※当作品は作品集153『姉想いただ前へ』と、
作品集175『縁を繋ぐもの』の設定を使ったお話です。
◇Prologue
寒空の下、一冊の本を広げたまま木陰で木の幹に寄りかかって眠る少女が一人。葉をつけない木の隙間からこぼれる陽は全て、少女では支えるのが難しそうな紅色の大きな日傘によって遮られている。
夜空に現れたばかりの満月のような金の髪、東洋人からはかけ離れた端正な顔立ち、そして、抱きしめれば簡単に折れてしまいそうな華奢な体つき。見かけの年齢はまだまだ幼いが、美少女と呼んでそれを否定する者はいないほどの美貌。けど、背中の七色の宝石のようなものが垂れ下がる蝙蝠の翼の骨格のような異形の羽が、見る者によっては、そうした肯定的な言葉を否定的なものへと変えてしまうかもしれない。幸いにも、この界隈では変わり者として見られはするが、迫害といったものは受けていない。単純に他人との関わりが少なすぎるせいなのかもしれないが。
そんな彼女、フランドール・スカーレットは冬の冷たい空気もものともせず、穏やかな寝顔を見せている。
それもそのはずだ。魔法の扱いに長ける彼女は、冬の冷気を春の陽気へと変えている。だから、今にも凍えそうな環境にいても、彼女は気の抜けた表情で眠っていることができる。
実は、とある事件の後からはこうして外で昼寝をするようなことはなくなっていた。しかし、たまたま眠気が強かったのか、それとも月日の流れと共に警戒心も流れてしまったのか。なんにせよ、フランドールは自前の春の中で無防備な姿を晒している。門番の監視の目をかいくぐりさえすれば、簡単にさらえてしまうことだろう。
そんな彼女が眠る紅魔館の裏庭に、黒い鍔広の帽子を被った少女が現れる。首をきょろきょろと左右に忙しなく動かして何かを探しながらも、どこか薄ぼんやりとした雰囲気を纏っている。胸の辺りで揺れる作り物めいた大きな目は、フランドールの羽とは違い、正真正銘の迫害の証である。けど、彼女の気配はそんな証を抱えながらも、見逃されてしまいそうなほどに希薄だ。
ふわふわとした雰囲気の彼女、古明地こいしはフランドールの姿を翡翠色の双眸で見つけた途端、笑みを浮かべる。そして、翠と青を混ぜ込んだような銀髪を楽しげに揺らしながら、そっとフランドールとの距離を縮めていく。起こしてしまわないように抜き足で。はやる気持ちを抑えるように差し足で。自分の考えたことを実行するために忍び足で。
彼女の様子は、第三の目を除けばごくごく普通の少女のものであった。そして、一途に恋をする少女のようでもあった。不自然に薄ぼやけた気配は、いつしかはっきりとしたものとなっていた。
こいしはフランドールの正面にたどり着くと、日傘を拾い上げて、フランドールに陽が当たらないようにしながらしゃがみ込む。そうして、間近でフランドールの整った顔をじーっと見つめる。その表情はぼんやりと見惚れているようでもあって、はっきりと細部まで観察するようでもある。
そうしてしばらく眺めた後、こいしは更に顔を近づけようとする。けど、
「こいし……」
少しばかり非難の込められたフランドールの声によって、それ以上近づくことはできなかった。けど、こいしは離れようとはせず、至近距離を保ち続けたままとなる。
「ありゃりゃ、起きちゃったんだ」
「うん、不穏な空気を感じたから」
フランドールは紅の双眸で、悪戯っぽい色を湛えた翡翠色の瞳を見つめ返す。寝起きにこいしの顔が間近にあることに驚いた様子はなく、代わりに呆れの色が浮かんでいる。
「不穏な空気とは失敬な。私はただフランの寝顔にときめいて、これはキスの一つや二つ間違ってやっちゃってもいいかなぁと思ってただけ」
「私にとっては、まさにそういうのが不穏なんだけど」
「恋は健全な感情」
「だからって行為を押しつけるのは不健全だと思う」
こいしはフランドールに対して慕情を抱いているが、フランドールがこいしに対して抱いているのは友情だ。だから、仲がいいようには見えるが、基本的に求めるものがすれ違っている。けど、お互いにそのずれを認識しているので、齟齬が生じるようなことはない。
「ほっぺたとかはいいよね? もしくはおでことか」
「……だめ」
フランドールは少々悩んだ末に、首を横に振った。こいしに対する信頼がもう少し高ければ、首は縦に振られていたかもしれない。
「えー、なんで? フランが元々住んでた地域って親しい人たちにはそういう挨拶するんだよね? ……私が勘違いしてただけで、そういう間柄ですらなかったの?」
とぼけたような態度を取っていたかと思うと、少し間を空けた後に目を伏せてフランドールを上目遣いに見る。妙な間と脈絡のなさのせいで演技だというのはバレバレだ。けど、そうした萎れた態度に対する耐性のないフランドールは、分かっていながらもあたふたとしてしまう。
閉じた世界を望む彼女の知り合いは、片手で数えられるか否かといったところだが、その内に含まれる者はその誰もがひねくれているか強い心を持っていた。だから、弱気な態度に接する機会が全くと言っていいほどなく、今のようにしどろもどろとなってしまう。以前は、そのひねくれ者の中にこいしも含まれていたのだが。
「いやえっと、そういうことじゃないんだけど、こいしは余計なことまでしそうな気がするから」
「……例えば?」
萎れた態度は継続中である。
「吸付いたり」
「……たり?」
「舐めたり」
「……たり?」
「……噛んだり?」
ぱっと思いつかなかったのか、続きの言葉が出てくるのにしばしの時間がかかった。
「ふむ。それをやってほしいわけだ」
「いやいや」
こいしは不意に元の調子に戻って、得心がいったように頷く。フランドールは呆れたような表情を見せながら、意図的な勘違いを否定する。最初の頃は、疲れのようなものも一緒に浮かんでいたのだが、慣れによって随分と薄れていた。
「私はいつでも大歓迎」
「じゃあ、気が向いたときにさせてもらう」
フランドールはこいしの笑顔をそう言ってかわす。
「今すぐでもいいのに」
こいしはこうして無駄口を叩き合っているだけでも満足なようで、乗り気でないフランドールの様子を見ても満足そうだった。ただ傍にいることを肯定してもらえているだけで幸せそうだった。
フランドールは相も変わらず呆れた様子を見せているが、それでもどことなくこいしとのやり取りを楽しんでいる。なんだかんだと言いつつも、彼女もこいしといる時間が好きなのである。
そのまま二人は沈黙する。フランドールはまだ眠気が残っているのか、目の焦点がどこかぼんやりとしている。それに対して、こいしは熱心な様子で紅の瞳を覗き込んでいる。
そんな二人の姿は、年来の友人同士にも見えたし、初々しい恋人同士のようにも見えた。
「あ、こいし。今更だけど、寒くない?」
ふと、フランドールの目がぱっちりと開く。もしかすると、今の今まで本当に半分くらいは眠っていたのかもしれない。
「だいじょうぶ。フランの周りは暖かいし、私に気づいてからその範囲も広めてくれてるし」
こいしはフランドールの気遣いににへー、と締まらない笑みを向ける。彼女がそうした表情を見せるのは、フランドールただ一人だけだ。彼女の姉にも、ここまで無防備な表情を見せることはない。
我が侭な思想からこいしを引っ張って、気がつくと絶大な信頼を得ていたフランドールとしては、そうした事実に対して複雑な思いを抱いているようだ。自身もこいしが自分に向けるのと同じかそれ以上の信頼を寄せる相手がいるだけに。
「ん、そっか。でも、この格好のままでいるのも辛そうだから、中に入ろうか?」
「フランを襲ってるみたいでどきどきできるから、このままでも問題ないよ」
「……中に入ろうか」
フランドールは襲うという言葉で思いの丈をぶつけられた時のことを思い出してしまったようだ。なんとも言えない表情を浮かべながら、こいしの肩を押しやる。
「ありゃ、間違っちゃったか」
こいしは少し残念そうに、けど同時にどこか怯えるような色を見せながら、そのまま立ち上がる。その代わりに、空いた方の手でフランドールの手を取って立ち上がらせる。立ち上がらせること以上に、そのまま手を繋いだままにしていることが目的のようではあるが。
「ありがとう」
「どういたしまして」
こいしはフランドールへと笑みを返す。その裏では、フランドールの指の間へ自身の指を絡ませようとしている。フランドールはそれを受け入れるべきか否か悩んでいたが、結論を出す前にがっしりと掴まれてしまっていた。振り解いてしまうのは悪いと思ったのか、特に何をするでもなく、握られたままとなる。
それが二人の距離だった。
それは、フランドールにとっては近すぎて、こいしにとっては遠すぎる距離だった。
◇Flandre's side
ぽちゃん。
こいしが落とした角砂糖が淹れられたばかりの紅茶の水面を突き破り、小さな音を響かせて沈む。それが、更に二度続く。
こいしがそれほど甘い紅茶が好きだというわけではない。こいしは、砂糖の入っていないミルクティーと共に、甘いお菓子の味を楽しむのが好きだ。だから、今こいしの前にあるティーカップはこいしのものではない。私のものだ。その代わりに、こいしのものが私の前にあるということはなく、こいしの前にはカップが二つある。
かしゃかしゃ。
ティースプーンの先とカップの底とが擦れ合う音が響く。ここからでは見えないけど、角砂糖は崩れ、温かい紅茶の中へと溶けていっているのだろう。何度となく見てきた光景だから、音を聞けば頭の中にその情景が浮かんでくる。
こいしが私に同じ感情を抱かせると宣言して以来、こうして献身的な態度を見せることが多くなった。一度、力尽くでも自分の物にするような態度を取られたから、この変わりようは意外だと思っていた。
でも、こいしがふと見せる臆病さを考えてみれば、それは別段おかしなことでもない。どちらも私に離れてほしくない。そうした感情が起因となっているのだろうから。
「はい、どうぞ、フラン」
「ん、ありがとう」
こいしは一切曇りのない笑顔を浮かべながら、甘い紅茶の入ったカップをこちらへと差し出してきた。
この笑顔が信頼だけで成り立っていたなら、私はむずがゆさを感じるだけで、こんなにあれこれ考えたりすることはなかったんだろうなぁと思う。どう転んだって、こいしの想いには応えられないだろうから、一途な様子を見せられると、気恥ずかしさよりも申し訳なさが先立つ。
私はこいしが混ぜてくれた紅茶に口をつける。砂糖の甘さと共に紅茶の香りが鼻を抜ける。口を離した後、自然とため息が漏れてきた。まあ、あれこれ悩んだりはしているけど、こうして紅茶の味を楽しめる程度には余裕がある。こいしの想いは本物ではあるけど、今はそこに必死さが付随していないからだろう。
「どう?」
「うん、おいしい。さすが、咲夜の淹れた紅茶だと思う」
こいしが聞きたい言葉はわかっているけど、こいしのように入れ込んでいるわけではないから、さすがに口にはしない。
「ほう、わざわざ喧嘩を売るような言い方するんだ?」
「あんまり濁した言い方をしても、遠回りするだけで結局行き着く場所は同じだからいいんじゃない?」
「私としてはその過程も楽しみだったんだけど」
「思い通りにならないっていうのも、十分楽しめる要素だと思う」
「まあ、確かにね。でも、それがフランだってのは気にくわない。フランは私の物になって大人しく従順になってればいい」
内容の割には軽い調子の声。でも、一度切望の色を乗せた声で同じようなことを言われたことがあるから、冗談でないことを知っている。今現在、その優先順位がどのようになっているのかはわからないけど。
「今更こいしに従順な私の姿なんて想像できる?」
「万が一でも可能性があれば想像できるのがこの私。フランはそういう素質がありそうだから」
「だとしても、それがこいしに向かうことはないと思う」
私と目線の高さが同じくらいのこいしに、そうした態度を取ることはないだろう。そもそも、お姉様以外にそうした態度を取る自分の姿を想像することができない。
「はっきり言ってくれるねぇ。まあでも、だからこそ落としがいがあるってものなんだろうけど」
こいしが楽しそうに笑う。なんでこんなややこしい関係になったのかなぁと思うときもある。でも、そうした面倒なことを考えなければ、こいしの明るい表情はけっこう好きだ。それに、出会ったばかりの頃の刺々しい態度を知っているから、平和だなぁと暢気に考えることもできる。
「……なんか気の抜けた顔してる」
「ん、こいしの楽しそうな表情を見てると平和だなぁって。いろんな表情を見た気がするけど、その表情が一番好き」
「ぅぐ……っ。……フランは、不意打ちでそういうこと言うところが卑怯」
頬に朱を滲ませたこいしがたじろぐような様子を見せる。
……どうやら、またやってしまったようだ。どうにも、こいしをときめかせるようなことを無自覚に言ってしまうことがよくある。別にそうしたい感情がどこかにあるわけでもないのに。
「私は思ったことを口にしただけなんだけどなぁ」
私としては、こうした雰囲気は好ましくない。だから、わざとらしく気にしてないような素振りを見せて、早々に崩してしまうことにする。こいしがわかりやすく狼狽してくれるおかげか、思いの外冷静でいられることが多い。
「この意気地なしめ」
「意地でも今の関係を続けようとしてるのが、今の私なんだけど」
結局はお互いに意地っ張りだということなのだろう。どちらかがどちらかの感情に引っ張られていたら、こんなややこしいことにはなっていなかったかもしれない。
「全く、いつになったら次のステップに進めるのやら」
顔を赤くしたまま、今にもため息をつきそうな声でそう言う。でも、その後に浮かべるのは幸せをまぶした笑みだ。
「まあでも、そういう言葉を聞けるだけでも私は幸せなのか、も――っ?!」
「……こいし?」
何の前触れもなく、こいしの笑みが一瞬で凍えた。何かに驚いたように、もしくは何かに怯えるように身体を震わせていた。
こいしが怯えるようなものは大体把握しているつもりだけど、今はそうしたものは何もないように思える。そもそも、何かが起こったようには見えなかった。
いや、そうじゃない。こいしの第三の目が少し開いて――
「あ、あはは、な、なんでもない、なんでもない。うん、幸せすぎてちょっと意識が飛びかけただけで、どうってことないって」
こいしはわざとらしく笑って誤魔化す。第三の目を確認しようとしたけど、うまい具合にこいしの手が邪魔になってしまっていて、その様子を窺うことはできない。
一瞬だけ見えた目は本当に微かだけど開いているように見えた。でも、見間違えたという可能性もないわけではない。
「ねえ、こいし――」
「ごめんっ、フラン。用事思い出したから帰るねっ」
確認させてもらおうとしたら、慌てたように立ち上がって背を向けられてしまう。その理由が今この場に適当にでっち上げたものだというのはすぐにわかった。
「えっ? あ、うん」
でも、こいしの勢いに負けて反射的に頷いてしまっていた。そして、止めないといけないという意志が湧いてくる前に、こいしは逃げるように部屋から出ていってしまう。
一人残された私は、しばらく動くことができなかった。
◇Koishi's side
フランの部屋から逃げ出した私は、ほとんど衝動的に空を駆けていた。目的地なんて何もない。ただ誰もいない場所へと行って一人になりたかった。
だというのに、紅魔館から飛び出て、湖を越えて、ほとんど誰も寄りつかなさそうな場所にまで来ても、私は止まらない。いや、止まれない。止まったらその瞬間に過去に追いつかれてしまいそうで、止まることができない。
それは、声であり映像だ。私の心を、突き刺し、抉り、刻もうとする、どろどろと淀んだ穢れまみれの心たちだ。それが私を追いかけてきている。
ああ、でもわかっている。それはただの過去の幻影に過ぎないのだと。私が切り捨てたものの残骸に過ぎないのだと。
心の古傷が生み出す幻聴。心の不具合が原因の強迫観念。
私は冷静。突然心の声が聞こえてきて取り乱してしまっただけだ。そう判断ができるほどに落ち着いている。どこかに向かおうとしていた身体も止まり、文字通り地に足を着ける。
そして、深呼吸。本当はこのまま現実から目をそらしてしまいたい。そうして、少し不満はあるけど概ね満足している日常の中へと身を投じたい。
でも、私の持つ呪われた目はそれを許してはくれない。今もすでに、木々の揺れる音に混じって、話し声のような雑音めいたものが聞こえてくる。脳裏を異物がかすめる。
首を振るようにして左右を見回してみると、木々の間を妖精が飛んでいるのが見えた。
そちらにじっと目を凝らし、耳を澄ませる。ふつふつとこみ上げてくる吐き気も厭わず、意識を集中させる。
そうして聞こえてくるのは、話し声のような雑音だった。見えてくるのは、輪郭の存在しない不明瞭な物体だった。その正体を見抜くことはできないけど、大まかになんであるかは知っていた。
私は第三の目を掴んで自分の顔へと向ける。思わず刃物でも突き立てたくなるくらいに見つめてみると、本当にうっすらと瞳が覗いているのがわかる。一瞬しかそれを確認できなかったはずなのに、フランはこのことに気がついているようだった。
「……」
目を握りつぶそうと手に力を込める。鈍い痛みが、徐々に食い込んでいく指の周りから広がっていくけど、気にしない。気にならない。
今はまだ、はっきりと見ることができるのはフランの心だけのようだ。たぶんそれは、私がフランに対して心を許しているからだろう。だから、もしかするとお姉ちゃんやペットたちの心も見えたりするのかもしれない。
でも、このまま昔のように、誰彼構わず心を盗み見ることができるようになってしまう可能性もある。周りから意識的、無意識的問わず向けられる敵意に悪意に嫌悪。それらを感じずにすむのなら、物理的な痛みの方がずっとましだろう。
それに、私が心を許している人たちでだって、裏では何を考えているかわかったものではない。お姉ちゃんが何を考えていたかなんて忘れた。フランも結局の所は他人でしかない。
「……っ!」
でも、フランとお姉ちゃんの顔が浮かんだ瞬間に、私の手からは力が抜ける。潰れた目を見て、きっと二人は私の心配をするだろう。その場面を想像すると、私はそれ以上動けなくなる。それだけでなく、その場に崩れ落ちる。
そして私は、世界が少しずつ闇色に染まっていくことに涙する。
私の手にした幸せはなんと脆いことだろうか。
◇Flandre's side
こいしが部屋から出て行ってしばらくしてから、私はようやく動き出すことができた。紅茶からは湯気が立ち上らなくなっている。
「……咲夜、ちょっといい?」
いまだに混乱したままの思考を落ち着けるように一度深呼吸した後、咲夜を呼ぶ。本当は何が起こったのかをしっかりと考えたいところだけど、それ以上にこいしを放っておくことはできなかった。なんだか、いやな予感がするのだ。胸の奥がざわついている。
「はい。こいしなら、館から飛び出して行ってしまいましたよ」
「そっ、か。ありがと」
