「あ」
その声が誰に向けられていたのか定かではない。
しかし、茶店の軒先で団子を摘んでいたアリス・マーガトロイドは、確かにその方にゆるりと顔を動かした。
「……あ、って。何よ、不躾」
普遍的喧しさを奏でる雑踏から外れ几帳面な足取りを迷わずこちらにやって来る人物に、幾分か怪訝を混ぜた声音で問う。
澄ました様相は鼻にすらつかず、だからこその得体無さをアリスは疎んでいた。
「いえ、いえ。そうね、ごめんさない。仮にも友人らしき相手に出す声じゃあなかったわね」
「らしき?」
「そう。らしき」
握り拳四つ程を開けてとん、と軽く長椅子につけたられた尻の重みは鋭敏な感覚を持つアリスをしてすら微かなもので、いかに動作への神経が通っているのかを察せられる。それでも彼女の役職を知る者からすれば、なんだそんな事と興味を失うのが相場だろうけど、と。陽光に鈍く照り輝く銀髪の端を眺めて考えた。
「煮え切らない顔。何か、不足でもあった?」
単調に伸びてきた指先の当てるでもない鼻先を弾く動作に、アリスは億劫な吐息をした。
「……いいえ。合ってるはずなのに、僅かでも逡巡してしまったから」
「もしかしなくても、私って嫌われてる?」
「誰が、って所を聞いていないから判断できないわね」
「ええその反応だけで十全だわ、アリス」
ここで食べていたのは店自慢だという三色団子。一皿三本頼んで、お代わりにおまけしてもらって計七本。そしてたった今しがた傍に来た友人らしきが断りもなく一本を奪っていく。
アリスは確かに見咎めて険を送ってみせたのだけど、目の合った彼女は平然と瞼を落とし肩を竦めるだけだった。
「それ、ただの団子のように食べているけれど」
「美味しいわね、うん。三皿目を注文しようかな」
あっという間に三個目を飲み込んでしまい、からん、と串筒に放られた木串が涼しい音を立てる。しかし、何故お代わりしている事がばれているのか──とまで思考して、皿は無くとも串筒の中身はそのままな事に気がついた。
文句のつけ始めに相殺されては引っ込むしかなく、かみ締めるも空白な気持ちでアリスは唸り濁す。だが、彼女はこうも横暴に振る舞う輩だったか。いや、割と私の前では振る舞いを隠さない奴だったようなと納得しかけて、今一度注視すると──そういえば、と。
更にお茶まで失敬していった白い頬をを盗み見れば、何時もより、気持ち程度の差異で眉根が詰められている気がした。そう見えてしまえば笑みは象るや張り付くなどの言葉が妥当なようで、観察が趣味のような自分に引っかからせる辺り、どうも見た目ほど落ち着いてはいないのかと推察する。
だとするとこれは面倒だぞ──と、迷うでもなくアリスは腰を上げた。
「あら、どちらへ?」
「帰るわ、堪能したから」
「私に一本取られたのに? 貴女には、あの七本目で本当の満足だったんじゃないの」
「奢ったって言うのそれは。日本文化には疎いクチみたいね」
「盛大な嫌悪の込もった眼差しに炙られた気がしたんだけれど」
つま先天辺まで洋色に染まっている奴が何をのたまう、とでも言いたげに相好を崩して咲夜は首を傾げている。
「言われた事も一緒に奢られておきなさいよ。遠慮は要らないから」
そうしてアリスは会話を切り上げ、見やった傍らに手荷物がない事にひとつ息を吐いてから、家路へと足を向ける。
「メイドの愚痴に付き合うのは、嫌?」
打って変わった声音が耳朶を打ち、不意の強制力でその歩みは止められた。
先ほどまでの何とか体裁を保っていたそれとは使う声帯すら別物のようで。
友人らしきと関係性を謳う、十六夜咲夜の、声だった。
俯むき、そろりと呼気を押し出して一つ間を。
耳上へと髪をかきあげて振り向いた先には、障るものがないくらい腹立たしい人懐っこい笑みがあった。
────
何処かに場を移すかと聞きもしたけれど咲夜はえらくここの団子が気に入ったらしく、やって来た三皿目を分け終えるや躊躇うでもなく注文を店内奥へと呼びかけた。
その気持ちを少し前に体験していたアリスは、つい食べ過ぎではないかとしていた懸念を払われるようで、隠すようにほそりと安堵した。
やがて、杖のない事が驚くくらいに腰の曲がった老婆が団子を持って来て、皺だらけの手指が危なげなく皿を置いていく。
誰も気にしないような小さな挙動だったけど、アリスはその中に生涯に職を貫く強かさを垣間見たような気になった。
「健啖ねぇ、作りがいがあるってもんだよ」
窄んだ眼に宿る悪戯な輝きがアリスの困惑を見取とり、呵々としゃがれた声が辺りを響かせた。
少しの間を空けて言われたことを解釈したアリスは、思わずと言った具合に隣の肩を鋭くはたく。咲夜は両の手の平をこちらに向け、くっつけた親指同士を離してにこりと首を傾げて見せるけれど──何が五分と五分だ。そんな幼い笑みをしても誤魔化されはしないとアリスはそっぽを向く。しかしその先々にいた客達が慌て顔をそらすのを見て、ああ……と。もう何処にも目を向けられないほど紅潮してゆく頬の熱を一心に憎んだ。
その様子を不思議そうな面持ちで咲夜が眺めている。串団子は相変わらずの頬一杯。こくりと嚥下し終えると、うな垂れて言葉過敏になったアリスに最上級の火種を撒いた。
「もう満腹? 前にこっちで開いたお茶会では、ここで食べた団子の──」
「無駄に細部をやたら通る声で思慮なく発言するのを今すぐ止めないと……」
「無駄な恥じらいをやたら気にして考えすぎなのよ。食事中の貴女は誰の目にも映らないのかしら?」
「わざわざ知らしめるようなマネは謹んで頂戴。無くとも悪意を疑うものよ」
