1.
目を覚ますと、薄闇に浮かぶ天蓋があるだけだった。
「……」
仰向けになったまま、だらりとした右手が何の感触にも触れないことに、短く息をついてみせる。
「…………」
こんなになっているのは、いつからだっただろうか。
はっきりとした視界の中、まどろんだ思考を動かす。
きっとまた、朝だというのに目を覚ましたのだろう。
吸血鬼ともあろう者が、なんとも情けない。
こんな様では、他の者に笑われてしまうのも時間の問題だ。
……。
「…………はぁ」
思い浮かべた事柄は本当にどうでもいいことで、一呼吸を置いて呼気とともに吐き出してやった。
「………………」
そんなことより……。
目が覚めて一人きり。
それは、いつものことなのだ。
だから……別に、どうということでは……ない。
ただ。
この、空っぽの右手。
それが、なんだか…………空っぽでしょうがない。
「…………」
…………考えても仕方ないことなのに。
――――コンコン。
寒々しい思考にすっと、木製の柔らかな音が響いた。
続いて、
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
柔らかな声も。
「……今、起きたわ」
短く返事をすると、音も無くドアが開かれて、薄明かりが室内に侵入してきた。
灯りは開いたドアの隙間から一直線に伸びる。
けれど、寝そべっている私の元に辿り着くことはなく、人影がそれを遮った。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、咲夜」
先程と同様の柔らかな口調に、私は動くことも、視線を動かすこともなく声を返す。
「はい、お嬢様」
咲夜のやんわりとした声は室内にわずかに響くと、あっさりと消えていく。
「…………」
そのまま、ぼんやりと上を見上げてみるけれど、やはりベッドの天蓋が浮かんでいるだけ。
……変わるわけ、ない……か。
「お嬢様、お食事はいかがなさいますか?」
そんな無意味な胸中に響く声はやはり、どこか柔らかい。
私は、あっさりと考えを放棄した。
「……そうね、用意してちょうだい」
「はい、かしこまりました」
波紋のような振動に返事をすると、咲夜は頭を下げたようだった。
短く一礼する衣擦れの音が一つ。それから、戻される音が揺れる。
「お嬢様、その前に――――」
けれど、咲夜は動き出す前に先程とは違った、念を押すような口調で口を開いた。
あぁ、そうだった。
「その前に起きることにするわ」
そうして私は、ようやく咲夜へ顔を向けて、寝そべったまま返事をしてみせた。
2.
「いかが致しました?」
「……あ」
広々としたテーブルの上、簡素に置かれた食事をぼんやりと眺めていると、咲夜が声をかけてきた。
ただ単純に、運ばれてきた様子を眺めていた結果がこれだ。
彼女は、しれっとした様子で佇みながらも、微妙に心配したような表情を向けてくる。
「なんでもないわ」
そんな過保護な様子に素っ気なく答えると、テーブルに置かれた箸を手に取った。
「……いただきます」
「はい」
テーブルの上で湯気をくゆらせているのは、スープではなくて味噌汁。それに平皿には、パンどころか卵焼きが乗せられていた。
あの紅白やら白黒やらのお陰で、現在の紅魔館はといえば異文化コミュニケーションのよう。
西も東も関係なくさせられて、文化が氾濫している気がしてならない。
それでも。
「……美味しいわね」
「ありがとうございます」
咲夜の料理が美味しいことに変わりはなかった。
慣れない箸で厚く焼かれた卵を突き刺しつつ、咲夜に目を向ける。
彼女はやはり、じっと佇んでいるだけで、それきり。
いや、微かに口元を緩めて、この光景を眺めているようだった。
ずっと、毎日、いつも同じように。
「……」
それはきっと、私のいない光景も。
……。
「……ねぇ、咲夜」
「はい、お嬢様」
「……」
「……お嬢様?」
無意識のうちに溢れた言葉に、私は口をつぐんだ。
その効果も無く、優秀な彼女は小首を傾げて、私へと視線を向けてくる。
「……」
しかし、私が目を伏せて皿へと視線を移動させたことをみて、彼女もまた口をつぐんだ。
あぁ、本当に、優秀なのだから……。
「……今日は、みんな和食を食べたのかしら?」
そのまま黙っていられそうもない私は、溜息も付かずにポツリと質問を投げかけた。
「はい」
「……ふーん」
彼女の淡々とした返答に興味を示さず、私はただぼんやりと、彼女の響かせる振動を耳にしていた。
「やはり、いつも通りの方がよろしいでしょうか?」
「……いいえ、たまにはいいものだわ。それよりも、ね」
「はい?」
「その……、みんなは……どうだったのかしら?」
「みんな……ですか?」
「……ええ」
自分で放った言葉に白々しい感情を抱きながら、私は咲夜の返答に耳を傾けていた。
「えぇと……パチュリー様は――――」
「……そう」
「一緒に来ていた小悪魔は――――」
「……あぁ、そうよね」
「ついでに、美鈴ですが――――」
「……まぁ、いつものことね」
その内容なんて、きっと問題ではないのに。
誰が、どうして、どう思おうとも……それほど大したことではないのだから。
…………。
「お嬢様の前にきた、フラン様ですが――――――」
「…………」
ただ、そこに居たのだとわかれば……いい。
「……そう」
私は小さく答えると、いつの間にかぐしゃぐしゃに崩してしまっていた卵の塊を頬張った。
小さくなった塊は、どこか西洋の料理のような、けれども和食のような、なんとも微妙な感じだ。
わずかに残った柔らかさを噛み砕くけれど、やはり、美味しいとは言い難かった。
「……みんなのこと、気になりますか?」
咲夜は動くこともなく、少し息を付くようにして、投げかけてきた。
「そうね……。別に、どちらでも……」
「みんなは、お嬢様のことも口にしていましたよ」
「……そう」
「きっと、口に合わないだろうなんて、言っていました」
「……まぁ、そうかもしれないわね」
どこか強調されたように響く「みんな」という言葉。
ぼんやりとした意識の中にも、なぜだか誰かの顔をイメージさせてくれていた。
「……そうそう、そうやって、同じようにぐしゃぐしゃにしていました」
「え?」
「卵」
「……あ」
再びぼんやりとしていた視線を戻すと、皿にあった塊はもう塊とはいえないほどバラバラになって散らかっていた。
黄色の破片を箸ですくい上げるけれど、箸の間からバラバラと零れ落ちてしまう。
「不思議ですね」
そんな私を誰かと重ねるようにして、彼女は小さく笑う。
小さく、小さく。
その様は、どこか子供を見ているみたいで。
「…………いただきます」
私は姿勢と箸を正すと、改めて食事に手を伸ばした。
3.
