霧雨魔理沙は、考えていた。
夏から秋に足を踏み出し始めた幻想郷の、未だ紅を知らない楓の一葉を手の中で弄びながら、考えていた。
博麗神社である。
境内で来ない参拝客を待ちぼうけながら、暇な一日を飽かず繰り返す紅白の巫女の姿は、今は無い。
懐の寒い賽銭箱の上に腰かけてスカートの裾を秋口の風に遊ばせているのは、魔理沙一人である。
「博麗神社を譲ってもいい、か」
霧雨魔理沙は考えていた。
とりあえずは無二の親友と言ってしまってもまあ差し支えは無いであろう彼女が呟くように漏らした言葉について、考えていた。
珍妙な来客に神社を明け渡せと、そう勧告されたのだと言う。
普段の彼女ならば、笑いすらせずに悪趣味な冗談と受け流して、それで終わりにしてしまうような事件だ。
だが、彼女はどうも、迷っているように見えた。
「らしくないぜ」
それで神社の信仰が回復するなら譲渡することもやぶさかではないと、そう彼女は言ったのだ。
いつもの巫女らしくない、どこか逡巡するような発言であるように、魔理沙には聞こえた。
もちろん、あの巫女とて年頃の少女である。泰然自若とした性質ゆえに魔理沙自身ともすれば忘れそうになるが、
彼女も迷いもすれば笑いもするし、怒りもする。嘆き悲しみ、悲嘆に暮れるところを見たことがないでもない。
しかし、その中心には決して揺らがない泰山のような芯があって、それが彼女の土台なのだと思っていた。
その土台が、今回は妙に頼りなく、揺らいでいるように魔理沙には見えたのだ。
妖怪か、邪神の仕業か。そう彼女は言っていたが、それもどうだろう。
自分自身を納得させるための、方便であるように聞こえた。
「さて、私はどうするかな――」
異変が起きているのだという。
いつもならば巫女以上に敏感に反応して、巫女以上に騒ぎ立てて真っ先に異変解決に乗り出す彼女であるが、今回は腰が重かった。
何しろ、異変と言えるような異変は起こっていないのである。
幻想郷は平和だ。金木犀が橙色の花を咲き誇らせ、独特の芳香を神社に漂わせている。
何も変わりない、秋の博麗神社である。
いつもより少々紅葉が早くて、落葉が早いような気がするだけで、それだって一昨年の異変に比べれば誤差の範囲にも入らない。
ただ、博麗の巫女だけがいつもと違っていた。
思うに、これは彼女と博麗神社の問題なのだ。こればかりは自分が関わるべき問題ではないように、魔理沙には思えた。
掌中で弄ばれていた楓の葉が風にさらわれて、西の空に向けてひらりと舞っていった。
それを追うように向いた視線の先は、紅白の巫女が飛んでいった山の方向である。もちろん、彼女の姿はとうに見えない。
「――らしくないぜ」
ふと、呟いた。
その時。
「まったくだわ」
「ひょわぁ!?」
魂が消えるほど驚いた。
あまりにも唐突に、背後から己の独白へのレスポンスが返ってきたのだ。
魔理沙の背後、拝殿の奥の暗がりに、ひとつの気配が忽然と生まれていた。
金木犀が風に吹かれて細波の音を境内に響かせる。
ざわり。
ざわり。
「だけど、らしくないというならお前も相当のものだよ」
「――あ、」
届いた声には、確かに聞き覚えがあった。
だが、振り返ることが出来ない。
まるで見えない鎖が体中に絡みついているかのように、背後から届いた声が体を呪縛している。
この声。
「――ねえ、魔理沙」
ざわり。
ざわり。
魔理沙の視界が、まるで部屋の照明を絞ったかのように薄暗く覆われた。
まだ日が落ちるにはずいぶん間があるはずなのに。
世界の空気が、一変している。
「借りたいものが、あるんだけどね――?」
◆
鍵山雛は、考えていた。
秋も深まる幻想郷の、岩魚遊ぶ渓流に視線を落としながら、考えていた。
――妖怪は私の敵
あんたは妖怪
ぱしゃり、と音を立てて岩魚の尾鰭が水面を叩いた。
跳ね上がった水滴が頬に触れて、ひんやりとした感触を伝えてくる。
それを白く細い人形のような指先でそっと拭って、わずかに濡れた指先を眼前に持ってくる。
血の通わぬ、作られた肌色に染め抜かれた人形の指先。
それを見詰めながら、雛は小さなため息を漏らした。
「……そうね。私は妖怪」
もとは、人形であった。人々の祈りを受けて川を下り、海へと流されて、やがて沈むために生まれた流し雛。
だが、どこでどのような作用が働いたものか。意識が芽生え、肉体を得て、気づいた時には彼女は神となっていた。
疑問を持ったことは無かった。
そのように定められたのならば、私は神なのだろう。ならば、与えられたことをしよう。
幸いにして、と言うべきか、己の成すべき職責はもの言わぬはずの人形に意識が宿ったその瞬間から理解していた。
それ以来、彼女は妖怪の山に住まい、幻想郷が生み出した厄を吸い込んで生きてきた。
それを当然のことと思っていたし、また自分の存在意義はこの行いにこそあると言う確信があった。
神だから。
長い間、それについて迷うことなど無かったし、また疑問に思うことも雛はしてこなかった。
だが、今は胸のうちにいくつもの疑問が残っている。
あの巫女が通り抜けざまに刻んでいったいくつもの小さな傷が、疑問となって厄の代わりに染み出してくるようだった。
私を神と定義したのは、いったいどこの誰なのだろう。
自分は神であると同時に、動き、口をきく人形である。
ならば、それは妖怪とどこが違うのだろうか。
「境界は、どこにあるのかしら」
我知らず、再び漏らしたため息が風に乗って落ちてきた紅葉の葉に触れる。
その葉がみるみる生気を失い、瞬く間にしおれていくのを、見るともなく視線が追った。
岩魚は聡い。自然界に生きる生命の本能と言うべきか、渓流に落ちた紅葉から逃げるようにその姿が遠ざかって行った。
「……大鐘さん、近い近い」
苦笑とともに、そんな呟きが漏れた。
存在するだけで周囲の厄を取り込み、それを振りまかざるを得ない生き人形。
確かに、自分は妖怪なのだろう。
けれど、ならば。
「あの巫女は、誰と戦うのかしら」
神である自分を妖怪と呼び、倒していった巫女。
彼女はこれから誰を敵とし、誰と戦うつもりなのだろう。
神も妖怪も敵とみなして、誰も彼も倒していくのだろうか。
その先に、彼女は何を見るのだろうか。
「――厄いわね」
もう一度、ため息が漏れた。
その時。
「――あ、」
何か、妙な存在が近づいて来たのを感じた。
先の巫女と同じように、山頂を目指して飛翔してくる何者か。
その存在が放つ気配に、雛はほとんど戦慄に近い感覚を総身で感じていた。
――これは、いけない。
ぞわり、と毛が逆立つような感触が全身を撫でる。
来てはいけないものが、近づいている。
世界が薄く黒いヴェールに覆われたように、ゆっくりと暗さを増し始めていた。
これは、厄だ。
それも、生半可のものではない。
まるで、禍そのものが形を得て突き進んでくるような異様な気配。
雛はほとんど防衛本能の働くままに、渓流に指先を突っ込んでいた。
「来るなッ!!」
派手な水音を立てて、雛の手から下流の気配に向けて飛沫が跳ね跳んでいく。
それは雛が身に纏う厄を帯びて、そのものが威力を孕んだ弾丸へと変質する。
その正体すら拝まぬうちから、姿の判然としない暗い気配に向けて弾幕が突進した。
「お、っと」
その気配は、こともなげに雛がまき散らした水滴の幕から身をかわすと、ほとんど速度を落とさず雛に向かってきた。
薄闇に包まれた気配の正体が徐々に明らかになり始め、その姿を拝もうと目を凝らすより早く。
それが、右手を持ち上げていた。
「敵か」
唇から、声が溢れる。
玲瓏とした音色。それだけ聞けば、歌劇を演じる女優のものにも聞こえる甘美な音だった。
その手には奇怪な形状の、杖のようなものが握られている。
左手には、分厚い本が一冊。
魔導書のような装丁だが、力は感じられない。ただの本のようだ。
「ちょうどいい。このルールがよく解らなくてね」
持ち上げた彼女の手に、魔法の気配が集うのが目に見えるほどはっきりと解った。
強い。先の巫女と同等か、それ以上にも見える魔力の集積を感じるが早いか、雛の体が回転した。
手のひらから一枚の紙片が舞い、それがスペルの開始を告げる合図となる。
創符。
「――流刑人形!!」
身の内に貯め込んだ厄が、回転の遠心力に負けて振り落とされるように周囲へと撒き散らされる。
舞い落ちる紅葉に、枝先に実った栗の実に、飛び交う雲雀に、ほとんど無差別に暗い靄のような厄が飛んだ。
嫌いな技だ。
だが、これが自分の奥の手であり、目前の敵を確実に仕留めるための最善の技であることは疑いない。
厄に触れて活気を失い、不自然に地面へと墜落した栗の実が目に入って、雛の表情が苦く歪んだ。
本当に、嫌いな技だ。
己が身に迫る弾幕を視界に捉えたと思しきその影の、おぼろに映る表情が歪んだ。
だが、それは雛が面相に浮かべた歪みとはまるで正反対の形。
笑っている?
「練習台に、なってもらうわよ」
――練習だって?
そう思ったのも、ほんのわずかの間に過ぎなかった。
暗い気配をまとった敵が、長いマントをひらめかせて厄の間をすり抜けるように回避していく。
いかにも動作を制限しそうに見えるマントをまるで苦にせず、厄をかすらせすらせずに。
その指先から、白い紙片が飛んだ。
雛は最後に、その紙片に描かれた文字を読んだ。
夜符。
「――ブラックバード」
視界が、闇に染まった。
◆
「もらっていくよ」
◆
博麗の巫女は、悩んでいた。
秋の夜長にその身を染めた、御柱立ち並ぶ神湖の地を飛翔しながら、悩んでいた。
――神を祀る人間が祀られる事もある。巫女が神になる事もある。
貴方にはそのぐらいの覚悟が出来て巫女をしているの?
「……知らないわよ」
物心が付いた頃から、自分はすでに巫女だった。
先代の巫女が博麗神社を取り仕切っていた頃からずっと巫女として神社で暮らしてきたし、
そのころにはもう自分が巫女になると言う将来に何の疑問も抱いてこなかった。
覚悟など、したことはない。
その必要もなく、自分はいつだって巫女だったのだ。
先代から博麗神社の祭事を任され、正式に博麗の巫女となったあともそれは変わらなかった。
巫女だから、祭事を執り行う。巫女だから、境内の掃除をする。巫女だから、賽銭を数える。
巫女だから、妖怪退治をする。
巫女だから。
「――ええいっ!」
異変が起こるたびに顔を出しては道行きの邪魔をする妖精は、今回の異変でも絶好調だ。
異変の元凶が企むはかりごとも、それを打ち倒そうとする巫女や魔法使いの都合も、何も気にせずに、
ただただお祭り騒ぎか何かのように飛び出して来ては己の気の済むままに暴れる妖精たち。
三匹の妖精が、今も目の前で光り輝く色鮮やかな弾幕を撒き散らして博麗の巫女に接近してくる。
今は、それも鬱陶しかった。
「考え事の邪魔よ!」
悪霊退散の四文字がでかでかと記された博麗神社謹製の厄除け札が三枚まとめて空を飛ぶ。
悪霊はおろか、妖怪だろうが吸血鬼だろうが、果ては魔法使いから人間に至るまで見境なく退散させる自慢の一品である。
三匹の妖精が放つ弾幕の隙間をものの見事にくぐり抜け、札に目が付いているかのような正確さでそれぞれの額に直撃したが、
舞い散る落ち葉を吹き飛ばしながら広大な湖の上を疾駆する巫女はそれを顧みすらしなかった。
足元にはもう水しかない。
月明かりを浴びてほのかな翠玉の輝きを灯す、無辺の湖。
「……これも、あの祝がやったのかしら」
ふと、唇から出すつもりの無かった声が漏れた。
彼女は、風祝でありながら神でもあると言う。
祀るものが祀られ、敬うものが敬われ、いつしか神へと変じるのだと。
考えたこともない。
私は、今までずっと巫女だった。
これからも、ずっと巫女でいるつもりだった。
ずっと変わらずにいるつもりだった。
「でも」
博麗神社は変わった。
先代が博麗の巫女を勤めていた頃は、参拝客も多くいた。
妖怪だって、好き好んで妖怪退治の専門家に近づこうとはしなかったし、神社はいつも平穏だった。
今は違う。
参拝客は途絶え、魑魅魍魎が跋扈し、賽銭は減り、信仰は失われた。
このままでは、博麗神社は奇跡を起こす力を失うのだろう。
それは博麗神社がもはや神社としての体裁を喪失し、ただの社になると言うことだ。
境界を守る力も、妖怪を退ける力も失われる。
そうしたら、巫女はどうなる?
神社が神社で無くなっても、巫女は巫女なのか。
人になるのか。
神になるのか。
妖怪になるのか。
「――あれ?」
――巫女になる前、私は何だったっけ?
そこで、思案は断ち切られた。
唐突に耳に飛び込んできた、女の声によって。
「――諏訪の水面に御神子がひとり」
思索の水底に沈みこんでいた意識が、水面へと強引に引き上げられた。
弾かれたように面を上げ、先ほどまで真円の月が照り映えていた夜空に視線を移す。
丸く厳かな銀色の月を、黒いかたちが覆っていた。
「――いずこの神の、巫なりや」
神だ。
その背に大仰すぎるほど巨大な注連縄。
その胸に曇り一つなく澄み渡った真十鏡。
そして何より、存在そのものから放たれる圧倒的な神威が如実に彼女の神性を物語っていた。
巫女が神に見えるのはこれが初めてというわけではない。
それでも、かの神から発される目に見えない風圧のようなものは博麗の巫女をしてすら圧する威力があった。
実際に、風の流れも変わっている。それまでは吹くに任せて得手勝手に飛び散っていた茜色の落葉たちが、
彼女の到来を引き金にして一つの秩序に従うかのように整然と吹き流されていることからもそれは明らかだった。
神湖の地に、風の神。
「御出座しと言うわけね」
巫女が呟くように発したその言葉は、小さくとも風に乗って神のもとへと届いたようだ。
その頬が、ふわりと柔らかく緩んだ。
「まさか、直接乗り込んでくるとは思わなかったわ」
身に押し寄せてくる風圧が、その笑顔と共にふっと緩んだような気がした。
神威に満ちてはいるが、威圧感は解かれている。
少しばかり意外に思った、それが顔に出たのだろう。再び目前の神が笑った。
「それらしい雰囲気でいた方が良かったかしら?」
「……随分とフランクな神様ね」
「最近は、厳かな雰囲気を見せるよりも友達感覚の方が信仰が集まりやすいのよ」
少し、拍子抜けがした。
神と言うにはあまりにもフレンドリーで、肩の力の抜けた対応である。
これでは、そこらの人間や妖怪と接しているのと変わりがない。
――おかしくないのか。
人間が神になれるのなら、神が人間と近くても何らおかしいことはないのだ。
あの祝は、この神を神奈子様と呼んでいた。神の名ではなく、人の名だ。
目の前の彼女も、もとは人間だったのかもしれない。
祀られて、敬われて、神へと変じた人間なのかもしれない。
敬われれば、神になる。
敬われねば、人になる。
ならば、神が人になったとき。
巫女はいったい、何になる?
