Coolier - 新生・東方創想話

悪魔と犬に紅茶を添えて

2012/11/05 21:03:04
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 レミリアはある日、屋敷の中で犬を拾った。
 
 己が所有する屋敷の中で拾うというニュアンスが正しいのかは甚だ疑問ではあるが、間違いなく、レミリアは犬を拾ったのである。
 しかし犬側の態度から判断すれば、飼われるつもりなどあるとは考え難かった。
 ただ迷い込んだだけかも知れない。
 もしかすると、レミリアを日々の糧にするつもりだったのかも知れない。
 尖った躾をされているようで、レミリアの前に姿を見せた後も決して怯むことはなく。その様子から判断しても、かなり経験を積んだ猟犬という部類であることも推測された。
 けれどその姿を見た途端、レミリアの瞳が爛々と輝き始め。

「欲しいな」

 と、言い出した。負けん気の強そうな鋭い瞳と、他の犬にない銀色に近い白い髪が、レミリアの興味をそそったのだ。性格が悪そうだからやめなさいという親友の助言も何処吹く風。
 主に噛みつきそうな犬だと門番が進言しても、レミリアは玉座で楽しそうに笑う。

「それがいいんじゃないか」と。

 そんなレミリア見て呆れたままの親友のパチュリーは、躾はちゃんとするのよ。と最後まで釘を刺した。
 だから、レミリアは。
 パチュリーと門番が見ている前で、徹底的に躾を施すことにする。

「伏せ」

 お手や、お座りではない。
 それじゃ犬に大切なことがあまり、身に付かない。

「伏せ」

 犬に必要なのは、忠誠心。
 そして、何にも替えられない服従心。

「伏せ」

 だからレミリアは、その犬に命令し続ける。
 立ち上がって、噛みつこうとしても。
 ナイフという爪を使って、小さな肢体を切り裂こうとしても。

「伏せ」

 すべて受けきり、犬が呆然とする中で。
 何度も何度も、床に打ち付ける。
 その度に、同じ言葉をぶつけ続けた。

「伏せ」

 そして何度目だろうか。
 髪以外の部分が、紅く染まりつつある中でやっと犬は、伏せた。
 圧倒的な力の差を知り、向かっていくべき相手ではないとやっと理解したようだ。

「パチェ~、犬ってこの後どうすればいいの?
 続けて違う躾する?」
「ああもう、レミィ……」

 見ろ、やればできるではないか。と。
 達成感で満足げに羽を揺らすレミリア。
 ただ、パチュリーの目からしてみれば、それは服従とかそう言った問題ではなく。

「……次の『躾』の前に、小悪魔に治療をさせるわ」

 犬が瀕死になって動きを止めただけにしか見えなかったのは確かだった。




 ◇ ◇ ◇




「次の躾は早くて2ヶ月後よ」

 そのパチュリーの言葉に何度も不満を言い続けたレミリアだったが、犬の生態に詳しいパチュリーが言うのだから仕方ない。レミリアもそれなりに知識はあるが、やはり知識人には遠く及ばないことは認識していたし、親友であり臣下であるパチュリーができることなら、それをやらせることが大切だ。それが主であるレミリアの器量にも繋がるのだから。
 しかし、そんな我慢も今日まで。
 治療中と書かれたプレートが下がっていたドアが、今や誰も拒まない木製のドアに変貌しているところを見ると。そういうことなのだろう。やっとレミリアの出番が来たと言うことだ。

「……さぁて」

 扉を開けたら、また噛みついてくるか。
 ナイフで切り裂いてくるか。
 そんな想像をするだけで、レミリアは心の奥から楽しくなって、ついつい笑みが零れてしまう。

「さあ、犬。おさらいの時間だよ。この前覚えた伏せがちゃんとできるか私に見せてご覧な――」
 
 魔力をその身に宿しながら、扉を開け。
 元気の良い犬の反撃に期待する。
 そんなレミリアであったが……

「おはようございます、レミリアお嬢様」
「……」

 フローリングの上で膝を付き、深々と頭を下げる。
 そんなメイド服姿の犬が部屋の真ん中にいた。
 すっかり大人しくなって見える犬の横には、もちろんパチュリーもいて。

「どう? 私の手際は?
 必要そうな躾は済ませたから、あとはレミリアの自由になさい」

 なんて、自慢げにいってくるものだから。
 レミリアは自分のスカートをぎゅっと握って。

「パチェぇぇぇ……」
「え? 何故そんなに不満そうなの?」

 玩具を奪われた子供のように、レミリアはぷくーっと膨れて見せたのだった。




 ◇ ◇ ◇




「何なりとご命令下さい」
「んーむ」

 パチュリーの話によれば、この犬は自分が捨てられたことを知らずに、元の主の命令を忠実に実行していたらしいとのこと。パチュリーがどこでその情報を仕入れたのかと聞いても、秘密、と人差し指で唇と塞ぐ仕草をして黙ってしまうので、情報元については諦めるとしてだ。とにかく、パチュリーがこの犬に行き場がないことを自覚させたのは事実。そこからどんな話術を使ったかは知らないが、この犬は敗北者として今の状況を受け入れたらしい。
 ただ、もうちょっと反発があるというか。
 吸血鬼の血を滾らせるような再会を期待したレミリアにとって、裏切られた感が残ってしまうのは否めない。あの這い蹲った犬を見た後の、ぞくぞくとしたあの感じ。加虐心による快楽とでもいうのだろうか。それをなんとか味わえないものかと、レミリアは自室のテーブルに付きながら考える。
 斜め後ろには、いままで居なかった犬が立って、命令を待っているだけ。このままでは夕食の時間までこの静かすぎる状況が続きかねない。
 
 ――ん、夕食?

 そこで、レミリアの羽根がぴんっと跳ねて。
 ぱたぱたと元気よく縦に動き始める。

「ねえ? 犬?」
「なんでございましょう」
「もうすぐ、吸血鬼の夕食の時間なの。だから、あなたの初仕事はその夕食作りにしましょう。それが終わったら休んでも良いわ」
「料理を作るだけで、よろしいのですか?」
「ええ、料理を作るだけ。ああ、食材の方は地下倉庫で凍らせてあるから、パチェに言って解凍してもらうといい」
「かしこまりました」

 頭を下げて、立ち去ろうとする。
 その犬を引き留めて、レミリアはこう付け加えた。

「上手に出来たら褒美をあげるわ、でも、もし料理を作れなかったり食べられたものではないものを出した場合、しっかりと躾をしてあげるからそのつもりでね?」

 その言葉を受けて一礼し、部屋を出る。

「料理、か。ふふっ……」

 メイドの服を着た犬の背中を見送りながら、レミリアは悪戯が成功した子供のように楽しそうに笑った。




 ◇ ◇ ◇




「う、お、おぇぇっ」
「あら? 犬? まだ料理の「り」の字もできていないようだけれど? これはどういったことかしら?」
「お、お嬢様っ!」
「あらあら、料理場で粗相をするなんて、いけない駄犬だ。パチェは何を躾ていたのだろうね。まったく、たかが食材を下ごしらえするだけで、何とも情けない」
「しかし、これは! この材料は!」
「ええ、私は吸血鬼なのよ? いったい何の問題がある?」
「っ!? お嬢様、最初からわかって……
 わかった上でこのような……」
「あら、だったらどうする? 私に逆らって、一緒に食材として並んでみる? はっはっは、それも無理な話か、あなたはその食材以下の犬だものね!」
「く、う、うああああああっ!」
「あっはっは、あ~っはっはっはっ! 遅い、遅いわ、犬! ほらほらどうしたのっ!」

 ………………

 …………

 ……と、なる予定だった。
 いや、そこまではいかなくとも、

「で、できません! 私には出来ません!」
「ほら、私が一緒に包丁を握ってあげようじゃないか。これならば、できるだろう?」
「やめて、やめてぇぇぇえええっ!」

 とか。
 そういう風に、こう、吸血鬼的な残虐さによる満足感が得られるはず、と。
 レミリアは考えていた。
 しかし現実はどうだろうか。

「おおぉぉ~~っ!」

 長いテーブルの上座に座るレミリアのすぐ側、右隣に座るフランドールが湯気を立てる料理に目を奪われてしまっている。門番などは、本当にコレを食べて良いのかと観察するように、フランドールとレミリアの様子を伺ってばかりだ。
 冷やした紅茶に、ハンバーグ、そして。食後のデザートらしきカステラとプリン。それが各人の前に置かれ、例外なく妖怪の食欲を刺激し続ける。
 そんな見るからに立派な料理たちを目の前にして、レミリアが言えたことは。

「ぱ、パンがないようだけれど?」

 若干裏返った声で、テーブルの上を指差すくらい。

「いつもパンとか食べないじゃない。小食の癖に」
「う、ぐっ! ぱ、ぱちぇぇ~~っ!」

 しかし、左に座る親友によって一瞬のうちに論破され、レミリアのほんのわずかな抵抗は藻くずと消えた。
 そうなると、期待に胸を膨らませる妹のフランドールをお預けさせればさせるほど、レミリアにとってよろしくない結果が見えるのは明白。
 しかたなく、レミリアは無言のまま、ハンバーグをナイフで切り、手慣れた様子でフォークをぷすり。おもしろくなさそうに口へと放り込んだ。
 それを見て、フランドールと門番も料理に手を付け始める。

 ――まだ、勝負はこれから。

 そうなのだ。
 見た目がどうであれ味がいまいちならば、まだチャンスはある。
 いや、満足のいく味であっても、わざと不味いとか言ってやることはできるはず。そうすれば、あの牙をへし折る快楽を得ることが出来るはずだ。
 あくどいことを考えつつ、含み笑いを零し。もぐもぐと、口を二度、三度、動かし。

「……あ、おいし」

 自然と、言葉が口から出る。
 それに気付いて、ばっ! と、慌てて自分の口元を押さえるレミリアであったが、もう遅い。考え事をしながら咀嚼し、何気なく出た言葉。それは、レミリアの作戦とはまったく別のモノ。
 そう無意識に発してしまうほど、犬の料理は完璧だったのだ。
 もちろん、その言葉を左に座っているパチュリーが聞き逃すはずもなく。

「……素直に認めた方が良いみたいよ?」

 レミリアの様子から、何をしようとしていたのか把握してしまったらしい。さすが親友と言ったところだろうか。
 そんなパチュリーが指で示した先には、おかわりを犬にねだるフランドールの姿と、フォークを口にくわえてとろけた顔をする門番の姿。
 この状況でレミリアだけ不味いとでも言おうものなら非難囂々、雨あられである。
 正確に現状を見せつけられたレミリアは、とうとう諦めて。

「犬、こっちに」

 フランドールにおかわりを出し終えた犬を呼び寄せ、こほん、と咳払いした。

「この犬の料理は、皆の様子からして大変好評で、夜を楽しませるに充分であった。よって何か一つ褒美を与えても良いと思うが、意見はない?」

 その言葉に続くのは賛成の意ばかり、票を確認するまでもない。
 だからこそ、褒美を取らせても問題ない、と。

「さあ、犬、何か欲しいモノは?」

 しかし、実はコレもレミリアなりの罠がある。
 料理が美味しかった。その結果と釣り合わないようなことをこの犬が言えば、当然それは否定され、罰を受けることになる。
 そのぎりぎりのラインで何を犬が要求するか、それもレミリアの一つの楽しみであったのだ。だが――

「それでは、名を名乗る権利をいただければと思います」
「……ほぅ」

 たったそれだけか。
 そう受け取ってしまえば、それで終わりだ。しかし、

「十六夜咲夜、以前私はこのように呼ばれていたと記憶していますので。お嬢様にも咲夜と呼ぶようにしていただければ」
「へえ、吠えるじゃない? 犬の癖に」
「咲夜、とお呼び下さい。お嬢様」

 レミリアは、にぃっと口元を笑みの形に歪ませる。
 パチュリーにレミリア専属メイドに仕立て上げられ、人間の料理方法もしっかり覚え込み、牙すら折られた。
 てっきり、そう思っていたのに。
 この犬は、暗に意思表示した。

『犬と呼ぶな!』

 と、言葉の影で命令したのだ。
 この館の主、レミリア・スカーレットに対して。

「はは、はははははっ!」

 なんだ、折れてはいないじゃないか。
 ただ奧に隠し、飼い主に服従して見せているだけ。
 本質は昔と何も変わっていない、尖った猟犬のまま。

「いいよ、それでいい。お前は今日から、咲夜。
 あなたはあなたのまま、私に仕えなさい。捨てられないよう、せいぜい努力することね」
「はい。けれど、お嬢様の方が私を手放したくなくなるでしょうから、それはありえませんわ」
「……言うじゃない」
「はい、口だけは達者な方でして」
 
 わずかに淀んだ空気の中にあっても、お互い一歩も引こうとしないレミリアと犬。

「はいはい、元気なのはわかったから食事を終わらせてからになさいな」
「わかったわよ……」

 けれど、親友の一言で仕方なく引き下がったレミリアは、文句を言いながらもスプーンでプリンを掬い、口の中に入れて。

「っ!?」

 レミリアはその場で固まり、ふるふると全身を震えさせ始めた。
 まさか、そのプリンの一口で。
 ちょっぴり犬を手放すということが惜しく感じたなどと、言えるはずもなく。

