――きみのえがおは、だれのため?
何もかも、変わり続けていく。昨日の景色も今は過去。
歩いて歩いて、忘れて忘れて。
どうしようもない自分だけが変わらなくて。
――きみのえがおは、だれのため?
歩き疲れて、足を止めて。
ふと横を見る。眩しい笑顔がひとつ。
なにさ。なにがそんなに楽しいの。
――きみのえがおは、だれのため?
ああ、ああ。わかったから。
誰かが横で笑ってる。悪い気はしないけど。
そうなれない私は、なんてみじめ。
――きみのえがおは、だれのため?
妬ましい。
・
・
・
・
・
・
・
・
「結局のところ」
嫌な夢を見た。自分がひたすらに泣いている夢。
誰かが傍に寄って来て、励まそうとしてくれた所で目が覚めた。
そんな日に、明るい顔なんてそうそう出来なくて。
「人は誰だって、独りぼっちなんだよね。
こんなに晴れた空を見てると、特にそう思うの――」
そんな感情を吐き出す。静かな地底に、まるで詠唱のような小さな声。
「もう、何もかもが嫌になっちゃった。
こんな私、あなたはきっと『弱虫さん』って、笑い飛ばすんでしょうけど」
少女の静かな―― というより、暗い声が静寂を泳ぐ。
まるで仏前のようなその空気を、真逆の性質を持った声が押し破った。
「あははは、パルスィったら」
思ってもいなかった笑い声に、橋姫・水橋パルスィは真横を向いた。
「晴れた空って、こっからじゃ空なんて見えないよ、もー」
尚もおかしそうにくすくすと笑う、土蜘蛛妖怪・黒谷ヤマメ。パルスィの数少ない、腹を割って語り合える親友。
地底に架かる橋、その欄干にもたれたまま、彼女は深く息をつく。笑いすぎて少々酸素が足りなくなったらしい。
「別に、ただの比喩よ。何がおかしいのよ」
冗談と受け取ったヤマメに対し、発言者のパルスィはちょっぴり不服そうに唇を尖らせた。
「んー? だってパルスィが急にヘンなコト言うから。知恵の実でも食べたのかなって」
「あなたはお気楽そうでいいわね」
「えへへー」
皮肉っぽく言うも、ヤマメはまるで意に介した様子がない。柔和な笑みを彼女へ向けるだけ。
鬱屈、なんて言葉とはまるで無縁そうな彼女の笑い顔。パルスィは思わず、顔を背けた。
(何がそんなに楽しいのかしら)
正直に言えば、妬ましい。ここ最近は、訳もなく気持ちが沈むことが多い彼女にとって、ヤマメの笑顔は眩しくてしょうがない。
果たして何が彼女をそうも笑わせるのか。自分が食べたのが知恵の実なら、彼女は笑い茸でも食べたのか。
「あれ、どこ行くの?」
橋の欄干に預けていた身体を浮かせ、ふらふらと歩き出したパルスィ。ヤマメが尋ねるも、
「別に……ちょっと出かけてくるだけよ」
ぶっきらぼうな返事だけ。返すだけ有難いと思って欲しい、なんて言葉が一瞬だけ頭を過ぎった。
これで相手が古明地さとりなら気まずい空気のひとつも流れたかも知れない。だが、相手はヤマメだ。
「そっかぁ。気をつけてね!」
相変わらずの笑顔で、手を振っているのだろう。振り返らなかったが、分かっていた。それが余計に嫌だった。
わざと早足になって橋から離れる。向かった方向は地底のより深い場所。
(あの子は、なんであんなに笑ってられるの?)
歩きながら考える。ヤマメには悩みなどないのだろうか。それとも、自分が悩みを持ちすぎているのだろうか。
明るくて、眩しくて、とっても可愛い笑顔。見ているだけで、心裏腹に気持ちが沈む。
朗らかでよく笑うヤマメは周りからの人気も高い。塞ぎがちな自分とは大違いだ。
そんな自分が、彼女のようになれないことへの苛立ち。どうにか、直接彼女へぶつけることなく接していられるのは幸いとしか言えない。
「何か、面白いことでもあるのかしら」
呟き、何もない虚空にため息を吐く。
ここでの生活もそれなりに長く、笑える出来事だってそれなりにあった。友人と過ごす時間なんか最たるものだ。
だがそれでも、元はと言えば厄介な能力を持つせいで地底へと―― 光の差さぬ片隅へと追いやられた身。
そのことを考えると、多少愉快な出来事があっても、やがて冷めてしまうのだ。笑っている場合なのだろうか、と。
(私が悩みすぎなの? それとも……)
思えば、ヤマメはいつだって笑っている。パルスィと顔を突き合わせている間は、常に明るい表情を崩さない。
彼女が落ち込んでいる所なんて、見たことがないかも知れない。まるでパルスィとの釣り合いをとっているかのように。
何が彼女をあそこまで笑顔にさせるのか。気になって仕方ないし、そこまで笑っていられる彼女の精神が羨ましくもあった。
ヤマメのことは好きだ。いつも明るくて優しい。いつだって自分を気にかけて、珍しく楽しそうなら一緒に笑って、落ち込んでいれば励まして。
そんな彼女の存在を有難く思うと同時に、妬んでしまう。一緒にいたい。いたくない。ぐるぐる渦巻く感情が、パルスィを疲弊させる。
(ヤマメ、あなたは……私を見て何を思ってるの?)
知りたい。彼女の笑顔の理由が。顔に何かついている、なんてものではないことくらい分かる。何十年、何百年。本当にそんな理由だったとしたら、それはもう顔の一部だ。
同じように笑いたい。横にいる誰かに確かな明るさを分け与えられる、あの光が欲しい。
妬む自分は好きではないが、それを変えられるのなら。明るくなりたい。
悶々と悩みながら歩くパルスィは、いつの間にか来た道を戻っていることにも気付かない。
「パルスィ、おかえりー!」
「……あれ?」
目の前にはいつもの橋があって、その上で手を振るヤマメが。
「もういいの?」
「……今からよ」
小首を傾げるヤマメ。可愛らしい。思わず視線を逸らした。無性に悔しかった。
どっちが人に好かれるかなんて、明白なのだから。
・
・
・
・
「パルスィか。どうした、そんなに静かで」
「年がら年中騒げるそっちが変なのよ」
この場所はいつだって少し寒いが、目の前の相手はいつだって騒がしい。
地底の鬼、星熊勇儀。常に杯を手放さないその武士道にも似た精神は、見習うべきかも知れない。
ヤマメと自分を知る共通の親友。最初に浮かんだのが彼女だった。
勇儀がヤマメの笑顔の理由を知っている、とまでは思わないが。何か意見を貰えるだろうと踏んでの訪問だった。よもや答えを知っていたりなどしたら、それはそれで。
「で、どうした? 酒盛りに付き合ってくれるなら大歓迎だけどさ」
「やめとくわ。今はそういう気分になれないし……なんていうか、相談みたいなのが」
「ふぅん。ま、座りなって」
とりあえず、と勧められた座布団に座る。酒は飲まないようだから、と勇儀は緑茶を淹れて持ってきてくれた。
場所は勇儀の自宅、座敷にて暫し対面。杯を二回ほど空け、彼女は笑った。
「……で、何をそんなに悩んでるんだ?」
「え、ちょ……私はまだ、何も」
「分かるよ。そんな景気の悪いカオされたら、十中八九悩み……それもそうだな、人間関係とか、他人に関するコトだろ?」
驚き、その顔を見る。『当たってるだろう?』と言わんばかりな、勇儀の得意気な顔。
ただの酔っ払いじゃない、確かな観察眼。これが鬼の実力かと、それなりに長い付き合いでありながらパルスィは関心してしまう。
観念したように頷き、今度は彼女が口を開く。
「その、さ……ヤマメに関するコトなんだけど」
「ヤマメぇ? なんだいなんだい、いっつも仲良しじゃないか。羨ましいよ。おノロケなら酒に付き合ってくれたら聞いてやるけど?」
「ち、違うわよ! の、の、ノロケって……」
「はっは、やっぱり面白いなパルスィは。今のは冗談にしても……ヤマメの何で悩むって言うんだい? あんなに仲良しなのに」
茶化され、顔を真っ赤にするパルスィ。勇儀は心の底から、彼女との会話―― からかうことも含めて―― を楽しんでいるようだ。
咳払いで恥ずかしさを誤魔化し、彼女は続けた。
「こほん……で、ヤマメのコトだけど。あの子、いっつも笑ってるわよね。まるで悩みなんてないみたいにさ。
一体、何がそんなに楽しいのかなって……直接は訊けないから、勇儀は何か知らないかなって思って」
正直に打ち明ける。すると、勇儀は少しばかり表情を引き締める。
「ははぁ。でも、ヤマメが笑ってたら何がいけないんだ?」
「い、いけないなんて一言も」
「いーや、私は誤魔化せないよ。パルスィは明らかに、ヤマメがいつも笑ってることに対して、例え微かであっても苛立っている……違うかい?」
「……」
沈黙は、何よりの肯定の証拠。微かに肩を震わせるパルスィ。何かを堪えようとしているかのような様子に、勇儀はふっと笑った。
「なるほどなるほど。パルスィ、もしかして……本当はヤマメのこと、嫌いなのか?」
「なっ……!?」
思ってもいない言葉が飛び出し、パルスィは瞬間的にパニック状態へと陥っていた。
「ば、ば、馬鹿なコト言わないでよ!! ヤマメが嫌いだなんて、そんなワケないじゃない!!」
「落ち着けって、冗談に決まってるだろ? そこまで過敏に反応するとは思わなかったんだ、許しておくれ」
思わず両手で制する勇儀。冗談と分かり、ようやくパルスィは落ち着きを取り戻す。
「やれやれ。自分がこんなに悩んだり、不安を感じているのに、いつも笑ってられるヤマメが羨ましい。
そしてそれと同時に、どこか無神経だとも感じてしまう……実際には、そんなところか。
パルスィよ、ヤマメにゃあ心を読む能力なんてないんだぞ? 何も言わず、お前さんの心情を察してくれなんて、ムシが良すぎる」
「……分かってるわよ」
「分かってんならいいけどさ。どうにも、お前さんの悩みとやらが変な方向に向いてる気がしてな、先に釘を刺させてもらったよ」
ヤマメにはなくとも、勇儀にはあるんじゃないか―― ちらりとそんなことを考えたが口には出さない。
ふむぅ、と顎をつまんで少し考え、彼女は口を開いた。
「悪いが、私は何も知らないんだ。そもそも、ヤマメとの付き合いだったらパルスィの方が長いだろうに。
何か心当たりとか、ないのか? 毎日のように会ってるはずだろ」
「思いついてたら、わざわざ尋ねないわよ。じゃあ一体何なのかしら……」
「でもま、今に始まった話じゃないな。ヤマメが笑ってるなんてさ。あれだけ明るくあれるっていうのは、もう一つの才能だな。素敵なものを持ってるよ、ヤマメは」
勇儀はしみじみとした口ぶりでそう続け、
「由来があるとすれば、昔だな。或いは元来の性格か。いずれにせよ、上辺のモンじゃない」
最後にそう言って締め括った。パルスィにもそれは分かっているつもりだった。
答えが分かったわけではないが少なくとも、疑問の前進にはなった。
「その……ありがとう、参考になったわ。邪魔してごめんなさい」
パルスィは立ち上がる。が、勇儀が呼び止めた。
「ああ、その前に」
「?」
「……ヤマメが何か企んでるとか、本心では実は……とか。そんな仮説を持ってるなら今すぐ捨てな。あいつは純粋にパルスィが好きなんだろうよ」
「え、ちょ!? きゅ、急にそんなコト言われても」
真顔で妙に恥ずかしいことを言われ、顔を赤くするパルスィ。だが彼女はどうやら真剣なようだ。
「間違いないよ。まあ今に分かるだろうね」
「……」
はっはっは、と豪快な笑い声に背中を押されつつ、彼女は外へ出た。
(まったく、変なこと言わないでよ)
未だに顔の火照りが収まらない。確かに、笑顔と言えば好意の証。だが、そんな純粋かつ短絡に考えられる程、今のパルスィは明るくなれない。
それに、肝心の疑問にはまだ答えが出ていない。
(他に、私とヤマメをよく知ってそうな人……)
いくつか心当たりがある。確かにあるのだ。
―― その事実がどれだけ素晴らしいことかを、彼女は忘れている。
・
・
・
・
橋のたもとに、今日も一人。
しゃがんだまま膝に頬杖をついてため息。特にやることも見当たらない。
結局、昨日は勇儀と別れた後はそのまま帰ってしまった。
「……」
無言。まあ、声を発する必要性もないのだが。
しかし重苦しい空気に耐えかねたのか、パルスィは不意に立ち上がった。
このままじっとしていたら、カビが生えてきてしまうかも知れない。湿度もそれなりにあるから尚更怖い。
気晴らしに買い物でも行こうかと、背を反らして伸び。こき、と腰の辺りで微かに音が鳴る。
上着のポケットを探る。財布が入っていることを確認した、そんな時。
こつ、こつ。
「……!」
靴底が硬い物を叩く音。何者かが、橋を渡っている。
地底に住む妖怪の大半はこんな所を通るのにわざわざ歩かない。飛び越えてしまう。
ご丁寧に地に足を付けて通りすがるのは、運動目的か、迷い込んだ人間か、そうでもなければ――
(やっぱり)
パルスィの予想は的中した。橋をわざわざ歩いて通る数少ない存在、ヤマメがこちらへ向かって来る。
その手には空っぽと思しき手提げ袋。どうやら彼女も買い物目的のようだ。
思わずその場に再び座り込む。前方の地面を見つめ、いつものようにぼーっとするフリ。
やがて足音が大分大きくなったかと思うと、じゃり、と靴が乾いた砂を噛む音に変わった。橋を渡り切ったらしい。
それと同時に、足音が止まった。
(こっち見てる)
分かっていた。そしてこれまたいつものように、満面の笑みを向けているのだろう。
いつ声がかかるか。何かに怯えるかのように、パルスィはその瞬間を待つ。
しかし―― 橋の上に比べて小さくなった足音が、再び鳴り始めた。段々と遠ざかっていく。
「え?」
拍子抜けた声が口を突いて出た。絶対に何か声を掛けられる、そう思っていたのに。
もし名前を呼ばれたなら、また昨日と同じことを考えてしまって憂鬱になったかも知れない。
だが、声を掛けられなかったならなかったで、寂しい。
なんてワガママなんだろう。
「や、ヤマメ!」
瞬間、素早く立ち上がってその名を呼んでいた。パルスィに背を向け―― 行き先上当然だが―― ていた小さな背中が、ぴたりと止まった。
「あ、パルスィ! どうしたの?」
振り返ったヤマメは、やはり笑顔だった。そのまま、嬉しそうにとてとてと寄ってくる。
その笑みを見た瞬間の、パルスィの心境―― 上手く言えない。その可愛らしい笑顔にどきりと心臓が跳ね、彼女のように笑えない自分を思って少し嫌になり。
何より、彼女が自分の名を呼んで、笑ってくれたことが嬉しい。針の上でぐらつくかのように繊細な想いが絡み合って、何を思えばいいのか分からない。
「どうしたって……な、なんで黙って行っちゃうのよ」
「あー、ごめんね。なんか疲れてそうだったから、あんまり声かけない方がいいかなぁって」
自分がどれだけ変なことを言ってるかは、分かってるつもりだ。声を掛けろ、だなんて暗黙のルールを作った覚えもない。
だがそれでも、ヤマメは申し訳なさそうに眉を垂れる。彼女に非はない筈なのに。
(疲れてるだなんて……)
こちらから声を掛けるどころか、目を反らして無視しようとしたパルスィの心境を、見抜かれていたのだろうか。
ヤマメと話せば、彼女はとっても嬉しそうに笑う。それを見たパルスィは自分自身と比較して、気持ちが沈む。
だからあまり話し掛けられたくなかった―― それを否定するつもりはない。だが今の彼女は、声を掛けなかったヤマメに謝らせている。
何も言わずに去ってしまうなんて、寂しい。友達なら―― そう思ってくれているなら、何かしらの反応が欲しい。
(まったく……)
―― 本当に、なんてワガママなんだろう。
「で、どうしたの?」
「……別になんでもないわよ」
「そうなの? ならいいんだけど……」
自分から声を掛けておきながら、彼女の質問にはぶっきらぼうな反応。かと言って明るい反応も出来ず。
どうしたものか、と考えて数秒。『そうだ』と、急にヤマメがポンと手を打った。
「パルスィ、今ヒマ? 良かったらさ、一緒にお買いものでも行かない?」
「え」
思ってもいない―― 否、心のどこかでは期待していたお誘い。
当然、首を縦に振るのが当たり前だと思っていた。だが、
「あ、えっと……ごめんなさい。せっかくだけど、今日はちょっと体調が良くないから遠慮するわ」
口を突いて出たのは、またしても否定の言葉だった。
「そっか……それじゃしょうがないよね。具合悪いのに立ち話させちゃってごめんね」
「べ、別に……」
申し訳なさそうに頭を下げるヤマメに、パルスィは口数少なく首を振る。
理不尽すぎる、とは自分でも思っていた。何故ヤマメが謝る必要がある? 何故嬉しい誘いを断った?
(私、どうしたんだろう)
薄ぼんやりと考えるも、本当はパルスィには分かっていた。
いつも楽しそうに笑っているヤマメを、妬んでいる。だから、彼女がどうすれば笑わないかを考えているのだ。
天邪鬼、と一言で片付けられる範疇かは、怪しい。
(好きなはずなのに……)
そんなのは、本当に友達と呼べるのだろうか。
思い悩み、顔にかかる影を濃くする彼女の様子に、ヤマメが少し慌てた。
「パルスィ、大丈夫? なんか顔色悪いよ……早く休まなきゃ。家まで送ってくよ」
「は、へ? い、いいわよ。そんなの……」
「ダメだよ、風邪とかならこじらせると大変だし……ほら、行こ?」
「………」
笑顔でなくても、その顔を見ているだけで従ってしまう自分がいる。黙って伸ばした腕をヤマメがくぐり、首に乗せて肩で支える。
肩を貸した格好になり、ゆっくりとパルスィの自宅方面へ歩き出した。
「迷惑じゃなかったら、あとでお見舞い行ってもいいかな。何か食べたいものとかある?」
「嬉しいけど、気持ちだけで十分よ……その、移したら悪いし、そこまで迷惑かけられないわ」
「そんなのいいよぉ。パルスィのためなら迷惑なんて全然思わないって」
間近で向けられた笑顔は、心が煤で汚れた今のパルスィにとってはあまりに眩しかった。
・
・
・
・
重い足を動かして、奥へ、奥へ。
元より薄暗い地底の明度はますます下がり、その不気味な光景はそこに住まう者とて足を鈍らせる。
パルスィは今まさに、地底の更なる奥地へと足を踏み入れていた。
とは言え、何度も行った場所ではあるのだが。
「相変わらず、どうやって建てたのかしら」
地霊殿。その重厚な佇まいに、思わずそんな言葉が漏れる。
建築技術は今はいい。それより、会わねばならない人物がいる。
気配を察したのか、足を踏み入れる前に入口より、ぴょいと飛び出す赤い影。
「およ、パルスィじゃないか。いらっしゃい」
地獄を駆ける赤い猫、火焔猫燐。トレードマークのおさげを揺らし、見知った来客に嬉しそうな顔。ぴこぴこ、と耳が動く。
入り口から上半身を突き出した状態の彼女に、パルスィは声を若干潜めて尋ねた。
「その……さとりは、いる?」
「さとり様? いるよ、普通に居間でのんびりしてる。さとり様に用かい?」
「え、ええ」
「あい分かった、ついてきな」
くるりと踵を返す燐に続いて、内部へ足を踏み入れる。
歴史的建造物のような佇まいでありながら、その実は割と普通な印象を受ける。平たく言えば巨大な家、永遠亭に近いものを感じる。
元よりそうなのか、改修したのか―― 気を紛らわす意味も含めたその議題だが、考えを巡らせる前に燐の背中が止まる。
これまた改修したのか、いつの間にか木張りの廊下に襖という和風な空間。その内一枚の襖を開け、彼女は首を突っ込んだ。
「あ、いたいた。さとり様、お客さんですよ」
「ありがとう、通してあげて。お茶も出してあげてね」
「はぁい。こん中、入って。今お茶持ってきてあげる」
振り返った燐はウィンク一つ、パルスィの背中をポンと叩いていそいそと廊下を小走りで去っていった。ひょっとして、何かを勘違いしているのかも知れない。
まあ今は、目的の人物を前にしているのだ。早い所、彼女との話に移ろう。
「お邪魔します」
「はいどうぞ。今更って感じもしますけどね」
一応、の挨拶をしながら襖を開けると、畳張りの部屋の真ん中で、炬燵と座布団に座った古明地さとりが、くすりと微笑みで出迎えた。
彼女に勧められるまま、炬燵を挟んで向かいに座る。既に座布団も用意されていた。
上に乗っていた、煎餅やビスケットがぎっしり詰め込まれた編みかごをパルスィの方へ押しやり、さとりは再び笑う。
心を読めるくせに、その上言葉を用いずに物を言う。口で言うよりも強い意志伝達能力。
従うしかないじゃない、と心の中で言い訳をし、彼女は煎餅を一枚手に取って半分に割った。
「いただきます」
「お好きなだけ」
どうにも苦手な相手だ。嫌いというわけではない。だが彼女の前では何もかもを見透かされてしまう。それが怖い。
割った煎餅の一口目をかじった所で再び襖が開き、お盆を手にした燐が現れた。
「はいよ。んじゃ、ごゆっくり」
「ありがと」
湯気を立てる湯呑みをパルスィの前に置き、急須をかごの横に置くと、燐はそそくさと部屋を出て行った。正直に言えば、もう少し居てくれると嬉しかったのに。
少々手持無沙汰になりつつ、湯呑みを手に取って息を吹く。ふぅ、ふぅ。
漂う緑茶の良い香り。少しだけ、心に余裕が出来た。
音を立てて啜り、息と一緒に湯呑みを戻す。顔を上げたら、さとりと目が合った。
「はい、なんでしょう」
「その、相談事があるんだけれど」
心を読めるのだから、パルスィの考えなど分かっている筈。だが彼女はそれを先に言うことはしない。
彼女なりの気遣いだろうか。今はそれが、少しだけ有難い。
「その前に、なんでいつも敬語なのよ」
「お客様ですから」
―― 掴み所がない。にこにこと笑みを崩さぬさとりに、思わずため息。
ここはさっさと本題に入るべきだろう。目の前の相手には、その考えすらも筒抜けだが一々考えてもキリがない。
質問以外の雑念をシャットアウトし、口を開く。
「今更だけれど……あなたは、心を読めるのよね?」
「ええ、まあ。心と言いますか思考と言いますか……とにかく、考えていることが分かり……分かって『しまいます』ね」
わざと強調するさとり。少しだけ目を伏せた彼女の顔を見て、パルスィの心にも幾許かの罪悪感に似た感情。
彼女は既に自分の考えを読んでいるだろうから、余計に口が鈍る。
頬の内側を解すように、湯呑みに口をつける。ずず、と音を立てて一口。何とか喋れそうだ。
「……私の友達が何を考えているのか、読んで教えてもらうっていう相談は出来ないかしら?」
「出来ません」
待ってました、と言わんばかりの即答だった。
「どうして?」
「いくつかありますけど……単純にプライバシーの問題とかですね。心の中というのは当人しか立ち入れない聖域です。
勝手に人の机の引き出しをこじ開けて、中にある日記やその人宛てのお手紙を読んだりするのは、良いことと言えますか?」
ああ、そうだ。そんなのは分かりきっている。目の前にいるのは、見たくなくとも見えてしまう能力の持ち主。今までどれだけ辛かったか、想像することしか出来ない。
だけど――
「それは分かってる……けど」
「……お友達、ですか。信用してあげられないのですか?」
「!!」
ぼうっ、とさとりの目に奇妙な光が宿った気がした。目をぱちくりさせてみると、別段変わったこともなく、こちらを真っ直ぐ見据えている。
「……まあ、そうでないというのは分かりますよ。本当はその子が大好きで、信じてあげたい。
けれど、漠然とした不安を打ち消せないでいる。このままでは、自分の心が悲鳴を上げる。分かってます。
彼女が向けてくれる笑顔の意味を知りたい。もっと言えば―― 本当に好意からくる笑顔なのか確かめたい」
全くもって、その通りだった。彼女の前で、隠し事は不可能だ。きっと第三の目を閉じたとしても、自分の心を見透かしてくるのだろう。
(そして、ヤマメのように私も笑いたい)
嘘偽りのない、正直な気持ち。目の前の彼女に聞こえるよう、強く念じてみた。
と、やや真剣な顔つきをしていたさとりは不意に、ぷっと吹き出した。軽く耳を押さえる。
「声が大きいですよ、そんな強く思わなくても分かってますって」
「めんどくさいわね」
何だか無性に恥ずかしくなり、パルスィは頬をほんのりと赤く染めた。湯呑みを手に取って口に運び、誤魔化す。
それを置く頃には、再びさとりは真剣な顔に戻っていた。
「あなたは、本当にヤマメのことが好きなんですね。だったら、額面通りに受け取っていいんじゃないでしょうか。
好きな人が笑ってくれないっていうのは、とてもとても、辛いことです。あなたはその逆です。贅沢者です」
「それも、分かってるわよ」
「だったら」
「けど」
短い言葉が交わされる。その中で、それ以上の言葉を用いる前に心が会話を交わす。さとりが少しだけ、眉をひそめた。
「……怖い、のですね」
パルスィは、そっと頷いた。隠したってしょうがない。
ふぅ、とさとりは息をつき、やや冷めた自分の湯呑みを手に取る。一口で半分以上空け、それを置きながら続けた。
「しかしながら、他者の心情を筒抜けに教えてしまうということは出来ません。あなたの気持ちは分かりますが……。
いっそのこと、本人に尋ねてみるのも手かも知れませんね。彼女の性格なら、きっと答えてくれると思いますよ」
「それが出来たら苦労しないわよ」
―― 情けないけれど、それが正直な気持ち。
地霊殿を後にしての道すがら、パルスィの脳裏にはさとりの一言がこびりついて離れない。
『……怖い、のですね』
そうだ。
(怖い……ヤマメの本当の気持ちを知るのが、たまらなく怖いんだ……)
もし。もし、あの笑顔に何か裏があるんだとしたら。それを知ってしまったら。
何よりもあの笑顔が好きな自分が、それに裏切られたら。
いくらぶっきらぼうな言葉と顔で虚勢を張っても、心に滲み出る恐怖を隠すことは出来ない。さとりの前で、それが露呈した。
(そんなはず、ないよね……?)
さとりは、『せめて相談くらいなら乗れますから、いつでも来て下さい』と言ってくれた。
明日辺り、また行ってしまいそうだ。苦手な相手なのに、縋りたい気持ちでいっぱいだ。
ヤマメが今のパルスィの心境を知ったとしたら、何を思うのだろう。
・
・
・
・
吐くため息が、焦げ茶色の景色に揺らいで消える。
ルーティンワークと化した、橋の傍での座り込み。
パルスィの顔色は、優れない。
(結局、どうすればいいのかしら……)
さとりは、額面通りに受け取れば良いと言った。だが、そこまで彼女は素直になれない。なれたらそもそも悩まない。
一番の親友をも疑ってしまう、自分の捻くれ加減が嫌になる。
今まで彼女がどれだけ笑おうと、癒されこそすれ避けたくなることなんてなかった。
何故、今になって――
(私は、ヤマメがキライなの?)
勇儀にからかい半分で言われた時は、自分でも驚くくらい過剰に反応し、否定した。
だが彼女の笑った顔を見ると胸が痛くなる。笑顔を避けたくなるという事実。
ぶんぶん、と首を振った。
(そんなワケない。だってヤマメは、私の――)
続きが、出てこない。私の、何なんだろう。友達、の一言では表せない、何かが。
と――
「やほー、パルスィ。身体の方はもういいの?」
「ふひゃぁっ!?」
真横から不意打ちに声を掛けられ、飛び上がらんばかりに驚いた。
首を横に向けると、頭の中で描いていたのと、全く遜色のない笑顔が目の前にある。
「や、ヤマメ……」
「ごめんね、お見舞い行けなくて。地上に用があったの思い出しちゃって……。
でも、今日もいつも通りにここにいたから安心したよ。何かあったらどうしようって」
一瞬申し訳なさそうな顔をしつつも、彼女はすぐ明るい顔に戻ってパルスィの隣に座り込む。
直視が出来なくて、ふいっと視線を逸らした。直前まで彼女を疑るような考えが頭の中で渦巻いていたのだ。
なのにそう簡単に顔向け出来る程、パルスィは図太くない。そうだったらそもそも悩まない。
「べ、別に大丈夫だから……あなたに心配されるまでもないわよ」
「ホント? よかったぁ」
敢えて突き放すような声色で言ってみるも、ヤマメはまるでその意図を汲み取ってはくれない。
一層の嬉しそうな声で笑うのだ。パルスィの首の角度が更に深くなる。
「ちょっとだけあったかくなってきたけど、まだまだ冷えるもんね。風邪とか気を付けなきゃ。
地底は特にあったかい所と寒い所の差がはげし……」
「……」
「ねぇパルスィ、首、どうかしたの?」
「へ?」
喋り続けていたヤマメが不意に尋ねてきたので、思わずパルスィは背けていた顔を彼女の方へと向けていた。
「だって、なんかさっきからずっとあっちの方向いてるし……寝違えたとか?」
「ち、違うわよ」
「大丈夫?」
「大丈夫だって。心配性ね」
普通に考えれば、ヤマメの感覚が常識的だ。そんなに明るく接されるのが辛いのか、パルスィの首の角度はずっと続けていれば確実に首を痛めるレベル。
理由がないのならそんな角度を保つなんて有り得ない。それを心配したヤマメの言葉にも、彼女はつっけんどんだ。
「それなら、いいんだけど……」
「……」
安堵の息をつくヤマメに、パルスィの首の角度は再び戻っていた。
自分でも、よく分からない。嫌われるのが怖いのに、いざ前にすると素直に話せない。
拭い切れない不安と嫉妬が、彼女を天邪鬼へと変えていた。元々かも知れないが。
(ヤマメは今、どんな顔をしてるの?)
気になるが、顔は動かせない。最早、彼女の反応を確かめる為のテストと化していた。
親友を試すような行為だが、不思議と胸は痛まない。
と、横に座っていたヤマメが少し、身体を浮かせた。そのままもう少しパルスィに身体を寄せる。
「ちょ、ちょっと」
密着しそうな距離。冷たい振りをしていても、やはり顔が熱くなる。これでは台無しだ。
幸い、彼女はパルスィの顔を見てはいない。
「んしょ」
「……?」
パルスィが背けた顔の方向に首を伸ばし、顔を少しずつ動かして何かを見ようとしている。
思わず尋ねた。
「ヤマメ、何してるのよ」
「んー? だってパルスィがずっとあっち見てるからさ。何か面白いものでも見えるのかなって」
彼女はそう言うとパルスィの顔を覗き込み、また笑った。一片の曇りもないその笑顔は、パルスィの心中など知る由もない。
目と目が合った瞬間、ぎゅっ、と心臓を握り締められるような感触に襲われ、少し眉をひそめた。
(……少しくらい、疑問に感じなさいよ……)
苛立ちにも近い感情が湧いてきて、思わず唇を噛む。
これっぽっちもパルスィを疑うことなく、その行動全てに正の意味があると思い込んでいる。
「ダメだぁ、なんにも見えないや。パルスィ、ひょっとして霊感あったりする?」
「幽霊亡霊が跋扈する幻想郷で何言ってるのよ」
「あー、それもそうだね」
ぷるぷる、と首を振るヤマメ。彼女の質問に目も合わせず答えると、感心したような声が返ってきた。
最早、自分で自分の考えが分からない。好きなのに突き放すような態度で接し、寂しいくせに目をそらす。
悶々と悩んだまま固まるパルスィを前に、ヤマメは次の話題を探している。余程、彼女と話すのが好きなのだろう。
「んーと……そうだなぁ」
「……ヤマメ、ちょっと黙っててくれる?」
不意にそんな言葉が口を突いたので、自分でも驚いた。パルスィの口が言葉を発するのは、半分くらいはヤマメと話す時。
それが嫌な筈なんてないのに、訳もなく彼女の声を聞くのが辛くなった。
当然、話好きなヤマメは傷付く―― そう思った。
「え? あ、ごめんね」
しかし、彼女はムッとした顔一つせず、それどころか微笑むと同時に頷き、口をつぐんだ。
これにはもっと驚いたパルスィ、思わずまじまじと彼女の顔を見てしまう。
「?」
言われた通りに口は開かず、ヤマメはちょいと小首を傾げた。
ますます、分からない。分からないことは、そのまま苛立ちへと姿を変える。
「……ちょっと」
「?」
「もう喋っていいわよ。じゃなくて、なんで怒らないの?」
「怒る、って……なんで?」
「なんでって」
思わず、がばっと顔を上げながらパルスィは問い詰める。
「何の理由もないのに、いきなり黙れって言われたのよ? 普通怒らないの?」
自然と強い語調になる彼女の言葉にも、ヤマメは怯えた顔一つしない。
「え? だって、パルスィがしゃべらないでって言ったんだし、何か理由があるんでしょ?
