「……ダメ…これじゃ無理………いやさっきのあれと…組み合わせたなら……」
天界に作られた書庫の中。
天子はたくさんの本に囲まれながら、そこに記された秘術を読み漁っていた。
「ここの二番に…これを割り込ませて……いやでもそうすると無理が…できるか……?」
多くの場合、仙人などが修行の果てに到達できる天界には、当然集まってくる書物は一級品のものだ。
それも天界の最頂点、非想非非想天の書物となればその中でも選りすぐりのものばかり。
そんな数多くの天人の汗と涙の結晶であり、秘宝ともいえる書物を天子は乱雑に積み上げ、その上にはついでに帽子も掛けられていた。
乱立する塔の中心で、ブツブツと唱えて理論を整頓しながら、一心不乱に本を読む。
「………………やってみるか」
やがて延々と本を読んでいた天子は顔を上げると、脇にあった小物に手を伸ばした。
それは円形の板の上に半透明のドームが作られており、土台は実体であるがドーム部分は結界でできた、非現実的なものであることが見て取れた。
天子はその結界の張られた装置を目の前に置くと、本を片手に手をかざす。
「――――――」
言葉に言霊を乗せて、小さく何か呟いた。
それは間違いなく書物に記された秘術であり、いくつものそれを天子が独自に組み合わせて昇華させたものだった。
天子の手のひらが薄く輝き、呼応して結界も光を帯びる。
目を薄くし意識を集中し、秘術を織り交ぜ結界に力を注ぎ込んだ。
「――――あっ」
だが、天子が焦ったような言葉を発したときには、結界にひびが入り、脆くも崩れ落ちてしまった。
「……また、失敗か」
落胆した様子の天子が本を閉じて装置に手を触れると、パンと空気が弾ける音とともに先程と同一の結界が張り直された。
そのことを確認すると、天子はそばの塔に本を置き、立ち上がって本棚に手をやった。
「あれっ」
だがピタリと手が止まる。
先程書物があったはずの棚は、一冊残らず抜き取られていた。
「……そっか、全部読んじゃったか」
呆然と呟き天子は元の位置に座り込むと、疲れた顔をして下を向く。
そのまま何をするでもなく、ぼうっと装置に張られた結界を見つめていると、トントンと書庫の扉が叩かれた。
『失礼します、総領娘様』
聞こえてきたのは、日頃から天人に仕える天女の声。
「なに、どうしたの?」
『先程、永江衣玖と名乗る竜宮の使いがやってこられ、総領娘様へ渡すようにと命じられたものが』
「入ってきて」
許可を得て、天女が扉を開いて書庫へ足を踏み入れる。
最初は積み上げられた書物に面食らったようだが、すぐに気を取り直した一枚の紙を天子に差し出した。
「こちらがそれになります」
「ん、ありがと」
受け取った紙を覗き込んで目を通す。
紙の上部にでかでかと書かれた「博麗神社縁日」という文字がまず天子の目を引いた。
「……そうか。よし、行くか」
天子は帽子を取ると頭に被り、瞳にわずかな光を宿して立ち上がった。
「私は出かけてくるから、ここの本しまっといて」
「は、はい、わかりました」
面倒な後始末を天女に押し付けて、装置をポケットにしまいこむと書庫を後にしようとする。
「あ、あの」
「なに?」
「お疲れのようですが。無理をなさらずにお休みになられたほうが……」
随分と必死になっていたからか、天女から身を案じられるくらい顔に疲れが出てたらしい。
「別にこれくらい大丈夫よ。天人はそんなに軟じゃないのはあなたも知ってるでしょ」
顔ぐらい洗った方がいいかなと考えながら、乾いた笑い声を上げて天女を一蹴する。
それでも心配そうな天女を脇に通り過ぎて、天子は外へ出かけた。
「――このくらい、あいつに比べたらたいしたことないわよ」
ぽつりと、自らに言い聞かせるように天子は小さく呟いた。
◇ ◆ ◇
下界サイコー! 幻想郷サイコー!
「毎日が楽しくて酒が美味い!」
春は綺麗な花で彩られた大地を楽しみながら空を飛び、夏は暑さにうだりながら水辺の涼しさに人心地つき、秋は大地の実りを頬張り食欲を存分に満たし、冬は銀色に包まれた世界でその雪を手にとって遊びつくした。
年中穏やかな天界では楽しめない四季の移り変わり、それにともない絶え間なく変化する生き物たち。木々や草花、虫や動物、そして人。
しかし幻想郷においては変化せず、永遠に近い時間を生きる者も沢山いる。だがそんな者たちも私のことを楽しませてくれた。
みんな飲み笑い、まだ体験したことはないが誰かが死ねばきっと泣くのだろう。私の他の天人たちとは違い、感情をあらわにして日々を過ごす人外の存在。
そんなものが一杯に詰まった幻想郷は、まさしく私が求めた真の桃源郷であり、そこで過ごす日々は刺激満点でこれ以上ないくらい私の心を満たしてくれた。
「おうおう、言うね天子。ほらほら、もう一杯飲め飲め」
「おっとっと、ありがとね~」
そして博麗神社での宴会に参加した私は、喧騒の中で上機嫌だった。
輝き誇る満月の下で酒を浴びるように飲みながら、友達と語り合って笑顔を浮かべる。
文句のつけようがないくらい幸せな時間に、私は視線を滑らせて宴会の参加者たちを流し見た。
博麗の巫女、いつも神社の宴会には参加している魔法使い、何だかんだで出席率の高い人形遣い、吸血鬼と館のメイド、山の巫女、今酒を注いでくれている鬼。その他諸々。
その中に、私の探した者はいなかった。
「……今日もいないんだ」
「誰のことだ?」
「ほら、紫とかいうあの変な妖怪よ」
あいつとは異変の最期に神社で戦って以来、ずっと顔を合わせたことがない。
八雲紫。あの妙な妖怪の姿は見つけられなかった。
私はそれなりの頻度で宴会に参加しているが、向こうが避けているのか、それとも単なる偶然なのか、あいつは宴会に出てこなかった。
「そうだなぁ、あいつはそこまで表には出てこないからな。全くないってわけじゃないけど、中々会えなかったりすることはあるだろ」
「ふぅん」
萃香の話を聞きながら、ちびちびと酒をすする。
あの妖怪のことは、私の記憶に強い印象として残っていた。
「なんだ、やっぱり会ってリベンジしてやりたいか?」
「……まぁ、そんなとこね」
萃香に聞かれてとりあえずそう答えたが、実のところ会いたい理由はそれじゃなかった。
なにも神社の落成式に現れて、計画をブチ壊されたから恨んでいるってわけじゃない。むしろあのくらいのことは心のどこかで私も予想していた。
出る杭は打たれる。やりすぎたものは更なる力に打ちのめされる。
その程度のことはわかっていたし、覚悟もしていた。むこう何百年かは下界の者から反発を受けて天界から降りられない可能性も考慮していた。
それでも要石を博麗神社に仕掛ける暴挙に出たのは、地震を抑えるためというのもあるけど、私と幻想郷を繋ぐ楔が欲しかったから。
それさえあれば、たとえもう数百年を天界で過ごすことになろうとも、いつかは再び幻想郷に来る時があるだろうから。
まぁ、実際は傍から見れば最悪のタイミングで八雲紫が私を倒し、それで手打ちみたいな空気になったからそんなに時間をかけることもなかった。
天人を虐める祭なんかも私を幻想郷に迎え入れることの手助けになったけど、やはりここ一番で自分の計画が潰されたのは大きい。
そう考えれば、恨むよりも感謝するべきだ。
会って、話をしてみたい。
もしかしたら向こうは自覚すらないかもしれないけど、私を助けてくれたあの妖怪はどんなものが好きなのか
、どういう性格をしているのか。
そしてとりとめのない話の先に、いつか礼の一つでも言っておきたかった。
「……ぬるい」
紫のことを考えていた私は、無意識に再び口をつけた酒に意識を現実に引き戻された。
考え事をしている間に、なんだか騒ぐような気分じゃなくなってきてしまった。
「おう、天子どこ行くんだ?」
「つまらないこと考えてたら興が削がれてきた。今回はもう止めにしておくわ」
「あっ、おい!」
声をかけてきた萃香にそれだけ返すと、私はさっさと宴会場から抜け出した。
けれど帰る気にもならなくて、どこに行くでもなく月明かりに照らされながら森の中をぶらぶらと歩いた。
喧騒から離れ、虫の音と草を踏む音だけが聞こえる中、浮かんでくるのはやっぱりあのスキマ妖怪だった。
「まったく、住居まで不明とか仙人かっていうのよ」
一度こちらから会ってみようとしてみたが、誰もどこに住んでいるのか知らなくて徒労に終わった。
一向に会えない鬱憤を愚痴っていると、気が付いたら歩く方向が変わっていることに気が付いた。
「あれ? なに今の変な感じ」
まっすぐ歩いていたつもりなのに、いつの間にか別方向に誘導されてる。
酒に酔ったから、というわけじゃない。
方向感覚を見失うほど飲んではいなかったし、何よりも誘導のされ方が自然すぎた。
私は大地を操る能力のお陰で、地面の起伏とか方向とかが普通よりもよくわかる。
だからこそ、一瞬の違和感からそのことに気が付いた。
「はっはーん、どっかの誰かが結界を張ってるわねこりゃ」
恐らくは方向感覚を狂わせて、内部へ近づかせない種類の結界だろう。
天人の私も一杯食いそうになるあたり、相当な使い手のようだ。
となれば、当然何を隠しているのか気になる。
「強行突破!」
やる気になってきた私は、恐らく結界の中心と思われるほうへ歩き出した。
途中何度も方向感覚を狂わされたが、その度に周辺の大地から方向を再確認して進む。
術は高度ではあるが、いかんせん私とは相性が悪い。
勝ち誇った気分で結界の中を押し進むと、虫の鳴き声に混ざって何か別の音が聞こえてきた。
リン リン リン ザッ リン リン
「……ん?」
歩みを止めて耳を済ませてみる。
リン リン リン ザシュ リン リン
今度は間違いなく聞こえた。
「何だろこの音」
土を掘っているような、それが結界を張ってまで隠したいもの?
気になって感覚を研ぎ澄ましながら、異音の方へ足を向ける。
するとその先に感じた妖気、私の記憶を強く揺さぶってきた。
「この感じ、八雲紫……!」
忘れもしない。この固まっているようで霧散しているような、独特のとらえどころのない感覚。
八雲紫がいる。
何でここにとかの疑問はあったが、とりあえずそれを無視して会うことだけを考えた。
そりゃ今まで探してたのがすぐ近くにいるんだから、まずは接触するのが優先だ。
だが、会うとしてまずなんて言えばいいだろうか?
「こんばんは」とか「ごきげんよう」とか? うぅん、なんかここで言うのは違う気がする。
「こんなところで何をしている」……いきなり切り出すのは威圧的過ぎなような。
「ここで会ったが百年目!」これじゃ喧嘩売ってるだけじゃないか。
歩きながらうんうんうなって考えた末、結局は無難に「久しぶり」とでも言って様子を見ることにした。
もう、すぐ近くに感じる妖気に、ちょっとばかり緊張する。目の前の茂みを抜ければ、きっとそこに目標がいる。
自分を落ち着けようとゆっくり深呼吸して高鳴る胸を静めると、私は紫の前に飛び出した。
「やっほー、久しぶり……」
そこで私が目にしたのは、全く想像にないものだった。
森の中の一角、開けた広場のような場所で。
手に持ったシャベルで一人土塗れになりながら穴を掘る、八雲紫がいた。
「――誰?」
まだ浅い穴の中でかがんでいた紫が、背を伸ばして私を見た。
顔中汗だらけで、上等そうな導師服のいたるところに土がこびり付いている。
「どうやってここに」
「……何してるのよ、あなた」
「あれ」
紫が指で指し示した方向を見て、ギョッと目を丸くしてしまった。
積み重ねられた白い山。
大量の骨がそこに積まれていた。
「ここに来た方法は、今は問いません。それより、お墓を作ってるから、邪魔しないでくれませんか」
山の上の頭蓋骨が、薄暗い目でこっちを見つめる。
動物の骨とかじゃなくて人間のだ。
私が驚いてる間に、紫は私から視線を外し穴掘りに戻っていた。
何であの紫が墓穴を掘ってる。なんで? しかもこんな人目の付かないところでこっそりと。
突然のことに驚いて思考がまとまらなかったが、徐々に冷静になってあの骨の山の出所を考えてみるとあっさりと答えが出てきた。
「……そうか、あれが、幻想郷の被害者ね」
私の言葉を聞いているのかいないのか、紫は黙々と土を掘り返す。
「そもそも妖怪が人を食わず生きるなんて無理な話。外からさらって、妖怪に与えてきたわけか」
「そうよ」
当たり前の話だ、妖怪とはそういう存在なんだから。
妖怪がいるならばその裏で食料が必要だ。
紫が妖怪を存続させようとするなら当然のこと、そう頭では理解していた。
「……ふん、反吐が出るわね」
でも私の口から出てきたのは汚い言葉だった。
人を食べたからとか、そういうのに怒ってるわけじゃない。関係のない人間が食べられたところで対岸の火事、それほど怒りが沸くものでもない。
私は、八雲紫は真に強い存在だと無意識に思い浮かんでいた。
私を下した妖怪なのだから、あらゆる方面に、勿論精神的にも強いと。
なのに目の前の光景は、そうすることで罪から逃れようとしているような現実逃避に見えて、期待を裏切られたように感じて、頭に血が上ってしまった。
「自分で殺しておいて今更墓作り? そんな許しを乞うようなことをしたって、食われたやつはあなたのことを許したりしない。例え幻想郷のためだとしても、その罪が消えることはない。あなたのその行為は自分の罪を誤魔化すための偽善に過ぎないわよ!」
勝手に期待して、勝手に怒って。頭を冷やしてから考えれば酷い話だ。
けどそれを止める者は誰もいなくて、怒声を浴びせたけどまだ熱は引かない。
私は依然として態度を崩さず紫を睨みつける。
「えぇ、その通りよ」
けど、苦虫を噛み潰したような顔を見て、それ以上何も言えなくなってしまった。
私の言葉に一切の反論をせず、耐え難い現実として受け止めているように見えた。
それっきり口を閉じた私の前で、紫は一心に穴を掘り続ける。
しばらくして十分な深さまで彫り終えると、紫は穴から出てきた。
「まだいたのですね」
その姿は土で更に汚れていて、正直妖怪の賢者とか言われる者には見えない。
けれどまるで気にしていないようで、その場から動かなかった私を少し驚いたようだった。
「別に、私の勝手でしょ」
「察するにリベンジしにやってきたとか、そんなところですか」
「……今日はいいわ。気分じゃない」
こっちから邪魔をしなければ向こうもどうでもいいのか、紫はそれ以上何も言わず、積まれていた骨を手にとって穴に運び込んだ。
スキマを使って入れればいいだろうに、一つ一つ手作業で丁寧に詰めていく。
妖怪の力が強まり気分が高揚するだろう満月の夜なのに、黙々と続けられるその作業は決して無造作に行われるものでなく、骨になった人間一人一人に懺悔しているのを、その動作から感じた。
私は何をするでもなく、それが滞りなく行われるのを見届けていた。
◇ ◆ ◇
「おいーっす」
軽く顔を洗って外に出てきた天子は、天界に居ついて酒を飲んでいた萃香と衣玖に気の抜けた挨拶をした。
「おーう、天子、チラシ見たか?」
「見た見た。届けてくれてありがとね衣玖。危うくお楽しみを逃すとこだったわ」
前もって面白そうなことがあったら教えに来るよう頼んでいた衣玖に、感謝の言葉を述べる。
「それはいいですが、いきなり篭りだしたりして何をなさっていたんですか?」
「それはヒ・ミ・ツ」
「あなたが言うと嫌な予感しかしません。地震関連の悪戯はよしてくださいよ、触れ回るのも面倒くさいんですから」
「はいはい、心配しなくても大丈夫よ。それよりさ萃香」
「ん?」
「ちょいとお耳を拝借」
天子は萃香の耳元に口を近づけて手で隠すと、周りに漏れないように小さく言葉を伝える。
「ごにょごにょ」
「ふんふん、ほお面白そうだね。でも何で私に」
「人間に頼むんじゃ場所と時間的に不安だからね。できる?」
「まぁ、そのくらいならやれるけど、物がないぞ」
「大丈夫よ、お金ならあるから。そっちは私の方が集めるわよ」
「何をこそこそ話してるんだか」
「大丈夫だって、悪巧みじゃないさ」
面白いことだけどな、と萃香が怪しむ衣玖へ快活に笑いかけた。
「んじゃ、約束の時と場所でお願いね」
「あっ、時計もない」
「わかった、私の時計とピッタリ合わせたのを用意しとくわ。準備できたらもう一度会いに来るから。じゃあね!」
用件が済んだのか、萃香に約束を取り付けると、天子は早々に天界から飛び降りて行ってしまった。
「本当に大丈夫なんですか?」
「心配性だねぇ。祭りを盛り上げようってだけさ」
「祭り……縁日ですか」
「その通り。まっ、これ以上は当日のお楽しみってことで」
残された萃香は、相変わらずニヘラとした笑みを絶やさず酒を楽しんでる。
そんな姿に衣玖は呆れながら訊ねかけた。
「それにしても、最近の総領娘様は変ですよね。あんなに大騒ぎする人がたまに下界で寝泊りして帰っきても、どこに行っていたのか誰も知らなかったり、毎日私たちを無視して下に降りてると思えば、いきなり書庫にこもって調べごとしたり」
「妙ではあるなぁ。でも一人で企みごとをするには必死すぎだ、さっきもちょっと疲れてるようだったし」
「そうですね。隠してたようなので触れませんでしたが」
いつもどおりを装っていたが、疲れが見え隠れしていた。
「察するに、別の誰かが絡んでると見たね。そいつのために、無理してでも何か推し進めようとしてる」
「総領娘様ってそんな一でしたっけ」
「さぁね、私もあいつのことよく知ってるわけじゃないし」
「恋だったりして」とニヤニヤ口元をゆがめて小指を立てる萃香が、いやらしいですよと衣玖にたしなめられる。
それで会話も一旦終わり、萃香もしばらく酒を飲んでいるだけだったが、思い出したように急に口を開いた。
「紫かね」
「……? あの管理者ですか」
「あいつの家にでも行ってるなら、動向が探れないのも当然かなって思っただけさ。結界で閉ざされてて身内以外で行けるのは極少数。そこならいくら騒いでも誰も気付かない」
「ちょっと前から仲良くやってるらしいですが、そこまで進展が早いものですかね。管理者の住居なんて、絶対に漏らすべきではないですよ」
「時間なんて関係ないさ。天子もあれで肝心なところではしっかりしてるから、秘密は漏らさないだろうし。何かあっていきなり親密な関係になったんだとしたら、教える可能性もあるさ」
淡々と、自分で考えをまとめるように萃香は言葉を並べていく。
「だとして、何をしようとしてるんでしょうかね」
「……わからん!」
萃香は諦めたように両手を放り投げて、ごろんと寝転んで空を眺めた。
「わからないって」
「仕方ないだろー。紫って秘密主義で大切なことは漏らさないし。まぁ、紫が付いてるなら、そう悪いことじゃないだろうさ」
「紫、楽しんでくれるかな」
地上へと降りる天子は、チラシを見ながら友人を思い浮かべ、期待で顔をほころばせた。
◇ ◆ ◇
次の満月の夜に、私は宴会の誘いを蹴って、紫と出会ったあの場所へ向かった。
先日、墓を作る紫と遭遇した時は、あいつは墓を作り終えると押し黙る私を置いてとっとと帰ってしまった。
結局何も話せず終いで、もう一度会えないかと思ってもう一度ここにやってきたのだ。
とはいっても、満月の夜に妖怪が辛気臭く墓を作るなんておかしな話で。もしかしたら前回はたまたま止むを得ない理由があっただけで、今度は出会わないかもしれない。
そんなことを考えていると、また結界に行く手を阻まれた。
「またか」
以前と同じように結界の内部へ入り込むと、ザシュッと土を掘り返す音が聞こえてきた。
こんな月の綺麗な夜になにやってるんだか、とちょっと呆れながら進むと、そこにいたのは予想通りのものだった。
この前と同じように、導師服を汚しながら汗だくで穴を掘っている。
「またこんなことしてるの」
「……私としてはあなたがまた来たことが驚きですが」
「んーと、必死に穴を掘る妖怪の賢者を笑いに来たとか?」
「邪魔しなければなんでもいいですが」
今度は先に心の準備が整っていたお陰で、割と普通に憎まれ口を叩けた。
紫はそんな私を放っておいて手を動かす。
少しずつ底が深くなっていくのを、穴の横でしゃがんで見下ろす。
しかし、手作業とは時間の掛かることだ。私なら一瞬で墓穴なんて作れるのに。
「……ねぇ、穴を掘るんなら私の能力使えばすぐできるわよ」
「結構です」
「天人に借りを作るのは嫌?」
「自分の手で、作っておきたいんです」
神妙な顔でそう言われては、余計な茶々を入れる気も起きない。
どうしようか、もう一度ここに来たのはいいけどやることがない。
話しかけてもウザがられるだけだろうし、帰ってしまったほうがいいんじゃなかろうか。
でも、ひたすら穴を掘り続ける紫の顔は、どこか苦渋に満ちていて、自分で自分を痛めつけているように見えてしまった。
そう思うと、このまま帰る気は起こらなかった。
「あ~……もう、ったく」
いつもは他人のことなんか考えない癖して、こんなところで余計な気になる自分に悪態をついて、穴の中に飛び降りた。
隣で紫が驚いて声を上げたが、気にせず穴の底に手をつける。
「ちょっと、あなた」
「なによ、能力は使わないわよ。それならとりあえずは文句ないでしょ」
変に勘違いされる前にそう言って、素手で地面を掘ろうとした。
が、やはり今しがた露出したばかりの土は固い。天人の肉体の強度なら手が傷つくことはなくとも、中々骨が折れそうだ。
指先に力を込めて、なんとか地面に指を突き立てて僅かながら土を掘り起こす。
「何してるの」
「手伝ってやってるに決まってるじゃない」
小恥ずかしくて、ぶっきらぼうな返事しか出来なかった。
いやでもここで変な意地張っちゃうのもな、と若干思いつめてくる。
いやさ、こういうところで変にひねくれた言い方しか出来ないから、いつまで経っても例の一つも言えないのよ。
ちゃんとここは本心を打ち明けて、協力してあげたいだけだって言うべきよ。うん、よし!
