Coolier - 新生・東方創想話

剣士、冥にて時の瞳、境界の瞳と邂逅すること

2012/12/17 23:51:37
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※この作品は、作品集152『庭師、山にて白狼天狗と相対すること』の設定を引き継いでいます。





 りりりと鳴くは鈴虫か。夜空に浮かぶは星と、月と、白い雲。
 秋の夜長の丑三つ時。
「二時七分二十三秒――」
 闇の中、ぽつりと響く声があった。
 日本某所の住宅街。辺りに他の人影はなく、通りを行くは、声の主と、もう一人だけ。
「ねえ、蓮子」
 そのもう一人のほう――少女が声をあげた。ぽつり、ぽつりと道端に並ぶ街灯のぼんやりとした光を受けて、緩くウェーブのかかった金の長髪がキラキラと輝く。
 金髪の少女は、振り返ることなく前を歩くパートナーに並ぶべく足を早め、
「どうして、また蓮台野なの?」
 その横顔を覗き込みながら問いかけた。
「いくのよ」
 対して、問われたほう――蓮子と呼ばれた少女は、前を見たまま歩調を緩めることなく答えた。肩で適当に切りそろえられた黒髪と、その上のホンブルグハットに付いた白いリボンが歩みにあわせて忙しなく揺れている。
 何をそんなに急いでいるのかしら? そう思いながら、少女は問いを重ねた。
「行くのは分かっているわ。私は理由を聞いてるの。
 ねえ、蓮子。どうして、また蓮台野に行こうなんて言い出したの?」
 と、ようやく蓮子は歩調を緩めた。歩幅をあわせて蓮子はこちらを見る。
「行くのは蓮台野で間違いないわ。でも、今回はその“先”まで行くわよ」
「“先”って、」
 その言葉の意味は。
「まさか……!」
 目を瞠る少女に、蓮子は不敵な笑みを浮かべて頷いて。
「そうよ、メリー。今度は、あの境界の向こう――冥界まで逝くわよ!」





 メリーと蓮子、二人だけのオカルトサークル“秘封倶楽部”。その活動内容は、各地のオカルトスポットへ足を運んで、その地に潜む“境界”を覗き見ること。
 “境界”から見えるものは、この世界とは全く異なる世界。あるいは過去、あるいは未来。あるいは天国、あるいは地獄。
 あるいは……
「まさか、いきなり心中宣言されるとは思わなかったわ……」
 かつて蓮台野の墓地で見た境界の向こう側。淡く輝く桜が一面に咲き誇る世界。そこは、死者の住まうところ――冥界だと謂われていた。
 蓮子は、そこに逝こうとしているのだ。しかも自分を連れて。
 頬に手をあて、慄くメリーに、しかし蓮子はぱたぱたと手を振って。
「心中なんて人聞きの悪い。“逝く”は言い過ぎたわ。もちろん、あの中に飛び込もうなんて考えてないわよ。ちょっと手を突っ込んで、向こう側のものを何か取れないかと思ってさ」
「境界の向こうにあるもの取るなんて、危ないんじゃない?」
「あ、それメリーが言っちゃうんだ……」
 蓮子は脱力した様子で呟いた。
「メリーだって色々持ってきてたでしょ?」
「まあ、そこはそれ、成り行きで」
「成り行きで数千キロメートル地下にある貴重なプレートを取ってこれるのかしらね」
 メリーの眼は、一般人には見えない境界を視ることができる。そういう能力……だったはずだ。かつては。
 しかし最近は能力が変化して、夢の中に入り込み、その不思議な世界にあるものを“こちら側”に持ち帰ったり、あるいは空の遥か彼方、宇宙で行方知らずとなった衛星に足を踏み入れることもできるようになっている。
 メリーには、自分の能力が何なのか分からなくなっていた。
「とにかく、よ」
 蓮子は視線を正面に戻して、それから少し顔を上げて。
「二時十分四十二秒。メリーだけ色んなところに行けて、私はお留守番とか、疑似体験しかできないのはずるいと思うの」
「ずるいって言われてもねぇ」
 “向こう側”に行けるというのも、良いことばかりではない。一時期のメリーは“こちら側”と“向こう側”を行き来しすぎて、夢と現の区別が曖昧になっていたこともあるし、衛星トリフネに行った時などは現地の化け物に襲われ、怪我を負って入院までしている。
 言外に込められた意味を承知しているのか、蓮子は視線を下げて節目がちになりながら、
「危ないことだっていうのは分かってるつもり。でもね、」
 蓮子はそっとメリーの手をとって、
「私はメリーと一緒に喜びやワクワクを分かち合いたい。そして、それと同じくらい、メリーの感じた痛みや苦しみ、恐怖も知りたい」
 だってさ、と蓮子は照れくさそうに微笑む。
「私たちは、二人でひとつの秘封倶楽部でしょ?」

 とくん。

 心臓が、跳ねた。
 ――……まったく、
「素なのかしらね、この子は」
「え?」
 いつも、こうやって恥ずかしい台詞をさらりと言ってのける。
 蓮子は分かっていない。自分の言葉が、どれだけメリーの心を揺さぶっているのかを。その一挙手一投足に至るまでが、メリーの胸を高鳴らせていることに。
 ――ああもうっ、蓮子はかわいいわね。
 内心で身をくねらせつつ、メリーは繋いだその手を握り返して、
「まったく、しょうがないわね」
 大げさに肩をすくめて見せながら、歩調を速めて蓮子の手を引く。
「そこまで言うなら、知ってもらおうじゃない。身の安全は保障しないわよ?」
「やった! ありがとメリー! 大好きっ!」
「はいはい」
 蓮子のハグを受け止め、メリーは呆れた風を装った。





「たしか……こんな感じだったかしら? 蓮子、それも引っこ抜いちゃって」
「わかったわ」
 蓮台野の墓地。その一角にぼんやりと光があった。明るさを抑えた旧式のオイルランプの灯に照らされて、辺りの墓石に少女たちの影が張り付いている。
 ――まさか、また墓荒らしの真似事をする羽目になるなんてね。
 蓮子と二人で件の――冥界への境界を開くきっかけとなったであろう墓石をいじくり回しながら、メリーは内心でひとりごちた。
 この辺りは彼岸花が多い。薄闇の中にぼんやりと浮かぶ真紅は、とても気味が悪かった。だが仕方ない。この蓮台野で、彼岸花が一番多く生えている場所にある墓の近くが、冥界の入り口なのだから。
 他の墓石も古臭いが、この墓石は殊更に古いものに見える。苔むし、黒ずみ、所々が長い年月を経て朽ち、欠けている。もう手入れをする人もいないのだろう。そのせいで、辺りには雑草や彼岸花が生え放題なのだ。
 いったいこれは誰の墓なのか。墓石には仏の名前が記されているように見えるが、それもにじんで読めなくなっていた。
「蓮子、オッケーよ。そんな感じ」
 墓石と、その周囲の状態を確認しながらメリーは言う。これで、あの時と同じような状態になった……と、思う。
 卒塔婆を何本か引き抜いて、かなり前に供えられたまま放置されてしまったのであろう、枯れた花の活けられた花瓶の位置をずらして。
 あとは……
「蓮子、時間は?」
 問いに、蓮子は持っていた卒塔婆を無造作に放りながら空を見上げて、
「――二時二十八分五十三秒」
「間に合ったわね」
 残された工程はひとつ。
 蓮子が墓石に手をかけた。メリーも隣に並んで、左手は墓石に、右手は蓮子の手の上に乗せて。
「ねえ、蓮子」
「なに?」
「楽しい?」
「もちろんよ! メリーは楽しくない?」
 問い返す蓮子の表情に、メリーは安堵する。
「いいえ、とても楽しいわ」
 最近の蓮子は、たまに思い詰めたような顔をしていた。理由は、たぶん分かってる。メリーの能力のことだ。
 もともとは、ただ観測するだけの能力。それがいまでは、その奥、さらに奥まで踏み込んだものになっている。ゆえに、衛星トリフネで傷を負い、未知の病原菌に冒されてサナトリウムで療養することになったのだ。
 その特異な能力ゆえの、嫉妬や忌避とは違う。蓮子はそんなやつじゃない。ただ、ひとえに自分の身を心配してくれているのだろうと、メリーは思っている。いまやこの能力は、決して安全なものではないから。それによって怪我をしてもなお、自分が能力を使っているから。
 ――だって、しょうがないじゃない。
「……十五」
 蓮子がカウントダウンを始めた。メリーはその横顔を見つめ。
 ――蓮子が楽しそうなんだもの。
 “向こう側”で見たことを話したり、持って帰ってきたものを見せたりすると、蓮子は子供のように喜び、はしゃぐのだ。
「十二、十一、」

 だから、
 
『十、九、』

 一緒にカウントダウンを始めたメリーを、蓮子は見た。微笑みかけると、蓮子は不敵な笑みを返して。

『七、』

 だから、この能力を躊躇いなく使える。親友のためなのだから。

『六、』

 ――必ず私が境界を見つけるから。

『五、』

 そして二人は頷きあって。

『四、』

 ――見つけて、貴女を導くわ。

『三、』

 墓石に添えた二人の手に力がこもる。

『二、』

 そしてゆっくりと墓石を動かして、

『一、』

 時計回りに九十度ほど回転。

『二時三十分ジャスト!』

 声をあげると同時に、二人の眼前に鮮やかな桜色が広がった。










 …………










 はらり、はらり。
 舞い散る木の葉は、ただただ紅く。夜闇の中でぼんやりと、その色を地に落として。
 手にした行灯に照らされた焦げ茶色の地面には、紅く色づいた木の葉が所々に落ちている。しかし、踏みしめた落ち葉に音はなく。物言わぬまま、その身を歪ませた。
 音のない世界。
 五感のひとつ、聴覚を奪われたわけではない。“この世界”の住人は、一部を除いて皆、音や声を発しないのだ。
 植物も、虫も、獣さえも。身体を失い、霊体として転生の時を待つ場所、冥界。
 ――こうも静かなのは、やはり慣れないな……
 紅い高下駄で踏みつけてしまって、音もなくくしゃくしゃになった紅葉を見下ろして椛は内心でひとりごちた。
 彼女が籍を置く妖怪の山は、いつも賑やかだ。山を降る九天の滝は、休むことなく大地に潤いを告げ。風が舞い、草木が歌う。そして虫は草葉を食み、小動物がそれを捕食し、肉食獣がそれを食い千切り、やがて命を終えた獣は大地に横たわり土へと還る。
 昼夜を問わずに行われる命の螺旋。たとえ静寂に思えても、妖怪の山はいつでも生命の謳歌に満ちている。
 比べて冥界のなんと静かなことか。
 何ひとつとして音を、声を発することなく。もとより全員、肉体を持たぬがゆえに心臓の鼓動さえ必要はなく。肉体を持たぬがゆえに食を必要とせず。
 完全な無音――死の静寂とは、まさにこのことか。
 この世界でいま、音を出しているのは一人と半分だけ。
 一人は彼女、犬走椛。彼女は霊体ではなく、肉体を持った妖怪――白狼天狗だ。
 そして残りの半分は、
「椛、なにしてるんですか?」
 前を歩いていた少女が振り返った。肩で切り揃えられた銀の髪と、黒のリボンが静かに揺れる。
 真っ白な着物に身を包み、背と腰に一振りずつ刀を携えた少女。透き通るような白い肌、その頬は、いまはほんのりと紅潮していて。
「ん。いや、なんでもない」
 その格好が死装束に見えたからだろうか、随分と血色の良い死体だな、などと失礼なことを考えながら、椛は歩みを再開した。
「……もしかして、酔ってます?」
 少女はいたずらっぽい笑みを浮かべて問うた。同時に、少女の傍らにいた大きな霊魂が、椛のほうへと飛んでくる。そして様子を窺うように椛の周りをうろうろと飛んで。
「ほう……聞くが妖夢、私がお前よりも早く酔ったことがあったか?」
 天狗とは、基本的に酒に強い種族だ。人間は愚か、大抵の妖怪と飲み比べたとしても、あまり負けることがないほどの。天狗に酒で勝てるものは、鬼か、それに並ぶほどのウワバミでなければならないだろう。もちろん、椛もその例に漏れることはなく。天狗の中で見ればそれほど強いとは言えないが、それでも半人前の少女より先に酔うほどではない。
 椛が半眼の笑みを浮かべながら問いで返すと、妖夢は「冗談ですよ」と言って苦笑した。
 冥界に音をもたらしている、残りの半分。それが彼女、魂魄妖夢だ。
 妖夢は人間と幽霊のハーフ――半人半霊と呼ばれる種。先ほど椛の周りを飛んでいた霊魂は、彼女の半身なのだ。
 半分は人間、半分は幽霊という稀有な存在。ゆえに、音は、自分と合わせて一人と半分。
 かつて妖怪の山で相対した二人の剣士はいま、友として交流をしている。今宵の椛は妖夢の誘いを受け、連休を利用して冥界まで泊りがけで遊びに来ていた。
 ここは、妖夢の勤め先であり住居でもある、冥界の管理人が住まう屋敷、白玉楼、その裏手の敷地内である。
 夕方に白玉楼を訪れた椛は、妖夢と軽く剣を振るった後、湯浴みをして汗を流してから夕食を馳走になった。いつもは、食事の用意は給仕の霊が担当しているらしいが、今夜は妖夢が腕を振るってくれた。とは言え、台所に立つ機会は多いのか、彼女の料理はたいそう美味で、椛は何度も舌鼓を打った。
 そして、妖夢の部屋に戻って二人で酒を遣っていた時、妖夢がふと思い出したかのように立ち上がって、
「ちょっと、外に出ませんか?」
 と言ったのだ。
 断る理由もなく、妖夢について白玉楼の庭園をのんびり歩いて、いまである。
 こちらが追いつくのを待ってから再び歩き出した妖夢は、両手に荷物をぶら下げていた。片方は風呂敷に包まれた、酒の入った徳利と銚子。もう片方は、竹製の小さな籠。籠には白い布が被せられていて、中身を見ることはできなかった。
「この辺でいいかしら」
 やがて妖夢はそう呟くと、足を止めた。合わせて椛も足を止めて、
「――ほう、これは……」
 感嘆の声をあげた。
 正面にそびえる木は、周囲に植えられているものより遥かに太く、背の高いものだった。しかし、この大木には葉がない。季節は、まだ秋の中ごろである。葉が全て散るには早すぎる。
「噂には聞いている。これが“西行妖”か」
「はい」
 かつて、現世で多くの人間を死に誘ったと謂われる妖怪桜だ。いまは冥界に封印されているため、植物としての季節の移り変わりさえもなく、枯れたような状態なのだろう。
 西行妖を見上げていると、妖夢が椛の肩を叩き、
「用があるのは、こっちの方ですよ」
 その隣に植えられている桜を示した。
 こちらの桜は、普通の桜の霊のようだ。紅葉に色づいている葉や、既に時期を過ぎて枯れてしまった茶色い葉を半ば近くつけている。当然、花など咲いていない。
 こんな所につれてきて一体どうするつもりなのかと思っていると、妖夢が籠にかけていた布を取った。
「それは?」
 籠の中には布が一枚敷いてあり、その上に淡く輝く桜色の粒子があった。妖夢はそれを、少しだけ物憂げな表情で見つめ、
「椛は……春雪の異変を覚えていますか?」
「ああ。いつだったか、寒い時期がやたらと長く続いた年があったな。あれは確か……」
 と、椛は気が付いた。
 あれは確か、幻想郷中の春が奪われるというものだったと。そして、異変の首謀者は冥界の亡霊姫だったと。
 亡霊姫――即ち、冥界の管理人にして白玉楼の主、西行寺幽々子のことである。当然、彼女に仕える妖夢がそれに関与していないことなどなく。
「これは、あの異変のあとに幻想郷へ返しそびれた“春”なんですよ」
 かつての異変の名残を見つめて、妖夢は言う。
「屋敷の掃除をしていると、たまに出てくるんです。箪笥の隙間とかから」
「そんな煤けた春があるか」
 反射的に突っ込みを入れつつ、椛は“春”をまじまじと見つめた。顔を近づけると、その温かな輝きは春の木漏れ日のようで。麗らかな山の風景が椛の脳裏をよぎった。
「まあまあ。ちょっと、これ持っててください。これが本当に“春”だという証拠をお見せしましょう」
 妖夢は銚子と猪口の包まれた風呂敷を椛に渡すと、籠の中に手を入れて“春”を一掴み。傍らに寄ってきた半霊にそれを乗せた。頭(?)の上に小さな“春”山を形成した半霊は、ふよふよと桜の木の上まで移動して。
 そして、
「枯れ木に花を、咲かせましょうー」
 その身を震わせて、まだ紅葉の残る桜に振りかけた。
「この台詞って何でしたっけ?」
「“花咲か爺さん”だな」
「げ、おじいさんの台詞でしたか。じゃあ、いまのなしで」
 妖夢に風呂敷を返して、椛は再び桜へと視線を戻す。
 と、
「……なんだと?」
 変化は既に始まっていた。
 “春”を振りかけられた桜は、その枝という枝の先端につぼみをつけ始めたのだ。
 やがてつぼみはひとつ、またひとつと花弁を開き、
「…………」
 瞬く間に、満開の桜が椛の目の前にそびえることとなった
 唖然と口を開く椛を見て、妖夢はくすくすと笑う。
「私が振りかけた“春”が、この桜を開花に導いたんですよ」
「あ、ああ……これが“春”の力、なのか……」
 妖夢の言葉にろくな返答もできず。
 ほんの一掴みである。木の大きさに比べれば、あまりにも少量の“春”だ。だが、
 ――それだけで、こうも見事な桜を拝むことができようとは。
 これだけの力を持つ“春”を集めて、果たして西行寺幽々子は何をしようとしていたのか。異変の詳細を知らない椛には想像もつかなかった。
 と、その眼前に猪口が差し出された。妖夢は少し“してやったり”と言いたげな笑みを浮かべていて。
「さあ椛、呑みましょう! 冬を通り越して花見酒を先取りですよ!」
「……しかし、勝手に使ってもよかったのか? それは幻想郷の“春”なのだろう?」
 これが本当に幻想郷の“春”ならば、それは幻想郷に返さなければならないのではないか。冥界で使っていいものではないはずだが。
 しかし妖夢は笑みのまま。
「ええ。これは過去の“春”ですから。年が変われば、また新しい春が生まれます」
「ふむ……そういうものなのか」
 そう言うのであれば、本当に問題はないのだろう。ならば、季節はずれの花見酒を存分に楽しませてもらおうと、椛は猪口を受け取った。
 その時、

