今日はどうやら雨のようだ。
因幡てゐは自分の持つ蔵へと潜り込む。ここにはてゐが集めたいろいろなものが置いてあり、いたずらのための道具から、使い方のよく分からないがらくたまで数多くの物が眠っている。整理はされており、どこに何があるのかをてゐは完全に把握している。
今日はちょっと良いことがあるかもしれない。
そんな気がしただけだが、楽しそうな気配を感じたら全力で相手をするのが長生きの秘訣だ。そんなことを考えながら目的の場所へと辿り着く。目当ての物があるのを見てうなずく。それらを幻想郷で見ることは珍しくもないが、それ自体は珍しい。
すなわち、酒であり、それも外の世界の酒だ。
棚の奥に置いていたので潜り込まないと取れない。楽しそうな気分のためか、棚からはみ出したお尻としっぽが左右に揺れている。
やがて中から一つの瓶を取り出して満足する。
『隠岐誉』今日はこれを呑みながらその時を待とう。
今日は雨が降りそうだ。
雨の日は調子が狂う。
藤原妹紅はそう思った。特に急ぎの用事というわけではないが、今日は人里に下りて食料品などを買いに行こうと思っていたのだ。すぐさま買いに行かなければ食料が底を尽きると言うことはないし、こちとら別に餓死しても復活する蓬莱人だ。必死という言葉ほど虚しく響くものはない。
それでも買い物に行こうと思っていたのは先日酒を切らしていたからだった。永遠を生きる蓬莱人だからこそ刹那の楽しみを得る酒はお手軽な娯楽だ。そもそも酒を切らしてしまうと輝夜との殺し合いの後に呑むものがない。勝利した後の美酒もなければ負けた時に呑む自棄酒もないのなら殺し合いの後が少し寂しくなる。こんなときに輝夜が殺し合いに来たらどうしようかと考えていると玄関の扉が叩かれた。
はてこんな雨の日に誰だろうと、玄関まで歩いて扉を開ける。
扉の先には蓬莱山輝夜が立っていた。
どうも雨の日は調子が狂う。
雨が降っている。
朱色の盆に酒瓶と徳利と御猪口を載せ、雨音以外聞こえない静かな廊下を歩いていく。ここで良いかと庭に面した縁側に腰掛けて、霧雨に霞む竹林を望む。広がる庭は別段手入れが行き届いた立派なものではなく、剥き出しの土にしとしとと雨が染み込んでいる。
しばらくはその景色を見るともなしに見ていたが、おもむろに酒を徳利に移すと、妖気で軽く温める。妖術などは得意ではないが、長く生きていればこれくらいはする。軽く燗した酒を御猪口へと注いで、さて呑もうかというところで雨音に足音が混じった。
「貴女がこんなところで一人なんて珍しいわね、てゐ」
否、混じったのは足音だけではなかった。白いワンピースの少女の頭上で、彼女が何の妖怪であるのかを象徴する耳がぴくりと動く。邪魔をされたからか険のこもった視線を投げ掛けると、視線の先には赤と青で出来た服を着た銀髪の女性。
「雨の日に酒だなんて風流なことね」
女性‐八意永琳‐は睨まれたことなど気にもせず、そんな感想だけ述べて廊下を通りすぎっていった。永琳が居なくなってからもしばらくそちらを睨み付けていたが、やがて庭へと視線を戻す。
縁側から見る光景には雨が降っている。
それを確認すると、お猪口の酒を呑み干した。
雨に濡れていた。
玄関の扉を開けた時に抱いた感想はそれだった。華美に着飾っているというわけでもないどことなく上品なその着物も、手入れの行き届いた黒く美しい長い髪も、透き通るように白く、滑らかな肌も、その全てが雨に濡れていた。
蓬莱山輝夜を見た藤原妹紅の感想はそんなものだった。
「えへ、来ちゃった」
第一声はそれだけ、照れたようにはにかむ笑顔は、それが本性ではないと知る妹紅にさえ可愛さを感じさせるものだった。
いや、と思い直す。輝夜が美人であることなどとうの昔から知っている。過去五人の貴族から求婚された娘なのだ。美しくないはずもない。
だがなぜ今更こんなことを思ったのかと考えて、気付いた。輝夜からはいつものような敵意や殺意を感じないのだ。その分観察する余裕ができているせいだ。
「どうしたの?」
少し考え込んでいたようだ。意識を輝夜に戻すと、彼女は相変わらずそこに居て、相変わらず、濡れていた。いつもと違うお前に見とれていた、なんて言えるはずもなく、何と答えたものかと考えて
「まぁ、とりあえず、入れよ」
言葉にできたのは、これだけだった。他に何と言おうとしていたのかも思い出せず、輝夜の為に手拭を用意して家の中に招き入れる。
玄関に立つ輝夜の足元は雨に濡れていた。
