「けーねー、遊びに来たぞーって、なんだこれは?」
「あぁ、妹紅、今は立てこんでるから、適当に座って待っていてくれないか?」
「う、うん、それはいいんだけれど……」
寺子屋の扉を開けた妹紅は、予期しない光景を目にして慌てふためいた。教壇に立つ慧音の前に並んでいる子どもたちの姿。それらからの視線を一身に集め、少しだけ頬を赤らめる。
「今日は、寺子屋の授業は無かったはずじゃあ……」
「授業は無いんだが…… まぁ、なんというかな、ははは……」
「慧音先生、早くしてよ。さっきからずっと待ってるんだよ。」
「おっと、すまないな、じゃあ、早くするから、もう少しいい子にして待っていてくれ。」
列の後ろの方にいた子どもが慧音を急かしたてる。妹紅にむけて苦笑を浮かべた表情を見せると、慧音は列の先頭にいた子どもに向き直った。妹紅は列から離れたところに居場所を確保し、何が始まるのかと見つめていると、慧音が子どもの腕をつかんで顔の前に持って行った。
「ふむふむ、これは、軽い打ち身のようだな。あざにはなっていないようだが、どうだ、痛むか?」
「うん…… 触ったりすると、じんじんする。」
「そうか。まぁ、これくらいならすぐに治るさ。それじゃあ……」
怪我の様子を診ているようだと思った妹紅だったが、次の瞬間、慧音がとった行動に、驚愕と疑問の感情を浮かべずには居られなかった。反射的に身体が動きかけたが、それが慧音に対して向けられた行動だったのか、子どもに対して向けられた行動だったのか、当の妹紅にも解らなかった。
「……ふっ。」
「ひっ!」
慧音が、子どもの腕に軽く息を吹きかけた。ただそれだけのことだったが、妹紅は動揺を抑えるのに精いっぱいだった。その行動にどんな意味があるのか。その場にいた者の中で理解していなかったのは、妹紅ただ一人だったのだ。
子どもは軽く身悶えた後、満面の笑みを浮かべて慧音に頭を下げた。
「ありがとう、慧音先生! これで、すぐに良くなるよ。」
「またすぐに怪我しないように、気をつけるんだぞ。」
「わかってるって。じゃあね、本当にありがとう!」
そして、子どもは笑顔のまま寺子屋を出て行った。妹紅は片膝立ちで腕を伸ばしかけた状態で固まっている。慧音はと言うと、既に次の子どもの相手をしている。
「痛いよう…… 痛いよう……」
「むむむ、これは、少し深い切り傷だな。刃物を使うときは充分に気をつけろと言っていただろう。」
「うう…… わたし、早くお料理ができるようになりたくて、それで……」
「包丁で野菜を切る時は、指は伸ばさないで猫の手にすること。守らないと、また痛い思いをすることになるぞ。」
「はい…… わかりました。」
「よしよし。もう大丈夫だから、泣くのは終わりだ。」
そして、慧音は子どもの手を持って顔に近づける。
「……ふっ。」
「ふむぅっ。」
目を固く閉じて身悶えた子どもだったが、開いている方の腕で涙を拭うと、精一杯の笑顔を慧音にむけて礼を言った。
「ぐすっ…… ありがとう、慧音先生。今度、私の作ったお料理、たべさせてあげるからね。」
「それは楽しみだ。期待しているぞ。」
子どもは改めて一礼し、慧音のもとを離れる。寺子屋の出口に向かう途中、妹紅に気がつくと不思議そうな表情を浮かべて声をかけた。
「お姉ちゃん、何してるの? 手をあげるときはちゃんと真っ直ぐ頭の上まで伸ばさないと、先生に注意されるよ。」
「え? あ、そうなの? じゃ、じゃあ、こんな感じで…… って、いやいや、別に私は手をあげようとしていたわけじゃあ……」
「……変なお姉ちゃん。」
何事もなかったように、子どもは寺子屋を出て行った。妹紅は軽く咳払いをすると、どこか拗ねたような表情を浮かべながら、どっしりと胡坐をかいて座り込んだ。