 ぎしり。

『!?』

 何かが軋むような、嫌な音が響いた。
「妖夢、この音は?」
「分かりません!」
 辺りを見回しながら問う椛に、同じく見回しながら妖夢は答えた。
 この場に妖夢と椛以外の“何か”がいる。音をたてている以上、霊の類でないことは明らかだ。椛は猪口を懐にしまい、妖夢は風呂敷と籠を半霊に引っ掛けてどこかに運ばせた。

 ぎし、ぎし。

 そして妖夢は背の長刀――楼観剣を鞘ごと椛へと手渡す。普段は幅広の大太刀を扱っている椛にとっては少し心許ないが、無いよりはマシである。
 椛は左手に行灯と一緒に楼観剣の鞘を持つと、右手で柄を握って抜き放つ。夜闇の中、灯りに照らされ輝くは、妖怪が鍛えたとされる白銀の刃。
 ――相変わらず、良い刀だ。
 その刀身に曇りは無く、きちんと手入れをしているようである。庭木の剪定という、一言もの申したくなるような使い方をしているらしいが。

 ぎし、ぎしり。

 音の出所がつかめない。この辺り一帯から響いているかのようだ。
 妖夢がもう一振り――腰の短刀、白楼剣を抜き放つのを確認してから、椛は妖夢と背中合わせに立って構えた。
「妖夢、位置は分かるか?」
「いえ……」
「油断するなよ」
「はい」

 ぎし、ぎし、ぎし、ぎし。

 音は変わらず鳴り響き。

 ぎしりぎしり、ぎしりぎしぎしぎしぎし。

 徐々に勢いを増し。

 ぎしりッ!

 ひときわ大きく何かが軋んだ、その瞬間。
「椛!」
「そっちか!」
 妖夢の鋭い呼び掛けに振り向けば、開花した桜の幹に大きな亀裂が入っていた。
「な、なんだこれは!?」
 しかし、それはただの亀裂ではなかった。目の前の異様な光景に、椛は驚愕の声をあげる。
 ばっくりと開いた亀裂、その奥にあるのは木目などではなく、謎の空間。淀んだ紫色をぶちまけ、いくつもの目玉を浮かび上げた、そんな空間。
「これは……スキマです!」
 構えを解かぬまま、妖夢が声をあげた。
「“スキマ”?」
「はい。妖怪の賢者、八雲紫様が使われる能力です。“境界を操る程度の能力”を持つ紫様は、空間の境界を操作して遠距離の移動を一瞬にして行えるのですが、その時に現れる“扉”のようなものが、あのスキマです」
「つまり、あれは八雲紫が開いたものだと?」
「それは分かりません。でも、紫様がスキマを使われる時は、こんなにうるさくないです。もっと静かです」
「そうか……」
 どちらにせよ、油断はできない。椛は背後にも気をかけつつ、スキマを注視した。
 淀んだ紫色は絶えずたゆたい、目玉が揺れる。見れば見るほど気味の悪い空間だった。
 と、

 ぁぁぁ……

「椛!」
「ああ。これは……」
 声が聞こえた。今度は方向まではっきりと分かる。
 スキマの中からだ。

 ぁああ……!

 声が少しずつ大きくなるにつれて、二人は身を引き締めた。
「というか……」
 しかし、妖夢は呟きながら構えを緩めて、
「これ悲鳴ですよね」
「……うむ」
 頷き、椛も構えを解いた次の瞬間。

『きゃあああぁぁぁ!!』

 スキマの中から人影が二つ吐き出され、地面にべしゃりと激突した。
「……」
「……」
 顔を見合わせ、妖夢と椛は黙してしばし闖入者を眺め、
「あいたたた……」
 やがて片方――黒のスカートに白いブラウス。白いリボンの付いた黒い帽子を被った黒髪の少女が頭を振りながら身を起こした。
「ちょっと、メリー? 大丈夫?」
 黒髪少女は片手で頭を押さえつつ、未だに動かない少女の身体をもう片方の手で揺する。
「んん……大丈夫よ、蓮子」
 やがてもう片方も身を起こした。こちらは紫の長袖ワンピースに身を包み、白いフラワーハットを被った長い金髪の少女だ。
 金髪少女は乱れた髪を整えることもせず、ぼんやりと黒髪少女を見つめ、
「蓮子、境界は……?」
「あ!!」
 その呟きに、黒髪少女が弾かれるように背後を見た。少女の視線の先、桜の幹に刻まれたスキマは、いつの間にか随分と小さくなっていた。
「あっ、ちょっと!」
 黒髪少女が慌てて手を伸ばすが、時すでに遅し。少女の手は桜の幹にぺたんと触れるばかりで。
「あああ……」
 くずおれ、うめき声をあげる黒髪少女。
 と、ここまで静観していた椛が、楼観剣を鞘に納めながら口を開いた。
「そろそろいいか?」
 しかし、黒髪少女――蓮子と呼ばれていたか――は、くずおれたままで。かたや金髪少女――こちらはメリーだったはずだ――は、帽子を取って乱れた髪を櫛で梳きながら、のんびりとこちらを向いて、
「どちらさま?」
「いや、それはこっちの台詞……」
 小首を傾げて問う姿に、妖夢が力なく突っ込みを入れた。
「蓮子、蓮子。見て、可愛らしい地獄の獄卒がいるわ」
「いや、私たちは獄卒ではない。ここは地獄でもないし」
 が、気にした様子もなく、蓮子の肩を揺すりながらのメリーの言葉に、妖夢はすかさず訂正を入れて。
「ここは冥界よ」
「ああ……そう、冥界。そうだったわね。
 蓮子、蓮子。見て、可愛らしい閻魔様がいるわ」
「いや、閻魔様でもない」
 妖夢はげんなりと肩を落とし、すがるような目で椛を見た。
「椛、話が進みません……」
「向こうに合わせんでもよかろうに」
 嘆息し、椛が前に出た。未だにくずおれたままの蓮子と、その隣に座り込むメリーの前に片膝をついて、
「こちらの質問に答えろ。お前たちはどこから来た?」
 問うが、しかしメリーは椛の頭部と臀部を興味深げに眺めている。
「あら、可愛い耳と尻尾。コスプレかしら?」
「こちらの質問が先だ」
「……蓮台野の墓地から」
「蓮台野? 妖夢、聞いたことはあるか?」
「いえ、初めて聞く名前です」
「ふむ……」
 妖怪の山から出ることは少なくとも、椛はこれまで己の“千里先まで見通す程度の能力”で様々な土地を見てきた。山に保管されている多くの文献を、知り合いの鴉天狗に押し付けられた新聞を読んできた。
 だが“蓮台野”などという土地は聞いたことがない。
 椛は顎に手を当て思案して、しかし蓮台野については保留することにした。他にも聞かねばならないことがある。
「次の質問だ。先ほどのスキマはなんだ? お前が出したのか?」
「スキマ?」
 メリーは首をかしげて、蓮子をみて、桜の木に目を向けて。
「ああ」
 やがて得心がいったように手を打った。
「境界のことね。あれは――」
「ごめんねメリー!」
 と、蓮子が突然起き上がってメリーに抱きついた。
「私、死んじゃった!」
「蓮子、早まってはいけないわ。私たちは冥界に来ちゃったけど、まだ死んだわけではないはずよ。ほら、だって身体が残っているんだもの」
「いえ、ここにいる時点で死んでいるのと変わらないんですけど」
「ほら死んでる!」
「ちょっと、蓮子いま混乱してるから、もう少しオブラートに包んであげて」
「妖夢、こじれる」
「えー……」
 両側から非難を受けた妖夢は一歩、二歩と後ずさり、
「私、間違ったこと言ってないのに……」
 背を向けて、白楼剣の切っ先で地面に『の』の字を書き始めてしまった。
「……」
 まあ、大人しくしてくれるなら良いかと、しばし妖夢の煤けた背中を眺めてから、椛は再び二人の少女に視線を戻した。
「それで、……いや、いい。単刀直入に聞こう」
 椛は立ち上がり、改めて楼観剣を鞘から抜くと、その切っ先を二人に突きつけた。
「お前たちは、私たちの敵か?」
「て、敵……?」
「……」
 二人は互いに肩を抱き合い、震える瞳で楼観剣を、そしてそれを構えた白狼天狗を見つめる。
「……」
 しばしの間。やがて金髪の少女が口を開く。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「敵では、ありません。子細は省きますけど、私たちは意図してここに来たわけではありませんから」
「……」
 椛の赤みを帯びた黒檀の瞳と、メリーの鮮やかな蒼の瞳が互いの姿を映す。
「私たちも、突然の出来事で混乱しています。帰る方法も分かりません。
 できうることなら……助けてほしいと、そう思っています」
「……」
 その瞳は揺らいでいるが、それでも真っ直ぐに椛と相対しようとしているように見えて。
「……恐れは、ないのか?」
「ちょっと怖いけど、あなたは悪い人ではなさそうなので」
「……」
「……」
 やがて椛は楼観剣を引いた。ちゃきりと、冥界に小さな金属音が響く。
 楼観剣を鞘に納めながら椛は振り返り、
「さて妖夢、どう思う?」
 しゃがみ込んだままの妖夢に問いかけると、妖夢は胡乱な瞳をこちらに向けた。
「え? 私ですか?」
 ちなみに『の』の字は、先ほどよりもくっきりと地面に刻まれていた。
「いつまでいじけているんだ」
「冗談ですよ。そうですね……」
 態度を改め立ち上がり、妖夢は椛から楼観剣を受け取って背負いなおしながら、
「肉体はあるようなので、二人とも何処かから……おそらくは、外界かに飛ばされてきたものと考えられます」
「そうね。私も蓮子も冥界の出身ではないわ」
 なるほど、つまりメリーの言っていた“蓮台野”とは、外界の地名ということなのだろうか。
「なので、お二人には白玉楼に来ていただきます。幽々子様にお話して、今後の処遇を決めるのが妥当かと」
「まあ、そんなところだな」
 冥界の、しかも管理者の住まいである白玉楼の敷地内に突如として現れたのだ。まずは身柄を確保し、上に判断を仰ぐ。相手によってはその場で斬り捨てても良いだろうが、今回はその必要はないだろう。
「拘束は?」
「必要ないでしょう。敵ではないと言っていましたし、見たところ素人です」
「ふむ、そうだな」
 相手の言葉を鵜呑みにすることには賛成できないが、己の見解とほとんど相違ない妖夢の言葉にひとつ頷くと、地面に座ったままの二人に椛は手を差し出した。
「聞いての通りだ。詳しい事情は屋敷に戻ってから聞かせてもらおう」
「分かりました」
 応じてメリーは、椛の手を取り立ち上がった。その様を蓮子は未だに呆然と見つめ。
「メリー……あんた、落ち着いてるわね」
「まあ、割と慣れてるから。それに、」
 言いながらメリーは蓮子に手を差し出して、
「蓮子が一緒なんだもの」
「え……」
「だからほら、いつもの蓮子に戻って頂戴。いつもの、秘封倶楽部の宇佐見蓮子に」
 微笑むメリーの顔を、蓮子は震える瞳でぼうっと見つめ。
「…………」
 やがて蓮子は吐息を一つ。そしてぎゅっと目を閉じ、両手で自身の頬を叩いた。乾いた音が冥界に響く。
「メリー、ごめん。ちょっとテンパってた」
 開いた黒の瞳に、先ほどまでの揺らぎや狼狽の色はなく。勝気な笑みでメリーの瞳を真っ直ぐに見つめ返して、その手を取った。
「行きましょう、メリー。二人で冥界観光よ!」
「そうね、蓮子! 楽しみだわ。可愛らしいガイドさんもいるし」
「がいど?」
「案内人のことだ」
「なるほど……って、あの、案内人でもないんですけど……もう、何でもいいのでついて来て下さいね……」
 突っ込みかけ、しかしまるっきり話を聞いていない様子の二人に、妖夢は肩を落としてとぼとぼと歩き出した。





