1. ライズ・アンド・シャイン
アリスが日々の生活に求めるものは三つある。まず第一に、緩やかに時の流れる中での平穏。第二に、ときおりそれを乱す来訪者の存在。そして第三に、紅白の巫女の腋である。
腋。
そう、腋だ。
本当のことをいえば、それは求めるものでもなんでもないのだが、まぎれもないこの今という瞬間に、霊夢の腋はアリスの眼下にしっかりと存在している。
彼女は床にごろんと寝転がっていた。といっても、オーク材の丸いコーヒーテーブルとベッドの間にできた狭い空間なので、両手のやり場に困ったのか、右手は緩やかに上下するお腹のうえに、左手は上のほうに投げ出されていて、つまりは左腋があられもなくさらけ出されている。細いカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に漂う埃の様相をぼんやりと照らしつつ、朝の光が絶妙に彼女の目の位置を避けて小さなおへその窪みの微細な陰影を描き出している。耳を澄ませば、くぴー、という寝息。ちょっと鼻がつまっているのかも? でも、風邪をひいていたとして、それはアリスの責任ではない。
寝顔は可愛いのになぁと残念な気持ちで、テーブルの上の水差しから水を一飲み、いくら知人の前だからってもうちょっと自分の格好に気をつかったほうがいい、女の子なんだから、たとえ年がら年中腋が寒そうな服を着てるからといってなどと、文句を心の中でふくらませながら、ようやっと、アリスは両足を床におろしたのだった。
ざり。少し砂が落ちている。それも当たり前で、マーガトロイド邸はそもそも土足が基本なのだ。靴を脱ぐのはシャワーを浴びるときとベッドに上がるときくらい。でもこの巫女には説明がまったく足りていなかったようだ。ちゃんと客室のベッドで寝るように言っておいたのに。何のためらいもなく床に身を投げ出すなんていう実に不潔な所業を平然とやってのけるのも、幻想郷のカオスじみた諸様式混在の弊害といえる。ま、それはさておき。
どう起こそう?
無理やり起こすか。否、この理不尽暴力巫女のこと、3秒で家が灰燼に帰している未来が予想できる。かといって、そのまま普通に起こすのはつまらない。こちらとしては、昨夜勝手に押し入られて酒の付き合いをさせられたあげくこうしてマナー違反な光景を見せつけられたことへの抗議も表明したいのである。したがって、きわめて「絶妙に」「繊細な」かつ「嫌がらせ」も含んだ策が要求される。
いざ。
アリスは片足をそろりと運び、ちょっと爪が伸びたかな、今夜お風呂入ったあとで切ろうと思いつつ、やっぱり小ぶりで綺麗な形よねという自画自賛もそこそこに、霊夢の腋、しかもダイレクトなそこではなくて、そのちょっと下、白いさらしがちらりとのぞいている部分を――
つん。
んん、と霊夢がうめく。しかし目覚めるにはまだ刺激が足りなかったようで、アリスの悪戯から逃れようと、足の裏を使って数センチ窓側へずりずりと滑った。ああもう、余計汚れるでしょうに。ため息をつきながら、攻勢の第二波を開始する。今度は。
こしょ、こしょ。
「……むゅ……?」
胡乱なつぶやきのあと、霊夢は目を開けた。
「素敵なベッドの寝心地は、どうだったかしら?」
「……はろー?」
おおよそ脈絡も巫女らしくもない返答から、皮肉がまるで通じていないことがわかる。その眠そうな目ときたら、つられてアリスもあくびをしてしまうほどのものだった。そんなうるうると見つめられても困る。視線を振り切るようにピンクのスリッパを履いて立ち上がり、この「友人」を踏まないように回り込んで、寝室の出口へ向かった。
「……起きなさい、朝食にするわよ」
「朝食?」
ぴょこっと霊夢が身を起こす。猫か何かのように身軽だ。
「起きて、外で服をはたいて、ちゃんとした巫女になってちょうだい。じゃないとご飯は抜きよ」
