静寂。人間はおろか妖怪や妖精の姿すら見当たらない森の中の様子は、その二文字だけで表すことができた。雨に濡れた針葉樹の森の中を時たま通り過ぎるのは、美しい歌を聞かせてくれる鳥ではない。海を離れ、魚のくせに空を翔るようになった生意気な生物だ。
数日振りの夕日が柔らかく森林に差し込む中、森の中を慣れた速さで進んでいく足音が三つ。餌を探しに出ていた昆虫たちは一斉にその場から飛び立った。
その足音の主は、本来この場所、この時代にいるはずのないものだった。
人間。もう二億年も前に絶滅したはずの生物は確かにここに生きていた。
三人の人間はいずれも若い女性の姿をしている。そしてそのどれもが二億年前なら美人と呼ばれただろう。だが、二億年経ったこの時代となってはもうその美貌を褒め称える者もいない。彼女たち以外に、言葉を話す生き物などもうこの地上にいないのだから。
しかし、その姿と実際に生きた年月との間にはかなりの差がある。蓬莱人――老いることも死ぬこともない者たちは、人類が滅亡するずっと前から生きているのだ。
「これで一週間は山菜に困らないわね」
「でも、毎回思うけど何でわざわざ森の中まで採りにいかなくちゃならないのかしら」
「だからこの種類は畑で栽培できないからだって前に永琳も言ってただろう、輝夜。私にはよく分からないけど、薬の材料にもなるみたいだしな」
「分かってるわよ妹紅。ただの愚痴よ」
「もう何回も聞いたぞ。数えてないけど、そろそろ百万は超えるんじゃないか?」
「ふふ、貴方が姫様にそれを言うのも百万回目ね。さあ、帰ったらすぐ夕食の準備をするわよ」
三人の中の、白く長い髪を三つ編みにした人物――永琳が二人の間に入る頃には、森の中の大きな木の構造物の前に着いていた。夕日はもう沈みかけている。
◇
「今日の飛行魚の味醂焼き、美味かったな」
「そうね。やっぱり、永琳の作る料理は誰にも真似できないわ」
「お褒めいただき、光栄ですわ」
何億回と繰り返されたやり取り。二億年も一緒にいれば話題もあっという間に尽きてしまうもので、もうこの頃になると今日の食事はどうだった、とかそのぐらいしか話すことはなくなってしまった。それでも何も話さないよりはいいだろう。言葉を交わすことによって、より互いが側にいることを実感できるのだ。
夕食が終わった今、三人は縁側に並んで腰掛け、肩と肩を合わせ、手と手を繋いでいた。左から妹紅、輝夜、永琳のお決まりの順だ。
いつからだろう、憎しみの感情が無くなったのは。いつからだろう、こうして体を密着させるようになったのは。話すことのなくなってしまった妹紅は、またそんなことを考えていた。皆、離れることが怖いのだ。特に妹紅は、不死の薬を飲んでから輝夜や慧音に出会うまではずっと独りぼっちだった。永琳も輝夜が地球に追放されてから自分と一緒になるまでの間は、自分だけが許された罪悪感と共にひどく寂しさも感じていた。輝夜は特にそういった感情を感じてはいなかったが、それでも自分の手を握る二人の手の強さから孤独への恐怖というものを学んでいた。
針葉樹林の切れ間から、地球から遠ざかってやや小さくなった月が見える。だが、その輝きはもう二億年前には失われていた。穢れ無き月の文明が、アポロ計画から数千年かけて月の技術に追いついた地上人たちによって、百年にも及ぶ長い戦争の末に滅ぼされてしまったからだ。輝夜と永琳は故郷を失ったのである。今の月はコンクリートによって灰色にくすんでいた。きっと今でも地上人たちの作った月面都市の廃墟が残っているのだろう。
妖怪たちは月の光が失われたことによって力を失い、次々と消えていった。彼女たちと親しかった者たちも例外ではない。特に親友である慧音の死は、妹紅にとってはあまりにも大きかった。そうしたいくつもの別れによって、孤独への恐怖心と互いへの依存心はいっそう増大していったのである。
