博麗神社。
幻想郷の端に位置し、参拝客は少ないが、神主である巫女の人柄もあり
定期的に人も妖怪も、神さえ区別する事無く宴を開き、飲み明かして一夜の夢を見る場所でもある。
そんな神社に勝手に居候するものが一人。
「萃香、朝から酒ばかり呑んでいないで少しは家の事も手伝ってよ。」巫女兼神主の霊夢が、縁側で横になっている居候に声をかける。
「あー、居候の身だしねえ。酔い覚ましにちっとばかり力を貸すかね?」
その居候のいでたちは頭に2本のねじれた角を生やし、三つの鎖分銅を纏い、瓢箪を腰にぶら下げている。
幻想郷ではめったに見られなくなった幻の種族「鬼」。
「んじゃ霊夢、何処からやって行けばいいのか指示をおくれ。あたしの力でばっちりしっかりやるよ。」
鬼ーーーー伊吹 萃香は酔った足取りで霊夢に指示を仰ぐ。
普通の感覚なら酔っ払いに任せて安心できる仕事など無い、がアヤカシならその常識は所詮人間の枠の範囲でしかない事を
思い知る事だろう。
実際霊夢が出した掃除箇所の指示を、彼女は時には霧に姿を変え、時には大量の小さな分身体となってそこかしこを
疾風の如く動き回って片付けていく。
その能力は「万物を萃める事も疎にする事も出来る」と言う力。ーーーーもちろんそれは人の精神も含まれる。
霊夢に声をかけてから三十分も経たぬうちに、境内は落ち葉一つ無い状態になっていた。
「終わったよ家主殿。このゴミ燃やして芋でも焼くかね?」
「そうね。少しずつ燃やしつつ焼こうかしら。」
そこで萃香が待ってましたとばかりに
「じゃ、ちょいと肴にでもさせてもらおうかな?」と瓢箪を出す。
「芋で酒ねえ・・・。合うの?」
「肴が美味きゃ、舶来の菓子でも酒はいけるよ。」とにやりと笑う萃香。
「まあ、塩や味噌だけでも呑めるからそれもありかもね。」
昔、鬼は幻想郷が存在する前には、日本中に居た。
人間相手に力試しをし、負けたものを攫ったり、酒好きが過ぎて都を襲っては酒蔵から酒を強奪したりと
結構狼藉を働いていた時期も有った。
しかし鬼達は不思議な事に地元の者には手を出す事も無く、さらった人間も食うでも弄ぶでもなく、自分のもとで下働きをさせるが、無理難題を
けしかけたりと言った事も無く、地元の民には慕われていたという。
覚えが悪かったのは都の貴族達だけで、その後、鬼たちがいなくなると貴族達はこぞって大仰に彼らの悪行を残したという。人食いもその一つ。
ただ、貴族に虐げられる身にしてみれば、圧倒的な力を持て貴族を蹂躙し、その宝を分け与えてくれたり、力仕事を手伝ってくれたりする
気さくな鬼達は、彼ら下々にとっては胸のすく事を次々やってくれる力強い守護者であり、誠実な友だったのだ。
それ故か、鬼が地上を去ってしばしの時代は、都の為政者に牙を剥き、刃をもて貴族たちを脅かすモノノフやツワモノの名前に「鬼」「悪」と
付けるのは、称号であり、尊称でもあり、彼らへの名誉だった。・・・貴族からは「東夷の頭領」と蔑まれる将門公もしかり。
・・・・・・。
控えめな、落ち葉を焼く煙があたりに漂う。
「いやあ、いい香りだねえ。この香りだけで一斗はいけそうだよ。」
芋を焼きながら気持ち良さそうに目を閉じ、焚き火の香りに酔う萃香。
「色んな妖怪を見てきたけど、貴方ほど左利きな者は見た事が無いわね。紫でさえそこまで呑まないのに。」
