※この作品は、作品集152『庭師、山にて白狼天狗と相対すること』の設定を引き継いでいます。
轟々――
降る清水は絶え間なく、幻想郷に潤いを与え。
八百万の神々と天狗が支配する妖怪の山。そこから降る九天の滝、その上部からつき出した岩場にひとりの少女が立っていた。
赤い高下駄、裾に紅い楓模様の散りばめられた藍のスカートに、白い腋出しの装束。そして、純白の髪の毛と獣の耳、尻尾。頭の上には小さな赤い八角帽がちょこんと乗っていた。
少女は幅広の刀を地に軽く突き刺し、その柄に手を乗せて幻想郷を俯瞰していた。赤みのかかった黒檀の瞳は鋭く、口は真一文字に引き締められて。その様は、少女の生真面目さをよく物語っていた。
空気はまだ冷たいものの、日差しは暖かく冬の終わりが感じられる。また、幻想郷中が春の陽気にあてられて騒がしくなるだろう。
と、
「あふ」
大きなあくびをひとつ。
白狼天狗の犬走椛は、今日も山の哨戒に精を出していた。
「……いかん」
頭を軽く振りながら、椛は呻いた。
幻想郷は相も変わらず平和すぎて、油断をするとすぐに眠たくなってしまう。
と、
「なにやってるの?」
上空から声。
聞きなれた声に椛は顔を上げた。声とともにこちらへゆるりと降りてきたのは、風をまといし黒髪の少女。
「射命丸さん」
「お疲れさま」
ひらりと手を振り、鴉天狗の射命丸文は椛の隣の空中で制止した。文のまとう風が椛の白髪をふわりと踊らせる。
「お疲れ様です。いえ、まあ……少し考え事をしていまして」
応じて頭を軽く下げながら椛は答えた。
「そ。調子はどう?」
「見ての通りですよ。異常はナシ、侵入者はゼロ。平和なものです」
椛は大太刀を引き抜き、両手で正眼に構えた。そしてゆっくりと振り上げ、呼気とともに勢いよく振り下ろす。
びゅんッ! と、空を切る音が響いた。
「このままでは、身体がなまってしまいます」
「またまた。聞いたわよ。また魔理沙と弾幕ごっこしたんだって?」
「む……」
いたずらっぽい笑みを浮かべた文の言葉に、椛は眉間にしわを寄せた。
不可侵の地である妖怪の山だが、そこに頻繁に侵入をする人間がひとりだけいた。それが“霧雨魔理沙”だ。
彼女が山に来る目的は様々だが、多くの場合は守矢神社に向かうためだった。
山の中腹に位置する守矢神社は、この地で唯一天狗の監視外と定められた領域。参道を含めて人間の侵入が許されている。だというのに、魔理沙はいつも天狗の領域を侵しながら守矢神社へと向かう。曰く、直線距離では天狗の領域を突っ切ったほうが近いからだということだが、哨戒天狗の相手をしていては意味がないのではといつも椛は思う。つい先日も魔理沙が山へと突入してきて、哨戒の任についていた椛と激突したのだが……
「やはり、弾幕ごっこには慣れません」
相手はたかが人間。斬ったはったならば椛の負けはないのだが、弾幕ごっことなると魔理沙のほうに一日の長があった。あの高密度の弾幕は、避けられる気がしない。
「ごっこ遊びなんだから、そんなに難しく考えないで楽しみなさい。弾幕を楽しめるようになれば、道も見えるようになるかもね」
「むう……」
簡単に言ってくれる。取材で数多の弾幕をくぐり抜けてきた文と違って、椛は弾幕ごっこの実践経験が圧倒的に少ない。そう簡単にはいかないものなのだ。
眉間にしわを寄せて憮然とする椛の眼前に、一枚の手紙が差し出された。
「はいこれ、いつもの」
「ああ、ありがとうございます」
途端に表情を緩めた椛は、手紙を受け取ると宛名を確認した。
封筒の隅に記された名は。
かつて、妖怪の山にひとりの剣士が足を踏み入れた。紅葉の美しい秋の日のことだ。
当然、山の哨戒をしていた椛は侵入者の追い返しに出向いたのだが、その剣士は一向に退こうとしない。
その剣士の心意気に、また、久しく実戦で剣を振るっていなかった椛は興味から『自分に一撃を打ち込むことができたら話を聞く』という条件を出し、剣士と戦った。
ちょっとした戯れのつもりだった。適当にあしらってから追い返すつもりだったのだが、結果は違った。椛はただの剣士に……それも、まだ年端も行かない少女に一撃を許し、敗れたのだ。
椛のなかで、剣士に対する興味は、大きくなった。
その一件より、椛と剣士は交流を始めた。こうして手紙のやり取りをし、たまの休みには剣を交えて切磋琢磨し。
その剣士――幻想郷でも有数の力を持つ天狗から一本を奪い取った少女の名は。
――魂魄妖夢。
封筒の文字を指でなぞりながら、椛は差出人の名を反芻した。そして封筒を懐にしまって微笑む。
「確かに。ありがとうございます」
「読まないの?」
「哨戒中ですから」
「真面目ねえ」
中身は家に帰ってからじっくりと読ませてもらおう。さて、今回はどんなことが書いてあるだろう。主人から受けた無茶振りの話だろうか。最近読んだ書物――漫画が多いあたり、まだまだ子どもだ――の話だろうか。
思いをめぐらせながら、椛は大太刀を構えてもう一振り。
びゅッ!
空気を切り裂く鋭い音は、滝の轟音にかき消されて。
――……
さらに、
びゅんッ!
「……」
――……
「……射命丸さん」
「なに?」
「まだなにか?」
用件はもう済んでいるだろうに、文はいまだに椛の素振りをじっと眺めていた。
さすがに少し気恥ずかしくなって椛が問うと、文は「ああ、いや、」と軽く手を振り、
「あんまり綺麗だったから、つい……」
「で、まだなにか?」
「やだつめたい」
文は少しだけ肩を落としつつ。
「実はね、話はもうひとつあって……。魂魄さんのご主人様からクレームがあったのよ」
「く、クレーム?」
寝耳に水の話に椛はたじろいだ。
妖夢の主人には椛も会ったことがある。人懐っこいがつかみどころのない、奇妙な亡霊姫だ。
はてと椛は考えた。思い出す限りでは、彼女に対して――もちろん妖夢に対しても――心象を悪くするような振る舞いをとった覚えはないが。
「魂魄さんが貴方のところに行く度に、生傷を作って帰ってくるって」
「……いや、それは仕方ないでしょうに」
こちとら剣の稽古をつけているのだ。怪我のひとつやふたつ、できて当然だ。
「で、その傷を見て笑っているそうよ」
「え」
「貴方……魂魄さんにヘンなコト教えてないでしょうね?」
「教えてませんよ人聞きの悪い!」
なんというか……何かに目覚めさせてしまったのだろうか。普通に稽古をつけているだけのつもりだったのだが。
「で、まあ魂魄さんの嗜好は兎も角として」
果たしていまの話を兎も角としてよいものか。
「そんなわけで、たまにはゆっくり休ませてあげたいそうなのよ」
そう言いながら文は、頭を抱える椛の眼前に二枚の紙切れを差し出した。
「はいこれ、温泉旅館のタダ券」
「……はあ」
「貴方、お供」
「私ですか」
「きびだんごあげるから」
「手羽からかっさばいて美味しくいただいてやりましょうか」
「冗談よ」
「分かっていますよ」
いい加減、この飄々とした鴉天狗との付き合いにも慣れてきた椛である。つまり、妖夢と二人で温泉旅行に行ってこいと、そう言いたいわけだ。
椛は券を受け取り、しかし難しい顔を浮かべた。
「これ使用期限が三日後までじゃないですか」
天狗の社会は人間のそれよりも厳格である。椛に割り当てられている仕事――哨戒の任を勝手に休むわけにはいかない。
「まずいな、いまから申請して間に合うか……?」
少し直前過ぎるかもしれない。休暇を取る場合は、事前の申請と哨戒の代理をたてなければならない。もしも代わりが見つからなければ、椛は持ち場を離れられないのだ。その場合は、妖夢には申し訳ないが件の温泉には他のものと行ってもらうことになる。
ところが、頭をぼりぼりとかいて焦燥をあらわにする椛に対して、文があっけらかんとした様子で言った。
「あ、申請はもう私がしといた」
「勝手に!?」
「安心しなさい。きっちり通しておいたから」
「通ったんですか!?」
天狗は仲間意識が非常に強いと言われているが、同じ天狗内でも白狼天狗と鴉天狗の仲は芳しくなかった。
戦において前線で剣を振るっていた白狼天狗は“敵を倒すこと”を優先とし、諜報を担っていた鴉天狗は“生きること”を優先とした。ゆえに、手にした情報を持ち帰るためには敵から逃げることを厭わない鴉天狗を『臆病者』と白狼天狗は蔑み、自らの命をかえりみず一人でも多く敵を倒そうとする白狼天狗を鴉天狗は『ナンセンスだ』と揶揄した。かつての椛も、そんな型にはまった白狼天狗の一人だったが、文との交流を経ていまは考えを改めることとなったのだが。
閑話休題。二人の思想はどうあれ、白狼天狗と鴉天狗の間に軋轢があることは事実。しかし、文はそんな中で白狼天狗の詰め所まで行って椛の休暇の代理申請をしてきたと言うのだ。そしてそれを通したと。
驚愕する椛の様子に気を良くしたか、文はしたり顔で胸を張る。
「ま、私にかかればこんなもん余裕よ余裕」
「いったいどんな汚い手を」
「うんまあ今回に関しては否定しないけどネ……」
文は八つ手の団扇を取り出してぱたぱたと扇ぐ。白狼天狗とて、自身の毛のように全てが真っ白ではないということなのだろう。大方、上役の弱味なり何なりをちらつかせて言うことを聞かせたか。
――こちらに被害は及ばないだろうな……?
一抹の不安は残るものの、ともあれ休暇の心配がなくなったことはありがたい。椛は文に向けて小さく頭を下げた。
「お手数をおかけしました。ありがとうございます」
「ん、よろしい」
偉そうに頷いて、文は少しずつ椛から離れていく。
「それじゃ、三日後ね。詳細は追って連絡するから」
「分かりました」
飛び去る黒を見送って。
――温泉か……
思えば、旅行など初めてかもしれない。さらに友人も一緒となれば、きっと楽しいに違いない。哨戒中だと自身を諌めつつも、椛は尻尾の揺れを抑えることができなかった。
…………
「…………あの女」
――許すまじ。
眼前に広がる暗闇に、椛は憮然と呟いた。
幻想郷の東側、博麗神社に程近い森のなかで“それ”はぽっかりと口を開けて椛たちを飲み込まんとしていた。
地底へ続く大空洞。かつて山を支配していた鬼が移り住んだ地への入り口だった。よもやこんな場所に案内されようとは。
すなわち、件の温泉旅館の場所とは、
「旧都か……」
ここまで案内してくれた文が、そそくさと飛び去っていった理由が分かった。彼女は地底に行ったことがあったはずだ。顔を合わせづらいものもいるのだろう。
――嘘を嫌う鬼が多く住んでいることも、おそらく理由のひとつだろうな。
「椛、どうかしたんですか?」
眉間にしわを寄せて空を見上げる椛の袖を引く少女がいた。
肩で切り揃えられた銀の髪に黒いリボン。白のブラウスの上には、いつもの緑を基調としたベスト。そして同じ意匠のスカートと、やはり意匠を同じくした外套で身体を覆っていた。手にした鞘袋のなかには、刃渡り違いの刀が二振り。
「……いや、少しな」
様子を窺うように近くを飛んでいた霊魂――少女の半身たる半霊を撫でながら椛は答える。ある程度は感覚が繋がっているのか、持ち主の少女、魂魄妖夢はくすぐったげに目を細めた。
しかし、椛の心中は穏やかではなかった。地底に天狗が姿を現せば、鬼たちはどう思うだろうか。見下ろせば、この身を包むは白の外套が一着。その下はいつもの天狗装束だった。大太刀と盾も持ってきてしまっているし、正体を隠すには少々心もとない。
とはいえ、いまから山に戻って着替えるという策も現実的ではない。旧都までどれだけかかるか判然としていない以上、あまり余計なことで時間を食いたくはなかった。
「あ、あの、椛……?」
「ん?」
呼ばれて目を向ければ、妖夢はもじもじとしながらこちらの手元を見つめていた。つられて椛もそちらを見ると、
「あ」
考え事をしていたせいか、ずっと半霊を撫で続けていたようだ。
「ああ、すまない」
「いえ……」
慌てて手を離すと、半霊はふるりと震えて半人のもとへと飛んでいった。
なんとなく気恥ずかしくなった椛は、外套がはだけないように気をつけながら大空洞のなかに向かって歩き出した。
「では、行こうか」
「あ、待ってください、椛」
慌ててついて来る妖夢を横目に見つつ、何事もなければよいがと椛は思いを巡らせていた。
熱気と活気に包まれて。
通りに灯る行灯や松明の火は日光の代わり、あるいは月光の代わりとして居並ぶ店舗や人々を赤々と照らしていた。あちこちで客も店主もせわしなく、しかし楽しげにはやし立てている。
やれあれが安いだやれもっと安くしろだやれ酒だ喧嘩だ江戸の華だやれ何だやれ何だやれ何だ。
「活気があるのは良いが、いささかやかましいな」
「椛、そんな身も蓋もない」
露店の親父に押し付けられるようにして買わされた焼き鳥をかじりながら、椛と妖夢は旧都の街を歩いていた。程よい焼き加減のもも肉に甘辛のタレが良く絡んでいて、
「美味い」
「そうですね」
あの一つ目親父、侮れぬと称賛を送る横で、妖夢はくすくすと笑っていた。
と、
「椛」
ふらりとよろめいた椛の身体を妖夢が支えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまない」
普段と勝手が違うため、どうにもバランスを崩してしまう。
「やはり、尻尾がないとどうにもな」
そう、いまの椛には狼の尻尾と耳がなかった。
ある程度の力を持った妖怪は、自身の肉体を変容させることができる。当人の妖力や修行次第では、元の姿から全く別のものに変化することも可能だ。椛も全身変化はできなくもないが、あいにく長時間の変化は不可能。ゆえに、尻尾と耳を消すのみにとどまっていた。だがそれでも、白狼天狗の象徴たる尻尾と耳である。椛の正体を隠すには十分だろう。大太刀と盾はそのままだが、こればかりは仕方ない。
しかし、生まれたときからずっとあった尻尾である。椛にとっては身体のバランスを取る重要な部位でもあった。それが突然なくなってしまっては、足元が覚束なくなるのも仕方がないだろう。
「下駄も履き替えたほうがいいかもしれませんね」
天狗の履く下駄は歯が一本しかない上に長い。普段は頭ひとつ分ほどの身長差がある椛と妖夢だが、高下駄を脱げば二人の身長差はだいぶ縮まる。それほどの下駄を履いて武器を振り回すことができるのは、ひとえに天狗の身体能力の高さの証明と言えよう。だが、いまの椛には少し高すぎた。
椛は自身の臀部――尻尾のあった場所をさすりながら言う。
「宿につけば普通の下駄くらい借りることができるだろう。滞在中はそれを使わせてもらうとするか」
今回の滞在期間は二泊三日。丸々一日はゆっくりできるよう計画されていた。耳と尻尾がないのは少々心もとないが、何事もなければのんびりと旧都観光と洒落込めるだろう。
日は見えないが、腹具合からみていまは昼過ぎくらいだろうか。宿で荷物を置いてから、また街に繰り出して昼食をとるのも良さそうだ。早くこの身体に慣れなければいけないし、良い訓練になるだろうと思いつつ、椛は串に残った最後の焼き鳥を咀嚼した。
と、
「んー、匂う……」
『!?』
すぐ背後から声。二人が弾かれたように振り返ると、そこには、
「匂うよ、お嬢ちゃん」
猫車を携えた少女がひとり。
黒を基調に深緑の装飾が施された上下。ワインレッドが鮮やかなお下げ髪。その頭に頂くは黒い獣の耳。獣の成り上がりだろうか。
「え? わ、わたし? 汗かいちゃったかなぁ……」
戸惑う妖夢を、朱の瞳を細めて少女は見つめる。
「いやいや、汗の匂いなんかじゃないさ。お嬢ちゃんから漂っているのは“死の匂い”……お嬢ちゃん、すでに死んでいるね?」
その言葉に、椛と妖夢は顔を見合わせ、揃って半霊に目を向けた。
「……間違っては、いないか?」
「そ、そうですね。確かに半分は死んでますけど」
「半分死んでる!?」
細めていた目を見開いて、少女は手を打った。
「ナルホド、道理で生き生きした死体だと思ったよぉ!」
「死体呼ばわりされているが」
「う、うーん……」
先ほどまでの妖しげな雰囲気はどこへやら、見た目相応の様子を見せる少女に二人は戸惑うばかりだった。
「で、何か用か?」
「ああ、これは失礼。自己紹介が遅れたね」
少女は一歩二歩と身を引いて、優雅に礼をする。良いところの出なのだろうか、なかなか様になっていた。
「あたいは“火焔猫燐”。みんなは“お燐”って呼ぶよ」
「これはご丁寧に。私は魂魄妖夢といいます。それで、お燐さんは私に何かご用ですか?」
妖夢が問うと、燐は猫車の取っ手に触れながら、
「いえね、あたいは地霊殿にお世話になってるしがない火車ってやつなんですよ」
もう片方の手で地底の一方向を示す。そちらに目を向けると、古めかしい洋館があった。
地霊殿――確か、地底の管理者の住む館だったと椛は記憶していた。となればこの燐という少女、本当に良いところの出だったようである。
「まあただのペットなんだけどね。でもだからって、ご主人様に養ってもらってばかりじゃいけない! ってんで、いくつか仕事のお手伝いをさせてもらっているのさ」
「はあ、それはそれは」
「そのひとつが“灼熱地獄跡の火力調節”ってやつでね。親友のサポートをあたいが買って出てやってるわけ。で、さ、」
燐の語りは止まらない。話好きなのだろうか。
「灼熱地獄跡の火力ってのは、単純に木切れなんかをくべても上がらない。火力を上げるには“あるもの”をくべなくちゃならない。それが、」
燐は指をパチンと鳴らした。次の瞬間、燐の傍らにしゃれこうべを内包した霊魂が姿を現す。燐はすう、と目を細めてこちらを見つめ。
「この怨霊か、」
パチン。
今度は、頭上に透き通った輪を頂いた顔色の悪い妖精が数体。
「え? なに?」
そして現れた妖精たちは、妖夢の肩や腰にしがみついた。一方で燐は猫車を犬走椛たちのほうへと向ける。
様子がおかしい。椛は半身を引き、わずかに腰を落としていつでも動ける姿勢をとった。
「死体なのさ」
否、彼女が見ているのは“こちら”ではない。燐の意識はずっと妖夢にだけ向けられている。
「というわけで、お姉さん。この死体、あたいがもらうよ」
「なんだと?」
言うが早いか、燐は素早く腰を落として猛然と妖夢のほうへと走り出した。
「なにを!?」
椛と妖夢は身構えるが、しかし燐の動きに合わせて、
「えちょ、ひゃ!?」
妖夢にまとわりついていた妖精が妖夢の身体を持ち上げた。
「させるか!」
やはり燐の目的は妖夢の身体――死体の確保。
椛は妖夢をかばうように前へ出ようとしたが、
「ッ!?」
ふらりとよろめき、膝をついた。
――こんなときにッ!
