二週間前のことだ。私は、おおよそ世間一般で言うところの奇病の類にかかった。
きっかけは酒の席。みんなが食べていたつまみが、私一人だけに見えなかったところからだった。
発症したのはいつだかわからない。けれど、人里に行くたびに喧噪が少しずつ、少しずつ小さくなっていったように思ったのを感じていた。
『霊夢、あなたはこれから段々と人や物が見えなくなって、それらの発する音も聴こえなくなるわ』
もう見えなくなった、八意永琳がそう言っていたのを私は思い出す。
だからといって、これといった異変もない。私はいつも腰掛けている神社の縁側で一人ぼーっとしていた。
本当ならば今頃、私はお茶を啜って一息ついているのだろう。けれど生憎、この目にはもうお茶を入れるための急須も、お茶を入れるための湯呑も、もう映らない。
「はぁ」
らしくない溜め息を吐く。本当に暇で暇でしょうがない。
今までは誰か来れば単に面倒なだけだったけれど、誰も見えないようになってからは、私が認識できる人にあって何か話をするだけで、これまで他愛の無かったことが素晴らしく楽しい事に思えてきたのだった。
「もっと、話とかしとけばよかったかな」
なんて私は言うけれど、もし身の回りに今まで私が弾幕ごっこをした沢山の人妖が集まっていたら、この台詞を聴いてさぞそいつらは悲しむだろうな、と思った。どうやら、私からは見えなくなっても、向こうからは私のことが見えているらしかったから。
でも、私は何も見えないし何も聞こえない。それは、そこに誰もいないことと同じだ。
「紫とか、どっかからひょっこり現れそうなもんだけどね、全く」
彼女は、つい二日前の夜が明ける頃、日の出と共に姿をくらましたのを覚えている。
私の目の前で、酒を酌み交わしている時だ。その時に、大好物だった酒瓶達もどこかに霧散したようだった。
「霧散と言えばあれね、萃香とかも固体になって出てきそうなんだけどなぁ」
彼女は一週間前の酒の席で消えた。いつものように立ち消えるのではなく、瞬きした瞬間、その一瞬であの小さな鬼は私の網膜に焼きつく事を止めた。
そのほかにも、両手で数えきれないほどの人や物たちが見えなくなった。私の目の前で消えるもの、いつのまにか見えなくなったもの、それは様々だった。
唯一の救いは、彼女たちに悲痛に歪んだ表情や声を知覚しなくて良かった事だった。もしもそれが見え、聞こえていたならば私は今頃、自殺でもしているかもしれない。
「なんて、私らしくない」
ポカッ、と頭を少し叩く。自殺だなんて、そんなつまらない考えがいつから浮かぶようになったんだろうか。
私は頭の中の、良くない思考を塗りつぶすように、目を瞑って色々な音に集中した。
木々を風が通り抜ける音。鳥たちの囀る声。井戸の中で水滴が垂れる音。それが引き起こす波紋。草木が揺れる。時折起きる強い風。神社の階段を歩く音。あ、誰か来た__
「……え?」
私は思わず目を開ける。
「……よ」
力ない声で、小さく手を上げる魔法使いの姿。
「……アンタ」
「なんだ、見えるのか。半信半疑だったんだが」
「いつもみたいに自信過剰じゃないのね、らしくないわよ」
「霊夢に言われたかないな、それ」
「どうも、魔理沙で残り二人みたい」
「なんでそんなこと分かるんだよ」
訝しげに私を見る魔理沙。いつもみたいに、お茶だとか、お茶請けをよこせだとか言わないのは、彼女なりの優しさなのだろうか。
「勘よ」
「……なあ」
「なに?」
「ずっと思ってたんだけど、その二文字で全部済ませるの止めてくれないか?」
「仕方ないじゃない、だって分かるんだもの」
「もっと常識人らしいロジックで頼むよ、私みたいに」
「あんたがいつ常識人になったのよ……」
それもそうだな、といいつつ魔理沙は私と同じ境内の入り口の方を見た。思えば、こいつとはいつもこうしていた気がする。
「魔理沙」
これが彼女の名前を呼ぶ最後になるかもしれない、そう思いながら私は丁寧にその名前を口にする。
「ん、なんだ」
「どのくらいの付き合いになるっけ」