「種族が違えば好みも違う。紫は人の心にあるスキマ、それに潜む何かを好むだけさね。例えば好奇心とか、恐怖、未知への探究・・・。」
「精神に依る程度で食べるものも変わるのかしら?」
「あたしは知らないが・・・もしかしたらそうかも知れないよ?あたし達は人間に近いが、精神に依るのは変わらないしね。
そう言う心を食うことで姿を保てる存在が、妖怪の山にも居るでしょ?ここに分社建ててる神社のさ。」
「ああ、神は信仰が無いと姿が保てないって早苗も言ってたか・・・。」
「あんたん所も、何祀ってるのかちゃんと調べれば神社の修繕費とかはまかなえると思うんだけどね?」
霊夢はバツが悪そうに
「一応調べてはいるし、神降ろしの修行もしてるんだけどね。」
「三日でサボって雷落とされてたねえ。」萃香の声は陽気で、悪意の欠片も無い。彼女にとってはそう言うことひっくるめての出来事が楽しいのだ。
「あんたもあの時ばかりは助けてくれても・・・。」
「うーん、紫は旧い付き合いだしね。あんたの事を紫なりに考えてるんだよ。それに水を差すのは野暮って物だって。」
「それを肴に楽しげに酒呑んでた奴が言う台詞じゃないわね。」
「あー、何にせよ自業自得、自業自得。今度は仙人にゴチーンとやられるよ?」
「く・・・。」
頭を抱えて霊夢が負けを認めると、萃香はニコニコと焼けた芋を二つに割り、一つを霊夢に渡した。
「秋もいいけど、今の時期の新芋も乙だねえ。」
桜もそろそろ終わりに近い時期、里では春の新芋が出ている頃・・・。
・・・・・・。
昼下がり。
霊夢が人里へ買い物に出て、留守をまかされた萃香は、一人縁側で寝転びながら酒を呑み、夢うつつの中を歩く。
思い出すのは、大江山の風景。まだ仲間達が居て、貴族達の驚く顔が楽しくて仕方の無い頃。
京の都は山に囲まれた要害の都。しかし、そこにも弱点があった。
大江山の方面は険しい場所が少なく、高度も低いので山越えが比較的容易だったのだ。
後世、京で乱が起きて都が攻められるとき、多くの場合、突破口が大江山になっている。
鬼達がそこに棲んでいたのは偶然か必然か、知る者は居ないし、萃香自身も考えた事は無い。
討たれたように見せかけて、ドサクサに討たれた下働きの人間の躯を使い死を偽装し、各地の鬼の頭達へ、風に舞う雲となり、
住まえる所は無くなって行くだろうと呼びかけて、鬼は根の国・・・地下へと移り住んだ。
里のものと謀り、狼藉を働いた様に見せて沼の淵に身を投げたもの、
川へとその身を流し、川の神に道を空けて貰ったもの、洞窟の地下深くの泉下の道を降りて行ったもの・・・。
山の四天王と呼ばれた当時の仲間も一人、旧都で暮らしている。
地霊殿事件の一件以来、時折この神社にも遊びには来てるが、地下に居る者たちは積極的には、郷に住まおうとはしない。
かつて幻想郷に居た頃のしがらみもあり、山の実権はかつての部下だった天狗に移っている。
その均衡を崩すような真似は、郷の平和を結果的に乱すことを、鬼達は知っている故に山に近づくことさえしない。
かつて自分達が作った社会の仕組みを頑固に守り続ける天狗と、その枠を柔軟に曲げて対応する河童達。
「終身役々して その成功を見ず その帰く処を知らず 哀しまざるべけんや」
夢うつつの中で昔、誰かが詠んだ詩を思い出す。
「萃香?!」
突然の声に意識はうつつへ引き戻された。
そこには顔色を変えた霊夢が払い棒を手に立っている。
「んあ?どうしたのさ血相変えて?折角の良い夢が覚めちゃったよ。」