なんとも不健康になったものだ。
長い廊下にかかる日光を避けながら、ほとほと呆れるようにして歩を進める。
「……」
目的も考えも特になく、ただただぼんやりと。
「…………」
ふと、窓の外に目を向けると、そこには、眩しすぎる光景が広がっていた。
紅い色調に、広がる緑。
太陽の光を浴びるそれらは、この館の陰鬱さを糧にして伸びているよう。
「…………明るっ……」
そんな光景を腹が立つでもなく、ただ物憂げに眺めていた。
「……」
こんな不健康な状態だからだろうか。
あまりに眩しいその景色に、惹きこまれるように視線を送って私は停止していた。
どうしてか、その向こうに………………飛び込みたいなんて思ってしまう。
…………はぁ。
「…………バカバカしいわね」
私は短く言葉を吐き出すと、またぼんやりと歩き出した。
一つ角を曲がって、二つ角を曲がって……。
……。
…………。
そのうち肩が脱力し、腰が老化していくみたいに曲がっていく。
終いには、歩くことさえバカバカしく思えて、足は完全に止まってしまった。
「……」
そうして、視線を向けるのは、やっぱり、窓の遠くの光景だった。
「あれ?レミリア様?」
そんなぼんやりとした心境に波紋を起こしたのは、聞き慣れたと言えば、聞き慣れた声。
正面に向き直ってみれば、小脇に数冊の本を抱えた小悪魔が日光の中、滲むように立ちすくんでいた。
「…………貴方は健康的でいいわね」
「?」
「なんでもない」
ぽかんと疑問符を浮かべた小悪魔を尻目に、自分のつぶやきに呆れてしまう。
こんなことを、口にするようになったのでは、もう影響されているとしか言えないじゃないか。
私は前髪を掻き上げつつ視線を隠すと、小さなため息を一つついた。
「……そう、なんでもないわ」
だらしない音声を口元で流しつつ、小悪魔に視線を向け直したときには、いつも通りの視界が広がっていた。
見慣れた紅い館の、無駄に長い通路。
そこに館の住人がぽつりと佇んでいるだけ。
いつもと、変わりのない……。
いや。
「……どうして小悪魔がこんなところに?」
いつもとほんの少し違った光景が広がっていた。
私の質問のようなつぶやきに、彼女の表情は笑みを貼りて止まってしまった。
「……」
「……」
「……どうしたの?」
「……」
「…………小悪魔?」
「あ、は、はいっ!」
停止していた小悪魔だったが、名前を呼ばれると弾かれるように返事をしてきた。
固まった身体を無理矢理に動かしたからなのか、その動きは錆びついたような動きで、しかし、その割にはせかせかと手だけが後ろに回される。
「……」
どうにも様子がおかしい。
目を細めて、じっと、眺めやると、彼女は半身後ずさって、身体を固くさせた。
「な、なんですか?」
「……どこに行くのか、気になっただけよ」
「え、えっと……」
「……」
そのまま、視線を送っていると、小悪魔は観念したように息を吐いた。
「……フラン様のお部屋です」
「フランの?」
「はい、この本を届けようと思って」
「……ふーん」
小悪魔が胸の前に提示した本に目を移すと、それはどこかの国の童話のようだった。
小さな少女が空を見上げているような、そんな表紙。
「今日も図書館に来られて、本を読まれていたんですけれど……読み切れないようでしたので、それならと……」
「…………」
「……ダメだったでしょうか?」
小悪魔の言葉をぼんやりと耳にしながら、私は滲むようにその本を見つめていた。
「…………」
「あ、あの……」
「あ……」
ふと、意識を戻すと、小悪魔がおずおずとした様子で私を覗き込んでいた。
「えっと……なんだったかしら?」
「その……ダメだったかな……と思いまして……」
「あ、あぁ…………パチェがいいなら、いいんじゃない」
投げやりに返した言葉だったが、それでも彼女は表情をぱっと明るくした。
「はい、お墨付きです」
何に墨が付いているのかは定かではなかったけれど、まぁ、図書館の主は快諾しているということなのだろう。
私は少し驚きながら視線を外すと、やはりぼんやりとしたように表情を変えた。
「……あのパチェが……ねぇ」
「初めは危惧していましたけど、最近は気にしていないみたいです」
「……ふーん」
「色々、本に興味を持たれているようなので、時折、オススメを取り置いていたりしてますよ」
「……取り置きって」
なんとも優遇しているものだ。
それに、きっと小悪魔だって本の選定を手伝っているに違いない。
「……みんな過保護よね……」
「はい?」
「……なんでもないわ」
私はまた小さく息を吐き出した。
そう、そんなことは、今更。
ただ関わりが少なかったから、目に見えてそうだったと言えなかっただけだ。
だから、そんなことよりもなによりも、フランドールが図書館によく行っているという事実が私の頭に引っかかって離れなかった。
今までには聞いたことのなかった行動が、少し……ほんの少し……。
「………………どんな本を見ているのかしら?」
あぁ、また、余計なことを口にしたなぁ。
私は面倒臭く思いながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、きょとんとした小悪魔が佇んでいて、
「――――色々、です」
そうして、首をわずかに傾けてニコニコとした表情へと変化を見せる。
ニコニコと、本当に楽しそうに……。
いや、楽しそうというよりは、嬉しいみたいな雰囲気すらある。
フランドールの話しをしていたはずなのに、どこか、違った人物の話しをしているみたいな、そんな感じで。
「……」
その様子に私は、たっぷりと息を吸い込んで吐き出すと、
「本当に、過保護ね」
諦めるようにつぶやいた。
4.
ポンっと日傘を開いて、私は玄関を出た。
手入れされた花壇も、水のない噴水のオブジェも超えて、ゆったりとした足取りで門へと足を向ける。
なんとなく外に出てみたけれど……。
ちらりと空を見上げてみれば、毒々しいくらいに輝く太陽がやっぱり浮かんでいる。
「綺麗なものほど、毒があるとはよく言ったも――――」
……。
本当の本当に、今日はどうかしたみたいだ。
私はぷつりと言葉を切り、もう考えることも止めてただ歩くと、あっという間に門に辿り着いた。
そこには、太極拳を繰り広げる美鈴の姿があった。
流れるような動きだが、その実、停止しているような動作をぼんやりと眺めやる。
そうして、彼女が一呼吸をついたのを見計らって声をかけた。
「今日は寝ていないのね」
「え!?」
美鈴は飛び上がって驚きをあらわにすると、慌てて姿勢を正した。
「ね、寝てませんよっ。あ、いや、なんだ、て、てっきり咲夜さんかと――――って、お嬢様!?」
「……」
余程、意外な来訪者だったらしい。
彼女は目を丸くして私を凝視しているようだった。
「……そんなに意外だったかしら?」
「え、えぇ、だって、昼間ですし」
「……まぁ……、確かに、ね」
わずかに表情を直した美鈴だったが、まだ信じられないとばかりに瞳を瞬かせている。
まぁ、言ってしまえば、私自身でも意外なのだからしょうがない。
目の前にいるのが咲夜だったら、慌てて館に戻そうとするに決まっている。
「時には、空から魚が降ることもあるということよ」
「……」
「と、とにかく」
何やら、ぽかんとした視線を感じて私は、咳払いを一つついて話しを反らした。
「アナタが寝ていないことは、感心ね」
「いやぁ、フラン様に起こされましたから」
「起こされた?」
「あ、いえいえ」
即座に目を向けると、彼女は誤魔化すように万歳した先で手を振っていた。
その表情は、あはは、なんて聞こえてきそうな苦笑いっぷりだ。
「まぁ、いいけど」
半眼で嘆息をつくと、彼女は苦笑いのまま手を下ろして、居住まいを正した。
「…………しかし、今日はなんというか……」
…………また、これだ。
「どうかしました?」
「……なんでもないわ」
「そ、そうですか?」
気を抜いた途端に溢れ出す言葉を、気怠い嫌気とともに揉み消そうとするけれど、やはりうまくはさせてくれない。
なんとも、お節介なこと……。
本当にどうしてこうも、余計なことを口にする日なのだろうか。
今日の運勢はきっと、最悪。
救いのラッキーアイテムとやらが恨めしくてしょうがなかった。
「……フラン、今日は出掛けたのね」
「えぇ、毎日のようにお出かけですよ。今日も私と準備運動してから、お出かけになられましたし」
「準備運動……」
「さぁっ、貴方も太極拳で健康にっ!」
