幻想郷唯一の人間の集落である人間の里には、自衛組織としての自警団が存在する。
里の警備、里での犯罪行為の取り締まりから、道案内や落とし物の管理まで、里の治安維持のため働く自警団には、近年増加傾向にある、妖怪絡みのトラブルを主に扱う班が存在する。
メンバーは五人。命蓮寺から出向している、村紗水蜜、二ッ岩マミゾウ、ナズーリン。
妖怪退治の血を嗣ぐ変わり者の人間、小兎姫。
そして、彼女らを率いるリーダー、上白沢慧音。
妖怪三人、人間一人、半人半妖一人からなる、自警団《上白沢班》。
自警団の人間たちは、半分揶揄の意味合いも込めて、彼女たちをこう呼ぶ。
――自警団《妖怪班》と。
「折れた傘骨」
朝から降りしきる雨は、夕方になろうかという頃合いになっても止む気配が無い。
手にした傘を揺らしながら、倉内寿子は買い物袋を提げ、帰り道を急いでいた。
商店街で、夕飯の食材を買い込んできた帰りである。左手に提げた袋はずしりと重い。息を切らせながら、寿子はゆるやかな坂道を上る。打ち付ける雨に足元はぬかるんで、長靴はすっかり泥まみれだ。
坂道を上りきると、高台にある我が家へ通じる石段が見える。その下から石段を見上げて、寿子は思わず溜息をついた。いつものこととはいえ、長い石段を上り下りしなければ買い物にも行けない我が家の立地に、恨み言のひとつも言いたくなる。
とはいえ、今のところ寿子にとって、暮らしへの不満はそれぐらいのものだ。倉内家に嫁いで十年になるが、家具職人をしている夫は真面目すぎるほどに真面目で、酒や博打にのめりこむこともなければ浮気をしたこともない。五つになる息子は可愛い盛りだし、夫の両親との関係も良好だ。生活はとりたてて裕福というほどでもないが、五人家族が普通に暮らしていくだけの稼ぎと蓄えもある。
石段を半分ほど上ったあたりで、木陰に入って寿子は息をついた。少し休憩、と傘越しにぼんやり曇り空を見上げる。色を失ったような灰色の空に、傘の少しかすれた赤が眩しい。
寿子の赤い傘は、彼女が母から譲ってもらったお気に入りのものだった。何しろ彼女が幼い頃から使っていたものなので、既に何度か修理しているものの、随分とくたびれてきている感は否めない。それでも愛着が強くて、未だに手放せないでいた。たぶん完全に使えなくなってしまっても、どこかにしまい込んでとっておくだろうと思う。
誠実な夫と優しい義父母とともに、息子の成長を見守るという平凡な幸福。倉内寿子にとって、それは昨日も、今日も、そして明日も変わらずに在り続けるはずのものだった。もちろん、寿子の家族にとっても。
よし、とひとつ力を入れて、寿子は再び石段を上り始める。右手に傘、左手に重い買い物袋。濡れた石段を歩くその足取りは、少しおぼつかない。
ようやく石段の頂点が見えて来たところで、寿子はそこに小さな傘が揺れていることに気付いた。見覚えのある青い傘。あれは、息子の武宏のものだ。
「お母さん」
自分を迎えに来てくれたらしい。武宏が寿子の赤い傘を見留めて、そう声を上げた。寿子は息子の行為に思わず顔をほころばせて、「武宏」とその名を呼んで顔を上げ、
――濡れた石段の縁に引っかかった右足が、ずるりと滑った。
あっ、と思ったときには、身体が傾いで、彼女は雨粒を落とす灰色の空を見上げていた。
時間がひどくゆっくりと流れていた。左手の買い物袋から、玉葱や人参がこぼれ落ちる。右手の赤い傘が手から離れて舞いあがる。重力に引かれて、彼女の頭は石段の下の方へ傾いていく。雨粒が顔を、胸を、身体全体を打ち付けて――。
たけひろ、と、愛する息子の名前を呼ぼうとした。
その瞬間、今までの日々のあらゆる記憶が脳内を駆け巡って。
――衝撃。
意識が暗転する、刹那。
彼女の脳裏に浮かんだのは、ただ、息子の顔だった。
石段の上にいたあの子が、自分のように、転落していなければいい、と。
どうか、あの子には何事もありませんように――と。
彼女の耳に最後に聞こえていたのは、自分の身体が石段を転げ落ちる音と、変わることなく降りしきる雨の音だけだった。
1
「傘が消えたんです」
駐在所を訪れた、倉内武宏と名乗る青年は、机を挟んで小兎姫に向かってそう言った。
人里の中心部に位置する、自警団中央駐在所の一室、上白沢班詰所。日曜日の午後、上白沢班から駐在所に詰めていたのは、ナズーリンと小兎姫のふたりである。自警団は年中無休だ。
「落とし物ですか~? 傘の落とし物ならいくつか届いてますけど」
「いいえ、そうではなくて」
小兎姫がそう言うと、武宏はゆっくりと首を横に振る。
「倉にしまい込んでいた古い傘が、いつの間にか消えていたんです」
「はあ~」
「それで、そういう探し物ならこちらだと伺いまして」
小兎姫の脇で話を聞いていたナズーリンは、その言葉に小さく肩を竦めた。おそらく、以前にナズーリンが探し物を見つけてやった誰かから、話を聞いてきたのだろう。
案の定、小兎姫がこちらを振り向き、福々しい笑みを浮かべている。
「ナズーリンさん、お仕事ですよ~」
「はいはい、了解」
なんだかんだ言って、体よく自警団に使われてしまっていることにいささかの不満を覚えつつ、ナズーリンは小兎姫に代わって青年の前に座る。
「じゃあ、詳しく話を聞かせて貰おうかな」
「あ、は、はい――」
ナズーリンが自警団上白沢班に加わることになったのは、おおよそ村紗水蜜のせいだった。
水場で軽い水難事故を起こすいたずらをしていたことが白蓮にばれ、罰として里の人たちの役に立つ仕事をするようにと言われたムラサと、幻想郷に来たばかりのため里に早く馴染めるようにと白蓮が気を回した二ッ岩マミゾウ。ふたりが自警団に加わるにあたって、寅丸星からそのお目付役を仰せつかったのである。
正直なところ、寅丸星のお目付役であるはずの自分が、どうしてムラサやマミゾウの面倒まで見なければならないのか、と未だに思うところはある。さりとて上司の命令は絶対であり、ナズーリンは今日もこうして、律儀に駐在所で探し物の相談を受けている。
「消えたのは、母の形見の傘なんです」
「お母さんの?」
倉内武宏が訥々と語ったところをまとめると、以下のようになる。
彼の母、倉内寿子は二十年ほど前、雨の日に当時の家の近くの石段で足を滑らせ、転落して亡くなった。消えたのは、そのとき彼女が差していた赤い傘だという。
彼女は雨で足を滑らせた上、傘と買い物袋で両手がふさがっていてバランスが取れず、受け身をとることも出来なかったため、石段の下まで勢いよく転がり落ちて、ほぼ即死だったという。傘もその際に壊れ、使い物にならなくなった。
その赤い傘は、彼女が母親――武宏から見れば母方の祖母――から譲り受けたもので、彼女はその傘をとても大事にしており、何度か修理しながら使い続けていたという。
彼女の傘への愛着を知っていた武宏の父は、傘を捨てずにとっておくことにした。倉内家は寿子の事故からほどなく引っ越したが、寿子の形見となった傘は引っ越し後も家の物置に大事に仕舞われていたという。
それが無くなっていることに気付いたのは、武宏の父方の祖父が亡くなり、その遺品を整理しているときだった。
寿子の傘は、家具職人だった夫の作った箱に入れられ物置の奧に置かれていたが、その箱がいつの間にか空になっていたのだという。もちろん、家族の誰もその行方に心当たりはないといい、家中ひっくり返しての捜索も空振りに終わった。
特に貴重なものでもない、ただの壊れた傘なので、誰かに盗まれたとも思えない。
どうにも妙な話だし、形見がどこかに消えてしまったというのも亡くなった母に申し訳ない。そのため、こうして捜索を依頼しに来たということだった。
「拾得物の保管ならともかく、紛失物の捜索までは自警団の職掌じゃないと思うんだがね」
話を聞き終えてナズーリンがそう言うと、武宏は申し訳なさそうに身を縮こまらせる。ふぅん、とナズーリンは鼻を鳴らした。自警団の世話になるような真似をやらかしながら、こちらがネズミとみた途端、尊大な態度に出る人間は結構多い。だがこの青年は、人間の小兎姫と妖怪ネズミのナズーリンとで態度を変えなかった。そのことはまあ、評価できる。
「まあまあ、ナズーリンさん~」
と、横から小兎姫がほわほわとした調子で口を出す。
「困っている人の助けになるのが、自警団の仕事だ。班長ならきっとそう言いますよ~」
慧音の堅苦しい口調を真似て言った小兎姫に、ナズーリンは大仰に溜息をついた。
まあ、他に何か仕事があるわけでもない。詰所で退屈をもてあましているよりは、何かしていた方が気が紛れるのも確かだ。ナズーリンは立ち上がった。
「仕方ない。それじゃあ、とりあえず君の家まで案内して貰おうか」
「あ――はい」
「言っておくけど、見つけられるという保証はしないよ」
肩を竦めながらナズーリンは言うが、武宏は「よろしくお願いします」と深々と頭を下げる。妖怪の自分に対してもこう殊勝な態度を取られては、無碍にするのも気が引ける。その程度の人情は、ナズーリンだって持ち合わせているのだった。
2
倉内家は、里の東部に広がる住宅地にある一軒家だった。広くもなく狭くもなく、里ではごく平凡な二階建ての家である。
武宏に招き入れられたナズーリンを出迎えたのは、赤ん坊を抱いた髪の長い女性だった。女性はきょとんとした顔で、武宏とナズーリンの顔を見比べる。
「家内の寛子と、娘の有紀です。寛子、こちら自警団のナズーリンさん。あの傘のことで、探すのを手伝ってくださることになったんだ」
「ああ――」
納得した様子で、倉内寛子はナズーリンにぺこりと頭を下げた。会釈を返して、ナズーリンは家の中に上がり込む。
