私は今、とても悩んでいる。この窮地をどう凌ぐべきか、悩んでいる。
改めて現状を確認しよう。ここは命蓮寺の屋根の上、空はこれでもかってくらい青く、太陽も今は見えないが燦然と輝いている。そんな空の下で私は、背中を屋根にべったりくっつけて、四肢を強い力で押さえつけられている。目の前では、新緑の長い髪が日光を浴びて煌めいていた。
どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのか。今日は幸せな一日になるはずだったのに。それとも、正体不明の存在が幸せを願ったことが間違いだったとでも言うのだろうか。
もしそうだとしたら、神様――勿論、目の前で満面の笑みを浮かべている現人神とやらも含む――に全力で文句を言ってやりたかった。
ああ、神様――勿論、目の前で満面の笑みを浮かべている現人神とやらは除く――、助けてください。
きっかけは唐突に差し出された小包だった。
「…………何これ?」
「あれ、ぬえ知らないの? チョコレートだよ。今日"バレンタイン"なんだって」
差し出したのは聖輦船の船長、村紗水蜜である。彼女の服と同じように白を基調とした包装紙でラッピングされた小包の中にはチョコレートが入っているらしい。バレンタイン、というのが何かよく分からなかったが、最近幻想郷に入ってきた風習らしいとムラサから聞いた。
「なんかね、日頃から仲良くしてる人にチョコレートを送る日、って聞いたから。もしかしてぬえチョコレート嫌いだった?」
「そんなことないっ。いる。…………いるけど、なんで私に?」
仲良くしている、という条件なら私以外にも当てはまる者がいるはずだ。しかし今朝からムラサが何かを配っていた様子はないし、手持ちにある包はこれ一つだった。
「あんまりチョコレートばっか作ってもねえ……。一輪とは一緒に作ったから渡してもしょうがないし。ぬえが一番付き合い長いでしょ。受け取ってよ」
「あ……うん。手作りなんだ?」
「ちゃんと見てもらいながら作ったから、味は安心していいよ」
そんなことは心配していない、と言いかけて、やめた。じゃあ何故聞いたんだ、と聞かれた時にうまく誤魔化す自信がなかったからだ。ぶっきらぼうに礼を言ってその場をやり過ごして、命蓮寺の屋根の上を目指した。あそこは日当たりがよく、今日のようなよく晴れた日はとても気持ちが良い。昨日まで降っていた雪が残っているかもしれないが、今日は二月にしては気温も高めの日向ぼっこ日和だった。
屋根の上で包を開けると、シンプルな作りの箱にこれまたシンプルなチョコレートが六つ並んでいた。見る人によっては味気がないと言われそうなそれは、しかしとてもムラサらしさを感じる。
一つ目をゆっくりと口に含んだ。甘いというより苦い。しかしその中に確かな甘みが隠されている。ビターチョコというやつだろう。チョコレートというだけで甘いものを想像していたが、この方がムラサの好みなのかもしれない。
最後の一つを堪能し終えて、包を丁寧に直して横に置き、日向ぼっこでもしようと寝転がった。その瞬間、私に覆い被さる影があり、私は反応することすらできなかった。
そして、現状に至る。
手足を動かして抵抗を試みるが、どれほど力を入れても目の前の人間はまったく動かない。本当に人間か疑わしくなるが、常識に囚われてはいけませんよ、と心の中を読んだようなことを言うので人間でないと考えることにした。さとり妖怪と鬼をミックスした何かだと考えて、勝ち目がない気がしたので抵抗をやめた。
「食べましたね?」
そして、第一声がこれである。率直に言って非常に怖い。平時ならば周囲の男どもを魅了しそうな笑顔が、その怖さに拍車をかけている。恐れ慄きながらも抵抗をやめた自分は、死罪を受け入れた罪人のようだった。
「知ってます? 外の世界にはバレンタインデーの他にホワイトデーってものもあるんですよ」
「知らない! 知らないから許してください!」