2. サニー・サイド・アップ
居間に入るたびに、埃っぽい空気に悩まされる。換気はこまめに行っているのだけど、本が多いせいか、どうしてもすぐにこうなってしまう。たまには虫干ししなきゃ、と思い続けてもう何か月か。どこかの魔女と同じく、こういうことには億劫な自分が恨めしい。
それでも、この少し淀んだ、落ち着いた雰囲気が好きだった。ほのかな薄暗さのなかで、テーブルにソファに食器棚、小さくて趣味のいい額縁に入った絵の一群やコチコチと良い響きを奏でる壁掛け時計はまるで聖者の佇まい。乳白色のカーテンは格子状に切り取られた陽光を透過して、ダークブラウンの木材を使った床に複雑な陰影を残している。部屋を横切って、光のスクリーンを思い切ってシャッと開けると、普段通りのアリスの一日が始まる。
「さ、みんな、朝よ!」
パン、と手の一叩き。それに応じて、それまでは大人しく戸棚に収まっていた愛らしい人形たちがわらわらと動き出す。すぐさま上海と蓬莱が近寄ってきて、アリスの少しはねた髪に櫛をいれる。あとの人形たちは、家中の窓を開けたり洋服の洗濯に行ったりと大忙しだ。それらのご主人様は、まず顔を洗いに洗面台に向かった。蛇口をひねり、両手に水をかけ、う、つめたっ、と怯む間もなく、パシャッと顔に叩き付け、それを数度繰り返して、うん、これで、やっと目が覚めたという感じだ。
「ねぇ、櫛とか、どこ?」
「上海、行ってあげて」
「シャンハーイ」
くだんの紅白の猫が呑気な顔でするりと入ってきたので、すぐさま人形をけしかける。
「わっ、ちょっ、引っ張るな!」
「キレイニスルー」
「私は元々そこそこきれいよ!」
「何言ってるんだか……」
ま、あの半野良猫の毛繕いその他は上海人形に任せよう。こちらはもっと大事な課題をこなさなければならない。
開け放した窓からはさわやかな風が入り込んでくる。深呼吸をすると、頭の奥のほうにまで新鮮な空気が染みわたって、ぽかぽかと良い気分になってくる。五月の太陽は雲に邪魔されることなく燦々と光を分け与えてくれる。バックミュージックには生活音のオーケストラ。食器の触れるカチャカチャいう音、洗濯物の気持ちのいい水切りに加え、外からのパンパンと服を容赦なくはたく音と、伴奏に哀れな巫女の悲鳴というイレギュラーも良いアクセントだ。それに付け足してもう一つ、ヒュイーという笛のような音も聞こえてきた。
「ヒューイも、おはよう」
少し前の真冬、一羽の鷽がマーガトロイド邸に住み着いた。手作りのクッキーがいたくお気に召したらしく、自然に帰った他の仲間を尻目にここを埴生の宿とするつもりらしい。アリスは飼うつもりはなかったのだが、ふっくらとした白いお腹をくすぐってやると、不思議そうに首をかしげて指にすり寄るのにほだされてしまって以来、このグルメな鳥の世話役を仰せつかっている。
鳥籠から出してやると、ヒューイは朝の散歩に元気よく出かけて行った。ちなみにこの安直な名前は魔理沙による。
「えーと、二人分よね」
キッチンに入って、ようやく課題に取り掛かる。トーストはいつも通り薄く切って、甘さ控えめの特製ママレードを塗って。霊夢はあれで甘党だから、木苺のジャムを用意したほうが喜ぶかもしれない。ベーコンはカリッと焼き上げて、そのあとでスクランブルエッグを――いや。
振りむいて、居間に満ち溢れている光を見る。それを降らせているのは、空に鎮座している燃え盛る球体なのだ。
「……残った油で、目玉焼きを二つ、なんてのもいいわね」
うん、きっと美味しいだろう。あまり作ったことはないから、うまくいくかどうか。あとは、レタスやコーンにドレッシングをかけたサラダ、食事の最後にプラムとアールグレイを出せばいいだろう。そんなところか。