「それで、何の用なの?」
またも思索の水面に身を浸しかけていた巫女の意識を、神の言葉が引き戻す。
「私達の提案を、受け入れる気になったのかしら?」
続いた言葉に、巫女は当初の目的を思い出した。
危うく忘れかけていた本題に話が戻り、改めて目前の相手をきっと睨みつける。
「受け入れるわけがないでしょう。博麗神社は渡さない」
その言葉を聞いて、神奈子の眉がぴくりと動いた。驚いたような表情である。
僅かに小首を傾げて巫女の言葉を反芻するように少しの間を置き、そして口を開く。
「別に渡してもらわなくてもいいのよ。私は貴方の神社を助けたいだけ」
「余計なお世話よ」
間髪を容れずに返事が飛んだ。敵意を孕んだ声に、神奈子の眉が今度は困ったように顰められる。
「信仰を失った神社で何をするの?信仰が失われた神社はただの小屋よ」
「それは私が考えることよ」
私は博麗の巫女なのだから。
「私の力で何とかする」
私は巫女なのだから。
「貴方の力は借りないわ」
私は。
「困った巫女ね」
小さな溜息とともに、神奈子が呆れたような言葉を吐いた。
その総身から再び、風のような圧力が巫女に向けて放たれる。
先ほどよりもさらに威圧的に、攻撃的に。
「神社は巫女の為にあるのではない。神社は神の宿る場所」
ひゅう。
ひゅう。
風が大気を切り裂く音が、はっきりと耳に聞こえてきた。
周囲の風が、武器となりつつある。
「そろそろ──神社の意味を真剣に考え直す時期よ!」
その言葉が皮切りとなり、弾幕の形を得た風が博麗の巫女へと降り注いだ。
◆
「お、もう始まっているわね」
◆
散漫だ。
自分でもはっきりとそう自覚できるほど、今の自分は集中を欠いている。
己に向かって吹きつけてくる弾幕の軌道が読めない。
小手調べと言った程度の、決して難しくはない弾幕であるはずなのに。
回避するのに精一杯で、攻撃に移るチャンスを掴めない。
散発的に札を撒いて牽制してはいるが、それで落とせる相手ではないことも解っていた。
「くそっ」
あまり品の良くない言葉が口をついて出た。
覆いかぶさるように降ってきた弾幕を、急降下してくぐり抜ける。
水面が一瞬にして眼前に迫り、急激な方向転換の勢いを受けて大きな飛沫が跳ねた。
必要以上に大きく動いている。そういう自覚はあったが、いかんせん弾幕の隙間が見えない。
絶不調、と言っていい状態だった。
――どうしたら妖怪達を追い返せるのかなぁ
どうしたら人間の信仰を集める事が出来るのかなぁ
神社を発つ前に、自ら口にした言葉が脳裏に蘇ってきた。
こんな事を考えてしまうこと自体が集中できていない証拠だが、浮かぶものは抑えられない。
飛沫を跳ね飛ばしながら水面すれすれを滑空し、追いすがってくる風の弾を振り切ろうと試みながら、
巫女の思考は戦いとは別の方向に浮遊していた。
神社は巫女の為にあるのではない。
そんな事は解っている。ずっと前から解っている。
巫女が神社の為にあるのだ。そう教えられて育ってきた。
だから、私はそうして生きてきた。博麗神社の為に生きてきた。
巫女だから。
その博麗神社が今、弱っている。
信仰を失い、神性を失い、奇跡を起こす力を失おうとしている。
ならば、盛り立てるのが巫女の仕事だ。巫女は神社の為にあるのだから。
他の誰かの力ではいけない。巫女の力でなくてはならない。
そうでなくては、何のための巫女なのだ?
私の力で何とかするから。
貴方の力は借りないから。
だが、その結果が今の博麗神社なのだ。
このままでは、神社はただの小屋になってしまう。
そうなれば、巫女はどうなる?
もとが人なら、人に戻るのだろう。
もとが妖怪なら、妖怪に戻るのだろう。
私は、ずっと巫女だった。
巫女でなくなったとき、私は他の何にもなれない。
巫女でなくなることは、私が消えて失せることと同じではないのか?
ならば私は、博麗の巫女であり続けよう。
巫女でしかいられないのなら、命尽きるまで巫女でいよう。
できるかできないか、ではない。
私にはそれしかないのだから。
誰の力も借りず、神社を復興させるのだ。
それが私の義務なんだ。
私は、
博麗の巫女なのだから。
頬に冷たい水滴の感触。
それをきっかけに思考の渦を抜け出した博麗の巫女は、眼前に迫る弾の雨をまず最初に目にした。
横を見れば、左右どちらにも弾の幕。
背後からも大気を切る音がする。眼下には手を伸ばせば届くほどの距離に、水の壁が揺れている。
――追い込まれた。
こんな状況になるまで気付かないだなんて、本当に気が散っている。
回避できる道筋は見つからない。弾幕の隙間を強引に抜けて行くよりほかに、方法はなかった。
そう認識した巫女の右目が、すっと細く眇められる。
――負けるわけにはいかない。
だぶついた両袖を翻し、小柄な体を強引に捻じ曲げて姿勢を立て直す。
右の袖が着水して派手な水飛沫を上げたが、服が汚れたと気にしている余裕はない。
見上げた先に、ほんの僅かな隙間が見えた。
隙間と言うのもはばかられるほどの亀裂に過ぎないが、他の道を探す暇もない。
水切りの小石のように水面から跳ね上がった巫女の体が、
弾と弾の間にねじり込むようにして弾幕へと突っ込んでいった。
頬に痛み。
僅かに掠めた風の弾丸が肌を灼いて飛び抜けて行くのを認識する間もなく、
恐ろしい相対速度で接近してくる次の弾を見据えて空中で体の位置をずらす。
一瞬前まで巫女が占めていた空間を両手に余る数の弾が吹き抜けていき、逃げ遅れた左の袖を手土産代わりに持って行った。
袖に仕込んでいた退魔の針と厄除け札がばらばらと音を立てて神湖へ落下していき、その途中で弾丸の雨に降られて砕け散る。
少しでも反応が遅れれば、自分もあれの二の舞だ。じんじんと脳に痛みを伝えてくる頬のかすり傷を軽くなった左手で撫で、
巫女はさらに速度を上げて弾丸の壁を切り裂いていった。
出口が見える。
その先に、神奈子の姿も見えた。
こんなときでも、自分の直感は正しく働いているらしい。
一瞬の判断で選んだ道が、そのまま敵の真正面に通じているとは思わなかった。
これなら、そのまま眼前の敵に一撃を加えることができる。
そう考えて右手を伸ばした巫女の目の前を、白いものが過ぎった。
――スペルカード?
神祭。
「――エクスパンデッド・オンバシラ」
弾丸の壁を突き抜けて、開けた視界の先に、
巨大な御柱が浮かんでいた。
「避けないと痛いわよ?」
子供を諭すような神奈子の声音が届く。
天に向けて右手をかざし、白く細い指をすらりと伸ばして、
その先に御柱をまるで指一本で支えているかのように揺らめかせている。
それだけではない。風の神を取り巻くように、神湖に浮かぶ二十二本の御柱。
その全てが、巫女に向けてぴたりと照準を合わせていた。
単純明快極まりない、巨大で無体な質量の塊。
神奈子の指先が示した命令に従い、問答無用の威力が飛んだ。
その指が示した先は、博麗の巫女。
――避けられない。
それでは駄目だと理性が叫ぶのとは無関係に、無慈悲で計算高い直感がそう確信した。
突き進んでくる二十二の圧倒的質量が見る間に迫り、棒立ちの巫女へ殺到する。
避けられない、では許されない。避けなくてはならない。
この質量に被弾すれば無事では済まない。少なくとも、戦闘の続行は不可能だろう。
そうなれば、博麗神社はどうなる。博麗の巫女はどうなる。
避けなくては。避けて、戦って、勝たなくては。
それが巫女の務めで、それが私の使命で、それが――
衝撃は、背後から襲ってきた。
視界が反転する。
埒外の角度から飛んできた埒外の衝撃に、疑問を抱く暇もなく小柄な体躯が毬のごとく跳ねた。
突風に吹かれた紅葉のように神湖の上を吹き飛ばされ、真っ逆様に湖面へと落下していく。
その眼が、かろうじて上空を行き過ぎていく御柱の一柱を捕らえた。
その脇に色鮮やかな四色の球体が浮かんでいる。
あれは確か、
「――オーレリー……!!」
言葉は最後まで紡がれることなく、神湖が少女の体を受け止めた。
どぱん、と間の抜けた音を響かせて、派手な水飛沫とともに紅白の巫女が見えなくなる。
寸前、視界の端を掠めたものがあった。
濃く深い緑色の、風にたなびく長い髪。
「オーレリーズサン」
あれは。
「あの子はそう呼んでいるようね」
あの姿は。
「自分を太陽に見立てて、星を従える」
なぜ?
「私から言わせれば、まだ甘いわ」
なぜ、今さら。
「太陽は中心なんかじゃない」
お前が。
「たかだか太陽系の中枢に位置するくらいで、満足するようじゃあね」
お前が、ここに。
「だから私は、こう呼ぶわ」
儀符。
「――アーミラリージアース」
――魅魔!!
◆
かつて、地球は宇宙の中心だった。
三精はことごとく地球に従い、天地自然はすべて地球のために動いていた。
地球は宇宙の主人であり、宇宙は地球のための存在であった。
誰もが一片の疑いも抱かず、己が神に愛された星の住人であると信じ、当然のこととして生きていた。
今は違う。
――それでも地球は回っている。
今はもう、誰も信じない。
かつて当然だったことを、今は誰一人として認めない。
もう、誰の目にも映らない。
今はもう、幻想の中にしかない。
◆
「どちら様かしら?」
巫女と言う目標を失って空を切った御柱がひとりでに元の位置へ戻り、湖へ突き立って行く。
その重厚な音を背後に控えて、神奈子が静かな声音で問い掛けた。
瞳には僅かな困惑と、それに倍する興味の色が浮かんでいる。
「神様さ」
夜色のマントを風にはためかせて、尊大な声音で闖入者が答える。
深緑色の髪、同じ色合いを灯す瞳。腰から下はまるで幽霊のような薄ぼやけた幽気が揺らめいている。
見た目は神と言うよりも、それこそ西洋の魔法使いが死して霊魂となったかのようなかたちだ。
その姿が背後に月を背負い、期してか知らずか、巫女に向けて神奈子が取ったのと同様に銀色の月に一点の黒を残す。
月の光が僅かに黒く烟って見えたように感じて、神奈子は僅かに瞳を細めた。
「ご同業、と言うわけかしらね」
神奈子の言葉に、太陽を象った三角帽の下でにやりと頬が歪んで笑みのかたちを作る。
月光を受けてもう一つの月のように鈍く輝く三日月の意匠を施された杖が風を切ってひと振りされた。
「ええ、その通り。幻想郷で神様と言えば、この魅魔様のことよ」
「それはどうも。挨拶が遅れたわね」
「本当にねぇ」
先程、巫女の背中に一撃をくれて眼下の湖に叩き落とした四色の魔玉が、杖に従うように手元に戻ってくる。
月の光はなおも美しく照り映えているのに、周囲は薄墨を塗ったように仄暗く闇の色に染めなおされつつあった。
じわり。
じわり。
夜を纏った魅魔の体から、浸み出すように闇が周囲へと拡散している。
まるで、闇そのものであるかのように。
「無礼じゃあないか」
じわり。
じわり。
「私の神社を、奪おうだなんてさ」
「私の――?」
神奈子が疑問符を浮かべて小首を傾げた。今度は困惑の色が興味に勝っている。
「貴女が、麓の神社の祭神なのかしら。そうは見えないけれど」
魅魔は返事を返さなかった。代わりにその面に浮かんだ笑みはさらに深まり、その笑顔も暗く染まる。
ごく近しい間柄の神に、似たような表情をする奴がいる。ふと神奈子の意識の片隅に、小さくて大きな彼女の笑みが過ぎった。
意識はすぐに眼前の夜色に戻る。どうやらやはり、どこかで勘違いが起きているらしい。
――あの子はちゃんと言ったとおりにしたのかしら?
「奪うつもりは最初から無いのよ。私は」
「知ったことじゃないね」
神奈子の言葉がその途中で断ち切られた。
同時に、魅魔の周囲に光が灯る。
蛍が灯す小さなそれに似た光が、頬に触れるほど近くで咲いたひとつを皮切りに、点々と灯って行く。
ちかちかと明滅して、それもやはり蛍のようだが飛びまわるでもなく、魅魔の周囲にふわふわと灯っているだけだ。
ひとつ、ふたつ、たくさん。その数はどんどん増えて、まるで魅魔自身が薄く光り輝いているように見える。
「気に入らないのさ、あんた達が」
魅魔の周囲に漂う闇が、その光を一層に強く輝かせて見せている。
ちか、ちかと明滅するその光のかたちを、神奈子はどこかで見たような気がした。
「ああ、まったく気に入らないね」
魅魔の背後に、薄暗い月が灯っている。
その周囲に、ちかちかと明滅する光があった。
「この幻想郷で、私以外の誰かが勝手に神をやろうなんて了見が――」
ああ――
星だ。
「まったくもって、気に入らない」
つい、と伸ばした魅魔の指先から、
無数の星が、神湖を飛んだ。
◆
あんたなんかに
わかってたまるもんですか
◆
八坂神奈子は、戸惑っていた。
秋の色合いを夜闇に染めて、光の粒をまき散らす神を前にして、戸惑っていた。
宇宙の果てから星霜の年月をかけてたどり着く、はるか昔の星々の光。
手を伸ばせば届きそうで、でも絶対に届かない幻想のようなその光が、確かな威力を秘めて風神の住む湖を飛ぶ。
触れれば触れる。手を伸ばせば届く。でも、触れたらきっと、ただじゃ済まない。
それ自体が星座のような弾幕の形を作って飛翔する星々の群れを、神奈子は大きく迂回して避けた。
「少しは話を聞いてくれないものかしらね――!!」
逆巻く風を手のひらに集めて投げつけながら、誰に言うでもなく小さく毒づく。
結局はこういう形になるらしい。
湖に叩き落とされてから音沙汰のない巫女に輪を掛けて、この神様も問答無用な性質のようだ。
彼女らの不利になるようなことは何一つするつもりは無かったのに、気づけば争いになっていた。
――まあ、仕方ないわね。
異邦の神が国を越えて他者の領域に這入り込めば、いつだって争いになるものだ。
あの時は、私が負けた。
あの時は、私が勝った。
負けて奪われ、勝って奪った。私はどうやら、生来そうした縄張り争いと縁の深い神であるらしい。
なら、今回はどうなる?