 プリンからもたらされた感動に震えるだけであった。




 ◇ ◇ ◇





「美味しくない」

 その一言がこのどうしようもなく、つまらず、たわいもなく、そして、ありきたりな。
 無駄で、無意味で、陳腐で、月並みな、子供の争いの始まりだったことは、レミリアも覚えている。
 料理での失態を引きずってすぐのことだったため、レミリアもかなり強情だったと自負するくらいだ。
 食後に新たに出された暖かい紅茶、一般人なら満点を付けても良いほどの味とは別に、香りにわずかな違和感を覚えたレミリアはほくそ笑んだ。
 吸血鬼の敏感な感性でのみ知り得る、繊細な情報に違いなく。人間では種族として到達出来ない部分。
 しかし、レミリアはそれを穴と決めつけ、一口だけ飲んで。

「明日からはもう少しマシなモノを準備しなさい」

 残りを全て残すという追い打ちを掛けながら、食事の席を後にした。
 そのときの犬の顔をちらりと振り返って見たレミリアは、声を出して笑うのを必死で押さえた。
 眉がわずかにつり上がり目も幾分か細くなっている。そして、必死で無表情を維持しようとする口元とは裏腹に、手の先が小刻みに震えていた。
 料理と同様によほど自信があったに違いない。それをあっさりと打ち破られた。そしてレミリアに向けられる微かな敵意と、負け犬が勝利者の背中を悔しそうに眺めながら、低いうなりをあげるような感覚。

「……ふふ、これよ。これなのよ!」

 それこそが、この犬とのやり取りで得たかったモノだ。
 それを得ることが出来たレミリアは明け方、ぐっすりと気持ちの良い眠りについて。





「おはようございます、お嬢様」

 何か生暖かい風が当たると思って目を開いたら。
 白の混ざった銀髪の髪を持つ少女が、無表情な顔を近づけていた。鼻と鼻がくっつきそうなほど、近くで。
 昨日は棺ではなくベッドで寝たんだったと、寝ぼけた頭で再認識しながら、刺々しい区長で言葉を返す。

「おい、犬」
「咲夜です。もうお忘れになるとは、どうしようもなく物覚えが悪くいらっしゃいますね。それともまだおねむでいらっしゃいますか? まあ、子供のようですから仕方ないかも知れませんが、このような方が主だと従者の心労は大変なモノなのでしょうね? とりあえずホットミルクでも準備いたしましょうか? レミリアお嬢ちゃま?」

 たった一言犬と言っただけで、倍以上の言葉が雪崩のように返ってきた。棘があるどころかその先に猛毒が塗られているレベルである。
 もう一度犬と呼んでやろうかという反骨心がむくむくと浮かんでくるが、余計に事態を悪化させる恐れがあったのでレミリアはその怒りをぐっと胸に抑え込んだ。

「……おい、咲夜」
「なんでしょう、お嬢様」
「……私の体内時計が狂っていなければ、まだ日が落ちていない頃だとおもうのだけれど?」
「なにをおっしゃいますお嬢様。冬は4時頃暗くなりますよ」
「今、季節は?」
「夏を過ぎた頃かと」
「……おい、咲夜」
「なんでしょうお嬢様」
「二度と言わないから良く聞きなさい。私は、日が昇る日中に活動するつもりなんてないから、教会の連中が攻めてきたとか、他の吸血鬼がやってきたとか。そういうときは別だけれど」
「そうですか、それは存じ上げませんでした」
「ええ、そうでしょうね。今回だけは許してあげるからさっさと部屋を出て……」
「では、紅茶をこちらに置いておきますので。召し上がって下さいね」
「……おい、咲夜。だから私は今寝るって」
「おやすみなさいませ」
「だから寝るって言って、こぉぅら! 咲夜! ああもう、どうすんのよこれ」

 ネグリジェスタイルのまま、ベッドの上で座り込み、眠気と戦いを繰り広げた後で、テーブルの上に置かれた紅茶の所へとぱたぱた飛んでいき。
 座ることなく、面倒くさそうに空中で一口。
 
「っ!?」

 そして、一口飲んだ直後。
 きょろきょろと周囲を伺い、背筋を伸ばして椅子に座った。そうやって居住まいを正してから、また一口、カップを運ぶ。

「……あいつ、本当に人間かしら?」

 レミリアが何処が悪いと指摘しなかったというのに、犬はレミリアが気になっていた香りの部分を修正して紅茶を作ってみせたのだ。
 しかもそれを自慢げに見せるのではなく、『これくらいならいつでも作れる』と言わんばかりに置き捨てていった。従者が主に対する行動としては失礼極まりない所ではあるのだが、反抗そのものを楽しむレミリアにとってその一般常識は意味がない。
 現に、その反抗を許した結果。

「……お菓子くらい置いていきなさいよ、馬鹿犬め」

 十分満足いく紅茶を手に入れることが出来たのだ。これは成功と言って良い。
 左手が物足りないことを除けば、であるが。
 そして、何気なく三口目を口にしたとき、

「ん?」

 充分に美味しい範疇ではあるのだが、後味のしつこさが若干気になった。そして揺れる紅茶の水面を凝視しながら、くすり、とレミリアは微笑んで。

『まだまだね』

 3分の2ほど残したカップと一緒に、走り書きしたメモをテーブルに置いて、もう一度ベッドの上で横になる。
 そうやって二度寝をレミリアが楽しんで目を覚ました後、テーブルの上にあったカップも、メモの綺麗さっぱり消え去っていて。
 レミリアは、期待を膨らませながら着替え、一日の始まりを祝った。




 ◇ ◇ ◇




 そんなことがどれくらい続いただろうか。

「ねぇ、レミィ?」
「何かしら、パチェ?」
「まだ魔女としてそうそう長く生きていないから、こういうことをはっきり言って良いのかわからないのだけれど」
「思うことがあるのなら伝えるべきだ。それが親友に違いないからね」
「そう、じゃあ遠慮なく」

 図書館の中で談話を楽しんでいたパチュリーは、片方の手の指で髪を遊ばせながらテーブルの上に視線を落とし。

「咲夜が作ったモノ以上の紅茶を出せる生き物って、この世界にいるのかしら?」
「……えっと、悪魔含めて?」
「悪魔含めて」

 レミリアはパチュリーの後ろの小悪魔に視線を向けた
 けれども、小悪魔は困ったように視線を逃がすばかりだ。
 絶対無理、と言わんばかりに。

「さあね、まだ出会ったことはない。父と母の従者でも難しい気がするわ」

 そして、あっさりとレミリアも認める。
 まだ飲んだことがないと。
 それを受け取ったパチュリーは首を斜めに傾け、肩を落とした。

「じゃあ、なんで美味しいの一言を口に出来ないのかしら?」
「あ~、それは……」
「横であなたに併せた反応を取らされる身にもなって欲しいわ」
「いや、しかし、まだその……風味がね?」
「この前はなんだっけ?」
「苦み」
「その前は?」
「甘み」
「その前は?」
「口当たり」
「ちょっとずつしか血が飲めない小食の癖に、グルメぶるから面倒なのよね……」
「あー、あーっ! それは言わない約束じゃない! パチェ!」
「従者もろくに作れないから、館の防御も問題有りだし?」
「ぐぬぬぬ、な、なんならパチェを従者にしても良いんだよっ!」

 牙を見せて脅かしてみるが、パチュリーは冷めた目をしたまま、首から右肩あたりまで服をはだけさせてみて。

「不老不死になれて肉体強化、知識もそのまま束縛なし。その条件で上手に血が吸えるんならどうぞご自由に?」
「で、できるかーっ!!」
「じゃあ駄目ね、残念。とにかく、意地を張るのも大概にしなさいってことよ。咲夜が来てからもう半年になるんでしょう? 半年もこの紅茶を不味いって言わされ続けるのはある意味拷問だわ」
「……わかった。考慮するわ。それでいいんでしょう?」
「ええ、わかったならすぐに実行して」
 
 レミリアは風味が問題だと言っていた紅茶の最後の一口を飲み干し、ため息を付いてから、机の上に置いてあったベルを鳴らす。
 すると、廊下から軽い足音が聞こえてきて。

「お待たせしました、お嬢様。パチュリー様」

 ノックした後で、図書館の中に犬がやってくる。
 そして机の上の様子を一別してから、『お下げします』とつぶやいて食器を片づけ始める。が、そこで少しだけ犬の手が止まった。
 その視線はレミリアが全部飲み干したカップに注がれていて、何かを期待するような顔にも見える。
 加えて、パチュリーにも『早く!』と言った様子で睨まれては、もうレミリアには逃げ場がない。
 仕方なく、こほんっと咳払いを一つだけしてから。

「まあまあ、かしらね?」

 瞬間、くしゃくしゃとパチュリーが丸めたメモ帳が、レミリアの横顔に直撃したのだった。
 二回ほど連続で。




 ◇ ◇ ◇




 吸血鬼が病気になるということをレミリアはみたことがない。
 人間達との縄張り争いで怪我をしたことは何度もあるが、体調不良で動けなくなるということを経験したことはなかった。
 ただし、人間は少しでも無理をするとそういったことになる。
 と、話は聞いていたが、レミリアの側にいるのはあくまでも忠犬であり、猟犬である。あわよくば、主人の至らないところを見つけては噛みつこうとする元気いっぱいの犬なので、屋敷の中を駆け回っているのが普通だと思っていた。
 が――

「へー、犬も病気にかかるのね」
「お嬢様こそご病気のようで私はとても悲しく思います。まさか咲夜という単語を忘れてしまうなどとは……きっと脳に病魔が住み着いてしまったのですね。元からわずかしかない脳が壊死しているのかもしれません」
「心配してくれてありがとう。咲夜も実に元気そうでなによりだ」

 自室のベッドの上でもなお、噛みつくことを忘れない犬に頬を綻ばせて。レミリアはベッドの横の椅子に腰を下ろした。
 熱があるのか、咲夜の顔色はリンゴのように紅い。
 それを興味深そうに観察し、咳を何度か繰り返す度に感嘆の声を漏らす。

「……お嬢様、もしかして、私のような病人を見るのははじめてなのですか?」
「ああ、パチェはいつもそんな感じだけど」
「あの御方は、倒れても本だけは離さない気がします」
「当たりだ。喘息が酷くなって安静にしてるときも、こっそり手のひらサイズの本を布団に偲ばせているからね。世話をする小悪魔が何度も取り上げるけど、そのすぐ後にこっそり魔法で違う本を運んでくるものだから非常に性質が悪い」

 犬がやってきてから、もう1年とちょっと。
 父母が家を飛び出して前線に出てからは、もう3年になる。
 そのタイムラグの1年半は小悪魔とパチェが呼び出す低俗霊たちが家事等を行っていた。だから犬が倒れたとしても、その頃に戻すだけでいいので別段問題はない。あるとすれば、小悪魔が悪戯心を出して、掃除中に遊びだしてしまうことか。悪魔でありながら、無邪気とでもいうべきか。

「おお、また大きいのが出た」

 そして、犬の咳を眺めながら楽しそうにベッドに腰掛けるレミリアも、小悪魔と同じくらい子供っぽく見える。
 そうやってしばらく犬を近場で眺めた後、何かをおもいついたのか表情を明るくして。

 ぼすっと。

 おもむろに、右手を掛け布団の上、ちょうど咲夜のお腹のあたりに振り下ろした。
 その一撃で、犬はさらに咳を繰り返し。
 二回目に振り下ろされたとき、さすがに制止の声を上げた。

「あの……座るのは良いですから……手で私のお腹を叩くのだけは辞めていただきたいのですが」
「え? でも、そっち種族だと、母親がお腹をぽんぽんっとしてやったりすると喜ぶ。そうパチュリーが言っていたよ?」
「……お嬢様の手の速度だと、ボディブローの連打になります」
「軽く叩いているつもりなのだけれど?」
「置くくらいのイメージでお願いします」
「注文の多いメイドだな」

 今度は手加減し、とんっと軽く布団に手を置くだけにしてみる。
 すると犬の吐息が安定し、表情も穏やかになっていく。
 そんな変化を楽しそうに見つめ、犬の額に手を当てて、離してを繰り返していると。

「レミィ、今の咲夜であまり遊ぶものではないわ」
「おお、さすが病気マスター、経験が違う」
「だれが病気マスターか、少々気管支が弱いだけよ」
 
 そろそろなくなる頃だと判断したのか。
 パチュリーが水差しを空中に浮かべながら運んできた。もちろん、パチュリーも歩かず水差しと一緒に低空飛行している。

「あらあら、咲夜の分際で私とパチェに世話をさせるなんてなんという贅沢。その贅沢ついでに私が水を」
「……水差しなら直接飲めます」
「そうか、コップに入れずに私が傾ければいいのね」
「自分で飲みます」
「仕方ないな、咲夜は」
「だから自分で飲みます」