だったらその通りにするよ。もう大丈夫なの?」
その瞳には、一片の曇りもなかった。この世の希望を掻き集めたような眼差し――パルスィの目を、胸を深々と突き刺すその光。とうとう、パルスィの中にある何かが、音を立てて断ち切られた。
「あ、ちょっとパルスィ!?」
彼女は不意に立ち上がると、ヤマメの声にも反応せず背を向けて走り出した。地面を蹴り、出せる限りのスピードで低空を駆ける。
肺の底から湧き出す二酸化炭素を大振りな呼吸で吐き出しながら、苦しそうな顔を隠そうともしないパルスィはやがてその場所へ辿り着いた。
地霊殿。先日のように誰かが出てくるのも待たずに入り口から飛び込む。再び自らの足で走りながら、探した。先日と同じ襖を。
しかしそれを見つけるより早く、声が掛かった。
「どうしたのですか?」
「!」
廊下の奥。やや暗い照明のせいでその小さな身体を半分薄闇に溶かしながら、ゆっくりと歩み出てくる人物。さとりだ。
ごくり、喉が鳴った。目の前にいる覚妖怪に言いたいことを先読みされる前にと、口が回り出す。
「……もう一度、お願いするわ。あの子の……ヤマメの心を、読んで欲しいの」
「出来ません」
テンプレートのような即答。しかしパルスィは食い下がった。
「分かってる。卑怯な行いだなんてコト。だけど、私はどうしても知りたい。ヤマメが何を思って私と……」
言葉が途切れた。さとりが口を挟む様子はない。頭を振り、パルスィは声のトーンをもう一段階上げた。
「……私と! 私と付き合っているのかを!」
「そんなの、あなたが好きだからじゃないんですか? そしてあなたもヤマメが好き。それでいいじゃないですか。何をそんなに怯えているんですか?」
気のせいだろうか、さとりの声色は先日のあの時より、どことなく冷たい。先日と同じことを言わせたからだろうか。
――何も分かってくれていない。彼女は、今自分自身がどれだけの爆弾を抱えているのかを知らない。心が読めるから。悩むことなんてなく、人の考えを、人付き合いの先に見える答えを知ることが出来るから。
人の気持ちも知らないで――そう思うとますます体温が上がっていく。パルスィは一瞬だけ、タメを作った。慣れない大声を張り上げる為だ。
「――そんなの、分かりっこないじゃない! 私みたいな嫉妬狂いを、好きになれる要素なんてどこにあるの!? もし、もしよ。あの子が何か腹に一物抱えて私の傍にいるんだとしたら! もし、口と顔に嘘のフィルターを被せて、心のどこかで私を馬鹿にしてるんだとしたら!」
「どうしてそんなことが言えるんですか? 今までのあなたなら」
「確信なんてないわよ。でも、あの子が私を純粋に想ってくれてるなんて確信だってどこにもない!」
一度堰を切れば、最早止まることはない。頭が空っぽになるその瞬間まで、パルスィの口はどろどろに濁った思念を吐き出すばかり。それを見つめるさとりの瞳が、少しだけ揺れた。
「なんで。なんであの子はあそこまで私を良く思えるの? 私の行動、言動、思想。それらを何一つ否定しない。どんなにネガティブな言葉を吐いてもフォローしてくれる。あまつさえヤマメ本人を攻撃しても意に介さない。自分が折れる。自分が謝る。ただの一つでさえ私を曲げさせず、自分だけが言葉に生えた棘で傷付いていく! いや、傷付く様子すらない!」
「……」
「私はあの子の何なの? 本当に想ってくれてるの? おかしいでしょう!? あそこまで私をフォローしてくれるなんて……こんな私を! 何の得にもならない、何の楽しみも見出せない! これで私をからかってるんじゃないとしたら何なの!?」
「……あの、もう」
「私……わたし! もう、ヤマメが信じられない!! あの子の優しさが、笑顔が信じられない!! 教えてよ!! あの子は……ヤマメは、私に向けた笑顔と、優しい言葉の下に何を隠してるの!?」
しん、と静まりかえる廊下。一寸前まで響いていた、パルスィの心を切り裂く言葉の爆撃が止んだことで、無言の静寂はますます重みを持って向き合った二人に圧し掛かる。
喉を嗄らしながら叫んだパルスィは、肩で息をしている。その緑色の目は別れる直前のヤマメと対照的に、不気味な濁りを湛えていた。
乾いた唇の端から、ひゅう、ひゅう、と隙間風のような息遣い。そんな彼女はやがて軽く咳込み――ふと、気付く。
感情に任せて叫び続けた己を見る、さとりの瞳の色が変わっていた。無茶を、道理に反する思想を諫める目ではない。深い深い、溢れそうなくらいの哀しみが宿っていた。
「……世界で一番、かなしいこと。それは大好きなヒトを、信じてあげられないこと……」
何かの詩の一節のように、さとり。声色からは、マーブル模様になるくらい複雑にかき混ぜられた感情を読み取ることは出来ない。
「押し潰されてしまいそうな不安の中で、それでも信じてあげられるかどうか。何も語らずとも、手を握ってあげられるかどうか。どうしても、どうしても辛いその時に、隣にいてくれるかどうか……」
パルスィは訝しむ。水面に刻む波紋のように、哀しみの感情が揺れるさとりの瞳。その目が、自分を見ていない気がしたのだ。
自分ではない。自分の、もう少し後ろの辺り――
「――それが、絆です。『あなた』にしてみれば、これほどかなしいコトは、ありません……ね?」
「!!」
振り返った。網膜に焼き付く程、見慣れた姿がそこにあった。
「……や……ヤマ、メ……」
「……」
膨らんだスカートの中程を、ぶるぶる震える手でかたくかたく握り締め、何かを必死に堪える黒谷ヤマメの姿。
純粋な。そう、きっと純粋な気持ちで。ただ、いきなり逃げるようにいなくなったパルスィを、心配して追いかけてきた。それだけだったのだろう。
その耳に飛び込んだ、聞き慣れた声での、知りたくなかった心の叫び。ヤマメが想い続けた、励まし続けた、笑い続けた人物の、不信。拒絶。
「あっ、あの……これは……これ、は」
もう、無理だった。あれだけの腐った言葉の濁流に飲み込まれたヤマメ。綺麗さっぱり洗い流すには、どれだけの水がいるだろう?
パルスィの言葉のダムはとっくに空っぽだ。
「ちが、う……ちがうの。これは」
「……いいよ」
ヤマメのか細い呟きは、あのパルスィの叫びよりもずっと、大きく響いて聞こえた。
「だいじょぶ。パルスィ、強くなったんだね」
「え……?」
「ごめんね、私ちょっと用事思い出しちゃった。えへへ」
パルスィは、心に悲しみを注がれる心地をこの上なく実感していた。
――こんなに空虚な笑顔は、見たことがない。
こんなの、自分が大好きだった筈の、ヤマメの笑顔じゃない。
「……ばいばい!」
――溢れ出した感情を目からこぼしながら、ヤマメは踵を返す。ばたばた、大きな足音が遠ざかっていく。
――ばいばい?
ヤマメ、いつも別れる時は確か――
――またね、って言ってくれたよね?
「……やっ、ヤマメ!! まっ……!?」
小さな背中が見えなくなった後、パルスィはそれを追おうとして――果たせなかった。突然、目の前にもっと小さな人影が現れたからだ。
「ありがとう、こいし」
とおせんぼ。口動かずとも、両腕を広げる古明地こいしはそう言っていた。
振り返る。背後からゆっくりと歩み寄ってくるさとりの目は、未だあの哀しげに揺れる光が宿っている。
「……遅かった、ようですね。こうなってしまう前に、気付いて頂きたかったのですが」
「な、なに、を」
彼女の言う意味が分からず、尋ね返すパルスィの声はすっかり錆び付いた時計塔のようにぎこちない。その言葉に直接返すことはせず、さとりはそっと目配せするような視線を飛ばした。
「ちょ、ちょっと!?」
驚きの声。さとりの方を振り向いたパルスィを、こいしが羽交い締めにしていた。明らかに小さな体格なのに、背伸びしながら組み付かれた腕は凄まじく強固で、とても振り解けそうな気配がない。
「ごめんなさい、私の指示です。途中で逃げ出さないという確証はありませんでしたので」
「……?」
「最初に、出血大サービスです。あなたの望み通り、先程ここから走り去りながら……ヤマメが何を考えていたのかを教えて差し上げます」
すぐ間近で、さとりの足は止まった。三つの瞳が、そこから放たれる眼光が、パルスィの不安定な瞳を撃ち貫く。竦み上がって、返事が出来ない。
ゆっくりと開いていく薄桃色の唇が、今の彼女には魔獣の顎にすら思えた。心が喰い千切られそうなイメージが、脳裏を駆け抜ける。
「『そっか。パルスィはもう、忘れちゃったんだね。強くなったんだなぁ』」
「!!」
それは一瞬。パルスィの脳の、心の奥底。埃を被っていた記憶が、スパークする感触。
びくっ、と彼女の身体が跳ね上がりかけたのを、こいしが押さえ込む。
(え……えぇっ!?)
古傷を抉られるような。はたまた、昔の過ちを咎められるような。その正体が掴めないままにも、不快な驚きとでも言うべき、奇妙な感情が湧き上がってくる。
「それが何を意味するのか、私よりあなたの方がご存じでしょう。でも、もし忘れていたのならいけませんから……お手伝い、してあげます」
気付けば、さとりは息のかかりそうな距離まで近付いてきていて――息を呑むことすらままならない。蛇に睨まれた蛙のように、鋭い視線が絡み付き、全身を縛る。
彼女の言葉を聞いたこいしが、パルスィを押さえ込む細い腕に、一層の強い力を込めた。
何故か急に、逃げ出したくなった。もがくように身を捩らせるが、こいしの小さな身体はびくともしない。
せめてと、目を閉じようとした。叶わなかった。さとりの強い視線が、瞼をこじ開けてくる。パルスィの目に取り付き、脳の奥まで、体内へ侵入してくる。胸の真ん中まで到達して――再びスパーク。
景色が暗転した。
「!?」
背中に触れていた、こいしの薄い胸から伝わる温もりが途絶えた。真っ暗な空間に、さとりと二人きり。
否。唯一見えていたさとりの姿すら、ゆっくりと暗闇に揺らいで消えていく。ただ一人、パルスィだけが取り残された。
自らの心臓の鼓動だけがやたらと響く静寂。声を出すことも出来ず、何かを待つだけの身。
不意に、どこからか声が聞こえた。真っ暗なばかりだった景色にも、変化が生まれていた。
(……これは……)
灰色の岩。でこぼこの土壁。砂利混じりの地面。見覚えのある景色だ。
少しだけ視線を動かす。もっと見覚えのあるものが、朧気な薄闇の向こうにあった。
橋だ。己がいつも座り込んでいる、あの大きな橋。分かり難いが、欄干の塗装なんかは今よりもずっとしっかり残っていて、比較すれば真新しい。
その上に、二つの人影。多少背の差はあれど、どちらも小さい。
やがて気付いた。先程からずっと聞こえていた声は、この二人のものだ。
不意に、片方の人影から腕が伸びる。
『だいじょうぶ?』
『う、うるさい! やめてよ!』
心配するような、それでいて驚くほど明るい声色。拒絶するような声が飛んできても、それに対する返事が濁ることはない。
『まあまあ、食べたりなんてしないからさぁ。そんなに突っぱねなくても』
『な……』
話し掛けた方の腕が、上下に揺れた。ひらひらと手を振っているのだろうか。彼女の仕草が、場の空気を和らげているのは明白だった。
『……なによ、そんなコト言って……どうせ、私なんか……』
『ダメだよ、そんな風に言っちゃ。あなた……えっとごめん、まだ名前分かんなくてごめんだけど。笑えばきっと、すごく素敵だと思うんだけどなぁ』
多少の呆れを含んだ驚きの表情から、暗い顔に戻ろうとする彼女を――自分自身を、もう片方の臆面もない言葉が繋ぎ止める。
自分の表情がころころと変わっていく様を眺めるのは、不思議な心地だった。
『笑う、なんて……無理に決まってるわ。だって、こんな薄暗い所でずっと、ずっと、他人を羨み、妬むだけ……地上にも地下にも、私のような嫉妬狂いの居場所なんてない。私のそばで笑ってくれる人なんていないの。だから……』
彼女は言葉を切ると、強く首を横に振りながら掠れた声で叫ぶ。
『……だからもう、ほっといてよ! どうせあなただって、私のことなんか!』
『ううん』
相手も、同じアクションを返してきた。首をゆっくりと横に振り、真正面からその視線を受け止める。瞳の奥に、ぼんやりと温かな光が見える。
『私、わかるよ。あなたは橋姫。あなたが私を突っぱねてるのは、私をその……嫉妬心? みたいなのに、巻き込みたくないからなんでしょ? 優しいんだね』
『なっ……そ、そんなんじゃ』
『わかるよ』
彼女は敢えてもう一度呟いて強調し、ゆっくりと歩み寄る。こつ、こつ、橋が軽やかに歌う。
『私、明るいのだけが取り柄だからさ。もしあなたが、私が笑ってられるのが羨ましい、妬ましいって思うなら……すごく、うれしいなって。だけどそれじゃズルいから。あなたにも笑ってほしいの』
『……ムリだって……私、もう、笑い方がわかんない』
『じゃあさ』
すぐ目の前まで来た彼女が、足を止めた。瞬間、薄暗い地底の景色に、フラッシュが焚かれたかのような錯覚。
笑っていた。とびきりの笑顔で。
『私でよかったら、そばにいてもいい? 笑い方、思い出せるように』
すっかり癒着した心の外壁に、その笑顔が隙間を作る。距離感などないかのように、踏み込んで、素手で掴んで、指をねじ込んで――引き開ける。
『……』
『ごめん、イヤだったらやめるよ。私だって、ビョーキ屋さんだし。近付きたくないってヒトも多いだろうし』
彼女のその言葉は、聞こえていなくても同じだった。胸のどこかで、錆びついた音が聞こえた気がした。
『……妬ましいわ』
『へ?』
『初対面の橋姫に、そうまで言えるあなたの優しさが』
『人を見る目は確か、ってよく褒められるんだ。えへへ』
『ホントに……まったく……』
急に恥ずかしくなって、袖で目元を覆い隠した。滲んだ視界が回復することはなくて、顎から滴った涙がもう片方の手の甲に落っこちる。
笑って、と言われた傍から泣いてしまうのは、天邪鬼なワケじゃない。
『誰もそばで笑ってくれないなんて、そんなコトないからね。ほら、私。すっごい笑ってるよ。ほら、ほら』
『あなたはもともとじゃない』
『ほーらほーら』
『ちょっと、もう……ふ、ふふっ』
にこにこ笑顔のまま、ずいずい寄ってくるのが何だかおかしくて――パルスィはとうとう、涙を流したまま笑うのを堪えられなかった。
『それそれ! 私の言った通りでしょ?』
えっへん、と彼女は胸を張る。自分より小さい身体なのに、まるで先輩のように威張る姿がとても頼もしく思えて、パルスィの胸中を急速に安堵感が満たしていった。
さっきの自分のネガティブな言葉の数々が、彼女の前であれば全部、悪魔の囁いた嘘に思えてしまう。なんだ、まだまだ笑えるじゃないか。まだまだ誰かを、笑わせられるじゃないか。
塵芥程の自信が、彼女の――ヤマメの笑顔から放たれる光を纏って、心の中でどんどん大きくなっていくのがハッキリ分かった。
嬉しいのに涙が止まらない。不意に、肩を抱き寄せられた。
『あっ』
温かい。昨日までは、こんな温もりを得ることなんて二度とないと思っていた。
『大丈夫だよ。私がずっと、そばにいるから』
励ましの言葉だろうか? そうでもあるだろう。
だが彼女はきっと、事実を言っているのだ。
――夢を見ているような空間を、黒い霧が満たし始めたのはその時だ。
ざりざり、耳を打つノイズ。瞬間、まるで水の底から引きずり上げられるかのように、意識が急浮上した。
視界が朧気になり、ヤマメの笑顔が、自分の泣き顔が、遠ざかっていく。
『パルスィ、パルスィ……よーし、覚えたよ!』
『ね、ね。これ、地上で見つけたんだけどさ、何に使うんだろ?』
『パルスィ、紹介するね! 釣瓶落としのキスメ! よろしくー!』
『えへへ。パルスィの方がずっとすごいよー』
『ねぇ、パルスィ……』
『パルスィ……』
流れていく光と闇。小さくなっていく過去の景色。その奥からヤマメの声がいくつも響いては、消えていく。
ごぼっ、と音を立てたのを最後に、世界がひっくり返った。
「……!」
はた、と気付けば、そこは地霊殿の廊下。背中が寒い。こいしはもういなかった。さとりの姿も。
いつしか深く膝を着き、とめどなく涙を流している自分だけがいた。
「あ、あ……」
虚ろな声を流すがまま、そっと両の掌を見やる。握って、開いて。
その指の隙間から、大事な、とても大事なものが――違う。
両腕に抱えるほど大きかったそれを、奈落の底へ蹴落としたのは自分自身だ。
もうきっと、戻っては――
「……いやだ……」
――その呟きは、あまりに遅い。
・
・
・
・
・
「……聞いたよ、パルスィ。お前さん、やっちまったってな」
「……」
「まあ、その、なんだ」
がりがりと頭を掻きながら、勇儀は言葉に窮した。長い付き合いのパルスィを前に、こんなに口ごもるのは初めてな気がする。
パルスィの目は、きっと何も見てはいない。勇儀の姿が見えているかさえ怪しい。
「責めるつもりはないが……私の言ったコトは事実だったっつーか……あー、その」
頼り甲斐のある性格だからか彼女は誰かの相談に乗ってやることが多い。それ故、人を安心させる物言いには慣れたものだが――今回のカウンセリングはとびきりの難易度だ。
何せ、何を言っても目の前で膝を抱える橋姫は傷付くだろうから。
「昔、ヤマメとお前さんの間に何があったのかまでは分からんけど、余程大事なコトがあったんだろうな。そこにヤマメが笑い続ける所以があったってのも。昔のコトだから無理ないとは言え、忘れちまったってのは流石にマズかったのかな」
「……」
「しかも忘れたばかりか、逆にそこへ不信を抱いちまった、か……きっつい物言いかも知れんけど、いくらなんでもそりゃ酷い。それを認識した上で、どうにかヤマメと」
「……う、ううぅ……」
ぼろぼろ、ぼろぼろ。パルスィは大粒の涙をこぼし始める。どうにか収まった筈なのに。
歯を食い縛ったままで涙を流すその形相は、あの勇儀ですら狼狽するほどのものだった。
「っつー……スマン。泣かせるつもりは」
「うぅ、あ……っぐ、ひっく」
「だからだな、えっと……悪かったよ。何か考えて、また来る」
とうとうギブアップし、勇儀は彼女の肩をポンと叩いて踵を返した。何か考えてくる、その言葉に嘘はないだろう。
しかし、今のパルスィにその言葉が届いたかは怪しい。橋の上で一人。食い縛った歯が折れ砕ける程の力を顎に込め、押し殺した嗚咽を口の端から漏らし続けるその姿は、不気味なくらいにこの風景に溶け込んでいる。本来、地底とはそういう場所なのだ。
(どうして)
どうして、どうして忘れていたのだろう。ヤマメの笑顔のワケ。
天性の明るさか。それだけじゃない。
余程楽しいことがあったのか。それだけじゃない。
笑うことが下手なパルスィを馬鹿にした、嘲笑だったのか。とんでもない。
(ぜんぶ、ぜんぶ私のためだった)
生きた年月だけ降り積もる嫉妬心と、自嘲めいた人付き合いへの諦観と。
それらに押し潰されそうになっていたパルスィを、助けてくれた。
妬み、嫉み。パルスィをパルスィたらしめる、邪魔すぎる感情。
棘のように人を追い払うそれを蹴散らしながら、彼女の心の門に手をかけた最初の存在。
誰かと一緒に笑い合うなんて。妬んでも、僻んでも、離れない存在が出来るなんて。
夢物語だと思ってた。だけど夢じゃなくなった。筈だった。
(私がまた、自分の殻に閉じこもらないように……)
橋姫である限り、誰かを妬んでしまうその習性からは逃れられない。
自分が自分である限り、笑うなんて、笑わせるなんて、出来ない。
背中に圧し掛かる、生まれながらのどす黒い重荷。ヤマメがそれを、少しずつ解いてくれた。
落ち込むことなんてない。寂しい心をひた隠して、独りぼっちの孤独に溺れる必要なんてない。
『誰もそばで笑ってくれないなんて、そんなコトないからね』
ああ、ああ。何て単純だったんだろう。ヤマメは有言実行していたに過ぎないのだ。
パルスィがもう二度と、自己否定と孤独に圧殺されてしまうことがないように。
厄介者としてこの地底に追われても、決して存在を否定されたわけじゃないと。
(私でも……私なんかでも、誰かが横で笑ってくれるって……)
――証明していてくれた。ただ、それだけだった。
「……っぐぅ、うぅ……ふぅ、ふーっ」
ぎりぎり音を立てる歯の隙間から、冷たい息が漏れる。涙が止まらない。
水分が抜けすぎたせいか、頭がくらくら揺れる。
(……なのに! なのに私は……ヤマメを……!)
今の自分があるのは、ヤマメの笑顔あってこそ。それを『信じられない』と切って捨てた。
橋姫・水橋パルスィを救ってくれた親友の存在を、突き離し、蹴っ飛ばし、背を向けて――
(ばかに、してる? なにか、たくらんでる?)
自分の言った言葉が、信じられない。本当にそんなことを言ったのか。
あのヤマメに、そんな感情を抱いたというのか。
会えば必ず笑顔を向けてくれる。どんな愚痴をこぼしても励ましてくれる。
嫉妬心に塗り固められた心の奥底で燻る、彼女の優しさを見つけてくれる。
『ずっとそばにいる』と言ってくれた、あのヤマメに。大好きなヤマメに。
「ふっ、くぅ……う、あぁ……あっ……」
わなわな震える手を、握り締める。
嘘じゃない。いくら否定したくても、吹雪のように冷たい事実。
今自分の横に、ヤマメはいない。
『そっか。パルスィはもう、忘れちゃったんだね。強くなったんだなぁ』
さとりに聞いたヤマメの心の声が、何度もリフレインする。
強くなった。それはつまり、ヤマメがいなくても平気だということか。
己を救ってくれた存在に頼らずとも、自らそれを突き離して生きていけるということか。
――冗談じゃない! 誰が強くなんかあるものか!
何より大切なものすら見失い、一番の親友すら信じられなかった、ただの弱虫だ!
「あ、ああ……うぁ、あああああっ!」
橋を、殴りつけた。握った右の手で。鈍い痛みと、木の音が跳ね返る。
構わず、叩いた。叩いた。叩いた。何度も何度も。泣き叫びながら叩いた。
手が砕けるか、橋が砕けるか。決着が着く前に、パルスィは意識を失った。
・
・
・
・
どれくらい経っただろう。そんなに長くはない。
碌に何も食べちゃいないが、妖怪だからまだ死にはしない。
橋の上にいるのも嫌になって、橋の下で膝を抱える。
もう、誰かの目に触れることが申し訳なくなった。今この瞬間も、ヤマメはきっと。
勝手に死ねばいいのか。勇儀やキスメは悲しむだろうか。それとも嘲笑うだろうか。
ヤマメの好意に唾棄した自分を。
「……っく」
少し身じろぎすると、身体のあちこちが軋んだ。
ずっとヤマメのことを考えていたお陰で、それなりに思い出してきた。
友達も出来た、少しは明るくなれた。そうなった今の自分にとって、あの頃の自分は消し去りたい過去だ。
だから忘れたのだ。大事な記憶と一緒に、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。
もう後悔するのは飽きてきた。悔やんでも時間は戻らない。
と――
「……!?」
くいくい、いきなり袖を引っ張る弱々しい力。錆びついた身体がびくりと跳ね上がった。
「が……げほっ!」
名前を呼ぼうとして、喉がつっかえた。泣き叫ぶ声と嗚咽以外では、ずっと声なんて発していなかったのだから。
妖怪釣瓶落とし・キスメ。ほんの一寸前にちらりと名前を浮かべた、共通の親友。
「……」
彼女は無言のまま、パルスィを心配そうに見ている。じめじめした橋の下、泣き腫らした目で膝を抱えているのだから心配されるのは当然でもある。
「……なによ」
思わず、冷たい声。あの頃に戻りたかった。嫉妬の心でハリネズミとなったあの頃に。
中途半端な優しさは、今の彼女から後悔の涙を絞り出すだけなのに。
「……ヤマメがね、いないの」
ぽつり。パルスィの全身が、再び震えた。
どうやら彼女は、まだ何も事情を知らないようだ。
(本当のことを言ったら、この子も)
キスメは極度の人見知りだ。ただでさえ口数は少なく、知らない人物の前ではそれこそ一言だって喋らない。
その鈴の音のような声を聞くことが出来るのは、本当に心を許した相手だけ。パルスィはとても数少ない、その資格を有した存在。
ヤマメも同様だ。そして、彼女がいなくなった原因が自分にあると知った時――キスメはそれでも、自分に話しかけてくれるだろうか。
「パルスィ、どこ行ったかしらない?」
付け加えるようにもう一言。小さな声なのに、耳を突き刺す。
「……ヤマメは……」
我知らず、呼吸が荒くなる。誤魔化すか。それとも、真実を話すか。自分の事情で、感情で、誰かを振り回すのは沢山だ。
でも、キスメまでいなくなったらそれこそ自分には勇儀しかいなくなる。あの後、地霊殿でもずっと泣いていた。心配してくれた誰か――きっと燐か、はたまた霊烏路空だ――を無視して、ずっと泣いていた。恥ずかしくて、情けなくて、もう戻れない。独りぼっち二歩手前の自分は、客観的に見て余りにも惨め。
心の中で反芻するその事実が、恐怖へ姿を変えるのに時間はいらなかった。脛の辺りで握った両手が、ぶるぶる震える。
何も答えないパルスィのその姿は、更なる不安を喚起することだろう。ただならぬ気配に、キスメの手が伸びた。
「だいじょうぶ?」
そっと、肩をさすられる。久しぶりの、誰かの温もりが伝わってくる。
既視感。鈍った頭では、その正体がすぐには掴めない。
(だいじょうぶ……だいじょうぶ……ああ)
思い出した。ヤマメに初めてかけられた言葉だ。全てのきっかけ。
そんな時、ふと――ある想像が、脳裏をよぎる。
(こんな時……ヤマメなら、何て言うの?)
逆の立場なら。いなくなったパルスィの行方を尋ねられたヤマメなら。彼女を追った自分が何を言っているんだなんて、そんなネガティブな現実は今はいらない。あの優しい土蜘蛛妖怪なら、どんな言葉を返すのか。
「……」
黙考。せめてと、キスメの目をじっと見る。
「……?」
彼女もじっと見てくる。どこか恥ずかしそうだ。
(……そっか)
分かった。そして、今自分が言うべきことも。
口を、こじ開ける。全力で。歯噛みしすぎてすっかり疲れた顎を、今もう一度の酷使。
外れたって構わない。今ここで何か言えなければ、自分は永遠に弱虫のまま。ヤマメの注いでくれた全てが、無駄になる。
「……ヤマメはね……」
「……!」
ようやく声が出た。パルスィがやっと反応してくれたことで、キスメも少し驚いた様子だ。
はぁ、はぁ、と大振りな呼吸。泣き腫らした目元を袖で拭い、もう一度息を大きく吐いて、吸って。
パルスィは、久々にその表情を使った。
「――ヤマメはね、世界を救う旅に出ちゃったのよ!」
「……へっ?」
とても珍しい、キスメの呆気にとられた声。
とても珍しい、パルスィの明るい声。彼女は笑っていた。
「一週間前、地上から届いた手紙を見て、ヤマメは勇者として旅立って行ったわ。何でも、蜘蛛嫌いの魔王がいるとかなんとかで。襲い来る魔物を次々と糸でぐるぐる、綿飴に変えて退治してるってさ。もうすぐラストダンジョンらしいから、あと四日くらいでエンディングじゃない? 裏ボスがいたらもう少しかかるでしょうけど」
――まるでRPGのような話ではないか。無論、冗談だ。
「……ぶっ!」
そして謎のシチュエーションが妙におかしくて、キスメは思わず噴き出していた。
驚いただろう。あのパルスィが冗談なんて。アイロニーや自虐じゃない、ある種純粋なとでも言うべき、荒唐無稽のウソっぱち。それがまた、おかしさを助長する。
(……笑った!)
そしてパルスィの方も驚いただろう。咄嗟に思い付いた、謎の冒険譚。勝手に勇者にされたヤマメには申し訳ないが、自分の言葉でキスメは確かに笑ったのだ。とてもおかしそうに。
「問題は、回復アイテムが綿飴やそうめんしかないって所かしら。ヤマメのメイン装備が糸だから、おかしな気分になるって」
「なに、それ……く、くく」
調子に乗って、もう一発。もっと笑った。ヤマメのようなセンスはないけれど、あれだけ張り詰めたシリアスな空気をぶち壊すには十分だった。
「……まあ、それは冗談だけど」
パルスィは、そっとキスメの頭を撫でる。彼女はまだ抑え切れず、くすくすと笑っている。
「私と違ってヤマメはしっかりしてるし、大丈夫よ。地上の友達の所にでも遊びに行ってるんじゃない? なかなか帰ってこなかったら、迎えに行きましょうか」
「……うん。ありがとう」
頷くキスメの表情は、先よりずっと和らいでいた。
「……はーっ」
彼女が帰った後、パルスィは気が抜けたようにへたり込む。ぐったり寝そべって、橋の裏側を見つめた。
(皮肉でも自嘲でもない冗談って、難しい……)
言葉で笑わせるのはヤマメの十八番。彼女が自分の為に、どれだけ心を砕いていたのか。それがよく分かって――じわり、またしても涙。
「……だめ」
首を振って、浮かんだ涙を払った。ここでまた泣いたりしたら。
パルスィは勢い良く立ち上がった。勢い良すぎて、ごちん。橋に頭をぶつけた。
「いっ! つぅぅ……」
目の中に散る火花。鈍痛に再び座り込む。だが今――もしまだ横にキスメがいたのなら、それを笑いに転化させる自信が、確かにあった。
ヤマメなら絶対そうするだろうことも。
(勇儀だったら、角が刺さるわね。橋の修繕費を取り立てないと)
自然とそんな冗談が浮かんだ。
・
・
・
道行く妖怪達が、思わず驚いて飛び退く。
風のように旧都の大通りを駆けていく人影。
息を切らせながらも、無理矢理涼しい顔を作る。
久々の激しい運動は思いの外負担が大きくて、太股が爆発しそうな錯覚すら覚えた。
それでもパルスィは、走る速度を緩めなかった。
(無責任だって、怒るかしら)
走りながら考えた。そして、頭を振った。考えまい。
自分で決めたことなのだ。きっと分かってくれる。そうならなければ、自分はそれまでの存在だったということだ。
走って、走って、やがて見える見慣れた家。呼吸を整えることもしないまま引き戸の取っ手を掴んで、躊躇なく開けた。
「おわっ、パルスィ!?」
家主――勇儀は珍しく、素っ頓狂な声を上げた。それはそうだろう。
今の今まで彼女は、目の前にいる相手――パルスィを励ますための、立ち直らせるための言葉をずっと探して、ずっと悩んでいたのだ。酒すら呑まず。
それが数日ぶりにいきなり家に飛び込んで来たかと思えば、こんなことを言ったのだから。
「……付き合ってくれる?」
彼女の手には、酒瓶が握られていた。
「パルスィ」
勇儀が考える顔をしたのは、パルスィにも気付かないくらいの一瞬。彼女はその瞳をしっかり見据えて、にやりと笑った。
「……言ったな?」
「言ったわよ?」
「ヤケ酒の類じゃなさそうだな。とりあえずこっち来い。そこは寒いぞ」
傍らに置いてあった杯を手に取る。呑まずとも、常に酒は注がれている――
「あー、大丈夫か」
「ぐう」
二時間後。パルスィの世界がぐるぐる回る。ほんの少しだけ、挑発的な誘い方をしたことを後悔した。
「ま、こないだよりずっと呑めるようになってるじゃないか。だがまあ、酒に弱いのに無理するな」
散々呑ませておいて何を、と言おうとしたが無理だった。空っぽのグラスをそっと卓袱台に置いて、勇儀の顔を見る。呑み始める前と、全く様子が変わっていない。
対するパルスィはすっかり真っ赤な顔。頬を両手で挟み込むと、燃えるように熱い。
「……ありがと」
「うん? 私が何かしたか」
その目を見て礼を述べると、勇儀は肩を竦めた。素知らぬ振りをしているが、パルスィには分かる。
小さな宴会の最中――彼女はただの一度も、説教臭い言葉を発することはなかった。パルスィが何故ここに来たのか、分かっているのだ。
全てを忘れたいとか、そういうのではなくて。パルスィ自身でもまだ、分かり切っていない節はある。ただ、背中を押して欲しかった、そんな気がする。
勇儀がいてくれて、本当に良かった。その気持ちを隠したくはなかった。
「……ありがと、勇儀」
「なんだなんだ。褒めたって酒しか出ないぞ」
「や、やめとく」
グラスに向けられた酒瓶を押し止め、パルスィは立ち上がった。少し足下がふらつくが、何とかなりそう。
「行くのか」
「うん。また来てもいい?」
「今更だな。ま、気をつけて。今のパルスィ、何もない所で転びそうだから」
「もう」
パルスィは戸口から出た。振り返って、頭を下げて、また走り出し――途中で止まり、歩き出した。躓き、転んだ。
頭を押さえながら地底深部の方向へ消えていく彼女の背中を見つめながら、勇儀は杯の中身を少し残して飲み干す。
「――ヤマメが帰ってくるのも、そう遠くないんじゃないかねぇ」
・
・
・
・
空気は冷たく、視界は薄暗い。しかし火照る顔を冷ますには丁度良い。
岩混じりの地面を踏み締めながら、パルスィは歩く。少し覚束ない足取り。
やがて、見えた。さっきまで、もう二度と行きたくないと思っていた場所。
(だけど、避けては通れない)
ごくり、喉が鳴る。地霊殿の入口はまるで、勇者を待ち受ける魔王の城、その城門にも見えてしまう。自然と脳裏をよぎる、あの与太話。
(むしろ勇者は私? 助けに行けたらどんなに……)
誰を、なんてのは愚問だ。その時であった。
「あ……」
不意に入口から現れたその姿に、互いに同じ呟きが漏れる。散歩にでも行くところだったのだろうか、軽やかな足取りで出てきた筈の霊烏路空は、パルスィの姿を認めるなり表情を凍らせる。
かと思えば、みるみるその大きな目に溜まっていく涙。瞬間、彼女の姿が消えた。
「ぱ、パルスィぃぃぃぃぃぃぃ!!」
「ぐはぁっ!」
彼女には居合道でも教えた方が良いのではないだろうか。そう思えるくらいの瞬発力で間合いを詰め、空のタックルのような抱擁、というよりホールドが決まった。押し倒されかけ、何とか踏み止まる。
「だめ、だめぇっ! 死んじゃだめだよぉ! わ、わたしにできることならなんでもするから!! 相談にものるから! ねぇったら!」
「うぐぐぐぐぐ」
どうやら空は、あの日泣きじゃくってばかりのパルスィを見て何かを勘違いしたらしい。涙声混じりの説得をしながら彼女の身体をきつくきつく抱き締める――が、むしろパルスィにしてみれば、どちらかと言うと今、このまま締め落とされてしまうのではないかという懸念がよぎるばかり。胸元に顔を押し付けられる感触は温かく柔らかで――しかし呼吸が出来ない。何がとは言わないが、妬ましい。
必死に彼女の肩を叩くと、ようやく少し力が緩まった。両腕に全力を込め、顔を引き剥がす。
「はぁ、はぁっ……べ、別に死んだりなんかしないわよ……」
「ホント!? ホントに!?」
「あなたに嘘なんかつかないわよ」
ぐすぐすと鼻を啜る空に、荒い息のまま何とかそれだけを伝える。ようやく落ち着いてきた様子ではあるが、まだどこか不安げでもある。
地霊殿の住人達は強かだ。空にしてみれば、自分以外の誰かが泣いているという場面に出くわすことが、今まで殆どなかったのかも知れない。
「それなら、よかったけど……パルスィ、だいじょうぶ? なにかイヤなことでもあったの?」
彼女も事情を知らないのか、そう尋ねられた。パルスィは思案する。数時間前までの自分なら、延々と自虐を始めて空をまた泣かせただろう。させるものか。
「特にそういうワケじゃないけど」
「でもぉ」
「大丈夫だってば……ほら、ほら」
「え、ちょっ……くっ、きゃははははは!!」
おもむろに手を伸ばしたかと思えば、空の脇腹をなぞるようにくすぐり始めるパルスィ。意外な程の不意打ちに耐えられず、空は身を捩らせて大笑い。
そのまま背後を取り、脇腹から段々とくすぐる位置を上げていく。逃げようとする空の身体をしがみつくように押さえ付け、しつこく何度も攻めた。
「ほれほれー」
「んあ、っははははは! も、やめ……あは、あははは! けほ、けほっ」
息が切れてきたようなので解放し、先とは別ベクトルの涙とヨダレで乱れた空の顔をしっかりと見た。
「あなたはそうして笑ってこそよ。だから……ね? 私はもう大丈夫だから、心配しないで」
ヤマメの受け売りのような言葉を向けると、息を荒くしながらも彼女は頷いた。
「う、うん……そだね。びっくりしちゃった。でも、なんかあったら言ってね? パルスィをいじめるようなヤツがいたら、わたしがこう、どっかーんって吹き飛ばしてあげるから」
優しい顔のパルスィを見て安堵しつつも、空はそう付け加えた。頼られたいお年頃なのだろうが、彼女が言うと冗談にならない。
でもその言葉が嬉しくて、パルスィも頷いた。
「ありがと、お空」
「えへへぇ」
「ヨダレ、拭きなさいね」
二重の意味で顔を赤らめる空と別れ、地霊殿へ。『難易度』は段々上がっていく。旧知のキスメと勇儀。純粋で子供な空。そして次は――
「パルスィ」
ターゲットは後ろにいた。ゆっくり振り返ると、どこか迷ったような顔の燐。
かけるべき言葉を整理出来ないまま、見切り発車で声を掛けてしまった。そこまで詳細に分かるくらい、燐の表情は分かりやすかった。
「あーっと、そのぉ……ん。お茶淹れるからさ、座って話さないかい? せっかく来てくれたんだし」
「……ありがとう、そうしましょうか」
誘われるまま、廊下からあの時と同じ和室へ。炬燵に入って暫し待ち、お盆を手にした燐がやって来て、湯飲みを二つ置き、向かいに座るまで待った。
とうに気付いていた。燐はどうやら、事情を知っている。察したのか、さとりに聞いたのかまでは分からないが――
「……その。なんつーか、あー」
諭すのか、励ますのか、責めるのか。流石に勇儀ほど慣れてはいないのか、燐はなかなか言葉を見つけられない様子だ。妹分である空ほど単純な――良い意味だ――相手ではない、ということもあるだろう。
アルコールと、ほんの少しの自信。それらが、パルスィの口を羽のように軽くした。反射的に声が出る。
「なに? 恋愛相談?」
「ぶっ!」
燐は飲んでいた緑茶を吹き出した。げほげほと咳込み、瞬時に沸騰した真っ赤な顔をパルスィへ向ける。
「な、な、ななな! なんでそうなるのさ!?」
「だってなんか言い辛そうだし……でも大丈夫よ」
「けほ……なにがさ?」
「あの子、あなたのコトがとにかく大好きみたいだし。あなた以外と結婚する気なんかないんじゃない?」
「ななななななっ!? で、でも、地上に遊びに行くようにもなったし、おくうにだって好きな子とか出来たかも知れないじゃないか。あたいだって頼ってもらえるのは嬉しいけどさ。だからってそんな」
「あら? 私、お空だなんて一言も言ってないわよ?」
「ぶっふーッ! げっほげっほ!!」
仕切り直すつもりで口に含んだ緑茶を再度盛大にスプラッシュし、燐は炬燵に突っ伏した。びくんびくん、痙攣する肩。
「が、ぐ、うっ……」
「ごめんなさい、大丈夫?」
耳まで真っ赤にメルトダウンさせ、突っ伏したまま動かない燐。流石に悪い気がして、パルスィは小さく謝った。
彼女はそれを聞き、ゆっくりと顔を上げる。髪の色にも負けないくらい紅潮させた頬を両手で挟んで、呼吸を整えた。
「う、にゃあ……まさか、パルスィにこうまで言われるとは思わなかった」
「つい」
「ったく。あんなに心配したあたいがバカみたいじゃないか! あんなに泣いてたクセに……あ」
ぶつぶつ呟くその言葉を、パルスィは聞き逃しはしなかった。はた、と口を押さえ、燐は申し訳なさそうに頭を下げた。ぺたん、垂れる耳。
「……その、ごめん」
「いいのよ。こちらこそ……いえ」
パルスィも頭を下げかけて、やめた。それよりも相応しい言葉があったからだ。
「ありがとう、お燐」
「うにゃ……やめとくれよ。恥ずかしいから」
「じゃあさっきの続きにする?」
「イヤだ!」
ずい、と顔を近付けるパルスィに、燐は首を振って拒否した。その頬は未だ赤い。これはもしや、燐の弱みを握ったやも分からない。内心でニヤリと笑った。
彼女の言葉で随分と空気が軽くなったこともあり、燐がようやく話すつもりだった話題を切り出す。
「はぁ。なんだかパルスィ、随分とアレだね……強かっていうのかな。こう言っちゃアレだが、あのまま自責に耐えかねて……その……」
「あなたのお世話に?」
「……その心配、もういらないね。あとは、お前さん自身がどうするかだ」
『心配してたんだぞ?』と燐。それはよくよく分からされた。
「ごめんなさい」
「いいよ。パルスィのトコロより先にここへ来るとも思えないけど……ヤマメがもし来たらさ、言っとくよ。パルスィがどうしても伝えたいことがあるって」
「うん……」
ヤマメの名前を聞くと、途端に心を覆う影。それが顔にまで浮かぶのを見逃してくれる程、燐の洞察力は鈍くなかった。
少ししか減っていない彼女の湯飲みに緑茶を注いでやり、それを差し出しながら、燐はゆっくり言葉を拾っていく。
「……正直、事情を最初に聞いた時は、ヤマメの代わりに殴ってやろうかと思ったくらいだけど……それはなんか、違うよね。お前さんのことを、表面でしか見れてない証拠だ。色々あって、色々考えすぎちゃったんだろ、うん」
「……」
「そのさ。辛かったら、おいでよ。あたいは……あたいでいいなら、パルスィの味方になってやれると思う」
「……ありがと」
剥がれかけた表情を、どうにか保った。泣くわけにはいかない。強く、笑う。
燐もまた笑った。自分とは違う、自然で頼もしい笑み。
「……無理するなよ?」
「……」
――『わかった』と言えば、燐は胸を貸してくれるだろうか?