「それはごめんなさい。やっぱり美味しい物を食べるなら心置きなくいた方が好いでしょう」
「……おきづかいどーも」
ふて腐れた声音をみっともないとアリスはかぶりを振るが、隣で団子を心底満足に食んでいる咲夜は特に気にした様子もない。言うとおり瑣事に注意を払うのは、この場においていらない苦労に思えてくるからこの女は曲者だ、とアリスはちみちみと食い続けている団子にまた歯を通した。
同じ調子で進めてしまえば早々に失せた手元口元が寂しくなって注文を憚る意思が負けてしまうだろうことは、実践するまでもないビジョンだった。そしてこの状況が一体いつまで続けられるのかも定かではない。
アリスはさて、と覚悟を決める。いか様にして咲夜を引っぺがすか、それとも手早く愚痴とやらを聞いて無軌道なぶらつきを終わらせるか。
指先で叩く、かつかつと鳴る振動が堪え性のなさを露呈しているようで、けれども長椅子に小さく八当たることを止められずにいた。
「愚痴って」
「はんむ?」
「ああ、食べ終わってからでいいわ……」
見返る面には嗜みや慎みがどこか抜けていて、これのどこが瀟洒だなんて呆れるけれど。それに珍奇と愛嬌すらも含めるならば果たして全体としては崩れてはいないのかしら、とアリス自身もよく分からないフォローをしてしまう。
今日はよく出鼻を挫かれると憂き色の溜息で憎らしく晴れた空を仰いだ。
「ずいぶんな装いよね、今日のあなた」
それでも口から出てしまうのは、もうただの反骨精神から成るのかも。そうだ、牙を引っ込める道理はないと定まらない燻りが暴走しかけるが、何も生みはしないし剥き出した牙もその対象には喜ばせる愛嬌にしか値がつかないなと結局のところ後悔する。水気を含んだ串は、まっこと噛みがいがないのだとアリスは消沈を胸に思う。乱暴に撫でつけた髪がもう崩れて、しかめた面をその下に隠した。
ふと、団子に舌鼓を打っているはずの隣人から転がすような笑いを聞く。
声を上げた当人の顔を見るまでも無くその意味を理解すると、たちまちにかっと上がった血流を自覚する。きつく握った服の裾が申し訳ないくらい皺にまみれるのが分かった。
「ごめんなさい。だって、棘を出したと思ったらすぐに苦い顔をするんだもの。愛らしくて、団子どころじゃない」
からん、と陶器を打つ音までもが己の醜態に肩を竦めているようで酷くいたたまれない。
白く湯気を棚引かせる湯飲みを傾ければ舌に乗る熱は思いの他に雄弁で、どうにでもなれと自棄になった頭の温さとの差異がアリスを冷静さへとどうにか引き戻させた。
「それで、ああ。愚痴のことだけど──」
殊更にゆっくりと湯飲みを下ろすアリスは先んじてその言葉に被せる。
「相談とかは受け付けてないから」
明確な線引きだった。頼られるのは弱い、聞いてしまえば目を合わせるしかない。だから聞き流すだけでもいいならと、咲夜に予め告げる。
「元々期待していない、って言ったら怒る?」
「結構よ」
「ありがとこけこっこー」
きっ、と睨む反応にまた吹き出す合いの手。傍目の光景は随分と和やかしいモノに築き上げられていた。
「余裕ないわねぇ」
「当然だと思うんだけど」
「そうね、ちょっと配慮に欠けていたわ。ごめんなさい」
はい、とアリスに手渡されるのは本日八本目。八方囲ってまだ余裕を削るつもりかこのメイド。
しかし、腰よりもまっすぐな串に団子を通しているはずの老婆の成果に罪はなく、同時にこの団子も払い落とされるような結末があってはならず──。
「……ん」
やけに力のこもった動きがばれないようにと胸の中で願いを一つ。
団子はおいしい。それは、間違いじゃあなかった。
アリスの素直な仕草に咲夜はからかうでもなく、ただ満足そうに笑みを浮かべていた。
日が暮れるまで人目を憚りもせずこんな会話を続けるなんてぞっとしないアリスは、いよいよ話の誘導を行うことにする。訳もなく咲夜の表情が悔しくて、焦った口が回ったのでは決してないのだ──。
「……ふんじばって締め上げられても音を上げそうにない超人の愚痴ってのは、一介の魔女に聞かせてどうのこうのなるもんなの?」
静かに湯飲みを傾ける横顔を伺いながらアリスは切り出す。
「超人だなんて、殺せば死ぬ相手に言うことじゃないわね」
「死にそうにないから言ったの」
そも、咲夜の脳内では超人とは不死身の意なのか。それでは超人ですら生温い。
「そうねぇ。愚痴、って言うのが適切かどうか分からないけど。最近どうも調子が良くないのよ」
「人間でしょう、年頃の。不調の一つや二つあっても」
正確な年齢を聞いたわけでもないが、咲夜の容姿は十代後半と仮定しても差し支えがない。しかし言動的傾向から見ると、どうしてもそこから幾らか基準を下げる必要性があるだろう。曰く瀟洒だの完璧だのと周りの連中をして言わしめるが、それなりに顔を合わせているアリスはどうもその評価が適しているとは思えなかった。
買い物に付き合ってくれと言われ同行すればメイド妖精達が遊んでいたおもちゃの紙幣と金貨が入った財布を持ち出すし、今夜は空いているかと聞けばいないと返されじゃあしょうがないと踵を返すと裾を掴まれて、忘れ物かと振り向けば眉根を落とした酷く寂しげな面で誰も相手がいないと謎の言動を明かして。
その度に閉口したまま石になるんじゃないかと危惧する言い様のなさを噛み締めていた。
とは言え、言動はあくまで言動なので、例えそれ以上の年だとしても驚きはしないけれど、とアリスは予防線を張っておいた。
「うんん、体に違和があるとか、そういうことじゃなくて」
「……それだったら尚のことよ」
心の懸念や憂い。とてもではないけど、手に余る気がした。誰かの曇りを晴らすことなんて。
