命蓮寺の墓地に守矢神社の風祝が現れたのは、年が明けて数日経った頃の話だった。
『多々良小傘様』とえらく達筆で書かれている封筒を私に渡すと、「来なかったらピチュらせて連れて行きますから」と言い残して去っていった。とても爽やかな笑顔だった。
冬の寒さだけでない何かに手を震わせながら封筒の中身を見ると、それはなんてことない、守矢神社で行われる新年会の招待状だった。素直じゃないな、普通に言えばいいのにと思ったが、どうやらこれが入場証明書になるらしい。
そんなわけで私は今、守矢神社の新年会に居る。年明けの頃には博麗神社で似たような宴会をしていたはずだが、博麗霊夢や霧雨魔理沙、魂魄妖夢といった面々もしっかり参加していた。霊夢は出されてくる料理を黙々と平らげ、魔理沙は人形遣いと、妖夢は彼女の主や永遠亭の鈴仙・優曇華院・イナバとの会話に終始している。
私は彼女らを含め顔見知りとの挨拶を済ませ、今は一人で静かにある人物の到着を待っていた。軽く周りを見渡すと、その人物が八坂神奈子や洩矢諏訪子と挨拶回りをしるのが見えた。こちらに気付くと苦笑いで会釈する。「もう少しで終わるので待っててください」と言ったところだろうか。私も苦笑いを返す。
彼女が挨拶回りに戻ったのを見て、私は空を見上げた。白いぼうっとした大粒の雪がはらりはらりと降ってくる。境内でも所々積もっている箇所があるが、宴会の熱気のせいだろうか、そこまで寒さは感じない。落ちてくる雪を百数えてから歩き出した。
いつの間にか宴会の手伝いに駆り出されていた妖夢から甘酒を二つ受け取り、境内から少し離れたところに陣取った。杯から湯気がゆらりと出て暗闇に融けていった。間もなく、挨拶を終えた風祝――東風谷早苗がこちらへ走ってくる。
「すいません小傘さん。思ったより長引いちゃって」
「全然気にしてないよ。ご苦労様、早苗」
息を切らせた早苗に労いの言葉と共に甘酒を渡す。早苗はそれを受け取ると、「ありがとうございます」と慇懃に礼を言って私の横に腰を下ろした。
「そういうことちゃんと言ってくれるのは小傘さんだけですよ。お礼にいじめていいですか?」
「なんで?」
基本的には礼儀正しく真面目な早苗だが、時々こういうわけのわからないことを言う。しかも冗談なのか区別がつかないので非常にたちが悪い。
「冗談半分なんですから怒らないでくださいよ」
「別に怒ってはないんだけど……半分本気なんだ?」
「そんな細かいことを……いいですか、この幻想郷では常識に囚われてはいけないのです」
「最低限の常識は持っとかないとダメでしょ。ていうか否定しないんだね」
またそんな、と顔を顰めていた早苗だったが、「ああ」と声を上げると立ち上がり私の正面に立つ。つられて私も立ち上がった。
「すっかり忘れていました。あけましておめでとうございます、小傘さん」
「……そういや忘れてたね。あけましておめでとう、早苗」
「今年もよろしくお願いします」
「うん。こちらこそよろしく」
二人向かい合って礼をして――顔を上げた早苗が、宴会の光を後ろから浴びて笑っている姿は神々しかった。私はその姿に見惚れて一瞬声を失った。早苗はそんな私を見て不思議そうな顔をしている。早苗との間に奇妙な沈黙が生まれたが、ぐーと大きな音が鳴って沈黙が割れた。早苗の顔が赤く染まる。
「さ、さあ料理を食べに行きましょう! 実はさっきまで忙しくて、あんまり食べれてないんです!」
声を大きくして誤魔化しながら強引に私の手を引いて駆け出す。私は笑いを噛み殺しながら、早苗に倣って走った。繋いだその手は冷気に晒されているのにとても温かい。
ふと思い立ってさっきまで居た場所を首だけで見た。宴会場の明かりと比べると、あまりにも暗い。再び視線を前に移して、早苗を見る。暗い場所から自分を連れ出して、明るいところへ連れて行ってくれる早苗を。
宴会場に到達する。霊夢が早苗を見て「遅かったわね」とぶっきらぼうに言い、妖夢が甘酒を捌ききったことを告げる。神奈子と諏訪子が酒を早苗に渡し、鈴仙が永遠亭から持ってきたという団子を差し出した。
あっという間に早苗を中心に輪が出来上がっていって、押し出される形となった私はその外で立ち尽くした。遅れてやってきた魔理沙が私をちらりと見てニヤッと笑いながらその輪に入っていく。早苗に何か耳打ちすると、早苗が照れくさそうに慌てて何かを否定しているのが見えた。何を言ったのかは、分からない。
北からの風が私の隣をびうっと吹き抜けていった。寒くなってきたかな、と思う。手が悴んできたのでそっと息を吹きかけた。
その手が急に掴まれた。隅で焚かれている火より温かい掌が私の手を包む。
「小傘さん、神奈子様と諏訪子様からおいしいお酒を頂いたので向こうで飲みましょう!」
早苗がさっきと同じように、私の悴んだ手を引いていった。輪のあった見ると魔理沙だけが笑ってこちらを見ていた。やがて、「ここが穴場なんです」と早苗が足を止める。なるほど、ここは宴会の喧騒から離れて静かだし、空の月や星も綺麗に見える。木や建物が風除けになっていて、寒さもあまり感じない。手の震えはすっかり止まっていた。
「もういいの?」
「はい。色々頂きましたし、あんまり夜遅くに食べてると太っちゃいますからね。小傘さんこそよかったですか?」
「…………私は先に食べてたから大丈夫」
そういうことを訊いたのではなかった。早苗を中心とした輪があった場所を見ると、また別の誰かを囲った輪が出来上がっていた。本当は、あの輪の中心には、今も早苗が居たはずなのに。
――今よぎった感情は何だろうか。
早苗と同じ場所に居られない悲しさ?