その隙に、燐はすくい上げるように猫車で妖夢を拾って走り去ってしまった。
「椛!」
「ま、待て!」
などと言って待つものなどおらず。燐は雑踏の中へと消えていく。
「ッ……!」
――たかが尻尾程度で情けない!
内心の憤りを抑えつつ、椛は立ち上がった。周りにはわずかに人だかり。さながら捕物帖でも見ている気分なのだろう。一つ目の入道や獣人系の妖怪に混じって、頭部から突起を除かせた人型――おそらく、鬼――の姿も見受けられる。だが、このまま放っておくわけにはいかない。
燐の話が本当ならば、連れ去られた妖夢の行き着く先は……
――灼熱地獄跡の燃料か……!
させるわけにはいかない。
椛は背から大太刀と盾を取り外した。大太刀は鞘から抜いて、それぞれをしっかりと携えて。
――もはや形振り構っていられない。
「……――」
そして大きく息を吸い、
「おおァ!!」
裂帛。
体内で高められ全身を巡った妖力は、椛を本来の姿へと立ち返らせる。
その頭に頂くは、高い集音声を誇る狼の耳。その臀部からたわむは、白狼天狗の象徴たる純白の尾。
あたりが少しざわついた。やはり、この特徴に見覚えのあるものがいるようだ。だが、そんなことはどうでもいい。いまはそれよりもやらねばならないことがある。
「いくぞ」
尻尾をしならせ地面を叩き、気合一発。連れ去られた半身に引かれているのか、ふらふらと飛んでいた半霊をかっさらうように捕らえながら、椛は駆け出した。
がたがたと視界が揺れる。右へ左へと身体も揺さぶられ、そのたびに猫車から放り出されそうになるが、周りの妖精たちに支えられて――いや、押さえつけられているので逃げることができなかった。
「ちょっと! 私まだ生きてる! 生きてるから!」
「でも半分は死んでいるんでしょ?」
「いやまあ」
「じゃあ立派な死体だよぉ」
「いやいや! こっち生きてるほう! 半霊が死んでるほうだから!」
「安心しなって。どっちがどっちでも、残りの半分もきっちり死体にしてあげるからさぁ」
「するな!」
妖夢が訴えるも、軽快な足取りで猫車を操る燐はころころと笑うばかり。
こんな連中さっさと斬ってしまえば、なんて思ったけれど、肝心の刀――楼観剣と白楼剣が収まった鞘袋はいつの間にか燐の背にあった。先ほどのどさくさで盗られてしまっていたらしい。油断も隙もない。
このままで灼熱地獄跡の燃料にされてしまう。何とかしなくては。
考えろ。武器を奪われ、身体の自由も利かないいまの自分にできることは何だ? この場を切り抜ける、起死回生の一手は?
――……身体の自由?
と、妖夢はふと思い出した。
「そういえば……」
――半霊は?
揺れる猫車のなか、首を巡らせ探してみても、自身の半身たる霊魂の姿は見当たらず。もしかして、もしかしてと嫌な予感が妖夢の脳裏を駆け巡る。
どうりで普段より力が出ないと思ったのだ。いくら自分が半人前とて、妖精の三匹や四匹くらいに押さえつけられて手も足も出ないなどありえない。
だが、その理由がようやく分かった。いまの妖夢は、
――四分の一人前だ……
こちらも大切な身体の一部ゆえ、半霊との距離が一定以上離れてしまうと、妖夢は本来の実力が出せないのである。
おそらく、半霊は先ほどの場所に置き去りのはず。基本的に半人たる自分に追従するが、この速さではそれも叶わなかったのだろう。
妖夢は意識を集中して半霊の位置を探ってみた。
――……移動している?
それも、高速で。
まだ距離があるが、半霊はこちらに向かってきていた。だがその動きはぎこちなく、ときおり動きを止めたり、違う方向へ行きかけたりしている。
誰かが――いや、誰かは分かっている。
「椛だ」
半霊を連れて椛が追ってきている。おそらく妖夢の匂いを辿っているのだろう。だから動きがぎこちない。これだけ人の多い場所なのだ。白狼天狗の鼻でも追跡が難しいのだ。
だったら、
――いまの私にできることは!
「おや、急に大人しくなったと思ったら寝ちゃったのかい。暢気だねえ」
先ほどまで妖精の手から逃れようともがいていた妖夢は、いまやすっかり大人しくなっていた。目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返す姿は、確かに眠っているように見える
だがその実は違っていた。
燐は知らない。半人半霊の特性を。妖夢は眠っているわけではないということを。
ゆえに、一緒にいた白髪の女が追ってこないことを確認した燐は、一息ついて速度を落とした。
「やー、それにしても、思わぬ収穫だったわね。このコ、どうしてくれようかしら? このまま燃料にしてしまうのももったいないし……」
駆け足から徒歩に切り替え、燐は死体の使い道を考えながらガラゴロと家路を行く。
鼻に神経を集中させ、無数の匂いのなかから蜘蛛の糸を手繰るように妖夢の匂いを探す。肉の匂い、野菜の匂い、酒の匂い、香辛料の匂い、脂の匂い、その他妖怪たちの体臭などなど、無数の匂いで満たされた地底において、妖夢の香りをかぎ分けることは骨が折れた。
だが、悠長にはしていられない。こうしている間にも、妖夢の身に危険が迫っているのだ。
匂いのする方向を確認した椛が再び跳躍しようとした、そのとき、
『~~!!』
「な、なんだ!?」
抱えていた半霊が急に暴れだした。
びたびたと水揚げされたばかりの魚のようにのたうつので、椛は慌てて手を離した。すると半霊は椛の眼前まで浮かび上がると、尻尾(?)で一方向を示す。
「……お前、まさか妖夢なのか?」
問いかけに、半霊は身体を上下に激しく揺さぶった。肯定の意、なのだろう。
――半霊に意識を移すことができるのか。
半人半霊にこのような能力が備わっていたとは。物珍しさに思わず半霊をまじまじと見つめていたが、いまはこんなことをしている場合ではなかった。
「分かった」
椛は再び半霊――妖夢を抱えると、大きく跳躍した。生ぬるい空気が頬をなでる。眼下で何人かの妖怪がこちらを指差して何事か騒いでいたが、知ったことか。
がづんと次の屋根に降り立った椛は三度跳躍し、次の屋根へ。
次へ、次へ。ときおり妖夢から方向指示を受けながら、また次へ。
眼下を流れる街並みは徐々にひと気が少なくなっていった。ぐるりと見回すと、繁華街とおぼしき地域はすっかり遠く、前方に広がる岩壁は街の端だろうか。
やがて椛の目が赤いお下げ髪――火焔猫燐の姿を捉えた。そして燐がガラゴロと押す猫車には友の姿。暢気に猫車を押す背は隙だらけだった。
しかし、
がしゃん!
着地した瓦の屋根、その音に驚いたらしい燐はびくりと身を跳ねさせ辺りを見回して、
「げ!?」
こちらの姿を確認するや、再び走り出した。
「待て!!」
もう逃がさない。千里を見通す椛の瞳は燐の姿を見失うまいと捉えて放さない。
だが屋根伝いのこちらと違って、向こうは地を走っている。燐の、雑踏の隙間を見極めするすると駆け抜ける眼の良さ、身体の柔軟さ、猫車の扱い方。それはどれも目を瞠るものがあった。とは言え、そのせいでなかなか距離が縮まらないのだが。
しかし、燐の行く先は旧都の端。行き止まりだ。そこまで追い詰めてしまえば……
「妖夢の半身、返してもらうぞ」
呟き、椛は跳ぶ。
やがて燐を街の端まで追い詰めて、
「む?」
椛は眉をひそめた。
壁に扉がついている。旧都の街並みにそぐわぬ鈍色のそれは。
「金属……?」
文明レベルの逸脱した扉に燐が近づくと、それはぶしゅんと音を立てて左右に開き少女を招きいれた。
「ち……!」
燐を飲み込み、再び閉じてしまった扉を見て小さく舌打ちをしながら、椛は地に降り立った。そして勢いそのままに扉へ突っ込む。叩き壊してでも押し通るつもりだ。
が、幸いなことに扉は椛を招き入れてくれた。再び開いた扉をくぐって椛は奥へ。
地面はむき出しの大地だったが、左右の壁と天井はやはり金属。所々に継ぎ接ぎが見えるが、汚れや傷は見られない。造られてから長くは経っていないようだ。幅と高さはそこそこあって、大柄な人型でも三人くらいなら横に並んで歩けるほどだ。
そして前方には慌ただしく揺れる赤いお下げ髪。
「逃がさん……!」
唸って椛はさらに速度を上げた。
と、
「おくうー! 侵入者だよー!!」
通路の端、入り口と同じような扉をくぐった燐が叫んだ。通路の先に何者かがいるらしい。
「気をつけろよ」
警告すると、腕のなかの妖夢がふるりと震えた。
扉の向こうには赤々とした空間が広がって見え、近づくにつれて気温の高まりを感じた。
そういえばと、椛はふと思い出した。妖怪の山におわす新参の二柱、その片方が旧都に干渉して一騒動を起こしたことがあると。旧都に見合わぬこの施設には、もしかしたらその神が関わっているのかもしれない。白狼天狗の自分が騒ぎを起こしたとしたら、件の神と天狗の間に軋轢を作ってしまう可能性がある。
「……」
だが、だがしかし。
いまは、友の半身がかかっているのだ。椛は小さく頭を振って山のことを閉め出した。まずは目の前のことを解決せねば。問題が起きたら、そのときはそのときだ。
椛が近づくと、やはり扉は自動的に開いてくれた。椛は大太刀を握る手にさらに力を込めて、扉をくぐった。
その瞬間、
「え」
眼前に太陽を見た。
「うおおお!?」
盛大に驚愕しつつも椛は妖夢を背後に放り投げると、盾を構えて防御の姿勢。間髪入れずに“太陽”と接触した。猛烈な衝撃と同時に、構えた盾から伝わる灼熱感。肉も、骨さえも焼き尽くされ、溶かし尽くされてしまうのではないかと思うほどの熱量。
だがその感覚は長く続かなかった。“太陽”は――いや、その実態はただの火球だろう。核融合によって燃え盛る恒星が、こんなところにあってたまるか。火球はみるみるうちに小さくなっていった。
「ッガァ!!」
やがて裂帛とともに椛は火球を上方へ弾き飛ばす。そして火球は鉄の壁に直撃して散り消えた。
尻餅をついて火球の末路を確認しながら、椛は慌てて盾を引き剥がした。火球を受け止めた盾は焼けただれ、椛の腕を熱し続けていた。
「あッ! づ、グ……!」
がらんっ、と盾を放り捨てて、ようやく椛はあたりを見回す余裕ができた。
円柱型の広いフロアだ。天井は高く、はるか彼方。緩やかな弧を描く鉄の壁に、床はきめの細かい鉄の網。その下には真っ赤でどろどろの液体が泡を立てている。溶岩だ。辺り一帯が異常に暑いのは、こいつが原因だろう。
そして、
「異物発見!」
響いた声に、椛は視線を上げた。
上空にいたのは、身体の各所に異形を取り込んだ長身の少女。
鉱物に覆われた右足、六角形の木筒のようなものに飲み込まれた右腕。胸元から覗くは真っ赤な目玉。左手を添えた“筒”をこちらに向けているということは、先ほどの火球はあれから撃ち出されたものなのかも知れない。
ばさりっ。
広げた一対の大きな黒翼が空を叩く。すると、黒翼を覆うように装着された外套の裏地、星の瞬きを思わせる美しい模様がきらきらと輝いた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止よ! 急がば回れで帰りなさい!」
「は……?」
少女は肩をいからせ威嚇する。だが、帰れと言われて黙って引き返せるわけもない。
「用が済んだらすぐに立ち去る。それまでは勘弁してくれ」
短く告げて、椛は再び歩を進めた。燐はすでに反対側の扉をくぐって行ってしまっている。早く後を追わねば。
「ダメって言ってるでしょー!」
しかし、椛の前に少女が立ちはだかった。そして半身を引き、少女がこちらに向けた右腕の“筒”に変化が生じた。“筒”の中心が開き、丸い孔を覗かせたのだ。
その瞬間――
ぞわり。
言いようのない、嫌な予感。椛は足を止め、後ろからついてきている妖夢に警告の声を上げた。
「上に飛べ!!」
そして自身は横に跳んだ。次の瞬間、
こうっ!!
