それは午過ぎのことだったが、しかし空は鉛色の雲におおわれていた。
射命丸 文は今にも雪が落ちはじめそうな冷え冷えとした空気のなか、大瀑布の水幕の裏を通って、その奥にある洞穴を訪れた。烏天狗には馴染みのない苔と岩のにおいは、文の眠気をわずかばかりだが覚ますようであった。
この洞穴は見張り台の役割を果たしており、白狼天狗である犬走 椛の任地である。椛は文を認めるやいなや、霜の降ったような眉根を寄せた。
「ご苦労様ね、椛」
「何用でしょうか、射命丸様」
「あなたの顔を拝みに少々」
「お文(ふみ)は通わしているはずでは」
「文字ばかりで顔は久しいでしょう」
「仕事中なのですが」
「そのようね」
「帰っていただけませんか」
「疲れているからね、ここで休みたいの」
「言っていること、聞こえていますか」
苦言を呈されることは、最初から予想していた。文は臆することなく、訪れの子細を伝えてやった。しかし、椛はより邪険に扱うようで。
「休みたいなら、ご自分の家があるでしょう」
「暇なのよ」
「これから哨戒があります」
「いってらっしゃい」
「しばらく戻りません」
「留守番は任せなさい」
文が胸を張ってみせると、椛は脱力したように肩を落とした。
「滝裏ですよ、ここ。休めると思いますか」
「音消しと湿気除けの術符ならあります」
「ごつごつした岩と、じめじめした苔しかありません」
「簡易の休憩所を兼ねていたはずですが」
「あれらは白狼天狗たちの備品です」
「あなたの分だけ借り受けます」
にっこりと笑ってみせると、椛はなにも言わずただ不機嫌そうに顔をしかめた。
文は適当な場所、椛のすぐかたわらの岩場に腰をかけた。
「火桶を借りてもいい?」
「ご自由にしてください」
「いつにも増してつれないのね」
「仕事中ですので」
「そう」
「火を起こすのは勝手ですが、火事には注意してくださいよ」
「滝裏の火事なんて、それだけで記事になる珍事ね」
「不謹慎が過ぎませんか」
「冗談よ、真に受けないでくれない」
「関係ありません。冗談でも口にしないでください」
「なにをいらだっているのです?」
「もういいです」
へそを曲げた椛をしりめに、文は洞穴の奥から火桶と炭を持ち出した。けれど、滝裏ということもあり湿気が多くて、火種はなかなか起きない。何本目かの燐寸棒が、いたずらに折れたところで、椛が無言のまま火打ち石を出した。
椛はさすがに手慣れていた。赤く焼かれはじめた黒炭に、文の目は自然と細くなった。それからしばらく無言が続いたが、やがて椛が口火を切った。
「哨戒の時間です」
「いってらっしゃい」
「すぐに飽きて帰られるでしょうが、その時は火の始末だけしてください」
「ちゃんと椛の帰りをここで待ちます」
「休みたいのでは」
「仮眠しながら待ちます」
「いよいよご自宅に帰られるべきです」
「自由にしろと言いましたよね」
嬉々として揚げ足を取ってやると、しかし椛は冷静な表情のままで、天狗装束の外套を脱ぎはじめた。布地の分厚いそれは、防寒着として最良の代物であり、猛吹雪にも耐えようものである。
文は椛の意図を知りながらも、手わたされたそれを、茶化して膝かけとするにとどめた。
椛が眉間にしわを作りながら言う。
「着てください、それだけでは寒いでしょう」
「椛はどうするの、寒くないの?」
「これくらい平気です」
「だけど、これ獣臭いんだけど」
「それくらい我慢してください」
「あとついでに、奥にあった蜜柑なんだけど」
「干し柿の方からお願いします」
「けち」
しぶ柿を食ったような渋面からして、椛は本当に気を悪くしているようであった。
これに満足した文は、ようやく膝かけにした外套を、肩から羽織ってやった。ぱちぱちと炭の崩れる音のなか、椛は一礼を残して滝から哨戒へと出て行った。
洞穴に一人残された文は、仕方なしに目をつむるが、睡魔は訪れず追憶だけが起こった。
文が初めて椛と面を会わせたのは、もう何年も前のことである。深雪に白む山の夜道に、突然として椛は文の前にあらわれた。