早苗が遠くへ行ってしまうという寂しさ?
早苗の居場所を奪ってしまったという罪悪感?
早苗に手を引いてもらわなければ何も出来ないことへの、悔しさ?
分からない。どれも正しくて、どれも違う気がする。
「本当に、いいの?」
自分でも驚くほど、平坦な声だったと思う。それは早苗は杯に酒を入れるのをやめてしまうほどに。言うつもりではなかったのに、言ってしまった。もう止まらない。
「もっと皆と話しなくてよかったの? 私は終わるまで待ってるから、別に話してきてもよかったんだよ?」
「……そうですね。確かに霊夢さんや魔理沙さん達と話すのは楽しいです。ためになりますし、時間が無限にあればいいんですけど」
「なら」
「でも、そうしたら小傘さんと話す時間が減っちゃいますから」
早苗の声はいつもと変わらなかった。明るくて無邪気で破天荒で、それでいて優しさを感じさせる声。きっとこの声に魅せられる人は少なくないだろう。だから、分からない。
「なんで?」
「なんで、とは?」
「なんで早苗は私にこんなによくしてくれるの?」
それは純粋な疑問だった。私にとって一番大切な人は早苗だと断言できる。振り回されることもあるけど、早苗といると楽しくて温かい。でも、早苗にとってはどうなのだろう?
霊夢がいるはずだ。「同じ巫女として霊夢さんだけには負けない」と言っていた。友達だし、尊敬もしているが、信仰を取り合うライバルなのだと。
魔理沙がいるはずだ。霊夢を越える、口には出さないがその目標を共にした同志なのだと。
妖夢がいるはずだ。鈴仙がいるはずだ。紅魔館のメイドが、香霖堂の店主が、妖怪の山の天狗がいるはずだ。
何より、早苗が一番大切にしている神奈子と諏訪子が、いるはずだ。
彼女らを置いてまで、早苗が私に構う理由はなんだろう。
彼女らは早苗からたくさんのものを貰い、そして与えてきたのだろう。
自分はどうなのか。単なる忘れ傘に過ぎない自分は、早苗に何かを与えることができているのだろうか。たくさんのものを貰った。両の手じゃ抱えきれないほどのものを貰った。どんな些細なものでもいい、私は早苗に何かを返せたのだろうか。
傍から見れば、私は泣きそうに見えたかもしれない。目の前の早苗が心配そうな顔をしていたから。でも早苗は一瞬だけ困ったように笑うと、何かを吹っ切ったようにして表情を変えた。双眸が私を真っ直ぐ捉える。
「好きだからですよ。私は……東風谷早苗は多々良小傘を幻想郷で一番愛しています。だからです」
真っ直ぐすぎる。こういうのは普通、もっと恥ずかしそうに言うものなんじゃないだろうか。もう少し常識に囚われて欲しい。早苗があまりにも真っ直ぐすぎたせいで、何も言えなくなってしまった。口を開けると変な声が出そうだ。
「あっ、あんまり信用してませんね?」
「ち、違うよ」
何も言わない私を見て、早苗はそう解釈したらしかった。しかし改めて考えると、納得はできない。でも、早苗の言葉を疑っているわけではない。あの言葉が嘘だったら私はもう誰も信じられなくなるだろう。そう思うぐらいの力が、早苗の瞳にはあったから。
「その、早苗がそう言ってくれるのは、嬉しい。早苗の想いも、たぶんだけど、伝わった。私は早苗のこと信じてるから」
そうだ、早苗は嘘は言っていない。それが分かっているのに、私はそれを素直に受け取れないでいる。
「でも、私にその価値があるのかな? 早苗に好きになってもらえるのは、私で良かったのかな?」
結局、自分が原因なのだった。私が信じられないのは私自身だ。
私は早苗に何か返せている? 何か返せるものがある? その自信は、ない。
早苗の様子を窺うと、怒っているように見えた。失望しただろうか、卑怯な言い回しに。それとも、私が何も返せるものを持ってないと気づいて、呆れただろうか。
ペチ、と音を立てて左頬に早苗の右手が当てられた。
「それは私が決めることです。貴方を勝手に好きになったのは私です。その想いを貴方は拒絶する権利はある。でも、否定は、して欲しくなったです」
「…………ごめん」
「まったく。変なことばっかり考えて。……わちき悲しいですよ」
「ちょっと、私のキャラ取らないで」
早苗の言うとおりだ。自分がやったことは、早苗の想いの否定だ。それは早苗への冒涜であり、あまりにも傲慢な考えだった。
「やっぱり信用されてなかったみたいなので、証拠をお見せしましょう」
「証拠?」
「キセキの力です」
そう言って早苗は目を閉じた。まさか弾幕る気か、と身構えたが早苗が動く気配はない。重い静寂、でも何故か居心地は悪くない。ゆっくりと早苗が語り始めた。
