ああ、まさかあんなところに死体が整然と並んでいるなんて!
いやぁ感動的だねぇ。地殻の亀裂から差し込んできた光に誘われてみて正解だったよ。
何しろ初めて目にする地上の人間達の集落で、これほどまでの掘り出し物にお目にかかることが出来たんだから。
なんだかここの人間とは気が合いそうだねぇ。どれ、近くまで寄ってじっくり堪能し、あわよくば二、三失敬できれば上等かな。
◆本章【ぶらり徘徊、火車の旅】
猫の姿になって石塀の上に飛び移り、死体が飾られている建物に歩み寄るにつれて、開いた窓からちょいと堅苦しそうな女の声が聞こえてきた。
「このように、普通の人間以外は保持霊力が多く、そしてその扱いを本能的に体得しているものが多い」
ううむ、留守ではなかったか。まぁ諸々忍んで地上に来ている以上、目立つ真似はやめとこうかね。
いくらここの人間達が妖怪じみたあたいを見て騒ぎはしなかったといっても、ああも綺麗に飾られたものを持って行かれたらさすがに眉をひそめるだろう。
25年くらい前のキスメの二の舞はご免だからねぇ。
「例えば妖精。彼等の持つ霊力は人間とそれほど変わらないが、それでも飛翔や幻視、瞬間移動、あるいは特殊な能力など、人間には真似できない幻想を扱うことができる」
「でもせんせー。うちの店にサニーミルクが忍び込んできた時、母ちゃんには見つけられなかったのが俺には見えたよ。
あんな真昼間に、堂々と店の中を歩き回ってたのにさ」
「そう。お前のように誰に教えられずとも、見えるはずのないものを見る能力・幻視のために霊力を使える人間もいる。
まぁそういうのは極めて珍しいがな」
近寄ってみて分かったのだが、どうも中には大勢の子供達も整然と並んで座っているようだ。
こうなるといくら猫の姿で大人しく眺めていたとしても、見つかると騒がれたり近寄られたりするかもしれない。少し様子を見ようかね。
「なんだよ、トク。お前リリーホワイトだけじゃなくサニーミルクも捕まえたことあるのかよ」
「い、いや。そうしようかと思ったけど、父ちゃんの鬼のツラが浮かんできて――」
「こら夢太! トクも、うかつに妖精に手を出すのは危険だ。
たしかに妖精に持てる霊力は普通の人間と変わらないが、彼等は周囲の自然から霊力を無尽蔵に補給することができるのだぞ。
……といっても様々な制約はあるが、まぁこいつらには教えてやれんな」
聞く限りこの建物の中では、初めて人型へ変化してみせた妖獣にさとり様が施す、教育ってやつと同じことがやられているようだ。
センセイとやらはあたいが幻視する限りじゃあ純粋な人間ではなさそうだが、それでもさとり様と同じように、聞き分けのなさそうな連中のために色々と気を配っている。
さっきも最後の部分が届かないように声を落としていたし。あたいの耳にはばっちり聞こえたけど。
「続けるぞ。霊力が引き起こす幻想は物に対しても作用する。頑丈にする、飛ばす、熱を持たせる、形を変える等々だ。
これら霊力を幻想に変換するための技術はあるいは魔法と呼ばれたり、あるいは妖術と呼ばれたりするんだ。
前者はあらゆる幻想を万人が扱えるように研究した成果で、後者は個々人または各々の種族に特有の――」
センセイは熱心に語るが、このあたりからついていけない奴らも出てきたようだ。特に後ろの方なんかは舟を漕ぎ始めている。
おおっと、動くなら今かな。この様子なら後ろの棚に立てかけられている死体コレクションをもっと近くで見れそう。
「先生! じゃあ普通の人間が先生みたいに保持霊力を増やす方法はないんですか?」
「花穂……私が白沢の分霊を頂いたのは決して自ら望んだわけではないのだがな。
まぁいい。私は幸か不幸かほとんど労せず霊力が増えたが、普通は修行などで増やすものだ。
このあたりは仙人が詳しいが、彼等は弟子と認めた者にしか方法を伝えないからな。私も知らない」
抜き足差し足で歩く途中、話題が無視しがたいものに切り替わった。
ほうほう、あのセンセイも何かを取り込んで強くなったのかい。
なんだか火焔猫時代を思い出すねぇ。あの頃のあたいは見境なく怨霊や魑魅魍魎を喰らって生きてたもんだった。
「ただ、魔法の森のキノコの一種に、保持霊力を増加させる作用を持ったものがあるらしい。
しかしその味がな、食べ続けた者いわく『世界のまずさが競い合うように地獄の交響曲を奏でて、頭がどうにかなりそうだったぜ』というものらしい。
もっとも『狂うのに慣れたし、魔砲を連発したり天狗並みの速さで飛び続けることができるようになったがな』と喜んでもいたが」
質問した女の子は一喜一憂悲喜こもごも、目まぐるしく表情を変転させた末、最後には考え込む。
その机の前に寄りながら、センセイはポケットから取り出した瓶を見せる。
「参考までに、こっちの澄んだ色の薬が、そのキノコのエキスを別のキノコエキスや水で薄めたものでな。
こうなると保持霊力を増加させる作用は消えるが、その代わり消耗した霊力を完全に回復させる作用が現れるらしい。
で、だ。こっちが原液」
次に取り出された薬はあたいにとっては綺麗な色や質感として映った。
でもまぁ、あたいが好ましいと思う物が普通の人間にはどう感じられるかというと――
「ひっ!」
「ちょ! なんでそんな気持ち悪いもの持ってきてるんですか?」
果たせるかな、質問した子だけでなく、その隣に座っていた女の子すらも椅子ごと遠ざかる。
この騒ぎを受けて眠っていた連中が目を覚ます傍ら、センセイはさりげなく薬をポケットに仕舞った。
「ああ、久しぶりにお前が授業に来るって聞いたものだからな。
少しでも印象に残るほど面白い授業をやろうと、先生張り切っちゃったよー」
「だからってそんなトラウマ級のものを……もしかして先生、縁起に書いたこと気にしてます?」
「ははは、何を言っているんだ。お前の方が授業を上手くできるだなんて、先生まったくさっぱりこれっぽっちも気にしていないぞ!」
「な、なんて白々しい」
センセイは隣の子の非難にはおどけた調子で返していたが、すぐに表情を改めて質問した女の子に向き直る。
「と、このように人間が妖怪を振り向かせるほどにまで霊力を鍛えるためには、普通という枠を逸脱する行為を行わなければならない。
私とて霊力が増えた後も、それこそ人間の一生分以上の時間を費やした上で、どうにか鬼神級(ルナティック)の技を振るえるようになったんだ。
威を妖怪に示したいという考えを止める気はないが、相応の覚悟のない者には修羅の道であると言っておこう。
件の魔法使いいわく『やめときな! 気がふれるぜ?』だそうだ」
冷たく厳しい声に打たれ、女の子はとうとう目を伏せてしまった。
しかし続く言葉は先程とはうって変わって、いたわる暖かさを伴って響く。
「だが、妖怪を唸らせる方法は何も霊力の扱いが全てというわけではない。これは歴史を紐解いてみても明らかだ。
例えばある詩人は名高い鬼・茨木童子を感動させる詩を作り、しばらく交流を深めたそうだ。
また、極めて眉唾な話だが当時の娯楽創作物に、茨木童子はその人間のために仙人になったとも書かれていた。
このように、ある道に全身全霊を注げば鬼すらも感銘させることができるし、この逸話から妖怪と人間の感性は思ったほどかけ離れてはいないことも分かる」
ふと、あたいは死体コレクションの方に視線を向ける。そしてそれを見つけた時に抱いた感想を思い出す。
「みんなは霧雨道具店を知っているな。私もここの文具などを用意する時にお世話になったことがあるが。
その店主もこう言っている。『昔弟子に取っていた奴に一つ教えられたことがある。人間と妖怪は嗜好品を通――」
「先生。化け猫がいます」
「――なんだって!?」
気付かれた!?
って、あたいってば物思いにすっかり耽っていて、足を止めてしまってるじゃないか。
建物の方に目を戻すと、鈴の髪飾りをつけた女の子があたいを指差し、センセイの注目を促している。
「見慣れぬ顔だな……何者だ?」
警戒心に満ちたセンセイの視線に射抜かれ、あたいはわずかに背筋を凍らせる。
ちょっとまずいかねぇ? 今のあたいは地上の化け猫と見分けがつかないとは思うけど、万一地底の火車とバレちゃあ面倒だ。
とりあえずここは口八丁で切り抜けるかな――そうと決めるや、あたいは塀に腰掛ける形で人型に変じた。
「やー、話の腰を折っちゃったみたいで悪いねぇ。あたいとしちゃ、後ろの棚にある箱をこっそり見てるだけのつもりだったんだけど。
そこのお姉さんの話が上手いもんだったからさ、ついつい身を乗り出して聞き入っちゃった」
「うおっ、猫が人間になったぜよ!」
「なーにビビってんだよ梁、お前だってお湯かぶった熊谷のおっさんが、パンダから人に戻ったの見たことあんだろ」
「そ、そうは言うてもトク、おらはおまんと違うてこーいうの見慣れてないんぜよ」
唐突に変身したあたいを見て、男の子二人が対照的な反応を示した。
そのおっさんてのは「人に戻った」とか言ってたからセンセイと同類かね。いずれにせよ、この集落には獣人が普通に住んでるようだ。
そりゃ人間があたいを見てもあんまり驚かないわけだねぇ。
閑話休題、センセイの方はというと、コミュニケーションができると分かったからか態度をやや軟化させた。
「後ろの棚の箱?
……ああ、あれか。しかし猫がすでに動かなくなったあれらに興味を示すとはな」
「いやいや、分かってないなぁお姉さん。たしかにもう動かないけど、腐らないようにして綺麗に並べられてるのを見たら、猫とて思わず目を奪われちまうよ。
あれをやったのは誰だい? お姉さんかい?」
「いや、ここの子供達だ。フィールドワークと情操教育を兼ねた授業の中でやってもらった」
「へぇ、深いねぇ。死体に触れさせることで豊かな感情を育もうってぇ魂胆かい」
「……そういう面もあることは否定しない。とはいえ、別に乱獲を推奨しているわけではないと言っておこう」
「分かってるって! お姉さんがそんな短絡じゃないってことくらい、さっきの話も合わせりゃあさ」
話していくうちにセンセイの眉間の皺が緩んでいくのを見て、あたいはホッとため息を吐いた。
それから建物の中に入り、棚にある箱の一つを手に取る。
すると突然、後ろの方に座っていた男の子があたいの傍に寄って来た。
「どうよそれ! ぜ~んぶ俺が捕ってきたんだぜ」
「へぇ、たしかに凄い数だねぇ……でも、なんだかところどころ傷ついてるよ。肢とか翅とか触覚とか。
捕まえた時か、標本にした時にやらかしちゃったのかい?」
「う、に、苦手なんだよあーいう細かいのは」
トク、とかいったっけ。妖精ハンター稼業にも勤しむあたり、たしかに落ち着きのない腕白ボウズって感じだね。
「……ふむ、しかしこっちのはいいねぇ。数は少ないけど、丁寧に飾ってるじゃないか。
なんというかこうやって翅を広げられると、押し花みたいだねぇ」
「あ、それ、私です。素敵ですよね、蝶々の翅の模様って。それがはっきり見えるように、あと汚れないように頑張りました」
「いいねぇいいねぇ。あたいも死……親友の毛づくろいとか好きだからさ。こう、何かを綺麗に飾ってやりたい気持ち、よく分かるよ」
「? ああ、猫同士、毛づくろいしあっているの見たことあります。妖怪でもその習慣は残るんですね」
あはははは……エンバーミングや死化粧も趣味ってのは、この場じゃ口が裂けても言えないね。
って、花穂ちゃんだっけか、いつの間にあたいの近くまで来ていたのだろう。
たしかこの子の席は教壇よりの……と思って視線を向けると、センセイが口を開こうとして――
「おいお前達、まだ授業は――」
――ちりんちりーん
その直前で、妙に響く鈴の音に水を差された。
あたいもそちらを見ると最初にあたいに気付いた女の子が、髪についてるのとは別の鈴と懐中時計を手にして笑っていた。
「先生、たった今終業時間になっちゃったみたいです」
「そ、そうなのか?」
「はい! ってことで、一同、起立!
