さみしい
朝日の射すテラスで、赤い岩肌を剥き出しにした峡谷と、灰色の無機質な高層ビル群に囲まれた魔界の景色を眺めながら、そんな風に思い悩む日々が続くのも、他ならぬ愛娘・アリスちゃんの為であった。
あの子が幻想郷へ旅立ってから早や数年、一人前の魔法使いになるまで魔界の土地は踏まないと言っていただけあって、それ以来一度も姿を見せていない。
一人暮らしをしたいとあの子が言い出した時には目の前が真っ暗になった。魔界の空も私の心中を察してか大荒れに荒れ、地を穿つかと思うほどの大雨と、激しい雷が四十日の間、降り続き、危うく魔界全土が洪水に飲まれるところであった。もちろん嘘である。
それはともかくとして、一人暮らしには当然反対した。
(何も、そう急いで親元を離れなくてもいいでしょう。……ダメ?)
(それなら、お付きの者を置くのはどう? ……イヤ?)
(せめて魔界の中で暮らさない? 幻想郷でなくても、魔法の修行は出来るでしょ。……え、うるさい、死ね? ちょっと非道くない? 夢子ちゃーん、アリスちゃんがグレちゃった)
などといった会話を経て、結局、幻想郷での一人暮らしを認めることになった。これは、まあ、親の庇護を離れたいという、あの子の強い想いもあったし、こういう事にはドライな夢子ちゃんが、
(アリスは神綺様と違って、しっかり者だから、心配しなくてもいいでしょう。神綺様こそ、いい加減、子離れして下さい。ほら、今もアリス手製の人形なんて抱いて。何なの? バカなの? 親バカなの?)
とか言うものだから、泣く泣く認めたのだが、ちょっと夢子ちゃん、そこまで言わなくてもよくない? と思わなくもなかった。
とはいえ、いつまでも親元に置いては、子供の成長を妨げかねない、というのも一理あるし、いつもはおとなしいあの子が、自分から何かをしたいと言い出したのは、人形作りを学んだ時以来なので、これもあの子の未来のため、幸せのため、余計な干渉はせず、ただ遠くから見守るのが年頃の子供を持つ親の務めだろうと、無理やり納得して、あの子が旅立つ日には、何とか笑顔で送り出すことが出来た。
が、そこはやはり人(?)の親、かわいい娘が遠く離れた地で、一人で暮らしているというのは心配でならない。
ご飯はちゃんと食べているかしら、よもや三食カップ麺という事はないでしょうけど、そもそも、幻想郷にカップ麺があるのかしら、それはともかく、カップ麺おいしいよね、夢子ちゃんは、あんなもの魔界神の口に入れる物ではありませんとか言うけれど、たまにならいいじゃない、うん、今度カップ麺の仕送りをしてあげよう。
掃除はちゃんとしているかしら、不精するような子じゃないし、きれい好きだから心配はいらないでしょうけど、ほら、昔からトイレを綺麗にする娘は幸せな家庭を築くって言うじゃない? まさか人形に任せて、自分は用を足すだけなんてことはないかしら、いや、あの人形はあの子が操っているのだから、自分で掃除しているのと変わらないのか? それはともかく、上海人形かわいいよね、顔にマスクして、手にブラシとクレゾール液を持った上海が、便座を前に悪戦苦闘する様を想うと、かわええなあと思う。間違えてウォシュレット釦を押しちゃう上海、顔に水が掛かって慌てふためく上海、後ろでクスクス笑っているアリスちゃん。うん、かわいい。上海もかわいいけど、そんな一人芝居をしちゃうアリスちゃん超かわいい。……いやいや、何の話だ。
一番の心配は年頃の娘であるという事だろう。親の贔屓目で見なくても美人さんだから、ひょっとすると悪い虫でも付きはしまいか、その辺はしっかりした娘だと思うが、根が純粋なだけ、口の立つ経験豊富な殿方に騙されはしまいかと不安になる。よしんば清いお付き合いだったとしても、愛娘を取られるというのは我慢がならない。
(お義母さん、娘さんを僕にください)
男が畳に手を付く、その隣には恥ずかしそうな、それでいて決然とした眼差しをこちらに向けるアリスちゃん。
(駄目よ、娘は遣れないわ)
卓を挟んで差し向いに、頑固親父よろしく、腕を組んで、じっと目を瞑ったまま、黙りこむ私。……いかん、想像しただけで涙が出そうだ。
と、まあ、アリスちゃんへの愛をくだくだしく述べてきたが、こういったことは全て杞憂に過ぎない、顔は見せずとも、手紙の遣り取りを通じて、おおよその近況は把握しているし、あの子が楽しくやっているのは、その文面からも分かるのだから、何もそれほどまでに心配する必要は無いのだ。
つまるところ、問題は夢子ちゃんの言う通り、私が子離れできないという所にあるのだろう。
(どうせ私は親バカですよーだ)
と、おおっぴらに開き直ってみたこともあったが、さすがの夢子ちゃんも、あの時ばかりは呆れ果てていた。親バカじゃなくて、ただのバカでしょう、とでも言いたげな顔をしていた。
だが、それでいいのだ。子離れできないダメ親、始終、子供の事ばかり考えている親バカ、アホ毛、……などと罵られても、そんなことは知った事では無い。目に入れても痛くはない、かわいい愛娘、その愛娘をどうして、いつまでも、放って置けよう? いかに菩薩の慈悲が三界を照らすといっても、私の、あの子へ注ぐ愛には劣るだろう、……会いたい、今すぐに!
だが、いきなり訪ねて行っても向こうが困るだろう。お母さんったら、本当に心配性なんだから、などと言われるのも決まりが悪い。何か口実が必要だ。と、思ううちに、一つの広告が目に入った。魔界新聞の朝刊に挟まれた、それを広げた時、ふと閃くものがあった。
* * *
「ダメです」
私の話を一通り聞き終えた夢子ちゃんは開口一番にそう言った。
「まあ、そう、ケチケチせずに」
「ケチで言っているんじゃありません。大体なんですか、母の日のプレゼントを直接渡したいって。あれは子供が母親へ日頃の感謝をこめて贈り物をする日でしょう、神綺様は貰う方じゃないですか」
「えー、でも、プレゼントの交換っことかしたいし。人間の世界じゃ、逆チョコなんてものがあるじゃない」
「なんですかそれは」
「バレンタインってあるでしょう。女性が意中の男性にチョコレートを渡すっていう。それの逆、男性から女性にチョコレートを渡すの。だから逆チョコ」
「初めて聞きました」
「仕事一筋で男っ気が無いから……」
「余計なお世話です。っていうか、なんでそんなに人間界の風習に詳しいんですか」
「いいじゃない、そんなことは。それよりも外出の許可を頂きたいのですが」
「だから、ダメですって。少しは御自分の立場をわきまえて下さい。魔界の中ならともかく、幻想郷まで出掛けるというのは、軽率過ぎます。あそこには私ですら歯が立たないような、強力な妖怪が住むと聞きます。そんなところに行かせるわけにはいきません」
「いや……でも、ほら、わたし魔界神だし、大丈夫だと思うんだけど」
「神綺様の(わたし魔界神だし)は当てになりません。御身に何かあったらどうするのですか」
「国葬を執り行っていただきたい」
「怒りますよ、ほんと。そんなにアリスに会いたいなら、こちらに来てもらえばいいじゃないですか」
「でも、そこは貴女、あの子の意志を尊重したいし」
「だったら、尚更、会わない方が良いでしょう。アリスが何のために、魔界を離れたと思っているんです」
「そりゃ、貴女、一人前の魔法使いになるために、あえて厳しい環境に身を置こうと……」
「そうでしょう。であれば、いま会いに行くのは、かえって迷惑ではないでしょうか。変に里心が付いたらどうするのです」
「むむ、たしかに」
「分かっていただけたなら、この話はおしまいです。プレゼントはいつも通り、使いの者に持っていかせましょう」
「いーだ、夢子ちゃんの朴念仁」
「何とでも言ってください」
そう言うと、夢子ちゃんは、踵を返して立ち去ろうとした。この話はこれでおしまい、というつもりだろう。
「あーあ、残念。夢子ちゃんへのプレゼントも用意しようと思ったのに」
出口の扉に手を掛けた、夢子ちゃんの動きが止まった。こちらに背を向けているので、その表情は読み取れないが、確実に効いている。いいぞ、さすがは魔界神、今のパンチは効いている、夢子ちゃんはダウン寸前だ……
と、
「何と言おうと、ダメなものは、ダメです」
そう言って乱暴に扉を開けると、こちらには振り返りもせず、さっさと出て行ってしまった。バタンと勢いよく閉まる扉の音だけが残った。
「ふーんだ、夢子ちゃんのバカ」
言いつつ、私は次のプランに移ることにした。
* * *
次の日の朝、いつもなら、とっくに起きて朝食の席に着いているはずの神綺が、全く姿を見せないので、よもや勝手にパンデモニウムを抜け出したのではと、おそるおそる寝室の扉を開けた夢子は、ベットの上の山なりになった掛布団を見て、布団に頭まで包まっているのだろう、その姿は見えないが、とりあえず居なくなったわけではないようだと安心すると、まったくお寝坊さんなんだからと、半ば呆れつつ、半ば慈しむ様に、
「神綺様、朝ですよ。ほら、いい加減、起きてください」
言いつつ、布団をめくる……と、そこには神綺そっくり等身大・魔界神人形が!
