夕方の朝食。
矛盾しているようだが、吸血鬼の館たる紅魔館ではごく当たり前の光景である。
その館の主人たるレミリア・スカーレットは、やたらに大きいテーブルの上で優雅に従者の作ったソテーを口に運んでいた。彼女の少し離れたところには、銀のお盆を持って控える十六夜咲夜の姿がある。
主人は従者に向け、透き通る凛とした声で聞いた。
「咲夜。今日の予定は?」
「本日の予定は……ま、特に何も無いですね」
レミリアは眉をひそめた。
「その言い方だと私がまるで暇人みたいだろ。トイレとか、パチェのとこに漫画読みに行くのとかを公務みたいに述べる位の機転は欲しいものだね」
「実際暇人でしょう。変な見栄張らないでくださいよ」
「……まあな」
館の主人はバツの悪そうな顔をする。本人の身長に今ひとつ釣り合っていない椅子に体重を預け、天井を仰いだ。無駄に豪勢なシャンデリアが、今日は何だか寂しそうである。
ヨーロッパに住んでいた時は良かった。
連日豪勢なパーティに参加したり催したり、吸血鬼であることがバレて退治に来た奴らをぶちのめしたり。たまにロリコン貴族に強引に言い寄られては、キス寸前でヘッドバットをかましてみたり、エジプトに行って墓泥棒の真似事をして王家の亡霊と戦ったり、優秀な家臣を探しに思いつきでシルクロードを超えてみたり。
「あの頃の私はカリスマに満ち溢れていた……」と考えると彼女の目頭が少しだけ熱くなった。
幻想郷での暮らしも悪くはないのだが、少し刺激に欠けているのも事実だった。
「あ、お嬢様。予定が一つあったのを忘れていましたわ」
「んー」
大儀そうにレミリアはテーブルに膝をついて、フォークを弄んでいる。あまり期待していないようだ。
「応急救護の講習がありましたわ」
「あーはいはい。応急救護か……って応急救護って何事!?」
レミリアの目が見開かれる。あまりに自分と縁のなさそうな言葉が出てきたので、戸惑いが隠せなかったようだ。
「流石はスカーレット家の跡取りに相応しい、素晴らしいノリツッコミですわ。応急救護とは道端に倒れている人を救急車が来るまで、心臓マッサージしたり人工呼吸したりするアレですね」
咲夜が滑らかにお世辞と説明を述べる。
その直後、やかましい音と共に部屋のドアが開かれた。
「話は聞かせてもらったわ!」
開いた扉の前で仁王立ちしているのは、紫色の髪をした少女だった。
本日は喘息の調子も良いらしく、珍しく大きい声である。それでも比較的、という程度だが。
レミリアは極めていつもどおりにリアクションを返す。
「なんだ。今日はやたら機嫌がいいみたいじゃないか、パチェ」
「レミィ、どうやら応急救護の訓練が受けたいそうね」
「いや、言ってないんだけど」
「そうと決まれば話は早いわ! 準備はもうこっちで済ませたから」
「話聞けよ」
言葉のキャッチボールが完全に一方通行だった。これでもレミリアとパチュリーは数百年来の親友である。
呆れた表情のレミリアに、咲夜がお盆で口を隠しながら囁く。
「実は先日の町内会でですね……」
「ちょっと待て。うちって町内会入ってたのか」
まずはそこを確認する。どうやら当主は知らなかったようだ。
「ええ。今年度から一応根岸区に。近所づきあい良くしとかないと、ゴミ出しとか色々不都合が生じるんですよ」
「根岸56-9紅魔館様へ、とか年賀状に書かれるのか……カッコワル……」
「そもそも悪魔が年賀状出してる時点でどうかと思いますが」
かなり日本文化に染まってしまったブラド・ツェペシェの末裔である。
串刺し公も地獄で嘆いていることだろう。
「だってデザイン考えたり色んな年賀状来たりするの楽しいし。そういや白玉楼にも出しちゃったけど、あそこってもしかして喪中?」
「確かに冥界ですから年中喪中っぽくはありますけどね。それなら永遠亭とかの方が喪中……って話がずれてます」
強引に軌道修正する瀟洒な従者であった。
ちなみにこの間、先ほどの闖入者は二人のヒソヒソ話が終わるのをきちんと待っている。律儀なものだ。
「まあ町内会の会合に、パチュリー様が何を思ったのか出席しましてね。そこで町医者の助六さんに、そんなに病弱なのに救命処置が出来る人物が近くにいないのがいかに危険か、という事を熱心に語られたみたいで」
「それを真に受けちゃった訳かー。本当は怖い家庭の医学を見たあとのバァサンかよ」
数々のトラウマを視聴者に植え付けた某番組は、幻想郷にもその電波が届いているらしかった。
二人の話が終わったのを見計らって声がかけられる。
「それじゃあ用意した別室に行くわよ」
「ああ、食べ終わったらな」
若干低テンションながらもレミリアが付き合うのは、暇を潰すには丁度良いからだ。彼女がパチュリーを食客として迎えているのも、こんな風に無聊を慰めてくれるからかもしれない。
ちなみに彼女が「もしもの時は、咲夜が時止めて医者まで連れてけばいいんじゃね?」と言わないのは、単に思いつかなかっただけである。
「しかし何もない部屋だな。空間の無駄遣いじゃないか?」
さして大きくない四方上下を囲まれた部屋、その中心に赤い布をかけられた何かが置いてあった。恐らくは人口呼吸などの練習に使う人形だろう。
「お嬢様が何もない真白い部屋ってカッコよくね? なんか内なる存在と契約とか交わしそう、とか厨二めいたことをほざいた時に作った部屋ですが」
「ほざいたとか言うなよ。しかし当時の私も暇だったんだろうな……」
作らせた本人は全く覚えていなかった。恐らく言うだけ言って、出来上がる頃には飽きたのだろう。
レミリアが声をかける。
「パチェ、とりあえず何したらいいの?」
「今日の私のことは教官、もしくは軍曹と呼びなさい。返事はサー、よ」
「あ……うん」
教官のテンションの高さにレミリアは少しひいた。というか大分ひいた。
彼女は応急救護のマニュアルを開くと、説明をいつも通りのぼそぼそとした早口で始めた。
「それじゃレミィ。とりあえずやりながら説明するわ」