「綺麗な奥さんだね」
「いや、まあ、自分には勿体ないぐらいで」
ナズーリンが言うと、武宏は照れたように頭を掻いた。
「お茶でも淹れましょうか」
「いや、結構。さっさと用件を済ませよう。探し物の写真か何かは無いかい?」
「写真――父に聞いてみます。こちらで待っていていただけますか」
居間に通され、座布団に腰を下ろすと、赤ん坊を負ぶった寛子がお茶を持ってきた。淹れてもらったものを遠慮するのも何なので、素直に頂くことにする。
「……自警団の方なんですよね。夫がすみません、こんなことでお忙しいところを」
寛子も恐縮した様子でそんなことを言う。全くだよ、と答えてやろうかと思ったが、それも大人げない。ナズーリンは首を振るに留めた。
と、寛子の背中で赤ん坊がむずがり出す。「おお、よしよし」と寛子は身体をゆすってあやそうとするが、赤ん坊はそのまま泣き出してしまった。耳をつんざくような声に、ナズーリンは小さく眉を寄せ、不機嫌な顔を見られないように顔を背ける。
――次の瞬間、小さな手に尻尾の先端を掴まれた。
「っ!?」
振り返ると、赤ん坊がナズーリンの尻尾を掴んでいた。つい今まで泣いていたのに、今は少しぐずりながらも、不思議そうな顔をして小さな手で尻尾を握りしめている。
「こら、有紀、だめでしょ。すみません、こんな――」
「ばぁー」
ゆらゆらと動く尻尾に、あっという間に機嫌を直したらしく、赤ん坊はナズーリンの尻尾を掴んだままきゃっきゃっと笑い出した。尻尾の先に提げたカゴの中で、部下の小ネズミがおろおろとしている。寛子も困ったようにナズーリンと赤ん坊の顔を見比べていた。
振りほどいてやろうかと思ったが、それでまた大声で泣かれても具合が悪い。ナズーリンは憮然としながらも、尻尾の先を動かしてやった。赤ん坊はまた楽しげに笑う。なんで探し物に来て、子守までしなければならないのか。どうにも調子が狂っていけない。
ナズーリンのついた溜息は、赤ん坊の笑い声にかき消されて消えていく。
ほどなく、武宏が壮年の男性を連れて戻ってきた。彼の父、倉内幸三である。
「寿子の傘を探してくれるんだって? ありがたいが、うちの中のもんを囓らないでくれよ」
幸三は訝しげにナズーリンを見やりながらそう言った。そう、ナズーリンを見たときのごく真っ当な人間の反応がこれである。いつもならムッとするところだが、武宏や寛子がやけに物腰が丁寧なので、今は少しほっとするものを感じた。
「ご安心を。うちの部下たちはしっかりしているよ」
「どうだかね。――写真ってのは、こんなんでいいのかい」
幸三が差し出したのは、額縁に入った白黒写真だった。写っているのは、ここではない家の前に佇む若い女性と幼い子供。雨の中で撮ったのか、ふたりはひとつの傘の中に収まっている。
「武宏の二歳の誕生日に撮ったもんだ。ここで差してるのが、消えた寿子の傘だ」
ナズーリンは鼻を鳴らして、白黒写真を見つめる。あまり鮮明な写真とは言えなかったが、それでもその傘がだいぶ古びていることは見て取れた。布地には接ぎ跡がいくつかある。
「布地は赤ということだけど、持ち手の色は?」
「持ち手は木だ」
「なるほど、結構。まずは仕舞ってあった物置から、順に捜索させてもらうよ。うちの部下が家の中を少し走り回ることになるけど、邪険にしないでくれたまえよ」
ナズーリンが部下の小ネズミを集めてそう言うと、武宏は素直に頷き、寛子は少し顔をしかめ、幸三はただ不機嫌そうに眉を寄せた。まあ、ネズミが家の中を引っかき回すと言われていい気分になる人間はそうはいないだろうから、この反応に怒る気は無い。実際に怒らせないように、こっちは部下にちゃんと言い含めるだけだ。
ナズーリンは写真を部下たちに確認させ、武宏の案内で物置に向かうと、「それじゃ、探索開始!」と命じた。ぱっとネズミたちは物置の中に散らばり、小さな隙間に潜り込んでいく。もちろん部下だけに任せることはなく、ナズーリン自身も雑然とした物置の中にダウジングロッドを向けて、探し物の気配を探る。
「そんなやり方で、本当に見つかるのかい」
不意に口を挟んできたのは、いつの間にか姿を現していた幸三だった。
「この家の中にあるなら、見つける自信はあるよ」
ナズーリンが答えると、幸三はどこか遠い目をして、「それなら、きっと見つからないんじゃないかね」と呟いた。ナズーリンは眉を寄せる。
「この家の中には無いという確証でも?」
「さあね。そもそも箱の中に入れといた傘が、羽でも生えたみたいに勝手に消えたんだ。どこにあっても驚かんが」
そこで言葉を切って、幸三はこちらから顔を背けると、呟くように言った。
「あれはきっと、あいつが持って行っちまったのさ」
どういう意味か、とナズーリンが聞き返そうとしたときにはもう、幸三は踵を返して家の奥に引っ込んでしまった。溜息をついて、ナズーリンは探索を再開する。
――羽でも生えたみたいに、か。
そのときふと、ナズーリンの脳裏に、あるひとつの想像が浮かんだ。だがそれは、とりあえず一通りの捜索を済ませてから検討すべき可能性だった。ただ単に、どこかに紛れ込んだだけの可能性の方が高い。今のところは、だが。
しっかり探してくれよ、お前たち。物置の中を駆け巡る部下に、ナズーリンはそう念じた。
3
結局、物置の中どころか、家中に探索範囲を広げても、それらしき傘は見つからなかった。床下や天井裏まで調べたのだから、これ以上の打つ手は思い当たらない。
「すまないね、力になれなくて」
「いえ、こちらこそ、こんな時間までありがとうございます」
玄関先で、武宏はナズーリンにそう頭を下げた。空はすっかり夕焼けに染まって、遠くでカラスが鳴いている。自警団の仕事じたいもそろそろ切り上げの時間だった。
「もし、それらしき傘が落とし物として届いたら、すぐに連絡するよ」
「よろしくお願いします」
最後まで丁寧な物腰を崩さない武宏に、ナズーリンは微笑して、「じゃあ、私はこれで」と踵を返しかけ――ふと思い出して、もう一度武宏に向き直った。
「そういえば、君の父上が少し気になることを言っていたんだが」
「父がですか?」
「ああ。『きっと、あいつが持って行っちまったのさ』――とね」
ナズーリンの言葉に、武宏は目を細め、「ああ」と頷く。
「……たぶん、あのことだと思います」
「あのこと?」
「傘が消えているのに気付く少し前に、父が夜中に、母の姿を見たと言って騒いだことがあったんです。夢でも見たんだろうと思いますが――実際に傘が消えているんですから、本当に母の魂があの傘を探しに我が家まで来ていたのかもしれませんね」
少し寂しそうに微笑して、武宏はそう言った。「そうか」とナズーリンはただ頷く。
――さて、そうなると、あの可能性を検討すべきか。いや、その前にもう少し、残りの可能性の方を詰めておくべきだろう。
ひとり、心の中でそう決断し、ナズーリンは倉内家を後にした。
駐在所に戻ると、小兎姫の他に、これから夜番に入ることになっている慧音の姿があった。
「あ、ナズーリンさん、おかえりなさい~」
「おかえり、ナズーリン。倉内さんのところで探し物だって? ご苦労様」
「ただいま。全く、自警団を便利屋か何かと間違えてる人間が多すぎないかい?」
「そう言うな。頼りにされてるということなんだから」
「頼られる方向がそれでいいのかね。そのうち子守や掃除まで押しつけられても知らないよ」
ちょうどそこで、勤務時間の終わりを時計が告げた。「それじゃ、私は着替えてきますね~」と小兎姫が奧に引っ込む。ナズーリンも《自警団》の腕章を外してロッカーに放り込み、しかしすぐには帰ろうとせず、慧音に向き直った。
「班長殿。少しだけ、確認したいことがあるんだが」
「なんだ?」
「二十年前の、倉内寿子という女性の事故死について、班長殿は何かご存じかな」
ナズーリンの問いに、慧音はすっと目を細めた。
「今日の探し物と、何か関係があるのか?」
「探しているのは、そのとき彼女が差していた傘なんだ」
ああ、と慧音は納得したように息をつく。――そういえば、半人半妖のこの班長の実年齢と寿命は人間相応なのか、それとも妖怪相応なのだろうか、とふとナズーリンは疑問に思った。
「あれは不幸な事故だったな。私も覚えているよ。五十段以上ある石段の、上の方から一番下まで転げ落ちたんだ。亡くなった倉内の奥さんはかなり痛々しい姿だったと聞いている」
おまけに、と慧音は腰に手を当てて、ひとつ思案げに首を傾げた。
「彼女の息子――武宏君だったか。まだ幼かった彼は、石段のところへ母親を迎えに言って、結果として母親が石段を転げ落ちていくのを目の前で見ていたらしい」
「え?」
ナズーリンは思わず目を見開いた。――倉内武宏から聞いた話では、そんな話は全く出なかったのだ。そんなナズーリンの反応に、慧音は目をしばたたかせる。
「転げ落ちた母親を追おうとして、彼も石段で転んで怪我をしたはずだ。幸い母親のように下まで転げ落ちることはなく、軽傷で済んだという話だったな」
そんなことがあったのか。しかし、どうして倉内武宏はそのことを話に出さなかったのだろう。――二十年前のことだから、単に忘れてしまったのかもしれない。人間の記憶力というものは、寿命相応に、妖怪のそれより経年劣化が早いはずだ。
「そうか……そんなことが。不幸中の幸い、と言っていいのかな、それは」
呟いたナズーリンに、慧音は一拍おいて訊ねた。
「――探しているのは、倉内の奥さんが使っていた傘なんだよな?」