(何じゃあ、こりゃあああ!)
と、並みのメイドなら叫んでいただろう。そこは、この夢子、もっとも永く神綺に仕えているだけあって、この程度のいたずらは慣れたもの、すぐに落ち着きを取り戻すと、人形の胸のあたりに何やら張り紙がしてあるのに気が付いた。
夢子ちゃんへ
私は幻想郷へと旅立ちます。
身勝手な振る舞いをどうか許してください。
でもね、全身を駆ける情動、熱いパッションを抑える事が出来ないの。
お詫びといっては何ですが、この人形を、過日お話ししたプレゼントとして置いていきます。
私の代わりと思って、大事にしてください。
あなたの魔界神☆
「あんの、アホ毛えええ!」
このパンデモニウム全体を揺るがすほどの怒号に、仕えの者達は畏怖し、後々まで語り草になったという。
* * *
魔法の森と人里の、ちょうど境の辺りにある香霖堂は、いつ見ても雑然としていて、都会的ではない。……ないのだが、お母さんに何か贈るなら、ありきたりな物よりも、何か珍しい、本当に価値があるのか分からない様な物の方が喜ぶだろうと、そう思いつつ、アリスは入口の扉に手を掛けた。
「いらっしゃい。おや、これは珍しい」
「なんだ、アリスか」
入口から真正面に見える机には、本がうず高く積まれている。その陰から、椅子にもたれていた背中を少し起こして、香霖堂の店主・森近霖之助がヒョイと顔を出した。その膝の上にはアリスと同じく魔法の森に住む、白黒の魔法使い・霧雨魔理沙が座っていた。
どうやら、二人で本を読んでいたらしい、霖之助は膝の上の魔理沙を抱えるようにしながら、両腕を伸ばして本を開いている。恋人というよりは、親が幼子に本を読み聞かせる様な、そんな風に見えた。
「いらっしゃい。今日はどういった物をお探しでしょうか」
「えーっと、これと決まった物があるわけじゃないんだけど、母の日に贈るプレゼントを探そうと思って」
「あー、アリスの母親って言うとアレか、魔界の神だとかいう……」
魔理沙が口を挟む。
「神綺様よ」
自分の母親に様を付けるのはおかしい様な気もしたが、魔界ではアリス以外のみんなが、そう呼んでいたのだから、何もおかしくはないのだろう。
「無難にカーネーションとかじゃダメなのか?」
「それでもいいんだけど、お母さん、珍しい物が好きだから、ここなら何か、気の利いた物があるんじゃないかと思って……」
「そう言って頂けると、道具屋冥利に尽きるね。相手は魔界の神様か……、ふむ、それなら良い物がある。魔理沙、ちょっと倉庫へ行って、これを取ってきてくれないか」
そう言うと、霖之助は、サラサラとメモを取り、それを魔理沙に渡した。膝の上で機嫌良さそうに足をパタパタさせていた魔理沙は、それを受け取ると、いつになく素直に、
「よしきた、ちょっと行ってくるぜ」
と言って、アリスの横を通り過ぎると、店の扉をバンッと勢いよく開けて、香霖堂の裏にあるというガラクタ置き場、もとい、倉庫へと駆けて行った。
「おいおい、扉は優しく開けてくれよ。全くしょうがない子だ」
「窓ガラスをぶち抜いていかなかっただけマシでしょう。魔理沙といい、どこぞのスキマといい、幻想郷には扉から出入りするという概念が欠如した連中が多過ぎるわ」
「いや、まったくだ。ところで、えーと……、アリスさん?」
「アリスでいいわ」
「じゃあ、アリス、その……、お代の事だがね、この店は半ば趣味でやっている様なものだから、お代はタダにしてもいい。……いいが、一つ頼みを聞いてもらえないかな」
「内容によりますけど……」
「大したことじゃないよ。その……君のお母様の事、詳しく教えてくれないか」
「――? それを聞いて、どうするんです」
「別にどうも……、ただ、魔界に住む神様というのには興味があるし、なにより僕自身、君のお母様同様、珍しい物好きだからね」
なるほど、香霖堂の店主は知識欲に飢えている、と聞いたことがある。霖之助が、お母さんの話に興味を持ったとしてもおかしくないのかも知れない。それはともかく、話を聞かせてもらう代わりに、お代をタダにしようとは、噂に違わぬ変人だ。アリスは、そう考えるにつれ、……無愛想な人だと聞いたこともあるだけに、目の前の霖之助には人間味がある様に思え、少なからず興味を惹かれるのを覚えた。
* * *
魔法の森は、昼間でも鬱蒼としていて、空を覆い隠すばかりの緑の梢が、僅かに射す光をも飲み込む様で物寂しく、腰の丈ほどの草葉が生い茂った、道とは呼べない道も、どこか湿っぽい。歩くたびに得体のしれない苔や、蛭でもいそうな、やけに粘り気のある泥土を踏むから、唯でさえ気味が悪いのに、その苔や泥がズブズブとブーツの隙間から入り込みそうで、余計に気持ちが悪かった。まったくこんな所に愛しのアリスちゃんが住んでいるとは、にわかに信じがたい、などと言いながら付いて来る神綺を後ろに、案内役を頼まれた聖は、魔法の森を、香霖堂へ向かって歩いていた。
「まったく、アリスちゃんったら、どこに行っちゃったのかしら。突然、家に押しかけてビックリさせる計画が台無しだわ」
「たいがい家に居ると伺っていたのですが、当てが外れましたね。魔理沙さんの家にも居ませんでしたし、他に彼女が行きそうな所というと、博麗神社か、紅魔館の大図書館か、あとは人里まで買い物に出ているという可能性もありますね」
いずれにせよ、森と里の境にある香霖堂の前を通るだろう、そこで待っていても良いし、店主に、アリスさんを見ませんでしたか、と聞いてみても良い。とにかく、そこまで行ってみようと、聖が歩みを進めていると、ようやく目的の道具屋が見えてきた辺りで、グイっと後ろ髪を掴まれた。
「痛い、痛い、ちょっと、何するんですか」
「尼のくせに髪なんか伸ばすからでしょう。いや、それはともかく、あれを見てよ、ひじりん」
「ひじりん言うな。あれってどれですか」
「あの、うさぎ小屋の窓の中……」
「あれ、一応、道具屋なんですけど……。窓の中って、ああ、アリスさんがいますね。よかったじゃないですか、すぐに見つかって、……って何してるんですか」
言いつつ、聖が神綺の方を振り向くと、そこには、茂みの蔭に隠れて、浅黄の手ぬぐいを頬かむりにした魔界神の、マヌケな姿が!
「ちょっ、……貴女、いったい何してるんですか」
「何って隠れてるんですけど」
「見れば分かります。そうじゃなくて、その格好は何ですか」
「いや、ほら。私の銀髪じゃ、茂みに隠れても目立つじゃない? 何かカムフラージュするものはないかな、と思って」
「アホ毛が飛び出てますが」
「アホ毛言うな」
「その手ぬぐい、どこにあったんですか」
「さっき森で拾った」
「きたない」
「ごめん」
「それはともかく、何で隠れる必要があるんです。早く会いに行けばいいじゃないですか」
「でも……、でも、私ひとりじゃ恥ずかしいし」
「思春期の乙女か」
「冗談よ。ほら、あの、うさぎ小屋の中、よく見てちょうだい」
「だから、道具屋だと何度言えば……。ああ、他にも誰か居ますね。あれはあれです。道具屋の店主の森近霖之助さんですよ」
「あの二人……なんか、ずいぶんいい雰囲気じゃない?」
「そうですか? 普通に会話しているようにしか見えませんけど」
「いいえ、あれは優男を装って女を喰いものにする、そういう類の男だわ。よく見れば、線は細いけど、いい男だし。アリスちゃんったらズルい! ……じゃなかった、アリスちゃんの貞操が危うい!」
そう言って、茂みを飛び出した神綺は、一目散に道具屋へと走っていく。その後ろ姿を眺めながら、
(危ういのは貴女のお脳でしょう)
とか、
(霖之助さんの生命の方が危ういか?)