「まぁとにかく聞きなさいな。一度上げた腰を落ち着けたんだから」
それは、酷くずるい。
こんな日に滅多な顔をして現れた友人゛らしき゛が、弱っているんだけどどうしよう? なんて声を出したら、一体私は呵責とどう戦いながら帰れたと言うのだろうか。
むすりとアリスが唇をひき結ばせて黙ると、寄った眉間の皺を解すように咲夜の指が静かに添えられる。
幾度か揉み回すように円を描きもう一度ゆっくりと撫で上げて、下ろされた先の形良く組まれた手に被さる。
もはや人目のそれなど有って無いようなものだと、アリスはされるがまま、熱くなる耳裏を意識しないよう勤めた。
「自分でも不思議なんだけどね。こう、ふとした拍子とでも言えばいいのかしら。物足りないって、思うことがあるの。
手馴れた仕事に不満が出始めたのか、なんて贅沢な仮定をしたけど、それもしっくりこなくてね。
人間関係、環境? ……色々考えたけれども、どれも浮かべど沈む要素が見当たらなくて──ちょっと長めの休憩を頂いてきてしまったのよ」
ふぅ、と息一つ吐き終えた様子から目を離して、アリスはそっと団子を口にしながら咲夜の言葉を反芻する。
休暇、ではなく休憩と、咲夜は言った。
それはつまり、このしこりに解答が果たされようと果たされまいがただちに日常へと戻っていくのだろう。思考から察するに、咲夜の基準は毎日を規定通りに回すことに重きを置いている。そこから抜け出してしまう程の悩みを見出しているにも係わらず、不変でいることへ回帰を望むのだ。
言ってしまえば、馬車馬のような生き方だと。
どこまでも他を優先する咲夜の内心をアリスは計ることが出来ずにいた。
「愚痴なんて言うもんだから、もっと咲夜のどろっとした面が出てくるかと身構えてた」
内容には言及せず、脇道へと逃げ延びる。抽象的過ぎるし、何より感想のまま言葉にすれば咲夜を否定してしまう気がしたと感じたから。
「どうしても待ちわびていたの間違いに聞こえる」
咲夜もそんな苦笑で付き合う。きっと、薄らとでも察しているのだろう。
「偏見。人の膿を糧に生きる程性根が腐っているつもりはないわ」
「意趣返しは躊躇わないけどね」
「二つしかない頬を叩かれる未来を想像したら、誰もが相手の頬だって張るに違いないでしょうよ」
「そう? 手を取って、胸にでも導いてあげれば落ち着くんじゃないかしら」
「そりゃねぇ、唐突に胸を揉ませられれば驚いて何をしていたかも忘れるよ」
「あら、私の胸はそんなに奇天烈怪奇? それとも包容力が足りていないとか」
「単純に触った所に驚くって言うの」
回りくどくて相変わらず悪い頭がする応答だ。アリスは言葉にするでもなく独り言の感想を得て、それがどうにも真実味を帯びている事に気がつくと、どうしようもないと大げさにかぶりを振った。
咲夜はやり取りが変に胸へと落ちたのか、目じりを緩く落とし飽きもせずくつくつと喉を満足気に鳴らしている。
随分、今日ここで初めて会ったばかりよりも雰囲気が柔らかい様に見えた。抱える悩みを少しでも吐き出して満足したのだろうか。
身勝手な仮定だとは思うけれど、アリスはその都合いい解釈に助けられる思いを感じていた。踏み込まず手を差し伸べることもせず、火傷を負うことも跡がつく怪我をすることもない。己の曖昧さに臍を噛む無力感に苛まれもせず、ただ温い結果だけが残る。それでいいと、静かに吐息する。
過程だけで解決した気になれるのなら、いくらでも取り留めのない言葉を放ってやるとすら。
笑いすぎて涙まで滲んだ咲夜は、目元を拭いながらアリスの肩へと頭を預けてきた。甘えると言うよりは、酔っ払いがするような意味のない挙動に近く、どんと肩口から響く強さが調子の良さを窺わせるものだった。
「仕事をほっぽり出して気分転換に来たのに、相手をしてくれるのは全く相談の役に立たない魔女と来たもんだわ。最高ね」
「慰めは要るかしら、今さらだけど」
「舌先三寸の戯言で耳奥まで孕んでしまいそうよ。魔性の人」
「冗談でもあなたの主にくびり殺されそうな言い方はよして」
「お嬢様は子供好きだからきっと問題ないわ」
「耳から子供生むつもりか……」
「痛くて泣いてしまったら、そっと手を取ってね?」
おどけて言う咲夜を見れば、なんとも蠱惑的な流し目と出会う。ここが真昼間の茶店の軒先でなければもう少し我に返るのが遅れていただろう。
「全く、言わせてもらうけれど。悩みだなんだとか泣き言をするのが、これほど似合わない人間も珍しいと思うのよ」
意思表示の変わりに咲夜の頭をぐいと押し戻して、そんな率直さがアリスの詰る所の結論だった。
「うーん、本当何でだったのかな。別に溜め込むようなことも、これと言った不満も無いのに」
「それで私に聞かれてもね、生憎さっぱりよ。案外目につくような何か変わったことでも……──」
変わった、こと。
あ、と。言葉尻を濁したアリスの脳内に、一つの閃きが舞い降りた。
ここで出会ってからの咲夜の変化。話すにつれ柔らかくなっていく頬の輪郭、さり気ない動作で触れに来る手指の滑らかさ。何か、大事な物を見つめるような眼差し。
それらはずっとわだかまっていた懸念とも程よく握手して、憎々しい笑みで揃ってこちらを見ると殊更に強調して親指を突き出し、解答の是を確かなものとする。まさかまさか、ああ。
そんな愚かしい想像はどうか私の悪い頭の中だけに止まって欲しいと、誰に祈るでもなく懇願した。
「変わったこと……と言えば。そうよ、有ったわ」
なんだ簡単、と言わんばかりに緩く一度頷いて、咲夜はじっとアリスの方を見据える。
