Coolier - 新生・東方創想話

鍵山雛とパヨカカムイ

2013/03/08 22:51:09
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 鍵山雛は人間が好きだ。
 殊に人間の里を一望できる小高い丘にて、人間たちの暮らし振りを見る事が好きだ。
 雛は厄神である。彼女が人間に近づけば、人間は漏れなく不幸になる。それを知っているからこそ、彼女は大好きな人間たちから距離を取っている。
 近づく事ができないというのは中々に寂しい物ではあるが、そもそも流し雛とはそういうモノなのだ。
 流れ流れ流れて、厄を溜めこんで行く。
 廻り廻り廻って、大好きな人間たちを厄から遠ざける。
 そう考えれば、特別に寂しくて堪らなくなるという事も無い。
 人間へ向ける無償の愛情と、だからこそ彼らから距離を置く事は、彼女にとってはある種当然の心理であった。彼女の存在意義は、彼女固有の人間好きと反発する物では無かったからだ。

 それは、とある夕暮れの事であった。

 彼女はその日もお気に入りの丘へと足を向けて、遠目に人間たちの生活を眺めようと心を弾ませていた。
 黄昏時。
 博麗の神社がある小山の向こうへと、橙色に空を染め抜く太陽が沈んでいく。
 街道を歩く影法師が長く長く背を伸ばし、仕事帰りの人間たちのホッとした雰囲気が悠長な影の動きに内包される。池の水面や仕事道具に陽光が落ちてキラキラと輝く様を見れば、思わず彼女は嘆息する。人間が好き。人間が好き。神として、神の一種として、彼女の心中に巣食う愛情が、最も満たされる瞬間だった。
 だがその日、木立を抜けて丘の草むらへと出た彼女は、座るのに丁度良い岩の上で妙な先客が人間の里を見下ろしているのを見つけた。

「……何かしら?」

 夕日はその奇妙な存在にもまた、等しく影を落とさせている。逆光で上手く確認する事が出来ないが、それでも尚、雛は目の前のソレが人間では無い事を悟る。
 伸び放題の髪の毛は、ロクに手入れも為されていないからか絡み合い、跳ね上がり、方々に逆立ってこれぞ蓬髪、といった様相を呈している。
 常人には考えられない程に長く伸びた首は、秋風に吹かれる葦の様にフラフラと揺らめいている。
 大仰な煙管を手にし、長い首を左右に揺さぶる最中にも、薄く棚引く紫煙を燻らせている。足元にはボロボロの弓が無造作に置かれ、あられ模様の着物は薄い紫色に染め上げられて、夕焼けの紅く煌びやかな光景とそぐわない。

 そして何より、その『何か』が纏っている、瘴気。

 厄神であり、流し雛である雛も、その身の周囲に厄を纏ってはいる。必然、彼女の周囲の空気は、どんよりと重苦しい。しかし、その怪人物の纏っているソレは、雛の厄などとは比べ物にならない程に濃く、そして不吉だった。
 雛は恐る恐る、その人物へと歩み寄って行く。近づけば近づく程に瘴気は濃くなって、多量の厄が孕む不穏な空気にも慣れきっている筈の雛を持って尚、気分を悪くさせる。
 雛が歩み寄って行く気配に気づいてか、その人物はゆっくりと振り向き、落ち窪んだ双眸で雛を見上げた。

 背後からでは判らなかったが、髪だけではなく髭もまた伸び放題で、その怪人物の表情は両目と鼻位しか確認できない。その髭は長い首を伝って、粗末な着物の襟首の中へと詰め込まれている。雛は思わず、足を止めた。

「――御機嫌よう。美しいお嬢さん」

 紫煙を吐き出しつつ、その人物は低い声ながらも朗らかに雛へと笑い掛ける。ソテツに無理やり着物を着せたみたいだ、と雛は思った。

「……アナタは、何?」

「そう言うお嬢さんこそ、何だ? ワシに近づいて尚、お嬢さんは平気じゃのぅ。否、否。ワシの瘴気を纏っておるのか? ふむ。成程、成程……同業者と言った所かの」

 どっこらせ……と立ち上がったその老人は、雛に向かって恭しげにお辞儀をした。

「パヨカカムイである。疫病や痘瘡を司るカムイ(神)じゃ」

 自己紹介をする好々爺然としたその所作の端々から、雛は言いようの無い災厄の兆候を嗅ぎ取った。
 痘瘡。即ち天然痘の事である。
 痘瘡ウィルスへの感染によって発症する、感染力も死亡率も高い病気ではあるが、外の世界では1980年にWHOが絶滅宣言を出している。しかしその事実は、幻想郷の住民である雛には知る由も無い。
 しかし痘瘡が如何に恐ろしいモノであるか、雛は知っていた。
 小さな村が痘瘡によって全滅した過去を知っている。お母さんの痘瘡を治して下さい、と、幼子が藁にも縋る気持ちで流し雛を作った例も知っている。母親のみならず、その幼子もまた痘瘡から救う事が出来なかった他の流し雛の無念を知っている。
 だからこそ雛は老人の自己紹介に、背筋を凍らせた。

「……お爺さんはここで、何をしていたの?」

「ふむ。己が性質に従って方々をフラフラと歩いておったのだが、気付けばここにおった。なに、久しく人なんぞ見てはおらなんだから、まずは遠目に人間の生活を見て堪能しておった所よ……ここは、お嬢さんの縄張りかの? そりゃ、すまなんだ。スグにでも場所は明け渡すわい」

