
こいしが箸で私の肩越しに太陽を指したのとほとんど同時に、私も振り返ってそれを見ていた。
空気の温度が見る間に下がって、あらゆるものの輪郭がいつもと違う、艶のある鈍い光を放った。
ピンクはすんすんと鼻を鳴らしてから太陽の方を向いて飛び上がった。
その風圧が弁当の蓋を吹き飛ばしてしまったけれど、私たちは何も言わなかった。
それが起こっている間、誰一人として言葉を発しなかった。
身じろぎもしなかった。
息さえしていたか怪しいくらいだ。
食われていく太陽が、地上から光だけでなく音さえも持ち去っていくように思えた。
硬直した世界の中で豚だけが悠然と空を飛び回っていた。
月が太陽を完全に覆い尽くす直前、それらの重なり合う輪郭が目映いばかりの光を放った。
そして、地上から光が消えた。
§
光とピンクがほとんど同時に地上に戻ってきて、私たちも甘味を食べる作業に戻った。
「見に来て良かったでしょう?」
こいしはあんこを頬につけたまま上気した顔で言った。
「うん」と私は言った。
豚が歩いてきて湿った鼻先でぐいぐいとこいしの耳を押し、あんこのついた頬を舐めたので、こいしはくすぐったそうに笑って身を捩った。
「良かったわ」と私はもう一度言った。
「ね」
「でもあんた、さとりを連れてこなくて良かったの?」
要らないことを言わなければいいのにと自分を呪いながら私は訊いてしまう。
これで私も結構興奮していたのだ。
こいしは途端に能面みたいな表情になって黙って首を振った。
「つまらないこと訊いた?」と私は慌てて言った。
「どっちかというと逆」とこいしは言った。
「ごめん」
「別に」
重い沈黙が流れて、その間もずっと私は自分を呪い続けていた。
呪詛の言葉は尽きる様子がなかった。
「じゃあ、次はお姉ちゃんと見に来るよ」
しばらく経ってからこいしは帽子を脱いでぽつりと言った。
「次っていつだっけ」
「うん、えーと……300年後くらい?」
「ずいぶん気の長い話ね」
こいしは帽子を両手で掴んでうーと唸った。
その仕草が面白くて、思わず私は吹き出してしまう。
「あ」とこいしが言った。
「なに?」
「笑ってるところ初めて見た」とこいしは途端に表情を変え、にこにこと笑って言った。
私は鼻を鳴らして返事の代わりにその顔を思い切り睨みつけてやった。
けれどやっぱりそれだけじゃ駄目だと分かっていて口を開く。
「でも、誘ってくれてありがとうね」
「どういたしまして」
太陽がたった数分間隠されることが、地底に暮らす私たちにとってそれほど大きな意味を持つとは思わない。
だけど、天体のちょっとした気まぐれを見るためだけに私たちは地上まで上がってこられるようになった、そのこと自体にはとても大きな意味がある。
日はまだまだ高く、日差しは帰るのが惜しく思わせるほどには心地よくて、私たちは草の中に寝転んでいつまでも地上の音に耳を澄ませていた。
§
数日経ったある日、こいしは橋にやってきて私に悲しそうに言った。
「ピンクの羽が消えちゃったんだ。きれいさっぱり」
慌てて一緒に古明地邸に行くと、確かにこいしの言う通り、ピンクの背中からはあの美しい羽が跡形もなく消え失せていた。
それでもピンクは私とこいしの姿を認めると軽やかな足取りでこちらにやってきて、二人の手の平を交互に舐めた。
背中を撫でてやると豚は満足げに喉を鳴らした。
羽根の生えていた場所も、桃色の柔らかな体毛が他の部分と全く同じように覆っていて、それがかつてはそこにあったことを示すものは何一つ残っていなかった。
それから今に至るまで羽根はどこかに消えてしまったまま戻ってこないけれど、ピンクは相変わらず元気で、こいしの手からこりこりと気持ちの良い音を立ててとても美味しそうにとうもろこしを食べる。
私も時々やらせてもらうのだけれど上手くいった試しがない。
ほとんど毎日のように古明地の庭で遊んでいる私たちが気になるのか、時々さとりがおずおずと庭に出てくるようになった。
彼女の目の下には大きな隈があって、その足下は少しふらついているけれど、酒の臭いはそれほどしない。