彼女たちは互いが離れ離れになることを極端に恐れている。狩猟採集の時も、農作業の時も、食べる時も寝る時もいつも一緒。時に文句を言いつつもちゃんと着いてくる。そうでないと、残された数少ない仲間でさえ少しでも目を離した瞬間に消えていなくなってしまうような気がするのだ。それでもまだ足りないのか、今みたいに何もしていない時は体を密着させている。互いの体温と匂いを感じると、心がたいそう安らぐのだ。
失ったものは仲間だけではない。人類が滅亡したことによって博麗大結界は既に意味を為さなくなっていたが、幻想郷のあった日本列島は二億年の間に北上してきたオーストラリア大陸とユーラシア大陸に挟まれて、今やヒマラヤを超える標高一万メートルもの高い山脈になってしまった。いくら輝夜が永遠と須臾を操る能力を持っていようとプレートの動きまでを無視することはできない。ここに至って永遠亭は移転を余儀なくされ、各地を転々とした末に今の場所に落ち着いたのである。幻想郷という第二の故郷も、今では草木の一本も生えない高原になってしまっている。
この頃、地球上の大陸は再び一つに集まって超大陸となり、第二のパンゲアを形成していた。大陸の八割を砂漠が占め、旧ヨーロッパ地域だけが一面の針葉樹林となっていた。
森林地帯の支配者はイカである。彼らは陸へ上がり、哺乳類が絶滅して空いたニッチを埋めるように多様な進化をした。体は象よりも大きいが知能の低いものもいれば、体はそれほど大きくないが高い知能を持つものもいた。しかし知能が高いといってもせいぜい簡単な道具を使うぐらいで、人間のように文明を持つどころか細かい意志疎通ができるようになるのにもあと数百万年はかかるだろう。
シュバルツバルト(黒い森)。今の永遠亭があるドイツ南西部あたりの森は、人間の時代にはそう呼ばれていた。昔、魔女や妖怪たちが隠れ住んだ場所で、幻想郷にもここ出身の者は少なくなかった。昔のヨーロッパ人たちはそれらを恐れて森にはめったに入らず、そして数々の物語を空想した。
知能の高いイカたちはめったに永遠亭の周辺には近づかなかった。原始人以下の知能でも、恐ろしい怪物が住む場所だと認識することはできるのだろう。皮肉なことに今度は人間が恐れられる番になったのである。ちょうど、かつてこの森に住んでいた妖怪たちのように。
◇
輝夜は左から妹紅に、右から永琳に挟まれて、いつも両手に花というような状態だった。輝夜を軸として三人はまとまっていたのだ。妹紅と永琳という二者においてもやはり互いを自分にとって欠かせないものとして見ていたが、それ以上に輝夜はその二人にとって無くてはならないものなのだ。妹紅はそんな輝夜が少し羨ましかった。
「どうしたの、妹紅?」
「あ、いや……」
しかし、自分の方を無意識のうちにチラチラ見る妹紅に輝夜は気づいていたようだ。突然の問いかけに妹紅は、はっと赤面した。そして無言で俯き、空いている左手で袴をぎゅっと握りしめる。
こういった癖も互いに熟知していた。こういう時の妹紅は何か言いたいことがあっても恥ずかしくて躊躇しているのだということを、他の二人はよく知っていた。そして永琳は、ふふ、と小さく笑って立ち上がると今度は妹紅の左側に座る。
「……あ」
「こうしてほしかったんでしょう?」
悪戯っぽく微笑む永琳に、妹紅の頬はさらに熱くなっていく。自分の思っていたことがすぐに伝わってしまったということもまた、恥ずかしさをいっそう強めていた。もう体臭だけで互いのだいたいの位置が分かるほどの仲とはいえ、いつもと違って間近から漂ってくる永琳の香りに妹紅は新鮮な気持ちで鼻孔をくすぐらせた。
「まったく、妹紅ったら二億年も一緒にいるのにまだ遠慮するのね」
「それは……ごめん」
ニヤニヤしながら右側からからかってくる輝夜に、妹紅はただ謝ることしかできなかった。事実、妹紅は他の二人に対してどこか遠慮がちなところがあったし、特に最近はますますそれを感じていた。二億年という年月を生きた者にとって数千年の差など微々たるものだが、それでも妹紅と輝夜はかつて互いに憎み合った仲だ。初めから主従として関係を結んでいた永琳に対して一歩引いてしまうのも無理はない。