直前まで椛がいた場所を、光の奔流が走った。圧倒的な熱量を持ったそれは、椛たちが通ってきた扉に直撃して盛大な破砕音を轟かせる。
「あ……」
その光景に、目を丸くして間の抜けた声を上げる少女。こんなところであんなものをぶっ放せば、こうなることくらい予想がつきそうなものだが。
「いっけなーい! ケロちゃんに怒られるー!」
どうやら予想できていなかったらしい。
しかし、なんと恐ろしい力か。おつむに少々問題があるようだが、これほどの妖力、並の妖怪ではない。
左手で頭を抱える少女を尻目に、椛は妖夢を呼び寄せた。
「お前は先に行け」
告げるが、妖夢は迷うように身を右へ左へと移動させた。
このまま二人であの少女の相手をしていても時間の無駄だ。ならば、どちらかが先行して妖夢の身体を確保するが得策。
妖夢に――半霊となったいまの妖夢にあの少女の相手は無理。……まあ、燐の相手なら大丈夫かと問われると何も言えないが。だが半身をいつまでも離れ離れにさせておくよりは良いだろう。
ともあれ、ならば、
「私もすぐに後を追う」
ここは椛が請け負うしかあるまい。
無論、椛とて真正面から相手をするつもりなど毛頭ない。いまの目的は、一刻も早くここを突破すること。そして燐に連れ去られた妖夢の半身の奪還だ。
少女はこちらに“筒”を向けつつ、迷いの籠った視線を送っていた。迂闊に撃てば施設が損壊する。そんな思いが、少女を足踏みさせているのだろう。
――いける。
確かに妖力は段違いに高いが、所詮は鳥類の成り上がり。接近戦に持ち込んでしまえば白狼天狗の自分に分があるはずだ。
椛は、未だに傍らでうろうろしている妖夢を優しく撫でて、
「いけッ!」
少女のほうへ思い切り押し出した。
妖夢は急停止してこちらに――たぶん――身体を向けかけたが、やがて加速して少女の向こう側、燐の走り去った扉のほうへ一直線に飛んでいく。
「あっ、だからダメだって――」
「お前の相手は私だ」
少女の言葉を遮り、椛は駆けて大太刀を振り下ろした。
ガッ!
妖夢に伸ばしかけた手を慌てて引いて、防御のために差し出された“筒”と大太刀がかみ合う。
「すまないな。だが、こちらも友の命が半分かかっている」
もっとも、半人半霊が半身を失ったとして、残った半身が無事で入られる保障はないのだが。
飛び去る妖夢を見送りながら、さてどうしたものかと椛は考える。
この少女、おそらく施設と同様に守矢の関係者。幸いこちらの正体にはまだ気が付いていないようだが、尻尾も耳も出してしまっている以上、いつばれるか分からない。手早くあしらって先へ進まねば。
「うにゅー……まあいっか。幽霊ならお燐がなんとかしてくれるよね」
ちらりと一瞬だけ背後の扉に目を向けて、そして少女は再び椛を睨みつけた。
「私はこっちの異物を焼却処分よ!」
大太刀を弾いて少女は後ろに跳んだ。そしてすでに妖力の込められた“筒”を水平に構え、孔の開いた先端をこちらに合わせようとしている。どうやらあの“筒”は、収束させた妖力を放出する砲口の役割を果たしているようだ。
――撃つ気なのか!?
先ほどそれで壁を破壊してしまって頭を抱えていただろうに、まさかもう忘れてしまったというのか。
この距離はまずい。引くべきか、詰めるべきか。
刹那の逡巡。そして椛の出した結論は。
――撃たれる前に討つ!
前に出ることだった。
時間がないいま、受身にまわるのは得策ではない。短期決戦で勝負を決めて先へ進まねばならないのだ。
大太刀を右から左へ、横薙ぎの構え。ただし、持ち方は峰打ちの向きだ。
相手の素性は不明だが、もし守矢の関係者であればあまり手荒な真似はできない。自分のせいで守矢と妖怪の山が対立するような事態は避けたかった。
――武器を打ち払い、開いた鳩尾に一撃。
それで大人しくなるだろう。
ふたりの距離は見る見る縮まっていく。そしていよいよ椛は少女を間合いに収めようとしていた。相手の“筒”はまだこちらを向いていない。
椛が“筒”を狙って大太刀を振るった、次の瞬間。
「!?」
期待していた手ごたえはなく、空を切った大太刀に椛は目を瞠った。
少女は身を屈めていた。そして左の拳を半身ごと大きく引き絞る。狙いは……がら空きになったこちらの右わき腹。
――いかん!
「はッ!」
天を突かんばかりの勢いで拳が放たれた。一撃は狙い違わず椛のわき腹に突き刺さり――
「ちぃ!」
舌打ちとともに、椛は空いている左手を無理やり割り込ませた。ばしんと強烈な衝撃音。当然、衝撃は音に留まらず、椛の左手を貫き、その先にまで達した。
ぎしり、ぎしりと肋骨や背骨が悲鳴を上げる。瞬間的に強烈な吐き気を催したのは、内蔵にまで痛手を受けたせいだろうか。
「ぐ、ふっ……!」
肺から空気が搾り出される。苦痛と衝撃。そして身体は宙へと打ち上げられた。
――何という馬鹿力……!
彼方の天井、鉄の壁、鉄の網、そして異形の少女。身を捩った姿勢から受けた衝撃は椛の身体を回転させ、視界がぐるぐると回る。
椛は空気を求めて喘ぎながらも姿勢を制御し視線を向けると、少女は今度こそ“筒”をこちらに向けていて――
「いっけぇ!」
そして撃ち出されたのは、最初に受けた巨大な火球だった。これならば時間とともに威力は大幅に減じられる。壁に接触しても問題はないということだろう。
案の定、火球はみるみるその身を小さくしながら椛のほうへと飛んできた。だが、それでも大きい。そしてあの威力である。多少劣化したものでさえ、椛に直撃すれば骨さえ残らないかもしれない。
こちらは空中に浮かされ体勢も整っていない。盾は失い、防御もままならない。左手の刺すような痛みは、骨が砕けてしまっただろうか。
だが、だがしかし!
――こんなところで立ち止まっているわけには!
友の命がかかっている。たとえこの身がどうなろうと、彼女の肉体だけは……!
「うおおぉぉあああ!!」
雄叫びは、しかし炎に飲み込まれた。
構えた“制御棒”をゆっくりと下ろしながら、少女は一息。
「焼却完了!」
回避も防御もできていない。跡形もなく消し飛んだはずだ。
と、
がしゃん!
床に何かが落ちた。
焼けただれ、細くいびつな形のそれは、侵入者の使っていた剣だろうか。刃の部分は蒸発してしまったようで、随分と短くなっている。
「いけない。あれも捨てておかないと」
よく分からないが、この“間欠泉地下センター”はクリーンなところらしい。クリーンということは、つまり、なんかこう、ゴミとか残してはいけないのだ。
がしゃんがしゃんと鉱石の足を鳴らしながら、少女は燃え残った剣に向かって歩き出した。
その頭に、
がすんッ!
「い゛!?」
赤い高下駄を履いた少女が着地した。
「やれやれ、危うく消し炭だったな」
高下駄の少女――椛は嘆息しながら改めて床に降り立った。
まさしく間一髪であった。あの時、椛はすんでのところで大太刀を盾にし、できた一瞬の隙にその大太刀を踏み台にして跳躍。辛くも火球を回避したのだ。
脳天にきつい一撃を受けた少女は、目を回して倒れてしまった。いい勢いで着地してしまったが、まあ大丈夫だろう。
――急がなくては……!
椛はフロアの奥、燐の走り去っていった扉を睨みすえて駆け出した。
「妖夢……!」
しかし、出際に一度だけ振り返り、
――……すまない。
業物と呼ばれるほど上等な一振りではないが、それでも長年を共にしてきた大太刀である。少なからず愛着はあった。
しかしいま、その相棒は刃を失い、柄にも深刻な損傷を受けてしまった。あれではもう修復は不可能だろう。
だから椛は、内心で頭を下げた。これまで共に戦ってくれた“戦友”に。
そして報いねばならない。必ず妖夢を救い出すと、椛は刃なき戦友に誓った。
「あらあら、空(うつほ)を倒してしまったの?」
しかし、開いた扉の向こうに立ちはだかるものがいた。
くせのある紫色の髪の少女。小柄な身体を包むのは空色を基調とした衣装。しかし、何よりも目を引くものは、その身体にまとわりつく幾本もの紐のようなものと、胸元でこちらを見る眼球だった。
眠たげな両の眼と、胸元の眼球で少女は椛を見ながら嘆息した。
「参りましたね。それではこちらもそれなりの“礼”をしなくては、他のペットたちに示しがつきません」
「どけ!」
時間がないのだ。御託など聞いている暇などない。
幸いにも、この通路も広かった。飛び越えるなり横切るなりで先へ進んでしまおう。
「ああ、それは無理。無理ですわ」
その時、胸元の眼球が輝いた。
「く!?」
強烈な白光に椛は思わず足を止め、眼前に腕を掲げた。
――時間稼ぎのつもりか!?
「くだらない真似を!」
「いいえ、時間稼ぎなどではありません。これは――」
と、光が弱まった。そして色が変わっていく。赤、緑、青、と様々な色の光が不規則な明滅を繰り返し、椛の身体を照らした。
光量が抑えられたことで眼を開けることができた椛は、眼前の腕をどかして少女を睨みつけ、
「!?」
ぐらりと、身体が傾いだ。発光を繰り返す眼球から眼が離せない。
――なん、だ、これは……!?
「これは、お仕置きですから」
堪え切れずに膝をついた椛の耳に、少女の声が滑り込む。ぐるぐると混濁する頭の中をかき回すように、満たすように、刷り込むように。
「さあ、思い出してください。貴方がかつて感じた恐怖を」
――私の、恐怖……?
「そう。貴方の絶望を私に見せて」
「その“絶望”が、貴方を打ち倒しますわ」
少女の手の中には一枚の符があった。それは少女の言葉に呼応するように、色を変え、なかの模様を変え。
「……あら、これはまた面白いものが出てきましたね」
やがて変化を遂げた符を見て少女はくすくすと笑った。そして動けぬ椛に向けて符を掲げながら言う。
「そちらにも事情がおありのようですが、まずはこれを受けなさい」
恋符『マスタースパーク』
符から放たれるは、膨大な光の奔流。それは、先ほどの異形の少女が撃っていたものよりもさらに極太だった。身体は満足に動かず、そもそも通路いっぱいの太さを誇るそれに逃げ場などなく。まさしく“絶望”だ。
そして椛は、この攻撃に見覚えがあった。たとえ意識が混濁していようと、こればかりは見紛うものか。これは、この魔法は、
――霧雨魔理沙、だと!?
人間の魔法使いが使う最大の魔法。つい先日も、椛はこれに落とされたばかりだった。
――何故マスタースパークが!?
その問いをする間もなく、椛は光に飲まれた。
…………
舞い散る木の葉はただ赤く。
誰かが哭いている。天に向かって哭いている。
真っ白な狼の耳、狼の尾を持つ少女だ。そして、狼少女に抱かれた少女がひとり。
腕のなかの少女は血に塗れていた。傍らには刀が三本。長いもの、短いもの、そして幅の広いもの。
はらり、はらり。
流れる血潮は紅葉をさらに紅く染め。少女の慟哭は遠く、彼方まで――
…………
「!?」
布団を跳ね除け、椛は飛び起きた。
呼吸は荒く、身体は汗でじっとりと湿っていた。そして、頬を伝うこれは……
――……涙?