「許しません」
私の請願を考えるまでもなく一蹴し再びニッコリと微笑む。そういえば笑顔は元々威嚇のためのものらしい、と思い出したのはただの偶然であって、目の前の笑顔は関係ない。目の前のソレはもはや威嚇なんて生温いものではない。精神攻撃に長時間――といっても実際には二、三分だろうが――晒された私のメンタルは崩壊した。
「ど、どうすれば許していただけますか」
「一ヶ月後、三月十三日にうちに来て下さい。守矢神社の場所は知ってますか? 知らなかったら小傘さんに案内してもらって下さい。ああ、小傘さん以外の人にこのことを言ってはダメですよ。それではっ!」
言いたいだけ言って、新緑の巫女は去っていって、私の心は平穏を……取り戻さなかった。それは今の私は死刑執行を引き延ばされただけだからである。
神様、やっぱり助けて下さい。
「それでは! 今日はクッキーを作りましょう!」
「…………はい」
「早苗もぬえも頑張れー」
あれから一ヶ月、この日のイベントをなんとか回避しようと思考を巡らせたが妙案は浮かばなかった。その間の私といえばよほど挙動不審だったようで、聖や星のようなお人好し連中はもちろん、一輪やナズーリンのように普段は他人に興味がなさそうな連中にまで心配される有様だった。ムラサには、そういう素振りを見せないようにしていたので、何も言われていない。
イベント回避を諦めた私だったが、素手で大迷宮のラスボスと対峙する自信はなかったので小傘を連れて行くことにした。精神安定剤か、抑止力ぐらいにはなるだろうと目論んだのだ。案内を頼んだときの小傘のリアクション――妙に達観した笑みを浮かべて無言で肩を叩いてきた――を考えれば、あまり期待できないのかもしれないが。
「いいですか、ホワイトデーはバレンタインにチョコを貰ったお返しをする日です。上手に作れとは言いませんが、気持ちを込めなくてはいけませんよ!」
「は、はい。……そういえば今日はチョコじゃないんだ?」
「チョコはバレンタインの時で飽き……じゃなくて、作りすぎて材料がないので、今日はクッキーにしました!」
フリーダムだなあ。私も好き勝手やってきたつもりだったけど、この巫女の足元にも及ばないだろう。
しかし。このフリーダムさに私は感謝しないといけないのだろう。まだ本人たちに聞いていないので確証はないが、ムラサにバレンタインの手ほどきをしたのは早苗のはずだ。
早苗のおかげで私はムラサからチョコレートを貰うことができたし、"お返し"を作るのも協力してくれる。普通にしてればいい人間なのだ。諸々の行動が妖怪視点でも問題すぎるだけで。あの時だって、ホワイトデーの説明と今日呼んだ理由を話してくれていれば、私も怯えることはなかったのに。そういうことを仄めかしたら、それじゃ面白くないじゃないですか、と言われたのでそういうものだと自分を納得させた。
「それじゃあ今日はどんなクッキーを作りましょうか?」
「うーんと……甘さ控えめな感じで」
「……命蓮寺ではもしかして砂糖の使いすぎも厳禁なんですか?」
「そんなことはないと思うけど」
早苗の物言いに思わず笑ってしまう。確かにムラサも私も甘くないものを選んだのを見れば、そう思ってしまうのは仕方ないかもしれない。実際はムラサはよく考えずに自分の好みで作っただけだろうし、私はムラサの好みに合わせただけだ。
指示に従って、クッキーを作り始めた。最初に簡単だと言われていたが、実際にやってみるとなかなか難しいものだ。特に、卵から黄身だけを取り出す作業には苦労した。私の力では殻が割れすぎてしまう。何度かチャレンジして、ようやく成功する。無駄になった卵は小傘が白米にかけて食べていた。
生地が出来上がる。これをしばらくねかすらしいので、そこで休憩を取ることになった。
「そういえば、ぬえさんとムラサさんってどういう関係なんですか?」