「――明け渡して、どこへ行くの?」

「無論、あの里へ」

「ダメ」

 雛がフルフルと首を横に振る。胸の前に結った緑色の髪の毛が、振り子の様に左右に揺れた。

「お爺さんの瘴気は、強過ぎる。そんなアナタが里に行ったら、里の人々にどんな厄災が訪れるか判らないでしょう? だから、ダメ」

 火口の灰を落とし、袂に煙管を仕舞い込んだ老人は、不思議そうに両目を細め、クツクツと声を押し殺して笑った。

「なんと、なんと……お嬢さんは、イチヤヌエ(マス)にも泳ぐなと説教をなさるか? キムンカムイ(クマ)にも肉を喰らうなと諭すか? 同業者ならば判るじゃろ。ワシは現象に過ぎぬ。理を構成する歯車の一つに過ぎぬ。ワシがあの里を見つけたという事は即ち、あの里に病魔が発生する運命が決まったという事を意味する。金銭の次くらいの速さで、病は人々の間を伝い、走る。お嬢さんの言葉を聞かねばならぬ理由は、ワシには無い。こちらも一応、仕事なんでな」

 そう言って老人は長い身体を曲げて足元の弓を拾い、再度雛の事を見据えた。

「年寄りの長話に付き合せてしまって悪かったの。それではワシは、もう行く。久しく人の領地に踏み入ってはおらんのだ。ワシは人が好きじゃ。人の住まう場所の暖かな雰囲気は、ワシにはとても心地が良いのでな」

「……その結果として、大勢の人間が死んでも?」

「ワシに言わせれば、ワシと同種のカムイであろうお嬢さんが、人間に近づかぬ理由が判らん。お嬢さんも人間が好きじゃろう? 雑踏の中に佇む自分を思い描くだけで、どうしようもなく心が弾むじゃろう? 何故、お嬢さんは自分の心に嘘を吐いておるのやら……」

 カッカッ……と笑いつつ、老人は里へ至る道を歩き始める。
 雛の心中は、老人の言った通りだった。雛は人が好きだ。雑踏に混じって歩く自分を、彼女は幾度夢見ただろう。その結果として人は厄を受ける。不幸になる。それが判っていても尚、人の居る領域へと行ってしまいたいと思う程度には、雛は厄神だった。
 しかしそれ以上に、雛は流し雛なのだ。人の世の災厄をその身に纏い、人から厄を遠ざけるモノなのだ。老人が仕事と言うのなら、その仕事を何とかして止めるのは雛の仕事だ。
 自分には、人間を厄災から遠ざける義務がある。
 しかし、どうやって?
 長く太い首を振り振り緩慢に歩く老人の背を見つめ、雛は思考する。

 相手は病魔の神。いわば病が齎す災厄の根源であり、具現。対して自分は厄を溜め込む程度の能力しかない。彼我の実力差は余りにも大き過ぎる。力づくで止める事はまず不可能だろう。うねる濁流の水をバケツに収める様な物だ。
 ならばどうする。説得しかない。この老人に語り掛け、何とか病を撒き散らす事を思い直して貰わねばならない。混乱の渦中に居ながらも、雛は何とか頭をフル回転させて説得への道筋を考え出す。

「待って」

 兎にも角にも老人の足を止めねばならない。未だ名案の浮かばぬままに、雛は森の獣道へと足を踏み入れた老人の背に向けて声を掛ける。

「何かな?」

 老人は意外な程にあっさりと立ち止まり、また好々爺然とした微笑みで雛を見返す。

「……本当に、あの里に病を振りまくの?」

「それがワシの仕事よ。仕事であり、理でもある」

「でも、お爺さんは人間が好きなんでしょう? 私と同じで、人間の事が好きなんでしょう? 病が蔓延すれば、人間は悲しむわよ? 苦しむのよ? 地獄の釜の底をひっくり返した様な騒ぎになるのよ? アナタが里に行くだけで」

 説得のセオリーとして、取る物も取り敢えず雛は感情論に訴える事とした。無論、こんなロジックも何も無い台詞で、老人が考え直すとは思っていない。
 ネゴシエーションには、相手の情報が必要不可欠だ。相手の望む物。相手の思考。目的。その為に相手が何をするのか。そんな情報を全く欠いた暗中模索の状態で交渉が成功する等と考えるのは、この世で最も愚かしい。それをきちんと理解している程度には、雛は賢かった。
 自分はこの老人について、何も知らない。まずは情報を得なければ。その為の糸口としての言葉だ。情報の無い上での思考は無為に等しい。馬鹿の考え休むに似たり。過程を経ずに結果を求める事の、なんと無駄な事か。地盤も固めず、柱も立てず、屋根だけを作れば家が出来ると思い込むのと同じだ。

「……お嬢さんは、チェプは好きかの?」

 髭を撫でながら、しばし思考していた老人が口を開く。

「ちぇぷ?」

「魚、と言えば通じるかの?」

「え? お魚の事? えぇ……まぁ、嫌いではないけれど……」

「そうか。ワシは好きじゃ。アッコチケ……いや、しっぽやヒレの部分がの。上等な供え物は遠慮するが、魚のそういった部位が好きなんじゃ……仮にお嬢さんも魚の事が好きだとしよう。大好きだとしよう。それではお嬢さんは、大好きな魚を食べる事に忌避感を覚えるかの? 魚が苦しむから、魚が悲しむから、魚を食べないと主張する事に、違和感は覚えんかの?」