「言っとくけど、何もあなたのことを助けたいと思ってやってるんじゃないわよ。今日は戦いたい気分なんだから、こんなことさっさと終わらせてあなたと再戦したいだけよ。わかった!?」
無理でした。
いや、マジ無理。私そんな良い子ちゃんじゃないし、素直に申し出るとかマジ無理。
やっべー、やっちゃったなーっていうのと、恥ずかしいーとかいうのが混じって多分私の顔は赤かったと思う。
紫はそんな私にちょっとだけ目を丸くさせると、すぐに真顔に戻りスキマからシャベルをもう一本取り出した。
「使いなさい」
「……私に?」
「他に誰もいないでしょう。女の子が綺麗な指を傷つけるべきではありません」
「……ん」
紫が差し出してくれたそれを、私は手に取った。
それからは、私も紫も黙って墓穴を掘っていた。
十分な深さまで掘ると、妖怪に食べられた人間の遺骨を穴の中に詰め込む。
紫が馬鹿丁寧に運ぶもんだから、私も心までは真似できないが、動作だけでもそれに倣って一つ一つ運んでいった。
それも終われば二人で土をかぶせ、その上に石を積み重ねる。
完成した墓標に紫は満足して一歩後ろに下がった。
「拝まないの?」
「私に拝まれたって嬉しくないでしょうから」
「ふぅん」
私も手伝いをしただけで、とりたてて死んだ人間に思うことがあるわけでもないし、拝まなかった。
やり終わって自分の身体を見てみると、紫と同じように身体中土に汚れている。
「あーもう、服が台無し」
「それで、どうするのですか。今から戦う?」
「いや、今日はもういいわ」
今なら紫も挑めば受けて立つだろうけど、元々そんなつもりはなかったし止めておいた。
「……ねぇ、何でお墓なんて作ってたのよ」
全部終わってから、ようやく気になっていたことを聞いてみた。
私が最初想像したような自己逃避ということはきっとない。
「ちゃんと、覚えておきたかったから」
私の問いに、紫は自分の手の平を見つめながら口を開く。
「私のわがままのために、どれだけ殺しているか」
それは私に答えているというより、自分自身に言い聞かせるかのような言い方だった。
◇ ◆ ◇
「藍、まだかしら? 早くしないと天子を待たせちゃうわ」
「しっかりメイクするように言ったのは紫様じゃないですか。もうすぐですから待ってください」
鏡台の前に目を閉じて座った紫の顔を、藍がせっせと化粧用品で塗りたくっていた。
ファンデーションを頬に塗り、行き過ぎない範囲で顔を飾り立てていく。
「ハイ、完成です」
ムズ痒そうにジッとしていた紫が、満を持して目を開く。
鏡には普段から整えられた自分の顔が、藍の手腕を持ってより美しくメイクされているのが映った。
「どう橙。似合ってるかしら?」
「はい! すっごく美人になってます!」
傍で二人を見守っていた橙が、問われて元気よく返事をした。
「あら、それじゃあいつもの私は美人じゃないと?」
「え!? いや、そういうわけじゃ……」
「紫様、あまり橙をいじめないでやってください」
「ふふふ、冗談よ。冗談」
軽く橙をからかった紫は、改めて鏡の中の自分をまじまじと見つめる。
「流石藍ね。よくできてるわ」
「恐れ入ります」
紫が鏡から視線を外して、窓の外に広がる空を見上げる。
太陽は西の大地に姿をほとんど隠し、月と星々が空で輝き始めている。
祭りを楽しむには丁度いい頃合だが、せっかちな天子はもう待ちくたびれているだろう。
「よし。それじゃあ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい紫様!」
紫は作り出したスキマに潜り込んで、藍と橙の前から姿を消した。
「……最近、紫様明るくなりましたね」
「そうだなぁ。以前はどこか無理して振舞ってる時があったが、ここのところ自然に笑っていらっしゃる」
化粧品の散乱した鏡台を横目に、藍は感慨深そうに話す。
思えば、主から私事で化粧をしてくれと頼まれたのも久しぶりな気がする。
紫にまったく個人での時間がなかったわけではない、だが、やはり本来の性格からすると日頃から抑圧されていたほうだろう。
誰に、というわけでもない。自分自身で縛り付けていた。
「それもこれも天子と親しくなってからだな」
「はい」
藍は感慨深く呟きに、橙も即座に同意した。
「天子さんは一緒にいて楽しいし、紫様が元気になるのもわかります」
「……でもああまで仲が良いとちょっと妬けるな」
「あはは、ですね」
「それになぁ、何か話すたびに一言にはやれ天子とこんなことがあった、やれ天子がかわいくてしかたないとか言われてノイローゼになぁ」
「藍様?」
「橙 がいるときはまだ遠慮してるんだがなぁ。私と二人っきりの時はずっと天子のことばかり話して、気が付けば隠し撮りした写真とか見せながら無い胸がキュート だとか、ドヤ顔がかわいすぎて生きるのが辛いだとか言ってきて、正直辛いのはそうやってのろけ話されるこっちのほうわあああああああ!!!」
「藍様? 藍様しっかり! 藍様ーーーー!!?」
おおむね八雲家は平和である。
◇ ◆ ◇
一緒にお墓を掘ってから、紫のやつはたびたび私の前に現れるようになっていた。
それは私の家の中であったり、出かけた先であったりした。
一人で木々の上を飛んでいるときだったりすると、私は要石に、紫はスキマの上に腰を下ろして、下らない世間話に興じた。
「今の時代って凄い紙が一杯あるのね、昔なんか貴重だったのに」
「人間も進歩してきたもの。そのせいで森林破壊が進んで問題になったりしているけれど」
「そういう思慮の浅いところは進歩なしか」
気が付けば向こうも敬語をやめて、普通に話すようになっていた。
紫は頭がよく話す言葉の一つ一つが理知的だったけど、同時に結構おちゃめというか、可愛げのあるところも多くて、話していて楽しかった。
「はいはーい、紫はもっと外界の品物を輸入するべきだと思いまーす。具体的には漫画とか」
「却下。順序を無視して無理に持ってきたところで、幻想郷には悪影響にしかならないわ」
「えー、元々外界に頼りきりなんだし、ちょっとぐらいいいじゃないの」
「ダメ、大事なのはバランスよ。頼り過ぎず頼らなさ過ぎず。忘れられたものが流れ着く程度が丁度いいの、それでもまだバランス取りが大変なのに」
「ふぅん、やっぱり色々選別してるわけか」
「忘れられるものの中には、そうなるべくして忘れ去られたものもあるもの。自然を破壊するから捨てられたもの、とかね。幻想郷に自然を破壊されてはたまらないわ」
そうやって友達付き合いしていてわかったことは、こいつは幻想郷に維持に結構苦労しているということだ。
直接そういう話を聞いたわけじゃないけど、話のところどころからそう読み取れる。
幻想郷を覆う結界の維持。
日々外界から流入する物品の選別。
異変が起こった際、場合によっては私のときのように介入したり。
そして妖怪の食料――人間の輸入。
いくつもの作業を掛け持ちしている紫には、やっぱりそれなりの負担が掛かってるんだろう。
肉体的にも、精神的にも。
ちょっと心配になったりもしたけど、九尾を式神として従えているんだし、そう酷いことにはなるはずないだろうと考えていた。
「それにしても、あなたは天人なのに本当に俗っぽいわね。どちらかというとその精神は人間に近いわ」
「ふん、何言ってるのよ人間なんかと一緒にしないで。心身共にそんなもの超越してる存在よ!」
「よくいうわ。そんな存在が漫画なんて欲しがるわけないでしょ」
威張る私を見て紫はおかしそうにクスクスと笑う。
うぅむ、こういう何気ない動作一つ一つまで、絵になるようなやつだ。
おかげで怒る気も削がれてくるけど、それはそれで悔しいから躍起になって噛み付いてしまう。
「そういうあんたこそどうなのよ。妖怪の癖に人間のことで責任感じたりして、変わり者過ぎるわ」
「残念。生憎と変わり者なんて言葉聞き飽きてるわ」
「むぅー……じゃあいっつも寝てるのはどうなのよ。あんた一日に何時間くらい寝てるんだっけ?」
「んー、14時間くらいかしら?」
「長いわよ! 」
「だって布団にくるまって寝るの気持ちいいんですもの。それにこれでも前より一時間も短くなったのよ? 進歩していると褒めてほしいところね」
「寝言はあと半分くらい減らしてから言え」
あぁ言えばこう言う、正直私以上の曲者だ。
まったく、変なところで責任感じてると思ったらおちゃらけてて、よくわからない性格してるやつだ。
いや、順序がおかしいのか。おちゃらけてるくせに責任感が……って、どっちでも同じか。
「あっ……」
私と話していた紫が不意に小さな声を上げた。
不思議に思って紫の視線を追ってみると、その先には二人の妖精がゴソゴソと草の茂みを漁っているのが見えた。
「チルノちゃん、ボール見つかったー?」
「クワガタみつけた!」
「ちがうよ、さがしてるのはボールだよ」
妖精の近くの木にはボールが引っかかっている。
恐らくあれを探しているんだろうけど、二人の位置からは葉が邪魔になって見えないようだ。
状況を把握してから紫に視線を戻すと、それが気になるのかジッと見つめていた。
まったくこいつは仕方ないなとため息をつく。
「気になるんだったら助けてあげれば」
「……そういう天人さんはどうなのかしら。人の上に立つものとして、見本になるべきだと思うけれど」
「私、性格悪いからね」
言外に手助けはしないぞと言い含めてやると、紫は私に期待するのを諦めて目の前にスキマを開いた。
すっとスキマの中に手を差し込むと、引っかかったボールの傍に手が生えて、木の上から叩き落した。
「あっ、大ちゃんボール見つけた!」
「やった。じゃあ今度はあっちであそぼ!」
「うん!」
妖精たちは突然降ってきたボールを手に取ると、足早に遊びのに適した広場へ戻っていく。
その様子を、裏から手を回した紫は何もせず見ているだけだった。
「そんなことしないで、直接顔見せて助けてやれば良いんじゃない? ちっぽけな感謝くらいはしてもらえるわよ」
「別にそんなものが欲しいわけじゃないわ」
迷いなく私の言葉を切り捨てるあたり、本当にそういう下心ないんだろう。
その時、ふと前から気になっていたこと聞いてみようかなと思った。
「ねぇ、紫」
「何かしら」
「何でさ、妖怪を救おうと思ったの」
少し、紫の表情が硬くなった。
「……またいきなりね」
「前から気になってたことよ。紫ってかなり特別な妖怪だから、結界なんかで守られなくても生きていけそうだし。いいでしょ教えてよ、減るものじゃないし」
「でもねぇ、あなたお喋りが好きそうだし」
「私が話すのは漏らしてもかまわないことだけ、自分の害になるようなことはしないわよ。紫の恨みは買いたくないし」
紫は少しのあいだ逡巡していたけど、このところ顔を合わせて私に気を許していたからか、決意したように口を開いた。
「性分、かしらね」
「何よそれ、もっと詳しく話しなさいよ」
「詳しくといわれてもね、特に原因となった出来事があるわけでもない。ただ生まれつき嫌なのよ、人であれ妖怪であれ、心の隙間ができたまま死ぬのは」
「隙間?」
「えぇ、悲しんだり苦しんだりして、追い詰められた心にできるぽっかりした隙間。行き場をなくした妖怪が、そういうものを抱え込んだまま消えていくのを見ているのが、嫌だったから」
嘘は、言っていないようだった。
これでも私は数百年生きてるんだし他人の嘘を見破るくらいは出来るけど、そんな感じはしない。
「変なの。妖怪だったら逆にそういうのって好きそうなのに」
「怖がって隙間ができたりするのは好きよ。でもそれを持ったまま死んでしまうのは嫌。どっちにしろ変でしょうけどね」
「駄目だ言ってるわけじゃないわよ。むしろ紫のそういうところ嫌いじゃないし」
「……もう」
心中を吐露して恥かしくなったのか、紫は頬を薄く赤らめてそっぽを向いてしまった。
……あれ、いい雰囲気じゃないこれ?
「チャンスっ」
「何が?」
「あ、なんでもないわよ。うん」
ずっと言おうと思っていた感謝の言葉。
別に今更言わなくてもいいんじゃないかって気もするけど、それでも言っておきたい。
いい加減先伸ばしすぎだし、今ここで言っちゃうべきよ。
今度は気恥ずかしくて誤魔化したりしないように、ゆっくり呼吸を整えて言葉を選んで口から――
「――天子、私からも一ついいかしら」
「え、あ、なに!?」
チャンスつぶされた!?
「……あなたどうかしたのさっきから?」
「いや、ちょっと考え事してただけだから気にしないで」
気後れしてないで、がっつり行っちゃえばよかったー!
内心思いっきり後悔しながら、紫の言葉に耳を傾けた。
「あなたは、この幻想郷ができてよかったと思うかしら?」
「えーと、どういう意味で?」
「あなたならわかるでしょう。結局のところ幻想郷は人間を犠牲に成り立っている延命措置に過ぎない。本当なら消え去る運命だった妖怪を、歪んだ形で残している。果たしてそれが正しいことなのか」
「はぁ? そんなのに正しいも何もないでしょ」
紫の質問を聞いたとき、真っ先に出てきた考えがそれだった。
「あちらを立たせばこちらが立たず。妖怪を存続させるには人間を生贄にするしかない。だからあなたは恨まれるの覚悟で、自分のわがままを優先させて妖怪を助けた。それだけのことに正しも間違いもないわ。あんた自身もそれくらい言われなくてもわかってるでしょ」
「……そうよね。ごめんなさい、馬鹿なことを聞いて」
こういうところじゃ、親しい間柄だとしても容赦しないのが私だ。
一切誤魔化しをいれずつらつらと述べると、紫は自嘲気味に陰のある笑い方をする。
「……まっ、それは天人としての意見で」
「えっ――」
「私は幻想郷を作ってくれてよかったと思うわよ」
私を見る紫の目が見開いた。
「こっちに来てから毎日楽しいしね。幻想郷がなきゃつまらない人生送ったまま五衰でのたれ死んでそうだし」
「でもそれのためにたくさんの人間が犠牲になってるわよ」
「どうでもいいしー、所詮対岸の火事だしー」
「最悪ねあなた」
「って言っても、本音を言うと元人間としてちょっと嫌悪感は感じるかな。でも現状それしか手が無いから仕方ないし。そういうまどろっこしい問題云々を入れても、幻想郷が好きよ」
別に相手が紫だからとお世辞で言ったわけじゃない、私の心から出た本当の言葉だ。
紫は私の言葉に驚くことがあったのか、少しのあいだ何も言わずいたけど、その瞳はかすかに震えていた。
「で、今の答えで満足した?」
「……そうね、及第点といったところかしら」
「えー、バリバリ満点でしょ今のは!」
「あなたね、もうちょっと謙虚になりなさいな。でも、そうね……」
紫はフッと笑った。
今まで見たことないくらい、柔らかくて嬉しそうな笑み。
「ありがとう」
でも、私はその笑みにどこか危うさを感じたのは何でだろう。
「そろそろ行くわね。まだ仕事が残って」
「――ま、待って!」
気が付いたら、スキマを開いて別れようとする紫を呼び止めていた。
だけど紫が振り向いたところで、何を聞けばいいかわからないことに気付く。
「どうしたの?」
「……いや、私の気のせいだったわ」
「気のせい?」
「とにかく気にしなくて良いわ。勘違いだから」
紫は不思議がりながらも、私に背を向けてスキマの中に入ろうとする。
その一瞬、私は指を弾くようにして小石にしか見えないあるものを紫に飛ばした。
「じゃ、せいぜい私のためにお仕事頑張りなさいよね」
「はいはい。こうして私は誰かさんのために馬車車のように働かされるのね。およよよよ」
「いいからさっさと行きなさいよ!」
「酷いわぁ、これから大仕事だっていうのに」
「知らないわよそんなの」
ふざけたところを怒鳴りつけてやると、紫はスキマの中に身を沈めた。
やがてスキマも消え去ったけど、一人残された私の頭からは、さっきの笑みがチラついて消えてくれなかった。
「……どうしようか」
さっき紫がスキマに入る時、紫にこっそり寄越したもの。
あれは私が作り出した要石、それも爪の間にはさまりそうなほど小さなサイズのものだ。
そのサイズの要石なら髪や服にくっついた程度では気付かれることはないだろう。
例え小さくても要石である以上は、私とラインが繋がっている。あのよくわからないスキマ空間の中や、強力な結界を隔てた外界に行かれたりしない限りは所在を把握できる。
何故そんなものをつけたのかというと、やっぱりあの妙な笑みが気になったからだ。
だけど、なんとなくだけど、ここで紫の後をつけたらあいつの普段隠している領域に踏み込むことになる気がする。
誰だって、自分の中心の部分には誰かを入り込ませたくはない、それを許されるのはかなり特別な間柄の相手だけだ。
私は紫と仲が良くなってきてはいるけど、全てをさらけ出せるほど距離は近くない。
それなのに紫の領域へずけずけと深く踏み込むのは――
「――ったく、私バカね。何考えてるのよ」
そもそも私のキャラじゃないでしょうがそんなの。
遠慮なんて辞書になく、人の嫌がることなんて何のその。
それで紫に嫌われるかもしれないが、不良天人なんて呼ばれ方されてる私には、その程度のことなんてことない。
「……あれ、なんだろう。胸が痛い」
チクリと胸が痛んだ気がして、私は何だろうかと首をかしげた
◇ ◆ ◇
「おそーい! いつまで待たせるのよ!」
博麗神社から少し離れた丘の上。
指定された待ち合わせ場所にきた紫を、天子は怒り顔で出迎えた。
「何怒ってるのよ。待ち合わせ時間はまだ先じゃない」
「私がせっかちなのは知ってるんだから、約束の1時間前には来なさいよ」
「無茶言わないの」
天子が声を張り上げるが、この程度は挨拶みたいなものだ。
紫も特に何か思うこともなく、適当に天子をあしらう。
「……あれ、紫化粧した?」
「あら、わかるかしら」
やっと紫の変化に天子が気付いた。
そこで紫はそっけない風を装って、天子の興味を惹かせる。
「ふふふ、どう?」
「へぇー、結構変わるもんなのね。凄い技術だわ。これ藍がやったの?」
「……えぇ、そうよ」
あらぬ方向に向いた天子の興味に、紫は落胆した気持ちが顔に出ないように努めた。
「ほ、他に言うことはないのかしら?」
「汗掻くと化粧落ちたりするんじゃないの?」
「…………大丈夫よ。適当に境界操作してなんとかするから」
どうしても望みの言葉を引き出せず、紫は顔が引きつるのを止めれなかった。
「私はあんまり化粧好きじゃないんだけどね、顔に塗りたくるっていうのがどうにも慣れなくて。って、どうしたの、変な顔して」
「うふ、うふふふふ。所詮私みたいな年寄りが気合入れてお化粧したって、駄目なものは駄目なのね。あぁ何で時間なんて概念があるのかしら、みなもろともに滅びれ」
「物騒なこといってどうしたのよ」
「なんでもないわ。ほら、いつまでもこんなところにいないで行きましょう。うふふふふ……」
「そうね」
先程まで希望にあふれていた紫の眼は、今や死んだ魚のような濁り、口から呪詛の声がこぼれ落ちていた。
こうなりゃやけ食いだ、屋台を壊滅させてやると、紫は神社の方へ足を向ける。
「でも化粧なんてしてこなくてもよかったと思うけどなぁ」
「なに、そんなに似合ってないの? やっぱり小細工したところでババアには無駄なの? 死んでやり直すしかないの?」
「そうじゃなくてさ、紫ならすっぴんでも十分綺麗じゃない。その化粧もいい感じだけど、むしろ私は変に手を加えてない素顔の方が好きかな」
後ろに引っ付いて、サラッととんでもないことを言い切る天子に紫は目を丸くして、つい頬を赤らめた。
「……あなたって、天然ジゴロね」
「ジゴロ、って何? 外国の言葉?」
「何でもないわ。気にしないでほら」
こう簡単に気持ちを揺り動かされたら、いいようにされているようでそれはそれで不満が溜まるが、それでも気をよくした紫は手を差し出す。
「うん!」
騒ぎ声が響き始めた博麗神社に、二人は手を取り合って歩み始めた。
◇ ◆ ◇
さて、紫に要石をこっそり仕掛けた私は、草むらからその姿を覗き込んでいた。
場所は博麗神社の近くだけど、この辺りは誰も来ないだろうっていうくらい何も無いところに、また結界を張って誰も近づけないようにされている。
そんな僻地で紫は幻想郷の大木の前に立っていた。
「……お仕事中ねこれは」
一見紫は大木に手を当てた体勢で、身動ぎもせずにただ立っているだけのように見える。
けど実際のところそうじゃない、大木に付いた手で幻想郷を包み込む博麗大結界へ干渉している。
結界の維持には式も手伝っていると聞いたけど、その式の姿が見えないということは紫じゃないとできない仕事か。
あるいはその式も別のところで働いているのかもしれない。
まいった。
来たは良いけどすることが何もない。
ここで「やっほい紫ー。お仕事頑張ってるー?」と軽く出て行ってポンと肩を叩くわけにはいかない。
見た限りではただ立っているようにしか見えないが、その裏で紫は常人じゃ及びも付かない行動な術式を展開している。
その仕事を邪魔するのは冗談じゃ済まない。声を掛けて意識を乱すことも厳禁だ。
とすると、結局何もすることがない、何もできないししちゃいけない。
じゃあどうする、帰るか?