「ああ、えーっと……ひーふーみーやー……あ、両手じゃ数えらんない」
「折り返しなさいよ」
「あ、そっか。じゃあ十と二つ。十二年くらい」
「そんなにあったっけ。人生の半分以上もアンタの顔覚えてるんだ」
「そういうことになるなあ」
「その分返して欲しいわね……」
「なんだそれ!?」
冗談よ、と私が口にしすると魔理沙は胸を撫で下ろした。
「……良く遊んだよな、昔は」
「弾幕ごっことか?」
「それよりもっと昔。普通に子供だったころ」
「……したっけ?」
「したぜ、この境内でかくれんぼとか」
「ああ、した、かも」
「おいおい……、私は鮮明に覚えてるんだけどなあ」
「どんなんだったっけ?」
「いっつも私が鬼なんだよ。鬼決めで何してもお前に勝てないからさ」
「私ったら、昔から冴えてたのね」
「いや、問題はそっからでさあ。いっくら探してもお前が見つかんなくって、段々心寂しくなって……」
魔理沙はその先を思いだして口を噤み、続きを話すのを躊躇うような素振りを見せる。
「なによ、その次」
「い、いやー。やっぱ私も覚えてないわ。なんだっけなー」
「ダウト」
「何で分かるんだよ」
「勘」
「…………」
「嘘。長年付き合ってれば、あんたの嘘吐くときの癖ぐらいわかるわよ」
「え、なにそれ、初耳なんだけど」
「だって今まで言ってなかったし」
「ちょ、おい、教えろよ」
「嫌よ。このまま墓場まで持ってくわ」
魔理沙は嘘を吐くとき、右の拳をぎゅっと握る癖があった。それは長年付き合っていて見つけた物で、本当に勘が働いたわけでもなんでもない。
「じ、じゃあ私もこのまま墓場まで持ってくぜ」
「言いなさい」
「そんなのずるいぜ、お前だけ言わないなんて」
「……わかった。じゃあ私もずっと隠してたこと教えてあげるから」
「…………言ったな?」
「ええ」
「……はあ、分かった、言うよ、言う」
彼女は両手を上げて、降参のポーズを見せる。
「……心寂しくなって、私は一人でよく泣いてたんだよ」
「…………ぷっ」
「おい、今笑ったろ」
「笑ってない。ほら、続けて……ぷ」
「……もういいよ。そんで、泣いてる私をいつも霊夢がどこからともなく現れて馬鹿にしたってお話!おしまい!」
魔理沙は投げやりに話しを終わらせて、眉間にシワをよらせている。私はこみ上げる笑いをこらえ、おさまった辺りで口を開いた。
「はあ……面白かった」
「だから嫌だったんだよ」
「いやいや、そんなこともあったのね」
「大体、あの時お前何処に隠れてたんだよ……って言っても覚えてないか」
「神社の屋根の上」
「……は?」
「いや、だから、屋根の上だって。あなたとかくれんぼしてる時にはもう空に浮けるようになってたから、ずっとあそこに居て面白がってた」
魔理沙は固まる。思考がフリーズしてるみたいだ。
「……おい、おいおいもしかして」
「馬鹿ねえ。忘れるわけないじゃない、痴呆でもあるまいし」
「…………呆れた。怒る気にもなれん。もしかしてそれかよ、隠してたことって」
「いや、自分から恥ずかしい事話させるのって面白いわねえ。これでお酒でもあればつまみになるのに」
「はぁ」
明らかに肩を落とし、落胆する魔理沙。私は一つ息を吐いてから、彼女の方を向いた。
「ねえ、魔理沙」
「ん、なんだよ、また変な話か…」
「ちがう。さっきの隠してたことってやつ」
「さっきのだろ? ったく、お前も趣味が悪いよなあ、誰に似たんだか」
「いや、だからね。あれじゃなくって、別の事」
「……?」
魔理沙が私の方を向く。私も魔理沙を見つめる。ずっと、ずっと隠してきたことが私にはあった。
「魔理沙」
彼女の名前を呼ぶ。
「なんだよ、改まって」
呆けた、いつもの表情で私を見る彼女に、私は告げる。
「ずっと、__ずっと、好きだった。」
そう言いながら今まで見たことの無い満面の笑みで、私を見る霊夢。思わず私は息をするのも忘れて、それに見惚れた。
ふと、私の中に私が戻ってくるような感覚がして、頭が回転する。言わなきゃいけない、言わなきゃ、私も、私も……!
