自分の生活は満ち足りている。キョンシーの宮古芳香は、近ごろそう感じるようになっていた。縁側に腰を下ろしたまま、嬉しそうに足をぷらぷらさせてもの思いにふける。
主ともども住まわせてもらっている仙界の生活には、不自由がほとんどない。仙界の屋敷は少々静かすぎるきらいがあるが、幻想郷のどこへでも遊びに行けるメリットがその不満を相殺する。
主の手伝いは大変な時もあるが、頑張った時に抱きしめて撫でてもらえることを考えれば、苦労のうちにも入らない。
おまけに、少し前に身体の手入れをしてもらったおかげで、非戦闘時にはある程度の寒暖を感じ取れるようになった。そのせいか分からないが、最近は前にもましてご飯がおいしい。
(なんだか、いいかんじだなー)
こうしてとりとめもなく考えていると、日向ぼっこのような居心地の良さに浸ることができる。主の手伝いがない時にこうして過ごすのが、芳香のお気に入りになりつつあった。だらしなく緩んだ頬が、それを裏付けている。
「ひー、風邪ひいちゃうー」
突如、穏やかな静寂を焦りの声が引き裂いた。声から数秒遅れて、屋敷の庭の空間がぐにょりと歪み、中から少女が飛び出してきた。
「おー、太子さま。ずぶぬれだなー」
全身濡れ鼠で姿を現したのは、屋敷の持ち主でもある豊聡耳神子だった。トレードマークの狐耳のような髪型は濡れてしんなりと垂れ下がり、防寒に着ていった上着からは水滴がしたたり落ちている。
なにかを抱え込むようにして持っているが、芳香の位置からはよく見えなかった。
「たた、ただいまです、芳香。買い出しに行ったら通り雨に当たってしまいましてね。……ふ、ふへっくし!」
可愛らしいくしゃみを残し、神子は猛ダッシュで屋敷の中へと駆けこんだ。
仙界は隔離された空間に作られているので、幻想郷の天気の影響を受けない。逆を言えば、外の天気は行ってみるまでわからないのだ。今回は、そのデメリットが見事に当たってしまったらしい。
ついでに言えば、幻想郷の住人との取り決めで、人里の中では仙界への通路を極力開かないよう言われている。そのせいで仙界に帰ってくるのに時間が掛かり、この有様になってしまったのだ。
いくら尸解仙とはいえ、風邪の脅威からは逃げきれない。さほど体が丈夫でない神子はなおさらだろう。
さらに数秒遅れて、居間と台所の方角が途端に騒がしくなる。
芳香は腰を上げると、ぴょんぴょんと跳ねるようにして、自分も居間へと向かった。
◇◆◇◆◇◆
居間に着いた芳香が最初に目にしたのは、蘇我屠自古から着替えを受け取る神子の姿だった。
「買い出しに行ってくれるのはありがたいけど、無理して帰らずに、雨宿りでもしてくればよかったのに」
「早く帰りたかったんですよ。それにほら、頼まれた野菜はちゃんと死守しましたよ!」
「野菜より神子の方が大事! ほら、さっさと着替えてくる! お茶淹れておくから」
手にしたタオルで神子の髪をわしわしと拭きながら、屠自古はきつい物言いで――しかし優しい言葉で着替えを促す。
「はーい」
どこか嬉しそうに返答し、神子は小走りで自室の方へと駆けていく。屠自古の目は、無意識のうちに彼女の背中を追いかけていた。
「なー、屠自古」
「にゃわ!?」
突然声を掛けられ、屠自古が思わず素っ頓狂な悲鳴をあげた。神子が出て行った方とは逆の位置にいたため、神子も屠自古も、芳香の存在に気づいていなかったのだ。
屠自古は、ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちない動作で振り返る。芳香の目に、ひきつった表情を浮かべる亡霊が映り込んだ。
「お茶にするのか? まだ三時じゃないぞ? それとも、太子さまはのどかわいてるのか?」
「へっ? あ、ああ、お茶ね」
赤面しているのを指摘されずに済み、屠自古は盛大に胸を撫で下ろす。息を整えて口を開こうとした途端、芳香の背後から狩衣姿の小柄な少女が、ものすごい勢いで居間に突っ込んできた。
「今日はおやつの時間が早まったのだな!? そうなのだなそうであろうそうに決まっておる! さあ屠自古、今日こそ里で人気の『ぷりん』とやらを食べモノノベッ!?」
一気呵成という言葉すら生温いほどにまくしたてる物部布都の脳天に、雷を纏った屠自古の拳が直撃した。布都の体がゆっくりと後方に倒れていき、畳の上に倒れ込む。喜色満面のまま気絶したその様に、屠自古は大きく嘆息せざるを得なかった。
「アンタ、さっきまで霊廟で瞑想してたんじゃなかった? まったく、おやつに関してだけは超絶地獄耳なんだから」
春先の神霊異変ののち、神子たち豪族一家は仙界に移り住んだ。その時にこの屋敷を作るとともに、隣に件の霊廟を持ってきているのだ。
今では神子と布都がたまに修行で使う程度なのだが、屋敷から霊廟までは最短距離でも三十間近く(約五十メートル)はある。どれだけの執念をプリンに費やしていれば、これだけの地獄耳になれるのだろうか。
「おー、いちげきだー。で、お茶はどーいうことなんだー?」
「あー、はいはい。ちょっと待って」
乱れた髪をかきあげて整え、屠自古は隣の部屋――台所へ足を伸ばす。やかんに水を入れて、神子特製の小型仙術炉で加熱を始める。
そうしてから、彼女はようやく芳香に向き直った。
「太子さま、雨で濡れてたでしょ? 風邪とかひくといけないから、体を温めるためにお茶を用意するのよ。あとは、ねぎらいの意味も込めてね」
「ねぎらい? ってなんだ? ネギ料理でも作るのか?」
聞きなれない単語に、芳香は小首を傾げた。食い気しかないその考えに、屠自古はくすりと笑い声を漏らした。
「つまり、お疲れ様でした、頑張ってくれてありがとうございます、っていう気持ちを込めることね。雨に降られてまで買い出しに行ってくれてありがとうございました、お茶を飲んで温まって、ゆっくりのんびりしてくださいね、って」
説明する屠自古は頬を緩め、誰かを慈しむように目を細めている。きっと今の彼女の脳裏は、神子がどういう反応をしてくれるのか、それ一色に染まっているのだろう。