「――で、でも、それとこれとは話が違うわ。何もお爺さんは、人間を取って喰おうという訳では無いのでしょう? 生きて行く為に魚を食べる事と、食べもしない人間に病を振り撒くというのは……」

「同じ事じゃよ。お嬢さん」

 老人は目を細めて静かな笑みを浮かべると、止めていた歩みを再開する。

「カムイの存在意義は、理を遂行する所にある。理を破るカムイは、最早カムイに非ず。人間が生きる為に魚を取る事、カムイがカムイである為に理を遂行する事。その二つは同じことなんじゃ。魚を愛でる漁師の存在は、果たして矛盾かの?」

 老人の背後に付いて歩きながら、雛は老人のおっとりとした口調の言葉を反芻していた。
 そうだ。確かに神と人間は、どこまで行っても違う種類の存在なのだ。例え姿が似通っていようと、言葉が通じようと、神と人間の間にはどうする事も出来ない隔たりが存在する。魚と人間位にまで、その隔たりは大きい。例外は、現人神である山の上の神社の東風谷早苗位だ。じゃあ彼女は半漁人と同じって事かしら? いや、私は何を考えている? 雛はブンブンと首を横に振る。

 理に人の言葉は通じない。人の世界のルールは通じない。どれほど祈ったって、どれほど願ったって嵐は来るし、雪も雹も降る。そういった事情を超越した存在だからこそ、理と呼ばれ、自然と呼ばれ、神と呼ばれるのだ。
 とは言え、この問答が無駄だったという訳でも無いかもしれない。新たに判った老人の情報について、雛は整理してみる。取り敢えず、魚の尻尾やヒレが好きだとは判った……でも、それが何になる?

「――例えば私が魚を取ってあげたら、お爺さんは里へ行く事を諦めてくれる?」

「ふむ、その時には、お嬢さんを病から遠ざける様にするかのう」

「それだけ? 私だけ?」

「それならお嬢さんの知り合いのカムイにも、同様の待遇を約束するかの」

「それじゃ意味ないんだけど……」

「お嬢さんの気持ちは判るがのぅ……」

 老人は再度立ち止まり、こめかみの辺りを袂に隠れ切った指先で掻きながら、困った様な表情を浮かべた。木々の庇の下にて木漏れ日は橙に染まり、疎らに照らし出される老人の顔は如何にも不気味な様に、雛には見えた。

「先だって言った様に、ワシにはあの里を諦めねばならぬ理由が無いのだ。理は既に、あの里に病魔が蔓延る事を決めておる。だから、ワシがあの里を見つけたのじゃ。見つけたからには、ワシはカムイとしての仕事をせねばならぬ。お嬢さんの要望を、病の風は聞きやせぬ。病の発生は偶然であり、必然でもある。それに何より……」

 老人の視線が、雛の頭から足元までをサッと上下する。そうして溜め息を一つ吐いた老人は袂から大仰な煙管とあられ模様の煙草入れを取り出し、勿体ぶる様な挙動でゆっくりと葉を火口に詰め、燐寸を擦る。

「――お嬢さんは、人では無かろう」

 木立の空気の中に棚引き、渦を巻く紫煙を吐き出しつつ、老人は小さな声で言った。

「お嬢さんが如何に人間の事が好きで、その人間の為にワシを止めようとした所で、そのお嬢さんの努力と人間の生活に、一体何の関連を見出す事ができようか。どこまで行っても、お嬢さんは人では無い。人ならぬモノの努力への対価は、人ならぬモノへと還元されて然るべきじゃろうて。なに、案ずることは無い。人間は脆弱な生き物では無い。パヨカカムイはその事を熟知しておる。病を振り撒く事で人間を滅ぼす事が目的なのではなく、病という試練を与える事によって、人間という種を高みへと導く事が目的である」

 老人はまたしてもニッコリと微笑むと、またぞろ歩みを再開する。
 木陰の濃い場所は既に夜の空気を内包し始め、姿の見えない虫の音は、そこかしこで好き勝手な輪唱を響かせていた。蟲共の雑多な混声合唱も今日に限っては、開幕を目前に控えた悲劇への前奏曲としか、雛の耳には聞こえなかった。

 ――それじゃ、ダメなの。

 雛は老人の背中を見つめつつ、無力感に拳を握る。
 言うに及ばず幻想郷は、結界によって囲われた巨大な箱庭だ。当然ながら、内部に住まう人間の血は否応無しに濃くなってしまう。ガラパゴス的な閉鎖空間の生物が、外的要因に拠る変化に弱い事は言うまでもない。幻想郷の住民の遺伝子は悉く偏ってしまっており、人口も多いとは言えない。

 つまり疾病による自然淘汰は、幻想郷では成り立たない。
 進化を齎す前に、絶滅してしまう事は目に見えている。
 ダーウィンの進化論を齧った事など、雛には無い。しかしながら幻想郷が箱庭である事を知っている彼女は、感覚的に老人の目論見が失敗する事を予知していた。

 永遠亭があるから、問題は無いのか?
 幻想郷の人間の死滅という最悪のシナリオだけは無いから、このままこの老人を放っておいても大丈夫なのか?
 雛にはそうは思えなかった。
 それではダメなのだ。
 人間に厄災が降りかかってしまっては、いけないのだ。
 老人は運命論的な口調で、人里に病を齎すと言った。
 ならば彼が病を振り撒く前に自分がパヨカカムイと出逢った事は、老人の思惑を阻止する、という流し雛としての自分に課せられた運命なのではないのか?
 ならばそれの失敗は、雛自身の存在意義を揺るがしてしまう事になるではないか。
 自分は、人間を厄から遠ざけなければならない。
 この老人の好きにさせてはいけない。
 例えそれが老人の言った通り、人では無い自分の不利益とは直結しないとしても。
 でも。
 ……自分に、一体何が出来る?