ぼんやりと外を眺めていたら、早苗が茶を淹れながら尋ねてきた。小傘も同調して、回答を免れないような雰囲気になる。答えを惜しんでいると遠巻きに見ている神様たちも寄ってきそうだったのでさっさと答えることにしたのだが、
「関係って言ってもなあ……。私は地底に住んでた、ムラサは地底に封印されてた。その時に他愛もない話をしてただけだよ」
生憎ふたりを満足させられるような答えはない。けれど私たちの関係は本当にそれだけだと思うから、これ以上何か求められても困る。文句言われそうだなあ、と早苗を見る。
「じゃあ恋愛関係とかではないんですか」
直球すぎるだろ。吹き出しそうになったお茶を強引に飲み干したせいで咽た。
「別に他意はないんですよ。ただバレンタインって元々女の子が好きな人に告白するイベントでもありましたから。ムラサさんには何も言ってませんけど」
「へ、へえー、そうなんだー……」
なんでそういう大事なことを言わないんだろう、と思ったがきっと面白くないからだろうと思ったので聞かなかった。心を落ち着けるためにお茶をひとつ啜る。
恋愛関係ではない。ないと思う。ただ、あの時、私が感じたことは、もしかしたらそれに近いかもしれないけれど。
……よく分からなくなってきた。
「じゃあ、早苗はバレンタインに告白したことあるの?」
話を逸らすために軽く聞いた――だけのはずだった。
だけどその言葉を聞いて一瞬、ほんの一瞬だけど、早苗が哀しそうな目をした。ありますよ、と笑って返した声にいつものような有無を言わせぬ力はなく。
それが私が初めて見た、東風谷早苗の弱さだった。
平たく伸ばしたクッキーの生地を型抜きした。穴だらけになったそれをもう一度丸めて、伸ばす。この作業を何回か繰り返して、丸めた生地の大きさが掌で包めるぐらいになった。
「幼馴染の男の子がいたんですよ」
その声色は私に語りかけているものではなかった。おおよそ早苗らしくなく、しかしどこかで聞いたような喋り方だった。
「十歳の時に、お母さんに言われてチョコを作ったんです。手書きのメッセージカードを添えて、綺麗にラッピングして。その日はまったく寝られませんでした」
「それで、どうだったの?」
「渡せませんでしたっ。私は、臆病でしたから」
あっけらかんと言い放つ。臆病、という言葉は早苗には似合わないように見えたが、その時の早苗は今とは違ったのだろうか。
「その男の子は、私の大親友のことを好きだったんです。だから、私に相談したりして。私は悔しかったけど、でも頼られてたことが嬉しかったんですよ」
「…………うん」
「当日になって、急に怖くなったんです。このチョコを渡したら、そんな関係も壊れてしまうんじゃないかって」
当たり前のようにあった関係が、崩れてしまう恐怖。それは、私にもなんとなく分かる気がした。それが何故かは、分からなかったけど。
「その時は無理やり自分を納得させたんですよ、渡さなくてよかったんだって。でも、結局すぐ後悔しました」
「親友にその子を取られたから?」
「いえ。三月末にその男の子が引越し――遠くへ行っちゃったからです」
へらっと笑った早苗は今にも泣き出しそうにも見えた。小傘はどこに行ったんだ、役に立たないな、と思ったが、もしかしたら気を遣っているのかもしれなかった。私が早苗なら、小傘だけには泣くのを見られたくないだろうから。
「…………それで、その子とは」
「それ以来会っていません。子どもだけで行き来できるような距離じゃなかったですし。……もう二度と会うことはありませんね」
残酷な事実を淡々と述べる早苗。
その姿は、過去の影を必死に振り払おうというように見えて――まるで懺悔だな、と思った。
「届かないと知っていても、どんなに格好悪くても、伝えなきゃいけない想いがあったんです。言わなきゃいけないことがあった」
そしてその懺悔は、前に進むために。
過去の自分を斬り捨てた早苗の目には光が宿り、声には力が戻っていた。
「そうだね。そうかもしれない」
有無を言わせず、誰かを納得させる力があった。