さて、ここからは時間との勝負。まずは薄く油を敷いて、ベーコンを焼く。パンは薄切りにして魔理沙に押し付けられたトースターに二つ入れておく。ベーコンからにじみ出る油が目に楽しく、立ち込める香ばしい匂いが鼻をくすぐる。こうするとカリカリにはならないけれど、アリスとしてはちょっとばかりぐだっているほうが好きだ。ベーコンが焼き上がり、フライパンに残ったものはそのままに、保管庫から卵を二つ取り出す。ぱかっと割ると、中から小型の太陽が挨拶をした。
「なんか、手伝う?」
どうやら自分自身の洗濯を終えたらしく、さっぱりした表情の霊夢がキッチンにやってきた。珍しい、どういう風の吹き回しだろう。
「……じゃあ、トーストの加減見て、野菜とか皿に盛りつけて。できるわよね?」
「これでも料理は一人で結構するのよ」
野菜を切り始めた霊夢を尻目に、目玉焼きの加減を見る。焼き方はやっぱりサニー・サイド・アップ。ターンオーバーもいいけれど、せっかくの黄色い火の玉がはっきり見えなくなってしまうのは、今日はもったいない、気がする。
パチパチと雨の降るような音を立てて、卵が焼けていく。白身が油とともに陽気なステップを踏んだあとで、だんだんと引き締まっていく。一方で、黄身はとろりとした笑みをアリスに向け続けている。この音、この味、この香り。なんだかすごく楽しい。
「……へぇ」
霊夢を見ると、なにやらしげしげとこちらを見つめている。
「なに?」
「いや、あんたでも鼻歌うたうんだなぁ、って」
……気付かないうちにそうしていたらしい。これは不覚。
「しかも、あれね。えーっと、しょぱん?」
「ぜんぜん違う……」
適当なことを言う巫女は放っておこう。もうほとんど焼きあがりだ。あとは塩コショウを振って軽く味付け。これで終わり。
「さぁ、できたわ。居間に運びましょう」
3. モーニング・グローリー
こうして、テーブルの上にはいい感じに焦げ目のついたトースト、目玉焼きの鮮やかな白と黄の対比に、色とりどりの野菜が案外丁寧に並べられ一緒くたにドレッシングをかけられたサラダ、それらと並んで鈍い輝きを放っているプラム。ベーコンの焼け具合も良いようだ。紅茶は白い陶器のティーポットの中におさまっていて、いまだその琥珀色の姿はお目にかかれない。それらのうえに、目を輝かせながらもお行儀よく手を合わせ、シェフに対する最大限の敬意を払う巫女。
「いただきます」
「……召し上がれ」
あぁ、これが、この巫女の数少ない――失礼、とにかくもまぁ、美徳の一つであることには変わりはない。たぶんね?
「イチゴのジャムあるけど、使う?」
「……んー………」
顎に指をそえて、なにやら難しい顔で考え込んでいる。
「どうしたの?」
「……ね、これ、トーストにのせちゃだめ?」
これ、とは目玉焼きのこと。つまりあれだ。目玉焼きパン。
「……まぁ、どう食べるかは、貴女の自由だし」
「ちょっとお行儀よくないかしら」
「食事の挨拶がお行儀よかったことに免じて、特別に認めるわ」
「やった」
そう言って、せっせとパンのうえに目玉焼きを運ぶ。それから、少し鼻をくんくん動かして匂いを楽しんだあと、白身とパンの部分を口に運ぶ。
「……うん」
何回か、口の中で音を立てずに咀嚼したあと、さらに奥へ進んでいく。卵黄に到達。半熟のそれはとろりとした身をパンの焼き目にこぼし、そこをまた、霊夢の口がぱくんと、進んでいく。
「うん、うん」
「……おいしい?」
「この、ね、とろりとしたとことカリッとしたところがね、混ざり合うともう、なんていうか。あっ、もちろん焼き加減とか味付けとかもちょうどいいわ。いつも朝はご飯だけど、こんなのも、けっこういいかも」
「なら、よかったわ」