その瞳に宿る晴れた輝きを見るに、どうも頭が悪いのは自分だけではなかったらしい。
「アリスがしばらく顔を見せなくなったんじゃない」
喉のつっかえが文字通り引き抜けたように、咲夜は弾む声音で断言した。
ぷつ、と一度何かの接続が途切れた気がしたアリスは、恐ろしく滑らかな動きで顔を正面へと戻す。
一切の瞬きがない視界で代わる代わる流れていく人々を眺めながら、あまりにも単純で、予想通りな答えを吟味するまでもなく結論した。
それは、つまりなんだ。あれだろうか、はっきりと認めていいものだろうか。
「まったく、たまにはふらりとでもいいから寄りに来なさいよ。軽口の相手はいつでも欲しいんだから」
けれども張本人である咲夜は、まるでその事実がどんな物を示しているのかなど気にした風はなくて。別の解答を得た己が、よほど邪な思考をしているようで、アリスは深く、深く、嘆息した。
ああ、どうにも。ちぐはぐで、噛み合わない。
いっそのこと、胸中を巧みに読み取った咲夜の誘導なのだと誰かに断じられれば良かった。
────
店の前で散々居座って騒いでしまった事を老婆に詫びると、いつでも笑っているような表情がこれでもか歪められて 「よう儲かったわ。いつでも遊びに来んさい」 と忍び笑いをしつつぐるりと辺りを見渡す。
二人は釣られてその動作を追いかけると、観衆と言っていいほどに集まった人々の、誰一人として憚らない好色じみた視線をそこかしこから浴びてしまう。アリスは、もう今日はこれ以上ないとばかりに首上を真っ赤に茹で上げて、咲夜はただのんきに小さく手を振っていた。
そんな咲夜を憎しみ込めるようにぺしりと肩口を叩いて、腕を引っつかむとアリスは足早に茶店を後にする。
なすがままに道行きを任せて、雑踏に紛れても全く歩調を緩めない背を、咲夜は声をかけるでもなく見つめていた。羞恥から止まらなくなったアリスにはその詳細を知る由もない。
やがて大通りから抜けて、街道をしばらく行った森林の手前で無言の競歩は終わりを告げた。アリスはまだ振り返ることなく、いきり上がった心拍数を落ち着けている。
「それで、次はいつご来訪かしら」
その声にじとり、と睨みを利かせて見返るが、直ぐに力抜けてほう、とこれ見よがしに肺腑の澱みを吐く。
とっくの昔に、アリスの根気とやらは風化しきっていたのだ。
「さぁね、気分よ。そっちに家があるのでもないんだから」
「部屋なら沢山あるわよ。数えるほどだけど、日当たり所も確保してあるわ」
「そう、それならついでにメイドが勝手に入ってこないような工房と私室もこさえておいて頂戴」
「承りましたわ、アリスお嬢様」
止めてくれと、げっそりした顔の前で手を払う。どこまで本気なのか判別不能な咲夜に言わせておくと後でどんなえらい目に合うのか想像するだに恐ろしく、そのままアリスの家ごとを運んできかねないのがこのメイドの底知れぬイメージだった。
足労の要らない利点にほだされて、つい頷いてしまった時の対応が興味を惹くけれど、決して無謀はすまいとアリスは自分を戒めた。
そうして後は別れの言葉を告げるだけとなった折に。
「アリス」
唐突な呼びかけに伏せていた面を上げたアリスは、距離を詰めた咲夜の顔を見上げるはめになった。
真っ直ぐに見つめてくる青い眼が、僅かに戸惑うアリスの相貌を映している。暮れの日差しを遮って、濃い影の中に浮かぶ口許の形はおぼろげで、緩く笑んでいるようにも固く結ばれているようにも見える。
そうっと伸びた、たおやかな指先が赤く染む頬に触れて──唐突に鼻先に目標を切り替えた。
「──ふがっ、な、んなっ」
弾かれた鼻頭を押さえつつ後退したアリスは言葉にならない惑いを上げながら瞠目している。
それはそうだ、呼掛けた時との印象がちぐはぐな行為をされれば、誰であろうと動揺するというもの。例に漏れないアリスもまた、咲夜のことをびっくり箱でも見るような眼差しで警戒していた。
「初めの方で外してしまったから、やっと当てられたわ」
「……はぁ?」
ずっと機会を狙っていたのよ、とこの上なく嬉しそうに告げる。とてもではないが、アリスはまともな思考を維持出来ずにいた。
つまりあれは、わざと外したのではなく──単に目測を誤っていただけなのか。なんだ、それで鼻先を弾くタイミングを待っていたと言うのか。阿呆か、いや阿呆だ。
深呼吸をするように仰いで、横へ捻るとそのまま重力に引かれてアリスはうな垂れる。もう咲夜について無駄に慮るのは止めようとそれなりに固く心に決めたのだった。
「それじゃあね。今日あなたに会えて助かったわ、アリス」
銀時計を懐へと収めた咲夜が切り出す別れに、ようやく安堵する。おなざりに手をひらりと見せて、気にしないでと意思表示する。枯れてもいないのに喉は、何故か一切の仕事を放棄していた。
緩やかに手を振って、最後まで見送らずに踵を返す。眼前に広がる鬱蒼とした森林に飲み込まれる手前、抵抗が掛かった。
肩口を見れば回された両腕、背にはありったけに押し付けられた温かい体。
アリスはそれに対して動揺し過ぎることもなく、恐る恐るといった具合で片手だけを添えた。
耳元にかかる湿った吐息が、脳髄に甘い音色で響き渡った。
「またね」
それだけを聞くと、また背中には夕暮れ時のしんと冷えた風が吹き付けられる。
しばらく立ち尽くしたままだったアリスは、気だるげに髪を払って、また歩みを再開した。
「ええ、……またね」
森林へと埋もれていく暗い背に向かって、沈む日が名残惜しげに手を伸ばしていた。
その声が誰に向けられていたのか定かではない。