などと冷静に考えつつ、放って置くわけにもいかないので、聖も渋々ながら、その後を追うことにした。
* * *
「ちょっと、貴方! 私のアリスちゃんから離れなさい!」
そう、叫びつつ、店の窓ガラスをぶち抜いて入ってきた何者かに、
(何ごと?)
とか、
(またガラスが!)
とか、思いつつ視線を向けた霖之助であったが、次の瞬間には、そのことを後悔していた。
謎の闖入者のその姿、おどろに乱れた長い銀の髪、殊に頭の左で束ねられた髪の一房は、それ自体が一個の生命であるかのように、ビクビクと名伏し難いぜん動を繰り返し、広げられた六枚の赤黒い羽根は、店を覆うかと思うほど大きく、血が通うのか、紫色に濁った筋が、斑模様を描くように縦横に走る。目には、龍や蛇が焼かれるという三熱の如き業火が渦巻いていた。
――その恐ろしき姿、魔神の姿!
正直、小便をちびるかと思った霖之助であったが、
「お母さん!」
と言う、この場にそぐわないアリスの声に、何とか我を取り戻すと、
「え、誰? お母さん?」
と、頓狂な声を上げていた。
* * *
「お母さん、なんでここに?」
と、戸惑いながらもアリスが問うと、神綺はそれには応えず、
「アリスちゃん、その男から離れなさい」
と言うだけであった。
(え、俺、なにか怒らせる様なことした?)
と思いつつも、何とか正常な思考を取り戻した霖之助は、どうやらこのご婦人(?)なにか勘違いをしているに違いないと合点したが、
(もしもし、貴女。なにか勘違いしてません?)
などとは、恐ろしくて口が裂けても言えないので、アリスの方へ、それとなく知らせようと目を配ると、それを目の端で捉えたか、神綺がこちらへ、キッと顔を向けて睨むので、今度こそ小便をちびったかと思うほどすくみ上がってしまった。
時間にすれば、ものの数秒であろう、それが霖之助には永遠のような永さに感じた……と、
「ごめんください」
という挨拶とともに、わざわざ玄関まで廻って入ってきた聖が、
「南無三」
の掛け声とともに、手にした巻物で神綺の頭をバシッと叩くと、怒りのあまり我を忘れていたらしい神綺も、ようやく正気付いたようで、
「痛っ。ちょっと、ひじりん、何するのさ」
と言いつつ、叩かれた場所をさすり、さすりする。
「ひじりん言うな。そんなことより貴方」
と、聖は霖之助の方を振り向くと、その手をしかと握り、
「貴方、ごめんなさいね。私の友人が早とちりをしてしまって。おケガは無かったかしら」
いきなり手を握られた霖之助は少しどぎまぎしつつ、
「いえ、大丈夫です。貴女はたしか命蓮寺の……」
「聖白蓮と申します。以後、お見知り置きを」
「これはこれは、ご丁寧に、こちらこそよろしくお願いします」
と、一通りの挨拶を済ましてから、
「えー、という事は、この方がアリス……さんのお母上だという……」
聖がそれを引き受けて、
「ええ、この方こそが、魔界の創造神であられます、魔神・神綺様、その人ですわ」
「はあ、しかし、ずいぶんと、そそっかしい……」
言ってから霖之助はマズイと思ったが、神綺の方では意に介する様子も無く、
「……だって、貴方とアリスちゃんが、あんまりにも仲良さそうだから」
と、決まりが悪そうに、
「恋人みたいに見えたんだもん」
そう言いつつ、人差し指で頬を掻いた。
* * *
「……香霖とアリスがなんだって」
今度こそマズイ、と霖之助は思った。ガラスを破る音に気が付いて、慌てて戻ってきたのだろう、魔理沙が息を弾ませながら、少し怒気を孕んだ調子で、そう言うと、
「お前、何だ。もう一回言ってみろ。香霖とアリスがどうしたって?」
と、神綺に突っ掛かる。
「いや、魔理沙。これはだな……」
「香霖は黙ってろ!」
と、魔理沙の怒声が店内に響いた。
「なに、貴女。私のアリスちゃんに文句あるの?」
と、なぜか神綺も応じる構えだ。
「お前、どっかで見たな。たしか幻想郷に魔界人が現れた時の……」
「貴女こそ。誰かと思えば、いつかの怨霊にくっついてた金魚のフンじゃない」
「何だと」
「やるの? 言っとくけど、私……強いわよ」
「――上等だ!」
と、魔理沙がポケットから八卦炉を取り出した。神綺も再び羽根を広げる。
(せめて、店の外でやってくれ)
とか、
(たすけて、ひじりん)
などと、霖之助が思っていると、
「――いい加減にして!」
という、アリスの声が店内に響いた。
* * *
「何なの、お母さん! いきなり現れたかと思えば、店は壊す、霖之助さんを脅す、魔理沙にはケンカを吹っ掛ける。一体なにしに来たのよ!」
ケンカを吹っ掛けたのは魔理沙だろうと、神綺は思ったが、そんな事にこだわっている場合でもないので、とりあえずその件は黙っていることにした。
「いや、ね。アリスちゃん? これには深い訳があって……」
「どんな訳だってのよ」
「いやあ、その……」
プレゼントを渡しに……、と言いたかったが、それこそ、この状況では言い出せなかった。せっかくのプランが台無しになってしまう。
「大方、ふらふらと遊びに来たんでしょう。夢子姉さんは承知しているの?」
「いや、その、お忍びで……」
言ってから、しまった、と思った。アリスの顔がみるみる赤くなる。
「じゃあ、なに。黙って出てきたっていうの? お母さん、夢子姉さんが、どれだけ苦労しているか知ってるでしょう。お母さんに代わって、パンデモニウムの中の事を仕切っているのは夢子姉さんじゃない。それをまた心配かけるような事をして!」
「ちがう、ちがうのよ。アリスちゃん。私はただ貴女の事が心配で……」
いよいよアリスの表情が険しくなってきた。目にはいっぱいの涙を溜めている。
「――それが余計なお世話だって言うのよ! 私、いつまでも昔のままじゃないのよ。それを、お母さん、いつまでも子供扱いして。――帰ってよ、帰って!」
「そんな、アリスちゃん……」
「帰れって言ってるでしょう! 嫌い、お母さんなんて大嫌い!」
そう叫ぶと、アリスはこぼれる涙も拭かず、店を飛び出した。
* * *
「帰れって言いながら、自分の方から出て行ったじゃないか」
場の空気をなごませるつもりで、魔理沙がそんな軽口を叩いたが、まったくの逆効果で、霖之助や聖に思いっきり睨まれると、
「すまん」
と一言こぼして、そのまま黙ってしまった。
「えー、あの、神綺様?」
聖が気を遣いつつ神綺に声を掛けると、振り返った神綺の顔には、先のアリスにも劣らないくらい、大粒の涙がボロボロとこぼれていた。
「ひじ、聖。わたし、アリスちゃんに嫌われちゃった……」
そう言って、聖の胸に顔をうずめると、今まで堪えていたのだろう、恥も外聞も無く、大声をあげて泣き出した。聖は、左手で神綺の背をさすりつつ、右手でその頭をなでてやると、泣き声が落ち着くまでは一言も声を掛けず、しばらくはそうして慰めていた。
* * *
昼間でさえ薄暗い魔法の森は、夜になれば、なおのこと暗く、今日のように風の吹く日であれば、黒い梢の一本一本が意志を持つようにざわざわと動くから、この森に永く住む者でも何となく気味が悪い。殊に母親とケンカ別れしたばかりでは、窓の外を眺めても気が滅入るばかりで、そうかといって、ベットに潜っても目が冴えて寝付くことが出来ない。アリスは鎮静の効果があるというカモミールのハーブティーを飲みながら、今日の出来事を振り返っていた。
(結局、プレゼント買い損ねちゃったな……)
一瞬そんな思いがよぎったが、頭を振って、
(ダメよ、ダメダメ。簡単に許したら、お母さん、いつまで経っても子離れできないんだから)
と、先の考えを打ち消した――その時、コッコッとドアを叩く音が聞こえた。
(こんな夜更けに誰だろう。もしお母さんだったら……)
そんなことを考えつつ、アリスはドアを開けると、玄関に立っていたのは聖と、その後ろで、ばつの悪そうな顔をしている魔理沙であった。
「……こんな夜更けに一体なんの用でしょう」
「その、神綺様、……貴女のお母様の事について、お話したいことがありまして」
「聞きたくありません」
「きっと、貴女にとっても大事な話ですから……」
アリスは少し思案した。聖は魔界にいた時に、お母さんの世話になっていたと聞くから、たぶんお母さんの肩を持つだろう。それなら正直に言って、聞きたくはなかったが、その反面、聞いて置かないと後悔しそうな、そんな気がした。
「……お母さんは?」
「貴女に言われた通り、魔界に帰りましたよ。散々泣いて、落ち着くまで、ずいぶん掛かりましたけど」