「ん? ああ。物置に仕舞ってあったのが、いつの間にか消えたらしくてね」
「そうか……」
「何か気になることでもあるのかい?」
問いかけると、慧音は「いや」とひとつ首を振り、それから呟くように言った。
「確かそのとき武宏君が軽傷で済んだのは、その傘がクッションになったからのはずなんだ」
4
駐在所を辞したあと、のんびりと歩いて、里の最北端にある命蓮寺に辿り着く頃には、あたりはすっかり闇に包まれていた。命蓮寺も既に門を閉ざしている。
門の横の通用口から入り込んだナズーリンは、しかし寺ではなく、その裏手の方へとまっすぐに向かった。目的は、倉内家の傘の行方について、ひとつの仮説を検証するためである。
家の中に傘が存在しないという事実から、ナズーリンは第一に、倉内幸三が既に処分してしまっていた、という可能性を考えた。何しろ彼の妻が命を落とした原因のひとつは、傘で手がふさがっていたことと言えなくもない。妻の形見とはいえ、その事故の一因を担ったものを、後生大事にとっておくだろうか、という疑問からだ。
だが、彼の息子、倉内武宏の命を同時に救ったものでもあるとすれば、話は別だ。倉内寿子の魂が息子を守ったのだという思いは、当然あっただろう。そうなると、複雑な思いとともに物置にしまい込んでいたというのは納得できる。
武宏に、母の傘が彼を守ったという話をしていないのも、傘の存在が同時に母の死の一因であったことや、目の前で母の転落を見た息子の心を慮ってのことと思えば、やはり得心がいく。
――となれば、倉内幸三が処分した、という可能性は低いとみるべきだろう。もちろん、何らかの心変わりがあったのかもしれないが、そこまでは部外者のナズーリンには推し量れない。
第二に考えた可能性は、倉内武宏の妻、倉内寛子が何も知らずに処分してしまい、今更言い出せなくなっている、という可能性だ。ただ、それなら寛子にもう少し、自分に対して思わせぶりな素振りがあっただろう。ナズーリンの見た限り、倉内寛子の態度は、彼女の知らない夫の母の話を、部外者の立場から眺めているという雰囲気だった。よって、第二の可能性もここではこれ以上の検討は不可能である。
第三の可能性は、傘の消失が明らかになったきっかけである、先日亡くなったという武宏の祖父が関わっている可能性だが、これはなおさら確かめようもない。
第四の可能性、倉内武宏の自作自演というのも、心証としては無さそうだ。何らかの手違いで母の形見を処分してしまい、それを隠すために一芝居打ったという可能性はあるが、これでも長く生きた身だ、演技をしているかどうかぐらいの見当はつく。ナズーリンの捜索を手伝う様子が演技だとしたらなかなかの役者だ。よってこれも検討外。
以上、ナズーリンの観測した範囲内で、傘の消失に関わっていそうな人間は全員、今のところ容疑の圏外である。――となると、全く別のアプローチを考えた方がいい。
すなわち、傘が消えたのは、傘自身の意志であるという可能性だ。
命蓮寺の裏は墓地になっている。当然ながら、夜に墓参りをしようなどという奇特な人間はいないので、墓地はひっそりと静まりかえっていた。
さて、彼女は今日はここにいるだろうか。ナズーリンが墓石の間に足を進めると、不意に墓石の陰から、飛び出してくる黒い影。
「う~ら~め~し~や~」
「はいはい、表の蕎麦屋に出前を頼むよ。チーズハンバーグ定食、ごはん少なめで」
「ま~い~ど~あ~り~、って違うわ! しかも人間じゃないし!」
墓場でひとりノリツッコミをしているのは、大きななすび色の傘を手にした妖怪の少女、多々良小傘である。小傘は墓石に肘をついて大げさに溜息をついた。
「お腹空いてるのはこっちだわさー」
「ひとつアドバイスしようか。人間は夜中に墓参りには来ないよ、普通はね」
「なんと! わちきがここで夜な夜な待ち構えるのは時間の無駄と申すか。ぐぬぬ」
「まあ、君の食事方法はどうでもいいんだが」
「ひどい!」
「少しばかり君に聞きたいことがあるんだけど、構わないかい」
「え? 私に?」
ナズーリンの言葉に、小傘はぱちくりとその大きな目を瞬いた。
頷いて、「何しろ、君のお仲間に関するかもしれない話だ」とナズーリンは続ける。
「――人間の元で、二十年以上使い込まれた傘が、二十年ばかり物置で埃を被っていた。化け傘の立場から見て、この傘は妖怪になり得ると思うかい?」
5
ナズーリンが倉内家に捜索に行ってから、二週間ほど経った日のことである。
その日、ナズーリンは慧音とともに昼から駐在所に詰めていた。里は相変わらず平和なもので、仕事と言えば届けられる落とし物を預かったりするぐらいである。あとはせいぜい、愚痴を言いにくる老人の相手をするぐらいか。
そんな昼下がりの退屈を吹き飛ばす音が鳴り響いたのは、夕方になろうかという頃だった。
長々と嫁の愚痴を言っていた老婆がようやく腰を上げ、それを見送ってナズーリンが一息ついたそのとき。カン、カン、カン、と甲高い鐘の音が三回続けて響き渡った。
慧音が険しい顔で立ち上がる。ナズーリンも、その鐘の音は何度か聞いたことがあった。
「火事か」
ふたりは駐在所を飛び出す。あたりを見回せば、里の東部の一角から煙が上がっているのが見えた。通りを行き交う人々も足を止め、煙の方を指さして何事か言い合っている。
「あのあたりは、住宅地だな。消防団が出てるだろうが――私たちも行こう」
「了解」
走り出した慧音の後を、ナズーリンは追いかける。里には自警団とは別に消防団が存在するが、大きな火事の場合、消火活動に人手は多いに越したことはないのだ。
煙のあがる方向へ走っていくと、不意にナズーリンはその道のりに既視感を覚えた。つい最近、同じような道を通った。――ということは。
予感はほぼ的中した。里の住宅地の一角、激しく燃えていたのは倉内家の隣の家である。悪いことに倉内家とは庇が接するほどの距離で、噴き出した炎が延焼したらしく、倉内家の窓からも炎があがっていた。
燃えている家の周囲は野次馬でごった返していた。消防団の法被を着た男たちが走り回り、消防団の腕用ポンプ車が出動して放水を始め、近くの水場からのバケツリレーも始まっている。しかし火勢は強く、炎は勢いよく倉内家全体を飲みこもうとしていた。
とりあえずバケツリレーを手伝うべきかな、と視線を巡らせたナズーリンは、野次馬の向こうで何事か喚いている姿があることに気付く。耳を澄ませば、その声は倉内武宏のものだ。
「放せ! 放してくれ! 寛子と有紀がまだ中にいるんだ!」
慧音にもその声が聞こえたらしい。ナズーリンは慧音と顔を見合わせ、野次馬を掻き分けて倉内家の前に出る。そこで、倉内武宏が消防団の男に押さえつけられていた。
武宏はこちらを振り向き、すがりつくような目でナズーリンを見つめた。――あまり、そういう目で見ないでほしい、とナズーリンは思う。都合のいいときだけ自分たち妖怪の力に頼ろうとするのは止めて欲しい。――そうは思ったが。
ナズーリンの尻尾を掴んできゃっきゃっと笑っていた赤ん坊の顔が、脳裏に浮かんだ。
慧音が前に出ようとするのを、ナズーリンはダウジングロッドで制した。慧音が驚いたようにこちらを見下ろす。ナズーリンは小さく肩を竦め、武宏に歩み寄った。
「奥さんと娘さんが中にいるのか?」
「寛子は……具合が悪くて、二階で休んでいて……有紀も、そこに……」
「二階か――分かった。班長殿は消火を手伝っててくれ。私が行く」
「ナズーリン」
「人間が火の中に飛び込んだら命がいくつあっても足りないよ。――本当は船長に任せたいところだけど、時間も無さそうだしね」
幽霊のムラサがここにいたら、さっさと助けに行けと容赦なく火の中に突き飛ばしてやるところだ。だが、呼びに行っている暇はない。これも貸しだよ船長、と心の中だけでひとりごちで、ナズーリン近くのバケツリレーからバケツを借りて水を被る。妖怪とはいえ、火だるまにはなりたくはない。
「それじゃ、奥さんと娘さんを見つけてくるよ」
そして、ナズーリンは炎を噴き上げる倉内家の中に飛び込んだ。
家の中は、既に火の海と言っていい状態だった、木造の家屋は火の回りが早い。あちこちを炎が舐め尽くし、家全体がぎしぎしと軋みをあげている。本格的に時間が無さそうだ。
幸い、以前に隅々まで傘を探したので、倉内家の間取りは頭に入っている。炎の中を掻き分けて、ナズーリンは一直線に階段へと向かう。階段は手すりが燃えていたが、まだ二階へは上れそうだった。一段飛ばしに一気に駆け上がる。
「奥さん! 有紀ちゃん! どこだい!」
炎の爆ぜる音の中、ナズーリンが声を張り上げると、微かに赤ん坊の泣き声がした。まだ生きている! ナズーリンは耳に神経を集中して、泣き声の元を探る。――こっちか。
燃える襖を蹴破るように飛び込むと、畳も布団も炎に飲まれつつある座敷の中に、うつぶせに倒れた倉内寛子の姿があった。――赤ん坊は、その胸の中で泣き叫んでいる。
「奥さん! 大丈夫かい?」
ナズーリンが駆け寄るが、赤ん坊を炎から守るように抱きかかえたままの寛子は返事をしない。間に合わなかったか、と奥歯を噛みしめかけるが、口元に手を当てると、まだ寛子は息をしていた。どうやら煙を吸って意識が朦朧としているらしい。
まずいな、とナズーリンは顔をしかめた。もちろんナズーリンは妖怪だ、人間の女と赤ん坊ぐらいの重さなら担ぎ上げることはできる。だが、体格差はいかんともしがたい。寛子はさほど大柄ではないが、小柄なナズーリンがその身体を抱えようとするとどうしてももてあましてしまう。その上で無事にこの二階から脱出させるとなると、燃えている障子窓からふたりまとめて抱えて飛ぶしかないか。