芳香以外の誰かなら、屠自古の考えなどた易く見抜いている。だが、芳香にそれを看破できるだけの鋭利な思考はない。新しく触れる言葉の意味に、目をまるくして感心していた。
「そうかー。屠自古はもの知りだなー」
「これくらい、アンタのご主人様だって知ってるわよ」
おそらく、何の気なしに口にされた屠自古の返答。しかし、芳香はそれを聞いて、ある疑問を抱いてしまった。
「でも屠自古、あんまり青娥さまにはお茶とかだしてくれないな。なんでだ?」
棚から茶葉を取り出そうとしていた屠自古の動きが止まる。静まり返った台所の中で、芳香はじっと、屠自古をまっすぐに見つめていた。
小さな小さなため息が静寂を破る。茶葉を急須に入れながら、屠自古は口を開いた。
「そうね。確かに、青娥をねぎらったことなんてほとんどない」
「どうしてだー? 青娥さまだって頑張ってるんだぞ?」
その場で跳ねながら、芳香は理由を問いただす。
「どうしてもね、あの女は好きになれないの」
屠自古の視線は、やかんの下で動く小型仙術炉に注がれていた。
「確かに、青娥のおかげで太子さまは尸解仙に、そして聖人になることができた。それは感謝してる。でも、でもね」
顔を俯かせる屠自古の声は、ほんの僅かに湿っぽさを帯びていく。
「あの女がいなければ、私は太子さまの妻として生きて、死んで。千四百年も置いて行かれることはなかったかもしれない」
千四百年。亡霊となった彼女が、神子の復活を待っていた時間がそれだ。あまりに長い孤独は、彼女の心に大きな爪痕を残している。眠りにつくこと自体が神子の意思だったとはいえ、亡霊としての予期せぬ復活が布都の責任だったとはいえ、その大元の元凶たる青娥に、屠自古はどうあっても歩み寄ることはできないだろうと思っている。
「それだけじゃない。千四百年間、一度も霊廟に顔を見せなかったくせに、復活してから、前にもまして太子さまにちょっかいをかけるようになった。やっと、やっとまた会えたのに……神子に粉をかけるような真似をするなんて、私は……どうしても、許せない」
握りしめられた右手の表面を、かすかな雷が這い回った。神子、と呼んでしまったことにも気づかぬほど、屠自古は取り乱していた。
この亡霊少女は、柄にもなく嫉妬心が強い。ただでさえ、神子との千四百年分の欠落を取り戻そうとしているのだ。そこに邪魔を入れられては、もはや平常心ではいられない。
絞り出すように吐露する屠自古の姿を、芳香はすまなさそうに見つめていた。
十数秒の空白が開く。屠自古は大きく息を吐き、仙術炉を止めた。
「……まあ、アンタにこんなこと言ってもしょうがないのはわかってるんだけどね」
いつもの表情を取り戻した屠自古は急須にお湯を注ぎ、慣れた手つきで緑茶を淹れる。
「青娥さまをきらいにならないでほしいぞ!」
その屠自古の背後から、芳香の大声が響く。
今度は驚きから、屠自古の動きが止まった。急須を置いて振り返った彼女の眼に、キョンシーの姿が映り込んだ。
「青娥さまがわるいことしちゃったなら、私がかわりにあやまる。それに、青娥さまは太子さまも布都も、屠自古も好きだって言ってたぞ! だから、きらいになっちゃいやだぞ!」
芳香の言葉はまっすぐで、まっすぐで、まっすぐだった。
心臓の鼓動音が、台所を支配するほど膨れ上がった。そんな錯覚を屠自古は覚えていた。
彼女は亡霊、心臓などありはしない。しかし、裏表のない芳香の懇願は、屠自古の心を打ち鳴らすに十分すぎる威力を秘めていたのだ。
芳香はわずかに目を潤ませ、じっと屠自古を見つめている。普段の呑気な姿からは似ても似つかぬ真剣さだ。それを見て、屠自古の中に小さな親近感が生まれ落ちた。
――彼女と自分は、似た者同士なのかもしれない。
自分は神子、芳香は青娥。それぞれ、大切な人のことを最優先にしている。ただ、それだけなのだ。
静寂の中、やがて屠自古が小さく息を吐いた。くるりと後ろを向き、再び急須を手に取る。
「約束はできないけど、心がけてみるわ」
ぶっきらぼうな返事だったが、芳香にしてみれば十分すぎる内容だった。これでもかとばかり破顔した芳香は、嬉しさを抑えきれないのか、楽しそうに両手を上下に振っている。
「ありがとーな、屠自古。じゃあ、青娥さまが帰ってきたら、お茶いれてくれるかー?」
「それはダメ」
即答だった。途端にしょぼくれてしまう芳香を無視して、屠自古は緑茶の入った湯のみとかりんとうの入った皿を盆に載せる。
「私じゃなくて、アンタがねぎらってあげなさい。その方が青娥も喜ぶでしょ」
しかし、続く言葉を聞いて、芳香の表情に大輪の花が咲いた。
「そーだ、そーだぞ! ナイスアイディアだー! やっぱり屠自古、いいやつだなー」
小刻みにその場で跳ねる姿を尻目に、屠自古は居間への仕切り扉を開ける。
「アンタの方がいいやつよ、きっと」
そう言い残して、屠自古は居間へと戻って行った。閉じられた仕切り扉の向こうからは、神子と屠自古が談笑する声が聞こえてくる。
台所に残された芳香は一人、青娥をねぎらってやれという提案に目を爛々と輝かせている。彼女の全身に、いつにないほどのやる気が満ち溢れていた。
◇◆◇◆◇◆
自室――正確には青娥の部屋に戻ってきた芳香は、うんうんと唸りながら知恵を絞っていた。
屠自古の提案に目を輝かせたまではよかったが、よく考えたら、自分はお茶の淹れ方など知らなかった。屠自古がやっていた手順はおおよそ覚えているが、芳香には仙術炉など扱えないし、ほとんど曲がらないこの腕では細かい作業などできそうにない。どうすれば青娥を『ねぎらう』ことができるのか、芳香はさらに考える。
(青娥さまが帰ってくるまでに思いつかないとなー)
現在、芳香の主人たる霍青娥は幻想郷へ仙術の材料を確保しに出かけている。タイムリミットは、彼女が帰ってくるまでだ。
その間に、と思って青娥の蔵書をあさってみたが、やはりというべきか、ねぎらう方法やお茶の淹れ方が書かれた本など一冊もない。腐った頭では別の方法も思い浮かばない。あっさりと手詰まりに陥った芳香は、唇をへの字に歪めていた。