用件を伝える前に答えてくれた。異常事態を目の前にして、焦っているときにその察しの良さはとてもありがたい。
でも、状況は芳しくない。思っていた以上の間、私は動きを止めてしまっていたようだ。こいしが館の中にいるなら、館内の空間を把握している咲夜の力を借りることによってすぐに見つけられる。でも、そうでなければ見つけるのは困難だ。衝動的に逃げているだけなら、なんとかなるかもしれないけど、見つけられないつもりで逃げているのなら、こちらから見つける手段はない。
「どうするつもりですか?」
思考の坩堝を覗いていた意識が咲夜の声に引き戻される。
見つけられないかもしれないというのがなんだというのだろうか。見つけるしかないのだ。いくらここで考えていたって、事態は好転しないのだから。
「咲夜、こいしを探してくるから、お姉様に私が外に行くこと伝えといて」
どうするかを決めたから立ち上がる。友達として、こいしの傍にいてあげるべきだ。今のこいしに、私のそんな考えがどう響くかは未知数だけど。
「わかりました。ですが、一つだけ言わせてください」
「……何?」
咲夜が姿を消したらすぐにでも飛び出そうと思っていた私は、出鼻をくじかれる形となる。
「外に出るときはハンカチくらいは持っておいた方が良いですよ」
咲夜はそう言いながら、レースの付いた薄紅色のハンカチをこちらに差し出してきた。何か重要なことを言われるのだろうかと思っていた私は、拍子抜けをする
それでも、ハンカチを受け取り、少し考えた後にポケットへとおさめる。ほとんど外に出ないから、こういったものを持つ習慣がないのだ。
とはいえ、場違いであるというのはやはり否めない。
「では、いってらっしゃいませ、フランドールお嬢様。健闘を祈っていますわ」
「うん、いってきます」
いつもよりも大仰な見送られ方だったけど、だからこそがんばろうという気持ちも湧いてきた。
当て所もなくこいしを探して飛び寒空の下を飛ぶ。本当は全力に近い速度で飛びたいところだけど、日傘を支えるためにある程度速度を落とさなくてはいけない。それでも、私の下にある物体は、その全てが一瞬で流れていっている。
私は真っ直ぐ飛ばず、かといってでたらめな軌道を描くようなこともせず、館を中心として渦を描くようにしてこいしを探している。一切の目星がつかないときの探し方がわからないのと、探さなかった場所に不安を残すくらいなら、最初から虱潰しにしてしまおうと思ってのことだ。
効率は悪いような気がするけど、見当違いな場所を探して見つけられないよりはましだ、……と思う。まあ、どんな探し方をしたところで確実に見つけられるわけではないし、不安を拭い去ることもできないだろう。
私よりも低い位置をのんびりとした速度で飛んでいた妖精が、驚いたようにこちらを見上げる。普通ならここでこいしの姿を見たかどうかを聞いてみれば効率がいいんだろうけど、妖精相手だと無駄足になる確率の方が高いような気がする。館の妖精メイドたちと関わった経験からそう思う。
それに、こいしが力を使っていたとすればよほど特殊な力を持っていない限り、こいしを見つけることは不可能だ。
それらの理由から、妖精の存在はすぐに意識から外して、周囲に視線と意識とを向けてこいしを探す。常に気配を消されていたら、私も見つけられないけど、今は気にしてもしょうがない。
こいしを見つけたらどうするかというのは、全く考えていない。というよりも、どうしようもない気がする。
一瞬だけ見えたこいしの第三の目。そこは、ほんの少しだけだけど、開いているように見えた。だからたぶん、こいしが逃げるように部屋から出て行ったのは、私の心が見えてしまったせいなんだと思う。
私が考えていた内容の悪意のあるなしは関係ない。ただ、心が見えたという事実がこいしに逃走の衝動を与えた。こいしの境遇を考慮するとそう考えるのが妥当だろう。私だって、もし仮に自分の忌避する力が鳴りを潜めていたのに、不意に姿を現したとなれば逃げ出したくなる。
私がこいしにとって聞きたくないことを考えていたとは思えない。……そう思いたくないだけかもしれないけど。
とにもかくにも、今ここでどうするかを考えても、全て筒抜けとなってしまうのだからあまり意味はないだろう。なるようにしかならない、ということだ。
それでも、逃げられたらどうしようかと考えずにはいられない。
と、踏み固められただけの道の外れに、黄色いリボンの揺れる見慣れた黒帽子を見つける。考え事に集中していたせいで、危うくそのまま通り過ぎかけた私は慌てて止まり、そちらの方に向けて飛ぶ。
こいしがこちらを見上げようとする気配はない。自分の殻の中にこもって、外を気にかけないようにしようとしているように見える。
声をかけるということに多少の躊躇を覚える。だからといって、放っておくという選択肢はありえない。
「こいし」
こいしの進行方向に降り立って名前を呼ぶ。
最初は目のことを聞いてみようか、何気ない話から始めようか、それともこいしから何かを言ってくれるまで待ってみようかと色々と考えていた。でも、頬を濡らしたこいしを見て、そんな考えはどこかに吹き飛んでしまう。
「こいしっ!?」
勢いだけでこいしとの距離を一気に詰める。でも、泣いている相手に対してどう接するべきかわからなくて、それから先はわたわたとしていることしかできない。そもそも、こいしが涙を見せるようなことがあることさえも意外だった。
一応日傘のことを覚えていて、こいしに当たらないようにと考えることができていたのは、幸いと言ってもいいかもしれない。
「……酷いねぇ、フランは」
呆れた、そして疲れ切ったような色の滲む声。私はその声を聞いて、はっとしたように冷静さを取り戻す。ここで私が取り乱していてはいけない。
なんとか落ち着いた思考を回して、次の行動を決める。こいしの顔を見ればそれは自ずと決まった。
私はポケットから咲夜に渡された薄紅色のハンカチを取り出して、こいしの濡れた頬を拭く。こいしは身動きせずにされるがままとなっている。いつもよりも大人しいその様子が、なんだか私を不安にさせる。
「追いかけてくるとは思わなかった」
「あんな露骨に逃げるように出て行かれたら気になるし、その直前にこいしの第三の目が開いてるようにも見えたし」
頬を拭き終えた私は、ハンカチをポケットに入れ直しながら、視線を下げる。こいしの胸の辺りへと向かう。
そこには、二本の管が延びる目がある。いつもは閉ざされていて、その瞳を見ることはできない。でも、今はほんの少し開かれた瞼の間から、藍色の瞳が見える。
「……やっぱり、見えてるの? 私の心」
それを聞くことには少し抵抗があった。こいしの心の傷に触れてしまうことが怖かった。でも、心を読めてしまっているのなら、そんな心遣いはなんの意味も持たなくなってしまう。思考が全てそのままこいしに向かって行ってしまっているのだから。
「さすが、私が惚れただけあるねぇ。私が心を読めるって知ったときの恐怖はいくらでも見たことあるけど、そういう形は初めて」
こいしは嬉しそうな笑みを浮かべる。でも、普段に比べるとずっと静かな様子で、見ていると明確な理由があるわけでもないのに不安が浮かんでくる。
だからか、気が付くとこいしの手を握っていた。日傘がなければ両方の手を使って、距離も更に詰めていたかもしれない。
なんだか、ふとした瞬間に消えてしまいそうな気がしたのだ。それは言い過ぎだとしても、このまま背を向けられたら止められないような気がしたし、そのまま別れたら二度と会えなくなってしまうような気もしている。
「……私ってそんなに逃げてばっかりに見える?」
「……自覚なかったの?」
いつもいつも逃げているという印象はないけど、心の傷に触れそうに、触れられそうになったら逃げている。それは仕方のないことなのかもしれないけど、そうして私までも避けられてしまうのはいやだった。
押しつけがましいわがまま、なんだろうけど。
「そういえば、そうだったけ」
静かな声。本当に私はこいしの手を握っていられているのだろうかと不安になって、少し力を込める。でも、力を込めすぎれば、それはそれで壊れてしまいそうで怖い。
私はどうしてあげればいいのだろうか。それとも、何もしないのがいいのだろうか。何もわからず、立ち竦んでいることしかできない。
「ふふ、嬉しいね。そんなに力を込めて握ってくれるなんて」
「……まあ、これ以上逃げられて探すのも面倒くさいからね」
こいしの軽い調子の口調に、私は少し考えてからできるだけいつもの調子で返す。そうすることを望まれている気がしたのだ。
まあ、こいしに気になるところがあるとはいえ、いつまでも深刻な様子でいるというわけにもいかないだろう。ただ、不意に心を見る力が戻ってきたことに戸惑っているだけかもしれない。だとすれば、私はいつも通りになって、こいしが安心できるようにすればいいのだろう。
「とりあえず、私の部屋に戻ろう? せっかく咲夜が紅茶を淹れてくれたのに一口も飲まないのはもったいない」
「いや、今度は私が淹れてあげようかな。そうすれば、あんなひねくれた回答を聞かなくてすむだろうし」
「私は正直な感想を言うってことは念頭に置いといてね」
「だいじょうぶ、愛は絶対に勝つから」
「……何に?」
「私が今まで紅茶を淹れたことのない現実とか、フランの意外に肥えてる舌とか」
「……まあ、がんばって。というか、早く戻ろう?」
「乗ってくれたのはフランだけどね」
「いやまあ、それは気にしないで」
このまま立ち止まっていたら、延々と無駄話を続けてしまいそうな気がするからこいしの手を引く。無駄話自体は別にいいんだけど、わざわざこんなところでしなくてもいいだろう。せっかくなら、紅茶とお菓子を挟んで力の抜けるところでしたい。
気がつけば、私の思考はだいぶ落ち着いている。
こうしていると、なんとかなるのではないだろうかと思えてくる。
傷を抱えた本人ではないから、こうして暢気に考えられるのかもしれない。でも、心を許した相手の傍でなら、こいしも気を抜いていられるようになってほしい。例えば、さとりとか私とか。
こいしのものとは性質が違うけど、同じように傷を抱える者としてそう思うのだった。
◇Koishi's side
フランにエスコートされ、フランの部屋へと戻ってくる。そういうことをしたことがないからだろうけど、上手だったとは言い難い。でも、最大限に私のことを気にかけ、気遣ってくれているというのはしっかりと見て取れたし、目が閉じた状態でも伝わってきていたと思う。
「こいし、離してくれないと席に座れないんだけど」
「せっかくこうしてフランの手を握れたのに離すと思う?」
「紅茶を淹れるとか言ってた気がするんだけど」
「いざフランの手を放す段階になったら惜しくなっちゃった。どうせ、そう簡単には褒めてくれないだろうし」
フランが私を椅子に座らせようとしたところで、私はいつもの調子を振る舞ってそんなことを言う。少しでも嫌がる気持ちを持っていたなら、フランの手を離して逃げていたかもしれない。でも、フランは困ったような表情を浮かべ、心の中では思案をするだけで、私が見たくないような感情は一切感じられない。
フランは少し考え込んだ後、このまま私の手を繋ぐということを決めてくれた。正直な話、今の状態で触れることができるのが心だけというのはあまりにも心細すぎる。何かの拍子に、全く別の誰かの心が割り込んできてしまいそうな気がして。
フランはそこまで考えていたというわけではない。ただ、私の不安がる様子を汲み取って、行動をしたというだけだ。でも、弱い感情を表に曝け出す方法を忘れてしまった私にとっては、それだけでも嬉しいことだった。
フランは私のそんな喜びには気づいた様子もなく、魔法で自らの分身を作り出すと、向かい側に置かれていた椅子を運ばせている。頭に並んでいるのはその魔法を使うのに必要な知識やらなんだろうけど、私にはさっぱり理解ができない。この辺りから、フランが世間知らずなだけのお嬢様ではないということが窺える。
人知れず複雑な処理を経て作り出されていた分身は、フランが私を座らせようとしていた椅子の横に椅子を下ろすと、あっさりと消えてしまう。今までそんなことを思うことはなかったけど、生み出されるまでの過程の一端を垣間見たからか、もったいないと思ってしまう。
「こいし? どうかした?」
「フランって思ってた以上に天才なんだなぁって」
フランは何を褒められているのかわからなくて、不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。生活の中に魔法を自然と溶け込ませているから、全くの意識外にあるようである。
「だって、いつもは平然とやってるから全然わからなかったけど、魔法を使ってる時って一瞬であんな複雑なこと考えてたんだなぁと」
「ある程度の魔法を使うなら普通だと思うけど。それに、私のやってることなんて魔法使いの真似事みたいなものだし」
「ふーん。私からしてみればすごそうだけど、そんなものなんだ?」
まあ、私は魔法に関する知識なんて一切持ち合わせていないから、フランがそう言うのなら納得するしかできない。専門家の知識は、初歩の時点から理解不能なものが多い。
「うん、そんなもの」
フランは私の言葉に頷きながら、分身に運ばせた椅子へと腰を下ろす。私もその隣の椅子に座る。中心ではなく、フランの方へと身体を寄せるように。
私にしては素直すぎる甘え方に、フランは別段何かを言ってくるということはない。私の心情を汲み取って、こうしていることを許してくれる。
「……普段から、これくらい優しくしてくれればいいのに」
「私としても、普段からこれくらい大人しいなら、なんとか応えられるんだけどね。それに、今は普段とは求めてるものが全然違うだろうし」
そう言って、フランが浮かべるのは穏やかな笑み。その裏側に見えるのはフランの過去の記憶。傷混じりの、でも優しい記憶。
そこら中に何かの残骸が転がった部屋の中で、フランの姉であるレミリアがこちら――過去のフランの頭を撫でている。その表情は周囲の惨劇には似つかわしくないほどに優しくて、絶対的な安心感を与えてくれる。
フランは自分自身をそんなレミリアと重ねて、私には過去のフラン自身を重ねている。本人はただ拙い真似事をしているだけだと思っている。でも、その笑みは紛れもなく本物だったし、私も過去のフランと同一の感情が自身の中からわき出てきているのを感じる。
「……こいし?」
「フランの浮かべる微笑みが綺麗だなぁって。別に、頭撫でてくれてもいいよ?」
「いや、それはこいしの願望なんじゃあ……。まあ、いいけど」
私の褒め言葉やら願望がだだ漏れな言葉やらを聞いて、フランは呆れる。でも、私の願望は叶えてくれるようだ。
空いている方の手をこちらに伸ばして帽子を取る。その帽子を私の腿の上に乗せると、頭を撫で始めてくれる。
どこか覚束ない手つきなのは、こうすることが初めてなのと、私との身長差のせいで腕を伸ばす必要があるから。それでも、精一杯の優しさが込められていて、心の奥底から安心が出てくる。
できることなら、このままフランに身を任せてしまいたい。
心が読めることに気づいたそのときこそは、フランが心のどこかで私を拒絶しているんじゃないかと怯えて逃げ出した。でも、実際はどうだろうか。フランに私を忌避する様子はない。それどころか、心の広い領域を私のために取ってくれている。レミリアに対するそれと比べたら極々小さな割合ではあるけど、心が読めていたときには拒絶ばかりされていたから、それでも十二分に広い。だから――
「ねえ、フラン。私をフランのペットにして」
「え……?」
私の言葉を聞いたフランが動きをぴたりと止める。思考も止まってしまっているから、私の言葉をどう受け止めたのかもわからない。驚いているというのは、心が読めなくともわかることだ。
「えっと……、どういう意味?」
フランの思考がゆっくりと動き始める。その大半は疑問で埋まっていて、不理解を示している。
「ペットって呼ぶのに抵抗があるなら従者でもいいし、愛人でも配偶者でもなんだっていい。肩書きには拘らないから、とにかく私をいつでもいつまでもフランの傍にいさせて。私にとって、安全なのはフランの傍だけだから」
私はそうまくし立てる。拠り所がフランの傍以外にないのだから、必死になってしまうのも仕方がない。
これで拒絶されてしまえば、私の場所はこの世界から消えてしまう。
「……さとりじゃだめなの?」
「私はフランがいい」
今の私にお姉ちゃんの心が見えてしまうのかはわからない。でも、もし見えてしまうのなら、向こうからもこちらの心は見えることだろう。それだけなら、私の弱気が客観的に見えてしまうだけだからまだいい。けど、少しでも昔のことを思い出してしまえば、お互いがお互いの記憶を掘り起こし、鮮明に鮮烈な過去が私に襲いかかるだろう。そのときに、私は私を保っていられる自信はない。今度こそ、私の心は過去によって壊されてしまうだろう。
そんな可能性があるのなら、お姉ちゃんのことは切り捨ててしまって、私を受け入れてくれるフランに完全に依存してしまった方がいい。それで、私に平穏は訪れる。
でも、姉という存在を絶対的に信奉しているフランとしては、私にはお姉ちゃんに頼ってほしいようだ。私にとってはフランこそがそうすべき対象であるのに。
「どうしても、ダメ?」
私らしくないことは百も承知で、甘えるような声を出す。私にはあなたが必要なのだと、私にはあなたしかいないのだと、言外に込める。
私の目が最初に見たのがフランの心だというのは、きっとそういうことなんだろう。
フランは私の言葉を聞いて考え込んでいる。でも、そうやって悩んでいるのは、他の要素があるからで、もし私とフランだけの世界であったなら、二つ返事で頷いてくれていたはずだ。
もう少し押せば私の望んだ結果へと傾く。でも、今のように私がしおらしい姿を見せているだけでも、フランには効果的なようだ。だから、フランが答えを出すまで待ってみることにする。
「……みんなが許可してくれたら、いいよ」
みんな、というのには紅魔館の人たちだけでなく、お姉ちゃんも含まれていた。いや、一番気にしているのはお姉ちゃんのことだ。やはりフランとしては、そこが一番引っかかるようだ。
それに、いつかこうした状況が終わるものだと思っている。確かにこの先どうなるかなんてわからないけど、少なくとも私は変えるつもりはない。
お姉ちゃんに会うことに対する恐怖が拭い去れることはないだろう。会いたいという感情がないわけではない。ただ、恐怖がそれを凌駕しているというだけ。
「今までお姉ちゃんと会わないことなんていくらでもあったんだから、伝えなくていいよ」
「……そんなにさとりと会いたくないの?」
寂しそうな顔、寂しそうな声でそう言う。フランは私と一緒にお姉ちゃんに会いに行くつもりみたいだけど、生憎私にそうしようという気持ちはない。お姉ちゃんに顔を合わせること自体が私の破滅へと繋がる可能性もあるのだから。それに、今はだいじょうぶだとしても、もしかしたら移動の途中に赤の他人の心が見えてしまうようなことがあるかもしれない。