「……いいわ。入って」
と言って二人を通すと、来客用のソファヘ促した。
* * *
テーブルに置かれた三つのティーカップに、三人が思い思いに口を付けていると、そのうちに、聖がゆっくりと話し始めた。
「えー、まず、本題に入る前に、魔理沙さん、一言いうべきことがあるんじゃないですか」
「ううっ」
そう言って、相変わらず、ばつの悪そうな顔をしている魔理沙を、聖が促すように、
「昼間のケンカの責任の一端は、魔理沙さん、貴女にもあるでしょう? ……ほら」
「……ごめんちゃい」
「誠意が足りない」
「すみませんでした」
今日の件で分かったが、魔理沙は霖之助の事になるとムキになるところがあるらしい。保護者、あるいは兄の代わりといった以上の感情があるのだろう。しかし、そんなことは、今のアリスには、どうでもいい事であった。
「もちろん私にも責任はあります。どうも、すみませんでした」
そう言って、聖も頭を下げた。こうまで丁寧だと、こちらの方が悪い様な気がしてくる。アリスは聖に頭を上げるよう促してから、
「いえ、私の方こそ、みんなの前で、あんな風に怒鳴ったりして、みっともない事をしました。ごめんなさい」
と謝った。これで三人の間にわだかまりは無くなったと、聖が、そう考えたのか、そうでないのかは、アリスにも分からなかったが、とにかく、聖はポンッと両の手のひらを合わせると、
「よし、じゃあ、仲直りのしるしに指切りしましょう。私達三人、これからも仲良くしましょうと、約束するのです」
と言い出した。
「……さっさと本題に入れ」
魔理沙がアリスの心の声を代弁してくれた。聖は少し残念そうな顔をしつつ、
「えーでは、あの、アリスさん。あのですね、お母様の事ですけど、あの、何も、ただ遊びに来たというだけではないのですよ」
「分かっています。私のことが心配で、それで様子を見に来たのでしょう。……でも、私はこうして一人でもやっていけます。なにも、魔界のみんなに迷惑を掛けてまで心配することはないんです。それに……こういっては恥ずかしいですけど、やっぱり、子供扱いされたくない、そういう風に思うんです」
そう言って、アリスは顔を伏せた。
* * *
「……さみしいんですよ」
だし抜けに聖がそんなことを言い出した。
「さみしい?」
「その……私には子供がいませんから、何となく、こう思うというだけなんですがね。子育てっていうのは大変なものでしょう? それが自分の大事な子供の未来に関わる事なんだから、気を抜くことなんて出来ないじゃないですか。それこそ人生を掛けて臨む、そういう親もいるでしょう」
「……」
「だから、その、そういう親が、子育てを終えた時、その人は何を生き甲斐にすればいいんでしょう。私の檀家にもね、そういう悩みを持った人がいます。自分だけの新しい人生を見つけることが出来ればいいんでしょうけど、中々そうはいきませんから」
「……だったら、私はどうすればいいんですか」
アリスがそう言うと、
「騒ぎのどさくさで落としてしまった物を、私が見つけて拾ったのですが」
と言いつつ、聖は懐から何かの包みを取り出した。花柄の包装紙で丁寧にラッピングされた包みには、赤い、可愛らしいリボンが付いている。そのリボンには、(アリスちゃんへ)と、手書きの文字で記したカードが挟まれている。
「笑っちゃだめですよ? これはね、お母様が、母の日の逆プレよ、と言って用意したものなんです」
「お母さんが……」
「親は子供の喜ぶ顔が見たいって思うものなんでしょね。それを選んでいるときのお母様の表情は本当に楽しそうでした」
アリスは包装を丁寧に解く。中にはマラカイト石のブローチが入っていた――その意味はたしか、子供の守護、そして……、
「……私」
あとに続く言葉が見つからなかった。聖が何も言わずとも、その意図は十分に理解できた。
「私……、私、行きます。聖輦船、出してもらえますか?」
「断る理由はありません。喜んで貸しましょう」
言うが早いか、聖が何やら合図をすると、窓の外がパッと明るく光った。アリスが驚いて、外へ飛び出すと、普段は暗いはずの魔法の森の夜空に、七色に輝く聖輦船の姿があった。デッキでは欄干に手を掛けた命蓮寺のメンバーが、早く乗れという様に、手招きしている。
「どうしました? 善は急げ、ですよ」
となりに立っていた聖は、そう促すと、アリスに向けてニッコリと笑いかけた。
「はっ……はは、あははっ」
なるほど、慕われるわけだ。そう思いつつ、アリスは聖輦船へと乗り込んだ。
* * *
月明かりの射すテラスで、宵闇に沈む峡谷と、星くずの様に輝く摩天楼を眺めながら、私はひとり、物思いに沈んでいた。あの子が幻想郷へ旅立ってから早や数年、一人前の魔法使いになるまで魔界の土地は踏まないと言っていただけあって、久しぶりに会ったあの子は、見違えるほど大人になっていた。
(ああ、そうか。あの子も私の手を離れてしまったのだ)
そんな風に思うにつれ、涙がこぼれそうになった。いずれ、親と子の関係は、独りの大人と大人の関係になってしまうのだろうか。ならば、私はこれからどうすればいい? どうやってあの子と向き合っていけばいいのだろうか。たとえ大人になっても、あの子がわたしの娘であることに変わりはないのに――どうしても、そこで思考が止まってしまう。そこから先を考える事が出来なかった。
「やっぱり、さみしいよ。アリスちゃん……」
「……呼んだ?」
おどろいて振り向くと、そこには、いたずらっぽい笑みを浮かべた愛娘の姿があった。
「……おどろいた? この勝負、私の勝ちだね」
ああ、そうか。そういえば今日の昼間、この子の家に押しかけて、おどろかそうとしたんだっけ。
「勝てないなあ。アリスちゃんには」
そう言いつつ、涙がこぼれるのを、止めることが出来なかった。
* * *
「ねえ、お母さん」
「んっ、なあに」
神綺の膝の上に座りながら、アリスは静かに話しかけた。
「こうしていると、昔を思い出さない?」
「そうね、昔はよく、こうして貴女を膝に乗せて、本を読み聴かせたものだわ」
そう言うと、神綺はやさしくアリスの額のなでた。
「やだ、お母さん。くすぐったいよ」
「あら、ごめんなさい。つい……」
「ねえ、お母さん」
「んっ、なあに」
「あの、プレゼントありがとう。……それと、ごめんね。私は何も用意できなくて」
「いいのよ、貴女がこうして顔を見せてくれた。それが一番の贈り物だわ」
神綺の言葉を聞きながら、アリスは手に乗せたマラカイト石のブローチを眺める。その意味は、子供の守護、そして、再会。
「ねえ、お母さん」
「んっ、なあに」
「私、こうして時々、帰って来るね」
「あら、いいのよ、ムリに帰ってこなくても。今度は、お母さんも、きっとガマンするから」
「ううん、ムリとかじゃないの。そうじゃなくて、私もお母さんの喜ぶ顔が見たいから」
……ああ、そうか。なんとなく分かった気がする。たとえ、子供が大人になっても、親と子は、親と子のままなのだろう。ただ、大人と大人として互いに支え合っていく、そういう風に変わるだけなのだ――それならば、
「ねえ、アリスちゃん」
「なあに、お母さん」
「お母さん、アリスちゃんや、夢子ちゃんに恥ずかしくない様な、そんな立派な大人になるからね。約束するからね」
「やだ、お母さんったら。どういう風の吹き回し?」
「ふふっ、きっとアリスちゃんにも、いつかわかるわ」
そう言うと、神綺は膝の上のアリスを背中から抱きしめて、眼を閉じたまま、その頬と頬を合わせた。
星を散りばめた空を背に、二つの影が、幸せそうに寄り添っていた。
了
朝日の射すテラスで、赤い岩肌を剥き出しにした峡谷と、灰色の無機質な高層ビル群に囲まれた魔界の景色を眺めながら、そんな風に思い悩む日々が続くのも、他ならぬ愛娘・アリスちゃんの為であった。
あの子が幻想郷へ旅立ってから早や数年、一人前の魔法使いになるまで魔界の土地は踏まないと言っていただけあって、それ以来一度も姿を見せていない。
一人暮らしをしたいとあの子が言い出した時には目の前が真っ暗になった。魔界の空も私の心中を察してか大荒れに荒れ、地を穿つかと思うほどの大雨と、激しい雷が四十日の間、降り続き、危うく魔界全土が洪水に飲まれるところであった。もちろん嘘である。
それはともかくとして、一人暮らしには当然反対した。
(何も、そう急いで親元を離れなくてもいいでしょう。……ダメ?)