「……急にそんなキャッチフレーズを入れられてもね」
拳を付き出した美鈴に半ばを越えた呆れの視線を投げかけながら、太極拳姿のフランドールを思い浮かべる。
流れるはずの動作もなく付き出した拳が、ことごとく物体を爆散させる様を想像して、すぐに思考を停止させた。
似合う似合わないの話ではない。
そもそも、気の流れを扱う太極拳って、吸血鬼は平気なんだろうか……。
何にしても、このままではケンカで到底勝てなくなりそうだ。
ぼんやりと思考を巡らせていると、日傘の端からは、またうるさいくらいに光る太陽が見え隠れしていた。
「――――今日はなんでも、星のことを聞きに行くと言っていましたよ」
「え?」
「フラン様」
「あぁ、フラン、ね」
「星っていうと、魔法の森の魔女のことですかね?」
「あー、白黒のね」
「あ、でも、山の巫女も知っているかもしれないですよね。それに、耳の仙人とか――――」
矢継ぎ早に続く会話に、私はぼんやりと「そうね」なんて返事をしていたと思う。
どうにも思考が真っ直ぐに向こうとしてくれなかった。
こうして話しをしているのに、ここにはいないみたいな感覚すらある。
自分の言葉すら、ぼんやりと浮かんでしまっているようだ。
……そうして、次々、私から浮き上がったものはどこへ行ってしまっているの――――。
「――――ひぎゅ?」
急に両頬をつねられて、声が漏れた。
なんとも間の抜けた声は、私を一気にその場へと引き戻して、状況を把握させる。
「聞いてませんでしたね、お嬢様?」
美鈴は難しい顔をしながら、門の柵の間から手を伸ばして私の頬をつねっていた。
「ひっはい、ほぉういうほとはしら」
「聞いていないお嬢様が悪いんですよ~」
意地悪そうに少しだけ笑ってみせた美鈴は、遠慮もなく頬を引き回す。
揉みくちゃにされるように頬を弄ばれて、思わず日傘を投げ捨ててやろうかと思った矢先、美鈴はぱっと手を離した。
「はい、ご無礼はここまでにして……。やっぱり、お嬢様も冷たい肌なんですね」
「……」
言われて初めて、頬がこれでもかというくらいの熱に晒されていたのだと気が付いた。
引っ張られていた頬は、まだその熱を帯び、痛みがあるみたいにじんとしている。
「……まぁ、吸血鬼だから」
思わず頬に触れると、本当にひんやりとした少し強張った手の感覚が伝わってくる。
……こんなにも、私の手は冷たかったのだろうか……。
朝と夜の、手に触れる感触を思い出す。
しかし、その感触も温度も思い出すことができなかった。
……本当に……この温度は、同じなのかしら……。
「……」
「フラン様も同じように冷たいから、初めはびっくりしちゃいましたよ」
「…………」
美鈴の一言に、私は安堵したのかもしれなかった。
だから、
「……姉妹……だから」
こうして、姉妹と口にするのも……。
「そうでしたね……」
「そうよ……。似ていて当然じゃない、姉妹なんだから…………」
似ている……なんて言ってしまうのも……。
きっと、気が緩んで言葉が溢れただけ……。
「…………うん、そうですね」
歯切れの悪い私の言葉。
けれど、美鈴はどこか納得したようにして静かに目を閉じた。
短かった彼女の声音が柔らかだったのは、私の気のせいかもしれない。
でも、私はその響きにどこか胸を撫で下ろしていた。
「お嬢様」
「なに?」
どうにも感傷を挟ませずに、彼女はぱっと目を開けた。
どこか、おどけたような声で、
「はいっ、笑って~」
にかっと笑ってみせる彼女。
その表情を無視して、私はニヤリとして頬を緩めた。
「いやよ」
5.
コチコチと時計の針がなる空間で、私は全てをかなぐり捨てるように、駒を置いた。
「………………じゃあ、チェックメイト」
「えっ!?」
その結果は見るも無残なものだった。
「…………これで、何敗目になったかしら」
「……さぁ、ね」
本に目を落としたまま温度もなく告げた友人に恨めしい視線を向けると、彼女はようやく本から視線を外して、こちらを眺めやった。
「…………」
「なに?」
「…………本当に、運命が見えるのかと改めて思ってね」
「……どうかしら。でも、こんな運命なんて視ない方が得なのよ、だって………………その……」
「……………………楽しみがなくなってしまうから、かしら」
「そう……それ」
はっきりとは言い難かった言葉を友人にさらりと奪われて、私はさっさとチェスを片付け始める。
白も黒も気にしないで、ざっとケースに流し入れると、あっという間に机はすっきりとした。
一方のパチェはというと、山積みになった読み終えた本をゆったりとした動作で片付けていく。
ジャンルごとに分類した本を持って、衣擦れの音もなく、行ったり来たり。
……まとめて棚に入れてしまえばいいのに。
「……本当に、まぁ」
思考も行動も合うとは言えない彼女をぼんやりと眺めながら、どこか懐かしさを覚えずにはいられなかった。
間もなく、付き合いの長い友人は私が退屈する前にテーブルへと戻ってきた。
「…………それで?」
そのまま間髪を挟まず、チェスの駒でも置くように彼女は話しを切り出した。
「……急に、それでって言われてもね」
あまりの切り出し方に、いつものように呆れながら彼女を見やるけれど、それももう何百年と効果がない。
パチェも、わかったように表情を変えずに、こちらを眺めていた。
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「……………………」
「……――――あぁ、もう、わかったわよっ!」
なんとなく友人を真似てみたけれど、そんな構えはできないらしい。
私はすぐに音を上げて、降参した。
「…………まぁ、どうせフランのことだろうけど」
それでも、お構いなしに白旗を撃ち抜くような友人が、そこにはいた。
「わかってるなら、聞かないでよ」
「……聞かなければ、いつまで経っても言わないでしょう」
「……」
パチェは不敵に微笑をまとわせて一度笑うと、またすぐにいつもの薄い表情へと戻ってしまう。
本当に、この友人は……。
「……そう、フラン。それに、今日の私の運勢は最悪ってこと」
私は開き直ると、それはもう、ぐだ~っとテーブルにうなだれた。
「もう……どうしてこうなったのかしら」
「……さぁ」
「……フランがどんどん活発になっていく気がしてならない……」
「……悪いことではないと思うけれど?」
「…………そう、ね」
「……」
確かにそう。
それは、悪いことではないし、フランドールのことなのだから何を言ってもしょうがない。
…………だって、本当に……私のことではないのだから。
「……貴方の問題でもあると、私は思うわ」
「………………うん」
思い浮かべて否定したかったことをあっさりと否定されて、私はぼんやりと返事をした。
こんなに簡単に私の考えを読み取る友人は、本当に何でも答えてくれそう……。
そんな、甘い思考に流れてしまいそう。
「……」
「…………」
「……ねぇ、パチェ」
「……なに?」
あぁ、やっぱりこうなるんだ。
もう、どうにでもなれと、私は視線を合わせずに、言葉を紡いだ。
「……あの子は、フランは、変わってしまうのかしら」
「……………………どうかしら」
「……」
「…………でも…………、変化は、誰にだって、いつだってあるものよ」
「…………」
「…………もちろん、レミィにもね」
彼女は、どこか柔らかく言った。
表情こそ見ていないけれど、目尻が緩やかにカーブした様子を私は想像していた。
「……それは、パチェがそうだったみたいに?」
「…………えぇ」
彼女はなんだか楽しそうに小さく答えた。
こちらに来て、なんとなく緩やかになったような友人の瞳。
行動の時間だって、わずかに変わっている気がする。
けれど、同じ時間を共有しているとき、彼女はずっと前と変わっていないように見える。
……変化ってなんなんだろう…………。
「レミィ」
「……なに?」
思わず、見上げた友人はやっぱり楽しそうに、こちらを見つめていた。
ほら、やっぱり目尻だって丸くなっているのだ。
「…………変化を、楽しみなさい」
「…………」
私が沈黙で返答をすると、彼女はくつくつと笑った。
そんな友人を、やはり変わったんだなぁ、なんて思いながら、私はずっとテーブルに身体を預けていた。
きっと、情けない目で友人を見上げているだろう。
なんとなく彼女の言いたいことはわかる。
変化のきっかけなんて、どこにでも転がっているんだから。
けれど……。
「……」
私は、そのまま、友人の様子を見つめていた。
6.