「おっし」
赤い布をとって、咲夜の方へばさりと放り投げる。
「……」
その下の応急救護の練習用の人形がある、と思っていた場所には自分の妹、フランドール・スカーレットが横たわっていた。
レミリアは顔を引きつらせながら聞いた。
「……フラン、あんた何してんの?」
「話かけないで、お姉さま。今、私は練習用の人形なの。さあ、早く人口呼吸を! さあ!」
真顔であった。目をかっ開いた、これ以上ないという程の真剣な表情であった。
レミリアは妹の心臓の上にゆらりと右足を乗せた。
「お姉さま?」
彼女はにっこりと微笑んだあと、心臓マッサージを始めた。
足で。
「オラオラオラオラオラ! まだ意識は戻りませんかねぇえええ!」
「いだだだだ! そんなっ、お姉さま! 足でなんて破廉恥うげぇ!!」
苛烈すぎる踏みつけが続く中、女の子が出してはいけないような悲鳴が上がった頃、ようやく咲夜が止めに入った。
「お嬢様。その辺にしておかないと、永遠亭でなく白玉楼のお世話になる可能性が出てきます」
「ん、そうか」
フランドールは全身を痙攣させて意識を失っていた。その表情は満更でもなさそうである。
実姉限定でマゾなのかもしれない。
「そうすると本物の人形はどこなんだ」
「多分妹様が跡形もなく能力でぶっ壊したのでしょうね。ちょっと待ってなさい」
教官が右手をパチン、と鳴らすと青白い光とともに小悪魔が現れた。
召喚術の一種である。契約を結んだ使い魔は、時間場所問わずいつでも呼び出せるのだ。例え小悪魔がトイレで放尿中であったとしても、だ。やられる方としてはたまったものではないシステムである。
「何でしょうか、パチュリー様」
「あなたがこないだ私に内緒で買ってきたアレを持って来なさい」
主人がそう告げると、小悪魔に動揺が走る。彼女は主人に異議を申し立てた。
「しかし……アレは……ッ!」
「貴女のものは全て私のものよ。というか、あんなブツを貴女に持たせておいたままにする訳ないじゃない」
「……承知しました」
小悪魔の唇を噛みながらも、命令を受け入れ青い光とともに消えた。恐らくそのブツとやらを取りに行ったのだろう。
その様子をレミリアと咲夜の二人は不思議そうに見ていた。
「何を取りに行かせたのですか?」
「そりゃ人形よ」
そう間を開けず、また青い光を発して小悪魔が現れた。今度はお嬢様だっこで人形を抱えている。
レミリアはげっそりとした顔でつぶやく。
「なにこれ……」
「だから人形よ。私を模した、アリスエント工業製のラブドールだけど」
ラブドールとは最も現実の女性に近いダッチワイフの一種であり、主に性的欲求を満たすために使用される、比較的感触が人間の肌と似ている人形である。風船式のダッチワイフや抱き枕の発展系とでも言えばいいだろうか。
アリスエント工業製ともなると、本物が動いて喋らない限り、どちらが本物のパチュリーかを見分けるのも難しい程精巧な造りになっている。
「何故こんなものが……」
「小悪魔が貯金全部使ってアリスに作らせたのよ。全く馬鹿らしい」
「だってパチュリー様が相手してくれないんですもん!」
「はいはい」
彼女が再び指を鳴らすと、小悪魔は図書館に強制送還された。
咲夜は持ち上げる者のいなくなったラブドールが地面に落下する前に、華麗に優しく受け止める。そしてそれをゆっくりと床に横たえた。
「大分リアルですね、コレ……うっわ、中身までちゃんと出来てる……」
メイド長は人形のネリグジェをたくし上げ、股間の辺りをまさぐって覗きながら言う。その様子をレミリアは真っ赤になりながら指差して非難した。
「ちょ、ちょっとどこ見てんのよ咲夜!」
「何今更照れてるのよ。何度もお風呂とかで見せ合いっこしたじゃない」
「いや、胸ならともかく流石にアソコは見せ合った覚えないんだけど……」
具体的に想像してみると、見せ合いっことは何とも珍妙な光景である。
話がかなり不味い方向に進んでいるのを察したのか、レミリアは大きく咳払いをして切り出した。
「いい加減、応急救護の練習始めましょうよ」
「そうね。私の女性器の話なんでどうでもいいわよね」
「人が話逸らそうとしてんのにお前はッ!」
顔を再び真っ赤にする永遠に幼き赤き月。意外とウブなようである。
今度は教官が小さく咳払いをして、説明を始めた。
「まずは周りの状況の確認よ。安全な場所に怪我人を運ばないと、車に轢かれたり二次災害が発生するわ」
「幻想郷に車無いですけどね」
すかさずメイドが突っ込む。
「……いやまあそうなんだけど、儀礼的にね。レミィ、とりあえず声を出して確認して頂戴」
「いや、んなもん見ればわかるじゃない。嫌よ恥ずかしい」
あっさりとレミリアは拒否する。
「救急救護の練習というのはそういうものらしいわ。言葉には言霊というものが宿ると言うし、発声することによって何らかのシャマニズム的効果が得られるのかもしれないわ」
「お前、香霖堂の店主と気が合いそうだな……」
勝手な憶測で外の世界を解釈するところ辺り、という続きは胸の内に仕舞っておく。
長年の経験から、自分の親友は持論に反論されようものなら、百倍の情報量で反論し返してくるというのを、レミリアは経験で知っていたので、特にそれ以上は言わなかった。
「周りよし」
教官は満足げに頷くと、次の指示を出した。
「119番への連絡とAED(自動体外式除細動機)を持ってくるために、他の通行人にも助けを求めなくちゃみたい」
「119番もAEDも幻想郷にないですけどね」
またもメイド長が突っ込む。
「いや、それはわかってるわよ……ただ儀礼的にやっとかないと、助かる命も助からないかもしれないじゃない」
ここで「いや、それはないだろ」とは言わず「そーですね」と返すのは流石は完璧で瀟洒な従者といったところか。
その割に相手にわかるレベルで棒読みなところは彼女らしさである。
「はい、じゃあ本番行ってみましょう」
「すいません、手伝ってください」