雨は降り続いている。
二杯目の御猪口を空ける頃には、徳利は冷えてぬるくなっていた。冷やと言うほど冷えておらず、非常に中途半端な温度だ。いちいち燗をするのは面倒だ、などと思いながら徳利を再び温める。
「良かった、まだ居たわ」
先程と同じ声がした。徳利を温め終わると同時に横に何かが座る気配。そちらを横目で見ると、青い瞳と目があった。
「良い場所ね、ご一緒させていただいても?」
見ればてゐと同じように朱の盆に酒と徳利を用意している。違うのは御猪口ではなく杯だということくらいだ。
勝手にしろ、と三杯目の酒を注ぐ。別に許可が必要な訳じゃない。どけと言われれば文句は言うが、そうでないなら好きにすればいい。
来たのが輝夜なら少し考えたかもしれない。彼女は風情を解する割には普段が騒がしすぎる。この静けさを壊すような不粋は輝夜もすまいが、月人の考えることはいまいち分からない。
永琳ならば大丈夫だろうと思うのは勝手に感じる親近感だろうか。と、曇った空を見上げても答えが書いてあるはずもなく、御猪口に注いだ故郷の酒をゆるりと両手で口へと運ぶ。
雨はまだ、降り続いている。
雨は見えない。
ひとまず玄関に上げたのは良いのだが、どうしたものかと思う。殺し合いでないならば何をしに来たのかわからないというのも変な話だが、それ以外に二人の関係性なんてない……と、思う。
「とりあえず、服を脱いで体を拭けよ」
手拭いを渡して自分は着替えを取りに奥へと戻る。
普段は別段気にしないが、輝夜に見合うような服などないことに少し悔しさを感じる。あったところで自分には似合わないし部屋の片隅で腐るだけなのは承知しているが、こんなことがあるなら一つくらい用意しても良いかもしれないと考えた自分に驚いた。とりあえず、一番ましな服を見繕って玄関に持って行く。輝夜の着ているそれよりも随分と格は落ちるが、これでも持っている中では上等なものだ。
玄関に引き返して目に入ったのは全裸で髪を拭く輝夜の姿だった。玄関をなるべく濡らさないためか、立ち上がったままだ。さらに長い髪を片手で支え、もう片方の手に持った手拭いで拭いているため、裸体が惜しみなく晒されている。本来隠されるべきはずの部分が外気にさらされているというのにあくまで落ち着いて上品に髪を拭く姿を見ていると、間違っているのはこちらではないかという気さえしてくる。
「お前な、少しは恥じらえよ」
殺し合いがら互いの裸身など見慣れているが、輝夜はやはり綺麗なのだ。白い肌というか、きめ細かな薄い肌色で構成されたスリムな身体はたとえ同性であっても美しいと思う。いやむしろ同性だからこそその体つきの良さが分かるのか。
「いいじゃない、見慣れてるでしょう?そんなことより……お酒、持ってきたの」
輝夜は笑顔で笑うと濡れた服と一緒に傍に置いた袋を指差した。
そのためにこの雨の中家まで来たのかと、あきれて空を仰ごうとしたが、家の中からは雨は見えなかった。
雨の香りがする。
雨が降る日や降りそうな日、そんな日にはこんな匂いがするもんだと、四杯目を呑みながら思う。もっともだからどう、というわけでもない。雨の日に酒を呑むから雨のことを考えただけ。雨は少し強くなった気がする。縁側から見える竹林が、先程までは霧雨の中に見えたはずが、今は雨の隙間に緑の色を映すのみになっている。
「それ」
しばしの静寂を破って声がした。とくにそちらを向くことはないが、耳を動かして聞いていることをアピールする。
「いちいち温めなくても保温の妖術でも使えば良いのに」
あなたならそんなことくらいできるでしょう、と少し楽しそうな声で言われた。いちいち徳利を温めるてゐが気になっていたのだろう。おかしそうに笑う気配すらする。
こいつはまるで分かっていない。温めたものは自然と冷める、あるがままに任せるからこそ風流なのだと、さきほど面倒くさいと思ったことなど棚に上げて五杯目の為に徳利を温めなおす。が、すぐに徳利にもう酒が少ないと気付いて酒瓶から酒を足す。
図星をつかれてあわてた訳じゃない。こうなれば意地でも保温などしてやるもんか。顔が熱いのは酒のせいだ。四杯目を飲み干す。今日は雨だからじきに冷めるだろう。
酒の香りに混じって、やはり雨の香りがした。
雨音だけが響いている。
着替えた輝夜はやはりどこか気品がある。自分で着てもこうはいかない。ここまでくれば服ではなく本人の質だろうと半ば諦めたような気持で納得した。そういう人間というものが居るのだろう。自分がそうでないからといって羨んでも仕方ない。