でも当然そんなことを分かっている輝夜と永琳は、特にそんなことを気にする必要は無いと思っていた。永琳にしても、自分一人だけの力で輝夜を支えきれるとはとうてい思ってはいない。月の使者からたった二人逃げ回っていた頃とはもう違うのだ。共に姫を支えてきたてゐや鈴仙、その他兎たちはもういない。一度仲間というものができると、それはもう無くてはならないものになってしまう。だからこそ妹紅も絶対に必要な存在となっているのだ。それに、二人にとって妹紅とは主従という関係もなく気軽に話せる相手でもあった。
「ねえ、明日久しぶりに遊びに行かない? 場所は……そうね、東の町まで」
だから、輝夜は提案した。自分と妹紅との『遊び』――ここ百年ほどやっていなかった殺し合いを。
◇
永遠亭の東に、未だに人類の都市の跡が残っている場所がある。そこにはかつて滅亡直前の末期の人類が住んでいた。教会や劇場などの古い歴史的建造物はもう跡形も無くなっているが、二億年経った今でも高さ五千メートルにもなるビル群が悠然と立ち並んでいる。曇り空を支える柱のようだった。そういうところに、人類の自分達の生きた証を残したいという欲が表れていた。とはいっても日光のほとんど差し込まない中心部の路地にはびっしりと苔が生え、外周部にも植物やら動物やらが侵入し、もう森に飲み込まれているような状態だ。残された文字などから、かろうじてこの町がMünchen(ミュンヘン)と呼ばれていたことだけが分かった。
ここは永遠亭から二百キロメートル以上離れている。それでも彼女たちにとっては二時間飛べば着く距離だった。昔はもっと近くにも町はあったようだが、人類が数を減らしていくにつれて打ち捨てられ、だんだんこういった大都市に集中するようになった。
入口付近に、小型で知能の高いイカが三匹ほど集まっていた。この遺跡にあるものを興味津々に調べているようだった。よほど集中しているのか、横を通り過ぎる三人に気づく様子は無い。やめとけ、と妹紅は呟くように言った。人類の残したものなど碌なものではない、と言うように。
「さ、始めましょうか」
「おう!」
手をパン、パンと叩き、輝夜が軽い口調で号令をかける。それと同時、二人は一気に飛び上がった。観戦者の永琳も後を追う。そして雲を突き抜け、一瞬のうちに高度五千メートルのビルの屋上に到達した。
両者の弾幕が激突する。それはこの世のどの景色よりも圧倒的で、美しいものだろう。妹紅の炎が雲を切り裂き、ジュッという音とともに白煙が上がる。建物自体はよほど頑丈なのか傷一つついていなかったが、既に何度もここで『遊んだ』後なのか、ビルの最上部付近はどこも煤で真っ黒になっていた。
突然の戦闘の音に驚いて、町まで来ていた森の動物たちは一斉に逃げ出した。飛行魚のギーギーという歯ぎしりのような不快な鳴き声は弾幕のぶつかり合う音にかき消される。
高山植物すら生えていない高い場所だろうと、彼女たちにはもう酸素の薄さなど何の影響も与えない。それどころか、二億年も生きた二人が本気を出せば地球全土を焦土と化すことも容易いだろう。
「ははは……はははははっ!」
「楽しいでしょう? 私も楽しいわ!」
二人の口からは自然と笑みが漏れる。この場に遠慮なんて必要ない。思うままに体を動かし、何度も殺したり殺されたりすればいい。二人にとっては殺し合いだろうと単なるじゃれ合いで、しかし互いに『今、こうして生きているんだ』ということを一番実感する時でもあった。
今まで様々なところに赴いて『遊び場』にしてきた。ある時は砂漠の真ん中で。ある時は島一つ無い大洋で。ある時は標高一万メートルの高原――かつて幻想郷のあった場所で。しかしここ最近は退屈な日常にも慣れてしまって、『遊ぶ』回数も減ってしまった。妹紅が以前より少し遠慮がちになってきたのもそのせいかもしれない。輝夜は、こうしてまた『遊び』を繰りかえすことで、だんだんとそういった心の壁を無くしていけるはずだと確信していた。
死闘は一時間ほど続いた。そして最後に輝夜の攻撃が妹紅に直撃し、真っ暗なビルの谷間に墜落していく。