――礼――解散!」
有無を言わさず続けられた女の子の号令が終わるや、ほとんどの子達があたいに自分の昆虫標本を見せに来て、口々に自慢を始めた。
……おやおや、最初はこっそりと観賞するだけのつもりだったのにねぇ。
とはいえ、作った連中と語り合いながらってのも意外と悪くないもんだ。本来話し好きな性質だしね。
ふとセンセイの方を見ると、眉根をよせながら口元を緩めていた。仕方がない、というふうな感じだ。
あたいは心中で授業の邪魔をしたことを詫びながら、子供達の話に耳を傾けたり突っ込んだりすることに勤しんだ。
最後に説明してくれた子を見送った後、あたいはこの場に残っていたセンセイの方に身体を向ける。
「さってと、随分と遅くなっちまったけど改めて挨拶するよ。あたいは化け猫で、火……周りのみんなからはお燐って呼ばれてるんだ。
だからお姉さんもそう呼んでくれると嬉しいねぇ」
「これはご丁寧に。私は上白沢慧音。寺子屋を営んでいる、一応今は人間だ。
と、ちょっと失礼。お茶を持ってきてもいいかな? せっかくだから君にもごちそうしよう」
「あ、いやぁ別にそこまでしてもらわなくても――」
「まぁ遠慮せず。その間に腰を落ち着けて標本を見るのも悪くはないだろう?」
「……じゃあいただこうかな」
意外なほどに親しみをこめて接してきた後、慧音センセイは部屋を出ていく。
一方のあたいは手近な椅子に腰掛けて、棚に置かれた標本すべてを眺め渡していった。
「ふーむ、地底にも似たような形の妖蟲はいるんだけど、やっぱり地上の奴ほど色鮮やかじゃないねぇ。暗いんだから仕方ないのかなぁ」
などと、記憶の中と今見ているものとを比べていると、慧音センセイが団扇を片手に、もう片手には麦茶と漬物を載せたお盆を持ってきた。
それらを机に置いて囲みながら、あたいもご相伴に預かる。
「ほう、こりゃおいしいねぇ。歯触り軽やかで程よく酸っぱく、何より塩が効いているのがありがたいったら。
これ、お姉さんが漬けたのかい?」
「ああ、喜んでもらえたようでなによりだ。
知人に神職や神霊がいるのでね。気軽に萱野姫様に口利きを頼めるんだ。
もっとも、一緒にいたツチノコに野菜を奪われそうになった時は焦ったが」
慧音センセイも二、三切れ頬張りながら麦茶を呷り、一息ついたところで持っていた団扇を振る。
「いやぁ、暑いのに大変そうだねぇ」
「はは、正直なところこの時期くらいは長めの休みにしてもいいとは思っているんだが、子供達の中にはすでに仕事の見習いをしている者も多いからな。
そういう子のためにも、どこかで授業の時間を割いてやらねばならないんだ。それが今の暑い時期にしかなかった、というわけさ」
手厚いことだねぇ。さとり様の場合、一人で仕事ができるようになったら、あとは完全に放任するのにさ。
「それにしてもさっきはすまなかった。子供達も妖怪の姿は見慣れているが、妖怪に自分の作った物が批評されるというのは珍しいことだったからな。
私の話もあってか、みんな実践してみたくなったのだろう」
「いやぁ、こっちこそ授業の最後で邪魔しちゃって悪かったと思ってるよ」
「なに、私の言いかけた言葉以上のものを伝えてくれたんだ。むしろお礼を言いたいくらいだよ」
「そ、そうかい?」
そう言われるとなんだかこそばゆいね。
と、それはさておき、あたいはさっき子供達と話している間に思いついた用件を伝える。
「ちょっと訊いていいかい?
お姉さんがあの子達に虫を捕ってくるように言ったんだよね。だったらあたいにも虫の捕れる場所を教えてほしいんだ」
「お安い御用だな。ちょっと待っててくれ。標本を入れた箱に採集場所や日時を書いてもらっているから、それを確認すれば……」
すると慧音センセイは棚に近寄り、昆虫標本の箱一つを手に取った。
「例えばこのトンボの多いのは、山の麓にほど近い水田地帯。こっちのカブトムシ・クワガタムシ3匹ずつセットは、博麗神社へとつながる東側の林か。
ほう、梁は香霖堂付近の森ときたか。霧雨店の依頼で親が建造したと言っていたが、その縁かな?」
かわるがわる箱を取りかえながら、慧音センセイは場所をすらすらと答えていく。
しかし見知らぬ地上の場所を挙げられても、あたいにはそこの虫達の生息状況がいまいちピンと来ない。
仕方ない。少々ヘンに思われるかもしれないが、正直な要求を伝えるとするか。
「ふぅん。じゃあさ、特に虫の死骸が大量発生しそうなところから、ってのはないかい?」
「死骸でいいのか?
……そうだな、ものぐさな奴は提灯の光に寄ってきた虫を翌朝拾い集めたとか言っていたかな。出来は芳しくなかったが。
あとは……そうだ、今の季節なら蝉だな。特にさっき言った香霖堂近くの、魔法の森によく発生するらしい。
もっとも今年は奇跡の蝉の年ではないから、数は控えめかもしれんが」
「なんだい? その奇跡の蝉ってのは」
「十一年周期で大発生する特殊な蝉のことだ。これが現れる年は必ず豊作になるから、奇跡の蝉と呼ばれているんだ。
……残念ながら今年は違うがな。なにしろこの一月の間に天候異常が起きたせいで、秋の収穫が危ぶまれている。
おかげでみんな保存食作りに奔走しているんだ。実は先程の漬物もその表れなんだよ」
ほう、もしもその年だったらあたいにとっても大収穫だったってわけか。惜しいねぇ。
しかしまぁ普通の蝉だったら、この時期でも少しは地面にひっくり返っていそうな気がするね。
「ありがとねお姉さん。じゃあまずは魔法の森に行ってみるよ」
「そうか。ならば水田地帯を目指すといい。その道に沿っていけばいずれたどり着くだろう。
それとこれを持って行くといい。件の授業の時に香霖堂と霧雨店に手配してもらった、昆虫ゼリーという外来の品だ。
子供達が余らせていたものだが、未開封なので虫をおびき寄せる効果はまだ残っていると思う」
「うーん、まぁ使うかどうかは分からないけど、ありがたく頂戴するよ。それじゃ、色々と世話になったね。さよならお姉さん」
「ああ、さようなら」
慧音センセイの挨拶を背に、あたいは建物の出口へ向かった。
まぁ今後再び訪れる可能性はすごく低いだろうけど、もしもここに来れた時には、今日のお返しにあたいの昆虫標本を披露したいねぇ。
センセイの指示通りに進んだところ、それほど時間もかからずに森の中に入ることができた。
しかし神社付近に出来た亀裂から出てきて、色々と地上を歩き回ってみたけど、本当に怨霊はどこにもいないんだねぇ。
こりゃ、うちの管理がしっかり行き届いている証拠なのかな。だとしたら怨霊を送りこんだ時にゃ蜂の巣をつついたような騒ぎになるのかしらん。
しかし騒ぎといえば、本当にここは蝉の鳴き声がうるさいったら。森に入ってからというもの、全然途切れることがないよ。
「あー……ホント、くたばりそうにないわお前さん達は」
同じ木にまとまっていた二匹の蝉を見上げながら毒づくと、そいつらは警戒したのか鳴くのを止める。
別にとって食やしないよ、と呟いてやるも、結局あたいが遠く離れるまで声を殺し続けていた。
それからしばらく、わざと足音を立てながら大股で歩く。
「……ふむ、いかんねぇ怠けるのは。死体があるのは草葉の陰と相場が決まっているもんだ」
その過程で、地面が苔やら草やらに覆われていることに改めて気付いたあたいは、特に生い茂っているあたりを注意深く調べることにした。
ひとまず傘を差すように広がっている幅広の草葉をかき分ける。
「――あった!」
その下に、仰向けになって固まっている蝉の姿があった。
こいつはどこにも傷がなさそうだし、綺麗な標本になってくれそうだ。
一応、拾い上げる前にあたいは目に霊力を込めて、一寸の身体に五分の魂が残っていないか確認した。
幻視の結果、本当に亡骸であると分かったため、あたいは嬉々としてそいつに手を伸ばす――
「ちょい、待った!」
その途中、いきなり頭上から声をかけられた。その剣呑な響きに気押され、あたいは反射的に後ろに飛び下がる。
少し遅れて、あたいと蝉の間に入るようにして一人の妖怪が降りてくる。
そいつはさとり様と同じくらいの背格好の、一対の触角が特徴的な奴だった。
「お嬢さんは……虫の妖怪だね? でも蝉ってわけじゃあなさそうだ。
だってぇのに、どうして止めるんだい? ひょっとしてお嬢さんもこいつを狙っていたのかい?」
「いや、そういうわけじゃないけど。
そっちこそ、猫のくせに完全に動かなくなった虫に用なんてないでしょ?」
どうも地上の奴らはみんな、猫は動くものにしか興味がないと思っているらしい。間違っちゃいないけどさ。
しかし地上の妖怪とのいざこざはできれば避けたいところだ。なんとか穏便に済ませないと。
「あー、まぁ、そう、友達が虫好きなんだよ。烏の妖怪だからね。そいつのために持って帰ってやりたいんだ」
「それならもっとマシな物をあげなよ。こんな打ち捨てられたやつじゃなくてさ。
人間の里や中有の道の屋台に行けば、料理された虫とか置いているはずだから」
「あらららら? そういうのはいいのかい?」
「……ま、まぁ不当に乱獲されたとか、巣ごと根絶やしにされたわけじゃないからね。
それに数が多くなりすぎるのも食糧事情の面から好ましくないし。適度に外敵に狩られるのも必要なのよ。
増えすぎて共食いってのよりも、仲間をかばって名誉の戦死の方が精神衛生上はマシ……だと思うし」
ふぅん、多少揺らぎはあるものの結構割り切った考え方をしている。ただの虫の妖怪ではなく、虫の統率者って感じかね。
それこそあたいが怨霊の管理をしている時と同じような、数の増減にしか興味がないような口ぶりだ。
それにしても――
「じゃあどうして死骸を拾っていくのは止めるんだい?」
「今はその食糧事情が切羽詰まっているの。ほら、この一月ほど各地で不安定な天気ばかりが続いたでしょ?
おかげで草花を食べる虫達が大変になっている。そしてそれはいずれ、そいつらを食らう虫達にも弊害をもたらすかもしれないんだ。
だから、虫達の餌となるものはできるだけ確保してやりたいの。
いずれこの森に躯をさらす蝉達は、大地に蠢くスカベンジャー達にとって何よりのご馳走になるだろうからね」
……なるほど。あたいには知る由もないが、この文月に起きた天候不順とやらは随分色々と不都合を残していってくれたようだ。
しかし何かい? あたいが虫を狩るのは許してくれるってことかねぇ。
……いやでも、生き物の死体を狩り捕るのは主義に反するんだが。
「むむ、どうしてもダメかい?」
「ダメだね」
まったく取り付く島もない。
さて困ったねぇ、やはり力ずくでってことになっちゃうかなぁ。
しかしこちらから強要するのも考えものだ。遺恨を残したまま探し物だなんて、できればご免こうむりたいところなんだけど。
「まぁよく分かんないけど、どーしても譲れない事情があるってんなら、一勝負やる?」
と、あたいが腕組みして悩んでいたところに、虫の妖怪が一枚のカードを突きつけてくる。
それは裏面だったようで、一面に緑の模様が描かれているだけだった。
「なんだいこりゃ?」
「え!? も、もしかして知らないの?
『人間も妖怪も月の民もオケラも皆、平等に楽しめるこの世でもっとも無駄なゲーム、スペルカード戦』を」
「スペル……カード? その、妙にたくさん霊力が含まれてる紙っぺらのことかい?」
「そうよ。この一枚分もしくは一デッキ分に込められた幻想を使って決闘するの。それから――」
虫の妖怪がしてくれた説明を大まかに要約すると、華麗に攻撃を回避しつつ、芸術的なまでに作り込まれた戦術で相手を追い詰める、という決闘ごっこのようだ。
それとスペルカードは絶対に必要というわけではないらしい。あれば確実に有利だというだけで。
「そして勝者は敗者に対して一つだけ要求することができるんだ。
だからあんたが勝負に勝った場合にはこの蝉の死骸を譲るよ。で、私が勝った場合は……そうだね、何か虫の餌になりそうなものを持ってきてもらおうかな」
「虫の餌かい。じゃあこれでどうだい?」
あたいは慧音センセイにもらった昆虫ゼリーを見せる。するとあからさまに相手の目の色が変わった。
「ふぅん、それは是が非でも手に入れたいね。それこそこっちが決闘を申し込みたいくらい」
そのやる気を見た目に現すかのように、虫の妖怪から揺らぎ輝く金色のオーラが湧き上がる。
ついでに地面に落ちていた蝉の死骸も同じ光に包まれた。
「勝利条件は有効打を一発でいいから当てて、この霊力光を消すこと。それ以降はいくら体力や霊力が残っていても勝負を続けちゃいけない」
おっと、どうやら気分的なものではなく意味のある目印だったようだ。
それにしても一発で蹴りがつくというのは、無駄に痛くないし平和的でいいことだ。
しかも向こうから穏便に済ませるやり方を提示してくれたのは願ったり叶ったり、このチャンスを逃す手はない。
そう決意するやあたいは見よう見まねで霊力光とやらを発生させ、身体を赤色の光で包んだ。
「受けてくれるみたいだね。じゃあ早速始めようか。
って、そういや紹介が遅れたね。私はリグル・ナイトバグ、蛍の妖蟲よ」
「あたいは化け猫のお燐さ! お手柔らかに頼むよ」
開幕直後、リグルは先程から持っていたカードを地面に埋め込む。
「さて、ちょっと新作を試させてもらうよ。
轟符『セブンイレブン蝉しぐれ』」
そして符号とカード名を宣言すると、手前の土が舞い上げられ、リグル一人分を飲み込むほどの大きな穴が開いた。
次に中から現れたのはリグルと同じ金色の霊力光を纏った、おびただしい数の蝉の幼虫。
「七年蝉、羽化せよ!」
幼虫達はそれから霊力光を翅に変え、一斉に飛び立っていく。同時にけたたましい鳴き声を森中に轟かせた。
「っ!」
あたいは迫る轟音に顔をしかめながら後ろへ飛び退く。その空間を瞬時に蝉が埋め尽くした。
さらに周囲から成虫も光を纏った状態で加わり、鳴き声は空気も大地も揺るがさんほどに大きくなっていった。
「なんちゅう数だい、さっさと削らないと」
あたいは決意するや体内の霊力を練り上げ、リグルがいた辺りに向けて火球を連射した。
それは蝉達を舐めつくして飛び、地面や木に着弾してから炸裂する。
火と爆風に撃たれた蝉達は霊力光の恩恵で傷つくことはなかったが、仰向けになって痙攣するばかりで再び飛び立つ気配はない。
「ふぅむ、樹葉花ばかりが香っているせいか火付きが良くないねぇ。
ただでさえ蒸し蒸ししてるってのに……黄色い地面が恋しいよ。
でもまぁ、もう二、三回同じことやりゃ――!?」
リグルがいない? どこ行った? 光と音に紛れて身を隠したか?