「霊夢……私も、私も霊夢のことが…………!」
そこまで言って気付く。彼女の表情が、何も変わらないことに。
彼女はそのまま、ずっと目を閉じたままだった。
私は霊夢の前で俯いて泣いた。縁側と、もうしなびたお茶請けと空っぽになった湯呑に顔を向けるようにして、声を出して泣いた。
もう、彼女に私の声は届かない。私は彼女の世界に映らない。
ぎゅっと、右の拳を握って言った。
「……私は、霊夢のことなんか、どうだっていい」
もうきっと聴こえていないだろうけど、それでも私は嘘を吐いた。
「____そっか」
霊夢の声。私は反射的に顔を上げる。
そこにはもう、誰もいなかった。
「……かくれんぼ、初めてお前に勝てたよ」
私の恋慕は、今も隠れたままだ。
きっかけは酒の席。みんなが食べていたつまみが、私一人だけに見えなかったところからだった。
発症したのはいつだかわからない。けれど、人里に行くたびに喧噪が少しずつ、少しずつ小さくなっていったように思ったのを感じていた。
『霊夢、あなたはこれから段々と人や物が見えなくなって、それらの発する音も聴こえなくなるわ』
もう見えなくなった、八意永琳がそう言っていたのを私は思い出す。
だからといって、これといった異変もない。私はいつも腰掛けている神社の縁側で一人ぼーっとしていた。
本当ならば今頃、私はお茶を啜って一息ついているのだろう。けれど生憎、この目にはもうお茶を入れるための急須も、お茶を入れるための湯呑も、もう映らない。
「はぁ」
らしくない溜め息を吐く。本当に暇で暇でしょうがない。
今までは誰か来れば単に面倒なだけだったけれど、誰も見えないようになってからは、私が認識できる人にあって何か話をするだけで、これまで他愛の無かったことが素晴らしく楽しい事に思えてきたのだった。
「もっと、話とかしとけばよかったかな」
なんて私は言うけれど、もし身の回りに今まで私が弾幕ごっこをした沢山の人妖が集まっていたら、この台詞を聴いてさぞそいつらは悲しむだろうな、と思った。どうやら、私からは見えなくなっても、向こうからは私のことが見えているらしかったから。
でも、私は何も見えないし何も聞こえない。それは、そこに誰もいないことと同じだ。
「紫とか、どっかからひょっこり現れそうなもんだけどね、全く」
彼女は、つい二日前の夜が明ける頃、日の出と共に姿をくらましたのを覚えている。
私の目の前で、酒を酌み交わしている時だ。その時に、大好物だった酒瓶達もどこかに霧散したようだった。
「霧散と言えばあれね、萃香とかも固体になって出てきそうなんだけどなぁ」
彼女は一週間前の酒の席で消えた。いつものように立ち消えるのではなく、瞬きした瞬間、その一瞬であの小さな鬼は私の網膜に焼きつく事を止めた。
そのほかにも、両手で数えきれないほどの人や物たちが見えなくなった。私の目の前で消えるもの、いつのまにか見えなくなったもの、それは様々だった。
唯一の救いは、彼女たちに悲痛に歪んだ表情や声を知覚しなくて良かった事だった。もしもそれが見え、聞こえていたならば私は今頃、自殺でもしているかもしれない。
「なんて、私らしくない」
ポカッ、と頭を少し叩く。自殺だなんて、そんなつまらない考えがいつから浮かぶようになったんだろうか。
私は頭の中の、良くない思考を塗りつぶすように、目を瞑って色々な音に集中した。
木々を風が通り抜ける音。鳥たちの囀る声。井戸の中で水滴が垂れる音。それが引き起こす波紋。草木が揺れる。時折起きる強い風。神社の階段を歩く音。あ、誰か来た__
「……え?」
私は思わず目を開ける。
「……よ」
力ない声で、小さく手を上げる魔法使いの姿。
「……アンタ」
「なんだ、見えるのか。半信半疑だったんだが」
「いつもみたいに自信過剰じゃないのね、らしくないわよ」
「霊夢に言われたかないな、それ」
「どうも、魔理沙で残り二人みたい」
「なんでそんなこと分かるんだよ」
訝しげに私を見る魔理沙。いつもみたいに、お茶だとか、お茶請けをよこせだとか言わないのは、彼女なりの優しさなのだろうか。
「勘よ」
「……なあ」
「なに?」
「ずっと思ってたんだけど、その二文字で全部済ませるの止めてくれないか?」
「仕方ないじゃない、だって分かるんだもの」
「もっと常識人らしいロジックで頼むよ、私みたいに」
「あんたがいつ常識人になったのよ……」
それもそうだな、といいつつ魔理沙は私と同じ境内の入り口の方を見た。思えば、こいつとはいつもこうしていた気がする。
「魔理沙」
これが彼女の名前を呼ぶ最後になるかもしれない、そう思いながら私は丁寧にその名前を口にする。
「ん、なんだ」
「どのくらいの付き合いになるっけ」
「ああ、えーっと……ひーふーみーやー……あ、両手じゃ数えらんない」