『ありがとう』
さっきの笑顔が脳裏を掠めて、私をその場に縛り付けた。
「……仕方ない、待つか」
ここで紫を放ってどこかへ行けば、あの顔が気になって、これからの私の生活に影を落としそうだ。
暇だ、退屈だと叫びたいところを飲み込んで、私は紫を監視してみることにした。
まぁ、何もなければそれでよし。
その時は私を縛る要因がなくなって、また明日から自由に生きるだけだ。
一度空を見上げて、太陽が真上にあるのを見て今は昼時かなと美味しそうなご飯を想像して、また紫に目を移した。
最初の30分は暇だ暇だと思いながらジッとしていた。
1時間ほど経ったころは、紫の仕事も大変だなと暢気に思い。
4時間もすると紫の体調を心配し始めた。
ただ時が過ぎ、夕日が沈んで星空が輝き始めると、私は焦燥に駆られていた。
もうどれくらい経った?
私がいた間、紫は休まず結界に手を加え続けている。
その肉体的、精神的疲労は想像を絶するものだ。
普通なら妖怪だろうが天人だろうが体力と気力を共に消耗し尽くしてとっくの昔に倒れている。
じっと監視している私も、これで中々疲れてきているが、紫の身を考えると疲労なんて吹っ飛んでしまった。
正直なところ、この場所から飛び出して紫のそばに駆け寄りたかった。
疲れてるだろう紫の身体を抱えて、どこか休めるところまで連れて行きたかった。
だが邪魔するわけにはいかない。
ここで紫を妨害したら、きっと幻想郷を包む結界に支障が出る。今までの頑張りが無駄になる。
それだけは、できなかった。
「紫……」
奥歯を噛み締めて、出て行きそうな身体を必死にその場に縫い止めた。
そこから更に一刻待ち、ようやく紫のみに変化が起きた。
ピクリと、身体の感触を確かめるように、紫の指が動いた。
釣られて出て行きそうになった身体を押さえようとしたけど、大木から一歩離れた紫が地面に崩れ落ちるのを見てとうとう静止が利かなくなった。
「紫っ!!」
仰向けに倒れた紫を抱きかかえて、顔を覗き込んでゾッとした。
紫の額には大粒の汗が滴っていて、背中に回した腕からは厚い同士服がグッショリ濡れているのが伝わってきた。
「てん…し……?」
明らかに焦点の合っていない眼で、ぼんやりと紫が私を見上げる。
「……あなた、何でここに」
「そんなこと後よ、後。仕事は終わった? 終わったわね。じゃあとりあえず安静にできる場所まで連れて行くわよ」
ゆっくり事情を言い聞かせてやれるほど、余裕はなさそうだ。
私は担架の形をした要石を作り出して、その上に紫を乗せてやった。
岩で出来ているからゴツゴツしているけど、おぶるよりはまだマシだろう。
「どこ、へ……」
「とりあえずこの近くなら博麗神社でしょ。こんな状態なら霊夢も休ませてくれ」
「ダメ……!」
私の腕を、消耗しているとは思えないほど強い力で紫が掴んできた。
ぐったりした状態で、それでも首を横に振って拒否してくる。
「あんたね、こんなになって何強がって」
「あっち……」
もう片方の手で、紫は反対の方向を指差した。
「藍がくる……合流……」
「……わかったわよ。言う通りにするから休んでよ、お願いだから」
それを最後に紫は意識を手放した。
怖くなって耳を近づけてみたら、しっかりと呼吸をしてて少し安心する。
とりあえず紫を乗せた担架を引っ張って、示された方向へ進みだした。
さっきの強い拒否感。もしかしたら紫は誰かにこの姿を見られたくないのかもしれない。
上空を飛ぶのを止めて、木の下を隠れるように進む。
藍という名前は、確か紫の式神のことだったはず。
どこにいるんだろうと、辺りを見渡していると怖気が走る殺気を感じた。
「止まれ!」
殺気と声の方向へ振り向くと、威嚇するように持ち上がった金色の尾が視界に移った。
「貴様、紫様をどうする気だ」
爪を立てて獣の本能がむき出しになった藍にそう言われて、ちょっと冷静に考えてみる。
私は藍の名前を紫から聞いてるだけで、直接の面識はない。
つまり藍は私を知らないわけで、あいつから見たら謎の不審者がぐったりした紫を運んでいるように見えるわけだ。
やっべ、超勘違いされてる気がする。
「いやちょ、ちょっと待って、あなた面倒な勘違いしてるんじゃ」
「待って、藍……」
どう誤解を解けばいいんだと焦っていると、いつのまにか目を覚ました紫が口を開いた。
「紫様!」
「……こっち、へ」
「しかし、そいつが……」
どうやら下手に近づくと、私が紫に危害を加えるとでも思っているのか藍は戸惑っていた。
仕方なく身を引いて紫を乗せた要石だけ前へ出すと、私への警戒を怠らないまま紫の元へ近寄る。
「どうしましたか」
「その子、を連れて……家、へ……」
「しかし、部外者ですよ。隠れ家の場所を知らせるわけには」
「だいじょうぶ、きっと……」
わずかばかり迷っていた藍だったけど、最終的には紫の言葉にうなずいて私に向き直る。
「話は聞いていたな。今から紫様と一緒に、お前を我らの隠れ家へ連れて行く。依存はないな?」
「特に何も」
「いいか。もしお前が紫様に傷一つつけたなら、即座にその首を千切り飛ばすぞ」
「そんなのどうでもいいから、こいつさっさと連れて行かないといけないでしょうが。担架代わりにしてる要石は私が飛ばすから、あんたは先導して家まで案内しなさい」
「なんだと……!」
「……藍」
相変わらず殺気満々の藍だったけど、紫に名前を呼ばれてようやく伸ばしていた爪を収めた。
その後は会話もなく、案内されるまま道なき道を進む。
そのあいだ紫はまた眠ってしまい、ずっと目を覚まさなかった。
「ここだ」
たどり着いた家は、ひっそりと森の中に建っていて、大きいけど少し放置されているように見えた。
多分、こういう非常時に使うためのもので、ここに住んでいるというわけじゃないんだろう。
家に上がって通された部屋で、藍が敷いた布団に紫を移す。
ふぅ、と人心地を付こうとすると、唐突に藍が紫の服を脱がし始めた。
「ちょ、何やってんのよ!?」
「何って、こんなに汗で濡れているんだ。身体を拭いて着替える必要があるだろう」
あぁ、そう言われてみればそりゃそうだ。
納得した私だったけど、人形のようにされるがままの紫の裸体を見て、何だか顔が熱くなってきて部屋の外へ出た。
壁に背中を預けて待っていると、濡れた服を抱えた藍が部屋から出てくる。
「紫は?」
「……命に別状はないよ。極端に消耗して衰弱しているだけだ、二、三日休めば回復する」
その言葉に今度こそ安堵して肩の力が抜けた。
だけどすぐに目の前に立つ欄をにらみつけると、詰め寄ってその胸倉を掴んだ。
「あなた紫の式でしょ! なんだったあいつがこんなになるまで放ってたのよ!? 知ってたんでしょ、あいつがあんなになるまで頑張ってたこと!!」
「……叫ぶのはやめないか。紫様の身体に障る」
「話をそらすな……!」
一応は紫のために声を小さくしたけど、紫を補佐するべき式神に対する怒気は収まらなかった。
それなのに藍は、何の感情を感じさせない無表情で私を見下ろしている。
「……私は、別のところで結界の調整をしていた。それに、私がいてもいなくても紫様はああなっていたよ」
「なんでよ」
「紫様は、紫様にしかできない仕事をしている。他の適任がいない以上、紫様がそれをこなすしかない」
「あんなに疲れて、ぶっ倒れるまで!?」
「そうだ」
やりきれない思いが募って、どうすることもできず藍を睨みつけていたけど、藍の口の端から紅い血が流れているのを見て我に返った。
目の前の九尾は歯が砕けて血が出るほど、歯を食いしばっている。無表情の裏側で、私と同じくらい悔しい思いに満ちている。
それに気付いて、私は手を震わせながら離した。
「……ごめん」
「いやいい。それより、お前は比那名居天子であってるか?」
「そうだけど、なんで名前知ってるのよ」
「紫様から少し話を聞いていたからな。そうか、ならとりあえず問題はないか」
「あっさり警戒を解いて大丈夫なの? この隙に昔の恨みを晴らそうと、寝首でも掻くかもしれないのに」
「紫様から聞く限りそういうやつじゃなさそうだし、あの方が評価を間違えることは考えられないからな」
あいつが私のことをどう吹き込んでるのか激しく気になったけど、今はそれについては横に置いておいた。
「ところでなんで紫様と一緒にいた」
「……ふん。あのバカがこそこそ隠れて何やってるか気になっただけよ。それで後をつけて監視してみればあれよ」
まぁ、あんまり嘘は言っていないはずだ。
ぶっきらぼうな言い方だったけど、藍は気にしていないようだった。
「それで、お前はこれからどうする」
「……あいつ、どれくらいで起きるの」
「丸一日もすれば目が覚めるだろう」
「じゃあとりあえず、それまでここにいるわ」
私はそう藍に言い放つと、また同じところに座り込んだ。
あいつが起きるまで待ったところで、何をしたいか、何が出来るか、そんなことわからない。
ただ、あいつをこのまま放っておくのは無理だった。
「そうか、なら私と同じだな。これから夕食を作るが、お前も食べるか?」
「暢気なもんね」
「私たちまで辛そうな顔をしてれば、それだけ紫様も辛くなるからな」
「……私も食べる」
あぁ、今のはちょっと八つ当たりぽかったなかなと自己嫌悪しながら、結局気力を充電するほうを選ぶ。
そして充電ときて、一つ思い出したものがあった。
「そういえば、紫って日に10時間以上も寝るそうだけど、もしかしてそれって……」
「…………」
沈黙が、私の考えを肯定した。
紫は、今日みたいに倒れるほどじゃないとしても、常日頃から消耗してたんだ。
それを回復させるためだけに、半日以上も眠り続けていたんだ。
「何が気持ちいいんですものよ。あのバカ」
疲れを癒すため、じっと眠りにつくのが、そんなにいいもののわけないだろうに。
扉の向こうで泥のように眠る紫に、私はもやもやとした重い感情を感じるばかりだった。
◇ ◆ ◇
「こんにちわ霊夢」
「ん、紫……と、天子?」
屋台を奥に進んだ先で、場を監視するように仁王立ちする霊夢は、声を掛けられたほうを向いて訝しげな顔をした。
今名前を呼んだ紫がここにいるのはわかるが、天子と並んでというのが気になっているようだ。
「やっほ、盛り上がりそうね。祭りなんて洒落てるじゃない」
「あぁ、なんか前も妖怪とかが集まって勝手にやってたし。最近は神道とか仏教とか道教とかでややこしいから、ここらで一発盛り上げて客を寄せようって」
「へぇ、霊夢にしちゃ頭使ってる」
「魔理沙が勝手に企画した」
「って、あんたじゃないんかい」
相変わらずな巫女に思わず天子は突っ込みを入れる。
「正直先に知ってたら企画ごと潰してるわよ。終わった後は掃除大変だし、こんなの開いたところでやってくるのは金も落とさない妖怪ばっかり。また人里じゃ妖怪に制圧されたとか噂立つだろうし。もう集まった以上、追い返すのも面倒だし楽しむけど」
「へぇー……?」
疑問が浮かんだ天子が、繋いだ手を引いて、紫を近寄らせて耳打ちした。
「ねぇ、ショバ代取ろうとかいう考えはないのこの巫女は」
「霊夢はお金欲しいって言ってても、そんなに切羽詰ってるわけじゃないもの。なんとなくあったほうが良いって価値観から求めてるだけで、執着はしてないからアイディアが出てこないのよきっと」
「駄目な巫女ねこいつ……」
言ったら言ったで、今から屋台から取り立てを始めて祭りを台無しにしかねないので、二人ともそのことは黙っておくことにする。
「何話してるのよあんたら」
「なんでもないわ。それで、その魔法使いさんはどこかしら?」
「張り切りすぎて風邪引いたみたいで、今神社の中に寝かせてるわ」
「うわー、運の悪いやつ」
何で風邪を引いてるのに自分の家じゃなく神社に? と紫と天子は思ったがすぐに思考を放棄した。
だって魔理沙だし。
「それより、あんたたちそんなに仲良かったっけ?」
そういう霊夢の視線は、紫と天子の間に向けられている。
もっと正確に言えば、繋がれた手を凝視していた。
「あら、私たちが一緒にいるのがそんなにおかしい?」
「おかしいでしょ。神社がぶっ壊れるくらい派手にやりあった癖に」
「ふふん。これには一言では説明できないちょーっと深い訳があるのよ」
「ちょっとなのか深いのかどっちだ」
明らかに見せ付けるように繋いだ手を持ち上げる両者に、突いたら蛇でも出そうだなと霊夢は追求を止めた。
「騒ぎ起こさなきゃ、誰と誰が仲良くしようがどうでもいいけどね」
「れいむぅ~、のどかわいた。水~……」
不意に神社の置くから聞こえてきた苦しそうな声に、霊夢は眉を潜めて面倒くさそうに眉間に皺を寄せる。
「はいはい、今行くから大人しくしときなさい。それじゃ、せいぜい楽しんでいきなさいよ」
「そうさせてもらうわ」
「そっちは看病頑張りなさいよね」
「はぁ、まったくなんで祭りの日にこんな……」
「れいむぅ~!!」
「わかってるわよ。急かさないでも行くわよ!」
霊夢は縁側から神社の中へ入っていった。
見送った二人は、境内に立てられた屋台を見渡して、どこから回ろうかと思案する。
先に行動を決めたのは、やはり日頃から活発な天子だった。
「ほら、まずあそこ行こう!」
「はいはい、もう慌てんぼうねあなたは」
はしゃぐ天子が紫を引っ張っていく。
「へいらっしゃい!」
「いらっしゃいませ、総領娘様」
その先で、割と見知った顔に出迎えられた。
「萃香と衣玖?」
「あら、あなたたちも店を出してたの」
「はい、私個人としては凄く面倒なので遠巻きに参加すればよかったのですが、萃香さんに拉致され、もとい誘われて」
「攫うのは鬼の仕事さ。それにしても……」
萃香はジロジロと繋がれた手を見てニヤけると、隣に立っていた衣玖に振り返った。
「なっ? 言ったとおりだったろ」
「そのようで。鬼の目も侮れませんね」
「言ったとおりって、何話してたのよあなたたち」
「さぁさぁ、二人とも何食べる? て言っても不味い焼きそばしかないけどな!」
「聞けよ、人の話を」
「しかも不味いって堂々というのね」
「鬼は嘘吐かないし」
萃香の前に置かれた鉄板の上で、べちゃっと置かれた焼きそばがジュージュー音を立てている。
「こういう場で不味い焼きそばは定番ですから」
「確かにそうだけれどね」
「小盛、中盛、大盛、酒盛、どれにする?」
「おい、最後の何だ鬼」
「焼きそばの酒浸しだよ」
「いらないわよそんなの。他にも色々食べるつもりだから小盛一つ」
「一つですか?」
「問題ないわよ、二人で食べるから。紫、お金」
「はいはい」
紫は繋いだ手をやっと離して、懐からガマ口財布を取り出すと、中から紙幣を取って差し出した。
「どうも、ありがとうございます。ではこちらがお釣りです。今詰めるのでしばしお待ちください」
「えぇ、ありがとうね」
「……ちょっと、萃香こっちこっち」
「ん?」
紫が衣玖から焼きそばを受け取っているうちに、萃香を引っ張った小声で話しかけた。
「あなた、私のお願いは忘れてないでしょうね?」
「大丈夫さ。分身を派遣して、例の場所でスタンバってるよ。時間になれば打ち上げるさ」
「ならいいけど」
紫に怪しまれないうちに、天子は萃香から離れて元の位置に戻る。
「ほら、天子あーんして」
「あーん」
「お二人とも場の空気とか知ったこっちゃないですね」
「むしろ周りまで甘くしてるな」
何のことを言ってるのかわからない外野の雑音は受け流し、二人は焼きそばを食べさせ合う。
もそもそと口にした両者は、なんとも言えない顔をした。
「う~ん、桃よりかはマシね」
「私は桃の方が美味しいわ。やっぱり縁日の焼きそばなんてロクなものじゃないわね」
「おいおい、営業妨害か?」
「鬼は嘘が嫌いでしょう?」
「私はお世辞が好きですけどね」
「で、私たちがお世辞なんて言うと思う?」
「夢くらい見させてくださいよ」
こうやって見知った顔と話すのは楽しいが、それは縁日じゃなくてもできるはずだ。
買うべきものは買ったし、さっさと次へ向かうべきだろう。
「ほら紫。次に行きましょ」
「えぇ。二人とも頑張ってね」
「おいさ、張り切って作らせて貰うよ」
「それでは総領娘様、紫様、楽しんでくださいね」
「言われなくても!」
次の屋台へと映っていく二人を尻目に、萃香と衣玖は顔を寄せる。
「本当に、楽しそうですね」
「あぁ、私の勘もそう馬鹿にしたもんじゃなかったろ?」
「……しかし、なんか今日の紫はいつもより元気だな」
「そうなんですか?」
「いや、気のせいかもしれないけどさ」
本当にただなんとなくでしかないが、心なしか紫の動きがいつもより軽い気がする。
いつもの紫は、今の挙動に重石を付けたように動きが緩慢だ。
妖怪は精神の状態がダイレクトに肉体に反映される。
もし萃香が感じたのが誤りでないとしたら、やはり隣にいる少女の力だろう。
焼きそばを焼きながら話す萃香と衣玖は、祭りを楽しむ微笑ましい姿を眺めていた。
「天子、次はあのチョコバナナとかどうかしら」
「おっ、なにそれ美味しそう!」
「それでね、こう舐めるように食べてくれないかしら!?」
「舐める? 別に良いけど」
「確かに元気そうですね」
「……あんなキャラだったんだなあいつ」
妖怪の賢者に対する評価が急落した瞬間であった。
◇ ◆ ◇
紫が目を覚ましたのは、あれからきっかり24時間後だった。
同じ部屋でうつむきがちにじっと見守っていた私は、紫がうめき声を漏らしてゆっくりと目をあけたのを見て顔を上げた。
「紫!」
「……天子?」
薄っすらと開いた目で、視線だけを動かして紫がこちらを見る。
大丈夫だとは聞いていたけど、やっぱり直に紫の声を聞くと改めて安心した。
「いま藍を呼んでくるから」
「かまわないわ。もう来るから」
私が立ち上がろうとする前に、部屋の扉が開いて豪勢な金毛が目に映った。
「紫様。水をお持ちしました」
「ありがとう」
水が注がれたコップを持って、藍が部屋に入ってくる。
どうやって察知したんだろうか気になったけど、式神なんだから主の状態くらいは把握できるんだろう。
藍は紫が身体を起こすのを手伝うと、手馴れた様子で紫に水を飲ませた。
「おかゆを用意しています。温めてきますので少々お待ちください」
「えぇ、お願いね」
一礼して藍は席を立ったけど、「無理させるなよ」と私に耳打ちしていった。無論、言われなくてもそんなことさせない。
取り残されて二人きりになるけれど、何を言えばいいかわからなくてしばらく黙り込んでいたら、紫が先に口を開いた。
「ふふふ、情けないところ見られちゃったわね」
「……無理して笑わなくていいわよ」
「あら、無理してなんかないわ。まさか特別疲れる時に覗かれてたなんてね。いつから見てたの?」
「ほとんど最初から、別れてすぐよ」
「そうだったの。あんなに疲れるなんて初めてだったから、油断したわね」
「嘘吐くな」
流暢に言葉を並べていた紫が、私の一声で押し黙った。
「藍に全部聞いたわよ。昨日みたいな長時間の作業って、毎日とはいかなくても月一程度でやってるそうじゃない。その度にぶっ倒れて担ぎ込まれてるって」
「……余計なことを」
一瞬だけだったけど、紫は珍しく眉を潜めて困った顔をした。
知られたくなかったようだけど、藍が話したのも仕方ないと思う。
あの式神も紫のことを心から心配しているから、このことを誰かに相談したかったんだろう。
「それだけじゃない。普段から半日以上寝てるのも、毎日の結界修復に疲れて、それをカバーするためらしいわね。毎日毎日、疲れ果てて」
「……知られちゃったわね」
「そんなに大事なことなの、他のやつの隙間を埋めるなんてことが!」
「えぇ、もちろん」
即座に答えた紫に、一瞬何も言えなくなってしまった。
異変を起こしたとき、唯一の目標さえ達成できればそれでいいと思っていた、そんな私と似ていたから。
他の何よりも、自分すらも差し置いて成し遂げたいこと。
幻想郷が紫にとってそれだと、痛いほどわかってしまったから、言えなくなった。
「……そんなことのために辛い思いして、バカでしょあんた」
「そうかもねぇ」
「おまけに人間を犠牲にしたらしたでまた自分を責めて、余計な重荷ばっかり背負って」
思い出すのは、月夜の晩に墓を掘る紫の姿。
「余計なものなんて一つもないわ。全部必要があるから背負ってるのよ」
「……バカ」
強情で、その上不器用だ。
何一つこぼれ落とさないようにして、それでも無理だからその分心が削れる。
せめてその程度、割り切れたら楽だろうに。
でもそうせずにはいられない、そうしないと自分が自分でなくなってしまう、それが八雲紫の生まれ持っての気質なんだろう。
「なに、それで万事解決。おおむね平和に幻想郷があるのなら、それでいいじゃない」
そして私になんでもないように言うこいつは、それでいいと本気で考えている。
本人の気質に沿って行動しているだけだから、それで苦しむことがあっても、必要なことだと割り切っている。
自分にしかできないことなら、一人重荷を背負って生きればいいと思っている。
「……よくない」
何で。
「私は嫌よそんなの!」
何で紫なんだ。
これが他の誰かなら別によかった。
でも苦しんでるのは紫だ。他の誰でもない、八雲紫という胡散臭い妖怪だ。
「私はまだちょっとだけど、あんたがどんなやつなのか知ってる。どんなことを楽しんで、どんな風に笑うか知ってる。そんなあんたが、この先苦しんで生きていくなんて、絶対に嫌よ!」
「天子……」
話してて楽しい紫。人をからかって楽しむけど、誰かを助けて喜びを感じることも出来る紫。私を助けてくれた紫。
そんな紫が、幻想郷のために一生の大半を費やして、その為だけに生きるなんて嫌だ。
紫には、もっと笑っていて欲しいから。
「助けるわ」
「…………」
「絶対、助ける。紫が苦しまなくてもいいように、ずっと笑ってすごしていけるように、私が助けるから!」
「……ありがとう」
感情を剥き出しにして叫ぶ私に、紫は軽く頭をなでるとそういって笑いかけた。
◇ ◆ ◇
「これで全部回ったかな」
「そうね、大体のものは食べたし遊んだわね」
焼きそばを買ってから、紫と天子は思うがまま神社中の屋台を回っていた。
八目鰻から氷精のカキ氷まで食べつくし、射的からまでヨーヨーすくいまで「もう勘弁してくれ」と言われるほど遊びつくした。
「ヨーヨー全部掬うのは大変だったわね。射的の方は簡単だったかな」
「そうね、なぜか後ろに台を置いて落とせないようになってる景品まで吹っ飛んでたわね」
「不思議なこともあるもんねー」
実際はこっそり小さな要石を弾代わりにして飛ばしたおかげである。
景品そのものが欲しかったわけではないが、出張してきた眼鏡店主を驚かせたくてやった。今は満足している。
しかしそうやって遊んだ割には二人は手には荷物がない。
というのも、達成感が欲しくて遊んだだけなので射的の的は店主を泣かせた後で返したし、ヨーヨーすくいなど他の遊びも同様に返却してやった。
「もうだいぶ時間がたったわね」
夜空を眺めながら紫に言われ、天子はそういえばと懐に手を突っ込んだ。
取り出したのは飾り付けのない、カチ、コチ、規則正しく音が鳴る小さな時計。
時間を見て、そろそろだと顔を上げた。
「紫」
「なに?」
「行きたいところがあるんだけど」
夜が深まるに釣れ、ますます祭りは盛り上がりを見せる中、何故か天子は紫を連れて縁日を抜け出した。
「こんなところに連れてきてどうしたの?」
天子が紫の手を引いてやってきたのは、祭りの前に二人が落ち合った場所だった。
ここまで連れてきたことに、紫は不思議がっている。
「まぁ、ちょっと話しましょうよ」
地面の上に腰を下ろした天子が、ぽんぽんと隣を叩いて誘った。
何を考えているのかわからないが、天子の言われるままに紫は並んで座り込む。
「……最初に会ったときはさ、ここまで紫と親密になるとは思わなかったな」
「私も同意見ね。あの時はとんだ食わせ者が出てきたと思ったら、子猫ちゃんだったし」
「猫と一緒にすんな」
「あらそうね。そうれじゃ橙と被るし、犬でどうかしら」
「そうじゃない!」
祭りの喧騒が神社から聞こえてくる。
さっき中心に立っていたときは身体の底にまで響く騒ぎ声だったのに、ここから聞くと風の音にすらかき消されそうだ。
「そういえばさ、あの時から紫に言いたいことがあったのよね」
「恨み言?」
「違うけど、今は言いたくない」
天子は話を続けながら、紫に気付かれないようにまた時計を取り出し、時間を確認した。
秒針が12時の方向を超え、現時刻は8時59分になったところ。
「言いたいのに言えないの?」
「なんていうかさ、私が貸しを作ってばっかりな感じがするからさ、それがなくなったら」
「貸しなんて覚えがないわよ」
「一方的に私が思ってるだけだろうけどさ、その内、私がそれを返したと思ったら、その時は聞いてくれる?」
「……えぇ、もちろん」
秒針が再び0に近づく。
「でも今はさ、とにかく楽しみましょ!」
カチリと、小さな音を立てて秒針と共に長針が0を指し示した。
同時に遠方から十分聞こえる破裂音が届いてくると、夜の空に一筋の光の玉が打ち上がる。
ヒュルルルと空へあがった玉は、腹の底まで響かせる爆発音とともに大勢の目を奪う閃光を発した。
夜空に光の花が開いた。
「えっ――」
空高く打ち上げられた花火に、遠く博麗神社から縁日に来たいた人妖の歓声が響いてくる。
ドンドンドン、と絶え間なく打ち上げられ咲き誇る大輪を、もっとも見晴らしのいい丘の上で、紫もまたそれを見た。
「これって……」
「せっかくのお祭りなんだから、派手な方がいいでしょ? 私が調達して、萃香に頼んで打ち上げてもらってるの。紫のために用意してあげたんだから、ちゃんと楽しんでよね」
突然の光景に呆気に取られる紫の横で、天子は得意げに語りかける。
「綺麗ね。綺麗過ぎて、私には勿体無いくらいだわ」
「んなことないわよ」
「……ありがとうね天子」
花火から目を逸らして、嬉しそうに微笑みかける紫に、天子の心は沸き立った。
同時に、純粋すぎる想いが渦巻いた。
もっと紫に笑っていてもらいたい。
もっと楽しんでいてもらいたい。
苦しそうな顔なんてしないで、ずっとずっと笑っていて欲しい。
思考に飲み込まれ、花火の音が頭から消えていく。
「――ねぇ、紫、楽しい?」
「えぇ、こんなに楽しいのは久しぶりね」
「じゃあ、さ、もっと、楽しくしようよ」
気が付いたら、喉から声が絞り出していた。
花火に照らされながら不思議そうな顔をする紫を見て、止めた方がいいと、心のどこか別の部分が囁く。
けれど、天子はもう止まれなくなってしまった。
「私と二人でさ、幻想郷を出て外で一緒に楽しいこと探しましょうよ! 最初は戸惑うことがあるかもしれないけど、私と紫ならきっと何もかもうまくいくわ!」
「……天子?」
「重荷になるもの全部捨てて、毎日気楽に楽しく生きるのよ! 二人で遊ぶのもいいし、何かやりがいのある仕事を探すのも良いわ! 誰かのために、じゃなくて自分のために好きに暮らすのよ! きっと、きっとすっごく楽しいわよ!」
朝は寝ぼすけな紫を置いて、先に目を覚ました朝食を作る。
朝ごはんを食べながら一日の予定でも話して、食べ終わったら一緒にどこかに出かけるんだ。
そのまま疲れ果てるまで遊び続けて、夜は一緒のベッドにぐっすり眠る。
そうなったら、絶対に楽しいはず。
――――本当に?