 ゆったりと煙を吐き出しつつ獣道を進む老人の背を見つめて、雛は自問する。
 木立を突き抜ける獣道は北東へ向けて弧を描き、やがてその出口は村の入口へと出る。太陽は徐々に徐々に地平線の向こう側へと沈んでいき、木立の中は既に薄闇が蔓延りつつある。
 幸いな事に老人の歩みは遅い。神ならば人里へと瞬間移動が出来てもおかしくは無いだろうが、少なくとも老人にその意思は無いらしい。あくまでも彼は、獣道をゆっくりゆっくり歩いて、里へ向かうつもりなのだ。
 まだ、間に合う。
 ここで老人から離れても、まだチャンスはある――!
 キッと雛は頭上を見上げて、一息に地面から離れる。天蓋へと手を伸ばす木々の枝が彼女の肌を引っ掻き、服のフリルを絡め取ろうとする。痛みに構わず彼女は林の上空へと飛び出た。木の葉の上の空気は既に夜の風を吹かせ、妖怪山の肩口には一番星が煌めいていた。

 雛は里へと飛ぶ。獣道のカーブを思い出し、老人が里へと辿り着く時間を計算する。冷え始めている上空の風は、焦る雛の頭をクリアにしてくれた。
 里を俯瞰で見る事の出来る上空に辿り着いた雛は、老人の言葉を思い返した。老人についての情報を思い出した。
 魚のヒレや尻尾が好き。人間が好き。人間の住まう場所の雰囲気が好き。だからこそ老人は、里に痘瘡を振り撒く事を躊躇わない。矛盾しているようにも思える老人の行動原理はしかし、雛には理解できた。
 パヨカカムイは自分と同種の神だ。人に近づけば厄災を齎す。そしてだからこそ、厄災の神々は得てして人が好きなのだ。彼と自分の違いは、齎す結果と実力差だ。老人は病を運ぶ。雛は人から厄を遠ざける。存在意義が真逆であっても、カテゴライズとしては同じ厄災の神。そしてだからこそ、好々爺然としたパヨカカムイは自分の願いを聞いてはくれない。何故なら自分は人間では無いからだ。

 篝火が灯され始めた人間の里を見下ろして、雛は必死で頭を働かせる。
 ――重要なのは、自分が何をすべきかではなく、自分が人間に何をさせるか、だ。
 自分が何をしても、老人は仕事を辞めない。ならば自分が人間に働きかけ、人間に自衛して貰う他に道は無い。確か里には、幻想郷縁起を編纂する稗田の少女が居た筈だ。彼女ならば何か打開策を見いだせるかもしれない。
 そう思って里へと向かいかけた彼女の身体を、何か途方も無い危機感が警鐘を鳴らして中空に留めた。自分が里に近づいてはならない、という意識。一瞬その危機意識の出所に思いも寄らずに困惑した彼女は、ハッと自らの周囲に滞る厄の濃密さに気付く。

『否。否。ワシの瘴気を纏っておるのか?』

 老人の言葉が、彼女の頭の内側でリフレインする。

 ――そうだ……自分は、あの老人の瘴気をもまた、集めてしまっているじゃないか……。

 パヨカカムイの瘴気。流行病を司り、殊に痘瘡を齎す瘴気。今の自分が里に近づく事は、老人の仕事を代行してしまうのと同義だ。好むと好まざるに関わらず、今の彼女は痘瘡の媒介者となってしまっている。人間を救う為に厄を集めるという彼女本来の性質は今、人間を救おうと尽力する彼女の足を引っ張っている。
 人間に近づく事が出来ない自分が、人間に人間を救わせねばならない。
 絶望的な二律背反が、奮い立っていた彼女の使命感を挫こうと牙を剥く。

「――どうすれば良いのよ……ッ!」

 悔しさと、再び立ち上って来た無力感に、彼女は堪らず歯噛みをして頭を両手で抱える。夕日は沈み果て、博麗神社の上空にはベールの様な薄紫が棚引いていた。一つ、二つと星が天蓋に顔を覗かせ始め、こうしている間にも痘瘡の神は一歩、また一歩と人里へと近づいている。
 時間は無い。手段も無い。自分の周りに滞る瘴気をすっかり散らしてしまうまでに、一体どれほどの膨大な時間が必要だと言うのか。
 しかし悩んでいる時間など、自分には無いのだ。
 タイムリミットが迫っている。
 後ろ髪を引かれる思いで、雛は里から離れる。