初めのうちは固く目を閉じていたものの、やはり慧音と子どものやり取りが気になってしまい、時々薄目を開けて様子を伺ってしまう。
「膝をすりむいたんだな。石にでも躓いて転んだか?」
「えへへ、油断してた。」
「えへへ、じゃない。以後、気をつけるように。」
「はーい。気をつけます。」
「……ふっ。」
「むんっ…… と、ありがとう、慧音先生。じゃあね。」
「あぁ、ほら、気をつけないとまた転ぶぞ! ……ふぅ。それじゃあ次は…… おや? 見たところ、どこにも怪我は無いみたいだが。」
「うぅ…… ちょっと、言いにくいんだけれど……」
「どうした。何があったかわからないと、私もどうしたらいいかわからないぞ。」
「……とーちゃんに拳骨喰らって、頭が痛い……」
「はぁ…… お前と言う奴は、また何か叱られるようなことをやったんだろう。自業自得という奴だ。」
「そんなぁ…… 助けてよ、慧音先生。」
「まったく。ちゃんと叱られたことは反省するんだぞ。ほら、頭を出せ。」
「……はい。」
「……ふっ。」
「んっ…… ありがとう、慧音先生。」
そんなやり取りが続き、最後の子どもの相手が終わった頃には、妹紅は気が気でならなかった。何から問い詰めてやろうか。逸る感情を抑えつつ、子どもが寺子屋から出て行くのを待つ。
寺子屋の戸が閉まる音がするとともに、妹紅は立ち上がり、慧音のもとに歩み寄った。
「けーねーっ! い、一体、なんなんだあれは!? 子ども相手とはいえ、なんというか、その……」
「ど、どうしたんだ妹紅。話をするんだったら、落ち着いて一つ一つだな……」
「これが落ち着いていられるか! あぁ、もう、うらやま…… げふん、とにかく、説明しろ!」
凄い剣幕でまくしたてる妹紅に押され、慧音はたじろぐ。肩で息をする妹紅を手で制し、こほんと咳払いをすると、慧音は静かに話し始めた。
「あれはだな、私が気まぐれで子どもにしてやったおまじないが、なんでか知らんが広まってしまってな、こうなってしまっては、私も引くに引けない状況になってしまったんだよ。」
「慧音、言っていることがわからない。まず、おまじないとはなんだ? あれか? あの、ふ、ふっ、ってやる……?」
「その通り。少し前に、転んでけがをした子どもがいてな。簡単な手当てをしてやったものの、一向に泣きやまなくて…… たまたま、思いつきで、怪我をしたところに息を吹きかけてやって、ほら、痛みの原因は飛んでったぞ、もう泣く必要はないんだぞって言ったら、ようやく泣きやんだのだ。おそらく、その子どもが言いふらしたんだろう。怪我が治るおまじないだ、みたいな話をな。」
苦笑を浮かべて話す慧音に、妹紅の表情も少し和らぐ。
「そうか、だから、怪我をしたら慧音の所に来て、例のおまじないとやらをやってもらおうということになったのか。……それにしても、ちょっと多すぎやしないか? 親から殴られたから、なんて理由で着てた奴もいたみたいだし。」
「私が心配しているのはそのことだ。まさか、わざわざ怪我をして私の所に来ようという子はいないだろうが、怪我をするたびに私の所に来られても、そうそう対応できるわけではない。それに、今は軽いけがで済んでいるが、酷い怪我をして運び込まれても、私は医者ではないからな。」
慧音と妹紅は、一緒になって困った表情になる。もしも、酷い怪我をした子がここに来たとしたら。慧音は、自分の手に負えないだろうことを思って悩んでいた。一方の妹紅はと言うと―――
(確かに、全身に打撲を負った奴が運び込まれてみろ。慧音はそいつにどう対応する? とりあえず、頭から始めたとしても、いずれは……)
少しだけ、思考の軸がぶれているようであった。
慧音と妹紅が思い思いに悩んでいると、寺子屋の戸を叩く音がした。トントントン、という軽い音であることから、どうやら来客は子供らしい。