ほっと安心している自分に気が付く。って、当たり前か。誰だって、自分の作った料理がおいしいかどうかは気になるもの。考えるのはやめにして、アリスもママレードを塗り、口に運ぶ。いつもより、ちょっと焦げてるかな? 野菜は切り方が若干おおざっぱだけれど、問題ないレベル。ベーコンは見た目通りおいしい。そして、巫女がほめてくれた目玉焼きは、きっちりしみ込んだベーコンの香りともあいまって、なにやら誇らしい味がした。
と、その時、朝の見回りを終えたヒューイが窓から戻ってきて、卓上のアリスの近くに止まった。こっちもご飯の時間だ。朝は、水を少々に、クッキー半欠片で満足するから、飼うのも結構安上がりだ。
「あ、その鷽、飼ってるのね」
「そういえば、魔理沙にきいたけど、結局鷽替神事はどうするの?」
「あー、あれね。やめたわ。ちょっとやったけど人来ないし」
「あれのおかげで、そこの窓、ぜんぶ直すはめになったんだけど?」
「じゃあ、よかったわね。嘘つきが見つかって」
巫女はあっけらかんとしている。なんだか丸め込まれたみたいで釈然としない。すると、あらかた食べ終えた巫女の肩に、ヒューイが親しげにすり寄った。
「ん、なかなか可愛いじゃない」
指であやしている霊夢を見ながら、ちょっとした悪戯を思いついた。これはもしかしたら、うまくいくといいものが見れるかもしれない。
「……ね、貴女、ときたま思い出したみたいにうちに酒もって殴り込んでくるけど、どうして?」
「え、だって、暇だったから――あいたっ」
つん、とヒューイが巫女の頬をつっついた。そう、鷽は、嘘をついている人を見抜くことができる。
「ふぅん。で、本当のとこはどうなの?」
「……いや、べつに、嘘ついてるわけじゃ、いた、いた」
ふっくらしているが、このヒューイはなかなか厳しい判断基準を持っていて、わずかでも怪しいと思われる仕草や表情にはすかさずつんつんやる。魔理沙なんか終始つつかれまくりで、ここへ来るときはまず籠の中に鷽がおさまっているかを確認するくらいだ。
「……むぅ、なによ」
少し恨みがましそうな目でこちらを見つめてくるが、ここは紅茶を飲むことで流す。あともう少しだ。
「……だって、その」
その気になれば、ヒューイを追っ払って逃げることもできるのに、今のうつむき加減の巫女にはそこまで思いつかないらしい。おいしい朝食が効いているのか、それとも?
「たまに、独りで神社にいて、その、あまりに誰も来ないと……」
ちらり、と、目線だけアリスに向けた。
「……さみしい、っていうか……」
「……そう」
狙い通りではある。でも、そんなに恥ずかしそうにしていると、とてつもなく悪いことをしたような気分になる。
「じゃあ」
それを拭い去るように、アリスは皮肉っぽいような、でも嫌味にはならないような笑みを浮かべて、言った。
「気が向いたら、また、遊びにくるといいわ。今度はおやつの時間とかね」
「……ん」
照れ隠しか、霊夢はティーカップを持ち、一口すすった。
「……ただ、紅茶は、音をたてて飲まないこと。日本茶とは違うんだからね」
「勉強しとくわ。この家の主は、目玉焼きパンを認めてくれるくらいに、マナーに厳しいもんね?」
ほら、ちょっとしおれてると思ったら、すぐに調子を取り戻すんだから。これだから、霊夢は面白い。
輝かしいばかりの光は少し落ち着いて、部屋の中の薄暗い落ち着いた部分が見えるようになった。隅っこのほうに埃がたまっている。この巫女を手伝わせて、食後にひと掃除しようか。
プラムのきゅっとしめつけてくるような甘味を、アールグレイの最後の一口で流しておしまい。二人は両手を合わせ、目を閉じて、お互いに向かって言った。
「ごちそうさま」
アリスが日々の生活に求めるものは三つある。まず第一に、緩やかに時の流れる中での平穏。第二に、ときおりそれを乱す来訪者の存在。そして第三に、紅白の巫女の腋である。
腋。
そう、腋だ。