「服は乾かしておくよ」
火を使うのに特別なプロセスは要らない。こういう時にはこの体も便利なものだ。雨で気温が下がっているから暑くなることはないだろうと、冬以来めったに使わない火鉢に火をつけ輝夜の服を傍に置いて乾かす。
「どうせ帰りには濡れるわ」
なんとも輝夜らしい話だとは思うが、雨はやむかもしれない。それに服を着て帰られるのも困る。まさか全裸で外に放り出すわけにもいかないだろう。そんなことを言おうとして、諦めた。どうせこいつには通じない。そう思うと、言おうとした言葉を飲み込んで輝夜の座る卓袱台に向かう。
三人くらいなら使えそうな小さな卓袱台ごしに対面し、輝夜が用意した酒を注ぐ。家にある御猪口が二つ。輝夜にも注いでやるべきだろうかと思ったが、そんな仲でもないだろうと自分のだけにとどめた。見れば輝夜も自分で注ぐことに不満はないようだ。どうやらこれで正解らしい。
音頭もなしにめいめい呑み始める。好きな時に酒を呑む、好きな時に酒を注ぐ。
会話はない、むしろ何を話せばいいのか分からない。
しばらくしただろうか、突然に輝夜が口を開いた。
「私の持ってきたお酒、気に入ってくれた?」
瞬間、動きが止まる。さて、どう答えたものかと沈黙に耳を傾ける。
雨音だけが響いていた。
雨はまだやまない。
酒瓶から徳利に酒を移すのもこれで四度目。徳利をまた温める。人間でいうところの人肌燗だ。ウサギの体温はそれより少し高いために人間だとぬる燗くらいか。正確な温度は測っていないからその時々によってばらつきはあるが、これはこれで楽しみもある。やはり保温なんて無粋なのだ。月の頭脳も大したことはない。
「付き合ってもらってありがとうね」
横を見ると永琳がこちらを見ていた。別に付き合っているつもりはなかったのだが何も言わないでおく。なぜか感謝までされたが、永琳に恩を売っておいて損はない。例え相手の勘違いだとしてもだ。
「輝夜も妹紅のところに遊びに行っちゃったしね」
それで持て余した暇をつぶしに来たということなのか。或いは他に理由があってか。それこそどうでも良い話ではあった。
それにしても永琳は酒のペースが早い。そばにあるのは『天の戸』の瓶。一升瓶のはずなのだが、中身は既に半分ほどに減っている。酒は百薬の長かもしれないが万病のもとでもあるのだ。健康マニアとして信じられない。
「もう少しだけ付き合ってもらえるかしら」
勝手にしろ、と耳を動かして了承の意だけ伝える。通じたかは分からないが永琳は気にしないだろう。もとよりもう少しここで酒を呑んでいるつもりだ。永琳だってそうだろう。結果が同じならこの天才には同じことだ。
どのみち雨は、まだやまない。
雨音が弱くなった。
そう感じたのは気のせいかもしれない。輝夜の息づかいとか、御猪口が机に置かれる音とか、そんな音もあったんだと、静寂の中で気付いたからそう感じただけかもしれない。
酒は旨かった。辛口で、味のはっきりとした酒。喉に残るようなこともなく、すっきりとした味わいは、私の好みに凄く合う。ただ、素直に答えられない理由が二つ。
確か輝夜は甘口の酒を好んで呑んでいたはずだ。私の好みを教えた記憶はないから好みに合ったのは偶然だろう。わざわざ辛口を持ってきた意図が分からない。
そしてもう一つ、『蓬莱』という名前。ここに複雑な気持ちがある。今更蓬莱の薬に思うことなど尽きているが、今呑んでいる酒がその名を持ち、そして好みに合うとなれば、なんというのかうまく言い表せない気持ちになる。
「どうしたの?そんなに見つめて?」
知らず、輝夜を凝視していたらしい。そんなことをしても意図なんて分かるわけもないし、意図なんかないのかもしれない。現に目の前で小首をかしげている輝夜の顔からは何も読みとれない。結局思惑を知るのは諦めた。今日は諦めることが多いな、などと思いながら素直に感想を告げる。
「いや……うまいよ、この酒」
「そう……」
また、沈黙が降りる。続ける言葉も思いつかず、手に持った御猪口から酒を呷る。
空になった御猪口を片手に耳を澄ますと、確かに雨音は弱くなっていた。
雨がやんだ。
縁側から見える景色をさえぎるものはなくなり、竹林の様子がはっきりとみえるようになっていた。霞の中では緑の壁のようだった竹も、未だ薄い霧があるものの、手前のものなら一本一本の境目が見える。庭の土には小さな水たまりができていた。