そうした可能性たちが、私にお姉ちゃんに会いたくない、外に出たくないと思わせる。
「他の人たちに会うのが怖いから」
嘘は言っていない。すべてを口にしていないというだけで。フランがどんな反応をするのかわからなくて、つい半分伏せてしまった。
更には、言葉足らずのせいでフランは勘違いをしている。訂正する必要は感じないから、こちらは放っておく。
「……」
それでも、私の反応に引っかかりを覚えている。人付き合いはほとんどないはずなのに、他人の反応に敏感な所があるのだ。
フランは私の真意を見抜こうとして、紅い瞳で顔を覗き込んでくる。その無防備な距離に唇を奪ってみようかと考えるけど、もし嫌われたらと思うと何もできなかった。そして、いつものように軽口を口にすることもできない。見えすぎるがゆえに、私は一層臆病になってしまっている。
「……わかった。さとりには私が伝えておくから、いつか絶対会いに行ってあげて」
何かあるというのを感じ取って引き下がってくれる。せめていつかは私の怖がるものを教えてあげないといけない。いや、もしかすると私の怖がるものに気づいたお姉ちゃんが、フランに教えてあげるかもしれない。同じ覚りだからこそ、気づけるものだろうし。
「ん」
適当に返事をすると、フランはすぐにその適当さに気がついた。けど、特に咎めるようなことはなく、同時に浮かんでいるのは心配だった。
自分がすごくダメになっているような気がした。
◇Flandre's side
「こいしのこと、よろしくお願いしますね」
さとりにしばらくこいしを館で預かるということを伝えたら、随分あっさりとした様子でそう返ってきた。お姉様にもこいしを館に置いておくということ伝えたときはあっさりとした反応だったけど、それとこれとは別だ。お姉様にとっては全くの他人かもしれないけど、さとりにとってはそうではないのだから。
それに、少し安心しているような気さえする。そのことも、こいしの様子と合わせて気にかかる。
「……正直に言うと、心を読めるようになったこいしに会うことが怖いんですよ」
「怖い?」
さとりの対面に座っている私は、意外な言葉に首を傾げる。そういえば、こいしの様子も、怖がっているといえばそんな感じだったかもしれない。
こいしに見られたくないことでも考えているということなのだろうか。でも、さとりがそんなことを考えているとは思いたくない。
「フランドールさん、私はこいしが目を閉ざすその直前までのことを知っています。こいしが何を考えていたかも含めて。なので、心を読めるようになったこいしを前にした私は、そのときのことを思い出してしまうかもしれません。その記憶を見たこいしが過去を鮮明に思い浮かべ、私がそれを見て、またこいしの目がそれを映し出し、際限なくその心を抉ってしまうかもしれません。……私が引き金となって、こいしの心に止めを刺してしまうかもしれないということが、怖いんですよ」
「そう、なんだ……」
さとりが口にした起こり得る可能性のある未来は、お互いに心を読むことができるからこそ起こる弊害だった。心を読むことのできない私にはなかなか思い浮かばないことだ。無理やりこいしを連れてこなくて良かったかもしれない。
ああ、もしかするとこいしも同じことを懸念していたから、さとりに会いたがっていなかったのかもしれない。本当はさとりに会いたいと思っているのかもしれない。
「……本来は、喜ばしいことなんでしょうけどね。私が純粋なら、過去に囚われることなく元に戻ったことを祝ってあげられたのでしょうけど」
でも、純粋なままで他人の心を読み続けるということに耐えられるんだろうか。目を閉ざしたこいしと、他人に避けられ他人を避けているようなさとりの姿を見ているとそう思う。
「耐えられないでしょうね。なので、嘆きはしませんよ。私はこいしの姿を見ることのできる時をここで静かに待つばかりです」
静かな笑みが強がりであるというのはすぐにわかった。でも、だからといって私が言えることもできることもない。ただこうして色々と考えて、余計にさとりの心を傷つけてしまうばかりだ。
「その程度で傷つきはしませんよ。むしろ、そこまで気遣っていただけると嬉しいばかりです。こいしも、その心遣いに救われているはずです」
今度は本物の笑みを浮かべる。けど、すぐに真面目な顔つきとなる。私も姿勢を正す。
「フランドールさん。無理にこいしを私の所に連れてこなくても構いません。私はこいしが幸せであれば十分ですから」
「……前にも同じようなこと言われた」
それを言われたのは、こいしがさとりのことを今とはまた別の理由で避けていたときだ。
以前のは、気づきにくかったというだけで気づいてしまえばそう難しくない問題だった。けど、今回のに関しては、そういうわけにもいかない。なぜ、という問いに対しての答えはさとりの口から出てきている。けど、きつい条件に縛られて、どうすべきかという答えは出てこない。
どうしてこの二人の間にあるものは、その距離を遠くするようなものばかりなのだろうか。やるせない気持ちが沸き上がってくる。
「フランドールさんは私のことを忘れてこいしに接してあげてください。その方が、こいしも私のことを気に揉まずにすむでしょうから」
「……今度は無責任なこと言ってる」
出てきた声は思っていたよりも低いものだった。
前とは違って、私にこいしを見捨てるという選択肢は存在しない。今のところ、こいしが頼ることができるのは私だけのようだし、それ以前に友達として助けてあげたい。
だからといって、さとりを責めるつもりはなかった。何も思い浮かばない私と二人の間にある不条理への苛立ちが、私を少々攻撃的にしている。
「……いえ、フランドールさんの言い分ももっともですよ。すみません」
「……ううん」
さとりにかける言葉は何も見つからない。代わりに私の思考がさとりを苛み続けているのを感じ取る。
「……ごめんなさい。私、そろそろ帰る」
椅子から立ち上がりながらそう言う。これ以上、ここにいることに耐えられなかった。
「はい。……気をつけて、帰ってください」
申し訳なさそうな声を聞くなり、私は逃げるようにさとりに背を向けた。
◇Koishi's side
フランのベッドに横たわり、布団に顔を埋める。決して邪な思いからだけではない。こうして、フランの残滓でもいいから感じていなければ自分自身を保てなくなってしまいそうなのだ。
フランの傍では安心できると確信した私は、同時に完全にフランに依存するようになっていた。気がついたのは、フランが部屋から出て行って少ししてからだ。
フランがいなくなったことによってできた間隙を、心の奥底から滲み出てきている過去の記憶がじわりじわりと埋めていっている。それは、同時に色んな負の感情を撒き散らし、私の心を浸食していく。
布団のシーツをぎゅっと握りしめる。それだけで負の方向に大きく振れる感情が収まることはない。今度はそのまま布団を抱きしめてみる。それでも、私の不安や恐怖は消え去らない。それどころか、フランが傍にいないということを今以上に理解してしまい、かえって辛くなる。
早く帰ってきて欲しい。
私を受け入れてくれる暖かな心に、私を支えてくれる小さな身体に寄り添わなければ、寒さに凍えて死んでしまう。
私は弱い。目を閉ざしたことが間違いだとは思っていないけど、その選択をしたのは私の弱い心だ。そのときは、正しさなんて求めずただただ逃げたがっていた。
だから、誰の心も見えないという状況を失い、今の状況下で唯一の支えであるフランが離れた今、私は過去に、不安に、恐怖に苛まれていることしかできない。
こんこん。
不意に、扉を叩く音が響いた。私はその音ではなく、それが意味することに恐れて震える。
フランが自分の部屋に入るのにノックをするはずがない。だから、扉の向こう側にいるのが、フラン以外の誰かであるというのは明白だ。
弱い弱い私は怯えて震えていることしかできない。今はフラン以外の心をはっきりと見ることができないとはいえ、よく知らない誰かと相対するのは怖い。
「こんにちは。……っと、ちゃんと話ができる状態ではないみたいね」
扉の開く音の後に聞こえてきたのは、フランの姉であるレミリアの声だった。顔を見ていたら、心の中がはっきりと見えてしまいそうな気がして顔を上げることはできない。だから、姿は見えない。
「まあ、別にいいか」
レミリアの声は、こんな私の姿を見てもマイペースに響く。感情の大半は興味や関心といった具合の物だ。けど、微かに敵意を浮かばせていることに気がついて、身体が竦む。
「もてなすつもりはないけど、好きなだけくつろいでちょうだい。もし、何か不満があればフランに伝えておいて。手間がかかりすぎなければ、応えるようにするから」
何を言われるんだろうかと身構えていたけど、レミリアの口から出てきたのは、私に積極的に関わるつもりがないという通知だった。
でも、穏やかではない感情を抱えていてそれだけで終わるはずがなかった。
「それと、もう一つ。貴女がフランに不利益しかもたらさない存在だと判断したら、フランに貴女のことを諦めさせてここから追い出すから、覚えておきなさい」
敵意が明確に顔を覗かせる。私はそれが怖くて、身体を強張らせていることしかできない。今は脅しのためのナイフでさえも、凶刃となり私の心を切りつける。
ただ、幸いだったのはその敵意がフランを想っての物であったということ。私そのものを否定するための物でなければ、心が壊れない程度には耐えることはできる。
今まで私はフランに対して好き勝手やってきた。だから、そうした感情を向けられるのも仕方がないと思っている部分もある。問答無用で追い出されなかっただけましだとも言える。ただ、それでも受け止めきる余裕が全くないというだけで。
「そんなに怯えられると調子が狂うわねぇ。別に怖い事を考えているつもりはないんだけれど」
少し困ったような、けどやっぱり暢気な様子の声。敵意は鳴りを潜めている。私に敵意を向けることに執着はしていないようだ。
そのまま、沈黙が場を支配する。時計が時を刻む音だけが響きわたる。レミリアの気配と私の恐れとが混じり合って居心地の悪い空間となる。
……いつになったら、出て行ってくれるんだろうか。
レミリアが私に対して言うことがこれ以上あるとは思えない。敵意を隠しもせずに見せてきたのだから、今更言葉に躊躇することもないだろう。そもそもそうした感情なら、見ることができるはずだ。
けど、今のレミリアが浮かべているのは、困惑と興味と関心とそれから――
「ねえ、本当に心の中が見えているのかしら?」
疑念だった。
別にやましいことを指摘されたわけでもないのに、身体が反応を示す。そしてそれが、質問への回答となってしまう。
「見えていないみたいね。でも、その様子だとフランに嘘をついたというわけでもなさそうだけど……」
レミリアが好奇心に火を灯らせる。まだしばらくは出て行ってくれそうにない。どうしてこんなに私に関わってくるのだろうか。早く一人にして欲しい。そうして、フランが帰ってくるのを待ち焦がれている方がましだ。
「……出てって」
私は布団に顔を押しつけたままそう言う。柔らかな布に音の大半が吸い込まれて、自分の耳にも聞き取りづらくなる。
それでも、時計の音くらいしかないこの部屋では、しっかりとレミリアの耳にも届いていた。
「私はここの主で、貴女は客人。礼を尽くすつもりがあるならともかく、そんな気はさらさらないから聞き入れるつもりはないわ」
「……ここ、フランの部屋」
「ええ、そうね。だから、フランに出て行けと言われたら素直に出て行くわよ」
「……いつまでいるつもり」
「フランが帰ってくるまで」
私の突き放すような態度を前にしても、レミリアは態度を変えず居座り続ける。その胸に浮かんでいるのは、……親近感?
思いも寄らない感情を見つけて、私はしばし他人が近くにいるという恐怖を忘れてしまう。どうしてそんな感情を向けられているんだろうか。
「どうせ暇なんでしょう?」
その問いを聞いて、私はふと我に返る。そして、首を左右に振ってその言葉を否定する。レミリアにすぐ出て行ってほしいからというのもあるけど、フランがいない時点で暇を感じているような余裕はない。
「じゃあ、私の暇つぶしに付き合ってちょうだい。私は暇で暇でしょうがないのよ」
私は首を先ほどと同じ方向に振る。けど、それに対してはなんの反応もなかった。諦念といった類の感情は見えないから、勝手にここに居座ることを決めたのだろう。
出会った頃のフランを思い出す。違うのは、そうして勝手な行動をするのがとても自然だということ。そしてだからこそ、質が悪い。
「ああ、そうそう。貴女の今の状態がどんな感じかなんとなく察しはついたわ。フランの心だけが見える。そういう感じでしょう?」
レミリアはどこか弾んだ様子の声でそう言った。心の方も声と違わず喜色に染まっている。答えにたどり着けたことがそんなに嬉しいんだろうか。
私はレミリアの子供っぽい感情の動きに意表を突かれて、つい素直に頷いてしまう。
「一応、それだけフランのことを信頼してくれているということかしら」
違った。レミリアの喜びは、フランへと向けられたものだった。
「ま、だからといって、温情をかけるつもりはないけど。さっき言ったとおり、フランに対して害しかないと思えば追い出すわ」
攻撃的な言葉の割に声は柔らかい。感情も特に変わりはなく、喜色に染まっている。
ちゃんと話をしたことはないけど、面倒くさい性格なんだろうというのがよくわかる。どうしてフランはこんなのが好きなんだろうかと思ったけど、よくよく考えてみれば私も似たようなものだった。
フランは面倒くさい性格が好きなんだろうか。
ふと思い浮かんだその疑問について真剣に考えてみようと思ったけど、レミリアの気配に邪魔をされてうまく考えることはできなかった。
◇Flandre's side
「おかえりなさい、フラン」
部屋に戻ってみると、ベッドの傍に置いた椅子に座るお姉様と、私の布団を抱きしめてそこに顔を埋めているこいしとがいた。一体どういう状況なのだろうか。
いや、それ以前にこいしは私以外の誰かといてだいじょうぶなのだろうか。それに、お姉様はこいしに対してあまり良い感情を抱いていなかったような気もする。
「フランっ!」
妙な状況を整理することに意識を向けていたせいで、突然起き上がったこいしへの対応が遅れた。勢いよく抱きつかれて転びかけたけど、なんとかその場に踏ん張った。私が人間だったら、体格差のせいでそのまま倒されていたと思う。
視界はこいしの身体に遮られて何も見えなくなる。ついでに、身動きもとれない。でも、私に縋りつくこいしの弱々しさを感じて、大人しく抱きつかれるままとなる。
「……こいし、お姉様に何かされた?」
代わりにそう聞いてみる。お姉様がこいしに対して嫌がらせのようなことをしたとは思いたくないけど、今の状況からは、そう思ってしまっても仕方ないと思う。
けど、こいしは特に反応をしてくれない。代わりにお姉様が答えを返してくれる。
「気に食わない部分があるのは確かだけど、こそこそと嫌がらせするくらいなら、最初からここにいる事を許さなかったわよ。フランには私がそういう事をするようなのだと映ってるのかしら?」
「え、えっと……」
確かに言われてみればそうだ。本当に気に入らないなら、最初からきっぱりと切り捨ててしまっていると思う。お姉様は大切にするべきものとそうでないものを明確に線引きしているから。
でも、
「……確かにそういうのはお姉様らしくないと思う。でも、それならなんで私の部屋にいたの?」
そういった疑いを持っても仕方のない状況が私の前にはある。
「私はここの主として挨拶をしに来たついでに、ここで時間を潰してたのよ」
「……私の話聞いてた?」
こいしに抱きつかれていなかったら、視線に抗議を込めていただろう。それくらい、お姉様の行動に対して不満が募っている。
こいしは他人の心を見ることを怖がっている。だから、あまり近づかないようにしてあげて欲しいと伝えたはずだ。
「聞いてたわよ? でも、顔見せくらいはしておくべきだとは思うわ。それに、私は何度か貴女が追いつめられてるのを見てるから、見て見ぬ振りって言うのも難しいし」
それは、お姉様が私を大切に思ってくれているということだ。けど、だからといって喜んでいられるほど、私は単純ではない。
「だからって、こいしに対して嫌がらせみたいなのをするのは許せない」
「許せない、ね。まあ、貴女の気持ちも理解できなくはないけど」
お姉様は飄々とした態度のままだ。自分のしたことを省みるつもりはないようだ。じわじわと怒りが沸いてくる。
「ああ、そういえば、こいしと話していて気付いた事があるんだけど、こいしは貴女の心だけが覗けるらしいわよ」
けど、不意に突きつけられる事実に、不満も怒りもどこかへ行ってしまう。代わりに出てくるのは驚きと疑問だ。
「そうなの?」
こいしを見上げるようにしながらそう聞いてみると、頷いた。
それなら、さとりに会いに行けるのではないだろうかと思う。けど、私の考えには同意できないようで、腕に力が込められる。
まあ、今はまだ私の心しか見えないということかもしれないし、さとりもこいしに近いから、そちらの心も見えてしまう可能性は十分に有り得る。
なんにせよ、こいしがさとりに会えるようにしなければいけないことに変わりはないようだ。
「さてと、私はそろそろ退散するわ。フラン、一緒に沈まないよう気をつけなさい」
「え?」
私はお姉様の言葉の意味がわからず、疑問の声を上げる。けど、お姉様は立ち止まらなかったようで、背後から階段を上がっていく音が聞こえてくるだけだ。無視されてしまった。
なんだか、お姉様なりに気がついていることがあって行動しているような気がする。私が考えている以上に深い部分で。
ただわかるのは、私のために動いてくれているということ。あと、案外こいしのことを見ているということ。
少し短気になりすぎていたかもしれない。いやでも、近づかないでと言っておいたはずなのに、それを無視するのはどうなのだろうか。
「こいし、ちょっと苦しい」
徐々にこいしの腕に力が込められてきている。それによって、考え事をしている余裕がなくなる程度には息苦しさを感じてくる。
今のところこいしが頼れるのは私くらいしかいないみたいだから、多少依存されるということは予想していた。だから、抱きつかれ続けられるということ自体に文句はない。
ただ、体格差を少しは考慮して欲しい。快適な呼吸のために押しやるというのも気が引けるし。
「……じゃあ、後ろから抱きしめて良い?」
「羽が邪魔になりそうだけど、だいじょうぶ?」
「ん、気にしない」
そう言って、こいしはいったん私を放す。そして、すぐさま背後へと回と、覆い被さるような形で抱きついてくる。胸の辺りに回された腕は絶対に私を放したくないと訴えるように力が込められている。
もしかすると、私がいない間に不安に押し潰されそうになっていたのかもしれない。頼れるのが一人きりだと、その人が離れていくときに強烈な不安に襲われるものだから。