だから私は彼女の言葉を受け入れることができたのだと思う。
「どんなに格好悪くても、ね」
綺麗にラッピングしたクッキーを差し出した。
「…………何これ?」
「ク、クッキーだよ。今日はホワイトデーって言って、バレンタインのお返しをする日らしいから」
「ふーん。……食べていいの?」
私が無言で頷くと、ムラサは赤と青のリボンを丁寧に解き、クッキーをひとつ摘んで口に入れた。最初は硬い表情だったがクッキーを飲み込むと、美味しいじゃん、と言って破顔した。ほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとう、ぬえ。残りは後でゆっくりいただくわ」
「ま、待った」
軽快に去ろうとしたムラサを無理やり呼び止める。すぐに訝しそうな目つきに変わる。
「その、実はムラサに言いたいことがあって」
「なに?」
「飛倉の件なんだけど」
とびくら、と少し意外そうにムラサが唱和した。
「あの時は邪魔してごめんなさい」
「あー、いいよ。もう誰も気にしてないと思うし。それで?」
「えっ?」
「それだけじゃないでしょ? 他に言いたいことあるんじゃないの?」
ムラサはいつもこうだった。何も見てないようで、私たちのことを見てくれている。
あてもなく揺蕩っているように見えて、私たちをしっかり守ってくれているのだ。
「……あれさ、本当は私にとってはどうでもよかったんだよ。聖がどうとか」
「そうでしょうね」
「でもさー……なんていうか、私の知らないことで、ムラサが楽しそうにしてるのが、嫌だったんだよね」
「…………はい?」
意味がわからない、と言いたげにムラサが呆けていた。
もっとうまく伝えようと思ったのに。昨日寝ずに考えた言葉は、一文字残らず頭から消えていた。
「だからさー……次からなんかあるときは、私にも言って欲しいっていうか」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。結局なにが言いたいの?」
「なにって…………分かんないよ、そんなこと!」
自分の言いたいことも分からない、うまく言えない私はきっととても格好悪い。
ムラサもきっと呆れてる。愛想を尽かされるかもしれなかった。だから――
「でもっ!」
だから、今の言葉だけは、気持ちだけは伝えなければいけないはずだった。
見えないように埋めて、掘り返して、何度もそれを繰り返して、ぐちゃぐちゃになってしまったその感情を。
「ムラサに黙ってどっか行かれるのだけは、嫌だったの!」
顔が熱くなっている気がする。もう目を合わせることはできなかった。
俯きながら目だけを動かして盗み見ると、ムラサは、まいったなあ、という風に髪をぐしぐしとかいていた。
「ごめん。今の私はうまく答えられないんだ。だから、私の都合のいいように、私がそうだと思えるように、受け取らせてもらってもいいかな?」
私がぶつけた、私にも正体がわからない感情は、友愛とも恋慕とも取れるものだった。それは自覚がある。
だから、ムラサがうまく答えられないのは当然だし、それを責める権利など私にはない。ただ頷くしかなかった。
それを確認すると、ムラサは私の腕をぐいっと引っ張る。何が起こったが分からず、気が付けば私はムラサの腕の中に収まっていた。
ムラサのひんやりとした体の感触が至る所から伝わって、私の心臓の鼓動は早まるのみだった。
「今度は、ちゃんとした形にして私の前に持ってきて。そしたら私は、答えを出してみせるから」
体を離し、笑いながら手を振って去っていくムラサ。その後姿を、角を曲がって見えなくなるまで見続けていた。
ちょうどその時、顔を真っ赤にした小傘に話しかけられ、私は同じように顔を真っ赤にして驚きやら恥ずかしさやらを込めた叫びを上げて走り去った。