「おや、また誰か来たのかな? 鍵は開いているぞ、入ってきなさい。」
慧音の声を受けて、静かに戸が開く。そこには、頬を抑えた子どもの姿があった。半ベソをかきながらも、一礼をして寺子屋に入ってくる。礼儀は正しい奴だな、と、妹紅は思った。
「ぐすっ…… 慧音先生、お願い、助けて。」
「うむむ、一体どうした? 頬を抑えてるってことは、親から叱られてぶたれた、なんてことじゃないのか?」
「うぅ…… 叱られたと言えば叱られたけれど、殴られたりはしてないよ。」
この時、妹紅は少しだけ嫌な予感がしていた。だが、あえてそれを口にすることはせず、成り行きを見守ることにしたのだ。ただ、自分の予想が当たったならば、物事が悪い方向に動くようならば、力ずくでも割って入ろうと、心に決めた。
「じゃあ、どうしたと言うんだ。」
「実は…… が、痛くて……」
「肝心なところが聞こえないじゃないか。物事ははっきりと言えと、いつも教えているだろう。」
「……は。」
「は? は、とはなんだ、失礼な。」
「慧音、そいつはちゃんと肝心なことを言ってるぞ。」
反射的に妹紅が声をかける。険しい表情になりかけたことに気づき、必死で平静を保つ。
「歯、だよ。そいつは、歯が痛いと言っているんだ。」
「……そうなのか?」
慧音の問いかけに、子どもはこくりと頷く。下を向いたせいで、目から涙がこぼれ落ちる。
「歯が痛い、か…… 大方、不摂生で虫歯になったというところなんだろうが……」
「おい、慧音、慧音。」
妹紅は鋭い視線を慧音に向ける。わかってるよな? 言いたいことは。そんな意志を込めた視線は、慧音をおののかせるのには十分な力を持っていた。一瞬身を引きかけた慧音だったが、子どもの声がその行為を遮った。
「慧音先生、先生なら、助けてくれるよね? いつものおまじないで、なんとかしてくれるよね?」
すがるような視線と威圧的な視線を一身に受けながら、慧音は思考を巡らせていた。
(妹紅はなんであんなに気が立っているんだ? もしかして、子ども相手に嫉妬でもしてるのか? ……まぁ、言わんとすることはわかる気がするのだが。ともかく、この子への対応はどうする? 患部が患部だけに、今までのように行かんと言うのは確かだ。だからと言って、何もせずに追い返すわけにもいくまい。では、どうするのが最善なんだ……?)
下唇を噛みながら、睨みつけるように慧音を見つめる妹紅。すがるような視線を慧音に向ける子ども。人差し指を額に当てて考え込む慧音。寺子屋の中には、緊迫した空気が拡がっていた。
ふと、慧音が額に当てていた指を離す。口元には笑みが浮かんでいる。
「……よし、わかった。こっちへ来なさい。」
妹紅の視線は、慧音のもとに近づく子どもに向けられていた。慧音が行動を起こしたということは、慧音が何か案を閃いたということだ。その案がどんなものなのか、妹紅が知る由もないが、どうなるのかがわからない以上、無意識に力が入ってしまう。
子どもが慧音の前に来た時、慧音の手が子どもの顎にそっと触れて上を向かせる。慧音から見下ろされる形となった子どもは、少しだけ頬を赤らめている。
「じゃあ、始めるぞ。」
妹紅が息をのむ。目を閉じてしまえば、これから起こることがどんな事であろうと知らずに済む。知らないでいる方が幸せな事もあるだろう。だが、妹紅の目は、二人の姿を捉えたまま、閉じることは無かった。
慧音は子どもの顎に添えた手の指を滑らせ、ゆっくりと子どもが押さえていた頬に移動して行く。子どもの手は、いつの間にか頬から離れ、ふらふらと力なく垂れ下がっていた。
指が頬に到達すると、慧音は指先で頬を軽くノックするように動かした。鈍い衝撃が走ったためか、子どもは肩をすくめる。そのまま、慧音は指を口元に運んでいく。そして―――
「……ふっ」