なにか、ひどく嫌な夢を見ていた気がする。しかし、どうにも内容を思い出せない。
額の汗を拭おうとして、椛は左手の包帯に気が付いた。いや、左手だけではない。身体のあちこちに包帯が巻かれていた。誰かが治療してくれたのだろうか。
「椛! 椛! 大丈夫ですか!?」
と、椛の肩をつかむものがいた。
銀の髪、黒のリボン。二振りの刀を携え瑠璃の瞳でこちらを見る少女は。
「妖夢……なのか?」
「はい。椛のおかげで――」
言葉が終わるよりも早く、椛は妖夢の頬に両手で触れた。間違いなく実体がある。
「あっ、あの、椛?」
「妖夢なんだな。本当に……」
そして椛は妖夢の身体をゆっくりと抱きしめた。首筋に顔を強く押し付け、鼻腔を妖夢の香りで満たす。
――ああ、この香りだ……
妖夢の後ろで半霊が右往左往しているが、構わない。もう二度と、この身体に触れられなかったかもしれないのだ。だから、椛は強く、強く、抱きしめた。
「また、心配をかけちゃいましたね。ごめんなさい」
「いい。お前が無事でいてくれたなら、それで……」
妖夢の手が椛の背にまわる。
互いの無事を確認しあったふたりは、そうしてしばらく身体を重ね続けた。
「それで、ここはどこだ?」
あたりを見回しながら、椛は妖夢に問うた。
洋室のようだ。調度品はどれも質が良さそうに見える。そして椛はいま、ふわふわのベッドの上にいた。これもまた上質そうで、心地よい弾力と感触が椛に安心感をもたらしていた。
どうにも、意識を失う直前のことがよく思い出せない。鳥の妖怪を倒したところまでは覚えているのだが……
「ああ、ここはですね、」
「それは私がお答えしましょう」
妖夢の言葉を遮って部屋に入ってきたのは、小柄な少女だった。
「お前は……?」
「あら、忘れてしまいましたか? まあ、自身のトラウマに直面したのです。記憶が混乱してしまっても仕方ありません」
癖のある紫色の髪。空色を基調とした上着と桜色のスカート。そして身体に絡みつく幾本もの紐のようなものと、
「……!」
胸元からこちらを見つめる眼球ひとつ。
「思い出したようですね」
――この女だ。
その胸元の眼光で椛を前後不覚に陥らせ、さらにはマスタースパークを操った少女。
椛は慌ててベッドから降りると、妖夢をかばうように前に出た。ざっと室内を見回したが、武器に使えそうなものはない。
この状況で、あの得体の知れない術を使う少女にどう立ち向かったものかと思考をめぐらせていると、妖夢が椛の肩を掴んだ。そしてゆっくりとベッドに座らせる。
「椛、落ち着いてください。彼女は私を助けてくれたんです」
「……なんだと?」
「まあ、なんというか……ペットが面倒くさい拾い物をしてきたので、持ち主に返しただけですが」
妖夢を見ながら、少女は肩をすくめて言った。
「まったく、燐にも困ったものです。うちは怨霊も管理していますから冥界とも関わりがあるというのに、よりにもよってその関係者をさらってしまうなんて」
「怨霊の管理……まさか、お前は……!」
少女の言葉に椛は表情を強張らせた。
「あらあら、そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか、“犬走椛”さん?」
「ち……」
不気味な薄ら笑いを浮かべる少女と椛の舌打ち。そんな二人を妖夢はきょときょとと交互に見た。
「お二人は知り合いなんですか?」
「いや、知り合いではない。が、」
「そう、あの鴉天狗から聞いたのね」
「……そういうことだ」
「え?」
「あら、『悪趣味』だなんて、酷い言われようですね」
「……」
「ええ、それはどうも」
「え? え?」
さらに二人を交互に見ながら、妖夢は疑問符を飛ばす。
そんな妖夢の様子に嘆息しながら、椛は忌々しげに吐き捨てた。
「この女、“古明地さとり”は他人の心を読む。……そして、灼熱地獄跡の管理人だ」
「他人の心を……!?」
地獄から切り離された土地とはいえ、そこには役割が残されていた。それが灼熱地獄跡の火力調整と怨霊の管理である。
そして、それらの仕事を任されているものが、この地霊殿の主“古明地さとり”だ。
さとりの持つ“心を読む程度の能力”は、人も、妖怪も、動物や幽霊の心さえも見透かす。さらにその力は、相手の心的外傷を抉り出す。椛が受けたマスタースパークも、椛の記憶から引き出されたものだったわけだ。
誰しも知られたくない秘密やトラウマのひとつやふたつは持っているものである。しかし、さとりはそんな想いや記憶を暴く。ゆえに、さとりは旧都の管理者を閻魔より任されているのだろう。彼女は同じ旧都の妖怪からも忌み嫌われ、畏れられていると聞く。
さて、そんな妖怪を前にしてどのような反応を示すだろうかと、椛は妖夢を見た。が、意外にも妖夢の表情から嫌悪の色は見えず。
「……あまり動揺していないな」
「そう、ですね」
しかし、
「それは確かに、私だって隠し事くらいありますから、それがばれてしまうのは困ります。
でも、さとりさんは私を助けてくれました。椛を助けてくれました。さとりさんを信用するには、それで十分だと思うんです」
そう言って、妖夢は笑ったのだ。
「な……」
椛は絶句した。心を読まれて、こうも平然としていられるものなのか。
「面白い子ですね。他の方たちと比べて、この子はほとんど私のことを嫌悪していない」
「むしろ、うちのお嬢様の考えが分からなくなるときばっかりなので、さとりさんの力を借りたいくらいですよ……」
乾いた笑いを浮かべる妖夢を見ながら、敵わないなと椛は思った。
たとえ恩人であろうと、こうも簡単に他人を信用できるものなのだろうか。
しかし、それは美徳であるが、同時に危険なものでもあると椛は感じていた。鬼以外の地底の妖怪は、危険な能力を持つがゆえに地上から追放されたものが多い。その地に住むものを信用するなど……
と、その様子に気付いたさとりが椛を見て微笑んだ。
「貴方はまだ私のことを信用していないみたいですね」
「そうだな」
「椛……」
さとり妖怪を前に隠し事は無意味。だから椛は素直に答えた。
妖夢を助けた理由は分かった。妖夢の所属する冥界と旧都は、種類は違えど同じ霊を管理しているのだ。決して無関係ではないのだろう。
だが、分かっていないことがもうひとつだけある。
椛の心を読んださとりが、先んじて言葉を紡ぐ。
「どうして私が貴方を攻撃したのか、ですか。
あのときも言いましたけど、貴方が間欠泉地下センターで倒した空も、私のペットなのですよ。彼女が倒されて私が何もしないと、他のペットたちに示しがつきませんからね」
「ふむ」
――意趣返し、というやつか。
それならば分からなくもなかった。天狗も、仲間がやられれば、その敵を総出で叩きにかかるだろう。
しかし、いまのさとりの言葉により、さらに気になることができた。
――間欠泉地下センター……
河童が守矢の神と共同で建造した施設だったと記憶していた。つまり、
「お察しの通り、空も守矢神社と関係を持っています。殺さなくて正解でしたね。
もっとも、空が守矢と関わっていようがいまいが、彼女を殺すようなことがあれば、私が貴方を殺していようでしょうけど」
背に嫌な汗を感じる。微笑みのなかから発せられる妖気は、小柄な身体からは想像もつかないほどの威圧感を放っていた。それだけ彼女はペットを大事に思っているのだろう。
しかし、分かっていたことだが、やはり頭の中を覗き見られて気分のいいものではない。
「まあこういう種族なもので」
だとしても、わざわざ言わなければ良かろうに。
「それも存じています」
「……」
「あ、あの……?」
言葉と心を織り交ぜたやりとりに、妖夢が心配そうに椛を見ていた。さとり妖怪は他人の思考を読んで会話を進めていくため、第三者からは話の流れが分からないだろう。
「わっ」
だから、椛は妖夢の頭をわしわしと撫でてやった。
「案ずるな。話はついた」
「そ、そうですか?」
「うむ、ここは地底の妖怪の領域だからな。一戦を交えるには分が悪い」
「椛!?」
「いえこの人そんなこと全く考えていないですよ」
「……椛?」
不安げな顔、驚いた顔、訝しげな顔。本当に妖夢は見ていて飽きない。
「他人の表情を見て楽しむなんて、いい趣味じゃないわね」
お前が言うか。
「妖夢が無事でいてくれたし、私も生きている。古明地殿と争う理由はない」
「それならいいですけど……」
しかし、妖夢の表情はまだ少し曇っている。椛の、哨戒天狗としての疑り深さを知っているゆえだろう。
そして椛は自身の顔に手を当て、気が付いた。
――ずいぶんなしかめっ面だな。
見事なへの字口だった。傍から見たら不機嫌に見えることだろう。これでは妖夢が心配するのも無理はない。
そう、これでは駄目なのだ。人間も妖怪も関係ない。百聞でもなく、百見でもなく、体験こそが物事の本質を知る第一歩であると、椛は他でもない妖夢に教えられた。
その妖夢が、地底の嫌われ者である古明地さとりを信用している。それは何故か。
――私も、もう少し変わらなくては、な。
思い、椛は深呼吸をひとつ。
「ああ、問題ない」
そして妖夢の頭を撫でながら微笑んだ。
「あ……」
妖夢は、少し驚いた表情で椛を見つめている。
さとりは妖夢の身体を救ってくれた。それで良いではないか。周りの評価がどうあれ、椛と妖夢にとっては、それが古明地さとりなのだ。
椛はさとりに向き直ると、頭を下げた。
「古明地殿、疑って悪かった」
「いえ、慣れていますから。それに、貴方の判断は間違っていない」
「なに?」
「私だって打算も無しに人助けなんてしませんよ。お二人は、うちの大切なお客様のようですからね」
…………
ちゃぷん。
「まさか貸し切りさせてもらえるなんて、怪我の功名でしたね」
「文字通りな」
巨大な岩盤から削りだしたのだろうか、泳げるほど広い岩の浴槽に、椛と妖夢は並んで身を沈めていた。にごり湯からかすかに漂うは硫黄の香り。少し熱めの湯加減は、椛にとってはちょうど良かった。
旧都の温泉旅館、その大浴場である。地霊殿の程近くに位置したここは、さとりの管理する旅館のひとつなのだそうだ。今回の侘びをかねて、滞在中は夜の決まった時間帯だけ、風呂場を貸し切りにしてもらえることになった。
「椛、手は大丈夫ですか?」
「問題ない。少し疲労するが、妖力を集めて自己治癒力を高めていたからな。疲れた分は、温泉でゆっくり休めばいい」
妖夢に問われ、椛は湯から左手を出した。そして握って、開いて、握って、開いてと見せてやる。妖怪ゆえ、その治癒力も非常に高い。体中に受けた火傷も、すでに治りかかっている。左手には違和感が残るだろうが、それ以外の傷は明日には治りそうだ。
しかし、妖夢は安堵の息をつくと、今度は二の腕のほうに目を向け表情を曇らせた。
「その傷……」
椛の二の腕には、いくつもの小さな傷跡に混ざってひときわ大きな刀傷の跡があった。
「ああ、これか」
懐かしいな、と椛は思った。そして傷跡を撫でながら言葉を続ける。
「昔から、戦いでできた傷は残すことにしているんだ。この身についた傷もまた、私の生きた証、戦いの歴史――誇りだからな」
取り分けこの刀傷は、感慨深い。
「誇るといい。これほど大きな傷をつけたのは、妖夢が初めてだ」
「そ、そうですか? えへへ……」
これはかつて、妖怪の山で妖夢と相対したときにつけられた傷だった。
神速の一閃。それは椛の盾を容易く切り裂き、腕にまで達したのだ。
この一撃のおかげで、妖怪の山しかなかった椛の世界は広がった。愛しい友人ができた。
そう、あのときの一撃が……
「……」
あのときの映像は何だったのか。
地霊殿を出る際にさとりが椛に耳打ちした話があった。あのとき、椛の心の底から湧き上がった、マスタースパークとは違った“絶望”の形。
紅葉と、鮮血と、刃と人と妖。
『あの映像は、貴方の何だったんでしょうね?』
あのとき、一歩間違えていたら、椛は妖夢を殺していただろう。それが、椛にとっての“絶望”だったのだろうか。
否、と椛は思う。
――誤っていた“かもしれない”過去を恐れる必要はない。
その過去は過去だ。すでに終わっている。誤らずに済んでいる。安堵こそすれ、恐れる理由はない。
ではあの映像は一体?
――……私はいつか、妖夢を殺してしまうかもしれない?
いつか、成長した妖夢と再戦する約束を椛はしている。そのとき椛は、妖夢を殺さずに済むだろうか。その懸念が、あの映像だったのだろうか。
それは確かに、椛にとっての“絶望”なのかもしれない。妖夢の存在は、それほど大きくなっていた。
だが、
――妖夢は生きている。私も生きている。
先のことは分からない。いつか来る別れのときを憂うより、そのとき悔いが残らないよう、いまを精一杯生きよう。
「椛、どうかしましたか?」
思索に耽る椛の顔を、妖夢が覗き込んでいた。
「いや、なんでもない。それより、ひとつ聞いていいか?」
「は、はい、いいですけど」
だから、悔いのないよう、気になることを聞いておこうと椛は思った。先日から気になっていた“あの件”について。
「妖夢、お前は、その……苦痛を、どう思っている?」
「……どういう意味ですか?」
「いやっ、そのなんだ、ええと……」
だが、いざ聞くとなるとなかなか難しい。
妖夢の訝しげな視線を受けながら、椛は視線を右往左往。
――ええい、ままよ!
やがて意を決し、椛は妖夢の正面に移動してその白く華奢な両肩を掴んだ。
「妖夢!」
「はい!?」
「率直に聞くぞ。お前、痛いのが気持ちいいのか?」
「……はあ?」
呆れられている!