(それなら、お付きの者を置くのはどう? ……イヤ?)
(せめて魔界の中で暮らさない? 幻想郷でなくても、魔法の修行は出来るでしょ。……え、うるさい、死ね? ちょっと非道くない? 夢子ちゃーん、アリスちゃんがグレちゃった)
などといった会話を経て、結局、幻想郷での一人暮らしを認めることになった。これは、まあ、親の庇護を離れたいという、あの子の強い想いもあったし、こういう事にはドライな夢子ちゃんが、
(アリスは神綺様と違って、しっかり者だから、心配しなくてもいいでしょう。神綺様こそ、いい加減、子離れして下さい。ほら、今もアリス手製の人形なんて抱いて。何なの? バカなの? 親バカなの?)
とか言うものだから、泣く泣く認めたのだが、ちょっと夢子ちゃん、そこまで言わなくてもよくない? と思わなくもなかった。
とはいえ、いつまでも親元に置いては、子供の成長を妨げかねない、というのも一理あるし、いつもはおとなしいあの子が、自分から何かをしたいと言い出したのは、人形作りを学んだ時以来なので、これもあの子の未来のため、幸せのため、余計な干渉はせず、ただ遠くから見守るのが年頃の子供を持つ親の務めだろうと、無理やり納得して、あの子が旅立つ日には、何とか笑顔で送り出すことが出来た。
が、そこはやはり人(?)の親、かわいい娘が遠く離れた地で、一人で暮らしているというのは心配でならない。
ご飯はちゃんと食べているかしら、よもや三食カップ麺という事はないでしょうけど、そもそも、幻想郷にカップ麺があるのかしら、それはともかく、カップ麺おいしいよね、夢子ちゃんは、あんなもの魔界神の口に入れる物ではありませんとか言うけれど、たまにならいいじゃない、うん、今度カップ麺の仕送りをしてあげよう。
掃除はちゃんとしているかしら、不精するような子じゃないし、きれい好きだから心配はいらないでしょうけど、ほら、昔からトイレを綺麗にする娘は幸せな家庭を築くって言うじゃない? まさか人形に任せて、自分は用を足すだけなんてことはないかしら、いや、あの人形はあの子が操っているのだから、自分で掃除しているのと変わらないのか? それはともかく、上海人形かわいいよね、顔にマスクして、手にブラシとクレゾール液を持った上海が、便座を前に悪戦苦闘する様を想うと、かわええなあと思う。間違えてウォシュレット釦を押しちゃう上海、顔に水が掛かって慌てふためく上海、後ろでクスクス笑っているアリスちゃん。うん、かわいい。上海もかわいいけど、そんな一人芝居をしちゃうアリスちゃん超かわいい。……いやいや、何の話だ。
一番の心配は年頃の娘であるという事だろう。親の贔屓目で見なくても美人さんだから、ひょっとすると悪い虫でも付きはしまいか、その辺はしっかりした娘だと思うが、根が純粋なだけ、口の立つ経験豊富な殿方に騙されはしまいかと不安になる。よしんば清いお付き合いだったとしても、愛娘を取られるというのは我慢がならない。
(お義母さん、娘さんを僕にください)
男が畳に手を付く、その隣には恥ずかしそうな、それでいて決然とした眼差しをこちらに向けるアリスちゃん。
(駄目よ、娘は遣れないわ)
卓を挟んで差し向いに、頑固親父よろしく、腕を組んで、じっと目を瞑ったまま、黙りこむ私。……いかん、想像しただけで涙が出そうだ。
と、まあ、アリスちゃんへの愛をくだくだしく述べてきたが、こういったことは全て杞憂に過ぎない、顔は見せずとも、手紙の遣り取りを通じて、おおよその近況は把握しているし、あの子が楽しくやっているのは、その文面からも分かるのだから、何もそれほどまでに心配する必要は無いのだ。
つまるところ、問題は夢子ちゃんの言う通り、私が子離れできないという所にあるのだろう。
(どうせ私は親バカですよーだ)
と、おおっぴらに開き直ってみたこともあったが、さすがの夢子ちゃんも、あの時ばかりは呆れ果てていた。親バカじゃなくて、ただのバカでしょう、とでも言いたげな顔をしていた。
だが、それでいいのだ。子離れできないダメ親、始終、子供の事ばかり考えている親バカ、アホ毛、……などと罵られても、そんなことは知った事では無い。目に入れても痛くはない、かわいい愛娘、その愛娘をどうして、いつまでも、放って置けよう? いかに菩薩の慈悲が三界を照らすといっても、私の、あの子へ注ぐ愛には劣るだろう、……会いたい、今すぐに!
だが、いきなり訪ねて行っても向こうが困るだろう。お母さんったら、本当に心配性なんだから、などと言われるのも決まりが悪い。何か口実が必要だ。と、思ううちに、一つの広告が目に入った。魔界新聞の朝刊に挟まれた、それを広げた時、ふと閃くものがあった。
* * *
「ダメです」
私の話を一通り聞き終えた夢子ちゃんは開口一番にそう言った。
「まあ、そう、ケチケチせずに」
「ケチで言っているんじゃありません。大体なんですか、母の日のプレゼントを直接渡したいって。あれは子供が母親へ日頃の感謝をこめて贈り物をする日でしょう、神綺様は貰う方じゃないですか」
「えー、でも、プレゼントの交換っことかしたいし。人間の世界じゃ、逆チョコなんてものがあるじゃない」
「なんですかそれは」
「バレンタインってあるでしょう。女性が意中の男性にチョコレートを渡すっていう。それの逆、男性から女性にチョコレートを渡すの。だから逆チョコ」
「初めて聞きました」
「仕事一筋で男っ気が無いから……」
「余計なお世話です。っていうか、なんでそんなに人間界の風習に詳しいんですか」
「いいじゃない、そんなことは。それよりも外出の許可を頂きたいのですが」
「だから、ダメですって。少しは御自分の立場をわきまえて下さい。魔界の中ならともかく、幻想郷まで出掛けるというのは、軽率過ぎます。あそこには私ですら歯が立たないような、強力な妖怪が住むと聞きます。そんなところに行かせるわけにはいきません」
「いや……でも、ほら、わたし魔界神だし、大丈夫だと思うんだけど」
「神綺様の(わたし魔界神だし)は当てになりません。御身に何かあったらどうするのですか」
「国葬を執り行っていただきたい」
「怒りますよ、ほんと。そんなにアリスに会いたいなら、こちらに来てもらえばいいじゃないですか」
「でも、そこは貴女、あの子の意志を尊重したいし」
「だったら、尚更、会わない方が良いでしょう。アリスが何のために、魔界を離れたと思っているんです」
「そりゃ、貴女、一人前の魔法使いになるために、あえて厳しい環境に身を置こうと……」
「そうでしょう。であれば、いま会いに行くのは、かえって迷惑ではないでしょうか。変に里心が付いたらどうするのです」
「むむ、たしかに」
「分かっていただけたなら、この話はおしまいです。プレゼントはいつも通り、使いの者に持っていかせましょう」
「いーだ、夢子ちゃんの朴念仁」
「何とでも言ってください」
そう言うと、夢子ちゃんは、踵を返して立ち去ろうとした。この話はこれでおしまい、というつもりだろう。
「あーあ、残念。夢子ちゃんへのプレゼントも用意しようと思ったのに」
出口の扉に手を掛けた、夢子ちゃんの動きが止まった。こちらに背を向けているので、その表情は読み取れないが、確実に効いている。いいぞ、さすがは魔界神、今のパンチは効いている、夢子ちゃんはダウン寸前だ……
と、
「何と言おうと、ダメなものは、ダメです」
そう言って乱暴に扉を開けると、こちらには振り返りもせず、さっさと出て行ってしまった。バタンと勢いよく閉まる扉の音だけが残った。
「ふーんだ、夢子ちゃんのバカ」
言いつつ、私は次のプランに移ることにした。
* * *
次の日の朝、いつもなら、とっくに起きて朝食の席に着いているはずの神綺が、全く姿を見せないので、よもや勝手にパンデモニウムを抜け出したのではと、おそるおそる寝室の扉を開けた夢子は、ベットの上の山なりになった掛布団を見て、布団に頭まで包まっているのだろう、その姿は見えないが、とりあえず居なくなったわけではないようだと安心すると、まったくお寝坊さんなんだからと、半ば呆れつつ、半ば慈しむ様に、
「神綺様、朝ですよ。ほら、いい加減、起きてください」
言いつつ、布団をめくる……と、そこには神綺そっくり等身大・魔界神人形が!
