「足袋をください」
犬走 椛よりも不器用な天狗を、射命丸 文は今も昔も知らない。
包丁を使わせれば指に包帯を巻くことになるし、針を持たせれば糸を通すことができない。洗濯板で洗濯などやらせれば、あっという間に真新しい装束が雑巾になる。むろん、泣く泣くそれを縫うのは文である。引き出しには色とりどりの雑巾が並んでいる。
筆記具だって椛はろくに扱えない。毛筆は数日を経ずして毛先が乱れてしまうし、硯や文鎮なども物の見事に真っ二つに割れる。むろんのこと、字だって稚拙なもので、平仮名すら危ういものがある。わけても「と」と「て」あるいは「で」の書きわけが下手なのは、いかようにしたものであろうか。明らかに書き損じていることすらある。
しかも、筆記具が毛筆から万年筆となると、道の扱いや字の巧拙どころか、刃傷沙汰になるのだから恐ろしい。文が目を離した隙に、椛は筆先で腕を切って血をだらだらと流してみせる。血相を変えた文が手当をはじめると、ようやく椛はただ一言だけ痛いと呟くのだ。
「足袋をくださいな」
そのあまりに場ちがいなお願いは、二人そろっての夕食の席でのことだった。
文は多少の気を取られながらも、箸を止めることなく聞き流した。たわ言に耳をかすよりも、目の前にある焼き魚の身をほぐすことが重要であった。食卓を兼ねる炬燵のなかで、椛に足を蹴られるが知ったことではない。
とはいえ、文が熱心に身をほぐしている魚は、椛が捕まえてきたものである。しかしながら、椛は釣り道具を持っていない。縫い針に糸を通せないのと同じく、釣り針に餌を刺せない椛である。よしんばできたとしても、釣り竿を折らずにはいられないだろうし、釣った魚から針を外すこともできないからだ。
それではどうやって捕まえたのか想像するに、耶蘇教の儀式がそうであるように、真冬の渓流に飛び込んだのだと判じえた。事実、椛の切りそろえられた前髪は、帰宅の時に氷柱を垂らしていた。文はあわてて湯浴みをさせたが、そのさいに、洗濯籠へ出された装束が凍っていなかったのは、律儀に脱いでもぐったからであろうか。
さらには七輪で魚を焼いたのも椛である。湯浴みで身体を温めたあとに、わざわざ屋外に出たがることが不思議でならなかったが、文はそれを最初から最後まで見守った。風を操って火を起こしたのが文であれば、最後に火の始末を確認したのも文である。椛が不用意に七輪に近づきすぎて火傷をせぬよう、その首を猫つかみもした。
このあまりに過保護な態度には、ちゃんと由縁がある。そもそも椛が文の住処で寝泊まりしているのは、椛の古巣が火事で焼け落ちたからである。
椛が言うには、秋刀魚を焼いていたら、家も一緒に焼けたとのこと。それが直接の原因となり、近所の白狼天狗たちから、遠くに引っ越すよう懇願されたと言う。
さらに聞くところによると、どうやら椛は赤々と焼ける自宅を背にして、生焼けの秋刀魚を頭からかじっていたらしい。耳にするだけでも異様な状況を、実際に目の当たりにした近隣住民たちは気の毒の一言である。恐ろしさのあまり、椛を追放しても不思議はない。
「足袋をくださいってば」
そして、三度目の正直と言わんばかりに、椛が声を張り上げた。無視をされつづけて、さすがに機嫌を悪くしたのか、炬燵のなかで文の足を蹴る力もましている。
「もう駄目にしたの? このあいだ新しくしたばかりじゃない」
視線を手元に残したまま、やはり文は箸を止めることもせず口だけで応じる。焼き魚の身は十分にほぐせたが、細かな骨は残っている。それらを神経質に取り除いているのだ。
「ちがいます、あれはまだまだ現役です」
「そのまま年明けまでもってくれるかしらね」
「あと一週間だけなら余裕ですよ」
「最短記録は五日でさようならじゃない」
「足を通す前に破いたこともあります」
「まったく自慢にならないわ、それ」
鼻で笑いながらも、最後の小骨を取りおえた。見た目はかなり崩れてしまったが、これで椛が喉に骨を引っかける心配はなくなった。
「ほら、椛。食べてごらん」
「見た目が残飯なんですが」
「誰のためだと思っているので」
「子ども扱いはよしてください」
「そうね、引っかかった骨を取ろうと喉に手を突っ込むなんて馬鹿な真似、子どもだってしませんよ」