・
・
・
結局のところ、人はいつだって独りぼっち。どこかで聞いた歌の一節だ。
(ヤマメに見て欲しい……なんて言うのは、あまりにも身勝手だけど……)
それから数日、パルスィは毎日地霊殿へと足を運んだ。その前にキスメの所にも寄った。
未だヤマメは帰って来ない。不安げな彼女を慣れない言葉で励まして、ぎこちない笑顔で肩を叩いた。
失踪の原因である人物に励まされていると後で知ったら、キスメはどんな顔をするのだろう。考えなかったわけじゃない。だが、今暗い顔をされるよりずっといい。そう思った。
「パルスィ、最近よく来てくれるね。うれしいなぁ」
炬燵の向こうで、空はそう言って笑う。パルスィも笑みを返すが、自分でもその顔には輝きが足りない気がしていた。
笑顔とは、かくも難しい。
「でもさ、ヤマメはいっしょじゃないんだ? あんなに仲良しなのに」
核心。いや、彼女は事情を知らない。知らぬが故の深い切り込みに、パルスィの顔が強張る。
表情一つで誤魔化せる程、図太くはなかった。
「……え、ええ。ちょっと、ヤマメは忙しいみたいで」
「ふぅん……なにかあったの?」
「えっ、と……今はちょっと、出掛けてるの」
「どこに?」
「それはね……ほら、あなたの後ろ!」
「えっ!?」
「もらったぁ!!」
驚き、後ろを向いた空の背中に飛び掛かると、パルスィは猛烈な勢いで脇腹にくすぐり攻撃敢行。
「んあっ、あっはははははは!! やめ、やめてぇ!!」
「あははは、まだまだ甘いわね」
「うにゅー……ヤマメ、いないじゃん……」
「今のは冗談だけど、まあまた今度一緒に来るわよ」
くすぐって笑わせるのも、最早慣れたもの。言葉だけで笑わせるのは、まだ技量が足りない。
だけど、いつかはやらねばならない。ヤマメならそうするだろう。
「おや、いらっしゃいパルスィ。最近よく来るね、嬉しいよ」
「うにゅ、お燐もおんなじこと言ったー」
「それよりおくうは何があったんだい」
襖を開けて現れた燐は、顔を上気させて畳に転がる空を見て首を傾げる。パルスィは事もなげに答えた。
「いつもの発作よ」
「わたし、日本を縦断したおぼえはないよ?」
「……?」
突飛な発言に、今度はパルスィが首を傾ける。すると、燐が怪訝な目を向けた。
「……おくう、まさかフォッサマグナと言いたいのか?」
「えへへー」
「……なんでそんなの知ってるのよ」
地質学用語。茫然と突っ込みを入れるパルスィと、起き上がって照れ笑いの空。燐は呆れ返るばかりだが、さも愉快そうに肩を竦めた。何とも心が和む雰囲気が漂う。
その輪の中に自分がいられることが、パルスィにとって何よりの自信となる。
(大丈夫、大丈夫……私だって、誰かを笑わせられる)
――いなくなったヤマメのことを悔やみながら、いつまでも心を閉ざすのは簡単だ。
だけどそれは、ヤマメのくれた沢山の笑顔を、安心を、愛情の全てを、無為に捨て去ることだ。彼女が望んだのは、パルスィの希望なのだから。
誰より傍で笑いかけてくれた存在を、姿見えぬ暗闇のどこかへ追いやったのは誰だ。
絶え間なく注いでくれた無償の愛を、仇と共に蹴り返したのは誰だ。
身勝手と言われるかも知れない。事情を知る者は、心のどこかで蔑むかも知れない。
それでも――パルスィは、ヤマメのくれたモノを捨てられなかった。
プレゼントしてくれた大好きなあの子は、もう帰らないかも知れない。
それなら伝えたい。ヤマメの笑顔を、明るさを、愛情を。
パルスィは、その道を選んだ。誰に何と言われようと、ひたすらに笑う道を。
「あれー、随分賑やかだと思ったけどおひとり様かぁ」
襖が再び開き、エントリーしたのはこいし。一瞬だけ身を縮こまらせ、しかしこいしの表情に非難の色が見えないので背筋を伸ばした。
きっと彼女も、事情を知っているのだろう。自分のことを考えてくれているのか、何も知らない空に気を遣ったのかは分からない。だけど、考えなしに軽蔑の言葉を投げてこない彼女に感謝した。
「お邪魔してるわ。今日は無意識じゃないのね」
「いらっしゃい。やだなぁ、別にいつも消えてるワケじゃないよ?」
手をヒラヒラ振って答えるこいしの目に、非難がましい色は見えない。態度もいつも通りだ。さとりには当然敵う筈もないが、パルスィも人の心を司る能力者。目の前にいる相手の心理を読み取るのは得意なのだ。
「そうは言うけど、あんまり会わないから。おやつの盗み食いに便利な能力よね、羨ましいわ」
「うんまあ実際ね。お風呂覗いたりとか」
「やってるの?」
「覗くっていうか、最近は堂々と入って待ってるよ」
「ちょ、こいし様!?」
「昨日だって、わたしが入ってるのにお燐もお空も入ってきたじゃない。危うくおしりに押しつぶされる所だったんだから」
「うにゅー!」
けらけら笑うこいしに対し、燐や空は驚きを通り越して最早阿鼻叫喚。顔を真っ赤にしてのたうち回る二人を見て、パルスィも思わず笑ってしまった。
「くふっ……い、言えば一緒に入ってくれそうなのに」
「まーそうなんだけどね。せっかくある能力なんだし、どうせならこっそりとさ。逆に、言ったらこんなマネできないし」
「じゃ、じゃあ、今日からはやめて下さいね……?」
「どうかなー」
燐が縋るような目でこいしを見るも、彼女はニヤニヤとした笑みを崩さずにそう言うだけ。『うー』と一声唸って炬燵に潜ってしまった燐を見送ってから、パルスィは改めて彼女を見た。
二人をからかって、実に楽しそうに笑っている。方向性はともかく、場を盛り上げるのも得意なようであるし、とても一度は心を閉ざした者とは思えない。
自分はヤマメの前に、彼女のようになれるのだろうか。どんなに辛いことがあっても、もう一度太陽のように笑える存在に。
視線に気付き、こいしがこちらを向いた。
「どったの? なんか照れるよぉ」
「あ、いや……その。なんでも」
「ふぅん」
炬燵布団を胸元まで手繰り寄せながら尋ねるこいしに、パルスィは曖昧な笑みを向けて誤魔化した。それで終わるかと思ったが、今度は彼女の方がパルスィをじっと見てくるではないか。
「な、なに?」
思わずたじろぐ。見た目は自分よりも更に幼い少女なのに、その視線を浴びると妙な畏怖を覚えるのだ。心に張った障壁をばりばり手掴みで引き剥がされるような錯覚。うすら寒く感じて、パルスィは炬燵にもう少し深く身体を押し込んだ。
「んふー、なんでもなーいよっ」
歌うような調子でこいしは微笑むと、ようやく炬燵から這い出してきた燐の肩をつついた。
「そうだ。お燐、お姉ちゃんがさっき呼んでたよ? たぶん、こないだっから話してた灼熱地獄の燃料供給システム改善に関するお話じゃない? 単なるダストシュート設置とも言えるけど」
「あれ、そうでしたか。じゃ先に片付けて来ようかな。ありがとうございます……ごめん、ちょっと野暮用。ごゆっくりね、パルスィ」
「あ、うん」
燐が立ち上がり、部屋から出ていく。んにゅ、と声が聞こえたので見やれば、のそのそと空も這い出してきた。どこか眠そうなのは炬燵の魔力、致し方あるまい。
そんな彼女へ向けて、再びこいしが声を掛けた。
「お空、せっかくお客さん来てるんだし、何かおやつでも買ってきなよ。みんなで食べる分と、お空のも買っていいからさ」
「うにゅ、ホントですか!?」
「ホントもホント。はい、お金」
「わぁい、ありがとうございます! 待っててね、パルスィ!」
「え、ええ。ありがとう」
「パルスィ、すぐには帰らないみたいだからゆっくり選んできなよ」
「はーい!」
彼女がスカートのポケットに入れていた財布から紙幣を取り出して空に握らせると、空は小躍りしながら襖を開けて、風のように廊下へ飛び出していった。どったんどったん、スキップのような足音が遠ざかっていき――気付けば、炬燵のある和室にはパルスィとこいしの二人だけが残された。
「んしょ」
「?」
不意に、こいしが炬燵へ身を潜める。もぞもぞ、パルスィの足先にも彼女の身体が触れて少しくすぐったい。
「ばぁ」
彼女が再び現れたのは、先程まで空が座っていた席。つまり、パルスィの向かいだ。
炬燵を挟んで向かい合う状態になり、両手で頬杖をついたこいしは悪戯っぽく笑った。
「パルスィさ……何だか最近、すっごく明るくなったよね」
「!?」
思わず跳ね上がる心臓。努めて明るく振る舞っていたのだからそう映るのは当然であり、また望んだ通りでもあるのに。
いざ指摘されてみると、後ろめたさにも近い感情が込み上げてくるのは何故だろう。
「そ……そうかしら? 私は、別に……」
「でも、毎日のように遊びに来てくれるじゃない。お空と遊んでくれたり、お燐の話し相手になってあげたり。隠れながらだけど、わたしもずっと見てたんだよ? パルスィが頑張って、お空やお燐を笑わせようとしてるの」
確かにそうなのだ。空や燐だけじゃない、キスメや勇儀にも会いに行っては、彼女達が笑うにはどうすればいいのかを考えて、実行してきた。ここのところ、毎日だ。
誰を相手にしても、何度も言葉に詰まった。訝しがられることはなかったが、その度に会話の主導権を相手に譲り、虎視眈々と笑いを取る隙を窺う。正直に言って、他愛のない世間話ひとつが、とても疲れる。
明るく振る舞うだけじゃない、何とかして彼女達の笑顔を引き出そうとしていたことも、こいしにはお見通しだったというのか。
「それ、は……い、いけないことかしら?」
寒い時期なのに、恥ずかしさと緊張とで体内がぼうっと熱くなる。伝う冷や汗。乾いた唇でそれだけの言葉を紡ぐと、こいしはゆっくり首を横に振った。
「ううん、そんなコトないよ。だけどね」
「だけど?」
「なんだか、ムリしてないかなって」
「……」
ぼんやり、こいしの瞳の奥に淡い光が宿る。まるで、さとりと話しているかのような錯覚。彼女の言葉の一つ一つが心を透過して――パルスィの心に浮かぶ、想いの欠片を捕まえていく。
「……ヤマメが、いなくなってからかな。パルスィが、何だか必死になってるカンジがするんだ。使命感っていうか、義務感っていうか……んー、難しいコトバじゃよく分からないけど」
「そん、なの……でも……」
ちくりちくりと、彼女の言葉が胸に突き立っては、そこから波紋のように心を巡っていく走馬灯の影。橋の上。ヤマメの笑顔。パルスィの涙。『ばいばい』――
「……私は、ただ……みんなにも、迷惑かけたから……」
「それが、ウソじゃないっていうのはわかるよ。パルスィ、優しいもんね。だけど、自分の優しさでパルスィがつぶれちゃったら、きっとみんな悲しむから。辛いのにガマンしても、いいコトないよ?」
傍から聞けば、二人の会話はさっぱりだろう。だが、パルスィはある種の戦慄を覚えていた。
こいしの言葉は、自分の考えの何もかもを見透かした上での言葉としか思えなかった。
「これだけ、言っとこうと思ってさ。メーワクだったら、謝るから」
彼女はそう断って、パルスィの目を真正面から見据えた。
「パルスィとヤマメは、ちがうよ。おんなじにはなれない」
「!!」
この日一番の衝撃が、パルスィの心臓すらも撃ち貫く。心臓が止まったような錯覚と共に、こいしの顔を凝視した。
恐ろしいくらいに真剣な顔だったこいしは、ゆっくりと表情を融かしていく。やがて、ふにゃりと笑顔になって続けた。
「……でも、だからこそだよ。ヤマメやみんなが好きだったのは、ヤマメみたいなパルスィじゃなくて、パルスィみたいなパルスィ。忘れないでね」
「……あなた、は……」
「えへへ、ここまで。こいしちゃんの人生相談、本日はこれにて終了ー」
おどけた口ぶりで会話を打ち切り、こいしはそれ以上語ろうとはしなかった。
それでもパルスィの胸中では、彼女の言葉が渦を巻く。
(わたしは、わたし……ヤマメにはなれない、か……)
あの、いつでも明るくて――傍にいる誰かに笑顔を灯せる、ヤマメのような存在になりたかった。いなくなってしまったヤマメの代わりに、自分が皆に笑顔を灯したい。
それはある種の、義務だと思っていた。そうなる原因を作ったのは自分なのだから。
自分がやらなければ、ヤマメのくれた笑顔が全て無駄になるから。
だけど――
(私のような私……橋姫、水橋パルスィとしての私……)
ちかちか、壊れかけの街灯のように明滅する、自分自身の面影。
いつも何かが妬ましい、嫉妬深い自分。そんなのが、本当にいいのか。
ヤマメの方がずっとずっと、周りに好かれている。少なくとも自分ではそう感じる。
そうなりたいと願うのは、おかしいのか。
「でも……」
パルスィの呟きに、明後日の方向を向いていたこいしが反応する。目が合った。
何か続けようとしたら、彼女の方が先に口を開いた。
「ごめんね、パルスィのがんばりをムダって言いたいんじゃないんだ。だけど、何だか辛そうだったから。無理しないで、もっとのんびりしたパルスィが見たいなって」
こいしの言葉は、あくまで優しかった。幼子に諭されるようで、恥ずかしい想いもある。
そこまで自分の姿は、辛そうに映っていたのか。周りにいる人物に少しでも笑って欲しいと、心を砕くその姿が。
深呼吸する。ゆっくり、ゆっくり。吸って、吐いて、また吸って――パルスィは、笑みを作った。
「……ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
自分だけの問題じゃない。自分の辛さじゃない。ヤマメの辛さが問題なのだと、パルスィはやんわり、彼女の忠告を否定した。
それを聞いたこいしの表情は、その瞬間開いた襖のせいで読み取れなかった。
「ただいま帰りましたー!」
「あたいも帰りましたっと。いやあ終わった終わった。結局計画はイチからやり直しだなぁ」
「おおう、おかえりー。お燐もお疲れ様。何買ってきたの?」
「たまごが安かったんですよ、こいし様!」
「またゆで卵かい? しゃーないね、茹で放題だ。いくぞ、おくう」
「うにゅー!」
瞬時に騒がしさを増す室内。何か明るい言葉を掛けようとして、出来なかった。
今ここで作った笑わせる為の言葉も、ひょっとしたら三人には、辛そうに映ってしまうかも知れない。そう思うと、泣きそうな気持ちになるのだ。
自分はどうあっても、ヤマメのような明るさは持てないのだろうか?
心にカビを生やして、常に誰かを妬む以外の選択肢はないのか?
どんなに明るく振る舞っても、それは自傷行為にしか見えないのか?
優しかった筈のこいしの言葉が、今やナイフのように尖って心を抉る。血の代わりに、涙が噴き出しそうなイメージが脳裏を駆け巡り――唇を噛んだ。
「じゃあ台所にでも……パルスィ? どうした?」
「だいじょうぶ? なんか顔、こわいよ……?」
はっと気付き、顔を上げる。心配そうな燐と空の視線が降り注ぐ。
「具合悪いのかい? それとも」
「……ううん」
燐の言葉を、途中で遮った。彼女の言わんとすることは、すぐに分かったのだ。
『辛かったら、おいでよ。あたいは……あたいでいいなら、パルスィの味方になってやれると思う』
いつか言ってくれたその言葉を、思い出したのだ。燐もひょっとしたら、思い至っていたのかも知れない。笑おうと、笑わせようと、必死になるパルスィの姿。
パルスィが潰れてしまわないように、何とか予防線を張ってやるつもりだったのかも知れない。
空の顔も、心配そのものだ。パルスィの思惑は知らずとも、純粋な気持ちで彼女を気遣ってくれているのだ。
余計に自分が情けなく思えた。誰も自分を心配しないように、明るくなりたかったのに――逆に気を遣わせては、本末転倒ではないか。
ある意味、ここで諦めてしまった方が、全ての為か。
パルスィは一瞬だけ思案し――その答えを顔に浮かべた。
「ごめんなさい、大丈夫よ。足が痺れただけ」
脳裏には未だ、ヤマメの笑顔が浮かんでいた。彼女の為に、自分が心を塞ぐわけにはいかない。
ヤマメがいなければ、永遠に暗い弱虫のまま。そんな自分にピリオドを打ちたい。
辛くても、痛々しくても。例えそれが、水橋パルスィという人格から剥離していくとしても。
――それでも、泣いてはいけない。強く笑え。
いつか君がいなくなっても、大丈夫なように。
・
・
・
・
・
それから暫しの騒乱は、パルスィの心に巣食った暗い気持ちを押し流してくれた。
燐に、空に、こいしも一緒になって、卵を口に押し込んだり押し込まれたり。
久しぶりに、本当の気持ちで笑えた気がした。それがほんの少しの自信へと姿を変える。
(こいしは、ああ言ってくれたけど……私は、やっぱり負けられない)
ヤマメの分まで笑う。笑わせる。恩返しでもあり、罪滅ぼしでもある。
あの日、橋の上で誓ってくれた約束。まだ終わってはいない。自分が笑うことを止めない限り。
何ひとつ忘れちゃいない。大丈夫、まだいける。
強くならなくてはならない。ヤマメを安心させたい。一人でも、もう大丈夫だと。
その決意は、どこか悲壮だった。
「パルスィ」
その日の帰り際、こいしに呼び止められた。
「……ごめんね。わたし、ひどいコト言っちゃったかも」
珍しく暗い顔のこいし。パルスィはすぐに首を振った。
「そんなこと、ない。私のことを気遣ってくれたんでしょう?
……正直、もうあなたにも嫌われたと思ってたから。あんなことがあったし」
「……」
「ヤマメのことは……もう、許されるとか、そういう問題じゃなくなってる気がする。だって本人がいないから。だからこそなんだけど、私はもう少し頑張りたいの。せめて、ヤマメの笑顔を誰より沢山見てた私が、それを絶やしたくないなって」
これまた珍しく、パルスィは饒舌に語った。本心からの言葉。こいしが顔を上げると、パルスィは微笑んでいた。
「……ありがとう、こいし。人生相談、今度は私が乗りましょうか?」
「えへへ、それじゃあ今度お願いしようかな。お姉ちゃんともっと仲良くなりたいんだけど、どうすればいいですか、とか」
「もう十分でしょう、っと」
あはは、と互いに笑った。無理をしていない、心からの笑い声が口を突いて出た。
帽子のない彼女の頭をひと撫でして、パルスィは地霊殿を後にした。
急ぎ足になる理由もなく、ゆっくりと歩いた。足元の岩に気を付けながら、少しずつ地底上層を目指す。その間も、こいしの言葉が頭の中で何度も浮かんでは消えていく。
(無理してる、か……)
自分に笑顔は似合わないのだろうか。ヤマメの代わりなんて、おこがましいか。
それはそうなのかも知れない。けれど、自分は確かに皆を笑わせることが出来た。
強くなった、とはヤマメの言葉だが、一度は否定したその言葉も、今はほんの少しだけ信じられそうな気がした。
(私も、いつまでも泣いてばかりじゃいられない。そうだ、明日こそはきっと)
「……パルスィ」
唐突に、背後から声が掛かった。足を止める。
こいしの声に聞こえた。忘れ物でもしたのだろうか。
「何かしら?」
くるりと振り返る。
ヤマメがいた。
「……!?」
夢か幻か、そうでなければ一体どういうことだろうか。
瞬時にフラッシュバックする、あの日の記憶。真新しい橋が、優しい言葉が、橋に跳ね返る足音が、その眩しい笑顔が、涙が作る染みが、さとりの射抜くような視線が、心がスパークする感触が、自分自身の絶叫が、
――そして今目の前にいるヤマメの、振り向く目に光る涙が――。
「……あ、あ……」
言葉を失う。全身の関節が錆び付いたように動かず、喉の奥が締め付けられる感触。心臓は今にも爆散しそうなくらいに鼓動を強め、視線が右へ左へ泳ぎ、その姿を捉えようとしてくれない。
喜びたい筈なのに、素直に認められない。不思議な気持ちが胸を満たして、何も言えない。
「……ごめんね、いきなり。本当にごめん。パルスィ、心配してるかもって思って……つい」
「……」
「実はさ、あの日の次の日から……ずっと、地霊殿にいたの。こいしが私の家に来てね、気持ちが落ち着くまで、奥の使ってない部屋で暮らしてって、泊めてくれたんだ。その時にこいしの力を込めたスペルカードみたいなのも借りてさ、気配消してたから……お燐やお空も知らないと思う」
語るヤマメの言葉は、ノイズが混じったような心地で上手く聞き取れない。数秒遅れでパルスィの脳に伝わってくる。
――つまり、こいしは最初から、ヤマメの行方を知っていたのだ。その上で、あんな言葉を。
「でね……私もどうしていいか、よく分かんなくってさ。ぼんやりしてたんだけど……今日。それもさっき。こいしがね、教えてくれたの。最近よくパルスィが遊びに来るって。それでね……」
ヤマメは言葉を切ったかと思うと――笑った。心の底から、本当に、本当に、嬉しそうに。
欠片程の曇りも濁りもない、どこまでも純粋な好意を詰め込んだ笑顔。
「……あはっ! パルスィがね、すっごく明るくなったって! 毎日遊びに来ては、お燐やお空とおかしそうに笑って過ごしてるって! 私、すごくうれしくなっちゃって。そしたら、今丁度帰ったところだから、追いかければ間に合うって教えてくれて……」
興奮した様子で語るヤマメと、蒼白な表情で何も言わないパルスィ。まるで出会ったあの日のように、対照的な二人。
ふぅー、と息を長めに吐いて、ヤマメは続けた。
「……でも、ほら。その……パルスィにしたら、迷惑かもしれないから。あんまり、いっぱいお話はしないよ。けど、これだけ伝えたいなって。いいかなぁ」
「……」
パルスィは何も言わない。否、言えない。それを肯定とも否定とも取れず、ヤマメは待った。パルスィの顔をじっと見つめて――それはまるで、黙れと言われたあの時のようで。
ぎりぎり、心が悲鳴を上げた。この期に及んで、ヤマメを悲しませる真似などしたくない。
「……言って」
短く、ぶっきらぼうに、それだけを。ほっと息をつき、ヤマメは口を開いた。
「……パルスィ、本当に……本当に、強くなったよ」
さとりや、こいしを経由して何度か聞いたその言葉が、とうとう本人の口から直接、彼女の耳へ届けられた。
「もう覚えてないだろうけどさ、初めて会った日がウソみたい。あの頃のパルスィ、泣いてばっかりでさ。でもだんだん泣かなくなって、みんなで一緒にすごすようになってさ。いつの間にか、誰かを笑わせてるって。すごいよ。私とは全然ちがう」
語るヤマメの目は輝いていて、それは彼女が心から本気で思っていることなのだと教えてくれた。彼女に悪意があるかも知れない。一度でもそんな考えを抱いた己の、なんと愚かだったことか。
ヤマメが喋る度に、その言葉がパルスィの耳に纏わりついて――世界の音が、遠ざかっていく。胸の中で何かが軋んで、悲鳴を上げ始めていた。
「だから……だからね。パルスィ、もう大丈夫だよ。なんにも心配なんかいらない。その……私なんて、いなくたってさ。だからね」
その言葉に、パルスィは明確な反応を見せた。ヤマメの目を見る。うっすらと、涙が。
ヤマメらしくもなく、不明瞭になっていく彼女の口ぶりはまるで、これから自分自身が――
「きっとパルスィなら、私よりずっとみんなを明るくできるよ。絶対。地底にいる必要だっ」
「ちがうッ!」
矢のように鋭い声だった。誰よりも、何よりも聞きたかった、ヤマメが自分を肯定してくれる言葉。それを、切り捨てた。
微笑んでいたヤマメの顔から、表情が洗い流された。驚いたのだ。
まだ整理が追い付かない。ずっといなかったヤマメがやっと現れて、かと思えばあの日のことにも触れて、全てを肯定してくれる。何も変わっていない。ヤマメも、パルスィも、二人の関係も、何もかも。
――ヤマメに甘えてばかりの、己の弱さすらも。
「……強くなんて、ないよ……私、強くなんてなれてない」
「そんなことないよ。だって」
「ちが、う……違うってばぁっ!!」
否定しようとしたヤマメを無理矢理遮った。あまりの剣幕に、口をつぐむ。
「だって……だって! 私……ヤマメみたいになりたくて。ヤマメはずっとずっと、私の横で、私のために笑ってくれてた。なのに、それを忘れてヤマメを突き離した! あんなに優しかったヤマメを信じられなかった! こんなの! こんなの、ないよ!!」
「パルスィ、それは」
「だから、せめて私がみんなを笑顔にできたらって。私も常に、ヤマメみたいに笑ってられたらって。頑張ったよ。みんなもそれなりに笑ってくれた。さっきまで、もう大丈夫だって思ってた。でも、でも……」
パルスィの口ぶりからは、いつもの色が失せていた。斜に構えることも、何かを諦観することも、落ち着き払ってもいない。言うなれば、泣き叫ぶ幼子の如く、感情を吐き出し続ける。
「……でも! 私は……やっぱり、ダメ。強くなんてなれないよ……ヤマメのかお、みた、だけで……う、っく」
「……!」
涙が、止まらない。様々な感情が、想いが混ざり合って、オーバーフローして目から溢れ出る。
ヤマメに会えて嬉しい? 酷いことを言って申し訳ない? 己の弱さを見透かされて悔しい?