本当のことをいえば、それは求めるものでもなんでもないのだが、まぎれもないこの今という瞬間に、霊夢の腋はアリスの眼下にしっかりと存在している。
彼女は床にごろんと寝転がっていた。といっても、オーク材の丸いコーヒーテーブルとベッドの間にできた狭い空間なので、両手のやり場に困ったのか、右手は緩やかに上下するお腹のうえに、左手は上のほうに投げ出されていて、つまりは左腋があられもなくさらけ出されている。細いカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に漂う埃の様相をぼんやりと照らしつつ、朝の光が絶妙に彼女の目の位置を避けて小さなおへその窪みの微細な陰影を描き出している。耳を澄ませば、くぴー、という寝息。ちょっと鼻がつまっているのかも? でも、風邪をひいていたとして、それはアリスの責任ではない。
寝顔は可愛いのになぁと残念な気持ちで、テーブルの上の水差しから水を一飲み、いくら知人の前だからってもうちょっと自分の格好に気をつかったほうがいい、女の子なんだから、たとえ年がら年中腋が寒そうな服を着てるからといってなどと、文句を心の中でふくらませながら、ようやっと、アリスは両足を床におろしたのだった。
ざり。少し砂が落ちている。それも当たり前で、マーガトロイド邸はそもそも土足が基本なのだ。靴を脱ぐのはシャワーを浴びるときとベッドに上がるときくらい。でもこの巫女には説明がまったく足りていなかったようだ。ちゃんと客室のベッドで寝るように言っておいたのに。何のためらいもなく床に身を投げ出すなんていう実に不潔な所業を平然とやってのけるのも、幻想郷のカオスじみた諸様式混在の弊害といえる。ま、それはさておき。
どう起こそう?
無理やり起こすか。否、この理不尽暴力巫女のこと、3秒で家が灰燼に帰している未来が予想できる。かといって、そのまま普通に起こすのはつまらない。こちらとしては、昨夜勝手に押し入られて酒の付き合いをさせられたあげくこうしてマナー違反な光景を見せつけられたことへの抗議も表明したいのである。したがって、きわめて「絶妙に」「繊細な」かつ「嫌がらせ」も含んだ策が要求される。
いざ。
アリスは片足をそろりと運び、ちょっと爪が伸びたかな、今夜お風呂入ったあとで切ろうと思いつつ、やっぱり小ぶりで綺麗な形よねという自画自賛もそこそこに、霊夢の腋、しかもダイレクトなそこではなくて、そのちょっと下、白いさらしがちらりとのぞいている部分を――
つん。
んん、と霊夢がうめく。しかし目覚めるにはまだ刺激が足りなかったようで、アリスの悪戯から逃れようと、足の裏を使って数センチ窓側へずりずりと滑った。ああもう、余計汚れるでしょうに。ため息をつきながら、攻勢の第二波を開始する。今度は。
こしょ、こしょ。
「……むゅ……?」
胡乱なつぶやきのあと、霊夢は目を開けた。
「素敵なベッドの寝心地は、どうだったかしら?」
「……はろー?」
おおよそ脈絡も巫女らしくもない返答から、皮肉がまるで通じていないことがわかる。その眠そうな目ときたら、つられてアリスもあくびをしてしまうほどのものだった。そんなうるうると見つめられても困る。視線を振り切るようにピンクのスリッパを履いて立ち上がり、この「友人」を踏まないように回り込んで、寝室の出口へ向かった。
「……起きなさい、朝食にするわよ」
「朝食?」
ぴょこっと霊夢が身を起こす。猫か何かのように身軽だ。
「起きて、外で服をはたいて、ちゃんとした巫女になってちょうだい。じゃないとご飯は抜きよ」
2. サニー・サイド・アップ
居間に入るたびに、埃っぽい空気に悩まされる。換気はこまめに行っているのだけど、本が多いせいか、どうしてもすぐにこうなってしまう。たまには虫干ししなきゃ、と思い続けてもう何か月か。どこかの魔女と同じく、こういうことには億劫な自分が恨めしい。