 今から永遠亭を尋ねるか? ダメだ。予防接種の準備はおろか、永遠亭に辿り着く前にパヨカカムイは仕事を終えてしまう。八雲紫を呼ぶか? それもダメだ。どこに居るのかすら自分には判らない。そもそも今の自分が、誰かに近づくなんて危険は冒せない。
 誰も頼れない。自分だ。矢張り自分が何とかするしかない。自分が、人間を救わねばならない。大好きな人間を、痘瘡から守らねばならない。かつてこれ程までに、自分が人間を救う為に尽力した事があっただろうか。こんなに積極的に、人間を守らなければならないと奮った事があっただろうか。自分は厄神だ。えんがちょだ。そもそも人間からは忌み嫌われる存在だ。それで良い。構うもんか。見返りなんて要らない。感謝なんて要らない。人間を守れればそれで良い。満足だ。笑ってやる。人間が何も知らなくても、これまで通り自分を疎んじても、嫌な顔を向けて来ても、私は笑ってやる。微笑んでやる。自己満足で十分だ。

 雛は里から少し離れた獣道の入口へと着地する。里の門扉が遠目に窺える場所だ。折しもパヨカカムイが、林の中から出てくる所だった。
 突如空から降って来た雛を見て、老人は両眼を静かに見開いて驚いた。

「ほぅ。お嬢さんも飛べるのか……して、何用かな?」

「お願い……里には行かないで……」

 老人の目の前に立ちはだかり、両手を広げた雛が息も荒く老人に言う。

「お爺さんの仕事が病を振り撒く事なら、私の仕事はそれから人間を守る事……私はアナタを、里に向かわせちゃいけないの……」

「ふむ……」

 老人は長い髭を撫でて、少々思案する様に空を見上げる。しかしすぐに、ゆっくりと首を横に振った。

「お嬢さんの頑張りは認めるがの――」

 言った瞬間、老人の姿は雛の目前から忽然と消え失せた。雛がアッと思う間もなく、彼女のすぐ背後から、老人が二の句を継ぐ。

「――その努力は、ワシが歩みを止める理由にはならん」

 老人は何事も無かったかのように、村の入口への行軍を開始する。すかさず雛は老人の前方へと回り込み、再度両手を広げて立ち塞がる。しかし、結果は同じだった。瞬き一つしていないのに、気付けば老人は雛の背後へと瞬間移動しているのだ。
 神とは概念だ。ラベル付けされた自然の権化だ。本来ならば形などは存在しない。どこにでも居て、どこにも居ない。箱の中の猫にそもそも肉体が無いのならば、観測の有無に関わらず物理的な法則などは通用しない。幻想郷はいわば、巨大な箱なのだ。概念が肉体を持って闊歩する、観測者不在の巨大な匣。ならばどうして、概念が概念の歩みを止められようか。

「……死んじゃうのよ? みんな、死んじゃうのよ? 幻想郷は閉鎖空間だわ。病気による自然淘汰の前に、人間が全滅してしまうわ。そうしたら神も、妖怪も、何もかも居なくなってしまう。幻想郷が、アナタのせいで死んでしまう……ッ!」

「それもまた理の定めた運命ならば、致し方あるまい」

 雛の悲痛な叫びさえ、老人は意にも介さない。一息に里まで瞬間移動をしないのは、雛が自分を止める事など出来ないと知っているが故なのか。ならば老人にとって自分の努力は、路傍の小石程にも障害とは成り得ていないのか。雛はそれを悟ってまたも歯噛みする。

 敵わないと判っていても、いっそ弾幕を叩き込んでみるか? 
 否。それが老人に効くイメージが毛ほども湧かない。

 そもそも老人が目の前に存在する根拠は、病原菌の発生にあるのだ。幽霊の正体見たり枯尾花。その場合、枯れたススキを刈り取れば幽霊は消滅するだろう。しかし雛は、病原菌を根絶させる能力など無い。老人が齎そうとしている厄災は、厄を溜め込む雛のキャパシティを遥かに凌駕する。
 やはり老人に、何とか仕事を思い留まらせるしかないのだ。
 自分が、老人を説得するしかないのだ。
 しかしどうやって? 一体どうしろと言うのか?
 自分が供え物をしても、それは人間の社会とはまるで無関係だと老人は言い放った。老人と同じく人間が好きで、人間の社会が好きな自分の努力は――。

 ……待った。

 何かが引っ掛かって、雛は老人の背中を見据えつつ思考する。
 自分は流し雛だ。そして同様に、厄を司る神だ。厄を司る神として、二人は人間好きという性質を共用している。しかし雛は今の老人の様に、人間好きが故に人里へと行こうとは思わない。それは自分が流し雛であるが故に、かつて自分を作ったコミュニティを守るという性質を兼ね備えているからだ。
 自分を作った、共同社会。
『幻想郷にある人間の里』という、特定のコミュニティ……。
 ハッと雛は気付いた。
 そうだ。自分は無意識に、『単に人間が居る社会』と『幻想郷の人間の里』を区別しているのだ。仮に自分が外の世界へ自由に行けて、『幻想郷の人間の里』以外の共同体を知っていたら、自分はその、自分とは関係無い共同体の人々をもまた、守ろうとするのだろうか?
 答えは、否だ。その時は自分の厄神としての性質に従い、何も考えずにその共同体へと足を踏み入れるに違いない。
 老人と自分は確かに同じく、人に厄災を齎す神なのだろう。しかし、老人と自分の最も大きな違いは、そこにあるのだ。