「ちゃんと骨は取れました」
「自慢にならないからね、それも」
などと諭しながら、文はようやく自分の魚に箸を付けた。椛の魚をほぐしてからとはいえ、十分に焼きたてである。皮はぱりっと小気味良く裂けるうえに、ほぐした身からは白い湯気がほのかに立つ。白米といっしょに口にふくめば、自然と目がうすく細められた。本当にただ塩をまぶして焼いただけであるのに、炊きたての白米の甘さと、おどろくほど相性が良かった。味付けはやや塩辛いけれども、多めに作った大根雪を思えば好ましい。大根雪が真っ白なままで、醤油がないのはそのためである。
そして、椛に味の同意を得るのに言葉はいらなかった。普段は隠している狼耳と尻尾が、誰の目にもあらわになっている。白くてふんわりとしたそれらは、文の好むものである。
これに機嫌を良くした文は、椛の願いを聞き入れてやる気概になった。もとより足袋の一足や二足、求められて困るような身分ではない。
「箪笥に新しいのが何足かあります。好きなのを使いなさい」
「なんですか、いきなり」
「だから、足袋の話でしょ」
「あっ、そうでした。足袋です、足袋をくださいな」
「うん、だからね。箪笥にあるから取りなさいと言っているの」
「でも、新しいのはいりません」
「またわけのわからないことを」
「射命丸様のが欲しいのです」
当然のように言い放つ椛だが、文を怪訝にするだけであった。
「どうして、私のなのよ?」
「秘密です」
「それであげられると思うの?」
「けちんぼ」
「もう絶対にあげない」
「うそです、ごめんなさい」
「だったら、理由を言いなさい」
「嫌です、秘密です」
「わがままを言わないの」
おいそれと服飾をわたせるほど、文は不用心ではない。椛のことだから悪用の心配はないが、やはり得体の知れぬ気味の悪さはある。
「そもそも足袋なんて、もう使っていませんよ。箪笥にあるのだって、ぜんぶ椛のために買った物だし」
「それなら靴下をください」
「だから、あげないって。ちゃんと理由を言いなさい」
「理由は言えません」
「やましいことなの? だから言えないの?」
「ちがいます」
「それなら言えるはずよね」
「……もういいです、忘れてください」
あと一歩で口喧嘩というところで、なんの前触れもなく椛が折れた。ただし、それは妥協ではなく諦めである。忘れて欲しいという言葉には、普段にはない落胆する調子があった。
日頃の失敗や怪我には平然とふるまう椛だが、こういった時ばかりは、やわらかな本心を垣間見せる。不器用なことこの上ないが、それを見る者の胸に訴えかける作用はあるようで。別段に悪いことをしたわけでもないのに、どうしてか文の胸はちくりと痛んだ。
「捨てるつもりのお古でいいなら……」
文は靴下を手放すことを決めた。せっかくの夕飯が、このままでは台無しになりかねない。そうした建前をこしらえて、本音は自分自身から遠ざけた。
しかし、その倒錯的な庇護欲と過剰な甘さを、自覚しない文ではない。靴下はまだ新しいのだ。
「それでいいならあげましょう」
「本当ですか」
「こんなことで、うそは言いません」
「ありがとうございます、射命丸様」
「わかったから、ちゃんとご飯を食べなさい。それからですよ、あげるのは」
「はい」
犬食いとはよく言ったもので、椛はあっという間に、文のほぐした魚を平らげてしまった。
夕食後にも二人は炬燵のなかにいた。
けれども、その装いは大きく異なっている。夕食時にはそれぞれの天狗装束を着ていたが、今ではおそろいの褞袍(どてら)を着込んでいる。
文の褞袍は秋頃に新調したものだが、椛のものは丈を直しただけの古着で、去年まで文が袖を通していたものである。実のところ椛に与えたお古の服飾は、今宵の靴下で二つ目となる。
椛はといえば、食後に二度目の湯浴みをした。白い髪に染み込んだ炭火の臭いを、文が厭うたのだ。
それゆえに文の湯浴みは、湯を張り直すかたわらに、食器を洗った後になった。皿洗い程度なら椛に任せても平気だが、ついつい手持ちぶさたにやってしまった。椛にはかわりに布団の準備をさせたが、せがまれた靴下を与えたのはこの時である。
湯から上がった文は、炬燵のある部屋で新聞の執筆をはじめた。今年最後の発行分である。椛がそれを興味深そうに見ている。