「あーあ、今回は私の負けかあ」
満身創痍で血まみれな妹紅の表情は実に楽しげだった。そして二人の戦いを温かく見守っていた永琳が空中でふわりと優しく受け止め、『遊び』は終わった。
その夜、三人は町のすぐ近くの森にテントを設営した。一晩も休めばすぐ回復するだろうが、そのまますぐ永遠亭まで帰るのは厳しいからだ。
「次は勝つからな」
「できるもんならね」
それでも軽口を叩き合うぐらいの元気はあるようだ。また妹紅を中心に三人で川の字になって寝ころぶ彼女たちの笑顔は、見た目と相応のものだった。そして今日の勝負はどうだった、とか熱く語り合うのだった。
◇
二億年。この言葉を発するのに要する時間は二秒とかからない。だが、その内容はずっとずっと長く重いものだ。
あと五億年もすれば海の蒸発が始まり、やがて数十億年後には赤色巨星となった太陽が地球を焼き尽くすだろう。
それでも三人は決して離れることは無いだろう。彼女たちにはこの世のどんな物質よりも堅い、この二億年の間に築かれた絆があるのだから。
数日振りの夕日が柔らかく森林に差し込む中、森の中を慣れた速さで進んでいく足音が三つ。餌を探しに出ていた昆虫たちは一斉にその場から飛び立った。
その足音の主は、本来この場所、この時代にいるはずのないものだった。
人間。もう二億年も前に絶滅したはずの生物は確かにここに生きていた。
三人の人間はいずれも若い女性の姿をしている。そしてそのどれもが二億年前なら美人と呼ばれただろう。だが、二億年経ったこの時代となってはもうその美貌を褒め称える者もいない。彼女たち以外に、言葉を話す生き物などもうこの地上にいないのだから。
しかし、その姿と実際に生きた年月との間にはかなりの差がある。蓬莱人――老いることも死ぬこともない者たちは、人類が滅亡するずっと前から生きているのだ。
「これで一週間は山菜に困らないわね」
「でも、毎回思うけど何でわざわざ森の中まで採りにいかなくちゃならないのかしら」
「だからこの種類は畑で栽培できないからだって前に永琳も言ってただろう、輝夜。私にはよく分からないけど、薬の材料にもなるみたいだしな」
「分かってるわよ妹紅。ただの愚痴よ」
「もう何回も聞いたぞ。数えてないけど、そろそろ百万は超えるんじゃないか?」
「ふふ、貴方が姫様にそれを言うのも百万回目ね。さあ、帰ったらすぐ夕食の準備をするわよ」
三人の中の、白く長い髪を三つ編みにした人物――永琳が二人の間に入る頃には、森の中の大きな木の構造物の前に着いていた。夕日はもう沈みかけている。
◇
「今日の飛行魚の味醂焼き、美味かったな」
「そうね。やっぱり、永琳の作る料理は誰にも真似できないわ」
「お褒めいただき、光栄ですわ」
何億回と繰り返されたやり取り。二億年も一緒にいれば話題もあっという間に尽きてしまうもので、もうこの頃になると今日の食事はどうだった、とかそのぐらいしか話すことはなくなってしまった。それでも何も話さないよりはいいだろう。言葉を交わすことによって、より互いが側にいることを実感できるのだ。
夕食が終わった今、三人は縁側に並んで腰掛け、肩と肩を合わせ、手と手を繋いでいた。左から妹紅、輝夜、永琳のお決まりの順だ。
いつからだろう、憎しみの感情が無くなったのは。いつからだろう、こうして体を密着させるようになったのは。話すことのなくなってしまった妹紅は、またそんなことを考えていた。皆、離れることが怖いのだ。特に妹紅は、不死の薬を飲んでから輝夜や慧音に出会うまではずっと独りぼっちだった。永琳も輝夜が地球に追放されてから自分と一緒になるまでの間は、自分だけが許された罪悪感と共にひどく寂しさも感じていた。輝夜は特にそういった感情を感じてはいなかったが、それでも自分の手を握る二人の手の強さから孤独への恐怖というものを学んでいた。