より正確に言えば、送り狼じみた真似をしていた椛を、文が熊の止め足をしてあぶり出したのだ。待ち伏せた文を射抜く白狼の目は、驚きもさることながら、蔑視と警戒心にあふれていた。
それは人間の里からの帰り道のことだった。文は即座に自らの立場を看破した。
簡潔に言えば椛は監視役であった。当時、文は山からの離反を疑われていたらしかった。むろんのこと、文にその手の算段はさらさらなかったけものの、あまりに頻繁な遠出は疑惑の温床になったようである。そして、あさはかな憶測は愚かな邪推を生んだらしく、その落とし胤が椛であった。
かくして監視役の存在を見破った文は、してやったりと自らの慧眼さに鼻を高くしたが、大きな見落としもあった。
文の見積もりでは露呈した監視は失敗であり、それゆえに監視も解除されると踏んでいた。けれど実際のところ、椛は監視を断念するのどころか、それからの監視を露骨にしたのである。
これには文も辟易とした。外出時には行き先に関わらず付き纏うのは当然として、自宅で休んでいるときでさえも監視の気配を感じるようになった。ときには、自慢の脚の速さをもって巻いてやったが、椛は鼻が利くのか勘が鋭いのか、遅れながらにも必ず追い付いてきた。たとえ雲海のなかに隠れようとも、椛の目はしっかりと文を捉えるのである。
どこに逃げようとも、どこに隠れようとも椛は追い求めてくる。そこに鬼ごっこをするような楽しさがあったことは、当時の文も否定していなかった。事実、からかい半分に幻想郷を一周したこともある。出発点であり終着点である銀杏の大樹にて、文は遅れて到着するであろう椛のために、わざわざ冷茶を用意して待ってやった。その時、椛の見せた引きつった顔は、たしかに文の笑みを誘った。
とはいえ、監視の目が億劫なことに変わりはなかった。いよいよ面倒になった文は、懐柔をこころみたこともある。だが、すべて無駄だった。袖の下は通らなかった。ただ、文を見る椛の目がいっそう熾烈になるだけであった。それが自分でも意外なほど、文の胸を鋭く刺した。
胸を痛めてからようやく文は、身の潔白を証明する気概を持った。山を出る頻度はそのままに、しかし軸足は山にあると言動で示したのだ。新聞の内容もまた、題材こそ山の下であっても、その視点は山の上から見たものになった。
そうして、もとより濡れ衣であった疑惑は、ほとんど時を経ずして解消された。当然といえば当然であるが、椛は真っ当な報告を、雇い主にしてくれたらしかった。監視の目が遠のいていくことを、文は肌で感じ取れた。だが、それは椛の目でもあった。しだいに遠ざかってゆく椛の気配に、文は物惜しさとも侘びしさとも定まらないものを得た。
いずこかへ帰参しようとする椛を、文が呼び止めたのは、鹿の鳴く声が山に木霊する頃であった。ある日の夕暮れに、このまま椛を見送れば、もう会うことはないと直感したのだ。紅葉を踏みわけて追いすがるさまは、あの雪の夜から数えて、その日までのすべてを鏡写しにしたもので。
呼び止められた椛は訝しげに文を見つめてきたが、そこに蔑視や警戒心はなかった。疑問符だけが浮かんでいた。
そこからの振る舞いは、文も覚えていない。ただ、季節も流れた今でも二人の距離は離れないでいる。いつしか椛は文の白い影になっていた。そして、文は椛の黒い影になったのである。
「お帰りなさい、椛」
「まだいたのですか」
悪い予感は的中するものだと、椛は嫌な経験則を得た。哨戒にさえ出てしまえば、文も大人しく退散するものと踏んだが、実際には哨戒中に胸騒ぎがともなうだけであった。
どうしたものかと適当な言葉を探していると、文は場を取りなすように火桶を指さした。
「ほら、火桶にあたりなさい。指先、冷えているのでしょうに」
「遠慮しておきます」
「どうして」
「急に温めると、かゆくなって肌荒れします」
「めずらしいことで」
「なにがです」
「肌荒れとか気にすること」
「口うるさい方がいますから」
「果報者ね」
文の素っ気ない皮肉を耳にしながら、ふところから紙袋を取りだした。哨戒ついでに買ってきた物である。この日、はじめて椛は哨戒中に寄り道をした。
「これをお飲みください」
「なんですかこれ」
