Coolier - 新生・東方創想話

ただ一つ貫き通すべきモノ

2013/01/05 22:18:15
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※ダブスポ基準、オリ設定あり
※作品集161『狩る者、狩られる者』の設定を汲んでいます






 狩りとは。
 それは生きるためにするモノである。それは死ぬために行われるモノである。
 それは矜持を保つためにするモノである。それは尊厳を食いちぎるために行われるモノである。
 それは自然の法故、決して破ることが許されぬ、そして善悪の境界無く、ただ生命讃歌の行事である。
 故に、狩りとは尊いものでなければならない。故に、穢してはならない。穢すことは全ての生きとし生けるモノへの悪行である。
 自然に感謝し、与えてくれた幸運に感謝し、そしていつか自分が狩られるという逃れえぬ運命を覚悟して、行われるモノである。
 白狼は吠える。決して届かぬあの妖しくも美しい月に向けて。
 その遠吠えは誓いだ。自然に生き、自然と共に死ぬ。自然に感謝し狩りを行い、そして死ぬときは、狩られて死のう。
 そこには憂いはない。獣の運命とはそういうモノだ。決してそれから外れるような真似をしてはならない。
 言葉を持ち、不必要に感情を持ち合わせた人とは交わってはならないのだ。
 何故なら……人と関係を持った狼は、皆不幸になるのが世の常なのだから……。



◆  ◆



 もう数えることが面倒になるほど昔のことだ。
 まだ射命丸文がヨチヨチ歩きをしていた頃である。烏天狗とはいえ、最初から人型に生まれる者も存在し、彼女はまさにそれだった。
 覚えているのは父の太い腕だった。丸太のように太い腕で、幼い自分を苦も無く抱え上げている。その腕はまるで砦であり、不思議と怖さは感じず、父親という存在の剛健さを教えてくれて、その偉大さを知った。ごつごつとした手は痛かったけれど、不思議と心地よい。
 覚えているのは母の歌声だった。母はとても綺麗な人で、いつも男たちの羨望の的だった。外の世界の言葉でいうとアイドルというのだろう。あの人の唄う子守唄で眠るといつも楽しい夢を見れる。そして母の笑顔を見ると、元気になれるのだ。そして母が自分をなでる手は柔らかく、気持ちいい。触れられるだけで愛情を感じることが出来た。
 ……でも、二人はもういない。父は……殉職した。山の天狗として立派に勤めを果たした、ときいている。母は、病で死んだ。
 母は、ある程度自立できる時まで共に住んでいたため、その死に顔を覚えている。でも、父は本当に小さいころに死んだため、余り想い出が無いのだ。でも、愛されていたと思う。

 でも……。

 あの二人じゃない、もう一人のだれかの手がある。時々夢に出てくるその手は、あの2人と全く違い、ボロボロで、傷だらけで、触り心地もよろしくない。なで方も下手で、どこか壊れ物を扱う、そんな感じだ。
 その手は父のように太くなく、砦のような安心感は無い。守られているという感じではなかった。
 その手は母のように愛情に満ちたものではなく、身震いするほど冷たくどこか悲しいモノだった。
 なのになぜだろう……この両親から感じるのとは全く違う……冷たい手なのに、あるはずのない暖かさを感じるのは。


◆  ◆


 妖怪の山は山とは名ばかりで、その実一個の国として機能している。山自体も広大で、日本特有の四季折々の環境の変化、そして山の中に水が湧くという、集団が住むのに必要な食料と水の問題もまずない。そして幻想郷の中で最も標高が高いという事もあり周囲を一望できるが故に広範囲に監視が効き、外敵を防ぐための十全な警備体制を敷くことが出来る等、天然の要塞ともいえる場所だ。
 故に、この山に集団が集まるのは当然と言える。それでも、妖怪たちが社会を作り苦に同様の組織を作り出したのは驚くほかない。元来妖怪というのは自分勝手で、あまり周囲と群れないものだ。それが助け合い、支配階級が生まれる国を作り出すのは珍しいといえる。
 千差万別、強者弱者、多種多様の種族が住まうこの山を統制するのは至難の業なのは言うまでもない。それを可能にしたのは一重に統治する側の鴉天狗をはじめとする天狗と呼ばれる種族の能力と、頂点に位置する天魔のカリスマ性によるものだろう。
 外の世界で例えるならば、会社や……もっと暴力的に言えば極道組織に近いともいえない。上に親がいて、下に子分がいる。仁義の世界ともいえた。
 実際天魔は鬼が居なくなって以降、より厳格な法を制定し、執行するための機関を造りだした。法により治めることで、平和が出来それが新たな発展へと進む。勿論鬼がいたころから法はあった。しかし鬼は絶対的強者であるがゆえに法は大分ずさんなもので、結局彼らの最大の協力者である天魔が現在まで続く法の原型を作り上げた。
 天魔は政治の才能に長けていた。法を独自に作り上げた知識もあるが、それだけではない。圧政は反発を生むだけだ。多種多様な妖怪たちが住めるよう、人間と同じように商いをすることが許可され、山の至る所に市がある。また代表的な例として、河童には専用の工房地帯が宛がわれる等、只圧政を敷いたわけではない。
 そして治める側である天狗たちにも厳しい法が適用され、虐げることを禁止している。衣食住、そして経済が認められ更に軍事力も持っている……まだまだほかにも要素はたくさんあるが、少なくとも国と呼べてもおかしくないだろう。

 が、法を敷き治めるが故に発生する闇の部分も存在する。天魔に反発する勢力も数多くいた。元々法律というのは物事に線引きをし、白か黒かをはっきりするためにあるものだ。故に発生するグレーゾーンが問題になる。つまるところ、警察にあたる警護団がしょっぴくのが難しい非常に悪どい犯罪がどうしても発生してしまう。
 法があるからこそ警察も存在するが、逆に法に限界があるために蔓延る悪もまたある。法では完璧に悪を殲滅することは不可能なのである。光あるところに影があるのと同じなのだ。

 だからこそ、組織の闇においてそれらをさばく存在が必要になった。決して誰からも好かれぬ血塗られた仕事であり、暗部。
 組織された歴史は古く、確認されているモノだけでも千年以上前までさかのぼる。鬼がいた時代からあったとされている。
 鬼が去った後の仕事は主に、法で捌けない犯罪者の処断。そして脅威の未然の排除。鬼がいた頃は権力闘争の道具で使われていたと言われている。
 故に山において最も恨まれる部署であり、人員も、構成も全て不明であった。
 わかっているのは司令官が天魔だという事だけだ。構成はトカゲのしっぽの様に、使い捨てのしやすい白狼天狗ら力の弱い天狗が多いとされている。実際かかわっていたモノの多くは白狼天狗だった。
 無論、それら天狗からの反発もあった。白狼天狗も誇り高い生き物である。そんな汚い仕事はできない、と衝突も起きた。それがとある一族をめぐる大事件へと発展したのだが……。
 
 とはいえ、時代が経てば組織構成も見直される。元々損耗が激しい部隊だけに出費もかさむし人件費も高い。故にその殆どが解体され、今ではほんの一握りが残るのみだ。
 だが逆にそれは個人の密度を増すという事にもなった。残ったのは暗部の底を知る実力派であり、とりわけ実力が高いモノばかりであった。有象無象がいたかつてより、むしろ精強になった。
 より一層秘匿性を増した組織。スペルカードルールが制定され平和になった現代の世界においても、彼らは確かに存在していた。
 そして今日も……。


 妖怪の山から北北西に2里。時刻は丑三つ時。幻想郷が眠りに包まれている深い森の中、一人の中肉中背の妖怪が走っていた。裕福なのか、装飾が入った衣服だ。男は妖怪の山でおもに香草の商いを行う鴉天狗だ。山の上層部にもコネがあり、中々に繁盛していた。
 と、言うのが表の顔。裏の顔は禁止品の売買だ。彼はある禁止薬物を売買していた。カプセルタイプの薬なのだが、奇妙なことに開けてみるとその中は空なのだ。しかし服用すると忽ち効果が表れ、めまい、幻覚等の症状が出た後死に至る。しかもきわめて少量が出回り、且つルートは複雑故わからない。この男も仕入れただけだ。ブローカーは見つかっていない。
 被害者である天狗たちも山に症状が出ても認知されていないためについ先日まで奇病として処理されてしまい、薬の存在すら不明であった。
 しかしつい先日、被害にあった男性宅からそれは見つかった。たった一錠ではあるが貴重な証拠である。しかしどこから手に入れたのかわからない。原因となる薬は発見できたが、ルートが見つからなかったのだ。

 そう、今までは。

 危ない商売に手を染めればそれ相応のリスクを背負うのは当たり前のこと。そして男はついに、その境界を超えた。彼はその薬との接点があった。巧妙に隠してはいたが、痕跡は僅かなりとも残っていた。それが彼らの目に留まった。
 証拠不十分、法律の面でいえば相変わらずグレーである。最大の証拠である薬と男を結びつける決定的なモノが見つかっていない。故に、山の法廷では裁くことが出来ない。だが彼は黒である。誰もがそういう。犯人であることは明確なのに、裁けない。指をくわえてみているしかない状況であった。しかし……彼女はそれを許さない。


 自分は一体どこで間違えたのか。男は吐き捨てるように悪態をつく。鴉天狗は最速の種族と呼ばれている。しかしそれは常日頃から鍛錬を行い、空を飛びまわっていた者に当てはまる言葉で、空を飛ぶことなく商いに精をだし豪勢に過ごしてきたツケが回っているためか羽ばたく速度に見る影もない。
 もう半刻ほど走り続けただろうか。最初は羽を使い飛んでいたが、空ならともかく縦横無尽に木々が生い茂る森の中では満足に使えないし前述のとおり、すでに疲労により羽を羽ばたかせることすらできない。
 背後を振り返り、山の姿が小さくなったところでようやく男は足を止めた。すでに滝のような汗が流れ、豪華な衣装も汗を吸い重い。それを不快に思いながらも息を何とか整えようと膝に手を置き、肺を空気で満たすように大きく呼吸をする。
 追っ手の気配はない。何とか逃げ切れたようだ……と判断した、その時だった。
 汗でベトベトする首に何かがときついたかと思うと、胸にすさまじい痛みが走り、同時に上へ巻き上げられた。突然の事態と、己の体重により首が絞められていることによる痛みで混乱する男。どうやら縄のようなものが首に巻きつけられている。必死に取ろうとするが取れない。
 突然な事態に遭遇すると人は当たり前の行動もとれなくなる。この時も飛べば逃れられたのだが、何しろ事態が急であり、不運なことに羽も痙攣して満足に動かせない。そしてこの縄もまた対妖怪用の特別製であった。

「厄神が作った特注の縄だ」

 抑揚のない、まるで機械の様に冷たい声がしたから聞こえてくる。見ればいつの間にか、そこには一人の女性がいた。白髪、白い耳と尻尾を持った妖怪である。彼女の足元に地面に刺された杭に縄が結ばれ、男がつるされている木の枝を伝い、首に巻きついていることが月光に照らされ判断できた。おそらく、その木の枝から男の首に縄を巻き、そして全体重を乗せ枝から飛び降りることで、滑車の原理で男を吊り上げたのだ。
 縄の両端にはナイフがついており、特に男の首に巻かれたほうのナイフは引っかかる形で肉に食い込んでいることから、鋭い返しがついているつくりになっている。しかも退魔の力を持つ術式が組み込まれているのか肉が焼けるように痛い。もう片方は地面に突き刺す杭の形になっている。いくら耐久性において人間に勝る妖怪とはいえ、人体を持つ身。急所の多少の違いはあれど、呼吸ができないというのは極めて危険なのである。刺さった部分から血が流れ出しており、焼け焦げ始めている。呼吸困難と失血により非常に危険な状態だった。
 人間であれば失血と呼吸困難による死亡だろう。だが男は妖怪である。万全をきす、とばかりにその縄からは顔をしかめるほどの厄が体にしみこんでいく。男の命を蝕む毒のようにも思えた。逃れなければならない、懐を探ると運よく一振りの短刀を持っていた。すぐさまそれを腰から抜き、縄に充てる。しかし、刃を引こうとした直後短刀がポキリと、まるで木の枝の様に折れたではないか。驚愕の表情を浮かべ唖然とする男に対し白狼は特段驚く様子を示さない。
 想いとは魂の塊であり力。特に怨恨等の負の想いは強く、その象徴が厄。妖怪は精神の影響を受けやすい。とりわけその縄には男の所業による被害者の恨みつらみが込められている。故に生半可な気持ちではこの縄は切れないのだ……見上げる彼女はそういった。
 だがそれはあり得ないことだ、と男は絶叫する。なぜなら彼らは薬の効能を知っている。気持ちよくなれる薬だとか、そういった効能を承知で使ったのだ。仮に売ったことが悪いとしても、恨むのは筋違いではないか…と徐々に息が続かなくなりながらも必死に訴える。
 白狼は頷く。男の主張は商い上正しいし、理にも適っている。承知だったとか、だまされたとか関係なく安易な道に走った被害者連中が愚かなのは間違いない。
 だが、と白狼は宣告する。その縄に込められた厄は正確には被害者の『家族』の恨みである。大切な家族がこうなった。安易に薬に走った本人に対する怒りもあるが、それ以上に平気でそれを売りさばく男に対しての怒りが、恨みが深い。この縄にはそれが込められている。怨恨も何倍にもなっている。
 無論破る方法はあるにはある。妖怪のように精神力がモノを言う存在の場合、精神力は何よりも力を言う。善悪のタガが外れているか否かにより、力の次元もまた変わる。もし男が悪いことをしていると自覚していながら、良心の呵責の一片たりとも抱いていなければこの縄は簡単に斬ることが出来る。それこそサイコパスのように悪事を働くことに対し背徳心がなければ……豆腐を斬るよりもたやすいだろう。
 しかし短刀は切ることはおろか、縄に負け折れてしまった。男の心のどこかに良心の呵責があったという事だ。どす黒い吐き気を催すほどの悪意とは、そうした中途半端なモノなのだと白狼はもがく男に告げる。いっそすがすがしいほどまでに『悪』であれば、逆に尊敬に値すると。
 心が痛む余地があるのなら、手を出さなければ良いのだ。そんな独りよがりの独善的な思考により不幸を被るモノがいる。それこそがこの世で最も醜悪なモノである……とどうやらこの白狼は考えているらしい。
 男が今こうして捕まり、処刑されているのもすべては男の『覚悟』が未熟だったからだ。未熟な精神力では敵う者も敵わない。
 どうすることもできず、ジタバタともがくがそれが逆に首を絞める結果となり徐々に意識が遠のいていく。いっそのこと楽に殺してほしいくらいだが、目の前の白狼はただ冷たい目で見つめているだけだ。

「貴様には聞くことがある。素直に答えれば……」

 生に少しでも縋り付きたい。喋れば助かるかもしれない。まともな思考が出来ていない男は藁にもすがる思いだったろう。
 白狼は淡々と質問をし、男はしどろもどろになりながらも答える。縄が食い込み、意識が飛びそうになると白狼は縄をいじり適度に衝撃を与える。
 拷問にも似た尋問を行う事十分。男からはもう聞き出せることはないと判断したのか、不意に白狼は背を向けた。
 男は絶叫する。助けてくれるんじゃないかと。もがけばもがくほど首が締まるのに少しでも生きながらえようと足を振り回し、叫び続ける。余りにも醜い有様であった。
 助けるとは言っていない……白狼はそう吐き捨てた。そも助けるつもりなど毛頭ないし、義理もない。簡単に殺さず、苦痛を与え徐々に命を削り取る。男の場合はまだマシな方だろう。この白狼が持つ処刑・拷問には更にむごたらしいモノがあるのだから。
 徐々に薄れる意識の中で男は思う。善悪のタガが外れたのなら……目の前の白狼はどうなのか。霞む視界の中、月光で照らされたその女性の顔を見て……男は理解する。
 その女性はゾッとするほど冷たい目で自身を見上げており、そして……その瞳は深く深く、底が見えない程に暗い色をしていた。がらんどうな眼。
 ああ……なるほど、この女は躊躇わない。純粋に自分を殺す……善良な意思等欠片もない悪鬼なのだと。そしてあの組織に属するのはこういう奴らなのだと……。そうして男の意識は永遠にその手から手放されたのであった。
 

 


 数刻後、あとわずかな時間で夜明けになる中、妖怪の山の警護団を取り仕切る大天狗の屋敷。こんな夜更けに訪れる者はいるはずもないが、大天狗は起きていた。火鉢を囲み、冬空で冷える体を温めながら彼はじっと待ち続けている。
 静かな部屋に響き渡る、天井の叩かれる音が2回。ネズミの類ではない。大天狗は驚く様子もなく、見上げることもせず、火鉢の火を眺めたまま降りろとのみ、言い放った。すると天井板が一枚外れ、一人の女性が身を下ろすと、音もなく畳の上に着地する。
 少しして背後に着地した女性に振り返ると、そこにはすでに正座をしている姿があった。白い耳に尻尾、白狼天狗である。
 白狼天狗が夜遅くに大天狗の部屋に来ること自体異例なのに、雲の上の存在である彼にその白狼は全くといっていいほど臆する様子を見せていない。

「警備は?」
「あれでは先が思いやられます」
「主と一緒にせんでほしいな。あれでもキチンとこなしている」

 声を出さぬよう、堪えるように苦笑する。警護する者は夜更けでも仕事をしている。実際障子を挟み、庭にはすでに幾人かの天狗が居るのだ。この白狼は彼らに気づかれることなく潜入してきたことになる。この白狼が敵だった場合大変なことだ。いずれきちんと教育を施す必要があるだろうが……この白狼と彼らでは経験の差がありすぎるのだから仕方あるまい。
 この白狼は種族の差を経験で補っている。サバイバル、殺人、戦争、そして諜報。幼いころより徹底的に実践の経験を積んできた。鬼に鍛えられ、外の大陸で傭兵まがいの活動もしていた。大天狗の屋敷を警護する天狗たちは良家の子。つまりお坊ちゃまが多い。武芸を積み強くはなっているだろうがコネで上に成り上がったものが多いため、命のやり取りまで行く苛烈な戦闘経験は少ない。百聞は一見にしかず、白狼が勝るのは当然と言えた。
 ならばこの白狼を護衛につかせればよいという案もあるが……やはりそこは種族の問題がある。白狼天狗が上に立とうとすると問題があるのだ。この白狼もそれを理解しているのか、決して上の地位に座ろうとしない。しがらみは持たぬ方が良いのだ。年齢は千を軽く超えるのに未だに下っ端の哨戒天狗なのはそこである
 白狼は無駄話を好まない。最低限のことを言うのが命を守る上で最良だと理解している。故に無言で懐から装飾物を取り出した。それは先ほど殺害した男の首飾り。暗殺官僚の証明だった。大天狗はそれを受け取ると二度頷き、しまいながら労いの言葉をかけた。
 そう、こうした裏の仕事を判断するのは天魔だが、下すのは大天狗の仕事なのだ。人狼は上の命令があって初めて動ける。現場の判断も時折必要になるが、上の後ろ盾があるからこそある種の安心感を得られるのだ。法律というのはできるまでに多大な時間が必要だ。遡及するのか、と言った様々な問題が生じるため、いざという時に効果を発揮しない。故にこの仕事は時間との勝負なのである。

「やはり元を断たねばならぬか。男の拷問から挙がった者たち。どうする?」
「始末はたやすい。故に、泳がせるのが吉かと」
「そうしよう。男の方も事故死にしておく」

 今回は幻想郷に現存する劇薬が少量だったのが功を奏した。だが法が制定されなければ更に被害者は増え、より犯罪も多角化していたに違いない。その原因となる薬を破棄出来た。が、生産していたと思われる元凶はまだどこかにいる。それを断たねば真の解決にはなるまい。今後は時間との勝負になるだろう。

「それはそうとまた覆面をかぶらなかったのか」

 重苦しい空気を換えようと思ったのか、おもむろに大天狗はそんなことを言い出した。顔を合わせる白狼は素顔を晒している。先ほど男を殺した時も素顔のままだった。大天狗は困ったようにため息をつく。

「覆面があるのはその者が誰なのか隠すためのモノ。こうした任では、殺される者は決まって執行者に恨みつらみを抱くものだ。それは厄を生み、いずれ執行者に取り返しのつかない災厄を与える。それを避けるために被るものなのだぞ」

 厄から逃れるため、覆面をする。また、執行者の心を少しでも守るためでもある。しかしこの白狼は決して覆面をかぶろうとはしない。その理由も知ってはいるが……言わずにはいられない。行き過ぎた厄を背負えばとてつもない災厄が身に降りかかる。それこそ、命を失うほどの……。
 目の前の白狼は優秀すぎるほどに優秀な人材だ。大天狗としても失うことは避けたいのが現状。対策を講じてはいるが……それらをこの狼は無碍にする。
 今回もこちらの気遣いに対してもこの白狼は一切表情を変えず、抑揚もなく

「是非もありません」

 と、只一言述べるのみ。死を恐れていないのか、もしくはただの大ばか者か。無表情のその顔から真意は読み取れない。
 無駄とは思いながらも、念のため次は覆面をつけるようにと命令し報酬として分厚いのし袋を渡す。
 バレたら終わりの任務だ。報酬も豪華になる。実際中に入っていたのは何センチもの分厚さがある大判だ。貨幣制度が普及し、明治以降ある程度は幻想郷にも伝わってはいるが、それでもかつての貨幣である大判は大変価値がある。この報酬だけでも家が建つほどだ。
 逆に受け取るのをためらうほどの額を白狼は躊躇なく受け取ると、懐にしまう。謙遜しない、それも組織で生きる上で時に必要になるスキルである。

「隠すことは……私には意味をなさないものです」

 どこか自身を案じる大天狗を気遣ってか、その言葉がまた黙らせる。そういう仕事をやらせているのはこの大天狗なのだ。心配する位ならそもそもやらせなければいいだけの話である。暗に彼女は彼の覚悟の未熟さを批判していた。
 しかし大天狗の言葉にも一理ある。物事には例外がある。この裏の仕事もそう。見つかれば人生終わりの仕事を、あろうことかこの白狼だけは世間にばらしている。いや、正確にはバレており、周知の事実となっている。
 白狼天狗はただでさえ天狗社会において地位が低いのはすでに述べたとおり。つまり他の妖怪以上に白狼天狗が妖怪の山で生き延びるのは難しい。それも裏の仕事となるとなおさらだろう。

 けれど、あろうことかこの白狼の所業は知れ渡ってしまっている。勿論発端は事故ではあったとはいえ。
 それでも生き残ってきたのは……この白狼の恐ろしさ所以である。排除しようとした者もいたが、皆……返り討ちになった。もしくは大天狗や天魔が彼女をかばった。有能な人材を無駄に捨てることなどできないから……だろう。
 そもそも社会的にもこの白狼が裏の仕事に関わっていたことを知った際、驚くよりも「ああ、やっぱりな」という声が多かったのはここだけの話だ。この白狼、明らかに堅気の者ではなかった。
 何しろ素性がばれる前でも、色々と話題に上がっていた。ばれたところで大した問題ではないのかもしれない。何しろこの白狼はしたたかだった。上とのパイプも持っていた。
 バレたら最期、殺されるまで狙われ続ける運命の中で唯一例外である彼女が今もなお生き残るのは、彼女の場合獣特有の生存本能というべき……ある種の特性があったからだ。退くべき時を知り、攻めるべき時を知る。攻めるときは徹底的に。生き残る上での重要な要素を体で理解していた。

「それでは」

 彼女は元々会話を好むタイプではない。気心の知れた大天狗とはいえ、無駄な会話を省く。畳に手を突き深々と頭を下げた後、立ち上がる。そのまま去ろうとしたその後姿に思い出したかのように大天狗が声をかけた。

「待て、椛。主は此度の元凶……どのように考えている」

 犬走椛……一匹の白狼天狗は背を向けたまま、しかし静かに向き直ると再び正座する。
 大天狗が問うているこの奇妙な薬による死亡事件。麻薬とは似て居る様で違い、また死亡している者がいる。皆が天狗であり、それなりの地位につくものだ。何か作為的なモノがあるとしか言いようがない。

「大天狗様のお考えは」
「一人……心あたりがおる」
「私も同じです」
「……だが、それはあり得んことだ」

 紫がいればすぐに解決した問題だが……生憎彼女は冬眠中だ。アレの討伐はたやすいが……討伐をしてはいけない。『止める』ことが大事なのである。
 
「椛」

 最悪な状況を想定し、大天狗は決断する。今回の一件、狙われているのは皆妖怪の山の者たちばかりだ。つまり、真っ先にここが狙われる。これは明確な挑戦である。
 吸血鬼異変以降、平和になった山を脅かす存在は、決して許しておくわけにはいかない。何が起ころうと、どんな犠牲を払おうと打ち払う。それが古来より続く山の掟である。
 ズイッ、と身を乗り出し今まで以上に真剣な表情を見せる大天狗。その顔には先ほどまでの椛の身を心配する様子等まるでなく、冷徹な……心を閉ざし命令を下す上司の姿があった。

「……何をしても構わん、必ず止めよ。最悪は死ね、山の為に」

 山の兵力を裂くわけにはいかない。応援は向かわせても、犠牲は少ない方が良い。故に最も危険な仕事を目の前の白狼に与える。命の保証はせず、故に死を覚悟せよ。死んで来いと言える命令だ。死に兵である。絶望すらしそうなそれを椛は只頭を下げるだけで受け入れた。命を捨てるなぞ、朝飯前だと言わんばかりに。
 話は終わりだ、と椛は立ち上がる。どのみち準備がいるからだ。しかしそんな彼女に大天狗は再度呼び止めた。仕事はすでに終え、このまま帰って休むだけのはず。

「……と、まあ今の命令を出しておいて、大変言いづらい事なのだがな」

先ほどまでの表情から一変、困った顔を浮かべながら申し訳なさそうに頭を掻くその姿に……呼び止められた椛は表情一つ変えず、再び大天狗に向き合うと文句ひとつ言わず座布団に座った。
 命を捨てろという命令は問題なく受け入れたのに、今度の命令は……この時ばかりは無視してでも帰るべきだったと……珍しく椛は後日後悔したという。


◆  ◆


 椛がそんなやり取りをしていたほんの数時間前……この日の宴会は一風変わっていた。守矢神社で行われたそれには、普段参加する妖怪たちだけでなく、大天狗をはじめとした珍しい妖怪たちが数多く参加していたのだ。
 そして事の発端はその中で行われていた一つのゲームである。

「王様ゲーム!!」

 程よく酔った魔理沙が意気揚々と宣言すると周囲の有象無象が一様に動きを止めた。先ほどまで酒に酔い、ある種の地獄と化していた宴会がピタッと止まったのである。すわっ、何事か……実は皆それぞれにトラウマがあった。

「よぉぅし、もう知ってるかと思うがルールを説明するぜ」
「はいはい……さっさと始めましょう」

 ヒートアップする魔理沙をよそに霊夢は諦めているのか道具を用意する。無理に止めようとすれば逆に狙われるのがオチであることを、付き合いの長い彼女は良く知っていた。
 割り箸に王様の印を書き込み箱に入れ、一人一人にそれをひかせていく。

「じゃあ行くぜ! 王様だーれだ!?」

 魔理沙の号令と共に一斉に割り箸を見る。王様は……

「私ね」

 大さまくじを引いたのはなんと西行寺幽々子。全員が身構える。こいつはやべぇ……と。何しろあの紫と双璧を為す何を考えているかわからん女だ。幽々子はしばらく考える素振りを見せて

「そういえば、先日神社に行ったらいきなり針を投げつけられたのよねぇ。大事なおまんじゅうを私が食べたとか難癖つけて。結局食べたのは紫だったけれど」
「ギクッ」

 霊夢が苦虫を潰したような顔を浮かべる。始まった。この妖怪、こういう遊びになるととことんおちょくるのである。自分が指名されるのではないか、という怯えを逆手に取って楽しむ悪趣味ぶりだ。これで紫よりもマシなのだからたまったもんじゃない。
 まぁもっとも、その大半は過去の行いによる自業自得なのだが……王様である彼女に文句を言えば何をされるかわかったものではない。
 と、あらかた皆をいじくり回し、全員の忍耐をレベルアップさせたところでようやく目星の人物に目を向けた。

「そういえば新聞屋さん。先日はうちの妖夢の記事をありがとうね」
「え、あ、いや……どうもどうも」

 いきなり話題を振られ、かつ礼を言われた清く正しい新聞記者射命丸文は狼狽えながら頭を下げる。何故褒められたのか、全くわけがわからない。

「ただ……ゴシップは勘弁よ。なによあれ、妖夢が倒したのは3人。後の2人は自滅したの」
「い、いえ……でも、そのきっかけは妖夢さんですし」
「駄目よ。5人と3人。倒したか自滅したか。それは大きく変わるモノ。事実を伝える新聞記者なら尚更ね」

 先日妖夢が妖怪たちに襲われそうになった橙を助けたことがあった。未熟者ではあるが、そこらの木端妖怪に負けるほどの弱さはない。3人を瞬く間に倒したため、驚いた残りの2人が自滅した……その事件を文はあたかも彼女が全員を倒したと述べた……それを咎めている。
 幽々子の隣にいる妖夢は縮こまっている。彼女は怒られたのだろうか、それとも褒められたのだろうか……。おそらく両方だろう。
 橙は純粋に礼を言い、役に幽々子は5人全員を倒すうんぬんよりも、そんな記事を書かれるような状況におかれたという点を咎めたのだろう。発見されるというのはこの上無く厄介なのだ。実際、しばらく妖夢は周囲にもてはやされ、若干増長しているところがあった。