それでも、この少し淀んだ、落ち着いた雰囲気が好きだった。ほのかな薄暗さのなかで、テーブルにソファに食器棚、小さくて趣味のいい額縁に入った絵の一群やコチコチと良い響きを奏でる壁掛け時計はまるで聖者の佇まい。乳白色のカーテンは格子状に切り取られた陽光を透過して、ダークブラウンの木材を使った床に複雑な陰影を残している。部屋を横切って、光のスクリーンを思い切ってシャッと開けると、普段通りのアリスの一日が始まる。
「さ、みんな、朝よ!」
パン、と手の一叩き。それに応じて、それまでは大人しく戸棚に収まっていた愛らしい人形たちがわらわらと動き出す。すぐさま上海と蓬莱が近寄ってきて、アリスの少しはねた髪に櫛をいれる。あとの人形たちは、家中の窓を開けたり洋服の洗濯に行ったりと大忙しだ。それらのご主人様は、まず顔を洗いに洗面台に向かった。蛇口をひねり、両手に水をかけ、う、つめたっ、と怯む間もなく、パシャッと顔に叩き付け、それを数度繰り返して、うん、これで、やっと目が覚めたという感じだ。
「ねぇ、櫛とか、どこ?」
「上海、行ってあげて」
「シャンハーイ」
くだんの紅白の猫が呑気な顔でするりと入ってきたので、すぐさま人形をけしかける。
「わっ、ちょっ、引っ張るな!」
「キレイニスルー」
「私は元々そこそこきれいよ!」
「何言ってるんだか……」
ま、あの半野良猫の毛繕いその他は上海人形に任せよう。こちらはもっと大事な課題をこなさなければならない。
開け放した窓からはさわやかな風が入り込んでくる。深呼吸をすると、頭の奥のほうにまで新鮮な空気が染みわたって、ぽかぽかと良い気分になってくる。五月の太陽は雲に邪魔されることなく燦々と光を分け与えてくれる。バックミュージックには生活音のオーケストラ。食器の触れるカチャカチャいう音、洗濯物の気持ちのいい水切りに加え、外からのパンパンと服を容赦なくはたく音と、伴奏に哀れな巫女の悲鳴というイレギュラーも良いアクセントだ。それに付け足してもう一つ、ヒュイーという笛のような音も聞こえてきた。
「ヒューイも、おはよう」
少し前の真冬、一羽の鷽がマーガトロイド邸に住み着いた。手作りのクッキーがいたくお気に召したらしく、自然に帰った他の仲間を尻目にここを埴生の宿とするつもりらしい。アリスは飼うつもりはなかったのだが、ふっくらとした白いお腹をくすぐってやると、不思議そうに首をかしげて指にすり寄るのにほだされてしまって以来、このグルメな鳥の世話役を仰せつかっている。
鳥籠から出してやると、ヒューイは朝の散歩に元気よく出かけて行った。ちなみにこの安直な名前は魔理沙による。
「えーと、二人分よね」
キッチンに入って、ようやく課題に取り掛かる。トーストはいつも通り薄く切って、甘さ控えめの特製ママレードを塗って。霊夢はあれで甘党だから、木苺のジャムを用意したほうが喜ぶかもしれない。ベーコンはカリッと焼き上げて、そのあとでスクランブルエッグを――いや。
振りむいて、居間に満ち溢れている光を見る。それを降らせているのは、空に鎮座している燃え盛る球体なのだ。
「……残った油で、目玉焼きを二つ、なんてのもいいわね」
うん、きっと美味しいだろう。あまり作ったことはないから、うまくいくかどうか。あとは、レタスやコーンにドレッシングをかけたサラダ、食事の最後にプラムとアールグレイを出せばいいだろう。そんなところか。
さて、ここからは時間との勝負。まずは薄く油を敷いて、ベーコンを焼く。パンは薄切りにして魔理沙に押し付けられたトースターに二つ入れておく。ベーコンからにじみ出る油が目に楽しく、立ち込める香ばしい匂いが鼻をくすぐる。こうするとカリカリにはならないけれど、アリスとしてはちょっとばかりぐだっているほうが好きだ。ベーコンが焼き上がり、フライパンに残ったものはそのままに、保管庫から卵を二つ取り出す。ぱかっと割ると、中から小型の太陽が挨拶をした。