と、この一瞬の隙をついて、蝉達があたいを取り囲むように襲いかかる。
「ちぇっ!」
迎撃態勢を整えるために退く。右側の群れが分厚そうなので左側へ。
「生き物を強化し弾幕となす利点ってのはこれかねぇ。いちいち霊力を練る必要がないってさぁ!」
ただ飛び退く前に、あたいは地面に火球を叩きつけていった。
そこから一瞬燃え上がった火柱の中へ、勢いのついた夏の虫達が飛び込んでいく。
これを見て恐れをなしたのか、蝉達はあたいから少し距離を取る。ただ、隙あらば取り囲もうとしているようにも見える。
念のためもう少し後退しようとして――ふと、あたいは自分の身体に異常を感じた。
「ふらついてる?
……いや、あたいじゃない。揺れているのは――地面!」
気付いた瞬間、足元から土くれが舞い上がってきた。反射的にまぶたが大きく下がる。
その、悪くなった視野に次の瞬間入ってきたものは――蹴足を突き出したリグル。
「地中だって!?」
叫ぶ間にも足の裏が視野全てを覆い尽くす――
「外した!?」
背後からのリグルの驚嘆を聞いて、あたいは一か八かの賭けに勝ったことを実感した。
だが気を抜かずにすぐに振り返り、地面に着地していたリグルの顔を見上げる。
「……便利だね。一瞬で猫の姿に変われるんだ」
苦り切ったリグルの呟きに、あたいはにゃあんと鳴いて応じる。
それにしてもさっきは危なかった。やはりケンカから長らく離れていると勘はどうしても鈍ってしまうものなんだねぇ。
しかし今は反撃のチャンスかな。どうも蝉どもは幼虫成虫どちらも光を失って、地中や木の裏に逃げ隠れしているみたいだし。
この隙にあたいは人型に戻り、リグルに向けて火球を乱れ撃つ。
それに対してリグルはあたいと向き合う形で後退しつつ、火球を一つ一つ回避していく。
「な、なんだいありゃ? まるでぬえの操るUFOみたいだね」
驚いたことに、リグルは空中で重力や慣性に囚われない急停止や方向転換を行い、木々の間を縫ったり火球の接近をやり過ごしたりしていた。
おそらく飛翔を小出しに連発することによって、運動ベクトルを微調整しているのだろう。
そして後ろを見ずとも木に当たらないのは、見えるはずのないものを見る能力――幻視の応用だろうか。
「やーるねー、それもこの決闘に必要な技術なのかい?」
「そうだよっ、これぞ飛法・二色蓮花蝶――なんてね」
言う通り、空を飛ぶ不思議な蝶々みたいに退く最中、リグルは木の陰に隠れて指を打ち鳴らす。
するとあたいの背後から蝉の羽音と鳴き声が再び響き渡ってきた。
リグルの真似をして幻視をやってみると、目視している視野の片隅に背後の光景を映した幻視野が現れる。
そしてそこには先程リグルが飛び出してきた穴から幼虫の集団が現れ、光り輝く翅を生やそうとしている様子が映っていた。
「十一年蝉の羽化」
「また来るのかい!?」
あたいは後背を突かれないように、同時にリグルを追いかけるために前進する。
すると周囲からも成虫が舞い戻り、遮るように間に入ってきた。
「また見失わせるんだね。そうやっていつの間にか地中に潜る、と」
何となく読めてきた。ならば地面とのつながりを断たないとね。
そうと決めるやあたいは攻撃をやめて霊力を手に集中させ、火でできた車輪をいくつか作りだす。
この作業の間、周囲から迫ってきた蝉達は慌ててあたいから離れていった。
「火焔の車輪、とでも名付けようかい」
輪の径が充分に大きくなったところで、あたいはそれらを蛇行するように転がした。
車輪は炎の轍を残しながら駆け抜け、前方の蝉達を蹂躙する。そしてリグルの居場所を暴き出した。
「ひぇっ!」
その時点で膝までしか潜っていなかったリグルは、間に合わないと見るや窪みから飛び立った。
そして宙で車輪をやり過ごしてから方向を転じるが、残された炎を前に躊躇する。
この隙を狙って、あたいは火焔の車輪を手にして振りかぶる。
「間欠泉!」
「なぬっ!?」
だが投げ放つよりも早く、リグルの指令で火の海の一か所が下から大きく爆ぜ、周囲に湿った森の土を振りかけ鎮火していく。
そしてその爆心地に空いた穴に、漆黒のマントをたなびかせながら飛び込んでいった。
「あんの幼虫どもは化けモンかぃ……あー、霊力を付加された化けモンだったねぇ」
あたいが茫然としている間にも大地の炸裂が立て続けに起き、せっかくの炎の轍は完全に埋め立てられてしまった。
そして赤い輝きに取って代わるように、再び森中が金色の光と蝉の声で満たされていく。
こりゃ、あたい一人じゃキリがない……でも怨霊を召喚するわけにもいかない。
などと次の手を迷っているうちに、蝉達が再びあたいを追い立ててくる。
「……こううるさくっちゃ、地面に耳を当てでもしなきゃ敵の位置が分からないね。
幻視も透視や千里眼と違って、物の裏側や遠くまでは見えないし」
あるいは地面から大きく離れようかとも思ったけど、木の枝葉が邪魔なうえに蝉達もなんとなく頭上を覆うように飛んでいる。
撃ち落とすにしても攻撃の隙を地中のリグルに狙われてはたまらない。
どこかに突破口はないかと周りを見ていると、蝉の少ない木々の間に岩肌を見つけた。
「森を抜けれる?」
すぐにあたいはそこに向かって走り出す。枝の下をくぐり、倒木の上を飛び越える――途中、この逃走も隙になるのではという懸念を抱く。
その危機感の命ずるままに飛翔を行い、姿勢が乱れるのも構わず空中で進行方向を急転換する。
直後、あたいが着地するはずだった地点からリグルが飛び上がってきた。
「また外した!?」
「好事魔多しってっとと!」
返事するのも束の間、大木にぶつかりそうになったあたいは慌てて緊急飛翔による慣性を殺す。
さらに姿勢制御して両足を幹に向けて運び、枝葉と蝉に守られたリグルから離れるために大木を蹴り、一気に森の外へ飛び出していった。
着地したのは苔すら生していない蜂の巣模様の固い石畳――玄武岩だねこれは。
それからあたいは森をにらみつけながら背後を確認するため、焦点を目視野から幻視野に合わせる。
「石畳は広くなく、すぐに川。幅は狭く、向こう岸は柱状節理の断崖絶壁……ま、絶えず湿気を蒸散する緑に乏しいだけ上出来――」
「あ~あ、玄武の沢に逃げ込まれちゃったか」
その途中、茂みの奥からリグルが歩いてきて、石畳に移る前に立ち止まった。
なにやら苛立っているようで、足元の柔らかい土をつま先で小突いている。
「さすがの化けモン幼虫も、ここの石畳を掘り進めるのは骨なのかい?」
「かもね。それよりも飲み込みが早いねぇ。もう飛翔や幻視を使いこなしてるんだ」
明言は避けた、か。まぁいいや。
「おかげさんで。一度の実戦は百の訓練に勝るってね」
「羨ましいな。私なんて記憶力がないから、巫女の動きを何度も確認しなきゃいけなかったのに」
「巫女?」
「ああ、スペルカード戦に最も深く関わっている、妖怪退治専門の人間のことよ。
同業者の魔法使いと一緒に飛法や目視野・幻視野の扱い方を洗練させていった、開祖みたいなもんかな」
「へぇ、あれは人間の考えたものだったんだ。いやはや、妖怪のあたいから見ても凄いもんだと思ったね。
あの身のこなしはたしかに美しい戦い方って考えてもいいかな」
「いやぁ、実物を見た経験から言わせてもらうと、美しいを通り越して不思議というか不気味というかって感じなのよ。
しかもあいつ、たまに瞬間移動とかしたりするし。重力や慣性だけじゃなく空間にまで囚われていないみたい。
おまけに霊力の――」
ん? なんだかやけにお喋りだね。それにいくら森から出たとはいえ、蝉の鳴き声が全く聞こえないのもおかしいし。
そういやさっきも十一年蝉が出てくるまで、あたいの攻撃を避け続けていたような……はは~ん、なるほど。
次の七年蝉の準備が整うまでの時間稼ぎだねこりゃ。
事情に気付いたあたいは視線も上の空で喋り続けるリグルを黙らすため、拍手を大きく打ち鳴らす。
「くー、うまい! うまいねぇお嬢さん。ごっこ遊びとはいえ、緊張感あふれる修羅場を絶やさないことの大切さがよく分かったよ。
こうやって、隙を消しつつ相手の出足をくじく策をごく自然にやってのけるんだからさ」
「……バレたか。大昔には恙虫による奇襲を何度も成功させてたんだけどね。
でももう充分だよ、すでに十四年目を迎えたから!」
リグルが自信満々に声を張り上げた直後、森の葉全てが動き出したかと見間違えるくらいの、蝉の大空襲が始まった。
虫嵐はまずリグルを優しく覆い隠し、次にけたたましく鳴き喚きながらあたいに猛然と襲いかかってくる。
「あたいの方もおかげさんで、小細工を踏み潰せるくらいの霊力を集中させることができた、よ!」
一方のあたいも自信満々に啖呵を切り、溜めていた霊力で大量に炎の車輪を作り出し、蝉の群れと衝突させた。
燃え盛る轍を残しながら、灼熱の輪禍はその行く手にあるもの全てを弾き飛ばしていく。
この熱気に恐れをなしてか、後方の蝉の群れが悲鳴を上げつつ空へ逃れていった。
車輪はそのまま薄くなった蝉の防壁を押し退け、ついに森に到達する。
その直前、あたいは黒いマントが地面に吸い込まれていったのを確認し、その直後に車輪が駆け抜けていくのを見とどけた。
「潜られたかな? でもまぁ、この焼け石を突き破ってこれるかねぇ」
玄武岩の石畳はいまや炎の轍が幾筋も描かれ、場所によっては赤熱しているところもある。
火車であるあたいにとっては床暖房に等しいけど、はたしてリグルが……いや、幼虫達がどこまで耐えれるやら。
と、突然火の手の薄かった森の土が大きく爆ぜ、その下からマントに包まれた塊が飛び出してきた。
それは炎の轍を飛び越えながらあたいに向けて直進し、そして両脇から蝉を飛ばしてくる。
「見上げた根性だねぇ。でも残念ながら、ことわざの通りさ!」
穴の中からマントに包んだ蝉を投げてきたのか、あるいは自身がマントに包まって飛んできたのか、いずれであれ穴もろとも斬り潰す。
その気概を車輪に込めて転がし、結果それは念じたとおりにマントを蝉を穴を蹂躙した。
後にはただ、赤く燃え盛る炎の轍と風を焙る音が残るのみ――
「――じゃない!? 蝉がまだ……」
おかしい。リグルが被弾したなら弾幕である蝉達は力を失うはず。
なのにまだ上空にはけたたましく鳴く蝉の大群が残っている。もしかしてあの中にいるのか――
「違う!?」
突如、注視していた空ではなく背後を映していた幻視野に、踊る水飛沫とともに川から飛び出してきたリグルが現れる。
そして首を振り向ける間もなく、あたいは蹴りの間合いまで詰め寄られてしまった。
――してやられた。マントは囮かい。
思考の傍ら、肉迫してきたリグルは宙で回し蹴りを放つ。
――いやはや、妖怪を唸らせるのは霊力(Power)の扱いだけじゃないねぇ。
悪あがきとは思いつつもあたいは猫の姿に変身し、蹴足を頭上に通過させた。
しかしリグルの足はそこで止まらず、振り抜く途中で上に跳ねる。
そして限界まで足が反らされた直後、そのかかとがあたいに鋭く叩きつけられた。
――お見事!