こいしは満更でもなさそうにしている。
豚が地底の空を飛ぶのをやめた後で、私たちの身に起こっているのはそういったことだ。
それで十分じゃないかと私は思う。
例えば姿勢。
毎日ぼんやりと上空の翼を持った豚を眺めているうちに、長い年月をかけて醸成されてきた私の猫背はいとも簡単に直ってしまった。
案外あっけないものだ。
一度直ってしまったものをわざわざ元に戻すのも馬鹿げていたし、私はそのまままっすぐな背骨とそれに付随するささやかな特典(肩こりの解消だとか)を貰い受けることにした。
それから生活リズム。
陽の差さない地底において、時刻なんてものはあってないようなもので、大抵の者は好きな時間に起きて好きな時間に活動している。
もちろん私も例外でない。
橋守りなどというのは、はっきり言って閑職だ。
それも最近は特に。
地上との交流が多少なりとも復活した以上、地下から誰かが上に行こうが私の知ったことではない。
逆に地上から誰かが降りてきたとしても、もう追い返す必要がないのだからこれまたどうでも良い。
とりあえず私が少々サボったからといって誰かが困るような仕事ではない。
というより、最近やたら幸せそうに橋を渡っていく奴が多いので鬱陶しいのだ。
しかも大抵私より強い。
そういうわけで毎日起きてぼんやりしてから、適当に人が来なさそうな時間帯を見計らって橋に向かっていたのだ。
少なくとも先々週くらいまではそうだった。
しかし、豚の出現以降、私はそれが空を飛んでいる間、ずっと橋に縛り付けられてしまうことになった。
橋からは豚の姿がよく見えたし、それに屋外で私が毎日何時間も立っていても不自然でない場所といえば、自分自身の領分であるこの橋の上しかない。
豚を見に行くためだけに私は毎日決まった時間に起きて橋に出向き、家に帰ってからも翌朝ちゃんと起きるために深酒を断った。
ちょっと信じられないような話だ。
また、そういったことは私の精神面にも一定の影響を及ぼした。
何か腹が立つことが起こっても、それを考えなしに吐き出すのではなく、己の内側に一旦持ち込み時間をかけて無害なものへと変化させてから体の外に出すことができるようになった。
ヒステリックに叫び散らしたり、癇癪を起こして誰かに掴みかかるようなことも、まずなくなった。
数少ない知り合いたちはそうした私の挙動を見て少なからず驚いたし、私が何か企んでいるのではないかと露骨に尋ねる者さえいた。
腹立たしいが、気持ちは分からなくもない。
まあ、大体これらが私の身に起こったことである。
要するに、完全に参ってしまったのだ。
空を飛ぶ豚に。
§
変わらぬ地底の薄暗い情景、奥へ奥へと連なる家屋の向こう側から、今日もまたゆっくりと白い翼が覗く。
私は橋の手すりに体重を預けて、水筒の麦茶を飲みながらそれを見ていた。
桃色の体は暗い地底の空で奇妙な輝きを放っている。
白い翼が羽ばたく度に周囲の空気が僅かに揺らめいた。
もはや見慣れた光景だけれど、見飽きることはない。
羽の付け根は折れそうなほど細くて、針金のように豚の背中から飛び出していたが、先端の方は豊かな羽毛が分厚く彩り、豚の体を支えるだけの十分な力強さがあった。
ごく単純に言ってそれは立派な代物だったし、また、体躯や翼の先端の豪奢さに比してのその付け根の過剰な繊細さのせいで、豚のシルエットは単に立派という以上に、何かこの世のものではないような神秘性をも獲得していた。
ただ、実際にそういったことが私を惹きつけているのか、あるいは毎日ここに来て豚を見るという行為自体が私を惹きつけているのかは、はっきり言って自分でもよく分からなかった。
例えば気球だったらどうだろう?
空を飛んでいるのが気球だとしたら。
私は黙って頭を振った。
気球を見たのはずいぶん昔のことだけれど、だからといってそんなものぐらいで私の心は揺らがないと思う。
たぶん。
独りで黙って立っていると、時折ぬるい風がどこからか吹いてきた。
地底でどうして風が吹くのだろう?