訝しげに見る文に、椛は簡潔に応じる。
「湯で作る即席の甘酒です」
「悪いけど、甘味の欲しい気分では」
「あたたまりますし、疲れもとれます」
「仕方ありませんね、飲んでみましょう」
言葉とは裏腹に微笑をこぼす文をしりめに、椛は奥に設けられた休憩室へと向かう。すると、焜炉には鍋が出されたままになっており、残る白湯はすでに人肌程度に冷めていた。そのとなりにある流しに視線をやれば、使った記憶のない湯飲みが出ている。自分の不在の間に、文が勝手に茶でも作ったらしかった。
もしかすると、あの方は本当に一睡もしていないかもしれない。火を入れて湯を再度沸かすかたわら、流しの湯飲みを水洗いするなかで、椛の脳裏によぎるものがあった。
それから手早く甘酒をいれた椛を、文は疑問で迎えた。椛の手には湯飲みが一口しかないからである。
「私だけですか。椛は飲まないの?」
「猫舌ですから」
「存外に無責任ね」
「押し掛けてきた方に言われたくないです」
「消息が途絶えがちだったから」
「お文なのですから、毎日というわけには」
言いわけの選択に窮していると、文が露骨に寄り添ってきた。椛は嫌な予感を得ながらも、その身体を受けて支える。紙と墨、そして現像液の混じった不可思議な香りに、鋭敏な鼻は強く刺激される。
「今日の分の哨戒は、もうないのよね?」
「日暮れまで見張りをつづけるだけです」
しめやかな猫撫で声は、椛の背中に冷たいものを生んだ。どうして、文が哨戒の時間分担を知っているのか。白狼天狗内の機密のはず。手紙にも書いていないのに。
「今晩の予定は?」
「友人との約束があります」
「それは残念」
「以前のお文にも書いたはずですが」
「ええ、たしかに。そんな怒らなくても」
「そんなつもりは」
「夕飯もそこよね、たしか」
「はい」
「それで、なにを食べるの」
「それは」
夕飯の問いかけに、椛は正直に返答すべきか迷った。友人に誘われたのは、鴨料理を出す店である。けれど、烏天狗の文にとっては愉快な話ではない。以前にも文の目の前で山鳥を食べて、へそを曲げられたことがある。それがまた長く尾を引くのだから、ここで機嫌を損なえば、あとが面倒。夜を長々しく感じるはめになる。
一寸ばかり悩んだ末に、はたして椛は正直に話すと決めた。最近の文は変に鼻が利く、誤魔化そうとも見破られかねない。
「鴨です」
「この時期なら鍋かしら」
「怒らないのですか」
「どうして」
「普段なら怒っています」
「私の預かり知らぬところで、椛がなにを食べようとも自由です」
「そういうものですか」
「だけど、目のつくところはいけません」
「存じています」
了承の意を示すと、文から少し飲めと湯飲みをわたされた。椛は舐めるように口を付けたけれど、にごった酒に舌先は甘く焼けた。
「約束がすみしだい、おうかがいします」
湯飲みを返しながら取り繕う。任務があったとはいえ、文を疎かにしていたことは事実である。
その負い目は糀がそうであるように、椛の胸のかたすみに沈殿していた。
「臭いは落としてからにしてね」
「湯浴みをして参ります」
「あと、早く来すぎてもだめ。敷居をまたがせてあげません」
「どうしてですか」
「約束を優先しなさい」
「いいのですか」
「前からの約束なのでしょう?」
「ですが、もとよりそう遅くはならないかと」
お酒は入りませんからと言いかけてやめる。酔える酒の好きな文を前にして禁句である。
「それでしたら、お腹を満たしてから来なさい。今晩はなんの用意しません」
「かしこまりました」
応諾をみせると、文の白い手に首元を軽く撫でられ、そして、そのまま噛むような仕草でつねられる。
誰の入れ知恵なのか、たまに文はこうして椛をからかう。それは狼たちのする示威行為のひとつであり、群れのなかでの上下関係を確かめるべくされるものである。
こうした文の真似事を、椛は慎んで受け入れている。その従順さに満足したのか、小さな欠伸とともに、文がまなじりをこすった。
「少し寝ます。帰りぎわに起こして」
「ちゃんと起きてください」
「がんばる」