「声が小さい」
「誰か手伝ってくださーい!」
「もっと大きく!」
「誰かー! 助けてくださーい!!」
「世界の中心で愛を叫ばなくても……」
パチュリーが不思議そうな顔で咲夜を見る。
「それどういう意味?」
「いえ、なんでもないです」
すました声でメイドが答える。時折、外の世界の知識がどこまで通用するのかわからなくなるのが、彼女のちょっとした悩みの種だった。
ちなみに他の通行人に助けを求める場合、「そこのあなた、手伝ってください」と指名した方が良い。「誰か手伝ってください」では誰も動かないのだ。
「次は出血の有無の確認。もしあるようなら止血に移るのだけれど、今日は割愛ね」
「吸血鬼が止血って妙な話もあったものですね」
「咲夜は茶々を入れないの」
「はいはい」
叱責を軽くかわすメイド長。彼女もまた、パチュリーに反論すると面倒なのを知っているのだ。
「出血無いわ」
「じゃあ肩を叩いて意識の有無を確かめて」
「人形相手に話しかけるとか恥ずかしいんだけど」
レミリアがそう言うと、パチュリーは「某人形遣いを見習いなさいよ。一日中人形に話しかけてるじゃない」と返した。さりげなく酷い言われようである。
彼女は諦めて、パチュリーとうり二つの人形に話しかけた。
「だ、大丈夫ですかー」
「声が小さい」
「大丈夫ですかー!」
「もっと大きく!」
「元気ですかー!!」
「アントニオ猪木じゃないんですから……」
今度は周りに聞こえないように呟いた。周りにネタが理解されないなら言わなければいいのに、わざわざ口に出さなければ気がすまない辺り、彼女も難儀な性格である。
「じゃあとりあえず人口呼吸を試してみましょうか」
彼女は続けて「顎を上向きにして気道を確保し、鼻をつまんで空気の逃げ場を無くすのがコツよ」と説明する。
吸血鬼は彼女の方を振り返る、頬を少し赤らめて複雑そうな顔をしている。
「なに躊躇してるのよ。マウス・トゥ・マウスのキスくらい、私とレミィが何回したと思ってるのよ」
「そ、そうだっけ?」
「まあ主に貴女が寝てる間なんだけど」
「おいちょっと待てコノアマ」
赤いオーラの殺気を放つ主人を、従者が諌める。全力で喧嘩した際、その後始末に追われるのはメイド長だからだ。
レミリアもキス程度ならまあいいか、と殺気を仕舞ってラブドールに向かう。
「うん……それじゃやるか」
恐る恐る彼女は人形に唇に近づいていく。わずかに手のひらが汗で湿っている。びくびくしながらゆっくりと距離を縮めていく。
しかし次の瞬間、人形が目をカッと開き、両腕でレミリアの頭を抱え込んで無理矢理キスしに行った。
「むぐ……?! ンっ…………! んぁ……ッ!」
しかもただのキスではなく、舌をねじり込むソレだ。いわゆるディープキスというやつである。
ちゅぷちゅぷと、唾液の混じり合う淫靡な音が部屋に響く。僅かにレミリアの蝙蝠羽がピクピク震えているようにも見えた。
「流石はアリスエント工業製。こんな機能までついてるのね」
「以外と冷静ですね」
「まあ第三者視点というのもそれなりに興奮するものよ。寝取られと寝取りを同時に味わっているような気分だわ」
「さいですか」
完璧で瀟洒な従者は華麗にスルーした。
そんな会話を交わしていると、レミリアが人形のキスから解放された。
「んぐ…………ぷはっ!」
唇から唇へと唾液が糸を引く姿が何ともいやらしい。流石は夜の王である。
顔を真っ赤にしたまま、レミリアが怒鳴る。
「ちょっとパチェ! いきなり何なのよ!」
「文句はアリスか小悪魔に言って頂戴。私は一切悪くないわ」
「くそう……」
大方、小悪魔がそういう風に注文したのだろう。そうレミリアは推測した。なんとも信頼のない使い魔である。
吸血鬼は鋭い牙でぎりぎりと歯ぎしりする。彼女は諦めて、次はどうすればいいかを聞いた。
「お次は心臓マッサージね。胸の真ん中の上で、手を重ねて腕は一直線にして、なるべく体重をかけるようにするといいらしいわ」
「おっけー」
レミリアが心臓マッサージを開始すると、今度は人形が喘ぎ始めた。
『あんッ…………あっ……! …………そこ……弱いとこばっか……責めないで…………んあッ……』
「……」
「……」
「……」
胸をもまれた時用の音声が、心臓マッサージに反応してしまったのだろう。
全員沈黙し、部屋には妙な空気が流れた。レミリアに至っては顔を真っ赤にしながらも、気が動転して何故か心臓マッサージを続けているという様である。
誰も何も言葉を発さない。しかし誰かが何か言わなければ状況は悪化していくばかりである。そこにいる全員が全員に向かって、頼むから何か言ってくれと懇願しているようだ。
しかし漂う気まずい雰囲気は、ドアが乱暴に開かれたことで壊された。
「た、大変です!」
息を切らし慌てて走ってきた小悪魔を、レミリアが褒める。よくぞこの空気を壊してくれた、という感謝を込めて。
「良くやった小悪魔ァ!」
「え、あ、はい。ありがとうございます……ってそうじゃなくて」
小悪魔の告げた一言は、再び全員を凍りつかせた。
「美鈴さんの心臓が止まってるんです!」
「転ばぬ先の杖を買った瞬間に転んだ、ということかしら」
「まとめてる場合か!」
三人は即座に紅魔館の正門へと駆けた。そこには紅美鈴がぐったりと仰向けで倒れている。周りには湖上で良く見かけるチルノなどの妖精たちが、顔を真っ青にして立ち尽くしている。
「で、何があったんだ?」
レミリアが問いかける。その質問にチルノが答えた。
「みんなで魔法の森で泥団子を作ったんだけど……それをめーりんにごちそうしたら……」
「美鈴のアホ……」
咲夜が頭を押さえて呟く。
チラリと美鈴の横を見やると、そこにはウネウネとのた打ち回るグロテクスな物体があった。泥団子である。
もはや十人中八人が吐き気を催す程気持ち悪い形状をしているが、それが泥団子として作られたのならそれは泥団子である。
流石は魔法の森産である。これでは美鈴がぶっ倒れるのも頷ける。