「やるしかないか。全く――」
炎の中、ナズーリンは窓際に駆け寄り、火のついた障子窓を開け放つ。両手が炎に炙られたが、構ってはいられない。窓を開けると人間の通れそうな隙間が生まれた。同時に外の空気が激しく流れ込んで、室内の炎が勢いを増す。ぐずぐずしてはいられない。ナズーリンは寛子を肩に担ぐようにして抱え、赤ん坊も抱きかかえて、窓から飛び出そうとし、
――次の瞬間、突然、窓の外に大量の水が降りそそいだ。
一瞬、ナズーリンは消防団の放水がここに届いたのかと思った。だが、部屋の間取りを考えれば、ここは道路側から放水が届く場所ではない。それに、窓の外に降りそそぐ水は、下から噴き上げるものではなく、天から落ちてくる水だ。
それはまさに、突然の豪雨。つい先ほどまで晴れていたはずなのに――。
雨の勢いは止まらない。大量の雨水は、炎に焦がされて脆くなった屋根を破って、ナズーリンたちのいる室内にまで降りそそいだ。畳を、布団を、障子を、天井を舐めていた炎が、突然の豪雨に一気に勢いを失っていく。ナズーリンはその雫の中に、寛子と赤ん坊を抱えたまま呆然と立ち尽くして。
そして、炎が完全にその息の根を止められた頃、また唐突に、雨は止んだ。
気付けば自分だけでなく、抱えた寛子も赤ん坊もずぶ濡れだった。だが、少なくとも目の前の危険は消え失せた。我に返ったナズーリンは、火の消えた窓から、ふたりを抱えてひらりと外へ飛び出す。そのままふたりを抱えて門の前まで飛ぶと、野次馬から歓声が上がった。
「寛子! 有紀!」
降り立ったナズーリンに、武宏が駆け寄ってくる。泣いている赤ん坊を抱き上げ、それからぐったりした寛子の身体を、武宏は強く揺さぶった。
「寛子、」
「大丈夫、気を失っているだけだよ。――班長殿、ふたりを医院へ」
「ああ、分かった。誰か、手を貸してくれ!」
慧音が呼びかけ、消防団の若者が駆け寄ってくる。武宏は安堵したようにその場にへたりこんで動けなくなっていた。それを見やって、ナズーリンは小さく笑みを漏らす。――人間の命が助かったことを、素直に喜ばしいと思ったのは、そういえば初めてかもしれなかった。
「そういえば、さっきの豪雨は何だったんだい?」
ナズーリンが近くにいた消防団員にそう訊ねると、相手も「いや、こっちも突然で何がなんだか」と首を捻った。
「突然、この家の周りにだけ大雨が降り出したんだよ」
「この家の周りだけ?」
ナズーリンは眉を寄せ、――そして、ああ、とひとつの可能性に気付いて、天を仰いだ。
その考えを裏付けるように、白い煙のあがる夕暮れの空に、小さな赤い点が現れ、それは徐々に大きくなっていった。
へたりこんでいた武宏が、ナズーリンの視線を追うように空を見上げる。そして、舞い降りてくるそれの姿を見留めて、大きく息を飲んだ。
――突然の豪雨を降らせた空から、ゆっくりと舞い降りてきたのは。
倉内家の物置から消えた、倉内寿子の赤い傘だった。
6
「私たち付喪神っていうのはさ、何も年数だけが問題じゃないのよねえ」
二週間前、命蓮寺裏の墓場で、多々良小傘はナズーリンの問いにそう答えた。
「そりゃもちろん、長く使われるほど神霊が宿って、私みたいな付喪神になる可能性は高くなるわけだけど。要はね、持ち主の心次第なのさ」
「というと?」
「たとえばねえ。私は捨てられた恨みからこうして化け傘になったわけだけど、別に捨てられた傘が全部化け傘になるわけじゃないのよ。それじゃ世の中化け傘だらけになっちゃって、ますます私はひもじくなっちゃう」
「そりゃ、確かにそうだ」
「だから、私が無数の捨てられた傘の中から妖怪になったのは、私の元の持ち主がね、私とおんなじように、誰かに捨てられた恨みを抱えてたからじゃないかなーと、思うわけ。私はその持ち主の心の影響を受けて、自分も捨てた相手を恨むことを覚えたんじゃないかなーと、そんなことをぼんやり考えたりもするわけですよ」
「意外と物事を考えているんだな、君も」
「失礼な! わちきの頭が空っぽと申すか」
「別にそこまでは言ってない。それで?」
「だからねえ。その傘が、私みたいに妖怪になってどっかに消えたんだとすれば、何か持ち主の強い想いををね、引き継いじゃったからじゃないかなーと」
「強い、想い……ね。もうひとつ、いいかい」
「今度は何さ?」
「君のその、人間の方の姿は、何が由来なんだい?」
「この格好? あー、私は持ち主のことはあんまり覚えてないから、私のことを無碍にした人間たちの気を惹きそうな格好を自分で考えたのよ」
「それで、怖がらせるには向いてない姿をしてるわけだ」
「ぐ、ぐぬぬ」
「――持ち主のことを覚えていれば、持ち主の姿を真似たのかい?」
「たぶん、ねえ。人形みたいに元から人型ならともかく、私らみたいなモノの付喪神は、人間の姿をするなら、普通は大事にしてくれた人間の姿を真似るんじゃないかしら」
そんなことを言って、多々良小傘は小首を傾げてみせた。
「武宏!」
野次馬を掻き分けて、姿を現したのは倉内幸三だった。どうやら仕事に出ていたらしい。
幸三は焼け焦げた家を見やって顔をしかめ、それからへたりこんだ武宏と、その近くに転がった赤い傘を見下ろして、目をしばたたかせた。
「おい、寛子さんと有紀はどうした?」
「ふたりなら、里の医院に運んだよ。大丈夫、多少火傷はしたかもしれないが、無事だ」
「なんだ、そうか――」
ナズーリンの答えに、幸三は大きく安堵の息をつき、それから赤い傘を見やる。
「……で、なんで寿子の傘がこんなところにあるんだ」
その問いに、武宏も「……分からない」と首を横に振った。「ただ、――」と、それから武宏は家の中に取り残された寛子と有紀を助けにナズーリンが飛び込んだこと、突然の局所的豪雨が火を消したこと、その後にこの傘が天から降ってきたことを幸三に語る。その話を聞いて、幸三は慌ててナズーリンに向き直った。
「あんたがうちの嫁と孫を助けてくれたのか――ありがとう、ありがとう」
土下座でもしかねない勢いで、幸三はナズーリンに深く頭を下げる。ナズーリンは目を細め、ゆっくり首を横に振った。
「……ふたりを助けたのは、私じゃない。この傘だよ」
その言葉に、幸三と武宏はきょとんと顔を見合わせる。
「どういうことだい」
「この傘が物置から消えたのは、妖怪になったからだったんだ。付喪神――化け傘の一種になったんだろうね。幸三さん、貴方が見たという奥さんの魂は、この傘が人間に化けた姿だったんですよ。――元の持ち主の姿を真似た付喪神のね」
幸三と武宏は、揃って地面に転がった傘を見下ろす。傘はただ、沈黙して何も答えない。
「倉内寿子さんに長く大事に使われたこの傘は、彼女の亡くなる瞬間まで持ち続けていた強い想いを受け継いで、妖怪になった。それはたぶん――家族を守りたい、という想いだったんだろうね。二十年前、この傘が武宏さんを救ったのも、きっと偶然じゃなかったんだろう。あるいはそのときからもう、この傘は妖怪化し始めていたのかもしれない」
その言葉に、武宏は息を飲んで、壊れた傘を持ち上げた。
「そうか……やっぱり、助けてくれたのは、母さんだったんだ……」
「――武宏、お前、あのときのこと……覚えてたのか」
目を見開いた幸三に、武宏は頷く。
「あのとき……母さんを追って、自分も石段を転げ落ちそうになったとき、誰かに受け止められた気がしたんだ。あれは母さんが助けてくれたんだと思ってた。だけど、母さんは自分の遙か下で死んでいて――母さんが石段から落ちたのは、自分のせいだった気がして、だからずっと、あの日のことは忘れたふりをしていたんだ……」
「武宏……」
「母さん。母さんなんだよね? ねえ、母さんが寛子と有紀も助けてくれたんだね?」
武宏は壊れた傘にそう呼びかける。だが、傘はもう何も答えない。
「……その傘は、もう妖怪じゃない。ただの壊れた傘だよ」
「え……?」
愕然と振り向いた武宏に、ナズーリンはただ首を振った。――思い出すのは二週間前、多々良小傘から聞かされた話の続きだ。
「そういえば、結局のところ君は、持ち主に対して恨みを晴らしたいのかい?」
二週間前、去り際にその問いを小傘にかけたのは、全くの思いつきからだった。
そりゃ勿論、といったおどけた答えが返ってくるとナズーリンは思っていた。だが予想に反して、小傘が浮かべたのは、不似合いに寂しげな笑みだった。
「わちきの持ち主はきっと、もうこの世にいないでありんすよ」
「……そうか、それもそうだね。すまない」
「いやいや。それに、元の持ち主にうっかり会っちゃったら、私消えちゃうかも」
「え?」
「だって私、捨てられたから妖怪になったんだもの。元の持ち主に見つかって、また持ち主の傘になったら、その瞬間に私は《捨てられた傘》じゃなくなっちゃう。妖怪としての存在意義を失って、ただの傘に逆戻り。だから、今のままでいいの。立派な化け傘として、人間たちを恐怖のずんどこに叩き落とすのだー」
最後はおどけてそう言った小傘の笑みは、けれどやはり、どこか寂しそうに見えた。
捨てられた恨みで妖怪になった彼女は、逆に言えば、それだけ元の持ち主に焦がれているはずなのだ。それなのに、持ち主の元へ戻れば、それ故に消えてしまう。妖怪の死とは、存在理由の消失に他ならないのだから。
「その傘はもう、役目を終えたんだ。寿子さんが亡くなったときに残した想い、大切な家族を守りたいという、そのために妖怪になって、その役目を果たして、消えたんだよ」
――《彼女》は、そんな自分の運命を知っていたのだろうか?