改めて現状を確認しよう。ここは命蓮寺の屋根の上、空はこれでもかってくらい青く、太陽も今は見えないが燦然と輝いている。そんな空の下で私は、背中を屋根にべったりくっつけて、四肢を強い力で押さえつけられている。目の前では、新緑の長い髪が日光を浴びて煌めいていた。
どうして私がこんな目に遭わなくてはならないのか。今日は幸せな一日になるはずだったのに。それとも、正体不明の存在が幸せを願ったことが間違いだったとでも言うのだろうか。
もしそうだとしたら、神様――勿論、目の前で満面の笑みを浮かべている現人神とやらも含む――に全力で文句を言ってやりたかった。
ああ、神様――勿論、目の前で満面の笑みを浮かべている現人神とやらは除く――、助けてください。
きっかけは唐突に差し出された小包だった。
「…………何これ?」
「あれ、ぬえ知らないの? チョコレートだよ。今日"バレンタイン"なんだって」
差し出したのは聖輦船の船長、村紗水蜜である。彼女の服と同じように白を基調とした包装紙でラッピングされた小包の中にはチョコレートが入っているらしい。バレンタイン、というのが何かよく分からなかったが、最近幻想郷に入ってきた風習らしいとムラサから聞いた。
「なんかね、日頃から仲良くしてる人にチョコレートを送る日、って聞いたから。もしかしてぬえチョコレート嫌いだった?」
「そんなことないっ。いる。…………いるけど、なんで私に?」
仲良くしている、という条件なら私以外にも当てはまる者がいるはずだ。しかし今朝からムラサが何かを配っていた様子はないし、手持ちにある包はこれ一つだった。
「あんまりチョコレートばっか作ってもねえ……。一輪とは一緒に作ったから渡してもしょうがないし。ぬえが一番付き合い長いでしょ。受け取ってよ」
「あ……うん。手作りなんだ?」
「ちゃんと見てもらいながら作ったから、味は安心していいよ」
そんなことは心配していない、と言いかけて、やめた。じゃあ何故聞いたんだ、と聞かれた時にうまく誤魔化す自信がなかったからだ。ぶっきらぼうに礼を言ってその場をやり過ごして、命蓮寺の屋根の上を目指した。あそこは日当たりがよく、今日のようなよく晴れた日はとても気持ちが良い。昨日まで降っていた雪が残っているかもしれないが、今日は二月にしては気温も高めの日向ぼっこ日和だった。
屋根の上で包を開けると、シンプルな作りの箱にこれまたシンプルなチョコレートが六つ並んでいた。見る人によっては味気がないと言われそうなそれは、しかしとてもムラサらしさを感じる。
一つ目をゆっくりと口に含んだ。甘いというより苦い。しかしその中に確かな甘みが隠されている。ビターチョコというやつだろう。チョコレートというだけで甘いものを想像していたが、この方がムラサの好みなのかもしれない。
最後の一つを堪能し終えて、包を丁寧に直して横に置き、日向ぼっこでもしようと寝転がった。その瞬間、私に覆い被さる影があり、私は反応することすらできなかった。
そして、現状に至る。
手足を動かして抵抗を試みるが、どれほど力を入れても目の前の人間はまったく動かない。本当に人間か疑わしくなるが、常識に囚われてはいけませんよ、と心の中を読んだようなことを言うので人間でないと考えることにした。さとり妖怪と鬼をミックスした何かだと考えて、勝ち目がない気がしたので抵抗をやめた。
「食べましたね?」
そして、第一声がこれである。率直に言って非常に怖い。平時ならば周囲の男どもを魅了しそうな笑顔が、その怖さに拍車をかけている。恐れ慄きながらも抵抗をやめた自分は、死罪を受け入れた罪人のようだった。
「知ってます? 外の世界にはバレンタインデーの他にホワイトデーってものもあるんですよ」
「知らない! 知らないから許してください!」
「許しません」
私の請願を考えるまでもなく一蹴し再びニッコリと微笑む。そういえば笑顔は元々威嚇のためのものらしい、と思い出したのはただの偶然であって、目の前の笑顔は関係ない。目の前のソレはもはや威嚇なんて生温いものではない。精神攻撃に長時間――といっても実際には二、三分だろうが――晒された私のメンタルは崩壊した。