しかし、茶店の軒先で団子を摘んでいたアリス・マーガトロイドは、確かにその方にゆるりと顔を動かした。
「……あ、って。何よ、不躾」
普遍的喧しさを奏でる雑踏から外れ几帳面な足取りを迷わずこちらにやって来る人物に、幾分か怪訝を混ぜた声音で問う。
澄ました様相は鼻にすらつかず、だからこその得体無さをアリスは疎んでいた。
「いえ、いえ。そうね、ごめんさない。仮にも友人らしき相手に出す声じゃあなかったわね」
「らしき?」
「そう。らしき」
握り拳四つ程を開けてとん、と軽く長椅子につけたられた尻の重みは鋭敏な感覚を持つアリスをしてすら微かなもので、いかに動作への神経が通っているのかを察せられる。それでも彼女の役職を知る者からすれば、なんだそんな事と興味を失うのが相場だろうけど、と。陽光に鈍く照り輝く銀髪の端を眺めて考えた。
「煮え切らない顔。何か、不足でもあった?」
単調に伸びてきた指先の当てるでもない鼻先を弾く動作に、アリスは億劫な吐息をした。
「……いいえ。合ってるはずなのに、僅かでも逡巡してしまったから」
「もしかしなくても、私って嫌われてる?」
「誰が、って所を聞いていないから判断できないわね」
「ええその反応だけで十全だわ、アリス」
ここで食べていたのは店自慢だという三色団子。一皿三本頼んで、お代わりにおまけしてもらって計七本。そしてたった今しがた傍に来た友人らしきが断りもなく一本を奪っていく。
アリスは確かに見咎めて険を送ってみせたのだけど、目の合った彼女は平然と瞼を落とし肩を竦めるだけだった。
「それ、ただの団子のように食べているけれど」
「美味しいわね、うん。三皿目を注文しようかな」
あっという間に三個目を飲み込んでしまい、からん、と串筒に放られた木串が涼しい音を立てる。しかし、何故お代わりしている事がばれているのか──とまで思考して、皿は無くとも串筒の中身はそのままな事に気がついた。
文句のつけ始めに相殺されては引っ込むしかなく、かみ締めるも空白な気持ちでアリスは唸り濁す。だが、彼女はこうも横暴に振る舞う輩だったか。いや、割と私の前では振る舞いを隠さない奴だったようなと納得しかけて、今一度注視すると──そういえば、と。
更にお茶まで失敬していった白い頬をを盗み見れば、何時もより、気持ち程度の差異で眉根が詰められている気がした。そう見えてしまえば笑みは象るや張り付くなどの言葉が妥当なようで、観察が趣味のような自分に引っかからせる辺り、どうも見た目ほど落ち着いてはいないのかと推察する。
だとするとこれは面倒だぞ──と、迷うでもなくアリスは腰を上げた。
「あら、どちらへ?」
「帰るわ、堪能したから」
「私に一本取られたのに? 貴女には、あの七本目で本当の満足だったんじゃないの」
「奢ったって言うのそれは。日本文化には疎いクチみたいね」
「盛大な嫌悪の込もった眼差しに炙られた気がしたんだけれど」
つま先天辺まで洋色に染まっている奴が何をのたまう、とでも言いたげに相好を崩して咲夜は首を傾げている。
「言われた事も一緒に奢られておきなさいよ。遠慮は要らないから」
そうしてアリスは会話を切り上げ、見やった傍らに手荷物がない事にひとつ息を吐いてから、家路へと足を向ける。
「メイドの愚痴に付き合うのは、嫌?」
打って変わった声音が耳朶を打ち、不意の強制力でその歩みは止められた。
先ほどまでの何とか体裁を保っていたそれとは使う声帯すら別物のようで。
友人らしきと関係性を謳う、十六夜咲夜の、声だった。
俯むき、そろりと呼気を押し出して一つ間を。
耳上へと髪をかきあげて振り向いた先には、障るものがないくらい腹立たしい人懐っこい笑みがあった。
────
何処かに場を移すかと聞きもしたけれど咲夜はえらくここの団子が気に入ったらしく、やって来た三皿目を分け終えるや躊躇うでもなく注文を店内奥へと呼びかけた。
その気持ちを少し前に体験していたアリスは、つい食べ過ぎではないかとしていた懸念を払われるようで、隠すようにほそりと安堵した。
やがて、杖のない事が驚くくらいに腰の曲がった老婆が団子を持って来て、皺だらけの手指が危なげなく皿を置いていく。
誰も気にしないような小さな挙動だったけど、アリスはその中に生涯に職を貫く強かさを垣間見たような気になった。
「健啖ねぇ、作りがいがあるってもんだよ」
窄んだ眼に宿る悪戯な輝きがアリスの困惑を見取とり、呵々としゃがれた声が辺りを響かせた。
少しの間を空けて言われたことを解釈したアリスは、思わずと言った具合に隣の肩を鋭くはたく。咲夜は両の手の平をこちらに向け、くっつけた親指同士を離してにこりと首を傾げて見せるけれど──何が五分と五分だ。そんな幼い笑みをしても誤魔化されはしないとアリスはそっぽを向く。しかしその先々にいた客達が慌て顔をそらすのを見て、ああ……と。もう何処にも目を向けられないほど紅潮してゆく頬の熱を一心に憎んだ。
その様子を不思議そうな面持ちで咲夜が眺めている。串団子は相変わらずの頬一杯。こくりと嚥下し終えると、うな垂れて言葉過敏になったアリスに最上級の火種を撒いた。
「もう満腹? 前にこっちで開いたお茶会では、ここで食べた団子の──」
「無駄に細部をやたら通る声で思慮なく発言するのを今すぐ止めないと……」
「無駄な恥じらいをやたら気にして考えすぎなのよ。食事中の貴女は誰の目にも映らないのかしら?」
「わざわざ知らしめるようなマネは謹んで頂戴。無くとも悪意を疑うものよ」
「それはごめんなさい。やっぱり美味しい物を食べるなら心置きなくいた方が好いでしょう」
「……おきづかいどーも」