暗い物置の中で目覚め、新米の化け傘として物置を抜け出した《彼女》が、こうしてここに戻ってくるまで、どんなものを見て、どんなことを思っていたのか。もはやそれは、誰にも知り得ないことだったけれど。
「そうか……お前はずっと、母さんの代わりに、見守ってて、くれたんだ……」
壊れた赤い傘を抱きしめて、武宏はただ静かに嗚咽した。その肩を幸三がゆっくりと叩く。
「……寛子さんと有紀のところに行こう、武宏。ふたりが待ってる」
武宏はその言葉に顔を上げ、目元を拭って、笑って頷いた。
その腕に、赤い傘を強く抱きかかえたまま。
ナズーリンはそれを、ただ黙って見送って――それから、ひとつ大きなくしゃみをした。
7
このところ、幻想郷は雨の日が続いていた。
「やれやれ、こうも雨続きだと息が詰まるな」
駐在所へ向かう里の道を歩きながら、ナズーリンはひとりごちる。手にした傘越しに見上げる空は、どんよりとした重たい灰色。
ぬかるんだ地面で跳ねる泥に辟易しながら歩いていると、ふと向こうから歩いてくるふたつの影に気が付いた。赤ん坊を抱いた、若い夫婦だ。
雨の中、その気詰まりな空気も吹き飛ばすような幸せそうな笑みを浮かべたふたりと、母親の腕の中で眠る赤ん坊。――母親の傘は、ひどく古びた、接ぎ跡だらけの赤い傘だった。
夫婦はナズーリンに気付くことなくすれ違う。それを立ち止まって見送り、ナズーリンは顔を上げる。相変わらず、空は雲に覆われて、陽光は姿を隠したままだったけれど。
厚い雲の上には、変わらない光がそこにある。
「――さて、今日も何事もなければいいんだけどね」
苦笑混じりにそう呟いて、ナズーリンは駐在所へ向かう足を速めた。
里の警備、里での犯罪行為の取り締まりから、道案内や落とし物の管理まで、里の治安維持のため働く自警団には、近年増加傾向にある、妖怪絡みのトラブルを主に扱う班が存在する。
メンバーは五人。命蓮寺から出向している、村紗水蜜、二ッ岩マミゾウ、ナズーリン。
妖怪退治の血を嗣ぐ変わり者の人間、小兎姫。
そして、彼女らを率いるリーダー、上白沢慧音。
妖怪三人、人間一人、半人半妖一人からなる、自警団《上白沢班》。
自警団の人間たちは、半分揶揄の意味合いも込めて、彼女たちをこう呼ぶ。
――自警団《妖怪班》と。
朝から降りしきる雨は、夕方になろうかという頃合いになっても止む気配が無い。
手にした傘を揺らしながら、倉内寿子は買い物袋を提げ、帰り道を急いでいた。
商店街で、夕飯の食材を買い込んできた帰りである。左手に提げた袋はずしりと重い。息を切らせながら、寿子はゆるやかな坂道を上る。打ち付ける雨に足元はぬかるんで、長靴はすっかり泥まみれだ。
坂道を上りきると、高台にある我が家へ通じる石段が見える。その下から石段を見上げて、寿子は思わず溜息をついた。いつものこととはいえ、長い石段を上り下りしなければ買い物にも行けない我が家の立地に、恨み言のひとつも言いたくなる。
とはいえ、今のところ寿子にとって、暮らしへの不満はそれぐらいのものだ。倉内家に嫁いで十年になるが、家具職人をしている夫は真面目すぎるほどに真面目で、酒や博打にのめりこむこともなければ浮気をしたこともない。五つになる息子は可愛い盛りだし、夫の両親との関係も良好だ。生活はとりたてて裕福というほどでもないが、五人家族が普通に暮らしていくだけの稼ぎと蓄えもある。
石段を半分ほど上ったあたりで、木陰に入って寿子は息をついた。少し休憩、と傘越しにぼんやり曇り空を見上げる。色を失ったような灰色の空に、傘の少しかすれた赤が眩しい。
寿子の赤い傘は、彼女が母から譲ってもらったお気に入りのものだった。何しろ彼女が幼い頃から使っていたものなので、既に何度か修理しているものの、随分とくたびれてきている感は否めない。それでも愛着が強くて、未だに手放せないでいた。たぶん完全に使えなくなってしまっても、どこかにしまい込んでとっておくだろうと思う。
誠実な夫と優しい義父母とともに、息子の成長を見守るという平凡な幸福。倉内寿子にとって、それは昨日も、今日も、そして明日も変わらずに在り続けるはずのものだった。もちろん、寿子の家族にとっても。
よし、とひとつ力を入れて、寿子は再び石段を上り始める。右手に傘、左手に重い買い物袋。濡れた石段を歩くその足取りは、少しおぼつかない。
ようやく石段の頂点が見えて来たところで、寿子はそこに小さな傘が揺れていることに気付いた。見覚えのある青い傘。あれは、息子の武宏のものだ。
「お母さん」
自分を迎えに来てくれたらしい。武宏が寿子の赤い傘を見留めて、そう声を上げた。寿子は息子の行為に思わず顔をほころばせて、「武宏」とその名を呼んで顔を上げ、
――濡れた石段の縁に引っかかった右足が、ずるりと滑った。
あっ、と思ったときには、身体が傾いで、彼女は雨粒を落とす灰色の空を見上げていた。
時間がひどくゆっくりと流れていた。左手の買い物袋から、玉葱や人参がこぼれ落ちる。右手の赤い傘が手から離れて舞いあがる。重力に引かれて、彼女の頭は石段の下の方へ傾いていく。雨粒が顔を、胸を、身体全体を打ち付けて――。
たけひろ、と、愛する息子の名前を呼ぼうとした。
その瞬間、今までの日々のあらゆる記憶が脳内を駆け巡って。
――衝撃。
意識が暗転する、刹那。
彼女の脳裏に浮かんだのは、ただ、息子の顔だった。
石段の上にいたあの子が、自分のように、転落していなければいい、と。
どうか、あの子には何事もありませんように――と。
彼女の耳に最後に聞こえていたのは、自分の身体が石段を転げ落ちる音と、変わることなく降りしきる雨の音だけだった。
1
「傘が消えたんです」
駐在所を訪れた、倉内武宏と名乗る青年は、机を挟んで小兎姫に向かってそう言った。
人里の中心部に位置する、自警団中央駐在所の一室、上白沢班詰所。日曜日の午後、上白沢班から駐在所に詰めていたのは、ナズーリンと小兎姫のふたりである。自警団は年中無休だ。
「落とし物ですか~? 傘の落とし物ならいくつか届いてますけど」
「いいえ、そうではなくて」
小兎姫がそう言うと、武宏はゆっくりと首を横に振る。
「倉にしまい込んでいた古い傘が、いつの間にか消えていたんです」
「はあ~」
「それで、そういう探し物ならこちらだと伺いまして」
小兎姫の脇で話を聞いていたナズーリンは、その言葉に小さく肩を竦めた。おそらく、以前にナズーリンが探し物を見つけてやった誰かから、話を聞いてきたのだろう。
案の定、小兎姫がこちらを振り向き、福々しい笑みを浮かべている。
「ナズーリンさん、お仕事ですよ~」
「はいはい、了解」
なんだかんだ言って、体よく自警団に使われてしまっていることにいささかの不満を覚えつつ、ナズーリンは小兎姫に代わって青年の前に座る。
「じゃあ、詳しく話を聞かせて貰おうかな」
「あ、は、はい――」
ナズーリンが自警団上白沢班に加わることになったのは、おおよそ村紗水蜜のせいだった。
水場で軽い水難事故を起こすいたずらをしていたことが白蓮にばれ、罰として里の人たちの役に立つ仕事をするようにと言われたムラサと、幻想郷に来たばかりのため里に早く馴染めるようにと白蓮が気を回した二ッ岩マミゾウ。ふたりが自警団に加わるにあたって、寅丸星からそのお目付役を仰せつかったのである。
正直なところ、寅丸星のお目付役であるはずの自分が、どうしてムラサやマミゾウの面倒まで見なければならないのか、と未だに思うところはある。さりとて上司の命令は絶対であり、ナズーリンは今日もこうして、律儀に駐在所で探し物の相談を受けている。
「消えたのは、母の形見の傘なんです」
「お母さんの?」
倉内武宏が訥々と語ったところをまとめると、以下のようになる。
彼の母、倉内寿子は二十年ほど前、雨の日に当時の家の近くの石段で足を滑らせ、転落して亡くなった。消えたのは、そのとき彼女が差していた赤い傘だという。
彼女は雨で足を滑らせた上、傘と買い物袋で両手がふさがっていてバランスが取れず、受け身をとることも出来なかったため、石段の下まで勢いよく転がり落ちて、ほぼ即死だったという。傘もその際に壊れ、使い物にならなくなった。
その赤い傘は、彼女が母親――武宏から見れば母方の祖母――から譲り受けたもので、彼女はその傘をとても大事にしており、何度か修理しながら使い続けていたという。
彼女の傘への愛着を知っていた武宏の父は、傘を捨てずにとっておくことにした。倉内家は寿子の事故からほどなく引っ越したが、寿子の形見となった傘は引っ越し後も家の物置に大事に仕舞われていたという。
それが無くなっていることに気付いたのは、武宏の父方の祖父が亡くなり、その遺品を整理しているときだった。
寿子の傘は、家具職人だった夫の作った箱に入れられ物置の奧に置かれていたが、その箱がいつの間にか空になっていたのだという。もちろん、家族の誰もその行方に心当たりはないといい、家中ひっくり返しての捜索も空振りに終わった。
特に貴重なものでもない、ただの壊れた傘なので、誰かに盗まれたとも思えない。
どうにも妙な話だし、形見がどこかに消えてしまったというのも亡くなった母に申し訳ない。そのため、こうして捜索を依頼しに来たということだった。
「拾得物の保管ならともかく、紛失物の捜索までは自警団の職掌じゃないと思うんだがね」
話を聞き終えてナズーリンがそう言うと、武宏は申し訳なさそうに身を縮こまらせる。ふぅん、とナズーリンは鼻を鳴らした。自警団の世話になるような真似をやらかしながら、こちらがネズミとみた途端、尊大な態度に出る人間は結構多い。だがこの青年は、人間の小兎姫と妖怪ネズミのナズーリンとで態度を変えなかった。そのことはまあ、評価できる。
「まあまあ、ナズーリンさん~」
と、横から小兎姫がほわほわとした調子で口を出す。
「困っている人の助けになるのが、自警団の仕事だ。班長ならきっとそう言いますよ~」
慧音の堅苦しい口調を真似て言った小兎姫に、ナズーリンは大仰に溜息をついた。
まあ、他に何か仕事があるわけでもない。詰所で退屈をもてあましているよりは、何かしていた方が気が紛れるのも確かだ。ナズーリンは立ち上がった。
「仕方ない。それじゃあ、とりあえず君の家まで案内して貰おうか」
「あ――はい」
「言っておくけど、見つけられるという保証はしないよ」
肩を竦めながらナズーリンは言うが、武宏は「よろしくお願いします」と深々と頭を下げる。妖怪の自分に対してもこう殊勝な態度を取られては、無碍にするのも気が引ける。その程度の人情は、ナズーリンだって持ち合わせているのだった。
2
倉内家は、里の東部に広がる住宅地にある一軒家だった。広くもなく狭くもなく、里ではごく平凡な二階建ての家である。