それだけ告げると、文はすとんと眠りに落ちた。意識の離れた文の身体は、少しだけ重みをました。やや誇張のある寝息を聞くに、やはり文は一睡もしていないらしかった。手のなかに握られたままの湯飲みからも、その眠りの頑なさは見て取れる。
やすらかな寝息を耳朶に浴びながら、しかし椛は行き場のない罪悪感を得る。今日のことにしろ、最近のことにしろ、好き好んで文を疎遠にしているわけではない。職務があり任務があった。
もはやかつての任務は解かれている。首尾は上々でなくとも、たしかに完遂させたのだから。
そしてさらには、文の言いつけ通りに手紙も交わしてきている。だというのに、どうしても拭いきれないものがある。
文からの手紙に綴れられた文字は、椛の近況を気にかけるものがほとんどである。いくら椛が下っ端だからといって、日々のことを心配されては今さらが過ぎる。だが、それゆえに文の本意はうかがい知れた。普段は勝ち気なのが、わざわざ足を運んできたのも、それによるものと容易に想像しえた。
そのことは、呼び止められたあの日から今日に至るまで、なにひとつとして変わっていない。おそらくは、椛だけが知りえる文の心根である。だからこそ椛は、文を本気で追い返すことができなかった。
水幕の向こうでは雪が降りはじめていた。
吐いた息の白さに水飛沫の音がまじって、雪のただよう音が聞こえるようだった。耳朶をぬらす文の乳色の呼気は、知らぬ間に、椛にも眠気を誘うようで。
まなじりをこすり意識を保たせると、ただ、引き継ぎの時に、この状況を同僚たちにどう話すか。それだけが今の問題になった。
射命丸 文は今にも雪が落ちはじめそうな冷え冷えとした空気のなか、大瀑布の水幕の裏を通って、その奥にある洞穴を訪れた。烏天狗には馴染みのない苔と岩のにおいは、文の眠気をわずかばかりだが覚ますようであった。
この洞穴は見張り台の役割を果たしており、白狼天狗である犬走 椛の任地である。椛は文を認めるやいなや、霜の降ったような眉根を寄せた。
「ご苦労様ね、椛」
「何用でしょうか、射命丸様」
「あなたの顔を拝みに少々」
「お文(ふみ)は通わしているはずでは」
「文字ばかりで顔は久しいでしょう」
「仕事中なのですが」
「そのようね」
「帰っていただけませんか」
「疲れているからね、ここで休みたいの」
「言っていること、聞こえていますか」
苦言を呈されることは、最初から予想していた。文は臆することなく、訪れの子細を伝えてやった。しかし、椛はより邪険に扱うようで。
「休みたいなら、ご自分の家があるでしょう」
「暇なのよ」
「これから哨戒があります」
「いってらっしゃい」
「しばらく戻りません」
「留守番は任せなさい」
文が胸を張ってみせると、椛は脱力したように肩を落とした。
「滝裏ですよ、ここ。休めると思いますか」
「音消しと湿気除けの術符ならあります」
「ごつごつした岩と、じめじめした苔しかありません」
「簡易の休憩所を兼ねていたはずですが」
「あれらは白狼天狗たちの備品です」
「あなたの分だけ借り受けます」
にっこりと笑ってみせると、椛はなにも言わずただ不機嫌そうに顔をしかめた。
文は適当な場所、椛のすぐかたわらの岩場に腰をかけた。
「火桶を借りてもいい?」
「ご自由にしてください」
「いつにも増してつれないのね」
「仕事中ですので」
「そう」
「火を起こすのは勝手ですが、火事には注意してくださいよ」
「滝裏の火事なんて、それだけで記事になる珍事ね」
「不謹慎が過ぎませんか」
「冗談よ、真に受けないでくれない」
「関係ありません。冗談でも口にしないでください」
「なにをいらだっているのです?」
「もういいです」
へそを曲げた椛をしりめに、文は洞穴の奥から火桶と炭を持ち出した。けれど、滝裏ということもあり湿気が多くて、火種はなかなか起きない。何本目かの燐寸棒が、いたずらに折れたところで、椛が無言のまま火打ち石を出した。
椛はさすがに手慣れていた。赤く焼かれはじめた黒炭に、文の目は自然と細くなった。それからしばらく無言が続いたが、やがて椛が口火を切った。
「哨戒の時間です」
「いってらっしゃい」