◇ ◆ ◇
あれから、随分と時間がたった。
今まで遊びほうけていた私は、一日の大半を博麗の大結界の研究に費やした。
あんまり根を詰めすぎても効率は良くないから、たまに遊んだりしたし、時折紫の様子を見に行ったりはしてたけど、それ以外は全部書庫にこもる毎日。
どうやれば結界を強化できるか、どうやれば紫の負担を減らせるか。
眠らなくても大丈夫な術を自分に掛けて、食べ飽きた桃を機械的に腹に詰め込みながら、紫から貰った博麗の大結界の縮小版を使って、必死にやった。
でも無理だった。
縁日のチラシが届けられたあの日、とうとう天界にある全ての書物を読み漁っても、成果が上がらないことに愕然とした。
やっぱり、という感情がなかったわけじゃない。私なんかよりずっとずっと凄い紫とか、その式神の藍とかが頑張って頑張って、それでもまだあんなに苦労しているんだ。
私がちょっと努力した程度じゃ、立ち向かう資格すら与えられない壁なんだと、そう感じた。
それでも、悔しかった。
一緒に話していると楽しい紫、私を助けれくれた紫を、私は手助けできなかった。
できることなんて、せいぜいが場を盛り上げて、ちょっと紫を楽しませるくらいで。
それだって、バカな私は台無しにしてしまう――
◇ ◆ ◇
「そうなれたら、いいかもね」
満更でもなさそうな答えを出した紫は、でも困ったような顔をしていて、それを見た天子はさっきまで気持ちがしぼんで、小さく嗚呼を漏らして固まった。
「でも、幻想郷には私が必要なの。それを置いて、逃げ出すわけにはいかないわ。だから」
「うん、わかってた……ごめん……」
そう、わかってたはずだ。
紫の身体は紫のものだけではない、紫自身がそうでないことを許さない。
幻想郷を捨てて、紫が幸せに楽しく生きれるはずなんて、ありえない。
一時の衝動で馬鹿なことを言ってしまった自分が、天子は許せなかった。
「天子、あなた泣いて」
「え……?」
言われて天子が頬をなぞると、指先に透明なしずくが付いた。
泣いていることに気付くと、そんな自分が情けなくて、いたたまれなくなった。
「う、あぁ……み、見ないで!!」
普段の彼女からは信じられないほど狼狽した天子は、思わず顔を隠すと、背を向けて逃げ出そうとした。
「ま、待って天子!」
けれど一目散に逃げ出そうとしたその腕を、紫に捕まえられてしまう。
「離して、離してよ!」
「嫌よ、どこへ行こうっていうの!?」
「どこでもいいでしょ!!」
「天子、落ち着いて!」
天子は必死にもがいて、天人の凄まじい膂力により強引に振り放そうとする。
だが紫は結界で天子を動けなくすると、逃げられないようにがっちり抱き抑えた。
それでも抵抗しようとする天子に、ゆったりとした声を掛けてなだめる。
「うぅ、はなして……」
「落ち着いて、天子。そんな、逃げることないわ」
「でも、だって、わたしぃ……」
「どうして、そんなに逃げようとするの」
やがて諦めたのか力をなくした天子は、紫の腕の中でうなだれて、ボソリと呟いた。
「……私、迷惑掛けてばっかだ」
「迷惑?」
「私、紫の役に立ちたかったのに!!」
ぐちゃぐちゃになった顔で、声を張り上げる。
涙を流しながら放たれたその声は、無念のこもった慟哭だった。
「ダメダメだ、私。絶対紫を助けるなんて言ったくせに、全然何も出来ない!」
ここ最近、天子はずっと天界の書庫にこもって、研究をしていた。
紫に貰った博麗の大結界のモデルケース、それを用いての結界の補助方法の探究。
あらゆる本棚をひっくり返し、不眠不休で読み漁り、あらゆる秘法を試しても、それはできなかった。
幻想を現実たらしめる結界は、普通の結界とはわけが違う。
天界にある方法では、通用しなかった。
天子では、紫を助けれられなかった。
「ごめん、紫。私なにも、助けてあげられなくて。ごめん、ごめん……!」
せっかくの祭りの気分が、涙とともに流れていってしまう。
しかし天子は溢れてくる涙と嗚呼と止められなかった。
「ふぐ、うぅぅぁ、ぐすっ、うあ、あぁぁぁあああ!!!」
気が付けば花火は終わっていて、辺りには泣き声だけが響くようになっていた。
天子が大声を上げて泣きじゃくる中、彼女を腕に抱く紫は泣いている天子に胸を痛める一方で、同時に暖かいものを感じていた。
どうしよう、嬉しい。
天子が自分のために泣いてくれている、泣くまで自分のことを想っていてくれている、そのことが何よりも紫の心を満たした。
「天子、泣かないで」
「ひぐ、うぅ、でもっ、私なにも……」
「そんなことない。天子は私にたくさんのものを与えてくれたわ」
紫は腕に力を込め、優しく包み込むように、より深く抱きしめた。
「花火、綺麗だったわ」
「でも、私バカなこと言って、台無しに……」
「お祭り、楽しかったわ」
「私がいなくたって、藍たちとだって楽しめ……」
「お墓、一緒に建ててくれたじゃない」
「別に、あんなの、紫のためにやったわけじゃない」
泣いてまで強情な天子に、クスリと紫が笑う。
「例えそうでも、私はもう十分すぎるほどあなたに助けられた」
「何も、してないじゃない……」
「ねぇ、天子覚えてる? 私が幻想郷の事を聞いたとき、あなたはここのことを好きって言ってくれたわね?」
「うん……」
「あの時、あなたは普通に答えたんだろうけど、私はあの時、ああ言ってくれて嬉しかった。今の幻想郷を創って、心から良かったと思えた」
天人であって人の心を持ちながら、公平に物事を見れる聡明さを持ったこの娘が。
他の誰でもなく、自分の友人となったこの娘が。
どうしようもなく心惹かれてしまう天子が、自分のあり方を肯定してくれて。
「だからね、もういいの」
それだけで、十分すぎた。
「私は、もうあなたに救われてるのよ」
あれ、以来紫の心が軽くなった。
重かった荷が、天子の言葉で払われた。
まだまだ紫の背負う重荷は沢山あって、結界に維持に多大な労力を払っている。
けれど確かに何かが変わったと。
心には風が吹き込み、一挙一動が羽の付いたように軽やかになった。
もう何も心配はない。
これからの人生に、紫は一切の後悔をせず幸せに生きていけると確信していた。
「でも、でもぉ……」
だというのに、天子はどうしてもわからないらしい。
仕方ない、紫にもこの気持ちを伝えるには、言葉ではどうしても足らない。
「じゃあ納得させてあげるわ。天子、こっちを向いて」
未だ泣き止まない天子が、紫の腕の中で身体を反転させる。
涙とは鼻水とで、とても余所には見せられないほどぐちゃぐちゃになった顔を見ても、紫は動じない。
そうして天子の目と目が合った瞬間、紫は唇を重ねた。
大きく見開かれた天子の目から、ようやく涙が止まった。
◇ ◆ ◇
それからの紫は、一言で言えば変わった。
今まで紫は自らの体調不良を周囲には黙っていたが、彼女が変化したのは誰の眼にも明らかだった。
何故ならば、縁日の日を境に紫はことあるごとに天子の話をするようになったからだ。
「それでね、天子ったらもう可愛くて可愛くて」
「あーはいはいそうですか」
「前からそうだったんだけど、いつもいつも私のために面白いことを企画してくれてね、って聞いてるのかしら霊夢?」
「あーはいはいそうですか」
神社の縁側で身をくねらせながら延々とのろけ話を垂れ流していた紫に返ってきたのは、なんともやる気のない返事だった。
「人の話を聞かないなんてなってないわね」
「うるさいわ、定期的にのろけ話聞かされる気になってみろ。というか年寄りののろけとかキモイのよ」
「やだわ年寄りなんて、恋する乙女といって頂戴」
「もうやだこいつ」
どこかの白黒魔法使いが激怒しそうなことを言い出す紫を前に、霊夢は途方に暮れて頭を抱えた。
あの縁日の日以来、何かと博麗神社に寄ってきてはこうやって天子がどれだけ可愛いとかというのを力説するようになった。
お陰で参拝客が更に減って霊夢としては気が滅入るばかりだ。元からそんなものはいないとは言ってはいけない。
「だいたいあんたそんな性格じゃなかったでしょ。どうしてそんな脳内お花畑キャラになってるのよ」
「恋は乙女を変えるのよ」
変えすぎだ。それもぶっ飛んだ方向に。
霊夢はなんとか顔を上げると、紫の隣に座っていた式神に声を掛けた。
「ちょっとそこの式神コンビ、あんたの管轄なんだから何とかしなさいよ」
「はっはっは、できるならとっくにできているさ。というかもう何百回も聞いたお陰で、右から左へ流せつつ適当な返事が出るように訓練されたよ。橙を見てみろ、のろけ話を聞きながらでも寝れるようになったんだぞ。かわいいだろー」
「スー……スー……」
橙を膝枕する藍にはそんな風に返される始末。努力する方向性が決定的に間違っている。
なおこのような紫ののろけ話による被害は、博麗神社にとどまらず幻想郷の各地位置に発生しているらしい。迷惑極まりない。
「はぁ……しかもあんた最近うっとうしい上に、妙に活発的だし。前はそんなに顔見せなかったくせに、ここのところやたらと出てくるじゃないの」
「ふふふ、最近調子が良くてね。睡眠時間も14時間から10時間くらいに減ったり」
「かわんねーよ」
紫を睨みつける霊夢の横で、その点に関してだけ藍は笑みを浮かべてうなずいていた。
一部のものしか知らないことだが、疲れを癒すために多大な睡眠時間が必要だった紫が、以前よりも少ない時間で体調を維持できるようになった。
別段、仕事が楽になったわけでもなく、紫自身の体質の変化だ。
真実、恋は乙女を変えたのである。
根本的に問題が解決したわけではない。今でも大規模な結界の修復になると疲労に倒れるし、まだ平均よりも長い睡眠時間が必要だ。
それでも、以前よりも紫は毎日を楽しめるようになっていた。
「うーっす……って、ゲッ」
神社に後からやってきたのは、天界から降りてきた萃香だった。
縁側に座っている紫を見た瞬間、嫌そうに顔をしかめる。
「あら、人の顔を見るなりそれはないんじゃない?」
「いや、だって最近のお前やたらと天子推しでウザイし」
「そうね、確かに天子はウザイ面もあるわ。でもそれも彼女の素直になれない性格が作っているうものだと気付けば、ウザさもまたかわいさに」
「そうじゃねーよ」
「萃香殿。言うだけ無駄だ」
珍しく萃香から突込みが飛ぶ。それくらい今の紫は強烈だ。
私の知ってる、うさんくさいけど話が通じないわけではない、昔の紫はもういないんだな、と萃香はちょっと遠い目になる。
「まぁ、いらっしゃい。あんたが来たってことはまた宴会?」
「あぁ、今夜は満月だしみんな飲みたがってるだろ。私は衣玖しか呼んでないけど、ある程度は勝手に集まるさ」
なんとも行き当たりばったりではあるが、神社での宴会なんてこんなものだ。
勝手に集まって勝手に飲む。
そのことについて霊夢に異論はない。
「私と橙は参加しようかな」
「そう、で紫は」
「残念。予定があるの」
霊夢に訊ねられた紫は、人差し指を唇に立てて、楽しそうに笑う。
「満月の夜は、天子とデートだから」
「デートならお墓作りなんかじゃなくて、もっと洒落たとこ連れて行きなさいよね」
こんなことがあったのよ、で始まった話を聞いていた天子は、グチグチと嫌味を言いながらせっせとシャベルで地面を掘っていた。
それに続くように、紫も穴を掘る。
「あら、なら来なくてもいいのよ。何度も言ってるけど私の自己満足に過ぎないんだから、付き合う必要は無いわ」
「いいでしょ、私が何をしようが」
何だかんだ言いながらも、こうやって自分を助けてくれる天子が紫には微笑ましかった。
「つーか、私に色々言われて嬉しかったとか救われたとか言いつつ、未だに墓作らないとやってられないとかバカでしょあんた」
「仕方ないわ、こればっかりは」
「あーもう、これだから年寄りは頭固くて融通利かないんだから」
裏で人を犠牲にして存続している幻想郷の有り方に抱いていた疑念、それが払拭されてもやはり罪悪感が付きまとう。
とはいえ、天子と出会う間は、もっと神妙な面持ちで自分の罪を心に刻み込むように墓を作っていたのが、今は軽口を言い合いながら墓を掘るあたり、かなり心情が変化しているのがわかる。
しかし人間が犠牲になることを気にさせなくしたのが、元人間だというのも変な話だが。
「ていうかいい加減のろけるの止めなさいよね! 私も恥かしいんだから!!」
「天子がかわいすぎるのがいけないのよ」
「だから、それが意味不明で嫌なんだってば!」
声を張り上げる天子だが、その顔は真っ赤で迫力に欠けた。
何度言おうが紫はこれだ。天子ものろけ話を聞かされる側と同じく、諦めの境地に達しつつある。
「もう……こんなのさっさと終わらせて研究に戻りたいなぁ」
「まだ頑張ってるのね」
「当然でしょ! 祭りの時はそのキ、キスとかで誤魔化されたけどさ、根本的に解決してやるまで私は止まらないからね!」
そう言い切る天子も、どこか吹っ切れた感じがあった。
紫を助けられないことにかなり思い詰めていたが、紫の精神を助けることができたのが天子にもプラスになったのだろう。
「今は式の勉強をしてるし、平行して天界の書物を復習してるのよ。それでも無理なら今度は西洋魔術にでも手を出すわ」
「あなたも相当しつこいわねぇ。今のままでも十分すぎるのに」
「助けると誓った以上、やるならとことんまでよ」
自信満々に必ず助けると言い切る天子を見て、やはり紫は嬉しさがこみ上げる。
しばらくの間は自分のために頑張ってくれる天子を見て楽しもうかな、などと悪女のようなことを考えた。
「これでよし、っと」
そんなこんなで二人は話しながら墓穴を作ると、そこに人間の骨を入れて上から土をかぶせる。
そして完成した墓を前にして、二人はふぅと息を吐くと人心地ついた。
「さてと、それじゃあ帰って寝る」
「前に宴会よ」
「……あなた研究は?」
「研究も大事、でも遊ぶのはもっと大事」
得意げに語る天子は、紫の腕をがっしり掴む。
「デートなら私の好きなところに連れてってくれてもいいんじゃない?」
「私たち、服が泥だらけでみっともないわよ」
「気にすることないわよそんなの。聞かれたなら喧嘩して、殴りあったあと土手に寝転んだとか言えばいいし」
「……やってみたいのそれ?」
「少し。さぁ、とにかく行くわよ!」
天子は威勢よく言い放つと同時に、手からカッコつけでシャベルを投げ捨てる。
紫はすかさずそれをスキマで吸い込むと、自分の使っていたシャベルも同じようにしまい、二人で泥で汚れた手を繋いだ。
「ねぇ、紫」
「何かしら」
「助けたら言いたいことがあるって言ったじゃない。あれ、当分先になりそうだけど、その時まで傍にいてくれる?」
「えぇ、もちろん」
そんな約束なんてなくたって。
「その時まで、そしてそれからもずっと」
「うん、ずっと一緒に」
想いを確かめるように、二人はどちらともなく身を寄せてキスすると、繋いだ手の指を絡み合わせた。
天界に作られた書庫の中。
天子はたくさんの本に囲まれながら、そこに記された秘術を読み漁っていた。
「ここの二番に…これを割り込ませて……いやでもそうすると無理が…できるか……?」
多くの場合、仙人などが修行の果てに到達できる天界には、当然集まってくる書物は一級品のものだ。
それも天界の最頂点、非想非非想天の書物となればその中でも選りすぐりのものばかり。
そんな数多くの天人の汗と涙の結晶であり、秘宝ともいえる書物を天子は乱雑に積み上げ、その上にはついでに帽子も掛けられていた。
乱立する塔の中心で、ブツブツと唱えて理論を整頓しながら、一心不乱に本を読む。
「………………やってみるか」
やがて延々と本を読んでいた天子は顔を上げると、脇にあった小物に手を伸ばした。
それは円形の板の上に半透明のドームが作られており、土台は実体であるがドーム部分は結界でできた、非現実的なものであることが見て取れた。
天子はその結界の張られた装置を目の前に置くと、本を片手に手をかざす。
「――――――」
言葉に言霊を乗せて、小さく何か呟いた。
それは間違いなく書物に記された秘術であり、いくつものそれを天子が独自に組み合わせて昇華させたものだった。
天子の手のひらが薄く輝き、呼応して結界も光を帯びる。
目を薄くし意識を集中し、秘術を織り交ぜ結界に力を注ぎ込んだ。
「――――あっ」
だが、天子が焦ったような言葉を発したときには、結界にひびが入り、脆くも崩れ落ちてしまった。
「……また、失敗か」
落胆した様子の天子が本を閉じて装置に手を触れると、パンと空気が弾ける音とともに先程と同一の結界が張り直された。
そのことを確認すると、天子はそばの塔に本を置き、立ち上がって本棚に手をやった。
「あれっ」
だがピタリと手が止まる。
先程書物があったはずの棚は、一冊残らず抜き取られていた。
「……そっか、全部読んじゃったか」
呆然と呟き天子は元の位置に座り込むと、疲れた顔をして下を向く。
そのまま何をするでもなく、ぼうっと装置に張られた結界を見つめていると、トントンと書庫の扉が叩かれた。
『失礼します、総領娘様』
聞こえてきたのは、日頃から天人に仕える天女の声。
「なに、どうしたの?」
『先程、永江衣玖と名乗る竜宮の使いがやってこられ、総領娘様へ渡すようにと命じられたものが』
「入ってきて」
許可を得て、天女が扉を開いて書庫へ足を踏み入れる。
最初は積み上げられた書物に面食らったようだが、すぐに気を取り直した一枚の紙を天子に差し出した。
「こちらがそれになります」
「ん、ありがと」
受け取った紙を覗き込んで目を通す。
紙の上部にでかでかと書かれた「博麗神社縁日」という文字がまず天子の目を引いた。
「……そうか。よし、行くか」
天子は帽子を取ると頭に被り、瞳にわずかな光を宿して立ち上がった。
「私は出かけてくるから、ここの本しまっといて」
「は、はい、わかりました」
面倒な後始末を天女に押し付けて、装置をポケットにしまいこむと書庫を後にしようとする。
「あ、あの」
「なに?」
「お疲れのようですが。無理をなさらずにお休みになられたほうが……」
随分と必死になっていたからか、天女から身を案じられるくらい顔に疲れが出てたらしい。
「別にこれくらい大丈夫よ。天人はそんなに軟じゃないのはあなたも知ってるでしょ」
顔ぐらい洗った方がいいかなと考えながら、乾いた笑い声を上げて天女を一蹴する。
それでも心配そうな天女を脇に通り過ぎて、天子は外へ出かけた。
「――このくらい、あいつに比べたらたいしたことないわよ」
ぽつりと、自らに言い聞かせるように天子は小さく呟いた。
◇ ◆ ◇
下界サイコー! 幻想郷サイコー!