灯りが落ちたのはいつだっただろうか。
ぼんやりと薄暗く染まったベッドの天蓋を眺めながら思う。
もう何百年もこうして横たわっているみたいだ、なんて。
けれど、実際の時間はそれほど経っていないだろうとどこか正確に覚えている。
なんとも、浮かされたような感覚だった。
「……はぁ」
短く息を吐き出して思い浮かべるのは、やはり今日のこと。
どこまで行っても、フランドールを追いかけているような自分自身の姿だ。
何をしていても、どうにも脳裏をちらつく、あの子の存在。
気に留めなければ、なんのことはないのだろうか。
……。
「……それが、できたらどんなに楽かしらね」
溜息とともに諦めて、ぼやくのが精一杯だった。
「……」
もうこれは、どうしようもない。
どうやっても彼女のことを考えてしまうのだ。それに、彼女を想う度に私の情けなさを比例させてしまっている。
「……はぁ」
………。
…………どうして、こんなことに……。
…………どうしてでも……ないか……。
そんなことは、とっくに気が付いている。
私だけでなく、館のみんなも。
きっと、フランドールだって……そう。
私は、その事実に駄々をこねているだけ。
「変化……ね」
昼間のことを思い出す。
間接的にも直接的にも、彼女らはそれを楽しめと言っていた。
おかしな事ではなく、むしろ喜ばしいことだとして。
変化を……楽しむ……か。
「だから……それができたら……こんなになっていないわよ……」
長く長く息を吐いて、私は目を閉じた。
瞬く間にやってきた闇は、私の視界を簡単に塗り潰していく。
そうして、私だけの闇に浮かび上がるのは、やっぱり、あの子の姿だ。
跳ねるように踵を返して、どんどん先を行く彼女は、私を……置いていってしまうみたいで。
私の知る彼女は……いなくなってしまう気がした。
「……」
怖いものなど、何もなくなった私のはずが……。
ただ、……彼女がいなくなることが……怖い、なんて……。
いや……。
彼女から、私がいなくなることが……耐え難く怖いのだ。
「……もし、私がいなくなっても……」
……。
「……貴女の中の……私は、ちゃんといるかしら……」
私の存在は……。
彼女という存在に反映されて、濃く、淡く。
表のように、裏のように隣り合っている。
彼女を思うことで私は私を誇張することができ、また、彼女の存在を感じるからこそ、立っていられた。
壊れかけた彼女を閉じ込めたことも……そのため……だった……はずなのに……。
「……」
今だって、私は彼女がいなければ、こうして、ここにいることもできなかった気がする……。
そう思うからこそ……私は……。
…………。
……。
……あぁ、そうか。
その形が……変わろうとしているのかもしれない……。
あの子は、私を切り離して、どこまでも行ってしまう。
……そんな風に、思えなくもなかった。
「……」
闇の中の彼女は、ぐにゃりと像を歪ませる。
そうして、闇に混ざるようにして……。
……私が知り得ない……ところへ……。
「――――――――――――――――きゅっとして――――――――ドカーン」
「――――」
急に声が響き渡って、私は目を見開いた。
凄まじい勢いで広がった視界は、けれど何も変哲がない。
どこかほっと、胸を撫で下ろして、私はゆっくりと上半身を持ち上げた。
「びっくりした?お姉さま?」
視線を巡らせると、いつの間にか部屋の入口にフランドールが立っている。
イタズラに口元を歪めるその表情を認識しながらも、その姿がなんだか曖昧に感じられてならない。
部屋の暗がりに紛れ込んでしまったみたいに、彼女は捉えどころがなかった。
「ただいま、お姉さま」
「……おかえりなさい、フラン。……遅かった……いえ、早かったのね」
「うん」
フランドールは軽やかに絨毯を渡ると、私の眼前までやってくる。
さらりと揺れる髪の流れが目の前を通り過ぎていくのを見てもまだ、彼女をはっきりと認識することができなかった。
「だって、そうしないと、明日も早く起きれないでしょう」
「……」
彼女は私の隣にごろりと身体を横たえる。
一度、猫のように丸められた身体は、すぐにぴんと仰向けに伸びる。
そのまま、うっすらとした瞼で上を眺めると、どこか満足したような、それでいて、好奇心に満ちた瞳が伺えた。
「お姉さま、私は、もっともっと色々なものが見たいわ。それこそ、全部」
「そう」
「ええ、そうよ。だって、全然知らないものばかりで、何を見ても不思議でしょうがないの。今日だって――――」
フランドールは嬉々として今日の出来事を語った。
館であったことも、外であったことも、何を感じ、思ったのかも。
跳ねたり、飛んだりするような不安定な言葉を私は、ゆらゆらとした意識の中で聞いていた。
だって、彼女をこんな風にしたのは……他でもない私だと知っているから。
「――――お姉さま?」
「え?」
目の前に、彼女の顔があった。
息のかかる距離で、私を見上げる瞳。
くりくりとした瞳が、不思議そうに私を見つめている。
「おかしな姉様」
その瞳に魅せられている間に、彼女はくすくすと笑った。
イタズラに、楽しそうにしながら、再びシーツへと身を落とす。
今度はくすぐったそうに瞳を閉じて、
「私は、今この時が好きでたまらないわ」
「……」
「長い長い時間があったから、こうして私を浮かされたような気分にしてくれるの」
「…………」
「だから、私は、お姉さまがしてくれたことを忘れない」
「………………」
「どこに居ても、ずっと……ずっと」
「……」
いつの間にかフランドールは遠くを見るような表情で上を見上げていた。
わずかに壊れたような、懐かしい瞳を……向けているのかもしれない。
「私は……お姉さまを忘れない」
「……」
「……」
私は、フランドールの顔を焼き付けるように見つめていた。
昔と変わらない、無邪気な表情が、まだそこにはある。
それを忘れてしまわないように……。
変わり始めた、彼女を思い浮かべながら。
「……忘れては、ダメよ」
そして、ポツリと言うと、彼女のようにシーツへと身を沈めた。
フランドールと同じようにして、上を見上げる。
そこには、おかしなくらい低くて小さな天蓋があるだけだった。
暗がりに移る、白い四角。
彼女と同じように見ているはずの世界が……なんだか嬉しい。
「……」
そんな風に思って、ちらりとフランドールを見やる。
その彼女もまた、うっすらとした瞳で私を見ていた。
はっきりとしたその姿。
美しい金の髪に、瞳。
もう、曖昧な姿など、どこにもない。
私は、再び上を向くと、すっと目を閉じた。
「……さぁ」
そうして、言い聞かせるようにして彼女の左手を取る。
冷えきった、私と同じ温度の手。
きゅっと結び返された手の感覚を覚えながら、
「……おやすみなさい、フラン」
「おやすみなさい、お姉さま……」
その手に導かれるように、ゆっくりと、闇が降りる。
幕のように下り、膜のように包み込む闇。
そのまどろみとも言える闇の中には、もう誰の姿もない……みたい。
消えてしまう彼女も、それを追う……私も……いない。
あるのは、ただ……。
この繋いだ…………。
冷えきった……彼女の手の感覚だけ……。
……それだけが……。
……一つになったみたいに………………確かに、存在していた。
目を覚ますと、薄闇に浮かぶ天蓋があるだけだった。
「……」
仰向けになったまま、だらりとした右手が何の感触にも触れないことに、短く息をついてみせる。
「…………」
こんなになっているのは、いつからだっただろうか。
はっきりとした視界の中、まどろんだ思考を動かす。
きっとまた、朝だというのに目を覚ましたのだろう。
吸血鬼ともあろう者が、なんとも情けない。
こんな様では、他の者に笑われてしまうのも時間の問題だ。
……。
「…………はぁ」
思い浮かべた事柄は本当にどうでもいいことで、一呼吸を置いて呼気とともに吐き出してやった。
「………………」
そんなことより……。
目が覚めて一人きり。
それは、いつものことなのだ。
だから……別に、どうということでは……ない。
ただ。
この、空っぽの右手。
それが、なんだか…………空っぽでしょうがない。
「…………」
…………考えても仕方ないことなのに。
――――コンコン。
寒々しい思考にすっと、木製の柔らかな音が響いた。
続いて、
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
柔らかな声も。
「……今、起きたわ」
短く返事をすると、音も無くドアが開かれて、薄明かりが室内に侵入してきた。
灯りは開いたドアの隙間から一直線に伸びる。
けれど、寝そべっている私の元に辿り着くことはなく、人影がそれを遮った。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、咲夜」
先程と同様の柔らかな口調に、私は動くことも、視線を動かすこともなく声を返す。
「はい、お嬢様」
咲夜のやんわりとした声は室内にわずかに響くと、あっさりと消えていく。
「…………」
そのまま、ぼんやりと上を見上げてみるけれど、やはりベッドの天蓋が浮かんでいるだけ。
……変わるわけ、ない……か。
「お嬢様、お食事はいかがなさいますか?」
そんな無意味な胸中に響く声はやはり、どこか柔らかい。
私は、あっさりと考えを放棄した。
「……そうね、用意してちょうだい」
「はい、かしこまりました」
波紋のような振動に返事をすると、咲夜は頭を下げたようだった。
短く一礼する衣擦れの音が一つ。それから、戻される音が揺れる。
「お嬢様、その前に――――」
けれど、咲夜は動き出す前に先程とは違った、念を押すような口調で口を開いた。
あぁ、そうだった。
「その前に起きることにするわ」
そうして私は、ようやく咲夜へ顔を向けて、寝そべったまま返事をしてみせた。
2.