「数字も、情報も正確さが大事。少しでも間違えれば全く違う効果を生むわ。数式と一緒。ゴシップが人気なのだろうけれど……うちの家族を巻き込むのはやめていただきたいわね」
「は、はあ……すみません。いや、ゴシップというのは……」
「おだまり」

 褒められたところから一転、説教モードに入り平身低頭の文。全員が悟る。どうやら今回の彼女の相手はこの烏天狗だと。

「ということで王様の命令。あなたの一番苦手なモノを取材してきなさい」

 は? と文が止まる。今の話の流れから何故そんな命令が出てくるのか。それは他の面子も同様で皆一様に固まっていた。

「一番苦手なモノを取材する。人は苦手なモノを忌避しますわ。しかし取材となると何かしら情報を得なければなりません。あなたはゴシップ記事を書きますからきっとあることないこと書いて、極力触れようとしないでしょう。ですからゴシップは禁止です。きちんとあったことを、事実を、真実をありのまま記事にしなさい。判定はここにいる一同全員が行うわ。委員長は藍にお願いしましょうか」
「はい?」
「妖夢と長年の付き合いだったあなたなら間違った評価に対しての苦渋がわかるでしょう? 本当は紫に頼みたかったけど彼女冬眠中だし。この際だから一つ味わってもらいましょう。記事とは何か、記者とは何か」

 文は確かに起こったことを記事にする。ただし、あることないこと吹き込む。また、今回の場合妖夢が妖怪を退治した、ということについてだが……それは事実ながらも、誇張した。それがいけないと妖夢は断ずる。彼女の今後の成長にも悪影響を与える…と。
 記者にとって最も必要なのは、正確な情報を一字一句余すところなく伝えることにある。記者の考察や、捕捉等というのはそれからなのだ。
 それは文自身の記者道を変えろと言うことに他ならないのだが……。

「私には……私なりの記者の道があります」
「わかっているわ。あなたの記者道を別に否定する気はないの。ただ……知るべき。虚と真の境目を……と、紫なら言うでしょうね」

 そう言われてしまっては、当の本人は大天狗がいる手前、逃げることもできず幽々子の発言に納得できないながらも従うほかない。普段なら上手く逃げただろうが……この状況では無理だろう。

「で、幽々子。苦手なモノって何を取材させる気? ゴキブリとか?」
「いや、それは勘弁してください。割とマジで」

 少女足るモノ、そういうのはマジで駄目である。というか、そんなものの記事を書いたところで誰が読んでくれるというのか。真実を書くことも重要だが、やはり……読者が食いつくネタでなければなるまい。
 霊夢の質問と、全力で拒絶する文を尻目に扇子で口元を隠し考える素振りを見せる幽々子。
 文にとって苦手なモノ、他にもあるが……漠然としすぎてやしないだろうか。そんな2人に魔理沙が提案した。

「苦手なモノって言っても際限ないしなぁ。うん、人とか物事でどうだ? 特集記事を組むでもいいぞ」
「それもそうね。ねぇ文、あんた苦手なモノ、というか人っている?」

 苦手な人……記者という職業上そんなものあってはならないが……。まぁ、いないこともない。思わず本音がポロリと出る。

「紫さんや、幽々子さん、幽香さん……ですかねぇ」
「あら、それってまるで私が性格悪いみたいじゃない」
「その羽根もぎ取ってやろうかしら」
(それがあるから苦手なんですよぉ……)

 紫は裏の裏をかくような喋り方で底が見えないし、幽香に至っては最悪実力行使で排除してくるから苦手だ。幽々子は言わずもがなである。過去何度か取材はしているが、芳しい結果は得られていない。とはいえ、知った仲であるならマシな選択肢といえる。

「そういう連中か……面白くないなぁ」
「あの、それって私に選択権無いんですか?」
「あたりまえでしょう? 私は王様なのだから」

 ぐぅの音も出ないとはまさにこのこと。気分は正にまな板の上のコイといったところか。

「でもさぁ……その方向以外で行くと文に苦手な人物なんていなくない?」
「それもそうねぇ。というか、いたら記者として致命的よねぇ」

 飯の種を得た周囲はここぞとばかりに文をだしにして盛り上がる。
 考えてみれば文ほど社交的な妖怪はいない。山の社会からは疎ましく思われていても、山の外に取材に赴き、あらゆる組織に接触している。そこまでの行動力がある妖怪……その彼女に、苦手な人物が居るのだろうか。会場ではいつの間にかその人物を当てるゲームのようなものが始まっていた。
 最早止める術を持たない内心冷や汗だらだらの文は、せめてマシな人物でありますように……と願うしかない。
 これって新しい虐めじゃないかとも思う中、オズオズと手を挙げる一人の人材がいた。……河城にとりである。文をよく知る人物の一人で、周囲からせかされたのか、大変申し訳なさそうな表情を浮かべていた。文と幽々子を交互に見て、その恐ろしさから後者に軍配を上げる。ごめん、文。あなたのことは一生忘れない。

「あの、たぶん……椛じゃないかな」

 場の空気に圧され詰まりながら発せられたその言葉に文のみならず全員が反応する。特に文の反応は顕著で、狼狽した顔を浮かべていた。よりにもよって、その人物を押すとは……。

「だ、駄目です! 彼女だけは、絶対に! ……あ」

 ドツボに陥るのが目に見えているのに露骨な反応を示す文。気が付き呆けた声を発した時にはもう遅い。それが決め手となってしまった。周囲がいよいよざわめきたつ。

「その反応……決まりね。椛って確か……」
「犬走椛だよ。白狼天狗の」
「ああ……そういえば前にいたわね、そんな奴」

 以前、守矢神社がやってきた事件で妖怪の山に侵入した際、九天の滝で遭遇した天狗のことを思い出した霊夢は手を叩き頷く。弾幕ごっこでは大したことない奴、中ボスその1だったが、独特な雰囲気を持っており、近寄り辛いな、という感想を持っていた。

「でも天狗でしょ? 新聞にしてるんじゃない?」
「いやぁ、それが。椛に関しては限りなく少ないんだよね。まぁ、特有の事情があるんだけど」

 余計なことを、と恨みのこもった視線を向ける文のプレッシャーと、そしてなぜか大天狗や天魔の睨みに怯え尻すぼみになるにとり。残念なことに彼女の命運はすでに尽きていた。とはいえにとりの言うことも事実で、妖怪の山の連中が記事になる量を考えた際、椛の記事は極端に少ない。最近では将棋についてくらいだ。ネタがない、というのもあるがまるで忌避している感もある。……記者としては聊か異常なレベルと言えよう。

「と、とにかく! 椛はだめです! 命がいくつあっても足りやしません! 他の人ならいくらでもしますから勘弁してください! それこそ幽香さんや幽々子さんでも構いませんから!」

 その言葉が全くの誇張表現でないのは確かだ。実際以前はたてに急かされ椛の取材を行った折、いきなり噛みつかれそうになった。
 あの後の手帳には精一杯の虚勢を書き込んだが、内心は生き残ったことに対する安堵感がものすごく強かったのはここだけの話である。

「決まりね。犬走椛の記事を書きなさい」
「で、ですから!」

 身の危険を訴えるが聞き入れてもらえない。逃げ出すことも考えたが、ここには大天狗がいる手前、それもできない。その大天狗に目を向けると、彼もまた、難しい顔を浮かべていた。

「だ、大天狗様も何かおっしゃってくださいよ!?」
「……うむ、西行寺の。犬走を選ぶのは些か問題が……」
「あら、いいじゃない。むしろ良薬になると思うけど? 記者とは何か、情報とは何か……今一度勉強しなおしなさいな、天狗さん。それに大天狗としても頭の痛い問題が一つ、解決するかもしれないじゃない」
「む、むぅ……」
「だ、大天狗様?」

 大天狗にも思うところがあるのか、言い返せる余地があるにもかかわらず、黙ってしまった。はたてに目を向けるがそらされてしまった。同じ記者として、巻き込まれるのは勘弁なのだ。唯一の助けにも見放され、絶望が心を覆う。
 今までにない彼女の狼狽え方にさすがに魔理沙も異常を感じたのか、おちょくるのをやめ、真面目な表情で幽々子に声をかけた。

「お、おい幽々子……ありゃ、マジでやばいんじゃないか? 初めて見たぞ、文のあんな顔」
「あら、王様に意見を? 別に魔理沙でもいいのよ?」
「い!? いやいやいや、別にそういうわけじゃないんだ。ただ、文の狼狽え方が異常というか……」
「安心しなさい。保険は掛けるわ」
「へ?」
「王様が命令していいのは一人……とは限らないでしょ?」

 再び周囲に戦慄が走る。魔理沙に恨みがましい目を向ける周囲の反応をよそに、幽々子は続ける。

「射命丸文がきちんとした記事を書けるかどうか客観的に見届ける人材が必要よ。不正の防止ね。ということで、その任を姫海棠はたてにやってもらうわ」

 はたては文の良きライバルであり同業者であることから、同じ新聞記者の観点から監視を行う。ある種適任ともいえた。当のはたてはあからさまに嫌そうな顔を浮かべたが、ここで文句を言えば間違いなく不利な命令を出されるため口をつぐんでいた。

「じゃ、そういうことで。期限は無期限、記事は一つでいいわ。でもあまり出来がひどいと後が怖いわよ?」

 不服そうな……特にまだ文句を言いたげな二人を尻目に、ゲームスタート、とばかりに手を二度叩き、幽々子は笑顔で宣言したのだった。




 そしてその翌日。半ばヤケを起こし、酒を飲みまくった挙句宴会会場でふて寝を決め込み、結果二柱からたたき起こされた文は、片付けを始めていた周囲が促すがままイヤイヤ椛の下へと向かうことになった。
 個人的にはせめて風呂に入り酔いや、臭いなどを落としておきたかったが、そのまま逃げるのではないか、という周囲の懸念もあり、引きずられる形で山の中を飛んでいた。
 ちなみに彼女を連れているのははたてと、心配したのか様子を見に来た早苗である。

「あの……みなさん? できればもう少し、ゆっくり行きません?」
「駄目ですよ。これでも大分ゆっくりなんですから」
「それはそのぅ……というか、なんで早苗さんまで居るんですか」
「皆さんより短いとはいえ、私も椛さんとはそれなりに付き合いがありますから。少しはマシになるのではないかと」

 昨晩大雪が降っていたためか膝まで埋もれるくらい雪が積もっている。元々道が整備されているわけではないため飛んだ方が早い。道中にいた天狗らに椛の居場所を聞き、たどり着いたのは小川が流れる森の中であった。

「あれ? 確かにここにいるって聞いていたんですけれど」

 降り立ち、膝まで雪に埋もれる状況に驚きながら周囲に誰もいないのを訝しがる早苗。

「あのぅ、どこか行ったんじゃないですかね? ほ、ホラ……いくら晴れているとはいえ寒いですし、早く神社に戻りましょうよ」
「駄目よ、聞いた話じゃ確かにここで狩りをしているって言っていたし。絶対に見つけ出すわよ。上も狩猟許可出してたしね」

 未だに逃げようとする文の首根っこを摑み、頭を掻きながらはたては早苗と共に周囲を散策する。椛は日も上がらぬうちに大天狗に狩猟許可を願い出、受理されたそうだ。
 妖怪の山には多数の獣がいるが、その閉鎖された空間故、山の中で狩猟を行う際には許可がいる。それには期間と場所を記入し提出、そして受理されるという決まりなのだが、そこに記されていた場所がこの近辺であった。

「しかし……狩りですよね? その割には獣の姿形見えませんが」
「まぁ元々冬で、冬眠している者もいるだろうし。とりあえず、地道に探しましょう」

 雪に埋もれるのも嫌なので、地面すれすれを器用に飛ぶ。凍える冬の風が冷たいが、雪に塗れるよりかはましなのだ。
 
 ついには森を切り抜け、切り立つ崖との境目に出た。崖と森の間にはわずかな空間ではあるが開けており、木々の影響を受けず雪が森の中よりも深く積もっていた。
 と、その時雪に埋もれた茂みが揺れた。鹿だ。どうやら早苗たちのやってくる気配に気づいたらしい。野生の獣はそういった危険察知が極めて高いのだ。
 背を向け逃げようとする姿を見ながら鹿の肉も美味しいよなぁ……と早苗が呆けていると、突然目の前の雪が盛り上がった。
 進行方向だったので3人は驚き急停止。盛り上がったのが人だと判別できたのは、まず手である。雪の中から現れたそれは、右手を横なぎに振りぬいた。
 それが投げナイフだと早苗が理解できたのは、日の光で輝いた鈍い銀色のそれが、逃げようと鹿が走り抜けた木の幹に刺さった時である。鹿はそのまま脱兎のごとく走り去ってしまった。かのメイド長が如き素早さであった。

「…………」

 場に漂う並々ならぬ空気。その人物は何も言わず背を向けたままだが、文たちの登場により鹿が驚き、逃げ出したところを見ると……狩りの失敗の原因は文たちにあるようだ。

「……椛、そこにいたのね」

 若干警戒したまま、はたてが声をかける。まだ雪がこびりついているが、持ち前の白い髪と耳、尻尾で今一判別できない……その人は、まぎれもなく探し人犬走椛であった。
 いつもの天狗服だが、腰にはベルトがまかれ、いつもの大剣ではなく短刀の鞘を指しており、ベルトには鹿の腿に刺さっているのと同じナイフが複数収められている。

 呆れた様子のはたてがつぶやく中、文は完全に身構え、早苗はまだどこか呆けていた。しかし声をかけられたその人、犬走椛は3人に目もくれず、ナイフの刺さった木まで歩き、それを抜くとホルスターにしまった。聞こえている筈なので無視をしているようだが……まぁ、仮に失敗したのだから面白い筈はあるまいが。早苗には文を逃がさぬよう手をしっかりとつなぐように言ってはいるが……そもそも文は早苗の背に隠れ怯えきっており逃げる様子がない。

「いつからいたの?」
「夜の明ける前から」
「この寒空で? 昨日なんて雪が降っていたでしょうに」
「寒いうちに入らない」
 
 おもむろに指さした先……丁度先ほど鹿を見つけた地点に雪に隠れて人工物を見つけた。どうやら椛は罠を張っていたらしい。文たちが現れなければ後数歩で罠にかかっていただろう。
 鹿は用心深い。また、即効性のある罠なので、かかったらすぐさま処理をせねば、他の獣に取られるし、新鮮さも失われるのである。

「……そう、ごめんなさい。私たちのせいね」
「良い。失敗はつきものだ」

 狼の狩りの成功率は極めて低い。群れで襲っていても失敗することがあるくらいだ。故に幾日も食事にありつけない事等、日常茶飯事である。運もかかる問題だ。自然は鹿に味方した、ただそれだけのこと。
 そこで初めて椛がこちらに振り向いた。身長は文よりも下だが、醸し出す雰囲気は独特。端整な顔つきだが、どちらかというと中性的で、美しいというより格好いいがあっている。何よりもその紅い目……まるでがらんどうの様に空っぽな……感情も何もない、無機質な目に心を奪われていた。
 文は相変わらず隠れているため仕方なくはたてが説明を始める。昨日あったこと、そしてこれからのこと。聞く椛もまた、何も言わずただただ説明を受けているだけに見えた。

「……で、暫くの間あなたの取材をすることになったわけ。サポートには私がつくから、くれぐれも……分かっているわね?」

 念には念を入れ少々ドスの効いた声で説明を切り上げる。それがまるで警告のように聞こえたのに早苗は違和感を覚えた。
 確かに椛は普通ではない印象を受けるが……天狗、仲間であるはずである。
 説明を終え、暫く椛の反応を待つと、30秒ほどそうしたのち、おもむろに再び背を向け……思わず身構える天狗2人をしり目に誰もいない森の方へと目を向ける。そしてまた、暫く動かない。何かあるのかと身構えるが、椛の向くその方向には特段、何か特別なモノは見えなかった。

「……あの……椛さん?」
「あっ、ばかっ!?」

 はたてや文はあきらめムードだが……完全に無視を決めこむ椛を心配したのか、早苗が左肩を掴んだ瞬間、はたての焦った声と同時に視界が一周し、背中から雪の中に叩きつけられた。いきなりのことに目を白黒させている。投げられた、とわかったのは少ししてからのことだった。

「えっ……え?」
「あーあ、この馬鹿。不用意に掴んだりしたら投げられるに決まっているでしょ? 一応こっちは戦闘のプロなんだから」

 ポカンとした表情で雪に埋もれる早苗をはたてが呆れた声で注意する。雪の冷たさが頭を冷やしてくれたが……いや、それはおかしい。どこぞの暗殺者じゃないのだから……。

「い、いや……それにしたって……」

 戸惑いながらも、自身を心配するようにはたてに起こされる。幸い柔らかい雪だったため痛みはない。

 衣服についていた雪を払っていると、いきなり椛が吠えた。

――オーーーン

 女性でありながら、低く腹に響くその遠吠えは遠くまで響いたに違いない。間近で聞いた3人はその音量に思わず耳を手でふさいだほどだった。
 遠吠えが終わり、まだ耳鳴りがする中……差し出されたはたての手に捕まり、早苗が立つと、変化は現れた。
 なんと森の中から幾匹もの狼が現れたのだ。白狼天狗ではなく、いたって普通の……それも野生の狼である。3人に警戒しながらも静かに寄ってくると、椛の身に体を仕切りにこすり付けたり、彼女の頬を舐めている。信愛の証だ。
 彼女は自身を見上げ白い息を吐くその頭を一撫ですると小さく何かを語りかけている。何を言っているかは生憎わからなかった。
 語り終えると狼は文たちを一瞥し、再び獣特有の遠吠えを一つなき、そのまま仲間と共に森の奥へと消えていった。
 
 一連の光景に呆然した表情を浮かべる一同。そしてもうこの場でやることは終わった、と言わんばかりに彼女たちを置いて椛はその場を去って行く。
 完全に無視を決め込まれた3人はというと、とりあえずついていくことにした。すでに椛が変人だという事は理解していたが……改めて思い知った形である。
 文句を言ったところで言い返してくるわけでもなく、触ろうものなら先ほどの様に投げ飛ばされるのがオチだ。幸いついてくることに対して何の文句も言ってこないことからただ何も言わず椛が反応を示すまでついていくことにしたのである。
 それに文にとっても良い機会だろう、と推察する。こうして椛の動きを分析し、記事を書くきっかけにもなる。すでにはたてが取材のことを話し、その時椛は何の反応も示さなかったのを了承と受け取っていた早苗は、仮に文句を言われたとしても言い返せるだけの自信があった。
 
 とりあえずはたては椛の後姿を飛びながら分析してみることにした。雪に埋もれ、満足に歩くことも難しい筈なのに、まるで雪の重みを感じないかのように、雪が彼女を避けているように見えるくらい軽やかに歩いている。明らかに歩きなれている感じだ。
 下り坂を下り、川のせせらぎが聞こえるところまで来たところで椛は立ち止まった。ただついていった3人も同じように立ち止まる。
 おもむろに崖を覗き込む椛。どうやらこの下が川になっているらしく、早苗も同じように覗き込むと透き通った水が流れていた。
 と、そこで椛は初めて3人に目を向けた。今まで無視されていただけに思わず身構えてしまう。
 いや、彼女の持つ眼がそうさせてしまった。先ほども感じていたが異質な目だ。なんて冷たい眼なんだ、と。完全に無表情なことも相まって、冷たく、暗い色だ。それでいて注意せねば思わず引き込まれてしまいそうなほど……ある種幻想めいた感覚を抱いていた。
 鼻をスンスンと動かし、本当に僅かだが眉をひそめた後、

「魚は好きか?」

 思わず見とれている一同に向かって、不意に椛がそんなことを聞いてきた。言っている意味が解らない3人をよそに、椛はゆっくりと近寄ってくるとはたてを押しのけ、彼女の背中に隠れていた文の目の前に立つ。どうやら早苗ではなく、文に聞いていたらしい。
 体格では文やはたてより小さいはずなのに、おびえた様子を見せる文のせいもあってかまるで睨まれた蛙と蛇のようなあべこべさを感じた。

「魚は好きか?」

 もう一度、同じことを問うてきた。意味は解らないが……いや、言葉通りの意味なのだろう。会話が成立しない時がある、というのははたてから聞いていた。はたては文に目で合図を送る。

「そりゃあ……す、好き……ですけれど……」

 若干しどろもどろになりながらも答える文に満足したのか、一度小さく頷くと不意に彼女の襟首をつかみあげた。
 いきなりの行為に周囲が反応するよりも先に、なんと椛は文を抱え上げるとそのまま崖下の川に勢いよく投げ込んだ。
 驚く暇もないとはまさにこのこと。はたても早苗も反応できないし、それは文も然り。崖下の川との距離も20メートル以上あるため普段なら飛行して逃れられるだろうが、椛におびえていたし、何より二日酔いから判断が遅れた。
 その結果、ある種の爆音と共に川に叩きつけられたのは至極当然と言える。その威力たるや相当なもので、水柱ははるか上、崖の上に立っていた早苗たちの所まで上がってきていた。
 あまりの光景に言葉を失う中、椛は軽やかな動きで崖から飛び降りた後……正気に返った2人が慌てて後を追ったのに優に数十秒を要したのは言うまでもないことであった。




「馬鹿なんじゃない!? あんた、馬鹿なんじゃないの!?」

 それから15分ほど経った後も椛を罵倒する文の絶叫は止まらない。無理もないことだ。いきなり冬の川の中に叩き込まれれば誰であろうと怒るだろう。
 二日酔いという絶不調な中、満足に飛ぶこともできず無様に着水した文はガチガチと震えながらはたてが持ってきた布を体に巻きたき火にあたっていた。氷点下近い気温の中、水の中に叩き込まれたのだ。普段丁寧に接する文が本性をむき出しにして怒っている。が、震えながらなので言葉に迫力は感じられない。
 濡れてしまった文の服は一度脱ぎ捨て火に当て乾かしているため現在彼女は裸だ。早苗が急いで文の家に服を取りに行っている。
 ……当の本人はというとどこ吹く風、とばかりにジッとたき火の前に立てられた魚に目を向けているだけだ。
 何故彼女が文を水に叩きつけたか。実は原始的な漁の一種、石ぶちである。石を水面に叩きつけそのショックで魚を気絶、もしくは絶命させ獲るのだ。しかしながら手頃な石がなかったため文を使ったのだろうが……当の本人からすれば迷惑なことこの上ない。

 文が満足に喋られるようになったのは、早苗の持ってきた服に着替え、更に魚が焼きあがった頃になってからだ。相変わらず椛は謝罪の一つもない。たき火を囲む中、少なくとも良い雰囲気とは言い難い感じだった。
 何故文を投げたのか……その言葉に椛が返したのは酒臭かったから、だという。確かに昨日、文はヤケ酒でつぶれるまで飲んだから臭いのは仕方ないにしても……少々やりすぎというものだろう。尤も、そんな反論も椛はどこ吹く風だが。
 ちなみに火にかざされた魚は全部で8匹。朝食をとっていないであろう早苗たちのことを見越して……という椛なりの優しさだろうが、まったくもって嬉しくない。
 事実魚に手を付けているのは椛と……ある意味空気を読んだ早苗だけであった。

「……仮に」

 沈黙が場を支配する中、先に動いたのはやはりというか……椛であった。骨についた身まで綺麗に平らげ、一匹目の骨を投げ捨てた後静かに言葉を発する。

「その件を受け入れたとして、私に何の利がある」

 初めて会話が成り立った、と早苗は感じた。椛の言葉は抑揚がなく、感情は判断できないが……好意的でないのは理解できた。彼女の視線は真っ直ぐにたき火を挟んだ向こう側、真正面の文に向けられている。

「ないわね、はっきり言って」

 それに答えたのははたてだ。椛の仕打ちに呆れているのか足を組み、膝に肘を載せ、あごを手に乗せたままブスッ、と言い返す。まぁ無理もあるまい。彼女も巻き込まれた口なのだから。

「拒否権は?」
「ないわよ。わかっているでしょうに」

 当然と言えば当然だが、取材の要請を一蹴する。とはいえそれが許されていないのは椛も重々承知である。夜遅くに宴会に居合わせた大天狗から今回の話を聞いていたのだ。上からの命令には従わなければならない、下っ端の辛いところだ。巻き込まれた身としてはたまったものではない。
 当事者のいないところで勝手なことを、と文句も言いたかったが、いやいやながらも承知したのである。しかしながら言わずにはいられなかった。

「その駄烏の新聞に書かれたが最後、碌でもないことになるのは目に見えているだろうが」
「いや……まぁ、その」

 椛は文のことを駄烏と呼んでいる。上位種族であり立場的にも上の天狗にそう呼ぶのは余りにも恐れ多いことなのだが……この白狼は全く臆する様子を見せない。
 実際、その呼び名で呼んでいるのは文だけだったりする。半神である早苗には「殿」付で比較的丁寧だし、はたてには普通に接していることからどうも文だけそう呼んでいるようだ。
 最近早苗は知ったことだが、会話時、椛には相手に従って呼称を変えている。正確には自身より上の位や、比較的仲の良い者がいると呼び方を変えている。

 そういったいわゆる『椛ポイント』が高い順から

『様付け』『殿付け』『名字または名前呼び捨て』『お前』『貴様』
 
 と言った感じである。まぁ要するに、親愛度が低いと名前はおろか無視されることすらあるわけだ。
 ちなみに魔理沙は『お前』である。過去何度も山に侵入しているから好意的に受け止められている筈がないので、当然と言えば当然か。ちなみに霊夢は『博霊の巫女』、早苗は『早苗殿』である。前者は霊夢という存在より博霊の巫女という機関を重視しているのか、彼女個人を見ていない。後者の早苗はというと、いわば二柱のおかげか。あの二人には様付けしているあたり、現人神である彼女を客人として扱っているのかもしれない。どちらにしろ、立場的なものもあるので魔理沙よりも格上として扱われている。
 無論、流石に外交の場では皆様付け、もしくは殿付けで呼んでいるが、その場合口調が変わる。つまり丁寧語か、普通に喋るかだ。お偉いさんからしてみれば無礼極まりないと思われるが、そもそも下っ端白狼天狗に回ってくる外交仕事等たかが知れているし、それにこの椛の持前の迫力、雰囲気に圧され何も言えない者が多いのである。
 二柱、特に諏訪子に至ってはそんな椛をいたく気に入っている節がある。あの祟り神が天魔によこせと言ったほどであるからその溺愛っぷりは相当なものだろうか……。
 どうも変な奴に気に入られる部分がある、とは彼女の上司である大天狗の弁だ。何しろ彼女の元々の上司である鬼もそうだが、祟り神に気に入られるというのもおかしな話だ。

 要するに、椛には彼女独特の価値観があるようだ。そう考えると文に対する呼び方は最底辺の『貴様』に位置する。同じ烏天狗のはたては名字で呼び捨てているところからも、この二人に対する態度の違いは明確だ。
 なお、第三者の名前を出すときはきちんと言っているようだ。無論、どのような呼び方をしているかは諸兄らの想像に任せる。

「原因はそこの鴉だろう。駄烏の下手は自分で何とかしろ」
「いや……まぁ、あんたの言うとおりなんだけどさ」

 当の本人からしてみれば知らぬ間に犬猿の仲である文の相手をせねばならないのだから憤るのも無理はないだろう。尤も表情を全く変えず、声色も変化無いので、言葉から怒っていると判断しているだけなのだが。しかしながらこちらも大天狗の命令である。悲しいかな、格上の命令には従うのが世の常なのである。

「お上のご命令なんだから従わなきゃ。まぁ、同情するけど」
「いらん。火種にも困っていない」
「いや、さすがにそれは同じ新聞記者の私でも辛いわぁ……」

 ゴミにすらならないは、新聞記者にとってつらいものはない。汗を一つ流すはたてを援護するべく早苗が会話に入ってくる。

「大丈夫なのでは? 今回はゴシップ禁止されていますし」
「駄烏からゴシップを抜いたら何が残る?」

 あまりの言いぐさである。文を嫌っているとは聞いていたが些か度が過ぎてはいないだろうか。確かに幽々子の言っていた通り、文は誇張して物事を報ずる癖があるが……それもまた、特徴的と言えば特徴的なのだ。文は黙って聞いていることから代わりに早苗がフォローに回っている。あのおしゃべりな文が黙っているのが逆に恐ろしい。

「いや、面白いと思いますよ。確かに文さんの新聞には誇張表現もあるし、ゴシップもありますが。逆に言えば事実のみ伝えていると、個性が出ませんよ」
「前提を間違えるな」

 バッサリと切り捨てる。思わず言葉に詰まるほどである。文に向けていた敵意ある視線を今度は早苗に向ける。静かな……それでいて圧倒するような視線に無意識のうちにたじろいでしまった。
 文は自分のことだというのに何も言わず、手頃な石を持ちいじっている。まるで何かを我慢するかのように見えた。それに構わず椛は続ける。