「ど、どうすれば許していただけますか」
「一ヶ月後、三月十三日にうちに来て下さい。守矢神社の場所は知ってますか? 知らなかったら小傘さんに案内してもらって下さい。ああ、小傘さん以外の人にこのことを言ってはダメですよ。それではっ!」
言いたいだけ言って、新緑の巫女は去っていって、私の心は平穏を……取り戻さなかった。それは今の私は死刑執行を引き延ばされただけだからである。
神様、やっぱり助けて下さい。
「それでは! 今日はクッキーを作りましょう!」
「…………はい」
「早苗もぬえも頑張れー」
あれから一ヶ月、この日のイベントをなんとか回避しようと思考を巡らせたが妙案は浮かばなかった。その間の私といえばよほど挙動不審だったようで、聖や星のようなお人好し連中はもちろん、一輪やナズーリンのように普段は他人に興味がなさそうな連中にまで心配される有様だった。ムラサには、そういう素振りを見せないようにしていたので、何も言われていない。
イベント回避を諦めた私だったが、素手で大迷宮のラスボスと対峙する自信はなかったので小傘を連れて行くことにした。精神安定剤か、抑止力ぐらいにはなるだろうと目論んだのだ。案内を頼んだときの小傘のリアクション――妙に達観した笑みを浮かべて無言で肩を叩いてきた――を考えれば、あまり期待できないのかもしれないが。
「いいですか、ホワイトデーはバレンタインにチョコを貰ったお返しをする日です。上手に作れとは言いませんが、気持ちを込めなくてはいけませんよ!」
「は、はい。……そういえば今日はチョコじゃないんだ?」
「チョコはバレンタインの時で飽き……じゃなくて、作りすぎて材料がないので、今日はクッキーにしました!」
フリーダムだなあ。私も好き勝手やってきたつもりだったけど、この巫女の足元にも及ばないだろう。
しかし。このフリーダムさに私は感謝しないといけないのだろう。まだ本人たちに聞いていないので確証はないが、ムラサにバレンタインの手ほどきをしたのは早苗のはずだ。
早苗のおかげで私はムラサからチョコレートを貰うことができたし、"お返し"を作るのも協力してくれる。普通にしてればいい人間なのだ。諸々の行動が妖怪視点でも問題すぎるだけで。あの時だって、ホワイトデーの説明と今日呼んだ理由を話してくれていれば、私も怯えることはなかったのに。そういうことを仄めかしたら、それじゃ面白くないじゃないですか、と言われたのでそういうものだと自分を納得させた。
「それじゃあ今日はどんなクッキーを作りましょうか?」
「うーんと……甘さ控えめな感じで」
「……命蓮寺ではもしかして砂糖の使いすぎも厳禁なんですか?」
「そんなことはないと思うけど」
早苗の物言いに思わず笑ってしまう。確かにムラサも私も甘くないものを選んだのを見れば、そう思ってしまうのは仕方ないかもしれない。実際はムラサはよく考えずに自分の好みで作っただけだろうし、私はムラサの好みに合わせただけだ。
指示に従って、クッキーを作り始めた。最初に簡単だと言われていたが、実際にやってみるとなかなか難しいものだ。特に、卵から黄身だけを取り出す作業には苦労した。私の力では殻が割れすぎてしまう。何度かチャレンジして、ようやく成功する。無駄になった卵は小傘が白米にかけて食べていた。
生地が出来上がる。これをしばらくねかすらしいので、そこで休憩を取ることになった。
「そういえば、ぬえさんとムラサさんってどういう関係なんですか?」
ぼんやりと外を眺めていたら、早苗が茶を淹れながら尋ねてきた。小傘も同調して、回答を免れないような雰囲気になる。答えを惜しんでいると遠巻きに見ている神様たちも寄ってきそうだったのでさっさと答えることにしたのだが、
「関係って言ってもなあ……。私は地底に住んでた、ムラサは地底に封印されてた。その時に他愛もない話をしてただけだよ」
