前日からの酷い風邪で寝込んでいたのもすっかり回復し、ようやく頭の中もスッキリしてきた頃合だった。
布団に身体をうずめながら、ベッドの脇に置かれた時計を見る。午後11時半を刺している――――要するに、真夜中だ。
「……なんか、難儀な一日だったぜ」
暗闇の中、天井を見つめて思わず呟いてしまう。
風邪でうなされていたから、というのも勿論ある。ただそれよりも、厄介な連中が大量に家へ押しかけてきたのがもっとキツかった。
「あら魔理沙、あんたが風邪引くなんて珍しい……とりあえずこの新茶空けてもいいかしら、いいよね」(某巫女)
「魔理沙、風邪引いたんだって? ううん、今日1日は楽しい玩具が出来たわ……」(某吸血鬼)
「どーも魔理沙さんお見舞いに来ましたよっ! それじゃあ、熱で浮かされてる魔理沙さんの写真いただきますね、はいチーズ!」(某インチキ記者)
……ろくでもない連中のろくでもない発言集(一部)だ。私の風邪なんてお祭り程度にしか思っていないに違いない。病人の寝ている側で酒盛りまで始めたのがその証拠である。ていうかアイツらにモラルはねえのかよ!
「……まあ、深刻そうにされるよりかは、そっちの方がいいけどさ」
思わず微笑が込みあげてくる。そうだ、この幻想郷に住んでる奴らは皆そんな感じだ。生真面目な奴が現れたとしても、幻想郷の雰囲気に当てられて、いつの間にか同じ色に染まっている。今までずっとそうだった。
で、そんな感じの奴らしか居ないからこそ―――私も居心地が良いと感じられるのだろう。
「……でも、文のヤツは明日粛清しなきゃだな」
散々私の顔を撮りまくって、明日の文々。新聞の一面はどうなる事やらである。
うげえと一度舌を出して、私は静かにまぶたを閉じた。焼き鳥の味付けは、さあどうしようか。
◇
ところがどっこい、まるで眠れないのだから困ったものである。
「……これはいかん」
まぶたを閉じている事にも疲れて、ゆっくりと目を開ける。先程と何1つ変わらない天井が私の視界に入ってくる。
少し身体をひねって、脇に置かれた時計に目を向けた。――午前1時半。2時間も目を瞑っていたのに、一向に眠気は訪れてくれない。むう……
「……まあ、一日中眠ってた訳だしなあ」
思えば、そうなのである。いくら風邪で寝込んでいたからとはいえども、夕方ごろ(うるさい客が殆ど帰って行ったころ)にはすっかり回復していたし、身体を軽く動かしたい程度には体力は有り余っていた。
それじゃあどうしようかと言うと、正直ベッドから出ようという気分でも無い。ピークこそ過ぎたとはいえ、真冬の夜中は未だ極寒だ。布団の温暖な気候を捨てるのは少々惜しい。
「……よし、ここは古典的に行こう」
古典的。古典的といえば勿論アレである。
瞳を閉じて、妄想の世界へ浸る。妄想の世界に開かれた草原を創り出す。草原には無数の羊たち。もうお気づきであろうが、皆までは言うまい。
「ひつじが1匹、ひつじが2匹……」
……
そこはかとなく切ない気持ちになってくるのは、気のせいなのだろう。
いやいやマジで、こういう古典的なヤツを舐めちゃいけない。何代にも語り継がれてきた由緒ある方法なのだ、効果が無い筈ないじゃないか。そうだよ。憐れむなよ……憐れむなよ……
『そんな魔理沙さんに1つ豆知識を授けましょうっ!』
『うお?!』
不意に、妄想世界へ首を突っ込んでくる緑の女が1人。コイツは理不尽じゃない方の巫女だ。とはいえコイツも大概に理不尽ではあるけれど。
それはともかくとして、突然妄想世界に現れた現人神様は、人差し指を下唇に当てながら語り始める。
『これは外の世界で聞いた話なんですけど、日本語で羊を数えてもあんまり意味がないらしいですよ?』
『はあ……?』
『なんか、羊を英語にした時の発音がスリープに似てるからっていう理由だとか何とか。だから、日本語でいくら羊羊唱えても時間の無駄って事です』
『お前の横文字はよく分からないが……じゃあなんて唱えればいいんだよ』
首を傾げた早苗は『そうですねえ』と暫く考えてから、人差し指を立てて言った。
『羊を紫さんに置き換えるとか。どうでしょう!』
どうでしょうじゃねえよ。
『……それはいったい何の意味があるんだ』
『いやまあ、やってみれば分かりますよ。それじゃあ、良い夜を! グッナイ!』
そう言い残し早苗は妄想世界から消えて行った。突然現れて突然消えていくというのは実に早苗らしい。……私の妄想なんだから当然か。
ともあれ、早苗がそこまで言うならやってみようじゃないか。今まで草原に群れていた羊たちを、全て八雲紫に。そう念じた瞬間、羊たちの姿が煙幕に包まれ、そして――
フフフ…… フフフ…… フフフ……
フフフ…… フフフ…… フフフ……
フフフ…… フフフ…… フフフ……
フフフ…… フフフ…… フフフ……
「…………」