――分からなかった。ただ、言葉が胸の奥から込み上がって来るのを、吐き出し続けた。
「わた、私はやっぱり、弱虫のままなんだって……ヤマメがいなきゃ、自分を、肯定するのも難しいよ。ヤマメが……ひっく、ヤマメがいなくなっても、だ、だいじょうぶな、ようにって……けほっ。おもって、たけど……」
心の中に芽生えた、欠片程の自信。それらが、ヤマメの前であっと言う間に粉々に砕けてしまった。本当の、『大丈夫』を聞いてしまったから。
どんな泥沼に沈んでいても引きずり上げてくれる、本当の明るさ。心からの信頼が、愛情だけが持てる輝き。
無条件で何もかもを信じてくれる、確かな優しさに触れてしまった。その前では、自分はあまりに弱く小さい。
もう、戻れない。ヤマメがいなかった頃には。それを認めざるを得なかった。
彼女の優しさに縋らなければ、きっとまたいつか――
「やっぱり私、ヤマメが、いなきゃ……だ、だめなんだってぇ……うぐ、っはぁ。私はずっと、弱虫なんだって……だ、だれか、を、笑わせるなんて……お、おこがましいよ。いちばん、だいじな……こと、すら……う、うぅ」
「パルスィ」
「……でも、私……ヤマメが、いなく、なったのは。わたしの、せいだから……」
ぐす、と大きく鼻を啜って、パルスィは続けた。もう、口を止めることは叶わない。
「だから、私が、か、代わりになろうって……思ったのに! やっぱり、ダメだよぉ!! 私なんか……どうせ、どうせっ……!」
「パルスィ!!」
「!!」
全身が揺れた。息のかかるような距離にヤマメがいて。自分の両肩を掴んでいた。
かと思えば、ゆっくりと擦るように力が弱まる。その手は、とても温かい。
ぐちゃぐちゃになった泣き顔をすぐ傍で見られて、恥ずかしいと思う気持ちはまだ少しだけあった。自分でも驚きだった。
ヤマメの目の光が強まって、眩しさすら覚えた。何を言うのだろうか。泣き疲れて、考え疲れて、すっかり鈍った頭が予測を立てる。
それは違うと、パルスィの強さを見つけてくれるのか。
そんなに自分を蔑むなと、諭してくれるのか。
これから強くなればいいと、奮い立たせてくれるのか。
それも橋姫の能力なのか、いくつもの感情をシミュレートするパルスィだったが――
「……いいよ! 強くなんてならなくていいよ!! ずっと、ずっと、弱虫で泣き虫なパルスィでいいんだよ!」
――弱さを、肯定されるとは思わなかった。
「私はただね、辛そうにしてるパルスィを見たくないだけなんだ。一人でも大丈夫にって、誰かを笑わせられるくらい強い心って。すごく素敵なコトだよ。だけどそのせいでパルスィが苦しむなら、そんなのいらないよ! 捨てちゃえばいいんだ!!」
自分の努力を、苦しみを全て放り投げるその言葉。押し潰されそうなくらいに積み重なった心の重荷を、ヤマメはまた、解こうとしてくれている。
「……で、でも……」
パルスィは何故か、それに抗おうとしていた。ヤマメに甘えてばかりの自分に、戻りたくない。その気持ちがまだあったのだろうか。
己の弱さに気付いても、それを認めたくない。嫉妬狂いのプライドが、胸の中でまだ燻っていた。
「……いいんだよ。そんなに何もかも背負わなくても。パルスィは優しすぎるんだ。みんな自分がいけない、みんな自分の責任。一人で全部背負って、片付けようとして、周りのみんなには皮肉でごまかして。その上私のものまで乗っけちゃったら、本当にパルスィが潰れちゃうよ!」
ヤマメの声色は、必死だった。それだけ、目の前の相手を想っている証拠でもある。
「だから。だから、もうそんなに無理しないで。みんな心配してるんだよ」
「……だけど……私、もうあの頃に……もどりたく、ない……」
ヤマメがいなければ、膝を抱えて泣くしか出来ない。そんな、弱虫の自分に戻りたくない。せめて明るくなれなければ、それこそ嫉妬の感情しかなくなるのではないか。
怖かった。今ここで変われなければ、自分が空っぽになるような。
「誰かを妬むしかできない。誰かの持っている素敵なモノを、欲しがるだけの私……あまつさえ、信じてくれた人も疑って。もう、イヤだよ……せめて、せめてヤマメみたいにさ……」
「ちがうよ。それはちがう。パルスィは……そんなんじゃない」
弱々しいパルスィの言葉を、ヤマメの強い言葉が遮る。
何より頼もしい笑顔で、彼女は自分の手を握る。
「どんなに慣れなくても、私の代わりに笑う。笑わせる。誰に頼まれたワケでもないよ。みんなに笑って欲しい。明るくしたい。それは私のマネなんかじゃなくて、パルスィの優しさだよ」
「だけど、私……ヤマメが、いなくなったから……」
「それで一番辛かったのは……きっと、パルスィだよね。ちょっと、嬉しいかな。でも自分のことより、周りからの心配を解こうとしたんでしょ? だからパルスィは、自分自身も笑った。笑い続けた。私は平気だよって伝えるために。ちがう?」
「……」
「パルスィ自身の笑顔すら、誰かのため。ずっと前から思ってたけど、本当に優しいんだね。私、妬ましいくらい。パルスィの優しさが妬ましい!」
こんな状況でなければ、きっと自分の真似をするヤマメの言葉で笑っていただろう。でもそれが出来なかったのは、昔を思い出していたからだ。
『優しいんだね』――初めて会ったあの日にも、同じことを言われた。思えばあの時から、ヤマメは自分の想いを汲んでくれていた。
会う者全てを妬むパルスィ。そんな自分自身が嫌で、人付き合いを避けた。嫉妬の心は内に留めておけず、好意を持って近付いてくれた者すら浸食して――いつかきっと、その繋がりも壊してしまうから。手を差し伸べてくれた者すら傷付けるのなら、最初から遠ざけたい。
だがそれすら厭わず、ヤマメはずかずかと踏み込んできた。パルスィは心のどこかで、それを待っていた。いいよと笑って、こんな嫉妬狂いを赦してくれる存在を。
「……わ、わたし、は……やさしく、なんか」
「ぶっきらぼうにして、ひねくれてみせて、人を遠ざける。自分の能力でその人にイヤな思いをさせたくないから。分かってるんだから、パルスィの考えなんて」
「……!」
「昔のパルスィに戻りたくない? ひねくれてばっかだったあの頃に? 気持ちは分かるよ、けど本質は何も変わってない。あの頃も、今も、パルスィの優しさだけは本物だよ」
ヤマメは、覚えている。自分は封印してしまった、あの日のことを。
自ら針のムシロを纏ったハリネズミ。その棘の裏に隠れた、パルスィの本当の気持ちを見つけてくれたのは、ヤマメが初めてだった。皮肉と諦観と、精一杯の冷たさ。その向こうにあった、どうしようもないくらいの人恋しさ。
『ずっとそばにいるから』――そのたった一言で、満たしてくれた。そして今また、パルスィをその温かさで包み込もうとしてくれている。必死に、抗う為の言葉を探した。
今それを受け入れてしまったら、完全にヤマメに負けたことになってしまう。いくら酷い言葉をぶつけても、拒絶しても、それでも手を差し伸べてくれる。それを黙って受ける自分の存在が、余りに卑しいものに見えてしまう。
「ちがう……ちがうって、ばぁ……! わたし、は、ただ、イジワルで、ひねくれてて……どうしようも、ない……んぐぅ。だって、だって! あなたは、ゆ、許せるの……? なにがあっても、ずっと横で、わ、笑ってくれたあなたを……大事な、約束もすっかり忘れて……しんじ、られないって……う、うぁ、あぁ……」
目元を覆って、かぶりを振る。嗚咽と共に、指の隙間から涙がこぼれた。はいそうですね、とヤマメがこの場から去ってしまう恐れなど、全く考えられなかった。ただ、ヤマメがあくまで自分を肯定してくれる、その事実が耐えられない。なんて、甘えているんだ。
何もかもを背負う――それは、ヤマメのことではないのか。
自分が何を言っても、
どれほど無愛想でも、
ぶっきらぼうでも、
つっけんどんでも、
泣いても、
喚いても――
――注いでくれた愛の全てを、忘れても。
それでも、それでも、許してくれるのか。ヤマメの方が、ずっと辛いに決まっているじゃないか。
何故自分を拒絶しない? 何故そこまで尽くしてくれる? ヤマメへと最初に抱いた、愚かな疑念へと帰結してしまう。分からない。
「い、言ってよ……言ってよ!! もう、私のことが、し……信じられないって!! ヤマメにこれ以上迷惑かけてまで、甘えたくなんかないよ!!」
「いやだッ!!」
「!!」
頬を思いっ切り張り飛ばされたような心地。ヤマメの怒声なんて、初めて聞いた気がした。
「じゃあ私も言うよ! なんでもっと甘えてくれないの!? これ以上パルスィに辛い思いをさせてまで、あなたを追い込みたくなんかない!! いいじゃん、甘えたって! 支えられたって! 私だってパルスィにいっぱい、いっぱい支えられた! 私だけじゃない、みんなだよ! パルスィが苦しむところなんか見たくない! 笑った顔が見たいよ!! 楽しそうに、うれしそうに、なんにもイヤなコトなんてない、パルスィの明るい顔が見たい!!」
「……や、ヤマメ……」
「……ごめん。でも……ね? 私、さっきも言ったけど……パルスィが辛そうにしてるトコロだけは見たくないから。パルスィが楽しそうにしてくれてたら、それだけでうれしいよ。その時に、私が横にいたりなんかしたらもう最高だよ! だから、だから……もっと私に甘えてよ! 私でよかったらさ!」
彼女の怒った顔は、あっという間に引っ込んだ。すぐに太陽のような笑顔になって、涙で濡れたパルスィの手をそっと温める。その目を直視出来なくて、足元を見た。灰色の土に、いくつもの染み。ぐす、と鼻を啜ると、鼻先から涙がぽたり、また新しい染みを作る。
「……なんで、そんなに……」
「理由なんかないよ……って言えたらカッコいいんだけどね。えへへ。だって私、覚えてるもの。約束」
「……やくそく……」
「笑い方が思い出せるように、ずっとそばにいるって。忘れてなんかないよ」
「私は」
「忘れたら、思い出せばいいよ。言葉でキズつけちゃったら、言葉で治してあげればいいの。ツララみたいに冷たい言葉を投げちゃう時だってあるけど、その時はあっためてあげればいつかはとける。パルスィはそれが分かってるはずだよ」
ヤマメはあくまで微笑んだ。彼女の言葉が、温もりが、かつてパルスィの凍てつく心を融かしてくれた。ヤマメの心に突き刺してしまった氷柱を、自分は融かせるだろうか?
その疑念を吹き飛ばすように、ヤマメは続けた。
「だって、私との約束を思い出したあと……私の代わりに他のみんなと、その約束を果たそうとしてくれたじゃない。そばで笑ってあげる。笑わせてあげる。心配なんかかけないで、一緒にいて楽しくしてあげる。心配してくれたみんなや、不安そうなみんなを、安心させてあげる。私がパルスィにしてあげたかったことの全部を、パルスィはやろうとしてくれたんだよ」
「でも、辛そうって……こいしは、私が無理をしてるって」
「慣れてないからしょーがないよ。気にしない、気にしない」
けらけらと声を上げて笑うヤマメと、茫然とするパルスィ。そんなに軽い言葉で、悩み続けたこの問題を片付けようというのか――否。すぐに気付いた。
好きな人が不安そうにしていたら、取り除いてあげる。ヤマメは今まさに、それを自ら行っている。
「大切なのは、パルスィがそれをやろうとしてくれたコトなんだよ。誰かが泣きそうにしてたら、そっと励ましてあげられるような優しさを……今よりもっとずっとひねくれてた昔の頃から持ってた優しさを、パルスィは忘れてないんだって。それが分かっただけで、私、すごくうれしいんだ!」
ヤマメがくれた優しさを、無駄にしたくない。その我武者羅な想いだけで、無理をして笑い続けた。結果として余計な心配をかけてしまった面はあったけれど――それでもみんなは、笑ってくれた。それが確かに嬉しかった。嬉しいと思えた自分の心は、ヤマメの言う『優しさ』を、ほんの少しでも宿していられたのかも知れない。
心臓の鼓動が強まった。すっかり冷めた胸の奥で、何かが動き出す感触が。
「それにさ、私だけじゃないよ。みんな、パルスィを心配してる。心配させたみんなを安心させるとか、明るくなってほしいとか。そうやってみんなを思いやれるパルスィを、みんなも気にかけてる。そうじゃなきゃ、こいしは私のところに来なかったし……他にも、いっぱいあったんじゃない?」
「あ……」
その言葉が更に、胸の奥底にあるスイッチを押し込む。浮かんでは消える、記憶。
『パルスィ、どこ行ったかしらない?』
こんな自分を頼ってくれて。
『ヤケ酒の類じゃなさそうだな。とりあえずこっち来い。そこは寒いぞ』
何も言わずとも、自分の意図を、決意を汲んでくれて。
『だめ、だめぇっ! 死んじゃだめだよぉ! わ、わたしにできることならなんでもするから!! 相談にものるから! ねぇったら!』
例え見当はずれであったとしても、ひたすら一途に心配してくれて。
『そのさ。辛かったら、おいでよ。あたいは……あたいでいいなら、パルスィの味方になってやれると思う』
泣いてばかりだった自分を、心からの優しい言葉と共に信用してくれて。
『……でも、だからこそだよ。ヤマメやみんなが好きだったのは、ヤマメみたいなパルスィじゃなくて、パルスィみたいなパルスィ。忘れないでね』
本当の自分、水橋パルスィとしての自分を、好いてくれて。
『……世界で一番、かなしいこと。それは大好きなヒトを、信じてあげられないこと……』
――そして、今こうして全てを見つめ直すきっかけをくれた。
みんな。
「……みんな、パルスィが好きなんだよ。そうじゃなきゃ、こんなに……さ。詳しく知ってるワケじゃないけれど、みんなすごく心配してたんでしょ? パルスィの優しさを、みんな知ってるんだ。だからこそなんだ」
「……だったら私、強くなりたいよ。もう二度と、みんなに心配かけないくらい……いつか、いつか……ヤマメが……」
『いつか君がいなくなっても大丈夫なように』――震える唇。その想いは本物だった。だがヤマメは、その先の言葉を強く手で制した。
「言ったじゃない、もっと甘えてよって。みんなみんな背負って苦しむくらいなら、私たちに分けてくれればいいの。心配って、そういうモノだよ。パルスィの苦しみを分けてほしいんだよ。パルスィが安心できるようにさ。不器用でも誰かをいつも思いやれる、優しいパルスィへのお返しだよ。それに甘えるパルスィを弱虫だなんて言うなら、弱虫は今日から褒め言葉だよ。私が幻想郷の辞書を全部書き変えてくる。でもそれはたぶん……難しいかなぁ。いっぱいあるよね、辞書。パルスィの家にあるやつから書き変えよっか」
ポケットからペンを取り出し、指先で弄ぶヤマメ。落っことした。ころころ転がっていく。
「あ、もー」
それを追いかけるその様子が、何だか無性におかしくて。思わず、破顔した。喉の奥で笑いを噛み殺そうとするが上手くいかなくて、ペンを拾ったヤマメに見つかった。
「おっ、パルスィ笑った! 別にワザとじゃないんだけどなぁ」
「ち、ちが……これ、は、ちょ」
「ほらほらー」
「やめっ……くふ、ふふっ……」
ぐいぐいとペンの先で頬をつつかれて、笑いを堪え切れなかった。あんなにシリアスで、少し前まで嗚咽と涙が飛び交ってた場所なのに。小さな笑い声が花を咲かせる。
「えへへ……笑ってる顔の方がずっとステキだよ、パルスィ。でも無理矢理にそれを作るのは、やっぱり違うよ。苦しいよ、そんなの。笑いたい時だけ笑えばいい。悲しい時はいっぱい泣いてさ、誰かになぐさめてもらえばいいんだ。みんなきっと……ううん、絶対。パルスィが泣いてたら、そっと抱き締めてくれるよ」
あの日のことを思い出した。今となっては定かではないが、きっと燐も空もすすり泣く自分を見て、声を掛けてくれたに違いない。燐は相談に乗ろうとしてくれたし、空には妙な勘違いをされてしまった。それもこれも、二人が自分を心配してくれたからに他ならないじゃないか。
二人だけじゃない。ヤマメのいない不安に押し潰されそうでも、蒼白な表情の自分を心配してくれたキスメもいる。橋まで足を運んでは、泣き続けるパルスィを立ち直らせる言葉を探し続けてくれた勇儀だっている。『人生相談』の果てに、ヤマメをここに呼んでくれたのは他ならぬこいし。そしてさとりは、最初からずっとヤマメと己の関係を気にかけてくれた。
甘えて、いいのだろうか。ヤマメが散々そう言ってくれたのに、もう一度その疑問が――今度こそ肯定して欲しい願望が――頭をもたげる。甘えっぱなしで、頼りっきりで、弱気で嫉妬深い。そんな自分を、それでも皆は受け入れてくれるだろうか。
そんな彼女の想いを見透かすように、ヤマメはそっと頷いた。安心させるように。
「だから、いいんだよ。無理に変わったりなんかしなくていい。パルスィは独りぼっちなんかじゃない。だから弱くていいんだ! パルスィが辛い思いをするくらいなら……ずっとずっと、弱虫のままでいてよ!!」
――嬉しかった。心の底から、素直に。はっきり言って情けないと思う気持ちもあった。どこまでもヤマメや皆に甘えてばかりで、自分じゃ何一つ殻を破れない。だけど――それを赦してくれる。そんな自分がいいと言ってくれるヤマメの言葉が、心地良くてたまらない。
パルスィは最早、弱々しい抗いの言葉すらも封じられて聞くがまま。それでいい。もっと、もっと、ヤマメの言葉が聞きたい。
彼女は少しの間、しっかりとパルスィの顔を見る。ほんの少しだけ、恥ずかしそうな表情を覗かせたのを、パルスィは見逃さなかった。
次の瞬間、ヤマメは――一杯に涙を溜めた目を細めて、笑った。涙の雫が弾け飛んで、きらりと輝く――
「……私は! そのままの優しいパルスィが好き!! 大好き!!」
ぎゅっと腕を回して、ヤマメは強く強く、パルスィを抱き締めた。
腕から伝わる力が、そのままパルスィの心を締め付ける。だけどそれは、嫌な感触ではない。少し痛いけど、無性に安心する。
触れる胸から、彼女の鼓動が伝わってくる。自分の心音とシンクロして、二人の心を繋ぐようにビートを刻んだ。
パルスィの腕が、彷徨う。冷たい風に晒され、がちがちに強張った己の心と身体を温めてくれるヤマメ。大好きな君の背を、同じように温めてあげられる資格はあるのか?
いくら許してくれると言われても、一度であろうとヤマメを悲しませた事実は揺らがない。そんな自分の体温を求めてくれるのか。この期に及んで迷う自分の弱さが、また情けない。
迷う彼女の胸の中で、そっと囁く声。
「……パルスィ、さむいよ……」
はっとした。悩んでる場合じゃない。資格とか、権利とか、そんなんじゃない。
ヤマメは今さっき、何と言ってくれた。彼女は与えてばかりだ。パルスィからだって、欲しいに決まっている。誰も強くなんかない。誰だって弱虫だ。誰だって欲しがりだ。
――それで、いいんだ。世の中なんて割とそんな感じだ。案外それでうまくいくんだ。
「……ごめんね」
そっと腕を回した。寒い時期だからか、すっかり冷えたヤマメの背中。優しく擦ると、不思議なくらいの温もりが生まれる。もっと力を込めた。もっともっと感じたい。
「……えへへ。やっぱりパルスィは、やさしいね……」
囁く声に合わせるように、またしても視界が滲む。今日一日で、何回泣いただろう。
すっかり泣き癖が付いてしまった気がするけれど、それも含めての水橋パルスィだ。
――今はただ、あの約束の続きを。まだまだ途中なのだから。
・
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・
「ちょいなぁっ! お待ちどうさん!」
「きゃっ!?」
畳張りの和室。その一枚が突然ひっくり返ったかと思うと、からくり屋敷の如く下から現れた赤い影。幻想郷のRED ZONEと言えば彼女、火焔猫燐。
いきなり自室の畳をめくって現れたその姿に、パルスィは当然困惑した。
「も、もうちょっと普通に……玄関から来なさいよ」
「まーまー、たまにはさ。それよりパルスィよ、もう少しで始まるぞ? もう殆ど集まってて、来てないのはお前さんくらいさ」
「……な、なにが?」
「あれ、聞いてなかったか」
ヒラヒラ手を振る燐だったが、次ぐパルスィの言葉に少々面食らった様子で頭を掻いた。
「っかしーなぁ。最近色々と疲れるコトも多かったし、ここらでぱーっと騒ごうってコトで宴会やるぞーって」
「……あー……なんか少し前、夢の中で誘われたような。地霊殿での宴会……私以外にも、ヤマメとか、キスメに、勇儀も来るんだっけ」
視線を中空に彷徨わせ、パルスィはそんなことを口走る。燐は呆れた顔だ。
「なんだそりゃ。でもまあそれで合ってる。もうみんなお待ちかねだってのに、なかなか来ないから火焔猫特急便さ。さ、こっちだ!」
「え、ちょ」
半ば引きずるようにしてパルスィを家の外まで連れ出すと、そこに停めてあった一輪車に彼女を放り込む燐。
「乗ったか? シートベルトは?」
「あるなら欲しいわよ……」
「んじゃあ出発だ! 振り落とされるなよ……にゃーんっ!!」
「きゃあああ!!」
気合いの鳴き声と共に、燐の靴底とタイヤが土を噛む。ロケットのように加速した一輪車は、まるでホバーのような滑らかさで橋を駆け抜けて行き、やがて旧都へ。
両端の部分くらいしか捕まる所がなく、かなり無防備。その上でこれだけのスピード。風圧で前髪が撫でつけられ、あまり見られたくない顔になりながらパルスィは訴えた。
「ちょ、怖……やだぁ、歩いてく!!」
「途中下車の際は、三回回ってにゃーんと言ってくれ!」
「無理いいぃぃぃぃぃぃ……」
ドップラー効果で低くなるパルスィの悲鳴と、タイヤのドリフト痕を残しながら、風になった燐とパルスィは一直線に地霊殿へと向かっていった。
「……お、やっと来たか……大丈夫か? こないだより更にやつれた気がするぞ」
「スリルとスピードを楽しんで、腹を減らしてきたってトコロだね」
「……あう」
ようやく地霊殿に辿り着いた時、パルスィはすっかり憔悴していた。途中、ショートカットの為に細い路地裏や裏道、二、三メートル級の小さな崖をいくつも飛び越えたりと、正直命がいくつあっても足りない旅路だった。廊下にいた勇儀が思わず心配する程の青い顔で、帰りは歩こうと心に誓う。
――ヤマメが再び姿を現してから、一週間。あれからパルスィは、地霊殿に行くのをやめてしまった。別に何か理由があったわけではないのだが、何となく行き辛かった。
橋の上でぼけっと座ったり、やって来たヤマメやキスメと話をしたり、勇儀に絡まれたり。以前と何ら変わらない日々を送っていた中での唐突な拉致、もといお誘いであった。
「パルスィ、最近なんで来てくれないのさ。おくうやこいし様が寂しがってたぞ」
廊下を歩きながら燐。毎日のように顔を見せていたのに、ぷっつりと途絶えた連絡。心配されてしまうのも止むなしかと、パルスィはばつが悪そうに眉を垂れた。
「……ごめんなさい。ちょっと、その……まだ少し、気持ちの整理が」
「そっか。まあ色々あったからね……あたいはてっきり、久々に夫婦水入らずであまあまな生活でもしてるのかと」
「んなっ!? そ、そんなんじゃないわよ! 別に、べつに、ヤマメとはそんな……」
「んんー? あたい、ヤマメだなんて一言も言ってないのになぁ」
どったーん! と音がしたので見やれば、パルスィが思いっ切り転び、床に突っ伏していた。別に躓く物もなさそうなものだが。
「な、な、なぁっ!? あ、が、う……お燐ー!!」
「あっはっはっは! いつしかのお返しさね」
「いやはは、まるで漫才だな」
腹ばいでじたばたのたうちながら顔を真っ赤にするパルスィを見て、さも愉快そうに二人は笑った。
だが正直な話、燐のおどけぶりが今のパルスィには有難かった。色々あったのだ、向こう何ヶ月分の涙を流したか。こうして笑い飛ばしてくれた方が、ずっと気が楽だ。
自分もこうあれたら、と一瞬だけ思って、少しだけ迷った。羨ましいのは事実だが、燐が燐だからこそ、こんなからかいの言葉が出てくるのではないか。
必死に自分を変えようとして、苦しそうな顔をしていた少し前の自分。どうなんだろう。
悩みかけたパルスィの思考を止めてくれるかのように、燐がポンと背中を叩いた。
「……ま、難しい話なんて忘れなよ。さっきのパルスィ、可愛かったしね」
「ちょ……お燐、やめてよ」
「へへー」
ぎしぎし軋む廊下を歩く時間は、意外な程長かった。何度も開けた襖もとうに通り過ぎ、角を数回曲がった先。似たような襖だが、開くとそこには広い畳張りの空間。
テーブルに座布団、酒類も続々と運び込まれていかにもな宴会場。
「ほーれ、主役の到着だ!」
「うにゅ、パルスィやっと来た!」
「ヒーローは遅れてやってくるって言うしねー」
「ち、ちょっと……」
勇儀に背中を押し込まれる形で宴会場へ入ると、すぐに近くのテーブルを囲んでいた空にこいしが立ち上がって駆け寄ってくる。
あれ以来ずっと見ていなかった二人の顔。嬉しそうだった。やれなんで来なかっただの、やれ寂しがる空を見て燐が嫉妬してただの、やれそれも橋姫の能力かだのと騒ぐ彼女達の表情が、少し遠い場所のように思える。ガラスケース越しに見ているような心地。
本当に、自分のことを言っているのか――普通ならまず考えないだろう、ひねくれた反抗期のようにネガティブな気持ち。誰かと間違えてるんじゃないか。自分はそこまで好かれているのか。自信がまだなかった。あれだけ自分を気遣ってくれていたのに、だ。
周りが楽しそうであればあるほど、そこに混じりたい気持ちと、隔絶されたいような冷めた気持ちとが同時に芽吹いて、みるみる茎を伸ばしていく。
「……」
「でもちゃんと来てくれてよかった。夢枕っぽく伝えた甲斐はあったかな?」
「なんですか、それ」
「こないだの夜中、パルスィの家にこっそり忍び込んで、枕元で囁いたの。今日のこと。深層心理にすり込む感じでさ、わざわざお経みたいに唱えたんだよ?」
「普通に言えばいいじゃないですか! ていうかだからパルスィなかなか来なかったんじゃ」
「うにゅー、こわい!」
ふと意識を呼び戻すと、こいしが何やらまたしても妙な発言で場を沸かせている。
反射的に口が開いた。思ったままの言葉が口を突く。
「まさか、私のお風呂も覗いたりしてないでしょうね?」
「あぁー、やっときゃよかったぁ」
ちぇっ、と指を鳴らすこいし。突っ込みをいれるように、思わず前につんのめった。
「てコトは、やれたらやる気だったのね……」
「もー、そんなコトしなくても言えば一緒に入ってくれるよ? パルスィ」
「ちょっと何言って……え?」
誰のものでもない声がした。声のする方向を見やれば、腰に手を当てて実に楽しそうなヤマメの姿があった。
何も変わり映えのしない――全く見飽きることのない笑顔で、一同を見渡して。パルスィと視線を合わせた。
「ね、パルスィ!」
「ね、って……そりゃ、あの」
「それはそれでいいんだけど、なんていうかこう、こっそりやるのがさ。何も知らない無防備なパルスィを前にしてさ、こう! 溢れ出る衝動と戦いながら……」
「誰があげたんだか知らないけど、こいしになんて能力を与えたのよ……」
滑らかに呆れの言葉が続いた。肩をひょいと竦めると、ヤマメがその続きを引き取る。
「でもいいんじゃない? 結構楽しそう」
「ヤマメもお風呂場に侵入されたいの?」
「ちょっとドキドキするかなぁ。試しに蜘蛛の巣張ってお風呂入ろっかな?」
「あなたねぇ」
更に会話が繋がる。ここで割って入ったのは空だ。
「じゃあパルスィ、今日泊まっていきなよ! んで一緒にお風呂はいろ!」
「ヤマメがいればこいし様対策のトラップもお願いできるし、いいんじゃない?」
「お、言ったな! じゃあ意地でも先に入ってやるもんね! 待ち構えて、こっそり頭に石鹸こすりつけてやるんだから!」
「ヤマメ、今の内に巣張って来て、巣!」
「キスメの桶もトラップにしてさ、お風呂の戸開けたらこう、すこーんって」
俄かに盛り上がるおかしな会話。話には参加せずとも、ヤマメの横でキスメも会話の成り行きを見守りながら、愉快そうにくすくす笑っていた。
こいしを起点にパルスィからヤマメ、そして皆へ。バレーボールにも例えられそうな会話の連携。ヤマメのお陰でもあるが、今度こそ楽しげな会話の中心に、パルスィはいた。
(また頼っちゃったけど……)
皆の顔を見る。笑っている。だったら、いいか。甘えていいんだと、ヤマメの顔を見たらそう思えた。
無理をして、頑張って、会話で相手を楽しませようと難儀したあの日々。辛そうだと言われはしても、それはどうやら無駄ではなかったらしい。
「はっはっは、本当に面白いねぇ。いい余興だ。でもそろそろ、本番だよ」
勇儀が笑って、グラスに酒瓶、料理の乗った皿を並べて準備を進めている。慌てて燐がそれを手伝った。
『楽しみにしすぎて、お腹すいちゃった』などと会話している空とキスメを横目に見ながら、パルスィはそっとヤマメに近付いた。
「……ヤマメ」
「なぁに?」
振り返り、屈託のない笑みで彼女はパルスィを見た。
もし。もしもう一度、ヤマメが自分と話をしてくれるのなら――今となっては、全ては杞憂となったが――どうしても訊きたかったことがあった。騒がしさに紛れて済ませてしまいたい、だけど訊かずにはいられない、恥ずかしくて大切な質問。
「……笑い方。私に、教えてくれる?」
あの日の約束。笑い方が分からない。なら、思い出せるように。そばでずっと。
心の奥底に眠らせた記憶を垣間見た、あの景色。もう途切れ途切れになりつつあったけれど、その約束を忘れてしまうことはなかった。色褪せる前に、答えを聞きたい。
「どうしたら、あなたみたいに笑えるのか……嫉妬とか、自分が嫌とか、そんなんじゃなくってさ。あなたの笑った顔が、すごく……」
恥ずかしかった。面と向かって、大好きと言えるような度胸があるならそもそもこんなに悩むようなことなんてなかっただろう。と――
「……あなたが思ってるほど、難しくなんてないんですよ?」
唐突に背後から声が掛かった。驚いて振り返ると、さとりの姿。
トラウマを徹底的に掘り起こされたあの日以来の再会。背筋が自然と伸びた。パルスィの心の弱さを、情けなさを、誰より近くで見てしまった彼女。パルスィに何を思い、どんな感情を抱くのか。
さとりが、右手を差し出した。よく磨かれた、上等なグラス。彼女は悪戯っぽく、子供のように笑っていた。
「相変わらず、奥手なんですから。言いたいコトはハッキリ言いましょう、ね? 以心伝心とも言いますが、やっぱり言葉が一番です」
「……あ、あなたは言わずとも読んじゃうくせに」
「だからこそ、ですよ。ほら、早く、はやく。冷めないうちに、ほら」
「なになにパルスィ、なんかあるの?」
さとりとヤマメの期待に満ちた視線。思わずたじろいだ。急かすような言葉もそうだが、さとりが随分とお茶目というか、想像してたよりずっと積極的に絡んでくる。
「あなたは悩み過ぎですよ。アレコレと気を遣いすぎて、どうすれば自分以外の誰も傷つかないか、不快な思いをしないかばかり考えて。私達の前では、そんな悩みは禁止です。ましてやせっかくのお酒の席なのに」
「さとり……」
吸い込まれそうなさとりの瞳。憐憫の色はそこになくて、何とも言えない温かい眼差しだった。
すると彼女は、パルスィの目を見てニヤリと笑い――不意に、大声を張った。
「ほら皆さん、パルスィがお腹空いたって言ってますよ!」
「え」
瞬時に、数人の目の色が変わった。
「おっしゃぁぁぁ! パルスィ、これ食え! あたいが作ったんだ!」
「うにゅー! わたしがゆでたんだよー! たべてたべてー!!」
「えっへっへー。しょーがないなぁパルスィは。それじゃあこいしちゃん特製の無意識焼きでもいかがー? あ、黒いのはコゲじゃなくて、無意識の産物だから」
人、それをぼーっとしてて焦がしたと言う。格言めいた声が一瞬だけパルスィの脳内で響き、すぐに彼女の姿はそれぞれ皿を抱えた三人に押し倒されて見えなくなった。
「ああこら、乾杯もしてないのに……まあいい、始めるか!」
勇儀は一瞬だけ止めかけてしかし、はっはっは、と豪快な笑いと共に杯へ向け一升瓶を傾ける。なし崩し的に宴会モード。
「パルスィ、おいしい? おいしい? まだまだいっぱいあるからね!」
「もがぐぐ」
「ちょっと、卵ばっかじゃなくてわたしのも」
「んご」
口の中を絶え間なく浸食してくるゆで卵の食感と戦いながら、パルスィは呻いた。両手に卵を持って更に詰め込まんと待ち構える空と、その横で不服そうに頬を膨らませるこいし。その手には妙に黒い料理が乗った皿。
見かねて、燐がパルスィの分のグラス――さとりから受け取った―― へ、酒を注いで渡してやる。
「喉詰まらせるなよ。はい、飲み物。お酒だけどね」
「んっ……うー。いきなりハードね……」
「よーし今度はわたしのだ! やれ食えー!」
「こいし様、先にあたいのを……うひゃあ」
こいしは嵐のような箸捌きで、切り分けた謎の料理をパルスィの口へ押し込んでいく。その様子に燐は冷や汗を禁じ得ない。
「おうおうパルスィ、モテモテだねぇ。でも料理もいいが酒だよ酒。飲んでるかい?」
杯片手に勇儀が成り行きを見守りつつ、ずい、と酒瓶を突き出す。その腕に手を添えて、キスメがふるふると首を横に振った。こいしの『無意識焼き』で口が一杯なのは明白だ。
それを伝えようとしたのだろうが、勇儀はと言うと若干の思案の末、瓶を持ったままパルスィの側面を取る。
「んじゃあ耳から飲ませるか。丁度いい形してるしねぇ」
「んぐうー!」
「やめてやりなよ、姐さん。それに次はあたいの手料理をだな」
燐の手には肉じゃがの深皿。その普遍的すぎるチョイスにパルスィは涙を流しそうであった。
「えへへ、パルスィがまるで台風の目だぁ」
早くも酔い始めたか、ほんのり赤い顔のヤマメがパルスィの背中に圧し掛かるようにして寄り添ってきた。肩に顎を乗せて笑うと、耳元に息がかかってくすぐったい。
「んっ、ぐ……けほ。な、なんでみんな、私ばっかり」
口の中の物を飲み下して、息も絶え絶えにそんな疑問。すると、
「……ちょっと、失礼しますね。これを」
「え?」
不意にさとりが横に腰を下ろしたかと思うと、第三の目に繋がったコードを一本外して、パルスィへ示した。手に取れ、ということか。
言われるがままそれを握ると――言うなれば、額の裏側。よく分からないがその辺りから、さとりの思念が頭の中で声となって聞こえてきた。
(決まってるじゃないですか。あなたが元気そうだから、みんな安心してるんですよ)
「……」
パルスィは驚き、さとりの顔を見た。彼女は少し恥ずかしそうに笑う。
(一週間、あなたが姿を見せないから。もしかしたら何かあったんじゃないかって。特にお燐は事情を知ってますし、余程何か辛いことを思い詰めてしまったんじゃないかって。何度もあなたの家に行こうとしたんですよ? ヤマメとの再会を知ってるこいしが止めてましたけど)
「……」
「直接言えなんて、言いませんよね? 恥ずかしいです」
今度は口で囁かれた。心を見透かすさとりにもそんな概念があったのか。つい思ってしまったその考えはバッチリ筒抜けで、彼女の笑みはゆっくりと意地の悪いものに変わっていく。
「……なになに? まだまだ全然食べられる、と。食いしん坊ですね、パルスィは」
「え、ちょ」
「よーしよしよし! パルスィ、おかわり自由だぞー」
「パルスィ、塩とマヨネーズとケチャップどれがいい? ねーねー」
「ほら飲んだ飲んだ! ったく、心配かけやがってこのバカパルスィ!」
「食べ足りないなら、今から新しく作るよ? 無意識おでんとかどう? 勝手になんでも煮込んじゃうの」
皿を、箸を、スプーンを、卵を、瓶をあちこちから突き付けられて、パルスィは頭に周り始めたアルコールと共に目をぐるぐる回す。
だが、その向こうにある皆の顔は一様に明るくて――そして、皆が自分を見ている。
今こうしてパルスィが元気に顔を見せたことを、喜んでくれている。
ああ、ああ、ああ。あんなに迷惑をかけたのに、それでも。
目の奥が震える。騒がしい宴会場の真ん中で、心の奥に無言の喜びが、希望が広がっていく。
滲んでいく視界。だが、眠りかけた彼女の意志が目を覚ます。
――楽しい。すごく。みんな笑っている。自分を囲んで。
なのに、どうして泣くの?
「パルスィ!」
ヤマメの声。彼女はこのもみくちゃな騒乱の最中にあって、強引にパルスィの横へと身体を滑り込ませた。身体が密着する形になって、思わず顔が熱くなる。
微かに涙の浮かんだ、深緑の瞳。それを奥底まで見透かすように真っ直ぐな視線を合わせ、ヤマメは言った。
「なんでみんな笑ってると思う? 落ち込んでたパルスィに気を遣ってるから?」
彼女は言葉を一度切って、大きく首を振る。
「ちがうよ! みんな、パルスィと一緒にいて楽しいから。一緒にいられるのが、うれしいから笑ってるんだよ!」
パルスィの腕を抱き締めながら、ヤマメは笑った。
『……あなたが思ってるほど、難しくなんてないんですよ?』
そうか。励ますとか、強くありたいとか。そうじゃない。
楽しければ人は笑う。単純だ。世の中なんて、それで結構うまくいくんだってば。
誰かの笑顔の為に在れる程、強くなんてない。
だけど、それを弱虫と笑うなら、その嘲笑すら誇らしい。
だって、みんなこんなにも楽しそう。
――さあ、ほら。胸を張って。涙を拭いて。
優しいみんなを、愉快なあいつらを、大好きなあの子をしっかりと見て。
得意気に。誇らしげに。胸に広がる、いっぱいの想いを掻き集めて。
―― 笑えよ、弱虫さん!
何もかも、変わり続けていく。昨日の景色も今は過去。
歩いて歩いて、忘れて忘れて。
どうしようもない自分だけが変わらなくて。
――きみのえがおは、だれのため?
歩き疲れて、足を止めて。
ふと横を見る。眩しい笑顔がひとつ。
なにさ。なにがそんなに楽しいの。
――きみのえがおは、だれのため?