私の場合は、自分自身が消えてしまうことも同時に願っていたから、ここまでお姉様に縋るようなことはなかった。だから、そういう部分では安心してもいいのかもしれない。もし、私と同じようなことを考えることがあれば、本当にどこかに消えてしまいそうだ。
こいしが消えてしまうことに引き替えれば、私が身動きを取れないのはどうということもなかった。
◇Koishi's side
私の目が微かに開き、フランの傍で過ごせることが決まってからの毎日は、思っていたよりも穏やかなものだった。
私は煙たがられても仕方がないくらいにフランに付き纏っていたけど、鬱陶しいといった感情を抱かれるようなことはなかった。
ただ、入浴時とか就寝時とか、無防備な姿を曝さざるを得ないようなときまでも私が傍にいることには抵抗があるようだった。でも、それも私が大人しくしていれば、ある程度慣れてくれた。私だって、自ら安全地帯を壊してしまうほど愚かではない。目がしっかりと閉じていた頃なら、好機とばかりに何かしでかしていたかもしれないけど。
ここ数日の間に、フランの隣は完全に私の居場所となっていた。しかも、私以外に納まるのは誰もいない私専用の場所だ。フランにとって、レミリアは向かい合っている存在だというのが、良かったのかもしれない。
四六時中、私はフランの横に並んで、その手を握って、寄りかかる。そうでもしていないと、自分の力では歩けないと錯覚するくらいに、フランに依存している。
私はそれをどうにかしようとは思わない。そもそもどうにかすべき事案であるとも思っていない。
でも、フランにとっては違う。いつも思考のどこかではお姉ちゃんのことを思い描いていて、なんとか私をお姉ちゃんに会わせようと考えている。フランの方から何か具体的なことを言ってくることもしてくることもない。私も見て見ぬ振りをして、自分から触れようとはしない。
……お姉ちゃんのことが気にならないわけではない。心が読めないのだと確信すれば、会いに行っていると思う。でも、懸念を払拭することはできず、恐怖の方が勝っている。だから、私はお姉ちゃんのことから目をそらしてフランの隣にいる。
逃げていると言うのなら、まさにそうだと頷く。自分自身を守ることの何が悪いというのだろうか。自ら破滅に向かっていく方が、よっぽど愚かだと思う。
お姉ちゃんは言っている。私が幸せならそれで十分だと。そのためなら、フランに忘れられてもいいのだと。
私が言うのはどうかとも思うけど、私もそう思う。フランは、きっぱりお姉ちゃんのことを忘れてしまえばいいと思う。
私がお姉ちゃんに会いに行ったところで、用意されているのはバッドエンドだ。私の心は壊れて、私の物語は終わる。後は、フランとお姉ちゃんが後悔を抱えて紡いでいくことだろう。
それくらいなら、このままを維持する方がずっとまし。お姉ちゃんだってそれで納得するはずだ。
フランのいない頃の私なら、この心が壊れてしまおうとも、どうでもいいと思っていた。でも、今の私はそんなふうになるのは絶対にいやだと思う。
だって、フランを認識できなくなってしまうのがいやだから。
覚りではなく、聖人君子でもなく、かといって心が壊れているわけでもない。ただ、ちょっと不具合を抱えただけの普通の精神にも関わらず、私を受け入れてくれている。ただ、姉妹で同種族だからというだけで理解していたお姉ちゃんとは、全く違った居心地の良さを与えてくれる。
だから、私はフランとお姉ちゃんとで迷わずフランを選んだ。そもそも、フランに出会うことがなければ私の目は開いていなかったはずだ。
私のそんな選択のために努力をする。
フランは、なんとか打開策がないかと頭を悩ませる。けど、私はフランへと甘えてそれを邪魔する。
深い思考を奪われ、更に諦めきったお姉ちゃんの言動を思い返す度にフランの心からお姉ちゃんは薄れていく。少しずつお姉ちゃんのことを考えないようになってくる。
そうしていつしか、フランはお姉ちゃんのことを考えるのをやめた。私がやめさせた。
なぜ私がここにいるのか疑問を浮かべて思い出しそうになるときがあるけど、そのときは私がその思考を邪魔した。
こうしてフランの傍は私にとって理想の居場所となる。
お姉ちゃんのことが引っかかるけど、私もそのうちこの幸せの中に埋没させていくことだろう。
……けど、そう簡単に思い通りに事が運ぶなんてことはありえないのだ。世界は誰かの都合良く作られてはいないのだから。
◇Flandre's side
「ねえ、フラン。あれからだいぶ経ったけど、こいしを帰らせる目処は立ったのかしら?」
食堂で昼食を摂っていると、長いテーブルの対面の席に座っているお姉様がそう聞いてきた。ミートソーススパゲティを巻き付けようとフォークを回していた手が、ぴたりと止まる。
「え、っと……、考えた方がいい、よね?」
正直に言うと、すっかり忘れてしまっていた。正確にはこいしを帰らせるというよりも、さとりに会える状態にするといった感じだけど、やるべきことはそう変わらないだろう。
最初は頻繁にさとりのことを考えていたと思う。けど、こいしがいやがる様子を見せるから、次第に考えるのを控えるようにしていた。それに、さとりの否定的な言葉を繰り返し反復しているうちに、私自身の気分まで落ち込んでしまい、あまり前向きなことを考えられなくなっていた。そして気がつけば、こうしてお姉様に指摘されるまで忘れてしまっていた。
「別に貴女が一緒に住みたいと言うなら、それでもいいけどね。私も、パチェを住まわせてることだし」
状況が違えばそれもいいのかもしれないけど、今のこいしを素直にそのまま私の傍に住ませることはできない。こいしには帰るべき場所がある。そこには、帰りを待っている人もいるのだ。いつまでも私の傍で震わせている、というわけにもいかない。完全に受け入れるのは、せめてその震えを止めてからだ。
そんなことを考えていると、こいしが縋るように私の腕を握ってきた。それが、私の思考からさとりを追い出そうとする。今までこいしを慮って、さとりのことを考えないようにするのが癖になってしまっているようだ。
なんにせよ、私がどうしたいのかは決まっている。
「私はこいしがさとりのところに帰れるようにしてあげたい」
言葉にしてそれを再確認。
今度はしっかりと忘れないようにしよう。こいしは過去を鮮明に思い出すきっかけとなってしまうのを恐れているのかもしれない。でも、だからといって、忘れてしまってはなんの意味もない。
だから、こいしには辛いかもしれないけど、今後はできるだけ考えるようにしておこう。そうじゃないと、解決策も浮かんでこないだろうし。
「……こいし、痛いんだけど」
そんなふうにしてつらつらと考えていると、こいしが両手を使って私の腕を絞るように捻り始めていた。耐えられないというほどではないけど、地味に痛い。
「知ってる」
平坦な口調が返ってきた。手の力は弱められていない。
なんだか思っている以上に拒絶が強い気がする。そして、そのことに何か違和感を抱く。単純に自分の過去を直視することだけをいやがっているわけではないような気がする。
こいしの感情を読み取ってみようと、翡翠色の瞳をじっと見つめてみようとする。けど、ふいと視線を逸らされてしまう。それと同時に、手の力は弱まる。
「何か都合の悪いこと考えてる?」
「そんなことない」
「なら、ちゃんとこっち見て」
「フランが私に惚れてくれるならいいよ」
そんな無茶な要求をしてくる。何かを隠しているのはほぼ確定だ。でも、それはなんだろうか。
つんと澄ました横顔を見つめてみる。特にこれといって、不審な感情は見当たらない。正面から見ても、その結果に変わりはないだろう。
「フラン? 話題を振った私が言うのもなんだけど、あまり食事の邪魔はしない方がいいんじゃないかしら? 追求する時間はいくらでもあるんだし」
「あ、それもそうか。ごめんなさい、こいし」
食事中だということをすっかり忘れていた。こいしが隠していることが、現状の解決に役立つかどうかわからない以上、追求を焦っても仕方ない。
お姉様の言うとおり、後からゆっくりとやっていけばいいだろう。あまりいやがるようなら、気にしないようにすればいいし。
「食べさせてくれたら許す」
「えー……」
口では不満の声を上げながらも、こいしの前に置かれた皿からフォークを手に取る。
ここ最近はこうして流されていることが多い。甘やかしすぎだろうかと思ったりするけど、まあいいかと思い、結局こいしの望んだ通りに動いている。
くるくるとフォークを回して、赤いソースの絡んだスパゲティを巻き付ける。自分で食べるときよりは気持ち少な目になるような感じで。一度同じようなことをしたときに、少し食べづらそうにしていたのだ。
落ちてもだいじょうぶなように手を添えながら、こいしの口元へとフォークを持って行く。こいしは素直に口を開く。フォークの先端を刺してしまわないように気をつけ、そっと口の中へと入れる。
そうすると、こいしが口を閉じてフォークをくわえる。そっとフォークを引き抜くと、そこには何も残っていない。
こいしはどことなく幸せそうな様子で咀嚼を始める。
「私はフランが傍にいてくれるから幸せだよ」
「食べながら喋るのは行儀が悪いと思う」
「……、相変わらずつれないねぇ、フランは」
一応私の言葉を聞いてくれたようで、冗談めかした言い方をしながらも、口の中の物をしっかりと飲み込んでからそう言う。こういった部分は、以前に比べるとだいぶ素直になっているのではないだろうかと思う。
そんなことを考えながら、再びフォークにくるくるとスパゲティを巻き付ける。
「余計な期待を抱かせたくないってだけ。今のこいしなら、そういう心配はしなくてもいいだろうけど。はい」
「ケチ。振りでもいいから、そういう姿を見せてくれてもいいのに」
文句と願望の混じった言葉をこちらに返してきた後、口を開ける。さっきと同じように口の中へと入れてあげると、今度は静かに咀嚼を始める。
しばらく手持ちぶさたな私は、こいしの顔を見つめてみる。何か見えてこないかなぁと。そう都合良くはいかないだろうけど。
それに、こうしてこいしの姿を眺めていると、不思議な感慨が浮かんでくるのだ。今まで抱くことのなかった種類の感情だから、それが正しいのかはわからないけど、保護欲に属するものだと思う。
こいしはこういう感情を抱かれることを嫌がるような印象があるけど、今のこいしはやはりどことなく嬉しそうに幸せそうな表情を浮かべているだけだ。文句を言ってくるような様子は微塵も感じられない。
それはたぶん、こいしが私以外に頼れる存在がいないという何よりもの証左なのだと思う。
「だから、私はいつまでもフランの傍にいたいって願った。フランがこのままお姉ちゃんのことを忘れてたら、その願いも叶ってたのに」
こいしは横目でお姉様の方を見る。お姉様の言葉によって私がさとりのことを思い出したことを非難しているのだろう。
見たくもない心が見えてしまうかもしれないから、私以外の顔を見据えるのは怖いらしい。でも、最初はお姉様が傍にいることさえいやがっていたのだ。それを考えると、お姉様が傍にいることをいやがらなくなったのはいくらかの進歩だと思う。
「何? 私を恨んでるのかしら? まあ、放っておいても良かったけど、どうせどこかで思い出してたんじゃないかしら?」
お姉様はこいしの遠回しな文句を対して気にした様子も見せずに、平然とした態度でそう言う。
こいしはお姉様への反論が思い浮かばないのか、視線を逸らして考え込む。大して時間のかからないうちに、今度は私を睨んでくる。
私が今考えていることに対するものなのか、それともさとりの所に連れて行こうとしていることに対するものなのか。
「両方。でも、後者に対しての文句の方が大きい」
「……どうしても、さとりに会いたくないの?」
こいしの状況を考えると会えない、だと思う。でも、言動の節々から、そうしたものを感じられるのだ。
「会いたくない」
感情のこもらない口調できっぱりと言う。そういう言い方をされると、さとり本人でもないのに寂しさが去来する。
強がりなのだろうと思いたい。だけど、こいしの翠の瞳にはそうでなはないだろうと思わせる、後ろ向きな強さが宿っている。
……もしかして、本当にさとりと会いたくないなんて考えているんだろうか。
「私にはフランだけがいればいい。それ以外は誰もいらない」
「……それは、私が許さない」
迷いの一切感じられない言葉に多少たじろぐ。けど、こいしがさとりに会いたくない理由が、お互い嫌い合っているというわけではなく、こいしの臆病さから来るものだというなら譲ることはできない。
「へぇ、それなら今すぐお姉ちゃんを徹底的に拒絶してこようか? それで文句ない? それとも、私が傷を乗り越えてお姉ちゃんと向き合えるようになるなんて理想を押しつけるつもり? そもそも、お姉ちゃんも私に会うことを諦めてるのに」
「それは……」
嘲りを含んだ理想という言葉に、私は何も言い返せなくなる。感情はこいしの言うことは間違いだと訴えかけてきているけど、理性がそれを支えるだけの理屈を組み立てられない。だって、こいしがさとりと向き合って、無事でいられるようにする方法は何も思い浮かんでいないのだから。
「そこで詰まるってことは、フラン自身無理だって思ってるんだよ。だからほら、さっさと諦めて私を受け入れちゃった方が楽だよ?」
甘い言葉を使って、私にこれ以上さとりのことを考えさせないようにしてくる。けど、これくらいで諦めるなら、そもそもここまでこいしと関わることはなかったと思う。あまり関わることはないとはいえ、さとりがいなければ私があそこまでがんばるようなことはなかっただろうから。
それに、私はこいしのことを受け入れているつもりだ。こいしがさとりを避けているという問題がなければ、このままでもいいと思っている。ただ、さとりを避けているということが気にかかっているというだけだ。
「でも、フランはそれを忘れてた」
その通り。それは否定できない。
「だから、本当はどうでもいいと思ってるんだよ」
そう、なんだろうか。ただ、こいしに配慮をしていたというだけで、さとりのことを疎かにしていたつもりはない。けど、それなら、そもそも忘れることはなかったのではないだろうか。
段々と、自分の考えに自信が持てなくなってくる。
「自信がないなら、そんな信念を貫いたって仕方ないよ。お姉ちゃんは他に頼れる人がいないから、フランに頼んだけど、フランだって自分のせいで私たちの関係が粉々に砕けちゃうのはイヤでしょ?」
私はほとんど反射的に頷く。
「だから、私はお姉ちゃんと距離を取ってるのが正しい。もう、フランはお姉ちゃんのことを気にかけないで、私のことだけを気にしてくれてればいい。それで、私はだいじょうぶだから。お姉ちゃんもそれでいいって言ってたでしょ?」
少しの曇りもない笑顔を見て、こいしの言うとおりにすればいいのだと納得する。何か引っかかりはあるけど、今まで色々と考えてきたことの残滓なんだろうと気にかけないようにする。
「フラン」
不意にお姉様の声が割り込んでくる。顔を向けてみると、鋭さをはらんだ紅い瞳と視線が合った。
「それで貴女は後悔しない?」
その言葉は私の思考を凍らせた。
「今、私が――」
「黙ってなさい」
こいしが不満そうな様子で何かを言おうとしていたけど、お姉様の声に身体を震わせて黙ってしまう。静かだけど、どこか威圧的な声だった。それを向けられたわけではない私も、少し身を竦ませてしまうほどに。
お姉様は答えを待つように、じっとこちらを見据えている。思考も一瞬で溶解する。
私はこのままさとりを放っておくという選択をすることに後悔するのは確かだろう。でも、こいしをさとりに会わせた結果、最悪の事態が巻き起こってしまえばやっぱり後悔する。
こいしが幸せだというならそれでいいのかもしれない。さとりはそれでいいと言っていた。けど、そんな未来を考えると、寂しさが共に去来してくる。素直に受け入れられない。
「……わかんない」
さとりと話をした後から何も進んでいない。現実と理想の狭間に最善の解が潜んでいるか否かさえ考えられていない。
「どうすればいいかな……?」
「このままこいしごと見捨ててしまえばいいんじゃないかしら? それが嫌なら、自分で考えなさい」
縋ってみたら、なんの躊躇もなく突き放されてしまった。
「とりあえず、こいしから離れて散歩でもしながらゆっくり考えてみればいいんじゃないかしら? 横槍を入れて邪魔するこいしの面倒は私が見といてあげるから」
お姉様の言葉には、こいしに対する棘が込められている。
「でも……」
こいしは私から離れることをいやがっている。だから、見捨てるわけにはいかない。
「でもも何も、こいしのことを考えられるのは貴女だけよ? 私はどうなろうと知っちゃこっちゃないし、他の皆も同じだと思うわ。まあ、美鈴は真面目に考えてくれそうではあるけど……」
そこでお姉様が面倒くさそうな表情を浮かべる。私しかこいしのことを考えるのはいないということを言いたかったんだろうけど、例外に気づいてしまったようだ。
「何にせよ、こいしを連れてきたのは貴女なんだから、責任は負うべきよ。だから咲夜、フランを外に放り出してあげてちょうだい」
「え、ちょっと……っ!」
「畏まりました」
私が何かを言うよりも早く、咲夜の声が聞こえる。そして、日に照らされる庭が視界に入ってきていた。直接陽の当たる場所にいるわけではないけど、それでも不意の眩しさに目が眩む。
そうして、反射的に手で庇を作り、気が付く。フォークを握ったままだったはずなのに、手の中からは消えていた。代わりにハンカチを握らされている。
私はすぐに館の方へと身体を向ける。けど、咲夜が立ち塞がっていて、簡単に中に入ることはできそうにない
「フランドールお嬢様、気をつけてくださいね」
「……咲夜、中に入らせて」
こちらの話を聞かずに勝手に決定したお姉様と、お姉様の命令に従った咲夜とに対する抗議のこもった声は、思いの外低いものとなっていた。
「駄目ですよ、レミリアお嬢様の折角のご助言を無碍にするだなんて」
何を言ってもむだになりそうだから、咲夜の存在を無視してその横を通り過ぎようとする。早くこいしの所に戻らないと。
けど、当然のように道を塞がれる。反対側を通ろうとするけど、やはり邪魔をされてしまう。
睨み上げてみるけど、平然とした表情を返されるだけで効果はない。
「私もお嬢様のご判断は正しいと思っています。こうして邪魔をしているのは、お嬢様のご意志を尊重してですけどね。私個人としては、フランドールお嬢様とこいしの行く末にさほど興味はないですから」
「……なんで正しいと思うの?」
「危なっかしいからですよ。そのくせ、本人たちに自覚はない。いえ、こいしはわかってやっているのかもしれません。どちらにせよ、フランドールお嬢様は気づいていない」
青色の瞳がこちらを真っ直ぐに見据えてくる。