ゲンナリする。眠気は無い。というか気味が悪い。そりゃそうだ、さっきまで大量に群れていた羊が全て紫になったら世紀末である。私だったら胡蝶夢丸を100個くらい飲み込んで夢の世界に逃げ込むであろう。つーか、なんつー妄想をしているんだ私は……
ギィ―――― ギィ――――……
不意に、物音が聞こえた。
何かの軋むような、不快な音だ。廊下の方から、冷たい空気に乗ってそれは聞こえてくる。アホみたいな妄想から覚めて、私は小さく首を傾げた。
なんだろう、どこかの扉が半開きにでもなっていたのだろうか。廊下にある扉というと、リビングに繋がる扉とか、それともトイレの扉とか。
……トイレ。
「……もよおしたぜ」
最悪である。眠れない夜に潜む最大の敵が現れてしまった。トイレなんて言葉を考えたもんじゃない。しかし時すでに遅しである。
当たり前ながら、下の方がムズムズでいっぱいになった。眠れないところへ更にこれでは眠気なぞ呼び込める訳がない。
寝返りを打ち、腰を曲げるように身体を折りたたむ。その場しのぎである事は重々承知だったけれど、布団の外へ出るのは寒いし、出来ることなら回避したかった。
…………
ギィ…… ギィ……
……………………
「だめだ……」
駄目なのだ。尿意というのは本当に駄目なのだ。一度気にしてしまうといつになっても消えてくれないのが尿意というヤツなのだ。
こわばった身体を動かし、布団を押し退けてベッドから立ち上がる。薄いパジャマを冷たい空気が突き刺してくる。面倒だけど……行くしかない。安眠の為に乗り越えなければならない壁がそこにはあるのだ。
「さみー……」
肩掛けを身に着け、寝室から廊下へ足を踏み出した。真っ暗な廊下を壁伝いに歩いていく。さっさと済ませたくて、心持ち足取りは急ぎ目だった。
それが災いしたのかどうかは分からない。すり足で進む私の右足、その小指を何かで強打する。私の口から変な声が出て、表現の出来ない痛みが身体中に走った。
「~~~~!!」
ああもうクソだ、眠れない夜はクソだ!
真っ暗な廊下でうずくまる訳にもいかず、半ばスキップするようにトイレへ急いだ。トイレのドアノブに触れて、開けると同時に灯りを点ける。洋式便座へ腰を落とし、右足の小指へ視線を落とす。
赤くなっていたけれど、特に傷になっている様子もない。はあと1つ溜め息をついて、乱暴に頭を掻いた。
「悪い事っつーのは連鎖するもんだよなあ……」
眠れずに2時間悶々としていたと思えば、廊下で足の小指を強打する。これを不幸と呼ばずして何と言おうか。
それに、またベッドへ戻っても眠れない夜が続くのだろう。あれだけ違和感を与えてくれた尿意もすぐ解消されて、重い足取りでトイレを後にする。一直線に帰るのは嫌だったので、コップ1杯の水を飲んでから戻ろうか。
リビングの扉を開き、キッチンで水を飲んだ。コップを洗って蛇口を閉めると、シンクに1滴だけ水が落ちて、すぐ白々しい沈黙が辺りを包む。冴えた頭では沈黙さえハッキリと感じ取れるのだから嫌になる。
「……まだ寝れそうもないな」
リビングの扉を閉めて、ゆっくりと寝室へ戻る。途中トイレの扉にも視線をやったけれど、今度こそちゃんと閉まっているようだった。これでもう変な音はしないだろう。
「……ん」
下を向きながら歩いていると、何かが落ちているのを見つける。
暗い中で目を凝らすと、それが人形だという事が分かる。右足で弄ってみると、妙に固い人形だ。なるほど、さっき私が足をぶつけたのはこれか……
乱暴な足付きで人形を脇にどけると、さっさと寝室に入った。肩掛けを取って布団に潜り込むと、少しばかり留守にしたせいですっかり冷たくなっている。文句を言っても仕方が無い。目を瞑ってじっとしていよう……
……
…………
……………………
…………ギィ………………
…………ギィ…………ギィ………………
「……?」
……おかしいな。再び、軋むような音は私の耳まで届いた。
さっき閉めてこなかったのか、いや――そんな筈はない。リビングだってトイレだってちゃんと閉めた。確認だってしたじゃないか。
ギィ――――ギィ――――
でも、確かに聞こえる。さっきと同じ音が、確かに聞こえる。……閉め忘れたのか? 確認したとはいえ、暗いから見間違えたのかもしれない。
いや、けれど、足元に落ちていた人形はしっかりと見えたじゃないか。目だって暗闇に慣れていたし、人形が見えてトイレの扉が見えないのは……
――というか。
――あんな人形、うちにあったっけ。
「……」
……やめよう、考えるのは。背筋が反る程の寒気を感じたのは、布団が冷えてしまったからなのだろう。そうに違いない。
ギュッと瞳を閉じて、頭まで布団を被った。考えないように、考えないように。そうは思えど、私の心で勝手にイメージが浮かんでしまう。廊下に落ちていた謎の人形。やけに固い謎の人形。私が足で乱暴に蹴り飛ばした人形――
考えるな……!