脳天にかかとが思いっきり直撃したものの、あたいは気を失うことはなかった。
しかし身体を覆っていた赤色の霊力光はなくなっていたし、炎の轍も完全に消え去っている。あたいの負けだね。
そう自覚しながら人型に戻ったあたいをよそに、リグルはマントを拾っていた。
「素敵忍法・空蝉の術。上手くいってよかったよ」
「いやぁ、まんまとひっかかっちゃったよ。後学のために訊いておきたいんだけど、どうやって後ろの川に潜んでいたんだい?」
「ええと、森を出たおかげで空が開けたでしょ。だから炎の車輪と蝉が衝突するどさくさに紛れて上を飛び越えたんだ。
後は川の中を移動して、水中から幻視野で決定的な隙を窺っていたの」
「あ~、空かぁ。いやはや、炎を埋められた時も思ったけど対処が早いよねぇ」
「ふふん、一の実戦のために百の遊びを重ねるのも無駄じゃないでしょ?」
「あはははは、いやぁ参った。こりゃ一本とられたね。
……なるほど。日常感覚で楽しく戦い、有事の際の心構えを養うってわけかい」
降参の意を示すとともに、あたいは持っていた全ての昆虫ゼリーを差し出す。
しかしやっぱり悔しいねぇ。せっかく見つけた綺麗な死骸を拾えないばかりか、少なくともこの年は地上に出てきても採取しづらいのか。
などと未練たらたらの目でリグルを見ていると、その足元に何かを運んできた蝉の幼虫達が寄っている。
リグルもそれに気付き、何やら触角を揺らしながら幼虫と向き合う。
しばらくそうした後、蝉が持ってきた物を拾い上げてあたいに差し出した。
「はい、さっきの間に見つけてきたんだって。蜂入りの琥珀だよ。
化石化した樹脂なんてどうやっても食べられないし、土の中にあっても邪魔だからあげるって。
友達は烏の妖怪だって言ったよね。だったらこっちの方がずっと喜ぶんじゃない? 食べ物じゃないけど」
「へぇ、こりゃ素晴らしいっ……あいつもびっくりするかもね!
本とかでは見たことがあったんだけど、実物を手にするのは初めてだし。わざわざありがとさん」
そもそもこの決闘のきっかけとなった仮初の事情についてどうにか繕いながら、あたいは蝉達に礼を言う。
すると彼等はつぶらな両目でこちらを見上げた後、踵を返して森の中へ歩いていった。
「さてと、そろそろ私も行くかな。
あとスペルカードのことを知らないって言った時、正直虫の餌集めをしてくれるいいカモが来たと思ったんだけど、それは謝るよ。
あんたは強かったし飲み込みも早かった。スペルカードを持って再戦を挑まれたくないってくらいにね」
「そいつは言ってくれるねぇ。でも仕方がないか。最近は一対一のケンカなんてご無沙汰だったし。
まぁ安心しなよ。しばらくは友達とかと一緒にスペルカード作りに励むつもりだからさ。
何しろ虫に関わるいざこざを起こす時にゃ、どうにかお嬢さんを下さないといけないわけだしね」
「……そう。できれば豊作の年以降まで完成しないことを祈ってるよ」
真剣な面持ちでリグルは言い残すと、マントを一打ちして空へ昇っていった。
さてと、あたいももう地底に帰るかな。
地上で虫の死骸を集めるのが困難だと分かった以上、土を掘って虫入り琥珀でも探した方がいいみたいだしね。
まだ後ろ髪を引かれるものの、ここはあたいを打ち負かした蝉にならって、次の羽化まで精々励むとするかな。
神社付近の亀裂を猫の姿になって潜り、地下水の流れている音を小耳に挟んでから、あたいは再び旧都に舞い戻ってきた。
戻って早々、人型に戻ったあたいの前を一体の怨霊が通り過ぎていく。
怨霊――やはりあたいにとってはこいつらを使うのが一番性にあっている。
だが地上にそのまま召喚するのは少しはばかられるような気もする。
何かこう、それとは分からない形で運用できないものか……例えば、虫に霊力を付加するように、怨霊を何か別の物に憑――
「あらお燐じゃない」
そんなふうに考え事をしながら歩いていると、横から誰かに呼び止められた。
「え? お姉さんは……ってムラサかい? どーしたのさその格好は」
久しぶりに出会った知人の舟幽霊は、最後にあたいが見た時とは服装から髪型まで何もかもが違っていた。
「ああこれ? なんでも泰西の船乗りの格好だって、店の人は言っていたわ。
長襦袢と違って動きやすそうでしょ。それに合わせて髪も短くしたの。似合うかしら?」
「へぇ、そうなのかい。
うん……まぁ、あたいはこっちの方がいいと思うねぇ。
なんというかこう、前の格好だとじっとりって感じだったのが、しっとりしたと言うか……うまく言えないけど」
「ふふ、ありがとう」
あたいの評価を聞いて、ムラサは目を細めて微笑み返す。
それから、セーラー服というらしい、自分の着衣の端をつまみあげる。
「旧地獄は舶来の品が手に入りやすいのね。是非曲直庁との物資交換の結果だって、さとりさんから聞いたことがあったけど。
そういえば地霊殿も泰西の色が濃いわね」
「ああ、さとり様がちょいとファンシーだからね。舶来もんが趣味なんだよ。
なんでも五百年前の妖怪拡張計画と同時に起きた『Wonderland dejapanization(幻想郷の脱国風化)』以降、興味を持つようになったんだってさ。
どうも当時は異端で少数派だったそれらに親しみを抱いたらしい……ま、嫌われ者の哲学ってやつかねぇ」
「そうなの。言われてみれば、たしかにあの頃から地獄に堕とされてくる亡者達の中に、明らかに日本風ではない連中が混じるようになった気がするわね。
と言っても旧地獄が切り離されてからは、亡者がここに来ることもなくなったけど」
「へぇ~。にしても、どうして急にそんな格好を?
……ひょっとしてつい最近完了した、ダウジング想起とやらが関係しているのかい?」
「ええそうよ。あの魔法を再現してもらったおかげで、聖輦船や飛倉のかけらが埋まっている場所が分かったの。
仲間の能力もうろ覚えだった私達に、それでも根気強く付き合ってくれたさとりさんには本当に感謝しているわ。
あとは旧都の鬼達に発掘許可をもらって、船の下にあるらしい地下水脈を避けながら掘り出さないとね」
そういえばムラサ達はこの地底で探し物をしていたんだっけ。
しかし鬼に許可を取るとなると、十中八九荒事になるのは避けられないだろうね。
……ああ、ひょっとして発掘作業とケンカのために動きやすい服に変えたのかな。
「そうだわ。お燐、さとりさんへのお礼に、聖が昔使っていたグリモワールをいくつか寄贈したの。
貴女も昔読んでた交霊術(ネクロマンシー)関係の本も含まれているわ」
「本当かい!? そりゃありがたいねぇ。ちょうどもう一回、今度は隅々まで読みたいと思っていたところなんだよ。
……でも、いいのかい? その本って大事な人の物だったんだろ?」
「ええ、もういいの。だって、私達はこれから聖を取り戻しに行くんだから。
いつまでも過去の形見にすがっている場合じゃないわよね」
驚いた。あの本は恩人との大事な絆だって言って、なかなか見せてくれなかったのにねぇ。
こりゃ熟読するつもりとはいえ、粗末に扱うわけにはいかないね。
「そうかい、まぁ頑張りなよ。勇儀姐さん達だって鬼とはいえ血も涙もない方々じゃあないからね。
そこまで厳しい条件は出さないはずさ」
「分かっているわ。同時に地上に立ち寄る約束も取り付けるけど、なるべく早くあいつの首根っこを掴んで戻ってくるつもり。
聖輦船と飛倉のかけら、そしてあいつと宝塔を全部揃えたら、出発する前に地霊殿にも挨拶に行くわ」
何かを決意したかのようにきっぱりと言うと、ムラサは踵を返した。
「じゃあねお燐。おくうやこいしちゃんにもよろしく」
「ああ、伝えとくよ。そっちも一輪雲山ともども、うまくやりなよ!」
その背を見送ってからあたいも再び歩き出す。吉報を教えてもらったためか、帰り道の足取りが自然と軽くなっていた。
昔に当のグリモワールを読ませてもらった時は、まだ不慣れなためか亡者との会話法や短時間だけの召喚術を覚えるだけで精一杯だった。
でもこれからは毎日のように勉強できるとなると、怨霊の使役方法にますます幅が出来るかもしれないねぇ。
「……それにしても、せっかくだからムラサ達や旧都の連中にもスペルカード決闘のことを伝えてみりゃ良かったかな。
ま、機会なら今後いくらでもあるか」
小走りで地霊殿に戻り、エントランスホールを抜けて中庭に出たところで、灼熱地獄跡へ続く天窓付近にさとり様がいるのを見つけた。
どうやら天窓のいくつかを開けて、その上に設けられた竈と釜を熱しているようだ。
しかも作業が終わったところだったのか、釜の蓋を取り外そうとしている。
そのタイミングで、さとり様があたいの足音にでも気付いたのかこちらへ振り向いた。
「ああ燐、ちょっといいかしら? 中身を出すのを手伝ってちょうだい」
「はいただいま!」
あたいはすぐに駆け寄り、いまだ陽炎のくゆる釜の内部へためらいなく手を突っ込んだ。
中から取り出したのは、無色透明の塊――あたい達はこれを業火ミネラルと呼んでいる――庁へ渡す物の一つ、塩の材料である。
なお、この釜は未練がましい緊縛霊の抱く欲望から鉱物を熔かすためのもので、名前をロトという。
天窓の竃・ソドムと一緒に、是非曲直庁の技術で作られた特別製らしい。なんでも泰西の神話にちなんでつけられた名前だとか。
「それにしてもさとり様――」
「今月分はたしかに昨日収めたのだけど、その晩に中有の道の屋台で大量発注があったそうよ。
だから大急ぎで不足分を補わなければならなかったの。やれやれ、夏場だから何かと入用だったのかしらね」
……さいで。
あれ、もしかして慧音センセイの言っていた、保存食がどうのこうのって話かな?