負けて追われるのか、勝って追うのか。
「どちらも、あまり気が進まないのだけど――」
目前に迫った無数の光の塊の、大きく開いた隙間を縫って回避。
その奥にはさらに弾の幕。右手をひらりと振ると、そこから生まれた烈風が弾の壁を散らして大きな隙間を作る。
生み出した風は威力を持った弾丸へと姿を変え、夜色の神のもとへと吹きつけて行く。
ばさり、と大きくマントをたなびかせて回避した姿に、間髪を入れず二度、三度と風の幕を展開して投げつけた。
まずは勝とう。
負ければ勝者の言うなりになるしかない。そうなれば、また追われる。
信仰を失い、落ちた神と言うのは無様なものだ。どこにも居場所は無くなって、浪々と降って行くしかなくなる。
あの時もそうだった。国を譲り、落ちた先でさらに奪い、どうにか自分は信仰されるもの、神でいられた。
その信仰も、いつの間にか消え失せていた。
手に入れたはずのものはいつの間にか薄らぎ、祭るものとてなく、私は世界から忘れ去られた。
忘れ去られれば、神ではない。
信じられなければ、神ではない。
あの子だけが、私を信じていた。
忘れ去られなければ、神なのだ。
信じられていれば、神なのだ。
私は信じられていた。私はまだ神だった。
ならば、私を信じるあの子のためにも、私は神でなくてはならない。
儚き人間のために。
背中に負った大仰な注連縄に、飛来した星のひと欠片がぶち当たった。
ばしん、と盛大な音を立てて神奈備の証たる縄から紙垂が引き裂かれて飛び散り、ひらひらと湖に向けて舞い落ちて行く。
あの日、私がかの神を降した証だ。幻想郷にやってくる際、神としてふさわしい威容を得るためにとあの子に背負わされた。
それが傷ついたのでは信仰にも障ろう。あの子も良い顔はするまい。
むっつりと膨れた彼女の不機嫌な姿が瞼の裏に浮かんで、ふと小さな苦笑が漏れた。
笑っている場合ではない。降り注ぐ星は今も目の前を埋め尽くしている。
弾幕の薄い部分にふっと息を吹きかけると、小さな息吹が見る間に神風と化して弾幕を二つに断ち割った。
その向こうに、夜の色。
先ほど巫女に叩き込んだ四色の魔玉が、彼女の頭上に浮かんでいる。
ひとつではない。ふたつ、みっつ。
惑星のように彼女を取り巻いて回る玉の群れが、彼女が掲げた杖に連動するように揺らめく。
そう簡単には行くものか。
先んじて懐から紙片を取り出した。幻想郷で戦うならば従え、と厳命されたルールだ。
ルールに則って戦うのは得意ではない。あの戦いでも、後に人間に伝わった面倒なルールを取り決めて行った。
郷に入っては郷に従え。
神穀。
「――ディバイニングクロップ!!」
宣言と同時に、背後を覆うようにずらりと葦を束ねた筒が出現した。
その数四十三本の筒を背中に、目の前に出現した最後のひとつを捕まえる。
この神事も、もう過去の幻想になってしまった。
でも、幻想が息づくこの世界でなら存在できる。
その手に握った筒に詰め込まれた五穀の筒粥を、背後に控えた葦筒と同時に降り注がせる。
神威を秘めた弾丸に等しいそれが秋の風に乗り、目前の神に向けて四方から覆いかぶさるように殺到した。
弾丸の雨の隙間から覗いた魅魔が舌打ちを飛ばし、周囲を巡る魔法の玉石を振り回すようにして神穀を弾き飛ばすのが見えた。
ここで押さない手はない。さらに背後で出番を待つ数十の葦筒を指先ひとつで操り、そこからも穀弾を溢れさせる。
さらに倍する弾丸が四方八方に飛散しながら神風の助けを受けて荒れ狂い、悪鬼調伏の力を孕んで神湖の地を満たす。
考えるのは勝ってからでいい。
このまま押し切ってしまえ。
奪うのも、守るのも、救うのも。
全ては勝者にだけ許される。
神粥の雨を嫌って、魅魔の体が後方に大きく飛んだ。それを追うようにして殺到する粥が、彼女を御柱へと追い詰める。
幽体のように揺らめいていた魅魔の下半身が一瞬の間に人の持つ二本の足へとその形を変じ、湖にそそり立つ古木の柱を蹴った。
飛行の勢いをそのままに、柱の根元から頂上へと向けてその体が駆け抜けるように上昇する。
あとを追う粥弾の群れがばちばちと音を立てて御柱にぶつかり、神木を僅かに削ってもくもくと煙を上げた。
――悪いわね。
小さく思考の隅によぎったそんな思いを一瞬で振り払う。今は敵を見るのが先だ。
粥弾を逃れて空へと上昇する魅魔の姿に向けて、最後に残った八本の葦筒を一斉に突き付ける。
天空に輝く星々に紛れて彼女が放つ星の弾丸と見分けが付け辛いが、この際構うでもない。
このまま押してしまえば勝ちだ。最後の筒粥を、飛翔する魅魔の進行を遮るように叩き付ける。
無数の粥弾が弾けて混ざり、てんでばらばらに、しかし隙間なく天空を埋め尽くして頭上の標的へと伸び上がって行く。
これで決まるか。
「そんなに――」
その声は、空から降ってきた。
玉を転がすような、魅魔の薄く透き通った声。
一瞬だけ、彼女の瞳と視線がぶつかった。
――まだ、そんな笑顔が出来るのか。
嘲るような見下すような、薄黒く靄の掛かった微笑。
それに気を取られた次の一瞬、一度だけ瞬きをした神奈子の瞳が開いた時。
「――怖いのかい?」
世界は一変していた。
無い。
無い。
無い。
月が無い。
星が無い。
光が無い。
天空を取り巻いていた、無数の光が。
綺麗さっぱり、消え失せていた。
神の粥が狙っていたはずの、魅魔の姿も見当たらない。
ただひとつ、その視線が舞い落ちる紙片だけを捕らえた。
光撃。
「――クライフォーザムーン」
寸毫の間を置いて天空で輝いた光は、
その全てが魔弾だった。
「――――ッ!!」
彼の神が夜空に広げた薄墨色の靄が星を、月を、光を完全に神奈子の目から覆い隠している。
そして、代わりに灯った星々の光は、それらすべてが威力を伴って降り注ぐ魔法の雨だ。
天の光は、全て敵。
「く、ぁ――!!」
思わず、唇から呻き声に似た音声が漏れた。
目前に迫る星の塊をすんでの所で回避し、寸前を掠めて行った手の甲に魔法の熱を感じながら上空を見据える。
魅魔の姿はどこにも見当たらない。闇の中に紛れ込んでしまったか。
視界に無いその姿を追う暇もなく、二手、三手と後続の星が雨あられと降り注いで風神の身を焼き焦がさんと迫る。
右腕を振って逆巻く旋風を撃ちこみ軌道を反らすと、真横を突きぬけた星が湖に落着して焼け石を沈めたような音を立てた。
上方に飛ばした風の勢いを借りることで逆方向へ飛翔する速度の助けとして、湖面に突き刺さる流星の間を貫くように飛ぶ。
飛んでも飛んでも、その先にはやはり星の雨があった。
右手を伸ばしてその指先に意志を込めると、呼応するように湖に突き立った御柱が引き寄せられて飛び込んできた。
それを回転させて頭上に投げ飛ばすと、熱を帯びた星が蹴散らされたあとにぽっかりと大きな道が出来る。
湖に沈んでいた部分から回転の勢いで派手に飛沫が飛び、星の光に熱された肌に触れてひやりと体温を奪っていった。
開けた空間の先に、うっすらと神の影。
闇を纏った魅魔の姿が、己の放った星々の輝きに灯されて薄ぼんやりと雨の中を飛翔しているのが見える。
逃がすわけにはいかない。
とっさにそう考えて急激に角度を変え、疾風を纏った体が天空目掛けて飛ぶ。
ぐんぐんと魅魔の姿が目前に近づいてきて、おぼろげに明滅するその薄暗い体にひゅうひゅうと鳴き声を上げる風の塊を向けた。
「負けるのが怖い?」
その声は、すぐ耳元で聞こえた。
目の前に居たはずの魅魔の姿は手を伸ばした途端に霞のように雲散し、捉えようとした風は虚しく空を駆けて行く。
とっさに振り向いたその方向にも、やはり魅魔の姿はない。
「失うのが怖い?」
聞こえた声にそちらを振り向けば、半ば以上を闇に浸した魅魔の左顔面だけが星の雨に照らされて漠然と浮かび上がっている。
その背後から押し寄せる星の雨。
「なんだ――」
くすり、と笑った魅魔の顔がまた闇に沈んで見えなくなり、降り注ぐ弾雨を身をよじってほとんど吹っ飛ぶような姿勢で避ける。
どうにか弾密度の薄いところまで逃げ込むように回避すると、また真後ろからくすくすと笑う声が聞こえてきた。
振り返れば魅魔の姿がうっすらと見えて、しかし手を伸ばすとまた消える。
「なんなんだ、お前は!!」
求めても、求めても、届かない。
ほとんど悲鳴に近い声が己の理性とは無関係に唇から迸り、空を覆い尽くす闇に吸いこまれていく。
「私は魅魔」
唐突に、視界を夜色の姿が埋め尽くした。
先ほどまでと同様におぼろげに、しかしはっきりとその場に存在していると解る質感を伴った魅魔の姿が目の前に浮かぶ。
とっさに伸ばした手は、しかしほんの僅かに爪先が風にたなびくマントの端に掛かっただけで空を切った。
「かつて確かに、幻想郷に存在したもの」
両手を目前に伸ばして、二つの掌を重ね合わせる。
その隙間でごうごうと音を立てて風の渦が生まれ、それは目前の敵に向けて一直線に突き進んでいく。
ひらり、と体重を感じさせない所作で上昇してそれを避けると、魅魔は降り注ぐ星の雨に踊るように飛び込んで行った。
「今はもう、誰の目にも映らない」
雨の中で歌うように言葉を紡ぐ黒い影。
己のもとにも降りしきる星を風の刃で薙ぎ払い、神奈子もあとを追うようにして弾雨に身を晒す。
足下で湖へ落着した星たちが消える直前に一層の光を放って沈んで行くのがちらりと見えた。
「誰からも忘れ去られたもの」
嘘だ。
「お前はそこにいるじゃあないか」
「ああ」
神奈子が発した言葉を聞いて、魅魔がふっと笑った。
先ほどまで頬に浮かんでいた嘲るような色の笑みとは違う、柔らかな微笑み。
「ここにいるよ」
星が降る。
風巻く神の湖に、輝く星の雨が降る。
「人々から忘れ去られても」
翠色の湖に、無数の星が映っている。
闇から生まれる星たちが、まるで二倍になったかのようだ。
「世界から否定されても」
ふたつの星の輝きが、おぼろな闇に覆われていた魅魔の姿を照らしている。
はっきりとそこにいる、夜。
「歴史の向こうに葬られても」
まだ戦いの最中であるはずなのに、
「私はここにいるよ」
美しい、と、思った。
「さあ――」
その姿が、くるりと後ろを向いた。
背中を長く覆うマントを夜に翻して、ふたつの人影を避けるように降り注ぐ星たちに囲まれたまま。
「それで、お前はどうするんだい?」
その言葉が向けられているのは、神奈子ではない。
熱を孕んだ光が吸いこまれて消えていく、水面に向けて発された声。
「忘れ去られたら、消えるのか?」
堕ちては消える星々の勢いが、弱まってきている。
周囲の世界を覆い尽くすほどに降りしきっていた光が、いつの間にやら今はまばらだ。
「否定されたら、逃げるのか?」
己に向けて発された言葉ではない。だが、それでも。
小さく胸に刺さるような痛みを感じて、神奈子は胸に下げた真十の鏡をぎゅっと握りしめた。
「葬られたら、眠るのか?」
星が止んだ。
神湖を照らしていた光が消え去り、天空に輝く本当の光を隠す闇だけが残る。
魅魔がその手に握っている杖の先に揺れる三日月が、空の月に変わって淡く光を放ち出して周辺を照らす。
その光の他に、世界を映すものは何一つなくなった。
「私は、ずっと魅魔だった」
仄暗闇に、澄んだ声だけが響く。
静かに、だがはっきりと発された声が、暗く染まった湖を揺らしている。
「忘れられて、否定されて、葬られて、それでも私は私だった」
神さびた古戦場に、ただひとつ浮かぶ夜色の神。
吹きすさぶ風さえも今は止み、彼女の声を聞いている。
「これまでも、これからも、私はずっと魅魔のままだ」
この世界に、ただひとつ。
世界から捨てられた神だけが、その存在を主張していた。
「さあ、お前はどうする」
呼びかけているのは、神奈子ではない。
彼女が呼んでいるのは、無辺の湖に沈んだ――
「どうするんだ、博麗靈夢!!」
あの巫女だ。
そして――
「――喧しいッ!!」
返事は、空から降ってきた。
◆
博麗霊夢は、考えていた。
秋の色合いも届かない広大無辺の湖に沈んで、咄嗟に周囲へ展開した結界の中で、考えていた。
「私がやらなきゃいけないのよ」
魅魔と最初に地獄で戦ったのは、いつだったろうか。
もう、ずっと昔のことだったように感じられる。
あの時から、彼女とは何度も何度も戦った。
大きな異変の時も、そうでない時も、あの悪霊はいつも霊夢の邪魔をしてきた。
ついには博麗神社そのものに憑り付く祟り神のような存在になり、いくら祓っても涼しい顔で戻って来た。
「妖怪退治も、神社の掃除も、幻想郷を守るのも」
その姿を見かけなくなったのは、いつだったろうか。
紅色の霧が幻想郷を覆う前のことだから、もう結構な時間が経った。
あの悪霊にことさら懐いていた魔理沙が一時期がっくりと塞ぎ込んでしまったのを覚えている。
逆に手足のように働かされていたアリスは、彼女がいなくなったことを喜んでいたっけ。
自分はどうだったろう。厄介者が消えたと喜んだ反面、どこか張り合いが無くなったような感覚も抱いていた。
「私にしか出来ないのよ」
それが、戻ってきた。
博麗神社が失われるかどうかという瀬戸際で、あの悪霊は何事もなかったかのように戻ってきた。
あの時のように涼しい顔で、まるで世界のすべてを下に見ているような尊大な態度で。
「魅魔」
あの頃のままで。
それが霊夢には腹立たしかった。
「私は――」
――私の気も知らないで。
「さあ、お前はどうする」
空の上から声がする。
忌々しい祟り神の、忌々しい声がする。
「どうするんだ、博麗靈夢!!」
その声を聞いた途端、意識するより早く体は動いていた。
足下に開いた亜空穴から、滑り出すように結界の外へと飛び出す。
飛び出た先は、闇色の空だった。
三日月を象った杖だけが闇の中で光って、その灯火が悪霊の姿を照らし出している。
眼下に見えたその影に、迷うことなく勢いを付けて飛翔。
「――喧しいッ!!」
声と同時に、突きだした右足が勢い込んで体ごと魅魔へと突っ込んだ。
弾丸のような勢いで突っ込んできた霊夢の一撃に、しかし魅魔の反応は早い。
後方に振り向くよりも早く手に携えた魔導書のような装丁の分厚い本を背後にかざし、それが霊夢の右足を受け止めた。
一瞬遅れてその方向へ振り向くと、すぐ眼前に赤と白の少女の姿。