「折り返しなさいよ」
「あ、そっか。じゃあ十と二つ。十二年くらい」
「そんなにあったっけ。人生の半分以上もアンタの顔覚えてるんだ」
「そういうことになるなあ」
「その分返して欲しいわね……」
「なんだそれ!?」
冗談よ、と私が口にしすると魔理沙は胸を撫で下ろした。
「……良く遊んだよな、昔は」
「弾幕ごっことか?」
「それよりもっと昔。普通に子供だったころ」
「……したっけ?」
「したぜ、この境内でかくれんぼとか」
「ああ、した、かも」
「おいおい……、私は鮮明に覚えてるんだけどなあ」
「どんなんだったっけ?」
「いっつも私が鬼なんだよ。鬼決めで何してもお前に勝てないからさ」
「私ったら、昔から冴えてたのね」
「いや、問題はそっからでさあ。いっくら探してもお前が見つかんなくって、段々心寂しくなって……」
魔理沙はその先を思いだして口を噤み、続きを話すのを躊躇うような素振りを見せる。
「なによ、その次」
「い、いやー。やっぱ私も覚えてないわ。なんだっけなー」
「ダウト」
「何で分かるんだよ」
「勘」
「…………」
「嘘。長年付き合ってれば、あんたの嘘吐くときの癖ぐらいわかるわよ」
「え、なにそれ、初耳なんだけど」
「だって今まで言ってなかったし」
「ちょ、おい、教えろよ」
「嫌よ。このまま墓場まで持ってくわ」
魔理沙は嘘を吐くとき、右の拳をぎゅっと握る癖があった。それは長年付き合っていて見つけた物で、本当に勘が働いたわけでもなんでもない。
「じ、じゃあ私もこのまま墓場まで持ってくぜ」
「言いなさい」
「そんなのずるいぜ、お前だけ言わないなんて」
「……わかった。じゃあ私もずっと隠してたこと教えてあげるから」
「…………言ったな?」
「ええ」
「……はあ、分かった、言うよ、言う」
彼女は両手を上げて、降参のポーズを見せる。
「……心寂しくなって、私は一人でよく泣いてたんだよ」
「…………ぷっ」
「おい、今笑ったろ」
「笑ってない。ほら、続けて……ぷ」
「……もういいよ。そんで、泣いてる私をいつも霊夢がどこからともなく現れて馬鹿にしたってお話!おしまい!」
魔理沙は投げやりに話しを終わらせて、眉間にシワをよらせている。私はこみ上げる笑いをこらえ、おさまった辺りで口を開いた。
「はあ……面白かった」
「だから嫌だったんだよ」
「いやいや、そんなこともあったのね」
「大体、あの時お前何処に隠れてたんだよ……って言っても覚えてないか」
「神社の屋根の上」
「……は?」
「いや、だから、屋根の上だって。あなたとかくれんぼしてる時にはもう空に浮けるようになってたから、ずっとあそこに居て面白がってた」
魔理沙は固まる。思考がフリーズしてるみたいだ。
「……おい、おいおいもしかして」
「馬鹿ねえ。忘れるわけないじゃない、痴呆でもあるまいし」
「…………呆れた。怒る気にもなれん。もしかしてそれかよ、隠してたことって」
「いや、自分から恥ずかしい事話させるのって面白いわねえ。これでお酒でもあればつまみになるのに」
「はぁ」
明らかに肩を落とし、落胆する魔理沙。私は一つ息を吐いてから、彼女の方を向いた。
「ねえ、魔理沙」
「ん、なんだよ、また変な話か…」
「ちがう。さっきの隠してたことってやつ」
「さっきのだろ? ったく、お前も趣味が悪いよなあ、誰に似たんだか」
「いや、だからね。あれじゃなくって、別の事」
「……?」
魔理沙が私の方を向く。私も魔理沙を見つめる。ずっと、ずっと隠してきたことが私にはあった。
「魔理沙」
彼女の名前を呼ぶ。
「なんだよ、改まって」
呆けた、いつもの表情で私を見る彼女に、私は告げる。
「ずっと、__ずっと、好きだった。」
そう言いながら今まで見たことの無い満面の笑みで、私を見る霊夢。思わず私は息をするのも忘れて、それに見惚れた。
ふと、私の中に私が戻ってくるような感覚がして、頭が回転する。言わなきゃいけない、言わなきゃ、私も、私も……!
「霊夢……私も、私も霊夢のことが…………!」
そこまで言って気付く。彼女の表情が、何も変わらないことに。
彼女はそのまま、ずっと目を閉じたままだった。
私は霊夢の前で俯いて泣いた。縁側と、もうしなびたお茶請けと空っぽになった湯呑に顔を向けるようにして、声を出して泣いた。
もう、彼女に私の声は届かない。私は彼女の世界に映らない。
ぎゅっと、右の拳を握って言った。
「……私は、霊夢のことなんか、どうだっていい」
もうきっと聴こえていないだろうけど、それでも私は嘘を吐いた。
「____そっか」
霊夢の声。私は反射的に顔を上げる。
そこにはもう、誰もいなかった。
「……かくれんぼ、初めてお前に勝てたよ」
私の恋慕は、今も隠れたままだ。
魔理沙の報われなさに涙した。早く彼女に「見つけた」の声を…
切なきかな。