(――そうだ! わからなかったら人にきく! 前にお墓であった黒猫が言ってたぞー)
そんな彼女の脳裏に、一筋の光明が差し込んだ。一人で考えてダメなら、誰かの助けを借りればよいのだ。
芳香はさらに頭をフル回転させる。
屠自古には断られたが、神子や布都にはまだ頼める。しかし、屠自古が芳香の頼みを断った理由が理由だけに、もしこの二人に尋ねたら、屠自古はまたいやな思いをするかもしれない。となると、外へ行って聞くしかない。
そうと決まれば膳は急いで食え。どたばたと立ち上がると机の上にあった符を一枚掴み、庭へと飛び出す。そのまま符を使って幻想郷への道を開くと、すぐさまその中に消えていってしまった。
(…………んー? なんちがう気がするぞー? ……まーいーか)
結局、芳香は『善は急げ』の間違いに気づくことはできなかった。
◇◆◇◆◇◆
仙界からの道を抜けた芳香は、命蓮寺裏の墓地にやってきていた。別にここを選んだ理由は特にない。ただ、適当に幻想郷への道をつないだらこの近くに出たというだけだ。
(人がいないなー。これじゃきけないぞー……)
しかし不幸なことに、墓場に人影は一つも見当たらなかった。よくこの辺りにいる唐傘も、墓参りの人間も、妖精の一匹すらいない。こうも寒くては、墓参りに来るのも億劫なのだろう。
仕方ないなー、と芳香が踵を返した、その時。
「おやおや、見慣れない顔じゃの」
色づいた枯葉を踏む音とともに、穏やかな声音が辺りに広がった。どこかに誰かいたのか、と不審がりながら、芳香は再び回れ右をする。
「誰じゃな、お主? ここの檀家さん……には見えないのお。お墓参りに来た妖怪かの?」
年よりじみた口調を操る化け狸が、墓石を二つほど隔てた向こうに立っていた。腰には備忘録と思しき手帳を提げ、顔にはノンフレームの丸眼鏡。マフラーとともに、隠す気もない特大の尻尾が、誇らしげに風を受けて揺れていた。
化け狸はひょいひょいと、おどけるような足取りで芳香に近づいてくる。
「お前だれだー?」
「儂か? 儂は二ツ岩マミゾウと言ってな。しがない化け狸じゃよ。お前さんこそ、名前は何と?」
「みやこよしか! 見てのとおり、キョンシーだぞ」
「おお、元気がいいのは何よりじゃ」
大声の名乗りを気に入ったようで、マミゾウは帽子の上から芳香の頭を軽く撫でた。その顔には、娘を相手にする親のような楽しげな笑顔が浮かんでいた。
芳香はくすぐったそうに目を瞑っているものの、暴れるような真似はしなかった。
「なー、マミゾウはお茶のいれかたって知ってるかー?」
唐突な質問に、マミゾウはきょとんと目を丸くする。
「知っておるが、それがどうか――」
「教えてくれー、おねがいだー」
言い終えるより早く、芳香は頭を下げて頼み込んだ。腰がさほど曲がらないので、思い切りうつむく姿勢になってしまっているが、それでも、彼女は精一杯に頭を下げていた。
風を受けて、かすかに枯葉が擦れる音がマミゾウの耳に響く。
再びの唐突な展開に、マミゾウの体が一瞬だけ固まった。だが、すぐにその真剣さを見抜くと、目つきを鋭いものへと変化させた。半歩だけ後ずさり、腕組みをする。
「ずいぶんとまあ真剣なんじゃの。……教えてもいいが、儂にも一つ聞かせてもらおうか」
顔を上げた芳香は、怪訝そうに首を傾げた。マミゾウが何を問おうとしているのか、見当がつかないのだ。
「お主、どうしてそこまで真剣なんじゃ? お茶くらい、誰かに淹れてもらえばいいのではないか?」
マミゾウの疑問は、根本的かつもっともなものだった。彼女にしてみれば、お茶ごときにそこまで必死になる理由が分からない。
「青娥さまをねぎらってあげたいからだぞー!」
しかし、芳香にとって、それはとても大切な要件だった。間髪を入れず、今までで一番の大声を張り上げて質問に答える。マミゾウは「ほぉ」と小さく唸り、感心に目を細めていた。
芳香が言う『青娥』が誰のことかは分からない。それでも、芳香にとって大切な人であろうことは、今の一言で十分すぎるほど伝わった。その人を労う手段として、芳香はマミゾウに教えを乞うているのだ。
「いいやつなんじゃな、お前さん」
マミゾウの口を衝いて出たのは、正直な感想だった。
「そうかー?」
「おお、いいやつじゃとも。誰かを労ってやろうとする者は、人であれ妖怪であれ、悪いやつなどいないからの」
そう言うマミゾウは、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。意図するところを読み取った芳香は、気恥ずかしさから頬を薄紅に染めて、照れ笑いを浮かべていた。
(最近はこの寺に敵対する勢力がいるとかじゃったが、そいつらにこの子の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいところじゃのう)
まさか芳香がその敵対勢力だと思っていないマミゾウは、見知らぬ敵に胸中で小さく説教を吐くと、眼鏡を軽く押し上げた。
「さて、お茶の淹れ方じゃったの。儂も伊達に年季を重ねとるわけじゃないところを見せてやろうか」
「よろしくおねがいします!」
素直に頭を下げる芳香をみて、マミゾウの表情がさらにほころんだ。マミゾウは手帳を手に取り、その上に鉛筆を軽やかに走らせて手順を説明する。芳香は背伸びして、必死に書かれた内容を見ようとしていた。
墓場の片隅で始まった、奇妙な取り合わせのセミナーは、和気あいあいと進んでいく。
◇◆◇◆◇◆
「ただいまー」
霍青娥が仙界の屋敷に戻ってきたのは、日もとっぷり暮れた夜中のことだった。
壁抜けの鑿(のみ)で壁に穴をあけ、そこからふわりと部屋へ入ってくる青娥。両手には籠や袋が携えられ、中には薬草から水銀まで、多種多様の材料が詰め込まれている。
(やっぱり芳香に持ってもらうべきだったかしらねー……よいしょ、っと)
一度に大量の品切れを起こしたため、調達に手間取ってしまい、帰ってくるのが遅くなってしまった。おまけに荷物が重いものだから、ここまで戻るのにも一苦労だったのだ。
(…………あら?)