「ま、大方ちびっ子たちの好意を無下にできなくて、覚悟決めて食ったんだろう。その心意気は嫌いじゃないね」
むしろ誇らしい、と言わんばかりに紅魔館の当主は歯を見せて笑った。そんなレミリアに横槍が入る。
「何かっこつけてんのよ。さっき練習した通りにやるわよ」
「お、おう」
若干緊張した面持ちで彼女は答えた。
「まずは車が来ないか周りの確認、と」
「変なことしてないで、早くめーりんを助けてよ!!」
「……まあそうだな」
チルノの提案にレミリアは頷いた。彼女は心臓マッサージに移行しようと美鈴の横に膝立ちで座った。
「腕は一直線で肩に体重を乗せるのよ」
「ああ」
「あと肋骨は多少折っても構わないわ」
「ああ」
「それと手の重ね方は……」
「もうわかったから! 緊張してくる!」
手は湿り気を帯び、自分の心臓の拍動が聞こえる。こころなしか体も震えている気がする。
しかし、それでもやらなければならない。むざむざ家族の一員をここで見殺しにしてしまうわけにはいかない。そう考えると応急救護のやり方を習ってよかった。彼女はパチュリーひいては町医者の助六さんに感謝した。
何を恐れることがある、とレミリアは自分に悪態をついた。心臓マッサージにそう失敗などあるものか。彼女は自信を取り戻すと、体に力がみなぎってくるのを感じた。
しかし、彼女は忘れていた。
「せーのっ!!」
自分の腕力が、いかに強すぎるものであるかを。
「あ」
美鈴の体は爆散した。
血しぶきがその場にいた全員にかかる。
「……」
「……」
「……」
彼女は失念していた。フランドールの暴走のせいで余り目につかないが、吸血鬼そのものは慢性的に力の加減が苦手であるということを。
「……まあ。多分今から私が時止めて永遠亭に連れてけば大丈夫ですよ」
最初からそうしろよ、とは泣き出しそうなレミリアの顔を見たら誰も言えなかった。チルノですらもそのことを察した。
「すまん……本当にすまん……」
ちなみにこの後美鈴は、iSP細胞だかDG細胞だかを移植されて何とか一命を取り留めたそうな。
紫色の髪をした少女が、先ほど応急救護の練習を行っていた白い部屋に足を踏み入れる。しかしその動きは妙にぎごちない。
すると彼女は突然、糸の切れた人形のように床に倒れ伏せた。
そして代わりにさっきまで練習用に使われていた人形が、むくりと起き上がった。
「……ったく、人形のフリをするのも楽じゃないわ。まあ心臓を止めても魔力で代替すれば何とかなるのは証明されたわね」
長時間動かさなかったせいで硬直した筋肉を、本物のパチュリーは腕を伸ばしたりしてほぐす。
アリスの作った人形は精巧すぎて、長年連れ添ったレミリアですら、本物と人形が入れ替わっていたことに気づかなかった。ここは気づけなかったレミリアを責めるべきではなく、入れ替わりを最後までさとらせなかったパチュリーを賞賛するべきであろう。
「ま、久々にレミィの恥じらってテンパってる顔も見れたし、苦労しただけの価値はあったわね」
いや、賞賛すべきはそんなしょうもないことのために、何百年と積み上げてきた高等魔術の髄を惜しげもなく使い、自らを仮死状態にすることすら厭わない本人の精神性かもしれない。
「あー、でも救命救急の練習をさせる理由は微妙だったかもだけど。あと門番がブッ倒れたのは予想外だったわね」
寄り代こそアリス製の人形に頼ったが、体の全機能を停止させながら魔力でタンパク質やその他諸々の劣化を防ぐ技術は、一朝一夕で身につくものではないだろう。恐らくこの魔術を開発するだけでも多大な時間を要しただろう。
また自分の体は一切動かさないままに、本物と些細な所作すら同じように人形を遠隔操作した手腕も侮れない。とはいえアリス程上手いわけではないのだが、操作に使っている魔力を気づかれないように隠蔽する技術もかなり高等なものである。
「今度は別の理由を考えて、今回と似たようなことしましょうかね。ふふふ、レミィが顔を真っ赤にする姿がまた見られると思うと……」
「随分と幸せそうね、パチュリー」
――――――地獄の底から響くような声が、魔女の後ろから聞こえた。
「い、妹様?」
全身の筋肉が強張り、後ろを振り向くことができない。背中の皮膚をチリチリと凶悪な魔力の波動が焦がしている。
すっかり彼女は忘れていた。フランドール・スカーレットが姉の心臓マッサージ式の折檻を受けたあと、赤い布を被せられてずっとここに放置されていたということに。
「許せないわ……お姉さまの唇は私だけのものなのに……」
「あの、少し落ち着……」
ゆっくりと振り向いたとき、パチュリーは死を覚悟した。あ、これはもう駄目だ、と。
幼い吸血鬼の顔は、歪んだ笑顔と浮き出た血管で彩られていた。
「素敵な心臓マッサージをくれてあげるわ。お姉さま直伝のね……ッ!」
必殺「ハートブレイク」
パチュリーの視界は、部屋よりも白い光で満たされていった。
テラスに二人の少女がいた。レミリアと咲夜である。
レミリアは備え付けの日傘の下、白いテーブルの上で、紅茶をたしなんでいた。
「いやー、美鈴も一週間くらいで退院できそうだし、ホントよかったわー」
メイドは静かにレミリアのカップにおかわりの紅茶を注いだ。
湯気と共に放たれる心地よい香りが鼻腔を刺激する。
「ふむ。ところでフランはどこにいるんだ?」
「さあ? 今頃パチュリー様でお人形遊びしてるんじゃないですかね」
「ふーん……え? パチュリーと、じゃなくてパチュリーで、って言った?」
「空耳じゃないですか?」
メイドの口元は、含みのある笑みをたたえていた。
矛盾しているようだが、吸血鬼の館たる紅魔館ではごく当たり前の光景である。
その館の主人たるレミリア・スカーレットは、やたらに大きいテーブルの上で優雅に従者の作ったソテーを口に運んでいた。彼女の少し離れたところには、銀のお盆を持って控える十六夜咲夜の姿がある。