「……空に浮かぶ宝船を追いかけていて、私は小傘さんと出会いました。その時は、始めたばかりの妖怪退治で倒した妖怪の一人、としか思ってなかったんです」
「ひどいね。仕方のないことだけど」
「ええ、仕方なかったんです。妖怪は退治するものだと言われていましたから」
「それは違うと思うけど」
空に現れた船を追いかけていた早苗を驚かせようと出ていった時のことだった。全く驚いてもらえないどころか、ひどく詰られ、弾幕勝負でこっぴどくやられてしまった。
「その後、今度は夜に会いましたよね」
「うん。でもやっぱり驚いてくれなかった」
「当たり前です。小傘さんなんて、たぶん何やっても怖くないですよ」
「それはさすがにひどくない?」
「でも、小傘さんは何度やられても前を向いていて、すごいなあって思ってました」
「元気だけが取り柄だからね」
人間を驚かすなら夜である、と考えて今度は時間を変えて出ていった。しかし早苗はやっぱり驚くことなく、私を一蹴していった。
「あの異変が終わった後、小傘さんが人里にも出てくるようになって。それで仲良くなったんですよね」
「初めて早苗に声かけられたときは何されるのかと思ったけど」
「何かしましょうか、今」
「やめて。あの時食べた善哉、本当に美味しかったよ。ありがとう」
相手が悪かったのだ、と思った私は弱そうな人間を狙った。それでもあまり驚かれることはなかったけれど。そういう人間を探して人里を彷徨っている時に早苗と会ったときは本当にビックリした。生命の危機を感じたが、早苗は退治を離れるとフレンドリーで、優しい人間なのだと知った。ひどいこともたくさんされたが。
「神霊がたくさん湧いたときに命蓮寺に行ったら小傘さんがいて……うっかり倒しちゃいましたね」
「あれはわざとだよね。次の日饅頭持って謝りに来たじゃん」
「うっかりですよ。もしくはノリです」
「ノリって言っちゃったよ」
人間を驚かせるのに向いた場所、ということで自分は墓地に目をつけた。暫くは楽しく過ごさせてもらっていたが、宮古芳香が現れてそうもいかなくなった。そこで通りすがった早苗に退治を依頼したのだが、何を思ったのか「まとめて退治してあげます!」とこちらに矛先を向けてきた。あれは絶対にわざとだと疑っていたが、今それが確信に変わった。……饅頭が美味しかったのでよしとしよう。
「初めて神社に誘った時、椛さんに斬られかけてましたね」
「妖怪でも走馬灯って見るんだね。私初めて知ったよ」
「だから参拝者用の道から来てください、って言ったのに」
「それに関しては本当にごめん」
人里で交流を深め、「今度神社にも遊びに来てください」と言われたときのことだった。早苗からは参拝者用に造られた道を往くように、と強く言われていたが飛んだほうが楽だと思ったので飛んでいった。そこを哨戒任務中の犬走椛に見つかった。
侵入者は排除する、と言われて剣を向けられた。私は逃げるしかできなかったが、長い追いかけっこの末とうとう逃げきれなくなってしまった。ああ、死ぬんだなと覚悟した私と、迫り来る椛の剣、そしてその間に躊躇なく割り込んだ早苗。
お祓い棒で剣を受け止めながら背中越しに向けられた笑顔と、風に靡く新緑。忘れられない光景だ。すっかり安心した私は泣き出してしまった。早苗は恥ずかしそうにしながら、私が泣き止むまで抱きしめていてくれた。
「今だから言うけれど……あの時の早苗、すごくかっこよかったよ」
「『かっこいい』と言われるのは本意ではないですが……まあいいでしょう」
早苗の口はニヤけていたが、それは言わなかった。言うとひどいことになるので。さでずむは自分から受けるものではない。
「神社に戻って一緒にお風呂に入って、一緒にご飯を食べて、一緒に布団に入って、色んなお話をしましたよね」
「うん。友達ができた気がして、楽しかった」
「気のせいじゃないですよ、それは。あと私は襲いたくなったのを我慢するのに必死でした」
「怖っ。もう早苗とはお風呂も布団も一緒に入らないから」
最初は不安もあったが、神奈子も諏訪子も歓迎してくれた。夜布団に入って、こういうのを『お泊り会』と言って外の世界では仲良しの子達でよくやるんだと教えてくれた。「私と小傘さんは友達ですから、またやりましょうね」と言ってくれたのが嬉しかった。
「……昔のことを思い出して泣いていたら、小傘さんが来てくれたこともありました」
「夜中にこっそり驚かしに行こうと思ったら、逆に驚かされた」