軽く息を吹きかけた。はらはらしながら見守っていた妹紅だったが、ここにきてようやく力を緩めることができた。子どもはというと、慧音の方を向いたままきょとんとした表情を浮かべている。
「……さて、とりあえず、おまじないをかけてはみたが、どうだ? まだ、痛みはあるか?」
「……え? あ、うん、どうだろう。少し、良くなった気がする……」
「まぁ、おまじないの効果を長持ちさせられるかどうかは、お前にかかっているからな。これからは、不摂生をしないようにすること。……あと、念のために、ちゃんとした医者に診てもらった方がいいぞ。」
「うん。わかった。ありがとう、慧音先生。」
「よし。それじゃあ、これからは気をつけるように。」
子どもは慧音に一礼し、妹紅に向き直って一礼をした後、そそくさと寺子屋から出て行った。妹紅はどこか満足げな表情を浮かべて、後ろ姿を見つめていた。
「なるほど、礼をわきまえた、良くできた子どもじゃないか。……それにしても、慧音、よくあんな対応を思いついたな。」
「あぁ、咄嗟の思いつきとはいえ、我ながら最善の選択だったと思う。」
「確かに、場合によっては力ずくでも止めに入って…… 痛っ!?」
突然走った鈍い痛みに、妹紅は手で口元を押さえる。恐る恐る手を離すと、赤く滲んだ跡がついていた。
「妹紅、お前、口を怪我してるじゃないか!? いったいどうして?」
妹紅には心当たりがあった。そう、慧音の行為を見守っていた時、自分が何をしていたか。思い出すまでもなく、その時の行動が原因だろう。こんなになるまで気がつかなかった自分を反省するよりも、慧音が慌てて妹紅に駆け寄ってくるのが先だった。
「あぁ、この傷は思ったよりも浅くないぞ。……そうだ、妹紅、ちょっとそのまま、じっとしていてくれ。」
慧音は、妹紅に駆け寄ってきた勢いのまま肩に手をかけて座りこませる。咄嗟に両手をつく姿勢となった妹紅は、身を乗り出してくる慧音を受け入れるしかなかった。
流れるような展開に身を任せた妹紅だったが、状況を理解するだけの思考力が残っていた事は、はたして幸だったのか。心臓の鼓動が聞こえる。顔が紅潮するのがわかる。それでも、振り払おうとは思わなかった。息がかかる程度の距離に、二人の顔が近付く―――
緊張に耐えられず、妹紅は目を閉じてしまった。何が起こるか、心のどこかで期待しているのが嫌悪感を生んでいた。刹那の時間も、こういうときは長く感じるものだという考えが頭をよぎった時、口元に何かが触れた。傷口に添って撫でるように動いたそれは,正体を確かめようと意識を向けた頃には、既にいなくなっていた。そして、代わりに―――
「……ふっ。」
口元を静かに吹き抜ける風。妹紅が気を取り直した時、目の前には優しい表情を浮かべた慧音の顔があった。よくよく見ると、妹紅同様、紅潮している。
「……おまじない。ちゃんと効いたかな?」
そう言って、慧音が身を起こす。後を追うように、妹紅もゆっくりと身を起こし、口元を手でぬぐう。
「……さぁ、どうだろうな。………………。」
拗ねたような表情を浮かべているのは、恥ずかしさの裏返しだろうか。慧音に聞こえないように小さく呟いた言葉が、その答えだ。
「ふふふ、なんだ? 最後の方が聞こえなかったが?」
「……なんでもない! それに、このくらいの傷、ほっといてもすぐに治る!」
「なんだったら、もう一度やってみるか? おまじない。」
「! ……だ、大丈夫だって! もう、私は帰る! また遊びに来るからな!」
妹紅はどかどかと音を立てて寺子屋を去って行った。慧音は笑いながらその姿を見送る。妹紅に対しては、ちょっと悪ふざけしすぎたなという反省をする一方、こんなおまじないも悪くないという思いを持っていた。今度怪我をしてきた時には、もう一度試してやろう。口元に近付けた、少しだけ赤く滲んだ指先を見つめて、慧音は小さく笑みを浮かべた。