「すぐに飽きて帰られるでしょうが、その時は火の始末だけしてください」
「ちゃんと椛の帰りをここで待ちます」
「休みたいのでは」
「仮眠しながら待ちます」
「いよいよご自宅に帰られるべきです」
「自由にしろと言いましたよね」
嬉々として揚げ足を取ってやると、しかし椛は冷静な表情のままで、天狗装束の外套を脱ぎはじめた。布地の分厚いそれは、防寒着として最良の代物であり、猛吹雪にも耐えようものである。
文は椛の意図を知りながらも、手わたされたそれを、茶化して膝かけとするにとどめた。
椛が眉間にしわを作りながら言う。
「着てください、それだけでは寒いでしょう」
「椛はどうするの、寒くないの?」
「これくらい平気です」
「だけど、これ獣臭いんだけど」
「それくらい我慢してください」
「あとついでに、奥にあった蜜柑なんだけど」
「干し柿の方からお願いします」
「けち」
しぶ柿を食ったような渋面からして、椛は本当に気を悪くしているようであった。
これに満足した文は、ようやく膝かけにした外套を、肩から羽織ってやった。ぱちぱちと炭の崩れる音のなか、椛は一礼を残して滝から哨戒へと出て行った。
洞穴に一人残された文は、仕方なしに目をつむるが、睡魔は訪れず追憶だけが起こった。
文が初めて椛と面を会わせたのは、もう何年も前のことである。深雪に白む山の夜道に、突然として椛は文の前にあらわれた。
より正確に言えば、送り狼じみた真似をしていた椛を、文が熊の止め足をしてあぶり出したのだ。待ち伏せた文を射抜く白狼の目は、驚きもさることながら、蔑視と警戒心にあふれていた。
それは人間の里からの帰り道のことだった。文は即座に自らの立場を看破した。
簡潔に言えば椛は監視役であった。当時、文は山からの離反を疑われていたらしかった。むろんのこと、文にその手の算段はさらさらなかったけものの、あまりに頻繁な遠出は疑惑の温床になったようである。そして、あさはかな憶測は愚かな邪推を生んだらしく、その落とし胤が椛であった。
かくして監視役の存在を見破った文は、してやったりと自らの慧眼さに鼻を高くしたが、大きな見落としもあった。
文の見積もりでは露呈した監視は失敗であり、それゆえに監視も解除されると踏んでいた。けれど実際のところ、椛は監視を断念するのどころか、それからの監視を露骨にしたのである。
これには文も辟易とした。外出時には行き先に関わらず付き纏うのは当然として、自宅で休んでいるときでさえも監視の気配を感じるようになった。ときには、自慢の脚の速さをもって巻いてやったが、椛は鼻が利くのか勘が鋭いのか、遅れながらにも必ず追い付いてきた。たとえ雲海のなかに隠れようとも、椛の目はしっかりと文を捉えるのである。
どこに逃げようとも、どこに隠れようとも椛は追い求めてくる。そこに鬼ごっこをするような楽しさがあったことは、当時の文も否定していなかった。事実、からかい半分に幻想郷を一周したこともある。出発点であり終着点である銀杏の大樹にて、文は遅れて到着するであろう椛のために、わざわざ冷茶を用意して待ってやった。その時、椛の見せた引きつった顔は、たしかに文の笑みを誘った。
とはいえ、監視の目が億劫なことに変わりはなかった。いよいよ面倒になった文は、懐柔をこころみたこともある。だが、すべて無駄だった。袖の下は通らなかった。ただ、文を見る椛の目がいっそう熾烈になるだけであった。それが自分でも意外なほど、文の胸を鋭く刺した。
胸を痛めてからようやく文は、身の潔白を証明する気概を持った。山を出る頻度はそのままに、しかし軸足は山にあると言動で示したのだ。新聞の内容もまた、題材こそ山の下であっても、その視点は山の上から見たものになった。
そうして、もとより濡れ衣であった疑惑は、ほとんど時を経ずして解消された。当然といえば当然であるが、椛は真っ当な報告を、雇い主にしてくれたらしかった。監視の目が遠のいていくことを、文は肌で感じ取れた。だが、それは椛の目でもあった。しだいに遠ざかってゆく椛の気配に、文は物惜しさとも侘びしさとも定まらないものを得た。