武宏に招き入れられたナズーリンを出迎えたのは、赤ん坊を抱いた髪の長い女性だった。女性はきょとんとした顔で、武宏とナズーリンの顔を見比べる。
「家内の寛子と、娘の有紀です。寛子、こちら自警団のナズーリンさん。あの傘のことで、探すのを手伝ってくださることになったんだ」
「ああ――」
納得した様子で、倉内寛子はナズーリンにぺこりと頭を下げた。会釈を返して、ナズーリンは家の中に上がり込む。
「綺麗な奥さんだね」
「いや、まあ、自分には勿体ないぐらいで」
ナズーリンが言うと、武宏は照れたように頭を掻いた。
「お茶でも淹れましょうか」
「いや、結構。さっさと用件を済ませよう。探し物の写真か何かは無いかい?」
「写真――父に聞いてみます。こちらで待っていていただけますか」
居間に通され、座布団に腰を下ろすと、赤ん坊を負ぶった寛子がお茶を持ってきた。淹れてもらったものを遠慮するのも何なので、素直に頂くことにする。
「……自警団の方なんですよね。夫がすみません、こんなことでお忙しいところを」
寛子も恐縮した様子でそんなことを言う。全くだよ、と答えてやろうかと思ったが、それも大人げない。ナズーリンは首を振るに留めた。
と、寛子の背中で赤ん坊がむずがり出す。「おお、よしよし」と寛子は身体をゆすってあやそうとするが、赤ん坊はそのまま泣き出してしまった。耳をつんざくような声に、ナズーリンは小さく眉を寄せ、不機嫌な顔を見られないように顔を背ける。
――次の瞬間、小さな手に尻尾の先端を掴まれた。
「っ!?」
振り返ると、赤ん坊がナズーリンの尻尾を掴んでいた。つい今まで泣いていたのに、今は少しぐずりながらも、不思議そうな顔をして小さな手で尻尾を握りしめている。
「こら、有紀、だめでしょ。すみません、こんな――」
「ばぁー」
ゆらゆらと動く尻尾に、あっという間に機嫌を直したらしく、赤ん坊はナズーリンの尻尾を掴んだままきゃっきゃっと笑い出した。尻尾の先に提げたカゴの中で、部下の小ネズミがおろおろとしている。寛子も困ったようにナズーリンと赤ん坊の顔を見比べていた。
振りほどいてやろうかと思ったが、それでまた大声で泣かれても具合が悪い。ナズーリンは憮然としながらも、尻尾の先を動かしてやった。赤ん坊はまた楽しげに笑う。なんで探し物に来て、子守までしなければならないのか。どうにも調子が狂っていけない。
ナズーリンのついた溜息は、赤ん坊の笑い声にかき消されて消えていく。
ほどなく、武宏が壮年の男性を連れて戻ってきた。彼の父、倉内幸三である。
「寿子の傘を探してくれるんだって? ありがたいが、うちの中のもんを囓らないでくれよ」
幸三は訝しげにナズーリンを見やりながらそう言った。そう、ナズーリンを見たときのごく真っ当な人間の反応がこれである。いつもならムッとするところだが、武宏や寛子がやけに物腰が丁寧なので、今は少しほっとするものを感じた。
「ご安心を。うちの部下たちはしっかりしているよ」
「どうだかね。――写真ってのは、こんなんでいいのかい」
幸三が差し出したのは、額縁に入った白黒写真だった。写っているのは、ここではない家の前に佇む若い女性と幼い子供。雨の中で撮ったのか、ふたりはひとつの傘の中に収まっている。
「武宏の二歳の誕生日に撮ったもんだ。ここで差してるのが、消えた寿子の傘だ」
ナズーリンは鼻を鳴らして、白黒写真を見つめる。あまり鮮明な写真とは言えなかったが、それでもその傘がだいぶ古びていることは見て取れた。布地には接ぎ跡がいくつかある。
「布地は赤ということだけど、持ち手の色は?」
「持ち手は木だ」
「なるほど、結構。まずは仕舞ってあった物置から、順に捜索させてもらうよ。うちの部下が家の中を少し走り回ることになるけど、邪険にしないでくれたまえよ」
ナズーリンが部下の小ネズミを集めてそう言うと、武宏は素直に頷き、寛子は少し顔をしかめ、幸三はただ不機嫌そうに眉を寄せた。まあ、ネズミが家の中を引っかき回すと言われていい気分になる人間はそうはいないだろうから、この反応に怒る気は無い。実際に怒らせないように、こっちは部下にちゃんと言い含めるだけだ。
ナズーリンは写真を部下たちに確認させ、武宏の案内で物置に向かうと、「それじゃ、探索開始!」と命じた。ぱっとネズミたちは物置の中に散らばり、小さな隙間に潜り込んでいく。もちろん部下だけに任せることはなく、ナズーリン自身も雑然とした物置の中にダウジングロッドを向けて、探し物の気配を探る。
「そんなやり方で、本当に見つかるのかい」
不意に口を挟んできたのは、いつの間にか姿を現していた幸三だった。
「この家の中にあるなら、見つける自信はあるよ」
ナズーリンが答えると、幸三はどこか遠い目をして、「それなら、きっと見つからないんじゃないかね」と呟いた。ナズーリンは眉を寄せる。
「この家の中には無いという確証でも?」
「さあね。そもそも箱の中に入れといた傘が、羽でも生えたみたいに勝手に消えたんだ。どこにあっても驚かんが」
そこで言葉を切って、幸三はこちらから顔を背けると、呟くように言った。
「あれはきっと、あいつが持って行っちまったのさ」
どういう意味か、とナズーリンが聞き返そうとしたときにはもう、幸三は踵を返して家の奥に引っ込んでしまった。溜息をついて、ナズーリンは探索を再開する。
――羽でも生えたみたいに、か。
そのときふと、ナズーリンの脳裏に、あるひとつの想像が浮かんだ。だがそれは、とりあえず一通りの捜索を済ませてから検討すべき可能性だった。ただ単に、どこかに紛れ込んだだけの可能性の方が高い。今のところは、だが。
しっかり探してくれよ、お前たち。物置の中を駆け巡る部下に、ナズーリンはそう念じた。
3
結局、物置の中どころか、家中に探索範囲を広げても、それらしき傘は見つからなかった。床下や天井裏まで調べたのだから、これ以上の打つ手は思い当たらない。
「すまないね、力になれなくて」
「いえ、こちらこそ、こんな時間までありがとうございます」
玄関先で、武宏はナズーリンにそう頭を下げた。空はすっかり夕焼けに染まって、遠くでカラスが鳴いている。自警団の仕事じたいもそろそろ切り上げの時間だった。
「もし、それらしき傘が落とし物として届いたら、すぐに連絡するよ」
「よろしくお願いします」
最後まで丁寧な物腰を崩さない武宏に、ナズーリンは微笑して、「じゃあ、私はこれで」と踵を返しかけ――ふと思い出して、もう一度武宏に向き直った。
「そういえば、君の父上が少し気になることを言っていたんだが」
「父がですか?」
「ああ。『きっと、あいつが持って行っちまったのさ』――とね」
ナズーリンの言葉に、武宏は目を細め、「ああ」と頷く。
「……たぶん、あのことだと思います」
「あのこと?」
「傘が消えているのに気付く少し前に、父が夜中に、母の姿を見たと言って騒いだことがあったんです。夢でも見たんだろうと思いますが――実際に傘が消えているんですから、本当に母の魂があの傘を探しに我が家まで来ていたのかもしれませんね」
少し寂しそうに微笑して、武宏はそう言った。「そうか」とナズーリンはただ頷く。
――さて、そうなると、あの可能性を検討すべきか。いや、その前にもう少し、残りの可能性の方を詰めておくべきだろう。
ひとり、心の中でそう決断し、ナズーリンは倉内家を後にした。
駐在所に戻ると、小兎姫の他に、これから夜番に入ることになっている慧音の姿があった。
「あ、ナズーリンさん、おかえりなさい~」
「おかえり、ナズーリン。倉内さんのところで探し物だって? ご苦労様」
「ただいま。全く、自警団を便利屋か何かと間違えてる人間が多すぎないかい?」
「そう言うな。頼りにされてるということなんだから」
「頼られる方向がそれでいいのかね。そのうち子守や掃除まで押しつけられても知らないよ」
ちょうどそこで、勤務時間の終わりを時計が告げた。「それじゃ、私は着替えてきますね~」と小兎姫が奧に引っ込む。ナズーリンも《自警団》の腕章を外してロッカーに放り込み、しかしすぐには帰ろうとせず、慧音に向き直った。
「班長殿。少しだけ、確認したいことがあるんだが」
「なんだ?」
「二十年前の、倉内寿子という女性の事故死について、班長殿は何かご存じかな」
ナズーリンの問いに、慧音はすっと目を細めた。
「今日の探し物と、何か関係があるのか?」
「探しているのは、そのとき彼女が差していた傘なんだ」
ああ、と慧音は納得したように息をつく。――そういえば、半人半妖のこの班長の実年齢と寿命は人間相応なのか、それとも妖怪相応なのだろうか、とふとナズーリンは疑問に思った。
「あれは不幸な事故だったな。私も覚えているよ。五十段以上ある石段の、上の方から一番下まで転げ落ちたんだ。亡くなった倉内の奥さんはかなり痛々しい姿だったと聞いている」
おまけに、と慧音は腰に手を当てて、ひとつ思案げに首を傾げた。
「彼女の息子――武宏君だったか。まだ幼かった彼は、石段のところへ母親を迎えに言って、結果として母親が石段を転げ落ちていくのを目の前で見ていたらしい」
「え?」
ナズーリンは思わず目を見開いた。――倉内武宏から聞いた話では、そんな話は全く出なかったのだ。そんなナズーリンの反応に、慧音は目をしばたたかせる。
「転げ落ちた母親を追おうとして、彼も石段で転んで怪我をしたはずだ。幸い母親のように下まで転げ落ちることはなく、軽傷で済んだという話だったな」
そんなことがあったのか。しかし、どうして倉内武宏はそのことを話に出さなかったのだろう。――二十年前のことだから、単に忘れてしまったのかもしれない。人間の記憶力というものは、寿命相応に、妖怪のそれより経年劣化が早いはずだ。
「そうか……そんなことが。不幸中の幸い、と言っていいのかな、それは」
呟いたナズーリンに、慧音は一拍おいて訊ねた。
「――探しているのは、倉内の奥さんが使っていた傘なんだよな?」
「ん? ああ。物置に仕舞ってあったのが、いつの間にか消えたらしくてね」
「そうか……」
「何か気になることでもあるのかい?」
問いかけると、慧音は「いや」とひとつ首を振り、それから呟くように言った。
「確かそのとき武宏君が軽傷で済んだのは、その傘がクッションになったからのはずなんだ」
4
駐在所を辞したあと、のんびりと歩いて、里の最北端にある命蓮寺に辿り着く頃には、あたりはすっかり闇に包まれていた。命蓮寺も既に門を閉ざしている。
門の横の通用口から入り込んだナズーリンは、しかし寺ではなく、その裏手の方へとまっすぐに向かった。目的は、倉内家の傘の行方について、ひとつの仮説を検証するためである。
