世には、悪意がある。
どの世にも、どの時代にも欠かすことは無く、そして絶えることなく存在している。
どんな容であれ、そこにあるのは邪悪な意思だ。
しかし、純粋な悪意……悪意として認識できない悪意はどうなのだろうか?
それは悪意であるのか、それとも別の何かであるのか。
それは、一体何と形容すればいいのか。
「聖、聖。廊下の掃除が終わりました」
「……あ、あら、ありがとう一輪。てきとうに休んでてちょうだい」
「分かりました。……聖、調子が悪いのなら無理はしないでくださいね」
居間へと入る一輪を他所に、聖は思い耽る。
幻想郷へと越してから何か虚ろで、ぼんやりとしてしまう事が多くなった。
皆は良くしてくれる。
里の人間も慕ってくれているようだし、心配は無い。
でも、何かが虚ろなのだ。
何かが足りない、そこにあるべきものが足りない。
そう思えて仕方が無い。
だから、聖白蓮は―――
「聖」
自らを呼ぶ声に、聖ははっと我に帰る。
―――いま、私は何を考えていた?―――
頭を振り、ぼうっとした頭をすっきりさせる。
彼女を呼んだのは寅丸星だ。
「ご飯ですよ。居間でみんな待ってます」
「え、ええ。今行くわ」
縁側から立ち、居間へと向かう。
聖はこの時に、『無意識に』、とある決意をしてしまっていた。
もう、後戻りはできない。
「いただきます」
「「「「いただきまーす」」」」
聖に続いて、皆が手を合わせる。
命蓮寺の、食事のときのいつもの光景だ。
「……」
「……?」
聖は箸を取らなかった。
それを気にしたのは寅丸のみで、他の者は大して気にしていない。
聖は顔を俯けて微笑むと、静かに、しかしはっきりと。
「皆、命蓮に会いたくない?」
シン、と音がするかのように、食卓が静かになった。
誰も、何も喋ろうとしない、行動を起こそうとしない。
聖は俯いたまま続ける。
「封印されている間に耳にした術法があるの。ね、試したいのよ」
分かっている。
聖が何を言っているのか、この場にいる全員、理解できている。
でも何故?どうしていきなり?
そんなことは、どうでもよかった。
「ね、聖」
「なあに?ナズーリン」
「何人食っていい」
「沢山よ、それはもう沢山」
「……そうか、それはいいじゃないか」
沈黙は、困惑ではなかったのだ。
―――ああ、また昔のように暴れてもいいのか。
ただ、その認識が間違っていないのか、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も反芻していただけなのだ。
「準備、してね?」
聖が席を立つ。
それに合わせて、全員がその場から立ち上がる。
まずは、家畜の囲い込みと邪魔者の排除だ。
――――――――――――
人里。
命蓮寺から程なく近く、今日も人間は平和を多少の怯えと共に謳歌していた。
「慧音先生、これなぁに?」
「ん……?壁?」
上白沢慧音が児童に連れて来られた場所には、壁があった。
建物ではない、ただの壁がそこにあるのだ。
触っても、叩いても、ただの壁だ。
「……塗り壁か?里の外に行く道を塞ぐんじゃない、みんな困ってしまうだろうが」
「ねぇ先生、なんか怖いよ……」
「子供も怖がっているじゃないか、やめてくれ塗り壁。聖に怒られてしまうぞ」
どこまでも続く壁、そこの前にいる慧音と里の娘。
その二人がそこにいたのは幸いか、それとも不幸なのか。
後方からの悲鳴に、気付けなかったのは。
「上白沢……」
「ああ、寅丸さんにナズーリン、丁度よかった、塗り壁が道を―――」
瞬間、慧音は反射的に子供を庇った。
背中が熱い。
するはずのない水音が響いた。
娘は、無事。
目の端に、半ば異形のものと化した寅丸とナズーリンが映る。
逃げなければ。
この娘だけでも、逃がさなければ、
決断は早かった。
二の手を鏡で防ぎ、娘を抱えたまま走り出す。
里は、阿鼻叫喚に包まれていた。
首が無い死体が、潰された死体が、無数に齧られた死体が、膨らんでいる死体が、切り刻まれた死体が。
無数に転がる死体の中を走り抜ける。
もう、恐らくは他に生きているものはいまい。
涙が流れた。
記憶が、思い出がすべて血に包まれていく。
どうしてこうなってしまったのか。
理由など知らない、知りたくも無い。
ただ駆けた。
この娘を守るために、たった一人の生き残りを守るために。
「で、どこに行くんですか?上白沢慧音さん」
ああ。
現実は非情なんだなぁ。
目前に迫る聖白蓮の文字通りの魔手を前に、慧音は娘を強く抱きかかえた。
せめて、この娘だけでも生き残ってくれれば構わない。
そう、覚悟したときだった。
「慧音ッ!!」
赤い光と共に、何か、熱いものが通り過ぎるのを感じた。
聞き覚えのある声だ。
ああ、妹紅か。
どうしてここにいるんだろう?