ひとつひとつの動作を間近で見られては、胸の奥もくすぐったくなるけれど筆の滞ることはない。むしろ期待に応じてやろうと、すらすらと書き上げていくうちに、しかし椛が舟を漕ぎはじめた。
「眠いのなら部屋に戻りなさい」
「まだ眠くありません」
「変な意地を張らないの」
「最後までご一緒します」
「無理して付き合わなくていいのよ。今晩で終わるかもわからないし」
「それなら、今晩はここで寝ます」
「いけません、風邪をひきたいの?」
「お布団は冷たいから嫌です」
「最初だけじゃない。それに湯たんぽだってあるんだから」
「足下は冷たいままです」
「わがままを言わないで、そのくらい我慢しなさい」
「射命丸様の頑固者」
「もう好きにしなさい」
文を根負けさせたことに調子づいたのか、椛はそれまでの黙視をやめて、あれこれと質問を繰り返すようになった。なかんずく写真についての問いかけが多かったのは、字を苦手とするからであろうか。被写体を指さしてみては、これはなに、それはなにと朗らかに笑うのだ。
だが、それも束の間のことだった。満たされる好奇心は、お腹の満てることにも通じるらしく、やがて椛は心地良さそうな寝息を立てはじめた。
「寝るなと言ったのにね」
ため息まじりにこぼしながらも、文の言葉の端には弾んだものがあった。部屋に運んでやろうと抱き上げれば、無意識のはずなのに抱き返された。眠った時の方が器用らしかった。
久しぶりに腕で感じる椛は、以前となんら変わりない。背丈のわりに引き締まった肉感と、頬にまばらに残る古傷。それらがしきりに鹿の仔を思わせてくる。普段であれば、これに土や草木の気配もただようのだから、いよいよ幼獣じみたものになる。
しかしながら、今宵の椛から立っているのは清潔な石鹸の香りである。二度目の湯浴みの時に、文が大掃除とばかりに思いっきり洗ってやったのだ。抵抗する椛を頭まで湯船に沈めてやり、尻尾の先までくまなく全身を白く泡立てるのには骨も折れたが、それ相応の効能もあるようで。
「文句があるなら今のうちよ」
耳もとでささやいてやるも、むろんのこと椛からの返事はない。いたずらに揺すってもみたが、心地良さそうな寝息に、耳朶を撫でられるだけであった。
椛は本当によく寝入っていた。部屋に運んでやる途中に、廊下の角に勢いよく頭をぶつけもしたが、寝息の乱れることすらなかった。あれほど嫌がっていた布団に寝かせたさいにも、特に眠りを浅くした気配はなく、文は安堵のため息をついた。
「おやすみなさい、椛。寒くないでしょう?」
ぶつけて赤くなった椛の額を、文はひと撫でしてから去ろうとするも。
「うん?」
いつの間にか、褞袍の袖口を椛につかまれていた。
「これは困りましたね」
指先だけの引き留めながらも、ふりほどくことはできなかった。口の端を緩めた文は、しばらくこのわがままに付き合うことにした。厚着をしていても冷える寝室だが、胸には真綿のようなあたたかさが満ちていた。
そのまま手遊びに手櫛を入れていると、椛の枕元に靴下が置いてあることに気付いた。そして、そこには手紙らしきものが添えられていた。
窓から差し込む月明かりを頼りに、それを声にして読んでみると。
「射命丸様と遊ぶ時間」
椛の粗雑な字でそう書かれていた。
「なんでしょうか、これは」
思い当たるものといえば、まずは七夕の日に飾る短冊であった。それに続くかたちで思い浮かんだものは、馴染みはうすいが耶蘇教徒の俗習である。これに文は即座の確信を得た。
「面と向かって言えばいいのに」
それをつぶやく口もとには、隠しきれないほどの笑みが咲いていた。見れば、椛の寝顔も心持ち満足気になったようで、袖口をつかんでいた指も離れていた。
文は椛の額を指先でやわらかく弾いてから、炬燵のある部屋へと戻った。記事を書き上げて、年末年始を椛と遊んで過すために。
……犬走 椛よりも不器用な天狗を、射命丸 文は今も昔も知らない。
犬走 椛よりも不器用な天狗を、射命丸 文は今も昔も知らない。
包丁を使わせれば指に包帯を巻くことになるし、針を持たせれば糸を通すことができない。洗濯板で洗濯などやらせれば、あっという間に真新しい装束が雑巾になる。むろん、泣く泣くそれを縫うのは文である。引き出しには色とりどりの雑巾が並んでいる。