 絶対に、もう良いと言っても傾け続けるに違いない。喜々とした様子で。
 パチュリーは親友の子供っぽい残虐さを分析しつつ、水をベッドから少し離れたテーブルに置く。
 ベッドからおりて、二歩ほど歩けば届く距離であるし、レミリアも暇つぶしを繰り返している最中。ならば問題ないだろうと、パチュリーは袖の中に手を差し込み。

「一応、魔法研究のついでに薬も作ってみたから、一緒に飲んでみなさい」

 薄い紙にくるまれたそれも一緒に置き、レミリアに飲ませ方を教えた。そして邪魔しないようにくるりとパチュリーは背を向ける。
 と、

「ありがとうございます」

 という声がパチュリーの背中に届き。

「……パチェの意地悪」

 同時に、何故か不満そうな声が背中にぶつかる。
 浮遊魔法以外使った覚えのないパチュリーは、レミリアの声を聞いて不思議そうに振り返った。
 当然、そこにはまだ横になったままの犬と、ベッドに座りながら口を尖らせるレミリアしかいない。
 特に物音もなく、誰かが立ち上がったり、テーブルに近寄ったとも考えにくい。ましてや、布団の中の咲夜が、今の一瞬で水を得ることなど物理的に考えて不可能であるはずなのだ。

「え?」

 それでも、咲夜は少しだけ身体を起こし、美味しそうに水を飲みながら。
 薬を喉の奥に流し込んでいた。

 誰も、動いていないはずの、その密室の中で。




 ◇ ◇ ◇




『緊急対策本部』

 地下図書館の扉に物々しい言葉が掲げられていた。その中で、レミリアは長いテーブルの上で肘を突き、手前に座った神妙な様子で実妹と親友を見つめる。

「……それで、その原因と対策というものを考える必要があるわけだ。それで二人に意見を求めたい」

 その提案と同時に、パチュリーが控えめに、
 続けて、フランドールが元気いっぱいに手を挙げ、結論を述べた。

「レミィのせい」
「うん、お姉様のせい」
「いきなり酷いわね」

 いきなり原因扱いされて不機嫌そうに眉を潜める。
 しかしパチュリーは言を曲げることなく、肘をついたまま片手でレミリアを指差す。どこか呆れたような眼差しを向けて。

「毎日毎日何しているのかは、問わないとしても。自分の能力の制御くらいちゃんとやりなさいよ」
「……してるよ? ナニイッテルノ、パチェ?」
「こっち向いて言いなさいね」

 あからさまに誰もいない壁の方へ顔を向けるが、それを予測したフランドールがその視界の先に回り込む。

「うん、お姉様って。私に能力制御しろとか、力を抑えろって言う癖に、自分の全然できてないし、駄々漏れだし」
「フランも何を根拠にそんな」
「ほら、またお姉様の脇とか頭から運命臭が」
「加齢臭みたいに言わないで」

 後ろに回り込んだフランドールに帽子の上をくんくんされながら、レミリアは腕を組んだ。確かに、レミリアの能力の一つである運命操作は制御が難しく、今のところ細かな命令を加えた上で他者に使うことはできない。使えるとすれば、少し先のことを知り得る運命視くらい。
 だから毎日その扱い方を練習しているつもりであったが、そのわずかに解放している時間帯にレミリアの能力を浴びたりすると。

「きっと私の羽根が変なのもお姉様の運命のせいね」
「それは生まれつきよ、フラン」
「私の喘息が治らないのもレミィのせいというわけね」
「それは自業自得よ、パチェ」

 こういうことである。
 微量なので、一緒に長く暮らしていたものにはほぼ何の影響もないのだが。まったく耐性のない存在がいきなり浴びたりした場合、運命を狂わされる。
 その丁度良い例が、少し前の庭での出来事。

「この前、レミィが外で能力を練習してたせいで、野兎がモンスター化したわよね?」
「可愛かったじゃない、それに美味しかった」
「そういう問題じゃなくて」
「ああ、もう、わかってるってば……、つまり、こう言いたいんだろう? 私が部屋でこっそり能力の練習をしているときに、咲夜が近くにいたと。それで影響を受けた」
「ええ、あの能力がどういった部類かはまだわからないけれど、能力者になってしまったのは確かでしょうね」

 あのとき、パチュリーがテーブルに置いたはずのもの、それをあの犬はまるで当然のようにその手の中に納めていた。
 つまり、無意識下で能力を使い、気付かないうちに水を手に入れたということになる。

「空間操作か、それとも時間操作か。本質がどちらにあるにしろ、人間が持つには勿体ない力よ、あれは。
 下手をすれば、またレミィに牙を向けかねないわ」
「それは困った、大いに困ったね、うんうん」
「なんで嬉しそうなのよ。って大体わかるけど」

 原因は大筋で納得、それでも対策を講じるにあたって、主人であるレミリアが反抗上等なのだからどうしようもない。
 それを再認識させられたパチュリーは、知識人として頭を抱えるしかなく。

「結局は、現状維持ってことかしら? お姉様?」

 レミリアの頭の上に顎を置きながら問いかける。
 そのフランドールの言葉が、すべてだった。

「フランの言う通りよ。ただ、パチェの言いたいこともわかる。最近は人間側にもちょっとした動きがあるらしいからね。能力の秀でたものが味方となるか、逆に反乱を起こすか。それはデリケートな問題だ」
「ええ、必要なら。処分しても良いと思うのだけれど」
「必要なら、ね? でも私の犬なのだから、勝手に手を出したらパチェでも許さないよ?」
「え?」

 パチュリーは思わず目を丸くした。
 レミリアの言葉が、一瞬わからなかったのだ。犬、犬、と対して大事じゃなさそうに呼んでいないというのに。

「……ええ、過ぎた真似をしないように心がけるわ」
「ふふ、大丈夫よ。お姉様。人間が暴れても、咲夜がお姉様を裏切っても、私が何とかしてみせるから」
「フランは大人しくしてなさい」
「えぇ~、けち~!」

 しかし、今のフランドールの言葉にも、さっきのパチュリー不安要素は排除するべきとの言葉にもあるとおり。
 人間と闇の眷属との境界、そこで大きな動きがあることは確かだった。
 それを運命視で微かに感じ取りながら、レミリアは面白くなさそうに眉根を下げて息を吐いた。

「パチェ、咲夜が復帰したのだから小悪魔は動かせる?」
「ええ、簡単なことなら」
「そう、だったら。魔界の叔父様の所に手紙を届けていただけるかしら? 近いうちにお邪魔することになるかも知れないと」
「……ええ、レミィがそう感じているのなら。やってみるわ」

 フランドールが首を傾げる中、レミリアとパチュリーは真顔で頷きあうのだった。




 ◇ ◇ ◇




 それから、おおよそ一年。
 小悪魔を何度も遣いに出させた。
 目的は教えず、ただ封筒を持って行きなさい、と。
 時が来れば、伯父の方から教えてくれるはずだ、と。
 そのせいで図書館の本は荒れ放題に成りがちであったが、パチュリーは文句一つ言うことなく、今日も読書にふけっているはずだ。
 それでも、小悪魔の影響を一番受けている者はというと。

「おや? 今日はずいぶんと遅れたようじゃない?」
「申し訳ありません、お嬢様。最近小悪魔さんが屋敷を開けることが多いので、こなす家事の量が格段に増えまして。どなたかの命令によるものとは思いますが」
「遠回しに嫌味を言わないの。言い直せば良いんでしょう? 
 咲夜、今日はずいぶん早く片づけたようじゃない?」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」

 やはり、不満があるようだ。
 そのためお茶の時間は毎日のように遅れ、フランドールなどは。

『出来てから、呼んで。ダメなら部屋に持ってきて』

 などと、すっかり待つのに飽きてしまった様子。
 今日もレミリアの部屋にはやってこず。自分の部屋で待機しているようだった。
 ただ、そんなフランドールが拗ねているのは別な要因の方が大きいのかもしれない。

「お嬢様は、今日はどちらに?」
「野良犬狩りだよ、あまりうるさいと眠っていられないだろう?」
「犬、ですか」
「ああ、犬だ」
「フランドール様も、その犬というものと遊びたがっておられましたが」
「あの子にはまだ早い。強すぎる力は、強い反発を生んでしまうからね。必要になったら呼ぶと、そう言っておいて」

 その犬というのが何を意味しているか。
 何度も呼ばれた咲夜ならわかる。
 そしてその犬の動きが活性化していることも、屋敷の中の雰囲気で察していた。

「でも、あまり屋敷をあけるようですと、私が乗っ取ってしまうかも知れません」
「それは困る。できるだけ空けないようにするかな」
「そうしていただけると助かります。パチュリー様も最近不機嫌ですので」

 いつの頃からだろうか。
 咲夜とレミリアは憎まれ口だけでなく、どこか暖かな会話も出来るようになっていた。共通の話題が少しずつ増えているだけなのかもしれないが、それは大きな変化でもあった。それに。

「お嬢様、今日は少しだけ血を濃く仕上げてみました」
「ありがとう、少しだけ力を使ったから、多めに欲しいと思っていたところなのよ」

 さっきまで咲夜の手元にあったお茶が一瞬にして、レミリアの前に置かれた。時間を停止して移動させたのか、それとも、単に動かしただけか。
 ただ、目で追えるはずのない速度で、運ばれたのは確かである。

「ふむ、なかなかね」

 それでも、美味しいとは言わず。
 加えて、その能力を説明しろとも言わない。
 そしてレミリアからも何一つ語らない。言葉だけは多く交わすようになっても、上辺だけ。大事な部分は隠そうとする。それに不安を覚えたのか、咲夜は自然と口を開いていた。

「あの、お嬢様。もしよろしければ……私を」

 しかし咲夜がその場所に踏み込もうとすると、不機嫌そうに眉を跳ねさせ。
 続けて口を開こうとしても、顔だけを横に向けて睨み、無理矢理やめさせた。

「息をし、動き、声を上げ、感情を露わにする。お前が扱っている食材とは別物だ。くだらない意見で私のティータイムを邪魔しないで貰えるかしら? それとも、主と一緒に散歩する犬に戻りたいか?」
「口が過ぎましたわ」
「そうね、今後気を付けなさい」

 そして、無言のまま紅茶を一口、二口。
 野良犬狩りで高ぶった心を落ち着かせるかのように、レミリアはゆっくりと咲夜のお茶を喉に押し込み続け、やっと最後の一口まで漕ぎ着けたとき。

 コンコンコン……

 軽いノック音が、レミリアの部屋に響いた。

「すみません、お嬢様。よろしいですか?」
「入りなさい」

 レミリアが命じると、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように小悪魔が部屋の中に入ってきた。何が嬉しいのかわからないが、笑顔を作り全身で喜びを表現し、軽い足取りで部屋の中央まで来ると。

「お嬢様! 魔界に戻る許可が下りたとのことです! 今日、戻る前に教えていただきました!」
「っ!」

 その小悪魔の声を聞いた瞬間、レミリアの顔がぱぁっと明るくなって。思わず立ち上がりそうになった。

「あっ」

 けれど、不思議そうに首を傾げる咲夜を振り返ってみて。気まずそうに咳払い一つ。

「こ、こほんっ! よくやったわ、小悪魔。それで叔父様はなんと?」
「補給物資を送るためにゲートを開くからその回収者と一緒に戻れと言うことでした。地上の作戦を再考する必要があるため、スカーレット家は報告も含めて一時的に戻るようにと」
「スカーレット家ということは、父と母も?」
「おそらくは」
「しかも一時的、ね。はぁ、大人の世界はコレだから嫌なのよ。建前ばかりで……、なんで私からの提案が一年も協議されるのかは疑問だけれど」
「仕方ないですよ、お嬢様達は数少なくなった純血種なのですから。その方達があっさり魔界に帰ったりしたら、地上の方々が不安になるじゃないですか。最近は魔女狩りも多いと言うことですし、地上の戦力調整に裏でいろいろ根回しが必要だとおっしゃってました」
「その事情を含めて不満だと言っているの、もう、要件を伝えたなら下がりなさい」
「は~いっ! 私もパチュリー様の所にお伝えしてきま~すっ!」
 
 ばたんっと、失礼極まりない閉め方で出て行く小悪魔をやれやれと言った様子で見送ったレミリアは、状況が飲み込めていない咲夜に正面に来るよう命令して。

「咲夜、来月から魔界に行くから。」
「へ?」
「瘴気吸っても平気なように、準備をしておきなさい」
「いや、あの?」

 いきなり瘴気とか言われても、と。
 疑問だらけの咲夜であったが。

「かしこましました、お嬢、様?」

 語尾だけに疑問を残し、とにかく魔界というものが何かを教えて貰うためにパチュリーの所に急いだのだった。




 ◇ ◇ ◇




「死ぬよ?」
「え?」
「生身の人間が瘴気吸ったら頭がおかしくなって死ぬ」
「え?」

 とりあえず、種族的に諦めろとパチュリーに断言された咲夜は、どうしたものかと考えながら屋敷の掃除をしていた。
 そして最後、レミリアの部屋まで辿り着いたところで、また瘴気のことが思い出された。人間が吸えばただでは済まない、そんなものの満ちた世界へ行くと言うことも。
 ただ、よく考えればである。