「重要なのは正確な情報だ。個性を求めるのは二の次だ」
「複数いることで、個性を見せることで色んな角度から事件を見れますよ。それに文さんの考察は他の天狗よりも面白いと思いますよ。はたてさんのだって悪くないし」
「記者の考察を全面に出せば、一歩違えば事実を曲解して伝えることになる」
「いや……仮に。椛さんの言う通りなら、新聞いらないじゃないですか。それこそ、瓦版とかそういうので足りると思いますが」
「然り。重要なのは比率だ。事実を正確に伝えようとする内容と、記者の考察。この比率があるからこそ新聞に意味はある。記者の意思を前面に押し出せばその分恣意的な内容になるし、逆に正確な事実のみ羅列すれば単一的な内容となり、物事の本質が見えなくなる。そうなれば新聞は一つでいい」
「あー……つまりこういいたいわけですね。文さんは自身の主張が大きく出てる。それでいて記事の本質である情報にも間違いがあるためそれは新聞としての体を為していないと」
「然り」
「んー……」

 全面的に文のことを否定する椛。淡々と答えこれと言って反応を見せない彼女に流石に困ったのか、早苗は頭を掻きながらはたてに助けを求めた。その天狗は頬に手を突きどこかつまらなそうに見ていたが……ひどく面倒くさそうに助け船を出してきた。

「ちなみにさ、早苗の世界ではゴシップ新聞はあったの?」
「そう……ですね。外の世界にもそういう新聞はありましたよ。ゴシップの類と言いますか、大衆新聞ですね。どちらかというと楽しむ方向だと……父が昔言っていました。全員ではないと思いますが……ただ、娯楽ですね。情報を知るというよりもそれを知ってネタにするとか……もちろん、皆が皆とは言いませんが。ある種のストレス発散にもなってるんじゃないですかね」
「実際に起こったことの一部分を書き起こせば、それだけで新聞になる。が、伝え方を一つ間違えればゴシップだ。この駄烏の新聞はそういう類だ。だから博霊の巫女にもたき火の材料程度にしか扱われんのだ」

 そう吐き捨てたと同時に、鈍い音が聞こえた。椛を除く皆が驚いて音の鳴る方向を見ると、文が力任せに石を砕いていたのが見えた。

「……あなた、私の新聞を読んだことがありますか?」

 怒りをこらえているのが目に見えるくらいはっきりとわかる。ワナワナと肩を震わせている。思えば、早苗は文が本気で怒った姿を見たことがない。いつも飄々としており、どこか人を小馬鹿にしている天狗……それが射命丸文という妖怪だ。
 第一このように馬鹿にされるのだって彼女にとってはなれたことのはずだ。だのに、椛に対してははっきりと嫌悪感を出している。明らかに沸点が低い。以前文は椛を苦手だと聞いていたが……。

「無論。駄作にもならん代物だが」

 文の変化に気づかぬ椛では無い筈だ。これは……明らかに煽っている。そして言いすぎだ。過去に一度文の編集作業を早苗は手伝ったことがある。
 確かに文の新聞はくだらなく、本来の新聞としての体を為していないだろうが……その情熱は努力家である魔理沙をはじめ、数多くの人々にとって尊敬に値するものだ。
 止めたいが……場の空気に圧倒され声が出ない。だからやめて、と心の中で叫ぶ。それ以上言うんじゃない……と。文の努力を汚すようなことを言うんじゃない……と。

「清く正しくを売りにしているらしいが、穢れているな。信念無き新聞なぞ、そこらの山羊にでも食わせてしまえ」
「あなたに……」

 ブチン、と何かが切れる音が確かに聞こえた。ゆらりと立ち上がる文に早苗は声をかけようとするがその無言の迫力に声が出ない。顔を伏せているため表情はわからないがにわかに文を中心に風が巻き起こっているのがわかる。……怒りを抑えこんでいるのがわかる。

「あなたに……何がわかる!」

 キッ、と椛を睨むと同時。暴風が文を巻き起こり、燃え盛っていたたき火を瞬時にかき消し、あらゆるものを吹き飛ばす。早苗は、はたてが事前に風の膜を作ったため無事であったが……おかげで魚も飛んで行ってしまった。
 元々文は烏天狗の中でも相当の力を持つ。本気を出せば人一人吹き飛ばす等造作もない。種族の地力でいえば椛一人を殺すことだって簡単である。
 そしてその暴風をもろに浴びた椛はというと……まったく動じた様子も見せず、座ったままだ。まるで地に根が生えたかのように眉一つ動かさない。それがまた異常だった。
 まるで台風のような暴風がやんだのち、文は先ほどまでたき火がたかれ、今では灰が残っているだけの岩の上に立つ。

「たかが白狼風情に何がわかるというか! 私の苦労も知らず、何を言うか!」

 いつも丁寧に話す文ではあるが、その本質は他の天狗と同じように高飛車である。先ほどの悪態の時はまだ体が冷えていたのでそれほど覇気はなかったが……流石は天狗、本気で怒った時は怖い。その本来の気質を初めて目の当たりにした早苗は目を見開いて驚いている。
 文の言う事も尤もだ。組織に居る以上、そしてランキングで上位に昇る以上避けては通れない道がある、道理がある。椛が言うことなぞ所詮……綺麗ごとだ。泥にまみれるような、汚物に塗れるようなことをしても上に昇らねばならない。その苦渋の決断を知らぬくせに、何を言うか! とまくしたてるように言い放つ。
 大天狗とまではいかないものの、覇気のある声である。力のない妖怪ならば思わずひれ伏しただろう。しかし椛はひれ伏すどころか、立ち上がると全くの無表情で文を見つめる。2人の様子があまりにも対照的で、逆に椛の不気味さを増していた。

「粗末にするな、駄烏。自然への冒涜と知れ」
「話をそらすな駄犬!」

 異常なのは椛も同じだ。何故眉一つ動かさないのか。まるで感情が欠落している。止めに入りたいところだが、下手をすれば命に関わるため、満足に動けない。ただ一人、はたては呆れた様子で2人を見ていたが……。

「何度も言わせるな。今の貴様の新聞なぞ読む価値などない。資源の無駄だ。廃業してしまえ」
「読んでくださる方もいますよ? ねえ早苗さん」
「正直に答えていいぞ早苗殿。この駄烏の汚物以下の代物のせいで迷惑してるとな」
「ほう……」
「い、いえ……あの、そのう……」

 哀れなのは早苗である。妖怪の山で、天狗ではなく、程よく二人と接触があるがゆえに板挟み状態だ。半分涙目ではたてを見て来るが、助けてくれる様子はない。

「そういえばあなたは新聞を取りませんよね? 駄目ですねぇ、あれですか? 新聞を取ってない私かっこいい! ですか? はっ! 時代遅れですよそんなのは」
「時を計り間違えているのはどちらだ駄烏。それにそこの天狗のを取っている」
「なっ!? は、はたて!?」
「あれっ、言ってなかったっけ? 私の新聞購読者の第一号、椛なんだけど」
「粗は目立つし、貴様と同じく主観は混じっているが、少なくとも火種にはなる程度の代物という点でいえば、駄烏のよりもマシだな」
「こんの……裏切り者め……」
「……いや、それ喜んでいいのかしら」

 微妙な顔を浮かべるはたてに誇っていい、と頷く椛。相変わらず早苗はおどおどしているし……。
 比較的被害の少ない早苗は客観的に見て、違和感を覚えた。激昂する文を受け流す椛は想像できたが……はたてが全く動じていないのも驚きだ。2人には聞こえないよう、はたての耳元で喋る。

「いいのですか?」
「いいのよ。いつものことだもの。それにこうなるのは目に見えてたし。むしろ血みどろの戦いにならなくてホッとしてるわ。その点はあんたのおかげね」
「……まだこの上があるのですか?」
「あんたには感謝してるわよ。あんたがいるから二人とも抑えているんだから」

 二人の言い合い……正確には文がまくしたて、椛が受け流すだけなのだが、それがよけいに文のヒートアップの一途を生む。とてもじゃないがこちらを気遣って居る様には見えないんだが……。
 この状況を止められるのは同じ天狗のはたてだけだろう。放っておけという彼女を何とか説得し、二人の間に割って入れさせた。大きくため息をつき、心底疲れたと言わんばかりに二人を交互に見る。

「ほんと、あんたたちは会うと喧嘩ばかりね……とりあえずやめなさいって。まず文、椛や西行寺幽々子の言うとおりあんたの新聞にはゴシップがあるのは事実でしょ。それと椛、あんたもやりすぎ。目的のためなら汚い真似も必要だってわかっているでしょうに」

 万年引きこもりだった彼女が止めに入るというのも変な光景だが、しぶしぶ(尤も椛は無表情だが)遵う二人。はたてのセリフの最後の部分に早苗は違和感を覚えた一方、かつて仙人から事情を聴いていた早苗は神妙な顔つきをしていた。

「今回はそういうゴシップなしっていうのがルールなんだから、椛が思うような記事はかけないでしょうが」
「監視されている時点で私の考える記事はかけないでしょう?」
「私はあんたと椛がこうなることを防ぐために居るのであって、文の新聞作りを監視するわけじゃないのよ。作り方は文の自由なんだから我慢しなさい」
「むっ……」
「それと椛。あんたも協力なさい。どのみち逃げ場ないのはあんたもなんだから。……まったく、だから嫌だったのよ」

 と、ついには2人に説教を始める始末。なんというか余りにも変な光景である。
 しかしながら彼女の言う事には一理ある。元々は文の悪癖を治すためのモノであるし、椛もまた、上からの命令がある以上逃げようがない。こんなところで言い合いをしていても意味がないのだから。
 すでに分かっているのか……それでも文句を言わずにはいられなかったのか……椛は小さくため息をつくと諦めたように頷いた。それを了承と受け取ったはたては今度は文を見ると……こちらも諦めたのか頭に手をやって、乱暴なジェスチャーで了解の意を伝えた。

「じゃあそういうことで。くれぐれもこんな喧嘩はやめてよ? こっちも一々止めに入るの疲れるんだから」

 パンパン、と手を叩きこの場はこれにて終いとばかりに宣言するはたて。
 まったくもって決着しておらず、文も椛も互いに睨み合っているこの現状に同席していた早苗は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。




 文と椛は仲が悪い。早苗も以前から聞いていたことではあるが、それでもここまでとは思わなかった。同じ烏天狗のはたてがいてよかったと思わずにはいられない。多分自分では天狗二人の闘争を止めることはできなかっただろう。
 
「…………」
「…………」

 椛は完全に文を無視しているし、文はまだ気が立っているのか殺気立った目を彼女に向けている。はたては呆れた様子で止めることもせず、早苗はただオロオロとするほかなかった。
 雪が降ってきたため、4人は椛の屋敷に場を移していた。
 何度か早苗は彼女の屋敷に訪れていたとはいえ、やはりその大きさには驚くほかない。もとは鬼、星熊勇儀の邸宅で現在椛が預かっているそうだが……鬼の当時の権力の象徴ともいえる大きさだ。居間に集まった4人は長机を囲む形でそれぞれが座布団に座る。ここでも文と椛は無言だ。元々椛は喋らない方だが、文が無言というのも珍しい光景である。

「と、言うわけで。暫くこの家に厄介になるから」

 そう切り出したのははたてである。何が『と、言うわけで』なのか。
 椛の密着取材になる以上、何時たりとも傍にいる方が良い、というはたての案によりしばらくの間椛と文は同居生活を送ることになってしまったのだ。当然2人(特に文が)は激しく抵抗したがはたてが恫喝まがいの説得を行ったため両者共に渋々従っている。尤も、椛は逃げ場がないことを既に昨夜から覚悟していたためか黙して文句を言わなかったため、結論が長引いたのは全て文の責任である。
 はたても一緒に滞在することになったのは不測の事態に備えるためだ。はたてはともかく早苗はそこまでする義理はない。彼女は単純に心配でこの場にいるだけだ。

(この人、こんなに決断力とか行動力とかある人だったっけ……)

 そのはたてのテキパキとした動きに思わずそんなことを思ってしまう。実際、あの万年引きこもりがこんなにもマネジメントに長けているとは思えなかったが……あれやこれやをパパッと決めるその働きぶりが信じられなかった。
 とてもじゃないが反社会的人物、今の今まで引きこもっていた人物とは思えない行動力である。勿論失礼なため口には出さないが。

「ま、短い間だとは思うけど? 仲良くしましょ」

 空気を読めているのか読めていないのか、この最悪の雰囲気の中でよくそんなことを言うなぁ、とある種尊敬すら覚えるほど。

「さて……とりあえず方針を決めましょうか」

 だからこそだろう。今後の重大な指針となる話をはたてが切り出したのも至極当然と言えた。時刻はすでに夕刻。本来なら早苗は帰らねばならないところだが、この状況を放置したまま帰るのも怖い。引き続きはたてが進行役である。そこでようやく文も完全に吹っ切れたのか会話に参加した。

「方針って?」
「椛の記事って言ってもさ、亡霊たちも言っていたけど際限ないじゃん? ある程度絞っとかないとさ」
「それもそうですねぇ……」

 気も静まったのか、言葉づかいも元に戻り(?)少し安心する早苗。ともかくはたての言うことも尤もである。
 とりあえず無言の椛を置いておいて3人で色々案を出してみることにした。

「椛の勤務は?」
「それって一日中滝の所に座っている哨戒天狗の仕事ですよね? 事件も何もないと思いますけれど」
「将棋はどうでしょう」
「それは前に記事になっているでしょ? マンネリ化するだけよ」
「じゃあ友好関係とか。ほら、河童と仲良いじゃない」
「あのですね……そんな学級新聞のようなこと書いて誰が得するんですか」
「剣術は? 椛さんを妖夢さんを戦わせてみては」
「……死人が出ますので、却下です」

 その場合の死人がどちらなのかは置いておいて……文が否定しまくるので一向に決まらないのに業を煮やしたのか苛立ちを隠さず、はたては文にも出すように要求した。
 とはいえである、困っているのは文も一緒。下手な記事を書けば椛はおろか西行寺幽々子の怒りを買うのは目に見えている。面白おかしく書く、という専売特許も今回は封印されており、ガチの記事を要求されている。
 先ほどまでの怒りは鳴りを潜め、文は椛をチラリとみる。一瞬目があいすぐさまそらした。いや、怖いモノは怖いのだ。先ほどは本気で怒り言い返したが……冷静になればよく首が胴体から離れなかったなぁ……と思うほどである。
 当たり障りのないモノが良いが……そうも言っていられまい。考え込む文の横で、何かを思いついたのか早苗がポン、と手を叩いた。

「そうです。狩りはどうでしょう」
「狩り?」
「はい。以前狩りについてご一緒させていただいたんですけれども、大変勉強になりまして。ほら、白狼じゃないですか。捕食者としての感覚……みたいなものを記事にするってのはどうでしょう」
「狩り……ね。そういえば椛、あんたの副業って確か『狩り』だったわよね」
「副業ですか?」
「昔は山の仕事でも食べて行けたんだけど、最近平和になってね。戦争も吸血鬼異変以降まず起きなくなったから、経費削減があってさ、みんな貧乏なわけ。だから普段の山の業務の他に、副業を行うことを認めて山の活性と経済発展に協力させようって制度があるのよ。ちなみに私や文の場合は新聞記者ね。尤も、情報部に所属している天狗たちは皆やっているわ。この制度が確立されたのは今まで山の警備だけすればよかった警護団に向けてよ」
「なるほど」

 実際山の主戦力である警護団はつい最近まで副業なぞする必要はなかった。何しろ生と死が隣り合わせで最も損害が大きい実戦部隊だったからだ。文たちが所属する情報部と違い、お金が大して必要になるわけではない。
 が、吸血鬼異変以降スペルカードルールが制定された結果そういう命のやり取りも減り、結果彼らも裕福になる欲が生まれた。そこで認められたのが副業制度である。
 副業にもいろいろある。例えば技術力が評されれば河童と共に開発する業務についているし、工芸品を作り巷に卸している者もいる。その中で椛は数少ない猟師を副業としていた。

「猟師は山の中でもとりわけ制限が多いから副業とする者も少ないのよ。早苗、貴方いい案よ、それ。どうよ文」
「どうよと言われましても」
「もちろんただ狩りを取材するのもつまらないわ。そういえば早苗は椛から狩りの手ほどきを受けたのよね?」
「あ、は、はい。まだまだ未熟者ではありますけれど……クマを狩れるまでにはなりました」
「……末恐ろしい娘ね。ともかく、こういうのはどうかしら。早苗が椛に師事を請い、椛が狩りについて教える。そんな感じの情報新聞」
「なるほど。確かにただ狩りについて記事を書くよりも話題性は広がりますね。椛さんが主体になりますから今回の条件から外れませんし」

 早苗としても椛からはまだまだ学びたいことがたくさんある。丁度良い機会と言えた。
 狩りを題材にするのは悪くない。狩人ならではのエピソードがあるし、人間と似た生活を得ることで失っていく妖怪たちの獰猛さを取り戻すきっかけにもなる。そういう意味でも悪くないが……。

(下手すれば、私が狩られません?)

 内心そんな恐怖にかられる。あり得ないとはわかっているが、やりかねないのが目の前の白狼である。その当の本人というと、無言でリアクション一つ起こさない。それが一層不気味だ。
 拒否したい気持ちもあるが、他に案もない。選択肢がないのも事実で、結局狩りがテーマになってしまった。

「うし、じゃあ明日から早速やりますか。ということで、今日は解散」

 再びはたての手を叩く合図と共に、この日は散会となった。


◆  ◆


 狩りは命のやり取りだ。故に、感謝の気持ちを忘れてはならない。
 何をしようと、命を奪うというその一点に関しては変わらない。

 白狼は自然の中で生きてきた。いつ狩られるかもしれぬ弱肉強食の世界において、悪魔でも狩る側として生きてきた。
 けれど、白狼は見とれていた。人が持つ、営み……家族について。
 白狼は一人だった。愛された記憶もなく、傍にはだれもいない。文字通りの一匹狼。
 自覚はなくとも、心のどこかで欲していたのだろう。
 家族の愛を、暖かさを、そして慈しみを。
 
 けれど白狼は気づいていなかった。人と狼はあくまでも別物だ。狼は人の世界に入れない。ましてや……血塗られた人生を送る獰猛な白狼ならばなおさらだ。
 故に、もっと早く気づくべきだった。
 ……人の世界に踏み込んだ狼は、すべからく不幸になるという事に。


◆  ◆


 さて……その日の夜中である。枕を変えれば寝つきも変わるというが、まさにその通りで普段すぐに寝つける文は珍しく、一時間たっても眠気はやってこなかった。

(やってしまった……)

 そうなった原因は今朝のあの河原でのことだ。早苗たちが見て居る手前珍しく本気で怒ってしまった。その安易な行動に自己嫌悪に陥っていたのである。
 いつだって余裕を持って事に当たる、それが射命丸文のポリシーだったはずである。いくら苦手な相手とはいえ、下劣な挑発に安易に乗ってしまった。それがたまらなく自尊心を傷つけていた。
 何故あんな安い挑発に乗ってしまったのかはわからない。ただ……あの白狼だけには否定されたくない、という想いが占めていた。
 あの時自分は椛に対し、『汚いこともせずに何がわかるか』と言い放っていたが……それは大きな間違いだ。白狼天狗は鴉天狗よりも汚れ仕事を行うことが多い。とりわけ椛は顕著だ。
 汚いこと、という程度でいえば椛の方が文よりも圧倒的にこなしている。十人中十人が白い目で見るような、汚物を見る様な目を向けることを淡々とこなしてきた。
 勿論文はその仕事風景を見たことはない。耳にしているだけだ。それを知っている筈なのに、思わず言ってしまった。それがたまらなく悔しかった。
 勿論椛にも非はある。だが彼女の挑発に乗ってしまった自分にも問題がある……と思っていた。
 

「……風にあたろう」

 少しでも気を紛らわそうと、自宅にあるモノより高価であろう布団を除け起き上がり、眠気のまま縁側の障子をあけはなった。
 寝つけないのは間違いなく、この屋敷の広さも原因だった。椛に案内されたこの寝室でさえ、文の寝室の何倍もある。屋敷にはこの大きさの部屋がごまんとあるわけだが、どういうわけか彼女は最も狭い部屋を扱い、それ以外は使っていなかった。清掃はされていたがもったいないばかりである。
 鬼の……それも、あの星熊勇儀の邸宅だったという。それを分け合って彼女の子飼いであった椛が預かっているのだという。その辺の事情も気になるが、何分関係が悪く、聞くに聞けない。
 肺の中まで冷やすように大きく深呼吸をし、縁側の冷えた床板を素足のまま踏む。その冷たさと北風が体を撫で、眠気は彼方まで飛んで行ってしまったように、意識がはっきりする。

「あ……雪」

 今宵は満月。雲の切れ目から見えるその月の光に照らされ、シンシンと降り注ぐ雪と、一面の銀世界を作り出す広大な庭がより幻想的な世界を生んでいた。
 息を飲むように見つめていると……体が冷えたのか、ブルリと震えた。参った、見とれてしまったか……。
 確かここには大きなお風呂があったはずだ。昼間の話では、近くの温泉から湯を引いている天然のモノだという。椛からは勝手に使えと事前に許可を得ていた。
 夕方にはたてや早苗と入ったが、改めて入るのも悪くない。夜も遅いが、大丈夫だろう……と、どこにいるかわからぬ耳の良い椛を起こさぬよう、変な気をまわしながら脱衣所へ向かった。
 椛と、彼女の部下の二人だけが住むにしては余りにも広い脱衣所だ。適当な棚に衣服を入れ引き戸を開けると……視界を湯気が覆った。
 露天風呂である。桶を鳴らしたい気持ちをこらえ、まずかけ湯で体を流そうと桶を手にした。すると、かすかにだが波音が聞こえる。温泉が流れ込む音とは違う、人工的な音だ。
 どうやら先客がいたらしい。こんな夜中にいったい誰だろう。

「はたてさん?」

 彼女もこの風呂を気に入っていたため入りに来た可能性はある。しかし返事はない。勘違いだろうか。
 人影は見えた。湯気に遮られ誰かはわからないがうっすらと見える。見える位置まで近づいたところで……ようやくその人がだれかわかり、絶句する。
 
「…………」

 椛だ。文に背を向ける形で温泉の縁、岩場にもたれかかっている。どうも彼女と出会う時、いつも背中を見ているような気がする。そういえば彼女は今日一日風呂に入っていなかった。
 とはいえ……だ。現状はまずい。昼間の一件での気まずさもあるが……現在文は文字通り丸裸。体術は使えるが、目の前にいる達人に比べれば劣る。椛も丸裸のようだが……用心深い彼女のことである。きっとどこかに武器を忍ばせているに違いない。
 警戒を最大限にする。今この場には見ている者は誰もいない。完全犯罪を起こすのは容易だ。

「……何を突っ立っている」

 そんな彼女を察してか、いつも通りの抑揚のない声が発せられた。相変わらずこちらを見ない。怒っているのかどうかも分からぬが……。

「裸の天狗が人様の屋敷で凍死の記事なぞ御免こうむる」

 どうやら本当に何もないらしい。腹立たしいがこれが彼女なりの優しさなの…かもしれない。警戒は引き続き抱きながらも恐る恐る湯に入る。椛に近づかないよう、けれど不快感をできるだけ与えないよう、少し離れた場所に入った。
 この湯は疲労改善と、負傷回復などの効能があるのだという。勇儀は夜な夜なこの湯につかり、酒を飲むのが楽しみだったそうだ。
 彼女がいない現在は、普段使われていない。椛は大抵一日中隊舎に居るからだ。今回久しぶりにここが使われているのは、文たちが来ているからだと言えるだろう。経費削減はどの世でも言われていることだ。
 
 コーン。

 温泉特有の音が鳴り響く中……ここは不思議なほどに静かだ。すでに体は温まった。出ようと思えば出れるのだが……なぜだろう。まるで温泉に縛られたように動けない。
 対する椛も動きがない。ただ月を眺めているだけだ。
 どれだけ時間がたったのだろう。時間としては僅かなのだろうが、文には幾時間にも感じられた。何かしゃべるべきだろうか。しかし、何を言っていいかわからず口が開けない。

 相変わらず彼女は文を見ない。元々独特な間を持つ女性だ。自分が喋りたいときに喋り、そうでないときは口をつぐむ。そのため、真意がつかめず、突発的に行動する妖怪。
 言葉づかいも他の天狗と違いへりくだることなく、誰に対しても臆することがないため、天狗の中でも異常に感じる。
 寡黙で、無表情。特に感情については喜怒哀楽がないのではないかと思えるほどである。先ほどの文との喧嘩の時だって彼女は終始無表情だった。声も抑揚なく、機械と喋っている感覚に陥ったほどだ。
 いや、それでも……だ。彼女はいつも以上に喋った方である。かつて早苗が椛に『自然の中で生きる』ということについて教わったそうだが、その時は教師役ということで喋っていただけの事であり、彼女自身も驚いていた。
 何を考えているのかわからない、紫や永琳といった幻想郷の頭脳であり独特の妖しさを持つ人とはまた違った……対局の存在。
 何を考えているのかがわからないのではない……むしろ、何か考えているのかさえわからない。もしかしたら椛という人物はそこにおらず、自分は幻と話しているのではないか? と思えるほどに稀薄は存在感を持つ女性。それがこの白狼である。
 
 しかし……彼女はある絶対的な理由を、そこにいるということを嫌でも思い知らせる行為をしてきた。それこそ犬走椛という稀代の変人の代名詞であり、同時に畏れさせるモノである。

「……ひとつ、お伺いしても?」

 今回の記事を書く上で、文もはたても忌避していた問題がある。色々あり昼間は『狩り』の記事で行こうという方向で固まったものの、やはり椛というとあの話題を避けては通れない。
 とてつもなく失礼な……下手をすれば命に係わりかねない質問である。それでも知りたいという欲求が勝った。恐る恐る問う文に対し、無言で返す椛。それを肯定受け取り、文は伺う。

「椛さんは……何故、あんなに苛烈な復讐を行ったのです?」

 犬走椛を語る上で外せない、異常な過去。時代は過ぎ、当時を知るものは減ったが……今なお知るものはその異常性に戦慄するほどである。
 犬走一族は椛を残し、皆殺しにされた……その復讐として行った大規模な戦争。歴史には決して残せない一匹の白狼による下剋上である。
 タカ派の大天狗と、穏健派の天魔との二分に分かれた内乱である。そしてそれを治めるきっかけとなった一人がこの白狼。下っ端が起こした下剋上。
 あってはならない事ゆえ、歴史の闇に葬られた戦争。当時のことを知るモノは最早少なくなり、居たとしても口を噤んでいる。それはこの白狼も同じであった。

「白狼天狗はあくまでも天狗の中では下位です。それが当時の大天狗様を打ち滅ぼした。まずそこだけでも考えられない事です」

 ……戦争が激化したのは、椛が妖怪の山に入山した直後。即ち……椛こそ最大の火薬であり、爆薬であった。
 椛はあってはならないことを犯した。そう、果たしたではなく『犯した』が正しい。社会をぶち壊した張本人なのだから。本来なら排除されてしかる人材である。
 一介の白狼が大天狗を倒したなどあってはならない。まさに奇跡と呼べる所業をこの白狼はなしている。無論、彼女には鬼や天狗といった協力者がいたから彼女一人のモノとは言えない。あらゆる手を使ったと噂に聞いている。
 大義なき戦争、そう文は聞いている。それほどまでにどす黒く、薄汚い戦いだった。言葉にするだけでも憚れるくらい、血なまぐさいモノだったのだろう。
 何しろ天魔は彼女を利用したと言われている。いつでも切って捨てることが出来た。つまり、椛には本当の意味で味方なぞいなかった。人間不信にもなりかねない。
 それでも成し遂げられたのは……凄まじきはその執念だろう。絶対不可能と思われた所業を成し遂げた。だがそれも、称賛ではなく罵倒と怨念によって迎えられている。

「犬走一族を殺害した張本人たちのみを殺せばよかったものを、何故郎党皆殺しにしたのです?」

 その原因。この白狼は大天狗だけでなく、それに連なる犬走一族皆殺しに係った全ての天狗を殺している。しかも、その家族も含めて。

「根切りは珍しいことではあるまい」
「それでも苛烈です。勿論私はあくまでも伝聞であり、実際には見ていませんが」

 何しろその戦争は文が生まれる前から起こっていたモノだ。椛が下っ端に居ることから間違われやすいが……この白狼、こう見えて文よりも年上である。昇進しないのは、白狼天狗であることと、本人が権力に興味がないからだと言われているが……あくまでも噂であり定かではない。色々と動きがあったのだろう。

「全てではありませんが、貴方に関する情報、見せていただきました。老若男女。もう歩くことすらままならぬ老人から、言葉も喋れぬ赤子まであなたは殺した。……何故です?」

 抵抗できない女子供、老人を殺すというのはどんな気持ちなのか。しかもそれを徹底した……理解できない。逃げるどころか進んで、嬉々として行ったと述べる者もいるほどだ。
 椛はどう反応するだろうか。逃げ出すための用意はできている。徐に椛は立ち上がった。勢いが良かったため、その豊満とはいかぬまでも細身に見合った乳房が露わになる。
 そのまま文の方に振り向いた。当然タオルなど巻いていないため丸見えである。無表情での行動だったため流石にあっけにとられたのち、逆に羞恥心に捕われたのか更に顔を赤くするが、当の本人は気にした様子はない。

「見ろ」

 右のわき腹の部分をツゥッ、と線を描くように撫でる。無論、そこには何もなく白い素肌だけだ。いや、よく見れば彼女の体には薄らとだが傷跡がいくつか見える。
 初めて椛の裸を見たわけだが、やはりそんな過去を持っているとは思えない。いくら雰囲気を醸し出そうと少女にしか見えない。どこに大剣や何倍もの重さのある岩を持ち上げる力があるのかわからない細腕。驚異的な脚力を生む足も……脾肉も細い。いや……逆だ。余計なものをすべて排しているかのように、極限まで引き締めている。その古傷も含め、この椛は鍛錬を決して緩めていない。
 おもむろに自身の二の腕をつまんでみる。別に太っているわけでもないが、つまんだ肉は何とか弱いことか……。
 そんな文をよそに椛は語りだす。

 その傷をある種懐かしむように椛は回想する。そう、あれは最初に復讐を行ったとある男の家族のことだ。
 復讐をすると決意を決めた椛だったが、当時まだその家族まで殺めることは考えていなかった。そのため男を殺した時も、その家族は生かしていた。
 しかし悲劇は起こった。ある時……森の中を歩いていると何かがぶつかってきた。それが人影だと理解できたのは興奮したような吐息が聞こえたからだった。
 激痛と共に何か熱いモノが流れている。血だと理解できるのにわずかな時も必要なかった。短刀を手に持った少女はしきりに父親の仇だと叫んでいた。狙ったのかは不明だが急所を刺された。激痛で脂汗を流す椛に呪詛を放つ少女。
 聞けばあの後母親は自ら命を絶ったらしい。父親を失ったショックだという。天涯孤独の身となった少女は家族を奪った椛を恨み、復讐を行ったのだ。
 最後に少女は、椛の手で殺されるならば自分の手で死ぬ、とありったけの恨みをぶつけ喉を刺し自決した。
 運悪く急所を刺されたため、紅葉も三日三晩生死を彷徨ったのだという。が、傷よりも少女の行動の方が大きなダメージとなっていた。復讐とは逆に自身を滅ぼす危険性を生むことを分かっていたくせに、きちんと理解していなかった。それを何よりも恥じた。

「半端は身を滅ぼす故に徹底する。それだけだ」

 もう風呂に浸かる気はないのか、そのまま上がる。尻尾を絞って水気を切り、屋敷へ向かって歩き出す。
 半端だから失敗した。だからこそ徹底する? いや、それはおかしいではないか。
 止めることだってできたはずだ。如何に家族のことを愛していたとはいえ、一族を皆殺しにされたとはいえ、一人残らず殺してきたのは尋常じゃない。とてもじゃないが擁護できない。それを……たった一言で片づけるのか?
 問いただしたい、もっと。……しかし、次の言葉が見つからない。その理由が……わからない。
 自分の心がわからない。そんな感覚にふと襲われ苦い気持ちになる。まるでそれを見越していたかのように……椛は、一言、こんな捨て台詞を吐いて風呂から出て行った。
 そしてそれは……まるで楔のように文の心に残ることになる。

「何故貴様は新聞記者になろうと思った?」


◆  ◆


 そんなこんなで取材は始まった。どういうわけか早苗は椛を尊敬しているらしく、また椛も彼女を嫌っている様子は無いようで、順調に狩りの授業は行われている。
 授業といっても、基本は体で覚えさせるをモットーにしている。早苗は早苗で熱心に授業を受けているらしく、取材だということをまるで忘れ去っているかのようだった。
 あの風呂場での出来事以来、椛と文の間には特別な会話はない。間にはたてが入り情報を引き出すことは有れど、より一層二人の間に会話は無くなっていた。
 はたてたちはあの喧嘩のせいだろうと思っていたが、文は違っていた。あの浴場で最後に椛が問いかけてきた言葉が何度も頭の中を駆け巡るのだ。

(何故記者になったかですって?)