 …………





「では、改めて聞かせてもらおうか」
 白玉楼、妖夢の自室に戻った四人はちゃぶ台を囲んで相対していた。しかし、もともと一人、ないし二人用のちゃぶ台なのだろう。四人で囲むにはいささか小さいが。
 のほほんと妖夢の淹れた茶をすする金髪少女の横で、黒髪少女が勢いよく立ち上がった。
「私たちは――」
「座ったままで結構」
「……ハイ」
 いなされ、黒髪少女はすとんと座りなおし、
「私は宇佐見蓮子。大学生よ」
「ダイガクセー?」
「外界の学生の呼び名だったはずだ」
「そうそう。……って、いま“外界の”って言ったわね。本当にここ、冥界なのね……!」
 蓮子はきょろきょろと室内を見回して、自身の両手を見下ろした。拳を握って、開いて、握って。
 そしてちゃぶ台から身を乗り出して、妖夢と椛に顔を近づけた。
「ねえ、質問していい!?」
「後にしろ」
「メリー、この人つめたい……」
「で、そちらは?」
 しょぼくれる蓮子をよそに、椛は金髪少女へと問いを向けた。
 少女は湯飲みを置くと、ふうと一息ついてから、
「私はマエリベリー・ハーン。同じく大学生よ」
 その名に、妖夢の表情が僅かに険しくなった。
「ま、まえれり、れ?」
「マエリベリー」
 椛の訂正。妖夢は顔を赤くして。
「まりえれっ、れれ……りー!」
「マエリベリー」
 舌が回らないのだろう。妖夢は口をパクパクさせるばかりで言葉が出ない。
「ま……ま……っ!」
 ついに妖夢はちゃぶ台に突っ伏してしまった。
「横文字は苦手です……」
「ああっ、ごめんね呼びにくい名前で! 私のことは“メリー”って呼んで頂戴。蓮子もそう呼ぶから」
「かたじけないです、メリーさん……」
「……なにあのかわいいの」
「うむ」
 やたらと身をくねらせるメリーと半泣きの妖夢。その一方で、二人の様子を見ていた蓮子が小さく呟き、椛は同意するように腕を組んで頷いた。
「ほら、しっかりしろ」
 椛に頭をぽんぽんと軽く叩かれ、妖夢は気を取り直すように背筋を伸ばして、
「で、では、こちらの自己紹介ですね。
 私は魂魄妖夢。ここ、冥界の白玉楼で庭師をしています」
「ここって冥界なんでしょ? てことは、あなたは幽霊なの?」
 蓮子の問いに、妖夢はくすりと笑みを浮かべて。
「いえ、私は幽霊と人間のハーフなのです」
 答えつつ、自身の半身たる霊魂――半霊を自身の近くに寄せて。
 そういえば、自分の同じ質問をしたことがあったなと、椛は小さく苦笑した。
「おお、つまり、それもあなたなの?」
「はい」
 蓮子は妖夢の隣まで移動して、半霊を興味深げにまじまじと見つめる。
「触ってもいい?」
「どうぞ」
 眼前で動きを止めた半霊に向かって、蓮子は躊躇いなく手を伸ばした。
 しかし、
「あれ?」
 その手は半霊をするりと通り抜け。
「あ、でもひんやりする」
「幽霊ですからね。そう簡単に触ることはできませんよ」
 何度も半霊に向かって接触を試みる蓮子を見ながら、妖夢はくすくすと笑った。
「からかったわね」
「うふふ、ごめんなさい」
 しかし、と椛はいぶかしむ。
 かつて椛は妖夢の半霊に触れたことがあったが……
 ――実体を持たせるか否かは妖夢次第、ということか。
「次は私だな」
 なおも半霊にじゃれ付こうとする蓮子はひとまず置いておくとして、椛は口を開いた。
「私は犬走椛。妖怪の山の白狼天狗だ」
『天狗?』
 蓮子とメリーが声をそろえて疑問符を浮かべた。
「天狗って、あの天狗?」
「鼻が長くないわ」
「それは鼻高天狗の特徴だな。私は白狼天狗。狼の眷属たる天狗だ」
 言って、椛は純白の尻尾をぶんと一振り。
「天狗にも種類があるのね。というか、そう。その尻尾も、耳も、コスプレじゃなかったのね」
「へえ、オオカミ……。ね、尻尾触ってもいい?」
「駄目だ」
「えー」
 こちらににじり寄りながらの蓮子の言葉を切り捨てつつ、椛はさらに問う。
「では次だ。ここに来た目的は?」
「サークル活動よ」
「さーくる?」
 今度は妖夢が疑問符を浮かべた。
「ええ。私たちは大学で“秘封倶楽部”っていうサークルをやってるの」
「メンバーは私と蓮子だけなんだけどね」
「秘封倶楽部の活動目的はひとつ!」
 蓮子はびっと人差し指を立てて、
「この世界に在る“境界”を覗き見ること」
「お前たちの言う“境界”とは、先ほどこちらに来た際に通っていたものか?」
 ようやく話が見えてきただろうか、と椛は思った。
「たぶん、そう」
 蓮子は自信なさげに頷きながら、さらに続ける。
「私たちは、蓮台野のとある寺の墓地で冥界を覗き見ることができるって知っていたの」
「あの時に見た桜は綺麗だったわね」
「そうね。で、今回は見るだけじゃなくて、冥界のものを何か取ってこれないかと思ったのよ」
「それで境界から冥界に来たはいいが、帰り方が分からなくなった、と」
「違うわ。ちょっと境界に手を入れてこっちのものを――土でも、落ち葉の一枚でもよかったんだけど……とにかく、何か持ってこようとしたの。そしたら、」
「突然、境界に吸い込まれちゃったのよ」
「吸い込まれた、か」
 この冥界入りは意図したものではない。偶発的なものだと、二人はそう言っているのだ。
 宇佐見蓮子と、マエリベリー・ハーン。この二人が嘘をついていない保証はない。いまの話も、これまでの態度も、全て嘘偽りである可能性も捨てきれないのだ。
 だが、
「それは、さぞお困りでしょう」
 ――こいつはお人よしだからな。
 椛の懸念などどこ吹く風。妖夢は自身の胸に手を当て、言葉を続ける。
「そういうことなら、この私、魂魄妖夢が微力ながらお手伝いしますよ!」
「ほんと!?」
「もちろんです。知らない土地に放り出されて、二人だけでは途方に暮れてしまうことでしょう」
「妖夢、念のために聞いておくが、この二人が敵ではない保証はないぞ?」
 いい顔はされないだろうが、言っておかねばならない。妖夢とて従者の端くれ。主の身の安全を最優先に考えた上で行動すべきなのだ。
 案の定、蓮子とメリーの二人は僅かながら表情に不安の影を落とし、しかし妖夢は毅然と椛を見つめていた。
「ご心配なく。二人は敵ではありません」
「根拠は?」
「“眼”を見て、そう感じました」
「……ふむ」
 少し、面食らってしまった。
 先ほど、椛が二人に『敵か』と問いかけ、それに答えた時の、メリーの眼。空の写しであるかのような蒼から見えたのは、真摯と、僅かな緊張。
 精神の均衡を取り戻してからの、蓮子の眼。夜の闇を思わせる黒から見えたのは、夜空を瞬く星々のような探求の輝き。
 また、蓮子の立ち直りと同時に、メリーの瞳にも好奇の光が宿っていた。
 二人の眼からは邪な感情は見て取れず、ただ“知りたい”と、その思いで彼女たちは動いていると、椛も感じていた。
 ゆえに、
「分かった。二人の対応について、これ以上は何も言うまい。妖夢のやりたいようにするといい」
 もとより自分は部外者だ。いまさらではあるが、余計な干渉はするべきではない。
「ありがとうございます、椛」
 微笑を浮かべての椛の言葉に、妖夢はぺこりと頭を下げて。
 だが、
「宇佐見蓮子には気をつけろよ。彼女はおそらく“霧雨魔理沙”と同じ類の人間だ。目を離すと何をしでかすか分からん」
 警告だけは残しておく。
「は、はい!」
「……まあ、そのキリサメさんっていう人が何したか知らないけど、私いま、ものすごく失礼なこと言われてない?」
「日ごろの行いじゃないかしら?」
 傍で聞いていた蓮子がばつの悪そうな表情でため息を吐いた。
 さて、と呟きながら妖夢は立ち上がり、部屋をぐるりと見回した。
「時間も遅いですし、幽々子様への報告は明日の朝にします。お二人にはここで寝てもらうわけですが……」
 部屋の中央には二組の布団が並べて敷かれていた。
「あと二組、用意しないとですね」
 壁際に寄せれば、あと二組くらいは敷くことが可能だろう。妖夢は一つ息をつくと、縁側へ続く襖を開いた。
「持ってきますので、待っててください」
「あ、追加の布団は一組でいいわよ」
 と、部屋を出ようとした妖夢に声をかけたのは、蓮子だった。蓮子は敷かれた布団を示しながら続ける。
「結構大きいし、私たちは一組でいいわ」
「え、でも……」
「あんまり迷惑をかけるのも、悪いものね。それに、」
 蓮子のあとに続いてメリーは微笑んで。
「慣れてるのよ。一つの布団を二人で使うの」
「そ、そうですか……?」
「それじゃ、明日に備えて就寝!」
 言うなり蓮子は服を脱ぎだした。
「ちょッ!」
 妖夢は慌てて襖を閉めて、
「なな、いきなり何やってるんですか!?」
「いやだって、服着たままだとシワになっちゃうし」
「寝間着! 用意しますから!」
「へーきへーき。慣れてるから」
「普段どんな生活してるんですか!?」
 妖夢の言葉をからからと笑いながら流しつつ、下着姿になった蓮子は布団を少し壁際に寄せてからさっさと潜り込んでしまった。
「ほら、メリーも早く」
「ごめんね。ああいう子なの」
「……」
 促されたメリーも服を脱ぎ、丁寧にたたんで枕元においてから蓮子の待つ布団に入ってしまった。
「それじゃ、おやすみなさい」
 言うだけ言うと、二人は額を合わせて布団を頭まで被ってしまった。
「……」
 唖然とした様子で妖夢は二人を見つめて硬直している。これは、放っておいたらずっと動かないままでいそうだった。
「妖夢、私たちも寝よう」
「……あっ、そう、そうですね」
 椛に声をかけられて弾かれたように硬直から脱した妖夢は、慌てて外に出ようとして、
「布団、取ってくるので待っててください」
「その必要はない」
 襖を開ける手が、再び止まった。
「……え?」
 振り向く妖夢の前で、椛は行灯の火を吹き消した。一番の光源を失い、妖夢の半霊が放つぼんやりとした光と、開いた襖から差し込む月明かりだけが室内を照らす。
「布団は、奥まったところにしまってあるのだろう?」
 図星のようである。妖夢は眼を丸くして椛を見ていて。
「ど、どうして……?」
「少し、面倒そうに見えたからな」
 椛は妖夢のほうへは顔を向けず、空いている布団にそっと手を乗せ、
「妖夢さえ良ければ、だが……その、私たちも……」
「……」
「あっ、私のことは気にしなくていい。仕事柄、こういうことには慣れているからな」
 とは言え、慣れてはいるが、それはやむ得ない状況である場合だ。こうして、自分から提案するのはやはり気恥ずかしいものだな、と椛は思った。
 鏡を見ずとも分かる。自分の顔はいま、とても赤い。だが灯りは消してある。この薄闇の中ではバレないはずだと、椛はちらりと横目で妖夢の様子を窺った。
 妖夢は「えと、」だの「うー、と」だのと言いながらもじもじしていた。ただ、月明かりの逆光に照らされて、その表情はよく見えない。
「……嫌なら嫌と言ってくれて構わないが」
「とっ、とんでもない!」
 すぱんっと襖を閉めて、妖夢は空いている布団に飛び込んだ。
「ど、どうぞ!」
 こちらに背を向け右半分を開けて、妖夢は半霊を抱きしめ顔を押し付けながら言った。
「……では、失礼する」
 いつまでも背中をむき出しにしたままでは風邪を引いてしまう。椛も布団に入って掛け布団を被った。





 蓮子の言うとおり、布団は少し大きめだったので、二人で入ってもまだ僅かばかり余裕がある。
 背中を合わせて、半人半霊と白狼天狗。ほんのり感じる体温は、常人のそれよりも少し低い。また、臀部から伸びる尻尾は挟まれると苦しいので、自分の身体の上に乗せている。
 椛自身、どうしてこんな提案をしたのか、よく分かっていなかった。ただ……
 ――妖夢と一緒にいることが、心地よい。
 これまでは、誇り高き白狼天狗として、他者との過度な馴れ合いはあまりしていなかった。同族、同僚とも、ここまで近しくなったことはない。
 ――何故だろうな?
 妖怪の山から鬼たちを退けて幾年月。平和が訪れ哨戒の意味が薄れたいま、白狼天狗たちの怠けぶりは著しい。自分とて、一時期は剣を振るう時間よりも、河童と大将棋を指している時間のほうが長くなってしまったように思う。
 そんな時だ。山へと侵入してきた半人半霊の少女。
 天狗という、種族生来の身体能力に胡坐をかいて、結果として椛は妖夢に敗れた。椛の予想を遥かに上回る力を、妖夢は示したのだ。
 彼女の“可能性”に惹かれたのだろうか。山では久しく見なかった“一生懸命さ”に惹かれたのだろうか。同じ剣を扱うものだから、ということもあるだろう。
 どれも間違っていない。だが、一番の要因は……
 ――彼女が“魂魄妖夢”だから、だろうか。
 他の誰でもない、彼女だからこそ惹かれたのだと、椛は思う。
 友であり、弟子であり、ライバルであり……あるいは、妹のようにも思っているかもしれない彼女と、永く共に在りたいと椛は思っていた。
「あの、椛……起きてますか?」
 と、背後で身じろぎの気配と小さな呼び声。首だけこちらに向けて話しかけているのだろう。
「どうした?」
「あの、ですね……」
 こちらも声を抑えて応じると、妖夢はさらにもじもじと身じろぎして。
「その……」
「?」
「し、尻尾を……抱かせてもらっても、いいですか……?」
「む。」
 突然の申し出に、言葉が詰まってしまった。
 尻尾は、狼の眷属たる白狼天狗に残った数少ない“獣”の部分。だからだろうか、他の部位よりも少しばかり敏感なのだ。
 妖夢もそのことは承知しているはず。その上で、こうしたお願いをしてくるということは、
 ――よほど触り心地が良いのか……?
 曰く、白狼天狗の尻尾は極上なのだという。あまり実感は沸かないが。
 本来ならば、こんな申し出はにべもなく切り捨てるところなのだが……
「あ、いやっ、なんでもないです。気にしないでください」
「待て、待て、妖夢、待て」
 慌てて撤回しようとする妖夢を押し止めて、椛は尻尾で妖夢の身体を撫でてやった。ぴくんと震えが伝わってくる。
 その様子に椛は苦笑しつつ、
「構わない。ただし、あまり乱暴はしてくれるなよ?」
「!」
 許可してやると、その身がさらに震えた。
 思い返せば、妖夢は寝るとき何かを抱いていたことが多かった。永遠亭で休んでいたときは半霊を抱きしめ、山で酒を飲んで寝てしまったときは椛の尻尾を思い切り抱きしめてくれた。
 そしてさっきも、妖夢は半霊を抱いて布団に潜っていた。
 ――何かを抱いていないと眠れないのだろうか?
 子供っぽいな、と椛はさらに苦笑して。
「で、では、失礼します……」
 ごそごそと背のぬくもりがなくなると同時に、少し長めの動く気配。開いた隙間に尻尾を下ろしてやると、やがて優しく抱きすくめられて。
「ん……」
 身体を流れる、かすかな痺れにも似た感覚。分かっていても、思わず吐息が漏れてしまう。
「だ、大丈夫ですか?」
「問題ない」
 答えつつ、さて今夜は眠れるだろうかと、少しだけ不安を感じる椛であった。
「あ、あの」
 と、背後から再び声。今度は何だろうかと、少し身を捩って背後を見るが、妖夢は俯いていて表情は窺えず。
「今度はどうした?」
「その……これ、よかったら使ってくださいっ」
 言葉の直後、何かが足元から布団の中にもぐりこんで、椛の前まで移動してきた。
 丸くて、白くて、半透明なそれは、
「……大丈夫なのか?」
 眼前の霊魂――妖夢の半霊を見つめながら、椛は問う。
「問題ありませんっ」
「……そうか」
 抱き枕を使う習慣はないのだがなと思いつつ、椛は半霊に手を伸ばした。
「っ……!」
 こわばる気配が尻尾を通して伝わってくる。
「無理をしなくてもいいぞ」
「だっ、大丈夫デス! ちょっとびっくりしただけですのでっ」
 ――自分から差し出しておいて、びっくりするのか……
 とはいえ、当人が大丈夫だと言っているのだ。これ以上、余計な心配をするのは妖夢に失礼か。そう判断した椛は、半霊を優しく抱きすくめてやった。
「……」
 不思議な感触だった。ふわふわと柔らかでありながら、もちもちとした弾力も感じられる。半人半霊は人間よりも体温が低いと聞いていたし、幽霊は冷たいと聞いていたので半霊も冷たいものと思っていたが、なかなかどうしてぽかぽかと暖かい。
 ――ふむ、これは……
「良いな」
「そ、そうですか? えへへ、ありがとうございます」
 ぽつりと呟くと、妖夢が照れくさそうに笑った。
「では、おやすみなさい、椛」
「ああ、おやすみ、妖夢」
 応じて椛は、さらに掻き抱くように半霊を抱きしめた。腕の中でふるりと半霊が震える。
 少し尻尾がくすぐったいが、これならぐっすり眠れそうだ。目を閉じ、椛は半霊の感触を堪能しながら眠りについた。