「なんか、手伝う?」
どうやら自分自身の洗濯を終えたらしく、さっぱりした表情の霊夢がキッチンにやってきた。珍しい、どういう風の吹き回しだろう。
「……じゃあ、トーストの加減見て、野菜とか皿に盛りつけて。できるわよね?」
「これでも料理は一人で結構するのよ」
野菜を切り始めた霊夢を尻目に、目玉焼きの加減を見る。焼き方はやっぱりサニー・サイド・アップ。ターンオーバーもいいけれど、せっかくの黄色い火の玉がはっきり見えなくなってしまうのは、今日はもったいない、気がする。
パチパチと雨の降るような音を立てて、卵が焼けていく。白身が油とともに陽気なステップを踏んだあとで、だんだんと引き締まっていく。一方で、黄身はとろりとした笑みをアリスに向け続けている。この音、この味、この香り。なんだかすごく楽しい。
「……へぇ」
霊夢を見ると、なにやらしげしげとこちらを見つめている。
「なに?」
「いや、あんたでも鼻歌うたうんだなぁ、って」
……気付かないうちにそうしていたらしい。これは不覚。
「しかも、あれね。えーっと、しょぱん?」
「ぜんぜん違う……」
適当なことを言う巫女は放っておこう。もうほとんど焼きあがりだ。あとは塩コショウを振って軽く味付け。これで終わり。
「さぁ、できたわ。居間に運びましょう」
3. モーニング・グローリー
こうして、テーブルの上にはいい感じに焦げ目のついたトースト、目玉焼きの鮮やかな白と黄の対比に、色とりどりの野菜が案外丁寧に並べられ一緒くたにドレッシングをかけられたサラダ、それらと並んで鈍い輝きを放っているプラム。ベーコンの焼け具合も良いようだ。紅茶は白い陶器のティーポットの中におさまっていて、いまだその琥珀色の姿はお目にかかれない。それらのうえに、目を輝かせながらもお行儀よく手を合わせ、シェフに対する最大限の敬意を払う巫女。
「いただきます」
「……召し上がれ」
あぁ、これが、この巫女の数少ない――失礼、とにかくもまぁ、美徳の一つであることには変わりはない。たぶんね?
「イチゴのジャムあるけど、使う?」
「……んー………」
顎に指をそえて、なにやら難しい顔で考え込んでいる。
「どうしたの?」
「……ね、これ、トーストにのせちゃだめ?」
これ、とは目玉焼きのこと。つまりあれだ。目玉焼きパン。
「……まぁ、どう食べるかは、貴女の自由だし」
「ちょっとお行儀よくないかしら」
「食事の挨拶がお行儀よかったことに免じて、特別に認めるわ」
「やった」
そう言って、せっせとパンのうえに目玉焼きを運ぶ。それから、少し鼻をくんくん動かして匂いを楽しんだあと、白身とパンの部分を口に運ぶ。
「……うん」
何回か、口の中で音を立てずに咀嚼したあと、さらに奥へ進んでいく。卵黄に到達。半熟のそれはとろりとした身をパンの焼き目にこぼし、そこをまた、霊夢の口がぱくんと、進んでいく。
「うん、うん」
「……おいしい?」
「この、ね、とろりとしたとことカリッとしたところがね、混ざり合うともう、なんていうか。あっ、もちろん焼き加減とか味付けとかもちょうどいいわ。いつも朝はご飯だけど、こんなのも、けっこういいかも」
「なら、よかったわ」
ほっと安心している自分に気が付く。って、当たり前か。誰だって、自分の作った料理がおいしいかどうかは気になるもの。考えるのはやめにして、アリスもママレードを塗り、口に運ぶ。いつもより、ちょっと焦げてるかな? 野菜は切り方が若干おおざっぱだけれど、問題ないレベル。ベーコンは見た目通りおいしい。そして、巫女がほめてくれた目玉焼きは、きっちりしみ込んだベーコンの香りともあいまって、なにやら誇らしい味がした。