『お嬢様、私、魔界では生きられないので、ここでさよならですね』

 ということで、晴れて自由の身になるチャンス。
 しかし、先日のレミリアの口振りから考えれば、連れて行くのは決定事項のようでもあった。
 ただ、レミリアもそれくらいの知識はあるはずなのに、咲夜についてこいということは……

「二年越しで、私の勝ち?」

 手放したくないと、本気で思わせているのかも知れない。
 そう考えると、幾分か気が楽になるというものである、
 つぶやきながら、ばさりっと、太陽の臭いの残るシーツをベッドに被せ直し、ベッドメイキングを終えた咲夜は、続けて棺桶の清掃に移った。
 レミリアは気まぐれなので、毎日どちらで寝るかはわからない。よって両方清潔にしておかなければいけない。寝苦しいときは両方を往復したりするモノだから、余計に大変だ。それで何もないときは夕方までぐっすりで、咲夜に本気の寝顔を見せるときも多くなってきた。そんな寝姿を想像しながら、棺桶の中のクッションを布巾で磨いていると。

「……今なら」

 ふと、気付く。
 レミリアを殺せるんじゃないか、と。
 油断しきった胸に、白木の杭でも打ち込んでやれば、その時点で屋敷から去ることもできるのではないか、と。
 パチュリーも、フランドールも同様だ。
 紅茶に毒物を混ぜ込む、もしくは油断しきったところで弱点を突けばそうそう難しくない。
 二年間という時間が、咲夜に信頼関係という優位な条件を与え始めている。
 加えて、この、新しく身に付けた能力だ。

「さて」

 棺桶の掃除を終え、付近を軽く空中に投げてやると。
 次の瞬間には、入り口の台車の掃除用具入れの中へ、ぽとん。
 この瞬間的に物質を移動させる能力があれば、気付かれることもなく与えられた自室から犯行を行うことも可能で……

「咲夜? 終わったのかしら?」

 がちゃり、と。
 掃除を終えた直後、部屋の主が戻ってくる。
 
「終わりました、すぐお茶の準備を」

 さきほどの内心など、欠片すら表情に見せず。
 咲夜は掃除用具を押して出て行こうとする。
 けれど、レミリアは不満そうに腰に手を当てて、半眼で咲夜を見上げた。

「誰が掃除の話をしたというの? 瘴気に対する準備はできたかと聞いたのよ?」
「いえ、パチュリー様にお伺いしたところ、人間だとまず無理だと」
「呆れた。それくらい私が理解していないとでも? 私があなたに求めたのは、その上での対抗策。そんなこともわからないなんて、これだから血統書もない犬は救えないね」

 ひさしぶりの犬よばわりに、咲夜の肩がぴくんっと跳ねた。

「そうですね、いくら従者が優秀でも。10倍以上生きておられる方が、その対抗策すら思い浮かばない愚鈍な主だと言う場合は救いようがありません」
「馬鹿なことを、このレミリア・スカーレットが対抗策の一つくらい考えていないとでも思ったのか?」
「……え? そんな……馬鹿な……、最近面倒な作戦は全部パチュリー様に丸投げのお嬢様が……、対抗策だなんて……」
「うるさいよ」

 いつまでも入り口にいては格好がないと判断したのか、レミリアは部屋の中央の小さなテーブルにつくと、頬杖をつきながら咲夜に問いかける。

「魔界にいる間、呼吸というヤツをしなきゃいいのよ」
「死にます」
「それと、瘴気付けの食べ物を頑張って食べる」
「死にます」
「水の中なら瘴気薄かったりもするから、その中で生活してみるとか」
「死にます」
「え? もしかして咲夜って、虚弱体質?」
「至って健康です」
「そう? 呼吸とか難易度低いと思うけど? 3日に1回とかじゃだめ?」
「そこからルナティックです」

 曰く、吸血鬼は呼吸するのではなく。言葉を発するために息を吸い込んだり、空気中の魔力的な物質(魔素や瘴気)を身体に取り込んで力に変換するらしく、どちらかというと食事に近いのだという。
 だから人間の呼吸という観念を理解していないようだ。
 
「まあ、他の手段がないわけじゃないのだけれど……、たぶんそっちの方が……」
「そういうのがあるなら早めにお願いします。どういった方法で?」
「それは……」

 自信満々だったレミリアが、口元に当てた指を曲げ、言葉を淀ませる。
 酷く何かを迷っているようにも。
 何かに、怯えているようにも見えた、が。

「うん、やっぱり無理ね。犬には勿体ない」
 
 次の瞬間には、また微笑みを浮かべたまま、にこりと微笑む。
 そんな楽しげな主に、咲夜も微笑みを返して。

「本日のディナーのうち、1品にだけニンニクエキスを注入させていただきます」
「……さ、咲夜。あまり料理を冒涜するのはよくないわ」
「うふふ、冗談ですわお嬢様」

 その夜。

「……何してるの? お姉様」

 フランドールが不審がるなかで、新しい料理に手をつけようとするたび、フォークに刺した切れ端を鼻に近づけてくんくんする。そんな奇妙な行動をするレミリアが目撃されたのだった。
 そんななか、その光景をくすくす笑いながら見守っていた咲夜が、いきなりレミリアに近づいてきて。

「お嬢様、今、何かおっしゃいました?」
「何も言ってないわ。文句の一つでも言ってやろうかと思ってはいたけれど」

 レミリアも首を振り、フランドールも、パチュリーも、門番もその問いに首を横に振って答える。
 ただ、咲夜は確かに、聞こえた気がしたのだ。

『…く……に……』

 どこかノイズが混ざったような、女性の声が。




 ◇ ◇ ◇




「……今日はどこまで?」
「そうそう遠くはないわ、知り合いの伯爵の領地に人間が入ったようだから、その迎撃の手伝い。パチェも知ってるあの、顔長の」
「ああ、なるほど。あそこはかなり立派な城だものね。あそこが落ちて、占拠されようものなら、戦局は人間側に大きく傾くことになる」
「だからまだ安全な位置にいる私が呼び出されたというわけ。主の留守を狙う泥棒の影はまだないからね。いざとなれば、パチェがいる。フランはまだ良い子にしてもらわないといけないから、戦力として数えたくはない」

 ちょっとそこまで行ってきた。
 と言った雰囲気で扉を開けたレミリアは、本が並べられたテーブルから動かない図書館のヌシに視線をとばす。

「相手の戦力は?」
「様子見程度」
「そう、大規模な攻勢の情報も私の方に届いていないから、レミィが動くほどでもないと思うのだけれど」
「そういうわけにもいかないよ。お偉い方は心配性だからね。それに世間体もある。血統というのは本当に面倒なものだわ」
「あらあら、可愛げのない。いままではその血統を理由にノンビリしてたくせに」

 希少な血統だからこそ、守らなければいけない。
 地上に出た直後は、人間と遊ぼうとしたらすぐさま他の魔族から、自重しろと注意を受けたが、いまではどちらかというと。

『高貴な血統のものが皆を引っ張るべき』

 などと、拮抗し始めた争いの中で、その名が持つカリスマ性を利用されることが多くなってしまった。レミリアの父と母が前線から戻れないのも、そういった理由からだ。

「それも後2週間程度の辛抱。パチェ用に魔界の書物を準備しておくよう伯父に伝えてあるから、楽しみにしてくれて良いわよ」
「……べ、別に楽しみとかそういうのじゃないわ。興味があるだけであって、お願いしたわけでもないし……、レミィが勝手に準備させたのが無駄になるのがいけないから、私もそれを引き受けるだけであって」
「はいはい、わかったわよ。ほんと、可愛げがないのはどちらだろうね?」

 レミリアがパチュリーのすぐ横に腰を下ろすと、慌てて小悪魔が砂糖を多めに入れたコーヒーを持って飛んできて、またすぐ本棚の奧へと戻っていってしまう。
 何故そんなに小悪魔が忙しそうにしているかというと、当然運び出す本の選別作業に勤めているから。山のような書物から、本当に必要なものを選ばなくてはいけないので、時間がどれほどあっても足りないと言った様子だ。
 パチュリーがつきっきりで指示を送れるならば、もっと効率的に本の選別が可能なのだが。

「とりあえず、咲夜の周囲に瘴気が入り込まないような結界なら簡単。でも移動しながら維持するとなると、必ず身に付けるものに刻むか。その肌に直接魔力で埋め込むか……」
「おお、さすがパチェ!」

 レミリアが戦闘後にすぐ図書館にやってきた理由がこれだった。咲夜が人間のまま魔界に言ったら死ぬ、などという我が儘を言い続けたので仕方なくレミリアが直接パチュリーと交渉した。
 その結果、小悪魔が一人で書物と格闘するという悲劇が生まれたが、レミリアが望む結果も同時に生まれることとなった。

「けれど、どちらも一長一短を持っているから、咲夜に選ばせようとは思うのだけれど……、それで良いわよね? レミ――」
「肌」
「……え、えっとね、肌に模様を刻み込むという文化が人間にはあるそうなのだけれど。それに似た影響を及ぼすの。簡単に言うと、外れることはないけど大人が泣き叫ぶほど痛いとか、そう言われてる行程で……魔力的な魂への苦痛も伴うから……やっぱり選ばせた方が……」
「肌っ!」
「……相談したのが不味かったかしらね」

 説明すればするほど、喜々として『肌』を主張する。
 そんな親友の瞳の輝きを見て、パチュリーは頭を抱えることしかできなかった。
 そしてその夜。

『咲夜へ
  魔界に行くための準備ができたから。
  薄着で図書館まで来るように』

 手紙を信じて、咲夜が素直に足を運んだ後。
 悪魔が住む館に相応しい絶叫が、地下の図書館から響いたのだった。

「フフフ、ハァ~ッハッハッハ……」

 悪魔らしい、誰かの笑い声と共に。



 ただ、その後で――

「あ、あの? さ、咲夜? 今日のごはんはまだかしらね~?」
「……」
「フランも咲夜の料理じゃないと嫌だって言ってるのよ? うふふ、人気者じゃない?」
「……」
「だから、ね? 私だけじゃなくて、フランのために。ほらほら、布団から出てくださらないかしら?」
「……嫌です」

 咲夜が三日ほど家事をしなくなった。
 



 ◇ ◇ ◇




『緊急対策本部 その2』

 魔界帰還まであと10日と迫った頃。

 図書館の本棚と本棚の隙間、そこにそんな垂れ幕が掛かる。
 どこかで見覚えのある布に、あきらかに『その2』という文字が付け加えられただけものだった。
 そして、その本部と化した図書館の中では、代表と、その妹、そして親友が読書用のテーブルを囲み。

「レミィが悪い」
「お姉様が悪い」
「あれ? デジャヴ?」

 第一回目と同じような展開にレミリアが戸惑いを見せた。

「二人とも、そうじゃないでしょう? 問題はあれだ。高貴なる吸血鬼一族が、だ。そこの咲夜という名前の犬に汚されたという由々しき事態をうれいているわけだよ」

 レミリアは椅子に座りながら斜め後ろに立つメイドをびしっと指さし、二人に訴える。

「従者はやはり、従者らしくあらねばならない。主人が望むことが出来て初めてその職務に就いていられると思うのだよ。それがあまつさえ、個人の感情に流されて主人の生活をないがしろにするとは言語道断!」
「……なるほど、レミィは咲夜が三日三晩仕事を放置したのを怒っている、と?」
「そうよ! そういうことなのよ! さすがパチェ!」

 確かに、ありえないことだ。
 主人が命令しているのに、布団から出ようとしないなんて許されるはずがない。レミリアがどっちが主人かわからない謝罪をした後でやっと咲夜が動いたのだから。彼女の怒りも納得出来よう、しかし、である。

「ねえ? レミィ? あの肌に刻み込む場合だと、慎重にやらないと傷みが数日残るって説明、私、したわよね?」
「ええ、やる前にそんなことを言っていた気がするわ」
「じゃあ、その丁寧な、慎重な作業をする中で……、自分がやると言い出して、咲夜の肌にお花畑を書こうとしたのは誰だったかしら?」
「……あぁ」

<証言1>
 肌だけでなく、魂にまで刷り込まれる傷み。
 咲夜がそれを余裕なく我慢している中で、どこぞの吸血鬼は、おえかき感覚で邪魔してきたのだという。

「そんなことも、あった……ような」
「それに、小指の先ほどの模様を一箇所だけで良いって言ったのに。無駄に何箇所かつけたわよね? 服で隠れる場所だからって」
「あぁ……まぁ、それは……」
「そのせいで、3日動けなくしたのがあなたじゃなかったかしら?」
「……えっとぉ」

 <証言2>
 複数つけてもまったく意味がないと説明しても、必要のない場所にまでそれを彫り込もうとした、幼稚な犯行。
 しかも、その傷みと苦痛のせいで、完治に三日を要した。
 故に、謝罪があろうがなかろうが、本来咲夜は動ける状況ではなかった。