「あら、やんだわね」
どうやら永琳も気付いたようだ。視線は空へと向いている。
つられて空へと視界を移す。雲の流れは早い。風が強く吹いているという気はしないが、上空では違うのかもしれない。一時は相当厚かった雲も、その色を薄くしている。もう間もなく晴れるだろう。
空の様子を確かめて、また酒を呑む。
「まだ呑むのね」
そう、まだ早い。とはいえそろそろお終いだ。雨がやめば燗をすることもない。徳利の酒もちょうど切れたので新しく瓶から酒を移す。こんどは温めずに少し冷やす。花冷えくらいに調整してから御猪口に注ぐ。
「雨がやんだら燗から冷やへ。いったいいつまで続けるのかしらね」
そういう永琳もまだまだ居る気のようだ。一升瓶を空けるか、或いは輝夜が帰るまでここに居座るつもりなのだろう。それでもぜんぜん構わない。御猪口から酒を呑みながらその時を待つ。もうそろそろだ。
雨は既にやんでいる。
雨音が消えた。
特に何を話すでもなく二人して酒を呑んでいただけ。何もせずに酒を呑み、いつしか輝夜が来た目的などどうでもよくなっていた。ふと気付くと、二人が動き、酒を呑む音。それ以外の音が無いことに気付いたのだ。
「雨、やんだのか?」
ぽつりと言葉にしてみる。
「そうみたいね」
同じように家の中に居れば確認のしようがないのだが、やけに確信を持った様子で輝夜が答えたので驚いた。そして唐突に立ち上がり「帰るわ」などと言うものだからさらに驚いた。しかし輝夜の動きが唐突で素早かったのはそこまでで、未だ濡れたまま乾かない自分の服を見てどうしようか思案しているようであった。
「その服、やるよ。だからそれ着て帰れ。お前のは後で届けてやる」
思わず口から出た言葉は自分でも予想外だった。これには輝夜も驚いていたようだ。何を言ってるんだそれは一番ましなものだろうと思ったが、口から出た言葉を撤回することもできず、あいつが一度でも着た服なんか置いておけるかと無理やり自分を納得させた。
「そう、ありがたく頂くわ。その代わりその服はあげるわ。それと残りのお酒も」
輝夜も輝夜で何を考えたのか、それだけ言うと最後にこちらに微笑んで出て行ってしまった。
やはりどうにも雨の日は調子が狂う。本日何度目か知れない感想を抱き、家に残った輝夜の着物と半分ほど残った酒を見て、嘆息する。
家には妹紅一人だけになり、何の音も聞こえなくなる。
雨音ももう聞こえない。
空が晴れてきた。
雨はその名残を湿った土と草を伝う露に残す。雲は雨を連れて流れていき、まよいの竹林の外へ行こうとしている。代わりに覗いてきた晴れ間が縁側に影を作り、地面を照らす。暗い庭に色彩が戻ってくる。
相変わらず縁側にとどまり酒を呑んでいるてゐと永琳の前で、竹林がかさりと揺れて出てくる人影が一つ。出て行った時の着物ではなく、簡素な和服に身を包んだ輝夜の姿。
「永琳にイナバ、ただいま~」
ひょっとしたらうるさいかもしれない奴が来たが、このタイミングなら仕方ない。片手でちょいちょいと手招きして自分たちの縁側へと輝夜を招く。もう一方の手は御猪口から離さない。不遜かもしれないがこの姫は気にしないだろう。
「なぁにイナバ?なにかあるの?永琳、私にもお酒ちょうだい」
「私も気になるんだけれどさっきから何も話してくれないのよねぇ」
はいどうぞ、と杯を渡しながら永琳が答える。そう言いながらも楽しそうな余裕がある。天才を自他ともに認めるだけあって何があるのか予想はついているのだろう。
もう少しだ、その瞬間は。もうほとんど条件は整っている。後はそれを待つだけなのだ。御猪口に酒を注ぐと徳利が空になったがもう足す必要はないだろう。冷やにも燗にもする必要はない。その瞬間を見るだけ。そう思って視線を空へと移した。
「「「あ」」」
声が重なった。三人がほぼ同時にその変化に気付いたのだ。これを見るために今日はこの位置で陣取っていた。リーダーのてゐが居る限り部下のウサギたちは邪魔をしないが、先に彼らが居る場合は話が別となる。永琳や輝夜は仕方ない。なんにせよこれを見るためには太陽に背を向けたこの位置でなければならなかった。
「虹だぁ!」
輝夜がはしゃいで空を舞う。その後ろには五つの色を持つ弓なりの掛橋が輝いている。
虹が、出ていた。
因幡てゐは自分の持つ蔵へと潜り込む。ここにはてゐが集めたいろいろなものが置いてあり、いたずらのための道具から、使い方のよく分からないがらくたまで数多くの物が眠っている。整理はされており、どこに何があるのかをてゐは完全に把握している。