私の自覚にないこととは何だろうか。よほど重大なことを言われるのではないだろうかと身構えてしまう。
「さて、どこに出かけましょうか。今日は私がお供しますよ。監視のついでに」
「……私の自覚にないことって?」
私は場違いな笑みを浮かべる咲夜にそう聞いていた。
「私はレミリアお嬢様の味方であって、フランドールお嬢様とは宿敵の関係なのですから、一から十まで教える義理も義務もありません。まあ、気が向けば話してあげないこともないですけど」
咲夜と私との間にはお姉様がいる。私は咲夜のことを同志だと思っているけど、咲夜からは宿敵だと思われている。けど、だからといって特別対応が悪くなったりしているわけではない。むしろ、良い部類の扱いを受けていると思う。なんだかんだと言いながら、ある程度の助言はくれるところとか。
それはいいとして、咲夜もお姉様と同じで一度そうと決めたら滅多にその考えを変えることはない。だから、何度同じ問いを発しても徒労に終わるだろう。だから、別のことを聞く。
「……仕事はいいの?」
「これも仕事の一環ですよ。放り出しても、すぐに戻ってこられては意味がないではないですか」
言われてみればそうだ。真っ向から対立することばかり考えていたから、一度離れてまたすぐに戻ってくるという考えがなかった。
私は諦めて館に背を向ける。そして、魔法で作り出した空間から日傘を取り出して広げた。こいしのことは気にかかるけど、咲夜が邪魔をしてくる限りどうしようもない。
もし仮にどうにかできたとしても、その先にはお姉様がいる。それこそ、私にはどうしようもない。
「……どこに行けばいいの?」
とはいえ、特に目的地も思い浮かばない。
いや、地霊殿がふと思い浮かんできてはいた。ただ、最後の別れが私から逃げるような形となったこと、今まで忘れていたという後ろめたさ。それらの要素が、さとりに会いに行きにくくさせる。
「どこへでもお嬢様の気の向くままに。散歩とはそういうものらしいですわ」
「……そう言われても困るんだけど」
「まあ、私も同じことを言われたら困るでしょうね」
割と似た者同士な私たちだった。
◇Koishi's side
私は独り取り残されていた。半身を失って、どうすればいいのかわからなくなっていた。
「貴女と二人っきりになるのも久しぶりね」
一人ではない。でも、私にとってフラン以外はいないも同然の存在だ。レミリアだけは、敵と言っても過言ではないかもしれないけど。
特に目立った感情を浮かべていないレミリアを睨む。今の私を支えているのは敵意だ。これを失ってしまえば独りで震えていることしかできなくなる。
「一つ聞きたいんだけれど、さっきのは冷静な思考の下、狙ってやったのかしら? それとも、ただ必死になって縋っていたのかしら?」
紅い瞳がこちらを射抜いてくる。その色はフランのものと全く同一で、けど輝き方が違う。フランの瞳は宝石のような輝き方をするけど、レミリアのそれは鋭利なナイフのようだ。身体の小ささには似合わない威圧感がある。私の目が開いたばかりのとき、挨拶に来たときも同じ視線を向けてきていたんだろうか。
「……それを聞いてどうするの?」
真面目に話をするつもりなんてなかった。すぐさま、ここから逃げ出すつもりでいた。
けど、力が上手く働かない。目が開いたことで力が弱まってしまっているのかもしれない。もしくは、使えなくなってしまっているか。フランの傍にいる間は使う必要がなかったから、正確なところはわからない。なんにせよ、今の私はレミリアの前から逃げることができないという事実がある。
「今の所は単純に興味から。フランが答えを持って帰ってきて、その時の貴女の行動の如何によってどうするかは決めるわ」
「あなたは自分の思い通りにいかないことがあったら、それを押し通すんだ? 当事者の心情も考えずに」
「その通りだけど、さすがにこちらの思い通りの意志まで植え付けようとまでは思わないわね」
レミリアの言葉が皮肉に響く。こうして正面切って話していると、余計に面倒くさい性格が浮き彫りになってくる。
「どこの誰だろうね。そんな下劣なことをするのは」
私もまた面倒くさい返しをする。自嘲のように聞こえたのは、きっと気のせい。
「私は心当たりがいるんだけど、まあいいわ。本人は素直に認める気がないみたいだし」
ナイフのような瞳が再び私を射抜く。私は関係ないとばかりに真っ直ぐに見返す。けど、こうして見つめられていると、心の中を見透かされているようで若干たじろぐ。そんなこと、あるはずがないのに。
「それはそうと、最初の質問にそろそろ答えてちょうだい」
「さてさて、どっちだろうね?」
適当な返事で煙に巻こうとする。
「どっちも、でしょう?」
でも、レミリアを振り切ることはできなかった。確信めいたその口調に、私はつい驚きを表に出してしまう。当然のようにレミリアにそれを拾われる。
「フランから聞いた印象だと、こういう時の貴女は手強そうだったんだけれど、案外素直な反応なのね。今みたいな異常事態だからなのかもしれないけれど」
少し上から目線な言い方が癪に障って、レミリアを睨む。でも、何の実害も伴わない私の視線に、動じた様子はない。
「フランに縋るなとは言わない。だけど、貴女の都合のいいように選択させることだけは許さないわ」
「……あなたに指図されるいわれなんてない」
会話のペースが完全にレミリアに掴まれている。そのことが気に入らない私の声は、不機嫌に染まっている。
「ええ、確かにそうね。だから、私は場合によっては貴女を問答無用で排除する。こうして話をしてあげてるのは、フランがまだ貴女を見捨てていないから特別にそうしてあげてるだけ」
レミリアは開き直る。私の言葉を真面目に取るつもりはないということだろう。
だから、私もレミリアの言葉を聞き入れない。
「へえ、それはありがとう」
「ええ、どういたしまして」
お互いに嫌みっぽくそう言う。話が前進する気配はない。そもそも、お互いにそうするつもりはないだろう。少なくとも私にはない。
認めたくはないけど、レミリアはフランよりも私に近い喋り方をするようだ。
神経がどこまでも磨り減っていきそうだ。
◇Flandre's side
「なんだか、ここだけ異様な雰囲気を放っていますわね」
そう言って咲夜が見上げるのは西洋建築の建物、地霊殿だ。教会のような真っ白な外装は、ふさわしい場所にあれば人を惹きつけることはあれど、周囲から浮くことはないだろう。けど、地霊殿は洞窟の中に建てられている。そのうえ、少し距離があるとはいえ、他の建物は和風建築のものばかりだ。悪目立ちをしてしまうのも当然だと言える。
私は結局ここに来てしまった。最初は館の敷地の外をぐるぐると回っているだけだった。けど、咲夜につまらないと言われ、こいしとさとりのことを考えながら仕方なく外へと向けて適当に足を進めていたら、ここに向かってしまっていた。
途中で別の方向に向かおうともしたけど、どこに向かうべきなのかがわからず、進んでいるうちにここについてしまっていた。
さとりに会う覚悟なんてできていない。むしろ、あれこれと考えているうちに、余計に会いにくくなってしまった。いつだったかも似たようなことがあった気がする。あのときは、別段後ろめたさがあったというわけではないけれども。
「フランドールお嬢様」
地霊殿へと背を向けた後、立ち去ろうとしたところで、咲夜に呼ばれる。絶妙なタイミングに私は驚いて、身体を震わせる。
「せっかくここまで来たのに逃げ帰るつもりですか? 私を散々連れ回しておいて」
そんな嫌みを言ってくる。遠回しに背中を押してくれているという可能性もないとは言えないけど、私にはそれを見極めることはできない。純粋にこちらを非難してきているようにしか聞こえない。
「……咲夜が勝手についてきたんだよね?」
「私はレミリアお嬢様の命令に従ったまでです」
「……なら、文句を言わずについてくれば?」
逃げ出そうとしていたのは事実だし、そのことに後ろめたさを感じてもいるから、反論の声は弱々しいものとなってしまう。
これ以上の反抗は難しいだろう。
「わかりました。では、そうさせていただきます」
けど、やけに素直にこちらの言い分を聞いてくれた。
「ですが、その前に挨拶くらいはしておいた方がいいのではないでしょうか?」
と思いきやそんなことはなかった。
一瞬、何を言っているのかわからなかった。けど、ここは地霊殿の前で、いつ中の誰かがこちらに気づいてさとりに伝えに行っていてもおかしくはない。
文句を言っていたのも、単純に足止めのためだったのかもしれない。いやでも、咲夜がここに来るのは初めてだろうし、狙ってできることとも思えない。
「駄目で元々、私が来ないなら来ないでいいと考えていましたよ」
背後から聞こえてくる声が、私の疑問に答えてくれる。このまま逃げて聞かなかったことにすることもできたのかもしれない。
けど、行き先を見失った私は逃げることさえできなかった。
「……久しぶり、さとり」
どんな声で話しかけていいのかわからないまま、後ろに振り返りそう言う。
「お久しぶりです、フランドールさん。私は別に、忘れられていたとしても気にしませんよ。私の方から忘れてくださいと言ったのですから」
その優しげな響きの言葉を聞いて、私は泣きそうになる。私と違って、さとりは辛いはずなのに。
「それから、あなたが十六夜咲夜さんですよね。初めまして、古明地さとりです」
「ええ、初めまして。それで、早速で悪いけど、しばらくフランドールお嬢様のことを預かっててくれるかしら」
咲夜は早口でまくし立てるようにそう言う。なんだか、今すぐにでもここを立ち去りたいといった雰囲気を醸し出している。
「はい、いいですよ」
「じゃあ、頼んだわね。では、フランドールお嬢様、私はここで」
「え……、いや、ちょっと待って!」
一瞬、咲夜の珍しい姿に呆然としてしまっていた。例えそうでなくても、咲夜には逃げられてしまっていただろうけど。
さとりとの間に色々とある今、二人きりにされるというのは非常に居心地が悪い。
「フランドールさんが気に病む必要はありません。どうしても、私といるのが辛いというなら、適当な部屋でペットたちと遊んで時間を潰してもらっても構いませんよ」
さとりの言葉が私の胸へと突き刺さってくる。本来、さとりの方が気遣われてしかるべき状況にいるはずなのに……。
「ううん。さとりといさせて」
居心地の悪さを感じているのは確かだけど、だからといって逃げるわけにもいかない。向かうべき場所として真っ先に思い浮かんだのはここなのだ。きっと、何かがあるのだと根拠も何もなく、ただただ直感に従ってそう思う。
「そうですか。……では、中にお入りください」
「うん」
さとりの背中を追いかけて、地霊殿へと入った。
いつものように、食堂へと案内される。そういえば、さとりの部屋に入ったのはこいしをさとりと会わせるときだけで、それ以来は入っていない。そもそもここに来ること自体が少ないのだけど。
「まあ、事務的な話をするのでなければ、この部屋の方が便利ですからね。少し待っていていただけますか?」
さとりは六人掛けのテーブルの席の一つに私を座らせると、キッチンの方へと姿を消してしまう。この時点ですでに、前回のさとりとのやり取りを思い出していて、気分が沈んできている。こんなことをしにきたわけではないのに。
だから、沈みきってしまう前にこれからどうすべきかというのを考えることにする。
ここに来るまでの間も、そのことについては考えていた。こいしがさとりに会えるようにしたいということに変わりはない。けど、こいしにそんなのはただの理想だと言われ、私自身もそう思ってしまっている。だからといって、こいしがさとりから距離を取り続けるというのも間違っていると思う。当然、さとりが現状を受け入れてしまうことも。
そう、結局館を追い出される前から何一つ進んでいない。私が館の周りを意味もなくぐるぐると回っていたのと同じで、思考も堂々巡りだ。
それでも、私は何か答えを出さなくてはいけない。お姉様に命じられるような形でしっかりと考え始めたことだけど、私の意志でもそうしたいと思っていることだ。
そういえば、ここまで熟考するのは久しぶりのような気がする。何かを考えていても、大抵そこにこいしの声が割って入ってきて、その声に流されていた。
咲夜が言っていた危なっかしいというのはこのことなのだろうか。でも、なんとなく違うような気もする。今の今までこいしの言葉に疑問を持つことはなかったから、私の中から意志を引っ張り出してきているだけだと思う。
「ですが、それを繰り返しているうちに、相手の思考を意のままに操ることができるようにもなります。いつしか決定だけでなく、思考でさえも私たち覚り妖怪の方へと依存してしまうはずですから」
さとりが甘い香りを携えてキッチンから戻ってくる。白磁の少し大きなコップが両手に一つずつある。甘い香りはそこに入れられたものから立ち上っているのだろう。久しぶりにかぐ、どこか優しいココアの香りは私の心を落ち着かせる。紅茶の香りをかぐときとは違う落ち着き方のような気がする。
今の状況では落ち着くと言っても誤差の範囲でしかないのだけれど。
「……それって、こいしが私を操ろうとしてるってこと?」
ここ数日の様子を見ている限りでは、依存されているという印象が強くて、操られそうになっているという感じは受けない。むしろ、私が操ろうと思えば操ることができてしまうのではないだろうかとさえ思えてしまう。
「操られていると思われてしまうようなのは不完全ですよ。どちらかというとそういうのは支配ですね。これは、気づいたとしても抜け出すのは困難ですから。はい、どうぞ」
私の前に二つのコップのうち、一つを置く。そして、さとりは私の向かい側の席へと腰掛ける。
私はコップへと手は付けない。今はあまり味を楽しんでいられるような余裕がないから。
「それに、依存するにしてもやはりより理想に近い方がいいと思うことは多々あります。……今現在、こいしが頼れるのがフランドールさんだけなので、特にそう考えている可能性は高いと思います」
依存する相手を全面的に受け入れる私には思いつかない発想だ。でも、一度こいしの執着を見たことがあるから、納得することはできる。
なら、こいしは私を意のままに操るつもりがあるということなのだろうか。けど、それを含めて考えてみても、操られているとは思えない。ここ最近のこいしの言動を振り返ってみると、必死に縋っているような印象しか受けない。
「無自覚にそういうことができる才能があるのかもしれません。あの子の力自体が、無意識を操るというものですし」
そう言われると、反論は浮かんでこなくなる。
というよりも、私はどうしてここまで躍起になってこいしを庇っているのだろうか。操られそうになっているか否かなんて、どちらだろうと私の行動は変わらないはずなのに。
大事なのは真実がどうであるか。間違ったまま進んでも良い方向に進むなんてことは滅多にないのだから。
「いえ、私も否定的なことを言い過ぎですね。なんだか、フランドールさんの真っ直ぐさを見ていると不安になるんですよ。しっかりと考えをまとめようとしているだけに」
「咲夜にも似たようなこと言われたんだけど、……そういうふうに見える?」
もしかすると、お姉様も同じようなことを感じていたのかもしれない。それも、誰よりも早く。何を指していたのかよくわからない抽象的な警告の言葉を思い出してそう思う。知らぬは当人ばかりなり、ということだろうか。
「そうですね。フランドールさんは、自分の世界の中に入ってくることを許した相手を信じやすい傾向があります。嘘や冗談を見抜けるだけの頭の良さがあるせいで、自覚が芽生えにくくなっているようです」
自覚していないことを言葉にされるというのはなんとも不思議な感覚だ。自分のことではなく、他人のことを語られているような気がする。
「普通はこういうことを言われたら、疑うか気味悪がるかのどちらかなんですけどね。それにも関わらず、フランドールさんは私の言葉を信じてくださっている。それは気に入ってもらえている証なので喜べる反面、やはり不安にもなるんですよ」
それは言い換えると、私はある程度認めた相手の前では無防備になるということだろうか。例えば、簡単に私の意識を操ることができてしまうほどに。
……こいしは、私を操ろうとしているのだろうか。
自らの無防備さを自覚した私は、再度その問いかけを自身に向けてみる。
それでも、思い浮かぶのはやはり怯えた様子を見せるこいしだけ。操るという言葉はあまりにも不釣り合いな姿。
けど、代わりに一つ気づいたこともある。それは、私がこいしの言動を受けて、甘やかしすぎているということ。こいしの傍にいた私はそれでもいいと思っていた。
けど、私の傍に止まらせておくならともかく、前に進ませるつもりなら、もっと押していくべきだった。せめて、考えるのをやめるのではなく、だいじょうぶなんだと信じ続けているべきだった。それだというのに、私はこいしに話しかけられ、寄りかかられ、縋られるというだけでそのことを止めていた。
例え、そうなるのが自身の望みだったとしても、私ならそうして忘れていく過程を見ていたら不安になっているだろう。
「……さとり、また時間をもらっていい?」
もしかしたら、またこいしの言葉を無防備に受け取って迷ってしまうかもしれない。それでも今はどうすべきかを見つけた。意識しすぎて、押しつけがましくなってしまわないか。それが心配ではあるけれど。
「構いませんよ。そうして、諦めない心を持っていてくださるだけでありがたいですから。……ですが、前にも言いましたが、こいしの幸せに私が不要だと感じれば、私のことはそのまま忘れてください。迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」
「ねえ、さとり」
悲しいことを言うさとりを見ていて、ふとあることが思い浮かぶ。それのせいなのか、それとも声そのものに驚いたのかさとりが身体を震わせる。
「私がこんなことを言うのもなんだけど、さとりももっと前向きなことを考えてみたらどうかな。そうすれば、もしこいしの目にさとりの心が映ったとしても、その分だけ平気になると思う」
辛いことを思い出すなというのは無理な話だろう。私だって、できれば思い出したくないことをふと思い出すことがある。けど、その中には優しいものも一緒に映り込んでいて、鮮明に思い出したときに精神の受ける損害は案外軽い。
それに、あんな状況でもお姉様は私の幸せを信じてくれていたんだと思う。少なくとも悲嘆に暮れた顔を見たことはない。だから、もし仮に思い出の中に支えになりそうなものがないなら、これからを思い描いていけばいいんだと思う。すぐにでも引きずり込まれていきそうな現実ではなく、手に届きそうにないくらい滑稽でもいいから幸せな理想を。
嘲笑われても、否定されても、それでもそれが幸せへの近道だというのなら。
「私もこいしの臆病さに負けないくらい前向きに考えるから。だから、さとりもこいしとの幸せを信じてて」