に、と頬を歪めて笑い、打ち込まれた足を払いのけて巫女と目の高さを合わせるように上昇する。
その鼻先に、霊夢の細い指先が突き付けられた。
「あんたなんかに、巫女の気持ちがわかってたまるもんですか!!」
神湖を揺らすほどの、怒号であった。
その表情と大音声に込められた怒気の強さに、魅魔の表情が驚きに染まって僅かにたじろぐ。
それには一切構わず、霊夢は僅かに震える指先をもう一度突きつけた。
「今更戻ってきて、訳知り顔で偉そうなことを言うんじゃないわよ!!」
袖を失った左手で空を切るように振り回しながら。
「あんたみたいな奴がいるから、私は毎度毎度ひどく迷惑してるんじゃないの!」
一度だけでは飽き足らず、二度三度と魅魔の鼻先に向けてびしびしと指を突き付ける。
「あんたみたいな奴らがいつも騒がせて!邪魔をして!」
結界を張るより速く湖に落ちた袴の裾から冷えた水滴を滴らせながら。
「おかげで神社は閑古鳥よ!挙句の果てにあんな奴らに乗っ取りまで仕掛けられて!!」
びしり、と左手で握った御幣を後方の神奈子へと突き出して。
「なにもかもあんた達のせいよ!私があんな事を考えたのだって――」
その言葉は途中で切れて、代わりに犬が水を払うようにぶるぶると首を勢いよく振った。
「――とにかく!」
濡れて乱れた髪が額に張り付くのも構わず、二人を順に睨みつける。
「私に迷惑をかけたこと、全力で後悔させてやるわ!」
そうだ。
「私は――」
「博麗霊夢なんだから!!」
たとえ、巫女でなくなったとしても。
たとえ、神になったとしても。
たとえ、ただの人になったとしても。
「――迷う必要なんてなかったのよ」
たとえ、何者にもなれなかったとしても。
「いつだって、どんな時だって、私は霊夢。博麗霊夢」
濡れた髪から滴が落ちるのに任せて、その体が天空へと上昇していく。
神湖の上で二人の神を見下ろすようにして、巫女が右手の御幣を構えた。
「神社のためでも、幻想郷のためでもないわ。私が戦うのは」
目前に御幣を差し出すと、それに呼応するように二対の陰陽玉が背後に浮かぶ。
眼下の神を睨め付けて、袖に仕込まれた封魔針をぞろりと引き抜いた。
「あんたたちが大嫌いだからよ!!」
◆
神湖の地に、巫女の放った弾幕が飛ぶ。
神風を操ってそれをかわしながら、神奈子は抑えようのない笑声を夜空に響かせていた。
――なんて単純なんだろう。
嫌いだから、倒す。
あの巫女は、二柱の神を前にして臆面もなくそう言い放った。
先ほどまでのどこか困惑しているように見えた彼女の戦い方とは打って変わった、容赦なく激しい弾幕。
そのひとつひとつに籠められた意志のようなものが感じられる攻撃に、なぜか奇妙な安堵さえ覚える。
――考え過ぎていたな。
追い詰められた気分だった。
信仰を失い、現世での存在を危ぶまれ、否応なしに逃げ込んできた幻想郷。
ここでも存在を許されなかったら、私はもう消えるしかない。そんな風にさえ思っていた。
だから、勝つしかない。負けることは許されない、そう思っていた。
そんなことはない。
負けたって、終わりじゃない。
否定されたって、消えたりしない。
忘れられたって、何も変わらない。
私が私である限り。
「なにがおかしいのよ、もう!!」
幻想の巫女が怒ったような声とともに、大小とりどりの札を撒き散らす。
今はその弾幕を掻い潜るのさえ楽しい。こんな気分は、久しく忘れていたような気がする。
「楽しいだろう?」
気づけばすぐ隣を飛翔していた闇色の神が、手に持った三日月杖で退魔針を打ち払いながらそう口にする。
その顔も、楽しげな笑みのかたちだ。
「ああ――」
楽しい。
なんて、楽しいんだろう。
ここには勝利も、敗北もないのだ。
奪うことも、失うこともない。心の底から、ただ楽しむためだけに戦える。
だから、これは遊びなのだ。
忘れ去られた幻想たちの、死力を尽くしたごっこ遊び。
「楽しいね、幻想郷は」
「そうだろうさ」
手を伸ばせば触れるほどの距離で、闇が笑う。先刻はいくら伸ばしても届かなかった笑みが、今は近い。
神奈子も笑った。言葉の代わりに返すのは、吹きすさぶ神の風だ。
巫女の弾幕を吹き散らして二柱の神が左右に走り、風の神は空へ翔け、闇の神は水面へ沈む。
湖に触れるほどに下降した彼女の周囲に無数の星が輝いて跳ねた。
湖から天空へ向けて降り注ぐ星の雨。それが己に殺到するより早く、神奈子の周囲に無数の小刀が出現する。
贄符。
「――御射山御狩神事!!」
無数の刃が宣言と共に吹き荒れた風に乗り、風そのものが変じた弾幕と重なりあいながら魅魔へと殺到する。
回避しようとして避けきれず、夜の色を写したマントの端をかすめた刃が布地を裂いて落ちた。
烈風とともに湖に突き立った刃が派手な水しぶきを宙に舞わせ、その狭間を黒い影が目にも止まらぬ速さで駆け抜ける。
そちらに向けてさらに風の弾幕を吹きつけようとしたところで、後方から飛来する弾幕が風を切る音が耳に届いた。
「ちっとも楽しくなんかないわよッ!」
相変わらず不機嫌な巫女がばら撒いた悪霊退散の札だ。
眼下を走る彼女はともかく、仮にも八坂の神威の権限たる神奈子を悪霊扱いする巫女も珍しかろう。
「そいつは残念!」
本心からの言葉だった。こんなに楽しいのに。
そんな思考を片隅に過ぎらせながら、振り向きざまに打ち払った右手が極小の竜巻を纏って符の弾丸を叩き落とす。
同時に左手が懐から紙片を取り出して、退魔針を振りかぶる最中の巫女めがけて投げつけた。
天流。
「――お天水の奇跡!!」
叫ぶと同時に巫女へと突き付けた掌から、しかし弾丸は生まれなかった。
警戒するように身を強ばらせた霊夢は一瞬だけ怪訝な表情をして、直後にはじかれたように上空へ視線を移す。
そこには、先の刃と烈風が天高く巻き上げた無数の水滴が浮かんでいた。
霊夢がその存在に気づいたのとほぼ同時に、水滴が雹のような勢いを付けて眼下の敵を撃つ威力へと化ける。
撃ち込んだ神奈子自身にも把握できないほどにでたらめな軌道の弾幕を、しかし霊夢は最小限の動きで細かく避けていく。
見えている。先ほどまでの散漫で集中を欠いた動きが嘘のような、機敏で迷いのない回避機動。
ただ、表情だけは変わらず苦虫を噛み潰したように不機嫌だった。
「そうさ、靈夢!」
刃と水滴の弾幕をくぐり抜けて神奈子の後ろ、巫女と反対の位置に駆け抜けた魅魔がそう叫ぶ。
同時に三日月の杖から魔球を放って神奈子の背中を狙うのも忘れない。
「楽しまなきゃあ損だろう!」
「あんたたちをぶっ飛ばせば、少しは楽しくなるかもね!」
同時に前方から、霊夢の健脚が蹴り飛ばした陰陽玉が突っ込んでくる。
とっさに足元で風を巻き起こし、旋風に身を預けるようにして急回転しながら上昇してそれらを避ければ、
ちょうど正三角形を作るようにして二人を眼下に収める形になった。
二人を見下ろしながら右手を懐に突っ込む。残った紙片は最後の一枚、とっておきだ。
二人もこちらを見上げながら、同時に紙片を取り出す。
一人は笑み、一人は怒り。
くすり、と頬が歪む。
ああもう、なんて楽しいんだろう。
この幻想郷でなら、褻の昨日を忘れ去って、晴れの日を楽しめる。
こんな素敵な神遊び、あいつにも教えてやらなきゃあ――。
「――夢想封印!!」
「――幽幻乱舞!!」
「――マウンテン・オブ・フェイス!!」
神さびた古戦場に、光が満ちて。
◆
頬を冷たい水が撫でた。
◆
指先にも、冷たい水の感触がある。
それに引きずられるように、意識が闇から這い出してきた。
のろのろと開いた瞳が、澄んだ川の水に洗われる石たちを最初に捉える。
認識がゆっくりと追いついてきた。
――自分はうつぶせになって、川岸に倒れているのだ。
「――!!」
気づいた瞬間、川の流れに浸っていた右手を反射的に引っ込めた。
いけない、溜め込んだ厄が漏れ出してしまう。川が穢れて――
「……ない?」
さらさらと音を立てて流れる水は清らかで、一片の濁りもない。岩魚が水辺で遊んでいる。
赤く染まった紅葉が一葉、枝を離れて眼前に落ちてきた。厄に満ちたはずの手でそれを摘む。
それは生気を失うこともなく、紅葉のままで白く透き通った手の中に収まっていた。
「……なん、で」
混乱する意識が、気絶する直前に脳裏に響いた声を再生した。
――もらっていくよ。
あの、闇色の魔女が。
「あ――」
手の中から滑り落ちた紅葉が足元の川へと着水して、それを追うように岩魚が近づいてきた。
意識してかせずにか、白い指先が水面をくぐって岩魚の鼻先に伸びる。
岩魚は急な異物の到来に驚いたように身を引いたが、それに害意が無いことを見て取ったのか
ゆっくりと近づくと品定めをするように口先で指をつっついてきた。
「あ、はは」
指先に感じるくすぐったさと、その何倍もの不思議な気持ちが溜め込んだ物を失った体の内側に満ちる。
私は、流し雛。
厄を引き受け、厄を背負って、人々のために生きる神。
だから、こうしていられるのも今だけだけど。
明日からはまた、厄に染まる身だけど。
「あは、は――」
鍵山雛は、笑っていた。
秋の色に覆い尽くされた夜の渓流に遊びながら、笑っていた。
◆
「いや、まったく申し訳ない」
八坂神奈子と東風谷早苗が、その言葉と共に深々と頭を下げた。
妖怪の山から降りてきた紅葉の赤にゆっくりと染まっていく博麗神社の拝殿である。
「おかしいと思ったのよ。神社ごと明け渡せなんて無体な話」
「この子の純然たる勘違いだ。早苗はその、何て言うか思い込みの激しい子でね」
「面目次第もありません……」
苦笑しながら言う神奈子の横で、緑髪の祝が所在無さげに縮こまりながら小声で謝る。
神湖の地で繰り広げられた戦いを終えた後、神社から飛んできた早苗を神奈子は一も二もなく問い質した。
そこで神と祝の間に生まれていた巨大な食い違いが明らかになると神奈子は目を覆い、霊夢は脱力し、
魅魔の爆笑が神湖の水面を震わせて、しばらくの間止むことはなかった。
三人を引き連れて日の出前の博麗神社に戻ってきた霊夢が最初に目にしたのは、茫然自失の体で空を眺める魔理沙の姿であった。
魔理沙は帰宅した霊夢の後ろに魅魔の姿を認めると、豆鉄砲を食った鳩のような顔でしばらく固まっていたが、
「大きくなったね」
そう告げた魅魔の声を聞くなり、泣き笑いのような表情で魅魔の胸に飛び込んで行った。
そのまま涙声で何事かを呟いたかと思えば、魅魔が手に持った足跡付きの本をひったくって飛び出してしまい、姿は見えない。
「年頃の女の子ってのは難しいねえ」
そう言って苦笑する魅魔の表情はなぜだか嬉しげで、霊夢は何とも言い難い気分になったものである。
「それで、なんで今頃になって戻ってきたのよ」
最後にその姿を見なくなってから結構な時間が経っている。
落ち着いたら真っ先に聞こうと思っていた疑問であった。
ぶつけられた疑問に、魅魔の表情が馬鹿にしたような笑顔に変わる。
「随分なお言葉だねぇ。私はずっとここにいたのに」
「え?」
つまり、こういうことである。
「この神社の神様に提案したのさ。代わりに仕事をしてやるからそこをどけって」
「な――」
「あの神様、喜んで了解したよ。今じゃ私に一切合切任せきりにして三年寝太郎だ」
「じ、じゃあこの神社の祭神って」
「私だよ。代理だけどね」
胸を張って言ってのけた。
事情が飲み込めずに困惑する早苗の横で、神奈子が笑いを堪えるように顔を伏せて肩を揺らしている。
「……神社に妖怪が寄り付くようになったのって」
「居心地がいいんじゃないかい?なにせ私が祭神だからね」
「神様の会議で話を聞いてもらえないのって」
「そんな面倒な集まり、一度だって行ったことないよ」
「――、」
あまりの事に言葉が見つからず、ぱくぱくと酸欠に陥った鯉のように口を動かす霊夢。
とうとう抑えきれなくなったのか、横で盛大に吹き出す音が聞こえた。
「あの神様ね、ありゃ駄目だ。ぐうたらだし無責任だし、寄越せといってハイ寄越しますって言うんだから」
神社ごと明け渡したのか。
つい数分前にあるわけがないと言い切った無体な話が、とっくの昔に成立していたのである。
「ええと、よく解らないんですけれども」
困惑気味の表情をそのままに、首を傾げた早苗が横合いから口を挟む。
「つまり霊夢さんは、ずっと神様と勘違いして魅魔さんに仕えていたと言う事なんでしょうか?」
直球であった。
歯に衣着せぬ事実の指摘に完全に動きを止めた霊夢と反対に、魅魔と神奈子の笑声が神社に響く。
「さ、早苗――もうちょっとこう、優しい言い方ってものがだね……」
「いやあ、見所があるんじゃないかね?」
さも気に入ったと言う風に肩を叩く魅魔と恐縮する早苗。
霊夢はといえばそれを尻目にすっかり意気消沈して視線を落とし、肩を震わせ、
「ふ」
「ふ?」
「ふ、ふ、ふふふ」
気づけば床に置かれた右手の先から小さな紙片が覗いていて――
「封魔陣―――――ッ!!!」
神社の天井を突き抜けて、青白い光が朝ぼらけの空に立ち昇った。
「お、落ち着いてください霊夢さん!!」
「うるっさぁーい!!」
「あーあ、こりゃ修理が手間だねぇ」
「河童たちに掛け合えばすぐさ。頼んどいてあげるよ」
「おや、そうしてくれるかい」
「お、お二人とも、落ち着いてないで止めてください!!」
「悪霊退散ーッッ!!!」
◆
幻想郷に紅霧が満ちた。
雪景色の向こうから春の足音が聞こえてくる。地底の鬼が目覚めたのだろうか。
竹林の先は入ることも出ることも出来ない永夜の世界。
木で出来た建物。
時季外れの彼岸花。夥しい数の写真と新聞。
彼女はそこに居た。ずっとこの場にいた。
一人の人間と共に。
夏から秋に足を踏み出し始めた幻想郷の、未だ紅を知らない楓の一葉を手の中で弄びながら、考えていた。
博麗神社である。
境内で来ない参拝客を待ちぼうけながら、暇な一日を飽かず繰り返す紅白の巫女の姿は、今は無い。
懐の寒い賽銭箱の上に腰かけてスカートの裾を秋口の風に遊ばせているのは、魔理沙一人である。
「博麗神社を譲ってもいい、か」
霧雨魔理沙は考えていた。
とりあえずは無二の親友と言ってしまってもまあ差し支えは無いであろう彼女が呟くように漏らした言葉について、考えていた。