外からの薄明かりしかない部屋の中で、青娥は一つの人影を見つけた。微動だにせず立ち尽くす姿を見て、青娥は行燈に灯りをともした。
人影は芳香だった。器用なことに、立ったまま寝てしまっている。こっくりこっくりと舟を漕ぐ姿は微笑ましいが、青娥は、芳香が手にした数枚の紙が気になっていた。
「芳香、起きなさいな」
青娥は優しい手つきで芳香を揺らす。十数秒ほどそうしていると、芳香がぱちりと目を覚ました。まだ眠気が取れないのか、目の焦点が合っていない。
「おー……お? せーがさまー……?」
「ええ、そうよ。ただいま」
清楚な微笑みを湛え、青娥は軽く小首を傾げてみせる。
「青娥さまー! お帰りなさいだぞー!」
主人が帰ってきたと分かるや否や、芳香はぱあっと表情を明るくした。先ほどまでの眠気はどこへやら、嬉しくて我慢できないといった風に体を揺らしている。
「ところで、その手に持ってるのは何かしら?」
「んー? 手?」
青娥に言われて気づいたかのように、芳香は寝ながらも離さなかった紙に目をやる。途端、芳香の頭に墓場で受けたセミナーの内容がフラッシュバックした。
「そーだ、そーだったぞー!」
突如両手を上げて気合を入れる芳香を、青娥はきょとんと見つめていた。
「青娥さま、ちょっとまっててくれるかー?」
「え? ええ、別にいいけど」
「よーし! じゃあ、がんばるぞー」
いきなりのことに唖然としている青娥を残し、芳香は元気よく部屋を後にする。
(……何があったのかしら?)
取り残された青娥は、キョンシーが出て行った廊下を眺めながら、首を深く傾げていた。
◇◆◇◆◇◆
「おーまーたーせー」
芳香が戻ってきたのは、それから三十分以上も経ってからのことだった。
「あら、やっと戻って……って、芳香?」
芳香の姿を見るや否や、青娥は驚きに目を見開いた。
上着が全体的に濡れてしまって、袖口の一部が焦げ、湯呑みの乗った盆を持つ手と指は、薄っすらと火傷に近い状態になってしまっている。それ以外に怪我がないのがせめてもの幸いだが、喜ばしいことではない。
「ちょっと、どうしたの? もしかして、お茶を淹れてたの?」
「おー。お茶はむずかしいなー」
駆け寄って濡れた服を拭く青娥に、芳香は満面の笑みを浮かべて誇らしげに言った。
「何でそんなこと……言ってくれたら、私が淹れてあげるのに」
対照的に、青娥は面倒そうに口を尖らせる。
芳香は仙術炉が使えない。おそらく、普通のかまどを使って湯を沸かしたのだろうが、火傷寸前になってまでするようなことではない。ただでさえ、温度を感じられるような改良を施したばかりだというのに、何故こんなことをするのか。
理解に苦しむ青娥は、不満を表出させるかのように、大きくため息をついた。治癒用の仙術が込められた札を手に取り、芳香の火傷を治しにかかる。
「青娥さまをねぎらってあげたかったから」
しかし、その一言で、青娥の胸中にあった不満は一気に吹き飛んでしまった。
「え……?」
芳香の手当てをするのも忘れ、青娥は芳香の言葉を脳裏で何度も反芻する。
「私を、ねぎらう?」
「そーだぞー! 青娥さま、いっつもがんばってるから、おつかれさまです、これをのんでゆっくりしてください」
屠自古に教わった文句をほぼそのまま告げ、芳香はずい、と盆に乗った湯呑みを差し出す。
高濃度の純粋な好意を差し出され、青娥はすぐに湯呑みを手に取ることができなかった。くるりと後ろを向き、目頭を軽く抑えてから、改めて向き直る。
「いい子でかわいいわね、芳香。ありがとうね、いただくわ」
今すぐにでも抱きしめたい衝動を抑え、青娥は火傷の治癒を完遂する。それから湯呑みを手に取り、そっと唇へと持っていく。どこか艶めかしい動作で一口喉に流し入れた途端、深い香りとほどよい渋みが口腔の中を吹き抜ける。
最上級とまではいかないが、屋敷に置いてあった茶葉を使ったとは思えない風味のお茶だった。
「すごい……ちょっと苦味が強いけど、それでも美味しい。芳香、これどうやって淹れたの?」
「墓場でたぬきの妖怪におしえてもらったー。ほら、これー」
芳香は帽子を脱ぐと、その中にしまっていた紙を取り出し、青娥に渡す。マミゾウが作ってくれたレシピには、湯の温度から蒸らしの時間まで、美味しいお茶を淹れる方法が事細かに書かれていた。おまけに、腕が曲がらない芳香でも何とかできるようにと、立ち位置や腕の動かし方に至るまでアドバイスが書きこまれている。
「何回か作るのしっぱいしたけど、なんとかうまくいってよかったぞー」
関節も満足に曲げられない芳香の体では、お茶を淹れる程度のことでも一苦労だ。悪戦苦闘を重ねながら、それでも自分のためにお茶を淹れて労ってくれる芳香の心遣いに、青娥は胸中で熱いものを感じていた。
「我がキョンシーながら、芳香は本当にいい子ね」
とうとう耐え切れなくなった青娥は、ぎゅっと芳香を抱きしめた。右手で抱き寄せ、左手で頭を撫でる。芳香は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうにはにかんだ。
「今日はよくほめられるなー」
「あら、他にも誰かに褒められたの?」
「屠自古とー、それからたぬきの……マミゾウ、だったっけ?」
「さっき言ってた妖怪さんね。いつかお礼に行かなくちゃ」
「そうだなー」
抱きしめつつ、撫でられつつ、二人はとりとめのない話に華を咲かせる。
「その妖怪(ひと)のところにお礼に行く時には、もっと美味しいお茶を淹れられるようになりましょうね」
「おー!」
元気いっぱいに返事する芳香を見て、青娥も幸せそうに表情を緩める。
さっき飲んだお茶は、青娥の今までの人生で、もっとも美味しいお茶だった。体も温まったが、それ以上に、芳香の労いで心が温かくなった。愛情の調味料はとろりと溶けて、心と体を芯まで温めてくれる。
誰よりも大切に思っているキョンシーを腕の中に抱きながら、青娥は日向ぼっこをしているような、優しいまどろみを味わっていた。
◇◆◇◆◇◆