椛は慌ててばしゃばしゃと手を振りながら、さらに言葉を重ねた。
「ああいや、お前が修行でついた傷を見て笑っているという話を聞いてだな、その、痛みで悦んでいるのではないかと……」
「な!? ち、違います! そんなんじゃありませんって!」
まさかそんな風に思われているなど、夢にも思っていなかったのだろう。今度は妖夢が慌てて手を振った。
「大体、そんな話、誰から聞いたんですか!?」
「西行寺殿から聞いたと射命丸さんが」
「幽々子様……。いえ、でも確かに傷を見て笑うこともありますけど、決してそういう意味ではなく!」
「なく?」
「えっと、そ、その…………わ、笑いません?」
「ああ」
妖夢はもじもじと身じろぎをして、そして椛の腕を掴んだ。椛が妖夢の肩から手を離すと、今度は両手で顔を覆う。
「私、まだまだ半人前ですけど、こう、傷の数だけ強くなれてるんじゃないかなって。傷の数だけ、椛に近づけたんじゃないかって……そう考えると、なんだか嬉しくなっちゃって……」
そして顔を隠したままぶんぶんと顔を振り出す。その耳は真っ赤になっていた。
「……妖夢」
「やっ、分かってます、分かってます! 傷の数なんて全然関係ないですよね!」
――そんなことを言われてしまったら……
返す言葉が出てこない。顔がどんどん熱くなっていく。このままではまずい。このままでは……
「…………」
「……椛?」
「ちょ、待てッ!」
手をどけてこちらを見ようとした妖夢の顔面に、椛は思い切り手のひらを当てた。ばちんといい音が広い浴場に響く。
「あいた!? な、なんですか!? なんですか!?」
「あ、と、すまない、その……そういうことなら、別に良い。妖夢が変な趣味に目覚めてしまったわけではなくて安心した」
「そ、そうですか。……で、あの、これは……?」
「これは、そ、その……」
ひとまず妖夢の顔を抑えてこちらを見られないようにしつつ、椛はどうしたものかと考えた。
とにかく落ち着かねば。そうは思うのだが、こればかりは自分ではどうにもならない。
だから椛は、
「~~ッ! のぼせた! 先に上がるぞ!」
「え、あの、椛?」
勢いよく立ち上がると、尻尾を押さえながら逃げるように浴場をあとにしてしまった。
脱衣所に戻って浴場を振り返り、妖夢が追ってこないことを確認した椛は安堵の息をつきながら尻尾から手を離した。途端、尻尾は意思とは無関係にぶんぶんと揺れる。
「私も、まだまだ修行が足りないな」
――傷の数だけ、私に近づけた気がする、か。
顔が熱い。洗面台の鏡で見てみると、案の定、真っ赤に染まっている。そのうえ、だらしなく緩んでいた。
「あー……」
自分は妖夢の目標として前に立っている。その事実が、途方もなく嬉しかった。これからも彼女の目標として在りたい。そう強く思った。
だからこそ、椛は逃げ出してしまったのだ。こんな、顔を真っ赤にして尻尾を振る姿など……
「まったく……こんな姿、かっこ悪くて見せられん」
尻尾の揺れは収まらず、しばらくの修行はこいつの制御だなと椛は独りごちた。
了
轟々――
降る清水は絶え間なく、幻想郷に潤いを与え。
八百万の神々と天狗が支配する妖怪の山。そこから降る九天の滝、その上部からつき出した岩場にひとりの少女が立っていた。
赤い高下駄、裾に紅い楓模様の散りばめられた藍のスカートに、白い腋出しの装束。そして、純白の髪の毛と獣の耳、尻尾。頭の上には小さな赤い八角帽がちょこんと乗っていた。
少女は幅広の刀を地に軽く突き刺し、その柄に手を乗せて幻想郷を俯瞰していた。赤みのかかった黒檀の瞳は鋭く、口は真一文字に引き締められて。その様は、少女の生真面目さをよく物語っていた。
空気はまだ冷たいものの、日差しは暖かく冬の終わりが感じられる。また、幻想郷中が春の陽気にあてられて騒がしくなるだろう。
と、
「あふ」
大きなあくびをひとつ。
白狼天狗の犬走椛は、今日も山の哨戒に精を出していた。
「……いかん」
頭を軽く振りながら、椛は呻いた。
幻想郷は相も変わらず平和すぎて、油断をするとすぐに眠たくなってしまう。
と、
「なにやってるの?」
上空から声。
聞きなれた声に椛は顔を上げた。声とともにこちらへゆるりと降りてきたのは、風をまといし黒髪の少女。
「射命丸さん」
「お疲れさま」
ひらりと手を振り、鴉天狗の射命丸文は椛の隣の空中で制止した。文のまとう風が椛の白髪をふわりと踊らせる。
「お疲れ様です。いえ、まあ……少し考え事をしていまして」
応じて頭を軽く下げながら椛は答えた。
「そ。調子はどう?」
「見ての通りですよ。異常はナシ、侵入者はゼロ。平和なものです」
椛は大太刀を引き抜き、両手で正眼に構えた。そしてゆっくりと振り上げ、呼気とともに勢いよく振り下ろす。
びゅんッ! と、空を切る音が響いた。
「このままでは、身体がなまってしまいます」
「またまた。聞いたわよ。また魔理沙と弾幕ごっこしたんだって?」
「む……」
いたずらっぽい笑みを浮かべた文の言葉に、椛は眉間にしわを寄せた。
不可侵の地である妖怪の山だが、そこに頻繁に侵入をする人間がひとりだけいた。それが“霧雨魔理沙”だ。
彼女が山に来る目的は様々だが、多くの場合は守矢神社に向かうためだった。
山の中腹に位置する守矢神社は、この地で唯一天狗の監視外と定められた領域。参道を含めて人間の侵入が許されている。だというのに、魔理沙はいつも天狗の領域を侵しながら守矢神社へと向かう。曰く、直線距離では天狗の領域を突っ切ったほうが近いからだということだが、哨戒天狗の相手をしていては意味がないのではといつも椛は思う。つい先日も魔理沙が山へと突入してきて、哨戒の任についていた椛と激突したのだが……
「やはり、弾幕ごっこには慣れません」
相手はたかが人間。斬ったはったならば椛の負けはないのだが、弾幕ごっことなると魔理沙のほうに一日の長があった。あの高密度の弾幕は、避けられる気がしない。
「ごっこ遊びなんだから、そんなに難しく考えないで楽しみなさい。弾幕を楽しめるようになれば、道も見えるようになるかもね」
「むう……」
簡単に言ってくれる。取材で数多の弾幕をくぐり抜けてきた文と違って、椛は弾幕ごっこの実践経験が圧倒的に少ない。そう簡単にはいかないものなのだ。
眉間にしわを寄せて憮然とする椛の眼前に、一枚の手紙が差し出された。
「はいこれ、いつもの」
「ああ、ありがとうございます」
途端に表情を緩めた椛は、手紙を受け取ると宛名を確認した。
封筒の隅に記された名は。
かつて、妖怪の山にひとりの剣士が足を踏み入れた。紅葉の美しい秋の日のことだ。
当然、山の哨戒をしていた椛は侵入者の追い返しに出向いたのだが、その剣士は一向に退こうとしない。
その剣士の心意気に、また、久しく実戦で剣を振るっていなかった椛は興味から『自分に一撃を打ち込むことができたら話を聞く』という条件を出し、剣士と戦った。
ちょっとした戯れのつもりだった。適当にあしらってから追い返すつもりだったのだが、結果は違った。椛はただの剣士に……それも、まだ年端も行かない少女に一撃を許し、敗れたのだ。
椛のなかで、剣士に対する興味は、大きくなった。
その一件より、椛と剣士は交流を始めた。こうして手紙のやり取りをし、たまの休みには剣を交えて切磋琢磨し。
その剣士――幻想郷でも有数の力を持つ天狗から一本を奪い取った少女の名は。
――魂魄妖夢。
封筒の文字を指でなぞりながら、椛は差出人の名を反芻した。そして封筒を懐にしまって微笑む。
「確かに。ありがとうございます」
「読まないの?」
「哨戒中ですから」
「真面目ねえ」
中身は家に帰ってからじっくりと読ませてもらおう。さて、今回はどんなことが書いてあるだろう。主人から受けた無茶振りの話だろうか。最近読んだ書物――漫画が多いあたり、まだまだ子どもだ――の話だろうか。
思いをめぐらせながら、椛は大太刀を構えてもう一振り。
びゅッ!
空気を切り裂く鋭い音は、滝の轟音にかき消されて。
――……
さらに、
びゅんッ!
「……」
――……
「……射命丸さん」
「なに?」
「まだなにか?」
用件はもう済んでいるだろうに、文はいまだに椛の素振りをじっと眺めていた。
さすがに少し気恥ずかしくなって椛が問うと、文は「ああ、いや、」と軽く手を振り、
「あんまり綺麗だったから、つい……」
「で、まだなにか?」
「やだつめたい」
文は少しだけ肩を落としつつ。
「実はね、話はもうひとつあって……。魂魄さんのご主人様からクレームがあったのよ」
「く、クレーム?」
寝耳に水の話に椛はたじろいだ。
妖夢の主人には椛も会ったことがある。人懐っこいがつかみどころのない、奇妙な亡霊姫だ。
はてと椛は考えた。思い出す限りでは、彼女に対して――もちろん妖夢に対しても――心象を悪くするような振る舞いをとった覚えはないが。
「魂魄さんが貴方のところに行く度に、生傷を作って帰ってくるって」
「……いや、それは仕方ないでしょうに」
こちとら剣の稽古をつけているのだ。怪我のひとつやふたつ、できて当然だ。
「で、その傷を見て笑っているそうよ」
「え」
「貴方……魂魄さんにヘンなコト教えてないでしょうね?」
「教えてませんよ人聞きの悪い!」
なんというか……何かに目覚めさせてしまったのだろうか。普通に稽古をつけているだけのつもりだったのだが。
「で、まあ魂魄さんの嗜好は兎も角として」
果たしていまの話を兎も角としてよいものか。
「そんなわけで、たまにはゆっくり休ませてあげたいそうなのよ」
そう言いながら文は、頭を抱える椛の眼前に二枚の紙切れを差し出した。
「はいこれ、温泉旅館のタダ券」
「……はあ」
「貴方、お供」
「私ですか」
「きびだんごあげるから」
「手羽からかっさばいて美味しくいただいてやりましょうか」
「冗談よ」
「分かっていますよ」
いい加減、この飄々とした鴉天狗との付き合いにも慣れてきた椛である。つまり、妖夢と二人で温泉旅行に行ってこいと、そう言いたいわけだ。
椛は券を受け取り、しかし難しい顔を浮かべた。
「これ使用期限が三日後までじゃないですか」
天狗の社会は人間のそれよりも厳格である。椛に割り当てられている仕事――哨戒の任を勝手に休むわけにはいかない。
「まずいな、いまから申請して間に合うか……?」
少し直前過ぎるかもしれない。休暇を取る場合は、事前の申請と哨戒の代理をたてなければならない。もしも代わりが見つからなければ、椛は持ち場を離れられないのだ。その場合は、妖夢には申し訳ないが件の温泉には他のものと行ってもらうことになる。
ところが、頭をぼりぼりとかいて焦燥をあらわにする椛に対して、文があっけらかんとした様子で言った。
「あ、申請はもう私がしといた」
「勝手に!?」
「安心しなさい。きっちり通しておいたから」
「通ったんですか!?」
天狗は仲間意識が非常に強いと言われているが、同じ天狗内でも白狼天狗と鴉天狗の仲は芳しくなかった。
戦において前線で剣を振るっていた白狼天狗は“敵を倒すこと”を優先とし、諜報を担っていた鴉天狗は“生きること”を優先とした。ゆえに、手にした情報を持ち帰るためには敵から逃げることを厭わない鴉天狗を『臆病者』と白狼天狗は蔑み、自らの命をかえりみず一人でも多く敵を倒そうとする白狼天狗を鴉天狗は『ナンセンスだ』と揶揄した。かつての椛も、そんな型にはまった白狼天狗の一人だったが、文との交流を経ていまは考えを改めることとなったのだが。
閑話休題。二人の思想はどうあれ、白狼天狗と鴉天狗の間に軋轢があることは事実。しかし、文はそんな中で白狼天狗の詰め所まで行って椛の休暇の代理申請をしてきたと言うのだ。そしてそれを通したと。
驚愕する椛の様子に気を良くしたか、文はしたり顔で胸を張る。
「ま、私にかかればこんなもん余裕よ余裕」
「いったいどんな汚い手を」
「うんまあ今回に関しては否定しないけどネ……」
文は八つ手の団扇を取り出してぱたぱたと扇ぐ。白狼天狗とて、自身の毛のように全てが真っ白ではないということなのだろう。大方、上役の弱味なり何なりをちらつかせて言うことを聞かせたか。
――こちらに被害は及ばないだろうな……?
一抹の不安は残るものの、ともあれ休暇の心配がなくなったことはありがたい。椛は文に向けて小さく頭を下げた。
「お手数をおかけしました。ありがとうございます」
「ん、よろしい」
偉そうに頷いて、文は少しずつ椛から離れていく。
「それじゃ、三日後ね。詳細は追って連絡するから」
「分かりました」
飛び去る黒を見送って。
――温泉か……
思えば、旅行など初めてかもしれない。さらに友人も一緒となれば、きっと楽しいに違いない。哨戒中だと自身を諌めつつも、椛は尻尾の揺れを抑えることができなかった。
…………
「…………あの女」
――許すまじ。
眼前に広がる暗闇に、椛は憮然と呟いた。
幻想郷の東側、博麗神社に程近い森のなかで“それ”はぽっかりと口を開けて椛たちを飲み込まんとしていた。
地底へ続く大空洞。かつて山を支配していた鬼が移り住んだ地への入り口だった。よもやこんな場所に案内されようとは。
すなわち、件の温泉旅館の場所とは、
「旧都か……」
ここまで案内してくれた文が、そそくさと飛び去っていった理由が分かった。彼女は地底に行ったことがあったはずだ。顔を合わせづらいものもいるのだろう。
――嘘を嫌う鬼が多く住んでいることも、おそらく理由のひとつだろうな。
「椛、どうかしたんですか?」
眉間にしわを寄せて空を見上げる椛の袖を引く少女がいた。
肩で切り揃えられた銀の髪に黒いリボン。白のブラウスの上には、いつもの緑を基調としたベスト。そして同じ意匠のスカートと、やはり意匠を同じくした外套で身体を覆っていた。手にした鞘袋のなかには、刃渡り違いの刀が二振り。
「……いや、少しな」
様子を窺うように近くを飛んでいた霊魂――少女の半身たる半霊を撫でながら椛は答える。ある程度は感覚が繋がっているのか、持ち主の少女、魂魄妖夢はくすぐったげに目を細めた。
しかし、椛の心中は穏やかではなかった。地底に天狗が姿を現せば、鬼たちはどう思うだろうか。見下ろせば、この身を包むは白の外套が一着。その下はいつもの天狗装束だった。大太刀と盾も持ってきてしまっているし、正体を隠すには少々心もとない。
とはいえ、いまから山に戻って着替えるという策も現実的ではない。旧都までどれだけかかるか判然としていない以上、あまり余計なことで時間を食いたくはなかった。
「あ、あの、椛……?」
「ん?」
呼ばれて目を向ければ、妖夢はもじもじとしながらこちらの手元を見つめていた。つられて椛もそちらを見ると、
「あ」
考え事をしていたせいか、ずっと半霊を撫で続けていたようだ。
「ああ、すまない」
「いえ……」
慌てて手を離すと、半霊はふるりと震えて半人のもとへと飛んでいった。
なんとなく気恥ずかしくなった椛は、外套がはだけないように気をつけながら大空洞のなかに向かって歩き出した。
「では、行こうか」
「あ、待ってください、椛」
慌ててついて来る妖夢を横目に見つつ、何事もなければよいがと椛は思いを巡らせていた。
熱気と活気に包まれて。
通りに灯る行灯や松明の火は日光の代わり、あるいは月光の代わりとして居並ぶ店舗や人々を赤々と照らしていた。あちこちで客も店主もせわしなく、しかし楽しげにはやし立てている。
やれあれが安いだやれもっと安くしろだやれ酒だ喧嘩だ江戸の華だやれ何だやれ何だやれ何だ。
「活気があるのは良いが、いささかやかましいな」
「椛、そんな身も蓋もない」
露店の親父に押し付けられるようにして買わされた焼き鳥をかじりながら、椛と妖夢は旧都の街を歩いていた。程よい焼き加減のもも肉に甘辛のタレが良く絡んでいて、
「美味い」
「そうですね」
あの一つ目親父、侮れぬと称賛を送る横で、妖夢はくすくすと笑っていた。
と、
「椛」
ふらりとよろめいた椛の身体を妖夢が支えた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまない」
普段と勝手が違うため、どうにもバランスを崩してしまう。
「やはり、尻尾がないとどうにもな」
そう、いまの椛には狼の尻尾と耳がなかった。
ある程度の力を持った妖怪は、自身の肉体を変容させることができる。当人の妖力や修行次第では、元の姿から全く別のものに変化することも可能だ。椛も全身変化はできなくもないが、あいにく長時間の変化は不可能。ゆえに、尻尾と耳を消すのみにとどまっていた。だがそれでも、白狼天狗の象徴たる尻尾と耳である。椛の正体を隠すには十分だろう。大太刀と盾はそのままだが、こればかりは仕方ない。
しかし、生まれたときからずっとあった尻尾である。椛にとっては身体のバランスを取る重要な部位でもあった。それが突然なくなってしまっては、足元が覚束なくなるのも仕方がないだろう。
「下駄も履き替えたほうがいいかもしれませんね」
天狗の履く下駄は歯が一本しかない上に長い。普段は頭ひとつ分ほどの身長差がある椛と妖夢だが、高下駄を脱げば二人の身長差はだいぶ縮まる。それほどの下駄を履いて武器を振り回すことができるのは、ひとえに天狗の身体能力の高さの証明と言えよう。だが、いまの椛には少し高すぎた。
椛は自身の臀部――尻尾のあった場所をさすりながら言う。
「宿につけば普通の下駄くらい借りることができるだろう。滞在中はそれを使わせてもらうとするか」
今回の滞在期間は二泊三日。丸々一日はゆっくりできるよう計画されていた。耳と尻尾がないのは少々心もとないが、何事もなければのんびりと旧都観光と洒落込めるだろう。
日は見えないが、腹具合からみていまは昼過ぎくらいだろうか。宿で荷物を置いてから、また街に繰り出して昼食をとるのも良さそうだ。早くこの身体に慣れなければいけないし、良い訓練になるだろうと思いつつ、椛は串に残った最後の焼き鳥を咀嚼した。
と、
「んー、匂う……」
『!?』
すぐ背後から声。二人が弾かれたように振り返ると、そこには、
「匂うよ、お嬢ちゃん」
猫車を携えた少女がひとり。
黒を基調に深緑の装飾が施された上下。ワインレッドが鮮やかなお下げ髪。その頭に頂くは黒い獣の耳。獣の成り上がりだろうか。
「え? わ、わたし? 汗かいちゃったかなぁ……」
戸惑う妖夢を、朱の瞳を細めて少女は見つめる。
「いやいや、汗の匂いなんかじゃないさ。お嬢ちゃんから漂っているのは“死の匂い”……お嬢ちゃん、すでに死んでいるね?」
その言葉に、椛と妖夢は顔を見合わせ、揃って半霊に目を向けた。
「……間違っては、いないか?」
「そ、そうですね。確かに半分は死んでますけど」
「半分死んでる!?」
細めていた目を見開いて、少女は手を打った。
「ナルホド、道理で生き生きした死体だと思ったよぉ!」
「死体呼ばわりされているが」
「う、うーん……」
先ほどまでの妖しげな雰囲気はどこへやら、見た目相応の様子を見せる少女に二人は戸惑うばかりだった。
「で、何か用か?」
「ああ、これは失礼。自己紹介が遅れたね」
少女は一歩二歩と身を引いて、優雅に礼をする。良いところの出なのだろうか、なかなか様になっていた。
「あたいは“火焔猫燐”。みんなは“お燐”って呼ぶよ」
「これはご丁寧に。私は魂魄妖夢といいます。それで、お燐さんは私に何かご用ですか?」
妖夢が問うと、燐は猫車の取っ手に触れながら、
「いえね、あたいは地霊殿にお世話になってるしがない火車ってやつなんですよ」
もう片方の手で地底の一方向を示す。そちらに目を向けると、古めかしい洋館があった。
地霊殿――確か、地底の管理者の住む館だったと椛は記憶していた。となればこの燐という少女、本当に良いところの出だったようである。
「まあただのペットなんだけどね。でもだからって、ご主人様に養ってもらってばかりじゃいけない! ってんで、いくつか仕事のお手伝いをさせてもらっているのさ」
「はあ、それはそれは」
「そのひとつが“灼熱地獄跡の火力調節”ってやつでね。親友のサポートをあたいが買って出てやってるわけ。で、さ、」
燐の語りは止まらない。話好きなのだろうか。
「灼熱地獄跡の火力ってのは、単純に木切れなんかをくべても上がらない。火力を上げるには“あるもの”をくべなくちゃならない。それが、」
燐は指をパチンと鳴らした。次の瞬間、燐の傍らにしゃれこうべを内包した霊魂が姿を現す。燐はすう、と目を細めてこちらを見つめ。
「この怨霊か、」
パチン。
今度は、頭上に透き通った輪を頂いた顔色の悪い妖精が数体。
「え? なに?」
そして現れた妖精たちは、妖夢の肩や腰にしがみついた。一方で燐は猫車を犬走椛たちのほうへと向ける。
様子がおかしい。椛は半身を引き、わずかに腰を落としていつでも動ける姿勢をとった。
「死体なのさ」
否、彼女が見ているのは“こちら”ではない。燐の意識はずっと妖夢にだけ向けられている。
「というわけで、お姉さん。この死体、あたいがもらうよ」
「なんだと?」
言うが早いか、燐は素早く腰を落として猛然と妖夢のほうへと走り出した。
「なにを!?」
椛と妖夢は身構えるが、しかし燐の動きに合わせて、
「えちょ、ひゃ!?」
妖夢にまとわりついていた妖精が妖夢の身体を持ち上げた。
「させるか!」
やはり燐の目的は妖夢の身体――死体の確保。
椛は妖夢をかばうように前へ出ようとしたが、
「ッ!?」
ふらりとよろめき、膝をついた。
――こんなときにッ!