珍妙な来客に神社を明け渡せと、そう勧告されたのだと言う。
普段の彼女ならば、笑いすらせずに悪趣味な冗談と受け流して、それで終わりにしてしまうような事件だ。
だが、彼女はどうも、迷っているように見えた。
「らしくないぜ」
それで神社の信仰が回復するなら譲渡することもやぶさかではないと、そう彼女は言ったのだ。
いつもの巫女らしくない、どこか逡巡するような発言であるように、魔理沙には聞こえた。
もちろん、あの巫女とて年頃の少女である。泰然自若とした性質ゆえに魔理沙自身ともすれば忘れそうになるが、
彼女も迷いもすれば笑いもするし、怒りもする。嘆き悲しみ、悲嘆に暮れるところを見たことがないでもない。
しかし、その中心には決して揺らがない泰山のような芯があって、それが彼女の土台なのだと思っていた。
その土台が、今回は妙に頼りなく、揺らいでいるように魔理沙には見えたのだ。
妖怪か、邪神の仕業か。そう彼女は言っていたが、それもどうだろう。
自分自身を納得させるための、方便であるように聞こえた。
「さて、私はどうするかな――」
異変が起きているのだという。
いつもならば巫女以上に敏感に反応して、巫女以上に騒ぎ立てて真っ先に異変解決に乗り出す彼女であるが、今回は腰が重かった。
何しろ、異変と言えるような異変は起こっていないのである。
幻想郷は平和だ。金木犀が橙色の花を咲き誇らせ、独特の芳香を神社に漂わせている。
何も変わりない、秋の博麗神社である。
いつもより少々紅葉が早くて、落葉が早いような気がするだけで、それだって一昨年の異変に比べれば誤差の範囲にも入らない。
ただ、博麗の巫女だけがいつもと違っていた。
思うに、これは彼女と博麗神社の問題なのだ。こればかりは自分が関わるべき問題ではないように、魔理沙には思えた。
掌中で弄ばれていた楓の葉が風にさらわれて、西の空に向けてひらりと舞っていった。
それを追うように向いた視線の先は、紅白の巫女が飛んでいった山の方向である。もちろん、彼女の姿はとうに見えない。
「――らしくないぜ」
ふと、呟いた。
その時。
「まったくだわ」
「ひょわぁ!?」
魂が消えるほど驚いた。
あまりにも唐突に、背後から己の独白へのレスポンスが返ってきたのだ。
魔理沙の背後、拝殿の奥の暗がりに、ひとつの気配が忽然と生まれていた。
金木犀が風に吹かれて細波の音を境内に響かせる。
ざわり。
ざわり。
「だけど、らしくないというならお前も相当のものだよ」
「――あ、」
届いた声には、確かに聞き覚えがあった。
だが、振り返ることが出来ない。
まるで見えない鎖が体中に絡みついているかのように、背後から届いた声が体を呪縛している。
この声。
「――ねえ、魔理沙」
ざわり。
ざわり。
魔理沙の視界が、まるで部屋の照明を絞ったかのように薄暗く覆われた。
まだ日が落ちるにはずいぶん間があるはずなのに。
世界の空気が、一変している。
「借りたいものが、あるんだけどね――?」
◆
鍵山雛は、考えていた。
秋も深まる幻想郷の、岩魚遊ぶ渓流に視線を落としながら、考えていた。
――妖怪は私の敵
あんたは妖怪
ぱしゃり、と音を立てて岩魚の尾鰭が水面を叩いた。
跳ね上がった水滴が頬に触れて、ひんやりとした感触を伝えてくる。
それを白く細い人形のような指先でそっと拭って、わずかに濡れた指先を眼前に持ってくる。
血の通わぬ、作られた肌色に染め抜かれた人形の指先。
それを見詰めながら、雛は小さなため息を漏らした。
「……そうね。私は妖怪」
もとは、人形であった。人々の祈りを受けて川を下り、海へと流されて、やがて沈むために生まれた流し雛。
だが、どこでどのような作用が働いたものか。意識が芽生え、肉体を得て、気づいた時には彼女は神となっていた。
疑問を持ったことは無かった。
そのように定められたのならば、私は神なのだろう。ならば、与えられたことをしよう。
幸いにして、と言うべきか、己の成すべき職責はもの言わぬはずの人形に意識が宿ったその瞬間から理解していた。
それ以来、彼女は妖怪の山に住まい、幻想郷が生み出した厄を吸い込んで生きてきた。
それを当然のことと思っていたし、また自分の存在意義はこの行いにこそあると言う確信があった。
神だから。
長い間、それについて迷うことなど無かったし、また疑問に思うことも雛はしてこなかった。
だが、今は胸のうちにいくつもの疑問が残っている。
あの巫女が通り抜けざまに刻んでいったいくつもの小さな傷が、疑問となって厄の代わりに染み出してくるようだった。
私を神と定義したのは、いったいどこの誰なのだろう。
自分は神であると同時に、動き、口をきく人形である。
ならば、それは妖怪とどこが違うのだろうか。
「境界は、どこにあるのかしら」
我知らず、再び漏らしたため息が風に乗って落ちてきた紅葉の葉に触れる。
その葉がみるみる生気を失い、瞬く間にしおれていくのを、見るともなく視線が追った。
岩魚は聡い。自然界に生きる生命の本能と言うべきか、渓流に落ちた紅葉から逃げるようにその姿が遠ざかって行った。
「……大鐘さん、近い近い」
苦笑とともに、そんな呟きが漏れた。
存在するだけで周囲の厄を取り込み、それを振りまかざるを得ない生き人形。
確かに、自分は妖怪なのだろう。
けれど、ならば。
「あの巫女は、誰と戦うのかしら」
神である自分を妖怪と呼び、倒していった巫女。
彼女はこれから誰を敵とし、誰と戦うつもりなのだろう。
神も妖怪も敵とみなして、誰も彼も倒していくのだろうか。
その先に、彼女は何を見るのだろうか。
「――厄いわね」
もう一度、ため息が漏れた。
その時。
「――あ、」
何か、妙な存在が近づいて来たのを感じた。
先の巫女と同じように、山頂を目指して飛翔してくる何者か。
その存在が放つ気配に、雛はほとんど戦慄に近い感覚を総身で感じていた。
――これは、いけない。
ぞわり、と毛が逆立つような感触が全身を撫でる。
来てはいけないものが、近づいている。
世界が薄く黒いヴェールに覆われたように、ゆっくりと暗さを増し始めていた。
これは、厄だ。
それも、生半可のものではない。
まるで、禍そのものが形を得て突き進んでくるような異様な気配。
雛はほとんど防衛本能の働くままに、渓流に指先を突っ込んでいた。
「来るなッ!!」
派手な水音を立てて、雛の手から下流の気配に向けて飛沫が跳ね跳んでいく。
それは雛が身に纏う厄を帯びて、そのものが威力を孕んだ弾丸へと変質する。
その正体すら拝まぬうちから、姿の判然としない暗い気配に向けて弾幕が突進した。
「お、っと」
その気配は、こともなげに雛がまき散らした水滴の幕から身をかわすと、ほとんど速度を落とさず雛に向かってきた。
薄闇に包まれた気配の正体が徐々に明らかになり始め、その姿を拝もうと目を凝らすより早く。
それが、右手を持ち上げていた。
「敵か」
唇から、声が溢れる。
玲瓏とした音色。それだけ聞けば、歌劇を演じる女優のものにも聞こえる甘美な音だった。
その手には奇怪な形状の、杖のようなものが握られている。
左手には、分厚い本が一冊。
魔導書のような装丁だが、力は感じられない。ただの本のようだ。
「ちょうどいい。このルールがよく解らなくてね」
持ち上げた彼女の手に、魔法の気配が集うのが目に見えるほどはっきりと解った。
強い。先の巫女と同等か、それ以上にも見える魔力の集積を感じるが早いか、雛の体が回転した。
手のひらから一枚の紙片が舞い、それがスペルの開始を告げる合図となる。
創符。
「――流刑人形!!」
身の内に貯め込んだ厄が、回転の遠心力に負けて振り落とされるように周囲へと撒き散らされる。
舞い落ちる紅葉に、枝先に実った栗の実に、飛び交う雲雀に、ほとんど無差別に暗い靄のような厄が飛んだ。
嫌いな技だ。
だが、これが自分の奥の手であり、目前の敵を確実に仕留めるための最善の技であることは疑いない。
厄に触れて活気を失い、不自然に地面へと墜落した栗の実が目に入って、雛の表情が苦く歪んだ。
本当に、嫌いな技だ。
己が身に迫る弾幕を視界に捉えたと思しきその影の、おぼろに映る表情が歪んだ。
だが、それは雛が面相に浮かべた歪みとはまるで正反対の形。
笑っている?
「練習台に、なってもらうわよ」
――練習だって?
そう思ったのも、ほんのわずかの間に過ぎなかった。
暗い気配をまとった敵が、長いマントをひらめかせて厄の間をすり抜けるように回避していく。
いかにも動作を制限しそうに見えるマントをまるで苦にせず、厄をかすらせすらせずに。
その指先から、白い紙片が飛んだ。
雛は最後に、その紙片に描かれた文字を読んだ。
夜符。
「――ブラックバード」
視界が、闇に染まった。
◆
「もらっていくよ」
◆
博麗の巫女は、悩んでいた。
秋の夜長にその身を染めた、御柱立ち並ぶ神湖の地を飛翔しながら、悩んでいた。
――神を祀る人間が祀られる事もある。巫女が神になる事もある。
貴方にはそのぐらいの覚悟が出来て巫女をしているの?
「……知らないわよ」
物心が付いた頃から、自分はすでに巫女だった。
先代の巫女が博麗神社を取り仕切っていた頃からずっと巫女として神社で暮らしてきたし、
そのころにはもう自分が巫女になると言う将来に何の疑問も抱いてこなかった。
覚悟など、したことはない。
その必要もなく、自分はいつだって巫女だったのだ。
先代から博麗神社の祭事を任され、正式に博麗の巫女となったあともそれは変わらなかった。
巫女だから、祭事を執り行う。巫女だから、境内の掃除をする。巫女だから、賽銭を数える。
巫女だから、妖怪退治をする。
巫女だから。
「――ええいっ!」
異変が起こるたびに顔を出しては道行きの邪魔をする妖精は、今回の異変でも絶好調だ。
異変の元凶が企むはかりごとも、それを打ち倒そうとする巫女や魔法使いの都合も、何も気にせずに、
ただただお祭り騒ぎか何かのように飛び出して来ては己の気の済むままに暴れる妖精たち。
三匹の妖精が、今も目の前で光り輝く色鮮やかな弾幕を撒き散らして博麗の巫女に接近してくる。
今は、それも鬱陶しかった。
「考え事の邪魔よ!」
悪霊退散の四文字がでかでかと記された博麗神社謹製の厄除け札が三枚まとめて空を飛ぶ。
悪霊はおろか、妖怪だろうが吸血鬼だろうが、果ては魔法使いから人間に至るまで見境なく退散させる自慢の一品である。
三匹の妖精が放つ弾幕の隙間をものの見事にくぐり抜け、札に目が付いているかのような正確さでそれぞれの額に直撃したが、
舞い散る落ち葉を吹き飛ばしながら広大な湖の上を疾駆する巫女はそれを顧みすらしなかった。
足元にはもう水しかない。
月明かりを浴びてほのかな翠玉の輝きを灯す、無辺の湖。
「……これも、あの祝がやったのかしら」
ふと、唇から出すつもりの無かった声が漏れた。
彼女は、風祝でありながら神でもあると言う。
祀るものが祀られ、敬うものが敬われ、いつしか神へと変じるのだと。
考えたこともない。
私は、今までずっと巫女だった。
これからも、ずっと巫女でいるつもりだった。
ずっと変わらずにいるつもりだった。
「でも」
博麗神社は変わった。
先代が博麗の巫女を勤めていた頃は、参拝客も多くいた。
妖怪だって、好き好んで妖怪退治の専門家に近づこうとはしなかったし、神社はいつも平穏だった。
今は違う。
参拝客は途絶え、魑魅魍魎が跋扈し、賽銭は減り、信仰は失われた。
このままでは、博麗神社は奇跡を起こす力を失うのだろう。
それは博麗神社がもはや神社としての体裁を喪失し、ただの社になると言うことだ。
境界を守る力も、妖怪を退ける力も失われる。
そうしたら、巫女はどうなる?
神社が神社で無くなっても、巫女は巫女なのか。
人になるのか。
神になるのか。
妖怪になるのか。
「――あれ?」
――巫女になる前、私は何だったっけ?
そこで、思案は断ち切られた。
唐突に耳に飛び込んできた、女の声によって。
「――諏訪の水面に御神子がひとり」
思索の水底に沈みこんでいた意識が、水面へと強引に引き上げられた。
弾かれたように面を上げ、先ほどまで真円の月が照り映えていた夜空に視線を移す。
丸く厳かな銀色の月を、黒いかたちが覆っていた。
「――いずこの神の、巫なりや」
神だ。
その背に大仰すぎるほど巨大な注連縄。
その胸に曇り一つなく澄み渡った真十鏡。
そして何より、存在そのものから放たれる圧倒的な神威が如実に彼女の神性を物語っていた。
巫女が神に見えるのはこれが初めてというわけではない。
それでも、かの神から発される目に見えない風圧のようなものは博麗の巫女をしてすら圧する威力があった。
実際に、風の流れも変わっている。それまでは吹くに任せて得手勝手に飛び散っていた茜色の落葉たちが、
彼女の到来を引き金にして一つの秩序に従うかのように整然と吹き流されていることからもそれは明らかだった。
神湖の地に、風の神。
「御出座しと言うわけね」
巫女が呟くように発したその言葉は、小さくとも風に乗って神のもとへと届いたようだ。
その頬が、ふわりと柔らかく緩んだ。
「まさか、直接乗り込んでくるとは思わなかったわ」
身に押し寄せてくる風圧が、その笑顔と共にふっと緩んだような気がした。
神威に満ちてはいるが、威圧感は解かれている。
少しばかり意外に思った、それが顔に出たのだろう。再び目前の神が笑った。
「それらしい雰囲気でいた方が良かったかしら?」
「……随分とフランクな神様ね」
「最近は、厳かな雰囲気を見せるよりも友達感覚の方が信仰が集まりやすいのよ」
少し、拍子抜けがした。
神と言うにはあまりにもフレンドリーで、肩の力の抜けた対応である。
これでは、そこらの人間や妖怪と接しているのと変わりがない。
――おかしくないのか。
人間が神になれるのなら、神が人間と近くても何らおかしいことはないのだ。
あの祝は、この神を神奈子様と呼んでいた。神の名ではなく、人の名だ。
目の前の彼女も、もとは人間だったのかもしれない。
祀られて、敬われて、神へと変じた人間なのかもしれない。
敬われれば、神になる。
敬われねば、人になる。
ならば、神が人になったとき。
巫女はいったい、何になる?