生憎ふたりを満足させられるような答えはない。けれど私たちの関係は本当にそれだけだと思うから、これ以上何か求められても困る。文句言われそうだなあ、と早苗を見る。
「じゃあ恋愛関係とかではないんですか」
直球すぎるだろ。吹き出しそうになったお茶を強引に飲み干したせいで咽た。
「別に他意はないんですよ。ただバレンタインって元々女の子が好きな人に告白するイベントでもありましたから。ムラサさんには何も言ってませんけど」
「へ、へえー、そうなんだー……」
なんでそういう大事なことを言わないんだろう、と思ったがきっと面白くないからだろうと思ったので聞かなかった。心を落ち着けるためにお茶をひとつ啜る。
恋愛関係ではない。ないと思う。ただ、あの時、私が感じたことは、もしかしたらそれに近いかもしれないけれど。
……よく分からなくなってきた。
「じゃあ、早苗はバレンタインに告白したことあるの?」
話を逸らすために軽く聞いた――だけのはずだった。
だけどその言葉を聞いて一瞬、ほんの一瞬だけど、早苗が哀しそうな目をした。ありますよ、と笑って返した声にいつものような有無を言わせぬ力はなく。
それが私が初めて見た、東風谷早苗の弱さだった。
平たく伸ばしたクッキーの生地を型抜きした。穴だらけになったそれをもう一度丸めて、伸ばす。この作業を何回か繰り返して、丸めた生地の大きさが掌で包めるぐらいになった。
「幼馴染の男の子がいたんですよ」
その声色は私に語りかけているものではなかった。おおよそ早苗らしくなく、しかしどこかで聞いたような喋り方だった。
「十歳の時に、お母さんに言われてチョコを作ったんです。手書きのメッセージカードを添えて、綺麗にラッピングして。その日はまったく寝られませんでした」
「それで、どうだったの?」
「渡せませんでしたっ。私は、臆病でしたから」
あっけらかんと言い放つ。臆病、という言葉は早苗には似合わないように見えたが、その時の早苗は今とは違ったのだろうか。
「その男の子は、私の大親友のことを好きだったんです。だから、私に相談したりして。私は悔しかったけど、でも頼られてたことが嬉しかったんですよ」
「…………うん」
「当日になって、急に怖くなったんです。このチョコを渡したら、そんな関係も壊れてしまうんじゃないかって」
当たり前のようにあった関係が、崩れてしまう恐怖。それは、私にもなんとなく分かる気がした。それが何故かは、分からなかったけど。
「その時は無理やり自分を納得させたんですよ、渡さなくてよかったんだって。でも、結局すぐ後悔しました」
「親友にその子を取られたから?」
「いえ。三月末にその男の子が引越し――遠くへ行っちゃったからです」
へらっと笑った早苗は今にも泣き出しそうにも見えた。小傘はどこに行ったんだ、役に立たないな、と思ったが、もしかしたら気を遣っているのかもしれなかった。私が早苗なら、小傘だけには泣くのを見られたくないだろうから。
「…………それで、その子とは」
「それ以来会っていません。子どもだけで行き来できるような距離じゃなかったですし。……もう二度と会うことはありませんね」
残酷な事実を淡々と述べる早苗。
その姿は、過去の影を必死に振り払おうというように見えて――まるで懺悔だな、と思った。
「届かないと知っていても、どんなに格好悪くても、伝えなきゃいけない想いがあったんです。言わなきゃいけないことがあった」
そしてその懺悔は、前に進むために。
過去の自分を斬り捨てた早苗の目には光が宿り、声には力が戻っていた。
「そうだね。そうかもしれない」
有無を言わせず、誰かを納得させる力があった。
だから私は彼女の言葉を受け入れることができたのだと思う。
「どんなに格好悪くても、ね」
綺麗にラッピングしたクッキーを差し出した。
「…………何これ?」
「ク、クッキーだよ。今日はホワイトデーって言って、バレンタインのお返しをする日らしいから」