しかしまぁ今になって思い出したけど、中有の道を一ぺんくらい見てくりゃ良かったかねぇ。
「あら、地上に出ていたの? あまり橋姫に苦労をかけないであげて……ふぅん、面白そうな遊びじゃない。
しかも妖怪の間で流行しているばかりか人間もやっているというの?」
「ええ、そうみたいです。それを体験できたのが、この琥珀と合わせて今日一番の収穫ですかね」
どうやらスペルカード戦に関心を示したようだ。お目が高いねぇ。ならリグルのあれでも思い浮かべるとするかな。
そんなあたいにさとり様はしばらく第三の目を向け、それから両手を胸の前で合わせた。
「想起『戸隠山投げ』」
さとり様が宣言するや、業火ミネラルは白い光の玉をいくつも生み出しながら小さくなっていく。
一方光の玉はさとり様の両てのひらに集まり、岩塩の塊となった――あたいの手に、不純物と思われる鉛やら金やら錫やらを残して。
それからさとり様は純粋な塩の塊を投げ放ち、あらかじめ別の竈の上に置かれていた鍋の中に放り込んだ。
「スペルカードとやらはこんな感じなのかしら?」
「あーはい。まぁもうちょっと投げる物は多くした方がいいと思いますけどね」
「そうなの? それじゃあ実際にカードを作る時は気をつけるとしましょう」
「それにしても懐かしい。伊吹の姐御がいなくなったのって四年くらい前でしたっけ?」
「ああ、もうそのくらいになるのかしらね。あの方がいた頃は塩作りも大分楽だったのだけど。
今は私だけしか毒と塩の分離ができないから、仕事が終わった後は身体が痛いったら」
「あーはいはい、あとでマッサージしますよ」
あたい達が益体もない会話をしている間に鍋から湯気が立ち上り始める。
それを確認したあたいは木の棒で鍋の中の水をかき混ぜ、岩塩を溶かしていった。
この後は煮詰めることで小さな結晶の集まりとして析出させ、にがりなどとも分離していく予定だ。
ちなみにさとり様はというと、ロトからさらに業火ミネラルを取り出し疎密を操る程度の能力を想起していた。
「燐、貴女にしばらく休暇を与えます。その間私に付き合ってちょうだい」
「あ、さとり様も本格的に興味が湧きましたか? あたいでよければ喜んでスペルの実験にお付き合いしますよ」
「お願いね。でも差し当たってはスペルカード決闘がどういうものであったか、直接貴女の口から聞かせてほしいわ。
というわけで、今夜は岩塩を肴に日本酒でも酌み交わしましょう」
「くーっ、そりゃたまらないですねぇ!」
久しぶりに主人と過ごす素敵な宴席の予感に、あたいは期待で胸を膨らませる。
しかしさとり様の次の言葉は、あえて忘れていたトラウマを想起させ、あたいをげんなりさせた。
「ついでに負けた愚痴、昆虫標本が作れなかった愚痴も聞くわよ。
さあ、私の胸でよければいくらでも借りていきなさい!」
「……あはははは、いやぁ、それは遠慮しときます。色んな意味で落ち込みそうですから」
いやぁ感動的だねぇ。地殻の亀裂から差し込んできた光に誘われてみて正解だったよ。
何しろ初めて目にする地上の人間達の集落で、これほどまでの掘り出し物にお目にかかることが出来たんだから。
なんだかここの人間とは気が合いそうだねぇ。どれ、近くまで寄ってじっくり堪能し、あわよくば二、三失敬できれば上等かな。
◆本章【ぶらり徘徊、火車の旅】
猫の姿になって石塀の上に飛び移り、死体が飾られている建物に歩み寄るにつれて、開いた窓からちょいと堅苦しそうな女の声が聞こえてきた。
「このように、普通の人間以外は保持霊力が多く、そしてその扱いを本能的に体得しているものが多い」
ううむ、留守ではなかったか。まぁ諸々忍んで地上に来ている以上、目立つ真似はやめとこうかね。
いくらここの人間達が妖怪じみたあたいを見て騒ぎはしなかったといっても、ああも綺麗に飾られたものを持って行かれたらさすがに眉をひそめるだろう。
25年くらい前のキスメの二の舞はご免だからねぇ。
「例えば妖精。彼等の持つ霊力は人間とそれほど変わらないが、それでも飛翔や幻視、瞬間移動、あるいは特殊な能力など、人間には真似できない幻想を扱うことができる」
「でもせんせー。うちの店にサニーミルクが忍び込んできた時、母ちゃんには見つけられなかったのが俺には見えたよ。
あんな真昼間に、堂々と店の中を歩き回ってたのにさ」
「そう。お前のように誰に教えられずとも、見えるはずのないものを見る能力・幻視のために霊力を使える人間もいる。
まぁそういうのは極めて珍しいがな」
近寄ってみて分かったのだが、どうも中には大勢の子供達も整然と並んで座っているようだ。
こうなるといくら猫の姿で大人しく眺めていたとしても、見つかると騒がれたり近寄られたりするかもしれない。少し様子を見ようかね。
「なんだよ、トク。お前リリーホワイトだけじゃなくサニーミルクも捕まえたことあるのかよ」
「い、いや。そうしようかと思ったけど、父ちゃんの鬼のツラが浮かんできて――」
「こら夢太! トクも、うかつに妖精に手を出すのは危険だ。
たしかに妖精に持てる霊力は普通の人間と変わらないが、彼等は周囲の自然から霊力を無尽蔵に補給することができるのだぞ。
……といっても様々な制約はあるが、まぁこいつらには教えてやれんな」
聞く限りこの建物の中では、初めて人型へ変化してみせた妖獣にさとり様が施す、教育ってやつと同じことがやられているようだ。
センセイとやらはあたいが幻視する限りじゃあ純粋な人間ではなさそうだが、それでもさとり様と同じように、聞き分けのなさそうな連中のために色々と気を配っている。
さっきも最後の部分が届かないように声を落としていたし。あたいの耳にはばっちり聞こえたけど。
「続けるぞ。霊力が引き起こす幻想は物に対しても作用する。頑丈にする、飛ばす、熱を持たせる、形を変える等々だ。
これら霊力を幻想に変換するための技術はあるいは魔法と呼ばれたり、あるいは妖術と呼ばれたりするんだ。
前者はあらゆる幻想を万人が扱えるように研究した成果で、後者は個々人または各々の種族に特有の――」
センセイは熱心に語るが、このあたりからついていけない奴らも出てきたようだ。特に後ろの方なんかは舟を漕ぎ始めている。
おおっと、動くなら今かな。この様子なら後ろの棚に立てかけられている死体コレクションをもっと近くで見れそう。
「先生! じゃあ普通の人間が先生みたいに保持霊力を増やす方法はないんですか?」
「花穂……私が白沢の分霊を頂いたのは決して自ら望んだわけではないのだがな。
まぁいい。私は幸か不幸かほとんど労せず霊力が増えたが、普通は修行などで増やすものだ。
このあたりは仙人が詳しいが、彼等は弟子と認めた者にしか方法を伝えないからな。私も知らない」
抜き足差し足で歩く途中、話題が無視しがたいものに切り替わった。
ほうほう、あのセンセイも何かを取り込んで強くなったのかい。
なんだか火焔猫時代を思い出すねぇ。あの頃のあたいは見境なく怨霊や魑魅魍魎を喰らって生きてたもんだった。
「ただ、魔法の森のキノコの一種に、保持霊力を増加させる作用を持ったものがあるらしい。
しかしその味がな、食べ続けた者いわく『世界のまずさが競い合うように地獄の交響曲を奏でて、頭がどうにかなりそうだったぜ』というものらしい。
もっとも『狂うのに慣れたし、魔砲を連発したり天狗並みの速さで飛び続けることができるようになったがな』と喜んでもいたが」
質問した女の子は一喜一憂悲喜こもごも、目まぐるしく表情を変転させた末、最後には考え込む。
その机の前に寄りながら、センセイはポケットから取り出した瓶を見せる。
「参考までに、こっちの澄んだ色の薬が、そのキノコのエキスを別のキノコエキスや水で薄めたものでな。
こうなると保持霊力を増加させる作用は消えるが、その代わり消耗した霊力を完全に回復させる作用が現れるらしい。
で、だ。こっちが原液」
次に取り出された薬はあたいにとっては綺麗な色や質感として映った。
でもまぁ、あたいが好ましいと思う物が普通の人間にはどう感じられるかというと――
「ひっ!」
「ちょ! なんでそんな気持ち悪いもの持ってきてるんですか?」
果たせるかな、質問した子だけでなく、その隣に座っていた女の子すらも椅子ごと遠ざかる。
この騒ぎを受けて眠っていた連中が目を覚ます傍ら、センセイはさりげなく薬をポケットに仕舞った。
「ああ、久しぶりにお前が授業に来るって聞いたものだからな。
少しでも印象に残るほど面白い授業をやろうと、先生張り切っちゃったよー」
「だからってそんなトラウマ級のものを……もしかして先生、縁起に書いたこと気にしてます?」
「ははは、何を言っているんだ。お前の方が授業を上手くできるだなんて、先生まったくさっぱりこれっぽっちも気にしていないぞ!」
「な、なんて白々しい」
センセイは隣の子の非難にはおどけた調子で返していたが、すぐに表情を改めて質問した女の子に向き直る。
「と、このように人間が妖怪を振り向かせるほどにまで霊力を鍛えるためには、普通という枠を逸脱する行為を行わなければならない。
私とて霊力が増えた後も、それこそ人間の一生分以上の時間を費やした上で、どうにか鬼神級(ルナティック)の技を振るえるようになったんだ。
威を妖怪に示したいという考えを止める気はないが、相応の覚悟のない者には修羅の道であると言っておこう。
件の魔法使いいわく『やめときな! 気がふれるぜ?』だそうだ」
冷たく厳しい声に打たれ、女の子はとうとう目を伏せてしまった。
しかし続く言葉は先程とはうって変わって、いたわる暖かさを伴って響く。
「だが、妖怪を唸らせる方法は何も霊力の扱いが全てというわけではない。これは歴史を紐解いてみても明らかだ。
例えばある詩人は名高い鬼・茨木童子を感動させる詩を作り、しばらく交流を深めたそうだ。
また、極めて眉唾な話だが当時の娯楽創作物に、茨木童子はその人間のために仙人になったとも書かれていた。
このように、ある道に全身全霊を注げば鬼すらも感銘させることができるし、この逸話から妖怪と人間の感性は思ったほどかけ離れてはいないことも分かる」
ふと、あたいは死体コレクションの方に視線を向ける。そしてそれを見つけた時に抱いた感想を思い出す。
「みんなは霧雨道具店を知っているな。私もここの文具などを用意する時にお世話になったことがあるが。
その店主もこう言っている。『昔弟子に取っていた奴に一つ教えられたことがある。人間と妖怪は嗜好品を通――」
「先生。化け猫がいます」
「――なんだって!?」
気付かれた!?
って、あたいってば物思いにすっかり耽っていて、足を止めてしまってるじゃないか。
建物の方に目を戻すと、鈴の髪飾りをつけた女の子があたいを指差し、センセイの注目を促している。
「見慣れぬ顔だな……何者だ?」
警戒心に満ちたセンセイの視線に射抜かれ、あたいはわずかに背筋を凍らせる。
ちょっとまずいかねぇ? 今のあたいは地上の化け猫と見分けがつかないとは思うけど、万一地底の火車とバレちゃあ面倒だ。
とりあえずここは口八丁で切り抜けるかな――そうと決めるや、あたいは塀に腰掛ける形で人型に変じた。
「やー、話の腰を折っちゃったみたいで悪いねぇ。あたいとしちゃ、後ろの棚にある箱をこっそり見てるだけのつもりだったんだけど。
そこのお姉さんの話が上手いもんだったからさ、ついつい身を乗り出して聞き入っちゃった」
「うおっ、猫が人間になったぜよ!」
「なーにビビってんだよ梁、お前だってお湯かぶった熊谷のおっさんが、パンダから人に戻ったの見たことあんだろ」
「そ、そうは言うてもトク、おらはおまんと違うてこーいうの見慣れてないんぜよ」
唐突に変身したあたいを見て、男の子二人が対照的な反応を示した。
そのおっさんてのは「人に戻った」とか言ってたからセンセイと同類かね。いずれにせよ、この集落には獣人が普通に住んでるようだ。
そりゃ人間があたいを見てもあんまり驚かないわけだねぇ。
閑話休題、センセイの方はというと、コミュニケーションができると分かったからか態度をやや軟化させた。
「後ろの棚の箱?
……ああ、あれか。しかし猫がすでに動かなくなったあれらに興味を示すとはな」
「いやいや、分かってないなぁお姉さん。たしかにもう動かないけど、腐らないようにして綺麗に並べられてるのを見たら、猫とて思わず目を奪われちまうよ。
あれをやったのは誰だい? お姉さんかい?」
「いや、ここの子供達だ。フィールドワークと情操教育を兼ねた授業の中でやってもらった」
「へぇ、深いねぇ。死体に触れさせることで豊かな感情を育もうってぇ魂胆かい」
「……そういう面もあることは否定しない。とはいえ、別に乱獲を推奨しているわけではないと言っておこう」
「分かってるって! お姉さんがそんな短絡じゃないってことくらい、さっきの話も合わせりゃあさ」
話していくうちにセンセイの眉間の皺が緩んでいくのを見て、あたいはホッとため息を吐いた。
それから建物の中に入り、棚にある箱の一つを手に取る。
すると突然、後ろの方に座っていた男の子があたいの傍に寄って来た。
「どうよそれ! ぜ~んぶ俺が捕ってきたんだぜ」
「へぇ、たしかに凄い数だねぇ……でも、なんだかところどころ傷ついてるよ。肢とか翅とか触覚とか。
捕まえた時か、標本にした時にやらかしちゃったのかい?」
「う、に、苦手なんだよあーいう細かいのは」
トク、とかいったっけ。妖精ハンター稼業にも勤しむあたり、たしかに落ち着きのない腕白ボウズって感じだね。
「……ふむ、しかしこっちのはいいねぇ。数は少ないけど、丁寧に飾ってるじゃないか。
なんというかこうやって翅を広げられると、押し花みたいだねぇ」
「あ、それ、私です。素敵ですよね、蝶々の翅の模様って。それがはっきり見えるように、あと汚れないように頑張りました」
「いいねぇいいねぇ。あたいも死……親友の毛づくろいとか好きだからさ。こう、何かを綺麗に飾ってやりたい気持ち、よく分かるよ」
「? ああ、猫同士、毛づくろいしあっているの見たことあります。妖怪でもその習慣は残るんですね」
あはははは……エンバーミングや死化粧も趣味ってのは、この場じゃ口が裂けても言えないね。
って、花穂ちゃんだっけか、いつの間にあたいの近くまで来ていたのだろう。
たしかこの子の席は教壇よりの……と思って視線を向けると、センセイが口を開こうとして――
「おいお前達、まだ授業は――」
――ちりんちりーん
その直前で、妙に響く鈴の音に水を差された。
あたいもそちらを見ると最初にあたいに気付いた女の子が、髪についてるのとは別の鈴と懐中時計を手にして笑っていた。
「先生、たった今終業時間になっちゃったみたいです」
「そ、そうなのか?」
「はい! ってことで、一同、起立!