主人は従者に向け、透き通る凛とした声で聞いた。
「咲夜。今日の予定は?」
「本日の予定は……ま、特に何も無いですね」
レミリアは眉をひそめた。
「その言い方だと私がまるで暇人みたいだろ。トイレとか、パチェのとこに漫画読みに行くのとかを公務みたいに述べる位の機転は欲しいものだね」
「実際暇人でしょう。変な見栄張らないでくださいよ」
「……まあな」
館の主人はバツの悪そうな顔をする。本人の身長に今ひとつ釣り合っていない椅子に体重を預け、天井を仰いだ。無駄に豪勢なシャンデリアが、今日は何だか寂しそうである。
ヨーロッパに住んでいた時は良かった。
連日豪勢なパーティに参加したり催したり、吸血鬼であることがバレて退治に来た奴らをぶちのめしたり。たまにロリコン貴族に強引に言い寄られては、キス寸前でヘッドバットをかましてみたり、エジプトに行って墓泥棒の真似事をして王家の亡霊と戦ったり、優秀な家臣を探しに思いつきでシルクロードを超えてみたり。
「あの頃の私はカリスマに満ち溢れていた……」と考えると彼女の目頭が少しだけ熱くなった。
幻想郷での暮らしも悪くはないのだが、少し刺激に欠けているのも事実だった。
「あ、お嬢様。予定が一つあったのを忘れていましたわ」
「んー」
大儀そうにレミリアはテーブルに膝をついて、フォークを弄んでいる。あまり期待していないようだ。
「応急救護の講習がありましたわ」
「あーはいはい。応急救護か……って応急救護って何事!?」
レミリアの目が見開かれる。あまりに自分と縁のなさそうな言葉が出てきたので、戸惑いが隠せなかったようだ。
「流石はスカーレット家の跡取りに相応しい、素晴らしいノリツッコミですわ。応急救護とは道端に倒れている人を救急車が来るまで、心臓マッサージしたり人工呼吸したりするアレですね」
咲夜が滑らかにお世辞と説明を述べる。
その直後、やかましい音と共に部屋のドアが開かれた。
「話は聞かせてもらったわ!」
開いた扉の前で仁王立ちしているのは、紫色の髪をした少女だった。
本日は喘息の調子も良いらしく、珍しく大きい声である。それでも比較的、という程度だが。
レミリアは極めていつもどおりにリアクションを返す。
「なんだ。今日はやたら機嫌がいいみたいじゃないか、パチェ」
「レミィ、どうやら応急救護の訓練が受けたいそうね」
「いや、言ってないんだけど」
「そうと決まれば話は早いわ! 準備はもうこっちで済ませたから」
「話聞けよ」
言葉のキャッチボールが完全に一方通行だった。これでもレミリアとパチュリーは数百年来の親友である。
呆れた表情のレミリアに、咲夜がお盆で口を隠しながら囁く。
「実は先日の町内会でですね……」
「ちょっと待て。うちって町内会入ってたのか」
まずはそこを確認する。どうやら当主は知らなかったようだ。
「ええ。今年度から一応根岸区に。近所づきあい良くしとかないと、ゴミ出しとか色々不都合が生じるんですよ」
「根岸56-9紅魔館様へ、とか年賀状に書かれるのか……カッコワル……」
「そもそも悪魔が年賀状出してる時点でどうかと思いますが」
かなり日本文化に染まってしまったブラド・ツェペシェの末裔である。
串刺し公も地獄で嘆いていることだろう。
「だってデザイン考えたり色んな年賀状来たりするの楽しいし。そういや白玉楼にも出しちゃったけど、あそこってもしかして喪中?」
「確かに冥界ですから年中喪中っぽくはありますけどね。それなら永遠亭とかの方が喪中……って話がずれてます」
強引に軌道修正する瀟洒な従者であった。
ちなみにこの間、先ほどの闖入者は二人のヒソヒソ話が終わるのをきちんと待っている。律儀なものだ。
「まあ町内会の会合に、パチュリー様が何を思ったのか出席しましてね。そこで町医者の助六さんに、そんなに病弱なのに救命処置が出来る人物が近くにいないのがいかに危険か、という事を熱心に語られたみたいで」
「それを真に受けちゃった訳かー。本当は怖い家庭の医学を見たあとのバァサンかよ」
数々のトラウマを視聴者に植え付けた某番組は、幻想郷にもその電波が届いているらしかった。
二人の話が終わったのを見計らって声がかけられる。
「それじゃあ用意した別室に行くわよ」
「ああ、食べ終わったらな」
若干低テンションながらもレミリアが付き合うのは、暇を潰すには丁度良いからだ。彼女がパチュリーを食客として迎えているのも、こんな風に無聊を慰めてくれるからかもしれない。
ちなみに彼女が「もしもの時は、咲夜が時止めて医者まで連れてけばいいんじゃね?」と言わないのは、単に思いつかなかっただけである。
「しかし何もない部屋だな。空間の無駄遣いじゃないか?」
さして大きくない四方上下を囲まれた部屋、その中心に赤い布をかけられた何かが置いてあった。恐らくは人口呼吸などの練習に使う人形だろう。
「お嬢様が何もない真白い部屋ってカッコよくね? なんか内なる存在と契約とか交わしそう、とか厨二めいたことをほざいた時に作った部屋ですが」
「ほざいたとか言うなよ。しかし当時の私も暇だったんだろうな……」
作らせた本人は全く覚えていなかった。恐らく言うだけ言って、出来上がる頃には飽きたのだろう。
レミリアが声をかける。
「パチェ、とりあえず何したらいいの?」
「今日の私のことは教官、もしくは軍曹と呼びなさい。返事はサー、よ」
「あ……うん」
教官のテンションの高さにレミリアは少しひいた。というか大分ひいた。
彼女は応急救護のマニュアルを開くと、説明をいつも通りのぼそぼそとした早口で始めた。
「それじゃレミィ。とりあえずやりながら説明するわ」
「おっし」
赤い布をとって、咲夜の方へばさりと放り投げる。
「……」
その下の応急救護の練習用の人形がある、と思っていた場所には自分の妹、フランドール・スカーレットが横たわっていた。
レミリアは顔を引きつらせながら聞いた。
「……フラン、あんた何してんの?」