「それで、何の用なの?」
またも思索の水面に身を浸しかけていた巫女の意識を、神の言葉が引き戻す。
「私達の提案を、受け入れる気になったのかしら?」
続いた言葉に、巫女は当初の目的を思い出した。
危うく忘れかけていた本題に話が戻り、改めて目前の相手をきっと睨みつける。
「受け入れるわけがないでしょう。博麗神社は渡さない」
その言葉を聞いて、神奈子の眉がぴくりと動いた。驚いたような表情である。
僅かに小首を傾げて巫女の言葉を反芻するように少しの間を置き、そして口を開く。
「別に渡してもらわなくてもいいのよ。私は貴方の神社を助けたいだけ」
「余計なお世話よ」
間髪を容れずに返事が飛んだ。敵意を孕んだ声に、神奈子の眉が今度は困ったように顰められる。
「信仰を失った神社で何をするの?信仰が失われた神社はただの小屋よ」
「それは私が考えることよ」
私は博麗の巫女なのだから。
「私の力で何とかする」
私は巫女なのだから。
「貴方の力は借りないわ」
私は。
「困った巫女ね」
小さな溜息とともに、神奈子が呆れたような言葉を吐いた。
その総身から再び、風のような圧力が巫女に向けて放たれる。
先ほどよりもさらに威圧的に、攻撃的に。
「神社は巫女の為にあるのではない。神社は神の宿る場所」
ひゅう。
ひゅう。
風が大気を切り裂く音が、はっきりと耳に聞こえてきた。
周囲の風が、武器となりつつある。
「そろそろ──神社の意味を真剣に考え直す時期よ!」
その言葉が皮切りとなり、弾幕の形を得た風が博麗の巫女へと降り注いだ。
◆
「お、もう始まっているわね」
◆
散漫だ。
自分でもはっきりとそう自覚できるほど、今の自分は集中を欠いている。
己に向かって吹きつけてくる弾幕の軌道が読めない。
小手調べと言った程度の、決して難しくはない弾幕であるはずなのに。
回避するのに精一杯で、攻撃に移るチャンスを掴めない。
散発的に札を撒いて牽制してはいるが、それで落とせる相手ではないことも解っていた。
「くそっ」
あまり品の良くない言葉が口をついて出た。
覆いかぶさるように降ってきた弾幕を、急降下してくぐり抜ける。
水面が一瞬にして眼前に迫り、急激な方向転換の勢いを受けて大きな飛沫が跳ねた。
必要以上に大きく動いている。そういう自覚はあったが、いかんせん弾幕の隙間が見えない。
絶不調、と言っていい状態だった。
――どうしたら妖怪達を追い返せるのかなぁ
どうしたら人間の信仰を集める事が出来るのかなぁ
神社を発つ前に、自ら口にした言葉が脳裏に蘇ってきた。
こんな事を考えてしまうこと自体が集中できていない証拠だが、浮かぶものは抑えられない。
飛沫を跳ね飛ばしながら水面すれすれを滑空し、追いすがってくる風の弾を振り切ろうと試みながら、
巫女の思考は戦いとは別の方向に浮遊していた。
神社は巫女の為にあるのではない。
そんな事は解っている。ずっと前から解っている。
巫女が神社の為にあるのだ。そう教えられて育ってきた。
だから、私はそうして生きてきた。博麗神社の為に生きてきた。
巫女だから。
その博麗神社が今、弱っている。
信仰を失い、神性を失い、奇跡を起こす力を失おうとしている。
ならば、盛り立てるのが巫女の仕事だ。巫女は神社の為にあるのだから。
他の誰かの力ではいけない。巫女の力でなくてはならない。
そうでなくては、何のための巫女なのだ?
私の力で何とかするから。
貴方の力は借りないから。
だが、その結果が今の博麗神社なのだ。
このままでは、神社はただの小屋になってしまう。
そうなれば、巫女はどうなる?
もとが人なら、人に戻るのだろう。
もとが妖怪なら、妖怪に戻るのだろう。
私は、ずっと巫女だった。
巫女でなくなったとき、私は他の何にもなれない。
巫女でなくなることは、私が消えて失せることと同じではないのか?
ならば私は、博麗の巫女であり続けよう。
巫女でしかいられないのなら、命尽きるまで巫女でいよう。
できるかできないか、ではない。
私にはそれしかないのだから。
誰の力も借りず、神社を復興させるのだ。
それが私の義務なんだ。
私は、
博麗の巫女なのだから。
頬に冷たい水滴の感触。
それをきっかけに思考の渦を抜け出した博麗の巫女は、眼前に迫る弾の雨をまず最初に目にした。
横を見れば、左右どちらにも弾の幕。
背後からも大気を切る音がする。眼下には手を伸ばせば届くほどの距離に、水の壁が揺れている。
――追い込まれた。
こんな状況になるまで気付かないだなんて、本当に気が散っている。
回避できる道筋は見つからない。弾幕の隙間を強引に抜けて行くよりほかに、方法はなかった。
そう認識した巫女の右目が、すっと細く眇められる。
――負けるわけにはいかない。
だぶついた両袖を翻し、小柄な体を強引に捻じ曲げて姿勢を立て直す。
右の袖が着水して派手な水飛沫を上げたが、服が汚れたと気にしている余裕はない。
見上げた先に、ほんの僅かな隙間が見えた。
隙間と言うのもはばかられるほどの亀裂に過ぎないが、他の道を探す暇もない。
水切りの小石のように水面から跳ね上がった巫女の体が、
弾と弾の間にねじり込むようにして弾幕へと突っ込んでいった。
頬に痛み。
僅かに掠めた風の弾丸が肌を灼いて飛び抜けて行くのを認識する間もなく、
恐ろしい相対速度で接近してくる次の弾を見据えて空中で体の位置をずらす。
一瞬前まで巫女が占めていた空間を両手に余る数の弾が吹き抜けていき、逃げ遅れた左の袖を手土産代わりに持って行った。
袖に仕込んでいた退魔の針と厄除け札がばらばらと音を立てて神湖へ落下していき、その途中で弾丸の雨に降られて砕け散る。
少しでも反応が遅れれば、自分もあれの二の舞だ。じんじんと脳に痛みを伝えてくる頬のかすり傷を軽くなった左手で撫で、
巫女はさらに速度を上げて弾丸の壁を切り裂いていった。
出口が見える。
その先に、神奈子の姿も見えた。
こんなときでも、自分の直感は正しく働いているらしい。
一瞬の判断で選んだ道が、そのまま敵の真正面に通じているとは思わなかった。
これなら、そのまま眼前の敵に一撃を加えることができる。
そう考えて右手を伸ばした巫女の目の前を、白いものが過ぎった。
――スペルカード?
神祭。
「――エクスパンデッド・オンバシラ」
弾丸の壁を突き抜けて、開けた視界の先に、
巨大な御柱が浮かんでいた。
「避けないと痛いわよ?」
子供を諭すような神奈子の声音が届く。
天に向けて右手をかざし、白く細い指をすらりと伸ばして、
その先に御柱をまるで指一本で支えているかのように揺らめかせている。
それだけではない。風の神を取り巻くように、神湖に浮かぶ二十二本の御柱。
その全てが、巫女に向けてぴたりと照準を合わせていた。
単純明快極まりない、巨大で無体な質量の塊。
神奈子の指先が示した命令に従い、問答無用の威力が飛んだ。
その指が示した先は、博麗の巫女。
――避けられない。
それでは駄目だと理性が叫ぶのとは無関係に、無慈悲で計算高い直感がそう確信した。
突き進んでくる二十二の圧倒的質量が見る間に迫り、棒立ちの巫女へ殺到する。
避けられない、では許されない。避けなくてはならない。
この質量に被弾すれば無事では済まない。少なくとも、戦闘の続行は不可能だろう。
そうなれば、博麗神社はどうなる。博麗の巫女はどうなる。
避けなくては。避けて、戦って、勝たなくては。
それが巫女の務めで、それが私の使命で、それが――
衝撃は、背後から襲ってきた。
視界が反転する。
埒外の角度から飛んできた埒外の衝撃に、疑問を抱く暇もなく小柄な体躯が毬のごとく跳ねた。
突風に吹かれた紅葉のように神湖の上を吹き飛ばされ、真っ逆様に湖面へと落下していく。
その眼が、かろうじて上空を行き過ぎていく御柱の一柱を捕らえた。
その脇に色鮮やかな四色の球体が浮かんでいる。
あれは確か、
「――オーレリー……!!」
言葉は最後まで紡がれることなく、神湖が少女の体を受け止めた。
どぱん、と間の抜けた音を響かせて、派手な水飛沫とともに紅白の巫女が見えなくなる。
寸前、視界の端を掠めたものがあった。
濃く深い緑色の、風にたなびく長い髪。
「オーレリーズサン」
あれは。
「あの子はそう呼んでいるようね」
あの姿は。
「自分を太陽に見立てて、星を従える」
なぜ?
「私から言わせれば、まだ甘いわ」
なぜ、今さら。
「太陽は中心なんかじゃない」
お前が。
「たかだか太陽系の中枢に位置するくらいで、満足するようじゃあね」
お前が、ここに。
「だから私は、こう呼ぶわ」
儀符。
「――アーミラリージアース」
――魅魔!!
◆
かつて、地球は宇宙の中心だった。
三精はことごとく地球に従い、天地自然はすべて地球のために動いていた。
地球は宇宙の主人であり、宇宙は地球のための存在であった。
誰もが一片の疑いも抱かず、己が神に愛された星の住人であると信じ、当然のこととして生きていた。
今は違う。
――それでも地球は回っている。
今はもう、誰も信じない。
かつて当然だったことを、今は誰一人として認めない。
もう、誰の目にも映らない。
今はもう、幻想の中にしかない。
◆
「どちら様かしら?」
巫女と言う目標を失って空を切った御柱がひとりでに元の位置へ戻り、湖へ突き立って行く。
その重厚な音を背後に控えて、神奈子が静かな声音で問い掛けた。
瞳には僅かな困惑と、それに倍する興味の色が浮かんでいる。
「神様さ」
夜色のマントを風にはためかせて、尊大な声音で闖入者が答える。
深緑色の髪、同じ色合いを灯す瞳。腰から下はまるで幽霊のような薄ぼやけた幽気が揺らめいている。
見た目は神と言うよりも、それこそ西洋の魔法使いが死して霊魂となったかのようなかたちだ。
その姿が背後に月を背負い、期してか知らずか、巫女に向けて神奈子が取ったのと同様に銀色の月に一点の黒を残す。
月の光が僅かに黒く烟って見えたように感じて、神奈子は僅かに瞳を細めた。
「ご同業、と言うわけかしらね」
神奈子の言葉に、太陽を象った三角帽の下でにやりと頬が歪んで笑みのかたちを作る。
月光を受けてもう一つの月のように鈍く輝く三日月の意匠を施された杖が風を切ってひと振りされた。
「ええ、その通り。幻想郷で神様と言えば、この魅魔様のことよ」
「それはどうも。挨拶が遅れたわね」
「本当にねぇ」
先程、巫女の背中に一撃をくれて眼下の湖に叩き落とした四色の魔玉が、杖に従うように手元に戻ってくる。
月の光はなおも美しく照り映えているのに、周囲は薄墨を塗ったように仄暗く闇の色に染めなおされつつあった。
じわり。
じわり。
夜を纏った魅魔の体から、浸み出すように闇が周囲へと拡散している。
まるで、闇そのものであるかのように。
「無礼じゃあないか」
じわり。
じわり。
「私の神社を、奪おうだなんてさ」
「私の――?」
神奈子が疑問符を浮かべて小首を傾げた。今度は困惑の色が興味に勝っている。
「貴女が、麓の神社の祭神なのかしら。そうは見えないけれど」
魅魔は返事を返さなかった。代わりにその面に浮かんだ笑みはさらに深まり、その笑顔も暗く染まる。
ごく近しい間柄の神に、似たような表情をする奴がいる。ふと神奈子の意識の片隅に、小さくて大きな彼女の笑みが過ぎった。
意識はすぐに眼前の夜色に戻る。どうやらやはり、どこかで勘違いが起きているらしい。
――あの子はちゃんと言ったとおりにしたのかしら?
「奪うつもりは最初から無いのよ。私は」
「知ったことじゃないね」
神奈子の言葉がその途中で断ち切られた。
同時に、魅魔の周囲に光が灯る。
蛍が灯す小さなそれに似た光が、頬に触れるほど近くで咲いたひとつを皮切りに、点々と灯って行く。
ちかちかと明滅して、それもやはり蛍のようだが飛びまわるでもなく、魅魔の周囲にふわふわと灯っているだけだ。
ひとつ、ふたつ、たくさん。その数はどんどん増えて、まるで魅魔自身が薄く光り輝いているように見える。
「気に入らないのさ、あんた達が」
魅魔の周囲に漂う闇が、その光を一層に強く輝かせて見せている。
ちか、ちかと明滅するその光のかたちを、神奈子はどこかで見たような気がした。
「ああ、まったく気に入らないね」
魅魔の背後に、薄暗い月が灯っている。
その周囲に、ちかちかと明滅する光があった。
「この幻想郷で、私以外の誰かが勝手に神をやろうなんて了見が――」
ああ――
星だ。
「まったくもって、気に入らない」
つい、と伸ばした魅魔の指先から、
無数の星が、神湖を飛んだ。
◆
あんたなんかに
わかってたまるもんですか
◆
八坂神奈子は、戸惑っていた。
秋の色合いを夜闇に染めて、光の粒をまき散らす神を前にして、戸惑っていた。
宇宙の果てから星霜の年月をかけてたどり着く、はるか昔の星々の光。
手を伸ばせば届きそうで、でも絶対に届かない幻想のようなその光が、確かな威力を秘めて風神の住む湖を飛ぶ。
触れれば触れる。手を伸ばせば届く。でも、触れたらきっと、ただじゃ済まない。
それ自体が星座のような弾幕の形を作って飛翔する星々の群れを、神奈子は大きく迂回して避けた。
「少しは話を聞いてくれないものかしらね――!!」
逆巻く風を手のひらに集めて投げつけながら、誰に言うでもなく小さく毒づく。
結局はこういう形になるらしい。
湖に叩き落とされてから音沙汰のない巫女に輪を掛けて、この神様も問答無用な性質のようだ。
彼女らの不利になるようなことは何一つするつもりは無かったのに、気づけば争いになっていた。
――まあ、仕方ないわね。
異邦の神が国を越えて他者の領域に這入り込めば、いつだって争いになるものだ。
あの時は、私が負けた。
あの時は、私が勝った。
負けて奪われ、勝って奪った。私はどうやら、生来そうした縄張り争いと縁の深い神であるらしい。
なら、今回はどうなる?