いずこかへ帰参しようとする椛を、文が呼び止めたのは、鹿の鳴く声が山に木霊する頃であった。ある日の夕暮れに、このまま椛を見送れば、もう会うことはないと直感したのだ。紅葉を踏みわけて追いすがるさまは、あの雪の夜から数えて、その日までのすべてを鏡写しにしたもので。
呼び止められた椛は訝しげに文を見つめてきたが、そこに蔑視や警戒心はなかった。疑問符だけが浮かんでいた。
そこからの振る舞いは、文も覚えていない。ただ、季節も流れた今でも二人の距離は離れないでいる。いつしか椛は文の白い影になっていた。そして、文は椛の黒い影になったのである。
「お帰りなさい、椛」
「まだいたのですか」
悪い予感は的中するものだと、椛は嫌な経験則を得た。哨戒にさえ出てしまえば、文も大人しく退散するものと踏んだが、実際には哨戒中に胸騒ぎがともなうだけであった。
どうしたものかと適当な言葉を探していると、文は場を取りなすように火桶を指さした。
「ほら、火桶にあたりなさい。指先、冷えているのでしょうに」
「遠慮しておきます」
「どうして」
「急に温めると、かゆくなって肌荒れします」
「めずらしいことで」
「なにがです」
「肌荒れとか気にすること」
「口うるさい方がいますから」
「果報者ね」
文の素っ気ない皮肉を耳にしながら、ふところから紙袋を取りだした。哨戒ついでに買ってきた物である。この日、はじめて椛は哨戒中に寄り道をした。
「これをお飲みください」
「なんですかこれ」
訝しげに見る文に、椛は簡潔に応じる。
「湯で作る即席の甘酒です」
「悪いけど、甘味の欲しい気分では」
「あたたまりますし、疲れもとれます」
「仕方ありませんね、飲んでみましょう」
言葉とは裏腹に微笑をこぼす文をしりめに、椛は奥に設けられた休憩室へと向かう。すると、焜炉には鍋が出されたままになっており、残る白湯はすでに人肌程度に冷めていた。そのとなりにある流しに視線をやれば、使った記憶のない湯飲みが出ている。自分の不在の間に、文が勝手に茶でも作ったらしかった。
もしかすると、あの方は本当に一睡もしていないかもしれない。火を入れて湯を再度沸かすかたわら、流しの湯飲みを水洗いするなかで、椛の脳裏によぎるものがあった。
それから手早く甘酒をいれた椛を、文は疑問で迎えた。椛の手には湯飲みが一口しかないからである。
「私だけですか。椛は飲まないの?」
「猫舌ですから」
「存外に無責任ね」
「押し掛けてきた方に言われたくないです」
「消息が途絶えがちだったから」
「お文なのですから、毎日というわけには」
言いわけの選択に窮していると、文が露骨に寄り添ってきた。椛は嫌な予感を得ながらも、その身体を受けて支える。紙と墨、そして現像液の混じった不可思議な香りに、鋭敏な鼻は強く刺激される。
「今日の分の哨戒は、もうないのよね?」
「日暮れまで見張りをつづけるだけです」
しめやかな猫撫で声は、椛の背中に冷たいものを生んだ。どうして、文が哨戒の時間分担を知っているのか。白狼天狗内の機密のはず。手紙にも書いていないのに。
「今晩の予定は?」
「友人との約束があります」
「それは残念」
「以前のお文にも書いたはずですが」
「ええ、たしかに。そんな怒らなくても」
「そんなつもりは」
「夕飯もそこよね、たしか」
「はい」
「それで、なにを食べるの」
「それは」
夕飯の問いかけに、椛は正直に返答すべきか迷った。友人に誘われたのは、鴨料理を出す店である。けれど、烏天狗の文にとっては愉快な話ではない。以前にも文の目の前で山鳥を食べて、へそを曲げられたことがある。それがまた長く尾を引くのだから、ここで機嫌を損なえば、あとが面倒。夜を長々しく感じるはめになる。
一寸ばかり悩んだ末に、はたして椛は正直に話すと決めた。最近の文は変に鼻が利く、誤魔化そうとも見破られかねない。
「鴨です」
「この時期なら鍋かしら」
「怒らないのですか」
「どうして」
「普段なら怒っています」
「私の預かり知らぬところで、椛がなにを食べようとも自由です」
「そういうものですか」
「だけど、目のつくところはいけません」
「存じています」