ああ、ああ。わかったから。
誰かが横で笑ってる。悪い気はしないけど。
そうなれない私は、なんてみじめ。
――きみのえがおは、だれのため?
妬ましい。
・
・
・
・
・
・
・
・
「結局のところ」
嫌な夢を見た。自分がひたすらに泣いている夢。
誰かが傍に寄って来て、励まそうとしてくれた所で目が覚めた。
そんな日に、明るい顔なんてそうそう出来なくて。
「人は誰だって、独りぼっちなんだよね。
こんなに晴れた空を見てると、特にそう思うの――」
そんな感情を吐き出す。静かな地底に、まるで詠唱のような小さな声。
「もう、何もかもが嫌になっちゃった。
こんな私、あなたはきっと『弱虫さん』って、笑い飛ばすんでしょうけど」
少女の静かな―― というより、暗い声が静寂を泳ぐ。
まるで仏前のようなその空気を、真逆の性質を持った声が押し破った。
「あははは、パルスィったら」
思ってもいなかった笑い声に、橋姫・水橋パルスィは真横を向いた。
「晴れた空って、こっからじゃ空なんて見えないよ、もー」
尚もおかしそうにくすくすと笑う、土蜘蛛妖怪・黒谷ヤマメ。パルスィの数少ない、腹を割って語り合える親友。
地底に架かる橋、その欄干にもたれたまま、彼女は深く息をつく。笑いすぎて少々酸素が足りなくなったらしい。
「別に、ただの比喩よ。何がおかしいのよ」
冗談と受け取ったヤマメに対し、発言者のパルスィはちょっぴり不服そうに唇を尖らせた。
「んー? だってパルスィが急にヘンなコト言うから。知恵の実でも食べたのかなって」
「あなたはお気楽そうでいいわね」
「えへへー」
皮肉っぽく言うも、ヤマメはまるで意に介した様子がない。柔和な笑みを彼女へ向けるだけ。
鬱屈、なんて言葉とはまるで無縁そうな彼女の笑い顔。パルスィは思わず、顔を背けた。
(何がそんなに楽しいのかしら)
正直に言えば、妬ましい。ここ最近は、訳もなく気持ちが沈むことが多い彼女にとって、ヤマメの笑顔は眩しくてしょうがない。
果たして何が彼女をそうも笑わせるのか。自分が食べたのが知恵の実なら、彼女は笑い茸でも食べたのか。
「あれ、どこ行くの?」
橋の欄干に預けていた身体を浮かせ、ふらふらと歩き出したパルスィ。ヤマメが尋ねるも、
「別に……ちょっと出かけてくるだけよ」
ぶっきらぼうな返事だけ。返すだけ有難いと思って欲しい、なんて言葉が一瞬だけ頭を過ぎった。
これで相手が古明地さとりなら気まずい空気のひとつも流れたかも知れない。だが、相手はヤマメだ。
「そっかぁ。気をつけてね!」
相変わらずの笑顔で、手を振っているのだろう。振り返らなかったが、分かっていた。それが余計に嫌だった。
わざと早足になって橋から離れる。向かった方向は地底のより深い場所。
(あの子は、なんであんなに笑ってられるの?)
歩きながら考える。ヤマメには悩みなどないのだろうか。それとも、自分が悩みを持ちすぎているのだろうか。
明るくて、眩しくて、とっても可愛い笑顔。見ているだけで、心裏腹に気持ちが沈む。
朗らかでよく笑うヤマメは周りからの人気も高い。塞ぎがちな自分とは大違いだ。
そんな自分が、彼女のようになれないことへの苛立ち。どうにか、直接彼女へぶつけることなく接していられるのは幸いとしか言えない。
「何か、面白いことでもあるのかしら」
呟き、何もない虚空にため息を吐く。
ここでの生活もそれなりに長く、笑える出来事だってそれなりにあった。友人と過ごす時間なんか最たるものだ。
だがそれでも、元はと言えば厄介な能力を持つせいで地底へと―― 光の差さぬ片隅へと追いやられた身。
そのことを考えると、多少愉快な出来事があっても、やがて冷めてしまうのだ。笑っている場合なのだろうか、と。
(私が悩みすぎなの? それとも……)
思えば、ヤマメはいつだって笑っている。パルスィと顔を突き合わせている間は、常に明るい表情を崩さない。
彼女が落ち込んでいる所なんて、見たことがないかも知れない。まるでパルスィとの釣り合いをとっているかのように。
何が彼女をあそこまで笑顔にさせるのか。気になって仕方ないし、そこまで笑っていられる彼女の精神が羨ましくもあった。
ヤマメのことは好きだ。いつも明るくて優しい。いつだって自分を気にかけて、珍しく楽しそうなら一緒に笑って、落ち込んでいれば励まして。
そんな彼女の存在を有難く思うと同時に、妬んでしまう。一緒にいたい。いたくない。ぐるぐる渦巻く感情が、パルスィを疲弊させる。
(ヤマメ、あなたは……私を見て何を思ってるの?)
知りたい。彼女の笑顔の理由が。顔に何かついている、なんてものではないことくらい分かる。何十年、何百年。本当にそんな理由だったとしたら、それはもう顔の一部だ。
同じように笑いたい。横にいる誰かに確かな明るさを分け与えられる、あの光が欲しい。
妬む自分は好きではないが、それを変えられるのなら。明るくなりたい。
悶々と悩みながら歩くパルスィは、いつの間にか来た道を戻っていることにも気付かない。
「パルスィ、おかえりー!」
「……あれ?」
目の前にはいつもの橋があって、その上で手を振るヤマメが。
「もういいの?」
「……今からよ」
小首を傾げるヤマメ。可愛らしい。思わず視線を逸らした。無性に悔しかった。
どっちが人に好かれるかなんて、明白なのだから。
・
・
・
・
「パルスィか。どうした、そんなに静かで」
「年がら年中騒げるそっちが変なのよ」
この場所はいつだって少し寒いが、目の前の相手はいつだって騒がしい。
地底の鬼、星熊勇儀。常に杯を手放さないその武士道にも似た精神は、見習うべきかも知れない。
ヤマメと自分を知る共通の親友。最初に浮かんだのが彼女だった。
勇儀がヤマメの笑顔の理由を知っている、とまでは思わないが。何か意見を貰えるだろうと踏んでの訪問だった。よもや答えを知っていたりなどしたら、それはそれで。
「で、どうした? 酒盛りに付き合ってくれるなら大歓迎だけどさ」
「やめとくわ。今はそういう気分になれないし……なんていうか、相談みたいなのが」
「ふぅん。ま、座りなって」
とりあえず、と勧められた座布団に座る。酒は飲まないようだから、と勇儀は緑茶を淹れて持ってきてくれた。
場所は勇儀の自宅、座敷にて暫し対面。杯を二回ほど空け、彼女は笑った。
「……で、何をそんなに悩んでるんだ?」
「え、ちょ……私はまだ、何も」
「分かるよ。そんな景気の悪いカオされたら、十中八九悩み……それもそうだな、人間関係とか、他人に関するコトだろ?」
驚き、その顔を見る。『当たってるだろう?』と言わんばかりな、勇儀の得意気な顔。
ただの酔っ払いじゃない、確かな観察眼。これが鬼の実力かと、それなりに長い付き合いでありながらパルスィは関心してしまう。
観念したように頷き、今度は彼女が口を開く。
「その、さ……ヤマメに関するコトなんだけど」
「ヤマメぇ? なんだいなんだい、いっつも仲良しじゃないか。羨ましいよ。おノロケなら酒に付き合ってくれたら聞いてやるけど?」
「ち、違うわよ! の、の、ノロケって……」
「はっは、やっぱり面白いなパルスィは。今のは冗談にしても……ヤマメの何で悩むって言うんだい? あんなに仲良しなのに」
茶化され、顔を真っ赤にするパルスィ。勇儀は心の底から、彼女との会話―― からかうことも含めて―― を楽しんでいるようだ。
咳払いで恥ずかしさを誤魔化し、彼女は続けた。
「こほん……で、ヤマメのコトだけど。あの子、いっつも笑ってるわよね。まるで悩みなんてないみたいにさ。
一体、何がそんなに楽しいのかなって……直接は訊けないから、勇儀は何か知らないかなって思って」
正直に打ち明ける。すると、勇儀は少しばかり表情を引き締める。
「ははぁ。でも、ヤマメが笑ってたら何がいけないんだ?」
「い、いけないなんて一言も」
「いーや、私は誤魔化せないよ。パルスィは明らかに、ヤマメがいつも笑ってることに対して、例え微かであっても苛立っている……違うかい?」
「……」
沈黙は、何よりの肯定の証拠。微かに肩を震わせるパルスィ。何かを堪えようとしているかのような様子に、勇儀はふっと笑った。
「なるほどなるほど。パルスィ、もしかして……本当はヤマメのこと、嫌いなのか?」
「なっ……!?」
思ってもいない言葉が飛び出し、パルスィは瞬間的にパニック状態へと陥っていた。
「ば、ば、馬鹿なコト言わないでよ!! ヤマメが嫌いだなんて、そんなワケないじゃない!!」
「落ち着けって、冗談に決まってるだろ? そこまで過敏に反応するとは思わなかったんだ、許しておくれ」
思わず両手で制する勇儀。冗談と分かり、ようやくパルスィは落ち着きを取り戻す。
「やれやれ。自分がこんなに悩んだり、不安を感じているのに、いつも笑ってられるヤマメが羨ましい。
そしてそれと同時に、どこか無神経だとも感じてしまう……実際には、そんなところか。
パルスィよ、ヤマメにゃあ心を読む能力なんてないんだぞ? 何も言わず、お前さんの心情を察してくれなんて、ムシが良すぎる」
「……分かってるわよ」
「分かってんならいいけどさ。どうにも、お前さんの悩みとやらが変な方向に向いてる気がしてな、先に釘を刺させてもらったよ」
ヤマメにはなくとも、勇儀にはあるんじゃないか―― ちらりとそんなことを考えたが口には出さない。
ふむぅ、と顎をつまんで少し考え、彼女は口を開いた。
「悪いが、私は何も知らないんだ。そもそも、ヤマメとの付き合いだったらパルスィの方が長いだろうに。
何か心当たりとか、ないのか? 毎日のように会ってるはずだろ」
「思いついてたら、わざわざ尋ねないわよ。じゃあ一体何なのかしら……」
「でもま、今に始まった話じゃないな。ヤマメが笑ってるなんてさ。あれだけ明るくあれるっていうのは、もう一つの才能だな。素敵なものを持ってるよ、ヤマメは」
勇儀はしみじみとした口ぶりでそう続け、
「由来があるとすれば、昔だな。或いは元来の性格か。いずれにせよ、上辺のモンじゃない」
最後にそう言って締め括った。パルスィにもそれは分かっているつもりだった。
答えが分かったわけではないが少なくとも、疑問の前進にはなった。
「その……ありがとう、参考になったわ。邪魔してごめんなさい」
パルスィは立ち上がる。が、勇儀が呼び止めた。
「ああ、その前に」
「?」
「……ヤマメが何か企んでるとか、本心では実は……とか。そんな仮説を持ってるなら今すぐ捨てな。あいつは純粋にパルスィが好きなんだろうよ」
「え、ちょ!? きゅ、急にそんなコト言われても」
真顔で妙に恥ずかしいことを言われ、顔を赤くするパルスィ。だが彼女はどうやら真剣なようだ。
「間違いないよ。まあ今に分かるだろうね」
「……」
はっはっは、と豪快な笑い声に背中を押されつつ、彼女は外へ出た。
(まったく、変なこと言わないでよ)
未だに顔の火照りが収まらない。確かに、笑顔と言えば好意の証。だが、そんな純粋かつ短絡に考えられる程、今のパルスィは明るくなれない。
それに、肝心の疑問にはまだ答えが出ていない。
(他に、私とヤマメをよく知ってそうな人……)
いくつか心当たりがある。確かにあるのだ。
―― その事実がどれだけ素晴らしいことかを、彼女は忘れている。
・
・
・
・
橋のたもとに、今日も一人。
しゃがんだまま膝に頬杖をついてため息。特にやることも見当たらない。
結局、昨日は勇儀と別れた後はそのまま帰ってしまった。
「……」
無言。まあ、声を発する必要性もないのだが。
しかし重苦しい空気に耐えかねたのか、パルスィは不意に立ち上がった。
このままじっとしていたら、カビが生えてきてしまうかも知れない。湿度もそれなりにあるから尚更怖い。
気晴らしに買い物でも行こうかと、背を反らして伸び。こき、と腰の辺りで微かに音が鳴る。
上着のポケットを探る。財布が入っていることを確認した、そんな時。
こつ、こつ。
「……!」
靴底が硬い物を叩く音。何者かが、橋を渡っている。
地底に住む妖怪の大半はこんな所を通るのにわざわざ歩かない。飛び越えてしまう。
ご丁寧に地に足を付けて通りすがるのは、運動目的か、迷い込んだ人間か、そうでもなければ――
(やっぱり)
パルスィの予想は的中した。橋をわざわざ歩いて通る数少ない存在、ヤマメがこちらへ向かって来る。
その手には空っぽと思しき手提げ袋。どうやら彼女も買い物目的のようだ。
思わずその場に再び座り込む。前方の地面を見つめ、いつものようにぼーっとするフリ。
やがて足音が大分大きくなったかと思うと、じゃり、と靴が乾いた砂を噛む音に変わった。橋を渡り切ったらしい。
それと同時に、足音が止まった。
(こっち見てる)
分かっていた。そしてこれまたいつものように、満面の笑みを向けているのだろう。
いつ声がかかるか。何かに怯えるかのように、パルスィはその瞬間を待つ。
しかし―― 橋の上に比べて小さくなった足音が、再び鳴り始めた。段々と遠ざかっていく。
「え?」
拍子抜けた声が口を突いて出た。絶対に何か声を掛けられる、そう思っていたのに。
もし名前を呼ばれたなら、また昨日と同じことを考えてしまって憂鬱になったかも知れない。
だが、声を掛けられなかったならなかったで、寂しい。
なんてワガママなんだろう。
「や、ヤマメ!」
瞬間、素早く立ち上がってその名を呼んでいた。パルスィに背を向け―― 行き先上当然だが―― ていた小さな背中が、ぴたりと止まった。
「あ、パルスィ! どうしたの?」
振り返ったヤマメは、やはり笑顔だった。そのまま、嬉しそうにとてとてと寄ってくる。
その笑みを見た瞬間の、パルスィの心境―― 上手く言えない。その可愛らしい笑顔にどきりと心臓が跳ね、彼女のように笑えない自分を思って少し嫌になり。
何より、彼女が自分の名を呼んで、笑ってくれたことが嬉しい。針の上でぐらつくかのように繊細な想いが絡み合って、何を思えばいいのか分からない。
「どうしたって……な、なんで黙って行っちゃうのよ」
「あー、ごめんね。なんか疲れてそうだったから、あんまり声かけない方がいいかなぁって」
自分がどれだけ変なことを言ってるかは、分かってるつもりだ。声を掛けろ、だなんて暗黙のルールを作った覚えもない。
だがそれでも、ヤマメは申し訳なさそうに眉を垂れる。彼女に非はない筈なのに。
(疲れてるだなんて……)
こちらから声を掛けるどころか、目を反らして無視しようとしたパルスィの心境を、見抜かれていたのだろうか。
ヤマメと話せば、彼女はとっても嬉しそうに笑う。それを見たパルスィは自分自身と比較して、気持ちが沈む。
だからあまり話し掛けられたくなかった―― それを否定するつもりはない。だが今の彼女は、声を掛けなかったヤマメに謝らせている。
何も言わずに去ってしまうなんて、寂しい。友達なら―― そう思ってくれているなら、何かしらの反応が欲しい。
(まったく……)
―― 本当に、なんてワガママなんだろう。
「で、どうしたの?」
「……別になんでもないわよ」
「そうなの? ならいいんだけど……」
自分から声を掛けておきながら、彼女の質問にはぶっきらぼうな反応。かと言って明るい反応も出来ず。
どうしたものか、と考えて数秒。『そうだ』と、急にヤマメがポンと手を打った。
「パルスィ、今ヒマ? 良かったらさ、一緒にお買いものでも行かない?」
「え」
思ってもいない―― 否、心のどこかでは期待していたお誘い。
当然、首を縦に振るのが当たり前だと思っていた。だが、
「あ、えっと……ごめんなさい。せっかくだけど、今日はちょっと体調が良くないから遠慮するわ」
口を突いて出たのは、またしても否定の言葉だった。
「そっか……それじゃしょうがないよね。具合悪いのに立ち話させちゃってごめんね」
「べ、別に……」
申し訳なさそうに頭を下げるヤマメに、パルスィは口数少なく首を振る。
理不尽すぎる、とは自分でも思っていた。何故ヤマメが謝る必要がある? 何故嬉しい誘いを断った?
(私、どうしたんだろう)
薄ぼんやりと考えるも、本当はパルスィには分かっていた。
いつも楽しそうに笑っているヤマメを、妬んでいる。だから、彼女がどうすれば笑わないかを考えているのだ。
天邪鬼、と一言で片付けられる範疇かは、怪しい。
(好きなはずなのに……)
そんなのは、本当に友達と呼べるのだろうか。
思い悩み、顔にかかる影を濃くする彼女の様子に、ヤマメが少し慌てた。
「パルスィ、大丈夫? なんか顔色悪いよ……早く休まなきゃ。家まで送ってくよ」
「は、へ? い、いいわよ。そんなの……」
「ダメだよ、風邪とかならこじらせると大変だし……ほら、行こ?」
「………」
笑顔でなくても、その顔を見ているだけで従ってしまう自分がいる。黙って伸ばした腕をヤマメがくぐり、首に乗せて肩で支える。
肩を貸した格好になり、ゆっくりとパルスィの自宅方面へ歩き出した。
「迷惑じゃなかったら、あとでお見舞い行ってもいいかな。何か食べたいものとかある?」
「嬉しいけど、気持ちだけで十分よ……その、移したら悪いし、そこまで迷惑かけられないわ」
「そんなのいいよぉ。パルスィのためなら迷惑なんて全然思わないって」
間近で向けられた笑顔は、心が煤で汚れた今のパルスィにとってはあまりに眩しかった。
・
・
・
・
重い足を動かして、奥へ、奥へ。
元より薄暗い地底の明度はますます下がり、その不気味な光景はそこに住まう者とて足を鈍らせる。
パルスィは今まさに、地底の更なる奥地へと足を踏み入れていた。
とは言え、何度も行った場所ではあるのだが。
「相変わらず、どうやって建てたのかしら」
地霊殿。その重厚な佇まいに、思わずそんな言葉が漏れる。
建築技術は今はいい。それより、会わねばならない人物がいる。
気配を察したのか、足を踏み入れる前に入口より、ぴょいと飛び出す赤い影。
「およ、パルスィじゃないか。いらっしゃい」
地獄を駆ける赤い猫、火焔猫燐。トレードマークのおさげを揺らし、見知った来客に嬉しそうな顔。ぴこぴこ、と耳が動く。
入り口から上半身を突き出した状態の彼女に、パルスィは声を若干潜めて尋ねた。
「その……さとりは、いる?」
「さとり様? いるよ、普通に居間でのんびりしてる。さとり様に用かい?」
「え、ええ」
「あい分かった、ついてきな」
くるりと踵を返す燐に続いて、内部へ足を踏み入れる。
歴史的建造物のような佇まいでありながら、その実は割と普通な印象を受ける。平たく言えば巨大な家、永遠亭に近いものを感じる。
元よりそうなのか、改修したのか―― 気を紛らわす意味も含めたその議題だが、考えを巡らせる前に燐の背中が止まる。
これまた改修したのか、いつの間にか木張りの廊下に襖という和風な空間。その内一枚の襖を開け、彼女は首を突っ込んだ。
「あ、いたいた。さとり様、お客さんですよ」
「ありがとう、通してあげて。お茶も出してあげてね」
「はぁい。こん中、入って。今お茶持ってきてあげる」
振り返った燐はウィンク一つ、パルスィの背中をポンと叩いていそいそと廊下を小走りで去っていった。ひょっとして、何かを勘違いしているのかも知れない。
まあ今は、目的の人物を前にしているのだ。早い所、彼女との話に移ろう。
「お邪魔します」
「はいどうぞ。今更って感じもしますけどね」
一応、の挨拶をしながら襖を開けると、畳張りの部屋の真ん中で、炬燵と座布団に座った古明地さとりが、くすりと微笑みで出迎えた。
彼女に勧められるまま、炬燵を挟んで向かいに座る。既に座布団も用意されていた。
上に乗っていた、煎餅やビスケットがぎっしり詰め込まれた編みかごをパルスィの方へ押しやり、さとりは再び笑う。
心を読めるくせに、その上言葉を用いずに物を言う。口で言うよりも強い意志伝達能力。
従うしかないじゃない、と心の中で言い訳をし、彼女は煎餅を一枚手に取って半分に割った。
「いただきます」
「お好きなだけ」
どうにも苦手な相手だ。嫌いというわけではない。だが彼女の前では何もかもを見透かされてしまう。それが怖い。
割った煎餅の一口目をかじった所で再び襖が開き、お盆を手にした燐が現れた。
「はいよ。んじゃ、ごゆっくり」
「ありがと」
湯気を立てる湯呑みをパルスィの前に置き、急須をかごの横に置くと、燐はそそくさと部屋を出て行った。正直に言えば、もう少し居てくれると嬉しかったのに。
少々手持無沙汰になりつつ、湯呑みを手に取って息を吹く。ふぅ、ふぅ。
漂う緑茶の良い香り。少しだけ、心に余裕が出来た。
音を立てて啜り、息と一緒に湯呑みを戻す。顔を上げたら、さとりと目が合った。
「はい、なんでしょう」
「その、相談事があるんだけれど」
心を読めるのだから、パルスィの考えなど分かっている筈。だが彼女はそれを先に言うことはしない。
彼女なりの気遣いだろうか。今はそれが、少しだけ有難い。
「その前に、なんでいつも敬語なのよ」
「お客様ですから」
―― 掴み所がない。にこにこと笑みを崩さぬさとりに、思わずため息。
ここはさっさと本題に入るべきだろう。目の前の相手には、その考えすらも筒抜けだが一々考えてもキリがない。
質問以外の雑念をシャットアウトし、口を開く。
「今更だけれど……あなたは、心を読めるのよね?」
「ええ、まあ。心と言いますか思考と言いますか……とにかく、考えていることが分かり……分かって『しまいます』ね」
わざと強調するさとり。少しだけ目を伏せた彼女の顔を見て、パルスィの心にも幾許かの罪悪感に似た感情。
彼女は既に自分の考えを読んでいるだろうから、余計に口が鈍る。
頬の内側を解すように、湯呑みに口をつける。ずず、と音を立てて一口。何とか喋れそうだ。
「……私の友達が何を考えているのか、読んで教えてもらうっていう相談は出来ないかしら?」
「出来ません」
待ってました、と言わんばかりの即答だった。
「どうして?」
「いくつかありますけど……単純にプライバシーの問題とかですね。心の中というのは当人しか立ち入れない聖域です。
勝手に人の机の引き出しをこじ開けて、中にある日記やその人宛てのお手紙を読んだりするのは、良いことと言えますか?」
ああ、そうだ。そんなのは分かりきっている。目の前にいるのは、見たくなくとも見えてしまう能力の持ち主。今までどれだけ辛かったか、想像することしか出来ない。
だけど――
「それは分かってる……けど」
「……お友達、ですか。信用してあげられないのですか?」
「!!」
ぼうっ、とさとりの目に奇妙な光が宿った気がした。目をぱちくりさせてみると、別段変わったこともなく、こちらを真っ直ぐ見据えている。
「……まあ、そうでないというのは分かりますよ。本当はその子が大好きで、信じてあげたい。
けれど、漠然とした不安を打ち消せないでいる。このままでは、自分の心が悲鳴を上げる。分かってます。
彼女が向けてくれる笑顔の意味を知りたい。もっと言えば―― 本当に好意からくる笑顔なのか確かめたい」
全くもって、その通りだった。彼女の前で、隠し事は不可能だ。きっと第三の目を閉じたとしても、自分の心を見透かしてくるのだろう。
(そして、ヤマメのように私も笑いたい)
嘘偽りのない、正直な気持ち。目の前の彼女に聞こえるよう、強く念じてみた。
と、やや真剣な顔つきをしていたさとりは不意に、ぷっと吹き出した。軽く耳を押さえる。
「声が大きいですよ、そんな強く思わなくても分かってますって」
「めんどくさいわね」
何だか無性に恥ずかしくなり、パルスィは頬をほんのりと赤く染めた。湯呑みを手に取って口に運び、誤魔化す。
それを置く頃には、再びさとりは真剣な顔に戻っていた。
「あなたは、本当にヤマメのことが好きなんですね。だったら、額面通りに受け取っていいんじゃないでしょうか。
好きな人が笑ってくれないっていうのは、とてもとても、辛いことです。あなたはその逆です。贅沢者です」
「それも、分かってるわよ」
「だったら」
「けど」
短い言葉が交わされる。その中で、それ以上の言葉を用いる前に心が会話を交わす。さとりが少しだけ、眉をひそめた。
「……怖い、のですね」
パルスィは、そっと頷いた。隠したってしょうがない。
ふぅ、とさとりは息をつき、やや冷めた自分の湯呑みを手に取る。一口で半分以上空け、それを置きながら続けた。
「しかしながら、他者の心情を筒抜けに教えてしまうということは出来ません。あなたの気持ちは分かりますが……。
いっそのこと、本人に尋ねてみるのも手かも知れませんね。彼女の性格なら、きっと答えてくれると思いますよ」
「それが出来たら苦労しないわよ」
―― 情けないけれど、それが正直な気持ち。
地霊殿を後にしての道すがら、パルスィの脳裏にはさとりの一言がこびりついて離れない。
『……怖い、のですね』
そうだ。
(怖い……ヤマメの本当の気持ちを知るのが、たまらなく怖いんだ……)
もし。もし、あの笑顔に何か裏があるんだとしたら。それを知ってしまったら。
何よりもあの笑顔が好きな自分が、それに裏切られたら。
いくらぶっきらぼうな言葉と顔で虚勢を張っても、心に滲み出る恐怖を隠すことは出来ない。さとりの前で、それが露呈した。
(そんなはず、ないよね……?)
さとりは、『せめて相談くらいなら乗れますから、いつでも来て下さい』と言ってくれた。
明日辺り、また行ってしまいそうだ。苦手な相手なのに、縋りたい気持ちでいっぱいだ。
ヤマメが今のパルスィの心境を知ったとしたら、何を思うのだろう。
・
・
・
・
吐くため息が、焦げ茶色の景色に揺らいで消える。
ルーティンワークと化した、橋の傍での座り込み。
パルスィの顔色は、優れない。
(結局、どうすればいいのかしら……)
さとりは、額面通りに受け取れば良いと言った。だが、そこまで彼女は素直になれない。なれたらそもそも悩まない。
一番の親友をも疑ってしまう、自分の捻くれ加減が嫌になる。
今まで彼女がどれだけ笑おうと、癒されこそすれ避けたくなることなんてなかった。
何故、今になって――
(私は、ヤマメがキライなの?)
勇儀にからかい半分で言われた時は、自分でも驚くくらい過剰に反応し、否定した。
だが彼女の笑った顔を見ると胸が痛くなる。笑顔を避けたくなるという事実。
ぶんぶん、と首を振った。
(そんなワケない。だってヤマメは、私の――)
続きが、出てこない。私の、何なんだろう。友達、の一言では表せない、何かが。
と――
「やほー、パルスィ。身体の方はもういいの?」
「ふひゃぁっ!?」
真横から不意打ちに声を掛けられ、飛び上がらんばかりに驚いた。
首を横に向けると、頭の中で描いていたのと、全く遜色のない笑顔が目の前にある。
「や、ヤマメ……」
「ごめんね、お見舞い行けなくて。地上に用があったの思い出しちゃって……。
でも、今日もいつも通りにここにいたから安心したよ。何かあったらどうしようって」
一瞬申し訳なさそうな顔をしつつも、彼女はすぐ明るい顔に戻ってパルスィの隣に座り込む。
直視が出来なくて、ふいっと視線を逸らした。直前まで彼女を疑るような考えが頭の中で渦巻いていたのだ。
なのにそう簡単に顔向け出来る程、パルスィは図太くない。そうだったらそもそも悩まない。
「べ、別に大丈夫だから……あなたに心配されるまでもないわよ」
「ホント? よかったぁ」
敢えて突き放すような声色で言ってみるも、ヤマメはまるでその意図を汲み取ってはくれない。
一層の嬉しそうな声で笑うのだ。パルスィの首の角度が更に深くなる。
「ちょっとだけあったかくなってきたけど、まだまだ冷えるもんね。風邪とか気を付けなきゃ。
地底は特にあったかい所と寒い所の差がはげし……」
「……」
「ねぇパルスィ、首、どうかしたの?」
「へ?」
喋り続けていたヤマメが不意に尋ねてきたので、思わずパルスィは背けていた顔を彼女の方へと向けていた。
「だって、なんかさっきからずっとあっちの方向いてるし……寝違えたとか?」
「ち、違うわよ」
「大丈夫?」
「大丈夫だって。心配性ね」
普通に考えれば、ヤマメの感覚が常識的だ。そんなに明るく接されるのが辛いのか、パルスィの首の角度はずっと続けていれば確実に首を痛めるレベル。
理由がないのならそんな角度を保つなんて有り得ない。それを心配したヤマメの言葉にも、彼女はつっけんどんだ。
「それなら、いいんだけど……」
「……」
安堵の息をつくヤマメに、パルスィの首の角度は再び戻っていた。
自分でも、よく分からない。嫌われるのが怖いのに、いざ前にすると素直に話せない。
拭い切れない不安と嫉妬が、彼女を天邪鬼へと変えていた。元々かも知れないが。
(ヤマメは今、どんな顔をしてるの?)
気になるが、顔は動かせない。最早、彼女の反応を確かめる為のテストと化していた。
親友を試すような行為だが、不思議と胸は痛まない。
と、横に座っていたヤマメが少し、身体を浮かせた。そのままもう少しパルスィに身体を寄せる。
「ちょ、ちょっと」
密着しそうな距離。冷たい振りをしていても、やはり顔が熱くなる。これでは台無しだ。
幸い、彼女はパルスィの顔を見てはいない。
「んしょ」
「……?」
パルスィが背けた顔の方向に首を伸ばし、顔を少しずつ動かして何かを見ようとしている。
思わず尋ねた。
「ヤマメ、何してるのよ」
「んー? だってパルスィがずっとあっち見てるからさ。何か面白いものでも見えるのかなって」
彼女はそう言うとパルスィの顔を覗き込み、また笑った。一片の曇りもないその笑顔は、パルスィの心中など知る由もない。
目と目が合った瞬間、ぎゅっ、と心臓を握り締められるような感触に襲われ、少し眉をひそめた。
(……少しくらい、疑問に感じなさいよ……)
苛立ちにも近い感情が湧いてきて、思わず唇を噛む。
これっぽっちもパルスィを疑うことなく、その行動全てに正の意味があると思い込んでいる。
「ダメだぁ、なんにも見えないや。パルスィ、ひょっとして霊感あったりする?」
「幽霊亡霊が跋扈する幻想郷で何言ってるのよ」
「あー、それもそうだね」
ぷるぷる、と首を振るヤマメ。彼女の質問に目も合わせず答えると、感心したような声が返ってきた。
最早、自分で自分の考えが分からない。好きなのに突き放すような態度で接し、寂しいくせに目をそらす。
悶々と悩んだまま固まるパルスィを前に、ヤマメは次の話題を探している。余程、彼女と話すのが好きなのだろう。
「んーと……そうだなぁ」
「……ヤマメ、ちょっと黙っててくれる?」
不意にそんな言葉が口を突いたので、自分でも驚いた。パルスィの口が言葉を発するのは、半分くらいはヤマメと話す時。
それが嫌な筈なんてないのに、訳もなく彼女の声を聞くのが辛くなった。
当然、話好きなヤマメは傷付く―― そう思った。
「え? あ、ごめんね」
しかし、彼女はムッとした顔一つせず、それどころか微笑むと同時に頷き、口をつぐんだ。
これにはもっと驚いたパルスィ、思わずまじまじと彼女の顔を見てしまう。
「?」
言われた通りに口は開かず、ヤマメはちょいと小首を傾げた。
ますます、分からない。分からないことは、そのまま苛立ちへと姿を変える。
「……ちょっと」
「?」
「もう喋っていいわよ。じゃなくて、なんで怒らないの?」
「怒る、って……なんで?」
「なんでって」
思わず、がばっと顔を上げながらパルスィは問い詰める。
「何の理由もないのに、いきなり黙れって言われたのよ? 普通怒らないの?」
自然と強い語調になる彼女の言葉にも、ヤマメは怯えた顔一つしない。
「え? だって、パルスィがしゃべらないでって言ったんだし、何か理由があるんでしょ?