「あぁ、妹紅、今は立てこんでるから、適当に座って待っていてくれないか?」
「う、うん、それはいいんだけれど……」
寺子屋の扉を開けた妹紅は、予期しない光景を目にして慌てふためいた。教壇に立つ慧音の前に並んでいる子どもたちの姿。それらからの視線を一身に集め、少しだけ頬を赤らめる。
「今日は、寺子屋の授業は無かったはずじゃあ……」
「授業は無いんだが…… まぁ、なんというかな、ははは……」
「慧音先生、早くしてよ。さっきからずっと待ってるんだよ。」
「おっと、すまないな、じゃあ、早くするから、もう少しいい子にして待っていてくれ。」
列の後ろの方にいた子どもが慧音を急かしたてる。妹紅にむけて苦笑を浮かべた表情を見せると、慧音は列の先頭にいた子どもに向き直った。妹紅は列から離れたところに居場所を確保し、何が始まるのかと見つめていると、慧音が子どもの腕をつかんで顔の前に持って行った。
「ふむふむ、これは、軽い打ち身のようだな。あざにはなっていないようだが、どうだ、痛むか?」
「うん…… 触ったりすると、じんじんする。」
「そうか。まぁ、これくらいならすぐに治るさ。それじゃあ……」
怪我の様子を診ているようだと思った妹紅だったが、次の瞬間、慧音がとった行動に、驚愕と疑問の感情を浮かべずには居られなかった。反射的に身体が動きかけたが、それが慧音に対して向けられた行動だったのか、子どもに対して向けられた行動だったのか、当の妹紅にも解らなかった。
「……ふっ。」
「ひっ!」
慧音が、子どもの腕に軽く息を吹きかけた。ただそれだけのことだったが、妹紅は動揺を抑えるのに精いっぱいだった。その行動にどんな意味があるのか。その場にいた者の中で理解していなかったのは、妹紅ただ一人だったのだ。
子どもは軽く身悶えた後、満面の笑みを浮かべて慧音に頭を下げた。
「ありがとう、慧音先生! これで、すぐに良くなるよ。」
「またすぐに怪我しないように、気をつけるんだぞ。」
「わかってるって。じゃあね、本当にありがとう!」
そして、子どもは笑顔のまま寺子屋を出て行った。妹紅は片膝立ちで腕を伸ばしかけた状態で固まっている。慧音はと言うと、既に次の子どもの相手をしている。
「痛いよう…… 痛いよう……」
「むむむ、これは、少し深い切り傷だな。刃物を使うときは充分に気をつけろと言っていただろう。」
「うう…… わたし、早くお料理ができるようになりたくて、それで……」
「包丁で野菜を切る時は、指は伸ばさないで猫の手にすること。守らないと、また痛い思いをすることになるぞ。」
「はい…… わかりました。」
「よしよし。もう大丈夫だから、泣くのは終わりだ。」
そして、慧音は子どもの手を持って顔に近づける。
「……ふっ。」
「ふむぅっ。」
目を固く閉じて身悶えた子どもだったが、開いている方の腕で涙を拭うと、精一杯の笑顔を慧音にむけて礼を言った。
「ぐすっ…… ありがとう、慧音先生。今度、私の作ったお料理、たべさせてあげるからね。」
「それは楽しみだ。期待しているぞ。」
子どもは改めて一礼し、慧音のもとを離れる。寺子屋の出口に向かう途中、妹紅に気がつくと不思議そうな表情を浮かべて声をかけた。
「お姉ちゃん、何してるの? 手をあげるときはちゃんと真っ直ぐ頭の上まで伸ばさないと、先生に注意されるよ。」
「え? あ、そうなの? じゃ、じゃあ、こんな感じで…… って、いやいや、別に私は手をあげようとしていたわけじゃあ……」
「……変なお姉ちゃん。」
何事もなかったように、子どもは寺子屋を出て行った。妹紅は軽く咳払いをすると、どこか拗ねたような表情を浮かべながら、どっしりと胡坐をかいて座り込んだ。
初めのうちは固く目を閉じていたものの、やはり慧音と子どものやり取りが気になってしまい、時々薄目を開けて様子を伺ってしまう。