ふて腐れた声音をみっともないとアリスはかぶりを振るが、隣で団子を心底満足に食んでいる咲夜は特に気にした様子もない。言うとおり瑣事に注意を払うのは、この場においていらない苦労に思えてくるからこの女は曲者だ、とアリスはちみちみと食い続けている団子にまた歯を通した。
同じ調子で進めてしまえば早々に失せた手元口元が寂しくなって注文を憚る意思が負けてしまうだろうことは、実践するまでもないビジョンだった。そしてこの状況が一体いつまで続けられるのかも定かではない。
アリスはさて、と覚悟を決める。いか様にして咲夜を引っぺがすか、それとも手早く愚痴とやらを聞いて無軌道なぶらつきを終わらせるか。
指先で叩く、かつかつと鳴る振動が堪え性のなさを露呈しているようで、けれども長椅子に小さく八当たることを止められずにいた。
「愚痴って」
「はんむ?」
「ああ、食べ終わってからでいいわ……」
見返る面には嗜みや慎みがどこか抜けていて、これのどこが瀟洒だなんて呆れるけれど。それに珍奇と愛嬌すらも含めるならば果たして全体としては崩れてはいないのかしら、とアリス自身もよく分からないフォローをしてしまう。
今日はよく出鼻を挫かれると憂き色の溜息で憎らしく晴れた空を仰いだ。
「ずいぶんな装いよね、今日のあなた」
それでも口から出てしまうのは、もうただの反骨精神から成るのかも。そうだ、牙を引っ込める道理はないと定まらない燻りが暴走しかけるが、何も生みはしないし剥き出した牙もその対象には喜ばせる愛嬌にしか値がつかないなと結局のところ後悔する。水気を含んだ串は、まっこと噛みがいがないのだとアリスは消沈を胸に思う。乱暴に撫でつけた髪がもう崩れて、しかめた面をその下に隠した。
ふと、団子に舌鼓を打っているはずの隣人から転がすような笑いを聞く。
声を上げた当人の顔を見るまでも無くその意味を理解すると、たちまちにかっと上がった血流を自覚する。きつく握った服の裾が申し訳ないくらい皺にまみれるのが分かった。
「ごめんなさい。だって、棘を出したと思ったらすぐに苦い顔をするんだもの。愛らしくて、団子どころじゃない」
からん、と陶器を打つ音までもが己の醜態に肩を竦めているようで酷くいたたまれない。
白く湯気を棚引かせる湯飲みを傾ければ舌に乗る熱は思いの他に雄弁で、どうにでもなれと自棄になった頭の温さとの差異がアリスを冷静さへとどうにか引き戻させた。
「それで、ああ。愚痴のことだけど──」
殊更にゆっくりと湯飲みを下ろすアリスは先んじてその言葉に被せる。
「相談とかは受け付けてないから」
明確な線引きだった。頼られるのは弱い、聞いてしまえば目を合わせるしかない。だから聞き流すだけでもいいならと、咲夜に予め告げる。
「元々期待していない、って言ったら怒る?」
「結構よ」
「ありがとこけこっこー」
きっ、と睨む反応にまた吹き出す合いの手。傍目の光景は随分と和やかしいモノに築き上げられていた。
「余裕ないわねぇ」
「当然だと思うんだけど」
「そうね、ちょっと配慮に欠けていたわ。ごめんなさい」
はい、とアリスに手渡されるのは本日八本目。八方囲ってまだ余裕を削るつもりかこのメイド。
しかし、腰よりもまっすぐな串に団子を通しているはずの老婆の成果に罪はなく、同時にこの団子も払い落とされるような結末があってはならず──。
「……ん」
やけに力のこもった動きがばれないようにと胸の中で願いを一つ。
団子はおいしい。それは、間違いじゃあなかった。
アリスの素直な仕草に咲夜はからかうでもなく、ただ満足そうに笑みを浮かべていた。
日が暮れるまで人目を憚りもせずこんな会話を続けるなんてぞっとしないアリスは、いよいよ話の誘導を行うことにする。訳もなく咲夜の表情が悔しくて、焦った口が回ったのでは決してないのだ──。
「……ふんじばって締め上げられても音を上げそうにない超人の愚痴ってのは、一介の魔女に聞かせてどうのこうのなるもんなの?」
静かに湯飲みを傾ける横顔を伺いながらアリスは切り出す。
「超人だなんて、殺せば死ぬ相手に言うことじゃないわね」
「死にそうにないから言ったの」
そも、咲夜の脳内では超人とは不死身の意なのか。それでは超人ですら生温い。
「そうねぇ。愚痴、って言うのが適切かどうか分からないけど。最近どうも調子が良くないのよ」
「人間でしょう、年頃の。不調の一つや二つあっても」
正確な年齢を聞いたわけでもないが、咲夜の容姿は十代後半と仮定しても差し支えがない。しかし言動的傾向から見ると、どうしてもそこから幾らか基準を下げる必要性があるだろう。曰く瀟洒だの完璧だのと周りの連中をして言わしめるが、それなりに顔を合わせているアリスはどうもその評価が適しているとは思えなかった。
買い物に付き合ってくれと言われ同行すればメイド妖精達が遊んでいたおもちゃの紙幣と金貨が入った財布を持ち出すし、今夜は空いているかと聞けばいないと返されじゃあしょうがないと踵を返すと裾を掴まれて、忘れ物かと振り向けば眉根を落とした酷く寂しげな面で誰も相手がいないと謎の言動を明かして。
その度に閉口したまま石になるんじゃないかと危惧する言い様のなさを噛み締めていた。
とは言え、言動はあくまで言動なので、例えそれ以上の年だとしても驚きはしないけれど、とアリスは予防線を張っておいた。
「うんん、体に違和があるとか、そういうことじゃなくて」
「……それだったら尚のことよ」
心の懸念や憂い。とてもではないけど、手に余る気がした。誰かの曇りを晴らすことなんて。
「まぁとにかく聞きなさいな。一度上げた腰を落ち着けたんだから」