意識が薄れていくのを感じながら、慧音は確かに妹紅の姿を見た。
その不死鳥のような羽は、見間違うはずも無いから。
――――――――――――
「う……」
「あ、師匠!慧音さんが目を覚ましました!師匠!」
目を覚ますと、体に包帯は巻かれ布団に寝かされ、自分がどういう状態にあるかを少しの間理解できなかった。
少しして、永遠亭だと気付いた。
「動かないで寝ていてちょうだい、上白沢さん?」
「……あの子、あの娘は……」
「無事よ、今てゐと鈴仙に様子を見させているわ。……無茶をするわねぇ、脊髄にまで届きそうな傷だったわよ?」
「里が……皆が……」
「……一体何が起きているのか分かる?」
「分からない、寅丸さんとナズーリンに襲われて、逃げていたら聖が目の前に……」
「あの命蓮寺とかいう寺の連中ね?里に出入りできなくしてまで何を……」
一通り慧音の具合を診た後、永琳は安静にしているようにと伝え、部屋から出て行った。
その間に慧音は思考を巡らせる。
一体里で何が起きたのか。
「……」
分からない。
その言葉しか出てこない。
大人しく寝ていよう、と慧音は布団に潜った。
どの世にも、どの時代にも欠かすことは無く、そして絶えることなく存在している。
どんな容であれ、そこにあるのは邪悪な意思だ。
しかし、純粋な悪意……悪意として認識できない悪意はどうなのだろうか?
それは悪意であるのか、それとも別の何かであるのか。
それは、一体何と形容すればいいのか。
「聖、聖。廊下の掃除が終わりました」
「……あ、あら、ありがとう一輪。てきとうに休んでてちょうだい」
「分かりました。……聖、調子が悪いのなら無理はしないでくださいね」
居間へと入る一輪を他所に、聖は思い耽る。
幻想郷へと越してから何か虚ろで、ぼんやりとしてしまう事が多くなった。
皆は良くしてくれる。
里の人間も慕ってくれているようだし、心配は無い。
でも、何かが虚ろなのだ。
何かが足りない、そこにあるべきものが足りない。
そう思えて仕方が無い。
だから、聖白蓮は―――
「聖」
自らを呼ぶ声に、聖ははっと我に帰る。
―――いま、私は何を考えていた?―――
頭を振り、ぼうっとした頭をすっきりさせる。
彼女を呼んだのは寅丸星だ。
「ご飯ですよ。居間でみんな待ってます」
「え、ええ。今行くわ」
縁側から立ち、居間へと向かう。
聖はこの時に、『無意識に』、とある決意をしてしまっていた。
もう、後戻りはできない。
「いただきます」
「「「「いただきまーす」」」」
聖に続いて、皆が手を合わせる。
命蓮寺の、食事のときのいつもの光景だ。
「……」
「……?」
聖は箸を取らなかった。
それを気にしたのは寅丸のみで、他の者は大して気にしていない。
聖は顔を俯けて微笑むと、静かに、しかしはっきりと。
「皆、命蓮に会いたくない?」
シン、と音がするかのように、食卓が静かになった。
誰も、何も喋ろうとしない、行動を起こそうとしない。
聖は俯いたまま続ける。
「封印されている間に耳にした術法があるの。ね、試したいのよ」
分かっている。
聖が何を言っているのか、この場にいる全員、理解できている。
でも何故?どうしていきなり?