「膝をすりむいたんだな。石にでも躓いて転んだか?」
「えへへ、油断してた。」
「えへへ、じゃない。以後、気をつけるように。」
「はーい。気をつけます。」
「……ふっ。」
「むんっ…… と、ありがとう、慧音先生。じゃあね。」
「あぁ、ほら、気をつけないとまた転ぶぞ! ……ふぅ。それじゃあ次は…… おや? 見たところ、どこにも怪我は無いみたいだが。」
「うぅ…… ちょっと、言いにくいんだけれど……」
「どうした。何があったかわからないと、私もどうしたらいいかわからないぞ。」
「……とーちゃんに拳骨喰らって、頭が痛い……」
「はぁ…… お前と言う奴は、また何か叱られるようなことをやったんだろう。自業自得という奴だ。」
「そんなぁ…… 助けてよ、慧音先生。」
「まったく。ちゃんと叱られたことは反省するんだぞ。ほら、頭を出せ。」
「……はい。」
「……ふっ。」
「んっ…… ありがとう、慧音先生。」
そんなやり取りが続き、最後の子どもの相手が終わった頃には、妹紅は気が気でならなかった。何から問い詰めてやろうか。逸る感情を抑えつつ、子どもが寺子屋から出て行くのを待つ。
寺子屋の戸が閉まる音がするとともに、妹紅は立ち上がり、慧音のもとに歩み寄った。
「けーねーっ! い、一体、なんなんだあれは!? 子ども相手とはいえ、なんというか、その……」
「ど、どうしたんだ妹紅。話をするんだったら、落ち着いて一つ一つだな……」
「これが落ち着いていられるか! あぁ、もう、うらやま…… げふん、とにかく、説明しろ!」
凄い剣幕でまくしたてる妹紅に押され、慧音はたじろぐ。肩で息をする妹紅を手で制し、こほんと咳払いをすると、慧音は静かに話し始めた。
「あれはだな、私が気まぐれで子どもにしてやったおまじないが、なんでか知らんが広まってしまってな、こうなってしまっては、私も引くに引けない状況になってしまったんだよ。」
「慧音、言っていることがわからない。まず、おまじないとはなんだ? あれか? あの、ふ、ふっ、ってやる……?」
「その通り。少し前に、転んでけがをした子どもがいてな。簡単な手当てをしてやったものの、一向に泣きやまなくて…… たまたま、思いつきで、怪我をしたところに息を吹きかけてやって、ほら、痛みの原因は飛んでったぞ、もう泣く必要はないんだぞって言ったら、ようやく泣きやんだのだ。おそらく、その子どもが言いふらしたんだろう。怪我が治るおまじないだ、みたいな話をな。」
苦笑を浮かべて話す慧音に、妹紅の表情も少し和らぐ。
「そうか、だから、怪我をしたら慧音の所に来て、例のおまじないとやらをやってもらおうということになったのか。……それにしても、ちょっと多すぎやしないか? 親から殴られたから、なんて理由で着てた奴もいたみたいだし。」
「私が心配しているのはそのことだ。まさか、わざわざ怪我をして私の所に来ようという子はいないだろうが、怪我をするたびに私の所に来られても、そうそう対応できるわけではない。それに、今は軽いけがで済んでいるが、酷い怪我をして運び込まれても、私は医者ではないからな。」
慧音と妹紅は、一緒になって困った表情になる。もしも、酷い怪我をした子がここに来たとしたら。慧音は、自分の手に負えないだろうことを思って悩んでいた。一方の妹紅はと言うと―――
(確かに、全身に打撲を負った奴が運び込まれてみろ。慧音はそいつにどう対応する? とりあえず、頭から始めたとしても、いずれは……)
少しだけ、思考の軸がぶれているようであった。
慧音と妹紅が思い思いに悩んでいると、寺子屋の戸を叩く音がした。トントントン、という軽い音であることから、どうやら来客は子供らしい。
「おや、また誰か来たのかな? 鍵は開いているぞ、入ってきなさい。」