 決まっている。新聞記者……かつては瓦版を使った情報屋という仕事はいわゆる花形稼業であった。情報を主に扱う天狗たちにとってあこがれないはずがない。
 とりわけ、年に一度山総出で行われる新聞大会は一大イベントと言っていい。これに優勝すれば、その人は最高の栄誉と名声を手に入れられる。文も、そしてはたてもその名誉と充実感がほしくて、日々新聞を書き精進しているのだ。
 新聞記者は憧れる職業であり、そして記者になった以上、大会でトップを目指す。それでいいではないか。
 答えはすでに出ているはずだ。なのに……なぜか文は明確に答えられる自信がなかった。霊夢や魔理沙たちであれば間髪いれず答えられただろう。しかしあの全てを見透かすような椛の眼に向かって言い切る自信がなかった。
 
 今の今まで自分が信じてきたものが信じられなくなる。そんな奇妙な乖離を得ていた。だからこそ誰よりも焦燥感を抱いていたが……原因がわからない以上どうしようもないのだ。

「では椛さん。今日はどんな授業をなさるのでしょう?」

 悶々と考え込む文をよそに、まるでテレビクッキングのようなノリで授業を開始する早苗。ウキウキしながら狩りを行うというのもどうかと思うが……早苗は自然に感謝し、獲物を狩っているため目をつぶると椛は述べていた。
 今日の講義は罠を使ったものだそうだ。縄を使ったモノ、籠を使ったモノと様々だが、椛がどこからか取り出したのは……鋭い歯が特徴的なトラばさみだった。
 キツネを狩るのだという。どこかの九尾が怒りそうな内容だが……幸いいなくて助かった。
 妖怪の山からそれなりに離れた森の中でおもむろに椛はそれを取り出し、生い茂る木々の中でも一際幹が太いモノの傍に埋め込み、雪で隠す。

「間違っても踏むなよ」

 隠してしまえばどこにあるのかわからないため、念のため一同は空を飛んでいた。基本的に罠は見つけづらいように仕掛けられており、これでは仕掛けた本人でさえわからないのでは? と以前問うたところ、なんでも罠に特別な術をかけているのだという。
 天狗は仙人に近い力を持っており、一定の術を使える。顕著な例が風なわけだが、妖力を消費すればある程度のことが出来るらしい。今回の場合、椛は発信機の役割を果たす符をトラばさみに張り付けていた。
 なんでもこれに獲物がかかると椛の自宅に吊り下げられている鳴子が鳴るのだという。カスタネットのように妖力で動き、互いに打ち付けあって鳴らすモノなのだそうだ。以前一度見せてもらったが、なるほど。乾いた音だがそれなりに大きい。勿論屋敷内部に響き渡る程度の音量だが、耳の良い椛なら聞き逃すはずもない。
 罠には番号が振ってあり、それぞれに対応した鳴子が鳴るのだという。そのため、罠は一つたりとも無駄にはしてはいけないらしい。
 なお、椛自身はどこに設置したのかすぐにわかるらしく、このシステムは主に文たちのためのものだという。
 授業といっても今回のは獲物がかかるまでひたすら待つことになるため、一度取材を切り上げ山に戻ることになった。
 思えば椛は仕事を休んでいるわけではない。上司の命令である程度自由が認められているとはいえ、哨戒天狗の部隊長という責任を持つ彼女だ。書類仕事を含めやるべきことは山積している。
 なのにこうして手伝ってくれていることは素直に感謝すべきだろう。尤も、昨日の今日でそれをいう事は出来ないのだが……。

 さて、山に戻ってきた3人は屋敷には戻らず、河城にとりの工房へ向かうことになっていた。というのも以前破損し、修理を依頼していた罠を受け取りに行くためだという。罠も使用し続ければ耐久度が落ちるし、動物が暴れれば壊れもする。壊れると決まってにとりの所へ持っていくのだそうだ。
 備蓄していた罠は底をついていたが、どうも椛はあと数か所埋設しておきたかったらしい。

「待ってたよ。はいこれ」

 にとりの工房は河の麓にある。尤もそこは彼女にとって予備の工房らしく、本来の攻防は山をくりぬいて作った巨大な洞窟の中にあるそうだ。
 何に使うのかさっぱりわからないし、がらくたとも見分けがつかない道具をかき分けにとりは頼まれていた品を取り出した。トラばさみが2つである。バネの部分がイカれていたため交換しておいた、と調子を確かめる椛ににとりは言う。
 見るからに鋭利なものだ。威力も強力らしく、人間の足では噛み千切られる可能性もある。間違っても踏んではならないだろう。

「で? どう文。記事の方は」
「え、ええ……まあ、それなりに」
「歯切れ悪いね。そうなの?」
「路線は決まったんだけどねぇ……やっぱインパクトある獲物がほしいのよ。クマとかいればやっぱ違うかなぁ」

 苦笑いを浮かべるはたての言うことも尤もで、何しろ今のところ獲れた獲物は鹿やウサギといった比較的おとなしい動物ばかりであった。狩りの仕方としても比較的レベルが低いモノで、一面トップを張れるような大物はまだ掛かっていない。

「まぁ、冬の山は冬眠していることが多いからね。それに今年は豊作だ。ねぐらにたっぷりため込んでいるだろうね」
「私としてはためになっているので凄くうれしいのですが……」
「早苗にとってはねぇ、正直順応性高いみたいで私は驚いてるよ。でも読むのはあくまでも読者だから」

 そんな都合の良いことは起こらないと諌める椛だが、彼女自身何かしらネタを見つけねば下手をすればずっとこうした生活が続く可能性がある。それは避けたいのだ。

「そうだねぇ……あ、そうだ。ならさ、アレ探してみたら?」

 何かを思い出したのかおもむろにあたりを引っ掻き回し、左右別々の道具を手に3人のところへ戻ってくると、それを差し出してきた。

「アレ?」
「うん、最近騒ぎになっているでしょ? 奇病騒ぎ」
「ああ……幻覚が見えたりして最終的に死に至る、あれですか」
「そ。なんでか天狗様ばかりが被害者でさ。作為的じゃないかなんて言われているらしいね」
「……はたて、知ってる?」
「まぁ、多少は。あんたは椛のことで一杯一杯だったし、それより前から事件自体は起こっていたけど、新聞作りで外界からシャットアウトしていたから知らなかったでしょ。
 ここだけの話、奇病じゃなくて毒物じゃないかって言うのがもっぱらの説ね」
「うん、噂だけどね。それにここの所立て続けに起きてるしさ。河童たちもにわかに浮足立ってる。はたての情報源は?」
「私の『友達』経由よ。他殺の線が濃厚みたいね」
「裏ではもうそこまで情報が流れているのか?」
「どんなに情報に規制をかけていても、漏れるところからは漏れるのよ。薬物だって話らしいわ。それに死亡したのが皆天狗の……それもそれなりの実力者ばかりだもの。おかしいと思う者は多いわよ」

 この姫海棠はたて。どういうわけか裏社会の情報に詳しい。ついこの間まで引きこもっていたことを考えると聊か異常である。
 しかしながら原因は単純である。彼女の能力だ。今でこそ機械仕掛けの写真機があったが、昔は絵を描くことで念写を映し出していたという。時間はかかるが確実に過去にあったことを描くことが出来る。写真のモノの上位互換、と言ったところか。
 かつてのはたての念写は制限がなかったそうだ。それこそ、はたての想像力と集中力さえあれば過去に有った事件を描きだせる。犯罪の温床を暴くことが可能な滅茶苦茶な能力であったそうだ。
 しかしながら現在は能力の質は落ちてしまい、過去の写真を……それも他人が映し出したモノを写すだけのモノになっている。本人いわく、並大抵の集中力がないとできないらしく、他人の撮った写真を写しだした方が楽だとのことで、無くしてしまった随一の能力について全く未練は見せていない。
 閑話休題。ともかく、かつて彼女はそういった絵を描いていたために、自然と裏社会の情報屋としての内職があったそうだ。尤も現在は失業中である。なかなかの収入だったそうだが、それを残念がる節はないようだ。

「昔の伝手で聞いた話だけどね。多分椛も知ってると思う」
「……そうなのですか?」
「……然り。目星もついている」
「流石にそこまでは私も手に入れてなかったな……。で、誰なのよ。そいつ」
「正確にはつきそうだ、だ。結論を出しづらい……と大天狗様はおっしゃられていた」

 その言葉から判断するに、どうも上も確定できていないらしい。証拠がないため調べようがないのだそうだ。ただ、大分限定はしているため、あともう少しと言ったところ。

「どうしてです? 事情聴取くらいは出来ないので?」
「可能ならばしているが……ありえんのだ。そいつは本来幻想郷にいないのだから」
「え? ……もう滅んでいると?」
「否。アレを滅ぼすのは不可能だ。伝承にはそう書いてある」
「あれ? それってもしかして……」

 文には一人、心当たりがあった。数々の伝承がある中でその妖怪は奇妙なモノを持っていた。もしそれが当たりであれば……下手をすれば幻想郷の危機になる。大天狗らが慎重になるのも頷けた。

「椛さん、それってまさか……牛鬼ではありませんか?」
「よくその小さい脳みそでわかったな、駄烏」
「……もう何も言いませんが……それ、本気で言っています?」

 早苗やにとりが首をかしげている横ではたても同じように顔をしかめている。もし椛が言うようにその事件の犯人が牛鬼であるならば……非常に危険だ。今一状況がわからない早苗がおずおずと手を挙げる。

「牛鬼ってあの?」
「そういえばお二人は知りませんでしたね。尤も私も会ったことはないのですが。牛鬼は妖怪の一人で、とりわけ危険な妖怪として認識されています。性格は残忍で、毒を吐くとされています」

 伝承はいくらでもあるが、そのどれもが正解であり、間違いとは言い切れないのが事実。早苗と同じく牛鬼に会ったことがないにとりも会話に参加してくる。仕方がないことだ。昔は大変恐れられた牛鬼もまた、古い妖怪。最近を生きるモノには知らぬ者もいて当然である。

「退治できないって言っていたけど」
「はい。個体種によって違いはあるのですが、中には牛鬼を討伐すると討伐した人が新たな牛鬼になるというモノが有ります。そうなればいたちごっこですから退治は難しいのです」
「殺せないんだ。でも、例外があるんでしょう?」
「はい。中には人間を助けた者もいますが……牛鬼は人間を助けると死ぬとされていまして、その存在は稀有です」
「退治できないとなると、どうするんですか? 博霊でも無理となると」
「一番の方法は逃げることです。牛鬼は普通海辺に住んでいますが、山にもいますから、そこから離れれば何とかなります」
「なるほどね。天狗様でもそういうのか。でも椛がいないって言ったのは……」
「それだけの危険な妖怪がいれば、妖怪の山がいち早く察知しています。でもそんな情報はありません」

 はたては椛に目をやる。この中で最も長齢である彼女ならば……と。事実、椛も頷いた。彼女もまた、牛鬼の情報は掴んでいない。哨戒天狗はそういった外来のモノに関する情報を最も早く手に入れる場所だ。外の世界に近い部署。が、牛鬼の存在はつかめていなかった。

「かつていた。しかし……地底に封印されたはずだ」
「初耳ですよ……それ。でも、それじゃあ……出てきてもおかしくありません」
「アレは特別だ。鬼たちが地底でやっていけるか、旧地獄がまだ地獄であったころ、その危険性を案じ、大天狗様他の妖怪たちによって封印された。故に、地層が違う。地底への封印は解かれたが、アレは解かれていないはずだ」

 無論、椛とて自信はない。何しろ星蓮船が、そして神霊廟が地底解放後に出てきている。下手をすれば……ありえないことではない。これは星蓮船が復活してから幾度となく上層部で話題になったことである。しかし……調べたくても妖怪の山は勢力圏外だ。旧地獄である以上、閻魔や旧地獄を管理するさとり妖怪の裁断も必要になる。手続きが煩雑になるために今の今まで満足な調査が出来ていなかった。

「それに……あれは特殊なのだ。先ほど言っていたな、総じて牛鬼は残忍だと」
「え、ええ……」
「そも、封印するよう提案したのがその牛鬼だ。珍しいことに……比較的温厚な輩だった」
「……会ったこと、あるんですね?」
「山に来て、まだ浅い時に。平時のアレは博識だった。世話にもなった。が、本人が自分の力の危険度を案じ、自ら封印された」
「ちょっと待ってよ。ならおかしいじゃない。理由がないわ」

 自分から封印されたとなれば……山を攻撃する理由がない。言いがかりにも似た所業である。椛も頷く。だからこそ、あり得ないと。別の牛鬼が幻想郷に現れたとなれば話は別だが……今のところそのような報告は受けていない。
 もう椛が言わずとも皆は理解した。この案件、裏があると。そして椛が何も言わないということは……手を出すなという圧力が上から出ているのだろう。
 だが隠し通すことは無理だろう。実際この異常事態に気付く者は少しずつだが出てきている。いずれ真相が明らかになり、パニックが起こるのは想像に難くない。

「今は口をつぐんでおけ、姫海棠。近々大天狗様から何かしらアクションが起こるはずだ。それまでは記事にするのをやめておくんだな」

 はたては狙っていたのだろう。大げさに残念がるが、やはり自分の命の方が大事だ。この業界、引き際が大事なのである。
 早苗にも妖怪退治はしないように、と厳命した。にとりは介入する気など更々ないのか、興味を失ったように作業に戻っていく。
 実際問題どうしようもない。一介の天狗が入って良い問題のレベルを超えている。上が対応するというのだから関わらない方が身のためだ。本当の所、椛は深くかかわっているのだが、当然裏の仕事のため口を噤んでおり、周囲は知らない。普通の天狗たちは坐して待つだけで良いのである。

「あ、そうだ。はたて。頼まれてた物作ったよ」

 若干空気が悪くなっていたところを変えようと、大げさに声を張り上げ、にとりはごみとも区別がつかない機械群の中からソレを取り出した。

「はたて、それは?」
「探知機。椛って突然いなくなること多いじゃない。密着取材としてそれって困るから、ほい、ちょいと失礼」

 そういうと椛の了解も得ぬままにその胸元にボタンのような機械を取り付ける。
 直方体の紙袋で包まれた箱を渡す。親機だという。この小さなボタンから受信し、教えてくれるのだとか。下手をすれば悪用も可能なモノなので、にとりは何度もくぎを刺してきた。

「元々急ピッチで改造したものだから……テストもしてない。改造前の機能も残ってるんだ。あくまでも取材のためだと思って使って。できれば返してほしい」
「ん、わかった」

 耳元で忠告するにとり。記者として、色々と目を引かれる機械だが、我慢する。今回はあくまでも椛の居場所を知るための機能なのだ。箱は空けずに脇に抱えた。

「……本人の許諾は得ずにか」
「我慢しなさい。あんたが勝手にいなくならなけりゃ問題ないのよ」

 確かに椛は度々いなくなる。普段から行動が読めない人なのだが、この取材期間中は困るのである。首輪をつける様で申し訳ないが、我慢してもらうしかないだろう。
 しかし……はたてと椛が言い合う場面を眺めながら文は思う。何故、この鴉天狗は椛を恐れないのか。鈍いところはあるが、あの白狼の異常性は気づいている筈だ。失礼な物言いをよくする彼女だが、人一倍感性に富んでいる。
 空気を読むのは下手ではあるが、境界をはっきり認識し、踏み越えないという点では文並に富んでいる筈なのだ。
 なのに、あの椛とまったく対等に喋っている。いや、本来鴉天狗と白狼天狗であればこれが普通、もしくは鴉天狗がもっと偉そうにしているものなのだが……。

 
 結局、この日はこのまま解散の流れになった。まだ日が明るいのだが、椛が上役である大天狗に呼ばれてしまったためである。流石に上司の家に押しかけるわけにもいかなかったため、はたてと文は先に屋敷に戻り夕飯などの準備を行うための作業を行っていた。
 その最中において。

「ねえ、前から聞きたかったんですけど」

 夕飯は山菜をつかった天ぷらだ。里で仕入れた新鮮な油を使い、揚げ物を行うはたてにレンコンを斬りながら文は問う。鍋から目を離さず、生返事を返すだけのはたてに文は続ける。

「何故椛とあんなに親しげに話すんです?」
「何よ突然。おかしい?」
「まあ、そうですね。引きこもり全開だったあなたにあそこまで社交性があるとは思いませんでした」
「知ってるでしょう? 私の仕事」
「裏の仕事とはまた別ですよ。怖くないんですか? 椛のこと」
「いや、まったく。……文、レンコン」
「はいはい」
「もし怖いとしたら、文たちの方が怖いわよ」

 衣をつけたレンコンを鍋に放り込み、はたては眼だけを文に向ける。その目に心の底を射抜かれた気がして唾を呑む。椛とは違った恐怖である。それはあり得ないモノを見る眼であった。まるで今文がこの場に存在している筈がない、という確信めいた……当惑のもの。

「私が外から入山した天狗だってのは知ってるわよね? なら私が結構迫害受けていたってのも知ってる?」
「……いえ、初耳です。本当なのですか? 鴉天狗なのに」
「そ、鴉天狗。でもお山にとっては外様なのよ私って」

 山は排他的である。故に入山したモノに心を許さず、徹底的にゆさぶりをかける。外からのスパイの可能性もある。疑いを晴らすまでは徹底的に調べ上げるのだ。はたてもまたその一人であった。
 とりわけ彼女は念写というプライバシーを完全無視する能力があった故に、そのほかの妖怪以上に苛烈を増した。外の世界を恐れ、引きこもるのも無理はない。
 はねる油に注意しながらサツマイモを取り出し、油をきって更に載せる。

「でも私もそうですよ。暫くは色々調べられましたけれど」
「あんたは違うでしょうが。生まれは妖怪の山、途中で下山したみたいだけど。それも天魔が認めた例外的な部分だったわけだし、それにあんた、射命丸家のご息女じゃない」

 言葉に詰まる。確かに文の家は名の知れた名家である。名家である故、疑いの目はかけられない。文が入山したときも、亡くなった父に代わり方向に来たのだと……逆に賞賛され、迎え入れられたほどである。

「……落ちぶれましたよ、私の家は。父が死に、母が死んだことで」
「でもあんたが末裔なのよ。その時点で射命丸家は続いている。天魔の護衛役についたことのある実績もあるやつの娘よ。流石に邪見にできないわよ」
「そうかしら……っていうか、あなた様付けしなさいよ。殺されるわよ?」
「いいのよ、誰も見てないんだから」

 こいつは自分が告げ口するという可能性を考えていないのだろうか。
 はたては大天狗や天魔のことを敬ってはいない。勿論、面と向かっては敬語ではあるが、陰ではこれである。これが陰湿ないじめを生む原因なのではないかと文は思っているが、本人いわく、そうしたいじめを受けた果てがこうなのだという。
 はたての上層部や他の天狗に対する嫌悪感もそこからあるのかもしれない。

「……椛はね。恩人なの」

 パチパチとはねる油と格闘しながら、静かに言った。思わず問い返すが、まるで独り言のように文のことを気にするそぶりはない。

「私さ、一度本気で死のうと思ったことがあるのよ」
「それってやっぱりそのいじめで?」
「そ。実際結構ひどかったのよ? 私の能力を怖がって殺しに来るやつもいたんだから。勿論表立ってじゃなく、モノを使ってだけど」
「……それって毒殺とか?」
「一度服用して生死を彷徨ってさ。本気で怖くなった。もう何もかも信じられなくなってさ。自分の能力を呪ったこともある」

 最初は他人と会う事が怖くなった。次に外の世界が怖くなった。いつしか自分の家にこもり、他人と会う事を拒絶していった。
 仕事は書類提出で何とかなった。上が求めているのははたてではなく、はたての能力であった。使えなくなれば始末すればいい、そういう想いがヒシヒシと感じられた。
 山を下りようとすればそれ以上の仕打ちが待っている。他の組織に情報を漏らしたくない、そういう思惑が天狗たちにあった。
 余りにも勝手だ。能力なんて自分では選べない……天性のものだ。はたてだって好きで身につけたわけじゃない。声を大にして文句を言いたい気分にもなる。ともかく……必要な情報以外で、はたてに発言の機会は認められなくなった。
 だから引きこもっていたというよりも監禁されていたという方が正しい。
 泣かなかったのは自分が惨めになると思ったからだ。泣けば全てを受け入れてしまう、それがたまらなく悔しくて意地でも泣かなかった。それが相手を逆撫でした面もある。
 何もかもが嫌になり……そして。

「死のうと思ってさ、首をつろうって。勿論死ねるかはわかんないけど、それくらい。そんな時よ、椛が現れたの」

 唐突な来訪であった。いつも居留守を決め込むはたてはドアをノックする音を無視していた。我慢していればいずれ居なくなるからだ。
 しかし、何度目かのノックの後、唐突に蹴破られた。そして白狼はズカズカと室内に入り込むとはたてを引っ張り出した。
 突然のことに目を白黒させ、そして何年振りかになる人とのかかわりに恐怖をお越し錯乱したそうだが。
 正直なところ、本気で殺されるのではないかとさえ思った。何しろあの椛である。視線で人を殺せそうな気配を漂わせる奴来れば、誰だって取り乱す。

「あいつさ、逃げようと暴れる私をグーパンチでぶん殴ってさ。で、押し込んできたわけよ」
「……何を?」
「握り飯」

 首が吹き飛ぶのでは? と思う位の衝撃が襲ってきた。久方ぶりに感じる痛みである。口が切れ、血が滴るそこに、白狼は握り飯を突っ込んできたのだ。
 突然のことに全く反応できなかったのだが……物言わぬ白狼はただ一言、『食え』とだけしか言わなかった。
 毒かもしれない。第一飲まず食わずをずっと続けていたためか胃が受け付けない、と思わず吐き出してしまったが、椛は何も言わず新しい握り飯を取り出すと、今度は押し込まず目の前にただ差し出してきた。

「食べろって。食わねば死ぬぞ、ってあいつ言ったのよ」
「食べたのですか?」
「正直何度か断った。でも有無を言わせないでさ。あいつ毒じゃないってわざわざ自分でも食って見せて私にくれたわけよ。……で、仕方なく食べたの。そしたらさ……」
「そしたら?」
「泣いちゃった」

 泣いては負けだと我慢し続けてきた心の壁が、そこで初めて崩れた。強引だったとはいえ、妖怪の山に住んで初めて人の優しさを味わったのだ。

「具も入ってない、銀シャリだったんだけどね。……生まれて初めてこんなにうまいモノがあるんだ……って思った」

 椛の手はごつごつしていて、とても料理を作る手には見えないのに……そのおにぎりは綺麗だった。その年は不作の影響もあった。貴重な食料をよこすことにはたては驚き、その優しさに泣いたのである。

「あいつ私の家に来てさ、掃除始めて、料理もして。で、私を風呂に叩き込んだわけよ」
「またすごいですね……」
「でしょ? 理由を何度も聞いたわ。でもあいつが言うのは本当に短かった」
「え?」
「『前を向け、ただ歩け』って」
「……それだけですか?」
「そしてこうも言った。『悔いは無駄だ。その労力を進むことに使え。人は何度でもやり直せる』って。立ち止まって考えるのもいい。ただ、後悔しない道を歩けって言いたいんでしょうね。あいつらしいでしょ? でもなんでかね、その時の私にとっては何よりも嬉しかったわけよ。だから生きることにした」
「…………」
「簡単な話でしょ。でも、言葉ってすごいのよ」

 あれから暫くして椛に聞いたが……ただ白狼は自身の仕事、哨戒の任務の範囲内で孤独死されても困ると答えただけだった。優しさも欠片もない、面倒事は御免だ、と言わんばかりの回答だったが、それだけで十分だった。

「寿命ならまだしもね、自殺による『死』って逃げなのよ。そう思ったらたまらなく悔しくなった。で、生きることにしたわけ」
「引きこもったまま?」
「それとこれとは……ね。でも、私を攻撃してくれた連中には手痛い仕返しをしてやったわよ。それはもう、残酷なほどに」
「……そういうことやるから反感買うんじゃ」
「文も気をつけなさいよ。こう見えて私、やるときはやるんだから。ま、どうも椛が狙ってた相手でもあったみたいでさ……だから本当に私のことは二の次だったのかもしれない」

 後日いじめをしてきた連中は罰を受けたという。その背景に白狼の力があったとかないとか。どちらにせよ、椛の真意のほどはわからないが、確かに彼女の行動ははたてを救ったのである。
 揚げ物も終わり、続いてみそ汁を作る段階に進む中、文は思う。はたてははたてで孤独に生きてきたわけだ。椛がそれを救ったというのが些か奇妙ではあるけれども。何かしらのきっかけで生きようと思ったわけだから妖怪の心というモノはわかりにくい。

「じゃあ、はたてが能力に制限かけてるのって」
「まぁ、疲れるというのも本当だけど……ちょっと椛に倣ったのよ。私もね」
「倣った……ですか」
「そ。私の能力は危険だって改めて分かったから。むやみやたらに使うべきじゃない。本当に必要になった時に、それを使おうって。ただ……引きこもり生活が長すぎて、外に出る気はあまりしなかった」
「でも出てきましたね?」
「吸血鬼異変以降、山の監視も弱まってたし、私の能力に制限がかかって元々脅威じゃなくなってたのか……外に出るのは簡単だった。もう一度、やってみようって思ったのよ。その点に関しては、文……あんたのおかげでもある。ありがとう」
「いえ……どうも」

 あまり素直に感謝しない友人が突然素直に感謝の意を述べてきたのがむず痒いのか、笑いながら流す文。
 以来、彼女は念写をしなくなった。正確には本来の使い方をしなくなった。最近になって携帯電話型写真機を手にするまで本来の能力を使わず、また手にした後も二番煎じの写真ばかりを写すようになった。それでも……やるべき事態が起きた時は惜しみなく本来の力を使った。
 椛が何故はたてを助けたかはわからない。彼女は彼女なりの思惑があったのかもしれないが、少なくともはたてを邪見にせず、また陰湿な行為をしなかった。
 だからはたてにとっては恩人だ。理由はどうあれ、生きる力をくれた。こう生きてみたいという目標でもある。だからこそ対等にいようと云う気持ちを抱き、現在を生きている。
 ライバルであり友人の意外な一面を知った文は、自分と椛の違いを改めて思い知り、どこか遠い目をしながら……ただ聞き入っていた。