「話かけないで、お姉さま。今、私は練習用の人形なの。さあ、早く人口呼吸を! さあ!」
真顔であった。目をかっ開いた、これ以上ないという程の真剣な表情であった。
レミリアは妹の心臓の上にゆらりと右足を乗せた。
「お姉さま?」
彼女はにっこりと微笑んだあと、心臓マッサージを始めた。
足で。
「オラオラオラオラオラ! まだ意識は戻りませんかねぇえええ!」
「いだだだだ! そんなっ、お姉さま! 足でなんて破廉恥うげぇ!!」
苛烈すぎる踏みつけが続く中、女の子が出してはいけないような悲鳴が上がった頃、ようやく咲夜が止めに入った。
「お嬢様。その辺にしておかないと、永遠亭でなく白玉楼のお世話になる可能性が出てきます」
「ん、そうか」
フランドールは全身を痙攣させて意識を失っていた。その表情は満更でもなさそうである。
実姉限定でマゾなのかもしれない。
「そうすると本物の人形はどこなんだ」
「多分妹様が跡形もなく能力でぶっ壊したのでしょうね。ちょっと待ってなさい」
教官が右手をパチン、と鳴らすと青白い光とともに小悪魔が現れた。
召喚術の一種である。契約を結んだ使い魔は、時間場所問わずいつでも呼び出せるのだ。例え小悪魔がトイレで放尿中であったとしても、だ。やられる方としてはたまったものではないシステムである。
「何でしょうか、パチュリー様」
「あなたがこないだ私に内緒で買ってきたアレを持って来なさい」
主人がそう告げると、小悪魔に動揺が走る。彼女は主人に異議を申し立てた。
「しかし……アレは……ッ!」
「貴女のものは全て私のものよ。というか、あんなブツを貴女に持たせておいたままにする訳ないじゃない」
「……承知しました」
小悪魔の唇を噛みながらも、命令を受け入れ青い光とともに消えた。恐らくそのブツとやらを取りに行ったのだろう。
その様子をレミリアと咲夜の二人は不思議そうに見ていた。
「何を取りに行かせたのですか?」
「そりゃ人形よ」
そう間を開けず、また青い光を発して小悪魔が現れた。今度はお嬢様だっこで人形を抱えている。
レミリアはげっそりとした顔でつぶやく。
「なにこれ……」
「だから人形よ。私を模した、アリスエント工業製のラブドールだけど」
ラブドールとは最も現実の女性に近いダッチワイフの一種であり、主に性的欲求を満たすために使用される、比較的感触が人間の肌と似ている人形である。風船式のダッチワイフや抱き枕の発展系とでも言えばいいだろうか。
アリスエント工業製ともなると、本物が動いて喋らない限り、どちらが本物のパチュリーかを見分けるのも難しい程精巧な造りになっている。
「何故こんなものが……」
「小悪魔が貯金全部使ってアリスに作らせたのよ。全く馬鹿らしい」
「だってパチュリー様が相手してくれないんですもん!」
「はいはい」
彼女が再び指を鳴らすと、小悪魔は図書館に強制送還された。
咲夜は持ち上げる者のいなくなったラブドールが地面に落下する前に、華麗に優しく受け止める。そしてそれをゆっくりと床に横たえた。
「大分リアルですね、コレ……うっわ、中身までちゃんと出来てる……」
メイド長は人形のネリグジェをたくし上げ、股間の辺りをまさぐって覗きながら言う。その様子をレミリアは真っ赤になりながら指差して非難した。
「ちょ、ちょっとどこ見てんのよ咲夜!」
「何今更照れてるのよ。何度もお風呂とかで見せ合いっこしたじゃない」
「いや、胸ならともかく流石にアソコは見せ合った覚えないんだけど……」
具体的に想像してみると、見せ合いっことは何とも珍妙な光景である。
話がかなり不味い方向に進んでいるのを察したのか、レミリアは大きく咳払いをして切り出した。
「いい加減、応急救護の練習始めましょうよ」
「そうね。私の女性器の話なんでどうでもいいわよね」
「人が話逸らそうとしてんのにお前はッ!」
顔を再び真っ赤にする永遠に幼き赤き月。意外とウブなようである。
今度は教官が小さく咳払いをして、説明を始めた。
「まずは周りの状況の確認よ。安全な場所に怪我人を運ばないと、車に轢かれたり二次災害が発生するわ」
「幻想郷に車無いですけどね」
すかさずメイドが突っ込む。
「……いやまあそうなんだけど、儀礼的にね。レミィ、とりあえず声を出して確認して頂戴」
「いや、んなもん見ればわかるじゃない。嫌よ恥ずかしい」
あっさりとレミリアは拒否する。
「救急救護の練習というのはそういうものらしいわ。言葉には言霊というものが宿ると言うし、発声することによって何らかのシャマニズム的効果が得られるのかもしれないわ」
「お前、香霖堂の店主と気が合いそうだな……」
勝手な憶測で外の世界を解釈するところ辺り、という続きは胸の内に仕舞っておく。
長年の経験から、自分の親友は持論に反論されようものなら、百倍の情報量で反論し返してくるというのを、レミリアは経験で知っていたので、特にそれ以上は言わなかった。
「周りよし」
教官は満足げに頷くと、次の指示を出した。
「119番への連絡とAED(自動体外式除細動機)を持ってくるために、他の通行人にも助けを求めなくちゃみたい」
「119番もAEDも幻想郷にないですけどね」
またもメイド長が突っ込む。
「いや、それはわかってるわよ……ただ儀礼的にやっとかないと、助かる命も助からないかもしれないじゃない」
ここで「いや、それはないだろ」とは言わず「そーですね」と返すのは流石は完璧で瀟洒な従者といったところか。
その割に相手にわかるレベルで棒読みなところは彼女らしさである。
「はい、じゃあ本番行ってみましょう」
「すいません、手伝ってください」
「声が小さい」
「誰か手伝ってくださーい!」
「もっと大きく!」
「誰かー! 助けてくださーい!!」
「世界の中心で愛を叫ばなくても……」
パチュリーが不思議そうな顔で咲夜を見る。
「それどういう意味?」
「いえ、なんでもないです」