「いかが致しました?」
「……あ」
広々としたテーブルの上、簡素に置かれた食事をぼんやりと眺めていると、咲夜が声をかけてきた。
ただ単純に、運ばれてきた様子を眺めていた結果がこれだ。
彼女は、しれっとした様子で佇みながらも、微妙に心配したような表情を向けてくる。
「なんでもないわ」
そんな過保護な様子に素っ気なく答えると、テーブルに置かれた箸を手に取った。
「……いただきます」
「はい」
テーブルの上で湯気をくゆらせているのは、スープではなくて味噌汁。それに平皿には、パンどころか卵焼きが乗せられていた。
あの紅白やら白黒やらのお陰で、現在の紅魔館はといえば異文化コミュニケーションのよう。
西も東も関係なくさせられて、文化が氾濫している気がしてならない。
それでも。
「……美味しいわね」
「ありがとうございます」
咲夜の料理が美味しいことに変わりはなかった。
慣れない箸で厚く焼かれた卵を突き刺しつつ、咲夜に目を向ける。
彼女はやはり、じっと佇んでいるだけで、それきり。
いや、微かに口元を緩めて、この光景を眺めているようだった。
ずっと、毎日、いつも同じように。
「……」
それはきっと、私のいない光景も。
……。
「……ねぇ、咲夜」
「はい、お嬢様」
「……」
「……お嬢様?」
無意識のうちに溢れた言葉に、私は口をつぐんだ。
その効果も無く、優秀な彼女は小首を傾げて、私へと視線を向けてくる。
「……」
しかし、私が目を伏せて皿へと視線を移動させたことをみて、彼女もまた口をつぐんだ。
あぁ、本当に、優秀なのだから……。
「……今日は、みんな和食を食べたのかしら?」
そのまま黙っていられそうもない私は、溜息も付かずにポツリと質問を投げかけた。
「はい」
「……ふーん」
彼女の淡々とした返答に興味を示さず、私はただぼんやりと、彼女の響かせる振動を耳にしていた。
「やはり、いつも通りの方がよろしいでしょうか?」
「……いいえ、たまにはいいものだわ。それよりも、ね」
「はい?」
「その……、みんなは……どうだったのかしら?」
「みんな……ですか?」
「……ええ」
自分で放った言葉に白々しい感情を抱きながら、私は咲夜の返答に耳を傾けていた。
「えぇと……パチュリー様は――――」
「……そう」
「一緒に来ていた小悪魔は――――」
「……あぁ、そうよね」
「ついでに、美鈴ですが――――」
「……まぁ、いつものことね」
その内容なんて、きっと問題ではないのに。
誰が、どうして、どう思おうとも……それほど大したことではないのだから。
…………。
「お嬢様の前にきた、フラン様ですが――――――」
「…………」
ただ、そこに居たのだとわかれば……いい。
「……そう」
私は小さく答えると、いつの間にかぐしゃぐしゃに崩してしまっていた卵の塊を頬張った。
小さくなった塊は、どこか西洋の料理のような、けれども和食のような、なんとも微妙な感じだ。
わずかに残った柔らかさを噛み砕くけれど、やはり、美味しいとは言い難かった。
「……みんなのこと、気になりますか?」
咲夜は動くこともなく、少し息を付くようにして、投げかけてきた。
「そうね……。別に、どちらでも……」
「みんなは、お嬢様のことも口にしていましたよ」
「……そう」
「きっと、口に合わないだろうなんて、言っていました」
「……まぁ、そうかもしれないわね」
どこか強調されたように響く「みんな」という言葉。
ぼんやりとした意識の中にも、なぜだか誰かの顔をイメージさせてくれていた。
「……そうそう、そうやって、同じようにぐしゃぐしゃにしていました」
「え?」
「卵」
「……あ」
再びぼんやりとしていた視線を戻すと、皿にあった塊はもう塊とはいえないほどバラバラになって散らかっていた。
黄色の破片を箸ですくい上げるけれど、箸の間からバラバラと零れ落ちてしまう。
「不思議ですね」
そんな私を誰かと重ねるようにして、彼女は小さく笑う。
小さく、小さく。
その様は、どこか子供を見ているみたいで。
「…………いただきます」
私は姿勢と箸を正すと、改めて食事に手を伸ばした。
3.