今日はちょっと良いことがあるかもしれない。
そんな気がしただけだが、楽しそうな気配を感じたら全力で相手をするのが長生きの秘訣だ。そんなことを考えながら目的の場所へと辿り着く。目当ての物があるのを見てうなずく。それらを幻想郷で見ることは珍しくもないが、それ自体は珍しい。
すなわち、酒であり、それも外の世界の酒だ。
棚の奥に置いていたので潜り込まないと取れない。楽しそうな気分のためか、棚からはみ出したお尻としっぽが左右に揺れている。
やがて中から一つの瓶を取り出して満足する。
『隠岐誉』今日はこれを呑みながらその時を待とう。
今日は雨が降りそうだ。
雨の日は調子が狂う。
藤原妹紅はそう思った。特に急ぎの用事というわけではないが、今日は人里に下りて食料品などを買いに行こうと思っていたのだ。すぐさま買いに行かなければ食料が底を尽きると言うことはないし、こちとら別に餓死しても復活する蓬莱人だ。必死という言葉ほど虚しく響くものはない。
それでも買い物に行こうと思っていたのは先日酒を切らしていたからだった。永遠を生きる蓬莱人だからこそ刹那の楽しみを得る酒はお手軽な娯楽だ。そもそも酒を切らしてしまうと輝夜との殺し合いの後に呑むものがない。勝利した後の美酒もなければ負けた時に呑む自棄酒もないのなら殺し合いの後が少し寂しくなる。こんなときに輝夜が殺し合いに来たらどうしようかと考えていると玄関の扉が叩かれた。
はてこんな雨の日に誰だろうと、玄関まで歩いて扉を開ける。
扉の先には蓬莱山輝夜が立っていた。
どうも雨の日は調子が狂う。
雨が降っている。
朱色の盆に酒瓶と徳利と御猪口を載せ、雨音以外聞こえない静かな廊下を歩いていく。ここで良いかと庭に面した縁側に腰掛けて、霧雨に霞む竹林を望む。広がる庭は別段手入れが行き届いた立派なものではなく、剥き出しの土にしとしとと雨が染み込んでいる。
しばらくはその景色を見るともなしに見ていたが、おもむろに酒を徳利に移すと、妖気で軽く温める。妖術などは得意ではないが、長く生きていればこれくらいはする。軽く燗した酒を御猪口へと注いで、さて呑もうかというところで雨音に足音が混じった。
「貴女がこんなところで一人なんて珍しいわね、てゐ」
否、混じったのは足音だけではなかった。白いワンピースの少女の頭上で、彼女が何の妖怪であるのかを象徴する耳がぴくりと動く。邪魔をされたからか険のこもった視線を投げ掛けると、視線の先には赤と青で出来た服を着た銀髪の女性。
「雨の日に酒だなんて風流なことね」
女性‐八意永琳‐は睨まれたことなど気にもせず、そんな感想だけ述べて廊下を通りすぎっていった。永琳が居なくなってからもしばらくそちらを睨み付けていたが、やがて庭へと視線を戻す。
縁側から見る光景には雨が降っている。
それを確認すると、お猪口の酒を呑み干した。
雨に濡れていた。
玄関の扉を開けた時に抱いた感想はそれだった。華美に着飾っているというわけでもないどことなく上品なその着物も、手入れの行き届いた黒く美しい長い髪も、透き通るように白く、滑らかな肌も、その全てが雨に濡れていた。
蓬莱山輝夜を見た藤原妹紅の感想はそんなものだった。
「えへ、来ちゃった」
第一声はそれだけ、照れたようにはにかむ笑顔は、それが本性ではないと知る妹紅にさえ可愛さを感じさせるものだった。
いや、と思い直す。輝夜が美人であることなどとうの昔から知っている。過去五人の貴族から求婚された娘なのだ。美しくないはずもない。
だがなぜ今更こんなことを思ったのかと考えて、気付いた。輝夜からはいつものような敵意や殺意を感じないのだ。その分観察する余裕ができているせいだ。
「どうしたの?」
少し考え込んでいたようだ。意識を輝夜に戻すと、彼女は相変わらずそこに居て、相変わらず、濡れていた。いつもと違うお前に見とれていた、なんて言えるはずもなく、何と答えたものかと考えて
「まぁ、とりあえず、入れよ」
言葉にできたのは、これだけだった。他に何と言おうとしていたのかも思い出せず、輝夜の為に手拭を用意して家の中に招き入れる。
玄関に立つ輝夜の足元は雨に濡れていた。
雨は降り続いている。
二杯目の御猪口を空ける頃には、徳利は冷えてぬるくなっていた。冷やと言うほど冷えておらず、非常に中途半端な温度だ。いちいち燗をするのは面倒だ、などと思いながら徳利を再び温める。