「一つ、わかった気がします」
「何が?」
「私と……椛やはたてとの違い。山の生まれかそうでないか、って相当違うんですね」
「そうね。特に椛の場合名家の生まれで有ったけど追放された存在だからまた違うし。私から見てもあれは特殊だし」
「…………」
「だからかしら。奇妙なのよ、なんであいつがあんたを毛嫌いするのか」
「え?」
「悪いけど、椛との付き合いなら私の方が上なのよ。それを承知で言わせてもらう。あいつは基本的に人に興味を抱いていない。敵か否か、そういう認識をしているの。知ってるでしょう?」
「え、ええ……まあ」

 椛が自身を守ってきた最大の要因であり、周囲が恐れる要因でもあるそれ。更なる被害を恐れた周囲に対して椛が出した、唯一の条件。それは自身の『敵』にならない事。そうならなければ敵対しないし、手出しもしない……山を安定させるため天魔と誓った不文律である。

「敵と認識した相手は何があっても排除している。それこそが椛が恐れられている原因なわけだけど……。逆に言えば敵にならなければ何もしない。大天狗を倒したって評がついてる椛と進んで敵対したい奴はまずいないわ。でも怖いわけだからどうにかしたい。で、椛が条件を示したことで、彼らは自ら境界線を引くことが出来たってわけなんだけど」

 白狼天狗が恐れられるにしては常軌を逸しているが、身の安全を考える以上、そうした境界は皆求めるモノだ。椛はそれを示した。高圧的と言われなくもないが、結果的に彼女の身の安全を決めることにもなったわけだ。勿論、その境界を乗り越えて椛を襲うモノはいたが、例外なく排除されている。それこそ、どんな手を使ってでも。

「社会的にも、物理的にも敵対したモノは何かしら制裁を受けて姿を消している。私がいろんな奴を念写やらなんやらで見て来てわかるのは、あんたは椛にとって敵なのよ」
「そりゃあ……会えば襲われる身ですし」
「違うわよ」

 危機感が足りない、とばかりに頭を小突かれる。衣がついた手だったため額に少しついてしまった。それを拭きながら抗議の視線を送るがはたては無視する。茶化す余裕はない、ということか。

「あいつが敵と認識した場合、そいつは排除するか、愛でるわ」
「前者はわかりますが、後者は?」
「そいつがどういう出方をするか楽しみにしているのよ。熟した方が美味しいってやつ。あいつが狩るに足る存在か、判断するまでそうやって愛でるの。狩り時になったら狩るのよ。鬼に近いわね、この習性は」
「はあ……悪趣味ですね」
「同意見よ。……で、あんたは前者」

 それは今まで攻撃を受けてきたから明らかだが……。どうもはたてが言うのは違う気がする。鈍感烏め、と顔をしかめられても困るというモノだ。本気でかみつかれたこともあったが、文が逃げれば追ってこなかった。それ以降も特別何かしてきたという様子はない。
 
「私が法律を犯していない、という可能性は?」
「馬鹿ね。椛に至ってはそんな可能性あり得ないでしょうが。なんてったって裏の仕事やってるのよ? その気になれば秘密裏に処理される可能性もあるわよ」
「まあ……確かに」
「実際あんたにはそうなる条件がそろっている。仕事・態度はどこか不真面目。何より! 外の世界と接点を持ちすぎて、異変まで呼び込んでる。天魔は良くても、他の連中……特に保守派が黙ってるはずがない」
「口先三寸で逃げ切る自信はありますがね」
「そいつらならね。でも、天魔は無理よ。あんたは天魔たちに処断される理由をいくつも与えている。彼らが命令を出せば一発で椛が来るわ。今はまだ許されているとみるべきね」
「なら後者じゃないんですか?」
「いいえ、どこか違う。何か引っかかるの。いや、そもそも前提からしておかしいのよ。あんた、椛になんか危害加えた覚えある?」

 言葉に詰まる。そういえば……そうだ。基本的なことを忘れていた。自分は、そもそも椛との付き合いは浅い。記憶に残っている限りでは初めから仲が悪かった。
 自分が不必要に山の外とのかかわりを持っているから、不良天狗だからだと思っていたが……。

「仕事ではなく、椛だけ……とみるなら、あいつはそんなつまらないことじゃ敵と認定しない。あいつが認定する最大の理由は……」
「危害を加えた、ですか。さっきのように」
「そうよ。あいつ自身か、もしくはその仲間。それに敵意を持って危害を加えた時、初めてそいつは椛自身の敵になる。仕事ではなく、個人としてね。ねえ文。あんたそんなことした記憶ある?」
「いえ、まったく」

 考えれば考えるほどわからなくなる。そも、何故自分は椛に嫌われているのか。ただ……はたてが断ずる椛が敵と認定する要点、それもまた違う気がするのはなぜだろうか。そんな心境を目ざとくはたてはついてくる。

「何か心当たりある?」
「いえ……ただ、敵というのはやっぱり違うと」
「何よ。じゃあ単純に椛があんたを嫌ってるって?」
「それもあるでしょうが……なんというか、中間と言いますか」
「歯切れ悪いわね。敵ではないけど嫌いな奴、ってこと? あいつ十か零よ? 判断基準は」
「ええ。中途半端な気がするんです。何故か。私を殺そうと思えばいつだってできた筈。なのにあの人は不必要に接触を避け、接触したときに攻撃してきただけです」
「……分からないわ」

 全くわからん、と苦虫を潰すはたて。むしろ元引きこもりの身で人をそこまで分析するのも大概な気がするが……ともかく、2人で考える。
 文の理論を採用するならば、非常に微妙な点である。椛は鬼の様にはっきりとした性格である。物事の決定もそうだ。だから曖昧な答えは出さない。

「……つまり、あいつの琴線に触れる何かがあるわけか。でもあいつが敵認定しきれないってことは……」
「何か?」
「例えばだけど、あんた……何か問われなかった? なんでもいいわよ」
「……私が何故新聞記者になったのかってこと聞かれました」
「でそれに答えた?」
「……いえ、答えられませんでした」

 答えはまだ出ていない。あれ以来椛は同様の質問をぶつけては来ていない。だが合点がいったのか、はたては大きくため息をつきながら頷いた。

「それよ。間違いない」
「え?」
「さっきも言ったけど、椛は十か零かで判断する。それこそ鬼のようにね。まぁあの星熊勇儀のペットみたいなことやってたから影響受けたんでしょうけれど。なんていえばいいのかな。うん、椛はさ。私が見る限り、曲がったことを嫌ってる。鬼みたいに。だから多分、文は曲げてるのよ。心の中で、何かを。それも根本的な部分で」

 今一理解できないが、そのままはたての話を聞く。当のはたては酢の物を和えながら言葉をつづけた。

「多分文はそれに気づいていない、もしくは忘れている。だからあいつは嫌ってるんだと思う」
「でも……それって椛がくそまじめってことですよね?」
「あら、そうよ? 知らなかった? あいつ、根っからの真面目キャラよ。まぁねじりにねじれてあんな感じになってるけど。決めたことは必ずはたしてきたじゃない」
「そういえば……」

 たとえ命の危険に陥ろうとも任務を果たす。それが大天狗が彼女を好んだ理由だというのは有名な話だ。命の危険に対しても、進んで任務をこなすその姿勢は好まれるものであるのは当然だ。いくら彼女が異様であろうとも、そこだけは彼女を嫌う天狗たちも評価している。

「文。思い出してみて。あなたが何故新聞記者になったのか。あなたの目標は?」
「そ、そりゃあ……新聞大会で一位を取る事……ですけど」
「それ、本当?」
「本当って……嘘を言ってどうするんですか?」
「これは難題ね……」

 流石のはたてもお手上げだ。そうだろう。はたては念写はできるが探偵ではないのだ。場所は写せるが人の心は写せない。勿論彼女のおかげで十分ともいえるほどの材料は手に入れたが……肝心の答えはまだ得られていない。
 泡を吹く米釜をはたてが確かめる中、何かを思いついたのか、

「なら、さ。あんたの言う『清く正しい』って何よ」

 ぼそり……と、そんなことを言い放った。驚く表情を浮かべる文だが……なぜか、答えられない。今までなら適当に取り繕って逃げてきたお決まりの文句がある。なのに何故……あの椛と相対したときと同じように、言葉が出ないのか。
 はたてはそれ以上言ってこなかった。言わずとも、文にも理解できた。
 これなのだ。椛が嫌っている理由は……おそらくこれだ。

『清く正しい』

 何故そう思ったのか。何を想い、何を考えその思想に至ったのか。

『新聞記者』

 名家の娘である自分が、何故わざわざ地位を投げ捨ててまでこの職業に就こうと思ったのか。
 
 何があったのか、あったはずだ。契機が。そうなろうと思ったきっかけが。
 楽しいと思った? それはある。だが、足りない。理由には足りない。

 思い出せない。その異常が恐ろしい。それに気づいたとき、何故自分が今もそれを続けているのかが分からなくなり……とてつもなく怖くなった。

「…………はたて」
「ん、わかった」

 吐き気をこらえるように口を手で押さえ、呻くように言葉を出す文にはたては何も言わず、重箱を取り出すとそれに作りたての食料を詰めていく。

「一度家に帰りなよ。ここには私がいるから。何かあったらすぐに連絡する。密着取材だし、本当はまずいけど……その心のわだかまり、解いてきなよ。じゃないと良い記事はかけないわ」
「……うん」

 言い返せない。いつもは強引にでも取材をしようと強硬するモノだが、そんな気分に離れず、心の底から疲れた感覚がある。
 お弁当、と押し付けてくるそれを受け取りフラフラと台所を後にしようとするその背中にもう一度、はたては文が忘れないよう、言い放った。

「なんであんたが新聞記者になろうとしたのか、きっかけを探しなさい。それはきっと、あんただけが知ってるはずだから」

 一度だけ立ち止まった文は何も言わず、只小さく一度頷くと台所を去っていく。そんな姿をどこか心配そうに見つめながらも、はたては再度調理に取り掛かる。考えるのは文の仕事だ。自分は彼女が少しでも楽になれるよう頑張ろう……と。



 目星は着いた。大天狗に呼び出され、伝達された情報を纏めるとそれだ。事件を裏で操る者の存在は特定できた。
 証拠は集まっていない。だが確保してから探すことが大事だと判断した大天狗は秘密裏に確保に向かったそうだ。……が、残念なことにその者はすでに姿をくらませていた。
 故に、事件の解決のめどは経っていない。だがその者の工房を抑えることはできた。
 薬を創ると思われる道具が点在しており、ここが本店だとすぐに判断できた。

「まずはこの者の特長を把握しておきたい。その上で、あぶりだす。主は狩りをせい」
「承知」

 現在工房には椛と天魔しかおらず、誰もそれを聞き取ることはない。腐臭が漂う中、この二人は顔色変えずに立っていた。

「もう一つ。悪い知らせがある。地底からだ。……牛鬼の封印が解かれ、もぬけの殻だそうだ」
「……ではやはり」
「うむ、製造者は牛鬼の『瘴気』を使っていたとみて間違いない」

 牛鬼はその毒により人々を殺していたという。その牛鬼は『瘴気』と呼ばれる毒で人々を侵し続けてきた。目に見えない毒。だからカプセルを開いたとき、何も入っていないように見えたのだ。

「他の組織がかくまっている可能性は?」
「まずない。一番の可能性のある紅魔館は現在戦力的に見てかつての吸血鬼異変に比べ、はるかに劣っている。牛鬼を取り入れたところでその差は余り埋まらん。他の組織には、妖怪の山と敵対してもリターンがないところが多い」

 それはつまり、どこかに居る。この幻想郷のどこかに。
 
「私は牛鬼を探します」
「頼む。間違っても殺すなよ」

 自然と役割が決まった。示し合わせたかのように、長年上司と部下を続けてきたこの二人はあっさりと結論付ける。
 たかが白狼天狗と、雲の上の存在である大天狗。地位も、種族も天と地の差があるこの二人は……しかし、過去を知るが故に互いを補佐しあうチームワークを有していた。
 本来ならばありえない阿吽の呼吸である。大天狗が室内を捜索する中、椛はすでに牛鬼との戦闘時の作戦を頭の中で考えていた。

 

 その結論として、現状の装備では心もとない。が、時間もあまりない。牛鬼は明日、明後日までに見つけねばなるまい。拠点を失った犯人が何をするかわかった物ではないからだ。
 大天狗と別れ、屋敷についたころにはすでに夕刻。時刻にして11時ごろになっていた。夕方に分かれたので大分待たせた、と謝罪を述べたがはたては大して気にするそぶりは見せなかった。
 
「わかった。手伝う」

 大きな混乱を生まぬためにも使える手は限られる。となると、頼める人は少なく、そして事情を話すとその人は有無を言わさず許諾してくれた。

「はたて。奴はどうした?」
「ん、ちょっと野暮用。……呼ぶ?」
「使える手は使うべきだろう」
「OK」

 手紙を取り出し書を認める。直接行くのも良いが、それでは時間的なロスがある。それにあの様子だ。まともな思考判断ができるとは考えにくい。頭を冷やす時間を与えるためにも、伝書鳩を使い情報を与えておけばいずれ合流するだろう。
 彼女が合流するまで2人で作戦を練っておけば、行動もしやすい。
 書を認めるはたての横で、椛もまた準備をしだす。

 狩りの時間である。
 
 幾数もの投げナイフの差されたベルトと短刀を腰に巻き、短刀を差す。背中には哨戒天狗への支給品である大剣と盾を背負った。
 盾はともかく、大剣は彼女の本来の武器ではないが……どうしようもない。
 
「でもいいの? 私が戦わなくて」
「邪魔になる。それに、牛鬼相手に鴉天狗は分が悪い」

 種族的な差ではない。問題はその『瘴気』にある。話によればその瘴気は風に乗って漂うタイプのモノだ。威力も強力なのだが……拡散性が高い。
 故に、風を操る鴉天狗は戦闘に参加させられない。下手に瘴気を周囲に広げるわけにはいかないのだ。
 となると……実際に先頭になった際、それを行うのは椛の役目になる。元々肉弾戦が得意である彼女にとって適材適所。はたては瘴気が周囲に漏れないよう、風を操る役目がある。
 前衛と後衛を分け対処する。それが現実的な方法であった。

 さて、そんなこんなで十五分ほどであらかたの準備を終えた頃。最後の詰めの作戦を練りながら文を待つ……その中で事態は急展開を迎える。
 そのきっかけは夜分遅くにやってきた……八坂神奈子の一言だった。

「ねえ、うちの早苗知らない?」



◆  ◆



 事態が動き出した頃。文は自宅の中をひっくり返していた。正確には自宅の中にある書庫を……である。ここには新聞記者となって以降自分が書きとめた数々の事例のメモが収められている。
 ネタも風化し、ゴミとなった物は捨てたが、重要なものは全てこの場所に納められている。だからこの中にきっと……自分が求めている答えがあるはずだと思っていた。
 しかし……捜索は困難を極めた。何しろ何百年分の資料である。昔のモノになればなるほどボロが出ており、いつの出自のモノなのか判別する事すら難しい。
 それでも諦める気はなかった。この胸のつかえを取り除かなければ明日から満足に写真機を手に取ることすらできなくなる。

 ヒントははたての言葉にあった。
 
『椛は曲がったことを嫌う』

 生真面目。評判はあまりよろしくない椛だが、確かに言われてみれば筋を通している。
 むしろ通さないことを嫌っている節がある。そう、まるで何か一本の大きな柱が……家でいう大黒柱のような存在が彼女を支えている。
 それはすごいことだと思う。時々刻々と物事は変化する。人の心も変化する。時代も、社会も、変わらぬことはない。
 その中において椛もまた変わったのだろう。けれど、たった一つだけ守り通してきた。それを他人に押し付ける気はないのだろう。
 だが、過去の自分は椛と同じく何か確固たるものがあったはず。そしてそれが変節したのだろう。
 多分だが、椛はそれを嫌ったのではないだろうか。
 
 正直なところ余計なお世話だという想いもある。心が変わるのは当然のことだ。それが許せるか否かは抜きにしても、それを他人に指図されるいわれはない。
 つまるところ……自分と椛には何か接点があるのか? 
 行き着く疑問はそこだ。かつて、自分と椛は面識があった可能性がある。そして、それを知っており、そして変節した自分を椛は嫌悪しているのではないだろうか。
 それならば筋が通る。過去を知っているからこそ、その変節はたまらないと思うモノもいるはずだ。
 しかし……待ってほしい。自分は椛のことを覚えていない。まともに会話したのだってここ百年以内である。元々白狼天狗と烏天狗、交流がある事すらまずないのだから当然である。仕事も違う以上、関係の持ちようがない。
 
「……どこかに、答えが」

 あるはずだ。過去の自分、その象徴が。
 
 気分はまるで、自分自身を取材している感覚だ。過去を掘り下げ、真実を暴こうとする……これは、なんだ? 新鮮で……けれど、どこか懐かしい感覚。
 ゴシップだの、そういった偏った情報に媚び諂わず、あくまでも一つの事実を求めようとするその姿勢。
 それは正に……かつて自分が持っていた感覚ではなかったか。

「……あった」

 探していたモノは……無事、あった。それは、文が新聞記者……かつては情報収集担当の天狗の任について一番初めの手帳である。
 尤も、居間と違い、巻物の様になっているそれは、カビでところどころ黒ずみ、力を入れればボロボロと崩れそうなほどに朽ちている。
 壊れ物を扱うようにおそるおそる紐を解き、広げる。
 若く、荒が目立つが間違いなく自分の文字である。今と違い筆で書かれているため大分違うが、年号やその日の情報が事細かに書かれていた。

「いやはや……こうしてみると大分真面目な内容ばかりですね」

 今の様なモノでは無く、上司の伝達情報、世の中の情勢等お堅い内容が記されている。
 変わって今の手帳を見てみれば、大分フランクな情報だらけだ。とてもじゃないが同一人物が書いたものとは思えない代物である。
 その日その日の情報を読み解いていく。そういえばこんなこともあったな、と回想も込めて。
 そして……一つの事実に気づいた。その巻物には、その一日一日の末尾に必ずこう記されていた。

『父に関する情報は無し』

 父、というのは文の父親のことである。どの日も必ずそれが書いてある。
 いや……日を追うごとに徐々に、字が雑だ。苛立ちが混じっているかのような……激情を感じる。
 まるで自身の不甲斐なさを叩きつけているように飽きることなく書かれているそれ。
 何故……自分は父のことを調べているのか。
 その字を指でなぞりながら考える。はたして、何故……こんな決まり文句を書いているのか。

 その文言はその巻物が終わるまで続いていた。いや、その次の巻物にも、その次にも。
 まるで呪詛の様に幾年にもわたり続いている。ストーカーもかくやと言った感じだ。
 そしてそれはついに、ある日を境に徐々に減り始め……そして無くなった。
 そこからの文面はまるで現代の文のように徐々にフランクになっている。時代がかわったかのような変化だ。
 つまり……これだ。この文言が始まりだ。

「父……」

 射命丸文の父。文がまだ物心つく前に死亡した、山において最高の栄誉とされる天魔の護衛役を見事勤め上げた男。人望も厚く、今でも彼の墓に花を添えるモノが居るくらいの人材。
 会う人皆が素晴らしい人だと言っていた。文が問題を起こすといつも父親のことを例にだし、お小言を言って来るのである。そのため次第に疎いと感じる様にもなっていた。
 しかし……父は死んだ。殉職したと聞いている。文がまだ物心つく前に。
 殉職はあり得ない事ではない。なのに何故ここまでして父について情報を集めようと思ったのか。

「……殉職……じゃない?」

 最初の文章にはそう書かれている。父親は殉職、というのが公式の発表だ。
 しかし、若かりし頃の文はそれを否定している。父は殉職ではない、殺されたのだと結論付けている。理由はわからない。ただ、その文章からは確信めいた気迫が文字だけなのに感じ取れた。
 その巻物が入っていた箱をもう一度改めてみると、何やら丸まった紙屑が隅に入っていた。巻物以上にぼろいそれを広げてみると……目を見開いた。

『父は殉職じゃない。誰も真実を語らない。絶対に見つけて……母に知らせるんだ!』

 日付は最も古いモノ。この日はちょうど……そう、文が入山したころのモノだ。山の発表を信じないというのは大問題だが、若いころの自分は確かに疑念を抱いていた。だがおかしい。母親は文が入山する前に病で亡くなっている。何故彼女の為に?

 何故だ? 

 だが、父の死が契機だったのは違いないようだ。
 巻物には、父親の死に関する公開された情報について、不自然だと考えられる部分が数多く列挙されていた。無論、思い込みもあるだろうが……その必死さが文面から見てわかる。
 が、覚えがない。そこまで必死にやっていたなら……覚えている筈だ。しかし、今の文にはそんな情熱はないし、父に対してもそれほどまでに熱意はない。にもかかわらず……この心の底でうごめく熱いものは、なんだろう。
 そして……その心が変節した事柄もまた、わかった。
 
新聞大会。

 勿論それは現代において名の変えられたものである。しかし似たような催し物は古くからおこなわれていた。
 この新聞大会には大きな意味がある。まずは、自身の能力を周囲に知らしめること。特に上位を獲れば、要職に起用される未来が与えられる。
 富、名声、あらゆるものを手に入れられるそれ。しかし、どうも若かりし頃の文はそれを求めていたわけではないようだ。

『第一級秘密書庫閲覧権』

 大会で優勝した天狗に与えられる権利の一つ。他のモノに比べ些か見劣りするそれを文は求めていたようだ。
 これは、機密として山に永久保管されている情報を閲覧する権利である。最上級の機密であるため、一握りのモノしかその書庫には入ることが出来ず、その書庫の存在も伝説とさえ言われている。
 周囲はそんな過去の情報を見ることよりも目先の利益を求めているため、未だその権利が使われたという情報はない。
 当然だ、機密を見た以上、その者は監視される……それも一生。最重要機密を見てしまえば、それが最後……己の人生を決定づけてしまうもろ刃の剣だ。故に、狙うモノが少なくなるもの当然と言える。過去の優勝者もその権利を行使してこなかった。
 が、そんなリスクがあるにもかかわらず若かりし頃の文はそれを求めた。何故か。
 簡単である。父親の死に関する情報収集は困難を極め、万策尽きていた。しかし、最期の希望がこの書庫だったのだ。
 父親の死は余りにも不自然だ。そしておそらくは、上層部がこれをもみ消し、偽のストーリーを作り出している。
 何しろ、父の死に関わった人物は余りにも少なく、秘匿されている者も多い。秘匿されている時点でおかしな事態なのだ。情報とは……特に、肉親には明かされるべき父の最期だというのに、その実の娘にすら教えていない。
 もしかしたら、本当に殉職だったのかもしれない。が……どこか違和感を覚える限り、それが本当だとはとても信じられなかった。

「そうか……そうだった」

 少しずつ……心の底、忘却の彼方に追いやった記憶が戻ってくる。自分が新聞記者になりたいと思ったその始まり。
 それは、夢に向かって突き進もうといういわば純粋な子供が抱く幻想ではなく、闇の部分を知りながら、それでいて解明したいと願う、親を奪われた娘の切ない願いであった。
 願いはいつしか、執念へ変わり、そして……新聞大会に目を付けた。

 けれど……そこで少女は挫折を味わう。

 彼女の成績は思うように振るわなかった。それは現在においてランキングにすら乗らないことからもわかるとおりだ。才能がない……のかもしれない。
 ともかく、彼女はその権利を得るために努力を重ね、挑んだが……何度も跳ね返された。努力をし続けても、一向に報われない。
 噂では裏でそうした賄賂のようなものも行われているのでは? と噂されることすらあった。それでも、あくまでも彼女は挑み続けた。
 賄賂とか、そういうズルで手に入れた真実は偽物だから。仮にその権利を手に入れたとしても、誰も報われない。むしろ父たちの顔に泥を塗る。
 手っ取り早い方法はいくらでもあっただろう。賄賂、女の武器。だが文はあくまでも己の努力を優先させた。あくまでも自分の力で手に入れる。それは最早執念であった。
 ……が、それ故に、彼女は大事なことを……決して大事なことを忘れるようになってしまった。

――新聞大会で優勝し、権利を手に入れる。
から
――何としてでも新聞大会で優勝しよう。

 へ。ようするに、目的と手段が変わってしまった。大会に固執するあまり、いつしか大会で優勝すること自体を求めるようになってしまった。
 何度やっても入賞すらできない。まるで何か作為的なものが働いていたとしか思えない。だが、優勝しなければもう前に進めないのだ。
 それからはもうがむしゃらだ。何が何でも優勝しようと、頑張り、そして失敗した。
 勉強し、分析し、皆が好むような新聞を作り始めた。話題性を面白おかしく伝えることで皆の受けがよくなった。
 読者の顔色を窺うように、いつしか自分が本当に伝えたいことを伝えなくなり、人気を取るための新聞を作るようになっていった。
 ゴシップまがいの情報も入れるようになった。時には自分から話題を提供したことすらある。
 真実を求めようと、伝えよういうかたくなに守ってきた意思も、そうやって変質していった。

「……なぜ、忘れていたの? 私は」

 全部、思い出した。その上で今の自分が自分でないような……まるで別人を見るように、言葉を絞り出す。

『清く正しく』

 それは、どんなに隠されようと、秘匿されようと決してなくすことはない真実を追い求める姿勢だったはずだ。誰よりも清い心を持って、誰よりも正しく活動し、情報を集め公開する。それが彼女の抱いていた……本来の『記者道』だったはずだ。

――記事とは何か、記者とは何か。

 先日の宴会で幽々子が告げた言葉が脳裏をめぐる。

――何故記者になろうとした。

 あの温泉で、椛が問うてきた問が心をむしばむ。

――あんたにとって『清く正しい』って何よ。

 はたてが投げかけた切実な疑問。おそらく過去の自分が今の自分を見ればぶつけるであろうそれ。

『清く正しい射命丸』

 そうだった……。何故、忘れていたのだろう。
 自分は……射命丸文という新聞記者は、邪道を扱わず、正道のみで……実力で真実を掴み取る……そういう情報屋を目指したはずだ。かつて父が賞賛をうけたように。
 何故……変質した。

「何故?」

 ポツリと出てくるのそれだけだ。絶対に見失わないだろうと思っていた……決意が、覚悟が……『信念』が……無くなっていた。無くしていた、捨てていた。

「あ……うあ……」

 言葉にならぬ嗚咽が出る。気づけば視界がにじんでいた。幼いながらも、懸命に頑張ってきて……摩耗して、そしてこうなった。
 最後まで抱いていたその信念さえも……自らの手で打ち砕いてしまった。

 今ここにいるのは射命丸文の残骸だ。

 清く正しくあろうとめざし、そしてそれを失った、壊れた何かだ。

『何故新聞記者になった?』

 椛の言葉がリフレインする。何故? 今なら答えらえる。けれど……それを言う資格があるのか? この私に。
 まるでこの場にいるのが場違いのように感じ、後ずさる。ひっくり返したせいでただでさえ汚い部屋が今では足の踏み場もないのを忘れ、無様に足を引っかけしりもちをついた。
 パサリと何かが手にかかる。それはつい先日……妖夢のことを扱った新聞だった。
 渾身の一作。当時はそう思えたそれがまるで汚物の様にどす黒く見えた。
 悲鳴を上げ振り払う。……だが、新聞はそれだけではない。見れば、この部屋を覆い尽くしているこのすべてが、どす黒い、射命丸文が抱いていた『信念』からかけ離れた……真実を追い求めた新聞ではない。
 その一つ一つから、まるで怨念のように声が聞こえてくる。それはまるで、真実をゆがめられて伝えられ、被害をこうむった責を問う声だった。
 巨大な妖怪に対峙するような……恐怖が身を包む。腰が抜け、立てない。逃げることが出来ない。
 それらがまるで覆いかぶさるように自身を見下すように……見ている気がした。
 身を守るように膝を寄せ、頭を抱え耳をふさぐ。逃げたい、逃げたい……と。

「……さい。……めんなさい。ごめんなさい」

 壊れたテープの様に口から洩れる謝罪の言葉。それははたして誰に対してか。
 今まで被害に遭ってきた相手にか。追い求めることをやめ、闇に包まれてしまった父に対してか。はたまた、そうした信念を抱いていた……過去の自分に対してか。
 無論、謝罪をしてどうこうなる問題ではない。しかし、謝罪をしなければならない程に……自身の新聞は穢れている。
 ゴシップと、誰も読まないと言っていた幽々子や椛の言う事が正しい。そうだ、こんな新聞、誰が読むか!
 どうしようもない、どうすればよい。
 逃げ出したいが、目を覆いたくなる現実が彼女を打ちのめしている。そこにはいつもの快活な少女はおらず、おびえ、今にも消えてしまいそうな……一羽の烏が居るだけだ。

 何秒にも、何分にも……何時間にも感じるほど途方もない静寂の中、

『前を向け、ただ歩け』

 不意に、そんな言葉が聞こえた。苦手で、大嫌いな白狼の声。幻聴だと思った。
 恐る恐る顔を上げると……丁度部屋の入口、ドアの前にその白狼がいた。

『悔いは無駄だ』

 それは、はたてがかつて椛に告げられた声。死の淵から救い出した声。
 その白狼が本物なのか、幻影なのかわからない。白狼は助けもせず、只無常無色の眼で文を見つめ続け……そして背中を見せた。
ただ……その背中が、いつだったか見た、大きなものに……重なった。