でも、とにかくそれは起こるのだ。
私の知ったことではない。
左手に持っていた水筒からまた麦茶を一口飲んだ。
ついでに小さな羽虫がその手の甲についているのを見つける。
もう片方の手で水筒に栓をしてから、虫を指でつついて追い払おうとする。
虫は糸のような足に力を込めて踏ん張っていたが、やがて私の爪に負けてうんざりしたように飛び立った。
その行き先を目で追おうと、ほとんど無意識に顔を上げると、そこに彼女はいた。
「ハロー」
私よりも頭半分だけ低い位置でくすんだ色の癖っ毛が揺れている。
彼女のおでこが私の鼻にくっつくような距離だ。
「おはよう」
驚いたことを教えてやるのが癪で、仏頂面を努力して保ったままで答える。
取り繕っても無駄だったか、と一瞬悔やんだすぐ後で、そういえばこの子は瞳を閉じたんだったと思い至ってこっそりと安堵する。
彼女はそんな私のあまり褒められたものではない内面を知ってか知らずか、後ろ手に組んでにこにこと黙ったまま私の顔を眺めている。
私は橋にもたれていた体の重心をぐいと右にずらしてから、気取られないように一歩二歩と距離を取った。
こんな容姿でも、この妖怪がその気になれば私を叩きのめすことなど容易い。
顕現する事物が、どれほどその本質とかけ離れているのかということを、ある種の心の動きを操る私は嫌というほど知っている。
それを手に取るように視ることが出来た彼女にしても、やはり同じはずだ。
「悟り妖怪さんが私に何か用?」
「こいしだよ」
「知ってるわよ」
こいしは後ろ手に持っていた黒い帽子をぽんと自分の頭に被せた。
いつも思うのだけど、地底で帽子を被るのに何の意味があるのだろう。
そうぼんやりと思っているとこいしは口を開いた。
「いつもここで豚を見ているんだよね。知ってるよ、私」
沈黙。
彼女の声から揶揄の響きは聞き取れなかったが、それでも私は表情を変えないように全神経を払った。
こいしは私の顔を見て首を傾げた。
私が何も答えずにいると、こいしは痺れを切らせたように再び口を開いた。
「誰もが気がついている訳じゃないんだよ。地底で空を見上げるなんてことに、普通なら何の意味もないからね。そして気がついたとしてもそんなこと人には言わない。豚が飛んでいるだなんてさ。馬鹿げてる。ね?」
一息をついて、こいしは右手を橋の手すりに這わせた。
話している間も体勢を変える間も、彼女の目は一時も離れずに私の両目をのぞき込んでいて、そのことが私をずいぶん落ち着かなくさせた。
こいしは再び口を開く。
「もしもそれが自分にしか見えていない幻だったらどうしようってね。他人に笑われて、陰で気違いだって触れ回られたらどうしようって。ここは本当に狭い世界だからね。そうなったら逃げ場がない。みんなそっちを考える。で、そういう危険に比べたらさ、空に何が飛んでいようが別にどうでも良くなっちゃうんだね。別に悪さをするわけでもないしさ。だけど、そうやって知らんぷりをしているうちに本当に目に入らなくなっちゃうんだ、これが」
こいしは一気にまくし立てた。
私は我慢ができなくなって遂に口を開いた。
「だけど、あれは実際に飛んでいるでしょう。幻なんかじゃない。誰だってそれくらいのことは分かる」
私はまさに羽を広げて地底の天井近くまで昇ろうとしている豚を指さした。
こいしはにっこりと笑って言った。
「うん。でも、あなただって人には言わなかった。そうでしょう? 今だってさ、私が豚の話をしても途中まで何のことか知らないって顔してたよね。そういう風にさ、誰にも語られない物事は少しずつ現実性を失っていくんだよ。この世界から居場所を失って、ちょっとずつ人々の無意識の中に溶けていくんだ」
言葉に詰まって、私はこいしを睨む。
でも、彼女の言っていることは至極まともだった。
「ねえ、でも、本当にいるのよね?」と私は訊いた。
「もちろん。ちゃんといるよ。あなたの気が狂っている訳じゃない」とこいしは言った。
私は頷いた。
私たち両方ともの気が狂っている訳じゃなければね、と思ったけれど、もちろん口には出さなかった。
そんな私を見てもう一度にっこりと笑い、こいしは手に持っている水筒から麦茶を飲む。