さとりも私も、考えすぎて後ろ向きになってしまうタイプなんだと思う。そのことの是非はともかく、心を読むことのできるこいしを相手にするには邪魔になる。
だから、私はさとりが前向きに考えてくれるというなら、これ以上後ろ向きなことは考えない。考える必要もない。
「少し活路が見出せただけで、それを更に広げて希望とできるのはそこまで後ろ向きだとは思いませんよ。私ではその小さな光も闇の中に埋もれさせてしまいますから」
私に向けられる視線は、眩しいものを見つめるようなもの。私に向けるには似つかわしくない気のするそれに、私は先ほどまでとは別の居心地の悪さを感じる。
「よければフランドールさんの光を分けてはいただけないでしょうか。そうすれば、私はもう少し前を向いていられるような気がします」
「うん、いいよ」
折角だから、夢のような幸せを、他人が見れば一笑に付されてしまいそうなほどに理想的な幸せを想い描こう。
甘すぎるだろうと口を付けることのできなかったココアも、今なら落ち着いて味わうことができそうだった。
◇Koishi's side
「なかなか帰ってこないわね、あの子」
時計の音だけが響く静かな部屋にレミリアの言葉が響く。私は返事もせずに布団に顔を埋めたまま動かない。
あの後、私たちは延々と不毛な会話を続けていた。互いに詭弁を弄し、屁理屈で反論し、気まぐれに減らず口を投げかけた。
けど、私はふとした拍子に何をしているんだろうかと疑問を抱き、同時に敵意も失ってしまっていた。そして、気がつけば不安が私の心を覆い始めていた。
私は不安に支配されてしまう前に、急いで椅子から立ち上がってフランの部屋を目指した。レミリアに止められるかと思ったけど、黙ってついてくるだけだった。厄介なことに。
そして私はいつだったかのように、フランの布団へと顔を埋めた。ここ最近は私も一緒になって寝ているけど、それでも気配の残滓くらいは感じられるだろうと思って。
そして、レミリアはなぜだかベッドに腰掛け、そのままこうなったというわけだ。
切羽詰まった私に対して、飄々とした態度を取り続けるレミリアの気配を感じていると、噛みついていきたい衝動が沸々とわき出てくる。でも、身体を起こすのが面倒くさくて、何を言われても無視を続けていた。そして、レミリアもまた私のそんな態度を無視して飄々とした態度のまま話しかけてきた。
「ねえ、そろそろ詰まらなくなってきたんだけど」
けど、レミリアの方はついに我慢ならなくなったようだ。退屈そうな声は、見掛け相応の響きを伴っている。
当然無視をする。私が構う必要性は全くないのだ。
「寝ているのかしら?」
そんなことを言いながら、髪に触れてくる。こんなのがいる横で眠れるわけがない。
私は埋めたままの頭を勢いよく振ってその手を拒否する。レミリアの手は引っ込んで、私に触れるものはなくなる。
レミリアは、私の行動を非難するようなことはなかった。それ以上に面倒くさいことに、悪戯心を浮かべている。
「起きてるんじゃない」
そして、楽しそうに笑う。私に敵意を向けていたはずなのに、それはどこへやってしまったんだろうか。感情が気まぐれに移ろいすぎていて、今の私でも何を考えているのかさっぱりわからない。
などと考えていたら、再び手が触れてきた。私は先ほどと同様に頭を振って、その手の感触を拒否する。でも、今度はしつこく何度も付きまとってくる。
同じことを何度か繰り返しているうちに、レミリアが私の反応を楽しんでいるということに気づく。それが癪で頭の動きを止めるけど、そうすると当然のようにレミリアの手は私の頭に触れて撫で始める。
何をやっても、レミリアにとって都合のいい方に振れてしまう。
「嫌なら嫌だってちゃんと言った方がいいわよ」
口調はからかうようなものだし、前面に出ている感情も愉楽だ。けど、そのくせ手つきは優しげで、手慣れた様子で、そのことがすごく気に入らない。
けど、どんな反応をしようとも楽しまれるのだと思い、私は何もしないことを選ぶ。一番楽だから。
その結果訪れるのは沈黙。規則正しい針の音に、私の髪が揺らされる音が混じる。ものすごく居心地が悪い。
「……いつまで撫でてるつもり」
今度は私が負けた。でも、素直にイヤだと言うのは最悪な負け方のような気がしたから、できうる限り声に嫌気を込めるにとどめる。
「貴女が嫌だと言うか、フランが帰ってくるまで。それか、貴女がちゃんと私と会話してくれるなら止めてあげてもいいわよ。私は暇で暇で仕方がないのよ」
「なら、どっかに行けばいいのに」
「貴女の面倒は私が見ておくとフランに言ったから、それはできないわね」
そう言いながら、手の動きを変える。髪の間へと指を滑り込ませて、何度か絡まった髪を引っかけながら指が抜けていく。手櫛で私の髪を梳いていく。
「あんまり手入れをしてないのね」
マイペースにそんなことを言っている。
「まあ、面倒くさいのはわからないでもないわ。私も咲夜がいなかったら放っておいてるでしょうし」
そんなものぐさな発言の割には手つきは手慣れている。誰かに対して同じことをしていたんだろうか。思い浮かぶのはフランくらいだけど。
またしばらくすると沈黙が場を支配する。居心地は、不思議と悪くない。けど、認めてしまうのは非常に癪だ。
だから、首を振って振り払う。けど、それを止めてしまえば再び指が髪の中へと滑り込んでくる。
「私はあなたに籠絡なんてされない」
「単に暇を潰しているだけ。後、そんな格好でそんな事を言っても、滑稽なだけよ」
笑われてしまう。対抗してやりたいと思うけど、実行するだけの気力がない。相手が飄々としすぎていて敵意が沸かない。敵意がなければ、私は恐怖に追い立てられてしまう。
そして、なけなしの気力も尽きて、なすがままとなるしかできない。レミリアの手に心地よさを感じてしまう。けど、それを受け入れたくないから、小さくうなり声を出す。
「フラン以外が怖いのかもしれないけど、近づいてくるのを全部追い払うのは不健全だと思うわよ」
「……最初は敵意を向けてたくせに」
「そりゃあ、私の身内に何らかの害を与えそうなら警戒するのは当然でしょう? フランがご執心みたいだから、傍にいるのを許してただけ。でも、しばらく見てたら、関わってみるのも面白いかな、とね」
無邪気にそんなことを言う。
「だからと言って、フランを自分の思い通りにしようとしてたってのを許すつもりはないけど」
でも、一瞬で声に鋭さが混じる。私は思わず身体を震わせる。
私はこの変化が特に苦手だ。暢気な様子を見せて敵意の欠片さえも見えなかったのに、不意にそんなものを見せられてしまうと、身体を竦ませることしかできない。
「ま、しっかりと考えた結果フランがそれでもいいって言うなら、止めるつもりはないけどね。不本意だけど」
そしてまた敵意はすぐに引っ込んでしまう。この掴み所のない感情の変化に私はついていけない。正真正銘のマイペースとはこういうのを言うのだろう。
「どうせなら、誰かに引っ張られるでもなく、都合のいいように利用されるでもなく、自らの意志で誰かを導くようになってほしいわよね。たとえば、貴女みたいな暗闇の中で怯えてるのを救い出すとか」
そんな存在いるわけがない。何もかもが思い通りにいくなんてあり得ないのだ。
「貴女はそれを夢物語だ、みたいに思っているみたいだけど、私から見れば悲劇のヒロインを演じているようで気に食わないわ。詳しいことは知らないけど、別に何十、何百という存在に受け入れてもらえと言ってる訳ではないんでしょう? 相手にするのはたった一人、それも本気で貴女の事を心配するようなの。何をそんなに怖がる必要があるのかしら?」
何も知らないからそう言えるのではないだろう。たぶん、私がお姉ちゃんを避ける理由を聞いても、言うことは変わらないだろうと思う。
ひねくれている癖に底抜けに前向き。それが、レミリアの性質。後ろ向きにひねくれている私とは相容れないはずだ。
「……勝手なこと言わないで」
苛立ちに任せた言葉が口から出てくる。
「そりゃあ、思いついたことを大して思慮せず口にしてるんだから勝手よね」
悪びれた様子もなくからからと笑う。からかわれているとしか思えない。もしかすると、直接的な敵意を向ける代わりに、こうしてひねくれた嫌がらせをしてきているのかもしれない。
「でも、一つだけしっかりと考えた上でのことを言ってあげる」
不意に声に真剣さが込められる。私は思わず、それに続く言葉を待ってしまう。
「フランは一度、貴女に光を与えた。そのせいで、暗闇もはっきりと見えるようになってしまったみたいだけどね。でも、あの子はもっと多くの光を与えるようになるはず。そうなれば、貴女の暗闇は気にならない程度のものになるわ」
優しい声音は私に向けられたものではない。その溢れんばかりの愛情の乗せられた言葉はフランへと向けられたものだ。
「……意味わかんない」
「あの子を信じてあげてってこと。他人を信用できなさそうな貴女が信頼するくらいなんだから、難しくはないでしょう?」
今までの会話からは信じられないくらいに素直な言葉。もしかして、この言葉のためだけに今までの不毛な会話は続けられていたんだろうか。そうだとすれば、遠回りしすぎだ。
けど、レミリアの言葉は私の深い部分まで突き刺さっていた。そう簡単に抜けはしないだろう。
……目を開いてからの私は、フランを信じていただろうか?
そのことを直視したくなくて、私はレミリアに髪を梳かれる心地よさに身をゆだねて、そっと瞼を下ろした。
◇Flandre's side
さとりと共に考え出した理想の幸せを抱いて、館へと帰ってくる。こいしにはまた嘲られそうだけど、まあそういうのを考えたのだから、どうということはない。
結果として、そんな偽りの幸せが二人の真の幸せに繋がってくれればいい。
さとりはきっと前を向いてくれた。私もたぶんだいじょうぶ。だから、後はこいしに顔を上げてもらうだけ。これが一番難しいんだろうけど。
そうやって考え事をしながら、地下へと向かう階段を真っ直ぐに降りていた。先に帰っていた咲夜に、こいしとお姉様は私の部屋にいると教えてもらっている。私が外へと連れ出される前の二人は、一触即発といった様子だったけど、だいじょうぶなんだろうか。
お姉様のことは心配していない。不安なのは、私がいないとだめだと言っていたこいしの方。喧嘩をしているならまだしも、こいしが追いつめられていたりしないだろうか。
扉の前に着く。声や音は聞こえてこない。中の様子を窺うような感じで、そっと扉を開く。
そこに見えたのは、意外な光景だった。
まず、目に入ってきたのはベッドに腰掛けているお姉様。どことなく優しげな視線の先には、俯せで横になっているこいしがいる。お姉様を避けているのか、こいしの顔はお姉様がいるのとは逆の方に向いている。お姉様はそんなこいしの髪を手櫛でそっと梳いている。
「あら、おかえりなさい、フラン」
お姉様がこちらに気づいて顔を向けてくる。こいしは寝ているのか、その声は抑えられたものだった。時計の音くらいしか聞こえてこないから、それでも十分聞こえるのだけれど。
「ただいま、お姉様。……何してるの?」
できるだけ音を立てないようにしてお姉様たちの方へと近づきながらそう聞く。
何をしているかは見ればわかるけど、予想していたのとはほとんど真逆の光景を目の当たりにして、そんな言葉しか出てこなかった。
「ん? 見ての通り、髪を梳いてあげてるのよ。寝てるから、静かにしてあげてちょうだいね」
私はお姉様から少し離れた位置に腰掛けて、こいしの顔を覗き込む。確かにこいしは寝ているようだ。寝息も聞こえてくるし、無防備な表情も見て取れる。
そして、そのこともかなり意外だった。私以外の誰かがいるところで寝ることがあるとは思ってもいなかった。
「お姉様、何したの?」
「ちょっと言いたいことを聞いてもらっただけよ」
お姉様とこいしの距離を考えると、そのもらったという言葉に不穏な響きが込められているように感じてしまう。実際は、穏やかな声なのだけれど。
目の前の光景が信じられなくて、お姉様の方をじっと見つめる。視線に気づいたお姉様が、こちらを見る。
「なんだか、胡乱なものを見るような視線を向けられてるような気がするわ」
「……だって、お姉様の優しそうな態度もこいしの無防備な姿も怪しいから」
「自分の力を嫌って意固地になってるのが昔の貴女っぽいなぁとね。こいしが無防備なのは、なんでかしらね? 本人に聞いてみたら?」
私も昔の自分をこいしに少し重ねているから、お姉様の言い分は一応納得。
でも、それならこいしはどうしてだろうか。お姉様の言っていたとおり、本人に聞けばいいんだろうけど、どうしても考えてしまう。それに、素直に教えてくれるとも思えないし。
「それはいいとして、どうするか決めたのかしら?」
お姉様はこいしの頭から手を離して、こちらを真っ直ぐに見据えてくる。自然と私の背筋は伸びる。緊張などではなく、確かに覚悟を決めたからこそだ。
「また、迷っちゃうかもしれないけど、今はだいじょうぶ」
さとりの所で生み出した希望を抱きながらそう言う。
「何よ、その聞いてる方が不安になるような返事は。……まあでも、その表情に免じて許してあげる」
呆れたような態度でそう言われてしまう。
言葉が不確実なものとなってしまっているのは私も自覚している。とはいえ、明確に起こりえないことを断言できるほどの自信は持っていない。あるのは、いかにして理想まで近づけるかという意志だけだ。
「ただし、中途半端な結果は許さない。私の妹なんだから、結果には期待してるわ」
お姉様はこちらへと人差し指をびしりと突きつけてくる。私はその勢いに少々たじろいでしまう。
「う、うん」
「ほんとに大丈夫かしら? ま、私があれこれ言い過ぎるわけにもいかないわよね」
不審そうな表情を向けられたけど、すぐに指とともに引っ込められる。一応信じてはくれているようだ。
「じゃあ、私はそろそろ退散するわ。後は、貴女が頑張りなさい」
お姉様は立ち上がって、扉の方へと向かっていく。
私はその背中へと向けて、声をかける。
「お姉様、ありがと」
私に考える機会を与えてくれて、こいしの面倒を代わりに見ていてくれて。
「どういたしまして。お礼は、貴女たちの明るい姿を見せてくれればいいわ」
「ん、楽しみにしてて。……でも、妹からお礼をもらおうとするのはどうかと思う」
「私にこいしまで救う理由はないもの。何もかもを無償でやるほど私はお人好しじゃないわ」
まあ、言われてみればそうかもしれない。
そうやって、納得している間にお姉様は部屋から出ていってしまう。私は先ほどまでお姉様が座っていたところへと移動する。
こいしは相変わらず向こうの方へと顔を向けている。
と思っていたら、不意にこちらへと寝返りを打ってきた。安堵を浮かべた無防備な顔がこちらへと向く。
「……こいし、起きてるの?」
小さな声で呼びかけてみるけど、反応はない。寝たふりをしているのだろうかと思って、唇に指を当ててみるけど、むにゅむにゅと寝言のようなものが口から漏れてくるだけだ。たまたまあのタイミングでこちらに顔を向けただけのようだ。
そういえば、寝ている間もこちらの心が見えていたりするのだろうか。今まで一緒に生活している時には、どちらだと断定できるような出来事はなかった。
見えているのなら、お姉様がいなくなったタイミングでこちらを向いてきたというのは、偶然ではないと言える。
折角だから、今ここで確かめてみることにする。思い浮かべるのは、こいしとさとり、それから私が一緒にいる光景。それぞれがその手に持っているのは、さとりが作った温かいココアの入ったコップ。
三人の間に言葉はない。でも、その場にいられるというだけで、心は穏やかになってきて、それ以上は何も必要ないのだと思うことができる。
さとりと共に想い描いた幸せの一つだ。これくらいなら、この問題が解決さえすれば案単に実現できるだろう。
そんなふうに、現状を無視して都合のいい幸せを思い浮かべていると、自分の表情が緩んできているのを感じる。私はこんな光景をいつか目の当たりにできると信じている。だから、表情にもそれが出てくる。
こいしの顔を見てみると、微かに笑みを浮かべていたのが目に入ってきた。どうやら、寝ている間も心を見ることはできるようだ。どれくらいそれがこいしの夢へと影響を与えているのかはわからないけど。
私は更に想像を続ける。先ほどお姉様がこいしにしていたことを思い出して、さとりがこいしの頭を撫でる光景を作り出す。
現実世界の私をさとりに重ねて、目の前で横になっているこいしの頭を撫でる。この数日の間に常習化していたから、ぎこちなさは出てこない。
また、こいしの口が動く。何を言っているのかはやはりわからない。
でも、一層幸せそうに見えるその顔を見ていれば、悪いことは言っていないのだろう。
そんな姿を見ていると、綺麗な位置に収まるのではないだろうかと甘い考えが浮かんでくる。こんな思考をこいしにどう思われるかなぁと考えながら、甘さを堪能するのだった。
◇Koishi's side
まず気づいたのは、隣に誰かがいるということだった。眠りに落ちる直前にレミリアがいたことを思い出す。けど、何も見えなくとも、居心地のいい心から隣にいるのはフランだとわかる。
目を開けてみると、無防備な寝顔が目の前にあった。警戒心を抱いている様子はなく、穏やか様子で眠っている。
今は何も見ていないけど、何か幸せな夢でも見ていたのだろうか。
私もそういう夢を見ていた気がする。内容はさっぱり覚えていないけど、フランの寝顔が起因となって、幸せの残滓が微かに反応しているような気がする。
たぶん、フランの夢でも見ていたのだろう。今の私にとって、フランが幸せをもたらしてくれる存在なのだから。
でも、そんな私の予想に反して、もやもやと心の中に浮かぶ夢の残滓が象るのは微笑むお姉ちゃんの姿だった。
恋しくはないと思う。会いたいという気持ちもここ数日の間に封じ込めた。私にはフランだけがいればいい。
そのはずなのに、言い様のない寂しさが身体の中で荒れ狂っている。自分の身体をかき抱くようにするけど、抑えられそうにはない。だから、目の前にいるフランの小さな身体を抱き寄せ、ぎゅっと力を込める。それで、少しは落ち着いてくる。
ほら、やっぱり私にはフランがいればだいじょうぶ。私の身体で包み込むことのできるこの温かさがあればいい。それにお姉ちゃんは私の心を殺しうる存在だ。突き放す理由はあれど、わざわざ受け入れる理由はない。だというのに、しっかりと暖房された部屋に隙間風が入り込んできたときのような心細さを感じる。心が何かが足りないと訴えている。
それがなんだかわからないまま、自分の足をフランの足へと絡ませる。できるかぎり触れ合う部分が多くなるようにと。
それから、私の履く長めのスカートをたくし上げるようにして、柔らかい肌へと私の肌を触れさせる。直接触れた分だけフランが近づいたような気がして、安心感が芽生えてくる。
けど、ふとレミリアの言葉を思い出す。