その隙に、燐はすくい上げるように猫車で妖夢を拾って走り去ってしまった。
「椛!」
「ま、待て!」
などと言って待つものなどおらず。燐は雑踏の中へと消えていく。
「ッ……!」
――たかが尻尾程度で情けない!
内心の憤りを抑えつつ、椛は立ち上がった。周りにはわずかに人だかり。さながら捕物帖でも見ている気分なのだろう。一つ目の入道や獣人系の妖怪に混じって、頭部から突起を除かせた人型――おそらく、鬼――の姿も見受けられる。だが、このまま放っておくわけにはいかない。
燐の話が本当ならば、連れ去られた妖夢の行き着く先は……
――灼熱地獄跡の燃料か……!
させるわけにはいかない。
椛は背から大太刀と盾を取り外した。大太刀は鞘から抜いて、それぞれをしっかりと携えて。
――もはや形振り構っていられない。
「……――」
そして大きく息を吸い、
「おおァ!!」
裂帛。
体内で高められ全身を巡った妖力は、椛を本来の姿へと立ち返らせる。
その頭に頂くは、高い集音声を誇る狼の耳。その臀部からたわむは、白狼天狗の象徴たる純白の尾。
あたりが少しざわついた。やはり、この特徴に見覚えのあるものがいるようだ。だが、そんなことはどうでもいい。いまはそれよりもやらねばならないことがある。
「いくぞ」
尻尾をしならせ地面を叩き、気合一発。連れ去られた半身に引かれているのか、ふらふらと飛んでいた半霊をかっさらうように捕らえながら、椛は駆け出した。
がたがたと視界が揺れる。右へ左へと身体も揺さぶられ、そのたびに猫車から放り出されそうになるが、周りの妖精たちに支えられて――いや、押さえつけられているので逃げることができなかった。
「ちょっと! 私まだ生きてる! 生きてるから!」
「でも半分は死んでいるんでしょ?」
「いやまあ」
「じゃあ立派な死体だよぉ」
「いやいや! こっち生きてるほう! 半霊が死んでるほうだから!」
「安心しなって。どっちがどっちでも、残りの半分もきっちり死体にしてあげるからさぁ」
「するな!」
妖夢が訴えるも、軽快な足取りで猫車を操る燐はころころと笑うばかり。
こんな連中さっさと斬ってしまえば、なんて思ったけれど、肝心の刀――楼観剣と白楼剣が収まった鞘袋はいつの間にか燐の背にあった。先ほどのどさくさで盗られてしまっていたらしい。油断も隙もない。
このままで灼熱地獄跡の燃料にされてしまう。何とかしなくては。
考えろ。武器を奪われ、身体の自由も利かないいまの自分にできることは何だ? この場を切り抜ける、起死回生の一手は?
――……身体の自由?
と、妖夢はふと思い出した。
「そういえば……」
――半霊は?
揺れる猫車のなか、首を巡らせ探してみても、自身の半身たる霊魂の姿は見当たらず。もしかして、もしかしてと嫌な予感が妖夢の脳裏を駆け巡る。
どうりで普段より力が出ないと思ったのだ。いくら自分が半人前とて、妖精の三匹や四匹くらいに押さえつけられて手も足も出ないなどありえない。
だが、その理由がようやく分かった。いまの妖夢は、
――四分の一人前だ……
こちらも大切な身体の一部ゆえ、半霊との距離が一定以上離れてしまうと、妖夢は本来の実力が出せないのである。
おそらく、半霊は先ほどの場所に置き去りのはず。基本的に半人たる自分に追従するが、この速さではそれも叶わなかったのだろう。
妖夢は意識を集中して半霊の位置を探ってみた。
――……移動している?
それも、高速で。
まだ距離があるが、半霊はこちらに向かってきていた。だがその動きはぎこちなく、ときおり動きを止めたり、違う方向へ行きかけたりしている。
誰かが――いや、誰かは分かっている。
「椛だ」
半霊を連れて椛が追ってきている。おそらく妖夢の匂いを辿っているのだろう。だから動きがぎこちない。これだけ人の多い場所なのだ。白狼天狗の鼻でも追跡が難しいのだ。
だったら、
――いまの私にできることは!
「おや、急に大人しくなったと思ったら寝ちゃったのかい。暢気だねえ」
先ほどまで妖精の手から逃れようともがいていた妖夢は、いまやすっかり大人しくなっていた。目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返す姿は、確かに眠っているように見える
だがその実は違っていた。
燐は知らない。半人半霊の特性を。妖夢は眠っているわけではないということを。
ゆえに、一緒にいた白髪の女が追ってこないことを確認した燐は、一息ついて速度を落とした。
「やー、それにしても、思わぬ収穫だったわね。このコ、どうしてくれようかしら? このまま燃料にしてしまうのももったいないし……」
駆け足から徒歩に切り替え、燐は死体の使い道を考えながらガラゴロと家路を行く。
鼻に神経を集中させ、無数の匂いのなかから蜘蛛の糸を手繰るように妖夢の匂いを探す。肉の匂い、野菜の匂い、酒の匂い、香辛料の匂い、脂の匂い、その他妖怪たちの体臭などなど、無数の匂いで満たされた地底において、妖夢の香りをかぎ分けることは骨が折れた。
だが、悠長にはしていられない。こうしている間にも、妖夢の身に危険が迫っているのだ。
匂いのする方向を確認した椛が再び跳躍しようとした、そのとき、
『~~!!』
「な、なんだ!?」
抱えていた半霊が急に暴れだした。
びたびたと水揚げされたばかりの魚のようにのたうつので、椛は慌てて手を離した。すると半霊は椛の眼前まで浮かび上がると、尻尾(?)で一方向を示す。
「……お前、まさか妖夢なのか?」
問いかけに、半霊は身体を上下に激しく揺さぶった。肯定の意、なのだろう。
――半霊に意識を移すことができるのか。
半人半霊にこのような能力が備わっていたとは。物珍しさに思わず半霊をまじまじと見つめていたが、いまはこんなことをしている場合ではなかった。
「分かった」
椛は再び半霊――妖夢を抱えると、大きく跳躍した。生ぬるい空気が頬をなでる。眼下で何人かの妖怪がこちらを指差して何事か騒いでいたが、知ったことか。
がづんと次の屋根に降り立った椛は三度跳躍し、次の屋根へ。
次へ、次へ。ときおり妖夢から方向指示を受けながら、また次へ。
眼下を流れる街並みは徐々にひと気が少なくなっていった。ぐるりと見回すと、繁華街とおぼしき地域はすっかり遠く、前方に広がる岩壁は街の端だろうか。
やがて椛の目が赤いお下げ髪――火焔猫燐の姿を捉えた。そして燐がガラゴロと押す猫車には友の姿。暢気に猫車を押す背は隙だらけだった。
しかし、
がしゃん!
着地した瓦の屋根、その音に驚いたらしい燐はびくりと身を跳ねさせ辺りを見回して、
「げ!?」
こちらの姿を確認するや、再び走り出した。
「待て!!」
もう逃がさない。千里を見通す椛の瞳は燐の姿を見失うまいと捉えて放さない。
だが屋根伝いのこちらと違って、向こうは地を走っている。燐の、雑踏の隙間を見極めするすると駆け抜ける眼の良さ、身体の柔軟さ、猫車の扱い方。それはどれも目を瞠るものがあった。とは言え、そのせいでなかなか距離が縮まらないのだが。
しかし、燐の行く先は旧都の端。行き止まりだ。そこまで追い詰めてしまえば……
「妖夢の半身、返してもらうぞ」
呟き、椛は跳ぶ。
やがて燐を街の端まで追い詰めて、
「む?」
椛は眉をひそめた。
壁に扉がついている。旧都の街並みにそぐわぬ鈍色のそれは。
「金属……?」
文明レベルの逸脱した扉に燐が近づくと、それはぶしゅんと音を立てて左右に開き少女を招きいれた。
「ち……!」
燐を飲み込み、再び閉じてしまった扉を見て小さく舌打ちをしながら、椛は地に降り立った。そして勢いそのままに扉へ突っ込む。叩き壊してでも押し通るつもりだ。
が、幸いなことに扉は椛を招き入れてくれた。再び開いた扉をくぐって椛は奥へ。
地面はむき出しの大地だったが、左右の壁と天井はやはり金属。所々に継ぎ接ぎが見えるが、汚れや傷は見られない。造られてから長くは経っていないようだ。幅と高さはそこそこあって、大柄な人型でも三人くらいなら横に並んで歩けるほどだ。
そして前方には慌ただしく揺れる赤いお下げ髪。
「逃がさん……!」
唸って椛はさらに速度を上げた。
と、
「おくうー! 侵入者だよー!!」
通路の端、入り口と同じような扉をくぐった燐が叫んだ。通路の先に何者かがいるらしい。
「気をつけろよ」
警告すると、腕のなかの妖夢がふるりと震えた。
扉の向こうには赤々とした空間が広がって見え、近づくにつれて気温の高まりを感じた。
そういえばと、椛はふと思い出した。妖怪の山におわす新参の二柱、その片方が旧都に干渉して一騒動を起こしたことがあると。旧都に見合わぬこの施設には、もしかしたらその神が関わっているのかもしれない。白狼天狗の自分が騒ぎを起こしたとしたら、件の神と天狗の間に軋轢を作ってしまう可能性がある。
「……」
だが、だがしかし。
いまは、友の半身がかかっているのだ。椛は小さく頭を振って山のことを閉め出した。まずは目の前のことを解決せねば。問題が起きたら、そのときはそのときだ。
椛が近づくと、やはり扉は自動的に開いてくれた。椛は大太刀を握る手にさらに力を込めて、扉をくぐった。
その瞬間、
「え」
眼前に太陽を見た。
「うおおお!?」
盛大に驚愕しつつも椛は妖夢を背後に放り投げると、盾を構えて防御の姿勢。間髪入れずに“太陽”と接触した。猛烈な衝撃と同時に、構えた盾から伝わる灼熱感。肉も、骨さえも焼き尽くされ、溶かし尽くされてしまうのではないかと思うほどの熱量。
だがその感覚は長く続かなかった。“太陽”は――いや、その実態はただの火球だろう。核融合によって燃え盛る恒星が、こんなところにあってたまるか。火球はみるみるうちに小さくなっていった。
「ッガァ!!」
やがて裂帛とともに椛は火球を上方へ弾き飛ばす。そして火球は鉄の壁に直撃して散り消えた。
尻餅をついて火球の末路を確認しながら、椛は慌てて盾を引き剥がした。火球を受け止めた盾は焼けただれ、椛の腕を熱し続けていた。
「あッ! づ、グ……!」
がらんっ、と盾を放り捨てて、ようやく椛はあたりを見回す余裕ができた。
円柱型の広いフロアだ。天井は高く、はるか彼方。緩やかな弧を描く鉄の壁に、床はきめの細かい鉄の網。その下には真っ赤でどろどろの液体が泡を立てている。溶岩だ。辺り一帯が異常に暑いのは、こいつが原因だろう。
そして、
「異物発見!」
響いた声に、椛は視線を上げた。
上空にいたのは、身体の各所に異形を取り込んだ長身の少女。
鉱物に覆われた右足、六角形の木筒のようなものに飲み込まれた右腕。胸元から覗くは真っ赤な目玉。左手を添えた“筒”をこちらに向けているということは、先ほどの火球はあれから撃ち出されたものなのかも知れない。
ばさりっ。
広げた一対の大きな黒翼が空を叩く。すると、黒翼を覆うように装着された外套の裏地、星の瞬きを思わせる美しい模様がきらきらと輝いた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止よ! 急がば回れで帰りなさい!」
「は……?」
少女は肩をいからせ威嚇する。だが、帰れと言われて黙って引き返せるわけもない。
「用が済んだらすぐに立ち去る。それまでは勘弁してくれ」
短く告げて、椛は再び歩を進めた。燐はすでに反対側の扉をくぐって行ってしまっている。早く後を追わねば。
「ダメって言ってるでしょー!」
しかし、椛の前に少女が立ちはだかった。そして半身を引き、少女がこちらに向けた右腕の“筒”に変化が生じた。“筒”の中心が開き、丸い孔を覗かせたのだ。
その瞬間――
ぞわり。
言いようのない、嫌な予感。椛は足を止め、後ろからついてきている妖夢に警告の声を上げた。
「上に飛べ!!」
そして自身は横に跳んだ。次の瞬間、
こうっ!!