筆記具だって椛はろくに扱えない。毛筆は数日を経ずして毛先が乱れてしまうし、硯や文鎮なども物の見事に真っ二つに割れる。むろんのこと、字だって稚拙なもので、平仮名すら危ういものがある。わけても「と」と「て」あるいは「で」の書きわけが下手なのは、いかようにしたものであろうか。明らかに書き損じていることすらある。
しかも、筆記具が毛筆から万年筆となると、道の扱いや字の巧拙どころか、刃傷沙汰になるのだから恐ろしい。文が目を離した隙に、椛は筆先で腕を切って血をだらだらと流してみせる。血相を変えた文が手当をはじめると、ようやく椛はただ一言だけ痛いと呟くのだ。
「足袋をくださいな」
そのあまりに場ちがいなお願いは、二人そろっての夕食の席でのことだった。
文は多少の気を取られながらも、箸を止めることなく聞き流した。たわ言に耳をかすよりも、目の前にある焼き魚の身をほぐすことが重要であった。食卓を兼ねる炬燵のなかで、椛に足を蹴られるが知ったことではない。
とはいえ、文が熱心に身をほぐしている魚は、椛が捕まえてきたものである。しかしながら、椛は釣り道具を持っていない。縫い針に糸を通せないのと同じく、釣り針に餌を刺せない椛である。よしんばできたとしても、釣り竿を折らずにはいられないだろうし、釣った魚から針を外すこともできないからだ。
それではどうやって捕まえたのか想像するに、耶蘇教の儀式がそうであるように、真冬の渓流に飛び込んだのだと判じえた。事実、椛の切りそろえられた前髪は、帰宅の時に氷柱を垂らしていた。文はあわてて湯浴みをさせたが、そのさいに、洗濯籠へ出された装束が凍っていなかったのは、律儀に脱いでもぐったからであろうか。
さらには七輪で魚を焼いたのも椛である。湯浴みで身体を温めたあとに、わざわざ屋外に出たがることが不思議でならなかったが、文はそれを最初から最後まで見守った。風を操って火を起こしたのが文であれば、最後に火の始末を確認したのも文である。椛が不用意に七輪に近づきすぎて火傷をせぬよう、その首を猫つかみもした。
このあまりに過保護な態度には、ちゃんと由縁がある。そもそも椛が文の住処で寝泊まりしているのは、椛の古巣が火事で焼け落ちたからである。
椛が言うには、秋刀魚を焼いていたら、家も一緒に焼けたとのこと。それが直接の原因となり、近所の白狼天狗たちから、遠くに引っ越すよう懇願されたと言う。
さらに聞くところによると、どうやら椛は赤々と焼ける自宅を背にして、生焼けの秋刀魚を頭からかじっていたらしい。耳にするだけでも異様な状況を、実際に目の当たりにした近隣住民たちは気の毒の一言である。恐ろしさのあまり、椛を追放しても不思議はない。
「足袋をくださいってば」
そして、三度目の正直と言わんばかりに、椛が声を張り上げた。無視をされつづけて、さすがに機嫌を悪くしたのか、炬燵のなかで文の足を蹴る力もましている。
「もう駄目にしたの? このあいだ新しくしたばかりじゃない」
視線を手元に残したまま、やはり文は箸を止めることもせず口だけで応じる。焼き魚の身は十分にほぐせたが、細かな骨は残っている。それらを神経質に取り除いているのだ。
「ちがいます、あれはまだまだ現役です」
「そのまま年明けまでもってくれるかしらね」
「あと一週間だけなら余裕ですよ」
「最短記録は五日でさようならじゃない」
「足を通す前に破いたこともあります」
「まったく自慢にならないわ、それ」
鼻で笑いながらも、最後の小骨を取りおえた。見た目はかなり崩れてしまったが、これで椛が喉に骨を引っかける心配はなくなった。
「ほら、椛。食べてごらん」
「見た目が残飯なんですが」
「誰のためだと思っているので」
「子ども扱いはよしてください」
「そうね、引っかかった骨を取ろうと喉に手を突っ込むなんて馬鹿な真似、子どもだってしませんよ」
「ちゃんと骨は取れました」
「自慢にならないからね、それも」