だったらその通りにするよ。もう大丈夫なの?」
その瞳には、一片の曇りもなかった。この世の希望を掻き集めたような眼差し――パルスィの目を、胸を深々と突き刺すその光。とうとう、パルスィの中にある何かが、音を立てて断ち切られた。
「あ、ちょっとパルスィ!?」
彼女は不意に立ち上がると、ヤマメの声にも反応せず背を向けて走り出した。地面を蹴り、出せる限りのスピードで低空を駆ける。
肺の底から湧き出す二酸化炭素を大振りな呼吸で吐き出しながら、苦しそうな顔を隠そうともしないパルスィはやがてその場所へ辿り着いた。
地霊殿。先日のように誰かが出てくるのも待たずに入り口から飛び込む。再び自らの足で走りながら、探した。先日と同じ襖を。
しかしそれを見つけるより早く、声が掛かった。
「どうしたのですか?」
「!」
廊下の奥。やや暗い照明のせいでその小さな身体を半分薄闇に溶かしながら、ゆっくりと歩み出てくる人物。さとりだ。
ごくり、喉が鳴った。目の前にいる覚妖怪に言いたいことを先読みされる前にと、口が回り出す。
「……もう一度、お願いするわ。あの子の……ヤマメの心を、読んで欲しいの」
「出来ません」
テンプレートのような即答。しかしパルスィは食い下がった。
「分かってる。卑怯な行いだなんてコト。だけど、私はどうしても知りたい。ヤマメが何を思って私と……」
言葉が途切れた。さとりが口を挟む様子はない。頭を振り、パルスィは声のトーンをもう一段階上げた。
「……私と! 私と付き合っているのかを!」
「そんなの、あなたが好きだからじゃないんですか? そしてあなたもヤマメが好き。それでいいじゃないですか。何をそんなに怯えているんですか?」
気のせいだろうか、さとりの声色は先日のあの時より、どことなく冷たい。先日と同じことを言わせたからだろうか。
――何も分かってくれていない。彼女は、今自分自身がどれだけの爆弾を抱えているのかを知らない。心が読めるから。悩むことなんてなく、人の考えを、人付き合いの先に見える答えを知ることが出来るから。
人の気持ちも知らないで――そう思うとますます体温が上がっていく。パルスィは一瞬だけ、タメを作った。慣れない大声を張り上げる為だ。
「――そんなの、分かりっこないじゃない! 私みたいな嫉妬狂いを、好きになれる要素なんてどこにあるの!? もし、もしよ。あの子が何か腹に一物抱えて私の傍にいるんだとしたら! もし、口と顔に嘘のフィルターを被せて、心のどこかで私を馬鹿にしてるんだとしたら!」
「どうしてそんなことが言えるんですか? 今までのあなたなら」
「確信なんてないわよ。でも、あの子が私を純粋に想ってくれてるなんて確信だってどこにもない!」
一度堰を切れば、最早止まることはない。頭が空っぽになるその瞬間まで、パルスィの口はどろどろに濁った思念を吐き出すばかり。それを見つめるさとりの瞳が、少しだけ揺れた。
「なんで。なんであの子はあそこまで私を良く思えるの? 私の行動、言動、思想。それらを何一つ否定しない。どんなにネガティブな言葉を吐いてもフォローしてくれる。あまつさえヤマメ本人を攻撃しても意に介さない。自分が折れる。自分が謝る。ただの一つでさえ私を曲げさせず、自分だけが言葉に生えた棘で傷付いていく! いや、傷付く様子すらない!」
「……」
「私はあの子の何なの? 本当に想ってくれてるの? おかしいでしょう!? あそこまで私をフォローしてくれるなんて……こんな私を! 何の得にもならない、何の楽しみも見出せない! これで私をからかってるんじゃないとしたら何なの!?」
「……あの、もう」
「私……わたし! もう、ヤマメが信じられない!! あの子の優しさが、笑顔が信じられない!! 教えてよ!! あの子は……ヤマメは、私に向けた笑顔と、優しい言葉の下に何を隠してるの!?」
しん、と静まりかえる廊下。一寸前まで響いていた、パルスィの心を切り裂く言葉の爆撃が止んだことで、無言の静寂はますます重みを持って向き合った二人に圧し掛かる。
喉を嗄らしながら叫んだパルスィは、肩で息をしている。その緑色の目は別れる直前のヤマメと対照的に、不気味な濁りを湛えていた。
乾いた唇の端から、ひゅう、ひゅう、と隙間風のような息遣い。そんな彼女はやがて軽く咳込み――ふと、気付く。
感情に任せて叫び続けた己を見る、さとりの瞳の色が変わっていた。無茶を、道理に反する思想を諫める目ではない。深い深い、溢れそうなくらいの哀しみが宿っていた。
「……世界で一番、かなしいこと。それは大好きなヒトを、信じてあげられないこと……」
何かの詩の一節のように、さとり。声色からは、マーブル模様になるくらい複雑にかき混ぜられた感情を読み取ることは出来ない。
「押し潰されてしまいそうな不安の中で、それでも信じてあげられるかどうか。何も語らずとも、手を握ってあげられるかどうか。どうしても、どうしても辛いその時に、隣にいてくれるかどうか……」
パルスィは訝しむ。水面に刻む波紋のように、哀しみの感情が揺れるさとりの瞳。その目が、自分を見ていない気がしたのだ。
自分ではない。自分の、もう少し後ろの辺り――
「――それが、絆です。『あなた』にしてみれば、これほどかなしいコトは、ありません……ね?」
「!!」
振り返った。網膜に焼き付く程、見慣れた姿がそこにあった。
「……や……ヤマ、メ……」
「……」
膨らんだスカートの中程を、ぶるぶる震える手でかたくかたく握り締め、何かを必死に堪える黒谷ヤマメの姿。
純粋な。そう、きっと純粋な気持ちで。ただ、いきなり逃げるようにいなくなったパルスィを、心配して追いかけてきた。それだけだったのだろう。
その耳に飛び込んだ、聞き慣れた声での、知りたくなかった心の叫び。ヤマメが想い続けた、励まし続けた、笑い続けた人物の、不信。拒絶。
「あっ、あの……これは……これ、は」
もう、無理だった。あれだけの腐った言葉の濁流に飲み込まれたヤマメ。綺麗さっぱり洗い流すには、どれだけの水がいるだろう?
パルスィの言葉のダムはとっくに空っぽだ。
「ちが、う……ちがうの。これは」
「……いいよ」
ヤマメのか細い呟きは、あのパルスィの叫びよりもずっと、大きく響いて聞こえた。
「だいじょぶ。パルスィ、強くなったんだね」
「え……?」
「ごめんね、私ちょっと用事思い出しちゃった。えへへ」
パルスィは、心に悲しみを注がれる心地をこの上なく実感していた。
――こんなに空虚な笑顔は、見たことがない。
こんなの、自分が大好きだった筈の、ヤマメの笑顔じゃない。
「……ばいばい!」
――溢れ出した感情を目からこぼしながら、ヤマメは踵を返す。ばたばた、大きな足音が遠ざかっていく。
――ばいばい?
ヤマメ、いつも別れる時は確か――
――またね、って言ってくれたよね?
「……やっ、ヤマメ!! まっ……!?」
小さな背中が見えなくなった後、パルスィはそれを追おうとして――果たせなかった。突然、目の前にもっと小さな人影が現れたからだ。
「ありがとう、こいし」
とおせんぼ。口動かずとも、両腕を広げる古明地こいしはそう言っていた。
振り返る。背後からゆっくりと歩み寄ってくるさとりの目は、未だあの哀しげに揺れる光が宿っている。
「……遅かった、ようですね。こうなってしまう前に、気付いて頂きたかったのですが」
「な、なに、を」
彼女の言う意味が分からず、尋ね返すパルスィの声はすっかり錆び付いた時計塔のようにぎこちない。その言葉に直接返すことはせず、さとりはそっと目配せするような視線を飛ばした。
「ちょ、ちょっと!?」
驚きの声。さとりの方を振り向いたパルスィを、こいしが羽交い締めにしていた。明らかに小さな体格なのに、背伸びしながら組み付かれた腕は凄まじく強固で、とても振り解けそうな気配がない。
「ごめんなさい、私の指示です。途中で逃げ出さないという確証はありませんでしたので」
「……?」
「最初に、出血大サービスです。あなたの望み通り、先程ここから走り去りながら……ヤマメが何を考えていたのかを教えて差し上げます」
すぐ間近で、さとりの足は止まった。三つの瞳が、そこから放たれる眼光が、パルスィの不安定な瞳を撃ち貫く。竦み上がって、返事が出来ない。
ゆっくりと開いていく薄桃色の唇が、今の彼女には魔獣の顎にすら思えた。心が喰い千切られそうなイメージが、脳裏を駆け抜ける。
「『そっか。パルスィはもう、忘れちゃったんだね。強くなったんだなぁ』」
「!!」
それは一瞬。パルスィの脳の、心の奥底。埃を被っていた記憶が、スパークする感触。
びくっ、と彼女の身体が跳ね上がりかけたのを、こいしが押さえ込む。
(え……えぇっ!?)
古傷を抉られるような。はたまた、昔の過ちを咎められるような。その正体が掴めないままにも、不快な驚きとでも言うべき、奇妙な感情が湧き上がってくる。
「それが何を意味するのか、私よりあなたの方がご存じでしょう。でも、もし忘れていたのならいけませんから……お手伝い、してあげます」
気付けば、さとりは息のかかりそうな距離まで近付いてきていて――息を呑むことすらままならない。蛇に睨まれた蛙のように、鋭い視線が絡み付き、全身を縛る。
彼女の言葉を聞いたこいしが、パルスィを押さえ込む細い腕に、一層の強い力を込めた。
何故か急に、逃げ出したくなった。もがくように身を捩らせるが、こいしの小さな身体はびくともしない。
せめてと、目を閉じようとした。叶わなかった。さとりの強い視線が、瞼をこじ開けてくる。パルスィの目に取り付き、脳の奥まで、体内へ侵入してくる。胸の真ん中まで到達して――再びスパーク。
景色が暗転した。
「!?」
背中に触れていた、こいしの薄い胸から伝わる温もりが途絶えた。真っ暗な空間に、さとりと二人きり。
否。唯一見えていたさとりの姿すら、ゆっくりと暗闇に揺らいで消えていく。ただ一人、パルスィだけが取り残された。
自らの心臓の鼓動だけがやたらと響く静寂。声を出すことも出来ず、何かを待つだけの身。
不意に、どこからか声が聞こえた。真っ暗なばかりだった景色にも、変化が生まれていた。
(……これは……)
灰色の岩。でこぼこの土壁。砂利混じりの地面。見覚えのある景色だ。
少しだけ視線を動かす。もっと見覚えのあるものが、朧気な薄闇の向こうにあった。
橋だ。己がいつも座り込んでいる、あの大きな橋。分かり難いが、欄干の塗装なんかは今よりもずっとしっかり残っていて、比較すれば真新しい。
その上に、二つの人影。多少背の差はあれど、どちらも小さい。
やがて気付いた。先程からずっと聞こえていた声は、この二人のものだ。
不意に、片方の人影から腕が伸びる。
『だいじょうぶ?』
『う、うるさい! やめてよ!』
心配するような、それでいて驚くほど明るい声色。拒絶するような声が飛んできても、それに対する返事が濁ることはない。
『まあまあ、食べたりなんてしないからさぁ。そんなに突っぱねなくても』
『な……』
話し掛けた方の腕が、上下に揺れた。ひらひらと手を振っているのだろうか。彼女の仕草が、場の空気を和らげているのは明白だった。
『……なによ、そんなコト言って……どうせ、私なんか……』
『ダメだよ、そんな風に言っちゃ。あなた……えっとごめん、まだ名前分かんなくてごめんだけど。笑えばきっと、すごく素敵だと思うんだけどなぁ』
多少の呆れを含んだ驚きの表情から、暗い顔に戻ろうとする彼女を――自分自身を、もう片方の臆面もない言葉が繋ぎ止める。
自分の表情がころころと変わっていく様を眺めるのは、不思議な心地だった。
『笑う、なんて……無理に決まってるわ。だって、こんな薄暗い所でずっと、ずっと、他人を羨み、妬むだけ……地上にも地下にも、私のような嫉妬狂いの居場所なんてない。私のそばで笑ってくれる人なんていないの。だから……』
彼女は言葉を切ると、強く首を横に振りながら掠れた声で叫ぶ。
『……だからもう、ほっといてよ! どうせあなただって、私のことなんか!』
『ううん』
相手も、同じアクションを返してきた。首をゆっくりと横に振り、真正面からその視線を受け止める。瞳の奥に、ぼんやりと温かな光が見える。
『私、わかるよ。あなたは橋姫。あなたが私を突っぱねてるのは、私をその……嫉妬心? みたいなのに、巻き込みたくないからなんでしょ? 優しいんだね』
『なっ……そ、そんなんじゃ』
『わかるよ』
彼女は敢えてもう一度呟いて強調し、ゆっくりと歩み寄る。こつ、こつ、橋が軽やかに歌う。
『私、明るいのだけが取り柄だからさ。もしあなたが、私が笑ってられるのが羨ましい、妬ましいって思うなら……すごく、うれしいなって。だけどそれじゃズルいから。あなたにも笑ってほしいの』
『……ムリだって……私、もう、笑い方がわかんない』
『じゃあさ』
すぐ目の前まで来た彼女が、足を止めた。瞬間、薄暗い地底の景色に、フラッシュが焚かれたかのような錯覚。
笑っていた。とびきりの笑顔で。
『私でよかったら、そばにいてもいい? 笑い方、思い出せるように』
すっかり癒着した心の外壁に、その笑顔が隙間を作る。距離感などないかのように、踏み込んで、素手で掴んで、指をねじ込んで――引き開ける。
『……』
『ごめん、イヤだったらやめるよ。私だって、ビョーキ屋さんだし。近付きたくないってヒトも多いだろうし』
彼女のその言葉は、聞こえていなくても同じだった。胸のどこかで、錆びついた音が聞こえた気がした。
『……妬ましいわ』
『へ?』
『初対面の橋姫に、そうまで言えるあなたの優しさが』
『人を見る目は確か、ってよく褒められるんだ。えへへ』
『ホントに……まったく……』
急に恥ずかしくなって、袖で目元を覆い隠した。滲んだ視界が回復することはなくて、顎から滴った涙がもう片方の手の甲に落っこちる。
笑って、と言われた傍から泣いてしまうのは、天邪鬼なワケじゃない。
『誰もそばで笑ってくれないなんて、そんなコトないからね。ほら、私。すっごい笑ってるよ。ほら、ほら』
『あなたはもともとじゃない』
『ほーらほーら』
『ちょっと、もう……ふ、ふふっ』
にこにこ笑顔のまま、ずいずい寄ってくるのが何だかおかしくて――パルスィはとうとう、涙を流したまま笑うのを堪えられなかった。
『それそれ! 私の言った通りでしょ?』
えっへん、と彼女は胸を張る。自分より小さい身体なのに、まるで先輩のように威張る姿がとても頼もしく思えて、パルスィの胸中を急速に安堵感が満たしていった。
さっきの自分のネガティブな言葉の数々が、彼女の前であれば全部、悪魔の囁いた嘘に思えてしまう。なんだ、まだまだ笑えるじゃないか。まだまだ誰かを、笑わせられるじゃないか。
塵芥程の自信が、彼女の――ヤマメの笑顔から放たれる光を纏って、心の中でどんどん大きくなっていくのがハッキリ分かった。
嬉しいのに涙が止まらない。不意に、肩を抱き寄せられた。
『あっ』
温かい。昨日までは、こんな温もりを得ることなんて二度とないと思っていた。
『大丈夫だよ。私がずっと、そばにいるから』
励ましの言葉だろうか? そうでもあるだろう。
だが彼女はきっと、事実を言っているのだ。
――夢を見ているような空間を、黒い霧が満たし始めたのはその時だ。
ざりざり、耳を打つノイズ。瞬間、まるで水の底から引きずり上げられるかのように、意識が急浮上した。
視界が朧気になり、ヤマメの笑顔が、自分の泣き顔が、遠ざかっていく。
『パルスィ、パルスィ……よーし、覚えたよ!』
『ね、ね。これ、地上で見つけたんだけどさ、何に使うんだろ?』
『パルスィ、紹介するね! 釣瓶落としのキスメ! よろしくー!』
『えへへ。パルスィの方がずっとすごいよー』
『ねぇ、パルスィ……』
『パルスィ……』
流れていく光と闇。小さくなっていく過去の景色。その奥からヤマメの声がいくつも響いては、消えていく。
ごぼっ、と音を立てたのを最後に、世界がひっくり返った。
「……!」
はた、と気付けば、そこは地霊殿の廊下。背中が寒い。こいしはもういなかった。さとりの姿も。
いつしか深く膝を着き、とめどなく涙を流している自分だけがいた。
「あ、あ……」
虚ろな声を流すがまま、そっと両の掌を見やる。握って、開いて。
その指の隙間から、大事な、とても大事なものが――違う。
両腕に抱えるほど大きかったそれを、奈落の底へ蹴落としたのは自分自身だ。
もうきっと、戻っては――
「……いやだ……」
――その呟きは、あまりに遅い。
・
・
・
・
・
「……聞いたよ、パルスィ。お前さん、やっちまったってな」
「……」
「まあ、その、なんだ」
がりがりと頭を掻きながら、勇儀は言葉に窮した。長い付き合いのパルスィを前に、こんなに口ごもるのは初めてな気がする。
パルスィの目は、きっと何も見てはいない。勇儀の姿が見えているかさえ怪しい。
「責めるつもりはないが……私の言ったコトは事実だったっつーか……あー、その」
頼り甲斐のある性格だからか彼女は誰かの相談に乗ってやることが多い。それ故、人を安心させる物言いには慣れたものだが――今回のカウンセリングはとびきりの難易度だ。
何せ、何を言っても目の前で膝を抱える橋姫は傷付くだろうから。
「昔、ヤマメとお前さんの間に何があったのかまでは分からんけど、余程大事なコトがあったんだろうな。そこにヤマメが笑い続ける所以があったってのも。昔のコトだから無理ないとは言え、忘れちまったってのは流石にマズかったのかな」
「……」
「しかも忘れたばかりか、逆にそこへ不信を抱いちまった、か……きっつい物言いかも知れんけど、いくらなんでもそりゃ酷い。それを認識した上で、どうにかヤマメと」
「……う、ううぅ……」
ぼろぼろ、ぼろぼろ。パルスィは大粒の涙をこぼし始める。どうにか収まった筈なのに。
歯を食い縛ったままで涙を流すその形相は、あの勇儀ですら狼狽するほどのものだった。
「っつー……スマン。泣かせるつもりは」
「うぅ、あ……っぐ、ひっく」
「だからだな、えっと……悪かったよ。何か考えて、また来る」
とうとうギブアップし、勇儀は彼女の肩をポンと叩いて踵を返した。何か考えてくる、その言葉に嘘はないだろう。
しかし、今のパルスィにその言葉が届いたかは怪しい。橋の上で一人。食い縛った歯が折れ砕ける程の力を顎に込め、押し殺した嗚咽を口の端から漏らし続けるその姿は、不気味なくらいにこの風景に溶け込んでいる。本来、地底とはそういう場所なのだ。
(どうして)
どうして、どうして忘れていたのだろう。ヤマメの笑顔のワケ。
天性の明るさか。それだけじゃない。
余程楽しいことがあったのか。それだけじゃない。
笑うことが下手なパルスィを馬鹿にした、嘲笑だったのか。とんでもない。
(ぜんぶ、ぜんぶ私のためだった)
生きた年月だけ降り積もる嫉妬心と、自嘲めいた人付き合いへの諦観と。
それらに押し潰されそうになっていたパルスィを、助けてくれた。
妬み、嫉み。パルスィをパルスィたらしめる、邪魔すぎる感情。
棘のように人を追い払うそれを蹴散らしながら、彼女の心の門に手をかけた最初の存在。
誰かと一緒に笑い合うなんて。妬んでも、僻んでも、離れない存在が出来るなんて。
夢物語だと思ってた。だけど夢じゃなくなった。筈だった。
(私がまた、自分の殻に閉じこもらないように……)
橋姫である限り、誰かを妬んでしまうその習性からは逃れられない。
自分が自分である限り、笑うなんて、笑わせるなんて、出来ない。
背中に圧し掛かる、生まれながらのどす黒い重荷。ヤマメがそれを、少しずつ解いてくれた。
落ち込むことなんてない。寂しい心をひた隠して、独りぼっちの孤独に溺れる必要なんてない。
『誰もそばで笑ってくれないなんて、そんなコトないからね』
ああ、ああ。何て単純だったんだろう。ヤマメは有言実行していたに過ぎないのだ。
パルスィがもう二度と、自己否定と孤独に圧殺されてしまうことがないように。
厄介者としてこの地底に追われても、決して存在を否定されたわけじゃないと。
(私でも……私なんかでも、誰かが横で笑ってくれるって……)
――証明していてくれた。ただ、それだけだった。
「……っぐぅ、うぅ……ふぅ、ふーっ」
ぎりぎり音を立てる歯の隙間から、冷たい息が漏れる。涙が止まらない。
水分が抜けすぎたせいか、頭がくらくら揺れる。
(……なのに! なのに私は……ヤマメを……!)
今の自分があるのは、ヤマメの笑顔あってこそ。それを『信じられない』と切って捨てた。
橋姫・水橋パルスィを救ってくれた親友の存在を、突き離し、蹴っ飛ばし、背を向けて――
(ばかに、してる? なにか、たくらんでる?)
自分の言った言葉が、信じられない。本当にそんなことを言ったのか。
あのヤマメに、そんな感情を抱いたというのか。
会えば必ず笑顔を向けてくれる。どんな愚痴をこぼしても励ましてくれる。
嫉妬心に塗り固められた心の奥底で燻る、彼女の優しさを見つけてくれる。
『ずっとそばにいる』と言ってくれた、あのヤマメに。大好きなヤマメに。
「ふっ、くぅ……う、あぁ……あっ……」
わなわな震える手を、握り締める。
嘘じゃない。いくら否定したくても、吹雪のように冷たい事実。
今自分の横に、ヤマメはいない。
『そっか。パルスィはもう、忘れちゃったんだね。強くなったんだなぁ』
さとりに聞いたヤマメの心の声が、何度もリフレインする。
強くなった。それはつまり、ヤマメがいなくても平気だということか。
己を救ってくれた存在に頼らずとも、自らそれを突き離して生きていけるということか。
――冗談じゃない! 誰が強くなんかあるものか!
何より大切なものすら見失い、一番の親友すら信じられなかった、ただの弱虫だ!
「あ、ああ……うぁ、あああああっ!」
橋を、殴りつけた。握った右の手で。鈍い痛みと、木の音が跳ね返る。
構わず、叩いた。叩いた。叩いた。何度も何度も。泣き叫びながら叩いた。
手が砕けるか、橋が砕けるか。決着が着く前に、パルスィは意識を失った。
・
・
・
・
どれくらい経っただろう。そんなに長くはない。
碌に何も食べちゃいないが、妖怪だからまだ死にはしない。
橋の上にいるのも嫌になって、橋の下で膝を抱える。
もう、誰かの目に触れることが申し訳なくなった。今この瞬間も、ヤマメはきっと。
勝手に死ねばいいのか。勇儀やキスメは悲しむだろうか。それとも嘲笑うだろうか。
ヤマメの好意に唾棄した自分を。
「……っく」
少し身じろぎすると、身体のあちこちが軋んだ。
ずっとヤマメのことを考えていたお陰で、それなりに思い出してきた。
友達も出来た、少しは明るくなれた。そうなった今の自分にとって、あの頃の自分は消し去りたい過去だ。
だから忘れたのだ。大事な記憶と一緒に、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。
もう後悔するのは飽きてきた。悔やんでも時間は戻らない。
と――
「……!?」
くいくい、いきなり袖を引っ張る弱々しい力。錆びついた身体がびくりと跳ね上がった。
「が……げほっ!」
名前を呼ぼうとして、喉がつっかえた。泣き叫ぶ声と嗚咽以外では、ずっと声なんて発していなかったのだから。
妖怪釣瓶落とし・キスメ。ほんの一寸前にちらりと名前を浮かべた、共通の親友。
「……」
彼女は無言のまま、パルスィを心配そうに見ている。じめじめした橋の下、泣き腫らした目で膝を抱えているのだから心配されるのは当然でもある。
「……なによ」
思わず、冷たい声。あの頃に戻りたかった。嫉妬の心でハリネズミとなったあの頃に。
中途半端な優しさは、今の彼女から後悔の涙を絞り出すだけなのに。
「……ヤマメがね、いないの」
ぽつり。パルスィの全身が、再び震えた。
どうやら彼女は、まだ何も事情を知らないようだ。
(本当のことを言ったら、この子も)
キスメは極度の人見知りだ。ただでさえ口数は少なく、知らない人物の前ではそれこそ一言だって喋らない。
その鈴の音のような声を聞くことが出来るのは、本当に心を許した相手だけ。パルスィはとても数少ない、その資格を有した存在。
ヤマメも同様だ。そして、彼女がいなくなった原因が自分にあると知った時――キスメはそれでも、自分に話しかけてくれるだろうか。
「パルスィ、どこ行ったかしらない?」
付け加えるようにもう一言。小さな声なのに、耳を突き刺す。
「……ヤマメは……」
我知らず、呼吸が荒くなる。誤魔化すか。それとも、真実を話すか。自分の事情で、感情で、誰かを振り回すのは沢山だ。
でも、キスメまでいなくなったらそれこそ自分には勇儀しかいなくなる。あの後、地霊殿でもずっと泣いていた。心配してくれた誰か――きっと燐か、はたまた霊烏路空だ――を無視して、ずっと泣いていた。恥ずかしくて、情けなくて、もう戻れない。独りぼっち二歩手前の自分は、客観的に見て余りにも惨め。
心の中で反芻するその事実が、恐怖へ姿を変えるのに時間はいらなかった。脛の辺りで握った両手が、ぶるぶる震える。
何も答えないパルスィのその姿は、更なる不安を喚起することだろう。ただならぬ気配に、キスメの手が伸びた。
「だいじょうぶ?」
そっと、肩をさすられる。久しぶりの、誰かの温もりが伝わってくる。
既視感。鈍った頭では、その正体がすぐには掴めない。
(だいじょうぶ……だいじょうぶ……ああ)
思い出した。ヤマメに初めてかけられた言葉だ。全てのきっかけ。
そんな時、ふと――ある想像が、脳裏をよぎる。
(こんな時……ヤマメなら、何て言うの?)
逆の立場なら。いなくなったパルスィの行方を尋ねられたヤマメなら。彼女を追った自分が何を言っているんだなんて、そんなネガティブな現実は今はいらない。あの優しい土蜘蛛妖怪なら、どんな言葉を返すのか。
「……」
黙考。せめてと、キスメの目をじっと見る。
「……?」
彼女もじっと見てくる。どこか恥ずかしそうだ。
(……そっか)
分かった。そして、今自分が言うべきことも。
口を、こじ開ける。全力で。歯噛みしすぎてすっかり疲れた顎を、今もう一度の酷使。
外れたって構わない。今ここで何か言えなければ、自分は永遠に弱虫のまま。ヤマメの注いでくれた全てが、無駄になる。
「……ヤマメはね……」
「……!」
ようやく声が出た。パルスィがやっと反応してくれたことで、キスメも少し驚いた様子だ。
はぁ、はぁ、と大振りな呼吸。泣き腫らした目元を袖で拭い、もう一度息を大きく吐いて、吸って。
パルスィは、久々にその表情を使った。
「――ヤマメはね、世界を救う旅に出ちゃったのよ!」
「……へっ?」
とても珍しい、キスメの呆気にとられた声。
とても珍しい、パルスィの明るい声。彼女は笑っていた。
「一週間前、地上から届いた手紙を見て、ヤマメは勇者として旅立って行ったわ。何でも、蜘蛛嫌いの魔王がいるとかなんとかで。襲い来る魔物を次々と糸でぐるぐる、綿飴に変えて退治してるってさ。もうすぐラストダンジョンらしいから、あと四日くらいでエンディングじゃない? 裏ボスがいたらもう少しかかるでしょうけど」
――まるでRPGのような話ではないか。無論、冗談だ。
「……ぶっ!」
そして謎のシチュエーションが妙におかしくて、キスメは思わず噴き出していた。
驚いただろう。あのパルスィが冗談なんて。アイロニーや自虐じゃない、ある種純粋なとでも言うべき、荒唐無稽のウソっぱち。それがまた、おかしさを助長する。
(……笑った!)
そしてパルスィの方も驚いただろう。咄嗟に思い付いた、謎の冒険譚。勝手に勇者にされたヤマメには申し訳ないが、自分の言葉でキスメは確かに笑ったのだ。とてもおかしそうに。
「問題は、回復アイテムが綿飴やそうめんしかないって所かしら。ヤマメのメイン装備が糸だから、おかしな気分になるって」
「なに、それ……く、くく」
調子に乗って、もう一発。もっと笑った。ヤマメのようなセンスはないけれど、あれだけ張り詰めたシリアスな空気をぶち壊すには十分だった。
「……まあ、それは冗談だけど」
パルスィは、そっとキスメの頭を撫でる。彼女はまだ抑え切れず、くすくすと笑っている。
「私と違ってヤマメはしっかりしてるし、大丈夫よ。地上の友達の所にでも遊びに行ってるんじゃない? なかなか帰ってこなかったら、迎えに行きましょうか」
「……うん。ありがとう」
頷くキスメの表情は、先よりずっと和らいでいた。
「……はーっ」
彼女が帰った後、パルスィは気が抜けたようにへたり込む。ぐったり寝そべって、橋の裏側を見つめた。
(皮肉でも自嘲でもない冗談って、難しい……)
言葉で笑わせるのはヤマメの十八番。彼女が自分の為に、どれだけ心を砕いていたのか。それがよく分かって――じわり、またしても涙。
「……だめ」
首を振って、浮かんだ涙を払った。ここでまた泣いたりしたら。
パルスィは勢い良く立ち上がった。勢い良すぎて、ごちん。橋に頭をぶつけた。
「いっ! つぅぅ……」
目の中に散る火花。鈍痛に再び座り込む。だが今――もしまだ横にキスメがいたのなら、それを笑いに転化させる自信が、確かにあった。
ヤマメなら絶対そうするだろうことも。
(勇儀だったら、角が刺さるわね。橋の修繕費を取り立てないと)
自然とそんな冗談が浮かんだ。
・
・
・
道行く妖怪達が、思わず驚いて飛び退く。
風のように旧都の大通りを駆けていく人影。
息を切らせながらも、無理矢理涼しい顔を作る。
久々の激しい運動は思いの外負担が大きくて、太股が爆発しそうな錯覚すら覚えた。
それでもパルスィは、走る速度を緩めなかった。
(無責任だって、怒るかしら)
走りながら考えた。そして、頭を振った。考えまい。
自分で決めたことなのだ。きっと分かってくれる。そうならなければ、自分はそれまでの存在だったということだ。
走って、走って、やがて見える見慣れた家。呼吸を整えることもしないまま引き戸の取っ手を掴んで、躊躇なく開けた。
「おわっ、パルスィ!?」
家主――勇儀は珍しく、素っ頓狂な声を上げた。それはそうだろう。
今の今まで彼女は、目の前にいる相手――パルスィを励ますための、立ち直らせるための言葉をずっと探して、ずっと悩んでいたのだ。酒すら呑まず。
それが数日ぶりにいきなり家に飛び込んで来たかと思えば、こんなことを言ったのだから。
「……付き合ってくれる?」
彼女の手には、酒瓶が握られていた。
「パルスィ」
勇儀が考える顔をしたのは、パルスィにも気付かないくらいの一瞬。彼女はその瞳をしっかり見据えて、にやりと笑った。
「……言ったな?」
「言ったわよ?」
「ヤケ酒の類じゃなさそうだな。とりあえずこっち来い。そこは寒いぞ」
傍らに置いてあった杯を手に取る。呑まずとも、常に酒は注がれている――
「あー、大丈夫か」
「ぐう」
二時間後。パルスィの世界がぐるぐる回る。ほんの少しだけ、挑発的な誘い方をしたことを後悔した。
「ま、こないだよりずっと呑めるようになってるじゃないか。だがまあ、酒に弱いのに無理するな」
散々呑ませておいて何を、と言おうとしたが無理だった。空っぽのグラスをそっと卓袱台に置いて、勇儀の顔を見る。呑み始める前と、全く様子が変わっていない。
対するパルスィはすっかり真っ赤な顔。頬を両手で挟み込むと、燃えるように熱い。
「……ありがと」
「うん? 私が何かしたか」
その目を見て礼を述べると、勇儀は肩を竦めた。素知らぬ振りをしているが、パルスィには分かる。
小さな宴会の最中――彼女はただの一度も、説教臭い言葉を発することはなかった。パルスィが何故ここに来たのか、分かっているのだ。
全てを忘れたいとか、そういうのではなくて。パルスィ自身でもまだ、分かり切っていない節はある。ただ、背中を押して欲しかった、そんな気がする。
勇儀がいてくれて、本当に良かった。その気持ちを隠したくはなかった。
「……ありがと、勇儀」
「なんだなんだ。褒めたって酒しか出ないぞ」
「や、やめとく」
グラスに向けられた酒瓶を押し止め、パルスィは立ち上がった。少し足下がふらつくが、何とかなりそう。
「行くのか」
「うん。また来てもいい?」
「今更だな。ま、気をつけて。今のパルスィ、何もない所で転びそうだから」
「もう」
パルスィは戸口から出た。振り返って、頭を下げて、また走り出し――途中で止まり、歩き出した。躓き、転んだ。
頭を押さえながら地底深部の方向へ消えていく彼女の背中を見つめながら、勇儀は杯の中身を少し残して飲み干す。
「――ヤマメが帰ってくるのも、そう遠くないんじゃないかねぇ」
・
・
・
・
空気は冷たく、視界は薄暗い。しかし火照る顔を冷ますには丁度良い。
岩混じりの地面を踏み締めながら、パルスィは歩く。少し覚束ない足取り。
やがて、見えた。さっきまで、もう二度と行きたくないと思っていた場所。
(だけど、避けては通れない)
ごくり、喉が鳴る。地霊殿の入口はまるで、勇者を待ち受ける魔王の城、その城門にも見えてしまう。自然と脳裏をよぎる、あの与太話。
(むしろ勇者は私? 助けに行けたらどんなに……)
誰を、なんてのは愚問だ。その時であった。
「あ……」
不意に入口から現れたその姿に、互いに同じ呟きが漏れる。散歩にでも行くところだったのだろうか、軽やかな足取りで出てきた筈の霊烏路空は、パルスィの姿を認めるなり表情を凍らせる。
かと思えば、みるみるその大きな目に溜まっていく涙。瞬間、彼女の姿が消えた。
「ぱ、パルスィぃぃぃぃぃぃぃ!!」
「ぐはぁっ!」
彼女には居合道でも教えた方が良いのではないだろうか。そう思えるくらいの瞬発力で間合いを詰め、空のタックルのような抱擁、というよりホールドが決まった。押し倒されかけ、何とか踏み止まる。
「だめ、だめぇっ! 死んじゃだめだよぉ! わ、わたしにできることならなんでもするから!! 相談にものるから! ねぇったら!」
「うぐぐぐぐぐ」
どうやら空は、あの日泣きじゃくってばかりのパルスィを見て何かを勘違いしたらしい。涙声混じりの説得をしながら彼女の身体をきつくきつく抱き締める――が、むしろパルスィにしてみれば、どちらかと言うと今、このまま締め落とされてしまうのではないかという懸念がよぎるばかり。胸元に顔を押し付けられる感触は温かく柔らかで――しかし呼吸が出来ない。何がとは言わないが、妬ましい。
必死に彼女の肩を叩くと、ようやく少し力が緩まった。両腕に全力を込め、顔を引き剥がす。
「はぁ、はぁっ……べ、別に死んだりなんかしないわよ……」
「ホント!? ホントに!?」
「あなたに嘘なんかつかないわよ」
ぐすぐすと鼻を啜る空に、荒い息のまま何とかそれだけを伝える。ようやく落ち着いてきた様子ではあるが、まだどこか不安げでもある。
地霊殿の住人達は強かだ。空にしてみれば、自分以外の誰かが泣いているという場面に出くわすことが、今まで殆どなかったのかも知れない。
「それなら、よかったけど……パルスィ、だいじょうぶ? なにかイヤなことでもあったの?」
彼女も事情を知らないのか、そう尋ねられた。パルスィは思案する。数時間前までの自分なら、延々と自虐を始めて空をまた泣かせただろう。させるものか。
「特にそういうワケじゃないけど」
「でもぉ」
「大丈夫だってば……ほら、ほら」
「え、ちょっ……くっ、きゃははははは!!」
おもむろに手を伸ばしたかと思えば、空の脇腹をなぞるようにくすぐり始めるパルスィ。意外な程の不意打ちに耐えられず、空は身を捩らせて大笑い。
そのまま背後を取り、脇腹から段々とくすぐる位置を上げていく。逃げようとする空の身体をしがみつくように押さえ付け、しつこく何度も攻めた。
「ほれほれー」
「んあ、っははははは! も、やめ……あは、あははは! けほ、けほっ」
息が切れてきたようなので解放し、先とは別ベクトルの涙とヨダレで乱れた空の顔をしっかりと見た。
「あなたはそうして笑ってこそよ。だから……ね? 私はもう大丈夫だから、心配しないで」
ヤマメの受け売りのような言葉を向けると、息を荒くしながらも彼女は頷いた。
「う、うん……そだね。びっくりしちゃった。でも、なんかあったら言ってね? パルスィをいじめるようなヤツがいたら、わたしがこう、どっかーんって吹き飛ばしてあげるから」
優しい顔のパルスィを見て安堵しつつも、空はそう付け加えた。頼られたいお年頃なのだろうが、彼女が言うと冗談にならない。
でもその言葉が嬉しくて、パルスィも頷いた。
「ありがと、お空」
「えへへぇ」
「ヨダレ、拭きなさいね」
二重の意味で顔を赤らめる空と別れ、地霊殿へ。『難易度』は段々上がっていく。旧知のキスメと勇儀。純粋で子供な空。そして次は――
「パルスィ」
ターゲットは後ろにいた。ゆっくり振り返ると、どこか迷ったような顔の燐。
かけるべき言葉を整理出来ないまま、見切り発車で声を掛けてしまった。そこまで詳細に分かるくらい、燐の表情は分かりやすかった。
「あーっと、そのぉ……ん。お茶淹れるからさ、座って話さないかい? せっかく来てくれたんだし」
「……ありがとう、そうしましょうか」
誘われるまま、廊下からあの時と同じ和室へ。炬燵に入って暫し待ち、お盆を手にした燐がやって来て、湯飲みを二つ置き、向かいに座るまで待った。
とうに気付いていた。燐はどうやら、事情を知っている。察したのか、さとりに聞いたのかまでは分からないが――
「……その。なんつーか、あー」
諭すのか、励ますのか、責めるのか。流石に勇儀ほど慣れてはいないのか、燐はなかなか言葉を見つけられない様子だ。妹分である空ほど単純な――良い意味だ――相手ではない、ということもあるだろう。
アルコールと、ほんの少しの自信。それらが、パルスィの口を羽のように軽くした。反射的に声が出る。
「なに? 恋愛相談?」
「ぶっ!」
燐は飲んでいた緑茶を吹き出した。げほげほと咳込み、瞬時に沸騰した真っ赤な顔をパルスィへ向ける。
「な、な、ななな! なんでそうなるのさ!?」
「だってなんか言い辛そうだし……でも大丈夫よ」
「けほ……なにがさ?」
「あの子、あなたのコトがとにかく大好きみたいだし。あなた以外と結婚する気なんかないんじゃない?」
「ななななななっ!? で、でも、地上に遊びに行くようにもなったし、おくうにだって好きな子とか出来たかも知れないじゃないか。あたいだって頼ってもらえるのは嬉しいけどさ。だからってそんな」
「あら? 私、お空だなんて一言も言ってないわよ?」
「ぶっふーッ! げっほげっほ!!」
仕切り直すつもりで口に含んだ緑茶を再度盛大にスプラッシュし、燐は炬燵に突っ伏した。びくんびくん、痙攣する肩。
「が、ぐ、うっ……」
「ごめんなさい、大丈夫?」
耳まで真っ赤にメルトダウンさせ、突っ伏したまま動かない燐。流石に悪い気がして、パルスィは小さく謝った。
彼女はそれを聞き、ゆっくりと顔を上げる。髪の色にも負けないくらい紅潮させた頬を両手で挟んで、呼吸を整えた。
「う、にゃあ……まさか、パルスィにこうまで言われるとは思わなかった」
「つい」
「ったく。あんなに心配したあたいがバカみたいじゃないか! あんなに泣いてたクセに……あ」
ぶつぶつ呟くその言葉を、パルスィは聞き逃しはしなかった。はた、と口を押さえ、燐は申し訳なさそうに頭を下げた。ぺたん、垂れる耳。
「……その、ごめん」
「いいのよ。こちらこそ……いえ」
パルスィも頭を下げかけて、やめた。それよりも相応しい言葉があったからだ。
「ありがとう、お燐」
「うにゃ……やめとくれよ。恥ずかしいから」
「じゃあさっきの続きにする?」
「イヤだ!」
ずい、と顔を近付けるパルスィに、燐は首を振って拒否した。その頬は未だ赤い。これはもしや、燐の弱みを握ったやも分からない。内心でニヤリと笑った。
彼女の言葉で随分と空気が軽くなったこともあり、燐がようやく話すつもりだった話題を切り出す。
「はぁ。なんだかパルスィ、随分とアレだね……強かっていうのかな。こう言っちゃアレだが、あのまま自責に耐えかねて……その……」
「あなたのお世話に?」
「……その心配、もういらないね。あとは、お前さん自身がどうするかだ」
『心配してたんだぞ?』と燐。それはよくよく分からされた。
「ごめんなさい」
「いいよ。パルスィのトコロより先にここへ来るとも思えないけど……ヤマメがもし来たらさ、言っとくよ。パルスィがどうしても伝えたいことがあるって」
「うん……」
ヤマメの名前を聞くと、途端に心を覆う影。それが顔にまで浮かぶのを見逃してくれる程、燐の洞察力は鈍くなかった。
少ししか減っていない彼女の湯飲みに緑茶を注いでやり、それを差し出しながら、燐はゆっくり言葉を拾っていく。
「……正直、事情を最初に聞いた時は、ヤマメの代わりに殴ってやろうかと思ったくらいだけど……それはなんか、違うよね。お前さんのことを、表面でしか見れてない証拠だ。色々あって、色々考えすぎちゃったんだろ、うん」
「……」
「そのさ。辛かったら、おいでよ。あたいは……あたいでいいなら、パルスィの味方になってやれると思う」
「……ありがと」
剥がれかけた表情を、どうにか保った。泣くわけにはいかない。強く、笑う。
燐もまた笑った。自分とは違う、自然で頼もしい笑み。
「……無理するなよ?」
「……」
――『わかった』と言えば、燐は胸を貸してくれるだろうか?