針葉樹林の切れ間から、地球から遠ざかってやや小さくなった月が見える。だが、その輝きはもう二億年前には失われていた。穢れ無き月の文明が、アポロ計画から数千年かけて月の技術に追いついた地上人たちによって、百年にも及ぶ長い戦争の末に滅ぼされてしまったからだ。輝夜と永琳は故郷を失ったのである。今の月はコンクリートによって灰色にくすんでいた。きっと今でも地上人たちの作った月面都市の廃墟が残っているのだろう。
妖怪たちは月の光が失われたことによって力を失い、次々と消えていった。彼女たちと親しかった者たちも例外ではない。特に親友である慧音の死は、妹紅にとってはあまりにも大きかった。そうしたいくつもの別れによって、孤独への恐怖心と互いへの依存心はいっそう増大していったのである。
彼女たちは互いが離れ離れになることを極端に恐れている。狩猟採集の時も、農作業の時も、食べる時も寝る時もいつも一緒。時に文句を言いつつもちゃんと着いてくる。そうでないと、残された数少ない仲間でさえ少しでも目を離した瞬間に消えていなくなってしまうような気がするのだ。それでもまだ足りないのか、今みたいに何もしていない時は体を密着させている。互いの体温と匂いを感じると、心がたいそう安らぐのだ。
失ったものは仲間だけではない。人類が滅亡したことによって博麗大結界は既に意味を為さなくなっていたが、幻想郷のあった日本列島は二億年の間に北上してきたオーストラリア大陸とユーラシア大陸に挟まれて、今やヒマラヤを超える標高一万メートルもの高い山脈になってしまった。いくら輝夜が永遠と須臾を操る能力を持っていようとプレートの動きまでを無視することはできない。ここに至って永遠亭は移転を余儀なくされ、各地を転々とした末に今の場所に落ち着いたのである。幻想郷という第二の故郷も、今では草木の一本も生えない高原になってしまっている。
この頃、地球上の大陸は再び一つに集まって超大陸となり、第二のパンゲアを形成していた。大陸の八割を砂漠が占め、旧ヨーロッパ地域だけが一面の針葉樹林となっていた。
森林地帯の支配者はイカである。彼らは陸へ上がり、哺乳類が絶滅して空いたニッチを埋めるように多様な進化をした。体は象よりも大きいが知能の低いものもいれば、体はそれほど大きくないが高い知能を持つものもいた。しかし知能が高いといってもせいぜい簡単な道具を使うぐらいで、人間のように文明を持つどころか細かい意志疎通ができるようになるのにもあと数百万年はかかるだろう。
シュバルツバルト(黒い森)。今の永遠亭があるドイツ南西部あたりの森は、人間の時代にはそう呼ばれていた。昔、魔女や妖怪たちが隠れ住んだ場所で、幻想郷にもここ出身の者は少なくなかった。昔のヨーロッパ人たちはそれらを恐れて森にはめったに入らず、そして数々の物語を空想した。
知能の高いイカたちはめったに永遠亭の周辺には近づかなかった。原始人以下の知能でも、恐ろしい怪物が住む場所だと認識することはできるのだろう。皮肉なことに今度は人間が恐れられる番になったのである。ちょうど、かつてこの森に住んでいた妖怪たちのように。
◇
輝夜は左から妹紅に、右から永琳に挟まれて、いつも両手に花というような状態だった。輝夜を軸として三人はまとまっていたのだ。妹紅と永琳という二者においてもやはり互いを自分にとって欠かせないものとして見ていたが、それ以上に輝夜はその二人にとって無くてはならないものなのだ。妹紅はそんな輝夜が少し羨ましかった。
「どうしたの、妹紅?」
「あ、いや……」
しかし、自分の方を無意識のうちにチラチラ見る妹紅に輝夜は気づいていたようだ。突然の問いかけに妹紅は、はっと赤面した。そして無言で俯き、空いている左手で袴をぎゅっと握りしめる。
こういった癖も互いに熟知していた。こういう時の妹紅は何か言いたいことがあっても恥ずかしくて躊躇しているのだということを、他の二人はよく知っていた。そして永琳は、ふふ、と小さく笑って立ち上がると今度は妹紅の左側に座る。
「……あ」
「こうしてほしかったんでしょう?」