などと諭しながら、文はようやく自分の魚に箸を付けた。椛の魚をほぐしてからとはいえ、十分に焼きたてである。皮はぱりっと小気味良く裂けるうえに、ほぐした身からは白い湯気がほのかに立つ。白米といっしょに口にふくめば、自然と目がうすく細められた。本当にただ塩をまぶして焼いただけであるのに、炊きたての白米の甘さと、おどろくほど相性が良かった。味付けはやや塩辛いけれども、多めに作った大根雪を思えば好ましい。大根雪が真っ白なままで、醤油がないのはそのためである。
そして、椛に味の同意を得るのに言葉はいらなかった。普段は隠している狼耳と尻尾が、誰の目にもあらわになっている。白くてふんわりとしたそれらは、文の好むものである。
これに機嫌を良くした文は、椛の願いを聞き入れてやる気概になった。もとより足袋の一足や二足、求められて困るような身分ではない。
「箪笥に新しいのが何足かあります。好きなのを使いなさい」
「なんですか、いきなり」
「だから、足袋の話でしょ」
「あっ、そうでした。足袋です、足袋をくださいな」
「うん、だからね。箪笥にあるから取りなさいと言っているの」
「でも、新しいのはいりません」
「またわけのわからないことを」
「射命丸様のが欲しいのです」
当然のように言い放つ椛だが、文を怪訝にするだけであった。
「どうして、私のなのよ?」
「秘密です」
「それであげられると思うの?」
「けちんぼ」
「もう絶対にあげない」
「うそです、ごめんなさい」
「だったら、理由を言いなさい」
「嫌です、秘密です」
「わがままを言わないの」
おいそれと服飾をわたせるほど、文は不用心ではない。椛のことだから悪用の心配はないが、やはり得体の知れぬ気味の悪さはある。
「そもそも足袋なんて、もう使っていませんよ。箪笥にあるのだって、ぜんぶ椛のために買った物だし」
「それなら靴下をください」
「だから、あげないって。ちゃんと理由を言いなさい」
「理由は言えません」
「やましいことなの? だから言えないの?」
「ちがいます」
「それなら言えるはずよね」
「……もういいです、忘れてください」
あと一歩で口喧嘩というところで、なんの前触れもなく椛が折れた。ただし、それは妥協ではなく諦めである。忘れて欲しいという言葉には、普段にはない落胆する調子があった。
日頃の失敗や怪我には平然とふるまう椛だが、こういった時ばかりは、やわらかな本心を垣間見せる。不器用なことこの上ないが、それを見る者の胸に訴えかける作用はあるようで。別段に悪いことをしたわけでもないのに、どうしてか文の胸はちくりと痛んだ。
「捨てるつもりのお古でいいなら……」
文は靴下を手放すことを決めた。せっかくの夕飯が、このままでは台無しになりかねない。そうした建前をこしらえて、本音は自分自身から遠ざけた。
しかし、その倒錯的な庇護欲と過剰な甘さを、自覚しない文ではない。靴下はまだ新しいのだ。
「それでいいならあげましょう」
「本当ですか」
「こんなことで、うそは言いません」
「ありがとうございます、射命丸様」
「わかったから、ちゃんとご飯を食べなさい。それからですよ、あげるのは」
「はい」
犬食いとはよく言ったもので、椛はあっという間に、文のほぐした魚を平らげてしまった。
夕食後にも二人は炬燵のなかにいた。
けれども、その装いは大きく異なっている。夕食時にはそれぞれの天狗装束を着ていたが、今ではおそろいの褞袍(どてら)を着込んでいる。
文の褞袍は秋頃に新調したものだが、椛のものは丈を直しただけの古着で、去年まで文が袖を通していたものである。実のところ椛に与えたお古の服飾は、今宵の靴下で二つ目となる。
椛はといえば、食後に二度目の湯浴みをした。白い髪に染み込んだ炭火の臭いを、文が厭うたのだ。
それゆえに文の湯浴みは、湯を張り直すかたわらに、食器を洗った後になった。皿洗い程度なら椛に任せても平気だが、ついつい手持ちぶさたにやってしまった。椛にはかわりに布団の準備をさせたが、せがまれた靴下を与えたのはこの時である。
湯から上がった文は、炬燵のある部屋で新聞の執筆をはじめた。今年最後の発行分である。椛がそれを興味深そうに見ている。
ひとつひとつの動作を間近で見られては、胸の奥もくすぐったくなるけれど筆の滞ることはない。むしろ期待に応じてやろうと、すらすらと書き上げていくうちに、しかし椛が舟を漕ぎはじめた。