……私の水筒だ。
いつのまにか私の右手からはすっぽりとそれが消え失せていた。
おまけに、これもまた知らぬ間に、私の頭にこいしの帽子が被せられている。
自分の顔が赤くなるのが分かった。
「ねえ。ほんと、そういうのやめなさいよね」
こいしはくすくすと笑ってごめんと言った。
私は水筒を取り返して代わりにこいしの頭に帽子を被せた。
ぐいと一息で残りを飲み干してから、こいしを睨む。
「それで? わざわざそれだけを言いに来たわけ?」
「うーん、違うかも」
「じゃあ、なに」
「日食を見に行こうよ」
「はあ?」
§
鬼やら物の怪やらの有象無象がとぐろを巻いて連なりあって、それらを取り巻く食物、臓物、糞尿、酒の臭いが渾然一体となり形容しがたい異様な熱量を放っているのが旧都の市街である。
あまり好きにはなれない。
好きになれないのだがもちろん地底で暮らす以上は、金銭的物資的人脈的すべての面において、この地を蔑ろにしてはまず生活が成り立たない。
そのため、私もまた結局のところいつまでもこの吹き溜まりのような一角を中心として暮らしている。
「何買うのよ」
傍らのこいしは肩から下げた小さな鞄からがま口を取り出して、中の小銭を検分していた。
誰かとここを歩くのはずいぶん久しぶりな気がする。
「お弁当とおやつ」
「ふうん」
「今日は私お金持ちだよ? なんか買ったげようか」
「いらない」
それでもこいしは駄菓子屋の奥から綿菓子を2本持って出てきた。
「……ありがと」
「どーいたしまして」
二人で綿菓子を舐めながらしばらくふらふらと市街を歩く。
こいしは鞄から冊子を取り出して読んでいた。
「何それ」
表紙をのぞき込むと毛筆の綺麗な字で「よいこの日食観測」と書かれていた。
「地上で学校の先生が配ってた」
「あんたそんなとこまで出入りしてるのね」
私は感心して口の端についた砂糖の欠片を袖で拭った。
「日食とは太陽と地球の間を月が通過することによって、地球から太陽が欠けて見える現象のことであり、食の程度により部分日食、金環日食、皆既日食などに分類される……知ってた?」
「今知った」
「貸したげるから勉強したら」
こいしは得意げな顔で私の手に冊子を押しつけた。
その口の端が砂糖だらけだったので指摘すると、彼女は私を睨んで口を拭った。
月と太陽と地球の位置、観測する地点の緯度や経度によって観測される日食の種類は変わり、今日幻想郷の地上で見られるのは最も珍しい皆既日食だ。
新月が太陽の前をゆっくりと通過し、何十秒かの間それは完全に太陽を覆い隠してしまう。
次にこの現象を観測できるのは約三百年後のことであるため、今回を見逃すと次はない。
生徒諸君はこの機会に是非見ておくように。
と「よいこの日食観測」において上白沢慧音女史は述べられている。
紛れ込んでいる変わり者の悟り妖怪を除いて、生徒たちはみんな人間なのだろう。
私は歩きながら、女史の几帳面な人柄を窺わせるガリ版刷りのページを繰った。
その時、何かが私の袖を引っ張る感触があって、けれど振り向くと誰もいない。
……あれ?
何かを忘れているような気がする。
「おい、パルスィ」
正面から聞き覚えのある声がして振り返ると、主は顔馴染みの鬼だった。
ぷんと鼻にくる熟柿のような臭いに思わず顔をしかめる。
「人を見てそんな顔をするなよ。私のことが嫌いか?」
「別に」
「ほう。じゃあ何でお前は私を見てそんな糞を喰った様な顔をするんだろう」
「酒臭いのよ」
「正直でよろしい。だがわざわざここまで来ておいて呑まずに帰る道理はないぞ。どうだ、お前も一杯」
周りを見渡すと確かに市街の中でも随一の呑み屋の密集地で、どうやら私は冊子を読みながら歩いているうちに、知らずここにたどり着いてしまったようだ。
ただ、確かに酒呑みに絡まれても仕方のない状況ではあるけれど、私の目指しているのはあくまでこの通りの向こうにある食品街だ。
……なぜだか理由を思い出せないけれど、そうだったはずだ。
「また今度ね」
何はともあれすげなく断った私に向かって、鬼はわざとらしく鼻を鳴らした。
「つくづく付き合いの悪い奴だな。まあ、じゃあ、また今度」