「毎日が楽しくて酒が美味い!」
春は綺麗な花で彩られた大地を楽しみながら空を飛び、夏は暑さにうだりながら水辺の涼しさに人心地つき、秋は大地の実りを頬張り食欲を存分に満たし、冬は銀色に包まれた世界でその雪を手にとって遊びつくした。
年中穏やかな天界では楽しめない四季の移り変わり、それにともない絶え間なく変化する生き物たち。木々や草花、虫や動物、そして人。
しかし幻想郷においては変化せず、永遠に近い時間を生きる者も沢山いる。だがそんな者たちも私のことを楽しませてくれた。
みんな飲み笑い、まだ体験したことはないが誰かが死ねばきっと泣くのだろう。私の他の天人たちとは違い、感情をあらわにして日々を過ごす人外の存在。
そんなものが一杯に詰まった幻想郷は、まさしく私が求めた真の桃源郷であり、そこで過ごす日々は刺激満点でこれ以上ないくらい私の心を満たしてくれた。
「おうおう、言うね天子。ほらほら、もう一杯飲め飲め」
「おっとっと、ありがとね~」
そして博麗神社での宴会に参加した私は、喧騒の中で上機嫌だった。
輝き誇る満月の下で酒を浴びるように飲みながら、友達と語り合って笑顔を浮かべる。
文句のつけようがないくらい幸せな時間に、私は視線を滑らせて宴会の参加者たちを流し見た。
博麗の巫女、いつも神社の宴会には参加している魔法使い、何だかんだで出席率の高い人形遣い、吸血鬼と館のメイド、山の巫女、今酒を注いでくれている鬼。その他諸々。
その中に、私の探した者はいなかった。
「……今日もいないんだ」
「誰のことだ?」
「ほら、紫とかいうあの変な妖怪よ」
あいつとは異変の最期に神社で戦って以来、ずっと顔を合わせたことがない。
八雲紫。あの妙な妖怪の姿は見つけられなかった。
私はそれなりの頻度で宴会に参加しているが、向こうが避けているのか、それとも単なる偶然なのか、あいつは宴会に出てこなかった。
「そうだなぁ、あいつはそこまで表には出てこないからな。全くないってわけじゃないけど、中々会えなかったりすることはあるだろ」
「ふぅん」
萃香の話を聞きながら、ちびちびと酒をすする。
あの妖怪のことは、私の記憶に強い印象として残っていた。
「なんだ、やっぱり会ってリベンジしてやりたいか?」
「……まぁ、そんなとこね」
萃香に聞かれてとりあえずそう答えたが、実のところ会いたい理由はそれじゃなかった。
なにも神社の落成式に現れて、計画をブチ壊されたから恨んでいるってわけじゃない。むしろあのくらいのことは心のどこかで私も予想していた。
出る杭は打たれる。やりすぎたものは更なる力に打ちのめされる。
その程度のことはわかっていたし、覚悟もしていた。むこう何百年かは下界の者から反発を受けて天界から降りられない可能性も考慮していた。
それでも要石を博麗神社に仕掛ける暴挙に出たのは、地震を抑えるためというのもあるけど、私と幻想郷を繋ぐ楔が欲しかったから。
それさえあれば、たとえもう数百年を天界で過ごすことになろうとも、いつかは再び幻想郷に来る時があるだろうから。
まぁ、実際は傍から見れば最悪のタイミングで八雲紫が私を倒し、それで手打ちみたいな空気になったからそんなに時間をかけることもなかった。
天人を虐める祭なんかも私を幻想郷に迎え入れることの手助けになったけど、やはりここ一番で自分の計画が潰されたのは大きい。
そう考えれば、恨むよりも感謝するべきだ。
会って、話をしてみたい。
もしかしたら向こうは自覚すらないかもしれないけど、私を助けてくれたあの妖怪はどんなものが好きなのか
、どういう性格をしているのか。
そしてとりとめのない話の先に、いつか礼の一つでも言っておきたかった。
「……ぬるい」
紫のことを考えていた私は、無意識に再び口をつけた酒に意識を現実に引き戻された。
考え事をしている間に、なんだか騒ぐような気分じゃなくなってきてしまった。
「おう、天子どこ行くんだ?」
「つまらないこと考えてたら興が削がれてきた。今回はもう止めにしておくわ」
「あっ、おい!」
声をかけてきた萃香にそれだけ返すと、私はさっさと宴会場から抜け出した。
けれど帰る気にもならなくて、どこに行くでもなく月明かりに照らされながら森の中をぶらぶらと歩いた。
喧騒から離れ、虫の音と草を踏む音だけが聞こえる中、浮かんでくるのはやっぱりあのスキマ妖怪だった。
「まったく、住居まで不明とか仙人かっていうのよ」
一度こちらから会ってみようとしてみたが、誰もどこに住んでいるのか知らなくて徒労に終わった。
一向に会えない鬱憤を愚痴っていると、気が付いたら歩く方向が変わっていることに気が付いた。
「あれ? なに今の変な感じ」
まっすぐ歩いていたつもりなのに、いつの間にか別方向に誘導されてる。
酒に酔ったから、というわけじゃない。
方向感覚を見失うほど飲んではいなかったし、何よりも誘導のされ方が自然すぎた。
私は大地を操る能力のお陰で、地面の起伏とか方向とかが普通よりもよくわかる。
だからこそ、一瞬の違和感からそのことに気が付いた。
「はっはーん、どっかの誰かが結界を張ってるわねこりゃ」
恐らくは方向感覚を狂わせて、内部へ近づかせない種類の結界だろう。
天人の私も一杯食いそうになるあたり、相当な使い手のようだ。
となれば、当然何を隠しているのか気になる。
「強行突破!」
やる気になってきた私は、恐らく結界の中心と思われるほうへ歩き出した。
途中何度も方向感覚を狂わされたが、その度に周辺の大地から方向を再確認して進む。
術は高度ではあるが、いかんせん私とは相性が悪い。
勝ち誇った気分で結界の中を押し進むと、虫の鳴き声に混ざって何か別の音が聞こえてきた。
リン リン リン ザッ リン リン
「……ん?」
歩みを止めて耳を済ませてみる。
リン リン リン ザシュ リン リン
今度は間違いなく聞こえた。
「何だろこの音」
土を掘っているような、それが結界を張ってまで隠したいもの?
気になって感覚を研ぎ澄ましながら、異音の方へ足を向ける。
するとその先に感じた妖気、私の記憶を強く揺さぶってきた。
「この感じ、八雲紫……!」
忘れもしない。この固まっているようで霧散しているような、独特のとらえどころのない感覚。
八雲紫がいる。
何でここにとかの疑問はあったが、とりあえずそれを無視して会うことだけを考えた。
そりゃ今まで探してたのがすぐ近くにいるんだから、まずは接触するのが優先だ。
だが、会うとしてまずなんて言えばいいだろうか?
「こんばんは」とか「ごきげんよう」とか? うぅん、なんかここで言うのは違う気がする。
「こんなところで何をしている」……いきなり切り出すのは威圧的過ぎなような。
「ここで会ったが百年目!」これじゃ喧嘩売ってるだけじゃないか。
歩きながらうんうんうなって考えた末、結局は無難に「久しぶり」とでも言って様子を見ることにした。
もう、すぐ近くに感じる妖気に、ちょっとばかり緊張する。目の前の茂みを抜ければ、きっとそこに目標がいる。
自分を落ち着けようとゆっくり深呼吸して高鳴る胸を静めると、私は紫の前に飛び出した。
「やっほー、久しぶり……」
そこで私が目にしたのは、全く想像にないものだった。
森の中の一角、開けた広場のような場所で。
手に持ったシャベルで一人土塗れになりながら穴を掘る、八雲紫がいた。
「――誰?」
まだ浅い穴の中でかがんでいた紫が、背を伸ばして私を見た。
顔中汗だらけで、上等そうな導師服のいたるところに土がこびり付いている。
「どうやってここに」
「……何してるのよ、あなた」
「あれ」
紫が指で指し示した方向を見て、ギョッと目を丸くしてしまった。
積み重ねられた白い山。
大量の骨がそこに積まれていた。
「ここに来た方法は、今は問いません。それより、お墓を作ってるから、邪魔しないでくれませんか」
山の上の頭蓋骨が、薄暗い目でこっちを見つめる。
動物の骨とかじゃなくて人間のだ。
私が驚いてる間に、紫は私から視線を外し穴掘りに戻っていた。
何であの紫が墓穴を掘ってる。なんで? しかもこんな人目の付かないところでこっそりと。
突然のことに驚いて思考がまとまらなかったが、徐々に冷静になってあの骨の山の出所を考えてみるとあっさりと答えが出てきた。
「……そうか、あれが、幻想郷の被害者ね」
私の言葉を聞いているのかいないのか、紫は黙々と土を掘り返す。
「そもそも妖怪が人を食わず生きるなんて無理な話。外からさらって、妖怪に与えてきたわけか」
「そうよ」
当たり前の話だ、妖怪とはそういう存在なんだから。
妖怪がいるならばその裏で食料が必要だ。
紫が妖怪を存続させようとするなら当然のこと、そう頭では理解していた。
「……ふん、反吐が出るわね」
でも私の口から出てきたのは汚い言葉だった。
人を食べたからとか、そういうのに怒ってるわけじゃない。関係のない人間が食べられたところで対岸の火事、それほど怒りが沸くものでもない。
私は、八雲紫は真に強い存在だと無意識に思い浮かんでいた。
私を下した妖怪なのだから、あらゆる方面に、勿論精神的にも強いと。
なのに目の前の光景は、そうすることで罪から逃れようとしているような現実逃避に見えて、期待を裏切られたように感じて、頭に血が上ってしまった。
「自分で殺しておいて今更墓作り? そんな許しを乞うようなことをしたって、食われたやつはあなたのことを許したりしない。例え幻想郷のためだとしても、その罪が消えることはない。あなたのその行為は自分の罪を誤魔化すための偽善に過ぎないわよ!」
勝手に期待して、勝手に怒って。頭を冷やしてから考えれば酷い話だ。
けどそれを止める者は誰もいなくて、怒声を浴びせたけどまだ熱は引かない。
私は依然として態度を崩さず紫を睨みつける。
「えぇ、その通りよ」
けど、苦虫を噛み潰したような顔を見て、それ以上何も言えなくなってしまった。
私の言葉に一切の反論をせず、耐え難い現実として受け止めているように見えた。
それっきり口を閉じた私の前で、紫は一心に穴を掘り続ける。
しばらくして十分な深さまで彫り終えると、紫は穴から出てきた。
「まだいたのですね」
その姿は土で更に汚れていて、正直妖怪の賢者とか言われる者には見えない。
けれどまるで気にしていないようで、その場から動かなかった私を少し驚いたようだった。
「別に、私の勝手でしょ」
「察するにリベンジしにやってきたとか、そんなところですか」
「……今日はいいわ。気分じゃない」
こっちから邪魔をしなければ向こうもどうでもいいのか、紫はそれ以上何も言わず、積まれていた骨を手にとって穴に運び込んだ。
スキマを使って入れればいいだろうに、一つ一つ手作業で丁寧に詰めていく。
妖怪の力が強まり気分が高揚するだろう満月の夜なのに、黙々と続けられるその作業は決して無造作に行われるものでなく、骨になった人間一人一人に懺悔しているのを、その動作から感じた。
私は何をするでもなく、それが滞りなく行われるのを見届けていた。
◇ ◆ ◇
「おいーっす」
軽く顔を洗って外に出てきた天子は、天界に居ついて酒を飲んでいた萃香と衣玖に気の抜けた挨拶をした。
「おーう、天子、チラシ見たか?」
「見た見た。届けてくれてありがとね衣玖。危うくお楽しみを逃すとこだったわ」
前もって面白そうなことがあったら教えに来るよう頼んでいた衣玖に、感謝の言葉を述べる。
「それはいいですが、いきなり篭りだしたりして何をなさっていたんですか?」
「それはヒ・ミ・ツ」
「あなたが言うと嫌な予感しかしません。地震関連の悪戯はよしてくださいよ、触れ回るのも面倒くさいんですから」
「はいはい、心配しなくても大丈夫よ。それよりさ萃香」
「ん?」
「ちょいとお耳を拝借」
天子は萃香の耳元に口を近づけて手で隠すと、周りに漏れないように小さく言葉を伝える。
「ごにょごにょ」
「ふんふん、ほお面白そうだね。でも何で私に」
「人間に頼むんじゃ場所と時間的に不安だからね。できる?」
「まぁ、そのくらいならやれるけど、物がないぞ」
「大丈夫よ、お金ならあるから。そっちは私の方が集めるわよ」
「何をこそこそ話してるんだか」
「大丈夫だって、悪巧みじゃないさ」
面白いことだけどな、と萃香が怪しむ衣玖へ快活に笑いかけた。
「んじゃ、約束の時と場所でお願いね」
「あっ、時計もない」
「わかった、私の時計とピッタリ合わせたのを用意しとくわ。準備できたらもう一度会いに来るから。じゃあね!」
用件が済んだのか、萃香に約束を取り付けると、天子は早々に天界から飛び降りて行ってしまった。
「本当に大丈夫なんですか?」
「心配性だねぇ。祭りを盛り上げようってだけさ」
「祭り……縁日ですか」
「その通り。まっ、これ以上は当日のお楽しみってことで」
残された萃香は、相変わらずニヘラとした笑みを絶やさず酒を楽しんでる。
そんな姿に衣玖は呆れながら訊ねかけた。
「それにしても、最近の総領娘様は変ですよね。あんなに大騒ぎする人がたまに下界で寝泊りして帰っきても、どこに行っていたのか誰も知らなかったり、毎日私たちを無視して下に降りてると思えば、いきなり書庫にこもって調べごとしたり」
「妙ではあるなぁ。でも一人で企みごとをするには必死すぎだ、さっきもちょっと疲れてるようだったし」
「そうですね。隠してたようなので触れませんでしたが」
いつもどおりを装っていたが、疲れが見え隠れしていた。
「察するに、別の誰かが絡んでると見たね。そいつのために、無理してでも何か推し進めようとしてる」
「総領娘様ってそんな一でしたっけ」
「さぁね、私もあいつのことよく知ってるわけじゃないし」
「恋だったりして」とニヤニヤ口元をゆがめて小指を立てる萃香が、いやらしいですよと衣玖にたしなめられる。
それで会話も一旦終わり、萃香もしばらく酒を飲んでいるだけだったが、思い出したように急に口を開いた。
「紫かね」
「……? あの管理者ですか」
「あいつの家にでも行ってるなら、動向が探れないのも当然かなって思っただけさ。結界で閉ざされてて身内以外で行けるのは極少数。そこならいくら騒いでも誰も気付かない」
「ちょっと前から仲良くやってるらしいですが、そこまで進展が早いものですかね。管理者の住居なんて、絶対に漏らすべきではないですよ」
「時間なんて関係ないさ。天子もあれで肝心なところではしっかりしてるから、秘密は漏らさないだろうし。何かあっていきなり親密な関係になったんだとしたら、教える可能性もあるさ」
淡々と、自分で考えをまとめるように萃香は言葉を並べていく。
「だとして、何をしようとしてるんでしょうかね」
「……わからん!」
萃香は諦めたように両手を放り投げて、ごろんと寝転んで空を眺めた。
「わからないって」
「仕方ないだろー。紫って秘密主義で大切なことは漏らさないし。まぁ、紫が付いてるなら、そう悪いことじゃないだろうさ」
「紫、楽しんでくれるかな」
地上へと降りる天子は、チラシを見ながら友人を思い浮かべ、期待で顔をほころばせた。
◇ ◆ ◇
次の満月の夜に、私は宴会の誘いを蹴って、紫と出会ったあの場所へ向かった。
先日、墓を作る紫と遭遇した時は、あいつは墓を作り終えると押し黙る私を置いてとっとと帰ってしまった。
結局何も話せず終いで、もう一度会えないかと思ってもう一度ここにやってきたのだ。
とはいっても、満月の夜に妖怪が辛気臭く墓を作るなんておかしな話で。もしかしたら前回はたまたま止むを得ない理由があっただけで、今度は出会わないかもしれない。
そんなことを考えていると、また結界に行く手を阻まれた。
「またか」
以前と同じように結界の内部へ入り込むと、ザシュッと土を掘り返す音が聞こえてきた。
こんな月の綺麗な夜になにやってるんだか、とちょっと呆れながら進むと、そこにいたのは予想通りのものだった。
この前と同じように、導師服を汚しながら汗だくで穴を掘っている。
「またこんなことしてるの」
「……私としてはあなたがまた来たことが驚きですが」
「んーと、必死に穴を掘る妖怪の賢者を笑いに来たとか?」
「邪魔しなければなんでもいいですが」
今度は先に心の準備が整っていたお陰で、割と普通に憎まれ口を叩けた。
紫はそんな私を放っておいて手を動かす。
少しずつ底が深くなっていくのを、穴の横でしゃがんで見下ろす。
しかし、手作業とは時間の掛かることだ。私なら一瞬で墓穴なんて作れるのに。
「……ねぇ、穴を掘るんなら私の能力使えばすぐできるわよ」
「結構です」
「天人に借りを作るのは嫌?」
「自分の手で、作っておきたいんです」
神妙な顔でそう言われては、余計な茶々を入れる気も起きない。
どうしようか、もう一度ここに来たのはいいけどやることがない。
話しかけてもウザがられるだけだろうし、帰ってしまったほうがいいんじゃなかろうか。
でも、ひたすら穴を掘り続ける紫の顔は、どこか苦渋に満ちていて、自分で自分を痛めつけているように見えてしまった。
そう思うと、このまま帰る気は起こらなかった。
「あ~……もう、ったく」
いつもは他人のことなんか考えない癖して、こんなところで余計な気になる自分に悪態をついて、穴の中に飛び降りた。
隣で紫が驚いて声を上げたが、気にせず穴の底に手をつける。
「ちょっと、あなた」
「なによ、能力は使わないわよ。それならとりあえずは文句ないでしょ」
変に勘違いされる前にそう言って、素手で地面を掘ろうとした。
が、やはり今しがた露出したばかりの土は固い。天人の肉体の強度なら手が傷つくことはなくとも、中々骨が折れそうだ。
指先に力を込めて、なんとか地面に指を突き立てて僅かながら土を掘り起こす。
「何してるの」
「手伝ってやってるに決まってるじゃない」
小恥ずかしくて、ぶっきらぼうな返事しか出来なかった。
いやでもここで変な意地張っちゃうのもな、と若干思いつめてくる。
いやさ、こういうところで変にひねくれた言い方しか出来ないから、いつまで経っても例の一つも言えないのよ。
ちゃんとここは本心を打ち明けて、協力してあげたいだけだって言うべきよ。うん、よし!