すました声でメイドが答える。時折、外の世界の知識がどこまで通用するのかわからなくなるのが、彼女のちょっとした悩みの種だった。
ちなみに他の通行人に助けを求める場合、「そこのあなた、手伝ってください」と指名した方が良い。「誰か手伝ってください」では誰も動かないのだ。
「次は出血の有無の確認。もしあるようなら止血に移るのだけれど、今日は割愛ね」
「吸血鬼が止血って妙な話もあったものですね」
「咲夜は茶々を入れないの」
「はいはい」
叱責を軽くかわすメイド長。彼女もまた、パチュリーに反論すると面倒なのを知っているのだ。
「出血無いわ」
「じゃあ肩を叩いて意識の有無を確かめて」
「人形相手に話しかけるとか恥ずかしいんだけど」
レミリアがそう言うと、パチュリーは「某人形遣いを見習いなさいよ。一日中人形に話しかけてるじゃない」と返した。さりげなく酷い言われようである。
彼女は諦めて、パチュリーとうり二つの人形に話しかけた。
「だ、大丈夫ですかー」
「声が小さい」
「大丈夫ですかー!」
「もっと大きく!」
「元気ですかー!!」
「アントニオ猪木じゃないんですから……」
今度は周りに聞こえないように呟いた。周りにネタが理解されないなら言わなければいいのに、わざわざ口に出さなければ気がすまない辺り、彼女も難儀な性格である。
「じゃあとりあえず人口呼吸を試してみましょうか」
彼女は続けて「顎を上向きにして気道を確保し、鼻をつまんで空気の逃げ場を無くすのがコツよ」と説明する。
吸血鬼は彼女の方を振り返る、頬を少し赤らめて複雑そうな顔をしている。
「なに躊躇してるのよ。マウス・トゥ・マウスのキスくらい、私とレミィが何回したと思ってるのよ」
「そ、そうだっけ?」
「まあ主に貴女が寝てる間なんだけど」
「おいちょっと待てコノアマ」
赤いオーラの殺気を放つ主人を、従者が諌める。全力で喧嘩した際、その後始末に追われるのはメイド長だからだ。
レミリアもキス程度ならまあいいか、と殺気を仕舞ってラブドールに向かう。
「うん……それじゃやるか」
恐る恐る彼女は人形に唇に近づいていく。わずかに手のひらが汗で湿っている。びくびくしながらゆっくりと距離を縮めていく。
しかし次の瞬間、人形が目をカッと開き、両腕でレミリアの頭を抱え込んで無理矢理キスしに行った。
「むぐ……?! ンっ…………! んぁ……ッ!」
しかもただのキスではなく、舌をねじり込むソレだ。いわゆるディープキスというやつである。
ちゅぷちゅぷと、唾液の混じり合う淫靡な音が部屋に響く。僅かにレミリアの蝙蝠羽がピクピク震えているようにも見えた。
「流石はアリスエント工業製。こんな機能までついてるのね」
「以外と冷静ですね」
「まあ第三者視点というのもそれなりに興奮するものよ。寝取られと寝取りを同時に味わっているような気分だわ」
「さいですか」
完璧で瀟洒な従者は華麗にスルーした。
そんな会話を交わしていると、レミリアが人形のキスから解放された。
「んぐ…………ぷはっ!」
唇から唇へと唾液が糸を引く姿が何ともいやらしい。流石は夜の王である。
顔を真っ赤にしたまま、レミリアが怒鳴る。
「ちょっとパチェ! いきなり何なのよ!」
「文句はアリスか小悪魔に言って頂戴。私は一切悪くないわ」
「くそう……」
大方、小悪魔がそういう風に注文したのだろう。そうレミリアは推測した。なんとも信頼のない使い魔である。
吸血鬼は鋭い牙でぎりぎりと歯ぎしりする。彼女は諦めて、次はどうすればいいかを聞いた。
「お次は心臓マッサージね。胸の真ん中の上で、手を重ねて腕は一直線にして、なるべく体重をかけるようにするといいらしいわ」
「おっけー」
レミリアが心臓マッサージを開始すると、今度は人形が喘ぎ始めた。
『あんッ…………あっ……! …………そこ……弱いとこばっか……責めないで…………んあッ……』
「……」
「……」
「……」
胸をもまれた時用の音声が、心臓マッサージに反応してしまったのだろう。
全員沈黙し、部屋には妙な空気が流れた。レミリアに至っては顔を真っ赤にしながらも、気が動転して何故か心臓マッサージを続けているという様である。
誰も何も言葉を発さない。しかし誰かが何か言わなければ状況は悪化していくばかりである。そこにいる全員が全員に向かって、頼むから何か言ってくれと懇願しているようだ。
しかし漂う気まずい雰囲気は、ドアが乱暴に開かれたことで壊された。
「た、大変です!」
息を切らし慌てて走ってきた小悪魔を、レミリアが褒める。よくぞこの空気を壊してくれた、という感謝を込めて。
「良くやった小悪魔ァ!」
「え、あ、はい。ありがとうございます……ってそうじゃなくて」
小悪魔の告げた一言は、再び全員を凍りつかせた。
「美鈴さんの心臓が止まってるんです!」
「転ばぬ先の杖を買った瞬間に転んだ、ということかしら」
「まとめてる場合か!」
三人は即座に紅魔館の正門へと駆けた。そこには紅美鈴がぐったりと仰向けで倒れている。周りには湖上で良く見かけるチルノなどの妖精たちが、顔を真っ青にして立ち尽くしている。
「で、何があったんだ?」
レミリアが問いかける。その質問にチルノが答えた。
「みんなで魔法の森で泥団子を作ったんだけど……それをめーりんにごちそうしたら……」
「美鈴のアホ……」
咲夜が頭を押さえて呟く。
チラリと美鈴の横を見やると、そこにはウネウネとのた打ち回るグロテクスな物体があった。泥団子である。
もはや十人中八人が吐き気を催す程気持ち悪い形状をしているが、それが泥団子として作られたのならそれは泥団子である。
流石は魔法の森産である。これでは美鈴がぶっ倒れるのも頷ける。
「ま、大方ちびっ子たちの好意を無下にできなくて、覚悟決めて食ったんだろう。その心意気は嫌いじゃないね」
むしろ誇らしい、と言わんばかりに紅魔館の当主は歯を見せて笑った。そんなレミリアに横槍が入る。
「何かっこつけてんのよ。さっき練習した通りにやるわよ」
「お、おう」