――礼――解散!」
有無を言わさず続けられた女の子の号令が終わるや、ほとんどの子達があたいに自分の昆虫標本を見せに来て、口々に自慢を始めた。
……おやおや、最初はこっそりと観賞するだけのつもりだったのにねぇ。
とはいえ、作った連中と語り合いながらってのも意外と悪くないもんだ。本来話し好きな性質だしね。
ふとセンセイの方を見ると、眉根をよせながら口元を緩めていた。仕方がない、というふうな感じだ。
あたいは心中で授業の邪魔をしたことを詫びながら、子供達の話に耳を傾けたり突っ込んだりすることに勤しんだ。
最後に説明してくれた子を見送った後、あたいはこの場に残っていたセンセイの方に身体を向ける。
「さってと、随分と遅くなっちまったけど改めて挨拶するよ。あたいは化け猫で、火……周りのみんなからはお燐って呼ばれてるんだ。
だからお姉さんもそう呼んでくれると嬉しいねぇ」
「これはご丁寧に。私は上白沢慧音。寺子屋を営んでいる、一応今は人間だ。
と、ちょっと失礼。お茶を持ってきてもいいかな? せっかくだから君にもごちそうしよう」
「あ、いやぁ別にそこまでしてもらわなくても――」
「まぁ遠慮せず。その間に腰を落ち着けて標本を見るのも悪くはないだろう?」
「……じゃあいただこうかな」
意外なほどに親しみをこめて接してきた後、慧音センセイは部屋を出ていく。
一方のあたいは手近な椅子に腰掛けて、棚に置かれた標本すべてを眺め渡していった。
「ふーむ、地底にも似たような形の妖蟲はいるんだけど、やっぱり地上の奴ほど色鮮やかじゃないねぇ。暗いんだから仕方ないのかなぁ」
などと、記憶の中と今見ているものとを比べていると、慧音センセイが団扇を片手に、もう片手には麦茶と漬物を載せたお盆を持ってきた。
それらを机に置いて囲みながら、あたいもご相伴に預かる。
「ほう、こりゃおいしいねぇ。歯触り軽やかで程よく酸っぱく、何より塩が効いているのがありがたいったら。
これ、お姉さんが漬けたのかい?」
「ああ、喜んでもらえたようでなによりだ。
知人に神職や神霊がいるのでね。気軽に萱野姫様に口利きを頼めるんだ。
もっとも、一緒にいたツチノコに野菜を奪われそうになった時は焦ったが」
慧音センセイも二、三切れ頬張りながら麦茶を呷り、一息ついたところで持っていた団扇を振る。
「いやぁ、暑いのに大変そうだねぇ」
「はは、正直なところこの時期くらいは長めの休みにしてもいいとは思っているんだが、子供達の中にはすでに仕事の見習いをしている者も多いからな。
そういう子のためにも、どこかで授業の時間を割いてやらねばならないんだ。それが今の暑い時期にしかなかった、というわけさ」
手厚いことだねぇ。さとり様の場合、一人で仕事ができるようになったら、あとは完全に放任するのにさ。
「それにしてもさっきはすまなかった。子供達も妖怪の姿は見慣れているが、妖怪に自分の作った物が批評されるというのは珍しいことだったからな。
私の話もあってか、みんな実践してみたくなったのだろう」
「いやぁ、こっちこそ授業の最後で邪魔しちゃって悪かったと思ってるよ」
「なに、私の言いかけた言葉以上のものを伝えてくれたんだ。むしろお礼を言いたいくらいだよ」
「そ、そうかい?」
そう言われるとなんだかこそばゆいね。
と、それはさておき、あたいはさっき子供達と話している間に思いついた用件を伝える。
「ちょっと訊いていいかい?
お姉さんがあの子達に虫を捕ってくるように言ったんだよね。だったらあたいにも虫の捕れる場所を教えてほしいんだ」
「お安い御用だな。ちょっと待っててくれ。標本を入れた箱に採集場所や日時を書いてもらっているから、それを確認すれば……」
すると慧音センセイは棚に近寄り、昆虫標本の箱一つを手に取った。
「例えばこのトンボの多いのは、山の麓にほど近い水田地帯。こっちのカブトムシ・クワガタムシ3匹ずつセットは、博麗神社へとつながる東側の林か。
ほう、梁は香霖堂付近の森ときたか。霧雨店の依頼で親が建造したと言っていたが、その縁かな?」
かわるがわる箱を取りかえながら、慧音センセイは場所をすらすらと答えていく。
しかし見知らぬ地上の場所を挙げられても、あたいにはそこの虫達の生息状況がいまいちピンと来ない。
仕方ない。少々ヘンに思われるかもしれないが、正直な要求を伝えるとするか。
「ふぅん。じゃあさ、特に虫の死骸が大量発生しそうなところから、ってのはないかい?」
「死骸でいいのか?
……そうだな、ものぐさな奴は提灯の光に寄ってきた虫を翌朝拾い集めたとか言っていたかな。出来は芳しくなかったが。
あとは……そうだ、今の季節なら蝉だな。特にさっき言った香霖堂近くの、魔法の森によく発生するらしい。
もっとも今年は奇跡の蝉の年ではないから、数は控えめかもしれんが」
「なんだい? その奇跡の蝉ってのは」
「十一年周期で大発生する特殊な蝉のことだ。これが現れる年は必ず豊作になるから、奇跡の蝉と呼ばれているんだ。
……残念ながら今年は違うがな。なにしろこの一月の間に天候異常が起きたせいで、秋の収穫が危ぶまれている。
おかげでみんな保存食作りに奔走しているんだ。実は先程の漬物もその表れなんだよ」
ほう、もしもその年だったらあたいにとっても大収穫だったってわけか。惜しいねぇ。
しかしまぁ普通の蝉だったら、この時期でも少しは地面にひっくり返っていそうな気がするね。
「ありがとねお姉さん。じゃあまずは魔法の森に行ってみるよ」
「そうか。ならば水田地帯を目指すといい。その道に沿っていけばいずれたどり着くだろう。
それとこれを持って行くといい。件の授業の時に香霖堂と霧雨店に手配してもらった、昆虫ゼリーという外来の品だ。
子供達が余らせていたものだが、未開封なので虫をおびき寄せる効果はまだ残っていると思う」
「うーん、まぁ使うかどうかは分からないけど、ありがたく頂戴するよ。それじゃ、色々と世話になったね。さよならお姉さん」
「ああ、さようなら」
慧音センセイの挨拶を背に、あたいは建物の出口へ向かった。
まぁ今後再び訪れる可能性はすごく低いだろうけど、もしもここに来れた時には、今日のお返しにあたいの昆虫標本を披露したいねぇ。
センセイの指示通りに進んだところ、それほど時間もかからずに森の中に入ることができた。
しかし神社付近に出来た亀裂から出てきて、色々と地上を歩き回ってみたけど、本当に怨霊はどこにもいないんだねぇ。
こりゃ、うちの管理がしっかり行き届いている証拠なのかな。だとしたら怨霊を送りこんだ時にゃ蜂の巣をつついたような騒ぎになるのかしらん。
しかし騒ぎといえば、本当にここは蝉の鳴き声がうるさいったら。森に入ってからというもの、全然途切れることがないよ。
「あー……ホント、くたばりそうにないわお前さん達は」
同じ木にまとまっていた二匹の蝉を見上げながら毒づくと、そいつらは警戒したのか鳴くのを止める。
別にとって食やしないよ、と呟いてやるも、結局あたいが遠く離れるまで声を殺し続けていた。
それからしばらく、わざと足音を立てながら大股で歩く。
「……ふむ、いかんねぇ怠けるのは。死体があるのは草葉の陰と相場が決まっているもんだ」
その過程で、地面が苔やら草やらに覆われていることに改めて気付いたあたいは、特に生い茂っているあたりを注意深く調べることにした。
ひとまず傘を差すように広がっている幅広の草葉をかき分ける。
「――あった!」
その下に、仰向けになって固まっている蝉の姿があった。
こいつはどこにも傷がなさそうだし、綺麗な標本になってくれそうだ。
一応、拾い上げる前にあたいは目に霊力を込めて、一寸の身体に五分の魂が残っていないか確認した。
幻視の結果、本当に亡骸であると分かったため、あたいは嬉々としてそいつに手を伸ばす――
「ちょい、待った!」
その途中、いきなり頭上から声をかけられた。その剣呑な響きに気押され、あたいは反射的に後ろに飛び下がる。
少し遅れて、あたいと蝉の間に入るようにして一人の妖怪が降りてくる。
そいつはさとり様と同じくらいの背格好の、一対の触角が特徴的な奴だった。
「お嬢さんは……虫の妖怪だね? でも蝉ってわけじゃあなさそうだ。
だってぇのに、どうして止めるんだい? ひょっとしてお嬢さんもこいつを狙っていたのかい?」
「いや、そういうわけじゃないけど。
そっちこそ、猫のくせに完全に動かなくなった虫に用なんてないでしょ?」
どうも地上の奴らはみんな、猫は動くものにしか興味がないと思っているらしい。間違っちゃいないけどさ。
しかし地上の妖怪とのいざこざはできれば避けたいところだ。なんとか穏便に済ませないと。
「あー、まぁ、そう、友達が虫好きなんだよ。烏の妖怪だからね。そいつのために持って帰ってやりたいんだ」
「それならもっとマシな物をあげなよ。こんな打ち捨てられたやつじゃなくてさ。
人間の里や中有の道の屋台に行けば、料理された虫とか置いているはずだから」
「あらららら? そういうのはいいのかい?」
「……ま、まぁ不当に乱獲されたとか、巣ごと根絶やしにされたわけじゃないからね。
それに数が多くなりすぎるのも食糧事情の面から好ましくないし。適度に外敵に狩られるのも必要なのよ。
増えすぎて共食いってのよりも、仲間をかばって名誉の戦死の方が精神衛生上はマシ……だと思うし」
ふぅん、多少揺らぎはあるものの結構割り切った考え方をしている。ただの虫の妖怪ではなく、虫の統率者って感じかね。
それこそあたいが怨霊の管理をしている時と同じような、数の増減にしか興味がないような口ぶりだ。
それにしても――
「じゃあどうして死骸を拾っていくのは止めるんだい?」
「今はその食糧事情が切羽詰まっているの。ほら、この一月ほど各地で不安定な天気ばかりが続いたでしょ?
おかげで草花を食べる虫達が大変になっている。そしてそれはいずれ、そいつらを食らう虫達にも弊害をもたらすかもしれないんだ。
だから、虫達の餌となるものはできるだけ確保してやりたいの。
いずれこの森に躯をさらす蝉達は、大地に蠢くスカベンジャー達にとって何よりのご馳走になるだろうからね」
……なるほど。あたいには知る由もないが、この文月に起きた天候不順とやらは随分色々と不都合を残していってくれたようだ。
しかし何かい? あたいが虫を狩るのは許してくれるってことかねぇ。
……いやでも、生き物の死体を狩り捕るのは主義に反するんだが。
「むむ、どうしてもダメかい?」
「ダメだね」
まったく取り付く島もない。
さて困ったねぇ、やはり力ずくでってことになっちゃうかなぁ。
しかしこちらから強要するのも考えものだ。遺恨を残したまま探し物だなんて、できればご免こうむりたいところなんだけど。
「まぁよく分かんないけど、どーしても譲れない事情があるってんなら、一勝負やる?」
と、あたいが腕組みして悩んでいたところに、虫の妖怪が一枚のカードを突きつけてくる。
それは裏面だったようで、一面に緑の模様が描かれているだけだった。
「なんだいこりゃ?」
「え!? も、もしかして知らないの?
『人間も妖怪も月の民もオケラも皆、平等に楽しめるこの世でもっとも無駄なゲーム、スペルカード戦』を」
「スペル……カード? その、妙にたくさん霊力が含まれてる紙っぺらのことかい?」
「そうよ。この一枚分もしくは一デッキ分に込められた幻想を使って決闘するの。それから――」
虫の妖怪がしてくれた説明を大まかに要約すると、華麗に攻撃を回避しつつ、芸術的なまでに作り込まれた戦術で相手を追い詰める、という決闘ごっこのようだ。
それとスペルカードは絶対に必要というわけではないらしい。あれば確実に有利だというだけで。
「そして勝者は敗者に対して一つだけ要求することができるんだ。
だからあんたが勝負に勝った場合にはこの蝉の死骸を譲るよ。で、私が勝った場合は……そうだね、何か虫の餌になりそうなものを持ってきてもらおうかな」
「虫の餌かい。じゃあこれでどうだい?」
あたいは慧音センセイにもらった昆虫ゼリーを見せる。するとあからさまに相手の目の色が変わった。
「ふぅん、それは是が非でも手に入れたいね。それこそこっちが決闘を申し込みたいくらい」
そのやる気を見た目に現すかのように、虫の妖怪から揺らぎ輝く金色のオーラが湧き上がる。
ついでに地面に落ちていた蝉の死骸も同じ光に包まれた。
「勝利条件は有効打を一発でいいから当てて、この霊力光を消すこと。それ以降はいくら体力や霊力が残っていても勝負を続けちゃいけない」
おっと、どうやら気分的なものではなく意味のある目印だったようだ。
それにしても一発で蹴りがつくというのは、無駄に痛くないし平和的でいいことだ。
しかも向こうから穏便に済ませるやり方を提示してくれたのは願ったり叶ったり、このチャンスを逃す手はない。
そう決意するやあたいは見よう見まねで霊力光とやらを発生させ、身体を赤色の光で包んだ。
「受けてくれるみたいだね。じゃあ早速始めようか。
って、そういや紹介が遅れたね。私はリグル・ナイトバグ、蛍の妖蟲よ」
「あたいは化け猫のお燐さ! お手柔らかに頼むよ」
開幕直後、リグルは先程から持っていたカードを地面に埋め込む。
「さて、ちょっと新作を試させてもらうよ。
轟符『セブンイレブン蝉しぐれ』」
そして符号とカード名を宣言すると、手前の土が舞い上げられ、リグル一人分を飲み込むほどの大きな穴が開いた。
次に中から現れたのはリグルと同じ金色の霊力光を纏った、おびただしい数の蝉の幼虫。
「七年蝉、羽化せよ!」
幼虫達はそれから霊力光を翅に変え、一斉に飛び立っていく。同時にけたたましい鳴き声を森中に轟かせた。
「っ!」
あたいは迫る轟音に顔をしかめながら後ろへ飛び退く。その空間を瞬時に蝉が埋め尽くした。
さらに周囲から成虫も光を纏った状態で加わり、鳴き声は空気も大地も揺るがさんほどに大きくなっていった。
「なんちゅう数だい、さっさと削らないと」
あたいは決意するや体内の霊力を練り上げ、リグルがいた辺りに向けて火球を連射した。
それは蝉達を舐めつくして飛び、地面や木に着弾してから炸裂する。
火と爆風に撃たれた蝉達は霊力光の恩恵で傷つくことはなかったが、仰向けになって痙攣するばかりで再び飛び立つ気配はない。
「ふぅむ、樹葉花ばかりが香っているせいか火付きが良くないねぇ。
ただでさえ蒸し蒸ししてるってのに……黄色い地面が恋しいよ。
でもまぁ、もう二、三回同じことやりゃ――!?」
リグルがいない? どこ行った? 光と音に紛れて身を隠したか?