 …………










 冷たい。
「……ん」
 尻尾の冷える感覚に、椛は目を覚ました。
 手元には、ふわふわもちもちの霊魂がひとつ。
 首を巡らせ、縁側へと続く襖を見れば、かすかな朝日が障子越しに差し込んでいて。耳をすませれば、聞こえるのは穏やかな寝息だけ。まだ誰も起きていないようだ。
 しかし、頭がぼんやりとしてる。自分の部屋ではないというのに、随分と深く眠ってしまっていたようだ。
 ――……なんだったか……?
 椛はゆっくりと昨夜の出来事を思い出す。
 白玉楼庭園の最奥。西行妖のふもと。桜。“春”。花見酒。
 ――違う。ここからだ。
 スキマ。二人の少女。宇佐見蓮子。マエリベリー・ハーン。秘封倶楽部。外界の少女たち。
 ――そうだ。今日は、二人の処遇を決めなくては。
 ここ、白玉楼の主に昨夜の顛末を説明して、指示を仰ぐ。妖夢は、二人が元の世界に帰るための手助けをしたいようだが……
 ――それは、私たちが決めることではないな。
 従者は、主の指示に従うまで。西行寺幽々子が寛大な措置を下すことを祈るしかない。
 さて、と椛は考える。二度寝をしても良いが、せっかく眼が覚めたのだし、少し身体を動かそうか。そう思って身を起こそうとして、尻尾の引っ張られる感覚に椛は思い出した。
 ――そういえば、妖夢の抱き枕代わりにされていたのだったな。
 昨晩は同じ布団で寝たのだった。妖夢は椛の尻尾を抱いて、椛は妖夢の半霊を抱いて。少し気恥ずかしかったが……まあ、おかげで安眠ができたのかもしれない。
 頬にほんのり熱を感じつつ、そしてはたと気付く。
「…………」
 即ち、尻尾から伝わるこの冷たさは。
「ん……じゅる……」
「…………」
 椛はとりあえず、手元の霊魂――妖夢の半霊にチョップをかました。
「み゛ょッ!?」










「椛ぃ、ごめんなさいってばぁ……許してくださいよぅ……」
 食卓に味噌汁の入った椀を置きながら、妖夢は涙目で謝っていた。
「……別に、怒ってなどいないが」
 対する椛は淡々と箸を並べている。
 早朝の白玉楼。椛は、べったりと涎のついた尻尾を洗うために朝風呂としゃれ込んだあと、朝食の用意をする妖夢の手伝いをしていた。
「怒ってますよね? 怒ってますよね?」
 怒ってこそいないが、大事な尻尾に涎をつけられてしまったのだ。少しばかり傷心ぎみの椛である。
 ――だが……妖夢も反省しているようだし、私もいい加減立ち直らねば、か。
「少し驚いただけだ。本当に怒っていないから、案ずるな」
 箸を並べ終えた椛は、苦笑を浮かべながら空いた手で妖夢の頭を撫でてやった。
「うう、次は気をつけます……」
「……ああ」
 ――次があるのか。
「では、私は幽々子様を起こしてきますね」
「ああ」
 あらかたの配膳を終えて、ぱたぱたと部屋を出て行く妖夢を見送って、
「……さて、私はあいつらを起こしてくるか」
 まだ眠っているであろう外界の少女たちを起こすため、椛も部屋を出た。





「…………」
「……ぐ、ぐっもーにん」
 既に起床し着替えまで済ませていた蓮子とメリーは、部屋に置いてあった椛の大太刀に手をかけていた。
「い、いやっ、これはねっ……」
「…………」
 椛は迷わず二人の脳天に鉄拳を叩き込んだ。





「あ。お二人とも、おはようございます。……どうかしました?」
「いや、別に……」
 頭を押さえながら入ってきた二人に、妖夢は怪訝な表情を向けたが、しかし当の二人は曖昧な笑みを浮かべるばかりで。
「妖夢、その二人なの?」
 いぶかしむ妖夢に問いかけたのは、既に食卓についていた女性だった。
 空色の着物を身にまとい、肩で切り揃えられた髪は緩くウェーブのかかった桜色。
 息を飲むほどの美貌を持ちながらも、小首をかしげて蓮子とメリーを見つめる様にはどこか愛嬌があって。
「はい、幽々子様。こちらが宇佐見蓮子さんと……」
「マエリベリー・ハーン」
「……さん、です」
「あらあら。ようこそ、白玉楼へ」
 そして女はたおやかに微笑んだ。
「私は西行寺幽々子。死者の魂が現世を求めて跳梁跋扈する冥府を統べる闇の女王よ」
「……闇の女王?」
「まあ簡単に言うと冥界の管理人ってわけです。幽々子様、ややこしくなるので普通に自己紹介してください」
 茶碗に白米を盛りながら妖夢が言うと、幽々子は「はぁい」と言って舌を出した。
「ほら、いつまでもそんなところに立っていないで、座りなさいな」
「あ、はい」
「というか、冥界の食べ物なんて食べても大丈夫なのかしら……?」
 各々が食卓につき。
 幽々子の隣に妖夢。対面に、椛、蓮子、メリーと言う形で朝食を前にしたところで、幽々子が両手をぱん、と合わせた。
「それじゃあ、頂きましょうか」
『いただきます』
 あわせて四人も手を合わせ、声を合わせた。





 白米に味噌汁、焼き魚。だし巻き卵におひたし。
「……うむ、良い塩梅だ」
「えへへ、ありがとうございます」
 ほくほくの白身をほぐして頬張りながら、椛は感嘆の声をあげた。
 魚だけではない。どれも味付けはしっかり、且つ互いに主張しすぎない絶妙な加減だった。
 無論、贔屓目による評価ではない。その証拠に、
「だし巻きうまっ」
「お味噌汁も美味しいわよ、蓮子」
 隣の二人は料理に夢中である。
「して、西行寺殿。妖夢から話は聞いていますか?」
 箸を止め、椛は幽々子に問う。
 幽々子はしばし、もくもくを口の中のものを咀嚼し、こくんと飲み下してから、
「ええ、だいたいのところは。うちの庭にスキマが現れて、そこから出てきたんですって?」
「はい。彼女たちは“境界”と呼んでいましたが」
「それなら霊夢に任せるといいわ。外からの迷子を助けるのは、博麗の巫女のお仕事ですもの」
 幽々子はやんわりと微笑んで、しかし椛は眉間に小さなしわを作った。
「……よろしいのですか? 彼女たちはそう言っていますが、それが本当かどうかは……」
「ええ。だって、妖夢も、貴女も、大丈夫だって判断したんでしょう?」
「それは、そうですが……」
 もう少し警戒してもいいのではないだろうか。
 冥界の管理を司る屋敷の警備体制に一抹の不安を感じる椛の前で、幽々子はころころと笑いながら味噌汁を一口。
「妖夢、二人を博麗神社まで送ってあげなさい」
「承知しました」
「……お前たち、話は聞いていたか?」
 いちおう、蓮子のメリーの身の振りに関する話だったのだが、当の二人は相変わらず食事に舌鼓を打つばかり。
 ため息混じりの椛の問いに、蓮子は箸を持った手をぱたぱたと振りながら、
「もぐ、だいじょーぶ、ちゃんと聞いてたわよ。レイムさんって人のところに行くんでしょ?」
「……まあ、分かっているならいいが。あと箸を振り回すな。行儀が悪い」
「それにしても、本当に美味しいわー。何か秘訣があるのかしら?」
 ――……本当に分かっているのか?
 見知らぬ土地、見知らぬ人妖の前で、こうも無防備でいられるものなのだろうか? 帰り方も分からない、次の瞬間には命を落としてしまう。そういった不安はないのか?
 好奇心とは、時に不安や恐怖よりも先立つものなのだろうか?
 ――図りかねる。
「そうですね……コツは要所要所にありますが、一番の秘訣はこれでしょうか」
 と、妖夢は傍らにおいていた刀の一振り――短刀のほうを自身の眼前にかかげて、
「食材はみんな、この“白楼剣”で切っているんですよ」
「んグッ!?」
 とんでもないことを言ってのけた。椛は思わず噴き出しかけたが、すんでのところで我慢した。
 そんな椛の様子になど気付いた風もなく、妖夢は得意げに続ける。
「白楼剣は魂魄家の家宝で“迷いを断ち斬ることができる”と謂われています。だから、これで切った食材は、自身の食材としての悩みを断ち斬られて美味しくなるのです」
「お前は何を言っているんだ」
 食材の抱える悩みとはいったい何なのか。
 かたや白楼剣は包丁代わりに使われ、かたや楼観剣は庭木の剪定に使われ。無論、刀は万能包丁でなければ高枝切りバサミでもない。
 椛は渋い顔で幽々子を見た。「お宅の教育はどうなっているんですか」と、若干の抗議の意を込めて。
 こちらの視線に気付いた幽々子は、しかし少しだけ困ったような微笑みで首を横に振り。
 それはつまり、
 ――諦めろと……そう言っているのか……ッ!?
 だが、それも無理からぬことなのだろうか。
 魂魄家は代々西行寺家に仕えている家だという。なれば、妖夢の先代も、そのさらに先代も同様の働きをしていたのだろう。主のために。
 脈々と受け継がれる、残念な刀の使い方。いまさら椛に何ができようか。
 ――だがしかし、家宝の刀を包丁代わりはいかがなものか……
 それでいいのか魂魄家、と思わざるを得ない椛であった。










 …………










「では幽々子様、行って参ります」
「はい、行ってらっしゃい」
 白玉楼の正門前にて。
 まだ朝もやの漂うなか、発つは四人、見送るは一人。
「椛ちゃん、妖夢をお願いね」
「はい」
 見送る幽々子の言葉に、椛はひとつ頷いて。
 空を飛べぬと言う蓮子とメリーに合わせて、少し早めの出立である。目指すは幻想郷の東の端、博麗神社。
 幽々子の言によると、博麗の巫女は、外界から迷い込んできた人間を元の世界に帰すこともしているらしい。ならば、巫女に引き合わせてやれば、二人も帰ることができることだろう。
「それにしても……冥界って本当に静かなところね」
 左右を木々に囲まれた長い石造りの階段を降りながら、蓮子は呟いた。
「冥界にいるのは、みんな幽霊ですから。幽霊は音をたてないのですよ」
「ふぅん……」
 ぼんやりと返しながら、蓮子は落ち葉を一枚拾い上げた。程よく色づいた綺麗な葉だ。
「お土産お土産、と」
「ミッションコンプリートね、蓮子」
 そういえば、冥界のものを持って帰ることが当初の目的だったかと思いながら、椛は前方を見た。
 薄くもやがかかっていて視界は悪いが、かすかに陰影が見える。ひたすら真っ直ぐな白玉楼の階段の、その果て。終わってすぐのところに、冥界と幻想郷を隔てる結界があった。かつては強固だったと聞くそれは、いまや易々と越えられるほど効力が薄れてしまったのだと、妖夢が言っていたか。
 ――だからこそ、私もここにいられるのだが。
 感謝すべきなのかもしれない。あの結界が弱まったおかげで冥界との接点が生まれ、妖夢に出会うことができたのだから。
「見えてきましたよ。あそこが幽冥結界です」
 朝もやが薄れ、その姿がはっきりと確認できるようになると、妖夢が前方を指差しながら声をあげた。
 高くそびえるは観音開きの巨大な門扉。中央には結界とおぼしき紋様が大きく明滅している。
「わぁ……」
「たっかいわねー」
 近くまで辿り着いたところで、蓮子とメリーは門扉を見上げて感嘆の声をあげた。
「これって触るとヤバイ系?」
「たぶん、やばい系」
「ちぇ」
 ――こいつは早死にするタイプだな……
 口を尖らせる蓮子を見ながら、椛はひとりごちた。
「でも、現世はこの先なのでしょう? お勝手でもあるのかしら?」
「いや……」
 他者の――主に生者の――出入りを防ぐための結界である。無論、そんなものがあるはずもなく。
 ただし、
「マエリベリー・ハーン」
「メリーでいいわ。いちいちフルネームで呼ぶのも面倒でしょ?」
「ではメリー」
 呼び直し、椛はメリーの横に立って、
「失礼する」
「えっ、きゃ!」
 言うやメリーの身体を抱き上げた。メリーの膝裏と背に手を添えて抱えるその様は、
「お、お姫様抱っこ……!?」
 蓮子が震える声で呟くとおり、お姫様抱っこであった。
 椛はメリーを抱えたままふわりと浮き上がって、
「うわっ、本当に飛んでる! メリー、あなたいま飛んでるわよ!」
「すごいすごい!」
 ――五月蝿い。
 首に抱きついたまま耳元で騒がないでほしい。
「結界は上から越える。妖夢、宇佐見蓮子を頼む」
「はい。蓮子さんは私に掴まってください」
 言って妖夢は背と腰の刀を外して蓮子に背を向けて。
 しかし蓮子はこちらを見上げたまま、
「……いいなあ」
 ぽつりと呟く。
 妖夢の身体がぴくりと震えた。
「……」
 妖夢は立ち上がると刀を着けなおし、こちらを見上げる蓮子につかつかと歩み寄り、
「行きますよ、蓮子さん」
「うわわわ!」
 椛と同様にお姫様抱っこをした。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」
「問題ない、です。蓮子さん、軽いです」
 腕が震えているように見えるが。
「そ、それはどーも。でもお願いだから落とさないでね……」
「ねね、犬走さん、私は?」
 メリーが顔を近づけて問うてくる。ふわりと漂う甘い香りは、洗髪料のものだろうか。
 期待のこもった眼差しに、犬走椛はため息ひとつ。
「ああ、軽い軽い」
「ふふ」
 つかみどころのない少女だなと思いながら、ゆるりと結界の上方へ。
「ねえ、この先はもう冥界じゃないのよね?」
「はい。結界の向こうは幻想郷。妖怪の賢者、八雲紫様が創られた妖怪のための世界です」
 妖夢の言葉に、蓮子の目が輝く。
「冥界とも、私たちの世界ともまた違った世界、ね。わくわくしてきたわ!」
「妖怪のための……私たち人間にとっては危険なところみたいね」
「人間の集落がある。幻想郷のルールとして“人里では人間を襲ってはいけない”というものがあってな」
 人間は、妖怪の存在の要である。ゆえに、人間の数を極端に減らしてはいけない。人がいなくなり、その記憶から完全に消えてしまえば、妖怪は存在を保てなくなってしまうから。
 ――ここは、養殖場のようなものなのかもしれないな。
 妖怪が己が存在を保つがために、人間を飼い、食い物とする世界。外界では技術が発展した結果、妖怪の存在は幻想とされていると聞く。
 “実在する”と思われること。ある意味、信仰にも近いその思いを抱かれることこそが、妖怪が妖怪として存在を保つ方法なのだ。
 そして四人は結界を越える。
 ――そう……ここは、
 妖怪を、それ以外の超常さえも受け入れるこの世界は、
 ――私たちに残された最後の“楽園”なのだな。
「あれ? まだ冥界っぽい?」
 蓮子が呟く。
 眼下に見えるは白い霧と、宙に突き立つ四本の四角柱。ここはまだ、冥界と幻想郷の境界線上。本格的に幻想郷が見えるまでは、もう少しかかる。
 飛び越えた結界を背に、高度を下げつつさらに前進。やがて霧は薄れ、改めて眼下に広がる景色に、
『わぁー!』
 蓮子とメリーは揃って声をあげた。





 秋の彩り、鮮やかに。
 最初に目につくのは、やはり妖怪の山。幻想郷でも特に背の高いこの山は、八百万の神々に愛された土地だ。ゆえに、美しい。
 紅と、橙と、黄と。紅葉の彩りに加え、山を降る九天の滝が織り成す蒼と白。その様、壮観の一言につき。
 そこから視線を下に。眼下に広がる魔法の森も秋一色。一歩踏み入ればキノコと瘴気に満ちた不気味な森であるが、上から見る景色はさながら秋色の絨毯と言ったところか。
「うわ、うわ、すごい! これって全部天然モノ!?」
「ちょっと、蓮子さんっ、暴れないで!」
 ふらふらと蛇行を始める妖夢を見て、メリーはくすりと笑い、
「本当にキレイねー……」
 視線を戻して呟いた。こちらは蓮子ほど騒ぎはせず、椛は当たりをひいたなと安堵した。
 さて、と椛は考える。
「妖夢、このまま博麗神社まで行くか?」
「そうですね……いえ、一度、人里のあたりで降りましょう。まだ日も高いですし、少し寄り道するのも良いかと」
 しばし考えた後、そう妖夢は答え。
「人のいるところに行くの!? 美味しいものある?」
「ありますけど、私、あんまり持ち合わせありませんよ」
「蓮子、たかりは良くないわ」
「う……そ、そうね……」
「ふむ……」
 見上げれば、日はまだ天上を迎えておらず。
「……」
 見下ろせば、蒼の瞳が期待の光を宿してこちらを見つめ。
 ――急ぎでもなし、構わないか。
「……わかった。そうしよう」
「やった!」
「あっ、ちょっと蓮子さん! だから暴れないで!」
 ふらふらと蛇行を続ける妖夢に続いて、一路、人里へ――