 ……即ち目の前の人間の里を、数ある匿名の集落の一つと見ているか、特定の大切な共同体と見ているか。

 老人は、『魚を愛でる漁師の存在は、果たして矛盾か?』と問うた。ならばその漁師は、自宅でペットとして飼って名前も付けている魚と、自分が生きる方便として捕る魚を同一視しているのか? そうでは無い。そうでは無いからこそ、老人の問いは矛盾を生まない。
 ならば。
 ――このお爺さんが、幻想郷に住まう人間そのものに愛着を持てば、病を振り撒く仕事を止めてくれるかもしれない……!
 僅かな光明を得て、雛はグッと拳を握る。

 語ろう。
 幻想郷に住む人間の事を、語ろう。
 この世界に息づいている人間が懸命に生きる姿を、語ろう。

 既に二人は、豆粒のようにしか見えなかった人間の里の篝火の揺らめきが視認できるくらいにまで近づいてしまっている。もう時間は無い。

「待って! お爺さん!」

 あられ模様の着物の背に向かって、覚悟の決まった雛が鋭く呼び掛ける。今までの力無い声とは違ったその声音に、さしものパヨカカムイも足を止める。

「――何かの?」

 ゆっくりと振り向いた老人の挙動は、やはり好々爺然として変わりは無い。そこには彼自身、雛がどうやって自分を止めるのか、と興味を持っている様子すらあった。

「……アナタが今から滅ぼそうとしている、人間の話をします」

「……ほぅ。ユーカラ(叙事詩)かの?」

 蓬髪を撫でつけて、老人は目を細めて微笑む。そして袂から煙管を取り出してボロボロの弓を地面に置き、その場にべたりと座り込んだ。

「はてさてお嬢さんは、どのような話を聞かせてくれるのかのぅ? 楽しみじゃ。久しくユーカラも聞いておらんのでな」

 火口に刻み煙草を詰め始める老人を見て、雛は深呼吸をする。何を語ろうかと懸命に頭を働かせる。自分は人間の里に入った事は無い。里の人々について、語れるほどの情報が無い。それでも自分は、人間の話をしなければならない。それでは、誰の話を?

 ――決まっている。
 雛の脳裏には、二人の特異な人間の姿が思い浮かんでいた。
 博麗神社に住む紅白の巫女の少女と、魔法の森に住む黒白の魔法使いの少女。博麗霊夢。霧雨魔理沙。この二人が競い合って解決して来た、幻想郷の異変の話。
 それならば、自分でも語れる……。
 雛は目を閉じて、静かに二人の活躍へと思いを馳せる。そして雛は、ゆっくりと語り始める。老人の言う所のユーカラを。幻想郷を騒がせた異変と、それを解決せしめた二人の少女の物語を。
 ――まずは紅霧異変から。
 幼い吸血鬼が幻想郷を真っ赤な霧で満たし、二人の少女に敗れるまでのお話。
 ――次に、春雪異変。
 冥界に住む亡霊の姫君が幻想郷全土から春を奪い、西行妖という化け物桜を満開にしようと企て、あと一歩の所で阻止されたお話……。
 雛は何かに憑りつかれた様に、老人にこれまで幻想郷が経験してきた異変の数々を語り続けた。言葉は彼女の胸の内から泉の様に湧き続ける。老人は時折頷きながら、時折驚きに目を見張りながら、彼女の言葉を傾聴し続ける。
 絶える事無く続く宴会を。いつまで経っても明けない一夜を。六十年毎の風物詩を。自分自身もまた、二人の少女と相対した出来事を。局所的な異常気象を。湧き上がる間欠泉と怨霊を。空飛ぶ宝船を。神霊が大量に跋扈した話を。霊夢。魔理沙。咲夜。妖夢。早苗。時に視点を変えて、時に主人公を変えて、そして時には主人公である人間同士が戦った話をも。
 異変を解決するのは、常に人間だ。妖怪、妖精、亡霊、そして神。そういった超常的な存在が数多ひしめく幻想郷という特殊な世界に置いて活躍するのは、平和をもたらすのは、常に人間だ。人間こそが、この世界を構成する種族だからだ。
 雛は知っていた。人間に近づく事の叶わぬ雛は、そんな人間達の活躍を知っていた。幻想郷に住まう人間が如何に素晴らしい存在なのかを知っていた。知っていたからこそ、雛はこんなにも人間を愛しているのだ。人間が好き。人間が好き。老人を説得する為に始めた筈の物語は、いつしか語り手である雛自身をも魅了していた。

「――お爺さんが病を振り撒けば、きっとみんな、死ぬわ」

 全てを語り終えた雛は、そう言って物語の幕を閉じた。目を閉じて雛の話に聞き入っていた老人は何も言わない。何も言わず、雛の語った物語を反芻していた。

「……成程、成程」

 大きく溜め息を吐いた老人は、小さく笑いながらそう呟き、立ち上がる。自分の語った話は、本当に老人を思い留まらせる事が出来たのだろうか。語り過ぎて舌の根が乾いてしまった雛は、グッと老人を見つめる。濃紺の上空には満天の星が瞬き、柔らかな風が二人の間にそよいでいる。