「小傘さんが来てくれて、本当によかったです。そうでなかったら今も泣いていたかも」
ふと思い立って、暗い夜に守矢神社に忍び込んだところ、早苗は部屋でアルバムを見て泣いていた。幻想郷に来る前のものだと言い、早苗の両親や外の友達について涙を流しながら教えてくれた。すべての写真を見終えてアルバムを閉じると、「私はこれを乗り越えなくてはなりません」と決意に満ちた目で言った。涙はもうなかった。
早苗との思い出話は尽きることがない。一緒に色んなところへ行った。博麗神社、魔法の森、紅魔館、冥界の屋敷、永遠亭、香霖堂……他にもいっぱいある。
「どうです?」
「何が?」
「ひょっとして何の話だったか忘れてません?」
「……ああ、そういえば」
「もう。別にいいですけど。これが証拠ですよ」
そう言って早苗は思い出話を始める前の言葉をもう一度繰り返した。ただし、少しだけ言い方を変えて。
「――軌跡の、力です」
穏やかに、慈しむように、続ける。
「私と小傘さんは、これだけのものを残してきたのです。いや、これだけではありませんね、もっとあるでしょう。そんないっぱいの思い出の中で、私はほとんどを笑顔でいることができました。あなたの笑顔に元気を貰ったのです」
「笑顔……」
「ええ。だから私は貴方が好きなんです。どんなときも、貴方は私を笑顔にさせてくれますから」
ありすぎるほどある、早苗との思い出。その中で早苗はよく笑っていた。その笑顔を自分が与えていると言ってくれるのなら、私は少しだけ自分を誇ってもいいかもしれなかった。
自分はどうなのだろうか。早苗にはいつも笑っていて欲しいと思う。そして早苗の言うとおり、私が笑わせることができているのなら、それはとても幸せなことだと思う。
なんだ、簡単じゃないか。さっき感じたのは嫉妬だ。早苗の笑顔が自分の関係ないところで咲いていたのが気に入らなかったんだ。
早苗、と名前を呼んだ。なんですか、と早苗が応えた。
「私も早苗が好きだよ。大好きだ。幻想郷の誰よりも」
真っ直ぐに返した。それが自分にできる礼儀なのだと。早苗は少しの間呆然としてから、頬を赤らめて目を逸らした。そういう反応をされるとこっちも恥ずかしくなる。
「だから、これからもよろしく」
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
契りの言葉、のつもりだ。やっと早苗と目があって、二人とも笑った。先程まで場を支配していた妙な緊張感は消え去っている。
「早苗」
「なんですか?」
「お腹いっぱいになっちゃった。今日泊まっていっていい?」
「勿論です。では、案内しますね」
差し伸べられた右手に左手を重ねた。早苗がぐいっと引っ張ると自分の体は呆気無く浮き上がる。そのまま手を繋いで屋内へ向かった。
大丈夫、もう引っ張ってもらわなくても進める。自分の気持ちが分かったから。
不意に、さっきの話ですけど、と早苗がぽつりと呟いた。
「別に返してもらわなくても構わないんですよ」
「えぇっ? それじゃ私が、っ!?」
よくない、と言おうとしたその口を塞がれた。永遠にも思えた時間が過ぎて離れた早苗が自分の唇に手を当てる。
「勝手に持っていっちゃいますから」
「早苗ー!? な、なななな何すんのさ!?」
「すいません。嫌でしたか?」
「い、嫌じゃ……ない、けど……」
もう目は合わせられなくなって俯いた。早苗は鼻歌交じりで歩いていて、私はその隣でずっと雪の絨毯を眺めていた。二人で進んだ跡が残っていく、白い絨毯を。
――新たな軌跡が、刻まれていく。
『多々良小傘様』とえらく達筆で書かれている封筒を私に渡すと、「来なかったらピチュらせて連れて行きますから」と言い残して去っていった。とても爽やかな笑顔だった。
冬の寒さだけでない何かに手を震わせながら封筒の中身を見ると、それはなんてことない、守矢神社で行われる新年会の招待状だった。素直じゃないな、普通に言えばいいのにと思ったが、どうやらこれが入場証明書になるらしい。
そんなわけで私は今、守矢神社の新年会に居る。年明けの頃には博麗神社で似たような宴会をしていたはずだが、博麗霊夢や霧雨魔理沙、魂魄妖夢といった面々もしっかり参加していた。霊夢は出されてくる料理を黙々と平らげ、魔理沙は人形遣いと、妖夢は彼女の主や永遠亭の鈴仙・優曇華院・イナバとの会話に終始している。
私は彼女らを含め顔見知りとの挨拶を済ませ、今は一人で静かにある人物の到着を待っていた。軽く周りを見渡すと、その人物が八坂神奈子や洩矢諏訪子と挨拶回りをしるのが見えた。こちらに気付くと苦笑いで会釈する。「もう少しで終わるので待っててください」と言ったところだろうか。私も苦笑いを返す。