それは、酷くずるい。
こんな日に滅多な顔をして現れた友人゛らしき゛が、弱っているんだけどどうしよう? なんて声を出したら、一体私は呵責とどう戦いながら帰れたと言うのだろうか。
むすりとアリスが唇をひき結ばせて黙ると、寄った眉間の皺を解すように咲夜の指が静かに添えられる。
幾度か揉み回すように円を描きもう一度ゆっくりと撫で上げて、下ろされた先の形良く組まれた手に被さる。
もはや人目のそれなど有って無いようなものだと、アリスはされるがまま、熱くなる耳裏を意識しないよう勤めた。
「自分でも不思議なんだけどね。こう、ふとした拍子とでも言えばいいのかしら。物足りないって、思うことがあるの。
手馴れた仕事に不満が出始めたのか、なんて贅沢な仮定をしたけど、それもしっくりこなくてね。
人間関係、環境? ……色々考えたけれども、どれも浮かべど沈む要素が見当たらなくて──ちょっと長めの休憩を頂いてきてしまったのよ」
ふぅ、と息一つ吐き終えた様子から目を離して、アリスはそっと団子を口にしながら咲夜の言葉を反芻する。
休暇、ではなく休憩と、咲夜は言った。
それはつまり、このしこりに解答が果たされようと果たされまいがただちに日常へと戻っていくのだろう。思考から察するに、咲夜の基準は毎日を規定通りに回すことに重きを置いている。そこから抜け出してしまう程の悩みを見出しているにも係わらず、不変でいることへ回帰を望むのだ。
言ってしまえば、馬車馬のような生き方だと。
どこまでも他を優先する咲夜の内心をアリスは計ることが出来ずにいた。
「愚痴なんて言うもんだから、もっと咲夜のどろっとした面が出てくるかと身構えてた」
内容には言及せず、脇道へと逃げ延びる。抽象的過ぎるし、何より感想のまま言葉にすれば咲夜を否定してしまう気がしたと感じたから。
「どうしても待ちわびていたの間違いに聞こえる」
咲夜もそんな苦笑で付き合う。きっと、薄らとでも察しているのだろう。
「偏見。人の膿を糧に生きる程性根が腐っているつもりはないわ」
「意趣返しは躊躇わないけどね」
「二つしかない頬を叩かれる未来を想像したら、誰もが相手の頬だって張るに違いないでしょうよ」
「そう? 手を取って、胸にでも導いてあげれば落ち着くんじゃないかしら」
「そりゃねぇ、唐突に胸を揉ませられれば驚いて何をしていたかも忘れるよ」
「あら、私の胸はそんなに奇天烈怪奇? それとも包容力が足りていないとか」
「単純に触った所に驚くって言うの」
回りくどくて相変わらず悪い頭がする応答だ。アリスは言葉にするでもなく独り言の感想を得て、それがどうにも真実味を帯びている事に気がつくと、どうしようもないと大げさにかぶりを振った。
咲夜はやり取りが変に胸へと落ちたのか、目じりを緩く落とし飽きもせずくつくつと喉を満足気に鳴らしている。
随分、今日ここで初めて会ったばかりよりも雰囲気が柔らかい様に見えた。抱える悩みを少しでも吐き出して満足したのだろうか。
身勝手な仮定だとは思うけれど、アリスはその都合いい解釈に助けられる思いを感じていた。踏み込まず手を差し伸べることもせず、火傷を負うことも跡がつく怪我をすることもない。己の曖昧さに臍を噛む無力感に苛まれもせず、ただ温い結果だけが残る。それでいいと、静かに吐息する。
過程だけで解決した気になれるのなら、いくらでも取り留めのない言葉を放ってやるとすら。
笑いすぎて涙まで滲んだ咲夜は、目元を拭いながらアリスの肩へと頭を預けてきた。甘えると言うよりは、酔っ払いがするような意味のない挙動に近く、どんと肩口から響く強さが調子の良さを窺わせるものだった。
「仕事をほっぽり出して気分転換に来たのに、相手をしてくれるのは全く相談の役に立たない魔女と来たもんだわ。最高ね」
「慰めは要るかしら、今さらだけど」
「舌先三寸の戯言で耳奥まで孕んでしまいそうよ。魔性の人」
「冗談でもあなたの主にくびり殺されそうな言い方はよして」
「お嬢様は子供好きだからきっと問題ないわ」
「耳から子供生むつもりか……」
「痛くて泣いてしまったら、そっと手を取ってね?」
おどけて言う咲夜を見れば、なんとも蠱惑的な流し目と出会う。ここが真昼間の茶店の軒先でなければもう少し我に返るのが遅れていただろう。
「全く、言わせてもらうけれど。悩みだなんだとか泣き言をするのが、これほど似合わない人間も珍しいと思うのよ」
意思表示の変わりに咲夜の頭をぐいと押し戻して、そんな率直さがアリスの詰る所の結論だった。
「うーん、本当何でだったのかな。別に溜め込むようなことも、これと言った不満も無いのに」
「それで私に聞かれてもね、生憎さっぱりよ。案外目につくような何か変わったことでも……──」
変わった、こと。
あ、と。言葉尻を濁したアリスの脳内に、一つの閃きが舞い降りた。
ここで出会ってからの咲夜の変化。話すにつれ柔らかくなっていく頬の輪郭、さり気ない動作で触れに来る手指の滑らかさ。何か、大事な物を見つめるような眼差し。
それらはずっとわだかまっていた懸念とも程よく握手して、憎々しい笑みで揃ってこちらを見ると殊更に強調して親指を突き出し、解答の是を確かなものとする。まさかまさか、ああ。
そんな愚かしい想像はどうか私の悪い頭の中だけに止まって欲しいと、誰に祈るでもなく懇願した。
「変わったこと……と言えば。そうよ、有ったわ」
なんだ簡単、と言わんばかりに緩く一度頷いて、咲夜はじっとアリスの方を見据える。
その瞳に宿る晴れた輝きを見るに、どうも頭が悪いのは自分だけではなかったらしい。
「アリスがしばらく顔を見せなくなったんじゃない」