ちなみにその後、台所の後始末に来た青娥があまりの惨状に頭を抱えたのは、誰も知らない別のお話。
主ともども住まわせてもらっている仙界の生活には、不自由がほとんどない。仙界の屋敷は少々静かすぎるきらいがあるが、幻想郷のどこへでも遊びに行けるメリットがその不満を相殺する。
主の手伝いは大変な時もあるが、頑張った時に抱きしめて撫でてもらえることを考えれば、苦労のうちにも入らない。
おまけに、少し前に身体の手入れをしてもらったおかげで、非戦闘時にはある程度の寒暖を感じ取れるようになった。そのせいか分からないが、最近は前にもましてご飯がおいしい。
(なんだか、いいかんじだなー)
こうしてとりとめもなく考えていると、日向ぼっこのような居心地の良さに浸ることができる。主の手伝いがない時にこうして過ごすのが、芳香のお気に入りになりつつあった。だらしなく緩んだ頬が、それを裏付けている。
「ひー、風邪ひいちゃうー」
突如、穏やかな静寂を焦りの声が引き裂いた。声から数秒遅れて、屋敷の庭の空間がぐにょりと歪み、中から少女が飛び出してきた。
「おー、太子さま。ずぶぬれだなー」
全身濡れ鼠で姿を現したのは、屋敷の持ち主でもある豊聡耳神子だった。トレードマークの狐耳のような髪型は濡れてしんなりと垂れ下がり、防寒に着ていった上着からは水滴がしたたり落ちている。
なにかを抱え込むようにして持っているが、芳香の位置からはよく見えなかった。
「たた、ただいまです、芳香。買い出しに行ったら通り雨に当たってしまいましてね。……ふ、ふへっくし!」
可愛らしいくしゃみを残し、神子は猛ダッシュで屋敷の中へと駆けこんだ。
仙界は隔離された空間に作られているので、幻想郷の天気の影響を受けない。逆を言えば、外の天気は行ってみるまでわからないのだ。今回は、そのデメリットが見事に当たってしまったらしい。
ついでに言えば、幻想郷の住人との取り決めで、人里の中では仙界への通路を極力開かないよう言われている。そのせいで仙界に帰ってくるのに時間が掛かり、この有様になってしまったのだ。
いくら尸解仙とはいえ、風邪の脅威からは逃げきれない。さほど体が丈夫でない神子はなおさらだろう。
さらに数秒遅れて、居間と台所の方角が途端に騒がしくなる。
芳香は腰を上げると、ぴょんぴょんと跳ねるようにして、自分も居間へと向かった。
◇◆◇◆◇◆
居間に着いた芳香が最初に目にしたのは、蘇我屠自古から着替えを受け取る神子の姿だった。
「買い出しに行ってくれるのはありがたいけど、無理して帰らずに、雨宿りでもしてくればよかったのに」
「早く帰りたかったんですよ。それにほら、頼まれた野菜はちゃんと死守しましたよ!」
「野菜より神子の方が大事! ほら、さっさと着替えてくる! お茶淹れておくから」
手にしたタオルで神子の髪をわしわしと拭きながら、屠自古はきつい物言いで――しかし優しい言葉で着替えを促す。
「はーい」
どこか嬉しそうに返答し、神子は小走りで自室の方へと駆けていく。屠自古の目は、無意識のうちに彼女の背中を追いかけていた。
「なー、屠自古」
「にゃわ!?」
突然声を掛けられ、屠自古が思わず素っ頓狂な悲鳴をあげた。神子が出て行った方とは逆の位置にいたため、神子も屠自古も、芳香の存在に気づいていなかったのだ。
屠自古は、ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちない動作で振り返る。芳香の目に、ひきつった表情を浮かべる亡霊が映り込んだ。
「お茶にするのか? まだ三時じゃないぞ? それとも、太子さまはのどかわいてるのか?」
「へっ? あ、ああ、お茶ね」
赤面しているのを指摘されずに済み、屠自古は盛大に胸を撫で下ろす。息を整えて口を開こうとした途端、芳香の背後から狩衣姿の小柄な少女が、ものすごい勢いで居間に突っ込んできた。
「今日はおやつの時間が早まったのだな!? そうなのだなそうであろうそうに決まっておる! さあ屠自古、今日こそ里で人気の『ぷりん』とやらを食べモノノベッ!?」
一気呵成という言葉すら生温いほどにまくしたてる物部布都の脳天に、雷を纏った屠自古の拳が直撃した。布都の体がゆっくりと後方に倒れていき、畳の上に倒れ込む。喜色満面のまま気絶したその様に、屠自古は大きく嘆息せざるを得なかった。
「アンタ、さっきまで霊廟で瞑想してたんじゃなかった? まったく、おやつに関してだけは超絶地獄耳なんだから」
春先の神霊異変ののち、神子たち豪族一家は仙界に移り住んだ。その時にこの屋敷を作るとともに、隣に件の霊廟を持ってきているのだ。
今では神子と布都がたまに修行で使う程度なのだが、屋敷から霊廟までは最短距離でも三十間近く(約五十メートル)はある。どれだけの執念をプリンに費やしていれば、これだけの地獄耳になれるのだろうか。
「おー、いちげきだー。で、お茶はどーいうことなんだー?」
「あー、はいはい。ちょっと待って」
乱れた髪をかきあげて整え、屠自古は隣の部屋――台所へ足を伸ばす。やかんに水を入れて、神子特製の小型仙術炉で加熱を始める。
そうしてから、彼女はようやく芳香に向き直った。
「太子さま、雨で濡れてたでしょ? 風邪とかひくといけないから、体を温めるためにお茶を用意するのよ。あとは、ねぎらいの意味も込めてね」
「ねぎらい? ってなんだ? ネギ料理でも作るのか?」
聞きなれない単語に、芳香は小首を傾げた。食い気しかないその考えに、屠自古はくすりと笑い声を漏らした。
「つまり、お疲れ様でした、頑張ってくれてありがとうございます、っていう気持ちを込めることね。雨に降られてまで買い出しに行ってくれてありがとうございました、お茶を飲んで温まって、ゆっくりのんびりしてくださいね、って」
説明する屠自古は頬を緩め、誰かを慈しむように目を細めている。きっと今の彼女の脳裏は、神子がどういう反応をしてくれるのか、それ一色に染まっているのだろう。