家の中に傘が存在しないという事実から、ナズーリンは第一に、倉内幸三が既に処分してしまっていた、という可能性を考えた。何しろ彼の妻が命を落とした原因のひとつは、傘で手がふさがっていたことと言えなくもない。妻の形見とはいえ、その事故の一因を担ったものを、後生大事にとっておくだろうか、という疑問からだ。
だが、彼の息子、倉内武宏の命を同時に救ったものでもあるとすれば、話は別だ。倉内寿子の魂が息子を守ったのだという思いは、当然あっただろう。そうなると、複雑な思いとともに物置にしまい込んでいたというのは納得できる。
武宏に、母の傘が彼を守ったという話をしていないのも、傘の存在が同時に母の死の一因であったことや、目の前で母の転落を見た息子の心を慮ってのことと思えば、やはり得心がいく。
――となれば、倉内幸三が処分した、という可能性は低いとみるべきだろう。もちろん、何らかの心変わりがあったのかもしれないが、そこまでは部外者のナズーリンには推し量れない。
第二に考えた可能性は、倉内武宏の妻、倉内寛子が何も知らずに処分してしまい、今更言い出せなくなっている、という可能性だ。ただ、それなら寛子にもう少し、自分に対して思わせぶりな素振りがあっただろう。ナズーリンの見た限り、倉内寛子の態度は、彼女の知らない夫の母の話を、部外者の立場から眺めているという雰囲気だった。よって、第二の可能性もここではこれ以上の検討は不可能である。
第三の可能性は、傘の消失が明らかになったきっかけである、先日亡くなったという武宏の祖父が関わっている可能性だが、これはなおさら確かめようもない。
第四の可能性、倉内武宏の自作自演というのも、心証としては無さそうだ。何らかの手違いで母の形見を処分してしまい、それを隠すために一芝居打ったという可能性はあるが、これでも長く生きた身だ、演技をしているかどうかぐらいの見当はつく。ナズーリンの捜索を手伝う様子が演技だとしたらなかなかの役者だ。よってこれも検討外。
以上、ナズーリンの観測した範囲内で、傘の消失に関わっていそうな人間は全員、今のところ容疑の圏外である。――となると、全く別のアプローチを考えた方がいい。
すなわち、傘が消えたのは、傘自身の意志であるという可能性だ。
命蓮寺の裏は墓地になっている。当然ながら、夜に墓参りをしようなどという奇特な人間はいないので、墓地はひっそりと静まりかえっていた。
さて、彼女は今日はここにいるだろうか。ナズーリンが墓石の間に足を進めると、不意に墓石の陰から、飛び出してくる黒い影。
「う~ら~め~し~や~」
「はいはい、表の蕎麦屋に出前を頼むよ。チーズハンバーグ定食、ごはん少なめで」
「ま~い~ど~あ~り~、って違うわ! しかも人間じゃないし!」
墓場でひとりノリツッコミをしているのは、大きななすび色の傘を手にした妖怪の少女、多々良小傘である。小傘は墓石に肘をついて大げさに溜息をついた。
「お腹空いてるのはこっちだわさー」
「ひとつアドバイスしようか。人間は夜中に墓参りには来ないよ、普通はね」
「なんと! わちきがここで夜な夜な待ち構えるのは時間の無駄と申すか。ぐぬぬ」
「まあ、君の食事方法はどうでもいいんだが」
「ひどい!」
「少しばかり君に聞きたいことがあるんだけど、構わないかい」
「え? 私に?」
ナズーリンの言葉に、小傘はぱちくりとその大きな目を瞬いた。
頷いて、「何しろ、君のお仲間に関するかもしれない話だ」とナズーリンは続ける。
「――人間の元で、二十年以上使い込まれた傘が、二十年ばかり物置で埃を被っていた。化け傘の立場から見て、この傘は妖怪になり得ると思うかい?」
5
ナズーリンが倉内家に捜索に行ってから、二週間ほど経った日のことである。
その日、ナズーリンは慧音とともに昼から駐在所に詰めていた。里は相変わらず平和なもので、仕事と言えば届けられる落とし物を預かったりするぐらいである。あとはせいぜい、愚痴を言いにくる老人の相手をするぐらいか。
そんな昼下がりの退屈を吹き飛ばす音が鳴り響いたのは、夕方になろうかという頃だった。
長々と嫁の愚痴を言っていた老婆がようやく腰を上げ、それを見送ってナズーリンが一息ついたそのとき。カン、カン、カン、と甲高い鐘の音が三回続けて響き渡った。
慧音が険しい顔で立ち上がる。ナズーリンも、その鐘の音は何度か聞いたことがあった。
「火事か」
ふたりは駐在所を飛び出す。あたりを見回せば、里の東部の一角から煙が上がっているのが見えた。通りを行き交う人々も足を止め、煙の方を指さして何事か言い合っている。
「あのあたりは、住宅地だな。消防団が出てるだろうが――私たちも行こう」
「了解」
走り出した慧音の後を、ナズーリンは追いかける。里には自警団とは別に消防団が存在するが、大きな火事の場合、消火活動に人手は多いに越したことはないのだ。
煙のあがる方向へ走っていくと、不意にナズーリンはその道のりに既視感を覚えた。つい最近、同じような道を通った。――ということは。
予感はほぼ的中した。里の住宅地の一角、激しく燃えていたのは倉内家の隣の家である。悪いことに倉内家とは庇が接するほどの距離で、噴き出した炎が延焼したらしく、倉内家の窓からも炎があがっていた。
燃えている家の周囲は野次馬でごった返していた。消防団の法被を着た男たちが走り回り、消防団の腕用ポンプ車が出動して放水を始め、近くの水場からのバケツリレーも始まっている。しかし火勢は強く、炎は勢いよく倉内家全体を飲みこもうとしていた。
とりあえずバケツリレーを手伝うべきかな、と視線を巡らせたナズーリンは、野次馬の向こうで何事か喚いている姿があることに気付く。耳を澄ませば、その声は倉内武宏のものだ。
「放せ! 放してくれ! 寛子と有紀がまだ中にいるんだ!」
慧音にもその声が聞こえたらしい。ナズーリンは慧音と顔を見合わせ、野次馬を掻き分けて倉内家の前に出る。そこで、倉内武宏が消防団の男に押さえつけられていた。
武宏はこちらを振り向き、すがりつくような目でナズーリンを見つめた。――あまり、そういう目で見ないでほしい、とナズーリンは思う。都合のいいときだけ自分たち妖怪の力に頼ろうとするのは止めて欲しい。――そうは思ったが。
ナズーリンの尻尾を掴んできゃっきゃっと笑っていた赤ん坊の顔が、脳裏に浮かんだ。
慧音が前に出ようとするのを、ナズーリンはダウジングロッドで制した。慧音が驚いたようにこちらを見下ろす。ナズーリンは小さく肩を竦め、武宏に歩み寄った。
「奥さんと娘さんが中にいるのか?」
「寛子は……具合が悪くて、二階で休んでいて……有紀も、そこに……」
「二階か――分かった。班長殿は消火を手伝っててくれ。私が行く」
「ナズーリン」
「人間が火の中に飛び込んだら命がいくつあっても足りないよ。――本当は船長に任せたいところだけど、時間も無さそうだしね」
幽霊のムラサがここにいたら、さっさと助けに行けと容赦なく火の中に突き飛ばしてやるところだ。だが、呼びに行っている暇はない。これも貸しだよ船長、と心の中だけでひとりごちで、ナズーリン近くのバケツリレーからバケツを借りて水を被る。妖怪とはいえ、火だるまにはなりたくはない。
「それじゃ、奥さんと娘さんを見つけてくるよ」
そして、ナズーリンは炎を噴き上げる倉内家の中に飛び込んだ。
家の中は、既に火の海と言っていい状態だった、木造の家屋は火の回りが早い。あちこちを炎が舐め尽くし、家全体がぎしぎしと軋みをあげている。本格的に時間が無さそうだ。
幸い、以前に隅々まで傘を探したので、倉内家の間取りは頭に入っている。炎の中を掻き分けて、ナズーリンは一直線に階段へと向かう。階段は手すりが燃えていたが、まだ二階へは上れそうだった。一段飛ばしに一気に駆け上がる。
「奥さん! 有紀ちゃん! どこだい!」
炎の爆ぜる音の中、ナズーリンが声を張り上げると、微かに赤ん坊の泣き声がした。まだ生きている! ナズーリンは耳に神経を集中して、泣き声の元を探る。――こっちか。
燃える襖を蹴破るように飛び込むと、畳も布団も炎に飲まれつつある座敷の中に、うつぶせに倒れた倉内寛子の姿があった。――赤ん坊は、その胸の中で泣き叫んでいる。
「奥さん! 大丈夫かい?」
ナズーリンが駆け寄るが、赤ん坊を炎から守るように抱きかかえたままの寛子は返事をしない。間に合わなかったか、と奥歯を噛みしめかけるが、口元に手を当てると、まだ寛子は息をしていた。どうやら煙を吸って意識が朦朧としているらしい。
まずいな、とナズーリンは顔をしかめた。もちろんナズーリンは妖怪だ、人間の女と赤ん坊ぐらいの重さなら担ぎ上げることはできる。だが、体格差はいかんともしがたい。寛子はさほど大柄ではないが、小柄なナズーリンがその身体を抱えようとするとどうしてももてあましてしまう。その上で無事にこの二階から脱出させるとなると、燃えている障子窓からふたりまとめて抱えて飛ぶしかないか。
「やるしかないか。全く――」
炎の中、ナズーリンは窓際に駆け寄り、火のついた障子窓を開け放つ。両手が炎に炙られたが、構ってはいられない。窓を開けると人間の通れそうな隙間が生まれた。同時に外の空気が激しく流れ込んで、室内の炎が勢いを増す。ぐずぐずしてはいられない。ナズーリンは寛子を肩に担ぐようにして抱え、赤ん坊も抱きかかえて、窓から飛び出そうとし、
――次の瞬間、突然、窓の外に大量の水が降りそそいだ。
一瞬、ナズーリンは消防団の放水がここに届いたのかと思った。だが、部屋の間取りを考えれば、ここは道路側から放水が届く場所ではない。それに、窓の外に降りそそぐ水は、下から噴き上げるものではなく、天から落ちてくる水だ。
それはまさに、突然の豪雨。つい先ほどまで晴れていたはずなのに――。
雨の勢いは止まらない。大量の雨水は、炎に焦がされて脆くなった屋根を破って、ナズーリンたちのいる室内にまで降りそそいだ。畳を、布団を、障子を、天井を舐めていた炎が、突然の豪雨に一気に勢いを失っていく。ナズーリンはその雫の中に、寛子と赤ん坊を抱えたまま呆然と立ち尽くして。
そして、炎が完全にその息の根を止められた頃、また唐突に、雨は止んだ。
気付けば自分だけでなく、抱えた寛子も赤ん坊もずぶ濡れだった。だが、少なくとも目の前の危険は消え失せた。我に返ったナズーリンは、火の消えた窓から、ふたりを抱えてひらりと外へ飛び出す。そのままふたりを抱えて門の前まで飛ぶと、野次馬から歓声が上がった。
「寛子! 有紀!」
降り立ったナズーリンに、武宏が駆け寄ってくる。泣いている赤ん坊を抱き上げ、それからぐったりした寛子の身体を、武宏は強く揺さぶった。