そんなことは、どうでもよかった。
「ね、聖」
「なあに?ナズーリン」
「何人食っていい」
「沢山よ、それはもう沢山」
「……そうか、それはいいじゃないか」
沈黙は、困惑ではなかったのだ。
―――ああ、また昔のように暴れてもいいのか。
ただ、その認識が間違っていないのか、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も反芻していただけなのだ。
「準備、してね?」
聖が席を立つ。
それに合わせて、全員がその場から立ち上がる。
まずは、家畜の囲い込みと邪魔者の排除だ。
――――――――――――
人里。
命蓮寺から程なく近く、今日も人間は平和を多少の怯えと共に謳歌していた。
「慧音先生、これなぁに?」
「ん……?壁?」
上白沢慧音が児童に連れて来られた場所には、壁があった。
建物ではない、ただの壁がそこにあるのだ。
触っても、叩いても、ただの壁だ。
「……塗り壁か?里の外に行く道を塞ぐんじゃない、みんな困ってしまうだろうが」
「ねぇ先生、なんか怖いよ……」
「子供も怖がっているじゃないか、やめてくれ塗り壁。聖に怒られてしまうぞ」
どこまでも続く壁、そこの前にいる慧音と里の娘。
その二人がそこにいたのは幸いか、それとも不幸なのか。
後方からの悲鳴に、気付けなかったのは。
「上白沢……」
「ああ、寅丸さんにナズーリン、丁度よかった、塗り壁が道を―――」
瞬間、慧音は反射的に子供を庇った。
背中が熱い。
するはずのない水音が響いた。
娘は、無事。
目の端に、半ば異形のものと化した寅丸とナズーリンが映る。
逃げなければ。
この娘だけでも、逃がさなければ、
決断は早かった。
二の手を鏡で防ぎ、娘を抱えたまま走り出す。
里は、阿鼻叫喚に包まれていた。
首が無い死体が、潰された死体が、無数に齧られた死体が、膨らんでいる死体が、切り刻まれた死体が。
無数に転がる死体の中を走り抜ける。
もう、恐らくは他に生きているものはいまい。
涙が流れた。
記憶が、思い出がすべて血に包まれていく。
どうしてこうなってしまったのか。
理由など知らない、知りたくも無い。
ただ駆けた。
この娘を守るために、たった一人の生き残りを守るために。
「で、どこに行くんですか?上白沢慧音さん」
ああ。
現実は非情なんだなぁ。
目前に迫る聖白蓮の文字通りの魔手を前に、慧音は娘を強く抱きかかえた。
せめて、この娘だけでも生き残ってくれれば構わない。
そう、覚悟したときだった。
「慧音ッ!!」
赤い光と共に、何か、熱いものが通り過ぎるのを感じた。
聞き覚えのある声だ。
ああ、妹紅か。
どうしてここにいるんだろう?
意識が薄れていくのを感じながら、慧音は確かに妹紅の姿を見た。
その不死鳥のような羽は、見間違うはずも無いから。
――――――――――――
「う……」
「あ、師匠!慧音さんが目を覚ましました!師匠!」
目を覚ますと、体に包帯は巻かれ布団に寝かされ、自分がどういう状態にあるかを少しの間理解できなかった。
少しして、永遠亭だと気付いた。
「動かないで寝ていてちょうだい、上白沢さん?」
「……あの子、あの娘は……」
「無事よ、今てゐと鈴仙に様子を見させているわ。……無茶をするわねぇ、脊髄にまで届きそうな傷だったわよ?」
「里が……皆が……」
「……一体何が起きているのか分かる?」
「分からない、寅丸さんとナズーリンに襲われて、逃げていたら聖が目の前に……」
「あの命蓮寺とかいう寺の連中ね?里に出入りできなくしてまで何を……」
一通り慧音の具合を診た後、永琳は安静にしているようにと伝え、部屋から出て行った。
その間に慧音は思考を巡らせる。
一体里で何が起きたのか。
「……」
分からない。
その言葉しか出てこない。
大人しく寝ていよう、と慧音は布団に潜った。