彼女が挨拶回りに戻ったのを見て、私は空を見上げた。白いぼうっとした大粒の雪がはらりはらりと降ってくる。境内でも所々積もっている箇所があるが、宴会の熱気のせいだろうか、そこまで寒さは感じない。落ちてくる雪を百数えてから歩き出した。
いつの間にか宴会の手伝いに駆り出されていた妖夢から甘酒を二つ受け取り、境内から少し離れたところに陣取った。杯から湯気がゆらりと出て暗闇に融けていった。間もなく、挨拶を終えた風祝――東風谷早苗がこちらへ走ってくる。
「すいません小傘さん。思ったより長引いちゃって」
「全然気にしてないよ。ご苦労様、早苗」
息を切らせた早苗に労いの言葉と共に甘酒を渡す。早苗はそれを受け取ると、「ありがとうございます」と慇懃に礼を言って私の横に腰を下ろした。
「そういうことちゃんと言ってくれるのは小傘さんだけですよ。お礼にいじめていいですか?」
「なんで?」
基本的には礼儀正しく真面目な早苗だが、時々こういうわけのわからないことを言う。しかも冗談なのか区別がつかないので非常にたちが悪い。
「冗談半分なんですから怒らないでくださいよ」
「別に怒ってはないんだけど……半分本気なんだ?」
「そんな細かいことを……いいですか、この幻想郷では常識に囚われてはいけないのです」
「最低限の常識は持っとかないとダメでしょ。ていうか否定しないんだね」
またそんな、と顔を顰めていた早苗だったが、「ああ」と声を上げると立ち上がり私の正面に立つ。つられて私も立ち上がった。
「すっかり忘れていました。あけましておめでとうございます、小傘さん」
「……そういや忘れてたね。あけましておめでとう、早苗」
「今年もよろしくお願いします」
「うん。こちらこそよろしく」
二人向かい合って礼をして――顔を上げた早苗が、宴会の光を後ろから浴びて笑っている姿は神々しかった。私はその姿に見惚れて一瞬声を失った。早苗はそんな私を見て不思議そうな顔をしている。早苗との間に奇妙な沈黙が生まれたが、ぐーと大きな音が鳴って沈黙が割れた。早苗の顔が赤く染まる。
「さ、さあ料理を食べに行きましょう! 実はさっきまで忙しくて、あんまり食べれてないんです!」
声を大きくして誤魔化しながら強引に私の手を引いて駆け出す。私は笑いを噛み殺しながら、早苗に倣って走った。繋いだその手は冷気に晒されているのにとても温かい。
ふと思い立ってさっきまで居た場所を首だけで見た。宴会場の明かりと比べると、あまりにも暗い。再び視線を前に移して、早苗を見る。暗い場所から自分を連れ出して、明るいところへ連れて行ってくれる早苗を。
宴会場に到達する。霊夢が早苗を見て「遅かったわね」とぶっきらぼうに言い、妖夢が甘酒を捌ききったことを告げる。神奈子と諏訪子が酒を早苗に渡し、鈴仙が永遠亭から持ってきたという団子を差し出した。
あっという間に早苗を中心に輪が出来上がっていって、押し出される形となった私はその外で立ち尽くした。遅れてやってきた魔理沙が私をちらりと見てニヤッと笑いながらその輪に入っていく。早苗に何か耳打ちすると、早苗が照れくさそうに慌てて何かを否定しているのが見えた。何を言ったのかは、分からない。
北からの風が私の隣をびうっと吹き抜けていった。寒くなってきたかな、と思う。手が悴んできたのでそっと息を吹きかけた。
その手が急に掴まれた。隅で焚かれている火より温かい掌が私の手を包む。
「小傘さん、神奈子様と諏訪子様からおいしいお酒を頂いたので向こうで飲みましょう!」
早苗がさっきと同じように、私の悴んだ手を引いていった。輪のあった見ると魔理沙だけが笑ってこちらを見ていた。やがて、「ここが穴場なんです」と早苗が足を止める。なるほど、ここは宴会の喧騒から離れて静かだし、空の月や星も綺麗に見える。木や建物が風除けになっていて、寒さもあまり感じない。手の震えはすっかり止まっていた。
「もういいの?」
「はい。色々頂きましたし、あんまり夜遅くに食べてると太っちゃいますからね。小傘さんこそよかったですか?」
「…………私は先に食べてたから大丈夫」
そういうことを訊いたのではなかった。早苗を中心とした輪があった場所を見ると、また別の誰かを囲った輪が出来上がっていた。本当は、あの輪の中心には、今も早苗が居たはずなのに。
――今よぎった感情は何だろうか。
早苗と同じ場所に居られない悲しさ?