「それに、お姉様の料理なんて生ゴミの味しかしないし」
「フラン? 真顔でその一言は結構きついと思うのよね。お姉ちゃん」

 <証言3>
 咲夜の穴埋めでレミリアがフランドールに直接料理を作ったが、味が全世界ナイトメア。
 後に語る、小悪魔に作らせておけば良かったと。

「よって、民主主義により。被告、十六夜咲夜は無罪。レミィはギルティ」
「はいはい、わかりました! 私が悪かったって言えば良いんでしょ! 言えばっ! って、なんで咲夜も勝訴って紙持ってるのよ!」
「私が持たせたに決まってるじゃない」
「だろうと思った!」

 親友いじりには手を抜かない女、それが魔女、パチュリー・ノーレッジである。
 そんなこんなで、魔の三日間はレミリアの完全敗北として幕を下ろそうとしていたわけだが、ただ、もう一つ問題が残っていて。

「お姉様、私もお外行きたい」

 咲夜が動けず、レミリアも最近他の魔族との打ち合わせで外へ出かけっぱなし。
 そんな状況下で退屈するフランドールの不満が、限界に達しようとしていたことだ。
 これ以上ダメと押さえ込むだけでは足りない。別な妥協点が必要だと判断したレミリアは、

「そうね、後10日以内には、フランの力を振るう機会を作って上げる」
「本当?」
「ええ、本当よ」
「絶対だからね!」
「ええ、絶対」

 どうせ魔界への移動の際に、人間と小競り合いになるに違いない。
 だから、そこだけでもフランドールに力を使わせればいい。
 それを約束して、緊急対策本部を締めようとしていたとき。

「あの、パチュリー様」

 小悪魔が外からやってきて、何かの紙を渡してくる。
 それを受け取ったパチュリーは、何の反応も見せないままで、それをすっとレミリアに渡した。
 レミリアとその横にいたフランドールは一緒になってその紙を覗き込んだが。
 そこにはたった一言しか書かれていなかった。

『門限、来たる』

「門番のあいつからのお知らせ?」
「……ふむ、そのようね。今日はこれで門を閉めたいってことか。小悪魔、構わないと伝えておいてくれる?」
「……わ、わかりました。お嬢様」

 それを聞いて、慌てて頭を下げる小悪魔の様子を見て、客観的に見ていた咲夜はその門限が何を示しているか、理解する。
 フランドールがいるからレミリアは本当のことを話そうとしていないが、あの伝言はまさしく。

『魔界に通じる門が閉じた』

 現状で人間の勢力と拮抗している地上の魔族に対し。
 本土からの援護がなくなったことを示す。

 絶望的な、敗北宣言に等しかった。


 それを無言で見つめ続けるしかない、そんな咲夜の耳に……

『らく……に……』
「っ!?」

 また、聞き覚えのない女性の声が響いたのだった。




 ◇ ◇ ◇




 魔界と人間界を繋ぐ門――

 重要拠点での圧倒的な敗北。
 それを守る部隊には、レミリアの両親もいるはずだった。
 今はその安否さえわからない。
 けれどレミリアは、悲しむこともなく、驚くこともなく。

「……レミィ。あの、顔長の魔族の拠点が、落ちたわ」
「現場では、その! 人間たちがいきなり血を吐いて倒れて、よくわからないまま、ぼーっとしてたら、その……、ぴかって白く光ったんです! そして気付いたら範囲内の味方が全滅で……もう、わけがわからなくて、みんなちりぢりで……私も、必死で……死ぬかと思って……でも、誰かが守ってくれて、でも、その魔族も……、消えちゃって……」
「そう、ありがとうパチェ。
 小悪魔も良く戻ってきてくれたわ」

 ゲートが落ちてさらに4日後。
 レミリアは自室で、息を切らす小悪魔と、パチュリーからその報告を受けた。
 これ以上ないくらいの敗北。そんな事実しか残されない報告にさえ、レミリアは顔色一つ変えず、テーブルで優雅に紅茶を傾けるだけ。

「そう、魂の依存度が強い悪魔を一瞬で消し去る武器ということは物理攻撃ではなく広範囲の精神攻撃、あるいは……神の力を持った何か、か。そういったものを人間が持ちだしたということか。何か切り札はあると思っていたけれど、そろそろ潮時ね」
「……落ち着いているのね、レミィ」
「パチェだってそうじゃない?」
「……そう見えるだけよ。魔女は最後まで心を見せないものだから。でも、あなたの落ちつきようは異常でしかない」

 レミリアと同じテーブルに付くパチュリーだったが、その手の中にはいつもの本がない。手ぶらで動き回ることなどない彼女が、それに気付かずレミリアの部屋まで来たというのならば、やはりそれは動揺によるものなのだろう。
 
「あれだけの兵器を使うと言うことは、人間側でも何かの犠牲。相応の生け贄というものが必要になるのに。そこまでして魔族を滅ぼそうとするとは予想していなかった。だから私が予測もつかないものを、あなたが読み切っていたなんて正直思えないの」
「はっきり言うね。しかし、それは正しい。あんなものを予測する方も、使用する方も愚かだ」
「じゃあ、何故そんなに落ち着いていられ――」

 そこで、珍しくパチュリーが言葉を切る。
 レミリアの瞳が、紅く染まっているのを見て息を呑んでいた。

「レミィ、あなた……見えたのね……」
「ああ、そうだよ。見えた。門を破壊される映像も、父と母がどうなったかも、この戦いの結末さえもう見えた。その結果がやってくる時間までわからなかったけれど……、それを私が見たのは、いつだと思う?」
「……まさか、小悪魔に使いを出した、あのときからもう」

 一年以上も前にこの結果を知っていたのか。
 それをパチュリーが問いかけると、レミリアは静かに頷いた。

「だから、この屋敷の者だけでも逃がすために、あなたの伯父に手紙を?」

 しかしレミリアは違うと首を振る。

「地上の魔族全員を引かせるべきだと、ね」
「っ!」
「地上侵攻など、最初からどこかのお偉いさんの道楽から始まった愚行だよ。その矛を収めさせるために動いた父と母の意見も結局は受け容れられず、私の意見も一年放置された。で、結局私たちの血筋に連なる者だけを一時的に戻す、という結論しか出せない。他人の領地に侵攻しておいて、現地の意見を聞かず本部が平和ボケなんて、ホント救えない展開だわ」
「そんなものに、私たちは巻き込まれたと」
「そういうこと。でもね、私たちの運命までは教えてくれなかったから。もしかしたら間に合うかも知れないと思ったのだけれど……、こうなるくらいなら反逆者の名を受けてでも強引に戻れば良かったかしらね」

 冷静な、どこか達観した。
 いや、達観しすぎている会話。
 小悪魔はそんな届かない場所で繰り広げられる論理に、どうしても納得出来なかった。
 
「おかしいですよ、そんなの……」

 小悪魔の中で、パチュリーはそういう性格だからと、まだ納得出来た。いつも何を考えているかわからない怪しさがあるから、こういうときも表面上は冷静であっても不自然じゃない、と。
 しかし、レミリアの態度は明らかに異常としか映らない。

「もう、頼れる場所なんてどこにもないんですよ!」

 門も閉ざされ、周囲の魔族も応援を要請出来る状況ではない。
 自分の領地を守るだけで精一杯。

「お父さんと、お母さんが犠牲になったんですよ!」

 そして何より、運命どおりなら両親が人間達の侵攻で命を落としたことになる。
 それを突きつけられて、レミリアは揺らがない。

「そんなの! おかしいじゃないですか! レミリアお嬢様はあんなに二人のことを慕っていらしたというのにっ!」

 両親でありながら、素直に尊敬出来る。
 そう言い切れると、レミリアは広く口外していたし、家族として愛しているとも言ったことさえある。
 それがこんなにも冷静でいられるはずがないと、訴える。
 けれど、レミリアはくすり、と。

「その運命を見てから、なんど枕を濡らしたか……覚えていないわ。
 眠るたびに、両親が殺される映像が思い出されてね……、それで半年を過ぎた頃だったかしら」

 どこか諦めたような微笑みを、小悪魔に向けた。

「その映像を見ても、涙すら流れなくなったのは……」
「あ、ぁぁ……」

 もうしけ、ありません、と。
 小悪魔が顔を覆って、ぺたんと座り込みながら、謝罪の言葉を零した。
 そんな小悪魔に近寄り、

「あなたが私のために泣いてくれる。それだけで私は充分よ」

 優しく頭を撫でる。
 そうやって小悪魔を慰めながら、パチュリーに顔を向た。

「フランには、魔界に行くと伝え続けて欲しいの。出かける準備をして、いつでも地下の通路から逃げ出せるようにしてくれると助かるわ。もちろんパチェも、小悪魔も、咲夜もね」
「レミィは……どうするのよ?」
「ふふ、決まっているじゃない。
 私が、何のために、いままでフランの外出を禁じていたと思う?」

 そして、レミリアはいつものように。
 私に任せて起きなさいと言うように、腰に手を当て、胸を張る。

「私が何のために、この屋敷には1人しか吸血鬼がいないと、思わせていたと思う?」
「レミィ、あなたっ!」
「ふふ、そうやって驚く魔女の顔を見ることができた。敗戦の主には、過ぎた報酬だわ」

 レミリアは確かに、幼く、我が儘で、無理矢理咲夜を犬扱いしようとするどうしようもない主だ。
 しかし、咲夜は思うのだ。

 小悪魔に泣きながら抱きつかれ、パチュリーと熱い視線を交わしながらも、微笑んでみせる。それを見せつけられて咲夜は思ってしまったのだ。

 ――これが本当に、魔族なのか、と。

 同じ屋敷に住み、血の繋がらない者たちと、ここまで心を通わせる。
 それを本当に、魔族と呼んで良いのかと。

 そして……もう一つ。
 咲夜は、そっと壁を見つめる。
 いや壁ではなく、その先にいるはずの集団。
 魔族攻略のために犠牲を払ってまでも、進み続ける軍勢を想い。

 ――あなたたちは本当に、人間なのか、と。

 そう思った瞬間。
 今度は聞こえた。


『らくえんに……』


 あの女性の声が、咲夜の頭の中にはっきりと、刻まれた。


『楽園に……いらっしゃい……』


 目の前の人ならざるモノ達に、救いの手を差し伸べるような、そんな声が。




 ◇ ◇ ◇




 わずかに欠けた月が、よく映える。
 吸い込まれそうなほど綺麗な星空の下。

 深い森を抜けた後、少しだけ開けた場所にあるのは紅いレンガ造りの屋敷。
 人が済む村や町から遠く離れているにも係わらず、いつでも客人を招き入れられるように整えられている外観は、そこに住む者の高貴さを示しているようだった。赤茶色のドアを開いて、レミリアはゆっくりと外へと向かう。
 こつり、こつり、と。
 門まで続く石畳を歩きながら、名残惜しそうにちらりと振り返り、もう一度まっすぐ前を見た。
 
「門番は、ちゃんと逃げてくれた?」

 最後の手入れを担当した咲夜に声を掛ける。
 けれど、咲夜は首を横に振った。

「お嬢様が舞台に上がるのならば、前座は任せて欲しいと……」
「あの馬鹿っ! あいつにはフランとパチェの護衛を命じていたはずだぞ!」
「しかし、自分が最後に使えるのはレミリアお嬢様以外にありえない、と。それに、もう少し時間稼ぎが必要だということをご存じだったようで」
「……」
「私も止めたのですが……」

 そのとき、森の奧で人間達の勝ち鬨が響いた。
 すぐれた五感でその発生源を探るレミリアは、辛そうに唇を噛み。

「ずいぶんと引き離してくれたようね……、だが私はこんなものを」

 人間の進軍は予想以上に早かった。
 レミリアの屋敷には、あの大量虐殺兵器を使う必要がないと判断したようで、人間達は身軽な武装の兵隊だけを投入してきた。
 ゆえに、一日ほど早く予定を繰り上げることとなってしまい。急な変更でフランドールが移動そのものに違和感を覚え、レミリアとパチュリーの説得にもなかなか応じなかった。今やっと外出の準備を始めたところなのだから。
 それはレミリアの誤算に間違いはないのだが。

「けれど、門番のおかげで敵の規模は大体把握出来たのでは?」
「ええ、そうね。音からして専門の技術を持った50人の狩人といったところか……しかも夜に侵攻してくるとは……。リスクを背負って少数でくるのなら、どこか別な場所で大がかりな作戦を進めていると考えた方が妥当ね。援軍を押さえる意味も含めて。
 門番め、最後まで良い仕事をしてくれた……」

 この場所に吸血鬼は1人もしくは、少数。
 そう思わせることには成功しているようだ。
 片手間でも攻めることが出来る、脆弱な拠点だと。
 
「門番の戦闘時間は?」
「逃げと防御、撹乱に専念して20分程度」
「……あいつが30分と逃げ切れないか、厄介ね」
「私と同等かそれ以上の身体能力を持ち、対魔族、対吸血鬼用の訓練を仕込まれている者たちと見ました。広範囲攻撃用の術式を使ってこなかったのが幸運かと」
「私たちみたいな弱小に使うには勿体ないと思っているのでしょう。でも、対個体用武装を持つ者が居た場合、フランでも危険だわ……」
「お嬢様の場合だと?」
「答えたくない」