「――お嬢さんは、物語を語るのが上手いのぅ……」

 いつしか煙をふかす事も止めてすっかりと冷え切ってしまった煙管を、老人は袂に仕舞い込む。そして思い出した様に足元の弓を拾い上げ、満足そうに雛を見て笑い掛けた。

「ユーカラ、という訳には行かなんだが、実に堪能させて貰った……人間。人間。この世界の人間は、カムイすら圧巻せしめる生命力に満ち満ちておるのだのぅ。成程、お嬢さんの話に聞き入っている内にワシは、この世界に住まう人間を殊更に気に入ってしまったわい……淘汰、等という大仰な言葉を使ったは良いが、どうやらこの世界は、この里は、そんなモノ必要としておらんのだのぅ……ワシの様な厄災無くしてもこの世界の人間は、驚くべき理の渦中にて生きておるのだのぅ……」

 天蓋を覆い尽くす星々を眺めつつ自分の髭を撫でる老人が、どこか寂しげな口調で呟く。雛もつられて、上空を見上げる。大小さまざまな星は優しげな静寂を持って、煌めいていた。

「――結局、どうするの?」

「ふむ……やはりお嬢さんは人間では無いから関係無かろう、等と野暮ったい事を言う気も無いわい。お嬢さんの勝ちじゃ。お嬢さんは自らの責務をやり通した。このパヨカカムイから、人間を守りおった。驚天動地に値する勇猛果敢さよ」

「……人間はそんな事、知る由も無いけれどね」

「然様。我らは厄災のカムイじゃ。人間に恐れられ、忌み嫌われる存在よ。それでも人間が好きじゃ。人間の生命力を見るのが好きじゃ。殊にワシの力に打ち勝つ人間の強さにこそ、ワシは強く憧れる。しかしお嬢さんの語った特異な人間達の話だけで、ワシは充分に満足よ……もう痘瘡に打ち勝つ人間を見ずに消え失せても、の」

「――え?」

「不要なカムイは、消えるが定めよ」

 驚いて老人を見上げる雛の顔を見て、パヨカカムイはニッコリと微笑んだ。満足げなその表情を残して老人は空を見上げたかと思うと、一息に天蓋へと向けて飛び立った。

「……お爺さん!」

 思わず彼女の口から飛び出て来たその呼びかけは、一体何に端を発するのか。その答えは雛自身にさえも判らなかった。薄紫色の老人は高く、高く空へと昇り詰め、やがて星々さえも埋める事の叶わない夜の闇へと消えて行く。
 全てを完璧にやりこなした。
 パヨカカムイから、人間の里を守った。
 しかしその仕事に対する達成感などまるで無く、老人を見送った後の雛の心には、言い様も無い寂寥が満ち満ちていた。

 ◆◆◆

 老人から期せずして集めてしまった瘴気の影響で、雛は妖怪山の奥深くにある深山幽谷といった雰囲気の洞穴の中に佇んでいた。人妖さえも痘瘡になりかねない厄を懸命に散らしてこそ居るが、その作業は一体いつまで続くのか。渓谷の空気は冷たく、纏わりつく霧はねっとりと濃い。雛の心は、どうにも浮かばなかった。

 自分と同種の厄災の神。
 最早自分は世界から不要だと断じて消えたカムイ。

 言いようの無い寂寥はいつか自分もまた、あの老人の様に消え去る事を選ばなければならないのか、という自問から来る物だと雛はようやく気付いていた。
 人の世から厄災が消える事は、きっと無いだろう。
でも、自分が集める事の出来る厄がいつかその姿を変え、自分が不要になる日が来ないとは限らない。
 外界にて絶滅した痘瘡ウィルスが、この幻想郷からさえも消えた今。雛は未だ訪れる兆候の無い自らの消滅の形について、考えざるを得なかったのだ。

「――おーい雛人形! ここに居るのか!?」

 突然、洞穴の外から声が聞こえて来て雛は思わず、「ひぃ!?」と頓狂な声を上げて驚く。
 それは霧雨魔理沙の声だった。
 自分がパヨカカムイに語った話の中で、幾度となく登場させた少女だ。

「来ないで!」

 すぐさま雛は、洞穴の外側へ向けて大声を上げる。彼女の声が岩盤に反響し、うわん、うわんと奇妙な響きで冷たく暗い空気を震わせる。

「今の私に近づいたら死ぬわよ! 絶対に洞穴の中に入っちゃダメ!」

「あー、判ってる判ってる。とーそー、とか言う良く判らん病気になるんだろ? 阿求から聞いたぜ」

 魔理沙の声は遠く小さく、どうやら洞穴の外から聞こえて来るのだと悟って、雛はひとまずホッとする。
 しかし、阿求……? 何故、稗田阿求が痘瘡の事を知っているのだろう?
 実際に逢った事こそ無いが、彼女の持つ知識は相当に膨大な物だと聞く。痘瘡ウィルスの事について知っていても、おかしくは無い。
 ――けれど今、それを私が伝染させかねない事については、知っている訳無いのに……。

「……か、鍵山雛さんですか!?」

 困惑する雛の耳に、魔理沙とは違う少女の声が聞こえて来た。

「誰?」

「私、阿求です! 稗田阿求です!」

 初めて聞いた稗田阿求の声は、雛が思っていたソレよりもずっと幼く聞こえた。

「何の用……?」

「実は私の昨晩の夢の中に、良く判らない紫色のお化けが出て来たんです! そのお化けが、『赤い服に緑の髪を持つ厄災のカムイを訪ねよ』と私に命令して来たんです!」

 ――あぁ、あのお爺さんだ。

 雛は即座に、阿求が言う『お化け』の正体に思い至る。

「雛さん! 本当なんですか!? 本当に貴女が、人里を痘瘡から守ってくれたんですか!? もしかしたら単なる夢かもしれないとは思ったんですが、どうしても、どうしても、貴女に逢わなくちゃいけないと思ったんです! 『痘瘡の知識があるのは、お前だけじゃった。お前だけが、痘瘡の持つ恐ろしさを知っておる』と言ったお化けの言葉が気に掛かって、魔理沙さんに頼んで連れて来て貰いました!」