「良かった、まだ居たわ」
先程と同じ声がした。徳利を温め終わると同時に横に何かが座る気配。そちらを横目で見ると、青い瞳と目があった。
「良い場所ね、ご一緒させていただいても?」
見ればてゐと同じように朱の盆に酒と徳利を用意している。違うのは御猪口ではなく杯だということくらいだ。
勝手にしろ、と三杯目の酒を注ぐ。別に許可が必要な訳じゃない。どけと言われれば文句は言うが、そうでないなら好きにすればいい。
来たのが輝夜なら少し考えたかもしれない。彼女は風情を解する割には普段が騒がしすぎる。この静けさを壊すような不粋は輝夜もすまいが、月人の考えることはいまいち分からない。
永琳ならば大丈夫だろうと思うのは勝手に感じる親近感だろうか。と、曇った空を見上げても答えが書いてあるはずもなく、御猪口に注いだ故郷の酒をゆるりと両手で口へと運ぶ。
雨はまだ、降り続いている。
雨は見えない。
ひとまず玄関に上げたのは良いのだが、どうしたものかと思う。殺し合いでないならば何をしに来たのかわからないというのも変な話だが、それ以外に二人の関係性なんてない……と、思う。
「とりあえず、服を脱いで体を拭けよ」
手拭いを渡して自分は着替えを取りに奥へと戻る。
普段は別段気にしないが、輝夜に見合うような服などないことに少し悔しさを感じる。あったところで自分には似合わないし部屋の片隅で腐るだけなのは承知しているが、こんなことがあるなら一つくらい用意しても良いかもしれないと考えた自分に驚いた。とりあえず、一番ましな服を見繕って玄関に持って行く。輝夜の着ているそれよりも随分と格は落ちるが、これでも持っている中では上等なものだ。
玄関に引き返して目に入ったのは全裸で髪を拭く輝夜の姿だった。玄関をなるべく濡らさないためか、立ち上がったままだ。さらに長い髪を片手で支え、もう片方の手に持った手拭いで拭いているため、裸体が惜しみなく晒されている。本来隠されるべきはずの部分が外気にさらされているというのにあくまで落ち着いて上品に髪を拭く姿を見ていると、間違っているのはこちらではないかという気さえしてくる。
「お前な、少しは恥じらえよ」
殺し合いがら互いの裸身など見慣れているが、輝夜はやはり綺麗なのだ。白い肌というか、きめ細かな薄い肌色で構成されたスリムな身体はたとえ同性であっても美しいと思う。いやむしろ同性だからこそその体つきの良さが分かるのか。
「いいじゃない、見慣れてるでしょう?そんなことより……お酒、持ってきたの」
輝夜は笑顔で笑うと濡れた服と一緒に傍に置いた袋を指差した。
そのためにこの雨の中家まで来たのかと、あきれて空を仰ごうとしたが、家の中からは雨は見えなかった。
雨の香りがする。
雨が降る日や降りそうな日、そんな日にはこんな匂いがするもんだと、四杯目を呑みながら思う。もっともだからどう、というわけでもない。雨の日に酒を呑むから雨のことを考えただけ。雨は少し強くなった気がする。縁側から見える竹林が、先程までは霧雨の中に見えたはずが、今は雨の隙間に緑の色を映すのみになっている。
「それ」
しばしの静寂を破って声がした。とくにそちらを向くことはないが、耳を動かして聞いていることをアピールする。
「いちいち温めなくても保温の妖術でも使えば良いのに」
あなたならそんなことくらいできるでしょう、と少し楽しそうな声で言われた。いちいち徳利を温めるてゐが気になっていたのだろう。おかしそうに笑う気配すらする。
こいつはまるで分かっていない。温めたものは自然と冷める、あるがままに任せるからこそ風流なのだと、さきほど面倒くさいと思ったことなど棚に上げて五杯目の為に徳利を温めなおす。が、すぐに徳利にもう酒が少ないと気付いて酒瓶から酒を足す。
図星をつかれてあわてた訳じゃない。こうなれば意地でも保温などしてやるもんか。顔が熱いのは酒のせいだ。四杯目を飲み干す。今日は雨だからじきに冷めるだろう。
酒の香りに混じって、やはり雨の香りがした。
雨音だけが響いている。
着替えた輝夜はやはりどこか気品がある。自分で着てもこうはいかない。ここまでくれば服ではなく本人の質だろうと半ば諦めたような気持で納得した。そういう人間というものが居るのだろう。自分がそうでないからといって羨んでも仕方ない。
「服は乾かしておくよ」
火を使うのに特別なプロセスは要らない。こういう時にはこの体も便利なものだ。雨で気温が下がっているから暑くなることはないだろうと、冬以来めったに使わない火鉢に火をつけ輝夜の服を傍に置いて乾かす。