と、この一瞬の隙をついて、蝉達があたいを取り囲むように襲いかかる。
「ちぇっ!」
迎撃態勢を整えるために退く。右側の群れが分厚そうなので左側へ。
「生き物を強化し弾幕となす利点ってのはこれかねぇ。いちいち霊力を練る必要がないってさぁ!」
ただ飛び退く前に、あたいは地面に火球を叩きつけていった。
そこから一瞬燃え上がった火柱の中へ、勢いのついた夏の虫達が飛び込んでいく。
これを見て恐れをなしたのか、蝉達はあたいから少し距離を取る。ただ、隙あらば取り囲もうとしているようにも見える。
念のためもう少し後退しようとして――ふと、あたいは自分の身体に異常を感じた。
「ふらついてる?
……いや、あたいじゃない。揺れているのは――地面!」
気付いた瞬間、足元から土くれが舞い上がってきた。反射的にまぶたが大きく下がる。
その、悪くなった視野に次の瞬間入ってきたものは――蹴足を突き出したリグル。
「地中だって!?」
叫ぶ間にも足の裏が視野全てを覆い尽くす――
「外した!?」
背後からのリグルの驚嘆を聞いて、あたいは一か八かの賭けに勝ったことを実感した。
だが気を抜かずにすぐに振り返り、地面に着地していたリグルの顔を見上げる。
「……便利だね。一瞬で猫の姿に変われるんだ」
苦り切ったリグルの呟きに、あたいはにゃあんと鳴いて応じる。
それにしてもさっきは危なかった。やはりケンカから長らく離れていると勘はどうしても鈍ってしまうものなんだねぇ。
しかし今は反撃のチャンスかな。どうも蝉どもは幼虫成虫どちらも光を失って、地中や木の裏に逃げ隠れしているみたいだし。
この隙にあたいは人型に戻り、リグルに向けて火球を乱れ撃つ。
それに対してリグルはあたいと向き合う形で後退しつつ、火球を一つ一つ回避していく。
「な、なんだいありゃ? まるでぬえの操るUFOみたいだね」
驚いたことに、リグルは空中で重力や慣性に囚われない急停止や方向転換を行い、木々の間を縫ったり火球の接近をやり過ごしたりしていた。
おそらく飛翔を小出しに連発することによって、運動ベクトルを微調整しているのだろう。
そして後ろを見ずとも木に当たらないのは、見えるはずのないものを見る能力――幻視の応用だろうか。
「やーるねー、それもこの決闘に必要な技術なのかい?」
「そうだよっ、これぞ飛法・二色蓮花蝶――なんてね」
言う通り、空を飛ぶ不思議な蝶々みたいに退く最中、リグルは木の陰に隠れて指を打ち鳴らす。
するとあたいの背後から蝉の羽音と鳴き声が再び響き渡ってきた。
リグルの真似をして幻視をやってみると、目視している視野の片隅に背後の光景を映した幻視野が現れる。
そしてそこには先程リグルが飛び出してきた穴から幼虫の集団が現れ、光り輝く翅を生やそうとしている様子が映っていた。
「十一年蝉の羽化」
「また来るのかい!?」
あたいは後背を突かれないように、同時にリグルを追いかけるために前進する。
すると周囲からも成虫が舞い戻り、遮るように間に入ってきた。
「また見失わせるんだね。そうやっていつの間にか地中に潜る、と」
何となく読めてきた。ならば地面とのつながりを断たないとね。
そうと決めるやあたいは攻撃をやめて霊力を手に集中させ、火でできた車輪をいくつか作りだす。
この作業の間、周囲から迫ってきた蝉達は慌ててあたいから離れていった。
「火焔の車輪、とでも名付けようかい」
輪の径が充分に大きくなったところで、あたいはそれらを蛇行するように転がした。
車輪は炎の轍を残しながら駆け抜け、前方の蝉達を蹂躙する。そしてリグルの居場所を暴き出した。
「ひぇっ!」
その時点で膝までしか潜っていなかったリグルは、間に合わないと見るや窪みから飛び立った。
そして宙で車輪をやり過ごしてから方向を転じるが、残された炎を前に躊躇する。
この隙を狙って、あたいは火焔の車輪を手にして振りかぶる。
「間欠泉!」
「なぬっ!?」
だが投げ放つよりも早く、リグルの指令で火の海の一か所が下から大きく爆ぜ、周囲に湿った森の土を振りかけ鎮火していく。
そしてその爆心地に空いた穴に、漆黒のマントをたなびかせながら飛び込んでいった。
「あんの幼虫どもは化けモンかぃ……あー、霊力を付加された化けモンだったねぇ」
あたいが茫然としている間にも大地の炸裂が立て続けに起き、せっかくの炎の轍は完全に埋め立てられてしまった。
そして赤い輝きに取って代わるように、再び森中が金色の光と蝉の声で満たされていく。
こりゃ、あたい一人じゃキリがない……でも怨霊を召喚するわけにもいかない。
などと次の手を迷っているうちに、蝉達が再びあたいを追い立ててくる。
「……こううるさくっちゃ、地面に耳を当てでもしなきゃ敵の位置が分からないね。
幻視も透視や千里眼と違って、物の裏側や遠くまでは見えないし」
あるいは地面から大きく離れようかとも思ったけど、木の枝葉が邪魔なうえに蝉達もなんとなく頭上を覆うように飛んでいる。
撃ち落とすにしても攻撃の隙を地中のリグルに狙われてはたまらない。
どこかに突破口はないかと周りを見ていると、蝉の少ない木々の間に岩肌を見つけた。
「森を抜けれる?」
すぐにあたいはそこに向かって走り出す。枝の下をくぐり、倒木の上を飛び越える――途中、この逃走も隙になるのではという懸念を抱く。
その危機感の命ずるままに飛翔を行い、姿勢が乱れるのも構わず空中で進行方向を急転換する。
直後、あたいが着地するはずだった地点からリグルが飛び上がってきた。
「また外した!?」
「好事魔多しってっとと!」
返事するのも束の間、大木にぶつかりそうになったあたいは慌てて緊急飛翔による慣性を殺す。
さらに姿勢制御して両足を幹に向けて運び、枝葉と蝉に守られたリグルから離れるために大木を蹴り、一気に森の外へ飛び出していった。
着地したのは苔すら生していない蜂の巣模様の固い石畳――玄武岩だねこれは。
それからあたいは森をにらみつけながら背後を確認するため、焦点を目視野から幻視野に合わせる。
「石畳は広くなく、すぐに川。幅は狭く、向こう岸は柱状節理の断崖絶壁……ま、絶えず湿気を蒸散する緑に乏しいだけ上出来――」
「あ~あ、玄武の沢に逃げ込まれちゃったか」
その途中、茂みの奥からリグルが歩いてきて、石畳に移る前に立ち止まった。
なにやら苛立っているようで、足元の柔らかい土をつま先で小突いている。
「さすがの化けモン幼虫も、ここの石畳を掘り進めるのは骨なのかい?」
「かもね。それよりも飲み込みが早いねぇ。もう飛翔や幻視を使いこなしてるんだ」
明言は避けた、か。まぁいいや。
「おかげさんで。一度の実戦は百の訓練に勝るってね」
「羨ましいな。私なんて記憶力がないから、巫女の動きを何度も確認しなきゃいけなかったのに」
「巫女?」
「ああ、スペルカード戦に最も深く関わっている、妖怪退治専門の人間のことよ。
同業者の魔法使いと一緒に飛法や目視野・幻視野の扱い方を洗練させていった、開祖みたいなもんかな」
「へぇ、あれは人間の考えたものだったんだ。いやはや、妖怪のあたいから見ても凄いもんだと思ったね。
あの身のこなしはたしかに美しい戦い方って考えてもいいかな」
「いやぁ、実物を見た経験から言わせてもらうと、美しいを通り越して不思議というか不気味というかって感じなのよ。
しかもあいつ、たまに瞬間移動とかしたりするし。重力や慣性だけじゃなく空間にまで囚われていないみたい。
おまけに霊力の――」
ん? なんだかやけにお喋りだね。それにいくら森から出たとはいえ、蝉の鳴き声が全く聞こえないのもおかしいし。
そういやさっきも十一年蝉が出てくるまで、あたいの攻撃を避け続けていたような……はは~ん、なるほど。
次の七年蝉の準備が整うまでの時間稼ぎだねこりゃ。
事情に気付いたあたいは視線も上の空で喋り続けるリグルを黙らすため、拍手を大きく打ち鳴らす。
「くー、うまい! うまいねぇお嬢さん。ごっこ遊びとはいえ、緊張感あふれる修羅場を絶やさないことの大切さがよく分かったよ。
こうやって、隙を消しつつ相手の出足をくじく策をごく自然にやってのけるんだからさ」
「……バレたか。大昔には恙虫による奇襲を何度も成功させてたんだけどね。
でももう充分だよ、すでに十四年目を迎えたから!」
リグルが自信満々に声を張り上げた直後、森の葉全てが動き出したかと見間違えるくらいの、蝉の大空襲が始まった。
虫嵐はまずリグルを優しく覆い隠し、次にけたたましく鳴き喚きながらあたいに猛然と襲いかかってくる。
「あたいの方もおかげさんで、小細工を踏み潰せるくらいの霊力を集中させることができた、よ!」
一方のあたいも自信満々に啖呵を切り、溜めていた霊力で大量に炎の車輪を作り出し、蝉の群れと衝突させた。
燃え盛る轍を残しながら、灼熱の輪禍はその行く手にあるもの全てを弾き飛ばしていく。
この熱気に恐れをなしてか、後方の蝉の群れが悲鳴を上げつつ空へ逃れていった。
車輪はそのまま薄くなった蝉の防壁を押し退け、ついに森に到達する。
その直前、あたいは黒いマントが地面に吸い込まれていったのを確認し、その直後に車輪が駆け抜けていくのを見とどけた。
「潜られたかな? でもまぁ、この焼け石を突き破ってこれるかねぇ」
玄武岩の石畳はいまや炎の轍が幾筋も描かれ、場所によっては赤熱しているところもある。
火車であるあたいにとっては床暖房に等しいけど、はたしてリグルが……いや、幼虫達がどこまで耐えれるやら。
と、突然火の手の薄かった森の土が大きく爆ぜ、その下からマントに包まれた塊が飛び出してきた。
それは炎の轍を飛び越えながらあたいに向けて直進し、そして両脇から蝉を飛ばしてくる。
「見上げた根性だねぇ。でも残念ながら、ことわざの通りさ!」
穴の中からマントに包んだ蝉を投げてきたのか、あるいは自身がマントに包まって飛んできたのか、いずれであれ穴もろとも斬り潰す。
その気概を車輪に込めて転がし、結果それは念じたとおりにマントを蝉を穴を蹂躙した。
後にはただ、赤く燃え盛る炎の轍と風を焙る音が残るのみ――
「――じゃない!? 蝉がまだ……」
おかしい。リグルが被弾したなら弾幕である蝉達は力を失うはず。
なのにまだ上空にはけたたましく鳴く蝉の大群が残っている。もしかしてあの中にいるのか――
「違う!?」
突如、注視していた空ではなく背後を映していた幻視野に、踊る水飛沫とともに川から飛び出してきたリグルが現れる。
そして首を振り向ける間もなく、あたいは蹴りの間合いまで詰め寄られてしまった。
――してやられた。マントは囮かい。
思考の傍ら、肉迫してきたリグルは宙で回し蹴りを放つ。
――いやはや、妖怪を唸らせるのは霊力(Power)の扱いだけじゃないねぇ。
悪あがきとは思いつつもあたいは猫の姿に変身し、蹴足を頭上に通過させた。
しかしリグルの足はそこで止まらず、振り抜く途中で上に跳ねる。
そして限界まで足が反らされた直後、そのかかとがあたいに鋭く叩きつけられた。
――お見事!