早苗が遠くへ行ってしまうという寂しさ?
早苗の居場所を奪ってしまったという罪悪感?
早苗に手を引いてもらわなければ何も出来ないことへの、悔しさ?
分からない。どれも正しくて、どれも違う気がする。
「本当に、いいの?」
自分でも驚くほど、平坦な声だったと思う。それは早苗は杯に酒を入れるのをやめてしまうほどに。言うつもりではなかったのに、言ってしまった。もう止まらない。
「もっと皆と話しなくてよかったの? 私は終わるまで待ってるから、別に話してきてもよかったんだよ?」
「……そうですね。確かに霊夢さんや魔理沙さん達と話すのは楽しいです。ためになりますし、時間が無限にあればいいんですけど」
「なら」
「でも、そうしたら小傘さんと話す時間が減っちゃいますから」
早苗の声はいつもと変わらなかった。明るくて無邪気で破天荒で、それでいて優しさを感じさせる声。きっとこの声に魅せられる人は少なくないだろう。だから、分からない。
「なんで?」
「なんで、とは?」
「なんで早苗は私にこんなによくしてくれるの?」
それは純粋な疑問だった。私にとって一番大切な人は早苗だと断言できる。振り回されることもあるけど、早苗といると楽しくて温かい。でも、早苗にとってはどうなのだろう?
霊夢がいるはずだ。「同じ巫女として霊夢さんだけには負けない」と言っていた。友達だし、尊敬もしているが、信仰を取り合うライバルなのだと。
魔理沙がいるはずだ。霊夢を越える、口には出さないがその目標を共にした同志なのだと。
妖夢がいるはずだ。鈴仙がいるはずだ。紅魔館のメイドが、香霖堂の店主が、妖怪の山の天狗がいるはずだ。
何より、早苗が一番大切にしている神奈子と諏訪子が、いるはずだ。
彼女らを置いてまで、早苗が私に構う理由はなんだろう。
彼女らは早苗からたくさんのものを貰い、そして与えてきたのだろう。
自分はどうなのか。単なる忘れ傘に過ぎない自分は、早苗に何かを与えることができているのだろうか。たくさんのものを貰った。両の手じゃ抱えきれないほどのものを貰った。どんな些細なものでもいい、私は早苗に何かを返せたのだろうか。
傍から見れば、私は泣きそうに見えたかもしれない。目の前の早苗が心配そうな顔をしていたから。でも早苗は一瞬だけ困ったように笑うと、何かを吹っ切ったようにして表情を変えた。双眸が私を真っ直ぐ捉える。
「好きだからですよ。私は……東風谷早苗は多々良小傘を幻想郷で一番愛しています。だからです」
真っ直ぐすぎる。こういうのは普通、もっと恥ずかしそうに言うものなんじゃないだろうか。もう少し常識に囚われて欲しい。早苗があまりにも真っ直ぐすぎたせいで、何も言えなくなってしまった。口を開けると変な声が出そうだ。
「あっ、あんまり信用してませんね?」
「ち、違うよ」
何も言わない私を見て、早苗はそう解釈したらしかった。しかし改めて考えると、納得はできない。でも、早苗の言葉を疑っているわけではない。あの言葉が嘘だったら私はもう誰も信じられなくなるだろう。そう思うぐらいの力が、早苗の瞳にはあったから。
「その、早苗がそう言ってくれるのは、嬉しい。早苗の想いも、たぶんだけど、伝わった。私は早苗のこと信じてるから」
そうだ、早苗は嘘は言っていない。それが分かっているのに、私はそれを素直に受け取れないでいる。
「でも、私にその価値があるのかな? 早苗に好きになってもらえるのは、私で良かったのかな?」
結局、自分が原因なのだった。私が信じられないのは私自身だ。
私は早苗に何か返せている? 何か返せるものがある? その自信は、ない。
早苗の様子を窺うと、怒っているように見えた。失望しただろうか、卑怯な言い回しに。それとも、私が何も返せるものを持ってないと気づいて、呆れただろうか。
ペチ、と音を立てて左頬に早苗の右手が当てられた。
「それは私が決めることです。貴方を勝手に好きになったのは私です。その想いを貴方は拒絶する権利はある。でも、否定は、して欲しくなったです」
「…………ごめん」
「まったく。変なことばっかり考えて。……わちき悲しいですよ」
「ちょっと、私のキャラ取らないで」
早苗の言うとおりだ。自分がやったことは、早苗の想いの否定だ。それは早苗への冒涜であり、あまりにも傲慢な考えだった。