・
・
・
結局のところ、人はいつだって独りぼっち。どこかで聞いた歌の一節だ。
(ヤマメに見て欲しい……なんて言うのは、あまりにも身勝手だけど……)
それから数日、パルスィは毎日地霊殿へと足を運んだ。その前にキスメの所にも寄った。
未だヤマメは帰って来ない。不安げな彼女を慣れない言葉で励まして、ぎこちない笑顔で肩を叩いた。
失踪の原因である人物に励まされていると後で知ったら、キスメはどんな顔をするのだろう。考えなかったわけじゃない。だが、今暗い顔をされるよりずっといい。そう思った。
「パルスィ、最近よく来てくれるね。うれしいなぁ」
炬燵の向こうで、空はそう言って笑う。パルスィも笑みを返すが、自分でもその顔には輝きが足りない気がしていた。
笑顔とは、かくも難しい。
「でもさ、ヤマメはいっしょじゃないんだ? あんなに仲良しなのに」
核心。いや、彼女は事情を知らない。知らぬが故の深い切り込みに、パルスィの顔が強張る。
表情一つで誤魔化せる程、図太くはなかった。
「……え、ええ。ちょっと、ヤマメは忙しいみたいで」
「ふぅん……なにかあったの?」
「えっ、と……今はちょっと、出掛けてるの」
「どこに?」
「それはね……ほら、あなたの後ろ!」
「えっ!?」
「もらったぁ!!」
驚き、後ろを向いた空の背中に飛び掛かると、パルスィは猛烈な勢いで脇腹にくすぐり攻撃敢行。
「んあっ、あっはははははは!! やめ、やめてぇ!!」
「あははは、まだまだ甘いわね」
「うにゅー……ヤマメ、いないじゃん……」
「今のは冗談だけど、まあまた今度一緒に来るわよ」
くすぐって笑わせるのも、最早慣れたもの。言葉だけで笑わせるのは、まだ技量が足りない。
だけど、いつかはやらねばならない。ヤマメならそうするだろう。
「おや、いらっしゃいパルスィ。最近よく来るね、嬉しいよ」
「うにゅ、お燐もおんなじこと言ったー」
「それよりおくうは何があったんだい」
襖を開けて現れた燐は、顔を上気させて畳に転がる空を見て首を傾げる。パルスィは事もなげに答えた。
「いつもの発作よ」
「わたし、日本を縦断したおぼえはないよ?」
「……?」
突飛な発言に、今度はパルスィが首を傾ける。すると、燐が怪訝な目を向けた。
「……おくう、まさかフォッサマグナと言いたいのか?」
「えへへー」
「……なんでそんなの知ってるのよ」
地質学用語。茫然と突っ込みを入れるパルスィと、起き上がって照れ笑いの空。燐は呆れ返るばかりだが、さも愉快そうに肩を竦めた。何とも心が和む雰囲気が漂う。
その輪の中に自分がいられることが、パルスィにとって何よりの自信となる。
(大丈夫、大丈夫……私だって、誰かを笑わせられる)
――いなくなったヤマメのことを悔やみながら、いつまでも心を閉ざすのは簡単だ。
だけどそれは、ヤマメのくれた沢山の笑顔を、安心を、愛情の全てを、無為に捨て去ることだ。彼女が望んだのは、パルスィの希望なのだから。
誰より傍で笑いかけてくれた存在を、姿見えぬ暗闇のどこかへ追いやったのは誰だ。
絶え間なく注いでくれた無償の愛を、仇と共に蹴り返したのは誰だ。
身勝手と言われるかも知れない。事情を知る者は、心のどこかで蔑むかも知れない。
それでも――パルスィは、ヤマメのくれたモノを捨てられなかった。
プレゼントしてくれた大好きなあの子は、もう帰らないかも知れない。
それなら伝えたい。ヤマメの笑顔を、明るさを、愛情を。
パルスィは、その道を選んだ。誰に何と言われようと、ひたすらに笑う道を。
「あれー、随分賑やかだと思ったけどおひとり様かぁ」
襖が再び開き、エントリーしたのはこいし。一瞬だけ身を縮こまらせ、しかしこいしの表情に非難の色が見えないので背筋を伸ばした。
きっと彼女も、事情を知っているのだろう。自分のことを考えてくれているのか、何も知らない空に気を遣ったのかは分からない。だけど、考えなしに軽蔑の言葉を投げてこない彼女に感謝した。
「お邪魔してるわ。今日は無意識じゃないのね」
「いらっしゃい。やだなぁ、別にいつも消えてるワケじゃないよ?」
手をヒラヒラ振って答えるこいしの目に、非難がましい色は見えない。態度もいつも通りだ。さとりには当然敵う筈もないが、パルスィも人の心を司る能力者。目の前にいる相手の心理を読み取るのは得意なのだ。
「そうは言うけど、あんまり会わないから。おやつの盗み食いに便利な能力よね、羨ましいわ」
「うんまあ実際ね。お風呂覗いたりとか」
「やってるの?」
「覗くっていうか、最近は堂々と入って待ってるよ」
「ちょ、こいし様!?」
「昨日だって、わたしが入ってるのにお燐もお空も入ってきたじゃない。危うくおしりに押しつぶされる所だったんだから」
「うにゅー!」
けらけら笑うこいしに対し、燐や空は驚きを通り越して最早阿鼻叫喚。顔を真っ赤にしてのたうち回る二人を見て、パルスィも思わず笑ってしまった。
「くふっ……い、言えば一緒に入ってくれそうなのに」
「まーそうなんだけどね。せっかくある能力なんだし、どうせならこっそりとさ。逆に、言ったらこんなマネできないし」
「じゃ、じゃあ、今日からはやめて下さいね……?」
「どうかなー」
燐が縋るような目でこいしを見るも、彼女はニヤニヤとした笑みを崩さずにそう言うだけ。『うー』と一声唸って炬燵に潜ってしまった燐を見送ってから、パルスィは改めて彼女を見た。
二人をからかって、実に楽しそうに笑っている。方向性はともかく、場を盛り上げるのも得意なようであるし、とても一度は心を閉ざした者とは思えない。
自分はヤマメの前に、彼女のようになれるのだろうか。どんなに辛いことがあっても、もう一度太陽のように笑える存在に。
視線に気付き、こいしがこちらを向いた。
「どったの? なんか照れるよぉ」
「あ、いや……その。なんでも」
「ふぅん」
炬燵布団を胸元まで手繰り寄せながら尋ねるこいしに、パルスィは曖昧な笑みを向けて誤魔化した。それで終わるかと思ったが、今度は彼女の方がパルスィをじっと見てくるではないか。
「な、なに?」
思わずたじろぐ。見た目は自分よりも更に幼い少女なのに、その視線を浴びると妙な畏怖を覚えるのだ。心に張った障壁をばりばり手掴みで引き剥がされるような錯覚。うすら寒く感じて、パルスィは炬燵にもう少し深く身体を押し込んだ。
「んふー、なんでもなーいよっ」
歌うような調子でこいしは微笑むと、ようやく炬燵から這い出してきた燐の肩をつついた。
「そうだ。お燐、お姉ちゃんがさっき呼んでたよ? たぶん、こないだっから話してた灼熱地獄の燃料供給システム改善に関するお話じゃない? 単なるダストシュート設置とも言えるけど」
「あれ、そうでしたか。じゃ先に片付けて来ようかな。ありがとうございます……ごめん、ちょっと野暮用。ごゆっくりね、パルスィ」
「あ、うん」
燐が立ち上がり、部屋から出ていく。んにゅ、と声が聞こえたので見やれば、のそのそと空も這い出してきた。どこか眠そうなのは炬燵の魔力、致し方あるまい。
そんな彼女へ向けて、再びこいしが声を掛けた。
「お空、せっかくお客さん来てるんだし、何かおやつでも買ってきなよ。みんなで食べる分と、お空のも買っていいからさ」
「うにゅ、ホントですか!?」
「ホントもホント。はい、お金」
「わぁい、ありがとうございます! 待っててね、パルスィ!」
「え、ええ。ありがとう」
「パルスィ、すぐには帰らないみたいだからゆっくり選んできなよ」
「はーい!」
彼女がスカートのポケットに入れていた財布から紙幣を取り出して空に握らせると、空は小躍りしながら襖を開けて、風のように廊下へ飛び出していった。どったんどったん、スキップのような足音が遠ざかっていき――気付けば、炬燵のある和室にはパルスィとこいしの二人だけが残された。
「んしょ」
「?」
不意に、こいしが炬燵へ身を潜める。もぞもぞ、パルスィの足先にも彼女の身体が触れて少しくすぐったい。
「ばぁ」
彼女が再び現れたのは、先程まで空が座っていた席。つまり、パルスィの向かいだ。
炬燵を挟んで向かい合う状態になり、両手で頬杖をついたこいしは悪戯っぽく笑った。
「パルスィさ……何だか最近、すっごく明るくなったよね」
「!?」
思わず跳ね上がる心臓。努めて明るく振る舞っていたのだからそう映るのは当然であり、また望んだ通りでもあるのに。
いざ指摘されてみると、後ろめたさにも近い感情が込み上げてくるのは何故だろう。
「そ……そうかしら? 私は、別に……」
「でも、毎日のように遊びに来てくれるじゃない。お空と遊んでくれたり、お燐の話し相手になってあげたり。隠れながらだけど、わたしもずっと見てたんだよ? パルスィが頑張って、お空やお燐を笑わせようとしてるの」
確かにそうなのだ。空や燐だけじゃない、キスメや勇儀にも会いに行っては、彼女達が笑うにはどうすればいいのかを考えて、実行してきた。ここのところ、毎日だ。
誰を相手にしても、何度も言葉に詰まった。訝しがられることはなかったが、その度に会話の主導権を相手に譲り、虎視眈々と笑いを取る隙を窺う。正直に言って、他愛のない世間話ひとつが、とても疲れる。
明るく振る舞うだけじゃない、何とかして彼女達の笑顔を引き出そうとしていたことも、こいしにはお見通しだったというのか。
「それ、は……い、いけないことかしら?」
寒い時期なのに、恥ずかしさと緊張とで体内がぼうっと熱くなる。伝う冷や汗。乾いた唇でそれだけの言葉を紡ぐと、こいしはゆっくり首を横に振った。
「ううん、そんなコトないよ。だけどね」
「だけど?」
「なんだか、ムリしてないかなって」
「……」
ぼんやり、こいしの瞳の奥に淡い光が宿る。まるで、さとりと話しているかのような錯覚。彼女の言葉の一つ一つが心を透過して――パルスィの心に浮かぶ、想いの欠片を捕まえていく。
「……ヤマメが、いなくなってからかな。パルスィが、何だか必死になってるカンジがするんだ。使命感っていうか、義務感っていうか……んー、難しいコトバじゃよく分からないけど」
「そん、なの……でも……」
ちくりちくりと、彼女の言葉が胸に突き立っては、そこから波紋のように心を巡っていく走馬灯の影。橋の上。ヤマメの笑顔。パルスィの涙。『ばいばい』――
「……私は、ただ……みんなにも、迷惑かけたから……」
「それが、ウソじゃないっていうのはわかるよ。パルスィ、優しいもんね。だけど、自分の優しさでパルスィがつぶれちゃったら、きっとみんな悲しむから。辛いのにガマンしても、いいコトないよ?」
傍から聞けば、二人の会話はさっぱりだろう。だが、パルスィはある種の戦慄を覚えていた。
こいしの言葉は、自分の考えの何もかもを見透かした上での言葉としか思えなかった。
「これだけ、言っとこうと思ってさ。メーワクだったら、謝るから」
彼女はそう断って、パルスィの目を真正面から見据えた。
「パルスィとヤマメは、ちがうよ。おんなじにはなれない」
「!!」
この日一番の衝撃が、パルスィの心臓すらも撃ち貫く。心臓が止まったような錯覚と共に、こいしの顔を凝視した。
恐ろしいくらいに真剣な顔だったこいしは、ゆっくりと表情を融かしていく。やがて、ふにゃりと笑顔になって続けた。
「……でも、だからこそだよ。ヤマメやみんなが好きだったのは、ヤマメみたいなパルスィじゃなくて、パルスィみたいなパルスィ。忘れないでね」
「……あなた、は……」
「えへへ、ここまで。こいしちゃんの人生相談、本日はこれにて終了ー」
おどけた口ぶりで会話を打ち切り、こいしはそれ以上語ろうとはしなかった。
それでもパルスィの胸中では、彼女の言葉が渦を巻く。
(わたしは、わたし……ヤマメにはなれない、か……)
あの、いつでも明るくて――傍にいる誰かに笑顔を灯せる、ヤマメのような存在になりたかった。いなくなってしまったヤマメの代わりに、自分が皆に笑顔を灯したい。
それはある種の、義務だと思っていた。そうなる原因を作ったのは自分なのだから。
自分がやらなければ、ヤマメのくれた笑顔が全て無駄になるから。
だけど――
(私のような私……橋姫、水橋パルスィとしての私……)
ちかちか、壊れかけの街灯のように明滅する、自分自身の面影。
いつも何かが妬ましい、嫉妬深い自分。そんなのが、本当にいいのか。
ヤマメの方がずっとずっと、周りに好かれている。少なくとも自分ではそう感じる。
そうなりたいと願うのは、おかしいのか。
「でも……」
パルスィの呟きに、明後日の方向を向いていたこいしが反応する。目が合った。
何か続けようとしたら、彼女の方が先に口を開いた。
「ごめんね、パルスィのがんばりをムダって言いたいんじゃないんだ。だけど、何だか辛そうだったから。無理しないで、もっとのんびりしたパルスィが見たいなって」
こいしの言葉は、あくまで優しかった。幼子に諭されるようで、恥ずかしい想いもある。
そこまで自分の姿は、辛そうに映っていたのか。周りにいる人物に少しでも笑って欲しいと、心を砕くその姿が。
深呼吸する。ゆっくり、ゆっくり。吸って、吐いて、また吸って――パルスィは、笑みを作った。
「……ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
自分だけの問題じゃない。自分の辛さじゃない。ヤマメの辛さが問題なのだと、パルスィはやんわり、彼女の忠告を否定した。
それを聞いたこいしの表情は、その瞬間開いた襖のせいで読み取れなかった。
「ただいま帰りましたー!」
「あたいも帰りましたっと。いやあ終わった終わった。結局計画はイチからやり直しだなぁ」
「おおう、おかえりー。お燐もお疲れ様。何買ってきたの?」
「たまごが安かったんですよ、こいし様!」
「またゆで卵かい? しゃーないね、茹で放題だ。いくぞ、おくう」
「うにゅー!」
瞬時に騒がしさを増す室内。何か明るい言葉を掛けようとして、出来なかった。
今ここで作った笑わせる為の言葉も、ひょっとしたら三人には、辛そうに映ってしまうかも知れない。そう思うと、泣きそうな気持ちになるのだ。
自分はどうあっても、ヤマメのような明るさは持てないのだろうか?
心にカビを生やして、常に誰かを妬む以外の選択肢はないのか?
どんなに明るく振る舞っても、それは自傷行為にしか見えないのか?
優しかった筈のこいしの言葉が、今やナイフのように尖って心を抉る。血の代わりに、涙が噴き出しそうなイメージが脳裏を駆け巡り――唇を噛んだ。
「じゃあ台所にでも……パルスィ? どうした?」
「だいじょうぶ? なんか顔、こわいよ……?」
はっと気付き、顔を上げる。心配そうな燐と空の視線が降り注ぐ。
「具合悪いのかい? それとも」
「……ううん」
燐の言葉を、途中で遮った。彼女の言わんとすることは、すぐに分かったのだ。
『辛かったら、おいでよ。あたいは……あたいでいいなら、パルスィの味方になってやれると思う』
いつか言ってくれたその言葉を、思い出したのだ。燐もひょっとしたら、思い至っていたのかも知れない。笑おうと、笑わせようと、必死になるパルスィの姿。
パルスィが潰れてしまわないように、何とか予防線を張ってやるつもりだったのかも知れない。
空の顔も、心配そのものだ。パルスィの思惑は知らずとも、純粋な気持ちで彼女を気遣ってくれているのだ。
余計に自分が情けなく思えた。誰も自分を心配しないように、明るくなりたかったのに――逆に気を遣わせては、本末転倒ではないか。
ある意味、ここで諦めてしまった方が、全ての為か。
パルスィは一瞬だけ思案し――その答えを顔に浮かべた。
「ごめんなさい、大丈夫よ。足が痺れただけ」
脳裏には未だ、ヤマメの笑顔が浮かんでいた。彼女の為に、自分が心を塞ぐわけにはいかない。
ヤマメがいなければ、永遠に暗い弱虫のまま。そんな自分にピリオドを打ちたい。
辛くても、痛々しくても。例えそれが、水橋パルスィという人格から剥離していくとしても。
――それでも、泣いてはいけない。強く笑え。
いつか君がいなくなっても、大丈夫なように。
・
・
・
・
・
それから暫しの騒乱は、パルスィの心に巣食った暗い気持ちを押し流してくれた。
燐に、空に、こいしも一緒になって、卵を口に押し込んだり押し込まれたり。
久しぶりに、本当の気持ちで笑えた気がした。それがほんの少しの自信へと姿を変える。
(こいしは、ああ言ってくれたけど……私は、やっぱり負けられない)
ヤマメの分まで笑う。笑わせる。恩返しでもあり、罪滅ぼしでもある。
あの日、橋の上で誓ってくれた約束。まだ終わってはいない。自分が笑うことを止めない限り。
何ひとつ忘れちゃいない。大丈夫、まだいける。
強くならなくてはならない。ヤマメを安心させたい。一人でも、もう大丈夫だと。
その決意は、どこか悲壮だった。
「パルスィ」
その日の帰り際、こいしに呼び止められた。
「……ごめんね。わたし、ひどいコト言っちゃったかも」
珍しく暗い顔のこいし。パルスィはすぐに首を振った。
「そんなこと、ない。私のことを気遣ってくれたんでしょう?
……正直、もうあなたにも嫌われたと思ってたから。あんなことがあったし」
「……」
「ヤマメのことは……もう、許されるとか、そういう問題じゃなくなってる気がする。だって本人がいないから。だからこそなんだけど、私はもう少し頑張りたいの。せめて、ヤマメの笑顔を誰より沢山見てた私が、それを絶やしたくないなって」
これまた珍しく、パルスィは饒舌に語った。本心からの言葉。こいしが顔を上げると、パルスィは微笑んでいた。
「……ありがとう、こいし。人生相談、今度は私が乗りましょうか?」
「えへへ、それじゃあ今度お願いしようかな。お姉ちゃんともっと仲良くなりたいんだけど、どうすればいいですか、とか」
「もう十分でしょう、っと」
あはは、と互いに笑った。無理をしていない、心からの笑い声が口を突いて出た。
帽子のない彼女の頭をひと撫でして、パルスィは地霊殿を後にした。
急ぎ足になる理由もなく、ゆっくりと歩いた。足元の岩に気を付けながら、少しずつ地底上層を目指す。その間も、こいしの言葉が頭の中で何度も浮かんでは消えていく。
(無理してる、か……)
自分に笑顔は似合わないのだろうか。ヤマメの代わりなんて、おこがましいか。
それはそうなのかも知れない。けれど、自分は確かに皆を笑わせることが出来た。
強くなった、とはヤマメの言葉だが、一度は否定したその言葉も、今はほんの少しだけ信じられそうな気がした。
(私も、いつまでも泣いてばかりじゃいられない。そうだ、明日こそはきっと)
「……パルスィ」
唐突に、背後から声が掛かった。足を止める。
こいしの声に聞こえた。忘れ物でもしたのだろうか。
「何かしら?」
くるりと振り返る。
ヤマメがいた。
「……!?」
夢か幻か、そうでなければ一体どういうことだろうか。
瞬時にフラッシュバックする、あの日の記憶。真新しい橋が、優しい言葉が、橋に跳ね返る足音が、その眩しい笑顔が、涙が作る染みが、さとりの射抜くような視線が、心がスパークする感触が、自分自身の絶叫が、
――そして今目の前にいるヤマメの、振り向く目に光る涙が――。
「……あ、あ……」
言葉を失う。全身の関節が錆び付いたように動かず、喉の奥が締め付けられる感触。心臓は今にも爆散しそうなくらいに鼓動を強め、視線が右へ左へ泳ぎ、その姿を捉えようとしてくれない。
喜びたい筈なのに、素直に認められない。不思議な気持ちが胸を満たして、何も言えない。
「……ごめんね、いきなり。本当にごめん。パルスィ、心配してるかもって思って……つい」
「……」
「実はさ、あの日の次の日から……ずっと、地霊殿にいたの。こいしが私の家に来てね、気持ちが落ち着くまで、奥の使ってない部屋で暮らしてって、泊めてくれたんだ。その時にこいしの力を込めたスペルカードみたいなのも借りてさ、気配消してたから……お燐やお空も知らないと思う」
語るヤマメの言葉は、ノイズが混じったような心地で上手く聞き取れない。数秒遅れでパルスィの脳に伝わってくる。
――つまり、こいしは最初から、ヤマメの行方を知っていたのだ。その上で、あんな言葉を。
「でね……私もどうしていいか、よく分かんなくってさ。ぼんやりしてたんだけど……今日。それもさっき。こいしがね、教えてくれたの。最近よくパルスィが遊びに来るって。それでね……」
ヤマメは言葉を切ったかと思うと――笑った。心の底から、本当に、本当に、嬉しそうに。
欠片程の曇りも濁りもない、どこまでも純粋な好意を詰め込んだ笑顔。
「……あはっ! パルスィがね、すっごく明るくなったって! 毎日遊びに来ては、お燐やお空とおかしそうに笑って過ごしてるって! 私、すごくうれしくなっちゃって。そしたら、今丁度帰ったところだから、追いかければ間に合うって教えてくれて……」
興奮した様子で語るヤマメと、蒼白な表情で何も言わないパルスィ。まるで出会ったあの日のように、対照的な二人。
ふぅー、と息を長めに吐いて、ヤマメは続けた。
「……でも、ほら。その……パルスィにしたら、迷惑かもしれないから。あんまり、いっぱいお話はしないよ。けど、これだけ伝えたいなって。いいかなぁ」
「……」
パルスィは何も言わない。否、言えない。それを肯定とも否定とも取れず、ヤマメは待った。パルスィの顔をじっと見つめて――それはまるで、黙れと言われたあの時のようで。
ぎりぎり、心が悲鳴を上げた。この期に及んで、ヤマメを悲しませる真似などしたくない。
「……言って」
短く、ぶっきらぼうに、それだけを。ほっと息をつき、ヤマメは口を開いた。
「……パルスィ、本当に……本当に、強くなったよ」
さとりや、こいしを経由して何度か聞いたその言葉が、とうとう本人の口から直接、彼女の耳へ届けられた。
「もう覚えてないだろうけどさ、初めて会った日がウソみたい。あの頃のパルスィ、泣いてばっかりでさ。でもだんだん泣かなくなって、みんなで一緒にすごすようになってさ。いつの間にか、誰かを笑わせてるって。すごいよ。私とは全然ちがう」
語るヤマメの目は輝いていて、それは彼女が心から本気で思っていることなのだと教えてくれた。彼女に悪意があるかも知れない。一度でもそんな考えを抱いた己の、なんと愚かだったことか。
ヤマメが喋る度に、その言葉がパルスィの耳に纏わりついて――世界の音が、遠ざかっていく。胸の中で何かが軋んで、悲鳴を上げ始めていた。
「だから……だからね。パルスィ、もう大丈夫だよ。なんにも心配なんかいらない。その……私なんて、いなくたってさ。だからね」
その言葉に、パルスィは明確な反応を見せた。ヤマメの目を見る。うっすらと、涙が。
ヤマメらしくもなく、不明瞭になっていく彼女の口ぶりはまるで、これから自分自身が――
「きっとパルスィなら、私よりずっとみんなを明るくできるよ。絶対。地底にいる必要だっ」
「ちがうッ!」
矢のように鋭い声だった。誰よりも、何よりも聞きたかった、ヤマメが自分を肯定してくれる言葉。それを、切り捨てた。
微笑んでいたヤマメの顔から、表情が洗い流された。驚いたのだ。
まだ整理が追い付かない。ずっといなかったヤマメがやっと現れて、かと思えばあの日のことにも触れて、全てを肯定してくれる。何も変わっていない。ヤマメも、パルスィも、二人の関係も、何もかも。
――ヤマメに甘えてばかりの、己の弱さすらも。
「……強くなんて、ないよ……私、強くなんてなれてない」
「そんなことないよ。だって」
「ちが、う……違うってばぁっ!!」
否定しようとしたヤマメを無理矢理遮った。あまりの剣幕に、口をつぐむ。
「だって……だって! 私……ヤマメみたいになりたくて。ヤマメはずっとずっと、私の横で、私のために笑ってくれてた。なのに、それを忘れてヤマメを突き離した! あんなに優しかったヤマメを信じられなかった! こんなの! こんなの、ないよ!!」
「パルスィ、それは」
「だから、せめて私がみんなを笑顔にできたらって。私も常に、ヤマメみたいに笑ってられたらって。頑張ったよ。みんなもそれなりに笑ってくれた。さっきまで、もう大丈夫だって思ってた。でも、でも……」
パルスィの口ぶりからは、いつもの色が失せていた。斜に構えることも、何かを諦観することも、落ち着き払ってもいない。言うなれば、泣き叫ぶ幼子の如く、感情を吐き出し続ける。
「……でも! 私は……やっぱり、ダメ。強くなんてなれないよ……ヤマメのかお、みた、だけで……う、っく」
「……!」
涙が、止まらない。様々な感情が、想いが混ざり合って、オーバーフローして目から溢れ出る。
ヤマメに会えて嬉しい? 酷いことを言って申し訳ない? 己の弱さを見透かされて悔しい?