「言っとくけど、何もあなたのことを助けたいと思ってやってるんじゃないわよ。今日は戦いたい気分なんだから、こんなことさっさと終わらせてあなたと再戦したいだけよ。わかった!?」
無理でした。
いや、マジ無理。私そんな良い子ちゃんじゃないし、素直に申し出るとかマジ無理。
やっべー、やっちゃったなーっていうのと、恥ずかしいーとかいうのが混じって多分私の顔は赤かったと思う。
紫はそんな私にちょっとだけ目を丸くさせると、すぐに真顔に戻りスキマからシャベルをもう一本取り出した。
「使いなさい」
「……私に?」
「他に誰もいないでしょう。女の子が綺麗な指を傷つけるべきではありません」
「……ん」
紫が差し出してくれたそれを、私は手に取った。
それからは、私も紫も黙って墓穴を掘っていた。
十分な深さまで掘ると、妖怪に食べられた人間の遺骨を穴の中に詰め込む。
紫が馬鹿丁寧に運ぶもんだから、私も心までは真似できないが、動作だけでもそれに倣って一つ一つ運んでいった。
それも終われば二人で土をかぶせ、その上に石を積み重ねる。
完成した墓標に紫は満足して一歩後ろに下がった。
「拝まないの?」
「私に拝まれたって嬉しくないでしょうから」
「ふぅん」
私も手伝いをしただけで、とりたてて死んだ人間に思うことがあるわけでもないし、拝まなかった。
やり終わって自分の身体を見てみると、紫と同じように身体中土に汚れている。
「あーもう、服が台無し」
「それで、どうするのですか。今から戦う?」
「いや、今日はもういいわ」
今なら紫も挑めば受けて立つだろうけど、元々そんなつもりはなかったし止めておいた。
「……ねぇ、何でお墓なんて作ってたのよ」
全部終わってから、ようやく気になっていたことを聞いてみた。
私が最初想像したような自己逃避ということはきっとない。
「ちゃんと、覚えておきたかったから」
私の問いに、紫は自分の手の平を見つめながら口を開く。
「私のわがままのために、どれだけ殺しているか」
それは私に答えているというより、自分自身に言い聞かせるかのような言い方だった。
◇ ◆ ◇
「藍、まだかしら? 早くしないと天子を待たせちゃうわ」
「しっかりメイクするように言ったのは紫様じゃないですか。もうすぐですから待ってください」
鏡台の前に目を閉じて座った紫の顔を、藍がせっせと化粧用品で塗りたくっていた。
ファンデーションを頬に塗り、行き過ぎない範囲で顔を飾り立てていく。
「ハイ、完成です」
ムズ痒そうにジッとしていた紫が、満を持して目を開く。
鏡には普段から整えられた自分の顔が、藍の手腕を持ってより美しくメイクされているのが映った。
「どう橙。似合ってるかしら?」
「はい! すっごく美人になってます!」
傍で二人を見守っていた橙が、問われて元気よく返事をした。
「あら、それじゃあいつもの私は美人じゃないと?」
「え!? いや、そういうわけじゃ……」
「紫様、あまり橙をいじめないでやってください」
「ふふふ、冗談よ。冗談」
軽く橙をからかった紫は、改めて鏡の中の自分をまじまじと見つめる。
「流石藍ね。よくできてるわ」
「恐れ入ります」
紫が鏡から視線を外して、窓の外に広がる空を見上げる。
太陽は西の大地に姿をほとんど隠し、月と星々が空で輝き始めている。
祭りを楽しむには丁度いい頃合だが、せっかちな天子はもう待ちくたびれているだろう。
「よし。それじゃあ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい紫様!」
紫は作り出したスキマに潜り込んで、藍と橙の前から姿を消した。
「……最近、紫様明るくなりましたね」
「そうだなぁ。以前はどこか無理して振舞ってる時があったが、ここのところ自然に笑っていらっしゃる」
化粧品の散乱した鏡台を横目に、藍は感慨深そうに話す。
思えば、主から私事で化粧をしてくれと頼まれたのも久しぶりな気がする。
紫にまったく個人での時間がなかったわけではない、だが、やはり本来の性格からすると日頃から抑圧されていたほうだろう。
誰に、というわけでもない。自分自身で縛り付けていた。
「それもこれも天子と親しくなってからだな」
「はい」
藍は感慨深く呟きに、橙も即座に同意した。
「天子さんは一緒にいて楽しいし、紫様が元気になるのもわかります」
「……でもああまで仲が良いとちょっと妬けるな」
「あはは、ですね」
「それになぁ、何か話すたびに一言にはやれ天子とこんなことがあった、やれ天子がかわいくてしかたないとか言われてノイローゼになぁ」
「藍様?」
「橙 がいるときはまだ遠慮してるんだがなぁ。私と二人っきりの時はずっと天子のことばかり話して、気が付けば隠し撮りした写真とか見せながら無い胸がキュート だとか、ドヤ顔がかわいすぎて生きるのが辛いだとか言ってきて、正直辛いのはそうやってのろけ話されるこっちのほうわあああああああ!!!」
「藍様? 藍様しっかり! 藍様ーーーー!!?」
おおむね八雲家は平和である。
◇ ◆ ◇
一緒にお墓を掘ってから、紫のやつはたびたび私の前に現れるようになっていた。
それは私の家の中であったり、出かけた先であったりした。
一人で木々の上を飛んでいるときだったりすると、私は要石に、紫はスキマの上に腰を下ろして、下らない世間話に興じた。
「今の時代って凄い紙が一杯あるのね、昔なんか貴重だったのに」
「人間も進歩してきたもの。そのせいで森林破壊が進んで問題になったりしているけれど」
「そういう思慮の浅いところは進歩なしか」
気が付けば向こうも敬語をやめて、普通に話すようになっていた。
紫は頭がよく話す言葉の一つ一つが理知的だったけど、同時に結構おちゃめというか、可愛げのあるところも多くて、話していて楽しかった。
「はいはーい、紫はもっと外界の品物を輸入するべきだと思いまーす。具体的には漫画とか」
「却下。順序を無視して無理に持ってきたところで、幻想郷には悪影響にしかならないわ」
「えー、元々外界に頼りきりなんだし、ちょっとぐらいいいじゃないの」
「ダメ、大事なのはバランスよ。頼り過ぎず頼らなさ過ぎず。忘れられたものが流れ着く程度が丁度いいの、それでもまだバランス取りが大変なのに」
「ふぅん、やっぱり色々選別してるわけか」
「忘れられるものの中には、そうなるべくして忘れ去られたものもあるもの。自然を破壊するから捨てられたもの、とかね。幻想郷に自然を破壊されてはたまらないわ」
そうやって友達付き合いしていてわかったことは、こいつは幻想郷に維持に結構苦労しているということだ。
直接そういう話を聞いたわけじゃないけど、話のところどころからそう読み取れる。
幻想郷を覆う結界の維持。
日々外界から流入する物品の選別。
異変が起こった際、場合によっては私のときのように介入したり。
そして妖怪の食料――人間の輸入。
いくつもの作業を掛け持ちしている紫には、やっぱりそれなりの負担が掛かってるんだろう。
肉体的にも、精神的にも。
ちょっと心配になったりもしたけど、九尾を式神として従えているんだし、そう酷いことにはなるはずないだろうと考えていた。
「それにしても、あなたは天人なのに本当に俗っぽいわね。どちらかというとその精神は人間に近いわ」
「ふん、何言ってるのよ人間なんかと一緒にしないで。心身共にそんなもの超越してる存在よ!」
「よくいうわ。そんな存在が漫画なんて欲しがるわけないでしょ」
威張る私を見て紫はおかしそうにクスクスと笑う。
うぅむ、こういう何気ない動作一つ一つまで、絵になるようなやつだ。
おかげで怒る気も削がれてくるけど、それはそれで悔しいから躍起になって噛み付いてしまう。
「そういうあんたこそどうなのよ。妖怪の癖に人間のことで責任感じたりして、変わり者過ぎるわ」
「残念。生憎と変わり者なんて言葉聞き飽きてるわ」
「むぅー……じゃあいっつも寝てるのはどうなのよ。あんた一日に何時間くらい寝てるんだっけ?」
「んー、14時間くらいかしら?」
「長いわよ! 」
「だって布団にくるまって寝るの気持ちいいんですもの。それにこれでも前より一時間も短くなったのよ? 進歩していると褒めてほしいところね」
「寝言はあと半分くらい減らしてから言え」
あぁ言えばこう言う、正直私以上の曲者だ。
まったく、変なところで責任感じてると思ったらおちゃらけてて、よくわからない性格してるやつだ。
いや、順序がおかしいのか。おちゃらけてるくせに責任感が……って、どっちでも同じか。
「あっ……」
私と話していた紫が不意に小さな声を上げた。
不思議に思って紫の視線を追ってみると、その先には二人の妖精がゴソゴソと草の茂みを漁っているのが見えた。
「チルノちゃん、ボール見つかったー?」
「クワガタみつけた!」
「ちがうよ、さがしてるのはボールだよ」
妖精の近くの木にはボールが引っかかっている。
恐らくあれを探しているんだろうけど、二人の位置からは葉が邪魔になって見えないようだ。
状況を把握してから紫に視線を戻すと、それが気になるのかジッと見つめていた。
まったくこいつは仕方ないなとため息をつく。
「気になるんだったら助けてあげれば」
「……そういう天人さんはどうなのかしら。人の上に立つものとして、見本になるべきだと思うけれど」
「私、性格悪いからね」
言外に手助けはしないぞと言い含めてやると、紫は私に期待するのを諦めて目の前にスキマを開いた。
すっとスキマの中に手を差し込むと、引っかかったボールの傍に手が生えて、木の上から叩き落した。
「あっ、大ちゃんボール見つけた!」
「やった。じゃあ今度はあっちであそぼ!」
「うん!」
妖精たちは突然降ってきたボールを手に取ると、足早に遊びのに適した広場へ戻っていく。
その様子を、裏から手を回した紫は何もせず見ているだけだった。
「そんなことしないで、直接顔見せて助けてやれば良いんじゃない? ちっぽけな感謝くらいはしてもらえるわよ」
「別にそんなものが欲しいわけじゃないわ」
迷いなく私の言葉を切り捨てるあたり、本当にそういう下心ないんだろう。
その時、ふと前から気になっていたこと聞いてみようかなと思った。
「ねぇ、紫」
「何かしら」
「何でさ、妖怪を救おうと思ったの」
少し、紫の表情が硬くなった。
「……またいきなりね」
「前から気になってたことよ。紫ってかなり特別な妖怪だから、結界なんかで守られなくても生きていけそうだし。いいでしょ教えてよ、減るものじゃないし」
「でもねぇ、あなたお喋りが好きそうだし」
「私が話すのは漏らしてもかまわないことだけ、自分の害になるようなことはしないわよ。紫の恨みは買いたくないし」
紫は少しのあいだ逡巡していたけど、このところ顔を合わせて私に気を許していたからか、決意したように口を開いた。
「性分、かしらね」
「何よそれ、もっと詳しく話しなさいよ」
「詳しくといわれてもね、特に原因となった出来事があるわけでもない。ただ生まれつき嫌なのよ、人であれ妖怪であれ、心の隙間ができたまま死ぬのは」
「隙間?」
「えぇ、悲しんだり苦しんだりして、追い詰められた心にできるぽっかりした隙間。行き場をなくした妖怪が、そういうものを抱え込んだまま消えていくのを見ているのが、嫌だったから」
嘘は、言っていないようだった。
これでも私は数百年生きてるんだし他人の嘘を見破るくらいは出来るけど、そんな感じはしない。
「変なの。妖怪だったら逆にそういうのって好きそうなのに」
「怖がって隙間ができたりするのは好きよ。でもそれを持ったまま死んでしまうのは嫌。どっちにしろ変でしょうけどね」
「駄目だ言ってるわけじゃないわよ。むしろ紫のそういうところ嫌いじゃないし」
「……もう」
心中を吐露して恥かしくなったのか、紫は頬を薄く赤らめてそっぽを向いてしまった。
……あれ、いい雰囲気じゃないこれ?
「チャンスっ」
「何が?」
「あ、なんでもないわよ。うん」
ずっと言おうと思っていた感謝の言葉。
別に今更言わなくてもいいんじゃないかって気もするけど、それでも言っておきたい。
いい加減先伸ばしすぎだし、今ここで言っちゃうべきよ。
今度は気恥ずかしくて誤魔化したりしないように、ゆっくり呼吸を整えて言葉を選んで口から――
「――天子、私からも一ついいかしら」
「え、あ、なに!?」
チャンスつぶされた!?
「……あなたどうかしたのさっきから?」
「いや、ちょっと考え事してただけだから気にしないで」
気後れしてないで、がっつり行っちゃえばよかったー!
内心思いっきり後悔しながら、紫の言葉に耳を傾けた。
「あなたは、この幻想郷ができてよかったと思うかしら?」
「えーと、どういう意味で?」
「あなたならわかるでしょう。結局のところ幻想郷は人間を犠牲に成り立っている延命措置に過ぎない。本当なら消え去る運命だった妖怪を、歪んだ形で残している。果たしてそれが正しいことなのか」
「はぁ? そんなのに正しいも何もないでしょ」
紫の質問を聞いたとき、真っ先に出てきた考えがそれだった。
「あちらを立たせばこちらが立たず。妖怪を存続させるには人間を生贄にするしかない。だからあなたは恨まれるの覚悟で、自分のわがままを優先させて妖怪を助けた。それだけのことに正しも間違いもないわ。あんた自身もそれくらい言われなくてもわかってるでしょ」
「……そうよね。ごめんなさい、馬鹿なことを聞いて」
こういうところじゃ、親しい間柄だとしても容赦しないのが私だ。
一切誤魔化しをいれずつらつらと述べると、紫は自嘲気味に陰のある笑い方をする。
「……まっ、それは天人としての意見で」
「えっ――」
「私は幻想郷を作ってくれてよかったと思うわよ」
私を見る紫の目が見開いた。
「こっちに来てから毎日楽しいしね。幻想郷がなきゃつまらない人生送ったまま五衰でのたれ死んでそうだし」
「でもそれのためにたくさんの人間が犠牲になってるわよ」
「どうでもいいしー、所詮対岸の火事だしー」
「最悪ねあなた」
「って言っても、本音を言うと元人間としてちょっと嫌悪感は感じるかな。でも現状それしか手が無いから仕方ないし。そういうまどろっこしい問題云々を入れても、幻想郷が好きよ」
別に相手が紫だからとお世辞で言ったわけじゃない、私の心から出た本当の言葉だ。
紫は私の言葉に驚くことがあったのか、少しのあいだ何も言わずいたけど、その瞳はかすかに震えていた。
「で、今の答えで満足した?」
「……そうね、及第点といったところかしら」
「えー、バリバリ満点でしょ今のは!」
「あなたね、もうちょっと謙虚になりなさいな。でも、そうね……」
紫はフッと笑った。
今まで見たことないくらい、柔らかくて嬉しそうな笑み。
「ありがとう」
でも、私はその笑みにどこか危うさを感じたのは何でだろう。
「そろそろ行くわね。まだ仕事が残って」
「――ま、待って!」
気が付いたら、スキマを開いて別れようとする紫を呼び止めていた。
だけど紫が振り向いたところで、何を聞けばいいかわからないことに気付く。
「どうしたの?」
「……いや、私の気のせいだったわ」
「気のせい?」
「とにかく気にしなくて良いわ。勘違いだから」
紫は不思議がりながらも、私に背を向けてスキマの中に入ろうとする。
その一瞬、私は指を弾くようにして小石にしか見えないあるものを紫に飛ばした。
「じゃ、せいぜい私のためにお仕事頑張りなさいよね」
「はいはい。こうして私は誰かさんのために馬車車のように働かされるのね。およよよよ」
「いいからさっさと行きなさいよ!」
「酷いわぁ、これから大仕事だっていうのに」
「知らないわよそんなの」
ふざけたところを怒鳴りつけてやると、紫はスキマの中に身を沈めた。
やがてスキマも消え去ったけど、一人残された私の頭からは、さっきの笑みがチラついて消えてくれなかった。
「……どうしようか」
さっき紫がスキマに入る時、紫にこっそり寄越したもの。
あれは私が作り出した要石、それも爪の間にはさまりそうなほど小さなサイズのものだ。
そのサイズの要石なら髪や服にくっついた程度では気付かれることはないだろう。
例え小さくても要石である以上は、私とラインが繋がっている。あのよくわからないスキマ空間の中や、強力な結界を隔てた外界に行かれたりしない限りは所在を把握できる。
何故そんなものをつけたのかというと、やっぱりあの妙な笑みが気になったからだ。
だけど、なんとなくだけど、ここで紫の後をつけたらあいつの普段隠している領域に踏み込むことになる気がする。
誰だって、自分の中心の部分には誰かを入り込ませたくはない、それを許されるのはかなり特別な間柄の相手だけだ。
私は紫と仲が良くなってきてはいるけど、全てをさらけ出せるほど距離は近くない。
それなのに紫の領域へずけずけと深く踏み込むのは――
「――ったく、私バカね。何考えてるのよ」
そもそも私のキャラじゃないでしょうがそんなの。
遠慮なんて辞書になく、人の嫌がることなんて何のその。
それで紫に嫌われるかもしれないが、不良天人なんて呼ばれ方されてる私には、その程度のことなんてことない。
「……あれ、なんだろう。胸が痛い」
チクリと胸が痛んだ気がして、私は何だろうかと首をかしげた
◇ ◆ ◇
「おそーい! いつまで待たせるのよ!」
博麗神社から少し離れた丘の上。
指定された待ち合わせ場所にきた紫を、天子は怒り顔で出迎えた。
「何怒ってるのよ。待ち合わせ時間はまだ先じゃない」
「私がせっかちなのは知ってるんだから、約束の1時間前には来なさいよ」
「無茶言わないの」
天子が声を張り上げるが、この程度は挨拶みたいなものだ。
紫も特に何か思うこともなく、適当に天子をあしらう。
「……あれ、紫化粧した?」
「あら、わかるかしら」
やっと紫の変化に天子が気付いた。
そこで紫はそっけない風を装って、天子の興味を惹かせる。
「ふふふ、どう?」
「へぇー、結構変わるもんなのね。凄い技術だわ。これ藍がやったの?」
「……えぇ、そうよ」
あらぬ方向に向いた天子の興味に、紫は落胆した気持ちが顔に出ないように努めた。
「ほ、他に言うことはないのかしら?」
「汗掻くと化粧落ちたりするんじゃないの?」
「…………大丈夫よ。適当に境界操作してなんとかするから」
どうしても望みの言葉を引き出せず、紫は顔が引きつるのを止めれなかった。
「私はあんまり化粧好きじゃないんだけどね、顔に塗りたくるっていうのがどうにも慣れなくて。って、どうしたの、変な顔して」
「うふ、うふふふふ。所詮私みたいな年寄りが気合入れてお化粧したって、駄目なものは駄目なのね。あぁ何で時間なんて概念があるのかしら、みなもろともに滅びれ」
「物騒なこといってどうしたのよ」
「なんでもないわ。ほら、いつまでもこんなところにいないで行きましょう。うふふふふ……」
「そうね」
先程まで希望にあふれていた紫の眼は、今や死んだ魚のような濁り、口から呪詛の声がこぼれ落ちていた。
こうなりゃやけ食いだ、屋台を壊滅させてやると、紫は神社の方へ足を向ける。
「でも化粧なんてしてこなくてもよかったと思うけどなぁ」
「なに、そんなに似合ってないの? やっぱり小細工したところでババアには無駄なの? 死んでやり直すしかないの?」
「そうじゃなくてさ、紫ならすっぴんでも十分綺麗じゃない。その化粧もいい感じだけど、むしろ私は変に手を加えてない素顔の方が好きかな」
後ろに引っ付いて、サラッととんでもないことを言い切る天子に紫は目を丸くして、つい頬を赤らめた。
「……あなたって、天然ジゴロね」
「ジゴロ、って何? 外国の言葉?」
「何でもないわ。気にしないでほら」
こう簡単に気持ちを揺り動かされたら、いいようにされているようでそれはそれで不満が溜まるが、それでも気をよくした紫は手を差し出す。
「うん!」
騒ぎ声が響き始めた博麗神社に、二人は手を取り合って歩み始めた。
◇ ◆ ◇
さて、紫に要石をこっそり仕掛けた私は、草むらからその姿を覗き込んでいた。
場所は博麗神社の近くだけど、この辺りは誰も来ないだろうっていうくらい何も無いところに、また結界を張って誰も近づけないようにされている。
そんな僻地で紫は幻想郷の大木の前に立っていた。
「……お仕事中ねこれは」
一見紫は大木に手を当てた体勢で、身動ぎもせずにただ立っているだけのように見える。
けど実際のところそうじゃない、大木に付いた手で幻想郷を包み込む博麗大結界へ干渉している。
結界の維持には式も手伝っていると聞いたけど、その式の姿が見えないということは紫じゃないとできない仕事か。
あるいはその式も別のところで働いているのかもしれない。
まいった。
来たは良いけどすることが何もない。
ここで「やっほい紫ー。お仕事頑張ってるー?」と軽く出て行ってポンと肩を叩くわけにはいかない。
見た限りではただ立っているようにしか見えないが、その裏で紫は常人じゃ及びも付かない行動な術式を展開している。
その仕事を邪魔するのは冗談じゃ済まない。声を掛けて意識を乱すことも厳禁だ。
とすると、結局何もすることがない、何もできないししちゃいけない。
じゃあどうする、帰るか?
『ありがとう』
さっきの笑顔が脳裏を掠めて、私をその場に縛り付けた。
「……仕方ない、待つか」
ここで紫を放ってどこかへ行けば、あの顔が気になって、これからの私の生活に影を落としそうだ。
暇だ、退屈だと叫びたいところを飲み込んで、私は紫を監視してみることにした。
まぁ、何もなければそれでよし。
その時は私を縛る要因がなくなって、また明日から自由に生きるだけだ。
一度空を見上げて、太陽が真上にあるのを見て今は昼時かなと美味しそうなご飯を想像して、また紫に目を移した。
最初の30分は暇だ暇だと思いながらジッとしていた。
1時間ほど経ったころは、紫の仕事も大変だなと暢気に思い。
4時間もすると紫の体調を心配し始めた。
ただ時が過ぎ、夕日が沈んで星空が輝き始めると、私は焦燥に駆られていた。
もうどれくらい経った?