 …………










「……あ、見えた。十六時四十三分二十秒。場所は……こっちは見えないわね」
 空を見上げた少女の呟き。
 茜色の幻想郷、その最東端。くすんだ鳥居の前に、四人は立っていた。
「まあいっか。さてっ。ここが“幻想郷の”博麗神社なのね!」
「私たちの世界にも博麗神社があるのよ」
「そ、そうですか……」
「博麗神社は、幻想郷と外界の境目にあるという。だからだろうか……?」
 物珍しげに辺りを見回しながら鳥居をくぐっていく蓮子とメリーに対し、妖夢と椛の足取りは重い。さもありなん。人里についてからこっち、あちらこちらと好き勝手に歩き回る蓮子とメリーに付き合って歩きっぱなしだったのだ。さらに、里からここまでの移動は、また二人を抱えての飛行というもの。徒歩の道中では妖怪に襲われてしまう危険性があるとはいえ、流石の椛も休養が欲しいところだった。
 幻想郷の東の端、外界との境界上にあるここが、博麗神社である。鳥居をくぐれば、閑散とした石畳の境内。そして賽銭箱を抱え込んだ社がある。
 人影はなく、いるであろう巫女の姿も見えない。
「霊夢、いませんね」
「うむ」
 石畳の上を歩きながら、妖夢と椛は顔を見合わせ。
「呼んでみますか」
 そして妖夢は一息吸って、
「霊夢ー! いるー!?」
 社に向かって声を張り上げた。
「…………」
「…………」
 風が吹いて、神社を取り囲むように立っている木々がざわざわと音を立てて。
 音沙汰はなく。ただ聞こえるは、カラスの声。
「……出掛けてるのかな? れ――」
「あによ、やかましいわね」
 再度の呼びかけをしようと妖夢が口を開いたところで、社の裏手からのたりと少女が現れた。
 紅白の腋出しの巫女服を身にまとい、箒を片手にこちらへと歩いてくる黒髪の少女。
「あら、妖夢じゃない。珍しいわね」
 少女はじとりとこちらを睨みつけ、妖夢の姿に半眼を少しだけ見開いた。
「霊夢、久しぶり」
「あんたがここに来るなんて、どんな風の吹き回しかしら?……で、あんたたちは?」
 そして少女――博麗神社の巫女、博麗霊夢はこちらに視線を向けた。その黒い瞳を見下ろして、椛は口を開く。
「久しいな、博麗霊夢」
「……誰?」
 しかし霊夢は小首をかしげて。
「妖怪の山に守矢神社が現れたとき、相対しただろう。九天の滝で」
 ある秋の日のことである。妖怪の山に、二柱の神と一人の巫女を伴って、外界から神社が丸々やってきた。その折、博麗の巫女である霊夢は新参の神に会うため、妖怪の山へと足を踏み入れたのだ。
 しかしそこは、天狗の支配する妖怪の山。不可侵の地である。たとえ博麗の巫女といえど、易々と侵入を許すわけもなく、ちょうど哨戒任務中だった椛が迎撃に駆り出されたのだが……
「…………あー、あの時のあんたね。覚えてる覚えてる」
「もういい……」
 敗者に興味がないのか。あるいは毎日のように妖怪が訪れる神社である。一度顔を合わせた程度の白狼天狗卯のことなど覚えている余裕がないのか。どちらにしろこちらを思い出せない様子の霊夢に、椛は嘆息した。
 ――まあ、忘れているなら、そのほうがいいが。
 椛とて、不慣れな弾幕ごっこで惨敗した記憶など、消してしまいたいところだ。
「まあぶっちゃけ覚えてないんだけど、」
 ぶっちゃけられた。
「でも噂は魔理沙や文から聞いてるわよ。犬走椛、だったかしら?」
 博麗神社には多くの妖怪と、ほんの少しの人間が訪れる。椛と同じ山の天狗である射命丸文と交流があっても不思議ではない。
「妖夢とあちこち巡って辻斬りをしてるんですって? あんまり度が過ぎると退治するからね」
「それは誤報だ」
 あの鴉天狗、次に会ったら噛み砕いてやると固く誓う椛であった。
「で、あんたたちは?」
「そう、霊夢。用件はこの二人なの」
 霊夢が蓮子とメリーに視線を向けたところで、妖夢が割り込んだ。
「なに、どういうこと?」
「お願い、霊夢。二人を元の世界に帰してあげて」
「……とりあえず上がんなさい。お茶くらいは出すから」





「和菓子もいいわねー」
「大学のカフェテリアは洋菓子ばかりだものね」
「……」
 ――まあ、確かに美味いが。
 出された羊羹を頬張りながら、蓮子とメリーはのほほんと。相変わらずの緊張感のなさに、椛は嘆息することさえも億劫になっていた。
 博麗神社の裏手にある居住部分、その居間にて。
「なるほどねー」
 妖夢の話を聞き終えた霊夢は、ずずずと茶を飲んで一息ついた。
 開け放たれた襖の先には縁側があり、黄昏の斜陽に赤く染まった庭が見える。秋分はとうに過ぎ、この時間帯から暗くなるまで長くはかからないだろう。
 はらり、はらりと散る紅葉に、秋の終わりを感じ。

「残念だけど、私は力になれないわ」

 はらり。

「え……」
 紡がれた言葉に、沈黙が流れる。
 その意味を、すぐには理解ができず。
 ――博麗の巫女では、力になれない?
「幻想郷に迷い込んだ人間を元の世界に返すのも、博麗の巫女の仕事なのだろう?」
「そう、幻想郷に迷い込んだ人間を、ね」
 椛が問うと、霊夢は困ったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「でもあなたたちは、冥界から来たんでしょ?」
「ええ、まあ……」
「ならやっぱり、私じゃ力になれないわね。
 私にできることは、博麗大結界に出現した歪みや亀裂から幻想郷に来てしまった人を、同じ道を辿らせて還れるように導くこと」
 つまりそれは、
「つまり、冥界は、」
「そ。私の管轄外」
 言って、霊夢は茶をすする。
「それじゃあ、どうすれば……」
 この二人はもう。
「私たちは、帰れないの?」
「早とちりしない」
 しかし、狼狽する椛たちの言葉を霊夢は遮った。
「“私には”無理ってだけの話。だから、癪だけどあいつを呼ぶわ」
「あいつ?」
 おうむ返しには答えず、霊夢はよいしょと立ち上がった。
「妖夢、あんたは分かるでしょ。説明しといて」
 そして、そう言い残すと霊夢は居間から出て行ってしまった。残された四人のうち三人は、一様に妖夢に視線を向けて。
「霊夢でもだめってことは……紫様かな。
 椛にはもう話しましたよね。幻想郷をお創りになられた、妖怪の賢者、八雲紫様です」
 八雲紫――幻想郷の創造したとされる大妖怪。
「何を隠そう、幽冥結界の管理をしているのも紫様でして。確かにあの方なら、何とかしてくださいますよ」
 なるほど。幻想郷の創造に加え、幽冥結界の管理も行っているのであれば、二人を元の世界に帰すことも可能なのかもしれない。
 妖夢の言葉に、蓮子とメリーは胸を撫で下ろして。
「あー、ビックリしたわ。このまま帰れなくなったらどうしようかと」
「それはそれで、素敵だったかもね」
「冗談言わないでよ、メリー。こんな不思議だらけのとこにいたら、不思議の有り難味がないわ」
「そういうものかしら?」
「そーいうものなの」
 蓮子は腕を組んでうんうんと頷いて、湯飲みに残った茶を一気に飲み干した。
「それに、大学のレポートも書かなくちゃ」
「今回の件もまとめておきたいわね」
「そうね。これからの秘封倶楽部の大きな助けになることは間違いないわ!」
 楽しげに語らう姿に、椛は安堵した。乗りかかった船である。二人の帰還まで、きっちりと見届けたいと椛は思っていた。
 と、霊夢が戻ってきた。霊夢は後ろ頭をぽりぽりとかきながら、
「ごめん、紫のやつ冬眠しちゃったって」
『え゛』
 妖怪の賢者は熊のような何かなのか?
 再び凍りつく空間に、しかし霊夢はひらひらと手を振って、
「だから、代わりにあいつの式が来てくれるって。なんか、向こうも立て込んでるらしくて、明日の朝になるそうよ」
 だから、と言いながら、霊夢は居間の床を指差した。
「今日はここに泊まっていきなさい」
「いちいち脅かさないでよ」
「冬眠ってどういうことかしら……?」
 次いで霊夢はこちらを見て、
「あんたたちは? 布団ならあるけど」
 さて、と椛は考える。博麗神社であれば、妖怪の山にある自室で休んで、早朝に来ることも可能だが……
 ちらりと隣に目をやると、ちょうど妖夢もこちらを見ていて。
 妖夢は、椛のほうをちらちらと見ながら、
「それじゃあ私も、お世話になろうかな……?」
 おずおずと告げた。
「あんたは?」
「ふむ……」
 ――乗りかかった船だからな。
「では、私も世話になろう」
 そう言うと、隣で妖夢がほっと息をつくのが聞こえた。
「そ。じゃ、夕飯の支度をしようかしらね。あんたたちも手伝いなさい」
「蓮子、行きましょう」
「はいはい、と」
 奥へと歩いていく霊夢を追って、蓮子とメリーは立ち上がり。
「妖夢と椛はお風呂の準備を頼むわ」
「はい。椛、行きましょう」
「ああ」
 投げられた指示を受け取り、椛は妖夢のあとについていった。










「妖夢は、よく、博麗霊夢の、手伝いを、しているのか?」
 浴槽の内側をたわしでこすりながら、椛は問うた。
「神社の内装に、詳しいようだが」
 少し広めの、博麗神社の浴室。まだ湯は張られておらず、秋の夜気で冷えた風呂場でたわしを駆るは、半人半霊と白狼天狗。
 床掃除をする妖夢は、椛に苦笑を向けて。
「博麗神社ではよく宴会をしていますから。酔い潰れた人の介抱とかいろいろ手伝いをしているうちに覚えちゃいました」
 博麗神社では宴会が多い。人妖を問わずに参加を許された宴会には、知り合いの鴉天狗もよく参加していると話していたか。
 多くの人妖がいれば、中には酒に弱いもの、あるいはウワバミに絡まれて潰されるものも出てくるだろう。
 だが、
「わざわざお前がすることでもなかろうに」
「まあ、性分でしょうか。私はあまりお酒が飲めませんし」
 苦笑して、妖夢は額の汗を二の腕で拭った。
 台所のほうでは、夕餉の香りが漂ってきている。
「……明日で、お別れなんですよね」
「……」
 床を磨く手を止めぬまま、妖夢は呟いた。
「寂しいのか?」
「……少しだけ」
 まだ出会って一日足らずなのだが、それでも妖夢にとっては忘れがたい、大切な時間だったのだろうか。その声色に力はなく。
 彼女たちは外界の住人だ。明日、八雲紫の式の力で元の世界に帰れば、それは今生の別れになるだろう。
 椛とて、別離の辛さを知らぬわけではない。だが、だからこそ、
「いまはいい。だが明日は、笑って見送ってやれ。そんな顔をしていては、彼女たちの心にしこりを残すことになる」
「はい……。椛はやっぱり強いですね」
「私は不器用だからな。感情を表に出すことが下手なだけだ」
 ちらりと妖夢のほうを見ると、椛と半人を隔てるように半霊がいた。
「……」
 妖夢はまだ若い。それに、冥界で暮らす少女だ。彼女のそばにいたのは、仕えるべき主人と、頓悟したと聞く祖父だけ。おそらく、別離の経験はほとんどないだろう。
 否。別離が辛いと思えるような友人さえ、いなかったのかもしれない。
 ――だが、いまは……
「私は、ずっといる」
 椛は言う。
「え?」
「私はずっと、お前の隣に、先にいる。いなくなったりはしないから、安心しろ」
 そんな友になりたいと、椛は思う。
 半人半霊の寿命を椛は知らない。だが、天狗より長いことはないだろう。
 ――だから、見送ることになるのは、私のほう。
「……はい。ありがとうございます」
 ぐしぐしと、布地のこすれる音がする。しばししてから半霊が動き、妖夢の顔が露になった。
 妖夢は、目元を少し赤くして、こちらに微笑みかけていた。
 応じて椛も微笑みを返し、
「さあ、早く済ませてしまおう。腹が減った」
「はい」
 ――これは、私のエゴだな。
 彼女に笑顔でいて欲しいがために、甘い言葉をかけている。彼女のためでなく、自分のためだけに言葉を紡いでいる。友として、良い行いとは言えないかもしれない。

 ――それでも……私は、妖夢に笑っていてほしい。そして、願わくば……

 願わくば、死が二人を分かつまで、共に在らんことを。










 …………










 色あせた博麗神社
「……なんだ、ここは?」
 世界に彩りはなく。見える景色は茶色が掛かった空と、石畳の境内。振り返れば、やはり彩りを失った社があった。
 辺りに人影もなく、椛は独り、神社の境内に立っていた。
 ――……なんだ?
 胸中で疑問を繰り返す。
 あのあと、五人で夕食をとって、それぞれ湯浴みをを済ませて布団に入って……たしか、そのまま就寝したはずだ。
 それがなぜ、
 ――いま、ここに立っている?
「ここはメリーの世界よ」
 唐突に返ってきた答えは、右隣から。見ると、腕を組んで難しい顔をする蓮子の姿。
「“世界”……とは?」
「そうね、一度に全部を説明するのは難しいんだけど……」
「あれ?」
 割って入った頓狂な声は。
「なに、ここ? あ、椛、ここはいったい……?」
 左隣で妖夢がきょろきょろと辺りを見回していた。
「これはね、私が見ている景色なの」
 そして、第四の声。その正体は、
「こんなにセピアじゃないけどね」
 神社の裏手から姿を現したメリーは、境内を指差す。
「見て」
 言葉とともに、境内に変化が起きた。
「これは……!?」
 地面が裂け、大小様々なスキマが現れたのだ。
 境内だけではない。神社を取り囲む木々にも、空にさえ、いくつものスキマが見える。
「メリーの眼は、世界の境界を視ることができるの。いま私たちが見ているのは、そんなメリーの眼に映っている世界」
「博麗神社は、私たちの世界と幻想郷との境界となる神社、だったかしら? だからかしらね。境界の数がすごく多いわ。特に……」
 と、メリーは境内を歩いてゆき、
「お、おい、あまり動き回っては……」
「大丈夫よ。慣れてるもの」
 慌ててあとを追う椛に軽く手を振りながら、メリーは境界を踏まぬようひょいひょいと軽やかに境内を進んで、やがてひとつの石畳の前で足を止めた。
「特に、これが気になるかしら」
 その石畳に張り付いた境界は、他のものより少し大きい。人ひとりくらいなら通れそうな大きさだった。
「この境界は最近、人為的に作られたものみたいね」
「分かるのか?」
「ええ。他の境界よりも綺麗だもの」
「……」
 椛はぐるりと見回して、他の境界と見比べてみたが……
 ――違いが分からん。
「ほら、この縁取りとか……」
 眉間にしわを寄せる椛を見て、メリーはしゃがんで境界に指を這わせる。
 と、
「あら?」
 その身が前のめりに傾く。その先には、口を開いた大きな境界。
「ッ、メリー!」
 このままでは落ちてしまう。椛は慌ててメリーの手を取った。
 しかし、
「な、にぃ……!?」
 引き戻すことができずに、逆にこちらまで引き込まれてゆく。
 飛ぼうとしても、引き込む力が強すぎる。メリーはもはや完全に境界の中に引きずり込まれ、椛も膝をつかされ、右肩まで境界に飲み込まれていた。
 ――このままでは、私も……!
「メリー!」
「椛!!」
 蓮子と妖夢が声を上げながらこちらに駆けてくる。
 だが、
 ――間に合わない……ッ!
「ぐ、う……ッ!」
 ずるずると、残った半身まで引きずり込まれ。
「椛!!」
 再度の呼びかけ。応じたいが、しかし残った左手を境界の縁に引っ掛けることで精一杯で声も出せない。
 そして、
「……ッ!」
 ずるり、と。
 ついに左手も空を掻き、椛は境界の中へと飲み込まれていった。