悪戯っぽく微笑む永琳に、妹紅の頬はさらに熱くなっていく。自分の思っていたことがすぐに伝わってしまったということもまた、恥ずかしさをいっそう強めていた。もう体臭だけで互いのだいたいの位置が分かるほどの仲とはいえ、いつもと違って間近から漂ってくる永琳の香りに妹紅は新鮮な気持ちで鼻孔をくすぐらせた。
「まったく、妹紅ったら二億年も一緒にいるのにまだ遠慮するのね」
「それは……ごめん」
ニヤニヤしながら右側からからかってくる輝夜に、妹紅はただ謝ることしかできなかった。事実、妹紅は他の二人に対してどこか遠慮がちなところがあったし、特に最近はますますそれを感じていた。二億年という年月を生きた者にとって数千年の差など微々たるものだが、それでも妹紅と輝夜はかつて互いに憎み合った仲だ。初めから主従として関係を結んでいた永琳に対して一歩引いてしまうのも無理はない。
でも当然そんなことを分かっている輝夜と永琳は、特にそんなことを気にする必要は無いと思っていた。永琳にしても、自分一人だけの力で輝夜を支えきれるとはとうてい思ってはいない。月の使者からたった二人逃げ回っていた頃とはもう違うのだ。共に姫を支えてきたてゐや鈴仙、その他兎たちはもういない。一度仲間というものができると、それはもう無くてはならないものになってしまう。だからこそ妹紅も絶対に必要な存在となっているのだ。それに、二人にとって妹紅とは主従という関係もなく気軽に話せる相手でもあった。
「ねえ、明日久しぶりに遊びに行かない? 場所は……そうね、東の町まで」
だから、輝夜は提案した。自分と妹紅との『遊び』――ここ百年ほどやっていなかった殺し合いを。
◇
永遠亭の東に、未だに人類の都市の跡が残っている場所がある。そこにはかつて滅亡直前の末期の人類が住んでいた。教会や劇場などの古い歴史的建造物はもう跡形も無くなっているが、二億年経った今でも高さ五千メートルにもなるビル群が悠然と立ち並んでいる。曇り空を支える柱のようだった。そういうところに、人類の自分達の生きた証を残したいという欲が表れていた。とはいっても日光のほとんど差し込まない中心部の路地にはびっしりと苔が生え、外周部にも植物やら動物やらが侵入し、もう森に飲み込まれているような状態だ。残された文字などから、かろうじてこの町がMünchen(ミュンヘン)と呼ばれていたことだけが分かった。
ここは永遠亭から二百キロメートル以上離れている。それでも彼女たちにとっては二時間飛べば着く距離だった。昔はもっと近くにも町はあったようだが、人類が数を減らしていくにつれて打ち捨てられ、だんだんこういった大都市に集中するようになった。
入口付近に、小型で知能の高いイカが三匹ほど集まっていた。この遺跡にあるものを興味津々に調べているようだった。よほど集中しているのか、横を通り過ぎる三人に気づく様子は無い。やめとけ、と妹紅は呟くように言った。人類の残したものなど碌なものではない、と言うように。
「さ、始めましょうか」
「おう!」
手をパン、パンと叩き、輝夜が軽い口調で号令をかける。それと同時、二人は一気に飛び上がった。観戦者の永琳も後を追う。そして雲を突き抜け、一瞬のうちに高度五千メートルのビルの屋上に到達した。
両者の弾幕が激突する。それはこの世のどの景色よりも圧倒的で、美しいものだろう。妹紅の炎が雲を切り裂き、ジュッという音とともに白煙が上がる。建物自体はよほど頑丈なのか傷一つついていなかったが、既に何度もここで『遊んだ』後なのか、ビルの最上部付近はどこも煤で真っ黒になっていた。
突然の戦闘の音に驚いて、町まで来ていた森の動物たちは一斉に逃げ出した。飛行魚のギーギーという歯ぎしりのような不快な鳴き声は弾幕のぶつかり合う音にかき消される。
高山植物すら生えていない高い場所だろうと、彼女たちにはもう酸素の薄さなど何の影響も与えない。それどころか、二億年も生きた二人が本気を出せば地球全土を焦土と化すことも容易いだろう。
「ははは……はははははっ!」
「楽しいでしょう? 私も楽しいわ!」