直前まで椛がいた場所を、光の奔流が走った。圧倒的な熱量を持ったそれは、椛たちが通ってきた扉に直撃して盛大な破砕音を轟かせる。
「あ……」
その光景に、目を丸くして間の抜けた声を上げる少女。こんなところであんなものをぶっ放せば、こうなることくらい予想がつきそうなものだが。
「いっけなーい! ケロちゃんに怒られるー!」
どうやら予想できていなかったらしい。
しかし、なんと恐ろしい力か。おつむに少々問題があるようだが、これほどの妖力、並の妖怪ではない。
左手で頭を抱える少女を尻目に、椛は妖夢を呼び寄せた。
「お前は先に行け」
告げるが、妖夢は迷うように身を右へ左へと移動させた。
このまま二人であの少女の相手をしていても時間の無駄だ。ならば、どちらかが先行して妖夢の身体を確保するが得策。
妖夢に――半霊となったいまの妖夢にあの少女の相手は無理。……まあ、燐の相手なら大丈夫かと問われると何も言えないが。だが半身をいつまでも離れ離れにさせておくよりは良いだろう。
ともあれ、ならば、
「私もすぐに後を追う」
ここは椛が請け負うしかあるまい。
無論、椛とて真正面から相手をするつもりなど毛頭ない。いまの目的は、一刻も早くここを突破すること。そして燐に連れ去られた妖夢の半身の奪還だ。
少女はこちらに“筒”を向けつつ、迷いの籠った視線を送っていた。迂闊に撃てば施設が損壊する。そんな思いが、少女を足踏みさせているのだろう。
――いける。
確かに妖力は段違いに高いが、所詮は鳥類の成り上がり。接近戦に持ち込んでしまえば白狼天狗の自分に分があるはずだ。
椛は、未だに傍らでうろうろしている妖夢を優しく撫でて、
「いけッ!」
少女のほうへ思い切り押し出した。
妖夢は急停止してこちらに――たぶん――身体を向けかけたが、やがて加速して少女の向こう側、燐の走り去った扉のほうへ一直線に飛んでいく。
「あっ、だからダメだって――」
「お前の相手は私だ」
少女の言葉を遮り、椛は駆けて大太刀を振り下ろした。
ガッ!
妖夢に伸ばしかけた手を慌てて引いて、防御のために差し出された“筒”と大太刀がかみ合う。
「すまないな。だが、こちらも友の命が半分かかっている」
もっとも、半人半霊が半身を失ったとして、残った半身が無事で入られる保障はないのだが。
飛び去る妖夢を見送りながら、さてどうしたものかと椛は考える。
この少女、おそらく施設と同様に守矢の関係者。幸いこちらの正体にはまだ気が付いていないようだが、尻尾も耳も出してしまっている以上、いつばれるか分からない。手早くあしらって先へ進まねば。
「うにゅー……まあいっか。幽霊ならお燐がなんとかしてくれるよね」
ちらりと一瞬だけ背後の扉に目を向けて、そして少女は再び椛を睨みつけた。
「私はこっちの異物を焼却処分よ!」
大太刀を弾いて少女は後ろに跳んだ。そしてすでに妖力の込められた“筒”を水平に構え、孔の開いた先端をこちらに合わせようとしている。どうやらあの“筒”は、収束させた妖力を放出する砲口の役割を果たしているようだ。
――撃つ気なのか!?
先ほどそれで壁を破壊してしまって頭を抱えていただろうに、まさかもう忘れてしまったというのか。
この距離はまずい。引くべきか、詰めるべきか。
刹那の逡巡。そして椛の出した結論は。
――撃たれる前に討つ!
前に出ることだった。
時間がないいま、受身にまわるのは得策ではない。短期決戦で勝負を決めて先へ進まねばならないのだ。
大太刀を右から左へ、横薙ぎの構え。ただし、持ち方は峰打ちの向きだ。
相手の素性は不明だが、もし守矢の関係者であればあまり手荒な真似はできない。自分のせいで守矢と妖怪の山が対立するような事態は避けたかった。
――武器を打ち払い、開いた鳩尾に一撃。
それで大人しくなるだろう。
ふたりの距離は見る見る縮まっていく。そしていよいよ椛は少女を間合いに収めようとしていた。相手の“筒”はまだこちらを向いていない。
椛が“筒”を狙って大太刀を振るった、次の瞬間。
「!?」
期待していた手ごたえはなく、空を切った大太刀に椛は目を瞠った。
少女は身を屈めていた。そして左の拳を半身ごと大きく引き絞る。狙いは……がら空きになったこちらの右わき腹。
――いかん!
「はッ!」
天を突かんばかりの勢いで拳が放たれた。一撃は狙い違わず椛のわき腹に突き刺さり――
「ちぃ!」
舌打ちとともに、椛は空いている左手を無理やり割り込ませた。ばしんと強烈な衝撃音。当然、衝撃は音に留まらず、椛の左手を貫き、その先にまで達した。
ぎしり、ぎしりと肋骨や背骨が悲鳴を上げる。瞬間的に強烈な吐き気を催したのは、内蔵にまで痛手を受けたせいだろうか。
「ぐ、ふっ……!」
肺から空気が搾り出される。苦痛と衝撃。そして身体は宙へと打ち上げられた。
――何という馬鹿力……!
彼方の天井、鉄の壁、鉄の網、そして異形の少女。身を捩った姿勢から受けた衝撃は椛の身体を回転させ、視界がぐるぐると回る。
椛は空気を求めて喘ぎながらも姿勢を制御し視線を向けると、少女は今度こそ“筒”をこちらに向けていて――
「いっけぇ!」
そして撃ち出されたのは、最初に受けた巨大な火球だった。これならば時間とともに威力は大幅に減じられる。壁に接触しても問題はないということだろう。
案の定、火球はみるみるその身を小さくしながら椛のほうへと飛んできた。だが、それでも大きい。そしてあの威力である。多少劣化したものでさえ、椛に直撃すれば骨さえ残らないかもしれない。
こちらは空中に浮かされ体勢も整っていない。盾は失い、防御もままならない。左手の刺すような痛みは、骨が砕けてしまっただろうか。
だが、だがしかし!
――こんなところで立ち止まっているわけには!
友の命がかかっている。たとえこの身がどうなろうと、彼女の肉体だけは……!
「うおおぉぉあああ!!」
雄叫びは、しかし炎に飲み込まれた。
構えた“制御棒”をゆっくりと下ろしながら、少女は一息。
「焼却完了!」
回避も防御もできていない。跡形もなく消し飛んだはずだ。
と、
がしゃん!
床に何かが落ちた。
焼けただれ、細くいびつな形のそれは、侵入者の使っていた剣だろうか。刃の部分は蒸発してしまったようで、随分と短くなっている。
「いけない。あれも捨てておかないと」
よく分からないが、この“間欠泉地下センター”はクリーンなところらしい。クリーンということは、つまり、なんかこう、ゴミとか残してはいけないのだ。
がしゃんがしゃんと鉱石の足を鳴らしながら、少女は燃え残った剣に向かって歩き出した。
その頭に、
がすんッ!
「い゛!?」
赤い高下駄を履いた少女が着地した。
「やれやれ、危うく消し炭だったな」
高下駄の少女――椛は嘆息しながら改めて床に降り立った。
まさしく間一髪であった。あの時、椛はすんでのところで大太刀を盾にし、できた一瞬の隙にその大太刀を踏み台にして跳躍。辛くも火球を回避したのだ。
脳天にきつい一撃を受けた少女は、目を回して倒れてしまった。いい勢いで着地してしまったが、まあ大丈夫だろう。
――急がなくては……!
椛はフロアの奥、燐の走り去っていった扉を睨みすえて駆け出した。
「妖夢……!」
しかし、出際に一度だけ振り返り、
――……すまない。
業物と呼ばれるほど上等な一振りではないが、それでも長年を共にしてきた大太刀である。少なからず愛着はあった。
しかしいま、その相棒は刃を失い、柄にも深刻な損傷を受けてしまった。あれではもう修復は不可能だろう。
だから椛は、内心で頭を下げた。これまで共に戦ってくれた“戦友”に。
そして報いねばならない。必ず妖夢を救い出すと、椛は刃なき戦友に誓った。
「あらあら、空(うつほ)を倒してしまったの?」
しかし、開いた扉の向こうに立ちはだかるものがいた。
くせのある紫色の髪の少女。小柄な身体を包むのは空色を基調とした衣装。しかし、何よりも目を引くものは、その身体にまとわりつく幾本もの紐のようなものと、胸元でこちらを見る眼球だった。
眠たげな両の眼と、胸元の眼球で少女は椛を見ながら嘆息した。
「参りましたね。それではこちらもそれなりの“礼”をしなくては、他のペットたちに示しがつきません」
「どけ!」
時間がないのだ。御託など聞いている暇などない。
幸いにも、この通路も広かった。飛び越えるなり横切るなりで先へ進んでしまおう。
「ああ、それは無理。無理ですわ」
その時、胸元の眼球が輝いた。
「く!?」
強烈な白光に椛は思わず足を止め、眼前に腕を掲げた。
――時間稼ぎのつもりか!?
「くだらない真似を!」
「いいえ、時間稼ぎなどではありません。これは――」
と、光が弱まった。そして色が変わっていく。赤、緑、青、と様々な色の光が不規則な明滅を繰り返し、椛の身体を照らした。
光量が抑えられたことで眼を開けることができた椛は、眼前の腕をどかして少女を睨みつけ、
「!?」
ぐらりと、身体が傾いだ。発光を繰り返す眼球から眼が離せない。
――なん、だ、これは……!?
「これは、お仕置きですから」
堪え切れずに膝をついた椛の耳に、少女の声が滑り込む。ぐるぐると混濁する頭の中をかき回すように、満たすように、刷り込むように。
「さあ、思い出してください。貴方がかつて感じた恐怖を」
――私の、恐怖……?
「そう。貴方の絶望を私に見せて」
「その“絶望”が、貴方を打ち倒しますわ」
少女の手の中には一枚の符があった。それは少女の言葉に呼応するように、色を変え、なかの模様を変え。
「……あら、これはまた面白いものが出てきましたね」
やがて変化を遂げた符を見て少女はくすくすと笑った。そして動けぬ椛に向けて符を掲げながら言う。
「そちらにも事情がおありのようですが、まずはこれを受けなさい」
恋符『マスタースパーク』
符から放たれるは、膨大な光の奔流。それは、先ほどの異形の少女が撃っていたものよりもさらに極太だった。身体は満足に動かず、そもそも通路いっぱいの太さを誇るそれに逃げ場などなく。まさしく“絶望”だ。
そして椛は、この攻撃に見覚えがあった。たとえ意識が混濁していようと、こればかりは見紛うものか。これは、この魔法は、
――霧雨魔理沙、だと!?
人間の魔法使いが使う最大の魔法。つい先日も、椛はこれに落とされたばかりだった。
――何故マスタースパークが!?
その問いをする間もなく、椛は光に飲まれた。
…………
舞い散る木の葉はただ赤く。
誰かが哭いている。天に向かって哭いている。
真っ白な狼の耳、狼の尾を持つ少女だ。そして、狼少女に抱かれた少女がひとり。
腕のなかの少女は血に塗れていた。傍らには刀が三本。長いもの、短いもの、そして幅の広いもの。
はらり、はらり。
流れる血潮は紅葉をさらに紅く染め。少女の慟哭は遠く、彼方まで――
…………
「!?」
布団を跳ね除け、椛は飛び起きた。
呼吸は荒く、身体は汗でじっとりと湿っていた。そして、頬を伝うこれは……
――……涙?