萃香の暢気な様子に、流石に霊夢も力を抜いて警戒態勢を解いた。
「んで、霊夢。私になにがあったのさ?」
「実は・・・。」
霊夢が買い物から帰って萃香の様子を見ると、その周りを見たことも無い美しい蝶が飛び回っていたという。
蝶と見て、白玉楼の管理人を思い出した霊夢が急いで臨戦態勢に入ると、その蝶は吸い込まれるように萃香の中へ消えていった、と。
「ああ、あれか・・・。」
頭を掻きながら起きて、萃香は一遍の詩を謳う。
「萃香、夢に胡蝶となれり 自らを愉しみて志に適えるかな 萃(われ)の蝶なるや、蝶の萃なるやを知らず。」
その響きは楽の響きを幻に伴うように。
霊夢はそれの意味が解らず、萃香を見ていた。
萃香は瓢箪から酒をぐびりとやって、霊夢に話し始める。
「霊夢、宗周先生の故事は聞いた事があるかい?」
「宗周?」
「私がここに来る前に会った人でね、私が生まれる前には既に仙人になっていた。」
「名前から見ると黄土の人よね?」
「うん、まあ、あそこまで行ってしまうと、生死の境界も夢現の境界も自由に行き来できるような存在だけどね。
ま、その知り合いの仙人が宗周先生のとこへ行くと、さっきあんたが見たように居眠りする宗周先生の周りを、蝶が飛んでいた。
で、くしゃみと共にその蝶は彼の中に消え、彼は途端に目が覚めた。と言う話さ。」
霊夢は不思議そうに訊く。
「あんたも仙人になろうとしたの?」
その言葉を、萃香は笑って否定する。
「あんな木の実とカスミだけで酒の一滴も呑めないような暮らしなんて私はごめんだよ。ただ、夢の描く蝶、と言うくだりが気に入って、酒仙と言われる人達に
色々話を訊いたり、詩を詠んで、酔夢の極みを探してたらそうなった、それだけだよ。」
霊夢は目の前で見る能力でも、なんでもない現象の驚きからまだ覚めていない。
萃香は謳うように言う。
「『酔夢を追い 自らを夢と化し 酔夢を自らに変わし そを萃め 萃夢とする』
・・・どういう事にせよ、一つの境地にたどり着くという事は自分の周り限定とは言え、小さな異変や奇跡を能力無しに起こせる可能性もある、それだけの事。」
そこまで言うと、萃香は満足そうに伸びをして。
「興が乗ったなあ。久しぶりに楽でも奏でるか。」
彼女の能力が何かを手に集めて形を作り始めた。それは、ハープに似ているが胴は木造りで、弦は絹糸が張ってある。
「これは・・・洋琴?」
初めて見る楽器に、霊夢は自分の知識から近いものを言う。
「『はあぷ』とか言うものではなく、箜篌(くご)と言う黄土の竪琴だよ。外の世界でも中々お目にかかれない。弦は二十三で絹糸。
李賀という詩人が愛した楽器さね。」
萃香の指が弦を繊細に弾く。
その音は胡蝶の舞のような緩やかさと、凛とした響きを伴い、辺りに響いた。
『飛光よ 飛んで去り行く光よ お前に杯を献じよう・・・』
初めて聴く萃香の歌は、子守唄のように心をいたわり、慰めるが如く響く。
霊夢も、萃香も、誰も知らない。
何ゆえに天は蒼く高く、地は黄色く、そして厚く有るかを。
ただ、行きとし生けるものは必ず見て、無意識に知り、しかしそれを言わない。
四季は確実に巡り、人の命を縮め行くことを。
紫、萃香、幽々子・・・。
この三人が見てきたものはそれぞれ別のものだ。
しかし、自分よりも長い時間を過ごしてきた中で彼女達の心を作り、支えてきたモノ。
いつか聴いてみたいと、霊夢は何故か思った。