「やっぱり信用されてなかったみたいなので、証拠をお見せしましょう」
「証拠?」
「キセキの力です」
そう言って早苗は目を閉じた。まさか弾幕る気か、と身構えたが早苗が動く気配はない。重い静寂、でも何故か居心地は悪くない。ゆっくりと早苗が語り始めた。
「……空に浮かぶ宝船を追いかけていて、私は小傘さんと出会いました。その時は、始めたばかりの妖怪退治で倒した妖怪の一人、としか思ってなかったんです」
「ひどいね。仕方のないことだけど」
「ええ、仕方なかったんです。妖怪は退治するものだと言われていましたから」
「それは違うと思うけど」
空に現れた船を追いかけていた早苗を驚かせようと出ていった時のことだった。全く驚いてもらえないどころか、ひどく詰られ、弾幕勝負でこっぴどくやられてしまった。
「その後、今度は夜に会いましたよね」
「うん。でもやっぱり驚いてくれなかった」
「当たり前です。小傘さんなんて、たぶん何やっても怖くないですよ」
「それはさすがにひどくない?」
「でも、小傘さんは何度やられても前を向いていて、すごいなあって思ってました」
「元気だけが取り柄だからね」
人間を驚かすなら夜である、と考えて今度は時間を変えて出ていった。しかし早苗はやっぱり驚くことなく、私を一蹴していった。
「あの異変が終わった後、小傘さんが人里にも出てくるようになって。それで仲良くなったんですよね」
「初めて早苗に声かけられたときは何されるのかと思ったけど」
「何かしましょうか、今」
「やめて。あの時食べた善哉、本当に美味しかったよ。ありがとう」
相手が悪かったのだ、と思った私は弱そうな人間を狙った。それでもあまり驚かれることはなかったけれど。そういう人間を探して人里を彷徨っている時に早苗と会ったときは本当にビックリした。生命の危機を感じたが、早苗は退治を離れるとフレンドリーで、優しい人間なのだと知った。ひどいこともたくさんされたが。
「神霊がたくさん湧いたときに命蓮寺に行ったら小傘さんがいて……うっかり倒しちゃいましたね」
「あれはわざとだよね。次の日饅頭持って謝りに来たじゃん」
「うっかりですよ。もしくはノリです」
「ノリって言っちゃったよ」
人間を驚かせるのに向いた場所、ということで自分は墓地に目をつけた。暫くは楽しく過ごさせてもらっていたが、宮古芳香が現れてそうもいかなくなった。そこで通りすがった早苗に退治を依頼したのだが、何を思ったのか「まとめて退治してあげます!」とこちらに矛先を向けてきた。あれは絶対にわざとだと疑っていたが、今それが確信に変わった。……饅頭が美味しかったのでよしとしよう。
「初めて神社に誘った時、椛さんに斬られかけてましたね」
「妖怪でも走馬灯って見るんだね。私初めて知ったよ」
「だから参拝者用の道から来てください、って言ったのに」
「それに関しては本当にごめん」
人里で交流を深め、「今度神社にも遊びに来てください」と言われたときのことだった。早苗からは参拝者用に造られた道を往くように、と強く言われていたが飛んだほうが楽だと思ったので飛んでいった。そこを哨戒任務中の犬走椛に見つかった。
侵入者は排除する、と言われて剣を向けられた。私は逃げるしかできなかったが、長い追いかけっこの末とうとう逃げきれなくなってしまった。ああ、死ぬんだなと覚悟した私と、迫り来る椛の剣、そしてその間に躊躇なく割り込んだ早苗。
お祓い棒で剣を受け止めながら背中越しに向けられた笑顔と、風に靡く新緑。忘れられない光景だ。すっかり安心した私は泣き出してしまった。早苗は恥ずかしそうにしながら、私が泣き止むまで抱きしめていてくれた。
「今だから言うけれど……あの時の早苗、すごくかっこよかったよ」
「『かっこいい』と言われるのは本意ではないですが……まあいいでしょう」
早苗の口はニヤけていたが、それは言わなかった。言うとひどいことになるので。さでずむは自分から受けるものではない。
「神社に戻って一緒にお風呂に入って、一緒にご飯を食べて、一緒に布団に入って、色んなお話をしましたよね」
「うん。友達ができた気がして、楽しかった」
「気のせいじゃないですよ、それは。あと私は襲いたくなったのを我慢するのに必死でした」