 片手間と言ってもだ。
 吸血鬼が霧化できることも、蝙蝠になれることも、狼になれることも、そして夜に真の力を発揮することを知りながら。向かってくる軍勢。
 もちろん、彼らは知り尽くしているのだろう。
 吸血鬼が人間を遙かに超えた身体能力を持ちながら、致命的な弱点を持つ種族であることも。そんなものと、真正面から単騎で戦いを挑むことなど……

「……さあ、咲夜。長旅になるだろうけれど、フランのこと頼んだわね。あの子、あなたの料理が好きみたいだから」
「お嬢様は、どうなさるおつもりで?」
「もう少ししたらあの野良犬共を迎えに行って上げるつもりよ。屋敷を背負って戦うのもやりにくいからね」

 1時間ほどで野良犬たちがここに押し寄せる。
 門番が少し引き延ばしてくれた大切な時間だ。
 ならば次は自分の番だと、レミリアが大きく翼を拡げたとき。
 
「そうですか……、では、お嬢様」

 ぱちんっと、咲夜がすぐ側で指を鳴らす。
 主人の翼の音に合わせるかのように、流麗な動きで高い音が生み出された。
 それを合図にして、レミリアが飛び立とうとしたら。

「ここで、お別れですね」

 とす、とすっ。

「え?」

 レミリアの後ろから、奇妙な音が聞こえて。
 次の瞬間、レミリアの視界は茶色い地面しか映さなくなる。
 気が高ぶりすぎて、飛び立つのを失敗した。
 そう思ったのか、肘をついて慌てて起き上がろうとするが……

「伏せ」
「ぐっ!?」

 踏みつけられ、また地面に這い蹲らされる。
 その拍子に、顔の所々に土がへばりついてしまうが、それすら意に介せず。レミリアは何とか、肘をついて横顔だけを上に向けた。
 その紅い瞳は、今までレミリアから生まれて感じたことのないほどの、大きな動揺で揺れ動く。

「ふふ、これで出会ったときのお返しができました。気分はどうですか? レミリアお嬢様?」
「さ、咲夜! あなた……」
「どうしました、そんな驚いた顔をして? ああ、そうですか。わかりました。それが飼い犬に手を噛まれたときの主人の顔なのですね? いい勉強になりました」

 パチュリーが危惧し、恐れた内部での反乱。
 そんなものはありえるはずがないと、レミリアは冗談交じりに蹴り捨てた。
 もし起こったとしても、叩き伏せてみせると。
 そう答えた。
 だが……

「どうしました? いつもの減らず口が聞こえてきませんが?」
「さ、咲夜? 冗談、よね?」
「冗談でこんなことができるとお考えになる。実に平和ボケしておられるようで、大変助かりましたわ。私が吸血鬼用の聖水を作成していることにもお気づきになられなかったようですし」
「……うそだ」
「いいえ、本当です。お嬢様」

 その声と同時に、背中から二つ。微かな痛みが消え、その何かがレミリアの目の前の地面に突き刺さる。
 紅い、レミリア自身の血に染まった。見覚えのあるナイフが。
 咲夜が愛用する。対魔族用の銀のナイフがレミリアの目の前に落ちる。
 あと一手を成功させれば、パチュリーとフランドールを守ることが出来る。
 そのあと一つを。
 たった一つの行程をすべてぶち壊したのが、咲夜だと。
 その地面に付き立ったナイフが示しているようで……、レミリアは弱々しく首を横に振る。

「ほら、ナイフを抜いて差し上げたのに、動くこともままならない。早く起き上がらないと、犬呼ばわりした人間がやってきてしまいますわ」
「……嘘だ」
「嘘と言われましても、ああ、そうですわね。嘘もいいかもしれません。私が二年以上お嬢様のお屋敷に仕えていたのは全部、嘘。油断させるための口実で、今この薄汚い成果品を持ってあちらの軍勢に下るというのも可ですわね。良い案を下さりありがとうございました。そうすれば私の命も保証され、相応の報奨などもあるかもしれませんし」
「……嘘だ」

 背中を踏みつける力は変わらない。
 むしろ、強く、つま先をねじり込むように、段々と強まるばかり。それでもレミリアは、意志のない瞳で否定の言葉をつぶやくことしかできない。

「大丈夫ですよ、お嬢様。こうやって生け捕りにされればすぐ殺されることなどありえません。お嬢様は純血種ですから、魔族の研究用材料として生かされ続けると思いますよ?」
「……嘘だ」
「また、嘘と。しつこいですね、何が言いたいのですか? そんな力を失った状態で……、ああ、そうか。わかりました。
 妹様も同じ状況にして差し上げないと不平等ですから、それをおっしゃっている」
「っ!? さ、咲夜……何を言って!」
「心配いりませんわ。小悪魔と妹様のお飲み物にも、お嬢様の身体に入ったものと同じ聖水を混入させていただきました。妹様は今頃弱っておいででしょうし、小悪魔などは命があるかどうか……」
「……もういい」
「ですから、もう逃げおおせることなんてできませんよ? 実に惜しいお美しい自己犠牲でしたね。門番の方も素晴らしいほどの犬死にでございまして――」
「サクヤァァァッ!!」

 レミリアの中で何かが弾けた。
 共に暮らし、親しい間柄になっても、犬、犬、と呼び続け。
 自ら禁じ、殺してきたその衝動が、怒りと共に一斉に湧き立って。
 紅い瞳が大きく見開いる。
 瞬間、足で押さえつけられたままの背中が、聖水で犯されていると思えない力で持ち上がる。

「な、どこにこんなっ!」

 咲夜がバランスを崩し、尻餅を付く。
 もがき慌てて姿勢を持ち直そうとする咲夜に対し。立ち上がる時間すら惜しむように、地面を這いながらレミリアが覆い被さった。

 どさり、と。

 腰と肩を押さえ、咲夜の身体を地面に縫いつけ。
 レミリアを蹴り飛ばそうと動く脚は、下腹部に膝を打ち込むことで沈黙させた。
 もう一度、腹部に駄目押しの膝を突き刺して、咲夜を一時的に脱力させたレミリアは。

 躊躇うことなく、首筋に牙を突き刺した。

「あ……」

 レミリアが飲み干しきれない血が、首筋から流れ落ち。
 首元から服を紅く染め上げていく。
 けれど、それでも抵抗はない。
 短い悲鳴のあと、咲夜はただ、開きっぱなしの瞳孔で、闇色の空を見上げることしかできなかった。
 それはほんのわずかな、10を数えないほどの時間であったがそれは形勢を逆転させるには充分すぎた。
 レミリアは咲夜の首筋から口を外し、口元の血を腕で拭き取ると。

「このっ!」

 夜空を見上げ、まだ放心している咲夜の頬を鋭く張った。
 
「……お、お嬢様、今のは……」

 そして恐る恐る咲夜が尋ねても、また鋭く頬を張ることで答え。
 馬乗りになったまま、紅く濡れた咲夜の胸ぐらを掴み、引き寄せた。

「いいか、咲夜。良く聞きなさい。私は血を吸いきって従者を作ることは出来ない」

 歯を食いしばり、紅い瞳に涙を蓄えながら。
 絞り出すように、声を続ける。

「……けれど、けれど私はっ、吸血鬼と人間の血を混ぜて混血の吸血鬼を作ることは出来る。それをお前に施した。もう、わかるな!」

 胸ぐらを掴んだまま引き起こし、地面に投げつけ。
 荒い息を整えようともせずに、指差す。

「その私のように変色した青い髪と、その紅い瞳。それが証拠だ! だからお前はもう人間じゃない! こちら側の存在だ! 私と対等の吸血鬼なんだよ!」

 前髪を指で弄りながら呆然とその変化を知る。
 吸血鬼となった咲夜を見下ろして。

「だから、お前は、人間側に戻っても救われない! 私たちと生きるしかない! わかるなっ! お前はもう、人間という存在としては許されないんだ! それくらい人間として生まれたお前ならばわかるだろう!」
「お嬢様……」

 起き上がってもふらついたままの咲夜に向け、レミリアは叫び続けた。
 人間として、お前は逃げ場を失ったと。
 あるとするならば、闇の眷属として生き残る道しかないと。

「しかし、私は許すぞ! さきほどの無礼は全て許してやる! 私を足蹴にしたことも、暴言を吐いたことも! 全てだ! 血の力でお前を束縛しないことも約束する!」

 同じ立場の者となるのなら、もう一度、と。
 レミリアは咲夜に訴えた。
 血を吸い多少は回復したが万全とは言えない身体。
 それで人間の軍勢がを迎え撃たなければならない。
 そんな場面で、レミリアは強く咲夜に願う。

「だから咲夜! お願いだからっ! お願いだから……フランとパチェたちを……」
 
 救って欲しいと、願う。
 そこには高貴な吸血鬼などおらず、純粋に家族を守りたいと願う少女の姿だけがあった。
 吸血鬼として変容した咲夜は、すっと立ち上がると、レミリアの視線をくぐり抜けるように館へと数歩進み。

「ありがとうございました、これで私も、お役目を果たせます」

 レミリアに横を通り過ぎるとき、つぶやいた。
 それは一体なんのことか、と疑問が向けられるよりも早く。咲夜はまた、唇を動かし。

「これでよろしいのですね? パチュリー様」

 そこにいるはずのない、魔女の名前を呼んだ。
 咲夜の声に釣られて慌てて振り返ったレミリアの視線の先、ドアが開いたままの入り口で、

「そうね、魔力の高ぶりは確かに感じる。身体の痛みは?」
「ありません。どちらかというと高揚感の方が強いかと」
「相性がよかったのね……、本来ならばレミィとあなたの体質を研究材料としたかったところなのだけれど……本当に、残念……」

 すべて諦めたようなパチュリーの顔。そして、さきほどの暴言が嘘のように、元に戻った咲夜。
 速く逃げる準備をしろと怒鳴りたくなるのをなんとか押さえ込み、レミリアは問いかけた

「何のつもり? もう時間は残されていないのよ?」
「そうね。逃げ出すのならもう、限界の時間。どうしても納得いかないと駄々をこねた妹様には薬で眠って貰ったから、運び出すなら今しかない」
「ならば、すぐに――」
「やっぱり逃げろ、というのね? 親友であるあなたを置いて、私たちと妹様だけ逃げ延びろと。それであなたがいないことに気付いた妹様を、本気で私と咲夜だけで押さえ込めると思っているのかしら?」
「それは……」
「下手をすれば、感情を爆発させた妹様の手で命を落とす。いえ、十中八九そうなるわ。大体レミィは、妹様がどれだけあなた依存しているか理解していないのよ。それだから一時しのぎの作戦しか立てられないわけね。ああ、それと、今、外に出てみてから気付いたからわかったのだけれど。森を囲むように探索の結界が張られているわ。そこを通り過ぎたら、自動的に追尾されるような厄介なやつがね。解除なんて考えられてない、ただ掛け捨て。だから身体の弱い魔女が逃げたところで無駄。だから諦めたわ」
「……そんなことはない。どこかにあるはずよ、まだ私たちができることは」

 いつでも客観的に、現状を把握できる。そんなパチュリーが諦めたと断言しているのなら、本当に見込みがないということに他ならない。
 
「レミィを置いて、生き残る道はない」
「……」

 レミリアが棒立ちになりながら、迷いを重ねている間にもさっきよりも短く。
 強い口調が浴びせかけられる。
 フランドールとレミリアを離れ離れにしたら、その時点で生存できなくなる。上手く今回だけ逃げ切れても、レミリアを失ったことを知ったフランドールが暴れて、潜伏などできるはずもない。
 これは本当に手詰まりかと、思考が冷え切った後。レミリアはもう一度、パチュリーを見た。
 ただ諦めたように、色をなくして見えた瞳をじっと見て。
 はっと、レミリアは目を見開いた。

「……パチェ、まさかと思うのだけれど……
 私がここで命を落とさなくても切り抜けられる、そう言っているの?」

 パチュリーの目は確かに、静かな色をしていた。いつものように穏やかで済んだ色。それでも、闇の中で輪郭がはっきりと映るほど、爛々と輝くのは、決して諦めた者の目ではなかった。
 それに気付いたレミリアに向け、パチュリーもまた。少しだけ大きく目を開けて。息を吐きながら静かに伏せる。

「レミィ? 私は何者だったかしらね?」
「魔女だ。他人の屋敷に仮住まいをしておいて、勝手に図書館を改造する程度の図々しさを誇る。虚弱体質の癖に負けん気だけは天下一品の、自慢の親友だ。」 
「そう、やっと目が覚めたようで、嬉しいわ」