二人の口からは自然と笑みが漏れる。この場に遠慮なんて必要ない。思うままに体を動かし、何度も殺したり殺されたりすればいい。二人にとっては殺し合いだろうと単なるじゃれ合いで、しかし互いに『今、こうして生きているんだ』ということを一番実感する時でもあった。
今まで様々なところに赴いて『遊び場』にしてきた。ある時は砂漠の真ん中で。ある時は島一つ無い大洋で。ある時は標高一万メートルの高原――かつて幻想郷のあった場所で。しかしここ最近は退屈な日常にも慣れてしまって、『遊ぶ』回数も減ってしまった。妹紅が以前より少し遠慮がちになってきたのもそのせいかもしれない。輝夜は、こうしてまた『遊び』を繰りかえすことで、だんだんとそういった心の壁を無くしていけるはずだと確信していた。
死闘は一時間ほど続いた。そして最後に輝夜の攻撃が妹紅に直撃し、真っ暗なビルの谷間に墜落していく。
「あーあ、今回は私の負けかあ」
満身創痍で血まみれな妹紅の表情は実に楽しげだった。そして二人の戦いを温かく見守っていた永琳が空中でふわりと優しく受け止め、『遊び』は終わった。
その夜、三人は町のすぐ近くの森にテントを設営した。一晩も休めばすぐ回復するだろうが、そのまますぐ永遠亭まで帰るのは厳しいからだ。
「次は勝つからな」
「できるもんならね」
それでも軽口を叩き合うぐらいの元気はあるようだ。また妹紅を中心に三人で川の字になって寝ころぶ彼女たちの笑顔は、見た目と相応のものだった。そして今日の勝負はどうだった、とか熱く語り合うのだった。
◇
二億年。この言葉を発するのに要する時間は二秒とかからない。だが、その内容はずっとずっと長く重いものだ。
あと五億年もすれば海の蒸発が始まり、やがて数十億年後には赤色巨星となった太陽が地球を焼き尽くすだろう。
それでも三人は決して離れることは無いだろう。彼女たちにはこの世のどんな物質よりも堅い、この二億年の間に築かれた絆があるのだから。
甘えん坊な妹紅と気配りのできる姫様……とてもすてきに思いました
陸上生物になったイカどもはどんな風に彼女達を見ているのだろうかと考えるとワクワクしちゃうね
そう言って頂けるととても嬉しいです。
やっぱり妹紅は一番年下ですからね。
まだまだ感想お待ちしてます。
ことになってたりして、悲壮感が
つきものと思ってましたが、
初めて安心というか
ホッとした話でした。
ありがとうございました。
意外とこのレベルの未来の話って少ないんですよね。
全体的に退廃的に穏やかで素敵でした。
ただ、穏やかすぎて盛り上がりが少々足りなかったかなと。
かのある番組で特集がありましたね…
人間が居なくなった世界でしぶとく、たくましく生きる永琳、輝夜、妹紅…他の仲間が消えた中で残された者の生き方…を見た様な気がします。
確かに紫も又ひっそりと生きてそうですね…
阿求も生きてそうな…
紫から見た二億年後の世界…も見たいです
侵略を仕掛けてきそうだなあ。
13様
いくつもの悲劇を乗り越えた人にこそ救われてほしいものです。
16様
ええ、自分で書くしかないと思いまして。
盛り上がりですか。今後意識してみようと思います。
17様
実は全く考えてなかったんですよね。
いつになるかは分かりませんが、思いついたら書いてみます。
20様
『マンアフターマン』、ですか。
続編を書かれるなら期待しています。
この世界観でしか描けない東方キャラを見てみたいです。
未来系の話には、何とも言えないロマンがある。
地球が終わる前に、旧世界の船で他の惑星にこの三人ならいけるかなー。
ゆったりとした空気がすごい好きです
しかし途方も無いほど未来の話を上手く書けていると思います。
百年とか二百年じゃないもんなぁ。
蓬莱人とは逆に短命な生き物だから、その能力を発揮しきれないが、
イカやタコはとても知能が高いそうでうすね
二億年たった、彼女たちの料理の腕前がどうなったかを知りたいw
あと太陽が滅びても連中なら大丈夫でしょう
妹紅はすでにサンジェルマンで短距離生体ワープを取得済ですし、
他の2人も時空を操れそうですから
すでに第二の幻想郷となる地球型惑星をしっかり見つけていたりして