「どうせ帰りには濡れるわ」
なんとも輝夜らしい話だとは思うが、雨はやむかもしれない。それに服を着て帰られるのも困る。まさか全裸で外に放り出すわけにもいかないだろう。そんなことを言おうとして、諦めた。どうせこいつには通じない。そう思うと、言おうとした言葉を飲み込んで輝夜の座る卓袱台に向かう。
三人くらいなら使えそうな小さな卓袱台ごしに対面し、輝夜が用意した酒を注ぐ。家にある御猪口が二つ。輝夜にも注いでやるべきだろうかと思ったが、そんな仲でもないだろうと自分のだけにとどめた。見れば輝夜も自分で注ぐことに不満はないようだ。どうやらこれで正解らしい。
音頭もなしにめいめい呑み始める。好きな時に酒を呑む、好きな時に酒を注ぐ。
会話はない、むしろ何を話せばいいのか分からない。
しばらくしただろうか、突然に輝夜が口を開いた。
「私の持ってきたお酒、気に入ってくれた?」
瞬間、動きが止まる。さて、どう答えたものかと沈黙に耳を傾ける。
雨音だけが響いていた。
雨はまだやまない。
酒瓶から徳利に酒を移すのもこれで四度目。徳利をまた温める。人間でいうところの人肌燗だ。ウサギの体温はそれより少し高いために人間だとぬる燗くらいか。正確な温度は測っていないからその時々によってばらつきはあるが、これはこれで楽しみもある。やはり保温なんて無粋なのだ。月の頭脳も大したことはない。
「付き合ってもらってありがとうね」
横を見ると永琳がこちらを見ていた。別に付き合っているつもりはなかったのだが何も言わないでおく。なぜか感謝までされたが、永琳に恩を売っておいて損はない。例え相手の勘違いだとしてもだ。
「輝夜も妹紅のところに遊びに行っちゃったしね」
それで持て余した暇をつぶしに来たということなのか。或いは他に理由があってか。それこそどうでも良い話ではあった。
それにしても永琳は酒のペースが早い。そばにあるのは『天の戸』の瓶。一升瓶のはずなのだが、中身は既に半分ほどに減っている。酒は百薬の長かもしれないが万病のもとでもあるのだ。健康マニアとして信じられない。
「もう少しだけ付き合ってもらえるかしら」
勝手にしろ、と耳を動かして了承の意だけ伝える。通じたかは分からないが永琳は気にしないだろう。もとよりもう少しここで酒を呑んでいるつもりだ。永琳だってそうだろう。結果が同じならこの天才には同じことだ。
どのみち雨は、まだやまない。
雨音が弱くなった。
そう感じたのは気のせいかもしれない。輝夜の息づかいとか、御猪口が机に置かれる音とか、そんな音もあったんだと、静寂の中で気付いたからそう感じただけかもしれない。
酒は旨かった。辛口で、味のはっきりとした酒。喉に残るようなこともなく、すっきりとした味わいは、私の好みに凄く合う。ただ、素直に答えられない理由が二つ。
確か輝夜は甘口の酒を好んで呑んでいたはずだ。私の好みを教えた記憶はないから好みに合ったのは偶然だろう。わざわざ辛口を持ってきた意図が分からない。
そしてもう一つ、『蓬莱』という名前。ここに複雑な気持ちがある。今更蓬莱の薬に思うことなど尽きているが、今呑んでいる酒がその名を持ち、そして好みに合うとなれば、なんというのかうまく言い表せない気持ちになる。
「どうしたの?そんなに見つめて?」
知らず、輝夜を凝視していたらしい。そんなことをしても意図なんて分かるわけもないし、意図なんかないのかもしれない。現に目の前で小首をかしげている輝夜の顔からは何も読みとれない。結局思惑を知るのは諦めた。今日は諦めることが多いな、などと思いながら素直に感想を告げる。
「いや……うまいよ、この酒」
「そう……」
また、沈黙が降りる。続ける言葉も思いつかず、手に持った御猪口から酒を呷る。
空になった御猪口を片手に耳を澄ますと、確かに雨音は弱くなっていた。
雨がやんだ。
縁側から見える景色をさえぎるものはなくなり、竹林の様子がはっきりとみえるようになっていた。霞の中では緑の壁のようだった竹も、未だ薄い霧があるものの、手前のものなら一本一本の境目が見える。庭の土には小さな水たまりができていた。
「あら、やんだわね」
どうやら永琳も気付いたようだ。視線は空へと向いている。
つられて空へと視界を移す。雲の流れは早い。風が強く吹いているという気はしないが、上空では違うのかもしれない。一時は相当厚かった雲も、その色を薄くしている。もう間もなく晴れるだろう。