なんとも不健康になったものだ。
長い廊下にかかる日光を避けながら、ほとほと呆れるようにして歩を進める。
「……」
目的も考えも特になく、ただただぼんやりと。
「…………」
ふと、窓の外に目を向けると、そこには、眩しすぎる光景が広がっていた。
紅い色調に、広がる緑。
太陽の光を浴びるそれらは、この館の陰鬱さを糧にして伸びているよう。
「…………明るっ……」
そんな光景を腹が立つでもなく、ただ物憂げに眺めていた。
「……」
こんな不健康な状態だからだろうか。
あまりに眩しいその景色に、惹きこまれるように視線を送って私は停止していた。
どうしてか、その向こうに………………飛び込みたいなんて思ってしまう。
…………はぁ。
「…………バカバカしいわね」
私は短く言葉を吐き出すと、またぼんやりと歩き出した。
一つ角を曲がって、二つ角を曲がって……。
……。
…………。
そのうち肩が脱力し、腰が老化していくみたいに曲がっていく。
終いには、歩くことさえバカバカしく思えて、足は完全に止まってしまった。
「……」
そうして、視線を向けるのは、やっぱり、窓の遠くの光景だった。
「あれ?レミリア様?」
そんなぼんやりとした心境に波紋を起こしたのは、聞き慣れたと言えば、聞き慣れた声。
正面に向き直ってみれば、小脇に数冊の本を抱えた小悪魔が日光の中、滲むように立ちすくんでいた。
「…………貴方は健康的でいいわね」
「?」
「なんでもない」
ぽかんと疑問符を浮かべた小悪魔を尻目に、自分のつぶやきに呆れてしまう。
こんなことを、口にするようになったのでは、もう影響されているとしか言えないじゃないか。
私は前髪を掻き上げつつ視線を隠すと、小さなため息を一つついた。
「……そう、なんでもないわ」
だらしない音声を口元で流しつつ、小悪魔に視線を向け直したときには、いつも通りの視界が広がっていた。
見慣れた紅い館の、無駄に長い通路。
そこに館の住人がぽつりと佇んでいるだけ。
いつもと、変わりのない……。
いや。
「……どうして小悪魔がこんなところに?」
いつもとほんの少し違った光景が広がっていた。
私の質問のようなつぶやきに、彼女の表情は笑みを貼りて止まってしまった。
「……」
「……」
「……どうしたの?」
「……」
「…………小悪魔?」
「あ、は、はいっ!」
停止していた小悪魔だったが、名前を呼ばれると弾かれるように返事をしてきた。
固まった身体を無理矢理に動かしたからなのか、その動きは錆びついたような動きで、しかし、その割にはせかせかと手だけが後ろに回される。
「……」
どうにも様子がおかしい。
目を細めて、じっと、眺めやると、彼女は半身後ずさって、身体を固くさせた。
「な、なんですか?」
「……どこに行くのか、気になっただけよ」
「え、えっと……」
「……」
そのまま、視線を送っていると、小悪魔は観念したように息を吐いた。
「……フラン様のお部屋です」
「フランの?」
「はい、この本を届けようと思って」
「……ふーん」
小悪魔が胸の前に提示した本に目を移すと、それはどこかの国の童話のようだった。
小さな少女が空を見上げているような、そんな表紙。
「今日も図書館に来られて、本を読まれていたんですけれど……読み切れないようでしたので、それならと……」
「…………」
「……ダメだったでしょうか?」
小悪魔の言葉をぼんやりと耳にしながら、私は滲むようにその本を見つめていた。
「…………」
「あ、あの……」
「あ……」
ふと、意識を戻すと、小悪魔がおずおずとした様子で私を覗き込んでいた。
「えっと……なんだったかしら?」
「その……ダメだったかな……と思いまして……」
「あ、あぁ…………パチェがいいなら、いいんじゃない」
投げやりに返した言葉だったが、それでも彼女は表情をぱっと明るくした。
「はい、お墨付きです」
何に墨が付いているのかは定かではなかったけれど、まぁ、図書館の主は快諾しているということなのだろう。
私は少し驚きながら視線を外すと、やはりぼんやりとしたように表情を変えた。
「……あのパチェが……ねぇ」
「初めは危惧していましたけど、最近は気にしていないみたいです」
「……ふーん」
「色々、本に興味を持たれているようなので、時折、オススメを取り置いていたりしてますよ」
「……取り置きって」
なんとも優遇しているものだ。
それに、きっと小悪魔だって本の選定を手伝っているに違いない。
「……みんな過保護よね……」
「はい?」
「……なんでもないわ」
私はまた小さく息を吐き出した。
そう、そんなことは、今更。
ただ関わりが少なかったから、目に見えてそうだったと言えなかっただけだ。
だから、そんなことよりもなによりも、フランドールが図書館によく行っているという事実が私の頭に引っかかって離れなかった。
今までには聞いたことのなかった行動が、少し……ほんの少し……。
「………………どんな本を見ているのかしら?」
あぁ、また、余計なことを口にしたなぁ。
私は面倒臭く思いながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、きょとんとした小悪魔が佇んでいて、
「――――色々、です」
そうして、首をわずかに傾けてニコニコとした表情へと変化を見せる。
ニコニコと、本当に楽しそうに……。
いや、楽しそうというよりは、嬉しいみたいな雰囲気すらある。
フランドールの話しをしていたはずなのに、どこか、違った人物の話しをしているみたいな、そんな感じで。
「……」
その様子に私は、たっぷりと息を吸い込んで吐き出すと、
「本当に、過保護ね」
諦めるようにつぶやいた。
4.
ポンっと日傘を開いて、私は玄関を出た。
手入れされた花壇も、水のない噴水のオブジェも超えて、ゆったりとした足取りで門へと足を向ける。
なんとなく外に出てみたけれど……。
ちらりと空を見上げてみれば、毒々しいくらいに輝く太陽がやっぱり浮かんでいる。
「綺麗なものほど、毒があるとはよく言ったも――――」
……。
本当の本当に、今日はどうかしたみたいだ。
私はぷつりと言葉を切り、もう考えることも止めてただ歩くと、あっという間に門に辿り着いた。
そこには、太極拳を繰り広げる美鈴の姿があった。
流れるような動きだが、その実、停止しているような動作をぼんやりと眺めやる。
そうして、彼女が一呼吸をついたのを見計らって声をかけた。
「今日は寝ていないのね」
「え!?」
美鈴は飛び上がって驚きをあらわにすると、慌てて姿勢を正した。
「ね、寝てませんよっ。あ、いや、なんだ、て、てっきり咲夜さんかと――――って、お嬢様!?」
「……」
余程、意外な来訪者だったらしい。
彼女は目を丸くして私を凝視しているようだった。
「……そんなに意外だったかしら?」
「え、えぇ、だって、昼間ですし」
「……まぁ……、確かに、ね」
わずかに表情を直した美鈴だったが、まだ信じられないとばかりに瞳を瞬かせている。
まぁ、言ってしまえば、私自身でも意外なのだからしょうがない。
目の前にいるのが咲夜だったら、慌てて館に戻そうとするに決まっている。
「時には、空から魚が降ることもあるということよ」
「……」
「と、とにかく」
何やら、ぽかんとした視線を感じて私は、咳払いを一つついて話しを反らした。
「アナタが寝ていないことは、感心ね」
「いやぁ、フラン様に起こされましたから」
「起こされた?」
「あ、いえいえ」
即座に目を向けると、彼女は誤魔化すように万歳した先で手を振っていた。
その表情は、あはは、なんて聞こえてきそうな苦笑いっぷりだ。
「まぁ、いいけど」
半眼で嘆息をつくと、彼女は苦笑いのまま手を下ろして、居住まいを正した。
「…………しかし、今日はなんというか……」
…………また、これだ。
「どうかしました?」
「……なんでもないわ」
「そ、そうですか?」
気を抜いた途端に溢れ出す言葉を、気怠い嫌気とともに揉み消そうとするけれど、やはりうまくはさせてくれない。
なんとも、お節介なこと……。
本当にどうしてこうも、余計なことを口にする日なのだろうか。
今日の運勢はきっと、最悪。
救いのラッキーアイテムとやらが恨めしくてしょうがなかった。
「……フラン、今日は出掛けたのね」
「えぇ、毎日のようにお出かけですよ。今日も私と準備運動してから、お出かけになられましたし」
「準備運動……」
「さぁっ、貴方も太極拳で健康にっ!」