 諦めていたのは、レミリア自身。
 だから風景全てがそう見えた。
 そう告げられた気がして、レミリアはふふっと笑う。

「わかったよ、パチェ。こうなった以上、お前に従おうじゃない。変だと思ったのよね、咲夜が私の体質を完全に理解して、私たち専用の聖水を作るなんて知識があるはずがない。そうやって私にけしかけさせたのも、理由があるんだな?」
「ええ、それを命じたのも私、演技指導も私、ついでに言えば、門番に時間が足りないことを相談したのも私よ」
「……そうかそうか。はっはっは。
 ごめん、パチェ。やっぱりむかつくから、終わったら殴らせて」

 いままでもそうだ。
 パチュリーはレミリアさえわからないところで、根回しをし、作戦を立てることがあった。
 それはレミリアが好まない戦術であったり、望まない交渉事であることが多いので、終わればいつも大げんか。
 それでも、長い目で見ればそれは必ずレミリアにとってプラスになることばかり。
 事件当初は悪手に感じても、パチュリーにとってはすべて最善の一手となる。
 しかし、今までのものと、コレは何もかもが違う。

「……門番を犠牲にしてまで時間を稼がせ、私を戦えない状況に追い込んだ。これで何もなかったで終わらせてみろ、魂の欠片まで切り刻んでやる」
「そうね、さっそく始めましょうか。咲夜、お願いね」
「はい」

 そこで、それまで身動きせずにじっと立っていた咲夜が、レミリアに近寄ってくる。

「お嬢様、私の能力は物質を移動させる程度の能力です。さきほどお嬢様に向けた攻撃もそれを利用させていただきました」

 咲夜の能力――
 レミリアも何度かそれは体験していた。
 それでも、咲夜は家事にしか利用せず、レミリアはそれを攻撃に応用可能な能力として認識してはいなかった。

「なるほど、意外とやっかいな能力だわ。それであの人間達を阻止するとでも言うの?」

 攻撃の気配とは別の方向から、物体をぶつける。
 しかもそれをほとんどゼロに近い時間で可能ならば、予測不能のタイミングで攻撃を仕掛けることが容易となる。
 対魔の能力を有す人間に対してであれば、魔力により攻撃より有効であろう。

「ええ、初手の50人程度であれば全滅までとはいかずとも手傷は与えられるかと。しかし、今度は充分な戦力を持った敵と見なされ、徹底的に排除されることになると思います。パチュリー様の言うような探索の魔法が仕掛けられているのなら尚更、一時しのぎでしかありません。ですから……」

 咲夜は、変色した青い髪を揺らしながら、レミリアに近づくと。
 両肩に手を置き、

「こうしましょう」

 咲夜が声を掛けたレミリアは自分の身体が宙に浮いたように感じた。
 背中から大きな手に握りしめられ、引っ張られるようなそんな感覚だ。
 気が付けば、屋敷の入り口。
 パチュリーの真横。

「パチュリー様」
「ええ、まかせて」

 主人を下がらせてなんのつもりか。
 レミリアが咲夜にそう怒鳴りつけるが、パチュリーはそれを気にすることなく短い呪文を唱えて。足下に魔法陣を生み出した。レミリアとパチュリーを覆う。金色の光の柱を生み出した。
 瞬間、レミリアの身体ががくんっと前に傾いた。
 おそらくは咲夜のところまで。
 門のところまで戻ろうとしたのだろう。
 けれど、脚が前に進まず、前につんのめっただけに終わる。足の裏を地面に縫いつけられてしまったようだった。

「何の真似だ!」
「わからない? 単なる束縛の結界よ? あなたが万全の状態なら、掛からない。そんな簡易なもの」

 レミリアはまだパチュリーが作ったという聖水のせいで万全とはほど遠い。咲夜の血を少し吸って回復はしたものの、まだ半分程度の力も出せていないのだから。

「屋敷を覆う強力な結界を作らなければいけなかったから、その術式に干渉しないものとなると、これしかなくてね」
「誰がそんなことを説明しろと言った、何をしたいのかと聞いてるんだ」

 パチュリーの胸ぐらを掴むが、それ以上できない。
 パチュリー自身もその結界の中で干渉を受けているようで、ぴくりとも動かなかった。そんな様子を見ても何故か咲夜は微笑むばかりだ。

「私が移動可能な重さには限界がありました。パチュリー様と一緒に何度か実験を行いましたが人間のままでは、自分の体重よりも重たいものは無理だろうと。それで試しに、パチュリー様から魔力を分けていただいて試してみたら。一つの本棚を移動させることに成功しました。ですから、もしかしらたと思ったのです。もし人間の枠を越え、息をするように魔力を扱う種族になることができたら、あの声の要望にも応えられるのではないかと」
「……何をわけのわからないことを、ぉっ!?」

 レミリアが反論しようとしたとき。その足下が大きく揺らぐ。
 地震とは違う緩やかに傾いたのだ。
 しかもそれはレミリアの足下だけではない。
 館が、庭が、塀が。
 風景から逸脱するかのように、右に、左に。
 例えるなら、それは湖面。
 水面で、一枚に葉っぱが揺れるように。
 地面の上で、屋敷の敷地すべてが揺れ動き。

「……なんてこと」

 やっと安定し始めたレミリアの目の前には、あいも変わらず咲夜がいる。けれどその腰よりもしたが、地面で見えなくなっていた。
 いや、屋敷が敷地ごと浮き上がって。
 咲夜の腰あたりまで隠してしまっているのだ。
 フランドールが起きていれば、単純に咲夜を凄いと褒め称えるかも知れない。吸血鬼化することでここまで能力を高めたことを感動するかも知れない。
 けれど、レミリアは。瞳を、声を、震えさせた。

「やめなさい……咲夜……」

 咲夜は魔力と能力は比例すると言った。
 吸血鬼化したばかりで、ここまで膨大な魔力を精製するとすれば、どこからか。

「おっしゃる意味がわかりません」
「……地上での魔族の敗北、それは愚かな主たちが引き起こした悲劇だ。それは、主という立場のものが……責任を負うべきものだ……、わかるな? 咲夜?」
「それはわかっているつもりです」

 人間のままでは身を削っても効率よく魔力を生み出すことは難しい。
 ならば元から、命と魔力が直結している種族ならどうか。
 その種族が身を削り、魂を削れば――

「この戦いの幕引きは……吸血鬼の血で終わらせなければならぬ」

 そのためにレミリアは出来るだけ1人で動いた。
 いつ敗北の未来がやってきてもいいように、
 責任が自分1人の身に覆い被さるように、
 なのに、咲夜は。
 不忠の犬は、それを拒もうとする。
 けれど、その主の紅い瞳の前で、咲夜は夜空を見上げ。

「……お迎えがいらっしゃったようですわ」
「っ!?」

 レミリアとパチュリーがその声を聞いて空を見上げると。
 深淵の中に直線が一本走った。
 両側をリボンでまとめた、巨大な線。
 それが一気に開く。
 魔族たちが移動に用いたゲートと同じような、大規模なものでありながら、術式も能力の気配すらなく。
 屋敷をまるまる飲み込んでも足りないほどの紫色の世界が、直上に開いたのだ。

「何が、わかっている、だ! 何もわかっていないじゃないか! 
 この私をっ、レミリア・スカーレットを貶めるつもりかっ!
 従者にすべてをなすりつけ、おめおめと生き続ける。そんな恥知らずな笑い者にするつもりかっ!」

 牙を剥き、羽を広げ。
 怒鳴っている間も、屋敷は浮上を続ける。
 もう咲夜の顔が見えなくなりそうだというのに、レミリアは束縛の結界に抵抗し、声を荒げ続けた。
 右腕だけ束縛を解き、必死に咲夜に向けて伸ばすが、門の外と屋敷の中という距離を縮めることは、小さな腕では足りなさすぎる。
 その指先の向こうで、咲夜は……

「ですから、吸血鬼が……責任を取るのです」

 瞳を伏せて、静かに告げる。

「蒼い髪と深紅の瞳を持つ、吸血鬼。レミリア・スカーレットが……」

 十字架で、胸を貫かれた。
 そんな気がした。
 手を伸ばしたまま固まった手は、もう動くこともなく。
 堅い決意だけを秘めた、従者に向けられたまま。
 蒼い髪に変色したのは、偶然。
 紅の瞳を持つようになったのも、偶然。
 けれど、そのすべてが咲夜に優位に働いていた。

 まさに、それは……

『運命』と呼べるもの。

それが囁いているようだった。
 お前は生き延びろと、甘い声をレミリアの耳元で……

「やめろ……、ふざけるなよっ! お前のような卑しい犬が、私の名を語るなど許せるものか! パチェっ! やめさせなさいっ! 早く!」

 けれど、パチュリーは無言のまま、屋敷とその地下の部屋を守るための結界を張り続けるばかり。

「ごめんなさいね。私にはどちらのレミィも本物に見えてしまうから。どちらか一方の意見を聞き入れるわけにはいかないわ」
「何を血迷ったのっ、私がレミリア。あの子はただの犬だわっ!」
「……レミィが咲夜と同じ能力を使えたら、きっと同じことをやりたいと言い出すんじゃないかしら?」
「っ!?」
「だから、私はレミィに従うわ」
「……やめなさい、二人とも、やめて……」

 しかし、屋敷は浮上する。
 屋敷の外はもう、遠い地面と地平線が見えるばかりで。

「戻りなさいっ! 咲夜っ!!」

 レミリアが最後に目一杯伸ばした手は、
 咲夜の姿に触れることもなく。
 その姿を最後に見ることすら出来ず。
 何もない宙を掻く。

 そして紅魔館は上昇を続け、得体の知れない境界に飲み込まれたのだった。




「……どうか、ご無事で」

 レミリア・スカーレットと名乗る、メイド服の吸血鬼を残して。





 ◇ ◇ ◇





『レミィ、なんでまた右手を伸ばしてるの?』

 それからどれくらい経ってからだったろうか。
 親友であるパチュリーが、そんなことを指摘するようになったのは。



 咲夜が誰とも知らない馬の骨と密約し、紅魔館ごと別世界へ。
 この幻想郷とやらに移動させてから、パチュリーとレミリアは本当に殴り合いのケンカをした。
 もちろん、本気でやり合えばパチュリーなど相手にならないはずなのに。
 レミリアはわざと身体能力を下げて、パチュリーと一緒に何度も床を転がった。

『裏切り者!』
『分からず屋!』

 同じ単語を繰り返しながら、幼子のように身体をぶつけ合い。拳を振るう。それは小悪魔が仲裁に入るまで永遠に続き、

『何してるの? 二人とも』

 眠らされていたフランドールが呆れ果てる外見になっていたという。
 まだ、レミリアはやりたりない様子で一杯だったが……

「周辺地域の情報収集を第一とする」

 館の主としてやるべきことを優先しているうちに、ケンカなんてしていられなくなった。情報収集活動の中で、湖周辺の妖怪や妖精達と縄張り争いを行ったり。そこで確保した妖精や、奇妙な妖怪『紅美鈴』等を戦力。というよりも屋敷の世話係へ配属したりと。様々なことでレミリアとパチュリーが力を合わせる必要性が出てきたため、いつものケンカの後のように親友と呼べる関係に戻っていた。
 ただ、二人には、フランドールという共通の悩みがあったわけだが。

「お姉様、妖精さんが壊れたの。新しい子をお願いね♪」
「……ほどほどになさいよ」
「うん」

 フランドールが妖精に多大な興味を示し。外へ行くと言わなくなったのも、紅魔館の基盤整備に大きな影響を与えた。一時しのぎではあるものの、フランドールがいい子にしていないと交渉事を進めにくいのだから仕方ない。
 そして、今日もその交渉事の報告にパチュリーが謁見用の部屋にやってきて。

「人里に交渉に行かせた小悪魔の話だと。食料の提供は断固拒否ということらしいわ」
「そう、他の妖怪からは守ってやるからって条件をつけても?」
「ええ、里には術者もいるし、巫女も。妖怪の守護者もいると。それでも交渉を続けようとしたら、尻尾がいっぱいある化け物に脅されたらしいわ」
「ありがとう、休んで良いよ。後は美鈴の報告なわけだが」
「“接客中”らしいわ」
「そう」

 レミリアが一段高い場所で報告を聞き終え、椅子の上で脚を揺らす。
 その横にはフランドールが退屈そうに立ち、大あくびを繰り返していた。早く部屋に戻って妖精と遊ばせろとでも訴えているかのように。

「フラン、少しは我慢なさい。あなただって私と同じ立場にいてもいいくらいなのだから」
「そう言うのはパス。お姉様が適当にやっといてよ」
「ああ、こら、フランっ!」
 
 どうせ、私を置いて夜出かけちゃう癖に。
 そんなつぶやきを残して、部屋を出て行く。
 そんなフランドールと入れ替わるように、パチュリーがレミリアの斜め後ろに立つ。

「また荒れ始めたかしら」
「……そのようね。我が妹ながら、困ったものだよ」

 椅子に座りながら頬杖を付き、ため息を零す。
 実際、湖周辺を実行支配してからほとんど動きがないのは確かで、退屈した戦局には間違いない。ただ、あまり時間を掛けすぎれば地下に大量保管してある食料もそこを付くだろうし、そうなるとこの世界で集める必要が出てくる。
 世界の情報もまだ知り尽くしていない。注意するべき実力者もわからない。そして、咲夜を誘った相手にすらまだ出会えていない。
 やることがありすぎて、吐息だけが重く重なる日々。