「眠いのなら部屋に戻りなさい」
「まだ眠くありません」
「変な意地を張らないの」
「最後までご一緒します」
「無理して付き合わなくていいのよ。今晩で終わるかもわからないし」
「それなら、今晩はここで寝ます」
「いけません、風邪をひきたいの?」
「お布団は冷たいから嫌です」
「最初だけじゃない。それに湯たんぽだってあるんだから」
「足下は冷たいままです」
「わがままを言わないで、そのくらい我慢しなさい」
「射命丸様の頑固者」
「もう好きにしなさい」
文を根負けさせたことに調子づいたのか、椛はそれまでの黙視をやめて、あれこれと質問を繰り返すようになった。なかんずく写真についての問いかけが多かったのは、字を苦手とするからであろうか。被写体を指さしてみては、これはなに、それはなにと朗らかに笑うのだ。
だが、それも束の間のことだった。満たされる好奇心は、お腹の満てることにも通じるらしく、やがて椛は心地良さそうな寝息を立てはじめた。
「寝るなと言ったのにね」
ため息まじりにこぼしながらも、文の言葉の端には弾んだものがあった。部屋に運んでやろうと抱き上げれば、無意識のはずなのに抱き返された。眠った時の方が器用らしかった。
久しぶりに腕で感じる椛は、以前となんら変わりない。背丈のわりに引き締まった肉感と、頬にまばらに残る古傷。それらがしきりに鹿の仔を思わせてくる。普段であれば、これに土や草木の気配もただようのだから、いよいよ幼獣じみたものになる。
しかしながら、今宵の椛から立っているのは清潔な石鹸の香りである。二度目の湯浴みの時に、文が大掃除とばかりに思いっきり洗ってやったのだ。抵抗する椛を頭まで湯船に沈めてやり、尻尾の先までくまなく全身を白く泡立てるのには骨も折れたが、それ相応の効能もあるようで。
「文句があるなら今のうちよ」
耳もとでささやいてやるも、むろんのこと椛からの返事はない。いたずらに揺すってもみたが、心地良さそうな寝息に、耳朶を撫でられるだけであった。
椛は本当によく寝入っていた。部屋に運んでやる途中に、廊下の角に勢いよく頭をぶつけもしたが、寝息の乱れることすらなかった。あれほど嫌がっていた布団に寝かせたさいにも、特に眠りを浅くした気配はなく、文は安堵のため息をついた。
「おやすみなさい、椛。寒くないでしょう?」
ぶつけて赤くなった椛の額を、文はひと撫でしてから去ろうとするも。
「うん?」
いつの間にか、褞袍の袖口を椛につかまれていた。
「これは困りましたね」
指先だけの引き留めながらも、ふりほどくことはできなかった。口の端を緩めた文は、しばらくこのわがままに付き合うことにした。厚着をしていても冷える寝室だが、胸には真綿のようなあたたかさが満ちていた。
そのまま手遊びに手櫛を入れていると、椛の枕元に靴下が置いてあることに気付いた。そして、そこには手紙らしきものが添えられていた。
窓から差し込む月明かりを頼りに、それを声にして読んでみると。
「射命丸様と遊ぶ時間」
椛の粗雑な字でそう書かれていた。
「なんでしょうか、これは」
思い当たるものといえば、まずは七夕の日に飾る短冊であった。それに続くかたちで思い浮かんだものは、馴染みはうすいが耶蘇教徒の俗習である。これに文は即座の確信を得た。
「面と向かって言えばいいのに」
それをつぶやく口もとには、隠しきれないほどの笑みが咲いていた。見れば、椛の寝顔も心持ち満足気になったようで、袖口をつかんでいた指も離れていた。
文は椛の額を指先でやわらかく弾いてから、炬燵のある部屋へと戻った。記事を書き上げて、年末年始を椛と遊んで過すために。
……犬走 椛よりも不器用な天狗を、射命丸 文は今も昔も知らない。
さてさて、文の運命は如何に…
文の運命期待してもいいですか!
ちくしょう、完全にやられたッ・・・!
母娘のようなあやもみかわいい
面倒みている文もホントにお母さんみたいで、優しい雰囲気の作品でした
好きです。こういう話。
こんなんに刀剣持たせてたら自分の胸に突き刺して、ざんねんわたしのぼうけんはここでおわってしまったになりかねないのだが。
いたいけでありながらダーティでタフネス、しかしキュートな椛とか、良かったです。
文さまには健闘を祈る。