負けて追われるのか、勝って追うのか。
「どちらも、あまり気が進まないのだけど――」
目前に迫った無数の光の塊の、大きく開いた隙間を縫って回避。
その奥にはさらに弾の幕。右手をひらりと振ると、そこから生まれた烈風が弾の壁を散らして大きな隙間を作る。
生み出した風は威力を持った弾丸へと姿を変え、夜色の神のもとへと吹きつけて行く。
ばさり、と大きくマントをたなびかせて回避した姿に、間髪を入れず二度、三度と風の幕を展開して投げつけた。
まずは勝とう。
負ければ勝者の言うなりになるしかない。そうなれば、また追われる。
信仰を失い、落ちた神と言うのは無様なものだ。どこにも居場所は無くなって、浪々と降って行くしかなくなる。
あの時もそうだった。国を譲り、落ちた先でさらに奪い、どうにか自分は信仰されるもの、神でいられた。
その信仰も、いつの間にか消え失せていた。
手に入れたはずのものはいつの間にか薄らぎ、祭るものとてなく、私は世界から忘れ去られた。
忘れ去られれば、神ではない。
信じられなければ、神ではない。
あの子だけが、私を信じていた。
忘れ去られなければ、神なのだ。
信じられていれば、神なのだ。
私は信じられていた。私はまだ神だった。
ならば、私を信じるあの子のためにも、私は神でなくてはならない。
儚き人間のために。
背中に負った大仰な注連縄に、飛来した星のひと欠片がぶち当たった。
ばしん、と盛大な音を立てて神奈備の証たる縄から紙垂が引き裂かれて飛び散り、ひらひらと湖に向けて舞い落ちて行く。
あの日、私がかの神を降した証だ。幻想郷にやってくる際、神としてふさわしい威容を得るためにとあの子に背負わされた。
それが傷ついたのでは信仰にも障ろう。あの子も良い顔はするまい。
むっつりと膨れた彼女の不機嫌な姿が瞼の裏に浮かんで、ふと小さな苦笑が漏れた。
笑っている場合ではない。降り注ぐ星は今も目の前を埋め尽くしている。
弾幕の薄い部分にふっと息を吹きかけると、小さな息吹が見る間に神風と化して弾幕を二つに断ち割った。
その向こうに、夜の色。
先ほど巫女に叩き込んだ四色の魔玉が、彼女の頭上に浮かんでいる。
ひとつではない。ふたつ、みっつ。
惑星のように彼女を取り巻いて回る玉の群れが、彼女が掲げた杖に連動するように揺らめく。
そう簡単には行くものか。
先んじて懐から紙片を取り出した。幻想郷で戦うならば従え、と厳命されたルールだ。
ルールに則って戦うのは得意ではない。あの戦いでも、後に人間に伝わった面倒なルールを取り決めて行った。
郷に入っては郷に従え。
神穀。
「――ディバイニングクロップ!!」
宣言と同時に、背後を覆うようにずらりと葦を束ねた筒が出現した。
その数四十三本の筒を背中に、目の前に出現した最後のひとつを捕まえる。
この神事も、もう過去の幻想になってしまった。
でも、幻想が息づくこの世界でなら存在できる。
その手に握った筒に詰め込まれた五穀の筒粥を、背後に控えた葦筒と同時に降り注がせる。
神威を秘めた弾丸に等しいそれが秋の風に乗り、目前の神に向けて四方から覆いかぶさるように殺到した。
弾丸の雨の隙間から覗いた魅魔が舌打ちを飛ばし、周囲を巡る魔法の玉石を振り回すようにして神穀を弾き飛ばすのが見えた。
ここで押さない手はない。さらに背後で出番を待つ数十の葦筒を指先ひとつで操り、そこからも穀弾を溢れさせる。
さらに倍する弾丸が四方八方に飛散しながら神風の助けを受けて荒れ狂い、悪鬼調伏の力を孕んで神湖の地を満たす。
考えるのは勝ってからでいい。
このまま押し切ってしまえ。
奪うのも、守るのも、救うのも。
全ては勝者にだけ許される。
神粥の雨を嫌って、魅魔の体が後方に大きく飛んだ。それを追うようにして殺到する粥が、彼女を御柱へと追い詰める。
幽体のように揺らめいていた魅魔の下半身が一瞬の間に人の持つ二本の足へとその形を変じ、湖にそそり立つ古木の柱を蹴った。
飛行の勢いをそのままに、柱の根元から頂上へと向けてその体が駆け抜けるように上昇する。
あとを追う粥弾の群れがばちばちと音を立てて御柱にぶつかり、神木を僅かに削ってもくもくと煙を上げた。
――悪いわね。
小さく思考の隅によぎったそんな思いを一瞬で振り払う。今は敵を見るのが先だ。
粥弾を逃れて空へと上昇する魅魔の姿に向けて、最後に残った八本の葦筒を一斉に突き付ける。
天空に輝く星々に紛れて彼女が放つ星の弾丸と見分けが付け辛いが、この際構うでもない。
このまま押してしまえば勝ちだ。最後の筒粥を、飛翔する魅魔の進行を遮るように叩き付ける。
無数の粥弾が弾けて混ざり、てんでばらばらに、しかし隙間なく天空を埋め尽くして頭上の標的へと伸び上がって行く。
これで決まるか。
「そんなに――」
その声は、空から降ってきた。
玉を転がすような、魅魔の薄く透き通った声。
一瞬だけ、彼女の瞳と視線がぶつかった。
――まだ、そんな笑顔が出来るのか。
嘲るような見下すような、薄黒く靄の掛かった微笑。
それに気を取られた次の一瞬、一度だけ瞬きをした神奈子の瞳が開いた時。
「――怖いのかい?」
世界は一変していた。
無い。
無い。
無い。
月が無い。
星が無い。
光が無い。
天空を取り巻いていた、無数の光が。
綺麗さっぱり、消え失せていた。
神の粥が狙っていたはずの、魅魔の姿も見当たらない。
ただひとつ、その視線が舞い落ちる紙片だけを捕らえた。
光撃。
「――クライフォーザムーン」
寸毫の間を置いて天空で輝いた光は、
その全てが魔弾だった。
「――――ッ!!」
彼の神が夜空に広げた薄墨色の靄が星を、月を、光を完全に神奈子の目から覆い隠している。
そして、代わりに灯った星々の光は、それらすべてが威力を伴って降り注ぐ魔法の雨だ。
天の光は、全て敵。
「く、ぁ――!!」
思わず、唇から呻き声に似た音声が漏れた。
目前に迫る星の塊をすんでの所で回避し、寸前を掠めて行った手の甲に魔法の熱を感じながら上空を見据える。
魅魔の姿はどこにも見当たらない。闇の中に紛れ込んでしまったか。
視界に無いその姿を追う暇もなく、二手、三手と後続の星が雨あられと降り注いで風神の身を焼き焦がさんと迫る。
右腕を振って逆巻く旋風を撃ちこみ軌道を反らすと、真横を突きぬけた星が湖に落着して焼け石を沈めたような音を立てた。
上方に飛ばした風の勢いを借りることで逆方向へ飛翔する速度の助けとして、湖面に突き刺さる流星の間を貫くように飛ぶ。
飛んでも飛んでも、その先にはやはり星の雨があった。
右手を伸ばしてその指先に意志を込めると、呼応するように湖に突き立った御柱が引き寄せられて飛び込んできた。
それを回転させて頭上に投げ飛ばすと、熱を帯びた星が蹴散らされたあとにぽっかりと大きな道が出来る。
湖に沈んでいた部分から回転の勢いで派手に飛沫が飛び、星の光に熱された肌に触れてひやりと体温を奪っていった。
開けた空間の先に、うっすらと神の影。
闇を纏った魅魔の姿が、己の放った星々の輝きに灯されて薄ぼんやりと雨の中を飛翔しているのが見える。
逃がすわけにはいかない。
とっさにそう考えて急激に角度を変え、疾風を纏った体が天空目掛けて飛ぶ。
ぐんぐんと魅魔の姿が目前に近づいてきて、おぼろげに明滅するその薄暗い体にひゅうひゅうと鳴き声を上げる風の塊を向けた。
「負けるのが怖い?」
その声は、すぐ耳元で聞こえた。
目の前に居たはずの魅魔の姿は手を伸ばした途端に霞のように雲散し、捉えようとした風は虚しく空を駆けて行く。
とっさに振り向いたその方向にも、やはり魅魔の姿はない。
「失うのが怖い?」
聞こえた声にそちらを振り向けば、半ば以上を闇に浸した魅魔の左顔面だけが星の雨に照らされて漠然と浮かび上がっている。
その背後から押し寄せる星の雨。
「なんだ――」
くすり、と笑った魅魔の顔がまた闇に沈んで見えなくなり、降り注ぐ弾雨を身をよじってほとんど吹っ飛ぶような姿勢で避ける。
どうにか弾密度の薄いところまで逃げ込むように回避すると、また真後ろからくすくすと笑う声が聞こえてきた。
振り返れば魅魔の姿がうっすらと見えて、しかし手を伸ばすとまた消える。
「なんなんだ、お前は!!」
求めても、求めても、届かない。
ほとんど悲鳴に近い声が己の理性とは無関係に唇から迸り、空を覆い尽くす闇に吸いこまれていく。
「私は魅魔」
唐突に、視界を夜色の姿が埋め尽くした。
先ほどまでと同様におぼろげに、しかしはっきりとその場に存在していると解る質感を伴った魅魔の姿が目の前に浮かぶ。
とっさに伸ばした手は、しかしほんの僅かに爪先が風にたなびくマントの端に掛かっただけで空を切った。
「かつて確かに、幻想郷に存在したもの」
両手を目前に伸ばして、二つの掌を重ね合わせる。
その隙間でごうごうと音を立てて風の渦が生まれ、それは目前の敵に向けて一直線に突き進んでいく。
ひらり、と体重を感じさせない所作で上昇してそれを避けると、魅魔は降り注ぐ星の雨に踊るように飛び込んで行った。
「今はもう、誰の目にも映らない」
雨の中で歌うように言葉を紡ぐ黒い影。
己のもとにも降りしきる星を風の刃で薙ぎ払い、神奈子もあとを追うようにして弾雨に身を晒す。
足下で湖へ落着した星たちが消える直前に一層の光を放って沈んで行くのがちらりと見えた。
「誰からも忘れ去られたもの」
嘘だ。
「お前はそこにいるじゃあないか」
「ああ」
神奈子が発した言葉を聞いて、魅魔がふっと笑った。
先ほどまで頬に浮かんでいた嘲るような色の笑みとは違う、柔らかな微笑み。
「ここにいるよ」
星が降る。
風巻く神の湖に、輝く星の雨が降る。
「人々から忘れ去られても」
翠色の湖に、無数の星が映っている。
闇から生まれる星たちが、まるで二倍になったかのようだ。
「世界から否定されても」
ふたつの星の輝きが、おぼろな闇に覆われていた魅魔の姿を照らしている。
はっきりとそこにいる、夜。
「歴史の向こうに葬られても」
まだ戦いの最中であるはずなのに、
「私はここにいるよ」
美しい、と、思った。
「さあ――」
その姿が、くるりと後ろを向いた。
背中を長く覆うマントを夜に翻して、ふたつの人影を避けるように降り注ぐ星たちに囲まれたまま。
「それで、お前はどうするんだい?」
その言葉が向けられているのは、神奈子ではない。
熱を孕んだ光が吸いこまれて消えていく、水面に向けて発された声。
「忘れ去られたら、消えるのか?」
堕ちては消える星々の勢いが、弱まってきている。
周囲の世界を覆い尽くすほどに降りしきっていた光が、いつの間にやら今はまばらだ。
「否定されたら、逃げるのか?」
己に向けて発された言葉ではない。だが、それでも。
小さく胸に刺さるような痛みを感じて、神奈子は胸に下げた真十の鏡をぎゅっと握りしめた。
「葬られたら、眠るのか?」
星が止んだ。
神湖を照らしていた光が消え去り、天空に輝く本当の光を隠す闇だけが残る。
魅魔がその手に握っている杖の先に揺れる三日月が、空の月に変わって淡く光を放ち出して周辺を照らす。
その光の他に、世界を映すものは何一つなくなった。
「私は、ずっと魅魔だった」
仄暗闇に、澄んだ声だけが響く。
静かに、だがはっきりと発された声が、暗く染まった湖を揺らしている。
「忘れられて、否定されて、葬られて、それでも私は私だった」
神さびた古戦場に、ただひとつ浮かぶ夜色の神。
吹きすさぶ風さえも今は止み、彼女の声を聞いている。
「これまでも、これからも、私はずっと魅魔のままだ」
この世界に、ただひとつ。
世界から捨てられた神だけが、その存在を主張していた。
「さあ、お前はどうする」
呼びかけているのは、神奈子ではない。
彼女が呼んでいるのは、無辺の湖に沈んだ――
「どうするんだ、博麗靈夢!!」
あの巫女だ。
そして――
「――喧しいッ!!」
返事は、空から降ってきた。
◆
博麗霊夢は、考えていた。
秋の色合いも届かない広大無辺の湖に沈んで、咄嗟に周囲へ展開した結界の中で、考えていた。
「私がやらなきゃいけないのよ」
魅魔と最初に地獄で戦ったのは、いつだったろうか。
もう、ずっと昔のことだったように感じられる。
あの時から、彼女とは何度も何度も戦った。
大きな異変の時も、そうでない時も、あの悪霊はいつも霊夢の邪魔をしてきた。
ついには博麗神社そのものに憑り付く祟り神のような存在になり、いくら祓っても涼しい顔で戻って来た。
「妖怪退治も、神社の掃除も、幻想郷を守るのも」
その姿を見かけなくなったのは、いつだったろうか。
紅色の霧が幻想郷を覆う前のことだから、もう結構な時間が経った。
あの悪霊にことさら懐いていた魔理沙が一時期がっくりと塞ぎ込んでしまったのを覚えている。
逆に手足のように働かされていたアリスは、彼女がいなくなったことを喜んでいたっけ。
自分はどうだったろう。厄介者が消えたと喜んだ反面、どこか張り合いが無くなったような感覚も抱いていた。
「私にしか出来ないのよ」
それが、戻ってきた。
博麗神社が失われるかどうかという瀬戸際で、あの悪霊は何事もなかったかのように戻ってきた。
あの時のように涼しい顔で、まるで世界のすべてを下に見ているような尊大な態度で。
「魅魔」
あの頃のままで。
それが霊夢には腹立たしかった。
「私は――」
――私の気も知らないで。
「さあ、お前はどうする」
空の上から声がする。
忌々しい祟り神の、忌々しい声がする。
「どうするんだ、博麗靈夢!!」
その声を聞いた途端、意識するより早く体は動いていた。
足下に開いた亜空穴から、滑り出すように結界の外へと飛び出す。
飛び出た先は、闇色の空だった。
三日月を象った杖だけが闇の中で光って、その灯火が悪霊の姿を照らし出している。
眼下に見えたその影に、迷うことなく勢いを付けて飛翔。
「――喧しいッ!!」
声と同時に、突きだした右足が勢い込んで体ごと魅魔へと突っ込んだ。
弾丸のような勢いで突っ込んできた霊夢の一撃に、しかし魅魔の反応は早い。