幻想郷の端に位置し、参拝客は少ないが、神主である巫女の人柄もあり
定期的に人も妖怪も、神さえ区別する事無く宴を開き、飲み明かして一夜の夢を見る場所でもある。
そんな神社に勝手に居候するものが一人。
「萃香、朝から酒ばかり呑んでいないで少しは家の事も手伝ってよ。」巫女兼神主の霊夢が、縁側で横になっている居候に声をかける。
「あー、居候の身だしねえ。酔い覚ましにちっとばかり力を貸すかね?」
その居候のいでたちは頭に2本のねじれた角を生やし、三つの鎖分銅を纏い、瓢箪を腰にぶら下げている。
幻想郷ではめったに見られなくなった幻の種族「鬼」。
「んじゃ霊夢、何処からやって行けばいいのか指示をおくれ。あたしの力でばっちりしっかりやるよ。」
鬼ーーーー伊吹 萃香は酔った足取りで霊夢に指示を仰ぐ。
普通の感覚なら酔っ払いに任せて安心できる仕事など無い、がアヤカシならその常識は所詮人間の枠の範囲でしかない事を
思い知る事だろう。
実際霊夢が出した掃除箇所の指示を、彼女は時には霧に姿を変え、時には大量の小さな分身体となってそこかしこを
疾風の如く動き回って片付けていく。
その能力は「万物を萃める事も疎にする事も出来る」と言う力。ーーーーもちろんそれは人の精神も含まれる。
霊夢に声をかけてから三十分も経たぬうちに、境内は落ち葉一つ無い状態になっていた。
「終わったよ家主殿。このゴミ燃やして芋でも焼くかね?」
「そうね。少しずつ燃やしつつ焼こうかしら。」
そこで萃香が待ってましたとばかりに
「じゃ、ちょいと肴にでもさせてもらおうかな?」と瓢箪を出す。
「芋で酒ねえ・・・。合うの?」
「肴が美味きゃ、舶来の菓子でも酒はいけるよ。」とにやりと笑う萃香。
「まあ、塩や味噌だけでも呑めるからそれもありかもね。」
昔、鬼は幻想郷が存在する前には、日本中に居た。
人間相手に力試しをし、負けたものを攫ったり、酒好きが過ぎて都を襲っては酒蔵から酒を強奪したりと
結構狼藉を働いていた時期も有った。
しかし鬼達は不思議な事に地元の者には手を出す事も無く、さらった人間も食うでも弄ぶでもなく、自分のもとで下働きをさせるが、無理難題を
けしかけたりと言った事も無く、地元の民には慕われていたという。
覚えが悪かったのは都の貴族達だけで、その後、鬼たちがいなくなると貴族達はこぞって大仰に彼らの悪行を残したという。人食いもその一つ。
ただ、貴族に虐げられる身にしてみれば、圧倒的な力を持て貴族を蹂躙し、その宝を分け与えてくれたり、力仕事を手伝ってくれたりする
気さくな鬼達は、彼ら下々にとっては胸のすく事を次々やってくれる力強い守護者であり、誠実な友だったのだ。
それ故か、鬼が地上を去ってしばしの時代は、都の為政者に牙を剥き、刃をもて貴族たちを脅かすモノノフやツワモノの名前に「鬼」「悪」と
付けるのは、称号であり、尊称でもあり、彼らへの名誉だった。・・・貴族からは「東夷の頭領」と蔑まれる将門公もしかり。
・・・・・・。
控えめな、落ち葉を焼く煙があたりに漂う。
「いやあ、いい香りだねえ。この香りだけで一斗はいけそうだよ。」
芋を焼きながら気持ち良さそうに目を閉じ、焚き火の香りに酔う萃香。
「色んな妖怪を見てきたけど、貴方ほど左利きな者は見た事が無いわね。紫でさえそこまで呑まないのに。」
「種族が違えば好みも違う。紫は人の心にあるスキマ、それに潜む何かを好むだけさね。例えば好奇心とか、恐怖、未知への探究・・・。」