(何じゃあ、こりゃあああ!)
と、並みのメイドなら叫んでいただろう。そこは、この夢子、もっとも永く神綺に仕えているだけあって、この程度のいたずらは慣れたもの、すぐに落ち着きを取り戻すと、人形の胸のあたりに何やら張り紙がしてあるのに気が付いた。
夢子ちゃんへ
私は幻想郷へと旅立ちます。
身勝手な振る舞いをどうか許してください。
でもね、全身を駆ける情動、熱いパッションを抑える事が出来ないの。
お詫びといっては何ですが、この人形を、過日お話ししたプレゼントとして置いていきます。
私の代わりと思って、大事にしてください。
あなたの魔界神☆
「あんの、アホ毛えええ!」
このパンデモニウム全体を揺るがすほどの怒号に、仕えの者達は畏怖し、後々まで語り草になったという。
* * *
魔法の森と人里の、ちょうど境の辺りにある香霖堂は、いつ見ても雑然としていて、都会的ではない。……ないのだが、お母さんに何か贈るなら、ありきたりな物よりも、何か珍しい、本当に価値があるのか分からない様な物の方が喜ぶだろうと、そう思いつつ、アリスは入口の扉に手を掛けた。
「いらっしゃい。おや、これは珍しい」
「なんだ、アリスか」
入口から真正面に見える机には、本がうず高く積まれている。その陰から、椅子にもたれていた背中を少し起こして、香霖堂の店主・森近霖之助がヒョイと顔を出した。その膝の上にはアリスと同じく魔法の森に住む、白黒の魔法使い・霧雨魔理沙が座っていた。
どうやら、二人で本を読んでいたらしい、霖之助は膝の上の魔理沙を抱えるようにしながら、両腕を伸ばして本を開いている。恋人というよりは、親が幼子に本を読み聞かせる様な、そんな風に見えた。
「いらっしゃい。今日はどういった物をお探しでしょうか」
「えーっと、これと決まった物があるわけじゃないんだけど、母の日に贈るプレゼントを探そうと思って」
「あー、アリスの母親って言うとアレか、魔界の神だとかいう……」
魔理沙が口を挟む。
「神綺様よ」
自分の母親に様を付けるのはおかしい様な気もしたが、魔界ではアリス以外のみんなが、そう呼んでいたのだから、何もおかしくはないのだろう。
「無難にカーネーションとかじゃダメなのか?」
「それでもいいんだけど、お母さん、珍しい物が好きだから、ここなら何か、気の利いた物があるんじゃないかと思って……」
「そう言って頂けると、道具屋冥利に尽きるね。相手は魔界の神様か……、ふむ、それなら良い物がある。魔理沙、ちょっと倉庫へ行って、これを取ってきてくれないか」
そう言うと、霖之助は、サラサラとメモを取り、それを魔理沙に渡した。膝の上で機嫌良さそうに足をパタパタさせていた魔理沙は、それを受け取ると、いつになく素直に、
「よしきた、ちょっと行ってくるぜ」
と言って、アリスの横を通り過ぎると、店の扉をバンッと勢いよく開けて、香霖堂の裏にあるというガラクタ置き場、もとい、倉庫へと駆けて行った。
「おいおい、扉は優しく開けてくれよ。全くしょうがない子だ」
「窓ガラスをぶち抜いていかなかっただけマシでしょう。魔理沙といい、どこぞのスキマといい、幻想郷には扉から出入りするという概念が欠如した連中が多過ぎるわ」
「いや、まったくだ。ところで、えーと……、アリスさん?」
「アリスでいいわ」
「じゃあ、アリス、その……、お代の事だがね、この店は半ば趣味でやっている様なものだから、お代はタダにしてもいい。……いいが、一つ頼みを聞いてもらえないかな」
「内容によりますけど……」
「大したことじゃないよ。その……君のお母様の事、詳しく教えてくれないか」
「――? それを聞いて、どうするんです」
「別にどうも……、ただ、魔界に住む神様というのには興味があるし、なにより僕自身、君のお母様同様、珍しい物好きだからね」
なるほど、香霖堂の店主は知識欲に飢えている、と聞いたことがある。霖之助が、お母さんの話に興味を持ったとしてもおかしくないのかも知れない。それはともかく、話を聞かせてもらう代わりに、お代をタダにしようとは、噂に違わぬ変人だ。アリスは、そう考えるにつれ、……無愛想な人だと聞いたこともあるだけに、目の前の霖之助には人間味がある様に思え、少なからず興味を惹かれるのを覚えた。
* * *
魔法の森は、昼間でも鬱蒼としていて、空を覆い隠すばかりの緑の梢が、僅かに射す光をも飲み込む様で物寂しく、腰の丈ほどの草葉が生い茂った、道とは呼べない道も、どこか湿っぽい。歩くたびに得体のしれない苔や、蛭でもいそうな、やけに粘り気のある泥土を踏むから、唯でさえ気味が悪いのに、その苔や泥がズブズブとブーツの隙間から入り込みそうで、余計に気持ちが悪かった。まったくこんな所に愛しのアリスちゃんが住んでいるとは、にわかに信じがたい、などと言いながら付いて来る神綺を後ろに、案内役を頼まれた聖は、魔法の森を、香霖堂へ向かって歩いていた。
「まったく、アリスちゃんったら、どこに行っちゃったのかしら。突然、家に押しかけてビックリさせる計画が台無しだわ」
「たいがい家に居ると伺っていたのですが、当てが外れましたね。魔理沙さんの家にも居ませんでしたし、他に彼女が行きそうな所というと、博麗神社か、紅魔館の大図書館か、あとは人里まで買い物に出ているという可能性もありますね」
いずれにせよ、森と里の境にある香霖堂の前を通るだろう、そこで待っていても良いし、店主に、アリスさんを見ませんでしたか、と聞いてみても良い。とにかく、そこまで行ってみようと、聖が歩みを進めていると、ようやく目的の道具屋が見えてきた辺りで、グイっと後ろ髪を掴まれた。
「痛い、痛い、ちょっと、何するんですか」
「尼のくせに髪なんか伸ばすからでしょう。いや、それはともかく、あれを見てよ、ひじりん」
「ひじりん言うな。あれってどれですか」
「あの、うさぎ小屋の窓の中……」
「あれ、一応、道具屋なんですけど……。窓の中って、ああ、アリスさんがいますね。よかったじゃないですか、すぐに見つかって、……って何してるんですか」
言いつつ、聖が神綺の方を振り向くと、そこには、茂みの蔭に隠れて、浅黄の手ぬぐいを頬かむりにした魔界神の、マヌケな姿が!
「ちょっ、……貴女、いったい何してるんですか」
「何って隠れてるんですけど」
「見れば分かります。そうじゃなくて、その格好は何ですか」
「いや、ほら。私の銀髪じゃ、茂みに隠れても目立つじゃない? 何かカムフラージュするものはないかな、と思って」
「アホ毛が飛び出てますが」
「アホ毛言うな」
「その手ぬぐい、どこにあったんですか」
「さっき森で拾った」
「きたない」
「ごめん」
「それはともかく、何で隠れる必要があるんです。早く会いに行けばいいじゃないですか」
「でも……、でも、私ひとりじゃ恥ずかしいし」
「思春期の乙女か」
「冗談よ。ほら、あの、うさぎ小屋の中、よく見てちょうだい」
「だから、道具屋だと何度言えば……。ああ、他にも誰か居ますね。あれはあれです。道具屋の店主の森近霖之助さんですよ」
「あの二人……なんか、ずいぶんいい雰囲気じゃない?」
「そうですか? 普通に会話しているようにしか見えませんけど」
「いいえ、あれは優男を装って女を喰いものにする、そういう類の男だわ。よく見れば、線は細いけど、いい男だし。アリスちゃんったらズルい! ……じゃなかった、アリスちゃんの貞操が危うい!」
そう言って、茂みを飛び出した神綺は、一目散に道具屋へと走っていく。その後ろ姿を眺めながら、
(危ういのは貴女のお脳でしょう)
とか、
(霖之助さんの生命の方が危ういか?)