慧音の声を受けて、静かに戸が開く。そこには、頬を抑えた子どもの姿があった。半ベソをかきながらも、一礼をして寺子屋に入ってくる。礼儀は正しい奴だな、と、妹紅は思った。
「ぐすっ…… 慧音先生、お願い、助けて。」
「うむむ、一体どうした? 頬を抑えてるってことは、親から叱られてぶたれた、なんてことじゃないのか?」
「うぅ…… 叱られたと言えば叱られたけれど、殴られたりはしてないよ。」
この時、妹紅は少しだけ嫌な予感がしていた。だが、あえてそれを口にすることはせず、成り行きを見守ることにしたのだ。ただ、自分の予想が当たったならば、物事が悪い方向に動くようならば、力ずくでも割って入ろうと、心に決めた。
「じゃあ、どうしたと言うんだ。」
「実は…… が、痛くて……」
「肝心なところが聞こえないじゃないか。物事ははっきりと言えと、いつも教えているだろう。」
「……は。」
「は? は、とはなんだ、失礼な。」
「慧音、そいつはちゃんと肝心なことを言ってるぞ。」
反射的に妹紅が声をかける。険しい表情になりかけたことに気づき、必死で平静を保つ。
「歯、だよ。そいつは、歯が痛いと言っているんだ。」
「……そうなのか?」
慧音の問いかけに、子どもはこくりと頷く。下を向いたせいで、目から涙がこぼれ落ちる。
「歯が痛い、か…… 大方、不摂生で虫歯になったというところなんだろうが……」
「おい、慧音、慧音。」
妹紅は鋭い視線を慧音に向ける。わかってるよな? 言いたいことは。そんな意志を込めた視線は、慧音をおののかせるのには十分な力を持っていた。一瞬身を引きかけた慧音だったが、子どもの声がその行為を遮った。
「慧音先生、先生なら、助けてくれるよね? いつものおまじないで、なんとかしてくれるよね?」
すがるような視線と威圧的な視線を一身に受けながら、慧音は思考を巡らせていた。
(妹紅はなんであんなに気が立っているんだ? もしかして、子ども相手に嫉妬でもしてるのか? ……まぁ、言わんとすることはわかる気がするのだが。ともかく、この子への対応はどうする? 患部が患部だけに、今までのように行かんと言うのは確かだ。だからと言って、何もせずに追い返すわけにもいくまい。では、どうするのが最善なんだ……?)
下唇を噛みながら、睨みつけるように慧音を見つめる妹紅。すがるような視線を慧音に向ける子ども。人差し指を額に当てて考え込む慧音。寺子屋の中には、緊迫した空気が拡がっていた。
ふと、慧音が額に当てていた指を離す。口元には笑みが浮かんでいる。
「……よし、わかった。こっちへ来なさい。」
妹紅の視線は、慧音のもとに近づく子どもに向けられていた。慧音が行動を起こしたということは、慧音が何か案を閃いたということだ。その案がどんなものなのか、妹紅が知る由もないが、どうなるのかがわからない以上、無意識に力が入ってしまう。
子どもが慧音の前に来た時、慧音の手が子どもの顎にそっと触れて上を向かせる。慧音から見下ろされる形となった子どもは、少しだけ頬を赤らめている。
「じゃあ、始めるぞ。」
妹紅が息をのむ。目を閉じてしまえば、これから起こることがどんな事であろうと知らずに済む。知らないでいる方が幸せな事もあるだろう。だが、妹紅の目は、二人の姿を捉えたまま、閉じることは無かった。
慧音は子どもの顎に添えた手の指を滑らせ、ゆっくりと子どもが押さえていた頬に移動して行く。子どもの手は、いつの間にか頬から離れ、ふらふらと力なく垂れ下がっていた。
指が頬に到達すると、慧音は指先で頬を軽くノックするように動かした。鈍い衝撃が走ったためか、子どもは肩をすくめる。そのまま、慧音は指を口元に運んでいく。そして―――
「……ふっ」