「精神に依る程度で食べるものも変わるのかしら?」
「あたしは知らないが・・・もしかしたらそうかも知れないよ?あたし達は人間に近いが、精神に依るのは変わらないしね。
そう言う心を食うことで姿を保てる存在が、妖怪の山にも居るでしょ?ここに分社建ててる神社のさ。」
「ああ、神は信仰が無いと姿が保てないって早苗も言ってたか・・・。」
「あんたん所も、何祀ってるのかちゃんと調べれば神社の修繕費とかはまかなえると思うんだけどね?」
霊夢はバツが悪そうに
「一応調べてはいるし、神降ろしの修行もしてるんだけどね。」
「三日でサボって雷落とされてたねえ。」萃香の声は陽気で、悪意の欠片も無い。彼女にとってはそう言うことひっくるめての出来事が楽しいのだ。
「あんたもあの時ばかりは助けてくれても・・・。」
「うーん、紫は旧い付き合いだしね。あんたの事を紫なりに考えてるんだよ。それに水を差すのは野暮って物だって。」
「それを肴に楽しげに酒呑んでた奴が言う台詞じゃないわね。」
「あー、何にせよ自業自得、自業自得。今度は仙人にゴチーンとやられるよ?」
「く・・・。」
頭を抱えて霊夢が負けを認めると、萃香はニコニコと焼けた芋を二つに割り、一つを霊夢に渡した。
「秋もいいけど、今の時期の新芋も乙だねえ。」
桜もそろそろ終わりに近い時期、里では春の新芋が出ている頃・・・。
・・・・・・。
昼下がり。
霊夢が人里へ買い物に出て、留守をまかされた萃香は、一人縁側で寝転びながら酒を呑み、夢うつつの中を歩く。
思い出すのは、大江山の風景。まだ仲間達が居て、貴族達の驚く顔が楽しくて仕方の無い頃。
京の都は山に囲まれた要害の都。しかし、そこにも弱点があった。
大江山の方面は険しい場所が少なく、高度も低いので山越えが比較的容易だったのだ。
後世、京で乱が起きて都が攻められるとき、多くの場合、突破口が大江山になっている。
鬼達がそこに棲んでいたのは偶然か必然か、知る者は居ないし、萃香自身も考えた事は無い。
討たれたように見せかけて、ドサクサに討たれた下働きの人間の躯を使い死を偽装し、各地の鬼の頭達へ、風に舞う雲となり、
住まえる所は無くなって行くだろうと呼びかけて、鬼は根の国・・・地下へと移り住んだ。
里のものと謀り、狼藉を働いた様に見せて沼の淵に身を投げたもの、
川へとその身を流し、川の神に道を空けて貰ったもの、洞窟の地下深くの泉下の道を降りて行ったもの・・・。
山の四天王と呼ばれた当時の仲間も一人、旧都で暮らしている。
地霊殿事件の一件以来、時折この神社にも遊びには来てるが、地下に居る者たちは積極的には、郷に住まおうとはしない。
かつて幻想郷に居た頃のしがらみもあり、山の実権はかつての部下だった天狗に移っている。
その均衡を崩すような真似は、郷の平和を結果的に乱すことを、鬼達は知っている故に山に近づくことさえしない。
かつて自分達が作った社会の仕組みを頑固に守り続ける天狗と、その枠を柔軟に曲げて対応する河童達。
「終身役々して その成功を見ず その帰く処を知らず 哀しまざるべけんや」
夢うつつの中で昔、誰かが詠んだ詩を思い出す。
「萃香?!」
突然の声に意識はうつつへ引き戻された。
そこには顔色を変えた霊夢が払い棒を手に立っている。
「んあ?どうしたのさ血相変えて?折角の良い夢が覚めちゃったよ。」