などと冷静に考えつつ、放って置くわけにもいかないので、聖も渋々ながら、その後を追うことにした。
* * *
「ちょっと、貴方! 私のアリスちゃんから離れなさい!」
そう、叫びつつ、店の窓ガラスをぶち抜いて入ってきた何者かに、
(何ごと?)
とか、
(またガラスが!)
とか、思いつつ視線を向けた霖之助であったが、次の瞬間には、そのことを後悔していた。
謎の闖入者のその姿、おどろに乱れた長い銀の髪、殊に頭の左で束ねられた髪の一房は、それ自体が一個の生命であるかのように、ビクビクと名伏し難いぜん動を繰り返し、広げられた六枚の赤黒い羽根は、店を覆うかと思うほど大きく、血が通うのか、紫色に濁った筋が、斑模様を描くように縦横に走る。目には、龍や蛇が焼かれるという三熱の如き業火が渦巻いていた。
――その恐ろしき姿、魔神の姿!
正直、小便をちびるかと思った霖之助であったが、
「お母さん!」
と言う、この場にそぐわないアリスの声に、何とか我を取り戻すと、
「え、誰? お母さん?」
と、頓狂な声を上げていた。
* * *
「お母さん、なんでここに?」
と、戸惑いながらもアリスが問うと、神綺はそれには応えず、
「アリスちゃん、その男から離れなさい」
と言うだけであった。
(え、俺、なにか怒らせる様なことした?)
と思いつつも、何とか正常な思考を取り戻した霖之助は、どうやらこのご婦人(?)なにか勘違いをしているに違いないと合点したが、
(もしもし、貴女。なにか勘違いしてません?)
などとは、恐ろしくて口が裂けても言えないので、アリスの方へ、それとなく知らせようと目を配ると、それを目の端で捉えたか、神綺がこちらへ、キッと顔を向けて睨むので、今度こそ小便をちびったかと思うほどすくみ上がってしまった。
時間にすれば、ものの数秒であろう、それが霖之助には永遠のような永さに感じた……と、
「ごめんください」
という挨拶とともに、わざわざ玄関まで廻って入ってきた聖が、
「南無三」
の掛け声とともに、手にした巻物で神綺の頭をバシッと叩くと、怒りのあまり我を忘れていたらしい神綺も、ようやく正気付いたようで、
「痛っ。ちょっと、ひじりん、何するのさ」
と言いつつ、叩かれた場所をさすり、さすりする。
「ひじりん言うな。そんなことより貴方」
と、聖は霖之助の方を振り向くと、その手をしかと握り、
「貴方、ごめんなさいね。私の友人が早とちりをしてしまって。おケガは無かったかしら」
いきなり手を握られた霖之助は少しどぎまぎしつつ、
「いえ、大丈夫です。貴女はたしか命蓮寺の……」
「聖白蓮と申します。以後、お見知り置きを」
「これはこれは、ご丁寧に、こちらこそよろしくお願いします」
と、一通りの挨拶を済ましてから、
「えー、という事は、この方がアリス……さんのお母上だという……」
聖がそれを引き受けて、
「ええ、この方こそが、魔界の創造神であられます、魔神・神綺様、その人ですわ」
「はあ、しかし、ずいぶんと、そそっかしい……」
言ってから霖之助はマズイと思ったが、神綺の方では意に介する様子も無く、
「……だって、貴方とアリスちゃんが、あんまりにも仲良さそうだから」
と、決まりが悪そうに、
「恋人みたいに見えたんだもん」
そう言いつつ、人差し指で頬を掻いた。
* * *
「……香霖とアリスがなんだって」
今度こそマズイ、と霖之助は思った。ガラスを破る音に気が付いて、慌てて戻ってきたのだろう、魔理沙が息を弾ませながら、少し怒気を孕んだ調子で、そう言うと、
「お前、何だ。もう一回言ってみろ。香霖とアリスがどうしたって?」
と、神綺に突っ掛かる。
「いや、魔理沙。これはだな……」
「香霖は黙ってろ!」
と、魔理沙の怒声が店内に響いた。
「なに、貴女。私のアリスちゃんに文句あるの?」
と、なぜか神綺も応じる構えだ。
「お前、どっかで見たな。たしか幻想郷に魔界人が現れた時の……」
「貴女こそ。誰かと思えば、いつかの怨霊にくっついてた金魚のフンじゃない」
「何だと」
「やるの? 言っとくけど、私……強いわよ」
「――上等だ!」
と、魔理沙がポケットから八卦炉を取り出した。神綺も再び羽根を広げる。
(せめて、店の外でやってくれ)
とか、
(たすけて、ひじりん)
などと、霖之助が思っていると、
「――いい加減にして!」
という、アリスの声が店内に響いた。
* * *
「何なの、お母さん! いきなり現れたかと思えば、店は壊す、霖之助さんを脅す、魔理沙にはケンカを吹っ掛ける。一体なにしに来たのよ!」
ケンカを吹っ掛けたのは魔理沙だろうと、神綺は思ったが、そんな事にこだわっている場合でもないので、とりあえずその件は黙っていることにした。
「いや、ね。アリスちゃん? これには深い訳があって……」
「どんな訳だってのよ」
「いやあ、その……」
プレゼントを渡しに……、と言いたかったが、それこそ、この状況では言い出せなかった。せっかくのプランが台無しになってしまう。
「大方、ふらふらと遊びに来たんでしょう。夢子姉さんは承知しているの?」
「いや、その、お忍びで……」
言ってから、しまった、と思った。アリスの顔がみるみる赤くなる。
「じゃあ、なに。黙って出てきたっていうの? お母さん、夢子姉さんが、どれだけ苦労しているか知ってるでしょう。お母さんに代わって、パンデモニウムの中の事を仕切っているのは夢子姉さんじゃない。それをまた心配かけるような事をして!」
「ちがう、ちがうのよ。アリスちゃん。私はただ貴女の事が心配で……」
いよいよアリスの表情が険しくなってきた。目にはいっぱいの涙を溜めている。
「――それが余計なお世話だって言うのよ! 私、いつまでも昔のままじゃないのよ。それを、お母さん、いつまでも子供扱いして。――帰ってよ、帰って!」
「そんな、アリスちゃん……」
「帰れって言ってるでしょう! 嫌い、お母さんなんて大嫌い!」
そう叫ぶと、アリスはこぼれる涙も拭かず、店を飛び出した。
* * *
「帰れって言いながら、自分の方から出て行ったじゃないか」
場の空気をなごませるつもりで、魔理沙がそんな軽口を叩いたが、まったくの逆効果で、霖之助や聖に思いっきり睨まれると、
「すまん」
と一言こぼして、そのまま黙ってしまった。
「えー、あの、神綺様?」
聖が気を遣いつつ神綺に声を掛けると、振り返った神綺の顔には、先のアリスにも劣らないくらい、大粒の涙がボロボロとこぼれていた。
「ひじ、聖。わたし、アリスちゃんに嫌われちゃった……」
そう言って、聖の胸に顔をうずめると、今まで堪えていたのだろう、恥も外聞も無く、大声をあげて泣き出した。聖は、左手で神綺の背をさすりつつ、右手でその頭をなでてやると、泣き声が落ち着くまでは一言も声を掛けず、しばらくはそうして慰めていた。
* * *
昼間でさえ薄暗い魔法の森は、夜になれば、なおのこと暗く、今日のように風の吹く日であれば、黒い梢の一本一本が意志を持つようにざわざわと動くから、この森に永く住む者でも何となく気味が悪い。殊に母親とケンカ別れしたばかりでは、窓の外を眺めても気が滅入るばかりで、そうかといって、ベットに潜っても目が冴えて寝付くことが出来ない。アリスは鎮静の効果があるというカモミールのハーブティーを飲みながら、今日の出来事を振り返っていた。
(結局、プレゼント買い損ねちゃったな……)
一瞬そんな思いがよぎったが、頭を振って、
(ダメよ、ダメダメ。簡単に許したら、お母さん、いつまで経っても子離れできないんだから)
と、先の考えを打ち消した――その時、コッコッとドアを叩く音が聞こえた。
(こんな夜更けに誰だろう。もしお母さんだったら……)
そんなことを考えつつ、アリスはドアを開けると、玄関に立っていたのは聖と、その後ろで、ばつの悪そうな顔をしている魔理沙であった。
「……こんな夜更けに一体なんの用でしょう」
「その、神綺様、……貴女のお母様の事について、お話したいことがありまして」
「聞きたくありません」
「きっと、貴女にとっても大事な話ですから……」
アリスは少し思案した。聖は魔界にいた時に、お母さんの世話になっていたと聞くから、たぶんお母さんの肩を持つだろう。それなら正直に言って、聞きたくはなかったが、その反面、聞いて置かないと後悔しそうな、そんな気がした。