 阿求の声音は、姿が見えなくても判る程に懸命だった。そう言えば、文さんが出した新聞で、一度だけ阿求の姿を見た事があるかも知れない、と雛は思い返す。載せられていた少女の姿は、確かに幼かった。雛は洞穴の外に佇む少女の姿を思い浮かべた。

「うん」

 手柄を誇る様な口調になってしまうのがどうしても嫌だったので、雛は端的にそれだけを返した。素直に喜ぶ気分には、やはりなれない。結局彼女がやった事とは、自分と同族の神を拒絶する事に過ぎなかったのだから。
 沈鬱な気持ちで俯く雛に、また外から声がする。

「――ありがとうございます!」
 と。

「ありがとうございます! 雛さん! 貴女は人間を救ってくれた! 幻想郷を救ってくれた! 痘瘡は恐ろしい病です! 幻想郷で広まってしまったら、一体どれほどの人間が死んでしまったでしょうか!? 私は忘れません! 貴女のしてくれた事を絶対に忘れません! 雛さん! 本当にありがとうございました!」

 稗田阿求の声がする。彼女の声が洞穴の冷たい空気を震わせる。一心に紡がれる礼の言葉を、雛に届けて来る。
 それは久しく――否、もしかしたら、初めて人間から手向けられた言葉だったかもしれない。
 ……成程。パヨカカムイが。消滅する事を選んだあの老人が。きっと最後に気を使ってくれたのだ。自身の恐ろしさを唯一理解出来ただろう少女の枕元に立って、決して語られる筈の無かった雛の仕事を、まさしく驚天動地へと変えて行ったのだ。
 雛は目を閉じる。紡がれた礼の言葉を、存分に噛み締める。彼女の周囲に滞る厄は未だに強い。老人から集めてしまったその瘴気は、今となっては老人が残して行った存在の残り香なのだ。
 雛は、ホゥ、と溜め息を吐く。おどろおどろしい外見を持つ老人が浮かべた、静かな微笑みを思い返す。思いがけない老人の置き土産に、寂寥の念はゆっくりと彼女の心中で氷解して行った。

 ――あぁ、なーんだ。
 ――やっぱり私、人間が好きなんだ。
 ――お礼を言われて、嬉しくなって泣いちゃう位、人間が大好きなんだ。

 忌み嫌われる事に慣れ切っていた厄災の神は、ただ声を殺して咽び泣いていた。


End
そろそろ原作の方でも、アイヌ民話の神様が出て来たりするかなぁ、なんて考えていたりします。
夏後冬前
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コメント



0.580簡易評価
2.50名前が無い程度の能力削除
お話を拝読して、なるほどと思うところがありましたが、それを少し上回る程度の違和感が残りました。
私にとっては、どちらかというとパヨカカムイの主張の方がすっと飲み込め、雛の行動に共感しづらかった為と思われます。
神・神話の発生は人間の手に余るものをカタチに仮託したものと考えますが、それはある意味では極めて機械的な働きを持つものだと思うのです。私の中の雛像では、きっと彼女は天然痘で死滅した人里で、泣きながらくるくると踊るのではないかなあと思います。
東方あるいは幻想郷という世界と折り合いをつける上で、細かい部分を気にすればかなり理由の補強が必要なお話ですが、そこは無粋ですから物語として飲み込みました。
文章は特に何か言う事はありません。アイヌ的な世界が垣間見れたのは面白かったです。
次回作を楽しみにしております。
4.100名前が無い程度の能力削除
色々考えるところはあるけれど、雛は体を張って人を助けるこの話通りの性格だろうなあと思ったり
魚が一匹海で死んでるのと、自分の家の水槽で死んでるのとで悲しみが違うのは理性が有るならしょうがないと思うの
5.100名前が無い程度の能力削除
雛は人を厄災から遠ざけようとする性質だし、自分は違和感無かったな
アイヌ語は雰囲気出ますね。面白かったです
7.80奇声を発する程度の能力削除
色々と考えるお話でした
8.80名前が無い程度の能力削除
アイヌ民族に前々から興味があったので、楽しんで読めました。
「神様」としてはパヨカカムイの行動の方が正しいなぁと思ったので、雛が里を守りきった事に少しビックリしました。
どこか切なさが漂うお話で良かったです。
9.90名前が無い程度の能力削除
外部からの病に弱い箱庭世界の脆弱さ
意図したかは分かりませんが、幻想郷自体の盲点を突かれた思いでした
14.100名前が無い程度の能力削除
もっと点が入ってもいいのに、と本気でそう思います
里の危機を救うため、健気に出来る事をしようとする雛様素敵、
後意外と科学知識持っている所も魅力的
最後に救いがあってほんわかしました
16.100ロドルフ削除
いい終わり方だなぁ。アイヌの伝承とは知りませんでしたがおもしろかったです。
17.903削除
パヨカカムイを説得するところに少し違和感、というか強引さを感じましたが、
それ以外は気になるところもなく、面白く読めました。
結局のところ、このSSは雛の存在意義に関わる話なのですね。