「ま、待って!」

 そのまま立ち去ろうとするその背中を止めようと慌てて立ち上がるが、足がもつれ倒れる。再び顔を上げた時には……白狼の姿はなかった。

「あ…………」

 再び静寂が訪れる。先ほどまで正体不明の……忌むべき汚物の塊はすでに消えている。いつも通りの文の部屋だ。

「やり直しても……いいの……でしょうか」

 その安堵の感覚からか、自然と涙があふれてくる。それを手で拭いながらも……よろよろと立ちあがる。
 再び目指しても良いのだろうか。再び……清く正しいを目標に据えていいのだろうか。
 すでに手は汚れている。そんな手で、掴もうとしてもいいのだろうか。

『進め』

 そんな声が再び聞こえてくる。その姿は見えない。……が、その言葉が再び力をくれた。
 許されないことかもしれない。取り戻せない時間だ。……だが、まだやり直せるのならば……せめて、これからの努力で……。

「清く、正しく……」

 膝に力を入れ、立ち上がる。少しずつだが生気が戻ってきた。言葉の逃げと言えばそうかもしれない。

「もう、曲げない」

 骨折した骨は、くっつければより強固になる様に。
 雑草は幾度も蘇る様に。今度こそ、貫き通そう。

 一度手放した『信念』は……再び手にしたとき、より強固なものとなって帰ってくる。

 その時、一羽の烏が足に手紙を括り付け、文の肩に停まった。



◆  ◆



 状況は最悪だ。轟音と共に風を切って振り下ろされるそれを避けながら椛は冷静に分析する。
 神奈子が聞いてきたそれは……まさに最悪の情報であった。
 早苗の匂いは覚えていた。それを追ってみれば……見つかった。しかも余計なものまで引き連れて。
 早苗は遭遇したのだ、あの牛鬼と。人間の里に布教しに行き、そこで上白沢慧音の宅で夕飯をごちそうになり、帰ってくるその帰路において。
 争うな、と言われていた早苗は逃げようとしたが、状況を確認した結果それが不可能だという事に気づき……今こうして、ここにいる。

「……狙ったとしか思えないわよ! これ!」

 瘴気が周囲に漏れないよう牛鬼を中心に球状の結界を張る様に風を操作しながら悪態をつく。普通に風を起こすのと違い、決まったフィールドに沿うように風を操作しなければならないため大変な労力と集中力を必要とする。そのため彼女は戦闘を開始して僅か5分で汗だくであった。
 悪態をつくように叫びをあげるはたてのいう事も最もで、何しろ場所が場所だったのだ。

「人間の里、それに妖怪の山の近くで出くわすなんて……」

 今日は風が強い。下手をすれば二つの二大組織の方向へ瘴気が流れてしまう。椛の言った通り、この瘴気は猛毒だ。妖怪もそうだが、人間が浴びればひとたまりもない。

「牛鬼には……符を貼っておきました。霊夢さんのに比べれば……ごほっ、ごほっ……劣りますけれど、結界内から出ることが難しくなるほどには弱まっている筈です」

 息も絶え絶えに早苗が漏らす。二人がたどり着くまで一人で牛鬼を止めるための結界を維持していた。彼女もまた、瘴気の存在に気づき風を使った結界術を使用していたため、一人で二役を担っていたわけである。その疲労度は言うまでもない。吸い込んでいなかったのが功を奏した。はたてはまず彼女の身の心配をしたが、神性も持ち合わせているためか、比較的軽微ですんでいる。

「あんな瘴気……吸ってしまったら大変です!」
「その通り!」

 普通瘴気は目に見えないのだが……牛鬼の体中から発せられるそれは、濃い紫色をしていた。出会ったとき、牛鬼の周囲の草花はその瘴気で枯れはてている。メディスンも真っ青の毒だ。あんなもので薬を作れば……それこそひとたまりもないだろう。

「早苗、間違っても触れちゃだめよ。現人神とはいえ、人間なんだからね!」
「でも! 椛さんが!!」
「あの白狼なら大丈夫よ! んなことより自分の心配をしなさい!」

 はたてからしてみれば、今早苗には余計な真似をしてほしくはない。
 何しろ彼女は2人が助けに入った直後、糸が切れた人形のように崩れ落ちたのだ。おそらく霊力を使い果たしている。事実今もはたてが守る様に彼女の前に立ちふさがっており、早苗は地面に崩れ落ちたままだ。息も絶え絶え。
 早苗の言うとおり、椛を助けるべきである。……が、それが出来ないのは先ほどの作戦会議で椛が言っていた通りだ。悔しいが、今はたては風の操作しかできない。
 それに……早苗が邪魔だ。彼女が居なければもっと良い位置で風を操作出来た筈。力は当然、操作する者の近辺が強くなる。故に、早苗の傍にいれば瘴気は来ない。彼女が動けない以上、はたても動けないのだ。

「文が居れば……」

 悪態をつきたくもなる。文ははたてよりも風を操るのがうまい。本職だ。だが……まだ彼女の姿は見えない。普段はいても迷惑なあの鴉天狗を今か今かと待ち望むのはおかしな話だが……そうなるくらいの危機的状況だった。

 一際甲高い鋼のぶつかる音の後、風の結界から飛び出す一人の影。

「椛!」
「……プハッ!」

 はたての身を案じる声に口を開き、大きく息を吸い込むことで健在ぶりを示す椛。今の今まで彼女は息を止めて牛鬼との戦闘を行っていた。
 そう、瘴気は吸い込んではならない。その上で近接で対処しようと思うのなら……息を止めてことにあたるしかない。
 天狗という種族上の強さがあるようだ。余程近くに居なければ影響は軽微らしい。
 幸い牛鬼はこの風の結界に閉じ込められている。出ようとすれば容赦ない風の刃がその体を刻むだろう。

「……大丈夫?」
「問題ない」

 現在、牛鬼は激昂状態にある。すなわち冷静さを失っている。だが、彼が手にしている大きな斧は正確な動きで椛を狙ってくる。
 体格は牛鬼が何倍も上だ。巨人に小人が挑む……その状況である。動きもスマートで的確だ。とてもじゃないが、まともに打ち合う事すら危険だった。

「だが確信したことがある」
「何?」
「操られている、あれは。……やり辛いことこの上ない」

 そう断言する椛は結界の中で雄たけびを上げながら3人を見つめる牛鬼に目をやる。

「なんでそう思うのよ」
「動きに乱れがある。ほんの僅かだが。意思と身体が相反している……そんな印象だ」
「なるほど。だから操られていると」
「然り。行動には意思の形が現れる。先読みとはそういうモノだが……意思と行動が真逆だ」
「要するに予測しづらいのね。なるほど。……だとするなら、どうやって? 早苗、あんたの意見は?」

 生憎ネクロマンサーや召喚士ではないはたてはそういったことの専門である早苗に話を振る。邪魔な存在だが、こういう時こそ利用するべきであった。
 いきなり話を振られた早苗だが……短い間でも大分幻想郷に溶け込んだ結果からか、即座に答えを導き出す。

「えっと……あの強力な妖怪ですと、直接何かを媒介にしなければ無理だと思います」
「つまり?」
「何か、受信機のようなものがあるはずです。それさえ破壊すれば……止まると思います」
「OK」

 ここは椛の推測を信じるべきだろう。こうした命のやり取りを十二分に行っている彼女だ。信頼に値する。

 方針は今まで通りだ。状況は好転していないが、暫くはこうするほかあるまい。いずれは山も異変に気付くだろう。この結界を維持し続ければ、いずれ解決する方法が見込めるはずだ。時間を稼ぎ、隙を出すまで待つべきだ。牛鬼とはいえ、体力は無尽蔵ではない。疲れるのを待つ……それが最善だ。
 しかし……ふと、目の前にいる白狼の雰囲気が変わった。はたてたちを守る様に前に立ちふさがり、背中を見せる小柄な体からは……普段からは決して感じることのできない……何か、威圧されるような何かを感じた。

「……気に入らんな」

 何かを吐き出すように、ぽつりと漏らした。思わず問い返すよりも早く、椛は結界内に飛び込んだ。

 椛の動きが変わった……そう感じた。先ほどまでは伺うような、調べる攻撃方法だった。主に牛鬼の攻撃を受け、凌ぐ戦い方だった。それが明らかに傷つける、倒す勢いになっている。隙あらば急所を狙おうと虎視眈々と狙っている。人の戦い方から、獰猛な獣の戦い方へ。

 はたての見立てと違う。明らかに椛は短期決戦で方をつけようとしている。
 外敵を認識した牛鬼が攻撃を放つ。盾ではじく、剣でそらす。飛んで、走って、よけまくる。それがいつの間にか椛から斬りかかっている。
 実際問題、牛鬼の攻撃は隙だらけであった。体格が大きいという事もあるし、扱う武器が鈍重な斧という事もある。殺そうと思えばもう何百回も可能である。できないのは、この仕事が殺してはならない、という制約があるからだ。
 やりづらい問題である。元々椛は殺す技術を磨いてきた身だ。そのしみついた技能が、時折本気で殺しかねないその領域を侵そうとする。
 命を得意としてきた狼が、殺すなと来ている。獣としてこれほどやり辛いことはない。
 だが……どうも椛はその理由があって戦い辛い、というわけではなさそうだ……と眺めていた早苗は違和感を覚えていた。まるで違う事柄に対し、腹を立てている?
 はたては問い返そうとしていたが、早苗にははっきりと『気に入らない』と聞こえていた。何に? 牛鬼に? この状況に?

 おそらく違う。多分彼女は……牛鬼に同情している。
 牛鬼は椛と同じく「狩る者」だ。狩猟者だ。はっきりと強者である。その彼が、どんな理由があるにせよ誰かに操られている。自らは暴れたくないという意思に反して無理矢理暴れさせられている。
 それは余りにも侮辱された……狩る者としての彼の名誉を、プライドを破壊するモノだ。だからおそらく、椛は彼をこうした元凶に怒りを抱いている。同時にこのような状況に至った牛鬼を憐れんでいる。
 これも推測だが、はたても、早苗も牛鬼が転生しないよう殺さないように……と思っている。が、椛は違う。牛鬼を殺した者が牛鬼になる……そんなことはどうでもよいのだ。
 同じ『狩る者』であるからこそ分かることがある。妖怪の世界において天狗も、牛鬼も同じ側だ。もしこれが牛鬼が正常な状態で、『狩る者』と『狩られるモノ』の戦いではなく、『狩る者』同士の戦いであればここまで悲壮な感覚を得なかっただろう。
 強いられた戦い。嬉しくもなんともないだろう。だからこそ椛は許せないのだと早苗は思う。牛鬼を縛り、こんな状況にさせている元凶に対して……あの感情を表さない彼女が怒りを内心に抱いている。

 剣をふるう手がしびれる。その体相応の一撃だ。まともに受ければ吹き飛ぶだろう。
 はたてが願うように、文が来れば状況は改善するだろうが……。

 牛鬼が扱う斧は柄が短いモノで、振るたびに持ち替える。まるで二本あるかのように交互に振ってくる。その速度も速く、隙を生む鈍重の武器の欠点を補っている。
 正直なところ、これが正気を失っている者の行動とは思えない。だが目の色、咆哮、そして気配から激昂しているのは間違いない、激昂すればするほど、力が高まる……そういうモノなのだろう。
 剣がきしむ。もともと支給品である。その大きさも所詮見せ掛けで耐久度なぞ鈍である。剣もあまり持たないだろう。それも椛が短期決戦で臨む理由の一つだ。
 それに十分以上息を止められるが……過酷な動きと合間れば、それもはるかに短くなる。息を止め続ければ、当然呼吸も荒くなる。長くは続かない。
 はたてにも、おそらくは今も符で動きに制限をつけている早苗にも限界は来る。それまでに決着をつけねばなるまい。望むべき増援が来るよりも早くに。
 
 倒す方法はいろいろと考えた。が、巨体であるために投げ、絞めなどの攻撃は効果がない。というより肉体に触れることすら危険だ。体中から瘴気が立ち上っているところを見るに、おそらく皮膚から発生していると考えられた。
 斬撃も限度がある。牛鬼の肉体は鋼の様に硬い。となると打ち合い、相手が疲弊するのを待って対処するという方法しかない。

 だがこのとき、椛は一つ見誤っていた。操られているということは……その主は状況判断が出来ていた、という事。そしてその上で対処をしてくるという事は想像できたはずだった。
 不意に、牛鬼は斧を投げた。テレフォンパンチの様に大振りだったため横に飛ぶことで簡単に避けることが可能だった。斧はあらぬ方向へ飛んでいき、木々を何本も切り倒し、どこかへ消えていく。
 何故いきなりこのようなことをする? 椛の大剣も支給品の鈍刀とはいえ、牛鬼の皮膚程度なら斬ることが可能だ。
 大切な武器を捨てる。……何故だ?

 激昂状態であることもあり、椛の集中力が瞬間的にだが途切れた。それが運の切れ目である。
 斧を投げた理由はすぐに分かった。ブーメランの要領で返ってきたそれは……あろうことか、はたてたちの方へ向かって飛んで行っていた。風の結界の外である。
 最初に木々を斬っていた斧はどうも途中で高度を変え、上空から二人に襲いかかろうとしていた。完全な死角からの攻撃。二人とも反応が僅かに遅れる。

「ッ!」

 椛の判断もまた早かった。体勢が悪い。踏み込めれば瞬時に追いつける距離だが、現在彼女は空中だ。故に武器を失うのを承知で持っていた故にを投げつける。盾は手に固定していたため外すことが出来なかったからだ。放物線を描き飛んでいくそえは狙い澄ましたかのように斧とぶつかり、双方あらぬ方向へ飛んでいく。

 運命の分かれ目。

 無理な体制で投げたのがまずかった。すぐ様牛鬼に反応した椛だが態勢を整える前に腹部を何かが刺し貫いた。

「椛ッ!?」

 はたての声と早苗の悲鳴が聞こえる。熱いモノがこみ上げ、口から血が零れた。
 牛鬼の右角である。武器を失ったとしても、牛鬼にはその強靭な肉体と……なにより強固な角があった。突進し……そのまま尖ったそれで椛の左わき腹を刺し貫いたのだ。
 牛鬼はそのまま少し走り、その速度と反動を利用して、貫かれたまま掬い上げられるとそのまま地面に叩きつけた。
 絶息。激痛に痛みを上げる暇もなかった。異常がすぐに来たからだ。当然呼吸は止めきれず、瘴気を吸ってしまったし、何よりも……腹部を貫かれたことにより、直に瘴気を体内に送り込まれた。
 焼けるような痛みと、肉体がなくなるかのようなしびれが体中を襲う。誇るべきなのは激痛と、しびれと、失血により意識が混濁する状況においてもなお、叫び声一つ上げない椛だろうか。尤も今回はそれは状況を悪くするだけなのだが。
 一撃……そう、たった一撃だが決着はついた。椛は戦闘不能である。
 全身がしびれる。視界もぐらついた。明らかに瘴気の毒気によるもの。この程度の傷なら多少は我慢できる椛でも……反応が鈍る。

 こいつはもう動けない。そう判断した牛鬼は結界を創っている張本人、はたてたちに目をやる。今のこの妖怪ならば、多少の犠牲を無視しても結界を超えてくるだろう。そうなったら……。
 
「早苗! 動ける!?」
「く……」

 早苗が動けるようになればやりようはいくらでもあるが……足に力が入らない。力を使いすぎた。本人の意思に反して体が動かない事から最悪瘴気を吸い込んでいるその可能性もありうる。

「……ギ……」
「椛! 動いちゃダメ!」

 結界の中で椛が何とか立ち上がろうと手に力を入れる。無表情でありながらも、その汗の量が尋常ではない事から、危険と判断しはたては叫ぶ。しかし彼女は聞く様子がなく、立ち上がった。
 牛鬼としても驚く状況だったのか、先に殺すべき標的として椛に目をやった。
 まるでなめまわすように手負いの狼を眺めた後、数秒前に地面に突き刺さった大剣を抜く。何をする気だ、と考えるよりも早く、なんとそれを握りつぶすことで砕き割った。
 武器を失った。それは相手も同じことで、斧ははるか遠くにあるが……。
 だが椛は全く気にするそぶりを見せない。たった一撃で重症を得たにもかかわらず、なんと彼女の姿が消えた。
 え? と呆けた声を出すよりも早く、牛鬼の眉間に椛のとび膝蹴りが突き刺さる。幻想郷で屈指の速さを誇る鴉天狗であるはたてが一瞬であるが見失うほどの速度。勿論それに見合った威力もあり、何倍もある牛鬼の巨体は背中から地面に倒れた。
 着地した椛だが、腹部と口から血が噴き出す。それでもしっかりとした足取りで立っていた……。しかし、異常もあった。今しがた蹴った右ひざ……痺れている。

「……はたて」
「大丈夫なの!?」
「奴に触れるな。それだけで汚染される」

 大分無理しているのだろう。結界を作るだけでなく、瘴気が椛を覆わないよう更に風を操っている。余計なことを、とも思わなくもないがだからこそ比較的マシと言える。だが消耗も激しいらしく、はたての息も荒い。
 そしてこの牛鬼には拳等、直接触れるのも危険だと理解できた。触れ続ければ感覚がなくなり……最後には腐り落ちるだろう。

 だが……と、椛は身構えた。盾を捨てる。盾はすでにボロボロになり、もう使えない。
 手を地面につき前傾姿勢になる椛のそれはまるで今にもとびかからんとする狼の姿にも思えた。
 狩りをする獣。狼相手では鴉は狩られるモノだ。故にゾクリ……と、離れている筈なのに身体に悪寒が走った。
 牛鬼もその猛々しさに気づいたのだろう。椛を仕留めることを第一としたのかはたてたちを捨て置き、椛に向かう。
 まるで武術の映画に見るように、ぐるりと円を描くように両者は動き……同時に動いた。
 体格、パワー共に牛鬼が勝るが、速さでは圧倒的に椛が上だ。剛腕が風を切る。触れれば椛の頭蓋骨なぞ粉砕できるそれを、彼女は紙一重で交わし、渾身の力を込めて回し蹴りを叩きこむ。
 狼……走る故に足が椛の武器である。そのためか肉弾戦でも彼女は足を多用していた。
 天狗の一撃。並の妖怪ならば内臓破裂でもんどりうつそれだが、牛鬼は全くひるむ様子もなく次の手を放つ。危うい。椛は徐々にだが、明らかに動きが鈍っている。次の一撃が当たれば命の危険もありうる。
 しかも打てば打つほど足の感覚がなくなってくる。恐ろしいのは外観からはそれがわからないことだ。足がなくなっているように見えるのに、足はしっかりとついている。怪我らしい怪我もしていない。それでもまるで幻想のような……違和感がある。
 だが徐々に、何かが失われている。体内に掬っている瘴気も体をむしばんでいる。
 これはいかんともしがたく、危険だ。

 何故あそこまでする? 見ていた早苗は息を呑む。不利にもほどがある。実はこの隙にはたては追加の支援を要請していた。
 多人数戦は危険ではあるが、四の五の言っていられない。それに助けを求めた場所は、永遠亭。山はダメだ。あそこは戦力低下を恐れ、出してこないだろう。だが永遠亭ならば……あそこにいる不老不死共ならば、何とかできると判断できたのだろう。
 はたしてそれは正解である。不老不死。たとえ死んだとしても、彼女らなら対処できる。おおよそ生きとし生けるものとして蓬莱人は致命的な相手であった。
 
「早苗! 気張りなさい! 助けは来る! 文も来るはずだから!」
「は、はい!」

 心配そうに、説破詰まった表情で椛を眺める早苗に活を入れる。自分もそうだが、早苗の力が途切れれば、風祝の力も弱まり牛鬼はますます強くなる。そうなれば状況は更に悪くなる。今二人にできるのはできうる限り牛鬼を抑えつけておくことだけだ。
 だが……彼女の心配もわかる。できうるならすぐにでも椛は助けたい。目と鼻の先に居る死人も同然の彼女が現在最も有効な手札であるが……何とかしたい。どうすればいい?

「はたてさん!」

 後ろから早苗の声で我に返る。いけない、元気づけておいて自分が思考の深みにはまってどうする!
 椛は戦いながら、早苗の言う受信機を探している。それがどこにあるか、把握することが彼女の仕事だ。
 決着は決まっている。この勝負、椛では勝てない。勝てるカードがない。
 一人では勝てない。仲間が必要だ。だからこそ、増援が来るまで……すべきことをしなければならない。

 息を呑むような展開がしばらく続き……ついに牛鬼の一撃が椛をとらえた。
 全身でガードをするも、吹き飛ばされ……よろめきながらも着地した。好機である。
 だが……牛鬼は動かない。異様な光景だった。
 明らかにチャンスだった。椛は立っているのもやっとな状態だ。後一押しすれば……勝てる。

(違う、動かないんじゃない……動けないんだ)

 考えてみれば椛の一撃は全て彼の急所をとらえていた。鋼鉄の皮膚だろうと、衝撃を全て防げるわけじゃない。足に来ているのではないか?
 いや……それも狙っていただろうが、そんなレベルではない。

 何しろ、椛の戦い方は普通ではない。見ていればすぐにわかる。
 たとえを上げるなら……そう、紅魔館の門番、紅美鈴だ。武術の達人である彼女の拳法は美しい。理路整然としており、理にかなっている。
 しかし椛はどうだ? 美鈴と比較すれば……余りにも差がある。天地の差と言ってもいい。
 獰猛で、狡猾。そうだ……まさに獣。とてもじゃないが、武術からかけ離れた戦い。

 だが、それがこれ以上なく効いている。そう、武術の達人である美鈴と正に対極。動物的な第六感、獣そのものの戦い。技術ではなく、生存本能。勿論椛は体術をたしなみ、相当な腕を持っているが……少なくとも今の獰猛な戦い方では断じてない。

(あれが本来の椛の戦い方?)

 タカは爪を隠すというが……椛は獰猛さを隠すため、もしくは磨きをかけるために習ったのだろうか。どちらかは不明だが……あの獣らしさが、寡黙である椛とかけ離れており、まるで別人のように思えた。
 後ろで早苗が息を呑むのが聞こえた。はたてもそうだ。一瞬だが見えた椛の顔。表情こそいつもと変わらないが……そう、まるで獣そのモノだった。

 だがそれもこれまでだ。牛鬼の動きは止まったが、椛も止まった。離れていてもわかるくらい、椛の足は揺れている。今にも倒れんとしている。


 状況は絶望的……なのに、不意に椛はクン、と一度鼻を動かした。


 その行動にどのような意味があるか不明だったが、それが契機であった。
 軋む体に鞭を入れ、突き出された牛鬼の太い腕の上に着地した。
 わずかに触れただけでも不味いが持続的に触れている。瞬時に瘴気が体をむしばむのがわかる。
 はたての切羽詰った顔をしり目に椛は走った。腕の上を走り……そして、全力の蹴りをノーガードの牛鬼の顔面に叩き込んだ。
 明らかに何かが折れる音がし、大きくエビぞりになる。
 
「……見つけた」

 まるで愛しいモノを見つけたようにつぶやく。どうもそれが椛の限界だったようで。
 次の牛鬼の一撃を避けることもせず、まともに受けてしまった。返しのフックがガードを吹き飛ばし、彼女の胴……奇しくもえぐられたのと同じ脇腹部分にヒット。仏頂面の椛が珍しく苦悶の表情を浮かべた。

「椛(さん)!?」

 二人の叫びもむなしく、地面にたたきつけられた椛は動かない。意識は失っていないらしく、何とか力を込め、起きようとするも……ままならない。
 万事休すだ。唇をかむはたてだが、それでも結界だけは解かない。無駄だという事はもうわかっているが……仕方ない。
 覚悟は決めた。こうなれば……やれるだけやるだけだ。チラリと後ろを見れば早苗も同じように決意した表情を浮かべている。自身の力不足を恥じながらも、はたてはその潔い覚悟に、素直に素晴らしいと感じていた。
 牛鬼が近づいてくる。……まもなく、結界を超えようとする。
 そして……結界の…………端にたどり着いた。




「おや、これはまた……面白い状況ですね」




 絶望的な状況の中、突然ひょうきんな声が響いたのは正にその時だった。聞こえた先は牛鬼の上空、ドーム状に張られた結界の外。早苗は驚き上空を見て……安堵の表情を浮かべ、はたては呆れた顔をする。

「遅いわよ! この馬鹿!」

 状況を変えうる人材が現れた。これでこう着した自分も動けるようになる。遅きに失した……それでも絶妙なタイミングで現れた助けにおもわず悪態をつく。だがその表情は笑顔だ。

「おやおや、はたてさん。風を操る鴉天狗が情けないですねぇ」
「るっさいわ! 私にはブランクがあるのよ! 能力的にも分があるあんたと一緒にすんな!」

 いつも通りの憎まれ口。増援としてやってきた文には今までの苦悶の表情は無くなっていた。あるのはいつも通り、胡憎たらしい小馬鹿にした笑みである。
 しかしながらはたては気づいた。その笑顔に……どこか吹っ切れた様子がある。何か、一つ芯が通ったような……そうか……答えを見つけたのか。

「文! 答え、見つけたの!?」
「ええ! おかげさまで! 清く正しく射命丸。ただ今参上です!」

 いつも通りの文だ。いや、より一層磨きがかかった口上である。そしてそれは力にも及んでいるのか……団扇を取り出し、一振りするだけで、はたてが必死に守ってきた結界を繕うどころかより一層強固にしてしまった。

「椛!」

 結界の中、まともに動かぬ白狼に向かい、文は叫ぶ。かつての問いに答えるように。声を張り上げる。

「見つけましたよ! あなたの問いの答え! 私が新聞記者になった理由! あなたは許してくれるかわかりませんが……『信念』ある限り、私は頑張ります!」

 だからあなたも頑張れ、という叫び。その叫びに後押しされてか、もうまともに動けないはずの白狼天狗の体が動いた。
 立つことは敵わず、膝は着いたままだが、体をお越し、その不遜な目は文をとらえる。
 いつもは萎縮する彼女だが……このときばかりは、自信を持って返した。
 目を見れば、心がわかるという。多分、このときの椛は彼女のその覚悟の内を汲み取ったのだろう。だからだろうか。

「駄烏、早苗殿、首だ! 奴の首を私に向けろ!」

 口から血をこぼしながらも力の限り叫び、驚くよりも早く動く。文は同様の表情を向ける前に、動いた。
 
「秘宝『九字刺し』」

 早苗が素早くスペルカードを発動。文の存在に気付いた牛鬼が反応するよりも早く地面から現れた新たな結界が牛鬼の行動を制限する。最早霊力は尽きているのに、最後にこの大技。本当にすっからかんだ。早苗は叫ぶ。閉じ込められるのはそれこそ数秒だ……と。
 だがそれで十分。文は一度上空へ高度を上げ、そして一気に急降下する。

『幻想風靡』

 最大速度で突っ込む文の代表的なスペルカード。普段ならば体当たりのそれだが、この時の彼女は飛び蹴りの要領で……そう、スペルカードの一つ、マクロバーストと同じように超高速で突っ込む。
 その速度は牛鬼はおろか、他の天狗にすら見抜くことは難しかろう。
 迷いを吹っ切り、自分自身の答えを得た彼女だからこそできる……今まで以上の威力を誇るそれは、寸分たがわず牛鬼の頭に叩き込まれた。

 粉々に頭が吹き飛びそうになる一撃が、衝撃と共に牛鬼の首を前に押し込んだだけで済んだのは、幸運にも牛鬼の耐久力が上だったからだろう。耐えられたのはそれこそ文よりも一回りも二回りも太い首にあるか。というか、文が牛鬼は殺すなという命令を忘れていたのではないか? と疑ってしまうような一撃だったが……ともかく、示した。
 
「椛!」

 今、牛鬼の首筋は丁度椛の真正面に見える。椛は今動くすべての力を足に送り……蹴った。

『狗符「レイビーズバイト」』

 それは狼が持つ最大最高の武器。己の牙。人型になり刀を持とうと決して失うことはない、獣が持つ本来の武器。
 加減を忘れ、文と同じように最大速度で地を蹴った彼女は正に……流星だった。
 実際、蹴りを入れた文も、はたても初めて見たのだ。
 地上において……初速で音速の壁を突き抜けるその姿を。
 音速の壁。空気による抵抗を破るとき……まるで分厚い壁を破る、その障害を皆は音速の壁と呼んでいた。壁を超えると、世界は一変する。高速の世界から音速の世界へ。
 文とて、ある程度羽を鍛えておかねば、出来ぬこと。ましてや初速で行うのは不可能だと考えていた。

 それを椛は可能にする。おそらくは……満足に加減できぬ故、力の限り地を蹴ったからだろう。人の体は人体を守るためにリミッターをつけている、と学会ではかねてより言われている。それは妖怪においても同じなのだが……危機的状況において、また痛覚もなくなっているということもあいまり、リミッターを感じる間もなかった。
 