 …………










「椛!!」
 布団を跳ね除けて妖夢は飛び起きた。息は荒く額にじっとりと汗を感じる。
 柔らかく、温かな布団の感触。縁側へ続く襖から差し込む光は弱く。
「……?」
 ――ここは……
 博麗神社の居間だ。先ほどまでは境内にいたはずなのに……
「夢……?」
「そう、夢よ」
 横を見れば、身体を起こして額に手を当てうなだれる蓮子の姿。
「でも、メリーの夢は現実に作用する」
「え?」
 背筋を冷たいものが伝う。
 妖夢は震える瞳で室内を見回した。部屋に敷かれた布団は四組。蓮子と、メリーと、椛と、そして自分のものだった。
 二組が、空になっていた。
「いままでは、夢の中で何かあっても影響を受けるのはメリーだけだったけど……とうとう、他の人も巻き込めるようになっちゃったのね」
「そんな……」
 椛とメリーが消えた。おそらく、夢で見たあのスキマに吸い込まれて、どこかへ行ってしまったのだ。
「あの境界、どこに繋がっているのかしら?」
「分かりません……」
「まったく、メリーのやつ」
 蓮子はやれやれと言ったふうにため息をつくと、布団を跳ね除け、立ち上がった。
「とにかく、メリーたちが消えたところに行ってみましょう。何か分かるかもしれないわ」
「……はい」
 妖夢は途方にくれていた。どうすればスキマの行く先を知ることができる? どうすれば、椛とメリーを助けることができる?
 自分にできるのは剣を振ることだけだ。いまの自分に、いったい何ができる?
 テキパキと服を着ていく蓮子に倣うように、妖夢は力なく立ち上がった。





「五時十一分三十二秒」
 空は朝もやに包まれ、ほんのりと白く。差し込む朝日もまだ弱い。
 夢で見た無数のスキマは、いまは見えず。
「ココね」
 境内の一角、ひときわ大きな石畳を二人は見下ろしていた。
 なんの変哲もないただの石畳だ。少なくとも、傍から見た感じでは。
 蓮子が恐る恐る、靴の先で石畳をつついた。
 コツコツと、乾いた音。
「……何もないわね」
「……」
「これ、剥がせないかしら?」
 言うなり蓮子はしゃがみこみ、石畳の縁に指を引っ掛けて、
「よっ……!」
 引っぺがそうと試みた。しかし、しっかりと敷き詰められた石畳である。少女の細腕一本でびくともするわけがなく。
 がり、がり……!
 爪の引っかかる音が無常にも響く。
「あいたぁ……」
 いつしか蓮子の指先は、赤く染まっていた。
 その光景を、妖夢はただ呆然と見つめ。
「ねえ、手伝ってよ。この下に何かあるかもしれないでしょ」
「……何もないわよ」
 様子に気付いた蓮子が声をかけるが、しかし妖夢は呆けたまま呟く。
「どうして、そう言い切れるの?」
「だって“スキマ”なのよ? どこに繋がっているのか分からない。それはスキマを通って冥界に来たあなただって知ってるでしょ?」
「だからと言って、この下に何もないって理屈にはならないわ」
「でも……」
「ねえ、あなた」
 力なく立ち尽くす妖夢に、立ち上がった蓮子は詰め寄った。
 互いの吐息さえ感じられるほどの距離。その黒い瞳に映る自分は、
 ――……ひどい顔。
 まるで覇気がない、死人のような顔をしていた。いまの自分は半人半霊どころか、八割ほど死んでいるな、と思っていると、蓮子が二の句を告げる。
「諦めてるの?」
「……私たちに」
 その問いに、真っ直ぐ返すことができず、
「私たちにできることは何もないわ。早く霊夢に話して、なんとかしてもらいましょう」
「それには賛成。でもね、」
 蓮子は妖夢から離れ、腰に手を当て仁王立ちして、
「私は諦めないわよ」
「どうして……?」
 いま、自分たちには何もできない。無力なのだ。あがいてどうする?
 そんな妖夢の内心を蹴飛ばすように、蓮子は高らかに言った。
「面白いからよ!」
「……は?」
 目を丸くする妖夢に、蓮子はさらに言い募る。
「何よ、冥界って。何よ、幻想郷って。こんなに面白いところに放り込まれて、じっとなんてしていられないわ!
 メリーのことは心配だけど、だからこそ行動あるのみ! できることがあれば、とにかくトライよ! 無駄だろうが知ったこっちゃないわね!
 トライ! エラー! トライ! エラー! 何度でも試して、何度だって失敗してやるわよ。だって、試した数だけ、失敗した数だけ、メリーに近づけるんだもの。
 妖夢、あなたはどうなの?」
「ど、どうって……?」
「こんな時だからこそ、動かなきゃ。ね?」
「…………」
 その真っ直ぐな瞳に圧倒され。
 ――ああ、私は……
 いつの間に、こんなにも弱くなっていたのだろう。いつから、こんなにも彼女に依存するようなっていたのだろう。
 この身体は、まだ小さい。剣の腕は、椛に師事して少しは上達したと思う。
 だが、心はどうだ。
 彼女は――椛は、強くて、かっこよくて、優しくて。だから、甘えていた。自分が持っていないものをたくさん持っている彼女に頼りきっていた。
 ――私の心は、まだ弱い。
 自分の目標は何だ? 自分にとって、犬走椛とはなんだ?
 ――私の目標は、椛に勝つこと。そして、私にとって椛は……
 瑠璃の瞳に、光が宿る。
 ――大切な友達だ!
「そう……そうね。……ありがとう、蓮子。私も二人を助けたい!」
「よし!」
 妖夢の言葉に、蓮子は満足げに頷いた。





「さて。で、どうする?」
「うーん……」
 意思は固まったとはいえ、何も方策が思いつかないのも事実だった。
 椛とメリーはスキマの向こう。そして、そのスキマの入り口は蓮子と妖夢には見えず、また出口がどこかも分からない。
 手がかりになりそうなものと言えば、二人を飲み込んだスキマが貼り付いていた、この石畳のみ。
「……」
「……」
「……とりあえず、さ」
 妖夢は背の楼観剣を抜きつつ、
「斬ってみる?」
 人手が増えたとて、二人でこの大きな石畳を剥がすことは不可能だろう。ならば、この楼観剣で切り取ってしまえば。
「できるの?」
「たぶんね」
 まあ、さすがに生の楼観剣ではいまの妖夢には不可能だけど。そうひとりごちつつ、妖夢は懐から一枚の符を取り出した。
「蓮子、危ないから離れてて」
 符を口にくわえて、楼観剣を正眼に構えて。ぴんと意識を集中させて、定めし狙いは石畳。
 蓮子が十分に離れたことを確認してから、妖夢は告げる。
「断迷剣『迷津慈航斬』!!」
 宣言とともに、くわえた符が妖夢の霊力を吸い取る。僅かな脱力感。しかしそれも一瞬のこと。符はすぐに増幅した霊力を妖夢に返して、それは口を伝い、身体を伝い、腕を伝って楼観剣へ。そして流れた霊力は楼観剣を包み込んで、空色の刀身を成した。
「おお!」
 その刀身、ゆうに妖夢の慎重の二倍以上はあろうか。
 形作られた長大な霊力の刃を、妖夢は大上段に構え。
 ――お願い、楼観剣。道を切り開いて!
「いきます!」
 思い切り振り下ろした。
 その瞬間、
「いくな!」
 叱責とともに飛来した数枚の札。それは狙いたがわず妖夢の背に直撃した。
「みょぎゃ!?」
 妖夢は大きく身を跳ねさせ、そしてぱたりと倒れた。符の効果が切れ、かりそめの刃を失った楼観剣は地に落ち、ガシャリと小さな悲鳴を上げる。
 身体が痺れて動けない。自身に何が起こったのか分からない妖夢のもとへ、蓮子が駆け寄ってきた。
「ちょちょ、何するの!?」
 しかし、その声は別のほうへ向けられている。応じる声は、
「何って、あんたらねえ……」
 呆れと怒りの混じったこの声は、
「神社を壊すな!」
 霊夢だった。










 …………










 ――なんだ、ここは……?
 ここ数日のうちに何度したかも分からぬ問いを、またもや椛は胸中で繰り返していた。
 境界の中は、わけが分からなかった。
 まず、方向感覚が狂った。自分がいま、前後左右上下のどちらを向いているのか、まるで見当がつかない。
 次に気が狂いそうだった。どこを向いても淀んだ紫色。そこかしこに浮いた無数の目玉は、一様にこちらを見ているように思えて。
 唯一確かなのは、握った手の感触。まだ、メリーがそこにいること。
 とにかく、と椛はメリーの手を引き、抱き寄せた。いつまでも宙ぶらりんのままでは都合も悪かろう。
「あら、大胆ね」
 どうやら、聴覚と視覚は正常に機能しているようだ。胸元から、メリーがこちらを見上げてそんな寝言をのたまったのが聞こえた。
「悠長なことを言っている場合ではないだろう」
「大丈夫よ。そのうち、どこかに出るわ」
 ぐるりと辺りを見回して、メリーは笑う。つられて椛も見回して。
 ――やはり、気味が悪い。
「慣れているのだな」
「ええ。境界旅行はライフワークのひとつなの」
「……そうか」
 酔狂なライフワークである。
 とは言え、経験者がいるのはありがたい。待てばよいというのならばと、椛は大人しくこの“境界旅行”とやらに身をゆだねてみることにした。
 ゆらゆらと、椛とメリーは境界の世界をたゆたう。景色こそ不気味極まりないが、その揺れはゆりかごの中にいるかのようで、どことなく心地よい。
 ――母親の胎内とは、このようなものだったのだろうか……
「これも、メリーの視ている世界なのか……?」
「いいえ。これは現実」
 ぽつりとこぼした疑問にメリーが答えた。
「この境界に入った時点で、私の力は途切れているわ。だって、私はこうして目を覚ましてしまったんだもの。ここは私の世界などではなく、現実、幻想郷にある境界の中」
 つまり、
「この身体も、私のものなのだな」
「そうよ」
 博麗神社の居間から、メリーの夢を通って境界の中に来てしまったということか。
「……」
 妖夢が心配だった。先ほどもひどく動揺していたようだったし、
 ――早く戻ってやらねば……
 また、どんな無茶をしだすか分からない。
「ねえ、犬走さん」
 と、物思いに耽っていたところで、胸中のメリーが声を上げた。
「なんだ?」
「魂魄さんのこと、どう思ってる?」
「どう、とは?」
 質問の意味を図りかねて問い返すと、メリーはいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「好きか嫌いかってこと」
「ふむ……? それは、好きだな」
「友達として?」
「友達として……だな」
「本当に?」
「?」
 図りかねる。
 メリーはいったい何が言いたいのか、椛に何を言わせたいのか。
 その答えを聞き出そうとした、その時。
「!」
 進行方向、左手の方角に白い光が見えた。
「出口か」
 椛はメリーをさらに強く抱き寄せ、身を捻って光のほうへと足をむけて着地に備えた。
「何があるか分からない。気をつけろよ」
「はぁい」
 緊張感のない応答に若干の不安を募らせつつ、眼下には出口と思われる光。よく見ると、それは入ってきたところと同じような形をしていた。即ち、スキマ。
 この先に待っているものは、いったい何なのか。
 ――魂魄妖夢とは、私にとって何なのか……?
 ふとよぎった疑問。友人でないとしたら、いったい何だというのだ。
 違う、いまはそれを考えている場合ではない。
 椛は軽く頭を振って、改めて眼下を睨み据えた。
 ――いまはこちらに集中せねば。
 いよいよ光は視界いっぱいまで広がって、そして――





 ざ、と。高下駄から伝わる確かな感触に、椛は安堵の息をついた。
「ひとまず、足場のあるところに出られたようだな」
「そうね」
 腕の中のメリーをそっと降ろしてやってから、椛はあたりを見回した。
 ――和室……だな。
 畳の床に漆喰の壁、板張りの天井。部屋の隅には動物やら何やらの置物があって、壁には額に入った書や、怪しげなお面などがかけられていた。
 部屋の中央には丸いちゃぶ台が置かれていて、その上にあるものは。
 金属の土台を硝子で覆い、中に記された方位と、それを示す磁針。これは、
 ――羅針盤、というものだったか。
 よく見ると、この部屋は綺麗な正方形で、各壁がそれぞれ東西南北と垂直に交わるようになっているのが分かった。その上で考えると、部屋の各所に設置された奇妙の物体の数々。そして羅針盤。
「これは、風水的な何かかしらね?」
 椛の横からちゃぶ台を覗き込んだメリーが、椛の考えていたことを呟く。
 と、
「な……」
 声が、聞こえた。
 椛とメリーは羅針盤に落としていた視線をゆっくりと上げる。
 ちゃぶ台の先には布団があって。布団から上半身を起こしてこちらを見る少女がいた。
 寝癖の少々目立つ髪の毛と、大きく見開いた瞳はどちらも鼠色。
「なな、なんだ、貴様ら、いったいどこから……!?」
 少女はがばりと飛び起きると、二人とは反対側の壁際まで後退した。そして二人の姿をまじまじと見て、
「む!?」
 その目が椛の頭部と臀部を捉えた瞬間、鋭く光った。……ような気がした。
「貴様! 物の怪の類、だな?」
「……そうだが」
「よし! しばし表で待て!」
 びっ! と少女が指差した先には、引き戸がひとつ。
「ええと……」
「早く行くのだ。我は着替えてから行くゆえ」
 状況が把握しきれず、どうしたものかと首を捻る椛に、少女はもう一度、びっ! と戸に指を突きつける。
「とりあえず、行きましょ」
「う、うむ……」
 メリーに促され、ようやく椛は歩き出した。