了承の意を示すと、文から少し飲めと湯飲みをわたされた。椛は舐めるように口を付けたけれど、にごった酒に舌先は甘く焼けた。
「約束がすみしだい、おうかがいします」
湯飲みを返しながら取り繕う。任務があったとはいえ、文を疎かにしていたことは事実である。
その負い目は糀がそうであるように、椛の胸のかたすみに沈殿していた。
「臭いは落としてからにしてね」
「湯浴みをして参ります」
「あと、早く来すぎてもだめ。敷居をまたがせてあげません」
「どうしてですか」
「約束を優先しなさい」
「いいのですか」
「前からの約束なのでしょう?」
「ですが、もとよりそう遅くはならないかと」
お酒は入りませんからと言いかけてやめる。酔える酒の好きな文を前にして禁句である。
「それでしたら、お腹を満たしてから来なさい。今晩はなんの用意しません」
「かしこまりました」
応諾をみせると、文の白い手に首元を軽く撫でられ、そして、そのまま噛むような仕草でつねられる。
誰の入れ知恵なのか、たまに文はこうして椛をからかう。それは狼たちのする示威行為のひとつであり、群れのなかでの上下関係を確かめるべくされるものである。
こうした文の真似事を、椛は慎んで受け入れている。その従順さに満足したのか、小さな欠伸とともに、文がまなじりをこすった。
「少し寝ます。帰りぎわに起こして」
「ちゃんと起きてください」
「がんばる」
それだけ告げると、文はすとんと眠りに落ちた。意識の離れた文の身体は、少しだけ重みをました。やや誇張のある寝息を聞くに、やはり文は一睡もしていないらしかった。手のなかに握られたままの湯飲みからも、その眠りの頑なさは見て取れる。
やすらかな寝息を耳朶に浴びながら、しかし椛は行き場のない罪悪感を得る。今日のことにしろ、最近のことにしろ、好き好んで文を疎遠にしているわけではない。職務があり任務があった。
もはやかつての任務は解かれている。首尾は上々でなくとも、たしかに完遂させたのだから。
そしてさらには、文の言いつけ通りに手紙も交わしてきている。だというのに、どうしても拭いきれないものがある。
文からの手紙に綴れられた文字は、椛の近況を気にかけるものがほとんどである。いくら椛が下っ端だからといって、日々のことを心配されては今さらが過ぎる。だが、それゆえに文の本意はうかがい知れた。普段は勝ち気なのが、わざわざ足を運んできたのも、それによるものと容易に想像しえた。
そのことは、呼び止められたあの日から今日に至るまで、なにひとつとして変わっていない。おそらくは、椛だけが知りえる文の心根である。だからこそ椛は、文を本気で追い返すことができなかった。
水幕の向こうでは雪が降りはじめていた。
吐いた息の白さに水飛沫の音がまじって、雪のただよう音が聞こえるようだった。耳朶をぬらす文の乳色の呼気は、知らぬ間に、椛にも眠気を誘うようで。
まなじりをこすり意識を保たせると、ただ、引き継ぎの時に、この状況を同僚たちにどう話すか。それだけが今の問題になった。
次に期待です。
せめて、文と椛の馴れ初め話をもう少し掘り下げた方が二人の味気ない会話にも厚みがでたんじゃないかな、と。
淡々と進む語り口と、縦書であるところから国語の教科書を読んでいるような錯覚に陥りました。
二人の微妙な距離感が、いいですね。文章も書き慣れている感じが出ています。
欲を言えば、この後(夜に会った時)の二人のやり取りも見てみたいです。
何個か違和感を覚える使い方がありました。
苦言を呈するは相手の為を思って、言われる側がいい気持ちにならないことをいうことで、単に素っ気なく拒絶するときに使うことばでは無いと思います。
あと確かに物語の起伏が無さ過ぎですね。あれです、人の文章修行ノートを読まされた感じでした。
冬ならではの停滞したような空気感と、二人のやり取り
じっくり楽しむ事が出来ました。
こういった日々の一部を覗いたような話、とても好きです。
続…… というよりも別の日と言うべきでしょうか、
この二人のやり取りを、もっと見てみたいです
正に鴉と狼のお話、という感じでした。