 足の負傷はなんのその、大地は割れ、吹き飛ぶ地面をよそに狼の牙は牛鬼に襲い掛かり……そして、食いちぎった。
 丁度首の後ろ、頸椎のあたりだ。神経を食い破らぬよう、実に微妙な場所を肉ごと食いちぎった。
 着地など考えていない。そのまま一直線に飛んで行った椛はぶつかった木々をなぎ倒し……4本目を叩き折ったところで、ようやく止まった。
 3人は牛鬼を見る。先ほどまでその名の通り獰猛さをいかんなく発揮していたその巨体は……不気味なほどに静止していた。気づけば……彼の体を包んでいた瘴気も消え失せていた。
 そのまま動かぬこと、数十秒たった後……まるで老朽化した建物が倒壊するようにその巨体はグラリと揺れると……轟音と共に倒れた。
 暫く3人は反応できなかった。椛の一撃もそうだが、本当に牛鬼が倒せたのかわからなかったからだ。しかし、いつまでたっても牛鬼は動かない。瘴気が四散したところで結界を解き、文が恐る恐る確かめると……気絶していた。
 どっと汗が噴き出る。自身満々の一撃だったが、今思えばなんともまぁ危うい行動だった。はたては緊張が解けたのか、ペタンとしりもちをついてしまった。早苗も地面にうつぶせで倒れこんでいる。

「……やったの?」

 静寂を打ち破ったのはそんなはたての声だった。文は小さく頷く。事は終わった……と、苦しい顔を浮かべていた早苗が、地面から顔を上げ、ようやく笑みを浮かべたところで……文がよろめいた。
 
 足が……痛い。

 思えば瘴気を纏った体に蹴りを叩きこんだ。椛と同じように触れたのだ。刹那的なモノだったため、感覚は抜けず、逆に瘴気による浸食の痛みが激痛と共に体を襲う。
 はたてがかけよるなか、文は気づく。
 自分でこれなのだ。先ほどまでなぐり合っていた椛は……!?
 慌てて椛が飛んで行った先を見る。視界一面を覆う土煙が晴れたその先には……ピクリとも動かず倒れたままの椛の姿があった。


◆  ◆


 フワリと、懐かしい感触を頭に感じた。あの夢で得たのと同じ……父でも母でもない、第三者の手。夢と同じようにぎこちなく撫でるそれが……たまらなく愛おしかった。

 静かに……ゆっくりと、夢から覚める。
 文が永遠亭で目を覚ましたのはあの戦いの三日後であった。動かぬ椛を担ぎ、文たちはすぐさま永遠亭へ向かった。手紙を見て駆け付けた永琳と途中で合流したため治療は迅速に行えた。
 紫が居れば境界を操作し取り除けたろうが……瘴気は毒とは違うらしい。普通の治療よりも慎重に事を運ばねばならない、という事で椛は即時入院となった。
 早苗とはたては検査入院。はたてはすぐさま退院できたが、早苗は万が一瘴気を吸ってやしないか、万が一を考えての処置であった。
 文は完全入院である。何しろ蹴りを決めた右足が侵されていた。幸い症状は軽いため、松葉づえで暫く生活をすることを条件にすぐに退院できた。
 それでも彼女が永遠亭にとどまっているのは……未だに目を覚まさぬ椛のことが気になって仕方がなかったからだ。

 椛は入院を強要された。当然だろう。貫かれた腹は手術によって何とかなったが、瘴気に侵された体はそうもいかなかった。
 意識は回復したそうだが……面会謝絶である。普段は会いたくない相手なのに、この時ばかりは会いたくて仕方なかった。
 そんな時、藍が永遠亭を訪ねたのは丁度昼食を終えたあたりであった。椛が噛み千切った牛鬼を操っていたモノ……お札の解析が済んだのだという。

「悪かったな」

 出会い頭に彼女はいきなり頭を下げてきた。

「あの札は博霊神社のモノだ」
「霊夢さんの?」
「いや、もう何代も前の巫女のだ。大分痛んでいた。瘴気によるものじゃないな。おそらく3、4代ほど前のモノだ」
「そのことを霊夢さんは?」
「いや……そもそもあれは蔵に厳重に保管されていたはずだ。危険なものほど、な」
「ではなぜ?」
「私はあの地震のせいじゃないかと思ってる」
 
 いつだったか天人が起こしたあの地震。倒壊した神社と共に蔵もやられたそうだ。元々古いモノばかりが収められていたモノで、霊夢でさえ全て把握していたとは言い難い。おそらく、その騒ぎの折に盗まれた可能性がある。

「では根本は霊夢さんにあるという事ですね?」
「……いや、我々にもある。危険なものほど紫様が回収していた。時代が変わり、平和になるたびに、な。そこに落ち度があった。被害者にはこちらからも補償をする予定だ」
「……分かりました。ただ、その点は大天狗様にお願いします」
「承知した。……で、当の下手人だが」

 藍も探している。当然だろう、神社から物を盗んだ、それだけでも大事なのに……使用した。博霊の道具は基本的に妖怪に害を為すモノだ。つまるところ……あれをつかえたのは妖怪ではない。では……人間か。

「でもありえません。仮にそうだとするならば……だって今も見つかってない下手人は妖怪の山の麓に住んでいた……それこそ、霖之助さんの様に」
「そう、人間なら人里に住んでいる。だがな、香霖堂の店主と同じように……半人半妖だったんだよそいつは」
「半分……人間? じゃあ、確かに扱えなくないですね」

 少しでも人の血が入っているならば……お札の力もそこまで害を為さないだろう。しかし……たかが半人半妖の分際で、何故妖怪の山にはむかう?
 わけがわからない、と首をかしげる。藍は伝えることは伝えた、とばかりに……すぐに仕事に戻ると言い残し、ふわふわ揺れる尻尾を人撫でして帰って行った。
 その下手人を探すのは妖怪の山だ。上が必死こいて探している以上、周りが入ってくるわけにはかないだろう。保障の問題は藍が何とかする。これで事後処理は心配せずともいいだろう。
 後は……椛か。

「ちょっといい?」

 後ろから柱をノックして永琳が声をかけてきた。藍が帰るまで待っていたのだろう。そういえば元々は椛の容体を聞くために待っていた身である。謝罪の言葉を述べながら、彼女の診療室に向かった。

「……最初に、結論だけ言えば何とかなったわ」

 お互い椅子に座ったところで永琳は言う。その表情から疲れが見え隠れしている。どうも相当切羽詰っていたようだ。安堵のため息をつきながら同じように椅子に座る。

「牛鬼の瘴気を分析して……特効薬を作ったわ。これで今回の件は全部何とかなる」
「そうですか……椛は?」
「一応投薬しているわ。ただかなり侵されてて、特に足がひどい……障害が残るでしょうね」

 歩けない、と。白狼にとって歩けないことは死を意味する。顔が青くなる文に慌てた様子の永琳が顔をほころばせた。

「安心しなさい。強靭な体の妖怪だったことに感謝すべきね」
「な、治るんですか!?」
「まあね。後遺症はしばらく残るけれど、いずれ杖なしで今まで通りになるわよ」

 勿論時間はかかるが、と付け加える。どちらにせよ……大丈夫なのだ。よかった、と全身の力が抜ける。が、人の前だと慌てて全身に力を入れるが、そこには優しい笑みを浮かべている薬師がいた。

「驚いたわ。あなたたち、仲が悪いと聞いていたのだけれど」
「あ、う……」

 まぁ確かに、今の今までを考えればあり得ない光景だろう。椛の心配をする文など絶対に居なかった。心境の変化か、文は顔を真っ赤にする。それがおかしいのか永琳はクツクツと笑い、恥ずかしさのあまり、文は茹蛸になりながら顔を俯かせた。

 そんな時だ。

「師匠! 師匠!!」

 障子を乱暴にあけて息を切らしながら入ってくるウサギが一人。鈴仙・優曇華院・イナバ。永琳がたしなめる中、尋常ではないと判断したのか文も立ち上がり何とか彼女を宥める。数分後ようやく息を整えた鈴仙はこう言い放った。

「椛さんが! 牛鬼もいなくなりました!!」



◆  ◆



 どこを探してもいない。永琳が言うには椛は杖があったとしてもまともに動くことが出来ない状態だという。
 また牛鬼は永遠亭の蔵に鎖に繋がれ閉じ込められていた。意識を取り戻した彼は驚くほど従順に指示に従ってくれたそうである。自身が犯した罪を理解し全面的に協力をしてくれた。椛の言うように、牛鬼でいながら分別のつくモノだったそうだ。
 永琳の話によると激昂状態でない限りあの瘴気は出さないらしく、危険はないらしい。
 その牛鬼と、椛が同時に居なくなった。まるで初めからいなかったように忽然と消えた。
 早朝にはいた。投薬した鈴仙が確認している。面会謝絶した部屋から蔵までは中庭を通らなければならない。庭にはウサギたちがいた。つまり……見つからずに行動するのは不可能だ。
 ならば、誰かが手引きしたと考えるのが妥当だろう。だが……誰が?

「駄目だ、心当たりが多すぎる」

 幻想郷にはそうしたことが可能な能力の持ち主が多すぎる。
 あれから文は永遠亭を飛び出し、幻想郷中を探し回った。椛はともかくあの牛鬼の巨体。見つからぬはずがない。だが一向に見つかっていない。
 上司に了解を取り、永遠亭、紅魔館、人間の里にも協力を要請している。影も形も見つかっていない。
 
「いったい……どこに」

 どこを探しても見つからない。疲れはてた文は一度椛の屋敷に戻ってきていた。妖怪の山こそ最もくる可能性が低い場所だが……案の定いなかった。いつも集まっていた応接室で倒れこむ。
 考えてみれば椛が行く場所なんてわからない。ついこの間までろくに接点を得なかった相手だ。
 
『あんた椛と会ったことあるんじゃない?』

 いつだったかはたてに言われたことを思い出す。だが覚えがない。
 いや、それを理由にするな。……何しろ自分の信念すら忘れていた女だぞ、自分は。
 自分と椛の接点は? あるはずなのに……。

 ふと、あの時の手がよみがえった。

 あの夢にも出てきた手……なんで、今日再び感じたのだろう。あの手は……誰なんだろう。
 自分の頭を撫でてみる。あの冷たいのに暖かい手。でも思い出せない。
 誰だったのだ? あれは……。

 気づけば喉がカラカラだった。台所に瓶がある。一度水を飲もう。
 そう思い起き上がった時……ふと、あるモノが目に入った。
 それは部屋の隅に置いてあった……直方体の包み。あれはなんだったか? 確か……にとりが、渡してた……。

「発信機!」

 そう、確か椛の部屋からは衣服も消えていた。捨てようと模したがこれも支給品であるため手が出せなかったのだ。それにははたてがつけていた発信機がついていたはずだ。
 乱暴に包みを剥がし、トランシーバーのような道具が出る。電源スイッチを……入れた。
 どこにいる? どこにいる!?
 逸る心を抑え……反応を待つ。しかし……何も起こらない。

「くそっ!」

 耐えきれず、投げ捨てた。機械は壁にぶつかり……電池を吐き出して動かなくなった。
 頼みの綱がなくなった。どうすることもできない。

「椛さん……!」

 絞り出すように呻く。何故ここまで彼女のことを心配するのかわからない。牛鬼に殺されるかもしれないという恐怖もある。だが……失ってしまった記憶の底、心のどこかが告げている。椛を失う事の恐怖を放っている。
 二人は仲が悪い筈である。仲間、という理由以外にも何か……有ったのだ。はたてのいうように、何かが。
 考えろ。この取材期間中、わずかな間とはいえ椛とは付き合いがあった。彼女はどうしてた? 狙うべき相手がいた際、どうすると言っていた?

『罠を仕掛ける』

 ガバッ、と勢いをつけ顔を上げた。……そう、椛は狩りの際そういっていた。

 思えば椛は何かしらにつけて狩りを引き合いに出す人だった。もし彼女なら……。
 以前彼女が言っていた……鳴子が仕掛けられているという場所、狩猟道具が置いてある蔵に走った。
 蔵の中には罠をはじめ数多くの道具が置いてあり、天井にはその番号に割り振られた鳴子がある。
 
 おそらく椛は……真犯人を探している。牛鬼と共に。そして、心当たりがあり、仕留めに行った。
 
 勿論簡単に見つかる筈がない。はたして彼女がこの鳴子を見に来たかはわからないが……狩猟のプロである彼女は場所を記にしなくとも覚えていることくらい造作もないだろう。
 夜になっても戻らないという事は、きっと……。
 見回す。いくつもある鳴子を。普通鳴子は音が鳴る。だが本人がいない可能性を考慮すれば、きっと……別の記も残している。
 屋敷に戻ってきたとき、あの甲高い音は聞こえなかった。だがなり終わっている可能性がある。
 あるはずだ、絶対に……! そして……見つけた。一つだけ、紅い二重丸が灯った鳴子を。




 はたして椛はそこに居た。そこは紅魔館のある湖からほど近い……よくある森の中だった。

「椛さん……」
「…………」

 彼女はそこに居た。丁度膝くらいの高さのある平たい岩に座っている。その姿には哀愁が漂っている。疲れているのか心なしぐったりしているようにも見えた。だがそれでも、彼女の眼はしっかりと……いつもと変わらず文を見つめている。後数歩進めば彼女の下へたどり着けるのに……それ以上進むことが出来なかった。まるで見えない壁に阻まれている気がした。

「何しに来た、駄烏」

 いつも通りの声。何をしに来たか。助けに来た? 確かにそうだ。しかしわかっていた、途中から。椛は助かると確信があった。では……なぜ? 息を整える。力を込めて踏ん張り、睨み……言った。

「私は……真実を求めに。私の信念に従ってここに来ました」

 すでに辺りは暗闇だ。仏頂面であるためまるで表情の変化はわからなかったが……雰囲気が揺らいだのがわかった。
 言葉にすればいくらでも言える。自分がしてきたこと、忘れてたこと。でも……この物言わぬ白狼にはこれで十分だと、思っていた。

「真実……か」
「はい。そしてあなたは、見つけたんですね」

 静かに……その方向を見る。そこには大きなトラバサミに足を挟まれもがき苦しむ男がいた。若く見える。永琳の言っていたとおり、半人半妖。証拠に髪は白く、犬歯が見えた。妖怪なら罠を取り外せただろう。だが、未熟な身ではそれも出来ず、今までずっと激痛に耐えている。血は流れ、脂汗を流し呼吸も荒い。

「彼が……犯人ですか」
「そうだ」

 すでに調べがついているらしく、椛は淡々と教えてくれた。
 この半人半妖はなんと、人間と天狗のハーフだったそうだ。当然山に受け入れられるはずはない。天狗はいじめという名の拷問死を、人間は取って食われた。人間の母親に隠された男はそのすべてを幼いころに見ていたのだそうだ。
 動機は簡単、復讐である。山に対する、両親を殺した。何のひねりもない、面白味もない、と吐き捨てた。
 その物言いに男は激昂し、叫び続ける。この畜生が、何がわかる! 幸せを奪われ、家族を奪われた! その仕返しをして何が悪いか、と。
 醜いが……正論である。決して間違ってはいない。そこは椛も認めている。何しろ過去彼女がやっていたことだ。
 だが、と椛は一息つき、断罪する。

「自分の力を使わず、牛鬼の力を使った。それも、全てを奴に擦り付けた時点で、貴様の復讐は何の意味もなくなっている」

 復讐は自分の手でやるべきだ。仮に力を借りるにしても、押し付けてはいけない。全て自分の責として、受け持つべき事項なのだ。それが出来ない小心者ならば……復讐なぞ忘れ生きた方が良いのだ。

「貴様の罪は二つ。牛鬼を利用し、押し付けた。そして殺人だ」
「椛……薬の件は?」
「意外に用心深い。製造道具は見つけたが、肝心の瘴気を纏めカプセルに封入する器材が見つからん。これではこいつと牛鬼を結びつける物的証拠がない」

 状況証拠も足りない。つまるところ……法で捌けない。しかもこの男は裁判の時に精神異常者だと振舞ってしまえば……いよいよもって打つ手がなくなる。目を見ればそこまで計算しているのがわかる、と椛は言う。
 
「どうやって追い詰めたのです?」
「私が何も考えず、罠を仕掛けていたと思うか?」

 確かに……鹿や動物をとらえるにしては、どこか間の抜けた場所、見当違いの所もあった。まさか……初めからこの男をとらえるためのモノだったのか。

「駄烏、だてに貴様より長生きはしていない。こういう小汚いことをする連中の心理なぞ、手に取るようにわかる。あとはつつけば……簡単に引っかかる」
「朝いなくなり、獲物がかかった夜中まで、この男を追い回していたんですね。何故、私たちに言わなかったんです?」
「ことが大きくなれば、逃げ道も増える。そうなる前にケリをつけるためだ」
「では……なぜ私にわかる様に? いえ、はたてもそうですが。私が罠に気づくことを知っていたような物言い……何故です?」

 間違いなく椛はこれからこの男を殺す。これは事件を秘密裏に処理することに他ならず、詰まるところ……裏の仕事。
 堅気である文をわざわざ呼び寄せる必要はない筈。
 椛は何度かせき込み、少し考えたそぶりを見せ……苦しむ男を一度見、そして初めて文を見た。

「貴様はあの時、『信念』と言っていた。そして答えを見つけたともいった。うるさくなる前に聞きたい。そしてそれが私が求める答えであったならば……見せるべきだと判断した」
「それだけなんですか? 確かに、私は見つけましたけれど……」
「ならば、聞かせろ」

 答えを言え、そうすれば教えてやる。
 文は思い出す。あの時見つけた答え、自分の持っていた『信念』を。失ったモノ、そして決して失ってはならない尊いモノ。言葉を選びながら慎重に、しかし力強く文は話し始める。
 
「私の父が殉職した件をご存じで?」
「然り」
「私はあれを殉職したとは思っていません。真実を得たい。そう思い活動してきました。でも、目先のことを考えるあまり、いつしか道を見失っていました。つい……先日まで。見つけた今だからこそ、もう一度探したいと……手に入れたいと思っています」
「投げ出したのにか?」
「否定はしません。一度私は負けています。でも……今度は負けない。雑草は、踏まれれば、より強くなる。今度こそ、失敗はしません」
「詭弁だな。失敗はするぞ?」
「仮に失敗と呼ぶものがあるというのならば……それは布石です。経験です。真実を掴むために学ぶべきものです」

 二度と、忘れない。魂に刻み込もう。自分が目指した『清く正しい』。失敗と呼ばれるモノは今後もしていくだろう。詭弁だが、それは糧だ。最後に……答えを手に入れる。それまでは、やめられない。やめるわけにはいかない。
 この白狼は……持っている。確かな『信念』を。そしてそれを……はたしてきた。

「敗けませんし、諦めません。何があろうとも……真実を掴みます」
「そのきっかけとなった貴様の父親の死。それが本当に殉職ならば?」
「受け入れます。ただし……全部を解明してから」
「すでに全部かもしれない。貴様の思い込みの可能性は?」
「それはあり得ない。なぜなら私は知らないことが多すぎた。パズルを組み立てるように、解明していく。思い込みだというのなら……ただせば良い、あなたが……読者が」
「人を使うのか?」
「私も絶対ではありません。間違うでしょうよ。でも、『信念』だけは捨てない。そのために突き進み、利用するモノは使います」
「他人に押し付けるのか?」
「まさか」

 鼻で笑う。それはあり得ない。なぜならこれは……この『信念』は、自分だけのものだ。そこで苦しみもがいているだけの男とは違う。あの時、文は見た。自分のしてきたことを知った時、今まで作ってきた新聞たちから感じたあの……怨念を。自分がしたことに対する責任、罪。それは、誰かに押し付けて良いモノではない。

「責任は私だけのもの。押し付ける気はありません。私は私の信じる道を歩み、記事を書く。もし周囲がそれを阻むなら、叩き潰します。その上で手に入れた答えが、例えば父の死が殉職であるというのなら、受け入れます」
「真実を求めるのは父親のためか?」
「昔はそうでした。……でも、今は違う」

 あの時はがむしゃらだった。でも、歳を重ね、色々な新聞記事を書き周囲を巻き込んできたからこそ分かることがある。自分は色々なものに影響を与えている。読者に、同業者に、そして自分自身に。

「きっかけは父の死です。でも、私が求める真実は……果たすべき『信念』はそれだけにとどまらない。この世のすべての真実を暴く。そのために私は動きます」
「…………」

 すでにこの戦いは父親の死という範疇を超えている。執念であったそれはいつしか自分自身の信念となった。忘れてはならない。真実を求めることは、善である。少なくとも、自分と同じように、欺瞞を信じ込まされ、苦しむものがいるはずだ。

「『真実』を得るために戦う。それが私の『清く正しい』記者道です」

 言い切った。もう、言うべき言葉はない。父の死を暴くという当初の目的は、今はそれも含めあらゆる事象の真実を暴くという夢へと変貌した。これから先、邪魔も入るだろう。壁もあるだろう。だがもう迷わない。決してこの道は見失わない。
 ジッと見つめてくるそのがらんどうな眼。今まで恐怖を感じていたその目だが……不思議と、怖くない。強力なバックボーン、背負うべきものを得たからかもしれないし……単純に、慣れたからかもしれない。
 椛は何も言わず、文を観察している。その言葉に偽りがないか……はたせるか。

「最後だ。仮に、父親の死が……他殺だった場合はどうする? 敵討ちをするか?」
「……分かりません。昔なら、そうしたでしょうね。でも、時が経ちすぎているでしょうし、それも難しいでしょう」
「殺さない、と?」
「いいえ」

 許せないかと言われればそうだ。のうのうと生きていると思えば、腹にどす黒いモノが浮かんでくる。理由はどうあれ、権力を盾にして生き残っている輩だ。だからどうするかはわからない。

「わかりません。それはここでいうべきではないでしょう」
「それはなぜ?」
「情報が少ないからです。何も得ていない今決めつけては……また道を見失う。得るべきモノを得てから、判断したい」

 その結果が復讐になったとしても、それは構わない。大事なのは、真実を得ることなのだから。
 椛は何も言わない。文も言わない。男の呻く声だけが暗い森の中に聞こえる。
 
「よかろう」

 おもむろに椛が両手を上げた。まるで歓迎するように……掌を見せて、手を左右に広げる。

「ゆめ、忘れることなかれ。己が信念を抱き続けろ」

 それは人が持つ心の形。それさえ持っていれば、人は決して見失わない、変質しない。行動した際、後悔せぬように『覚悟』が必要であるように……人の在り方を、生き方を曲げぬために『信念』が必要である。そしてどういう理由であれそれを見つけた者は……尊いモノだ。
 誰にも侵されない、誰にも傷つけられない、確かなものがあれば、人は強くなる。人は……輝くものだ。

「言われずとも」
「で、あれば……見ていくがいい。これが今宵の事件の……終わりの真実だ」

 パン、と開いていた両手で同時に膝を叩いた。
 するとどうだろう。椛が座っている丁度真後ろ。巨大な岩がある……と思っていたそれが……動いたではないか。
 二本の腕が生え、足が生え……そして、頭が現れた。

「……牛鬼!?」

 あの牛鬼。激昂状態であった時のあの赤黒い体毛も、今は群青色。どうやらあれが平時の状態らしい。男も今まで散々利用してきたその巨体に絶句し、青ざめる。

「この一件、この者が処断する。立会人は私と……お前だ、射命丸」
「えっ……?」

 初めて、名前を呼ばれた。とげとげしい物言いもどこか、柔らかい。だが……今はそれを気にする必要はない。

「あなたが処断しないのですか?」
「然り。これは彼の者との契約である」

 考えてみれば椛があの負傷で動き回れるはずがない。足が必要であったのは言うまでもないことだ……どうやら、この牛鬼を足として利用したらしい。
 彼としても、今の今まで自分を利用してきた者に対し思うところがあったのだろう。故に、両者は結託した。
 始末をつける、そのために。

「裁判にはかけられん。私がやるのは簡単だ。だが……それでは彼の者の気が済まん。故に、この者が執り行う」
「これを私に見せるのは?」
「起承転結の結の部分を見せずどうする? 記事を書くのだろうが」
「私は……まだこの事件を取り扱うとは。それに、上から差し止められるでしょう?」
「先ほど宣言していたことをもう忘れたのか?」

 そうだ、いけないいけない。射命丸文はもっと余裕のある人物だ。いつも通りの、胡憎たらしい笑みでいこう。文にはこの処断を止める理由などまったくと言っていいほどないのだから。

「ふっ……そうですね。幸いこれは我が文々。新聞の独占取材、と言ったところですか」

 はたてには悪いが、この案件は頂くとしよう。題名を考えるなら……そう、白狼と牛鬼による連続怪死事件の真相に迫る、と言ったところか。
 牛鬼は武器を持たず、一歩一歩ゆっくりと歩く。恐怖を植え付けるように、殺気を徐々に侍らせて。それに合わせて皮膚も変化していく。
 男が命乞いをしている。こうしてみるとなんともまぁ……気持ち悪い光景だ。とはいえ、瘴気でやられても困るため、文は扇を一振りし、簡易的な風の結界を作り出す。はたてが作っていたよりも強力だ。被害は増えない。
 結界の中で牛鬼の色がいよいよ赤黒くなり、視認できるほど濃度の濃い瘴気があふれてくる。
 そして……男の叫び声と共に、結界内は瘴気であふれた。
 一分、二分……瘴気が晴れたと同時に文は結界を解除する。そこには牛鬼と……男と思われる残骸が残っているだけだった。
 すべてが終わった。牛鬼の色も戻り、彼はゆったりとした足取りで椛の下へと歩いていく。そして……徐に手を差し伸べた。

 椛の手の何倍もあるそれを……彼女は同じように手を伸ばし、掴んだ。足が動かぬため座ったまま。浸食した瘴気は如何な牛鬼と言えどもどうしようもないらしい。
 流石に大きすぎたのか、椛が掴むのは人差し指だ。二人とも何も言わない。だがお互いに見つめあうそこには……確かに、友情のような、奇妙なモノが見て取れた。
 
 暫くそうしたのち、どちらからともなく握手を離すと……牛鬼は二人に背を向け歩き出す。

「彼は……どこへ?」
「地底へ。元々月が見たくて来たそうだ」
「え?」

 牛鬼は……あの神霊廟が現れた際に復活したらしい。当初は地底にとどまっていた彼だったが、月は恋しくなるものだ。一度限りなればと……月を見に交流が復活した地底の穴を通って、地上に上がった。その時、男に出くわした。男は妖怪たちに襲われていた。それを牛鬼は助けた。善意のつもりだったのに、最終的には利用された。
 物悲しいことである。自分は地上へ来るべきではなかった……彼はそう思っている。

「彼は……どうなるんですか?」
「封印は難しい。だが問題いらない。少なくとも、もう一人ではないのだから」

 見れば物陰から一人の少女が現れた。……古明地こいし。地底の管理人、さとりの妹。無意識を扱う強力な妖怪。いつもの無邪気な笑顔を浮かべ、彼女はこちらに深々と頭を下げてくる。後は任せろ、と言いたいらしい。

「彼女は?」
「永遠亭からは彼女の手を借り脱出した。地底も独自に調査をしていたというわけだ」

 なるほど、無意識の力があれば確かに逃げられる。こいし単独に及ぼすだけでなく牛鬼のような巨体にも及ぼすことが出来るとすると些か危険ではあるが……今は詮索するのは野暮だろう。
 こうして牛鬼は戻って行った。地底には一癖も二癖もある妖怪がごまんといる。牛鬼も、少なくともさびしくはならないだろう。
 
 事件は終わった。少なくとも……ケリは着いた。二人の姿が森に消え、見えなくなったところで、文が切り替えるように一度手を叩いた。

「さあ、帰りましょう」
「まて」
 
 まぁ、速効でくじかれたが。わざとらしくリアクションを取る文にいつも通りの……いや、どこか真剣な面持ちで椛は呼び止める。

「以前お前は聞いていたな。何故、私が「復讐」をしたのかと」

 それは、いつだったか風呂で投げかけた質問。プライベートに入りまくりだが……聞かずにはいられなかった。文もまた、今一度気を張りつめ話を聞くことにした。

「教えてやる。私もまた、一度道を踏み外した身だ」

 道を踏み外した。それは文の様に、信念を忘れ畜生道へ落ちた一匹の白狼の物語。その断片、誰も語らなかった過去。椛の過去を知る者は少ない。文も情報だけで知った気になっている。本人の口からソレを語られるのは、初めてであった。

「私の一族は代々『義』に殉じよと言われていた。私もまた、そう教えられてきた。そう……信じ込まされた」
「悪いことではない気がします」
「詭弁だ。そも……『義』とは、『正義』とはだれが決める? 民衆か? 国か?」
「では、だれです?」
「自分だ。事を起こし、正当化する。そのための言葉が正義だ。人は綺麗事を好む。自分が起こしたことこそが正しいと主張する。そしてそれに賛同する者たちの賛辞に酔いしれ、いよいよもって決めつける」

 父親はそういう妖怪だった。絶対に自分が正しいと言って憚らず、正義だとなんだと決めつけた。民衆のため、大衆のため、言っていることは大層なことだが、結局は自己満足だ。
 そしてそうあるべきだと一族に、そして自分にも強要した。……愚かなのは何も知らぬ椛がそれを真に受けてしまったことにある。

「人を助けることは正しいことでは?」
「そうともいえん。例えばだ。人を助けた……けれどその者がもし、殺人犯だったら? 自分がその事実を知らなかったとしたら?」
「…………」
「間違っているだろう、それは。だが、正義はそれを盲目とする。ただ助けるという行為を正当化し、他を不問とするのだ。私もそれに毒されていた」

 復讐を始めた当初……大義があると思い込んでいた。家族を、一族を殺された。ならば、恨みを晴らすのは当然の権利であり、一族を背負うモノとして義務である……と。

「射命丸、一つ問う。殺人と……復讐による敵討ち。何が違う」
「……意味ですね」
「左様。しかし、やっていることは同じ、人殺しだ。どんなに取り繕うと同じだ。で華射命丸。重ねて問うが……この世には死んでも良い者がいると思うか?」
「それは……」
「いるはずがない。ましてや死んではいけない者も同じだ。命は全てにおいて等価値だ。それに順序をつけてはならない。それを……私は忘れていた」