「……急にそんなキャッチフレーズを入れられてもね」
拳を付き出した美鈴に半ばを越えた呆れの視線を投げかけながら、太極拳姿のフランドールを思い浮かべる。
流れるはずの動作もなく付き出した拳が、ことごとく物体を爆散させる様を想像して、すぐに思考を停止させた。
似合う似合わないの話ではない。
そもそも、気の流れを扱う太極拳って、吸血鬼は平気なんだろうか……。
何にしても、このままではケンカで到底勝てなくなりそうだ。
ぼんやりと思考を巡らせていると、日傘の端からは、またうるさいくらいに光る太陽が見え隠れしていた。
「――――今日はなんでも、星のことを聞きに行くと言っていましたよ」
「え?」
「フラン様」
「あぁ、フラン、ね」
「星っていうと、魔法の森の魔女のことですかね?」
「あー、白黒のね」
「あ、でも、山の巫女も知っているかもしれないですよね。それに、耳の仙人とか――――」
矢継ぎ早に続く会話に、私はぼんやりと「そうね」なんて返事をしていたと思う。
どうにも思考が真っ直ぐに向こうとしてくれなかった。
こうして話しをしているのに、ここにはいないみたいな感覚すらある。
自分の言葉すら、ぼんやりと浮かんでしまっているようだ。
……そうして、次々、私から浮き上がったものはどこへ行ってしまっているの――――。
「――――ひぎゅ?」
急に両頬をつねられて、声が漏れた。
なんとも間の抜けた声は、私を一気にその場へと引き戻して、状況を把握させる。
「聞いてませんでしたね、お嬢様?」
美鈴は難しい顔をしながら、門の柵の間から手を伸ばして私の頬をつねっていた。
「ひっはい、ほぉういうほとはしら」
「聞いていないお嬢様が悪いんですよ~」
意地悪そうに少しだけ笑ってみせた美鈴は、遠慮もなく頬を引き回す。
揉みくちゃにされるように頬を弄ばれて、思わず日傘を投げ捨ててやろうかと思った矢先、美鈴はぱっと手を離した。
「はい、ご無礼はここまでにして……。やっぱり、お嬢様も冷たい肌なんですね」
「……」
言われて初めて、頬がこれでもかというくらいの熱に晒されていたのだと気が付いた。
引っ張られていた頬は、まだその熱を帯び、痛みがあるみたいにじんとしている。
「……まぁ、吸血鬼だから」
思わず頬に触れると、本当にひんやりとした少し強張った手の感覚が伝わってくる。
……こんなにも、私の手は冷たかったのだろうか……。
朝と夜の、手に触れる感触を思い出す。
しかし、その感触も温度も思い出すことができなかった。
……本当に……この温度は、同じなのかしら……。
「……」
「フラン様も同じように冷たいから、初めはびっくりしちゃいましたよ」
「…………」
美鈴の一言に、私は安堵したのかもしれなかった。
だから、
「……姉妹……だから」
こうして、姉妹と口にするのも……。
「そうでしたね……」
「そうよ……。似ていて当然じゃない、姉妹なんだから…………」
似ている……なんて言ってしまうのも……。
きっと、気が緩んで言葉が溢れただけ……。
「…………うん、そうですね」
歯切れの悪い私の言葉。
けれど、美鈴はどこか納得したようにして静かに目を閉じた。
短かった彼女の声音が柔らかだったのは、私の気のせいかもしれない。
でも、私はその響きにどこか胸を撫で下ろしていた。
「お嬢様」
「なに?」
どうにも感傷を挟ませずに、彼女はぱっと目を開けた。
どこか、おどけたような声で、
「はいっ、笑って~」
にかっと笑ってみせる彼女。
その表情を無視して、私はニヤリとして頬を緩めた。
「いやよ」
5.
コチコチと時計の針がなる空間で、私は全てをかなぐり捨てるように、駒を置いた。
「………………じゃあ、チェックメイト」
「えっ!?」
その結果は見るも無残なものだった。
「…………これで、何敗目になったかしら」
「……さぁ、ね」
本に目を落としたまま温度もなく告げた友人に恨めしい視線を向けると、彼女はようやく本から視線を外して、こちらを眺めやった。
「…………」
「なに?」
「…………本当に、運命が見えるのかと改めて思ってね」
「……どうかしら。でも、こんな運命なんて視ない方が得なのよ、だって………………その……」
「……………………楽しみがなくなってしまうから、かしら」
「そう……それ」
はっきりとは言い難かった言葉を友人にさらりと奪われて、私はさっさとチェスを片付け始める。
白も黒も気にしないで、ざっとケースに流し入れると、あっという間に机はすっきりとした。
一方のパチェはというと、山積みになった読み終えた本をゆったりとした動作で片付けていく。
ジャンルごとに分類した本を持って、衣擦れの音もなく、行ったり来たり。
……まとめて棚に入れてしまえばいいのに。
「……本当に、まぁ」
思考も行動も合うとは言えない彼女をぼんやりと眺めながら、どこか懐かしさを覚えずにはいられなかった。
間もなく、付き合いの長い友人は私が退屈する前にテーブルへと戻ってきた。
「…………それで?」
そのまま間髪を挟まず、チェスの駒でも置くように彼女は話しを切り出した。
「……急に、それでって言われてもね」
あまりの切り出し方に、いつものように呆れながら彼女を見やるけれど、それももう何百年と効果がない。
パチェも、わかったように表情を変えずに、こちらを眺めていた。
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「……………………」
「……――――あぁ、もう、わかったわよっ!」
なんとなく友人を真似てみたけれど、そんな構えはできないらしい。
私はすぐに音を上げて、降参した。
「…………まぁ、どうせフランのことだろうけど」
それでも、お構いなしに白旗を撃ち抜くような友人が、そこにはいた。
「わかってるなら、聞かないでよ」
「……聞かなければ、いつまで経っても言わないでしょう」
「……」
パチェは不敵に微笑をまとわせて一度笑うと、またすぐにいつもの薄い表情へと戻ってしまう。
本当に、この友人は……。
「……そう、フラン。それに、今日の私の運勢は最悪ってこと」
私は開き直ると、それはもう、ぐだ~っとテーブルにうなだれた。
「もう……どうしてこうなったのかしら」
「……さぁ」
「……フランがどんどん活発になっていく気がしてならない……」
「……悪いことではないと思うけれど?」
「…………そう、ね」
「……」
確かにそう。
それは、悪いことではないし、フランドールのことなのだから何を言ってもしょうがない。
…………だって、本当に……私のことではないのだから。
「……貴方の問題でもあると、私は思うわ」
「………………うん」
思い浮かべて否定したかったことをあっさりと否定されて、私はぼんやりと返事をした。
こんなに簡単に私の考えを読み取る友人は、本当に何でも答えてくれそう……。
そんな、甘い思考に流れてしまいそう。
「……」
「…………」
「……ねぇ、パチェ」
「……なに?」
あぁ、やっぱりこうなるんだ。
もう、どうにでもなれと、私は視線を合わせずに、言葉を紡いだ。
「……あの子は、フランは、変わってしまうのかしら」
「……………………どうかしら」
「……」
「…………でも…………、変化は、誰にだって、いつだってあるものよ」
「…………」
「…………もちろん、レミィにもね」
彼女は、どこか柔らかく言った。
表情こそ見ていないけれど、目尻が緩やかにカーブした様子を私は想像していた。
「……それは、パチェがそうだったみたいに?」
「…………えぇ」
彼女はなんだか楽しそうに小さく答えた。
こちらに来て、なんとなく緩やかになったような友人の瞳。
行動の時間だって、わずかに変わっている気がする。
けれど、同じ時間を共有しているとき、彼女はずっと前と変わっていないように見える。
……変化ってなんなんだろう…………。
「レミィ」
「……なに?」
思わず、見上げた友人はやっぱり楽しそうに、こちらを見つめていた。
ほら、やっぱり目尻だって丸くなっているのだ。
「…………変化を、楽しみなさい」
「…………」
私が沈黙で返答をすると、彼女はくつくつと笑った。
そんな友人を、やはり変わったんだなぁ、なんて思いながら、私はずっとテーブルに身体を預けていた。
きっと、情けない目で友人を見上げているだろう。
なんとなく彼女の言いたいことはわかる。
変化のきっかけなんて、どこにでも転がっているんだから。
けれど……。
「……」
私は、そのまま、友人の様子を見つめていた。
6.