 部屋の外は、別世界だった。
 先ほどの和の装いなどはまるでなく、ただ無機質な……
 ――これは……石、か?
 床に視線を落として、椛は眉間にしわを寄せた。
 白く、濁りのほとんどない鉱石のようなものが、床には敷き詰められていた。壁も、天井も同様のつくりなのだろうか。やはり、白い。
 道幅はやや広く、廊下というよりは施設の通路のように思えた。
「よかったわね、人がいて」
 戸の横に並んで二人。隣のメリーがころころと笑いながら言った。
「ああ、いたはいたが……」
 話の通じる相手かどうか、若干の疑問が残る。見たところ、ただの人間のようだったが……
 ――私を妖怪と知っても、取り乱していなかったな。
 妖怪にとって人間は捕食の対象であり、人間は妖怪に恐怖するのが普通である。しかし、彼女に怯えの様子は全くなかった。
 いや、それどころか、
 ――あまりにも好戦的な眼をしていた。
 あまり良い予感はしなかった。できれば、こんな所に長居はしたくないところだが、闇雲に歩くこともまた、危険だ。まずは彼女から話を聞かねばならないだろう。
「待たせたな」
 と、戸が開いて少女が姿を現した。
 藍色の烏帽子に白を基調とした道服。その装いはまるで、陰陽師と呼ばれる術者のように見える。
 やはり彼女は、
 ――退治屋の類、か……?
 だとすれば、こちらの話を聞いてくれるかどうか……
 とはいえである。とにかく話さねばと、椛は口を開いた。
「あの」
「では改めて……」
 しかし、願いも虚しく。
 椛の言葉を遮って道服は喋りだすと、椛と対峙するように後ろに跳んで距離をとった。
「貴様! この物部布都の寝込みを襲うとは、なんたる不届き!」
「は!?」
「だが褒めてやろう。太子様の御命を狙うのであれば、まずは我から倒しておかねばという考えは正解だ。我は太子様の右腕だからな」
「いや、まて、誤解だ。私たちは」
「しかし我の力を甘く見たな! たった二人で我を倒そうなどとは片腹痛いわ! 物部の秘術と道教の融合、とくと味わうがよい!!」
 ――まるで人の話を聞かない!!
 懐から符を取り出して構える道服――物部布都とやらの姿に、椛は早々に切り札を切った。
「ま、待て! こちらには人間がいるぞ! 巻き込む気か!?」
「何ッ!?」
 メリーの肩に手をかけ、こちらに引き寄せながら叫ぶと、布都の動きが止まった。もはや完全に人攫いの様相であるが、これで話を聞いてもらえるはずだ。
「……侵入者の殲滅が第一!」
「えっ」
 その言葉の意味を理解するよりも早く、
「くらえ! 炎符『廃仏の炎風』!!」
「えええ!?」
 問答無用で掲げられた符の力が解放され、無数の炎弾が降り注いだ。
 ――馬鹿なのか!?
 ただの人間が食らえばひとたまりもないだろう。妖怪を退治するために、守るべき人間もろとも焼き払おうなどと、本末転倒だ。
 とにかく逃げねば。椛はメリーを抱えて駆け出した。
「む!? 逃がしはせんぞ!」
 背後で炎弾の炸裂する音。次いで布都が追ってくるが、天狗の足である。追いつくことはないだろう。
 白い通路をメリーを抱えた椛は振り返ることなく走り、一つ、二つ、三つ目の十字路を右に曲がってからメリーを降ろした。
「ここで待っていろ」
「あ、待って、危ないわ」
 そして背の盾と大太刀を抜きながら告げると、メリーが忠告の声を上げた。無論、承知のうえである。だが、まずは大人しくさせなくては話もできない。
 中央に真っ赤な楓模様がスタンプされた楕円形の盾を左手に着けて、革製の鞘はメリーに渡して準備完了だ。大太刀を横にびゅんと振り払い、気合を入れてから椛は再び通路へと躍り出た。
 その眼前に、
「え」
「逃がさんと言っただろう、物の怪めが!」
 木船に乗った布都が追ってきていた。
「おおお!?」
「馬鹿め! この“天の磐船”からは逃げられぬぞ!」
 慌てて椛は踵を返してメリーの元に戻って、メリーに背を向け身を屈めた。
「乗れ! 一時撤退だ!」
「だから危ないって言ったのに」
 メリーが素早く背にしがみつくのを確認してから、椛は全速力で走った。
「ははは! 無駄じゃ無駄じゃ!」
 ざばぁ! と水しぶきを上げながら、船に乗った布都が曲がり角を曲がって追いすがる。
「くそ! あれはいったい何なんだ!?」
 あの船はどうやって動いている? というか、まずあんなものどこから出した?
 毒づく椛の耳に、メリーの声が入る。
「次の角を左に曲がって」
「何故だ!?」
 問いつつ、言うとおりに椛は左に曲がった。他に頼りがないゆえ、藁にもすがる思いだった。
「境界の気配を感じる……気がするわ。あ、そこ右」
「大丈夫なのか!?」
「たぶん。間違ってたらごめんなさいね」
「いや、その時はその時だ!」
 メリーの指示に従って右へ、左へ。背後からは高笑いが船とともに迫ってきている。速さはほぼ互角。追いつかれることはないが、振り切ることも難しい。
 こちらは体力を、向こうは霊力を消費し続けている。どちらが先に息切れするか分からない以上、できるだけ早く撒きたいところだった。
 しかしこの建物、異常なまでに広い。通路の先がかすれて見えない。千里眼を以ってしても、である。これは、
 ――何らかの力が働いている、ということだろうか。
 空間が歪められている? あるいは他の何かが……?
「次を右に!」
「応!」
 何度目かの指示に従って十字路を左に。
 と、
「!」
 曲がった先、前方にも無機質な壁が見えた。
 即ち、
「ちぃ……!」
 行き止まりである。
 しかし、いまさら進路は変えられない。とにかく椛は通路の端まで駆け寄って、
「おおッ!」
 壁に向かって大太刀を振り下ろした。
 ギィン!
 しかし、一刀は虚しく弾かれて。
「ぐ……!」
「はっはっはっ! 年貢の納め時だな、物の怪!」
 追いついてきた布都が船から飛び降りた。同時に船は霞となって散り消えて。
 これはいよいよもってまずい。逃げ道は怪しげなトンデモ道士にふさがれ、こちらにはか弱い人間がひとり。
「待て! 話を聞いてくれ!」
「問答無用! 恨み言ならば地獄の閻魔に聞いてもらうがよい!」
 布都が手にした符で空に五芒を切る。
「椛さん、上」
 高々と掲げられた符を見ながら歯噛みをする椛の耳元に、メリーが囁いた。
「上?」
 見上げれど、そこには白い天井があるばかり。
「境界があるわ」
「なんだと!?」
 椛には見えないものが、メリーには見えている。
 即ち、
「この場を切り抜けるには……」
「ええ、行くしかないわね」
 しかし、どう見てもただの天井である。ここに向かって思い切り跳んで、もしも頭を打ては痛いでは済まないかもしれない。
「炎符『廃仏の炎風』!!」
 が、そんな逡巡など意味もなく。再び襲い掛かる火焔の群れ。もはや猶予はなく、選択肢もない。
「ええい、ままよ!」
 椛は大太刀を天井に向けて思い切り跳んだ。





 覚悟していた衝撃はなく、大太刀はするりと天井にめり込んで。
「お、おお……?」
 そのまま柄、手、腕と入っていって、
「ッ!」
 さすがに頭が近づいた時は目を閉じてしまったが、やはり脳を砕かんばかりの衝撃はなく。
 開いた瞳に映ったのは、本日二度目のスキマ内部空間。
 無数の目玉に見つめられ、入った時の慣性をそのままに、椛の身体はメリーを背負ったまま上へ、上へ。布都とかいう道士が追ってくる様子はない。
「なんとか、撒けたか……?」
「だといいけれど。それよりも、次はどこに出るのかしらね?」
 ひとまずの脅威は去ったかと椛は息をつき、やがて頭上から差し込む光に気付いて、気を引き締めなおした。
 光は、何かの隙間から漏れ出ているようだった。右手の大太刀を盾とあわせて左手に持って、扉のように四角く縁取り差し込む光の真ん中に椛は手を添えて。
「行くぞ」
「ねえ、椛さん」
 耳元でメリーがささやきかける。何故だか、その甘く、艶のある声色に、頭がくらつく。
「……なんだ?」
 手の位置はそのままに、椛はメリーのほうへと顔を向ける。すぐ眼前にあったメリーの顔は、とても可笑しげだった。

「あなた、妖夢さんに恋しちゃってるのね」

 ――何を言っている?

 恋だと?

 誰が?

 誰に?

「……何を言っている?」
「分かるのよ。私も蓮子に恋しているから」
 ――メリーが、蓮子に恋をしている?
 ――そして? 私が? 妖夢に?
 色恋沙汰には疎い椛だが、一つだけ分かることがある。
 ――女同士は、おかしい。
「メリー、お前は何か勘違いしている」
「そんなことないわ。いまはまだ自覚ができていないだけ。いずれ気付く時が来るわ」
「いや、自覚と言われても……」
 ころころと、笑う。
 その、こちらを見透かしたかのような笑みは、なんとなく苦手だった。
 妖夢は大切な友達だ。大切な、大切な。親友といっても差し支えないだろう
 そして、いまはまだ未熟だが、いずれは自分と対等に剣を交えることができるだけの素質を持った、ライバルでもある。
 そんな彼女に、

 ――私は、恋慕の情を抱いている?

 ありえない。……とは、言い切れないのかもしれない。椛自身、妖夢といると安らぎを覚えるし、ずっと一緒にいたいと思う。もしも、もしもこの感情が“恋”と呼ばれるものなのだとしたら……
 ――だとしたら、私はいったいどうしたら……?
「無理して理解しようとしなくていいのよ。時間をかけてゆっくり受け入れていけば。さあ、早く二人のところに帰りましょ」
「い、いや……?」
 こうして、自分の言いたいことだけを言って、相手を置いてけぼりにするところも、苦手だ。
 考えがまとまらないままだが、いまは捨て置かざるを得ない。まずは帰らねばならないのだ。椛は頭を二度、三度と振ってから、改めて頭上のスキマを押し上げた。





 ずっ……
 確かな重みと、石の擦れる音。椛は少しずつスキマを押し上げ、開いた隙間から外を窺う。
 見えたのは、石畳の境内と、賽銭箱を抱えた社。そして、賽銭箱の前に座り込んだ少女がひとり。
 黒髪黒目。黒のスカートに白いブラウス。胡坐をかいて、膝の上に頬杖をついてぼんやりと空を眺めている。
「あ。」
「……あっ」
 目が合った。少女の目が見開かれる。
 椛はスキマ――石畳を下から一気に押し上げ、スキマの中から這い出した。その間に黒髪少女がこちらに駆けてくる。背のメリーを下ろしてやると、メリーは両手を広げて、
「メリー!!」
 全速力でその胸に飛び込んできた蓮子を抱きとめた。思い切り後ろにのけぞり、再びスキマに落ちかけたが、椛がメリーの背中に手を添え支えてやって。
「もう! また心配させてくれたわね!」
「ごめんごめん」
 ――戻ってこれたのか……
 見回せば、そこは寂れた神社の一角。間違うことなく、博麗神社だった。
 だとすれば……
 ――妖夢はどこだ?
 社のほうを注視して、椛はようやく気が付いた。賽銭箱の前に横たわる銀髪と霊魂の姿を。先ほどまでは、蓮子の陰になっていて見えなかったようだ。
 抱き合う二人はさておいて、椛は社のほうへと歩いていった。
 ――……平常心、平常心。
 なんとなく、言い聞かせつつ。
「何をしてるんだ?」
「あ……」
 仰向けにねっころがった妖夢の傍らにしゃがみこみ、顔を覗き込んで言うと、その表情が歪んだ。
 目を見開き、固く閉じて、顔を振って。やがて開いた瞳には涙が溜まっていて。
「椛、椛ぃ……!」
「こら、泣くやつがあるか」
「でもっ……でも、心配したんですよ……」
「……ああ、すまなかったな」
 銀髪を優しく撫でてやると、妖夢は涙を流しながらも笑ってくれて。
「ところで、なんで寝ているんだ?」
「……あー」
 不審に思って椛が問うと、妖夢はばつの悪そうな笑みを浮かべて。
 動こうという意志は見て取れるのだが、どうにも身体の自由が利かないのか、妖夢は身体を起こすこともなく。
「名誉の負傷ってやつかしら」
「そ、そんな感じ……」
 すぐ後ろに戻ってきていた蓮子の笑みを含んだ言葉に、妖夢は小さく首を縦に動かした。
「?」
 と、
「逃がさぬぞ物の怪めがぁー!!」
 ずらしたままだった石畳を吹っ飛ばして、スキマから布都が飛び出してきた。
「ええい、しつこい」
 椛は嘆息して立ち上がった。盾と大太刀を持ち直し、布都のほうへと歩いていく。
「少し待っていろ」
 先ほどはメリーがいたうえに屋内だったため、逃げに徹さざるを得なかったが、ここならば目一杯暴れられる。
 ――ちょうど、ひと暴れしたいと思っていたところだ。
 椛はギラついた目で布都と対峙する。
「やはり、逃げるのは性に合わんな」
「ほう、ようやくやる気になったか?」
「ああ。今度はこちらの番だ」
「我の力があの程度だと思うなよ? さっきまでは太子様のおられる霊廟だったゆえ、力を抑えていたまで。いまこそ見せてやろう! 我の真の力を!」
 吠えて布都は懐から符を取り出し、五芒を切って点に掲げた。
「改めて思い知るがいい! 物部の秘術と道教の融合を! 炎符『桜井寺――」
「だから神社で暴れるな!」
 叱責とともに開いた数枚の札。
「!?」
「えんぎゃ!」
 椛は慌てて後ろに跳んで避けたが、いままさに術を発動させようとしていた布都は避けられず、直撃を受けてその身を大きく震わせた。
 布都は、ふらりふらりと後ずさり、
「お、覚えておれよ……」
 捨て台詞を残してスキマの中に消えていった。
「……お断りだが」
「まったく」
 鼻息荒くこちらに歩いてきたのは、霊夢だった。
 霊夢は椛とメリーの姿を見ると、
「あら、自力で戻ってこれたのね」
「なんとかな」
 少しだけ、安堵の混じった息をついた。
「じゃ、私はお役御免かしらね。藍、あとは任せたわよ」
 そして背後にひらひらと手を振りながら、布都が吹っ飛ばした石畳のほうへと歩いていく。
 霊夢が手を振った先、神社の裏手から現れた人影はひとつ。
「……ほう」
 その美しさに、思わず椛は吐息を漏らした。
 青と白の導師服を身にまとう、金の髪、金の瞳の美女。その頭には、ピンと尖った耳をぴったり覆う白い帽子を被り。そして臀部から花弁のごとく広がるは九本の金の尻尾。
 胸の前で組むように、口の広い袖に両手をしまい込んだまま、女はこちらに歩いてくる。その様に、椛は驚嘆した。
 淀みのない、確かな妖気。しかしプレッシャーは感じない。椛を威圧するでなく、ただ自然な佇まいでありながらも感じ取れる、その強大さ。
 ただ者ではない。彼女が、
「貴女が、八雲紫殿の式、ですか」
「ああ。私は八雲藍。紫様の式だ。君が犬走椛だね。噂は聞いているわ」
 そして妖狐はやんわりと微笑んだ。
「私のことを知っているのですか」
「紫様と、妖夢の主人――西行寺幽々子様は旧い友人でね。紫様はよく白玉楼へ遊びに行かれるのだよ。私も式として随伴しているんだけど、その時に幽々子様が話しているのを少し、ね」
「なるほど」
「うん。君とは色々話をしてみたいところだが、いまは向こうが優先よね」
 藍の視線の先、社のほうでは未だに倒れたままの妖夢と、その傍らに座り込んでこちらを見ている蓮子とメリーの姿があった。
 歩き出した藍のあとに椛はついていって。
 と、背後でごりごりと石の擦れる音が聞こえた。ちらりと見てみると、布都に吹っ飛ばされた石畳を霊夢が元の場所に戻そうとしていた。蹴りで。
 ――結構、雑なのだな。というか、人間の蹴りで動かせる重さだったか……?
 しかし、意外にも石畳は霊夢の足蹴に従ってごりごりと動いている。
 まあ、動かせているなら良いかと、椛は視線を戻して藍を追った。
 社の中では、蓮子とメリーが瞳を輝かせていて。
「わー、綺麗……」
「ね、尻尾さわってもいい?」
「ふふ、構わないよ」
 言って藍は二人に背を向け腰を下ろして。目が合うと、藍は苦笑しながら肩をすくめた。
「やった!」
 蓮子は素早く藍の近くまで寄ると、躊躇うことなく手をのばした。
「……!!」
 しばし、わさわさと尻尾を撫で回していた蓮子だが、やがて頭を九尾の中に突っ込んだ。藍の肩眉が跳ね上がるのが見えた。
「なにこれすごい! すっごく暖かいし気持ちいいわ!」」
 尻尾の中で騒いでいる。
 蓮子は片手を九尾から出してメリーに手招きをした。
「メリーも触ってみなよ! すごいよこれ!」
「それじゃあ、私も失礼しますね」
 メリーのほうは慌てず騒がず、藍の傍らに移動すると、尻尾の一本を優しく撫でて。
「あら、本当に気持ちいい。そこらのブランドよりも断然いいわ」
「でしょ? ねえ、これ一本もらっていい?」
「それは御免被りたいな」
 藍の微笑が引きつり始めた。蓮子なら、うっかり切ってしまいかねないと、そう思っているのだろうか。
 ――まあ、やりかねないよな……
「では、そろそろ行きましょうか」
「ああん」
 声色は平素のままに藍は立ち上がり、尻尾を軽く震わせて蓮子をふるい落とした。
「妖夢、大丈夫?」
「あ、藍。お久しぶりです。いやぁ、自力で動けるようになるまでは、もう少しかかりそうですね」
「ふむ。これは……」
 藍は妖夢の姿をまじまじと見つめ、やがてひとつ頷いた。
「霊夢の術をくらったのね? それなら何とかなるかな」
 妖夢の額に手をあてて、藍は何事か小さく呟いた。
 瞬間、パキンと何かが割れるような音がして、妖夢がひょこりと身を起こした。
「おお!?」
「身体を拘束していた霊夢の霊力に干渉して中和してみたのだけど、上手くいったみたいね」
「ありがとうございます、藍!」
「……?」
 魔術的、妖術的な知識には疎い椛は、なんかこう器用なことをしたんだなと、なんとなく感心しておいた。
 ともあれ、これで全員。
 藍はぐるりと社の中に揃った面々を見回して、
「では、行きましょうか。時間はあまり残されていないかもしれないからね」
 袖の中に隠していた手をだし、人差し指と中指をそろえて伸ばして縦に一文字。すると、白く、綺麗な指の奇跡に従うように、虚空にスキマが現れた。
『!』
 椛、蓮子、メリーの三人は目を瞠り、その様子に藍は苦笑して。
「紫様はいま、冬眠されておられる」
「やっぱり熊の妖怪――」
「結界の維持や管理には、かなりの妖力を必要とする。紫様にとっての冬眠とは、冬の寒さを凌ぐためのものではなく、浪費した妖力を回復するための期間だよ」
 まあ、それでも私程度では太刀打ちできないほど強いけどね、と藍は付け加え。
 蓮子の茶々にも真面目に答える。式ゆえ、問いには解答を提示することが義務付けられているのだろうか。
「話がそれてしまったわね。まあつまり、紫様が休まれているいまは、私が結界の管理を任されている。そのため、いまの私には紫様の力が限定的ながら貸し与えられていてね。これくらいは造作もないのよ。
 これは結界の歪みから発生したスキマと違って、きちんと安定させているから怖がらずに通ってちょうだい」
「これは、どこに繋がっているんです?」
 椛の問いは、当然のものと言えよう。何しろ、ここ数日の間だけで、このスキマには散々振り回されたのだ。神経質にもなってしまう。
「冥界だよ。二人が元の世界に帰るには、入った時と同じスキマを通る必要がある。
ただし、先も言ったとおり、空間の歪みなどから発生したスキマは不安定だ。いつ崩壊してもおかしくない。帰る意思があるなら早くしなさい」
「あ、ちょっと待って」
「私も」
 スキマへと足を踏み入れかけた藍を、蓮子とメリーは制止した。そして二人は社の外に小走りで向かっていって、
「霊夢さーん! ありがとー!」
 元の位置にはめ込んだ石畳をがしがしと踏みつけていた霊夢に手を振った。
 霊夢はこちらを見て、笑みを浮かべつつ小さくため息をひとつ。そして、応じて手を振り返した。
「はいはい、気をつけて帰るのよ」
「また来るわね」
「来んな!」
 これにはさすがに突っ込みを返して。
「よしっ、オッケーよ!」
「では改めて。行きましょうか」
 そして五人はスキマへと足を踏み入れ、博麗神社を後にした。