「寛子、」
「大丈夫、気を失っているだけだよ。――班長殿、ふたりを医院へ」
「ああ、分かった。誰か、手を貸してくれ!」
慧音が呼びかけ、消防団の若者が駆け寄ってくる。武宏は安堵したようにその場にへたりこんで動けなくなっていた。それを見やって、ナズーリンは小さく笑みを漏らす。――人間の命が助かったことを、素直に喜ばしいと思ったのは、そういえば初めてかもしれなかった。
「そういえば、さっきの豪雨は何だったんだい?」
ナズーリンが近くにいた消防団員にそう訊ねると、相手も「いや、こっちも突然で何がなんだか」と首を捻った。
「突然、この家の周りにだけ大雨が降り出したんだよ」
「この家の周りだけ?」
ナズーリンは眉を寄せ、――そして、ああ、とひとつの可能性に気付いて、天を仰いだ。
その考えを裏付けるように、白い煙のあがる夕暮れの空に、小さな赤い点が現れ、それは徐々に大きくなっていった。
へたりこんでいた武宏が、ナズーリンの視線を追うように空を見上げる。そして、舞い降りてくるそれの姿を見留めて、大きく息を飲んだ。
――突然の豪雨を降らせた空から、ゆっくりと舞い降りてきたのは。
倉内家の物置から消えた、倉内寿子の赤い傘だった。
6
「私たち付喪神っていうのはさ、何も年数だけが問題じゃないのよねえ」
二週間前、命蓮寺裏の墓場で、多々良小傘はナズーリンの問いにそう答えた。
「そりゃもちろん、長く使われるほど神霊が宿って、私みたいな付喪神になる可能性は高くなるわけだけど。要はね、持ち主の心次第なのさ」
「というと?」
「たとえばねえ。私は捨てられた恨みからこうして化け傘になったわけだけど、別に捨てられた傘が全部化け傘になるわけじゃないのよ。それじゃ世の中化け傘だらけになっちゃって、ますます私はひもじくなっちゃう」
「そりゃ、確かにそうだ」
「だから、私が無数の捨てられた傘の中から妖怪になったのは、私の元の持ち主がね、私とおんなじように、誰かに捨てられた恨みを抱えてたからじゃないかなーと、思うわけ。私はその持ち主の心の影響を受けて、自分も捨てた相手を恨むことを覚えたんじゃないかなーと、そんなことをぼんやり考えたりもするわけですよ」
「意外と物事を考えているんだな、君も」
「失礼な! わちきの頭が空っぽと申すか」
「別にそこまでは言ってない。それで?」
「だからねえ。その傘が、私みたいに妖怪になってどっかに消えたんだとすれば、何か持ち主の強い想いををね、引き継いじゃったからじゃないかなーと」
「強い、想い……ね。もうひとつ、いいかい」
「今度は何さ?」
「君のその、人間の方の姿は、何が由来なんだい?」
「この格好? あー、私は持ち主のことはあんまり覚えてないから、私のことを無碍にした人間たちの気を惹きそうな格好を自分で考えたのよ」
「それで、怖がらせるには向いてない姿をしてるわけだ」
「ぐ、ぐぬぬ」
「――持ち主のことを覚えていれば、持ち主の姿を真似たのかい?」
「たぶん、ねえ。人形みたいに元から人型ならともかく、私らみたいなモノの付喪神は、人間の姿をするなら、普通は大事にしてくれた人間の姿を真似るんじゃないかしら」
そんなことを言って、多々良小傘は小首を傾げてみせた。
「武宏!」
野次馬を掻き分けて、姿を現したのは倉内幸三だった。どうやら仕事に出ていたらしい。
幸三は焼け焦げた家を見やって顔をしかめ、それからへたりこんだ武宏と、その近くに転がった赤い傘を見下ろして、目をしばたたかせた。
「おい、寛子さんと有紀はどうした?」
「ふたりなら、里の医院に運んだよ。大丈夫、多少火傷はしたかもしれないが、無事だ」
「なんだ、そうか――」
ナズーリンの答えに、幸三は大きく安堵の息をつき、それから赤い傘を見やる。
「……で、なんで寿子の傘がこんなところにあるんだ」
その問いに、武宏も「……分からない」と首を横に振った。「ただ、――」と、それから武宏は家の中に取り残された寛子と有紀を助けにナズーリンが飛び込んだこと、突然の局所的豪雨が火を消したこと、その後にこの傘が天から降ってきたことを幸三に語る。その話を聞いて、幸三は慌ててナズーリンに向き直った。
「あんたがうちの嫁と孫を助けてくれたのか――ありがとう、ありがとう」
土下座でもしかねない勢いで、幸三はナズーリンに深く頭を下げる。ナズーリンは目を細め、ゆっくり首を横に振った。
「……ふたりを助けたのは、私じゃない。この傘だよ」
その言葉に、幸三と武宏はきょとんと顔を見合わせる。
「どういうことだい」
「この傘が物置から消えたのは、妖怪になったからだったんだ。付喪神――化け傘の一種になったんだろうね。幸三さん、貴方が見たという奥さんの魂は、この傘が人間に化けた姿だったんですよ。――元の持ち主の姿を真似た付喪神のね」
幸三と武宏は、揃って地面に転がった傘を見下ろす。傘はただ、沈黙して何も答えない。
「倉内寿子さんに長く大事に使われたこの傘は、彼女の亡くなる瞬間まで持ち続けていた強い想いを受け継いで、妖怪になった。それはたぶん――家族を守りたい、という想いだったんだろうね。二十年前、この傘が武宏さんを救ったのも、きっと偶然じゃなかったんだろう。あるいはそのときからもう、この傘は妖怪化し始めていたのかもしれない」
その言葉に、武宏は息を飲んで、壊れた傘を持ち上げた。
「そうか……やっぱり、助けてくれたのは、母さんだったんだ……」
「――武宏、お前、あのときのこと……覚えてたのか」
目を見開いた幸三に、武宏は頷く。
「あのとき……母さんを追って、自分も石段を転げ落ちそうになったとき、誰かに受け止められた気がしたんだ。あれは母さんが助けてくれたんだと思ってた。だけど、母さんは自分の遙か下で死んでいて――母さんが石段から落ちたのは、自分のせいだった気がして、だからずっと、あの日のことは忘れたふりをしていたんだ……」
「武宏……」
「母さん。母さんなんだよね? ねえ、母さんが寛子と有紀も助けてくれたんだね?」
武宏は壊れた傘にそう呼びかける。だが、傘はもう何も答えない。
「……その傘は、もう妖怪じゃない。ただの壊れた傘だよ」
「え……?」
愕然と振り向いた武宏に、ナズーリンはただ首を振った。――思い出すのは二週間前、多々良小傘から聞かされた話の続きだ。
「そういえば、結局のところ君は、持ち主に対して恨みを晴らしたいのかい?」
二週間前、去り際にその問いを小傘にかけたのは、全くの思いつきからだった。
そりゃ勿論、といったおどけた答えが返ってくるとナズーリンは思っていた。だが予想に反して、小傘が浮かべたのは、不似合いに寂しげな笑みだった。
「わちきの持ち主はきっと、もうこの世にいないでありんすよ」
「……そうか、それもそうだね。すまない」
「いやいや。それに、元の持ち主にうっかり会っちゃったら、私消えちゃうかも」
「え?」
「だって私、捨てられたから妖怪になったんだもの。元の持ち主に見つかって、また持ち主の傘になったら、その瞬間に私は《捨てられた傘》じゃなくなっちゃう。妖怪としての存在意義を失って、ただの傘に逆戻り。だから、今のままでいいの。立派な化け傘として、人間たちを恐怖のずんどこに叩き落とすのだー」
最後はおどけてそう言った小傘の笑みは、けれどやはり、どこか寂しそうに見えた。
捨てられた恨みで妖怪になった彼女は、逆に言えば、それだけ元の持ち主に焦がれているはずなのだ。それなのに、持ち主の元へ戻れば、それ故に消えてしまう。妖怪の死とは、存在理由の消失に他ならないのだから。
「その傘はもう、役目を終えたんだ。寿子さんが亡くなったときに残した想い、大切な家族を守りたいという、そのために妖怪になって、その役目を果たして、消えたんだよ」
――《彼女》は、そんな自分の運命を知っていたのだろうか?
暗い物置の中で目覚め、新米の化け傘として物置を抜け出した《彼女》が、こうしてここに戻ってくるまで、どんなものを見て、どんなことを思っていたのか。もはやそれは、誰にも知り得ないことだったけれど。
「そうか……お前はずっと、母さんの代わりに、見守ってて、くれたんだ……」
壊れた赤い傘を抱きしめて、武宏はただ静かに嗚咽した。その肩を幸三がゆっくりと叩く。
「……寛子さんと有紀のところに行こう、武宏。ふたりが待ってる」
武宏はその言葉に顔を上げ、目元を拭って、笑って頷いた。
その腕に、赤い傘を強く抱きかかえたまま。
ナズーリンはそれを、ただ黙って見送って――それから、ひとつ大きなくしゃみをした。
7
このところ、幻想郷は雨の日が続いていた。
「やれやれ、こうも雨続きだと息が詰まるな」
駐在所へ向かう里の道を歩きながら、ナズーリンはひとりごちる。手にした傘越しに見上げる空は、どんよりとした重たい灰色。
ぬかるんだ地面で跳ねる泥に辟易しながら歩いていると、ふと向こうから歩いてくるふたつの影に気が付いた。赤ん坊を抱いた、若い夫婦だ。
雨の中、その気詰まりな空気も吹き飛ばすような幸せそうな笑みを浮かべたふたりと、母親の腕の中で眠る赤ん坊。――母親の傘は、ひどく古びた、接ぎ跡だらけの赤い傘だった。
夫婦はナズーリンに気付くことなくすれ違う。それを立ち止まって見送り、ナズーリンは顔を上げる。相変わらず、空は雲に覆われて、陽光は姿を隠したままだったけれど。
厚い雲の上には、変わらない光がそこにある。
「――さて、今日も何事もなければいいんだけどね」
苦笑混じりにそう呟いて、ナズーリンは駐在所へ向かう足を速めた。
よくあるような王道の話かなとは思いました。
そしてわかっていても涙腺を刺激するのが王道の恐ろしいところ…。
しかし、背景描写など子細にわたって巧いですねぇ。
ナズーリンは本当によく働きますね
二人とも自分のイメージにぴったりで動いていたのでスイスイ読めました。
是非続編も期待したいです。
尻尾で赤ちゃんをあやすナズーリンが一番ズキュンとしましたw
ナズーリンが超人的に一人で何でもお見通し、というのではない所に好感がもてました。
狐独のグルメの次作、待ち望んでいました。
渋々ながらもみんなに頼られているナズ素晴らしかったです。続編も楽しみにお待ちしていますね!
ハートフルな物語をありがとうございました。
最初の寿子さんのあたりの描写を見て現代物かと思いましたがそうではなかったのですね。
小傘がいい味出してました。
あと不覚にも「ま~い~ど~あ~り~」で吹いた。
班長:上白沢慧音(本部特務情報調査室長)
副長:小兎姫(本部婦人警防隊主任指導員)
班員:二ツ岩マミゾウ(庶務・会計監査員)
班員:村紗水蜜(水防・消防技術員)
班員:ナズーリン(諜報・偵察技術員)