「ほら、また」

 そこでパチュリーがレミリアに向けて声を飛ばす。

「ん? ああ、これか」

 そして、レミリアはまたその癖を確認した。
 左腕で頬杖をついて考え事をするとき、何故か右腕を前に伸ばしてしまう。気が付けば、手の甲をじっと見続けているなんていうことが最近よくあるのだ。
 無意識のうちに、何かを欲して伸ばすように。
 
 ――何か、か。

 そこでレミリアは自嘲気味に笑う。
 未だに、何か、でしか表現できない自分自身が可笑しくて、ホントに笑えた。
 胸の中に開いた、埋めようのない空白を無意識に欲するだけ。
 過去を取り戻したいと、心が訴えているだけ。
 少しでも空いた時間が出来ると、あの映像を思い出してしまうだけ。

 ――本当に、小さな手。

 まだ500年しか生きていない。
 吸血鬼としてはまだ未熟すぎる手。
 それでも掴みたいものが多すぎて、いくつも失ってしまった手。
 いつか、本当に望むことを掴むことができるのか。
 そんな自問自答を繰り返すためだけに、レミリアはただ、右手の甲を眺め続け――

「レミィッ!」

 そんなレミリアを無理矢理現実に引き戻したのは、親友の悲鳴と。
 肉を切り裂く音と共に、
 手の甲にいきなり生えた、白銀だった。
 
 ザシュ、と。

 耳障りな音を響かせながらレミリアの手を貫いたのは、ナイフ。
 対魔用の銀のナイフだ。

「お初にお目に掛かります。あまりに隙だらけでしたので、ついつい攻撃してしまいましたわ」

 紅い血が伝う手の影から見える人影は1つ。
 手が邪魔で脚が見える程度だが、人数を数えるにはそれで充分。
 だから、レミリアはナイフを手から引き抜こうともせずに、右腕をまっすぐ伸ばしたままで。

「美鈴、掃除を」

 廊下から気配を発する者の名を呼んだ。

「は、はいっ! お嬢様っ! 申し訳ありません!」
「あら、門番さん。もう追いついたのね」

 パチュリーが言っていた来客というのはこの無礼者に違いない。
 単なる人間が美鈴を避けて進入するというのもおかしな話ではあるが。
 それでも、この部屋に追いつめたのならばすぐだろう。
 正面にはレミリア、わずかに離れてパチュリー、入り口には美鈴。中央に立つ人間に対しては充分すぎる配置だ。
 レミリアはやっとナイフが刺さったままの右手を引き戻し。
 美鈴の体術を久しぶりに堪能しようかと、腰を据えた。そこでまた。

 トスッ

「……」

 顔のすぐ横、椅子の背もたれの部分にナイフが突き刺さった。
 切り裂かれた髪が、幾筋かレミリアの右肩に落ち。
 服を蒼く彩る。

「ははっ」

 油断はしていた。
 それは間違いない。
 それでもナイフを投げる前から、その人間を見ることが出来ていたはずだ。
 単なるナイフ投げなら、手ではじくことなど簡単であったはず。
 それが、今。
 まったく出来なかった。
 ナイフが背もたれに当たるまで、動くことができなかったのだ。
  
「私としては、あなたとの直接対決を望みたいのですが? どういった仕組みかはわかりませんけれど、この門番さん。私の攻撃でひるみもしないんですもの」
「だから? あくまでも私を狙う?」
「そういうことになりますわ」

 人間は指の間にナイフを持ち。
 攻撃姿勢に入ろうとする。
 けれどそのレミリアと人間との間に美鈴が横から割って入った。

「おっと、お嬢様の前に私を越えていってもらいましょ――」
「美鈴、パチェを守ってて」
「はい! おまかせくださ――、えぇぇぇ……?」
 
 さっき倒せと命じられたのに、すぐさま変更。
 レミリアの気まぐれに当てられた美鈴は、渋々と言った様子でパチュリーの側まで下がる。
 そこでパチュリーの顔を見て。
 美鈴は腕を組みながら、不思議そうに眉根を下げた。
 しかしパチュリーはその美鈴の変化に反応すら見せず。

 くすっ、と。

 レミリアが人間を見つめる横顔を眺めて、微笑んでいるばかり。
 その二人の従者が見守る中で、やっとレミリアは椅子から立ち上がって。

「あなた、名前は?」
「あなたのような者を始末するために生まれましたので、生体番号しか持っておりません。ナンバー16と呼んでいただいて結構です。潜入に失敗したナンバー1~15と同じと思ったら、怪我をしますわよ?」

 自分は魔を刈るために生まれた存在。
 人間はあからさまに敵対の意志を示しているが。

「あは、はははははっ」

 レミリアは、笑っていた。
 身体をくの字に曲げ、お腹を抱えるようにして。
 本当に楽しそうに。
 本当に嬉しそうに。

「いいじゃないか、名前がないなら尚良しだ。気に入ったよ、犬っころ」

 人間が、不機嫌そうに顔を歪める。
 人間ではなく、犬と呼ばれ。
 唯一の尊厳である、人間であることを否定され、殺気を放ち始める。
 それを見て、レミリアの瞳が一層輝きだした。

「あはっ、あはははっ! パチェ~? 私が負けたら、館とか部下とか全部この犬っころにあげちゃっていい?」
「……もしかして、部下には私も入っているのかしら?」
「ええ、もちろん♪」
「美鈴も」
「わ、私もですかっ!?」
「ほら。犬、これであなたが私を倒しても、安全。なんならパチェたちを追い出したりできるからね」
「ふざけているのですか?」
「大真面目よ?」

 今から命のやり取りをする。
 それだというのにレミリアは子供のように楽しそうにするばかり。それには美鈴も心配そうに肩を落とすが。
 パチュリーの顔には微塵の不安もない。
 
「あなたのような子供の魔物に舐められては、こちらのプライドに係わります。ですからもし私が敗北した場合はおとなしくこの命を差し出――」
「ああ、そういうのはいらないよ」

 レミリアの全身を紅いもやが覆いつくすのを見て、何かの攻撃かと思い人間が油断なく構えた。しかし、レミリアは何もせず。ただ、その羽で風を前に送るだけ。
 それで一瞬だけ紅い霧に覆われた後。

「お前は、私を楽しませてくれればいい」

 子供のような声を、真後ろから聞いた。
 直後、人間は躊躇うことなく。
 能力を使用した。
 時を止め、限界までナイフを設置する。
幼い吸血鬼の逃げ場を失うほどの密度で、対魔の武器を。

「行けっ」

 そして合図と同時に、目標をハリネズミに仕上げる。
 避けようもない必殺の一撃。
 それが彼女の戦法であり、必勝法。、
 彼女の眼下には、ただ、ナイフの犠牲となり灰となった吸血鬼が残る。

「そうそう、それよ。うふふ、やはりこうでなくては」

 それで終わりのはず、だったのに。
 声が続く。

「あなたのその銀色の髪、そして反抗的な態度。ふふ、どれも素敵……そして、その恐怖の色も美しい」

 ナイフに貫かれた固まりだったはずのものが、霧となり。
 また一つの肉体として再構成される。

「さあ、続けましょう? あなたが私を満足させてくれたなら……ふふ、そうね」

 重い使命を帯びたときではなく。
 ただ純粋に、己の欲望のために戦う。
 それこそがレミリア・スカーレットの本領。
 永遠に幼い、紅い月が本当に輝く瞬間。

「そうだ。お前に素敵な名前をあげよう。
 私に仕えるに、相応しい名前をね。あは、はははっ!」

 紅の十字架を背負い、レミリアは楽しそうに笑ったのだった。
 
 新たに見つけた、白銀の犬と。

 自分の中の、運命と言うヤツへ向けて。










 後日――

 レミリアの部屋でのこと。
 新しくメイドとして加わった犬とティータイムを楽しんでいると。

「お嬢様、どうしたのですか?」
「ん?」
「いえ、右手を見てどこか懐かしそうにしていらっしゃったので」
「そりゃあ、500年も生きているもの。あなたの十倍以上ね。だから思うところもあるというわけだ」
「私の前任の方のことも、でしょうか?」
「…………パチェか?」
「ええ」
「まったく、いらぬことを……」

 レミリアは面白くなさそうにしながらも、少しだけ恥ずかしそうに頬を染めた。
 それを隠すように慌ててカップを口に付け。

「……む」

 そして、即戻す。
 よく見ると、その紅茶の水面には紅い点々が浮かんでいた。
 色だけならまだしも、この刺激臭と、舌を痺れさせる味からして。

「辛い……」
「とうがらしです。辛いものは食欲増強になると聞きまして。小食のお嬢様にはぴったりかと」
「なんて余計なことを……」
「それでお嬢様、前任の方というのは」

 だが、そこでふとレミリアは思い出す。

「そうね、あの子は確か」

 劇物紅茶がきっかけだというのはいただけないが、今の咲夜の要望にぴったりで。
 昔の自分が、言い忘れたこと。

「とても美味しい紅茶を作る可愛い子、だったかしらね」

 そう言って幸せそうに微笑みながら、世にも奇妙な辛い紅茶を飲み干したのだった。


「ねぇ、咲夜?」

<ある日の図書館>

「ねえ、パチュリー。なんでお姉さまって、咲夜のことを犬っていうの? 人間だよね?」
「ええ、種族は人間に間違いないわね」
「あ、やっぱり? でも、あいつってばずっと犬っていうんだもの。私少し前まで本当に咲夜が犬っていう種族だと思ってたわ」
「だからレミィが犬っていうのはおかしい?」
「ええ、だって、あんなに仲良さそうなのに、犬って呼ぶなんて。馬鹿にした呼び方だよね、あれ」

 その言葉に、パチュリーは読んでいた本をパタンっと閉じて。

「仲が良いからこそ、犬というのはおかしい?」
「そうよ」
「人間なのに、おかしい」
「うん」

 こくこく、と。
 素直にうなずくフランドールをまっすぐ見つめて、パチュリーはくすりと微笑み。

「それが正解。妹様は正しいわ。だってレミィは吸血鬼だもの」
「……? ん~?」

 正解と言われても、何か納得いかない。
 そういった様子で眉をひそめるフランドールの前で。

 ――だって、大好きな咲夜を人間と認めたら。我慢できなくなるかもしれないもの。

 心の中でそう付け加えたのだった。
 

 
 ☆ ☆ ☆
 
 定期的に紅魔館の過去話を書いてみたくなるのは何か病気かもしれない……
 過去の作品でもちょっとやれなかったことを、カキカキと。

 楽しんでいただければ幸いです。
pys
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コメント



0.780簡易評価
6.100名前が無い程度の能力削除
泣く一歩手前ぐらいまで行った。
ほんわかした序章に始まって、劇的な終末と、幻想郷での再生へと続くコンビネーションがいい感じでした。
定期的に紅魔館の過去話を読みたくなる私は、きっと病魔が住み着いてしまっているのでしょうね。
しかし、これが何とも心地いいので不思議なものです。
8.90名前が無い程度の能力削除
あっという間に読み進めてました。
紫がなぜ前任の咲夜とだけコンタクトをとったのかが気になります。

とても面白かったです、早起きしてよかった!
9.100名前が無い程度の能力削除
たまにレミ咲くも悪くないですね。
そんな一言で片付けちゃダメな気もしますけど
12.90奇声を発する程度の能力削除
良いですね
とても素晴らしかったです
14.100名前が無い程度の能力削除
久しぶりに良いものを読ませて貰いました
16.100名前が無い程度の能力削除
これだからpys氏は・・・

で終わってもなんですので一点。
ギミックを作る代償に思わず疑問が浮かぶような穴ができている気がします。
何故咲夜さん(前)だけにコンタクトがあったのか、咲夜さんズは
いつどこで誰が作ったのか(幻想郷産なのか外部から幻想入りか)などです
17.90名前が無い程度の能力削除
なぜ前任の咲夜さんだけに紫はコンタクトを取ったんだろ。
そこだけ気になった。
レミリアは身内(パチェ・咲夜・小悪魔含む)想いだけど、微妙に抜けてるとこがまた素敵。
19.90r削除
紅魔館に限らず過去話は定期的に読みたくなります。

>棺桶の掃除を終え、付近を軽く空中に投げてやると
布巾かな?
20.90名前が無い程度の能力削除
面白い
21.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいとしかコメントできない。
26.100名前が無い程度の能力削除
見入ってしまう作品でした。紅魔館勢の過去は様々な可能性があって作品ごとに感心させられます。
幻想郷入り前と後の咲夜の関係が気になります。全くの無関係としても良いかもしれませんが、個人的に細かく描写されるとより読み応えのあるものになるかと思いました。
また、幻想郷入り直前のドラマティックで迫真的なやり取りと比較して、幻想郷入り後のレミリアの心的な動きが淡々としているよう感じます。
この背景をもとに、幻想郷入り~紅霧異変までのお話も読んでみたくなる、すばらしい作品でした。