喉のつっかえが文字通り引き抜けたように、咲夜は弾む声音で断言した。
ぷつ、と一度何かの接続が途切れた気がしたアリスは、恐ろしく滑らかな動きで顔を正面へと戻す。
一切の瞬きがない視界で代わる代わる流れていく人々を眺めながら、あまりにも単純で、予想通りな答えを吟味するまでもなく結論した。
それは、つまりなんだ。あれだろうか、はっきりと認めていいものだろうか。
「まったく、たまにはふらりとでもいいから寄りに来なさいよ。軽口の相手はいつでも欲しいんだから」
けれども張本人である咲夜は、まるでその事実がどんな物を示しているのかなど気にした風はなくて。別の解答を得た己が、よほど邪な思考をしているようで、アリスは深く、深く、嘆息した。
ああ、どうにも。ちぐはぐで、噛み合わない。
いっそのこと、胸中を巧みに読み取った咲夜の誘導なのだと誰かに断じられれば良かった。
────
店の前で散々居座って騒いでしまった事を老婆に詫びると、いつでも笑っているような表情がこれでもか歪められて 「よう儲かったわ。いつでも遊びに来んさい」 と忍び笑いをしつつぐるりと辺りを見渡す。
二人は釣られてその動作を追いかけると、観衆と言っていいほどに集まった人々の、誰一人として憚らない好色じみた視線をそこかしこから浴びてしまう。アリスは、もう今日はこれ以上ないとばかりに首上を真っ赤に茹で上げて、咲夜はただのんきに小さく手を振っていた。
そんな咲夜を憎しみ込めるようにぺしりと肩口を叩いて、腕を引っつかむとアリスは足早に茶店を後にする。
なすがままに道行きを任せて、雑踏に紛れても全く歩調を緩めない背を、咲夜は声をかけるでもなく見つめていた。羞恥から止まらなくなったアリスにはその詳細を知る由もない。
やがて大通りから抜けて、街道をしばらく行った森林の手前で無言の競歩は終わりを告げた。アリスはまだ振り返ることなく、いきり上がった心拍数を落ち着けている。
「それで、次はいつご来訪かしら」
その声にじとり、と睨みを利かせて見返るが、直ぐに力抜けてほう、とこれ見よがしに肺腑の澱みを吐く。
とっくの昔に、アリスの根気とやらは風化しきっていたのだ。
「さぁね、気分よ。そっちに家があるのでもないんだから」
「部屋なら沢山あるわよ。数えるほどだけど、日当たり所も確保してあるわ」
「そう、それならついでにメイドが勝手に入ってこないような工房と私室もこさえておいて頂戴」
「承りましたわ、アリスお嬢様」
止めてくれと、げっそりした顔の前で手を払う。どこまで本気なのか判別不能な咲夜に言わせておくと後でどんなえらい目に合うのか想像するだに恐ろしく、そのままアリスの家ごとを運んできかねないのがこのメイドの底知れぬイメージだった。
足労の要らない利点にほだされて、つい頷いてしまった時の対応が興味を惹くけれど、決して無謀はすまいとアリスは自分を戒めた。
そうして後は別れの言葉を告げるだけとなった折に。
「アリス」
唐突な呼びかけに伏せていた面を上げたアリスは、距離を詰めた咲夜の顔を見上げるはめになった。
真っ直ぐに見つめてくる青い眼が、僅かに戸惑うアリスの相貌を映している。暮れの日差しを遮って、濃い影の中に浮かぶ口許の形はおぼろげで、緩く笑んでいるようにも固く結ばれているようにも見える。
そうっと伸びた、たおやかな指先が赤く染む頬に触れて──唐突に鼻先に目標を切り替えた。
「──ふがっ、な、んなっ」
弾かれた鼻頭を押さえつつ後退したアリスは言葉にならない惑いを上げながら瞠目している。
それはそうだ、呼掛けた時との印象がちぐはぐな行為をされれば、誰であろうと動揺するというもの。例に漏れないアリスもまた、咲夜のことをびっくり箱でも見るような眼差しで警戒していた。
「初めの方で外してしまったから、やっと当てられたわ」
「……はぁ?」
ずっと機会を狙っていたのよ、とこの上なく嬉しそうに告げる。とてもではないが、アリスはまともな思考を維持出来ずにいた。
つまりあれは、わざと外したのではなく──単に目測を誤っていただけなのか。なんだ、それで鼻先を弾くタイミングを待っていたと言うのか。阿呆か、いや阿呆だ。
深呼吸をするように仰いで、横へ捻るとそのまま重力に引かれてアリスはうな垂れる。もう咲夜について無駄に慮るのは止めようとそれなりに固く心に決めたのだった。
「それじゃあね。今日あなたに会えて助かったわ、アリス」
銀時計を懐へと収めた咲夜が切り出す別れに、ようやく安堵する。おなざりに手をひらりと見せて、気にしないでと意思表示する。枯れてもいないのに喉は、何故か一切の仕事を放棄していた。
緩やかに手を振って、最後まで見送らずに踵を返す。眼前に広がる鬱蒼とした森林に飲み込まれる手前、抵抗が掛かった。
肩口を見れば回された両腕、背にはありったけに押し付けられた温かい体。
アリスはそれに対して動揺し過ぎることもなく、恐る恐るといった具合で片手だけを添えた。
耳元にかかる湿った吐息が、脳髄に甘い音色で響き渡った。
「またね」
それだけを聞くと、また背中には夕暮れ時のしんと冷えた風が吹き付けられる。
しばらく立ち尽くしたままだったアリスは、気だるげに髪を払って、また歩みを再開した。
「ええ、……またね」
森林へと埋もれていく暗い背に向かって、沈む日が名残惜しげに手を伸ばしていた。
いやはや、新年から咲アリご馳走様でした
色々と難しい言い回しがこのSSの特徴でもあり、難点でもある感じ。
あと、タグで誰だか分かると言っても早めにキャラの名前は出しちゃっていいと思います。