あの声、あの言葉に私を責める様子はなかった。でも、私自身がフランを信じているんだろうかという疑念は私の心を凍らせる。隙間風なんて比べものにならないくらいの不安が私を取り巻く。
無意識にフランを抱く腕に、フランへと絡みつく足に力がこもる。けど、いくら外から熱を取り込もうとも、私の内は冷え切ったままだ。
「……こいし?」
その声にはっと我に返る。フランが目を覚ましたことに気がつかなかった。
でも、それに気づいたからといってフランを放しはしない。逃げられないよう私の身体で、フランを拘束する。
フランは逃げる方法を持っているにも関わらず、私に抱きしめられたまま、不思議な輝きを伴った紅い瞳でこちらを見つめてくる。まだ寝ぼけているようで、特に何かを考えているわけではない。目の前に私の顔があった。だから、声をかけた。そんな感じだ。
「おはよう、フラン。モーニングサービスはあっさりとしたキスがいい? それとも、胸焼けがしそうなくらい濃厚なキスがいい?」
「……どっちもやめて」
寝ぼけていても、返ってくるのはつれない言葉だった。
「……」
フランの頭は徐々に起きてくる。それに伴って、フランは私の表情から怯えを読み取りつつある。
私は顔を逸らす。でも、そんなことをするのは今更で、私の感情を隠蔽することはできなかった。
フランは私の不安の意味を導き出そうとしている。色んなことを考えて、私の心を推測しようとしている。
「フランが私のことを真剣に考えてくれてて嬉しい」
茶化すようにそう言う。
でも、嬉しいのは事実だ。それは、私がフランのことを信じているという証になりはしないだろうか。きっとなるはずだ。
「こいし、何を不安がってるかはわかんないけど、さとりも私もこいしを見捨てるつもりはない。だから、ゆっくりでいいから顔を上げて。そうしたら、今よりも怯えるものは減るはずだから」
私が自分自身を納得させていると、そんな不意打ちが飛んできた。
フランの言葉を支えるものは、あまりにも眩しかった。少し前まで、私の言葉に簡単に揺らいでいたのに、今は強い意志がフランを支えている。
私から離れたことで、フランは希望にまで手を伸ばすことができてしまったようだ。その希望が、フランを前へと進ませようとしている。
でも、よくよく心を覗いてみれば少し不安も残していることが窺える。それは、私にとって狙うべき点である。
「フランがやろうとしてるのは単なる欺瞞。そんな虚妄なんかで私が希望を持つと思う?」
不安を呼び起こすようにそう言う。フランの抱えているものは絶対に届きやしない夢物語なんだと切り捨てる。
「うん、そうかも。でも、幸せな未来を想うことは希望に繋がるって信じてる。私もそういうこと、経験してるから」
開き直った前向きさで、私の言葉を受け流そうとしている。でも、完璧に流すことはできなかったようで、少し揺らいでいるのが見受けられる。
何度も何度も揺さぶりをかけていれば、きっとまたお姉ちゃんのことを忘れてくれるはずだ。それで私に平穏が訪れる。
でも、フランが思い浮かべた、幸せな未来を見せられて笑みを浮かべる私の姿を見せられて、私の心もまた揺さぶられる。いつの間にか私の心に焼き付けられたお姉ちゃんの笑顔が、私の心のどこかから寂しさを引っ張り出してくる。
このままでは、再び前の状態に戻すにしても、私の方が先にフランに陥落される可能性もある。
「とりあえず、まずはこいしの口からさとりに会いたいって言葉を聞かせてもらう。そうしたら、後は一緒にがんばろう? さとりに会う覚悟ができるまで、辛抱強く付き合ってあげるから」
フランは私を敵と見なしているようだ。レミリアのように明確な敵意はない。正確には、私のひねくれた部分へと向けられたものだから当然だ。
本当、私から離れている間に色々と考えたようだ。
「ねえ、フラン。その余計なことを考える思考をめちゃくちゃにしてあげようか?」
私の平穏な安全地帯を取り戻すために。
「……変なことしたら怒るよ?」
フランの瞳に険が滲む。こうしていると、レミリアとその輝き方が似ることに気づく。さすが姉妹と言ったところだ。
「ん、冗談冗談。私はフランがいなくなったら生きられないから」
ここまで明確に嫌がられてしまえば、私は手を出すことなんてできなくなる。私の言葉に一切の偽りはないのだ。
私はフランに抱きつく腕と足に更に力を込める。これも私の意思表示だ。
「……さとりの方が抱きつき心地はいいんじゃないかな」
「そんなことない」
フランの言葉を一蹴する。
だというのに、私はいつだったかお姉ちゃんに後ろから抱きしめられたことを思い出す。
フランは私の否定的な言葉に揺さぶられ、私はフランが思い浮かべるお姉ちゃんの姿に揺さぶられていた。
◇Flandre's side
私が明確な意志を抱くようになってから、こいしの態度は少しずつだけど変わってきている。
例えば、ふとした拍子に寂しそうな表情を浮かべるようになった。
例えば、ぼんやりとしていることが多くなるようになった。
例えば、私がそれに気づくと露骨に甘えてくるようになった。
けど、まだこいしの口からさとりに会いたいといった類の言葉は聞けていない。いつだって、私の考えを否定するばかりだ。
少しくらいは、私の望んでいる方に進んでいるとは思う。少なくとも、以前よりはさとりのことを考えるようになってくれているはずだ。
ただ、それと同時に私も私で、このやり方が正しいのだろうかという疑問に行き当たることが多くなってきていて、こいしに反論を返される度に、決意が揺れる。
それでも、さとりと想い描いた未来を描き直すことで、なんとか屈してしまわないようにしている。
けどそれだけでなく、決意の揺れだけでなく、あれからだいぶ精神的に疲れてきているのも感じる。
「それなら、全部私の言うとおりにして楽になっちゃえばいいのに。理想にたどり着くことだけが幸せじゃないんだから」
こいしが私の思考へと割り込んでくる。最近ではそのことに少しの煩わしさを感じるようになってきていた。
こいしは私を操ろうとしているのかもしれないとさとりは言っていた。どうすべきか迷っていたときは、こいしの言葉がそのまま私の思考の指針となっていた。だけど、今は真っ向から対立するような形となっているから、操られていたという事実には実感が伴っている。
とはいえ、拒絶の意志が沸いてくるほどではない。
確実に起こると言えないとはいえ、自分の心が壊れるかもしれないというのを怖がるのは仕方がないと思う。自衛のために私の思考をこいしにとって都合のいい方向に持って行こうとするのも当然だと思う。だから、私はこいしに対して、拒絶のような意志を向けない。
それでも、私がこういうことを考える度に、こいしはどこか怯えるような反応をして、少し勢いが弱まる。
こいしはそうではないみたいだけど、私は誰もが幸せな未来を描くことで、そこに近づけるのではないだろうかと信じている。こいしが抱えているのは精神的な問題で、だからこそ、前向きであれば前向きな方に、後ろ向きであれば後ろ向きな方に振れていくのだと思う。
「……フランの考え方は、自己中心的だと思う。私が壊れたときのことを考えてくれてない」
「それは、……そうかも。でも、あんまり後ろ向きに考えてても、それが邪魔になると思う」
同じような問答は何度繰り返したかはわからない。
だけど、繰り返す度にこいしの声は一歩引いたようなものとなり、私の声は弱々しくなっていっていた。
結果が出てくるまで、どちらが絶対的に正しいということはない。こいしも私も自分の主張することがより正しいと信じているからそれを主張して、もしかしたら相手の方が正しいのではないかと思って揺れている。
こいしも私もこうして平行線の問答を続けることに疲れていた。けど、相手を説得できると信じて続ける。少なくとも、私はそういう姿勢で臨んでいる。
もし、私たちが共倒れするのなら、どういった結末になるのだろうか。興味はなくても、現実的には起こり得るから、どうしても考えてしまう。
「フランを殺して私も死ぬ」
隣に腰掛けたこいしが私の手を握りながらそう言う。
物語なんかではよく目にする言葉だ。けど、真に迫る声でそう言われると、背筋に冷たいものが走る。
「冗談、だよね?」
声の調子からは、本気なのかふざけているのかを窺うことはできない。けど、本気ではないだろうという願望から、私はそう聞いていた。
「さてさてどうだろうね。あ、フランだけを殺すのもいいかも。そうしてフランの死体を飾って、その姿を眺めながら、理想の振る舞いを想い描けばいいんだから」
昏い声にびくりと身体が震える。こちらの方は本気なのだと、なぜだか直感できた。
「……そんな私は、つまらないと思わない?」
逃げよう、とは思わなかった。そうされたいと思っているわけではない。ただ、ここで逃げてしまうのは最悪な選択肢だと思ったのだ。ただそれだけ。大人しく殺されるのも当然、そのうちの一つだ。
どうすればいい、というのはわからない。こいしの言動から探っていくしかない。
……最悪、本当に殺されてしまうかもしれない。一度、逃げる方法はあるのに、その意志を奪われてしまったことがあるから、どうしようもないときはどうしようもない。
「全然。今の私にとって、周りはうるさいばかりだから、私の思い通りになってくれる方がずっといい」
こいしは私の手を離して立ち上がると、挑むように私の正面に立つ。私も、真っ向からその顔を見つめ返す。
かと思っていたら、こいしは不意に私の身体をベッドの上へと押し倒した。そして、首元に手を添えられる。力は込められていないはずなのに、その存在だけで息苦しくなってくる。
「ねえ、フラン。これ以上フランの考えを押しつけないって約束してくれるなら、この手を放してあげる。でも、そうじゃなければ、この場でくびり殺す」
冷たい目が私を見下ろしている。いつか押し倒されたときとは真逆の温度が私を見つめている。
けど、不思議と怖いという感情は浮かんでこなかった。あのときは、こいしの執着に圧倒されていたけど、今は冷静に見返すことができる。
どうしてだろうか。
何かに引っかかりを覚えているような気がするけど、その正体をはっきりと掴むことはできない。
「余裕だね」
こいしの手に力が少し込められる。実体を伴った息苦しさが私を襲う。
まだ、完全に呼吸ができなくなったわけではない。しばらくは、だいじょうぶそうだ。
けど、それでどうにかなるというわけでもなく、こいしの手のひらに私の手を重ねて、昏い光を伴った翡翠色の瞳を見つめていることしかできない。
「……ぁ」
不意に、私はある考えへと至る。
もしかすると、こいしは私に裏切られたと思っているのではないだろうかと。
こいしが目を開いたばかりの頃は、無条件で甘えさせていた。けど、途中で私は、突然少々こいしを突き放すような態度を取るようになった。
私は勝手にそれを正しいと思っていたけど、こいしからしてみれば、不意打ちのそんな行動は裏切りに映っても仕方ないかもしれない。
なら、こいしが私を憎んで殺そうと思うのも、当然の流れかもしれない。
許してはもらえないだろう。その事実に私はずきりと胸が痛む。知らぬ間に、取り返しのつかないことをしてしまったようだ。
「……ふざけたこと、考えないで」
ぽつりと言葉が落ちてくる。
「私がフランを憎む? 何言ってるのっ? 私はっ、誰よりもフランのことが好きなんだから!」
こいしが浮かべているのは今にも泣き出しそうな表情だった。
けど、徐々に腕に体重をかけられていっているせいで、その意味を考えているような余裕はない。食い込んできている指が喉を圧迫していっている。
今すぐ逃げるべきだろう。けど、今のこいしの腕から逃れてしまえば、そのままこいしが壊れてしまいそうな気がする。
いや、殺されそうになっている場面で何を考えているんだろうか。私は苦しさの中で狂ってしまっているのだろうか。
まあ、間違った行動をしているとは思わない。けど、自分の命と天秤をかけるべきことかと問われれば微妙なところだ。相手がお姉様なら、迷わず差し出しているんだろうけど。
「……なんで、フランはこんなときでも私を嫌わないの?」
こいしの手から少し力が抜ける。それでも、死が遠ざかっただけで、苦しいことに依然変わりはない。
か細く荒い呼吸を繰り返して、先程奪われた呼吸の分だけ取り戻そうとする。けど、必要な分はなかなか取り戻せそうにない。
ここまでされて、私がこいしを遠ざけない理由は簡単だ。綺麗事を言えばこいしが好きだから。利己的なことを言えば私の世界を壊してしまうことがいやだから。
まあ、こいしが好きだからこそ、拒絶が私の世界の崩壊と繋がるわけで、どちらの理由も共存している。こいしが私を必要としているのに比べれば弱いけど、私もまたこいしを必要としているのだ。
それに、
「……まだ、私が、死んで、ないから」
押しつぶされそうになっている気管を使って、なんとか声を絞り出す。
殺す気がないわけではないと思う。けど、たぶんどこかに迷いや躊躇があるのだと思う。もし、それらがなくて、私に逃げる意志がなければとっくに殺されていることだろう。
けど、実際にはまだ生きている。与えられているのは苦しさだけで、死はまだ遠い場所にある。
「……そうやって、無条件で信じられるフランはずるい」
激情が引いて、ただただ弱々しい表情となる。
そして、理解した。こいしがいつまでも会いに行くことを拒絶し続ける一番の理由を。
それは、私が頼りないから。ぬいぐるみのように抱いて縋りつく相手としては優秀なのかもしれないけど、手を取って引っ張ってもらうにはあまりにも脆弱。
「……ごめ――んっ?!」
謝るために口を開こうとした。けど、その音は途中で口の中にこもってしまう。
こいしの顔が目の前に迫っていた。その意味を理解している余裕はない。首を強く圧迫されていて、呼吸ができなくなる。
さすがに命の危険を感じて、こいしの下から逃げる。霧化した身体は、するりとこいしの腕を抜ける。
ベッドの上、こいしの横で自分の身体を元に戻すと、咳混じりに喘ぐ。首元にまだこいしの手が残っているような気がする。
「謝らないで」
こいしの方を見てみると、きっと睨まれた。わかりやすいくらいに不機嫌そうだ。
私はこいしとの距離を詰めて、先ほどまで私を殺そうとしていた手を握る。放っておいたら、逃げられてしまいそうな気がしたから。
「その、えっと……」
反射的に謝りそうになって口を噤む。そして、言葉を失ってしまう。どんな言葉ならこいしに届くんだろうか。
いや、そもそも言葉は必要としていないだろう。心を読むことのできるこいしにとって言葉は飾りでしかないのだから。
私に強さがあればよかった。どんなことを言われようとも、どんなことがあろうともぶれてしまわないだけの。
そうであれば、少なくともこいしは私に頼っていられることができたはずだ。さとりに会いに行くことができるかどうかは別として。
不意にこいしが立ち上がる。けど、私に手を握られているせいか、前には進まない。
「放して」
「どこかに行くなら、私もついて行く」
私に失望して離れていくというなら、いやだけど受け入れるしかない。このときのことはいつまでも後悔することだろう。
けど、だからといって、ここで無責任に手を放してしまうつもりはなかった。友達としては見限られているかもしれないけど、せめてさとりへの案内役は勤めたい。お姉様にも、中途半端は許さないと言われているし。
そんなことを考えていると、更に険の滲んだ表情で睨まれた。思わずたじろぐ。けど、手は放さない。
「……私の話、聞いてた?」
「聞いてた」
聞いたからといって、聞き入れるか否かは別の話だ。その意志を伝えるように、手に少し力を込める。
「そのことじゃない」
ものすごく不機嫌そうな表情を見せられてしまう。どのことだろうかと首を傾げてみるけど、それで答えが出てくるほど私の直感は優れていない。
「むしろ変なところで鈍い気がする。普段は無駄に鋭いくせに」
こいしがこちらへと戻ってくる。何をされるのかと身構えるけど、握っている手は放さない。それが狙いなのかもしれないし。
けど、私に握られていない方の手で肩に触れてきたあたりで、ようやくこいしが何をしようとしているのかを悟る。それから、こいしが不機嫌になった理由も。
「私、あんまり自分に自信がないから、そういう行動は控えてほしいなぁ。今のこいしなら、私がどう思ってるかはわかるでしょ?」
目の前に迫ったこいしへとそう言う。こいしは背後から私の分身に捕まえられているから、これ以上距離を詰めることはできないはずだ。
さっきは防ぐ余裕がなかったから、不本意にも受け取らざるを得なくなったけど、気づいたなら防がないといけない。私はこいしと同じ想いは抱いていないのだから。
さっき、正面切って誰よりも好きだと言われたことを思い出した。
こいしの想いを忘れていたわけではない。ただ、情けない姿を見せてしまったから、愛想を尽かされてしまったのだと思っていた。
けど、実際はいつもの逃げ癖が出てきただけのようだ。
「……うるさい、ばーか」
こいしにしては珍しい直球の罵倒の言葉。かなり参ってるのかなぁと漫然と思う。
「そう思うなら、抱きしめるくらいして」
不機嫌そうなまま、そんなことを言ってくる。
「まあ、それくらいならいいけど」
分身を消して、こちらに倒れてきたこいしの身体を抱き止める。そのときにさり気なく顔を寄せてきたけど、それは避けた。
こいしが目を開いてから、抱きしめるようなことは何度かあったけど、今回は一段とその身体を小さく感じる。こいしの方が私よりも一回り大きいはずなのに。
なんとなく、こいしをあやすようにゆったりとした感覚で背中を優しく叩く。少しこいしが力を抜いていくのを感じる。
しばらく私たちは無言でいた。
何か伝えるべきことがあるような気がするけど、明確な形とはならない。また、私は迷ってしまっている。
どこに進むべきかは最初から決まっている。けど、そこに至るまでの方法を見失ってしまった。私の頼りなさのせいで、お互いを追いつめるといういらない結果だけを残して。
「……私は、フランに頼りがいなんて求めてない。ただ、こうやってずっとフランに甘えてたい」
ふと、こいしが声をこぼす。
甘えるようでも、縋るようでもない、ただただ弱々しいだけの声。だからこそ、打算も何もない素直な言葉なのだとわかる。
「……だから、フランを私の好きなように変えてやろうって思った。……そうやって、私の方こそがフランを裏切ってた。
なのに、フランは馬鹿の一つ覚えみたいに私のことを信じてて、真相を知った後も、殺されそうになった後も、全然私に対する嫌悪感さえも抱かないで、それでいて全然私の思い通りにはならないで、フランなりに信じてる未来を引き寄せようとしてて、そのくせ私の言葉に簡単に揺らいでて意味がわかんない」
こいしの口から言葉が続々と溢れ出てくる。でも、それは私のことばかりだ。話の流れからして当然なんだろうけど、私が聞きたいと思っていることではない。こいしが裏切ったか否かはどうでもいい。私自身がそうされたと思っていないのだから。
「私のことばっかりだけど、さとりのことは?」