 椛は自然の中で生きていた。自然は……過酷だ。熊も、鹿も、そして狼も……自然の中では一個の命に過ぎない。厳しく自然が牙をむけば、簡単に失われてしまう。
 弱肉強食いえど、それは持ちつ持たれつの関係が成り立って初めて意味を持つ。
 椛は生きるために狩りを行う。決して……それ以外の理由はない。それ以外の理由を持ってきてはならなかった。

「……復讐というのは詭弁であり、ましてや自身の行動に大義なぞ……あり得ないことに。その時私の戦う意味は無くなった」

 教えて貰う機会も、気配もあった。しかしどれも自身が気づかなかった。

「自分で気づかねば意味がない。他人に教えて貰っても心に響かぬ限り、それはただの言葉だ」

 思い込みというのは恐ろしいモノだ。だが気づいたとき、世界は一変した。剣を捨てるべきかとも考えた。責任を取り、命を絶つべきかとも考えた。しかしその時……後ろを振り返った。自分の過去を思い出した。

「いたんだ。後ろに……私が今まで殺してきた者たちが。そして皆一様にこう言う。死んではならない。やめてはならない、と」
「何故……そう?」
「投げ出し、死ぬという事は……今まで殺してきた者たちを侮辱する。
 私は正に『狩り』だと考えた。狩りは……生きるために行う。食すために獣を狩る、殺す。それ以外の理由はない。私は、復讐だとなんだと理由をつけていたが……結局のところ、生きるために戦っていたはずだ。根元は其処だった」

 仮に、復讐をせず山にいたとしよう。どちらにせよ、自分の報復を恐れた天狗たちが襲い掛かってきたはずだ。悲しいかな、始めたら徹底的に……というのは万国共通である。復讐をやらない、やる。どちらにせよ……初めから椛の取り巻く情勢は最悪だった。

「始めたのは私だ。途中で投げ出す自害の道は消えた。そして、根切りにしたのはけじめでもある」
「けじめ……」
「半端はさらなる悲劇を生むと言ったな。始めたのは相手で、受けたのは私。賽は私が持っていて、投げたのだ。やるならば徹底的に。命の価値に重さはない。女子供老人、そんなもので狼狽えてもならない。理由はどうあれ当初は復讐として始めた行為だ。心に変化はあったと言え、嫌々やるものではない」
「じゃあ……」

 全員根切りにしたのは死んでいた白狼一族の復讐のため。
 しかし途中で意味は変わり、復讐は変質した。最後の方は恨みすらなかっただろう。だがそれでは一族の恨みつらみは果たせまい。この際一族が抱いていた本当の願いはどうでもよかった。
 大事なのは、一族のことを想い、殺しを行ったというそれまでの自分の行為に同落とし前をつけるかである。
 が、答えは簡単だった。やめるわけにはいかない以上、続けるしかない。しかし、嫌々やるというのは……それもまた、相手の命に価値をつけることになる。
 今まで通り、憎悪を持ち続ける。憎悪を持って殺戮する。それを持って投げ終えた賽の結果を清算する。それが椛が復讐という名の戦いをつづけた理由である。

「憎悪を持って殺すこと、それを続け、終えること。それが一族に対する我がけじめ。そして原点に立ち返った時、お前が『信念』を手に入れたように、私にもあることを思い出した。傷ついたものだが、な」
「それは……いったい」
「『狩り』だ」

 狩る、狩られる。そこに善悪のような感情はない。命のやり取り、次の世代への道しるべ。自然の中で行われる儀式。
 椛は白狼である。善か悪でいえば悪である。しかし、戦いの中で善悪を決め争うのは邪道だと考え……たどり着いたのが、獣の原点。
 生きるために戦う。生きるために狩る。そして……狩られ、死ぬ。そこに良いも悪いもない。あるのは純粋な、命のやり取りだ。

「繰り返すが、世間一般では私は善人ではない。悪である。ゆめ、そのことを忘れるな」
「……自殺はせず、あくまでも悪人として生きると。出てきますよ。正義を背負い、かつてのあなたの様にあなたを目の敵にするものが」
「構わん」

 善も、悪も決めるのは人だ。自分ではない。相手が何を言おうが気にする方が負けだ。
 只少なくとも、椛はもう正義を信じていない。この世にあるのは欺瞞や言葉遊びに満ち満ちた悪意だと……思い知っている。それは裏の世界に生き、戦争の道具にされ、人の本質に長いことかかわってきたからこそ、言えること。

「……分かりました。あなたの行動が正しいかは抜きにしても、いえ、そう判断することすらおこがましいのですが。一つだけ……あなたはあなたの信念に従い、行動した。それだけがわかれば良いです」
「それでいい。人の信念はその者のみが抱くモノだ」

 文は少しだが、理解できた。椛は快楽殺人鬼ではない。自分がしていることをきちんと理解している。是が否かおいておき、その上で行動している。
 それは状況に流され、あとで後悔するような輩のものとレベルが違う。どんなにそれがどす黒かろうと、尊重すべきものである。
 立場は違えど、行ってきたことは違えど、二人は挫折を味わっている。そしてその上で……乗り越えた。
 それでいい。椛のその行動原理を否定するのは、少なくとも今の文ではないのだから。

「ありがとうございます。ネタにはなりました」
「記事にはするなよ、少なくとも今はな」

 だからこそ二人とも現実的に判断する。糾弾もしない。ただ、道を持っている者として、互いを尊重しあうだけである。
 冬の、冷たい風がふく。体が冷えるが不思議と心地よい。話は終わった、とばかりにそれ以上椛は過去について語らなかった。文もまた、それ以上は詮索しない。静かな森の中、座ったままの椛と立って見下ろす文。
 暫くその状況が続いたとき、不意に彼女が思い出したように口を開く。真面目なものでも、おちょくるようなものでもない。どこか優しい……口調だった。

「そういえば私のこと、名字で呼んでくれるようになりましたね。馬鹿にする物言いは、もしかしてそれは過去の自分と照らし合わせて?」
「目的も見失い、あがくことほど見苦しいモノはない。お前はかつての私だ。……だが、言葉で言って何とかなる問題ではない」
「自分で気づかなければ意味がない。……まぁ手痛い言われ様でしたが、感謝してます」
「無論、お前のことは嫌いだがな」
「ははっ……私もですよ」

 仲は悪く見えるが……どことなくソフトに見える。椛は真実を語らない。文は真実を求める。元々、相性が悪い二人である。馬が合うはずがあるまい。

「では帰りましょうか。永琳さんも怒っていますから」
「肩をかせ。歩けん」
「貸し一です」

 お姫様抱っこは全力で断られたため、肩を貸す。小柄な椛はいつも以上に軽く思えた。
 この小さな体に、想像以上の過去と覚悟と信念を持っている。彼女はきっと……碌な死に方はしないだろう。けれど、そうなったところで、椛はきっと恨まない。ただそうなるべくしてなったと受け入れるだけなのだ。
 彼女のことだ。きっと、畳の上で死のうなんて考えていない。あくまでも、狩りの世界で、戦の中で死ぬことを求めるのだろう。
 椛の体を気遣いながら空を飛ぶ。ふと、椛が空をじっと見つめているのに気付いた。そういえば、たびたび彼女はアレを見ていた気がする。

「そうだ、どうせだからひとつ教えてください」
「……なんだ」
「何故、月をいつも見ているのですか?」

 今宵も月が出ている。それも、満月だ。妖怪にとって月は力を与えてくれるものだ。それを愛するのはわかるが……どこか違う気がする。

「月だけは、変わらない。満ち欠けはあろうが、太古の昔より変わらず我々を照らしている。……見ていると……昔を、思い出す」

 それは過去を懐かしむような発言。文はそれ以上は聞かなかった。今の言葉だけで、わかる。
 椛は過去を今もなお抱いている。未来を見ながらも、過去の責任を抱き続けている古き妖怪だ。スペルカードルールが制定され、人も変わり、時代も変わる中で取り残された……そんな人。
 変わろうと思えば変われるだろう。けれど、椛はかたくなにそれを拒んでいる。責任もあるのかもしれない。深くはわからない。
 ただ……月だけは、今も変わらず自身を照らしている。時代が変わり、過去は少しずつ無くなる中、月だけは……。
 だから彼女はそんな月を見て……古き世を思い出しているのかもしれない。

 月を見る。生憎だが文にはそんな昔の思い出を見出すことはできない。彼女は今を生きている。過去の捕らわれながら、それを背負う椛と違う。
 今度、はたてを誘い月見酒でもしようか。酒に酔い、昔を思い出すのも時には悪くない……そう、ふと思った。



                 終わり。。。。。。?













~いつかどこかの診療所~




「相変わらず陰気くさい顔浮かべてるねぇ、お前は」

 その日、面会時間はとうに過ぎている丑三つ時、病室を訪れたのは椛のことをよく知る……鬼だった。
 満足に動かぬ下半身を手で無理矢理動かし胡坐を組み、椛は額をこすり付ける。

「伊吹様。壮健で何よりで」
「あいっ変わらずかたっ苦しいねぇ。他の天狗と違って硬派だ。まぁいい、今日は見舞いだよ」
「見舞いなら八意女史の許可を得ねばなりますまい。見つかればいかに貴方様と言えど、面倒なことになります」
「私を舐めるな犬。酒呑童子がそこらの者に後れを取る者かよ」
「ご無礼を……」

 普段の椛を知る者ならば、ここまで平身低頭な彼女の姿を見ることはまずあるまい。
 鬼は天狗たちの長である。椛にとっても同じだが……それ以上の意味があった。

「それにしても、勇儀が拾ってきたあの狼が……ここまで立派に育つとはねぇ。今回も大立ち回りを演じたそうだし、今日はお姉さんがご褒美に来たんだよん」

 そういっていつもの瓢箪からいつの間にか用意した杯に酒を注ぎ、一つを椛に渡す。快気祝い、と言わずとも任務達成祝いという事らしい。
 両手でそれを受け取り、椛は一息飲み干した。久方ぶりに飲む酒がうまい。

「流石に病院食は飽きるだろうと思ってね。良いもんだろ、鬼の酒は」
「はい……懐かしい味です」

 勇儀の下で働いていた椛は萃香との交流もある。昔は危なっかしい椛を色々心配していたようだ。
 何杯かになる酒を飲み干した後、思い出したかのように、懐から伊吹萃香が投げ出したのは、新聞。文々。新聞の特別号。
 題材は、牛鬼と椛である。一体いつとったのか。レイビーズバイトで椛が牛鬼の肉を食いちぎるその瞬間が収められていた。あの天狗、中々にしたたかである。

「まずはご苦労さん。お陰様で被害はこれ以上広がらずに済んだ。いずれ笑い話で終わるだろうよ」
「……牛鬼は?」
「地霊殿が責任もって預かってる。尤もあいつも分別がつくタイプの牛鬼だからな。大事にならん限り大丈夫だろうよ。あっちには勇儀もいるしね。保障問題も片が付いた。バイヤーの家から多額の金が見つかったからね。それで手打ちだ。藍も霊夢と一緒に管理を厳しくするとさ」

 椛は入院しており外の状況がわからない。何しろ脱走したのだから永琳の怒りや相当たるもので、現在彼女の首には首輪がまかれ、柱に鎖がくっついている。まさにペット。千切ろうにも術式がかけられており、満身創痍の彼女にはとてもじゃないが破れるモノでは無かった。

「文の新聞も皆がほめていた。罰ゲームとしては上々すぎるモノだね。実際別人が書いたんじゃないかってくらいのものさ。ご苦労さん、仕事はこれに手終いだよ」

 ともあれ、これにて騒々しい生活は終わり、これからまた静かな一日が戻ってくるわけだ、と大げさに萃香は言う。大して残念がるそぶりも見せず、椛は無言だ。
 と、不意に萃香がズイ、と近くに身を寄せ問い詰めるように椛の眼を見てきた。笑顔は消え、あの飲んだくれとは思えない真剣な顔を見せている。ドスの効いた声、明らかに問いただしに来るモノだ。

「……なぁおい、お前何したんだ?」
「何も……奴が勝手に気付き、直しただけのこと」
「文の奴なんだが……親父の件、また調べ始めている……としてもか」

 情報源は天魔である。時折山に遊びに行っては困らせているそうだが……つい先日そんなことを小耳にはさんでいた。言葉の節々に、どこか棘がある。

「あいつの父親が死んですでに千年以上。それが今更になってだ。……お前、何かしたのかい?」
「……いいえ。奴が思い出し、動いただけのことでしょう。止める必要もありません。止めたところで止まるやつではもうない」

 たとえ鬼の脅迫があったとはいえ、きっと文は動き続ける。昔と違い精神的にも強くなった彼女は、やめるはずがない。
 萃香の言葉にはいよいよ殺気が込められていく。……本当に良いのか? と聞いてくる。なぜならこの問題は彼女たちにも関係するモノだから。

「繰り返すがいいんだな? 知られるぞ。遠からず……」

 一呼吸置く。それはまるで、言ってもいいモノか悩むように。それはあの事件のことを知るほんの一握りのモノが知る真実。闇に葬られてきた事実。だが、萃香は言った。

「文の父親を殺したのお前だってこと」

 殉職ではない。他殺である。そしてそれを鬼と天狗は隠蔽した。主犯は椛、バックに天魔や鬼がいる。すなわち……文の仇は……椛なのだ。
 
「もしばれても、理由を話せば文はわかってくれる。わざわざ首を絞めずとも」
「萃香様」

 ピシャリと止められる。それ以上は関わらないでほしいと。これは、文の問題。彼女がたどり着けるかどうかの問題。自分は妨害しない、好きにさせると。

「何故だ……何故試す。あいつを……」

 まるで犯人は自分だと気付いてほしいかのような発言。理解はできない。文に復讐をしてほしいのか、それとも……。

「もしかして椛、お前は待っているのかい? その時を」

 いつだった勇儀が話していた童話を思い出した。


 獣は人の営みを知ってはならない。自然から離れてはならない。
 人間の営みを知れば、爪がなくなり、自然から離れれば牙がなくなる。
 残るのは獣としての威厳も、何もかも失った家畜。
 獣は人の幸せを知ってはならない。
 知ったら最後、自然には戻れない。……そして最後は悲しき死を迎える。


 文の父親が死んだとき、勇儀は珍しく本気で悔いたという。
 文の父親は本当に素晴らしい天狗だった。ただ、一点……たった一つだけミスを犯した。
 彼は……殺したのだ。椛の、両親を。
 大天狗による犬走一族虐殺。その最後の生き残りの椛の両親を彼は殺した。
 天魔も、鬼も気づくことが出来なかった彼の闇。
 何を思ったのだろう、何を考えたのだろう。
 入山した椛の傍に彼をおいたのは勇儀だ。信頼に足る男と踏んでいた。
 それが最大のミスだった。
 不幸は椛と文の父親、双方に牙をむいた。
 椛は家族に好かれていなかった。元服の時に旅に出されたのが良い証拠だ。厳格な父ゆえに行われた……徹底したスパルタ教育。そこには愛なぞ存在していなかった。
 故に……初めて味わった、家族の味。それが彼女を苦しめた。
 文の父親もそうだ。彼は……真相を知った時後悔した。元々反逆者の始末という話だったはずなのだ。それが……虐殺の片棒を担いでしまった。罪滅ぼしかはわからない。ただ……椛に家族を教えてしまった。

 狼は人の家族を知れは不幸になる。結果は……不幸になった。
 椛は最後の最期でそれを知った。今わの際に父親は吐露したのだ。懺悔するように。
 その時の彼女の心は……想像しようにも計り知れない。
 世話になった物に対する後悔と、怒りと、悲しみと、憎しみと……ごちゃまぜになっただろう。
 しかも不幸はそれだけで終わらなかった。文の母親は病死。そして暫くして文が入山した。
 今までの椛のやり方から考えれば、彼女は殺すべきだった、文も、母親も。
 だが……真相を何も知らぬ母親は、一言、呪いのような言葉を遺した。

『文をお願い』

 それは、父親の友人に向けたお願いだったのだろう。だがそれが最大の呪いとなって椛を蝕んでいる。
 今まで老若男女全員殺してきた。しかし……初めて情を知ってしまった。やらねばならないのはわかっている。だが……できなかった。
 結果がこれだ。世間は椛は全て、虐殺にかかわった妖怪を根切りにしたというが、真相は違う。あと一人だけ……残ってる。

 文は当然知らない。もとより物心つく前に事が起こった。その時のショックで記憶も飛んでいるそうだ。ただ彼女が言うには、覚えのない手が自分の頭を撫でていた……という事だけ。まさかそれが仇の手、椛の手だとは夢にも思うまい。
 あの言葉が呪いの様に椛を包んでいる。一族を思えば、過去と決着をつけるためにも文は殺すべき存在だ。仇の娘として。だが毎回どこかで……止めてくる自分がいる。それは、家族を知ってしまった狼。厳しい自然の中で生きることを忘れた、只の犬だ。
 椛は間違いなく苦しんでいる。文を嫌う根本的な部分には、それがあったはずだ。だが無情にも時間は過ぎている。何も出来ぬまま、時代は進んでしまった。
 千年経った今、今更椛は文を殺せない。仇の娘だと言い切り殺してしまえばそれこそ彼女の首を絞める。全てを知っていて、手を出さなかったのだから、これ幸いとばかりに彼女を敵視する者が全力で排除しに来るだろう。時期を完全に逃していた。
 だが文は違う。彼女は真相を知らない。時間という概念は彼女にはない。仮に真相を知った場合、世間は間違いなく彼女の味方をする。復讐に走っても彼女を守るだろう。
 つまるところ……椛がかつて投げた賽は、現在文が持っている。何をするのも、全て文次第。椛が出来ることは何もない。

 萃香は思う。自分を断罪してくれる時を待っている? 復讐を果たし、最期には自身を裁く。それを願っているのか? この白狼は?

 萃香は知らない。文が入山した直後、椛とあっていたことを。二人のわだかまりの始まり。
 父親の情報を求めてがむしゃらに情報を集めていた文は自然と椛の下へ来ていた。文の父親と椛の関係は秘匿扱いになっていたし、文も記憶になかった。だから本当に偶然であった。
 がむしゃらに動く文に椛がそれとなく問うたのだ。復讐か? と。幼い文はこういった。それは抜きにして、まず真実を知りたい。その上で、判断を下したいと。
 その姿に椛は純粋に敬意を表していた。幼いながらも真実を暴こうとするひたむきな心を、確固たるものを持っていた。……なのに、時代の変化と共に文が変節した。
 かつて純粋だった鴉天狗は変質し、椛にとって最も唾棄する者へと変わっていた。故に、椛は軽蔑していた。……かつての自分をめざし、また貫き通す、そう決心したついこの間まで。
 
「まさか……。そんな殊勝なことはしない」

 そう、文にも語ったように、それは自害にあたる。始めたならば、とことん。故に、止めないのはただ一つ。

「射命丸の出方を待つ。全てを知り、何もしないならばそれでよし。最上は……私を殺しに来ることだ」
「そうかい……なるほど」

 そう、椛が動かないのはそういう理由だ。
 理由がどうあれ、勘違いや何があろうとも……文の父親を殺したのはほかならぬ自分である。そして情があったからという理由で戦いをやめるのは、全てに対する裏切りである。
 故に……続ける。時間はたったが……失われたモノは大きいが、幸いにも戻ってきた。
 全てを知った文が自分を殺しに来ることを願ってやまない。
 全てを縛るあの鴉天狗を殺した時……ようやく、長きにわたって続いた椛の戦争は終わるのだ。
 真相を知った文が椛を殺しに来たとき、彼女は正当防衛という理由の下公然と文を殺すことができる。犬走家当主として最後の役目を、其処で終えることが出来るのだ。
 考え方は邪道だ。根っからの……悪人だ。だからこそ、鬼に好かれた。悪事の象徴である鬼に。

「わかった。ならこの件について私は手を出さん。それでいいんだろう?」
「よろしくお願いいたします」

 決意を固め、頭を下げる椛に……だけどね、と萃香は心の中で思う。もし、文が復讐の道を歩まなかったらどうするのか。最後の道が文が椛を殺しに来る、その専守防衛しかないのだとすれば、文がその道を捨てた時、同時に椛の復讐は永遠に未完成に終わるのだ。
 その時、この白狼はどう落とし前をつけるのか……そこだけは気になったが……いや、それを問うのは間違っているのだろう。今は、その時ではない。

「じゃあ最後に一つ。これは忠告だよ」
「なんでしょうか」
「……勇儀が動くぞ」

 今度は……椛が止まった。
 かつての自分の主である星熊勇儀。地底に行き、今生の別れを告げた筈の彼女が……地上に来る。おそらくは、自分に会いに。そのことの意味を……分からぬ椛ではなかった。
 うまかった酒が……味がしなくなった。






~~某所~~



 はたては固まっていた。視線の先にあるのは一台の機械。椛の体に発信機を張り付け、本来ならばその場所を調べるはずだった親機である。
 文が乱暴に扱ったせいで壊れたかと思ったが、幸いにも計器類には問題がなかったようで……ひとまずはたてが預かっていたのだ。
 しかし……何やら変なスイッチが入っていたらしく、何やら音が入ってきていた。なんとはなしに聞いてみると……鬼と、椛と思われる声……そして驚愕の内容が鳴り響いたのである。

「何よこれ……探知機じゃなくて、盗聴器じゃないの……」

 思い出すべきだった。あの河童、余計な改造やら機能をつけたがる奴だった。はたてが依頼したのは、椛の位置を調べる機械がほしい。てっきりGPSのような探知機だけだと思っていたのに、まさか盗聴器までついてくるなんて。
 思えば元々の機械を改造したとにとりは言っていた。このトランシーバーのような形をしているモノに色々と器材がついているあたり、元は盗聴器だと考えるべきだろう。
 残念ながらにとりを恨む権利はない。元々無理を言って一晩で作ってもらった代物である。にしても……だ。

「参ったわ……」

 椛の行方不明騒動後、動かなかったと文から突っ返されたはたてだが、それが今一信用ならず秘密裏ににとりに返さず持っていたのだ。
 というのもあのにとりは職人である。わけのわからん器材を作ることは数多くあるが、初めから不良品だった……などという事はなかった。
 つまるところ文の使用法が間違っていたと推測していたのだが……はたしてそれは当たっていた。
 親機の手に持つ部分……丁度人差し指がかかる場所にスイッチがついていた。機械の色も黒色で、スイッチも同じ色。確かに見わけもつかないだろうが……。
 おそらく文は間違って指をかけてしまったのだろう。事前テストでは確かに探知機だったから、機械の故障では無い筈だ。
 とにかく、それは置いておこう。今は目の前の問題が先だ。
 椛の服はまだ永遠亭にある。椛が脱走した件もあり、ボタン型発信機は椛の衣服に今もついている筈だ。そしてそこから聞こえてきた。当然だが、椛はまさかこれが盗聴器だとは知るまい。
 もし気づかれれば……はたての命が危なかった。かなりの瀬戸際にいたことに改めて気づき、胸をなでおろす。ともかく……早急に手を打たねばなるまい。
 どう始末をつけるべきか。いや、それよりも自分はとてつもなく危険なことをしていた。偶発的とはいえ、まずい。
 あの後文から事情を聴いた。文が新聞記者になったきっかけ。長年追い続け、一度は挫折しながらも再び目指した目標。
 まさか……その答えが余りにも身近にあるとは。教えるべきか。友人であるならばそうするべきだろう。これから先文が新聞大会で一位になれるとは限らない。下手をすればそれこそ一生……。
 だけど……。

「ッ!」

 ジッとその機械を眺めていたはたては何か意を決したように工具箱からハンマーを取り出すと……叩きつけた。
 何度も、何度も力の限り叩きつける。無傷で返してくれとにとりはいっていたが……後で謝ろう。万が一、この機械に録音機能がついていたら大変なことになる。
 はたてにとっては椛に対しての切り札が手に入るわけで、それこそ裏世界においてこの上ない武器になるわけだが……躊躇なく放棄した。
 恩人だから、友人だから。はたてはそんなことで椛を裏切りたくはないのである。
 そして決心する。文にもこのことは内緒にしておこう。この事実は自分が死ぬまで……墓に持っていく。表ざたには決してしない。
 せっかく文が昔を取り戻した。目標を取り戻したのだ。それを……自分がぶち壊しにしてはならない。
 今まで通り付き合うようにしよう。椛と文の問題に自分が口を突っ込む権利はない。
 ただ……あの鬼の言葉を聞いていると、只椛が殺人を犯したわけではなく、何やら復讐の他にも大きな、重い理由があったように思えるが……。
 それを解明するのもまた、文の仕事だ。自分はただ、見守ろう。せめて……その審判の時が来るまで、二人の友人でいよう。
 そしていつか訪れる結末を、見定め、受け入れる。それが、友人である自分が唯一できる、仕事だ。



 はたては疲れた表情で窓越しに空を見上げる。そこにはまるでこの奇妙な運命をあざ笑うかのように彼女を照らす月の姿があった。



 何も知らぬ椛は、萃香が去った後、少し開けた障子越しに空を見上げる。そこには過去からなんら変わらぬ月が、どこか物悲しく彼女を照らしていた。



 次の新聞の取材のため、逸る気持ちを抑えようと気分転換に夜空を飛ぶ文。近づけば近づくほど大きくなるが、決して届かぬ月に手を伸ばす。いつかきっと。一度は諦め、そして再び挑む彼女にまるで壁の様に、そして目標の様に……月はその姿を誇る様に存在していた。




                     了 
あけましておめでとうございます、長靴はいた黒猫です。お久しぶりです、初めましての方は初めまして。
昨年度中に投稿するはずが、年をまたいでしまいました。ちょっと現在の仕様になれないため、その練習の意味も込めて投稿してみました。

まずは非常に長い本作を読んでいただき、本当にありがとうございます。
前後編で分けることも考えましたが、流れを考え、一括で投稿させていただきました。
本テーマは『信念』。それと前回から引き続いて『狩り』です。
前者は悪人であろうと持っているであろう、その人を支える柱のようなものがあるのでは、ということで文を引き合いに出して書いてみました。
後者は、前回が早苗の視点で今回が椛の視点から自然について書こうと思った次第です。

本作の椛はオリ設定満載で、果たしてどこまでやっていいものか迷いましたが、思い切っていけるところまでやってみました。
椛についてですが、ダブスポ基準です。仲は悪いけれど、『信念』を持つものに関しては敬意を表するという点を持ってます。
文は一度挫折しながらも、再スタートを切る人物として、はたてはそんな一連の物事を第三者として観察する目的で出しています。
今回出した牛鬼についてですが、いろいろと伝承があるようです。本作品で取り入れたのは退治するとそのものが牛鬼になる。
そして病を振りまくということで、瘴気をその道具として出してみました。
彼は被害者なわけですが、穴倉から出てこなければ、本事件は起きなかったということなので、善悪の判断が難しい。
三つ目のテーマの『善悪』を語りたく出したのですが……描写しきれなかったように思えます。ちょっと後悔。
何度かこれでよいのか悩みましたけれども、結果的に作品が完成しましたので投稿させていただきました。

次回は勇儀を絡めて書いてみたいですね。それでは、よいお年を。
感想、誤字脱字などありましたらどうぞよろしくお願いします。
長靴はいた黒猫
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コメント



0.640簡易評価
2.90名前が無い程度の能力削除
文と同時期くらいは見た覚えがありますが、文より古株という設定は初めてです。珍しい。
椛のキャラ付けを飲み込めるか次第ですね。
3.80名前が無い程度の能力削除
話そのものが好みなだけに切っ掛けになった王様ゲームが雑なのが残念。
王様からの直接指名なうえにその時の宴会内で収まらない命令というのはどうかと。
4.90名前が無い程度の能力削除
読者が持つキャラ像とのギャップから来るこれじゃない感を正面突破で粉砕する勢いはお見事。
誤字(博霊→博麗、他たくさん)
誤用(邪見→文脈からすると邪険。並大抵の集中力がないとできない→並大抵の集中力ではできない。*並大抵は「普通」という意味)
変換ミス(たくさん)がふんだんに盛り込まれているのはご愛敬。
7.80奇声を発する程度の能力削除
こういう設定は余り見かけないので、
これはこれで面白いですね
9.90名前が無い程度の能力削除
オリジナル設定てんこ盛りなのに話の進め方に無理がなかった。
ただ中盤で文の父親の仇が椛であることがうっすらと推測できてしまうくだりがあった。

続きがwktkです
13.100愚迂多良童子削除
あ、これは前回も読まねば。
はたてが外様って設定は目から鱗でしたね。そりゃ天狗といっても皆がひとつところに纏まっているわけではなかったんでしょうが、同じ鴉でも隔たりがあるんだな、と気付かされた。
文と椛は非常に複雑な関係ですが、今後どのように収まるか見物ですな。そこに来てはたてがどう絡んでくるかも気になるところ。
これは次回にも期待。その前に前作を読むのが先かな。
あと、誤字っぽいものが幾つか。

>>亡くなった父に代わり方向に来たのだと
奉公?
>>恐怖をお越し錯乱したそうだが。
起こし? 覚え? 通り越し? 或いは、恐怖のあまり
>>体内に掬っている瘴気も
巣食っている
>>ふわふわ揺れる尻尾を人撫でして
一撫で
>>自分の行為に同落とし前をつけるかである
どう落とし前を
>>世話になった物に対する後悔と