そう言って私の肩を叩き、案外すぐに諦めて鬼はまた酒の海へと帰っていった。
「どうしてあんなに四六時中呑んでられるんでしょうね」
「外で呑んでるだけマシだよ」
独り言のつもりだったのに、傍らでいきなり暗い声がして驚いた。
こいしが帽子を手に持って俯きながらいじっていた。
私は呆気に取られてこいしを見つめた。
動悸を抑えるために何度か深呼吸をしなければならなかった。
おかしな事がいくつも起こっていた。
例えば、今、私はこの子の存在を忘れていた。
その直前まで彼女と会話をして、しかも彼女に渡された冊子を読んでいたというのに。
例えば、今の鬼はこいしにまったく気がつかずに去っていった。
知っている顔なら無差別に声をかける鬼が。
例えば、いつもならばもっとしつこい絡みが、今日に限っては妙にあっさりしていた。
馴れ馴れしくふてぶてしいあの鬼が。
どれもほとんどありえないことだ。
くじびきのくじの先端がが私に向けて突き出されていた。
当たりか外れか、その色は引いてみなければ分からない。
試してみる価値はあるかもしれない。
「なんで?」
「……」
「別に嫌なら言わなくて良いけど」
暗い顔をして黙っていたこいしは、ややあってぶっきらぼうに呟いた。
「お姉ちゃんがキッチンドリンカーなんだよ」
「……」
「ずっとお酒飲んでる。ペットも困ってる。でもふらふらしてる私にあれこれ言う資格なんかないしさ」
それだけ言ってこいしは俯いた。
幾つかの物事がパズルのピースのように音を立ててはまり、一つの形を示した。
当たりか外れかはともかく、くじびきの結果は出た。
言うべきことは何一つ見つからなかったし、それに何となくそうした方が良いような気がして、こいしの小さな肩に手を回してやる。
彼女もそれ以上何も言わず、俯いたままで私の腕の中に隠れるようにして歩いていた。
まるでただの傷つきやすい少女のようだった。
私たちはそのまま酒の匂いに満ちた通りを息を潜めてすり抜けていった。
めぼしい店で弁当(松竹梅の竹)を調達する。
おまけに新商品の甘味がついた。
水筒に水を詰め直す。
二人分の弁当を一つの袋に入れて肩から下げ、私は訊いた。
「それで、どうやって地上まで出るのよ」
え、と言って驚いたような表情でこいしはこっちを向く。
私は手の平を上に向けて両手を上げた。
「え、じゃなくて。こんな荷物持って飛んでいくの?」と私は言った。
「そりゃあ、もちろん豚に乗っていくんだよ」
こいしは如何にも当然という風に答えた。
「はい?」
「当たり前じゃん。何のための豚だと思ってたの?」
知ったこっちゃない。
§
市街を抜けてから、人気のない開けた場所を見つけてこいしは豚を呼んだ。
呼んだと言っても大声を出したり笛を吹いたりしたわけじゃない。
目の前にいる相手に向かって話しかけるようなごく普通の声でこいしは言った。
「ピンク、おいで」
ピンク、というのが恐らく豚の名前であるということに私が思い至った頃には、既にそれは猛烈な速さで音もなくこちらに向かって飛んできていた。
「え、ちょっと、うそ」
「大丈夫だからじっとしてて」
あっけに取られている間にそれはぐんぐんと視界の中で大きくなり、あっと言う間に私たちの真上にやってきた。
羽を大きく羽ばたかせて滑らかに着陸しようとする。
羽から繰り出される風圧を、手で瞑った目を覆ってやりすごす。
目を開けたとき、私の目の前にはほとんど夢にまで見たあの豚がいた。
豚は鼻を鳴らして前足で地面を軽く引っかいた。
私は首を振って小さく溜め息をついた。
それは今まで見たどんな生き物よりも鮮やかな輪郭を持っていた。
それ自体が薄い光の膜を纏って、周りの空気から僅かに浮き上がっているようにさえ見えた。
肌はきめ細かく清潔で、大きな背中からあの美しい白い羽が生えていた。
生きて、呼吸をして、私の目の前にいた。
ゆっくりと羽が上下して、暖かく柔らかい風が立った。
私は乾いた唇を確かめるように舐めながら、何度か頷いた。
そうせずにいられなかった。
やがてその広い背中に小さな手を置いて、こいしは私に向かって得意気に言った。
「ピンクだよ」
「そうらしいわね」
§
私たちを乗せてピンクは地底の空き地から飛び立った。