脳天にかかとが思いっきり直撃したものの、あたいは気を失うことはなかった。
しかし身体を覆っていた赤色の霊力光はなくなっていたし、炎の轍も完全に消え去っている。あたいの負けだね。
そう自覚しながら人型に戻ったあたいをよそに、リグルはマントを拾っていた。
「素敵忍法・空蝉の術。上手くいってよかったよ」
「いやぁ、まんまとひっかかっちゃったよ。後学のために訊いておきたいんだけど、どうやって後ろの川に潜んでいたんだい?」
「ええと、森を出たおかげで空が開けたでしょ。だから炎の車輪と蝉が衝突するどさくさに紛れて上を飛び越えたんだ。
後は川の中を移動して、水中から幻視野で決定的な隙を窺っていたの」
「あ~、空かぁ。いやはや、炎を埋められた時も思ったけど対処が早いよねぇ」
「ふふん、一の実戦のために百の遊びを重ねるのも無駄じゃないでしょ?」
「あはははは、いやぁ参った。こりゃ一本とられたね。
……なるほど。日常感覚で楽しく戦い、有事の際の心構えを養うってわけかい」
降参の意を示すとともに、あたいは持っていた全ての昆虫ゼリーを差し出す。
しかしやっぱり悔しいねぇ。せっかく見つけた綺麗な死骸を拾えないばかりか、少なくともこの年は地上に出てきても採取しづらいのか。
などと未練たらたらの目でリグルを見ていると、その足元に何かを運んできた蝉の幼虫達が寄っている。
リグルもそれに気付き、何やら触角を揺らしながら幼虫と向き合う。
しばらくそうした後、蝉が持ってきた物を拾い上げてあたいに差し出した。
「はい、さっきの間に見つけてきたんだって。蜂入りの琥珀だよ。
化石化した樹脂なんてどうやっても食べられないし、土の中にあっても邪魔だからあげるって。
友達は烏の妖怪だって言ったよね。だったらこっちの方がずっと喜ぶんじゃない? 食べ物じゃないけど」
「へぇ、こりゃ素晴らしいっ……あいつもびっくりするかもね!
本とかでは見たことがあったんだけど、実物を手にするのは初めてだし。わざわざありがとさん」
そもそもこの決闘のきっかけとなった仮初の事情についてどうにか繕いながら、あたいは蝉達に礼を言う。
すると彼等はつぶらな両目でこちらを見上げた後、踵を返して森の中へ歩いていった。
「さてと、そろそろ私も行くかな。
あとスペルカードのことを知らないって言った時、正直虫の餌集めをしてくれるいいカモが来たと思ったんだけど、それは謝るよ。
あんたは強かったし飲み込みも早かった。スペルカードを持って再戦を挑まれたくないってくらいにね」
「そいつは言ってくれるねぇ。でも仕方がないか。最近は一対一のケンカなんてご無沙汰だったし。
まぁ安心しなよ。しばらくは友達とかと一緒にスペルカード作りに励むつもりだからさ。
何しろ虫に関わるいざこざを起こす時にゃ、どうにかお嬢さんを下さないといけないわけだしね」
「……そう。できれば豊作の年以降まで完成しないことを祈ってるよ」
真剣な面持ちでリグルは言い残すと、マントを一打ちして空へ昇っていった。
さてと、あたいももう地底に帰るかな。
地上で虫の死骸を集めるのが困難だと分かった以上、土を掘って虫入り琥珀でも探した方がいいみたいだしね。
まだ後ろ髪を引かれるものの、ここはあたいを打ち負かした蝉にならって、次の羽化まで精々励むとするかな。
神社付近の亀裂を猫の姿になって潜り、地下水の流れている音を小耳に挟んでから、あたいは再び旧都に舞い戻ってきた。
戻って早々、人型に戻ったあたいの前を一体の怨霊が通り過ぎていく。
怨霊――やはりあたいにとってはこいつらを使うのが一番性にあっている。
だが地上にそのまま召喚するのは少しはばかられるような気もする。
何かこう、それとは分からない形で運用できないものか……例えば、虫に霊力を付加するように、怨霊を何か別の物に憑――
「あらお燐じゃない」
そんなふうに考え事をしながら歩いていると、横から誰かに呼び止められた。
「え? お姉さんは……ってムラサかい? どーしたのさその格好は」
久しぶりに出会った知人の舟幽霊は、最後にあたいが見た時とは服装から髪型まで何もかもが違っていた。
「ああこれ? なんでも泰西の船乗りの格好だって、店の人は言っていたわ。
長襦袢と違って動きやすそうでしょ。それに合わせて髪も短くしたの。似合うかしら?」
「へぇ、そうなのかい。
うん……まぁ、あたいはこっちの方がいいと思うねぇ。
なんというかこう、前の格好だとじっとりって感じだったのが、しっとりしたと言うか……うまく言えないけど」
「ふふ、ありがとう」
あたいの評価を聞いて、ムラサは目を細めて微笑み返す。
それから、セーラー服というらしい、自分の着衣の端をつまみあげる。
「旧地獄は舶来の品が手に入りやすいのね。是非曲直庁との物資交換の結果だって、さとりさんから聞いたことがあったけど。
そういえば地霊殿も泰西の色が濃いわね」
「ああ、さとり様がちょいとファンシーだからね。舶来もんが趣味なんだよ。
なんでも五百年前の妖怪拡張計画と同時に起きた『Wonderland dejapanization(幻想郷の脱国風化)』以降、興味を持つようになったんだってさ。
どうも当時は異端で少数派だったそれらに親しみを抱いたらしい……ま、嫌われ者の哲学ってやつかねぇ」
「そうなの。言われてみれば、たしかにあの頃から地獄に堕とされてくる亡者達の中に、明らかに日本風ではない連中が混じるようになった気がするわね。
と言っても旧地獄が切り離されてからは、亡者がここに来ることもなくなったけど」
「へぇ~。にしても、どうして急にそんな格好を?
……ひょっとしてつい最近完了した、ダウジング想起とやらが関係しているのかい?」
「ええそうよ。あの魔法を再現してもらったおかげで、聖輦船や飛倉のかけらが埋まっている場所が分かったの。
仲間の能力もうろ覚えだった私達に、それでも根気強く付き合ってくれたさとりさんには本当に感謝しているわ。
あとは旧都の鬼達に発掘許可をもらって、船の下にあるらしい地下水脈を避けながら掘り出さないとね」
そういえばムラサ達はこの地底で探し物をしていたんだっけ。
しかし鬼に許可を取るとなると、十中八九荒事になるのは避けられないだろうね。
……ああ、ひょっとして発掘作業とケンカのために動きやすい服に変えたのかな。
「そうだわ。お燐、さとりさんへのお礼に、聖が昔使っていたグリモワールをいくつか寄贈したの。
貴女も昔読んでた交霊術(ネクロマンシー)関係の本も含まれているわ」
「本当かい!? そりゃありがたいねぇ。ちょうどもう一回、今度は隅々まで読みたいと思っていたところなんだよ。
……でも、いいのかい? その本って大事な人の物だったんだろ?」
「ええ、もういいの。だって、私達はこれから聖を取り戻しに行くんだから。
いつまでも過去の形見にすがっている場合じゃないわよね」
驚いた。あの本は恩人との大事な絆だって言って、なかなか見せてくれなかったのにねぇ。
こりゃ熟読するつもりとはいえ、粗末に扱うわけにはいかないね。
「そうかい、まぁ頑張りなよ。勇儀姐さん達だって鬼とはいえ血も涙もない方々じゃあないからね。
そこまで厳しい条件は出さないはずさ」
「分かっているわ。同時に地上に立ち寄る約束も取り付けるけど、なるべく早くあいつの首根っこを掴んで戻ってくるつもり。
聖輦船と飛倉のかけら、そしてあいつと宝塔を全部揃えたら、出発する前に地霊殿にも挨拶に行くわ」
何かを決意したかのようにきっぱりと言うと、ムラサは踵を返した。
「じゃあねお燐。おくうやこいしちゃんにもよろしく」
「ああ、伝えとくよ。そっちも一輪雲山ともども、うまくやりなよ!」
その背を見送ってからあたいも再び歩き出す。吉報を教えてもらったためか、帰り道の足取りが自然と軽くなっていた。
昔に当のグリモワールを読ませてもらった時は、まだ不慣れなためか亡者との会話法や短時間だけの召喚術を覚えるだけで精一杯だった。
でもこれからは毎日のように勉強できるとなると、怨霊の使役方法にますます幅が出来るかもしれないねぇ。
「……それにしても、せっかくだからムラサ達や旧都の連中にもスペルカード決闘のことを伝えてみりゃ良かったかな。
ま、機会なら今後いくらでもあるか」
小走りで地霊殿に戻り、エントランスホールを抜けて中庭に出たところで、灼熱地獄跡へ続く天窓付近にさとり様がいるのを見つけた。
どうやら天窓のいくつかを開けて、その上に設けられた竈と釜を熱しているようだ。
しかも作業が終わったところだったのか、釜の蓋を取り外そうとしている。
そのタイミングで、さとり様があたいの足音にでも気付いたのかこちらへ振り向いた。
「ああ燐、ちょっといいかしら? 中身を出すのを手伝ってちょうだい」
「はいただいま!」
あたいはすぐに駆け寄り、いまだ陽炎のくゆる釜の内部へためらいなく手を突っ込んだ。
中から取り出したのは、無色透明の塊――あたい達はこれを業火ミネラルと呼んでいる――庁へ渡す物の一つ、塩の材料である。
なお、この釜は未練がましい緊縛霊の抱く欲望から鉱物を熔かすためのもので、名前をロトという。
天窓の竃・ソドムと一緒に、是非曲直庁の技術で作られた特別製らしい。なんでも泰西の神話にちなんでつけられた名前だとか。
「それにしてもさとり様――」
「今月分はたしかに昨日収めたのだけど、その晩に中有の道の屋台で大量発注があったそうよ。
だから大急ぎで不足分を補わなければならなかったの。やれやれ、夏場だから何かと入用だったのかしらね」
……さいで。
あれ、もしかして慧音センセイの言っていた、保存食がどうのこうのって話かな?
しかしまぁ今になって思い出したけど、中有の道を一ぺんくらい見てくりゃ良かったかねぇ。
「あら、地上に出ていたの? あまり橋姫に苦労をかけないであげて……ふぅん、面白そうな遊びじゃない。
しかも妖怪の間で流行しているばかりか人間もやっているというの?」
「ええ、そうみたいです。それを体験できたのが、この琥珀と合わせて今日一番の収穫ですかね」
どうやらスペルカード戦に関心を示したようだ。お目が高いねぇ。ならリグルのあれでも思い浮かべるとするかな。
そんなあたいにさとり様はしばらく第三の目を向け、それから両手を胸の前で合わせた。
「想起『戸隠山投げ』」
さとり様が宣言するや、業火ミネラルは白い光の玉をいくつも生み出しながら小さくなっていく。
一方光の玉はさとり様の両てのひらに集まり、岩塩の塊となった――あたいの手に、不純物と思われる鉛やら金やら錫やらを残して。
それからさとり様は純粋な塩の塊を投げ放ち、あらかじめ別の竈の上に置かれていた鍋の中に放り込んだ。
「スペルカードとやらはこんな感じなのかしら?」
「あーはい。まぁもうちょっと投げる物は多くした方がいいと思いますけどね」
「そうなの? それじゃあ実際にカードを作る時は気をつけるとしましょう」
「それにしても懐かしい。伊吹の姐御がいなくなったのって四年くらい前でしたっけ?」
「ああ、もうそのくらいになるのかしらね。あの方がいた頃は塩作りも大分楽だったのだけど。
今は私だけしか毒と塩の分離ができないから、仕事が終わった後は身体が痛いったら」
「あーはいはい、あとでマッサージしますよ」
あたい達が益体もない会話をしている間に鍋から湯気が立ち上り始める。
それを確認したあたいは木の棒で鍋の中の水をかき混ぜ、岩塩を溶かしていった。
この後は煮詰めることで小さな結晶の集まりとして析出させ、にがりなどとも分離していく予定だ。
ちなみにさとり様はというと、ロトからさらに業火ミネラルを取り出し疎密を操る程度の能力を想起していた。
「燐、貴女にしばらく休暇を与えます。その間私に付き合ってちょうだい」
「あ、さとり様も本格的に興味が湧きましたか? あたいでよければ喜んでスペルの実験にお付き合いしますよ」
「お願いね。でも差し当たってはスペルカード決闘がどういうものであったか、直接貴女の口から聞かせてほしいわ。
というわけで、今夜は岩塩を肴に日本酒でも酌み交わしましょう」
「くーっ、そりゃたまらないですねぇ!」
久しぶりに主人と過ごす素敵な宴席の予感に、あたいは期待で胸を膨らませる。
しかしさとり様の次の言葉は、あえて忘れていたトラウマを想起させ、あたいをげんなりさせた。
「ついでに負けた愚痴、昆虫標本が作れなかった愚痴も聞くわよ。
さあ、私の胸でよければいくらでも借りていきなさい!」
「……あはははは、いやぁ、それは遠慮しときます。色んな意味で落ち込みそうですから」