萃香の暢気な様子に、流石に霊夢も力を抜いて警戒態勢を解いた。
「んで、霊夢。私になにがあったのさ?」
「実は・・・。」
霊夢が買い物から帰って萃香の様子を見ると、その周りを見たことも無い美しい蝶が飛び回っていたという。
蝶と見て、白玉楼の管理人を思い出した霊夢が急いで臨戦態勢に入ると、その蝶は吸い込まれるように萃香の中へ消えていった、と。
「ああ、あれか・・・。」
頭を掻きながら起きて、萃香は一遍の詩を謳う。
「萃香、夢に胡蝶となれり 自らを愉しみて志に適えるかな 萃(われ)の蝶なるや、蝶の萃なるやを知らず。」
その響きは楽の響きを幻に伴うように。
霊夢はそれの意味が解らず、萃香を見ていた。
萃香は瓢箪から酒をぐびりとやって、霊夢に話し始める。
「霊夢、宗周先生の故事は聞いた事があるかい?」
「宗周?」
「私がここに来る前に会った人でね、私が生まれる前には既に仙人になっていた。」
「名前から見ると黄土の人よね?」
「うん、まあ、あそこまで行ってしまうと、生死の境界も夢現の境界も自由に行き来できるような存在だけどね。
ま、その知り合いの仙人が宗周先生のとこへ行くと、さっきあんたが見たように居眠りする宗周先生の周りを、蝶が飛んでいた。
で、くしゃみと共にその蝶は彼の中に消え、彼は途端に目が覚めた。と言う話さ。」
霊夢は不思議そうに訊く。
「あんたも仙人になろうとしたの?」
その言葉を、萃香は笑って否定する。
「あんな木の実とカスミだけで酒の一滴も呑めないような暮らしなんて私はごめんだよ。ただ、夢の描く蝶、と言うくだりが気に入って、酒仙と言われる人達に
色々話を訊いたり、詩を詠んで、酔夢の極みを探してたらそうなった、それだけだよ。」
霊夢は目の前で見る能力でも、なんでもない現象の驚きからまだ覚めていない。
萃香は謳うように言う。
「『酔夢を追い 自らを夢と化し 酔夢を自らに変わし そを萃め 萃夢とする』
・・・どういう事にせよ、一つの境地にたどり着くという事は自分の周り限定とは言え、小さな異変や奇跡を能力無しに起こせる可能性もある、それだけの事。」
そこまで言うと、萃香は満足そうに伸びをして。
「興が乗ったなあ。久しぶりに楽でも奏でるか。」
彼女の能力が何かを手に集めて形を作り始めた。それは、ハープに似ているが胴は木造りで、弦は絹糸が張ってある。
「これは・・・洋琴?」
初めて見る楽器に、霊夢は自分の知識から近いものを言う。
「『はあぷ』とか言うものではなく、箜篌(くご)と言う黄土の竪琴だよ。外の世界でも中々お目にかかれない。弦は二十三で絹糸。
李賀という詩人が愛した楽器さね。」
萃香の指が弦を繊細に弾く。
その音は胡蝶の舞のような緩やかさと、凛とした響きを伴い、辺りに響いた。
『飛光よ 飛んで去り行く光よ お前に杯を献じよう・・・』
初めて聴く萃香の歌は、子守唄のように心をいたわり、慰めるが如く響く。
霊夢も、萃香も、誰も知らない。
何ゆえに天は蒼く高く、地は黄色く、そして厚く有るかを。
ただ、行きとし生けるものは必ず見て、無意識に知り、しかしそれを言わない。
四季は確実に巡り、人の命を縮め行くことを。
紫、萃香、幽々子・・・。
この三人が見てきたものはそれぞれ別のものだ。
しかし、自分よりも長い時間を過ごしてきた中で彼女達の心を作り、支えてきたモノ。
いつか聴いてみたいと、霊夢は何故か思った。