……
…………
……ギィ…………
ギィ…………ギギ…………
ギィィ…………ギィ…………
…………
……
ギギギィ――――――――
「……っ!」
軋む音が大きくなった。突然の出来事に、布団を握りしめる手のひらに汗がにじむ。
なんでいきなり音が大きくなった? やめろ、考えるな。音は扉の音なんだから、音の大きさは変わりっこないじゃないか。やめろ。扉が近づいてくる筈がないんだ。じゃあどうして。
……分かっているクセに。
やめろ。
すぐ後ろの扉を見てみろよ。
やめろ。
ほら、今この部屋は1人じゃないんだ。お前の他に『居る』んだ。
だって、そうだろう?
寝室と廊下を分けていた扉は、もう――――
「やめろッ!!」
自分自身で上げた大声に目が覚める。
一瞬、今の状況を把握できなかった。体中が汗びっしょりになって、パジャマが背中に貼りついている。高鳴る心臓は私の胸を内側から強く殴りつけてくる。
辺りは未だ暗闇の中だった。寒さのせいか、緊張のせいか、震える右手を伸ばして側の時計を掴んだ。――午前4時。2時間と少し眠っていたのか。いつの間に。
「……夢だったのか?」
ろくでもない夢だった。まさに悪夢だ。折角眠れたと思ったのにこれだ。本当に今日は良い事が無い……
……夢、なのだろうか。あれだけ頭が冴えていた感覚、それを以ってしても夢であったと言えるのだろうか。
「……夢さ」
そうだ、夢だったんだ。そうだろう。だって、閉めた筈の扉が開くなんて、あり得ないんだから。扉がひとりでに開くなんて、あり得ない。
頭まで掛かっていた布団を押し退ける。手に持った時計をかたわらに置いて、ゆっくりと寝返りを打った。今まで背を向けていた寝室の扉を直視するのだ。そして、閉まっている扉を見て、夢であったと確信するのだ。
……寝返りを打った。
ゆっくりとでは尻込んでしまいそうで、一気に――――寝返りを打った。
扉は、閉まっていた。
「……はああ」
思い切り大きなため息が漏れる。なんだよ、やっぱり夢じゃないか。そりゃあそうだ、だって扉が勝手に開くなんて、あり得ないのだから。
そう確信できたのに、私の心臓は未だ高鳴っている。……やめよう、考えるのは。夢だったんだ、それでいいじゃないか。眠れなくてもいいから、楽に布団を掛けて、楽な体制になろう。
グシャグシャになった布団を綺麗にしようと考えて、ベッドから立ち上がり、布団を両手で持ち上げる。汗が染みこんでしまったのか、布団は妙に重たい。
ゴトリ
ふと、何かの落ちる音がした。
「……?」
布団に引っかかって時計が落ちたのだろうか。
一度布団をベッドの上に置いて、床へ視線を落とす。腰を曲げて、それを拾い上げようと手を伸ばす。
私と人形の視線が重なった。
しかし「なぜ人形なのか」と考えると別種の恐怖が湧いてくる、具体的にはアあれこんな深夜なのに来客がガチャ
小さいときはトイレに行くのは大変だったのを思い出しました
怖ィョー
既に言われてるけど、人形と言えばなんかストーカー設定がよく付くあの人が思い浮かぶ辺りが別方向にホラーだ。
最後のシーンで、アリスと朝チュンオチにならなくて逆に安心したのは俺だけじゃないはず。
人形はアリスの人形で、魔法で操っていたのだ!
……そうだよね?
……簡易ボタン近すぎィ……
私の中では90点!
ホラーになりきれなかった感じかなぁ。