流れを無視してそう聞いてみる。今なら、素直に答えてくれるとそう思ったのだ。
「……卑怯者め」
じっとりとした声でそう言われる。けど、その程度なら気にもならない。
「手段は選んでられないってことで」
実際、こいしはこちらを殺しにきたわけだし、私もどこで心のたがが外れるともわからない。昔とは比べられないくらいに安定しているとはいえ。
「……」
こいしは答えようとはしない。言葉にすることを逡巡しているだけなのか、黙秘を貫くつもりなのか。
どちらにせよ、私にできるのは待つことだけだ。素直に話してくれるにせよ、誤魔化されるにせよ。
こいしの邪魔をしないように、できる限り頭を空っぽにする。こいしの肩越しに見える扉をぼんやりと見つめながら、こいしの背中を優しく叩く。聞こえてくるのは、時計が時間を刻む音とこいしの静かな息遣いだけ。
何も起こらない時間が過ぎ去っていく。
「……私は、お姉ちゃんに会いたい」
静かな空間にぽつりと落とされた声は容易く溶けていく。けど、そこに乗せられていた言葉はしっかりと届いてきた。
以前、こいしがさとりを避けていたときには一度も聞くことのできなかった言葉。だから、あのときは始終自己満足のお節介でしかなかった。けど、こいしの言葉を聞いた今、少しはこいしの願ったとおりの行動となる。
「じゃあ、私はそのためにまたがんばる」
何か行動を起こせるわけではない。けど、こいしの想いを明確に知った今、迷いが生じることはないだろう。
結局、私の迷いの根元はこいしの本音がよくわからないということだった。
「……なんか生意気」
「こいしが頼れるのは今のところ私だけみたいだから、少々の無茶は見逃して」
その言葉に返ってくる声はない。その代わりに、私へと抱きつく腕に力が込められる。
私に任せてくれるということだろう。
それに応えるように、私もぎゅっとこいしの身体を抱きしめるのだった。
◇Koishi's side
「こいし、だいじょうぶ?」
「……だいじょうぶじゃない、ちょっと吐きそう」
地底の中心の離れ、地霊殿からは少し離れた何もない静かな場所。そこで私は、冗談でも何でもなく本気でそう言う。
なんとか覚悟もできたからとここまで出てきたはいいけれども、お姉ちゃんと顔を合わせるその時が実際に近づいてくるとこの様だった。過去の記憶たちが憎い。
私がフランを殺しかけてから、しばらくが経った。
その間に過ぎ去っていった時間は、私が目を開いてからは比べものにならないくらい穏やかで落ち着いたものだった。
フランをより私にとって居心地のいい場所にするために無駄なことをすることもなく、フランと真っ向から対立することもない。フランもお姉ちゃんのことを考えすぎることはなくなり、自然体のまま私のそばにいてくれた。
まあ、フランが少々強引だったのは、私が意地になっていたせいなのだけれど。自業自得というやつだ。
フランが本を読んでいる間、私はフランの身体へと寄りかかって何も考えずぼんやりとする。そのときに、ふとお姉ちゃんのことを考えたりもする。それが基本的な日々の時間の過ごし方だった。
お姉ちゃんに会いたいという気持ちは、フランにそれを吐露してからは日増しに強くなっていた。それでも、恐怖はその気持ちを駆逐して、私をフランの部屋へと押し留めていた。
だから、私がこうして出てこれたのは、気まぐれが私を後押ししてくれただろう。そして今、その気まぐれは無責任に私のことを見捨てている。
「無理はしないで」
心配を浮かべたフランが口にするのはそれだけだった。けど、心の方では私が戻りたいと言えば、戻る心積もりがあるということを訴えている。
今の私には、前に進む道も後ろに戻る道も用意されている。選択する余地があるということが、私を楽な方へと進めようとする。どちらを選ぼうとも私を責めるのはいないだろう。
「……ちょっと、休ませて」
フランが答える前に寄りかかる。イヤそうな感情一つ浮かべることなく、私の心配だけをして支えてくれる。
お姉ちゃんに会いたいという意志と逃げ帰りたいという意志がせめぎ合っていて、どうしたいのかが決められない。いっそ、フランが無理矢理お姉ちゃんのところまで引っ張ってくれるか、気を遣って帰ろうと言ってくれればいいんだけど、フランは沈黙を守っている。心の方も私の選択を待っているだけだ。
しばらく、沈黙が場を支配する。旧地獄街道から届く喧噪が微かに届いてくるくらいだ。
フランは、寄りかかる私の身体を優しく抱きしめてくれている。ここ数日の間に、私は本当にフランに依存するようになってしまっていた。
フランがいなくなれば本当に何もできなくなる。そして、フランがそばにいてくれさえいればどんな命令も聞けると思う。
でも、フランがその強力な命令権を行使することはない。今は気づいていないだけだけど、結局気がついても使うようなことは絶対にないだろう。そう断言ができるくらいには、私はフランのことを知っている。
「……ねえ、お姉ちゃんに会ってだいじょうぶだと思う?」
「うん、だいじょうぶ」
心の中では迷いを浮かべながらも、断言してくれる。
フランの迷いを打ち消しているのは、私が消そうとした煌々と輝く希望の光。疲弊の中で一度は、くすんでいたけど今はまたその輝きを取り戻している。
一時期はその光を疎ましく思っていた。でも、今はその光が私の道を照らしてくれている。
お姉ちゃんも同じものを受け取ったようで、私たちの道はフランに照らされて、繋がっている。フランはそう信じてくれている。途中で断絶しているかもしれないと、心のどこかで思いながらも。
「……なんとか、行けそう」
再度心の整理を行って、深呼吸。そうして、もう一度覚悟を手にしてそう言う。
「ん、じゃあ、行こうか」
心配そうで不安そうで、けど同時に嬉しそうで期待の混じった複雑な表情で笑顔を浮かべてくれる。私のことで、そこまで色々な感情を見せてくれることに愛おしさを覚える。
目を開いたばかりのときは、フランのことを嫌ってしまうのではないだろうかと思っていた。けど、実際には私の思い通りにしようとして失敗したあげく、余計に好きになってしまっていた。
まあ、フランは自分の世界を守ろうとしてただけみたいだけど。私の想いに応えてくれる感情は、欠片も見つけられなかった。
フランに手を引かれるような形で前へと進む。端から見れば、私が先導されているだけのように見えるだろうけど、実際は私が選んだ結果だ。引き返そうと思えば、さっきの休憩の時にそうすることができていた。
地霊殿が近づいてくる。懐かしいという想いが去来してきて、胸が詰まりそうになる。
長い間帰らないというのは、私にとっては頻繁とは言えないものの、珍しいと言えることでもなかった。
でも、今は恋しさを覚えている。恐怖がなければ、駆けてでもお姉ちゃんへと会いに行っていたかもしれない。
フランがいなければ、ここまで強い感情を抱くこともなかっただろう。
一歩進むごとに、前に進みたいという意志と、後ろに戻りたいという意志が一緒に強くなっていく。フランに引かれている分だけ、私は前に進むことができている。
そして、最後まで止まることなく扉の前にたどり着いた。
「じゃあ、後はこいしが」
フランに先頭を譲られる。私を一人にするなんていういらないお節介を焼こうとしていたら、その場で泣き崩れるかもしれない。それくらい、今の私の感情は不安定となっている。
けど、フランはしっかりとわかってくれている。私の手を握ったまま後ろに立ってくれている。ただ、フランの緊張も伝わってきて、逃げ出したい気持ちが少し強くなってしまうけど。
扉を叩いた後も逃げようと思えば逃げられる。そう自分に言い聞かせて、ドアノッカーで扉を叩く。これで、玄関の側にいるペットの誰かが、お姉ちゃんに誰かがこうして訪れたということを伝えに行っただろう。
後は、待っていればそのうちお姉ちゃんが出てくるはずだ。けど、それまでに、どれだけかかるのだろうか。
緊張だけでへたり込みそう。
「こいし、深呼吸してみて」
「う、うん」
フランに言われるまま、息を大きく吸い、それを全部吐き出す。
フランも後ろで同じことをしている。
「もう一回」
再び同じことをする。もう一回とまた言われたので、繰り返す。
「……落ち着いた?」
吐き出した呼吸の余韻をそのままにそう聞いてくる。
「……よくわかんない」
あまり変わらないような気がする。でも、そんな私とは対照的に、フランの心はそれなりに落ち着いている。
そんなことに気がつくと、私の方も多少落ち着いてくる。
感情もだいぶフランに依存しているようだ。
「えっと、それなら、これは?」
そう言いながら、フランが私の頭を撫でてくれる。これまで、なんどこうしてもらったかわからない。気がつけば、やたらと手慣れていて、身長差も関係なくなってしまっている。
フランの手は、多少どころではないくらいに私を落ち着かせてくれる。別の理由から、その場にへたり込んでしまいそうだ。
フランを落ち着かせるのに同じことをしたレミリアに感謝。苦手意識は払拭できないけど。
「どう?」
「すごく落ち着ける。このままフランに身体を預けて眠っちゃったい」
「いやいや、なんで寝ようとしてるの」
呆れを浮かべたフランが手を止めてしまう。
「ケチ」
「何しにきたか覚えてる?」
「ん、覚えてる」
「ならいいけど」
フランの澄ました態度がなぜだか面白くて、つい笑い声がこぼれてしまう。フランもそれにつられたように小さく笑う。
いくら心が読めて、その意図がわかっていても、実際に作り出される雰囲気は私に不意打ちを仕掛けてくる。この少々滑稽ないつも通りが、結局私を一番落ち着かせてくれる。
きぃ……。
不意に和やかな空気の中に、扉の蝶番の軋む音が混じった。普段なら、なんてことのない音だ。けど、今の私にとっては不気味に響く。
私の身体はびくりと震える。驚いたわけではなく、今まで抑えていた恐れがまとめて噴出してきたのだ。
私の震えに気がついたフランは、私の手をぎゅっと握ってくれている。そのおかげで、私は逃げ出さずに、もしくはその場にへたり込まずにすんでいる。
「こいし……」
扉の向こう側から現れたお姉ちゃんが、私の名前を呼ぶ。
私の目はその心を――
「こいし……っ!」
お姉ちゃんの感情が爆発的に大きくなったかと思うと、飛ぶようにしてこちらとの距離を詰めてきた。逃げる暇なんてなくて、真っ正面から拘束される。
少し慌てたフランに後ろから支えてもらっていなければ、そのまま地面の上に倒されていたかもしれない。
「ああ、おかえりなさい、こいし。ずっとずっと待ってたのよっ!」
お姉ちゃんらしくない感情にまみれた声。私の目はお姉ちゃんの溢れんばかりの歓喜を映し出しているけど、今のお姉ちゃんの様子を見れば誰にだってわかる。
後ろでフランもお姉ちゃんの姿を珍しく思っている。落ち着いている、というか、大人しいといった姿が私たちが共通で抱いている印象だ。
「お、お姉ちゃんっ、と、とりあえず、落ち着いてっ」
そんなことよりも、これまでにないくらい力を込めて抱きしめられているせいで苦しい。私もフランに似たようなことをしたことがあるけど、姉妹そろって恋しく思った相手を絞め殺さんばかりに抱きしめる癖でもあるんだろうか。
「あ……、ごめんなさい。……それから、おかえりなさい。帰ってきてくれてよかったわ」
捕縛するような抱擁から、優しく包み込むような抱擁へと変わる。私も身体から力を抜く。
こうして落ち着いてくると同時に、お姉ちゃんの心が見えてくる。一番大きいのは私に会えて嬉しいと思っている感情的なもの。それを引っ張るように、フランが残して時間の流れとともにその輝きを増していった光が煌々と輝いている。どうやら、これがお姉ちゃんを暴走させたようだ。
そして、そんな眩しいものたちとは対照的に、お姉ちゃんの目に映った私の不安や恐怖が過去を呼び覚まして、光を飲み込もうとその姿を濃く大きくしていっている。
お姉ちゃんに抱きしめてもらうところまでは、うまくいっていると思っていた。いや、そんなことを考えてもいなかった。
でも、思考が不幸を呼ぶ。考えすぎることが、小さな幸せを大きな不幸に飲み込ませてしまう。
逃げる余裕もなくて、お姉ちゃんに縋っていることしかできない。そのお姉ちゃんも、私の心を見て狼狽して、光を揺らがせている。
無数の過去が私を襲ってくる。私たちの間で記憶が共有され共振し増幅していっている。
私に向けられた罵倒、拒絶、追いやるための石。
お姉ちゃんが見た惨めでぼろぼろで壊れかかった私の心。
光は隅に追いやられていき、心がどす黒く塗りつぶされていく。心の傷から溢れ出てくるのは闇そのものだった。
「こいしっ!」
けど、そんな闇を切り裂くように光が割って入ってくる。
お姉ちゃんとともに閉ざされかけていた意識は、半ば存在を忘れかけていたフランの方へと向く。
「私はこいしやさとりと一緒にさとりの作ってくれた暖かいココアを飲みたい。二人が幸せそうにしているところを側で見ていたい。だから、こいしも想像してみて、眩しいくらいに幸せなで、心穏やかになれるような光景を。
一人で難しいなら私も手伝う。さとりだって一緒に考えてくれる。私は外から好き勝手なことを考えて、こいしはさとりと一緒にそれを基にして想い描いて」
そんな勝手なことを言いながら、フランが私を後ろから抱きしめる。ここまでされたなら忘れることもないだろう。
フランが今まで何度描いていたかわからない幸せの光景をいくつもいくつも思い浮かべる。フランらしく、私がお姉ちゃんへと甘えているようなのばかりだ。それは自分の願望を私たちで置き換えただけなのではないだろうか。
お姉ちゃんはフランの思考を受け取って、必死に私たちの未来を思い描いている。暗い過去に飲み込まれてしまわないようにしながら、闇を取り払おうとしている。
私は、二人から流れ込んでくる光景を受け取るだけだった。そうすることしかできなかった。
内側からは暗いものばかり浮かんできている。外側からはそれとは対照的なもの、対照的にしようとしているものばかりが注ぎ込まれてきている。
二人と同じように幸せな光景を思い浮かべてみようとするけど、うまくできない。かといって、暗い過去ばかりを思い出すというわけではない。
なにも思い浮かんでこないのだ。
まあ、それもそうだ。私は大好きな二人に挟まれて、こんなにも想われている。
幸せを頭の中で妄想して作り出す必要なんてない。現実にそれはあるのだから。
気が付けば、暗い過去は私を追い立てるものではなくなっていた。
心の傷は変わらず残っている。私はこれからも拒絶されることを怖がる。私を肯定してくれる人がいる限り。
過去は過去と割り切ることができただけ。過去をまるで今現在起こっている事象のように感じることがなくなったというだけ。
それを理解して、私の恐怖はどこかに溶けていった。
後に残るのは脱力感。色んな部分の力が抜けて、私は温かな世界の中心で泣いていることしかできなかった。
◇Epilogue
地霊殿の前、そこで一つの影が出入り口を塞いでいる。けど、滅多に来客のないそこでは、それを邪魔に思うものはいないだろう。
そこには三人がいた。さとりが正面から、フランドールが背後からこいしを抱くことで、三人分の影は一つとなっている。
「……あ」
不意に、さとりが声をこぼす。
「さとり、どうしたの?」
「……こいしの心が、見えなくなってしまいました」
そこに付随するのは、寂しがっているような、けどそれを仕方ないと思っているような表情。覚り妖怪としては、そのまま目を開いてほしいと思っていたが、過去どんなことがあったかを知っているからこそ、強制はできないのだろう。
「え……」
フランドールは最悪を予感したのか、表情に影が浮かび、こいしを抱く腕に少し力がこもる。
「いえ、心配するようなことではありませんよ。今までは、フランドールさんへの依存から目が開いた状態を維持していたようですが、それが薄れた今となっては開き続けている意志もなくなり、閉じてしまったようです。……やはり、いくら時間が経とうとも恐怖はなくならないですね」
そう言いながら、慰めるようにこいしの頭を撫でる。再び目が閉じきる直前、二人で何か通じ合っていたのかもしれない。
そうしてしばらく、三人は無言となる。真ん中に挟まれるこいしのために、穏やかな空気がその場を包む。
「フランドールさん、ずっとここにいるというのもなんですし、中に入りませんか? ココアもご用意しますよ」
こいしが落ち着いてきたころ、それを感じ取ったさとりがそう言う。こいしの頭を撫でる優しげな手は止まっていない。
「うん、幸せになれるような暖かさと甘さでお願い」
「はい、わかっていますよ。こいし、少しの間離れててくれる?」
「……そんな諭すように言われなくてもわかってる」
少しばかり不機嫌そうな声。けど、少しばかり不安そうでもある。
「そうね。ごめんなさい」
さとりはこいしを優しくそっと放す。そして、その代わりに手を握る。
いつこいしを離そうかと機を窺っていたフランドールも、それを見てこいしの空いている方の手を握る。
こいしは自分を想ってくれている二人の間で、まだ涙の跡の残る顔を拭えないまま、幸せそうな笑みを浮かべていた。
心を見抜く瞳は柔らかく閉ざされている。
Fin
基本的には面白かったのですが、こいしとフランのやり取りは正直なところ、没入感を奪う要因が多く、再考の余地が多分にあると考えています。
それは、二人の(他の登場人物も一部において)心の動きが支離滅裂、アクロバティックですらあると私には思えたからです。
省略された語が多くて読みづらい、「ごめん」などの意味の曖昧な言葉が頻出する、「鈍くて鋭い」などの作者都合によって物事を察する超能力、……つまりキャラクターの動きに説得力のないシーンが多い。
辛辣な表現を用いさせてもらいますが、後半はもはや生物を見ているようには感じなかった。ヒトの皮をかぶったナニカ得体のしれないもの……わずかに吐き気すら覚えました。
100KBを超えるのに、出てくる精神面の語彙の少なさ!ぐちぐちと悩む話には、もっと彩り豊かな言葉が必要でしょう。同じ台詞を繰り返すさまは、まさに狂気と呼ぶのが相応でしょう。(現実的といえば確かにそうかもしれませんが、良き小説というのは事実とはどうしても異なるものです)
狂人が一人だけなら、心の変遷を春の訪れるように描くことができたのでしょう。しかし、このように二人となると、破綻寸前の話を作者が強引に軌道修正しているようにしか見えませんでした。
無理のある展開が多い、と言いたかっただけなのですが、無駄に冗長になってしまいました。長文、お目汚し失礼いたしました。
まだか!?ハッピーエンドはまだなのかっ!?
おもしろかったほ
さっそくですが誤字の訂正をさせて頂きます。
こいしはどことなく幸せそうな様子で租借を始める。
今度は静かに租借を始める。
以上です。
今回の話も楽しませて貰いました、新作を楽しみに待っております。
P.S.フランちゃんにスパゲティを食べさせてもらいたい
やっぱ妹キャラは可愛いね