芳香以外の誰かなら、屠自古の考えなどた易く見抜いている。だが、芳香にそれを看破できるだけの鋭利な思考はない。新しく触れる言葉の意味に、目をまるくして感心していた。
「そうかー。屠自古はもの知りだなー」
「これくらい、アンタのご主人様だって知ってるわよ」
おそらく、何の気なしに口にされた屠自古の返答。しかし、芳香はそれを聞いて、ある疑問を抱いてしまった。
「でも屠自古、あんまり青娥さまにはお茶とかだしてくれないな。なんでだ?」
棚から茶葉を取り出そうとしていた屠自古の動きが止まる。静まり返った台所の中で、芳香はじっと、屠自古をまっすぐに見つめていた。
小さな小さなため息が静寂を破る。茶葉を急須に入れながら、屠自古は口を開いた。
「そうね。確かに、青娥をねぎらったことなんてほとんどない」
「どうしてだー? 青娥さまだって頑張ってるんだぞ?」
その場で跳ねながら、芳香は理由を問いただす。
「どうしてもね、あの女は好きになれないの」
屠自古の視線は、やかんの下で動く小型仙術炉に注がれていた。
「確かに、青娥のおかげで太子さまは尸解仙に、そして聖人になることができた。それは感謝してる。でも、でもね」
顔を俯かせる屠自古の声は、ほんの僅かに湿っぽさを帯びていく。
「あの女がいなければ、私は太子さまの妻として生きて、死んで。千四百年も置いて行かれることはなかったかもしれない」
千四百年。亡霊となった彼女が、神子の復活を待っていた時間がそれだ。あまりに長い孤独は、彼女の心に大きな爪痕を残している。眠りにつくこと自体が神子の意思だったとはいえ、亡霊としての予期せぬ復活が布都の責任だったとはいえ、その大元の元凶たる青娥に、屠自古はどうあっても歩み寄ることはできないだろうと思っている。
「それだけじゃない。千四百年間、一度も霊廟に顔を見せなかったくせに、復活してから、前にもまして太子さまにちょっかいをかけるようになった。やっと、やっとまた会えたのに……神子に粉をかけるような真似をするなんて、私は……どうしても、許せない」
握りしめられた右手の表面を、かすかな雷が這い回った。神子、と呼んでしまったことにも気づかぬほど、屠自古は取り乱していた。
この亡霊少女は、柄にもなく嫉妬心が強い。ただでさえ、神子との千四百年分の欠落を取り戻そうとしているのだ。そこに邪魔を入れられては、もはや平常心ではいられない。
絞り出すように吐露する屠自古の姿を、芳香はすまなさそうに見つめていた。
十数秒の空白が開く。屠自古は大きく息を吐き、仙術炉を止めた。
「……まあ、アンタにこんなこと言ってもしょうがないのはわかってるんだけどね」
いつもの表情を取り戻した屠自古は急須にお湯を注ぎ、慣れた手つきで緑茶を淹れる。
「青娥さまをきらいにならないでほしいぞ!」
その屠自古の背後から、芳香の大声が響く。
今度は驚きから、屠自古の動きが止まった。急須を置いて振り返った彼女の眼に、キョンシーの姿が映り込んだ。
「青娥さまがわるいことしちゃったなら、私がかわりにあやまる。それに、青娥さまは太子さまも布都も、屠自古も好きだって言ってたぞ! だから、きらいになっちゃいやだぞ!」
芳香の言葉はまっすぐで、まっすぐで、まっすぐだった。
心臓の鼓動音が、台所を支配するほど膨れ上がった。そんな錯覚を屠自古は覚えていた。
彼女は亡霊、心臓などありはしない。しかし、裏表のない芳香の懇願は、屠自古の心を打ち鳴らすに十分すぎる威力を秘めていたのだ。
芳香はわずかに目を潤ませ、じっと屠自古を見つめている。普段の呑気な姿からは似ても似つかぬ真剣さだ。それを見て、屠自古の中に小さな親近感が生まれ落ちた。
――彼女と自分は、似た者同士なのかもしれない。
自分は神子、芳香は青娥。それぞれ、大切な人のことを最優先にしている。ただ、それだけなのだ。
静寂の中、やがて屠自古が小さく息を吐いた。くるりと後ろを向き、再び急須を手に取る。
「約束はできないけど、心がけてみるわ」
ぶっきらぼうな返事だったが、芳香にしてみれば十分すぎる内容だった。これでもかとばかり破顔した芳香は、嬉しさを抑えきれないのか、楽しそうに両手を上下に振っている。
「ありがとーな、屠自古。じゃあ、青娥さまが帰ってきたら、お茶いれてくれるかー?」
「それはダメ」
即答だった。途端にしょぼくれてしまう芳香を無視して、屠自古は緑茶の入った湯のみとかりんとうの入った皿を盆に載せる。
「私じゃなくて、アンタがねぎらってあげなさい。その方が青娥も喜ぶでしょ」
しかし、続く言葉を聞いて、芳香の表情に大輪の花が咲いた。
「そーだ、そーだぞ! ナイスアイディアだー! やっぱり屠自古、いいやつだなー」
小刻みにその場で跳ねる姿を尻目に、屠自古は居間への仕切り扉を開ける。
「アンタの方がいいやつよ、きっと」
そう言い残して、屠自古は居間へと戻って行った。閉じられた仕切り扉の向こうからは、神子と屠自古が談笑する声が聞こえてくる。
台所に残された芳香は一人、青娥をねぎらってやれという提案に目を爛々と輝かせている。彼女の全身に、いつにないほどのやる気が満ち溢れていた。
◇◆◇◆◇◆
自室――正確には青娥の部屋に戻ってきた芳香は、うんうんと唸りながら知恵を絞っていた。
屠自古の提案に目を輝かせたまではよかったが、よく考えたら、自分はお茶の淹れ方など知らなかった。屠自古がやっていた手順はおおよそ覚えているが、芳香には仙術炉など扱えないし、ほとんど曲がらないこの腕では細かい作業などできそうにない。どうすれば青娥を『ねぎらう』ことができるのか、芳香はさらに考える。
(青娥さまが帰ってくるまでに思いつかないとなー)
現在、芳香の主人たる霍青娥は幻想郷へ仙術の材料を確保しに出かけている。タイムリミットは、彼女が帰ってくるまでだ。
その間に、と思って青娥の蔵書をあさってみたが、やはりというべきか、ねぎらう方法やお茶の淹れ方が書かれた本など一冊もない。腐った頭では別の方法も思い浮かばない。あっさりと手詰まりに陥った芳香は、唇をへの字に歪めていた。