「怖っ。もう早苗とはお風呂も布団も一緒に入らないから」
最初は不安もあったが、神奈子も諏訪子も歓迎してくれた。夜布団に入って、こういうのを『お泊り会』と言って外の世界では仲良しの子達でよくやるんだと教えてくれた。「私と小傘さんは友達ですから、またやりましょうね」と言ってくれたのが嬉しかった。
「……昔のことを思い出して泣いていたら、小傘さんが来てくれたこともありました」
「夜中にこっそり驚かしに行こうと思ったら、逆に驚かされた」
「小傘さんが来てくれて、本当によかったです。そうでなかったら今も泣いていたかも」
ふと思い立って、暗い夜に守矢神社に忍び込んだところ、早苗は部屋でアルバムを見て泣いていた。幻想郷に来る前のものだと言い、早苗の両親や外の友達について涙を流しながら教えてくれた。すべての写真を見終えてアルバムを閉じると、「私はこれを乗り越えなくてはなりません」と決意に満ちた目で言った。涙はもうなかった。
早苗との思い出話は尽きることがない。一緒に色んなところへ行った。博麗神社、魔法の森、紅魔館、冥界の屋敷、永遠亭、香霖堂……他にもいっぱいある。
「どうです?」
「何が?」
「ひょっとして何の話だったか忘れてません?」
「……ああ、そういえば」
「もう。別にいいですけど。これが証拠ですよ」
そう言って早苗は思い出話を始める前の言葉をもう一度繰り返した。ただし、少しだけ言い方を変えて。
「――軌跡の、力です」
穏やかに、慈しむように、続ける。
「私と小傘さんは、これだけのものを残してきたのです。いや、これだけではありませんね、もっとあるでしょう。そんないっぱいの思い出の中で、私はほとんどを笑顔でいることができました。あなたの笑顔に元気を貰ったのです」
「笑顔……」
「ええ。だから私は貴方が好きなんです。どんなときも、貴方は私を笑顔にさせてくれますから」
ありすぎるほどある、早苗との思い出。その中で早苗はよく笑っていた。その笑顔を自分が与えていると言ってくれるのなら、私は少しだけ自分を誇ってもいいかもしれなかった。
自分はどうなのだろうか。早苗にはいつも笑っていて欲しいと思う。そして早苗の言うとおり、私が笑わせることができているのなら、それはとても幸せなことだと思う。
なんだ、簡単じゃないか。さっき感じたのは嫉妬だ。早苗の笑顔が自分の関係ないところで咲いていたのが気に入らなかったんだ。
早苗、と名前を呼んだ。なんですか、と早苗が応えた。
「私も早苗が好きだよ。大好きだ。幻想郷の誰よりも」
真っ直ぐに返した。それが自分にできる礼儀なのだと。早苗は少しの間呆然としてから、頬を赤らめて目を逸らした。そういう反応をされるとこっちも恥ずかしくなる。
「だから、これからもよろしく」
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
契りの言葉、のつもりだ。やっと早苗と目があって、二人とも笑った。先程まで場を支配していた妙な緊張感は消え去っている。
「早苗」
「なんですか?」
「お腹いっぱいになっちゃった。今日泊まっていっていい?」
「勿論です。では、案内しますね」
差し伸べられた右手に左手を重ねた。早苗がぐいっと引っ張ると自分の体は呆気無く浮き上がる。そのまま手を繋いで屋内へ向かった。
大丈夫、もう引っ張ってもらわなくても進める。自分の気持ちが分かったから。
不意に、さっきの話ですけど、と早苗がぽつりと呟いた。
「別に返してもらわなくても構わないんですよ」
「えぇっ? それじゃ私が、っ!?」
よくない、と言おうとしたその口を塞がれた。永遠にも思えた時間が過ぎて離れた早苗が自分の唇に手を当てる。
「勝手に持っていっちゃいますから」
「早苗ー!? な、なななな何すんのさ!?」
「すいません。嫌でしたか?」
「い、嫌じゃ……ない、けど……」
もう目は合わせられなくなって俯いた。早苗は鼻歌交じりで歩いていて、私はその隣でずっと雪の絨毯を眺めていた。二人で進んだ跡が残っていく、白い絨毯を。
――新たな軌跡が、刻まれていく。
それと、魔理沙ナイス!
まりさの存在感w
私もお腹いっぱいになりました。
ご馳走様です!
若いのう。二人とも若い。それがいい。