私がいた間、紫は休まず結界に手を加え続けている。
その肉体的、精神的疲労は想像を絶するものだ。
普通なら妖怪だろうが天人だろうが体力と気力を共に消耗し尽くしてとっくの昔に倒れている。
じっと監視している私も、これで中々疲れてきているが、紫の身を考えると疲労なんて吹っ飛んでしまった。
正直なところ、この場所から飛び出して紫のそばに駆け寄りたかった。
疲れてるだろう紫の身体を抱えて、どこか休めるところまで連れて行きたかった。
だが邪魔するわけにはいかない。
ここで紫を妨害したら、きっと幻想郷を包む結界に支障が出る。今までの頑張りが無駄になる。
それだけは、できなかった。
「紫……」
奥歯を噛み締めて、出て行きそうな身体を必死にその場に縫い止めた。
そこから更に一刻待ち、ようやく紫のみに変化が起きた。
ピクリと、身体の感触を確かめるように、紫の指が動いた。
釣られて出て行きそうになった身体を押さえようとしたけど、大木から一歩離れた紫が地面に崩れ落ちるのを見てとうとう静止が利かなくなった。
「紫っ!!」
仰向けに倒れた紫を抱きかかえて、顔を覗き込んでゾッとした。
紫の額には大粒の汗が滴っていて、背中に回した腕からは厚い同士服がグッショリ濡れているのが伝わってきた。
「てん…し……?」
明らかに焦点の合っていない眼で、ぼんやりと紫が私を見上げる。
「……あなた、何でここに」
「そんなこと後よ、後。仕事は終わった? 終わったわね。じゃあとりあえず安静にできる場所まで連れて行くわよ」
ゆっくり事情を言い聞かせてやれるほど、余裕はなさそうだ。
私は担架の形をした要石を作り出して、その上に紫を乗せてやった。
岩で出来ているからゴツゴツしているけど、おぶるよりはまだマシだろう。
「どこ、へ……」
「とりあえずこの近くなら博麗神社でしょ。こんな状態なら霊夢も休ませてくれ」
「ダメ……!」
私の腕を、消耗しているとは思えないほど強い力で紫が掴んできた。
ぐったりした状態で、それでも首を横に振って拒否してくる。
「あんたね、こんなになって何強がって」
「あっち……」
もう片方の手で、紫は反対の方向を指差した。
「藍がくる……合流……」
「……わかったわよ。言う通りにするから休んでよ、お願いだから」
それを最後に紫は意識を手放した。
怖くなって耳を近づけてみたら、しっかりと呼吸をしてて少し安心する。
とりあえず紫を乗せた担架を引っ張って、示された方向へ進みだした。
さっきの強い拒否感。もしかしたら紫は誰かにこの姿を見られたくないのかもしれない。
上空を飛ぶのを止めて、木の下を隠れるように進む。
藍という名前は、確か紫の式神のことだったはず。
どこにいるんだろうと、辺りを見渡していると怖気が走る殺気を感じた。
「止まれ!」
殺気と声の方向へ振り向くと、威嚇するように持ち上がった金色の尾が視界に移った。
「貴様、紫様をどうする気だ」
爪を立てて獣の本能がむき出しになった藍にそう言われて、ちょっと冷静に考えてみる。
私は藍の名前を紫から聞いてるだけで、直接の面識はない。
つまり藍は私を知らないわけで、あいつから見たら謎の不審者がぐったりした紫を運んでいるように見えるわけだ。
やっべ、超勘違いされてる気がする。
「いやちょ、ちょっと待って、あなた面倒な勘違いしてるんじゃ」
「待って、藍……」
どう誤解を解けばいいんだと焦っていると、いつのまにか目を覚ました紫が口を開いた。
「紫様!」
「……こっち、へ」
「しかし、そいつが……」
どうやら下手に近づくと、私が紫に危害を加えるとでも思っているのか藍は戸惑っていた。
仕方なく身を引いて紫を乗せた要石だけ前へ出すと、私への警戒を怠らないまま紫の元へ近寄る。
「どうしましたか」
「その子、を連れて……家、へ……」
「しかし、部外者ですよ。隠れ家の場所を知らせるわけには」
「だいじょうぶ、きっと……」
わずかばかり迷っていた藍だったけど、最終的には紫の言葉にうなずいて私に向き直る。
「話は聞いていたな。今から紫様と一緒に、お前を我らの隠れ家へ連れて行く。依存はないな?」
「特に何も」
「いいか。もしお前が紫様に傷一つつけたなら、即座にその首を千切り飛ばすぞ」
「そんなのどうでもいいから、こいつさっさと連れて行かないといけないでしょうが。担架代わりにしてる要石は私が飛ばすから、あんたは先導して家まで案内しなさい」
「なんだと……!」
「……藍」
相変わらず殺気満々の藍だったけど、紫に名前を呼ばれてようやく伸ばしていた爪を収めた。
その後は会話もなく、案内されるまま道なき道を進む。
そのあいだ紫はまた眠ってしまい、ずっと目を覚まさなかった。
「ここだ」
たどり着いた家は、ひっそりと森の中に建っていて、大きいけど少し放置されているように見えた。
多分、こういう非常時に使うためのもので、ここに住んでいるというわけじゃないんだろう。
家に上がって通された部屋で、藍が敷いた布団に紫を移す。
ふぅ、と人心地を付こうとすると、唐突に藍が紫の服を脱がし始めた。
「ちょ、何やってんのよ!?」
「何って、こんなに汗で濡れているんだ。身体を拭いて着替える必要があるだろう」
あぁ、そう言われてみればそりゃそうだ。
納得した私だったけど、人形のようにされるがままの紫の裸体を見て、何だか顔が熱くなってきて部屋の外へ出た。
壁に背中を預けて待っていると、濡れた服を抱えた藍が部屋から出てくる。
「紫は?」
「……命に別状はないよ。極端に消耗して衰弱しているだけだ、二、三日休めば回復する」
その言葉に今度こそ安堵して肩の力が抜けた。
だけどすぐに目の前に立つ欄をにらみつけると、詰め寄ってその胸倉を掴んだ。
「あなた紫の式でしょ! なんだったあいつがこんなになるまで放ってたのよ!? 知ってたんでしょ、あいつがあんなになるまで頑張ってたこと!!」
「……叫ぶのはやめないか。紫様の身体に障る」
「話をそらすな……!」
一応は紫のために声を小さくしたけど、紫を補佐するべき式神に対する怒気は収まらなかった。
それなのに藍は、何の感情を感じさせない無表情で私を見下ろしている。
「……私は、別のところで結界の調整をしていた。それに、私がいてもいなくても紫様はああなっていたよ」
「なんでよ」
「紫様は、紫様にしかできない仕事をしている。他の適任がいない以上、紫様がそれをこなすしかない」
「あんなに疲れて、ぶっ倒れるまで!?」
「そうだ」
やりきれない思いが募って、どうすることもできず藍を睨みつけていたけど、藍の口の端から紅い血が流れているのを見て我に返った。
目の前の九尾は歯が砕けて血が出るほど、歯を食いしばっている。無表情の裏側で、私と同じくらい悔しい思いに満ちている。
それに気付いて、私は手を震わせながら離した。
「……ごめん」
「いやいい。それより、お前は比那名居天子であってるか?」
「そうだけど、なんで名前知ってるのよ」
「紫様から少し話を聞いていたからな。そうか、ならとりあえず問題はないか」
「あっさり警戒を解いて大丈夫なの? この隙に昔の恨みを晴らそうと、寝首でも掻くかもしれないのに」
「紫様から聞く限りそういうやつじゃなさそうだし、あの方が評価を間違えることは考えられないからな」
あいつが私のことをどう吹き込んでるのか激しく気になったけど、今はそれについては横に置いておいた。
「ところでなんで紫様と一緒にいた」
「……ふん。あのバカがこそこそ隠れて何やってるか気になっただけよ。それで後をつけて監視してみればあれよ」
まぁ、あんまり嘘は言っていないはずだ。
ぶっきらぼうな言い方だったけど、藍は気にしていないようだった。
「それで、お前はこれからどうする」
「……あいつ、どれくらいで起きるの」
「丸一日もすれば目が覚めるだろう」
「じゃあとりあえず、それまでここにいるわ」
私はそう藍に言い放つと、また同じところに座り込んだ。
あいつが起きるまで待ったところで、何をしたいか、何が出来るか、そんなことわからない。
ただ、あいつをこのまま放っておくのは無理だった。
「そうか、なら私と同じだな。これから夕食を作るが、お前も食べるか?」
「暢気なもんね」
「私たちまで辛そうな顔をしてれば、それだけ紫様も辛くなるからな」
「……私も食べる」
あぁ、今のはちょっと八つ当たりぽかったなかなと自己嫌悪しながら、結局気力を充電するほうを選ぶ。
そして充電ときて、一つ思い出したものがあった。
「そういえば、紫って日に10時間以上も寝るそうだけど、もしかしてそれって……」
「…………」
沈黙が、私の考えを肯定した。
紫は、今日みたいに倒れるほどじゃないとしても、常日頃から消耗してたんだ。
それを回復させるためだけに、半日以上も眠り続けていたんだ。
「何が気持ちいいんですものよ。あのバカ」
疲れを癒すため、じっと眠りにつくのが、そんなにいいもののわけないだろうに。
扉の向こうで泥のように眠る紫に、私はもやもやとした重い感情を感じるばかりだった。
◇ ◆ ◇
「こんにちわ霊夢」
「ん、紫……と、天子?」
屋台を奥に進んだ先で、場を監視するように仁王立ちする霊夢は、声を掛けられたほうを向いて訝しげな顔をした。
今名前を呼んだ紫がここにいるのはわかるが、天子と並んでというのが気になっているようだ。
「やっほ、盛り上がりそうね。祭りなんて洒落てるじゃない」
「あぁ、なんか前も妖怪とかが集まって勝手にやってたし。最近は神道とか仏教とか道教とかでややこしいから、ここらで一発盛り上げて客を寄せようって」
「へぇ、霊夢にしちゃ頭使ってる」
「魔理沙が勝手に企画した」
「って、あんたじゃないんかい」
相変わらずな巫女に思わず天子は突っ込みを入れる。
「正直先に知ってたら企画ごと潰してるわよ。終わった後は掃除大変だし、こんなの開いたところでやってくるのは金も落とさない妖怪ばっかり。また人里じゃ妖怪に制圧されたとか噂立つだろうし。もう集まった以上、追い返すのも面倒だし楽しむけど」
「へぇー……?」
疑問が浮かんだ天子が、繋いだ手を引いて、紫を近寄らせて耳打ちした。
「ねぇ、ショバ代取ろうとかいう考えはないのこの巫女は」
「霊夢はお金欲しいって言ってても、そんなに切羽詰ってるわけじゃないもの。なんとなくあったほうが良いって価値観から求めてるだけで、執着はしてないからアイディアが出てこないのよきっと」
「駄目な巫女ねこいつ……」
言ったら言ったで、今から屋台から取り立てを始めて祭りを台無しにしかねないので、二人ともそのことは黙っておくことにする。
「何話してるのよあんたら」
「なんでもないわ。それで、その魔法使いさんはどこかしら?」
「張り切りすぎて風邪引いたみたいで、今神社の中に寝かせてるわ」
「うわー、運の悪いやつ」
何で風邪を引いてるのに自分の家じゃなく神社に? と紫と天子は思ったがすぐに思考を放棄した。
だって魔理沙だし。
「それより、あんたたちそんなに仲良かったっけ?」
そういう霊夢の視線は、紫と天子の間に向けられている。
もっと正確に言えば、繋がれた手を凝視していた。
「あら、私たちが一緒にいるのがそんなにおかしい?」
「おかしいでしょ。神社がぶっ壊れるくらい派手にやりあった癖に」
「ふふん。これには一言では説明できないちょーっと深い訳があるのよ」
「ちょっとなのか深いのかどっちだ」
明らかに見せ付けるように繋いだ手を持ち上げる両者に、突いたら蛇でも出そうだなと霊夢は追求を止めた。
「騒ぎ起こさなきゃ、誰と誰が仲良くしようがどうでもいいけどね」
「れいむぅ~、のどかわいた。水~……」
不意に神社の置くから聞こえてきた苦しそうな声に、霊夢は眉を潜めて面倒くさそうに眉間に皺を寄せる。
「はいはい、今行くから大人しくしときなさい。それじゃ、せいぜい楽しんでいきなさいよ」
「そうさせてもらうわ」
「そっちは看病頑張りなさいよね」
「はぁ、まったくなんで祭りの日にこんな……」
「れいむぅ~!!」
「わかってるわよ。急かさないでも行くわよ!」
霊夢は縁側から神社の中へ入っていった。
見送った二人は、境内に立てられた屋台を見渡して、どこから回ろうかと思案する。
先に行動を決めたのは、やはり日頃から活発な天子だった。
「ほら、まずあそこ行こう!」
「はいはい、もう慌てんぼうねあなたは」
はしゃぐ天子が紫を引っ張っていく。
「へいらっしゃい!」
「いらっしゃいませ、総領娘様」
その先で、割と見知った顔に出迎えられた。
「萃香と衣玖?」
「あら、あなたたちも店を出してたの」
「はい、私個人としては凄く面倒なので遠巻きに参加すればよかったのですが、萃香さんに拉致され、もとい誘われて」
「攫うのは鬼の仕事さ。それにしても……」
萃香はジロジロと繋がれた手を見てニヤけると、隣に立っていた衣玖に振り返った。
「なっ? 言ったとおりだったろ」
「そのようで。鬼の目も侮れませんね」
「言ったとおりって、何話してたのよあなたたち」
「さぁさぁ、二人とも何食べる? て言っても不味い焼きそばしかないけどな!」
「聞けよ、人の話を」
「しかも不味いって堂々というのね」
「鬼は嘘吐かないし」
萃香の前に置かれた鉄板の上で、べちゃっと置かれた焼きそばがジュージュー音を立てている。
「こういう場で不味い焼きそばは定番ですから」
「確かにそうだけれどね」
「小盛、中盛、大盛、酒盛、どれにする?」
「おい、最後の何だ鬼」
「焼きそばの酒浸しだよ」
「いらないわよそんなの。他にも色々食べるつもりだから小盛一つ」
「一つですか?」
「問題ないわよ、二人で食べるから。紫、お金」
「はいはい」
紫は繋いだ手をやっと離して、懐からガマ口財布を取り出すと、中から紙幣を取って差し出した。
「どうも、ありがとうございます。ではこちらがお釣りです。今詰めるのでしばしお待ちください」
「えぇ、ありがとうね」
「……ちょっと、萃香こっちこっち」
「ん?」
紫が衣玖から焼きそばを受け取っているうちに、萃香を引っ張った小声で話しかけた。
「あなた、私のお願いは忘れてないでしょうね?」
「大丈夫さ。分身を派遣して、例の場所でスタンバってるよ。時間になれば打ち上げるさ」
「ならいいけど」
紫に怪しまれないうちに、天子は萃香から離れて元の位置に戻る。
「ほら、天子あーんして」
「あーん」
「お二人とも場の空気とか知ったこっちゃないですね」
「むしろ周りまで甘くしてるな」
何のことを言ってるのかわからない外野の雑音は受け流し、二人は焼きそばを食べさせ合う。
もそもそと口にした両者は、なんとも言えない顔をした。
「う~ん、桃よりかはマシね」
「私は桃の方が美味しいわ。やっぱり縁日の焼きそばなんてロクなものじゃないわね」
「おいおい、営業妨害か?」
「鬼は嘘が嫌いでしょう?」
「私はお世辞が好きですけどね」
「で、私たちがお世辞なんて言うと思う?」
「夢くらい見させてくださいよ」
こうやって見知った顔と話すのは楽しいが、それは縁日じゃなくてもできるはずだ。
買うべきものは買ったし、さっさと次へ向かうべきだろう。
「ほら紫。次に行きましょ」
「えぇ。二人とも頑張ってね」
「おいさ、張り切って作らせて貰うよ」
「それでは総領娘様、紫様、楽しんでくださいね」
「言われなくても!」
次の屋台へと映っていく二人を尻目に、萃香と衣玖は顔を寄せる。
「本当に、楽しそうですね」
「あぁ、私の勘もそう馬鹿にしたもんじゃなかったろ?」
「……しかし、なんか今日の紫はいつもより元気だな」
「そうなんですか?」
「いや、気のせいかもしれないけどさ」
本当にただなんとなくでしかないが、心なしか紫の動きがいつもより軽い気がする。
いつもの紫は、今の挙動に重石を付けたように動きが緩慢だ。
妖怪は精神の状態がダイレクトに肉体に反映される。
もし萃香が感じたのが誤りでないとしたら、やはり隣にいる少女の力だろう。
焼きそばを焼きながら話す萃香と衣玖は、祭りを楽しむ微笑ましい姿を眺めていた。
「天子、次はあのチョコバナナとかどうかしら」
「おっ、なにそれ美味しそう!」
「それでね、こう舐めるように食べてくれないかしら!?」
「舐める? 別に良いけど」
「確かに元気そうですね」
「……あんなキャラだったんだなあいつ」
妖怪の賢者に対する評価が急落した瞬間であった。
◇ ◆ ◇
紫が目を覚ましたのは、あれからきっかり24時間後だった。
同じ部屋でうつむきがちにじっと見守っていた私は、紫がうめき声を漏らしてゆっくりと目をあけたのを見て顔を上げた。
「紫!」
「……天子?」
薄っすらと開いた目で、視線だけを動かして紫がこちらを見る。
大丈夫だとは聞いていたけど、やっぱり直に紫の声を聞くと改めて安心した。
「いま藍を呼んでくるから」
「かまわないわ。もう来るから」
私が立ち上がろうとする前に、部屋の扉が開いて豪勢な金毛が目に映った。
「紫様。水をお持ちしました」
「ありがとう」
水が注がれたコップを持って、藍が部屋に入ってくる。
どうやって察知したんだろうか気になったけど、式神なんだから主の状態くらいは把握できるんだろう。
藍は紫が身体を起こすのを手伝うと、手馴れた様子で紫に水を飲ませた。
「おかゆを用意しています。温めてきますので少々お待ちください」
「えぇ、お願いね」
一礼して藍は席を立ったけど、「無理させるなよ」と私に耳打ちしていった。無論、言われなくてもそんなことさせない。
取り残されて二人きりになるけれど、何を言えばいいかわからなくてしばらく黙り込んでいたら、紫が先に口を開いた。
「ふふふ、情けないところ見られちゃったわね」
「……無理して笑わなくていいわよ」
「あら、無理してなんかないわ。まさか特別疲れる時に覗かれてたなんてね。いつから見てたの?」
「ほとんど最初から、別れてすぐよ」
「そうだったの。あんなに疲れるなんて初めてだったから、油断したわね」
「嘘吐くな」
流暢に言葉を並べていた紫が、私の一声で押し黙った。
「藍に全部聞いたわよ。昨日みたいな長時間の作業って、毎日とはいかなくても月一程度でやってるそうじゃない。その度にぶっ倒れて担ぎ込まれてるって」
「……余計なことを」
一瞬だけだったけど、紫は珍しく眉を潜めて困った顔をした。
知られたくなかったようだけど、藍が話したのも仕方ないと思う。
あの式神も紫のことを心から心配しているから、このことを誰かに相談したかったんだろう。
「それだけじゃない。普段から半日以上寝てるのも、毎日の結界修復に疲れて、それをカバーするためらしいわね。毎日毎日、疲れ果てて」
「……知られちゃったわね」
「そんなに大事なことなの、他のやつの隙間を埋めるなんてことが!」
「えぇ、もちろん」
即座に答えた紫に、一瞬何も言えなくなってしまった。
異変を起こしたとき、唯一の目標さえ達成できればそれでいいと思っていた、そんな私と似ていたから。
他の何よりも、自分すらも差し置いて成し遂げたいこと。
幻想郷が紫にとってそれだと、痛いほどわかってしまったから、言えなくなった。
「……そんなことのために辛い思いして、バカでしょあんた」
「そうかもねぇ」
「おまけに人間を犠牲にしたらしたでまた自分を責めて、余計な重荷ばっかり背負って」
思い出すのは、月夜の晩に墓を掘る紫の姿。
「余計なものなんて一つもないわ。全部必要があるから背負ってるのよ」
「……バカ」
強情で、その上不器用だ。
何一つこぼれ落とさないようにして、それでも無理だからその分心が削れる。
せめてその程度、割り切れたら楽だろうに。
でもそうせずにはいられない、そうしないと自分が自分でなくなってしまう、それが八雲紫の生まれ持っての気質なんだろう。
「なに、それで万事解決。おおむね平和に幻想郷があるのなら、それでいいじゃない」
そして私になんでもないように言うこいつは、それでいいと本気で考えている。
本人の気質に沿って行動しているだけだから、それで苦しむことがあっても、必要なことだと割り切っている。
自分にしかできないことなら、一人重荷を背負って生きればいいと思っている。
「……よくない」
何で。
「私は嫌よそんなの!」
何で紫なんだ。
これが他の誰かなら別によかった。
でも苦しんでるのは紫だ。他の誰でもない、八雲紫という胡散臭い妖怪だ。
「私はまだちょっとだけど、あんたがどんなやつなのか知ってる。どんなことを楽しんで、どんな風に笑うか知ってる。そんなあんたが、この先苦しんで生きていくなんて、絶対に嫌よ!」
「天子……」
話してて楽しい紫。人をからかって楽しむけど、誰かを助けて喜びを感じることも出来る紫。私を助けてくれた紫。
そんな紫が、幻想郷のために一生の大半を費やして、その為だけに生きるなんて嫌だ。
紫には、もっと笑っていて欲しいから。
「助けるわ」
「…………」
「絶対、助ける。紫が苦しまなくてもいいように、ずっと笑ってすごしていけるように、私が助けるから!」
「……ありがとう」
感情を剥き出しにして叫ぶ私に、紫は軽く頭をなでるとそういって笑いかけた。
◇ ◆ ◇
「これで全部回ったかな」
「そうね、大体のものは食べたし遊んだわね」
焼きそばを買ってから、紫と天子は思うがまま神社中の屋台を回っていた。
八目鰻から氷精のカキ氷まで食べつくし、射的からまでヨーヨーすくいまで「もう勘弁してくれ」と言われるほど遊びつくした。
「ヨーヨー全部掬うのは大変だったわね。射的の方は簡単だったかな」
「そうね、なぜか後ろに台を置いて落とせないようになってる景品まで吹っ飛んでたわね」
「不思議なこともあるもんねー」
実際はこっそり小さな要石を弾代わりにして飛ばしたおかげである。
景品そのものが欲しかったわけではないが、出張してきた眼鏡店主を驚かせたくてやった。今は満足している。
しかしそうやって遊んだ割には二人は手には荷物がない。
というのも、達成感が欲しくて遊んだだけなので射的の的は店主を泣かせた後で返したし、ヨーヨーすくいなど他の遊びも同様に返却してやった。
「もうだいぶ時間がたったわね」
夜空を眺めながら紫に言われ、天子はそういえばと懐に手を突っ込んだ。
取り出したのは飾り付けのない、カチ、コチ、規則正しく音が鳴る小さな時計。
時間を見て、そろそろだと顔を上げた。
「紫」
「なに?」
「行きたいところがあるんだけど」
夜が深まるに釣れ、ますます祭りは盛り上がりを見せる中、何故か天子は紫を連れて縁日を抜け出した。
「こんなところに連れてきてどうしたの?」
天子が紫の手を引いてやってきたのは、祭りの前に二人が落ち合った場所だった。
ここまで連れてきたことに、紫は不思議がっている。
「まぁ、ちょっと話しましょうよ」
地面の上に腰を下ろした天子が、ぽんぽんと隣を叩いて誘った。
何を考えているのかわからないが、天子の言われるままに紫は並んで座り込む。
「……最初に会ったときはさ、ここまで紫と親密になるとは思わなかったな」
「私も同意見ね。あの時はとんだ食わせ者が出てきたと思ったら、子猫ちゃんだったし」
「猫と一緒にすんな」
「あらそうね。そうれじゃ橙と被るし、犬でどうかしら」
「そうじゃない!」
祭りの喧騒が神社から聞こえてくる。
さっき中心に立っていたときは身体の底にまで響く騒ぎ声だったのに、ここから聞くと風の音にすらかき消されそうだ。
「そういえばさ、あの時から紫に言いたいことがあったのよね」
「恨み言?」
「違うけど、今は言いたくない」
天子は話を続けながら、紫に気付かれないようにまた時計を取り出し、時間を確認した。
秒針が12時の方向を超え、現時刻は8時59分になったところ。
「言いたいのに言えないの?」
「なんていうかさ、私が貸しを作ってばっかりな感じがするからさ、それがなくなったら」
「貸しなんて覚えがないわよ」
「一方的に私が思ってるだけだろうけどさ、その内、私がそれを返したと思ったら、その時は聞いてくれる?」
「……えぇ、もちろん」
秒針が再び0に近づく。
「でも今はさ、とにかく楽しみましょ!」
カチリと、小さな音を立てて秒針と共に長針が0を指し示した。
同時に遠方から十分聞こえる破裂音が届いてくると、夜の空に一筋の光の玉が打ち上がる。
ヒュルルルと空へあがった玉は、腹の底まで響かせる爆発音とともに大勢の目を奪う閃光を発した。
夜空に光の花が開いた。
「えっ――」
空高く打ち上げられた花火に、遠く博麗神社から縁日に来たいた人妖の歓声が響いてくる。
ドンドンドン、と絶え間なく打ち上げられ咲き誇る大輪を、もっとも見晴らしのいい丘の上で、紫もまたそれを見た。
「これって……」
「せっかくのお祭りなんだから、派手な方がいいでしょ? 私が調達して、萃香に頼んで打ち上げてもらってるの。紫のために用意してあげたんだから、ちゃんと楽しんでよね」
突然の光景に呆気に取られる紫の横で、天子は得意げに語りかける。
「綺麗ね。綺麗過ぎて、私には勿体無いくらいだわ」
「んなことないわよ」
「……ありがとうね天子」
花火から目を逸らして、嬉しそうに微笑みかける紫に、天子の心は沸き立った。
同時に、純粋すぎる想いが渦巻いた。
もっと紫に笑っていてもらいたい。
もっと楽しんでいてもらいたい。
苦しそうな顔なんてしないで、ずっとずっと笑っていて欲しい。
思考に飲み込まれ、花火の音が頭から消えていく。
「――ねぇ、紫、楽しい?」
「えぇ、こんなに楽しいのは久しぶりね」
「じゃあ、さ、もっと、楽しくしようよ」
気が付いたら、喉から声が絞り出していた。
花火に照らされながら不思議そうな顔をする紫を見て、止めた方がいいと、心のどこか別の部分が囁く。
けれど、天子はもう止まれなくなってしまった。
「私と二人でさ、幻想郷を出て外で一緒に楽しいこと探しましょうよ! 最初は戸惑うことがあるかもしれないけど、私と紫ならきっと何もかもうまくいくわ!」
「……天子?」
「重荷になるもの全部捨てて、毎日気楽に楽しく生きるのよ! 二人で遊ぶのもいいし、何かやりがいのある仕事を探すのも良いわ! 誰かのために、じゃなくて自分のために好きに暮らすのよ! きっと、きっとすっごく楽しいわよ!」
朝は寝ぼすけな紫を置いて、先に目を覚ました朝食を作る。
朝ごはんを食べながら一日の予定でも話して、食べ終わったら一緒にどこかに出かけるんだ。
そのまま疲れ果てるまで遊び続けて、夜は一緒のベッドにぐっすり眠る。
そうなったら、絶対に楽しいはず。
――――本当に?