助走する間も飛び立つ瞬間も豚の背中の上はぐらぐらと揺れて、振り落とされないように私は前に座っているこいしの細い腰にしっかりと掴まっていなければならなかった。
自分で飛ぶのとはずいぶん勝手が違う。
しかし一度飛び立ってからは嘘のように快適で、おかげで私は顔を右に向けてみるみる小さくなっていく地底の情景を見ることが出来た。
なかなか良い眺めだった。
橋の上空を抜けてピンクは地底を地上を結ぶ縦穴へと一直線に向かっていった。
点のようだった外の光がどんどん大きくなっていく。
「目を瞑って」
首だけをこちらに捻ったこいしが、羽の音にかき消されないように大声で叫んだ。
「分かってる」
怒鳴り返して目を固く瞑る。
まもなく閉じた目蓋をこじ開けるような光の奔流がやってきた。
§
涙が溢れる。
頭が痛い。
「目、開けてらんないんだけど」
「目薬持ってるよ」
「ちょうだい」
手渡された瓶の口を捻り開けて、目の上に適当に垂らす。
三度の誤射の後でようやくちゃんと目に入った。
しかしそれは表面に少しの清涼感だけを残しただけで、あえなく涙に流されて目から出ていってしまう。
「あー……」
地上だった。
あれだけ遠く感じていたのに、いざ来ようと思えばこんなに簡単に来ることが出来る。
その事実がひどく滑稽に思えた。
緑の匂いのする穏やかな風が吹いた。
「時間は大丈夫?」
「あと一時間ってところかな」
むちゃくちゃにのたうつ光の中でこいしが時計を懐から取り出して確認するのが何とか視認できた。
無理に目を開いていたらまた涙が出た。
じっくりと時間をかけて目を慣らしているうちに、少しずつ周囲の状況が見えるようになる。
私たちがいるのは背の低い草むらの上で、片方は山が、もう片方は遠くに人里が見える。
こいしは時計を懐にしまって腰を下ろした。
私も近くに座る。
後ろではピンクがむしゃむしゃと草を食べていた。
「ねえ、こんなの食べさせていいの?」
「うーん、大丈夫じゃない? 一応ごはんは持ってきてあるけど」
そう言うとこいしは鞄の中から緑の葉に包まれたとうもろこしを取り出した。
豚は目ざとくそれを見つけてこちらに歩いてきた。
「あんた、ほんと何でも持ってるのね」
私は感心して鼻を鳴らした。
「飼い主だもん。当たり前だよ」
こいしは葉を剥いて黄色い実を露出させたとうもろこしを横向きに両手で構えた。
ピンクがそれを食べるのに合わせてくるくる回す。
こりこりと気持ちの良い音が響いて、3周ほどでとうもろこしは綺麗に芯だけになった。
こいしは満足した顔で芯を草むらに放った。
私は肩から弁当を下ろして伸びをする。
面白いくらいに全身の骨が鳴った。
「もっと人がいると思ってたんだけど」
「いるところにはいるよ」
「ふうん」
水筒に直に口をつけて飲む。
当たり前の水が、何とはなしに美味く感じられた。
こいしはにっこりと笑ってぱんと胸の前で両手を合わせた。
「さあ、お昼にしよう」
§
日食は私たちが弁当をあらかた平らげた後で、おまけについていた甘味をああだこうだと品評しながら食べている時に始まった。
正確にはもう少し早い時間に始まっていたはずだけれど、少なくとも私たちがそれに気付いたのはその時だ。
こいしが箸で私の肩越しに太陽を指したのとほとんど同時に、私も振り返ってそれを見ていた。
空気の温度が見る間に下がって、あらゆるものの輪郭がいつもと違う、艶のある鈍い光を放った。
ピンクはすんすんと鼻を鳴らしてから太陽の方を向いて飛び上がった。
その風圧が弁当の蓋を吹き飛ばしてしまったけれど、私たちは何も言わなかった。
それが起こっている間、誰一人として言葉を発しなかった。
身じろぎもしなかった。
息さえしていたか怪しいくらいだ。
食われていく太陽が、地上から光だけでなく音さえも持ち去っていくように思えた。
硬直した世界の中で豚だけが悠然と空を飛び回っていた。
月が太陽を完全に覆い尽くす直前、それらの重なり合う輪郭が目映いばかりの光を放った。
そして、地上から光が消えた。
§
光とピンクがほとんど同時に地上に戻ってきて、私たちも甘味を食べる作業に戻った。
「見に来て良かったでしょう?」