「……お母さんは?」
「貴女に言われた通り、魔界に帰りましたよ。散々泣いて、落ち着くまで、ずいぶん掛かりましたけど」
「……いいわ。入って」
と言って二人を通すと、来客用のソファヘ促した。
* * *
テーブルに置かれた三つのティーカップに、三人が思い思いに口を付けていると、そのうちに、聖がゆっくりと話し始めた。
「えー、まず、本題に入る前に、魔理沙さん、一言いうべきことがあるんじゃないですか」
「ううっ」
そう言って、相変わらず、ばつの悪そうな顔をしている魔理沙を、聖が促すように、
「昼間のケンカの責任の一端は、魔理沙さん、貴女にもあるでしょう? ……ほら」
「……ごめんちゃい」
「誠意が足りない」
「すみませんでした」
今日の件で分かったが、魔理沙は霖之助の事になるとムキになるところがあるらしい。保護者、あるいは兄の代わりといった以上の感情があるのだろう。しかし、そんなことは、今のアリスには、どうでもいい事であった。
「もちろん私にも責任はあります。どうも、すみませんでした」
そう言って、聖も頭を下げた。こうまで丁寧だと、こちらの方が悪い様な気がしてくる。アリスは聖に頭を上げるよう促してから、
「いえ、私の方こそ、みんなの前で、あんな風に怒鳴ったりして、みっともない事をしました。ごめんなさい」
と謝った。これで三人の間にわだかまりは無くなったと、聖が、そう考えたのか、そうでないのかは、アリスにも分からなかったが、とにかく、聖はポンッと両の手のひらを合わせると、
「よし、じゃあ、仲直りのしるしに指切りしましょう。私達三人、これからも仲良くしましょうと、約束するのです」
と言い出した。
「……さっさと本題に入れ」
魔理沙がアリスの心の声を代弁してくれた。聖は少し残念そうな顔をしつつ、
「えーでは、あの、アリスさん。あのですね、お母様の事ですけど、あの、何も、ただ遊びに来たというだけではないのですよ」
「分かっています。私のことが心配で、それで様子を見に来たのでしょう。……でも、私はこうして一人でもやっていけます。なにも、魔界のみんなに迷惑を掛けてまで心配することはないんです。それに……こういっては恥ずかしいですけど、やっぱり、子供扱いされたくない、そういう風に思うんです」
そう言って、アリスは顔を伏せた。
* * *
「……さみしいんですよ」
だし抜けに聖がそんなことを言い出した。
「さみしい?」
「その……私には子供がいませんから、何となく、こう思うというだけなんですがね。子育てっていうのは大変なものでしょう? それが自分の大事な子供の未来に関わる事なんだから、気を抜くことなんて出来ないじゃないですか。それこそ人生を掛けて臨む、そういう親もいるでしょう」
「……」
「だから、その、そういう親が、子育てを終えた時、その人は何を生き甲斐にすればいいんでしょう。私の檀家にもね、そういう悩みを持った人がいます。自分だけの新しい人生を見つけることが出来ればいいんでしょうけど、中々そうはいきませんから」
「……だったら、私はどうすればいいんですか」
アリスがそう言うと、
「騒ぎのどさくさで落としてしまった物を、私が見つけて拾ったのですが」
と言いつつ、聖は懐から何かの包みを取り出した。花柄の包装紙で丁寧にラッピングされた包みには、赤い、可愛らしいリボンが付いている。そのリボンには、(アリスちゃんへ)と、手書きの文字で記したカードが挟まれている。
「笑っちゃだめですよ? これはね、お母様が、母の日の逆プレよ、と言って用意したものなんです」
「お母さんが……」
「親は子供の喜ぶ顔が見たいって思うものなんでしょね。それを選んでいるときのお母様の表情は本当に楽しそうでした」
アリスは包装を丁寧に解く。中にはマラカイト石のブローチが入っていた――その意味はたしか、子供の守護、そして……、
「……私」
あとに続く言葉が見つからなかった。聖が何も言わずとも、その意図は十分に理解できた。
「私……、私、行きます。聖輦船、出してもらえますか?」
「断る理由はありません。喜んで貸しましょう」
言うが早いか、聖が何やら合図をすると、窓の外がパッと明るく光った。アリスが驚いて、外へ飛び出すと、普段は暗いはずの魔法の森の夜空に、七色に輝く聖輦船の姿があった。デッキでは欄干に手を掛けた命蓮寺のメンバーが、早く乗れという様に、手招きしている。
「どうしました? 善は急げ、ですよ」
となりに立っていた聖は、そう促すと、アリスに向けてニッコリと笑いかけた。
「はっ……はは、あははっ」
なるほど、慕われるわけだ。そう思いつつ、アリスは聖輦船へと乗り込んだ。
* * *
月明かりの射すテラスで、宵闇に沈む峡谷と、星くずの様に輝く摩天楼を眺めながら、私はひとり、物思いに沈んでいた。あの子が幻想郷へ旅立ってから早や数年、一人前の魔法使いになるまで魔界の土地は踏まないと言っていただけあって、久しぶりに会ったあの子は、見違えるほど大人になっていた。
(ああ、そうか。あの子も私の手を離れてしまったのだ)
そんな風に思うにつれ、涙がこぼれそうになった。いずれ、親と子の関係は、独りの大人と大人の関係になってしまうのだろうか。ならば、私はこれからどうすればいい? どうやってあの子と向き合っていけばいいのだろうか。たとえ大人になっても、あの子がわたしの娘であることに変わりはないのに――どうしても、そこで思考が止まってしまう。そこから先を考える事が出来なかった。
「やっぱり、さみしいよ。アリスちゃん……」
「……呼んだ?」
おどろいて振り向くと、そこには、いたずらっぽい笑みを浮かべた愛娘の姿があった。
「……おどろいた? この勝負、私の勝ちだね」
ああ、そうか。そういえば今日の昼間、この子の家に押しかけて、おどろかそうとしたんだっけ。
「勝てないなあ。アリスちゃんには」
そう言いつつ、涙がこぼれるのを、止めることが出来なかった。
* * *
「ねえ、お母さん」
「んっ、なあに」
神綺の膝の上に座りながら、アリスは静かに話しかけた。
「こうしていると、昔を思い出さない?」
「そうね、昔はよく、こうして貴女を膝に乗せて、本を読み聴かせたものだわ」
そう言うと、神綺はやさしくアリスの額のなでた。
「やだ、お母さん。くすぐったいよ」
「あら、ごめんなさい。つい……」
「ねえ、お母さん」
「んっ、なあに」
「あの、プレゼントありがとう。……それと、ごめんね。私は何も用意できなくて」
「いいのよ、貴女がこうして顔を見せてくれた。それが一番の贈り物だわ」
神綺の言葉を聞きながら、アリスは手に乗せたマラカイト石のブローチを眺める。その意味は、子供の守護、そして、再会。
「ねえ、お母さん」
「んっ、なあに」
「私、こうして時々、帰って来るね」
「あら、いいのよ、ムリに帰ってこなくても。今度は、お母さんも、きっとガマンするから」
「ううん、ムリとかじゃないの。そうじゃなくて、私もお母さんの喜ぶ顔が見たいから」
……ああ、そうか。なんとなく分かった気がする。たとえ、子供が大人になっても、親と子は、親と子のままなのだろう。ただ、大人と大人として互いに支え合っていく、そういう風に変わるだけなのだ――それならば、
「ねえ、アリスちゃん」
「なあに、お母さん」
「お母さん、アリスちゃんや、夢子ちゃんに恥ずかしくない様な、そんな立派な大人になるからね。約束するからね」
「やだ、お母さんったら。どういう風の吹き回し?」
「ふふっ、きっとアリスちゃんにも、いつかわかるわ」
そう言うと、神綺は膝の上のアリスを背中から抱きしめて、眼を閉じたまま、その頬と頬を合わせた。
星を散りばめた空を背に、二つの影が、幸せそうに寄り添っていた。
了
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誰かを祝福できることもまた。
頬かむりや三熱なんて言葉初めて知りました。
お互いを思う神綺様とアリスの心情が描かれていてとても良かったです。
そしてまさかのひじりんとの絡みに俺狂喜w
何でだろう、神綺さまは大体このSSのようなイメージがありますね。
あと聖さんかっこ良すぎやでえ