――分からなかった。ただ、言葉が胸の奥から込み上がって来るのを、吐き出し続けた。
「わた、私はやっぱり、弱虫のままなんだって……ヤマメがいなきゃ、自分を、肯定するのも難しいよ。ヤマメが……ひっく、ヤマメがいなくなっても、だ、だいじょうぶな、ようにって……けほっ。おもって、たけど……」
心の中に芽生えた、欠片程の自信。それらが、ヤマメの前であっと言う間に粉々に砕けてしまった。本当の、『大丈夫』を聞いてしまったから。
どんな泥沼に沈んでいても引きずり上げてくれる、本当の明るさ。心からの信頼が、愛情だけが持てる輝き。
無条件で何もかもを信じてくれる、確かな優しさに触れてしまった。その前では、自分はあまりに弱く小さい。
もう、戻れない。ヤマメがいなかった頃には。それを認めざるを得なかった。
彼女の優しさに縋らなければ、きっとまたいつか――
「やっぱり私、ヤマメが、いなきゃ……だ、だめなんだってぇ……うぐ、っはぁ。私はずっと、弱虫なんだって……だ、だれか、を、笑わせるなんて……お、おこがましいよ。いちばん、だいじな……こと、すら……う、うぅ」
「パルスィ」
「……でも、私……ヤマメが、いなく、なったのは。わたしの、せいだから……」
ぐす、と大きく鼻を啜って、パルスィは続けた。もう、口を止めることは叶わない。
「だから、私が、か、代わりになろうって……思ったのに! やっぱり、ダメだよぉ!! 私なんか……どうせ、どうせっ……!」
「パルスィ!!」
「!!」
全身が揺れた。息のかかるような距離にヤマメがいて。自分の両肩を掴んでいた。
かと思えば、ゆっくりと擦るように力が弱まる。その手は、とても温かい。
ぐちゃぐちゃになった泣き顔をすぐ傍で見られて、恥ずかしいと思う気持ちはまだ少しだけあった。自分でも驚きだった。
ヤマメの目の光が強まって、眩しさすら覚えた。何を言うのだろうか。泣き疲れて、考え疲れて、すっかり鈍った頭が予測を立てる。
それは違うと、パルスィの強さを見つけてくれるのか。
そんなに自分を蔑むなと、諭してくれるのか。
これから強くなればいいと、奮い立たせてくれるのか。
それも橋姫の能力なのか、いくつもの感情をシミュレートするパルスィだったが――
「……いいよ! 強くなんてならなくていいよ!! ずっと、ずっと、弱虫で泣き虫なパルスィでいいんだよ!」
――弱さを、肯定されるとは思わなかった。
「私はただね、辛そうにしてるパルスィを見たくないだけなんだ。一人でも大丈夫にって、誰かを笑わせられるくらい強い心って。すごく素敵なコトだよ。だけどそのせいでパルスィが苦しむなら、そんなのいらないよ! 捨てちゃえばいいんだ!!」
自分の努力を、苦しみを全て放り投げるその言葉。押し潰されそうなくらいに積み重なった心の重荷を、ヤマメはまた、解こうとしてくれている。
「……で、でも……」
パルスィは何故か、それに抗おうとしていた。ヤマメに甘えてばかりの自分に、戻りたくない。その気持ちがまだあったのだろうか。
己の弱さに気付いても、それを認めたくない。嫉妬狂いのプライドが、胸の中でまだ燻っていた。
「……いいんだよ。そんなに何もかも背負わなくても。パルスィは優しすぎるんだ。みんな自分がいけない、みんな自分の責任。一人で全部背負って、片付けようとして、周りのみんなには皮肉でごまかして。その上私のものまで乗っけちゃったら、本当にパルスィが潰れちゃうよ!」
ヤマメの声色は、必死だった。それだけ、目の前の相手を想っている証拠でもある。
「だから。だから、もうそんなに無理しないで。みんな心配してるんだよ」
「……だけど……私、もうあの頃に……もどりたく、ない……」
ヤマメがいなければ、膝を抱えて泣くしか出来ない。そんな、弱虫の自分に戻りたくない。せめて明るくなれなければ、それこそ嫉妬の感情しかなくなるのではないか。
怖かった。今ここで変われなければ、自分が空っぽになるような。
「誰かを妬むしかできない。誰かの持っている素敵なモノを、欲しがるだけの私……あまつさえ、信じてくれた人も疑って。もう、イヤだよ……せめて、せめてヤマメみたいにさ……」
「ちがうよ。それはちがう。パルスィは……そんなんじゃない」
弱々しいパルスィの言葉を、ヤマメの強い言葉が遮る。
何より頼もしい笑顔で、彼女は自分の手を握る。
「どんなに慣れなくても、私の代わりに笑う。笑わせる。誰に頼まれたワケでもないよ。みんなに笑って欲しい。明るくしたい。それは私のマネなんかじゃなくて、パルスィの優しさだよ」
「だけど、私……ヤマメが、いなくなったから……」
「それで一番辛かったのは……きっと、パルスィだよね。ちょっと、嬉しいかな。でも自分のことより、周りからの心配を解こうとしたんでしょ? だからパルスィは、自分自身も笑った。笑い続けた。私は平気だよって伝えるために。ちがう?」
「……」
「パルスィ自身の笑顔すら、誰かのため。ずっと前から思ってたけど、本当に優しいんだね。私、妬ましいくらい。パルスィの優しさが妬ましい!」
こんな状況でなければ、きっと自分の真似をするヤマメの言葉で笑っていただろう。でもそれが出来なかったのは、昔を思い出していたからだ。
『優しいんだね』――初めて会ったあの日にも、同じことを言われた。思えばあの時から、ヤマメは自分の想いを汲んでくれていた。
会う者全てを妬むパルスィ。そんな自分自身が嫌で、人付き合いを避けた。嫉妬の心は内に留めておけず、好意を持って近付いてくれた者すら浸食して――いつかきっと、その繋がりも壊してしまうから。手を差し伸べてくれた者すら傷付けるのなら、最初から遠ざけたい。
だがそれすら厭わず、ヤマメはずかずかと踏み込んできた。パルスィは心のどこかで、それを待っていた。いいよと笑って、こんな嫉妬狂いを赦してくれる存在を。
「……わ、わたし、は……やさしく、なんか」
「ぶっきらぼうにして、ひねくれてみせて、人を遠ざける。自分の能力でその人にイヤな思いをさせたくないから。分かってるんだから、パルスィの考えなんて」
「……!」
「昔のパルスィに戻りたくない? ひねくれてばっかだったあの頃に? 気持ちは分かるよ、けど本質は何も変わってない。あの頃も、今も、パルスィの優しさだけは本物だよ」
ヤマメは、覚えている。自分は封印してしまった、あの日のことを。
自ら針のムシロを纏ったハリネズミ。その棘の裏に隠れた、パルスィの本当の気持ちを見つけてくれたのは、ヤマメが初めてだった。皮肉と諦観と、精一杯の冷たさ。その向こうにあった、どうしようもないくらいの人恋しさ。
『ずっとそばにいるから』――そのたった一言で、満たしてくれた。そして今また、パルスィをその温かさで包み込もうとしてくれている。必死に、抗う為の言葉を探した。
今それを受け入れてしまったら、完全にヤマメに負けたことになってしまう。いくら酷い言葉をぶつけても、拒絶しても、それでも手を差し伸べてくれる。それを黙って受ける自分の存在が、余りに卑しいものに見えてしまう。
「ちがう……ちがうって、ばぁ……! わたし、は、ただ、イジワルで、ひねくれてて……どうしようも、ない……んぐぅ。だって、だって! あなたは、ゆ、許せるの……? なにがあっても、ずっと横で、わ、笑ってくれたあなたを……大事な、約束もすっかり忘れて……しんじ、られないって……う、うぁ、あぁ……」
目元を覆って、かぶりを振る。嗚咽と共に、指の隙間から涙がこぼれた。はいそうですね、とヤマメがこの場から去ってしまう恐れなど、全く考えられなかった。ただ、ヤマメがあくまで自分を肯定してくれる、その事実が耐えられない。なんて、甘えているんだ。
何もかもを背負う――それは、ヤマメのことではないのか。
自分が何を言っても、
どれほど無愛想でも、
ぶっきらぼうでも、
つっけんどんでも、
泣いても、
喚いても――
――注いでくれた愛の全てを、忘れても。
それでも、それでも、許してくれるのか。ヤマメの方が、ずっと辛いに決まっているじゃないか。
何故自分を拒絶しない? 何故そこまで尽くしてくれる? ヤマメへと最初に抱いた、愚かな疑念へと帰結してしまう。分からない。
「い、言ってよ……言ってよ!! もう、私のことが、し……信じられないって!! ヤマメにこれ以上迷惑かけてまで、甘えたくなんかないよ!!」
「いやだッ!!」
「!!」
頬を思いっ切り張り飛ばされたような心地。ヤマメの怒声なんて、初めて聞いた気がした。
「じゃあ私も言うよ! なんでもっと甘えてくれないの!? これ以上パルスィに辛い思いをさせてまで、あなたを追い込みたくなんかない!! いいじゃん、甘えたって! 支えられたって! 私だってパルスィにいっぱい、いっぱい支えられた! 私だけじゃない、みんなだよ! パルスィが苦しむところなんか見たくない! 笑った顔が見たいよ!! 楽しそうに、うれしそうに、なんにもイヤなコトなんてない、パルスィの明るい顔が見たい!!」
「……や、ヤマメ……」
「……ごめん。でも……ね? 私、さっきも言ったけど……パルスィが辛そうにしてるトコロだけは見たくないから。パルスィが楽しそうにしてくれてたら、それだけでうれしいよ。その時に、私が横にいたりなんかしたらもう最高だよ! だから、だから……もっと私に甘えてよ! 私でよかったらさ!」
彼女の怒った顔は、あっという間に引っ込んだ。すぐに太陽のような笑顔になって、涙で濡れたパルスィの手をそっと温める。その目を直視出来なくて、足元を見た。灰色の土に、いくつもの染み。ぐす、と鼻を啜ると、鼻先から涙がぽたり、また新しい染みを作る。
「……なんで、そんなに……」
「理由なんかないよ……って言えたらカッコいいんだけどね。えへへ。だって私、覚えてるもの。約束」
「……やくそく……」
「笑い方が思い出せるように、ずっとそばにいるって。忘れてなんかないよ」
「私は」
「忘れたら、思い出せばいいよ。言葉でキズつけちゃったら、言葉で治してあげればいいの。ツララみたいに冷たい言葉を投げちゃう時だってあるけど、その時はあっためてあげればいつかはとける。パルスィはそれが分かってるはずだよ」
ヤマメはあくまで微笑んだ。彼女の言葉が、温もりが、かつてパルスィの凍てつく心を融かしてくれた。ヤマメの心に突き刺してしまった氷柱を、自分は融かせるだろうか?
その疑念を吹き飛ばすように、ヤマメは続けた。
「だって、私との約束を思い出したあと……私の代わりに他のみんなと、その約束を果たそうとしてくれたじゃない。そばで笑ってあげる。笑わせてあげる。心配なんかかけないで、一緒にいて楽しくしてあげる。心配してくれたみんなや、不安そうなみんなを、安心させてあげる。私がパルスィにしてあげたかったことの全部を、パルスィはやろうとしてくれたんだよ」
「でも、辛そうって……こいしは、私が無理をしてるって」
「慣れてないからしょーがないよ。気にしない、気にしない」
けらけらと声を上げて笑うヤマメと、茫然とするパルスィ。そんなに軽い言葉で、悩み続けたこの問題を片付けようというのか――否。すぐに気付いた。
好きな人が不安そうにしていたら、取り除いてあげる。ヤマメは今まさに、それを自ら行っている。
「大切なのは、パルスィがそれをやろうとしてくれたコトなんだよ。誰かが泣きそうにしてたら、そっと励ましてあげられるような優しさを……今よりもっとずっとひねくれてた昔の頃から持ってた優しさを、パルスィは忘れてないんだって。それが分かっただけで、私、すごくうれしいんだ!」
ヤマメがくれた優しさを、無駄にしたくない。その我武者羅な想いだけで、無理をして笑い続けた。結果として余計な心配をかけてしまった面はあったけれど――それでもみんなは、笑ってくれた。それが確かに嬉しかった。嬉しいと思えた自分の心は、ヤマメの言う『優しさ』を、ほんの少しでも宿していられたのかも知れない。
心臓の鼓動が強まった。すっかり冷めた胸の奥で、何かが動き出す感触が。
「それにさ、私だけじゃないよ。みんな、パルスィを心配してる。心配させたみんなを安心させるとか、明るくなってほしいとか。そうやってみんなを思いやれるパルスィを、みんなも気にかけてる。そうじゃなきゃ、こいしは私のところに来なかったし……他にも、いっぱいあったんじゃない?」
「あ……」
その言葉が更に、胸の奥底にあるスイッチを押し込む。浮かんでは消える、記憶。
『パルスィ、どこ行ったかしらない?』
こんな自分を頼ってくれて。
『ヤケ酒の類じゃなさそうだな。とりあえずこっち来い。そこは寒いぞ』
何も言わずとも、自分の意図を、決意を汲んでくれて。
『だめ、だめぇっ! 死んじゃだめだよぉ! わ、わたしにできることならなんでもするから!! 相談にものるから! ねぇったら!』
例え見当はずれであったとしても、ひたすら一途に心配してくれて。
『そのさ。辛かったら、おいでよ。あたいは……あたいでいいなら、パルスィの味方になってやれると思う』
泣いてばかりだった自分を、心からの優しい言葉と共に信用してくれて。
『……でも、だからこそだよ。ヤマメやみんなが好きだったのは、ヤマメみたいなパルスィじゃなくて、パルスィみたいなパルスィ。忘れないでね』
本当の自分、水橋パルスィとしての自分を、好いてくれて。
『……世界で一番、かなしいこと。それは大好きなヒトを、信じてあげられないこと……』
――そして、今こうして全てを見つめ直すきっかけをくれた。
みんな。
「……みんな、パルスィが好きなんだよ。そうじゃなきゃ、こんなに……さ。詳しく知ってるワケじゃないけれど、みんなすごく心配してたんでしょ? パルスィの優しさを、みんな知ってるんだ。だからこそなんだ」
「……だったら私、強くなりたいよ。もう二度と、みんなに心配かけないくらい……いつか、いつか……ヤマメが……」
『いつか君がいなくなっても大丈夫なように』――震える唇。その想いは本物だった。だがヤマメは、その先の言葉を強く手で制した。
「言ったじゃない、もっと甘えてよって。みんなみんな背負って苦しむくらいなら、私たちに分けてくれればいいの。心配って、そういうモノだよ。パルスィの苦しみを分けてほしいんだよ。パルスィが安心できるようにさ。不器用でも誰かをいつも思いやれる、優しいパルスィへのお返しだよ。それに甘えるパルスィを弱虫だなんて言うなら、弱虫は今日から褒め言葉だよ。私が幻想郷の辞書を全部書き変えてくる。でもそれはたぶん……難しいかなぁ。いっぱいあるよね、辞書。パルスィの家にあるやつから書き変えよっか」
ポケットからペンを取り出し、指先で弄ぶヤマメ。落っことした。ころころ転がっていく。
「あ、もー」
それを追いかけるその様子が、何だか無性におかしくて。思わず、破顔した。喉の奥で笑いを噛み殺そうとするが上手くいかなくて、ペンを拾ったヤマメに見つかった。
「おっ、パルスィ笑った! 別にワザとじゃないんだけどなぁ」
「ち、ちが……これ、は、ちょ」
「ほらほらー」
「やめっ……くふ、ふふっ……」
ぐいぐいとペンの先で頬をつつかれて、笑いを堪え切れなかった。あんなにシリアスで、少し前まで嗚咽と涙が飛び交ってた場所なのに。小さな笑い声が花を咲かせる。
「えへへ……笑ってる顔の方がずっとステキだよ、パルスィ。でも無理矢理にそれを作るのは、やっぱり違うよ。苦しいよ、そんなの。笑いたい時だけ笑えばいい。悲しい時はいっぱい泣いてさ、誰かになぐさめてもらえばいいんだ。みんなきっと……ううん、絶対。パルスィが泣いてたら、そっと抱き締めてくれるよ」
あの日のことを思い出した。今となっては定かではないが、きっと燐も空もすすり泣く自分を見て、声を掛けてくれたに違いない。燐は相談に乗ろうとしてくれたし、空には妙な勘違いをされてしまった。それもこれも、二人が自分を心配してくれたからに他ならないじゃないか。
二人だけじゃない。ヤマメのいない不安に押し潰されそうでも、蒼白な表情の自分を心配してくれたキスメもいる。橋まで足を運んでは、泣き続けるパルスィを立ち直らせる言葉を探し続けてくれた勇儀だっている。『人生相談』の果てに、ヤマメをここに呼んでくれたのは他ならぬこいし。そしてさとりは、最初からずっとヤマメと己の関係を気にかけてくれた。
甘えて、いいのだろうか。ヤマメが散々そう言ってくれたのに、もう一度その疑問が――今度こそ肯定して欲しい願望が――頭をもたげる。甘えっぱなしで、頼りっきりで、弱気で嫉妬深い。そんな自分を、それでも皆は受け入れてくれるだろうか。
そんな彼女の想いを見透かすように、ヤマメはそっと頷いた。安心させるように。
「だから、いいんだよ。無理に変わったりなんかしなくていい。パルスィは独りぼっちなんかじゃない。だから弱くていいんだ! パルスィが辛い思いをするくらいなら……ずっとずっと、弱虫のままでいてよ!!」
――嬉しかった。心の底から、素直に。はっきり言って情けないと思う気持ちもあった。どこまでもヤマメや皆に甘えてばかりで、自分じゃ何一つ殻を破れない。だけど――それを赦してくれる。そんな自分がいいと言ってくれるヤマメの言葉が、心地良くてたまらない。
パルスィは最早、弱々しい抗いの言葉すらも封じられて聞くがまま。それでいい。もっと、もっと、ヤマメの言葉が聞きたい。
彼女は少しの間、しっかりとパルスィの顔を見る。ほんの少しだけ、恥ずかしそうな表情を覗かせたのを、パルスィは見逃さなかった。
次の瞬間、ヤマメは――一杯に涙を溜めた目を細めて、笑った。涙の雫が弾け飛んで、きらりと輝く――
「……私は! そのままの優しいパルスィが好き!! 大好き!!」
ぎゅっと腕を回して、ヤマメは強く強く、パルスィを抱き締めた。
腕から伝わる力が、そのままパルスィの心を締め付ける。だけどそれは、嫌な感触ではない。少し痛いけど、無性に安心する。
触れる胸から、彼女の鼓動が伝わってくる。自分の心音とシンクロして、二人の心を繋ぐようにビートを刻んだ。
パルスィの腕が、彷徨う。冷たい風に晒され、がちがちに強張った己の心と身体を温めてくれるヤマメ。大好きな君の背を、同じように温めてあげられる資格はあるのか?
いくら許してくれると言われても、一度であろうとヤマメを悲しませた事実は揺らがない。そんな自分の体温を求めてくれるのか。この期に及んで迷う自分の弱さが、また情けない。
迷う彼女の胸の中で、そっと囁く声。
「……パルスィ、さむいよ……」
はっとした。悩んでる場合じゃない。資格とか、権利とか、そんなんじゃない。
ヤマメは今さっき、何と言ってくれた。彼女は与えてばかりだ。パルスィからだって、欲しいに決まっている。誰も強くなんかない。誰だって弱虫だ。誰だって欲しがりだ。
――それで、いいんだ。世の中なんて割とそんな感じだ。案外それでうまくいくんだ。
「……ごめんね」
そっと腕を回した。寒い時期だからか、すっかり冷えたヤマメの背中。優しく擦ると、不思議なくらいの温もりが生まれる。もっと力を込めた。もっともっと感じたい。
「……えへへ。やっぱりパルスィは、やさしいね……」
囁く声に合わせるように、またしても視界が滲む。今日一日で、何回泣いただろう。
すっかり泣き癖が付いてしまった気がするけれど、それも含めての水橋パルスィだ。
――今はただ、あの約束の続きを。まだまだ途中なのだから。
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「ちょいなぁっ! お待ちどうさん!」
「きゃっ!?」
畳張りの和室。その一枚が突然ひっくり返ったかと思うと、からくり屋敷の如く下から現れた赤い影。幻想郷のRED ZONEと言えば彼女、火焔猫燐。
いきなり自室の畳をめくって現れたその姿に、パルスィは当然困惑した。
「も、もうちょっと普通に……玄関から来なさいよ」
「まーまー、たまにはさ。それよりパルスィよ、もう少しで始まるぞ? もう殆ど集まってて、来てないのはお前さんくらいさ」
「……な、なにが?」
「あれ、聞いてなかったか」
ヒラヒラ手を振る燐だったが、次ぐパルスィの言葉に少々面食らった様子で頭を掻いた。
「っかしーなぁ。最近色々と疲れるコトも多かったし、ここらでぱーっと騒ごうってコトで宴会やるぞーって」
「……あー……なんか少し前、夢の中で誘われたような。地霊殿での宴会……私以外にも、ヤマメとか、キスメに、勇儀も来るんだっけ」
視線を中空に彷徨わせ、パルスィはそんなことを口走る。燐は呆れた顔だ。
「なんだそりゃ。でもまあそれで合ってる。もうみんなお待ちかねだってのに、なかなか来ないから火焔猫特急便さ。さ、こっちだ!」
「え、ちょ」
半ば引きずるようにしてパルスィを家の外まで連れ出すと、そこに停めてあった一輪車に彼女を放り込む燐。
「乗ったか? シートベルトは?」
「あるなら欲しいわよ……」
「んじゃあ出発だ! 振り落とされるなよ……にゃーんっ!!」
「きゃあああ!!」
気合いの鳴き声と共に、燐の靴底とタイヤが土を噛む。ロケットのように加速した一輪車は、まるでホバーのような滑らかさで橋を駆け抜けて行き、やがて旧都へ。
両端の部分くらいしか捕まる所がなく、かなり無防備。その上でこれだけのスピード。風圧で前髪が撫でつけられ、あまり見られたくない顔になりながらパルスィは訴えた。
「ちょ、怖……やだぁ、歩いてく!!」
「途中下車の際は、三回回ってにゃーんと言ってくれ!」
「無理いいぃぃぃぃぃぃ……」
ドップラー効果で低くなるパルスィの悲鳴と、タイヤのドリフト痕を残しながら、風になった燐とパルスィは一直線に地霊殿へと向かっていった。
「……お、やっと来たか……大丈夫か? こないだより更にやつれた気がするぞ」
「スリルとスピードを楽しんで、腹を減らしてきたってトコロだね」
「……あう」
ようやく地霊殿に辿り着いた時、パルスィはすっかり憔悴していた。途中、ショートカットの為に細い路地裏や裏道、二、三メートル級の小さな崖をいくつも飛び越えたりと、正直命がいくつあっても足りない旅路だった。廊下にいた勇儀が思わず心配する程の青い顔で、帰りは歩こうと心に誓う。
――ヤマメが再び姿を現してから、一週間。あれからパルスィは、地霊殿に行くのをやめてしまった。別に何か理由があったわけではないのだが、何となく行き辛かった。
橋の上でぼけっと座ったり、やって来たヤマメやキスメと話をしたり、勇儀に絡まれたり。以前と何ら変わらない日々を送っていた中での唐突な拉致、もといお誘いであった。
「パルスィ、最近なんで来てくれないのさ。おくうやこいし様が寂しがってたぞ」
廊下を歩きながら燐。毎日のように顔を見せていたのに、ぷっつりと途絶えた連絡。心配されてしまうのも止むなしかと、パルスィはばつが悪そうに眉を垂れた。
「……ごめんなさい。ちょっと、その……まだ少し、気持ちの整理が」
「そっか。まあ色々あったからね……あたいはてっきり、久々に夫婦水入らずであまあまな生活でもしてるのかと」
「んなっ!? そ、そんなんじゃないわよ! 別に、べつに、ヤマメとはそんな……」
「んんー? あたい、ヤマメだなんて一言も言ってないのになぁ」
どったーん! と音がしたので見やれば、パルスィが思いっ切り転び、床に突っ伏していた。別に躓く物もなさそうなものだが。
「な、な、なぁっ!? あ、が、う……お燐ー!!」
「あっはっはっは! いつしかのお返しさね」
「いやはは、まるで漫才だな」
腹ばいでじたばたのたうちながら顔を真っ赤にするパルスィを見て、さも愉快そうに二人は笑った。
だが正直な話、燐のおどけぶりが今のパルスィには有難かった。色々あったのだ、向こう何ヶ月分の涙を流したか。こうして笑い飛ばしてくれた方が、ずっと気が楽だ。
自分もこうあれたら、と一瞬だけ思って、少しだけ迷った。羨ましいのは事実だが、燐が燐だからこそ、こんなからかいの言葉が出てくるのではないか。
必死に自分を変えようとして、苦しそうな顔をしていた少し前の自分。どうなんだろう。
悩みかけたパルスィの思考を止めてくれるかのように、燐がポンと背中を叩いた。
「……ま、難しい話なんて忘れなよ。さっきのパルスィ、可愛かったしね」
「ちょ……お燐、やめてよ」
「へへー」
ぎしぎし軋む廊下を歩く時間は、意外な程長かった。何度も開けた襖もとうに通り過ぎ、角を数回曲がった先。似たような襖だが、開くとそこには広い畳張りの空間。
テーブルに座布団、酒類も続々と運び込まれていかにもな宴会場。
「ほーれ、主役の到着だ!」
「うにゅ、パルスィやっと来た!」
「ヒーローは遅れてやってくるって言うしねー」
「ち、ちょっと……」
勇儀に背中を押し込まれる形で宴会場へ入ると、すぐに近くのテーブルを囲んでいた空にこいしが立ち上がって駆け寄ってくる。
あれ以来ずっと見ていなかった二人の顔。嬉しそうだった。やれなんで来なかっただの、やれ寂しがる空を見て燐が嫉妬してただの、やれそれも橋姫の能力かだのと騒ぐ彼女達の表情が、少し遠い場所のように思える。ガラスケース越しに見ているような心地。
本当に、自分のことを言っているのか――普通ならまず考えないだろう、ひねくれた反抗期のようにネガティブな気持ち。誰かと間違えてるんじゃないか。自分はそこまで好かれているのか。自信がまだなかった。あれだけ自分を気遣ってくれていたのに、だ。
周りが楽しそうであればあるほど、そこに混じりたい気持ちと、隔絶されたいような冷めた気持ちとが同時に芽吹いて、みるみる茎を伸ばしていく。
「……」
「でもちゃんと来てくれてよかった。夢枕っぽく伝えた甲斐はあったかな?」
「なんですか、それ」
「こないだの夜中、パルスィの家にこっそり忍び込んで、枕元で囁いたの。今日のこと。深層心理にすり込む感じでさ、わざわざお経みたいに唱えたんだよ?」
「普通に言えばいいじゃないですか! ていうかだからパルスィなかなか来なかったんじゃ」
「うにゅー、こわい!」
ふと意識を呼び戻すと、こいしが何やらまたしても妙な発言で場を沸かせている。
反射的に口が開いた。思ったままの言葉が口を突く。
「まさか、私のお風呂も覗いたりしてないでしょうね?」
「あぁー、やっときゃよかったぁ」
ちぇっ、と指を鳴らすこいし。突っ込みをいれるように、思わず前につんのめった。
「てコトは、やれたらやる気だったのね……」
「もー、そんなコトしなくても言えば一緒に入ってくれるよ? パルスィ」
「ちょっと何言って……え?」
誰のものでもない声がした。声のする方向を見やれば、腰に手を当てて実に楽しそうなヤマメの姿があった。
何も変わり映えのしない――全く見飽きることのない笑顔で、一同を見渡して。パルスィと視線を合わせた。
「ね、パルスィ!」
「ね、って……そりゃ、あの」
「それはそれでいいんだけど、なんていうかこう、こっそりやるのがさ。何も知らない無防備なパルスィを前にしてさ、こう! 溢れ出る衝動と戦いながら……」
「誰があげたんだか知らないけど、こいしになんて能力を与えたのよ……」
滑らかに呆れの言葉が続いた。肩をひょいと竦めると、ヤマメがその続きを引き取る。
「でもいいんじゃない? 結構楽しそう」
「ヤマメもお風呂場に侵入されたいの?」
「ちょっとドキドキするかなぁ。試しに蜘蛛の巣張ってお風呂入ろっかな?」
「あなたねぇ」
更に会話が繋がる。ここで割って入ったのは空だ。
「じゃあパルスィ、今日泊まっていきなよ! んで一緒にお風呂はいろ!」
「ヤマメがいればこいし様対策のトラップもお願いできるし、いいんじゃない?」
「お、言ったな! じゃあ意地でも先に入ってやるもんね! 待ち構えて、こっそり頭に石鹸こすりつけてやるんだから!」
「ヤマメ、今の内に巣張って来て、巣!」
「キスメの桶もトラップにしてさ、お風呂の戸開けたらこう、すこーんって」
俄かに盛り上がるおかしな会話。話には参加せずとも、ヤマメの横でキスメも会話の成り行きを見守りながら、愉快そうにくすくす笑っていた。
こいしを起点にパルスィからヤマメ、そして皆へ。バレーボールにも例えられそうな会話の連携。ヤマメのお陰でもあるが、今度こそ楽しげな会話の中心に、パルスィはいた。
(また頼っちゃったけど……)
皆の顔を見る。笑っている。だったら、いいか。甘えていいんだと、ヤマメの顔を見たらそう思えた。
無理をして、頑張って、会話で相手を楽しませようと難儀したあの日々。辛そうだと言われはしても、それはどうやら無駄ではなかったらしい。
「はっはっは、本当に面白いねぇ。いい余興だ。でもそろそろ、本番だよ」
勇儀が笑って、グラスに酒瓶、料理の乗った皿を並べて準備を進めている。慌てて燐がそれを手伝った。
『楽しみにしすぎて、お腹すいちゃった』などと会話している空とキスメを横目に見ながら、パルスィはそっとヤマメに近付いた。
「……ヤマメ」
「なぁに?」
振り返り、屈託のない笑みで彼女はパルスィを見た。
もし。もしもう一度、ヤマメが自分と話をしてくれるのなら――今となっては、全ては杞憂となったが――どうしても訊きたかったことがあった。騒がしさに紛れて済ませてしまいたい、だけど訊かずにはいられない、恥ずかしくて大切な質問。
「……笑い方。私に、教えてくれる?」
あの日の約束。笑い方が分からない。なら、思い出せるように。そばでずっと。
心の奥底に眠らせた記憶を垣間見た、あの景色。もう途切れ途切れになりつつあったけれど、その約束を忘れてしまうことはなかった。色褪せる前に、答えを聞きたい。
「どうしたら、あなたみたいに笑えるのか……嫉妬とか、自分が嫌とか、そんなんじゃなくってさ。あなたの笑った顔が、すごく……」
恥ずかしかった。面と向かって、大好きと言えるような度胸があるならそもそもこんなに悩むようなことなんてなかっただろう。と――
「……あなたが思ってるほど、難しくなんてないんですよ?」
唐突に背後から声が掛かった。驚いて振り返ると、さとりの姿。
トラウマを徹底的に掘り起こされたあの日以来の再会。背筋が自然と伸びた。パルスィの心の弱さを、情けなさを、誰より近くで見てしまった彼女。パルスィに何を思い、どんな感情を抱くのか。
さとりが、右手を差し出した。よく磨かれた、上等なグラス。彼女は悪戯っぽく、子供のように笑っていた。
「相変わらず、奥手なんですから。言いたいコトはハッキリ言いましょう、ね? 以心伝心とも言いますが、やっぱり言葉が一番です」
「……あ、あなたは言わずとも読んじゃうくせに」
「だからこそ、ですよ。ほら、早く、はやく。冷めないうちに、ほら」
「なになにパルスィ、なんかあるの?」
さとりとヤマメの期待に満ちた視線。思わずたじろいだ。急かすような言葉もそうだが、さとりが随分とお茶目というか、想像してたよりずっと積極的に絡んでくる。
「あなたは悩み過ぎですよ。アレコレと気を遣いすぎて、どうすれば自分以外の誰も傷つかないか、不快な思いをしないかばかり考えて。私達の前では、そんな悩みは禁止です。ましてやせっかくのお酒の席なのに」
「さとり……」
吸い込まれそうなさとりの瞳。憐憫の色はそこになくて、何とも言えない温かい眼差しだった。
すると彼女は、パルスィの目を見てニヤリと笑い――不意に、大声を張った。
「ほら皆さん、パルスィがお腹空いたって言ってますよ!」
「え」
瞬時に、数人の目の色が変わった。
「おっしゃぁぁぁ! パルスィ、これ食え! あたいが作ったんだ!」
「うにゅー! わたしがゆでたんだよー! たべてたべてー!!」
「えっへっへー。しょーがないなぁパルスィは。それじゃあこいしちゃん特製の無意識焼きでもいかがー? あ、黒いのはコゲじゃなくて、無意識の産物だから」
人、それをぼーっとしてて焦がしたと言う。格言めいた声が一瞬だけパルスィの脳内で響き、すぐに彼女の姿はそれぞれ皿を抱えた三人に押し倒されて見えなくなった。
「ああこら、乾杯もしてないのに……まあいい、始めるか!」
勇儀は一瞬だけ止めかけてしかし、はっはっは、と豪快な笑いと共に杯へ向け一升瓶を傾ける。なし崩し的に宴会モード。
「パルスィ、おいしい? おいしい? まだまだいっぱいあるからね!」
「もがぐぐ」
「ちょっと、卵ばっかじゃなくてわたしのも」
「んご」
口の中を絶え間なく浸食してくるゆで卵の食感と戦いながら、パルスィは呻いた。両手に卵を持って更に詰め込まんと待ち構える空と、その横で不服そうに頬を膨らませるこいし。その手には妙に黒い料理が乗った皿。
見かねて、燐がパルスィの分のグラス――さとりから受け取った―― へ、酒を注いで渡してやる。
「喉詰まらせるなよ。はい、飲み物。お酒だけどね」
「んっ……うー。いきなりハードね……」
「よーし今度はわたしのだ! やれ食えー!」
「こいし様、先にあたいのを……うひゃあ」
こいしは嵐のような箸捌きで、切り分けた謎の料理をパルスィの口へ押し込んでいく。その様子に燐は冷や汗を禁じ得ない。
「おうおうパルスィ、モテモテだねぇ。でも料理もいいが酒だよ酒。飲んでるかい?」
杯片手に勇儀が成り行きを見守りつつ、ずい、と酒瓶を突き出す。その腕に手を添えて、キスメがふるふると首を横に振った。こいしの『無意識焼き』で口が一杯なのは明白だ。
それを伝えようとしたのだろうが、勇儀はと言うと若干の思案の末、瓶を持ったままパルスィの側面を取る。
「んじゃあ耳から飲ませるか。丁度いい形してるしねぇ」
「んぐうー!」
「やめてやりなよ、姐さん。それに次はあたいの手料理をだな」
燐の手には肉じゃがの深皿。その普遍的すぎるチョイスにパルスィは涙を流しそうであった。
「えへへ、パルスィがまるで台風の目だぁ」
早くも酔い始めたか、ほんのり赤い顔のヤマメがパルスィの背中に圧し掛かるようにして寄り添ってきた。肩に顎を乗せて笑うと、耳元に息がかかってくすぐったい。
「んっ、ぐ……けほ。な、なんでみんな、私ばっかり」
口の中の物を飲み下して、息も絶え絶えにそんな疑問。すると、
「……ちょっと、失礼しますね。これを」
「え?」
不意にさとりが横に腰を下ろしたかと思うと、第三の目に繋がったコードを一本外して、パルスィへ示した。手に取れ、ということか。
言われるがままそれを握ると――言うなれば、額の裏側。よく分からないがその辺りから、さとりの思念が頭の中で声となって聞こえてきた。
(決まってるじゃないですか。あなたが元気そうだから、みんな安心してるんですよ)
「……」
パルスィは驚き、さとりの顔を見た。彼女は少し恥ずかしそうに笑う。
(一週間、あなたが姿を見せないから。もしかしたら何かあったんじゃないかって。特にお燐は事情を知ってますし、余程何か辛いことを思い詰めてしまったんじゃないかって。何度もあなたの家に行こうとしたんですよ? ヤマメとの再会を知ってるこいしが止めてましたけど)
「……」
「直接言えなんて、言いませんよね? 恥ずかしいです」
今度は口で囁かれた。心を見透かすさとりにもそんな概念があったのか。つい思ってしまったその考えはバッチリ筒抜けで、彼女の笑みはゆっくりと意地の悪いものに変わっていく。
「……なになに? まだまだ全然食べられる、と。食いしん坊ですね、パルスィは」
「え、ちょ」
「よーしよしよし! パルスィ、おかわり自由だぞー」
「パルスィ、塩とマヨネーズとケチャップどれがいい? ねーねー」
「ほら飲んだ飲んだ! ったく、心配かけやがってこのバカパルスィ!」
「食べ足りないなら、今から新しく作るよ? 無意識おでんとかどう? 勝手になんでも煮込んじゃうの」
皿を、箸を、スプーンを、卵を、瓶をあちこちから突き付けられて、パルスィは頭に周り始めたアルコールと共に目をぐるぐる回す。
だが、その向こうにある皆の顔は一様に明るくて――そして、皆が自分を見ている。
今こうしてパルスィが元気に顔を見せたことを、喜んでくれている。
ああ、ああ、ああ。あんなに迷惑をかけたのに、それでも。
目の奥が震える。騒がしい宴会場の真ん中で、心の奥に無言の喜びが、希望が広がっていく。
滲んでいく視界。だが、眠りかけた彼女の意志が目を覚ます。
――楽しい。すごく。みんな笑っている。自分を囲んで。
なのに、どうして泣くの?
「パルスィ!」
ヤマメの声。彼女はこのもみくちゃな騒乱の最中にあって、強引にパルスィの横へと身体を滑り込ませた。身体が密着する形になって、思わず顔が熱くなる。
微かに涙の浮かんだ、深緑の瞳。それを奥底まで見透かすように真っ直ぐな視線を合わせ、ヤマメは言った。
「なんでみんな笑ってると思う? 落ち込んでたパルスィに気を遣ってるから?」
彼女は言葉を一度切って、大きく首を振る。
「ちがうよ! みんな、パルスィと一緒にいて楽しいから。一緒にいられるのが、うれしいから笑ってるんだよ!」
パルスィの腕を抱き締めながら、ヤマメは笑った。
『……あなたが思ってるほど、難しくなんてないんですよ?』
そうか。励ますとか、強くありたいとか。そうじゃない。
楽しければ人は笑う。単純だ。世の中なんて、それで結構うまくいくんだってば。
誰かの笑顔の為に在れる程、強くなんてない。
だけど、それを弱虫と笑うなら、その嘲笑すら誇らしい。
だって、みんなこんなにも楽しそう。
――さあ、ほら。胸を張って。涙を拭いて。
優しいみんなを、愉快なあいつらを、大好きなあの子をしっかりと見て。
得意気に。誇らしげに。胸に広がる、いっぱいの想いを掻き集めて。
―― 笑えよ、弱虫さん!
ともあれ、パルスィとヤマメという俺得で素晴らしい作品をありがとうございます。
優しくて臆病なパルスィは可愛いですね。
ところで、こいしちゃんの力が籠ったスペルカードもらえませんか?ちょっとパルスィの入浴を拝みに…うわっ!なんだこの蜘蛛の巣h(ry
とても素晴らしいお話でした
それが不思議なくらい爽快で、また綺麗な話でした。
この二人なら親友として健全な付き合いが出来そうですね。
感情移入しすぎて時間忘れて電車乗れなかったし
家族に「何泣いてんのキモッ」っていわれたぞこの野郎
パルスィかわいい
パルスィは、本当はきっと誰よりも優しい娘。脇を固めるメンバーも素敵に輝いてて、思わずウルッときてしまいました。
心情の揺れ動きがこの小説の一番のテーマだと思うのですが、そこが今ひとつでした。