こいしはあんこを頬につけたまま上気した顔で言った。
「うん」と私は言った。
豚が歩いてきて湿った鼻先でぐいぐいとこいしの耳を押し、あんこのついた頬を舐めたので、こいしはくすぐったそうに笑って身を捩った。
「良かったわ」と私はもう一度言った。
「ね」
「でもあんた、さとりを連れてこなくて良かったの?」
要らないことを言わなければいいのにと自分を呪いながら私は訊いてしまう。
これで私も結構興奮していたのだ。
こいしは途端に能面みたいな表情になって黙って首を振った。
「つまらないこと訊いた?」と私は慌てて言った。
「どっちかというと逆」とこいしは言った。
「ごめん」
「別に」
重い沈黙が流れて、その間もずっと私は自分を呪い続けていた。
呪詛の言葉は尽きる様子がなかった。
「じゃあ、次はお姉ちゃんと見に来るよ」
しばらく経ってからこいしは帽子を脱いでぽつりと言った。
「次っていつだっけ」
「うん、えーと……300年後くらい?」
「ずいぶん気の長い話ね」
こいしは帽子を両手で掴んでうーと唸った。
その仕草が面白くて、思わず私は吹き出してしまう。
「あ」とこいしが言った。
「なに?」
「笑ってるところ初めて見た」とこいしは途端に表情を変え、にこにこと笑って言った。
私は鼻を鳴らして返事の代わりにその顔を思い切り睨みつけてやった。
けれどやっぱりそれだけじゃ駄目だと分かっていて口を開く。
「でも、誘ってくれてありがとうね」
「どういたしまして」
太陽がたった数分間隠されることが、地底に暮らす私たちにとってそれほど大きな意味を持つとは思わない。
だけど、天体のちょっとした気まぐれを見るためだけに私たちは地上まで上がってこられるようになった、そのこと自体にはとても大きな意味がある。
日はまだまだ高く、日差しは帰るのが惜しく思わせるほどには心地よくて、私たちは草の中に寝転んでいつまでも地上の音に耳を澄ませていた。
§
数日経ったある日、こいしは橋にやってきて私に悲しそうに言った。
「ピンクの羽が消えちゃったんだ。きれいさっぱり」
慌てて一緒に古明地邸に行くと、確かにこいしの言う通り、ピンクの背中からはあの美しい羽が跡形もなく消え失せていた。
それでもピンクは私とこいしの姿を認めると軽やかな足取りでこちらにやってきて、二人の手の平を交互に舐めた。
背中を撫でてやると豚は満足げに喉を鳴らした。
羽根の生えていた場所も、桃色の柔らかな体毛が他の部分と全く同じように覆っていて、それがかつてはそこにあったことを示すものは何一つ残っていなかった。
それから今に至るまで羽根はどこかに消えてしまったまま戻ってこないけれど、ピンクは相変わらず元気で、こいしの手からこりこりと気持ちの良い音を立ててとても美味しそうにとうもろこしを食べる。
私も時々やらせてもらうのだけれど上手くいった試しがない。
ほとんど毎日のように古明地の庭で遊んでいる私たちが気になるのか、時々さとりがおずおずと庭に出てくるようになった。
彼女の目の下には大きな隈があって、その足下は少しふらついているけれど、酒の臭いはそれほどしない。
こいしは満更でもなさそうにしている。
豚が地底の空を飛ぶのをやめた後で、私たちの身に起こっているのはそういったことだ。
それで十分じゃないかと私は思う。
この優しさを肖って生きて行きたい。そう努力したい。
長久手さんに感謝を。
とてもふわふわしているお話でした
ピンクの体毛みたいなふわふわ
特に、奔放に振舞うこいし、陰鬱な気があるパルスィが、「日食」を通じて触れ合う様が好みです。
一見相対する二人の性質が互いに影響されて、少なからず変化をもたらした様に思えます。
お姉ちゃん元気になったらいいね なるよね
奇妙な情景と落ち着いた文章、ほのぼのだけれどもどこか不気味な雰囲気が実に魅力的でした。
冒頭が好き。
狂気日食なラストじゃなくてほっとしたり いや 調和が狂わされた故の変化なのかな
パルスィの「うん」が猛烈に好きでした、悶える
不思議な味わいの話でした。
よくわからない内容だったのに、何故か引き込まれました。
豚のピンクが好き。
その虜になりそうです。
それなのに安定しているのが不思議。