灯りが落ちたのはいつだっただろうか。
ぼんやりと薄暗く染まったベッドの天蓋を眺めながら思う。
もう何百年もこうして横たわっているみたいだ、なんて。
けれど、実際の時間はそれほど経っていないだろうとどこか正確に覚えている。
なんとも、浮かされたような感覚だった。
「……はぁ」
短く息を吐き出して思い浮かべるのは、やはり今日のこと。
どこまで行っても、フランドールを追いかけているような自分自身の姿だ。
何をしていても、どうにも脳裏をちらつく、あの子の存在。
気に留めなければ、なんのことはないのだろうか。
……。
「……それが、できたらどんなに楽かしらね」
溜息とともに諦めて、ぼやくのが精一杯だった。
「……」
もうこれは、どうしようもない。
どうやっても彼女のことを考えてしまうのだ。それに、彼女を想う度に私の情けなさを比例させてしまっている。
「……はぁ」
………。
…………どうして、こんなことに……。
…………どうしてでも……ないか……。
そんなことは、とっくに気が付いている。
私だけでなく、館のみんなも。
きっと、フランドールだって……そう。
私は、その事実に駄々をこねているだけ。
「変化……ね」
昼間のことを思い出す。
間接的にも直接的にも、彼女らはそれを楽しめと言っていた。
おかしな事ではなく、むしろ喜ばしいことだとして。
変化を……楽しむ……か。
「だから……それができたら……こんなになっていないわよ……」
長く長く息を吐いて、私は目を閉じた。
瞬く間にやってきた闇は、私の視界を簡単に塗り潰していく。
そうして、私だけの闇に浮かび上がるのは、やっぱり、あの子の姿だ。
跳ねるように踵を返して、どんどん先を行く彼女は、私を……置いていってしまうみたいで。
私の知る彼女は……いなくなってしまう気がした。
「……」
怖いものなど、何もなくなった私のはずが……。
ただ、……彼女がいなくなることが……怖い、なんて……。
いや……。
彼女から、私がいなくなることが……耐え難く怖いのだ。
「……もし、私がいなくなっても……」
……。
「……貴女の中の……私は、ちゃんといるかしら……」
私の存在は……。
彼女という存在に反映されて、濃く、淡く。
表のように、裏のように隣り合っている。
彼女を思うことで私は私を誇張することができ、また、彼女の存在を感じるからこそ、立っていられた。
壊れかけた彼女を閉じ込めたことも……そのため……だった……はずなのに……。
「……」
今だって、私は彼女がいなければ、こうして、ここにいることもできなかった気がする……。
そう思うからこそ……私は……。
…………。
……。
……あぁ、そうか。
その形が……変わろうとしているのかもしれない……。
あの子は、私を切り離して、どこまでも行ってしまう。
……そんな風に、思えなくもなかった。
「……」
闇の中の彼女は、ぐにゃりと像を歪ませる。
そうして、闇に混ざるようにして……。
……私が知り得ない……ところへ……。
「――――――――――――――――きゅっとして――――――――ドカーン」
「――――」
急に声が響き渡って、私は目を見開いた。
凄まじい勢いで広がった視界は、けれど何も変哲がない。
どこかほっと、胸を撫で下ろして、私はゆっくりと上半身を持ち上げた。
「びっくりした?お姉さま?」
視線を巡らせると、いつの間にか部屋の入口にフランドールが立っている。
イタズラに口元を歪めるその表情を認識しながらも、その姿がなんだか曖昧に感じられてならない。
部屋の暗がりに紛れ込んでしまったみたいに、彼女は捉えどころがなかった。
「ただいま、お姉さま」
「……おかえりなさい、フラン。……遅かった……いえ、早かったのね」
「うん」
フランドールは軽やかに絨毯を渡ると、私の眼前までやってくる。
さらりと揺れる髪の流れが目の前を通り過ぎていくのを見てもまだ、彼女をはっきりと認識することができなかった。
「だって、そうしないと、明日も早く起きれないでしょう」
「……」
彼女は私の隣にごろりと身体を横たえる。
一度、猫のように丸められた身体は、すぐにぴんと仰向けに伸びる。
そのまま、うっすらとした瞼で上を眺めると、どこか満足したような、それでいて、好奇心に満ちた瞳が伺えた。
「お姉さま、私は、もっともっと色々なものが見たいわ。それこそ、全部」
「そう」
「ええ、そうよ。だって、全然知らないものばかりで、何を見ても不思議でしょうがないの。今日だって――――」
フランドールは嬉々として今日の出来事を語った。
館であったことも、外であったことも、何を感じ、思ったのかも。
跳ねたり、飛んだりするような不安定な言葉を私は、ゆらゆらとした意識の中で聞いていた。
だって、彼女をこんな風にしたのは……他でもない私だと知っているから。
「――――お姉さま?」
「え?」
目の前に、彼女の顔があった。
息のかかる距離で、私を見上げる瞳。
くりくりとした瞳が、不思議そうに私を見つめている。
「おかしな姉様」
その瞳に魅せられている間に、彼女はくすくすと笑った。
イタズラに、楽しそうにしながら、再びシーツへと身を落とす。
今度はくすぐったそうに瞳を閉じて、
「私は、今この時が好きでたまらないわ」
「……」
「長い長い時間があったから、こうして私を浮かされたような気分にしてくれるの」
「…………」
「だから、私は、お姉さまがしてくれたことを忘れない」
「………………」
「どこに居ても、ずっと……ずっと」
「……」
いつの間にかフランドールは遠くを見るような表情で上を見上げていた。
わずかに壊れたような、懐かしい瞳を……向けているのかもしれない。
「私は……お姉さまを忘れない」
「……」
「……」
私は、フランドールの顔を焼き付けるように見つめていた。
昔と変わらない、無邪気な表情が、まだそこにはある。
それを忘れてしまわないように……。
変わり始めた、彼女を思い浮かべながら。
「……忘れては、ダメよ」
そして、ポツリと言うと、彼女のようにシーツへと身を沈めた。
フランドールと同じようにして、上を見上げる。
そこには、おかしなくらい低くて小さな天蓋があるだけだった。
暗がりに移る、白い四角。
彼女と同じように見ているはずの世界が……なんだか嬉しい。
「……」
そんな風に思って、ちらりとフランドールを見やる。
その彼女もまた、うっすらとした瞳で私を見ていた。
はっきりとしたその姿。
美しい金の髪に、瞳。
もう、曖昧な姿など、どこにもない。
私は、再び上を向くと、すっと目を閉じた。
「……さぁ」
そうして、言い聞かせるようにして彼女の左手を取る。
冷えきった、私と同じ温度の手。
きゅっと結び返された手の感覚を覚えながら、
「……おやすみなさい、フラン」
「おやすみなさい、お姉さま……」
その手に導かれるように、ゆっくりと、闇が降りる。
幕のように下り、膜のように包み込む闇。
そのまどろみとも言える闇の中には、もう誰の姿もない……みたい。
消えてしまう彼女も、それを追う……私も……いない。
あるのは、ただ……。
この繋いだ…………。
冷えきった……彼女の手の感覚だけ……。
……それだけが……。
……一つになったみたいに………………確かに、存在していた。
日常を描く作品は好きです。変化は、嫌いだけど、それも好きです。
人物がぶれて見えたり、はっきりと捉えられなかったり、曖昧だったり。
ああこれ、文章が上手いから、こんな気分になってるんだ。
ふう、憂鬱……。
変化なんてない方がいいよ...
でもそれがかわいいレミリアさんですね(*^o^*)
何だか……が多くて「何となくある雰囲気」だけが先行するSSだったように思います。
私のなかでのレミリアは良くも悪くも感情に素直で存外思慮深い。
とてもレミリアらしかったです。