(――そうだ! わからなかったら人にきく! 前にお墓であった黒猫が言ってたぞー)
そんな彼女の脳裏に、一筋の光明が差し込んだ。一人で考えてダメなら、誰かの助けを借りればよいのだ。
芳香はさらに頭をフル回転させる。
屠自古には断られたが、神子や布都にはまだ頼める。しかし、屠自古が芳香の頼みを断った理由が理由だけに、もしこの二人に尋ねたら、屠自古はまたいやな思いをするかもしれない。となると、外へ行って聞くしかない。
そうと決まれば膳は急いで食え。どたばたと立ち上がると机の上にあった符を一枚掴み、庭へと飛び出す。そのまま符を使って幻想郷への道を開くと、すぐさまその中に消えていってしまった。
(…………んー? なんちがう気がするぞー? ……まーいーか)
結局、芳香は『善は急げ』の間違いに気づくことはできなかった。
◇◆◇◆◇◆
仙界からの道を抜けた芳香は、命蓮寺裏の墓地にやってきていた。別にここを選んだ理由は特にない。ただ、適当に幻想郷への道をつないだらこの近くに出たというだけだ。
(人がいないなー。これじゃきけないぞー……)
しかし不幸なことに、墓場に人影は一つも見当たらなかった。よくこの辺りにいる唐傘も、墓参りの人間も、妖精の一匹すらいない。こうも寒くては、墓参りに来るのも億劫なのだろう。
仕方ないなー、と芳香が踵を返した、その時。
「おやおや、見慣れない顔じゃの」
色づいた枯葉を踏む音とともに、穏やかな声音が辺りに広がった。どこかに誰かいたのか、と不審がりながら、芳香は再び回れ右をする。
「誰じゃな、お主? ここの檀家さん……には見えないのお。お墓参りに来た妖怪かの?」
年よりじみた口調を操る化け狸が、墓石を二つほど隔てた向こうに立っていた。腰には備忘録と思しき手帳を提げ、顔にはノンフレームの丸眼鏡。マフラーとともに、隠す気もない特大の尻尾が、誇らしげに風を受けて揺れていた。
化け狸はひょいひょいと、おどけるような足取りで芳香に近づいてくる。
「お前だれだー?」
「儂か? 儂は二ツ岩マミゾウと言ってな。しがない化け狸じゃよ。お前さんこそ、名前は何と?」
「みやこよしか! 見てのとおり、キョンシーだぞ」
「おお、元気がいいのは何よりじゃ」
大声の名乗りを気に入ったようで、マミゾウは帽子の上から芳香の頭を軽く撫でた。その顔には、娘を相手にする親のような楽しげな笑顔が浮かんでいた。
芳香はくすぐったそうに目を瞑っているものの、暴れるような真似はしなかった。
「なー、マミゾウはお茶のいれかたって知ってるかー?」
唐突な質問に、マミゾウはきょとんと目を丸くする。
「知っておるが、それがどうか――」
「教えてくれー、おねがいだー」
言い終えるより早く、芳香は頭を下げて頼み込んだ。腰がさほど曲がらないので、思い切りうつむく姿勢になってしまっているが、それでも、彼女は精一杯に頭を下げていた。
風を受けて、かすかに枯葉が擦れる音がマミゾウの耳に響く。
再びの唐突な展開に、マミゾウの体が一瞬だけ固まった。だが、すぐにその真剣さを見抜くと、目つきを鋭いものへと変化させた。半歩だけ後ずさり、腕組みをする。
「ずいぶんとまあ真剣なんじゃの。……教えてもいいが、儂にも一つ聞かせてもらおうか」
顔を上げた芳香は、怪訝そうに首を傾げた。マミゾウが何を問おうとしているのか、見当がつかないのだ。
「お主、どうしてそこまで真剣なんじゃ? お茶くらい、誰かに淹れてもらえばいいのではないか?」
マミゾウの疑問は、根本的かつもっともなものだった。彼女にしてみれば、お茶ごときにそこまで必死になる理由が分からない。
「青娥さまをねぎらってあげたいからだぞー!」
しかし、芳香にとって、それはとても大切な要件だった。間髪を入れず、今までで一番の大声を張り上げて質問に答える。マミゾウは「ほぉ」と小さく唸り、感心に目を細めていた。
芳香が言う『青娥』が誰のことかは分からない。それでも、芳香にとって大切な人であろうことは、今の一言で十分すぎるほど伝わった。その人を労う手段として、芳香はマミゾウに教えを乞うているのだ。
「いいやつなんじゃな、お前さん」
マミゾウの口を衝いて出たのは、正直な感想だった。
「そうかー?」
「おお、いいやつじゃとも。誰かを労ってやろうとする者は、人であれ妖怪であれ、悪いやつなどいないからの」
そう言うマミゾウは、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。意図するところを読み取った芳香は、気恥ずかしさから頬を薄紅に染めて、照れ笑いを浮かべていた。
(最近はこの寺に敵対する勢力がいるとかじゃったが、そいつらにこの子の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいところじゃのう)
まさか芳香がその敵対勢力だと思っていないマミゾウは、見知らぬ敵に胸中で小さく説教を吐くと、眼鏡を軽く押し上げた。
「さて、お茶の淹れ方じゃったの。儂も伊達に年季を重ねとるわけじゃないところを見せてやろうか」
「よろしくおねがいします!」
素直に頭を下げる芳香をみて、マミゾウの表情がさらにほころんだ。マミゾウは手帳を手に取り、その上に鉛筆を軽やかに走らせて手順を説明する。芳香は背伸びして、必死に書かれた内容を見ようとしていた。
墓場の片隅で始まった、奇妙な取り合わせのセミナーは、和気あいあいと進んでいく。
◇◆◇◆◇◆
「ただいまー」
霍青娥が仙界の屋敷に戻ってきたのは、日もとっぷり暮れた夜中のことだった。
壁抜けの鑿(のみ)で壁に穴をあけ、そこからふわりと部屋へ入ってくる青娥。両手には籠や袋が携えられ、中には薬草から水銀まで、多種多様の材料が詰め込まれている。
(やっぱり芳香に持ってもらうべきだったかしらねー……よいしょ、っと)
一度に大量の品切れを起こしたため、調達に手間取ってしまい、帰ってくるのが遅くなってしまった。おまけに荷物が重いものだから、ここまで戻るのにも一苦労だったのだ。
(…………あら?)