後方に振り向くよりも早く手に携えた魔導書のような装丁の分厚い本を背後にかざし、それが霊夢の右足を受け止めた。
一瞬遅れてその方向へ振り向くと、すぐ眼前に赤と白の少女の姿。
に、と頬を歪めて笑い、打ち込まれた足を払いのけて巫女と目の高さを合わせるように上昇する。
その鼻先に、霊夢の細い指先が突き付けられた。
「あんたなんかに、巫女の気持ちがわかってたまるもんですか!!」
神湖を揺らすほどの、怒号であった。
その表情と大音声に込められた怒気の強さに、魅魔の表情が驚きに染まって僅かにたじろぐ。
それには一切構わず、霊夢は僅かに震える指先をもう一度突きつけた。
「今更戻ってきて、訳知り顔で偉そうなことを言うんじゃないわよ!!」
袖を失った左手で空を切るように振り回しながら。
「あんたみたいな奴がいるから、私は毎度毎度ひどく迷惑してるんじゃないの!」
一度だけでは飽き足らず、二度三度と魅魔の鼻先に向けてびしびしと指を突き付ける。
「あんたみたいな奴らがいつも騒がせて!邪魔をして!」
結界を張るより速く湖に落ちた袴の裾から冷えた水滴を滴らせながら。
「おかげで神社は閑古鳥よ!挙句の果てにあんな奴らに乗っ取りまで仕掛けられて!!」
びしり、と左手で握った御幣を後方の神奈子へと突き出して。
「なにもかもあんた達のせいよ!私があんな事を考えたのだって――」
その言葉は途中で切れて、代わりに犬が水を払うようにぶるぶると首を勢いよく振った。
「――とにかく!」
濡れて乱れた髪が額に張り付くのも構わず、二人を順に睨みつける。
「私に迷惑をかけたこと、全力で後悔させてやるわ!」
そうだ。
「私は――」
「博麗霊夢なんだから!!」
たとえ、巫女でなくなったとしても。
たとえ、神になったとしても。
たとえ、ただの人になったとしても。
「――迷う必要なんてなかったのよ」
たとえ、何者にもなれなかったとしても。
「いつだって、どんな時だって、私は霊夢。博麗霊夢」
濡れた髪から滴が落ちるのに任せて、その体が天空へと上昇していく。
神湖の上で二人の神を見下ろすようにして、巫女が右手の御幣を構えた。
「神社のためでも、幻想郷のためでもないわ。私が戦うのは」
目前に御幣を差し出すと、それに呼応するように二対の陰陽玉が背後に浮かぶ。
眼下の神を睨め付けて、袖に仕込まれた封魔針をぞろりと引き抜いた。
「あんたたちが大嫌いだからよ!!」
◆
神湖の地に、巫女の放った弾幕が飛ぶ。
神風を操ってそれをかわしながら、神奈子は抑えようのない笑声を夜空に響かせていた。
――なんて単純なんだろう。
嫌いだから、倒す。
あの巫女は、二柱の神を前にして臆面もなくそう言い放った。
先ほどまでのどこか困惑しているように見えた彼女の戦い方とは打って変わった、容赦なく激しい弾幕。
そのひとつひとつに籠められた意志のようなものが感じられる攻撃に、なぜか奇妙な安堵さえ覚える。
――考え過ぎていたな。
追い詰められた気分だった。
信仰を失い、現世での存在を危ぶまれ、否応なしに逃げ込んできた幻想郷。
ここでも存在を許されなかったら、私はもう消えるしかない。そんな風にさえ思っていた。
だから、勝つしかない。負けることは許されない、そう思っていた。
そんなことはない。
負けたって、終わりじゃない。
否定されたって、消えたりしない。
忘れられたって、何も変わらない。
私が私である限り。
「なにがおかしいのよ、もう!!」
幻想の巫女が怒ったような声とともに、大小とりどりの札を撒き散らす。
今はその弾幕を掻い潜るのさえ楽しい。こんな気分は、久しく忘れていたような気がする。
「楽しいだろう?」
気づけばすぐ隣を飛翔していた闇色の神が、手に持った三日月杖で退魔針を打ち払いながらそう口にする。
その顔も、楽しげな笑みのかたちだ。
「ああ――」
楽しい。
なんて、楽しいんだろう。
ここには勝利も、敗北もないのだ。
奪うことも、失うこともない。心の底から、ただ楽しむためだけに戦える。
だから、これは遊びなのだ。
忘れ去られた幻想たちの、死力を尽くしたごっこ遊び。
「楽しいね、幻想郷は」
「そうだろうさ」
手を伸ばせば触れるほどの距離で、闇が笑う。先刻はいくら伸ばしても届かなかった笑みが、今は近い。
神奈子も笑った。言葉の代わりに返すのは、吹きすさぶ神の風だ。
巫女の弾幕を吹き散らして二柱の神が左右に走り、風の神は空へ翔け、闇の神は水面へ沈む。
湖に触れるほどに下降した彼女の周囲に無数の星が輝いて跳ねた。
湖から天空へ向けて降り注ぐ星の雨。それが己に殺到するより早く、神奈子の周囲に無数の小刀が出現する。
贄符。
「――御射山御狩神事!!」
無数の刃が宣言と共に吹き荒れた風に乗り、風そのものが変じた弾幕と重なりあいながら魅魔へと殺到する。
回避しようとして避けきれず、夜の色を写したマントの端をかすめた刃が布地を裂いて落ちた。
烈風とともに湖に突き立った刃が派手な水しぶきを宙に舞わせ、その狭間を黒い影が目にも止まらぬ速さで駆け抜ける。
そちらに向けてさらに風の弾幕を吹きつけようとしたところで、後方から飛来する弾幕が風を切る音が耳に届いた。
「ちっとも楽しくなんかないわよッ!」
相変わらず不機嫌な巫女がばら撒いた悪霊退散の札だ。
眼下を走る彼女はともかく、仮にも八坂の神威の権限たる神奈子を悪霊扱いする巫女も珍しかろう。
「そいつは残念!」
本心からの言葉だった。こんなに楽しいのに。
そんな思考を片隅に過ぎらせながら、振り向きざまに打ち払った右手が極小の竜巻を纏って符の弾丸を叩き落とす。
同時に左手が懐から紙片を取り出して、退魔針を振りかぶる最中の巫女めがけて投げつけた。
天流。
「――お天水の奇跡!!」
叫ぶと同時に巫女へと突き付けた掌から、しかし弾丸は生まれなかった。
警戒するように身を強ばらせた霊夢は一瞬だけ怪訝な表情をして、直後にはじかれたように上空へ視線を移す。
そこには、先の刃と烈風が天高く巻き上げた無数の水滴が浮かんでいた。
霊夢がその存在に気づいたのとほぼ同時に、水滴が雹のような勢いを付けて眼下の敵を撃つ威力へと化ける。
撃ち込んだ神奈子自身にも把握できないほどにでたらめな軌道の弾幕を、しかし霊夢は最小限の動きで細かく避けていく。
見えている。先ほどまでの散漫で集中を欠いた動きが嘘のような、機敏で迷いのない回避機動。
ただ、表情だけは変わらず苦虫を噛み潰したように不機嫌だった。
「そうさ、靈夢!」
刃と水滴の弾幕をくぐり抜けて神奈子の後ろ、巫女と反対の位置に駆け抜けた魅魔がそう叫ぶ。
同時に三日月の杖から魔球を放って神奈子の背中を狙うのも忘れない。
「楽しまなきゃあ損だろう!」
「あんたたちをぶっ飛ばせば、少しは楽しくなるかもね!」
同時に前方から、霊夢の健脚が蹴り飛ばした陰陽玉が突っ込んでくる。
とっさに足元で風を巻き起こし、旋風に身を預けるようにして急回転しながら上昇してそれらを避ければ、
ちょうど正三角形を作るようにして二人を眼下に収める形になった。
二人を見下ろしながら右手を懐に突っ込む。残った紙片は最後の一枚、とっておきだ。
二人もこちらを見上げながら、同時に紙片を取り出す。
一人は笑み、一人は怒り。
くすり、と頬が歪む。
ああもう、なんて楽しいんだろう。
この幻想郷でなら、褻の昨日を忘れ去って、晴れの日を楽しめる。
こんな素敵な神遊び、あいつにも教えてやらなきゃあ――。
「――夢想封印!!」
「――幽幻乱舞!!」
「――マウンテン・オブ・フェイス!!」
神さびた古戦場に、光が満ちて。
◆
頬を冷たい水が撫でた。
◆
指先にも、冷たい水の感触がある。
それに引きずられるように、意識が闇から這い出してきた。
のろのろと開いた瞳が、澄んだ川の水に洗われる石たちを最初に捉える。
認識がゆっくりと追いついてきた。
――自分はうつぶせになって、川岸に倒れているのだ。
「――!!」
気づいた瞬間、川の流れに浸っていた右手を反射的に引っ込めた。
いけない、溜め込んだ厄が漏れ出してしまう。川が穢れて――
「……ない?」
さらさらと音を立てて流れる水は清らかで、一片の濁りもない。岩魚が水辺で遊んでいる。
赤く染まった紅葉が一葉、枝を離れて眼前に落ちてきた。厄に満ちたはずの手でそれを摘む。
それは生気を失うこともなく、紅葉のままで白く透き通った手の中に収まっていた。
「……なん、で」
混乱する意識が、気絶する直前に脳裏に響いた声を再生した。
――もらっていくよ。
あの、闇色の魔女が。
「あ――」
手の中から滑り落ちた紅葉が足元の川へと着水して、それを追うように岩魚が近づいてきた。
意識してかせずにか、白い指先が水面をくぐって岩魚の鼻先に伸びる。
岩魚は急な異物の到来に驚いたように身を引いたが、それに害意が無いことを見て取ったのか
ゆっくりと近づくと品定めをするように口先で指をつっついてきた。
「あ、はは」
指先に感じるくすぐったさと、その何倍もの不思議な気持ちが溜め込んだ物を失った体の内側に満ちる。
私は、流し雛。
厄を引き受け、厄を背負って、人々のために生きる神。
だから、こうしていられるのも今だけだけど。
明日からはまた、厄に染まる身だけど。
「あは、は――」
鍵山雛は、笑っていた。
秋の色に覆い尽くされた夜の渓流に遊びながら、笑っていた。
◆
「いや、まったく申し訳ない」
八坂神奈子と東風谷早苗が、その言葉と共に深々と頭を下げた。
妖怪の山から降りてきた紅葉の赤にゆっくりと染まっていく博麗神社の拝殿である。
「おかしいと思ったのよ。神社ごと明け渡せなんて無体な話」
「この子の純然たる勘違いだ。早苗はその、何て言うか思い込みの激しい子でね」
「面目次第もありません……」
苦笑しながら言う神奈子の横で、緑髪の祝が所在無さげに縮こまりながら小声で謝る。
神湖の地で繰り広げられた戦いを終えた後、神社から飛んできた早苗を神奈子は一も二もなく問い質した。
そこで神と祝の間に生まれていた巨大な食い違いが明らかになると神奈子は目を覆い、霊夢は脱力し、
魅魔の爆笑が神湖の水面を震わせて、しばらくの間止むことはなかった。
三人を引き連れて日の出前の博麗神社に戻ってきた霊夢が最初に目にしたのは、茫然自失の体で空を眺める魔理沙の姿であった。
魔理沙は帰宅した霊夢の後ろに魅魔の姿を認めると、豆鉄砲を食った鳩のような顔でしばらく固まっていたが、
「大きくなったね」
そう告げた魅魔の声を聞くなり、泣き笑いのような表情で魅魔の胸に飛び込んで行った。
そのまま涙声で何事かを呟いたかと思えば、魅魔が手に持った足跡付きの本をひったくって飛び出してしまい、姿は見えない。
「年頃の女の子ってのは難しいねえ」
そう言って苦笑する魅魔の表情はなぜだか嬉しげで、霊夢は何とも言い難い気分になったものである。
「それで、なんで今頃になって戻ってきたのよ」
最後にその姿を見なくなってから結構な時間が経っている。
落ち着いたら真っ先に聞こうと思っていた疑問であった。
ぶつけられた疑問に、魅魔の表情が馬鹿にしたような笑顔に変わる。
「随分なお言葉だねぇ。私はずっとここにいたのに」
「え?」
つまり、こういうことである。
「この神社の神様に提案したのさ。代わりに仕事をしてやるからそこをどけって」
「な――」
「あの神様、喜んで了解したよ。今じゃ私に一切合切任せきりにして三年寝太郎だ」
「じ、じゃあこの神社の祭神って」
「私だよ。代理だけどね」
胸を張って言ってのけた。
事情が飲み込めずに困惑する早苗の横で、神奈子が笑いを堪えるように顔を伏せて肩を揺らしている。
「……神社に妖怪が寄り付くようになったのって」
「居心地がいいんじゃないかい?なにせ私が祭神だからね」
「神様の会議で話を聞いてもらえないのって」
「そんな面倒な集まり、一度だって行ったことないよ」
「――、」
あまりの事に言葉が見つからず、ぱくぱくと酸欠に陥った鯉のように口を動かす霊夢。
とうとう抑えきれなくなったのか、横で盛大に吹き出す音が聞こえた。
「あの神様ね、ありゃ駄目だ。ぐうたらだし無責任だし、寄越せといってハイ寄越しますって言うんだから」
神社ごと明け渡したのか。
つい数分前にあるわけがないと言い切った無体な話が、とっくの昔に成立していたのである。
「ええと、よく解らないんですけれども」
困惑気味の表情をそのままに、首を傾げた早苗が横合いから口を挟む。
「つまり霊夢さんは、ずっと神様と勘違いして魅魔さんに仕えていたと言う事なんでしょうか?」
直球であった。
歯に衣着せぬ事実の指摘に完全に動きを止めた霊夢と反対に、魅魔と神奈子の笑声が神社に響く。
「さ、早苗――もうちょっとこう、優しい言い方ってものがだね……」
「いやあ、見所があるんじゃないかね?」
さも気に入ったと言う風に肩を叩く魅魔と恐縮する早苗。
霊夢はといえばそれを尻目にすっかり意気消沈して視線を落とし、肩を震わせ、
「ふ」
「ふ?」
「ふ、ふ、ふふふ」
気づけば床に置かれた右手の先から小さな紙片が覗いていて――
「封魔陣―――――ッ!!!」
神社の天井を突き抜けて、青白い光が朝ぼらけの空に立ち昇った。
「お、落ち着いてください霊夢さん!!」
「うるっさぁーい!!」
「あーあ、こりゃ修理が手間だねぇ」
「河童たちに掛け合えばすぐさ。頼んどいてあげるよ」
「おや、そうしてくれるかい」
「お、お二人とも、落ち着いてないで止めてください!!」
「悪霊退散ーッッ!!!」
◆
幻想郷に紅霧が満ちた。
雪景色の向こうから春の足音が聞こえてくる。地底の鬼が目覚めたのだろうか。
竹林の先は入ることも出ることも出来ない永夜の世界。
木で出来た建物。
時季外れの彼岸花。夥しい数の写真と新聞。
彼女はそこに居た。ずっとこの場にいた。
一人の人間と共に。
万感の「ここにいる」が心に染み渡りました
文句なし
魅魔様、博麗神社の神様の
代理を務めてたのかw