軽く息を吹きかけた。はらはらしながら見守っていた妹紅だったが、ここにきてようやく力を緩めることができた。子どもはというと、慧音の方を向いたままきょとんとした表情を浮かべている。
「……さて、とりあえず、おまじないをかけてはみたが、どうだ? まだ、痛みはあるか?」
「……え? あ、うん、どうだろう。少し、良くなった気がする……」
「まぁ、おまじないの効果を長持ちさせられるかどうかは、お前にかかっているからな。これからは、不摂生をしないようにすること。……あと、念のために、ちゃんとした医者に診てもらった方がいいぞ。」
「うん。わかった。ありがとう、慧音先生。」
「よし。それじゃあ、これからは気をつけるように。」
子どもは慧音に一礼し、妹紅に向き直って一礼をした後、そそくさと寺子屋から出て行った。妹紅はどこか満足げな表情を浮かべて、後ろ姿を見つめていた。
「なるほど、礼をわきまえた、良くできた子どもじゃないか。……それにしても、慧音、よくあんな対応を思いついたな。」
「あぁ、咄嗟の思いつきとはいえ、我ながら最善の選択だったと思う。」
「確かに、場合によっては力ずくでも止めに入って…… 痛っ!?」
突然走った鈍い痛みに、妹紅は手で口元を押さえる。恐る恐る手を離すと、赤く滲んだ跡がついていた。
「妹紅、お前、口を怪我してるじゃないか!? いったいどうして?」
妹紅には心当たりがあった。そう、慧音の行為を見守っていた時、自分が何をしていたか。思い出すまでもなく、その時の行動が原因だろう。こんなになるまで気がつかなかった自分を反省するよりも、慧音が慌てて妹紅に駆け寄ってくるのが先だった。
「あぁ、この傷は思ったよりも浅くないぞ。……そうだ、妹紅、ちょっとそのまま、じっとしていてくれ。」
慧音は、妹紅に駆け寄ってきた勢いのまま肩に手をかけて座りこませる。咄嗟に両手をつく姿勢となった妹紅は、身を乗り出してくる慧音を受け入れるしかなかった。
流れるような展開に身を任せた妹紅だったが、状況を理解するだけの思考力が残っていた事は、はたして幸だったのか。心臓の鼓動が聞こえる。顔が紅潮するのがわかる。それでも、振り払おうとは思わなかった。息がかかる程度の距離に、二人の顔が近付く―――
緊張に耐えられず、妹紅は目を閉じてしまった。何が起こるか、心のどこかで期待しているのが嫌悪感を生んでいた。刹那の時間も、こういうときは長く感じるものだという考えが頭をよぎった時、口元に何かが触れた。傷口に添って撫でるように動いたそれは,正体を確かめようと意識を向けた頃には、既にいなくなっていた。そして、代わりに―――
「……ふっ。」
口元を静かに吹き抜ける風。妹紅が気を取り直した時、目の前には優しい表情を浮かべた慧音の顔があった。よくよく見ると、妹紅同様、紅潮している。
「……おまじない。ちゃんと効いたかな?」
そう言って、慧音が身を起こす。後を追うように、妹紅もゆっくりと身を起こし、口元を手でぬぐう。
「……さぁ、どうだろうな。………………。」
拗ねたような表情を浮かべているのは、恥ずかしさの裏返しだろうか。慧音に聞こえないように小さく呟いた言葉が、その答えだ。
「ふふふ、なんだ? 最後の方が聞こえなかったが?」
「……なんでもない! それに、このくらいの傷、ほっといてもすぐに治る!」
「なんだったら、もう一度やってみるか? おまじない。」
「! ……だ、大丈夫だって! もう、私は帰る! また遊びに来るからな!」
妹紅はどかどかと音を立てて寺子屋を去って行った。慧音は笑いながらその姿を見送る。妹紅に対しては、ちょっと悪ふざけしすぎたなという反省をする一方、こんなおまじないも悪くないという思いを持っていた。今度怪我をしてきた時には、もう一度試してやろう。口元に近付けた、少しだけ赤く滲んだ指先を見つめて、慧音は小さく笑みを浮かべた。
微笑ましいお話ですね。