「お?」
 思わず、頓狂な声が出た。
 それも無理からぬことだろう。スキマに入ったと思ったら、目の前には白玉楼の門扉があったのだ。また、あの空間に放り出されると思っていただけに、拍子抜けである。
 見れば、前を行っていた蓮子とメリーもぽかんとした表情であたりをきょろきょろと見ている。
「私が作ったスキマだからね。移動のラグはないよ」
 藍が苦笑しながら教えてくれた。つまり、これが本来のスキマによる移動というやつなのだろう。
「これで死ぬのは二回目ね」
「まだよ蓮子。このあとには二回目の蘇生が待っているわ!」
 ちょっと違う気がする。
 そういえばと、椛は隣をちらりと見た。案の定、先ほどからずっと黙っていた妖夢は浮かない顔をしていた。
 ――そう簡単には、割り切れんよな。
 別れの時は近い。
 椛は妖夢の頭に手を乗せて、
「辛いだろうが、いまは笑ってやれ」
 他の連中には聞こえないようにささやく。
「……はい」
「では妖夢、件の場所まで案内してくれるかな?」
 出した時と同じような動きでスキマを閉じた藍が、こちらに顔を向けて促した。
「分かりました」
 頷き、妖夢は歩き出し、
「……あ、ちょっと待っててもらってもいいですか?」
 ふと何か思いついたのか、踵を返して白玉楼の中へと駆けていった。
「どうしたのかしら?」
「さて……? ああ、いまのうちに聞いておこうか」
 と、藍は思い出したように呟き。
「二人とも、幻想郷のものは何も持っていないだろうね?」
「幻想郷のもの、ですか?」
「ああ。ここは人間たちに忘れ去られたものの世界だ。外界の人間に広く認知されるようなことになれば、幻想郷そのものの存亡に関わってくる。まあ、君たちはまだ学生。騒いだところであまり影響はないと思うが、念のためにね。申し訳ないが、ここで得たものは置いていってもらいたい。それと、この世界のことも他言無用でお願いね」
 幻想郷の存亡、その言葉に、蓮子とメリーは身を固くした。
「と言っても、これといったものは何もないのよね」
「ええ。私たち、お金なかったし」
「盗むわけにもいかないものね。……あ、強いて言えば、これくらいかしら」
 蓮子がブラウスの胸ポケットから葉っぱを一枚、取り出した。冥界を出る際に拾っていた、冥界の紅葉だ。
「ふむ……大したものではないが、渡してもらおう」
「ダメか」
「仕方ないわ。諦めましょう」
 手にした紅葉を、蓮子は名残惜しげに藍に渡して。
「すまないね」
 その折、妖夢が屋敷から戻ってきた。
「お待たせしました」
 その手には、見覚えのある竹製の小さな籠と風呂敷を腕に引っ掛けていて。
「どうかしましたか?」
 しょぼくれた様子の蓮子を見て妖夢は眉をひそめた。
「あー、なんでもないわ。気にしないで」
 ぱたぱたと手を振る蓮子に、妖夢は小首をかしげて、やがて踵を返して歩き出す。
「そうですか? ……では、行きましょうか」
 少し無理しているようにも見えるが、妖夢はいつもの様子で先導し――



「ねね、椛さん」
「なんだ?」
「やっぱりその尻尾、触らせてもらえない?」
「藍殿の尻尾を触っただろう。それで我慢しろ」
「えー」
「椛の尻尾は気持ちいいですよ。藍の尻尾も素晴らしいですが……うーん、甲乙つけがたい……!」
「……なに、妖夢って尻尾ソムリエか何かなの?」
「さあ?」



 その歩は少し、ゆっくりで。



「妖夢さん、イイコト教えてあげましょうか。
「なんですか?」
「メリー」
「実はね、」
「メリー」
「椛さんって、」
「メリー」
「あなたのこむぐ」
「マエリベリー・ハーン」
「むぐ、むぐ」
「椛?」
「気にするな」
「なになに、気になるわね。二人とも、スキマに落っこちてから戻ってくるまでに何かあったの?」
「何もない」
「むぐー」



 別れを惜しむように。



「メリー」
「なに?」
「悪いが、いまの私にはお前の言っていることの全てが理解できていない。」
「そう。別に構わないわ。私は思ったことを言っただけだもの」
「ただ……少し、考えてみるよ」
「そう。……ふふ」



 互いの姿を、声を忘れぬように、言葉を交わす。



「蓮子」
「ん?」
「ありがとう」
「どしたの、急に?」
「蓮子のおかげで目が覚めたから。
 私、椛に頼りすぎてた。これからは、もっと自分で考えて、自分の意思で行動していくわ」
「そうね。後悔なんて後ですればいいもの、何でも試していきましょ。トライ・アンド・エラーよ」
「うん。トライ・アンド・エラー! トライ・アンド・エラー!
 ……ところで“トライ・アンド・エラー”ってどういう意味?」
「…………」



 やがて一行を出迎えたのは、大きな、大きな桜の樹。
「藍、これです」
 その近くに生える、ふたまわりほど小さな桜を妖夢は示した。
「どれ……」
 袖の中に手を入れたまま、藍は桜をまじまじと見つめ、
「なるほど、確かに結界の歪みが見て取れるわね。でも、それほど致命的なものには見えないけれど……何かきっかけがあったのかしら」
『あ。』
 藍以外の全員が声をあげた。
「……とりあえず、一人ずつ話しを聞かせてもらおうかしら?」
 笑顔のまま、しかし額に青筋を浮かべた藍の詰問が始まった。





「ふむ……」
 一通りの話を聞き終えて、藍は思案顔を浮かべる。
「外界では墓地の配置と丑三つ時。冥界では季節はずれの桜の開花、ね。
 動かした墓石などが陣のような役割を果たし、時刻がその陣を強力なものにして、そして桜――西行妖の影響で妖怪化しかけた桜が開花によって大きな妖力を放出し、結界の歪みを大きくしたのかしら」
 ぶつぶつと何事かを呟き、そしてひとつ頷いてから四人に向き直った。
「……とにかく、再現をしてみましょう。妖夢、“春”は持ってきている?」
「はい、ここに」
 手にした籠を妖夢は掲げた。やはりあの籠の中身は“春”だったようだ。
「本当はお見送りのために用意したんですけど、持ってきて正解だったみたいですね」
 呟きながら、妖夢はあの時と同じように一掴みの春を半霊に乗せて。
「蓮子、メリーさん。見てください。これが冥界の桜です」
 桜の上まで移動した半霊は、その身を震わせ“春”を振りかけ、しばし。
「わぁ……」
「す、ごぉい……」
 変化はすぐに現れた。
 秋も半ば、紅葉を半ばまで残した桜にいま、一足早い“春”が訪れる。枝という枝の先端が膨らみ、つぼみを成して、一斉に花開いた。
 満開の桜。その美しさに、誰もが見惚れ。
「これでいいですか?」
「ああ、実に美しい」
 藍は目を細めて桜を見上げ、そして徐々に視線を下ろしていって、
「ここだね」
 幹の一部に目を付けた。
 藍は桜に近づき、その幹に指を這わせる。軌跡に沿って幹に亀裂が入り、スキマが現れた。
「これが……」
「やはり、いくつかの因子が絡み合って、スキマが開かれてしまったみたいね。
 ここを通れば、元の世界に帰れるでしょう」
「そう……」
 蓮子とメリーは一歩、二歩とスキマへと歩いていき、そして妖夢と椛に向き直り。
「妖夢、椛さん、色々ありがとう」
「二人に会えて、本当に良かったわ」
「こちらこそ、楽しかったです」
「達者でな」
「……ほら、妖夢! そんなにしょぼくれないの!」
「あ、ちょ」
 ――やはり、分かってしまうよな。
 平静を装っているが、やはり二人も気付いていたのだろう。蓮子は妖夢の頭に手をのせ、わしわしと撫で回した。
 そして、はっきりと言う。
「また来るからさ!」
「え……?」
「そうね。境界はここだけじゃないもの。探せば、また幻想郷に繋がる境界が見つかるわ」
「そしたらさ。また里を案内してよ。一日だけじゃ物足りないわ!」
「……はい、いつでも!」
 再開の約束を、しっかりと。
 蓮子と妖夢は固く抱き合い、椛はメリーと握手を交わして。
「次に会う日を楽しみにしてるわ」
「ふっ……勝手にしろ」
 そして少女たちは、スキマの向こうへと消えていった。
 スキマが消えるまで、妖夢はいつまでも手を振っていた。





 …………





「無事に、帰れたでしょうか?」
「藍殿もついている。問題なかろう」
 はらり、はらりと、桜は散って。スキマは消えて、騒がしい人間たちも、元の世界に帰っていった。
 また、冥界で音を持っているのは、一人と半分だけになり。
「よく我慢したな」
「……はい」
 穏やかな笑みを浮かべて椛は妖夢の頭を撫でてやり。同じく笑顔の妖夢の頬を伝うは、ひとすじの涙。
「さて、一昨日は呑み過ごしてしまったし」
 言いながら、椛は妖夢の持っていた風呂敷から徳利と銚子を取り出して、
「二人の無事を祈って、呑むとしようか」
「はい」

 秋深く、杯交わす、白と銀。

 季節はずれの、桜の下にて。










 …………










 背から伝わる体温が心地よい。
 蓮台野、その一角にある寺の墓地にて、蓮子とメリーは背中合わせで座り込んでいた。
「あ。十七時零分二秒」
「あらあら、いつの間にか随分と時間が経ってたのね」
 戻ってきたときは、まだ太陽は天上にあったはずだったが。
 それにしても、と蓮子は大きく息をつき。
「……死んだわね」
「ええ、そして生き返ったわ」
「死者の世界――冥界」
「そして、世界の忘れものが流れ着くという――幻想郷」

「魂魄妖夢と」

「犬走椛」

「人間の里」

「博麗神社」

 一つ一つ、思い出すように、刻み込むように呟きあって。
「でも残念ね。向こうのものを何も持って帰れなかったのは」
「ふっふっふ……甘いわね、メリー」
 ぽつりとこぼしたメリーの悔恨の言葉に、しかし蓮子は不敵な笑みを浮かべた。
「この私が本当にタダで帰ってきたと思う?」
「?」
 預けあっていた背から離れて、互いに向き直って。
 眉をひそめるメリーの前で、蓮子は深く頭を下げて、その上の帽子をとった。そして帽子の中をメリーに見せる。
「あら……やるじゃない、蓮子」
「ま、これくらいはね!」
「押して栞にでもしましょうか」
「いいわね! メリーはどっちがいい?」
「それじゃあ、私はこっち」
「じゃ、私はこれね」
 帽子の中身を取り出して、二人は微笑みあう。
「メリー、絶対に、また行くわよ! 幻想郷に!」
「もちろんよ、蓮子!」
 二人の手の中で踊るそれは。

 幻想の紅葉と、冥界の桜。





    了
全体では10作目、シリーズものとしては8作目、鞘の花です。
またもや季節感を出そうとして、結局投稿時期がずれてしまいました。おのれ海老天。

初めて秘封を聴いたのが2012年5月、例大祭の後でした。とある集まりのじゃんけん大会で『未知の花 魅知の旅』を手に入れまして。
それから過去の秘封CDと、新たに頒布されたものとを買い集め、すっかりはまってこうして作品投稿までこぎつけることに。

秘封倶楽部と妖夢たちをクロスさせるにはどうしたらいいかな、と考えた結果、このような形になりました。
少し百合成分が足りなかったでしょうか?

では、ここまで読んでくださってありがとうございました。
いつか、また、どこかで。
鞘の花
http://twitter.com/Medal_of_Greed
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コメント



0.540簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
 今作も堪能させていただきました。
ちゅっちゅの先達を呼び水に愛を深めるみょんもみ。
派手さはなくとも堅実な雰囲気が良い。

 藍様の口調が「~わね」の女性口調と「~だ・だな」等の男・中性口調が
混在してるのがちょっと気になるかも。どっちかに統一するか
オンオフをすっぱりつけたほうがよろしいかと。
3.100名前が無い程度の能力削除
ここのメリーさんはゆかりんと関係ない設定なんだな
6.無評価鞘の花削除
みなさま評価、コメントありがとうございます。

>>2
ありがとうございます。
ちょっとゆっくりペースくらいが二人にはちょうどいいですね。
> 藍様の口調について
色々と迷走した感じがありありと残っていますね……
この点はもう少し時間をかけて決めていくべきでした。反省。

>>3
どうなんですかねぇ。
私自身、メリーと紫様の関係のイメージがふわっとしているのでなんとも、と言ったところでしょうか。
そのあたりを掘り下げた作品というものも、いずれ作ってみたいところです。
12.100名前が無い程度の能力削除
 「幻想の紅葉と、冥界の桜」というラストの対比が素晴らしく映えていましたね。
 最新作、読ませて頂きました。まさかの秘封倶楽部でしたが、なんとなんと、
 見事に人間二人と剣士二人とが繋げられていて、面白く、かつ参考になりました。

 今までは椛か妖夢、そのどちらかに視点を絞って、交互にお互いの成長を見守ってきたような、
 あるいは見上げてきたような、そんな展開が軸になってきた印象があるのですが、今作では
 蓮子とメリーとをクロスさせることで、二人が同時に相手のことを想い合う新たなスタイルに
 生まれ変わっていました。その分だけ90KBと尺も伸びましたが、これは納得の長さですね。

 驚いたのは椛の心をメリーがずばり予言したこと。いつかはそうした言葉も聞こえるんじゃないかな、
 と思っていましたが、ついに剣士の二人は次のステージへと足を踏み入れてゆくのですね……!
 まさかの物部道士は、もしかして次回作の布石だったりするんでしょうか、それも含めて楽しみです。

 椛は自分の想いの正体に悩み始めたようですね。今まで通りの関係に変化が来るかも。
 いよいよ、このシリーズも佳境を迎えるのでしょうか。最新作にして最大の期待感に
 巡り会ってしまいました。思えば二人の付き合いも長いですね。第一話を思い出します。

 「切り捨て御免と千里眼」の大団円を願って――ここまでありがとうございました。