外からの薄明かりしかない部屋の中で、青娥は一つの人影を見つけた。微動だにせず立ち尽くす姿を見て、青娥は行燈に灯りをともした。
人影は芳香だった。器用なことに、立ったまま寝てしまっている。こっくりこっくりと舟を漕ぐ姿は微笑ましいが、青娥は、芳香が手にした数枚の紙が気になっていた。
「芳香、起きなさいな」
青娥は優しい手つきで芳香を揺らす。十数秒ほどそうしていると、芳香がぱちりと目を覚ました。まだ眠気が取れないのか、目の焦点が合っていない。
「おー……お? せーがさまー……?」
「ええ、そうよ。ただいま」
清楚な微笑みを湛え、青娥は軽く小首を傾げてみせる。
「青娥さまー! お帰りなさいだぞー!」
主人が帰ってきたと分かるや否や、芳香はぱあっと表情を明るくした。先ほどまでの眠気はどこへやら、嬉しくて我慢できないといった風に体を揺らしている。
「ところで、その手に持ってるのは何かしら?」
「んー? 手?」
青娥に言われて気づいたかのように、芳香は寝ながらも離さなかった紙に目をやる。途端、芳香の頭に墓場で受けたセミナーの内容がフラッシュバックした。
「そーだ、そーだったぞー!」
突如両手を上げて気合を入れる芳香を、青娥はきょとんと見つめていた。
「青娥さま、ちょっとまっててくれるかー?」
「え? ええ、別にいいけど」
「よーし! じゃあ、がんばるぞー」
いきなりのことに唖然としている青娥を残し、芳香は元気よく部屋を後にする。
(……何があったのかしら?)
取り残された青娥は、キョンシーが出て行った廊下を眺めながら、首を深く傾げていた。
◇◆◇◆◇◆
「おーまーたーせー」
芳香が戻ってきたのは、それから三十分以上も経ってからのことだった。
「あら、やっと戻って……って、芳香?」
芳香の姿を見るや否や、青娥は驚きに目を見開いた。
上着が全体的に濡れてしまって、袖口の一部が焦げ、湯呑みの乗った盆を持つ手と指は、薄っすらと火傷に近い状態になってしまっている。それ以外に怪我がないのがせめてもの幸いだが、喜ばしいことではない。
「ちょっと、どうしたの? もしかして、お茶を淹れてたの?」
「おー。お茶はむずかしいなー」
駆け寄って濡れた服を拭く青娥に、芳香は満面の笑みを浮かべて誇らしげに言った。
「何でそんなこと……言ってくれたら、私が淹れてあげるのに」
対照的に、青娥は面倒そうに口を尖らせる。
芳香は仙術炉が使えない。おそらく、普通のかまどを使って湯を沸かしたのだろうが、火傷寸前になってまでするようなことではない。ただでさえ、温度を感じられるような改良を施したばかりだというのに、何故こんなことをするのか。
理解に苦しむ青娥は、不満を表出させるかのように、大きくため息をついた。治癒用の仙術が込められた札を手に取り、芳香の火傷を治しにかかる。
「青娥さまをねぎらってあげたかったから」
しかし、その一言で、青娥の胸中にあった不満は一気に吹き飛んでしまった。
「え……?」
芳香の手当てをするのも忘れ、青娥は芳香の言葉を脳裏で何度も反芻する。
「私を、ねぎらう?」
「そーだぞー! 青娥さま、いっつもがんばってるから、おつかれさまです、これをのんでゆっくりしてください」
屠自古に教わった文句をほぼそのまま告げ、芳香はずい、と盆に乗った湯呑みを差し出す。
高濃度の純粋な好意を差し出され、青娥はすぐに湯呑みを手に取ることができなかった。くるりと後ろを向き、目頭を軽く抑えてから、改めて向き直る。
「いい子でかわいいわね、芳香。ありがとうね、いただくわ」
今すぐにでも抱きしめたい衝動を抑え、青娥は火傷の治癒を完遂する。それから湯呑みを手に取り、そっと唇へと持っていく。どこか艶めかしい動作で一口喉に流し入れた途端、深い香りとほどよい渋みが口腔の中を吹き抜ける。
最上級とまではいかないが、屋敷に置いてあった茶葉を使ったとは思えない風味のお茶だった。
「すごい……ちょっと苦味が強いけど、それでも美味しい。芳香、これどうやって淹れたの?」
「墓場でたぬきの妖怪におしえてもらったー。ほら、これー」
芳香は帽子を脱ぐと、その中にしまっていた紙を取り出し、青娥に渡す。マミゾウが作ってくれたレシピには、湯の温度から蒸らしの時間まで、美味しいお茶を淹れる方法が事細かに書かれていた。おまけに、腕が曲がらない芳香でも何とかできるようにと、立ち位置や腕の動かし方に至るまでアドバイスが書きこまれている。
「何回か作るのしっぱいしたけど、なんとかうまくいってよかったぞー」
関節も満足に曲げられない芳香の体では、お茶を淹れる程度のことでも一苦労だ。悪戦苦闘を重ねながら、それでも自分のためにお茶を淹れて労ってくれる芳香の心遣いに、青娥は胸中で熱いものを感じていた。
「我がキョンシーながら、芳香は本当にいい子ね」
とうとう耐え切れなくなった青娥は、ぎゅっと芳香を抱きしめた。右手で抱き寄せ、左手で頭を撫でる。芳香は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうにはにかんだ。
「今日はよくほめられるなー」
「あら、他にも誰かに褒められたの?」
「屠自古とー、それからたぬきの……マミゾウ、だったっけ?」
「さっき言ってた妖怪さんね。いつかお礼に行かなくちゃ」
「そうだなー」
抱きしめつつ、撫でられつつ、二人はとりとめのない話に華を咲かせる。
「その妖怪(ひと)のところにお礼に行く時には、もっと美味しいお茶を淹れられるようになりましょうね」
「おー!」
元気いっぱいに返事する芳香を見て、青娥も幸せそうに表情を緩める。
さっき飲んだお茶は、青娥の今までの人生で、もっとも美味しいお茶だった。体も温まったが、それ以上に、芳香の労いで心が温かくなった。愛情の調味料はとろりと溶けて、心と体を芯まで温めてくれる。
誰よりも大切に思っているキョンシーを腕の中に抱きながら、青娥は日向ぼっこをしているような、優しいまどろみを味わっていた。
◇◆◇◆◇◆
ちなみにその後、台所の後始末に来た青娥があまりの惨状に頭を抱えたのは、誰も知らない別のお話。
布都、「モノノベッ!?」てw
するっと読めて、面白い。いいssでした。
芳香がわだかまりの架け橋になりって感じでほっこりしますね
マミゾウ親分が良い仕事したなぁ
どっかのペットショップに売ってないか
太子様と屠自古の絡みも良かったです。