と、その時、朝の見回りを終えたヒューイが窓から戻ってきて、卓上のアリスの近くに止まった。こっちもご飯の時間だ。朝は、水を少々に、クッキー半欠片で満足するから、飼うのも結構安上がりだ。
「あ、その鷽、飼ってるのね」
「そういえば、魔理沙にきいたけど、結局鷽替神事はどうするの?」
「あー、あれね。やめたわ。ちょっとやったけど人来ないし」
「あれのおかげで、そこの窓、ぜんぶ直すはめになったんだけど?」
「じゃあ、よかったわね。嘘つきが見つかって」
巫女はあっけらかんとしている。なんだか丸め込まれたみたいで釈然としない。すると、あらかた食べ終えた巫女の肩に、ヒューイが親しげにすり寄った。
「ん、なかなか可愛いじゃない」
指であやしている霊夢を見ながら、ちょっとした悪戯を思いついた。これはもしかしたら、うまくいくといいものが見れるかもしれない。
「……ね、貴女、ときたま思い出したみたいにうちに酒もって殴り込んでくるけど、どうして?」
「え、だって、暇だったから――あいたっ」
つん、とヒューイが巫女の頬をつっついた。そう、鷽は、嘘をついている人を見抜くことができる。
「ふぅん。で、本当のとこはどうなの?」
「……いや、べつに、嘘ついてるわけじゃ、いた、いた」
ふっくらしているが、このヒューイはなかなか厳しい判断基準を持っていて、わずかでも怪しいと思われる仕草や表情にはすかさずつんつんやる。魔理沙なんか終始つつかれまくりで、ここへ来るときはまず籠の中に鷽がおさまっているかを確認するくらいだ。
「……むぅ、なによ」
少し恨みがましそうな目でこちらを見つめてくるが、ここは紅茶を飲むことで流す。あともう少しだ。
「……だって、その」
その気になれば、ヒューイを追っ払って逃げることもできるのに、今のうつむき加減の巫女にはそこまで思いつかないらしい。おいしい朝食が効いているのか、それとも?
「たまに、独りで神社にいて、その、あまりに誰も来ないと……」
ちらり、と、目線だけアリスに向けた。
「……さみしい、っていうか……」
「……そう」
狙い通りではある。でも、そんなに恥ずかしそうにしていると、とてつもなく悪いことをしたような気分になる。
「じゃあ」
それを拭い去るように、アリスは皮肉っぽいような、でも嫌味にはならないような笑みを浮かべて、言った。
「気が向いたら、また、遊びにくるといいわ。今度はおやつの時間とかね」
「……ん」
照れ隠しか、霊夢はティーカップを持ち、一口すすった。
「……ただ、紅茶は、音をたてて飲まないこと。日本茶とは違うんだからね」
「勉強しとくわ。この家の主は、目玉焼きパンを認めてくれるくらいに、マナーに厳しいもんね?」
ほら、ちょっとしおれてると思ったら、すぐに調子を取り戻すんだから。これだから、霊夢は面白い。
輝かしいばかりの光は少し落ち着いて、部屋の中の薄暗い落ち着いた部分が見えるようになった。隅っこのほうに埃がたまっている。この巫女を手伝わせて、食後にひと掃除しようか。
プラムのきゅっとしめつけてくるような甘味を、アールグレイの最後の一口で流しておしまい。二人は両手を合わせ、目を閉じて、お互いに向かって言った。
「ごちそうさま」
もっとつづきが読みたくなる作品でした。
原作と二次をうまく合わせてて面白かったです
さっきお茶漬けを食べたのに腹が…
日常のワンシーンって感じでいいんだけど
もうちょっと何かあれば良かったな
アリスのちょっとした心境の起伏が巧く描かれていて飽きません。朝の時間を数枚のスナップショットに収めた素晴らしい小説をありがとうございます。
いや、強いていうならば宴会か?
それはともかく、霊夢とアリスの朝食の会話はとても良かったです。
三月精の鷽を取り入れるとは、発想が豊かですね。
とても可愛らしいお話だったと思います。