「ふーん。……食べていいの?」
私が無言で頷くと、ムラサは赤と青のリボンを丁寧に解き、クッキーをひとつ摘んで口に入れた。最初は硬い表情だったがクッキーを飲み込むと、美味しいじゃん、と言って破顔した。ほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとう、ぬえ。残りは後でゆっくりいただくわ」
「ま、待った」
軽快に去ろうとしたムラサを無理やり呼び止める。すぐに訝しそうな目つきに変わる。
「その、実はムラサに言いたいことがあって」
「なに?」
「飛倉の件なんだけど」
とびくら、と少し意外そうにムラサが唱和した。
「あの時は邪魔してごめんなさい」
「あー、いいよ。もう誰も気にしてないと思うし。それで?」
「えっ?」
「それだけじゃないでしょ? 他に言いたいことあるんじゃないの?」
ムラサはいつもこうだった。何も見てないようで、私たちのことを見てくれている。
あてもなく揺蕩っているように見えて、私たちをしっかり守ってくれているのだ。
「……あれさ、本当は私にとってはどうでもよかったんだよ。聖がどうとか」
「そうでしょうね」
「でもさー……なんていうか、私の知らないことで、ムラサが楽しそうにしてるのが、嫌だったんだよね」
「…………はい?」
意味がわからない、と言いたげにムラサが呆けていた。
もっとうまく伝えようと思ったのに。昨日寝ずに考えた言葉は、一文字残らず頭から消えていた。
「だからさー……次からなんかあるときは、私にも言って欲しいっていうか」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。結局なにが言いたいの?」
「なにって…………分かんないよ、そんなこと!」
自分の言いたいことも分からない、うまく言えない私はきっととても格好悪い。
ムラサもきっと呆れてる。愛想を尽かされるかもしれなかった。だから――
「でもっ!」
だから、今の言葉だけは、気持ちだけは伝えなければいけないはずだった。
見えないように埋めて、掘り返して、何度もそれを繰り返して、ぐちゃぐちゃになってしまったその感情を。
「ムラサに黙ってどっか行かれるのだけは、嫌だったの!」
顔が熱くなっている気がする。もう目を合わせることはできなかった。
俯きながら目だけを動かして盗み見ると、ムラサは、まいったなあ、という風に髪をぐしぐしとかいていた。
「ごめん。今の私はうまく答えられないんだ。だから、私の都合のいいように、私がそうだと思えるように、受け取らせてもらってもいいかな?」
私がぶつけた、私にも正体がわからない感情は、友愛とも恋慕とも取れるものだった。それは自覚がある。
だから、ムラサがうまく答えられないのは当然だし、それを責める権利など私にはない。ただ頷くしかなかった。
それを確認すると、ムラサは私の腕をぐいっと引っ張る。何が起こったが分からず、気が付けば私はムラサの腕の中に収まっていた。
ムラサのひんやりとした体の感触が至る所から伝わって、私の心臓の鼓動は早まるのみだった。
「今度は、ちゃんとした形にして私の前に持ってきて。そしたら私は、答えを出してみせるから」
体を離し、笑いながら手を振って去っていくムラサ。その後姿を、角を曲がって見えなくなるまで見続けていた。
ちょうどその時、顔を真っ赤にした小傘に話しかけられ、私は同じように顔を真っ赤にして驚きやら恥ずかしさやらを込めた叫びを上げて走り去った。
またバレンタインのSSによく見られるドタバタ劇にゆかずに、あくまで苦さを残した
展開で勝負されたのは新鮮でした。
好点を拾おうとする6番さんは優しいと思う。
ぬえ可愛い。
この設定で続きを読んでみたいですねー。
肩肘張らずにさっくり楽しめて満足。だだ甘一点張りにしなかった点は私は寧ろ評価したい。
早苗さんがいい味出してますわぁ。