若干緊張した面持ちで彼女は答えた。
「まずは車が来ないか周りの確認、と」
「変なことしてないで、早くめーりんを助けてよ!!」
「……まあそうだな」
チルノの提案にレミリアは頷いた。彼女は心臓マッサージに移行しようと美鈴の横に膝立ちで座った。
「腕は一直線で肩に体重を乗せるのよ」
「ああ」
「あと肋骨は多少折っても構わないわ」
「ああ」
「それと手の重ね方は……」
「もうわかったから! 緊張してくる!」
手は湿り気を帯び、自分の心臓の拍動が聞こえる。こころなしか体も震えている気がする。
しかし、それでもやらなければならない。むざむざ家族の一員をここで見殺しにしてしまうわけにはいかない。そう考えると応急救護のやり方を習ってよかった。彼女はパチュリーひいては町医者の助六さんに感謝した。
何を恐れることがある、とレミリアは自分に悪態をついた。心臓マッサージにそう失敗などあるものか。彼女は自信を取り戻すと、体に力がみなぎってくるのを感じた。
しかし、彼女は忘れていた。
「せーのっ!!」
自分の腕力が、いかに強すぎるものであるかを。
「あ」
美鈴の体は爆散した。
血しぶきがその場にいた全員にかかる。
「……」
「……」
「……」
彼女は失念していた。フランドールの暴走のせいで余り目につかないが、吸血鬼そのものは慢性的に力の加減が苦手であるということを。
「……まあ。多分今から私が時止めて永遠亭に連れてけば大丈夫ですよ」
最初からそうしろよ、とは泣き出しそうなレミリアの顔を見たら誰も言えなかった。チルノですらもそのことを察した。
「すまん……本当にすまん……」
ちなみにこの後美鈴は、iSP細胞だかDG細胞だかを移植されて何とか一命を取り留めたそうな。
紫色の髪をした少女が、先ほど応急救護の練習を行っていた白い部屋に足を踏み入れる。しかしその動きは妙にぎごちない。
すると彼女は突然、糸の切れた人形のように床に倒れ伏せた。
そして代わりにさっきまで練習用に使われていた人形が、むくりと起き上がった。
「……ったく、人形のフリをするのも楽じゃないわ。まあ心臓を止めても魔力で代替すれば何とかなるのは証明されたわね」
長時間動かさなかったせいで硬直した筋肉を、本物のパチュリーは腕を伸ばしたりしてほぐす。
アリスの作った人形は精巧すぎて、長年連れ添ったレミリアですら、本物と人形が入れ替わっていたことに気づかなかった。ここは気づけなかったレミリアを責めるべきではなく、入れ替わりを最後までさとらせなかったパチュリーを賞賛するべきであろう。
「ま、久々にレミィの恥じらってテンパってる顔も見れたし、苦労しただけの価値はあったわね」
いや、賞賛すべきはそんなしょうもないことのために、何百年と積み上げてきた高等魔術の髄を惜しげもなく使い、自らを仮死状態にすることすら厭わない本人の精神性かもしれない。
「あー、でも救命救急の練習をさせる理由は微妙だったかもだけど。あと門番がブッ倒れたのは予想外だったわね」
寄り代こそアリス製の人形に頼ったが、体の全機能を停止させながら魔力でタンパク質やその他諸々の劣化を防ぐ技術は、一朝一夕で身につくものではないだろう。恐らくこの魔術を開発するだけでも多大な時間を要しただろう。
また自分の体は一切動かさないままに、本物と些細な所作すら同じように人形を遠隔操作した手腕も侮れない。とはいえアリス程上手いわけではないのだが、操作に使っている魔力を気づかれないように隠蔽する技術もかなり高等なものである。
「今度は別の理由を考えて、今回と似たようなことしましょうかね。ふふふ、レミィが顔を真っ赤にする姿がまた見られると思うと……」
「随分と幸せそうね、パチュリー」
――――――地獄の底から響くような声が、魔女の後ろから聞こえた。
「い、妹様?」
全身の筋肉が強張り、後ろを振り向くことができない。背中の皮膚をチリチリと凶悪な魔力の波動が焦がしている。
すっかり彼女は忘れていた。フランドール・スカーレットが姉の心臓マッサージ式の折檻を受けたあと、赤い布を被せられてずっとここに放置されていたということに。
「許せないわ……お姉さまの唇は私だけのものなのに……」
「あの、少し落ち着……」
ゆっくりと振り向いたとき、パチュリーは死を覚悟した。あ、これはもう駄目だ、と。
幼い吸血鬼の顔は、歪んだ笑顔と浮き出た血管で彩られていた。
「素敵な心臓マッサージをくれてあげるわ。お姉さま直伝のね……ッ!」
必殺「ハートブレイク」
パチュリーの視界は、部屋よりも白い光で満たされていった。
テラスに二人の少女がいた。レミリアと咲夜である。
レミリアは備え付けの日傘の下、白いテーブルの上で、紅茶をたしなんでいた。
「いやー、美鈴も一週間くらいで退院できそうだし、ホントよかったわー」
メイドは静かにレミリアのカップにおかわりの紅茶を注いだ。
湯気と共に放たれる心地よい香りが鼻腔を刺激する。
「ふむ。ところでフランはどこにいるんだ?」
「さあ? 今頃パチュリー様でお人形遊びしてるんじゃないですかね」
「ふーん……え? パチュリーと、じゃなくてパチュリーで、って言った?」
「空耳じゃないですか?」
メイドの口元は、含みのある笑みをたたえていた。
でも結構楽しかったです。
単発作品としては良い方なのに既視感が拭えないのは悲しい
序盤のおぜうの会話や声出し確認のネタとかもそうだが、
>「転ばぬ先の杖を買った瞬間に転んだ、ということかしら」
>「まとめてる場合か!」
ここで「ヘヘッ」て笑ってしまった
あとパチュリーは約100才です
ただフランちゃんはもうちょっと淑女的に攻めましょうやw
とても面白かったです
テンポも良い。
>>これでもレミリアとパチュリーは数百年来の親友である。
パチュリーは100年程度生きているそうなので、数百年は表現的に合わないかな、と。
>>ブラド・ツェペシェ
ヴラド・ツェペシュ
だがそれがいい。