空の様子を確かめて、また酒を呑む。
「まだ呑むのね」
そう、まだ早い。とはいえそろそろお終いだ。雨がやめば燗をすることもない。徳利の酒もちょうど切れたので新しく瓶から酒を移す。こんどは温めずに少し冷やす。花冷えくらいに調整してから御猪口に注ぐ。
「雨がやんだら燗から冷やへ。いったいいつまで続けるのかしらね」
そういう永琳もまだまだ居る気のようだ。一升瓶を空けるか、或いは輝夜が帰るまでここに居座るつもりなのだろう。それでもぜんぜん構わない。御猪口から酒を呑みながらその時を待つ。もうそろそろだ。
雨は既にやんでいる。
雨音が消えた。
特に何を話すでもなく二人して酒を呑んでいただけ。何もせずに酒を呑み、いつしか輝夜が来た目的などどうでもよくなっていた。ふと気付くと、二人が動き、酒を呑む音。それ以外の音が無いことに気付いたのだ。
「雨、やんだのか?」
ぽつりと言葉にしてみる。
「そうみたいね」
同じように家の中に居れば確認のしようがないのだが、やけに確信を持った様子で輝夜が答えたので驚いた。そして唐突に立ち上がり「帰るわ」などと言うものだからさらに驚いた。しかし輝夜の動きが唐突で素早かったのはそこまでで、未だ濡れたまま乾かない自分の服を見てどうしようか思案しているようであった。
「その服、やるよ。だからそれ着て帰れ。お前のは後で届けてやる」
思わず口から出た言葉は自分でも予想外だった。これには輝夜も驚いていたようだ。何を言ってるんだそれは一番ましなものだろうと思ったが、口から出た言葉を撤回することもできず、あいつが一度でも着た服なんか置いておけるかと無理やり自分を納得させた。
「そう、ありがたく頂くわ。その代わりその服はあげるわ。それと残りのお酒も」
輝夜も輝夜で何を考えたのか、それだけ言うと最後にこちらに微笑んで出て行ってしまった。
やはりどうにも雨の日は調子が狂う。本日何度目か知れない感想を抱き、家に残った輝夜の着物と半分ほど残った酒を見て、嘆息する。
家には妹紅一人だけになり、何の音も聞こえなくなる。
雨音ももう聞こえない。
空が晴れてきた。
雨はその名残を湿った土と草を伝う露に残す。雲は雨を連れて流れていき、まよいの竹林の外へ行こうとしている。代わりに覗いてきた晴れ間が縁側に影を作り、地面を照らす。暗い庭に色彩が戻ってくる。
相変わらず縁側にとどまり酒を呑んでいるてゐと永琳の前で、竹林がかさりと揺れて出てくる人影が一つ。出て行った時の着物ではなく、簡素な和服に身を包んだ輝夜の姿。
「永琳にイナバ、ただいま~」
ひょっとしたらうるさいかもしれない奴が来たが、このタイミングなら仕方ない。片手でちょいちょいと手招きして自分たちの縁側へと輝夜を招く。もう一方の手は御猪口から離さない。不遜かもしれないがこの姫は気にしないだろう。
「なぁにイナバ?なにかあるの?永琳、私にもお酒ちょうだい」
「私も気になるんだけれどさっきから何も話してくれないのよねぇ」
はいどうぞ、と杯を渡しながら永琳が答える。そう言いながらも楽しそうな余裕がある。天才を自他ともに認めるだけあって何があるのか予想はついているのだろう。
もう少しだ、その瞬間は。もうほとんど条件は整っている。後はそれを待つだけなのだ。御猪口に酒を注ぐと徳利が空になったがもう足す必要はないだろう。冷やにも燗にもする必要はない。その瞬間を見るだけ。そう思って視線を空へと移した。
「「「あ」」」
声が重なった。三人がほぼ同時にその変化に気付いたのだ。これを見るために今日はこの位置で陣取っていた。リーダーのてゐが居る限り部下のウサギたちは邪魔をしないが、先に彼らが居る場合は話が別となる。永琳や輝夜は仕方ない。なんにせよこれを見るためには太陽に背を向けたこの位置でなければならなかった。
「虹だぁ!」
輝夜がはしゃいで空を舞う。その後ろには五つの色を持つ弓なりの掛橋が輝いている。
虹が、出ていた。
最近、日本酒も好きになってきていたので、非常にタイムリーでした。
蓬莱、まだ飲んだことはありませんが、どんなお酒なのでしょう。そのうち飲んでみたいです。
段落ごとに空模様が変わっていき、収束してゆく様など心地よかったです。
良い時間を有難うございました。
てゐがその自慢の舌先三寸をただ味わうことだけに傾けていたのが印象的でした。
>えへ、来ちゃった
これは国が傾く