◇ ◆ ◇
あれから、随分と時間がたった。
今まで遊びほうけていた私は、一日の大半を博麗の大結界の研究に費やした。
あんまり根を詰めすぎても効率は良くないから、たまに遊んだりしたし、時折紫の様子を見に行ったりはしてたけど、それ以外は全部書庫にこもる毎日。
どうやれば結界を強化できるか、どうやれば紫の負担を減らせるか。
眠らなくても大丈夫な術を自分に掛けて、食べ飽きた桃を機械的に腹に詰め込みながら、紫から貰った博麗の大結界の縮小版を使って、必死にやった。
でも無理だった。
縁日のチラシが届けられたあの日、とうとう天界にある全ての書物を読み漁っても、成果が上がらないことに愕然とした。
やっぱり、という感情がなかったわけじゃない。私なんかよりずっとずっと凄い紫とか、その式神の藍とかが頑張って頑張って、それでもまだあんなに苦労しているんだ。
私がちょっと努力した程度じゃ、立ち向かう資格すら与えられない壁なんだと、そう感じた。
それでも、悔しかった。
一緒に話していると楽しい紫、私を助けれくれた紫を、私は手助けできなかった。
できることなんて、せいぜいが場を盛り上げて、ちょっと紫を楽しませるくらいで。
それだって、バカな私は台無しにしてしまう――
◇ ◆ ◇
「そうなれたら、いいかもね」
満更でもなさそうな答えを出した紫は、でも困ったような顔をしていて、それを見た天子はさっきまで気持ちがしぼんで、小さく嗚呼を漏らして固まった。
「でも、幻想郷には私が必要なの。それを置いて、逃げ出すわけにはいかないわ。だから」
「うん、わかってた……ごめん……」
そう、わかってたはずだ。
紫の身体は紫のものだけではない、紫自身がそうでないことを許さない。
幻想郷を捨てて、紫が幸せに楽しく生きれるはずなんて、ありえない。
一時の衝動で馬鹿なことを言ってしまった自分が、天子は許せなかった。
「天子、あなた泣いて」
「え……?」
言われて天子が頬をなぞると、指先に透明なしずくが付いた。
泣いていることに気付くと、そんな自分が情けなくて、いたたまれなくなった。
「う、あぁ……み、見ないで!!」
普段の彼女からは信じられないほど狼狽した天子は、思わず顔を隠すと、背を向けて逃げ出そうとした。
「ま、待って天子!」
けれど一目散に逃げ出そうとしたその腕を、紫に捕まえられてしまう。
「離して、離してよ!」
「嫌よ、どこへ行こうっていうの!?」
「どこでもいいでしょ!!」
「天子、落ち着いて!」
天子は必死にもがいて、天人の凄まじい膂力により強引に振り放そうとする。
だが紫は結界で天子を動けなくすると、逃げられないようにがっちり抱き抑えた。
それでも抵抗しようとする天子に、ゆったりとした声を掛けてなだめる。
「うぅ、はなして……」
「落ち着いて、天子。そんな、逃げることないわ」
「でも、だって、わたしぃ……」
「どうして、そんなに逃げようとするの」
やがて諦めたのか力をなくした天子は、紫の腕の中でうなだれて、ボソリと呟いた。
「……私、迷惑掛けてばっかだ」
「迷惑?」
「私、紫の役に立ちたかったのに!!」
ぐちゃぐちゃになった顔で、声を張り上げる。
涙を流しながら放たれたその声は、無念のこもった慟哭だった。
「ダメダメだ、私。絶対紫を助けるなんて言ったくせに、全然何も出来ない!」
ここ最近、天子はずっと天界の書庫にこもって、研究をしていた。
紫に貰った博麗の大結界のモデルケース、それを用いての結界の補助方法の探究。
あらゆる本棚をひっくり返し、不眠不休で読み漁り、あらゆる秘法を試しても、それはできなかった。
幻想を現実たらしめる結界は、普通の結界とはわけが違う。
天界にある方法では、通用しなかった。
天子では、紫を助けれられなかった。
「ごめん、紫。私なにも、助けてあげられなくて。ごめん、ごめん……!」
せっかくの祭りの気分が、涙とともに流れていってしまう。
しかし天子は溢れてくる涙と嗚呼と止められなかった。
「ふぐ、うぅぅぁ、ぐすっ、うあ、あぁぁぁあああ!!!」
気が付けば花火は終わっていて、辺りには泣き声だけが響くようになっていた。
天子が大声を上げて泣きじゃくる中、彼女を腕に抱く紫は泣いている天子に胸を痛める一方で、同時に暖かいものを感じていた。
どうしよう、嬉しい。
天子が自分のために泣いてくれている、泣くまで自分のことを想っていてくれている、そのことが何よりも紫の心を満たした。
「天子、泣かないで」
「ひぐ、うぅ、でもっ、私なにも……」
「そんなことない。天子は私にたくさんのものを与えてくれたわ」
紫は腕に力を込め、優しく包み込むように、より深く抱きしめた。
「花火、綺麗だったわ」
「でも、私バカなこと言って、台無しに……」
「お祭り、楽しかったわ」
「私がいなくたって、藍たちとだって楽しめ……」
「お墓、一緒に建ててくれたじゃない」
「別に、あんなの、紫のためにやったわけじゃない」
泣いてまで強情な天子に、クスリと紫が笑う。
「例えそうでも、私はもう十分すぎるほどあなたに助けられた」
「何も、してないじゃない……」
「ねぇ、天子覚えてる? 私が幻想郷の事を聞いたとき、あなたはここのことを好きって言ってくれたわね?」
「うん……」
「あの時、あなたは普通に答えたんだろうけど、私はあの時、ああ言ってくれて嬉しかった。今の幻想郷を創って、心から良かったと思えた」
天人であって人の心を持ちながら、公平に物事を見れる聡明さを持ったこの娘が。
他の誰でもなく、自分の友人となったこの娘が。
どうしようもなく心惹かれてしまう天子が、自分のあり方を肯定してくれて。
「だからね、もういいの」
それだけで、十分すぎた。
「私は、もうあなたに救われてるのよ」
あれ、以来紫の心が軽くなった。
重かった荷が、天子の言葉で払われた。
まだまだ紫の背負う重荷は沢山あって、結界に維持に多大な労力を払っている。
けれど確かに何かが変わったと。
心には風が吹き込み、一挙一動が羽の付いたように軽やかになった。
もう何も心配はない。
これからの人生に、紫は一切の後悔をせず幸せに生きていけると確信していた。
「でも、でもぉ……」
だというのに、天子はどうしてもわからないらしい。
仕方ない、紫にもこの気持ちを伝えるには、言葉ではどうしても足らない。
「じゃあ納得させてあげるわ。天子、こっちを向いて」
未だ泣き止まない天子が、紫の腕の中で身体を反転させる。
涙とは鼻水とで、とても余所には見せられないほどぐちゃぐちゃになった顔を見ても、紫は動じない。
そうして天子の目と目が合った瞬間、紫は唇を重ねた。
大きく見開かれた天子の目から、ようやく涙が止まった。
◇ ◆ ◇
それからの紫は、一言で言えば変わった。
今まで紫は自らの体調不良を周囲には黙っていたが、彼女が変化したのは誰の眼にも明らかだった。
何故ならば、縁日の日を境に紫はことあるごとに天子の話をするようになったからだ。
「それでね、天子ったらもう可愛くて可愛くて」
「あーはいはいそうですか」
「前からそうだったんだけど、いつもいつも私のために面白いことを企画してくれてね、って聞いてるのかしら霊夢?」
「あーはいはいそうですか」
神社の縁側で身をくねらせながら延々とのろけ話を垂れ流していた紫に返ってきたのは、なんともやる気のない返事だった。
「人の話を聞かないなんてなってないわね」
「うるさいわ、定期的にのろけ話聞かされる気になってみろ。というか年寄りののろけとかキモイのよ」
「やだわ年寄りなんて、恋する乙女といって頂戴」
「もうやだこいつ」
どこかの白黒魔法使いが激怒しそうなことを言い出す紫を前に、霊夢は途方に暮れて頭を抱えた。
あの縁日の日以来、何かと博麗神社に寄ってきてはこうやって天子がどれだけ可愛いとかというのを力説するようになった。
お陰で参拝客が更に減って霊夢としては気が滅入るばかりだ。元からそんなものはいないとは言ってはいけない。
「だいたいあんたそんな性格じゃなかったでしょ。どうしてそんな脳内お花畑キャラになってるのよ」
「恋は乙女を変えるのよ」
変えすぎだ。それもぶっ飛んだ方向に。
霊夢はなんとか顔を上げると、紫の隣に座っていた式神に声を掛けた。
「ちょっとそこの式神コンビ、あんたの管轄なんだから何とかしなさいよ」
「はっはっは、できるならとっくにできているさ。というかもう何百回も聞いたお陰で、右から左へ流せつつ適当な返事が出るように訓練されたよ。橙を見てみろ、のろけ話を聞きながらでも寝れるようになったんだぞ。かわいいだろー」
「スー……スー……」
橙を膝枕する藍にはそんな風に返される始末。努力する方向性が決定的に間違っている。
なおこのような紫ののろけ話による被害は、博麗神社にとどまらず幻想郷の各地位置に発生しているらしい。迷惑極まりない。
「はぁ……しかもあんた最近うっとうしい上に、妙に活発的だし。前はそんなに顔見せなかったくせに、ここのところやたらと出てくるじゃないの」
「ふふふ、最近調子が良くてね。睡眠時間も14時間から10時間くらいに減ったり」
「かわんねーよ」
紫を睨みつける霊夢の横で、その点に関してだけ藍は笑みを浮かべてうなずいていた。
一部のものしか知らないことだが、疲れを癒すために多大な睡眠時間が必要だった紫が、以前よりも少ない時間で体調を維持できるようになった。
別段、仕事が楽になったわけでもなく、紫自身の体質の変化だ。
真実、恋は乙女を変えたのである。
根本的に問題が解決したわけではない。今でも大規模な結界の修復になると疲労に倒れるし、まだ平均よりも長い睡眠時間が必要だ。
それでも、以前よりも紫は毎日を楽しめるようになっていた。
「うーっす……って、ゲッ」
神社に後からやってきたのは、天界から降りてきた萃香だった。
縁側に座っている紫を見た瞬間、嫌そうに顔をしかめる。
「あら、人の顔を見るなりそれはないんじゃない?」
「いや、だって最近のお前やたらと天子推しでウザイし」
「そうね、確かに天子はウザイ面もあるわ。でもそれも彼女の素直になれない性格が作っているうものだと気付けば、ウザさもまたかわいさに」
「そうじゃねーよ」
「萃香殿。言うだけ無駄だ」
珍しく萃香から突込みが飛ぶ。それくらい今の紫は強烈だ。
私の知ってる、うさんくさいけど話が通じないわけではない、昔の紫はもういないんだな、と萃香はちょっと遠い目になる。
「まぁ、いらっしゃい。あんたが来たってことはまた宴会?」
「あぁ、今夜は満月だしみんな飲みたがってるだろ。私は衣玖しか呼んでないけど、ある程度は勝手に集まるさ」
なんとも行き当たりばったりではあるが、神社での宴会なんてこんなものだ。
勝手に集まって勝手に飲む。
そのことについて霊夢に異論はない。
「私と橙は参加しようかな」
「そう、で紫は」
「残念。予定があるの」
霊夢に訊ねられた紫は、人差し指を唇に立てて、楽しそうに笑う。
「満月の夜は、天子とデートだから」
「デートならお墓作りなんかじゃなくて、もっと洒落たとこ連れて行きなさいよね」
こんなことがあったのよ、で始まった話を聞いていた天子は、グチグチと嫌味を言いながらせっせとシャベルで地面を掘っていた。
それに続くように、紫も穴を掘る。
「あら、なら来なくてもいいのよ。何度も言ってるけど私の自己満足に過ぎないんだから、付き合う必要は無いわ」
「いいでしょ、私が何をしようが」
何だかんだ言いながらも、こうやって自分を助けてくれる天子が紫には微笑ましかった。
「つーか、私に色々言われて嬉しかったとか救われたとか言いつつ、未だに墓作らないとやってられないとかバカでしょあんた」
「仕方ないわ、こればっかりは」
「あーもう、これだから年寄りは頭固くて融通利かないんだから」
裏で人を犠牲にして存続している幻想郷の有り方に抱いていた疑念、それが払拭されてもやはり罪悪感が付きまとう。
とはいえ、天子と出会う間は、もっと神妙な面持ちで自分の罪を心に刻み込むように墓を作っていたのが、今は軽口を言い合いながら墓を掘るあたり、かなり心情が変化しているのがわかる。
しかし人間が犠牲になることを気にさせなくしたのが、元人間だというのも変な話だが。
「ていうかいい加減のろけるの止めなさいよね! 私も恥かしいんだから!!」
「天子がかわいすぎるのがいけないのよ」
「だから、それが意味不明で嫌なんだってば!」
声を張り上げる天子だが、その顔は真っ赤で迫力に欠けた。
何度言おうが紫はこれだ。天子ものろけ話を聞かされる側と同じく、諦めの境地に達しつつある。
「もう……こんなのさっさと終わらせて研究に戻りたいなぁ」
「まだ頑張ってるのね」
「当然でしょ! 祭りの時はそのキ、キスとかで誤魔化されたけどさ、根本的に解決してやるまで私は止まらないからね!」
そう言い切る天子も、どこか吹っ切れた感じがあった。
紫を助けられないことにかなり思い詰めていたが、紫の精神を助けることができたのが天子にもプラスになったのだろう。
「今は式の勉強をしてるし、平行して天界の書物を復習してるのよ。それでも無理なら今度は西洋魔術にでも手を出すわ」
「あなたも相当しつこいわねぇ。今のままでも十分すぎるのに」
「助けると誓った以上、やるならとことんまでよ」
自信満々に必ず助けると言い切る天子を見て、やはり紫は嬉しさがこみ上げる。
しばらくの間は自分のために頑張ってくれる天子を見て楽しもうかな、などと悪女のようなことを考えた。
「これでよし、っと」
そんなこんなで二人は話しながら墓穴を作ると、そこに人間の骨を入れて上から土をかぶせる。
そして完成した墓を前にして、二人はふぅと息を吐くと人心地ついた。
「さてと、それじゃあ帰って寝る」
「前に宴会よ」
「……あなた研究は?」
「研究も大事、でも遊ぶのはもっと大事」
得意げに語る天子は、紫の腕をがっしり掴む。
「デートなら私の好きなところに連れてってくれてもいいんじゃない?」
「私たち、服が泥だらけでみっともないわよ」
「気にすることないわよそんなの。聞かれたなら喧嘩して、殴りあったあと土手に寝転んだとか言えばいいし」
「……やってみたいのそれ?」
「少し。さぁ、とにかく行くわよ!」
天子は威勢よく言い放つと同時に、手からカッコつけでシャベルを投げ捨てる。
紫はすかさずそれをスキマで吸い込むと、自分の使っていたシャベルも同じようにしまい、二人で泥で汚れた手を繋いだ。
「ねぇ、紫」
「何かしら」
「助けたら言いたいことがあるって言ったじゃない。あれ、当分先になりそうだけど、その時まで傍にいてくれる?」
「えぇ、もちろん」
そんな約束なんてなくたって。
「その時まで、そしてそれからもずっと」
「うん、ずっと一緒に」
想いを確かめるように、二人はどちらともなく身を寄せてキスすると、繋いだ手の指を絡み合わせた。
天界「のに」作られた書庫の中。 →「に」または「の~に」
年中穏やかな天界では楽しめない「四季の移り」 →「四季の移り変わり」または「四季の移ろい」の方が一般的です。
こういう場で不味い「焼き蕎麦」は定番ですから →「焼きそば」、焼き蕎麦は存在しますが定番ではない、はず。
威勢よく言い放つと同時に、天子の手からカッコつけで投げ捨てられたシャベルをスキマで吸い込む。 →主語が前後で変わっているので主語の明記をした方が良いと思います。
あなたは人を嬉しくさせるモノを書く事ができる、素晴らしい! ゆかてん最高!!
でも誤字脱字が多いのは感心しないゾ☆
( ゚д゚ )
重すぎワロタ…
紫様が救われているみたいで何よりですが…
あと地味に萃香と衣玖さんが仲良しでよかった
相変わらずいいゆかてんですね。
次は気の弱い紫とかいいかも
・・・え?いつもそうだって??
穏やかな紫と伸びやかな天子。
二人の対照が、実に心地いいですね。
今回はシリアス多めに感じましたがやっぱりお茶目な部分もあってとても楽しめました
毎回思うんだがドリルさんの書く天子と紫はなんでこんなにかわいいのか
紫様の後半にかけての壊れ(デレ)具合がまた良いですね!
誤字脱字らしきものをご報告っ。
>>「私はよそんなの!」
→「私は嫌よそんなの!」or「私はよくないよそんなの!」あたりでしょうかね。
このゆかてんに幸あれ。
見た限りではただ立っているようにしか見えないが、その裏で紫は常人じゃ及びも付かない行動な術式を展開している。
行動× 高度