なにか、ひどく嫌な夢を見ていた気がする。しかし、どうにも内容を思い出せない。
額の汗を拭おうとして、椛は左手の包帯に気が付いた。いや、左手だけではない。身体のあちこちに包帯が巻かれていた。誰かが治療してくれたのだろうか。
「椛! 椛! 大丈夫ですか!?」
と、椛の肩をつかむものがいた。
銀の髪、黒のリボン。二振りの刀を携え瑠璃の瞳でこちらを見る少女は。
「妖夢……なのか?」
「はい。椛のおかげで――」
言葉が終わるよりも早く、椛は妖夢の頬に両手で触れた。間違いなく実体がある。
「あっ、あの、椛?」
「妖夢なんだな。本当に……」
そして椛は妖夢の身体をゆっくりと抱きしめた。首筋に顔を強く押し付け、鼻腔を妖夢の香りで満たす。
――ああ、この香りだ……
妖夢の後ろで半霊が右往左往しているが、構わない。もう二度と、この身体に触れられなかったかもしれないのだ。だから、椛は強く、強く、抱きしめた。
「また、心配をかけちゃいましたね。ごめんなさい」
「いい。お前が無事でいてくれたなら、それで……」
妖夢の手が椛の背にまわる。
互いの無事を確認しあったふたりは、そうしてしばらく身体を重ね続けた。
「それで、ここはどこだ?」
あたりを見回しながら、椛は妖夢に問うた。
洋室のようだ。調度品はどれも質が良さそうに見える。そして椛はいま、ふわふわのベッドの上にいた。これもまた上質そうで、心地よい弾力と感触が椛に安心感をもたらしていた。
どうにも、意識を失う直前のことがよく思い出せない。鳥の妖怪を倒したところまでは覚えているのだが……
「ああ、ここはですね、」
「それは私がお答えしましょう」
妖夢の言葉を遮って部屋に入ってきたのは、小柄な少女だった。
「お前は……?」
「あら、忘れてしまいましたか? まあ、自身のトラウマに直面したのです。記憶が混乱してしまっても仕方ありません」
癖のある紫色の髪。空色を基調とした上着と桜色のスカート。そして身体に絡みつく幾本もの紐のようなものと、
「……!」
胸元からこちらを見つめる眼球ひとつ。
「思い出したようですね」
――この女だ。
その胸元の眼光で椛を前後不覚に陥らせ、さらにはマスタースパークを操った少女。
椛は慌ててベッドから降りると、妖夢をかばうように前に出た。ざっと室内を見回したが、武器に使えそうなものはない。
この状況で、あの得体の知れない術を使う少女にどう立ち向かったものかと思考をめぐらせていると、妖夢が椛の肩を掴んだ。そしてゆっくりとベッドに座らせる。
「椛、落ち着いてください。彼女は私を助けてくれたんです」
「……なんだと?」
「まあ、なんというか……ペットが面倒くさい拾い物をしてきたので、持ち主に返しただけですが」
妖夢を見ながら、少女は肩をすくめて言った。
「まったく、燐にも困ったものです。うちは怨霊も管理していますから冥界とも関わりがあるというのに、よりにもよってその関係者をさらってしまうなんて」
「怨霊の管理……まさか、お前は……!」
少女の言葉に椛は表情を強張らせた。
「あらあら、そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか、“犬走椛”さん?」
「ち……」
不気味な薄ら笑いを浮かべる少女と椛の舌打ち。そんな二人を妖夢はきょときょとと交互に見た。
「お二人は知り合いなんですか?」
「いや、知り合いではない。が、」
「そう、あの鴉天狗から聞いたのね」
「……そういうことだ」
「え?」
「あら、『悪趣味』だなんて、酷い言われようですね」
「……」
「ええ、それはどうも」
「え? え?」
さらに二人を交互に見ながら、妖夢は疑問符を飛ばす。
そんな妖夢の様子に嘆息しながら、椛は忌々しげに吐き捨てた。
「この女、“古明地さとり”は他人の心を読む。……そして、灼熱地獄跡の管理人だ」
「他人の心を……!?」
地獄から切り離された土地とはいえ、そこには役割が残されていた。それが灼熱地獄跡の火力調整と怨霊の管理である。
そして、それらの仕事を任されているものが、この地霊殿の主“古明地さとり”だ。
さとりの持つ“心を読む程度の能力”は、人も、妖怪も、動物や幽霊の心さえも見透かす。さらにその力は、相手の心的外傷を抉り出す。椛が受けたマスタースパークも、椛の記憶から引き出されたものだったわけだ。
誰しも知られたくない秘密やトラウマのひとつやふたつは持っているものである。しかし、さとりはそんな想いや記憶を暴く。ゆえに、さとりは旧都の管理者を閻魔より任されているのだろう。彼女は同じ旧都の妖怪からも忌み嫌われ、畏れられていると聞く。
さて、そんな妖怪を前にしてどのような反応を示すだろうかと、椛は妖夢を見た。が、意外にも妖夢の表情から嫌悪の色は見えず。
「……あまり動揺していないな」
「そう、ですね」
しかし、
「それは確かに、私だって隠し事くらいありますから、それがばれてしまうのは困ります。
でも、さとりさんは私を助けてくれました。椛を助けてくれました。さとりさんを信用するには、それで十分だと思うんです」
そう言って、妖夢は笑ったのだ。
「な……」
椛は絶句した。心を読まれて、こうも平然としていられるものなのか。
「面白い子ですね。他の方たちと比べて、この子はほとんど私のことを嫌悪していない」
「むしろ、うちのお嬢様の考えが分からなくなるときばっかりなので、さとりさんの力を借りたいくらいですよ……」
乾いた笑いを浮かべる妖夢を見ながら、敵わないなと椛は思った。
たとえ恩人であろうと、こうも簡単に他人を信用できるものなのだろうか。
しかし、それは美徳であるが、同時に危険なものでもあると椛は感じていた。鬼以外の地底の妖怪は、危険な能力を持つがゆえに地上から追放されたものが多い。その地に住むものを信用するなど……
と、その様子に気付いたさとりが椛を見て微笑んだ。
「貴方はまだ私のことを信用していないみたいですね」
「そうだな」
「椛……」
さとり妖怪を前に隠し事は無意味。だから椛は素直に答えた。
妖夢を助けた理由は分かった。妖夢の所属する冥界と旧都は、種類は違えど同じ霊を管理しているのだ。決して無関係ではないのだろう。
だが、分かっていないことがもうひとつだけある。
椛の心を読んださとりが、先んじて言葉を紡ぐ。
「どうして私が貴方を攻撃したのか、ですか。
あのときも言いましたけど、貴方が間欠泉地下センターで倒した空も、私のペットなのですよ。彼女が倒されて私が何もしないと、他のペットたちに示しがつきませんからね」
「ふむ」
――意趣返し、というやつか。
それならば分からなくもなかった。天狗も、仲間がやられれば、その敵を総出で叩きにかかるだろう。
しかし、いまのさとりの言葉により、さらに気になることができた。
――間欠泉地下センター……
河童が守矢の神と共同で建造した施設だったと記憶していた。つまり、
「お察しの通り、空も守矢神社と関係を持っています。殺さなくて正解でしたね。
もっとも、空が守矢と関わっていようがいまいが、彼女を殺すようなことがあれば、私が貴方を殺していようでしょうけど」
背に嫌な汗を感じる。微笑みのなかから発せられる妖気は、小柄な身体からは想像もつかないほどの威圧感を放っていた。それだけ彼女はペットを大事に思っているのだろう。
しかし、分かっていたことだが、やはり頭の中を覗き見られて気分のいいものではない。
「まあこういう種族なもので」
だとしても、わざわざ言わなければ良かろうに。
「それも存じています」
「……」
「あ、あの……?」
言葉と心を織り交ぜたやりとりに、妖夢が心配そうに椛を見ていた。さとり妖怪は他人の思考を読んで会話を進めていくため、第三者からは話の流れが分からないだろう。
「わっ」
だから、椛は妖夢の頭をわしわしと撫でてやった。
「案ずるな。話はついた」
「そ、そうですか?」
「うむ、ここは地底の妖怪の領域だからな。一戦を交えるには分が悪い」
「椛!?」
「いえこの人そんなこと全く考えていないですよ」
「……椛?」
不安げな顔、驚いた顔、訝しげな顔。本当に妖夢は見ていて飽きない。
「他人の表情を見て楽しむなんて、いい趣味じゃないわね」
お前が言うか。
「妖夢が無事でいてくれたし、私も生きている。古明地殿と争う理由はない」
「それならいいですけど……」
しかし、妖夢の表情はまだ少し曇っている。椛の、哨戒天狗としての疑り深さを知っているゆえだろう。
そして椛は自身の顔に手を当て、気が付いた。
――ずいぶんなしかめっ面だな。
見事なへの字口だった。傍から見たら不機嫌に見えることだろう。これでは妖夢が心配するのも無理はない。
そう、これでは駄目なのだ。人間も妖怪も関係ない。百聞でもなく、百見でもなく、体験こそが物事の本質を知る第一歩であると、椛は他でもない妖夢に教えられた。
その妖夢が、地底の嫌われ者である古明地さとりを信用している。それは何故か。
――私も、もう少し変わらなくては、な。
思い、椛は深呼吸をひとつ。
「ああ、問題ない」
そして妖夢の頭を撫でながら微笑んだ。
「あ……」
妖夢は、少し驚いた表情で椛を見つめている。
さとりは妖夢の身体を救ってくれた。それで良いではないか。周りの評価がどうあれ、椛と妖夢にとっては、それが古明地さとりなのだ。
椛はさとりに向き直ると、頭を下げた。
「古明地殿、疑って悪かった」
「いえ、慣れていますから。それに、貴方の判断は間違っていない」
「なに?」
「私だって打算も無しに人助けなんてしませんよ。お二人は、うちの大切なお客様のようですからね」
…………
ちゃぷん。
「まさか貸し切りさせてもらえるなんて、怪我の功名でしたね」
「文字通りな」
巨大な岩盤から削りだしたのだろうか、泳げるほど広い岩の浴槽に、椛と妖夢は並んで身を沈めていた。にごり湯からかすかに漂うは硫黄の香り。少し熱めの湯加減は、椛にとってはちょうど良かった。
旧都の温泉旅館、その大浴場である。地霊殿の程近くに位置したここは、さとりの管理する旅館のひとつなのだそうだ。今回の侘びをかねて、滞在中は夜の決まった時間帯だけ、風呂場を貸し切りにしてもらえることになった。
「椛、手は大丈夫ですか?」
「問題ない。少し疲労するが、妖力を集めて自己治癒力を高めていたからな。疲れた分は、温泉でゆっくり休めばいい」
妖夢に問われ、椛は湯から左手を出した。そして握って、開いて、握って、開いてと見せてやる。妖怪ゆえ、その治癒力も非常に高い。体中に受けた火傷も、すでに治りかかっている。左手には違和感が残るだろうが、それ以外の傷は明日には治りそうだ。
しかし、妖夢は安堵の息をつくと、今度は二の腕のほうに目を向け表情を曇らせた。
「その傷……」
椛の二の腕には、いくつもの小さな傷跡に混ざってひときわ大きな刀傷の跡があった。
「ああ、これか」
懐かしいな、と椛は思った。そして傷跡を撫でながら言葉を続ける。
「昔から、戦いでできた傷は残すことにしているんだ。この身についた傷もまた、私の生きた証、戦いの歴史――誇りだからな」
取り分けこの刀傷は、感慨深い。
「誇るといい。これほど大きな傷をつけたのは、妖夢が初めてだ」
「そ、そうですか? えへへ……」
これはかつて、妖怪の山で妖夢と相対したときにつけられた傷だった。
神速の一閃。それは椛の盾を容易く切り裂き、腕にまで達したのだ。
この一撃のおかげで、妖怪の山しかなかった椛の世界は広がった。愛しい友人ができた。
そう、あのときの一撃が……
「……」
あのときの映像は何だったのか。
地霊殿を出る際にさとりが椛に耳打ちした話があった。あのとき、椛の心の底から湧き上がった、マスタースパークとは違った“絶望”の形。
紅葉と、鮮血と、刃と人と妖。
『あの映像は、貴方の何だったんでしょうね?』
あのとき、一歩間違えていたら、椛は妖夢を殺していただろう。それが、椛にとっての“絶望”だったのだろうか。
否、と椛は思う。
――誤っていた“かもしれない”過去を恐れる必要はない。
その過去は過去だ。すでに終わっている。誤らずに済んでいる。安堵こそすれ、恐れる理由はない。
ではあの映像は一体?
――……私はいつか、妖夢を殺してしまうかもしれない?
いつか、成長した妖夢と再戦する約束を椛はしている。そのとき椛は、妖夢を殺さずに済むだろうか。その懸念が、あの映像だったのだろうか。
それは確かに、椛にとっての“絶望”なのかもしれない。妖夢の存在は、それほど大きくなっていた。
だが、
――妖夢は生きている。私も生きている。
先のことは分からない。いつか来る別れのときを憂うより、そのとき悔いが残らないよう、いまを精一杯生きよう。
「椛、どうかしましたか?」
思索に耽る椛の顔を、妖夢が覗き込んでいた。
「いや、なんでもない。それより、ひとつ聞いていいか?」
「は、はい、いいですけど」
だから、悔いのないよう、気になることを聞いておこうと椛は思った。先日から気になっていた“あの件”について。
「妖夢、お前は、その……苦痛を、どう思っている?」
「……どういう意味ですか?」
「いやっ、そのなんだ、ええと……」
だが、いざ聞くとなるとなかなか難しい。
妖夢の訝しげな視線を受けながら、椛は視線を右往左往。
――ええい、ままよ!
やがて意を決し、椛は妖夢の正面に移動してその白く華奢な両肩を掴んだ。
「妖夢!」
「はい!?」
「率直に聞くぞ。お前、痛いのが気持ちいいのか?」
「……はあ?」
呆れられている!
椛は慌ててばしゃばしゃと手を振りながら、さらに言葉を重ねた。
「ああいや、お前が修行でついた傷を見て笑っているという話を聞いてだな、その、痛みで悦んでいるのではないかと……」
「な!? ち、違います! そんなんじゃありませんって!」
まさかそんな風に思われているなど、夢にも思っていなかったのだろう。今度は妖夢が慌てて手を振った。
「大体、そんな話、誰から聞いたんですか!?」
「西行寺殿から聞いたと射命丸さんが」
「幽々子様……。いえ、でも確かに傷を見て笑うこともありますけど、決してそういう意味ではなく!」
「なく?」
「えっと、そ、その…………わ、笑いません?」
「ああ」
妖夢はもじもじと身じろぎをして、そして椛の腕を掴んだ。椛が妖夢の肩から手を離すと、今度は両手で顔を覆う。
「私、まだまだ半人前ですけど、こう、傷の数だけ強くなれてるんじゃないかなって。傷の数だけ、椛に近づけたんじゃないかって……そう考えると、なんだか嬉しくなっちゃって……」
そして顔を隠したままぶんぶんと顔を振り出す。その耳は真っ赤になっていた。
「……妖夢」
「やっ、分かってます、分かってます! 傷の数なんて全然関係ないですよね!」
――そんなことを言われてしまったら……
返す言葉が出てこない。顔がどんどん熱くなっていく。このままではまずい。このままでは……
「…………」
「……椛?」
「ちょ、待てッ!」
手をどけてこちらを見ようとした妖夢の顔面に、椛は思い切り手のひらを当てた。ばちんといい音が広い浴場に響く。
「あいた!? な、なんですか!? なんですか!?」
「あ、と、すまない、その……そういうことなら、別に良い。妖夢が変な趣味に目覚めてしまったわけではなくて安心した」
「そ、そうですか。……で、あの、これは……?」
「これは、そ、その……」
ひとまず妖夢の顔を抑えてこちらを見られないようにしつつ、椛はどうしたものかと考えた。
とにかく落ち着かねば。そうは思うのだが、こればかりは自分ではどうにもならない。
だから椛は、
「~~ッ! のぼせた! 先に上がるぞ!」
「え、あの、椛?」
勢いよく立ち上がると、尻尾を押さえながら逃げるように浴場をあとにしてしまった。
脱衣所に戻って浴場を振り返り、妖夢が追ってこないことを確認した椛は安堵の息をつきながら尻尾から手を離した。途端、尻尾は意思とは無関係にぶんぶんと揺れる。
「私も、まだまだ修行が足りないな」
――傷の数だけ、私に近づけた気がする、か。
顔が熱い。洗面台の鏡で見てみると、案の定、真っ赤に染まっている。そのうえ、だらしなく緩んでいた。
「あー……」
自分は妖夢の目標として前に立っている。その事実が、途方もなく嬉しかった。これからも彼女の目標として在りたい。そう強く思った。
だからこそ、椛は逃げ出してしまったのだ。こんな、顔を真っ赤にして尻尾を振る姿など……
「まったく……こんな姿、かっこ悪くて見せられん」
尻尾の揺れは収まらず、しばらくの修行はこいつの制御だなと椛は独りごちた。
了
最初の投稿から振り返ってみますと、描写が丁寧だけでなく、洗練されてきているように感じられます。
その分だけ、(特に今回は大目の)アクションシーンも、よりイメージしやすくなっていました。
躍動感があって。しかも繊細で。そして五感に訴えかけてくる。好い描写を読ませて頂きました。
椛と妖夢が、それぞれに特技や小技を披露したり。かっこ好いのに女の子らしい一面もあったり。
さとりの能力で不安になるような場面もあったり。と、相変わらず飽きない工夫が随所にあって。
今回も大変に楽しませて頂きました。次回の投稿を首を長くして待ってます。
お燐の在り様も唐突であり強引に感じ、この辺りにも作者様の急いた気持ちが滲んでいる様に思えてしまいます。椛が旧都を疾走する様はもっと緩から急を表してこそ映えるのではないかと。
自分バランスを好むのでこの様な感想になってしまい失礼。
このシリーズは、
長く続けて欲しいですね
>>6
描写のお褒めありがとうございます。
これからも、二人の色んな表情や動きを見せていけたらいいなと思います。
>>10
ご指摘ありがとうございます。
以前、別の作品で指摘された内容そのままでした。
書きたいところがあるあまりに他が疎かになってしまうのは、私の悪い癖です。
反省して次回に活かせるよう尽力します。
>>うみうし さん
ありがとうございます。
終わりは考えているものの、ネタが続く限り、私もこのシリーズは続けていきたいと思います。
評価、コメントありがとうございます!
>お譲ちゃん→お嬢ちゃん
到着してそうそう肉体をスられるとは、旅行先としての旧都は恐ろしいところですな。
どんどん互いを高め合っていく二人ですが、このままいくと妖夢(半人)と椛(妖怪)が命のやりとりを
行う可能性もある、ということを「絶望」の描写によって気づかされました。
今回の想起は、そこのお嬢ちゃんだけでなく私のトラウマにもなりそうな。
評価、コメント、そして誤字の報告ありがとうございます。
戦わなければいいだけの話。でも、ふたりとも剣士ですから、いつかはきっと。
そしてその時、どのような結末を迎えるのか。
トリ頭なりにマジメに業務に励むおくうが可愛い