ぱちり。
駒が盤面を叩き、乾いた音が一室に響く。背後から届くその音に、河城にとりは幾度目とも知れぬため息を吐き出した。
ぱちり、ぱちりと、駒の音は断続的に響いている。彼女の家に詰めかけた友人たちが今、将棋を指している最中だからだ。それ自体については、にとりとしても何ら文句はない。
だが、駒が置かれる間隔は、明らかに熟考しているとは思えぬほどに早く、またどこかふぬけた音色は、背後の二人にまるで真剣味のないことを如実に示していた。
それも当然だろう。彼女たちはもう何局も、同じ試合の顛末をなぞっているだけのだから。
募る苛立ちに、にとりが次の嘆息を吐きだそうとした瞬間、唐突に駒の音が途切れた。僅かに遅れて聞こえるのは、平坦な少女の声。
「詰みですよ、文様」
「あややー、負けてしまいました。強くなりましたね、椛」
対局の終着を示す声に、にとりはため息のために吸いこんだ空気を、そのまま安堵へと変えて思い切り吐き出した。
思わず緩みかける気持ちを慌てて引き締め、家主たる少女はくるりと踵を返し、改めて駒を並べ直そうとする二人に向けて、憮然とした声色で問いを放つ。
「で、二人はいつまでそんな不毛なことしてるつもり?」
ぴくり、と、二人の肩が小さく跳ねた。ややあって同時ににとりへと向けられた目は、双方ともに不貞腐れたように曇っていた。
片や、白狼天狗。白の装束と、黒地に赤をあしらったスカートを纏った白髪の少女だ。椛と呼ばれた彼女は、う~っ、と唸りながら頬を膨らませている。不機嫌な心境を憚る様子は一切ない。
他方、将棋盤を挟んで対面に坐していた少女は、さも居心地が悪そうに背の黒翼を縮めて肩を竦めた。白のシャツと黒のスカート、黒の髪と羽根という、コントラストのくっきりした出で立ちの少女は、文と呼ばれた烏天狗だ。
にとりの言葉に、先に応じたのは文の方だった。
「そりゃあ腐りたくもなりますよ。こんな理不尽に謹慎喰らったんですから」
「だからってその鬱憤をうちに持ち込まないでよ……」
にとりの声に含まれる呆れの色が一層濃くなる。言われて初めて申し訳なさそうに目元を歪める椛とは対照的に、文は眉ひとつ動かさぬままに、一人で駒を盤の上で滑らせた。
「いーじゃないですかたまには。一人でうじうじしていたら、それこそ命に関わります……椛、次は普通に指しましょうか」
駒の配置を整え終えた将棋盤を示して文が言う。椛はちらり、と一瞬にとりを盗み見てから、文へと向き直って頷いた。
「分かりました。遠慮はしませんからね」
真剣な表情を目の前に、文はどこか苦笑めいた鼻息を漏らして、
「当然です――もっとも、それを弁えない馬鹿もいるようですが」
「文様、お言葉が過ぎますよ」
それに椛がぽそりと言った。言葉だけは窘めるように、だがその口ぶりは到底本気には聞こえない。彼女もまた、「馬鹿」と称された誰かを擁護する気などないのだろう。
まるで場の和やかさを取り戻そうとしない二人に、にとりは胃痛すら感じながら、部屋の隅に目をやった。期待の欠片も宿さない瞳が、そこに在った三人目の影をぼんやりと捉える。
「はぁ……そっちからも何か言ってやってくれない?」
「……私が一体、何を言えっていうのよ」
にとり以上に疲れた声音の返答が、暗がりから響いた。声に少し遅れて灯った光が、声の主を照らし出す。小さくも確かな光が映しだしたのは、体操座りの姿勢でうずくまった少女のものだった。
白のシャツに、黒と紫のチェックのスカート。茶色の髪はツインテールに束ねられており、背には文のものと同じような一対の黒翼が生えている。そんな姿を露わにする光源は、彼女の握った一機の小型カメラ、その液晶画面だった。
折りたたみ式のカメラであり、念写機。そんな物を持つ者など二人といない。彼女もまた烏天狗、名を姫海堂はたてという。
彼女もまた、文や椛に劣らず濁った瞳で、起動した念写機をカコカコと弄っている。が、恐らく確たる意味を持った行動ではないだろう。ただの手持無沙汰か、或いはいつもの癖か。少なくとも本来の目的――新聞製作のためではあり得ない。
何故なら今、彼女は新聞を作ることができないのだから。
「あぁもう、分かったよ。そんなにいじけていたいなら勝手にしてよもぅ……」
結局、にとりはそれ以上の状況の改善を諦めた。大仰に頭を振ると、手元のレンチを荒っぽく掴んで、机に置いてあった得体も知れぬ機械を睨みつける。
まさしくそれは、文たちと同じ不貞腐れが増えた瞬間に他ならないのだが、にとり自身にそんなことを気に掛ける余裕はもはやない。
目尻を吊り上げるにとりを余所に、文たちは各々の手を止める気配はない。将棋盤を駒が叩く音。はたてが念写機を操作する音。にとりが機械を解体する音。それぞれは調和の欠片もなく、ただ乱雑に部屋を満たしていった。
■ ■ ■
そもそも、にとりの知る限りの顛末は、こうだ。
ある日、文と椛が暇つぶしに将棋を指していたときのことである。その日珍しく、椛は文を打ち負かした。非常に白熱した一局に、文と椛だけでなく、観戦していたはたてもまた、興奮に目を丸くしたという。
対局していた二人の許可を得て、はたては自分の新聞、花果子念報にその対局の棋譜を公開した。如何に人気のない新聞とはいえ、それでもその一局の顛末は多くの天狗の知るところとなった。そんな折、大天狗の一人が、その勝敗を見咎めたのである。
名目上は烏天狗と白狼天狗の平等を謳っている今の天狗社会だが、その実状は大きく異なる。総ての天狗の統領たる天魔、そしてその直下に位置する三人の大天狗、これらは全て烏天狗が務めている。自然、そんな彼らの治世は、烏天狗寄りのものとなっていた。
待遇の差は多方面に及ぶが、その中に白狼天狗だけでなく烏天狗にも評判の悪いものがある。将棋大会における八百長である。
烏天狗と白狼天狗の五番勝負に際し、白狼天狗が勝ち星を上げた場合、対局していた両者に後々何らかの理由で謹慎や減給に処されるというもので、明確な指示があるわけではない。そうは言っても、「白狼天狗は手加減すべし」という暗黙の了解は、既に拭いようもないほど浸透してしまっている。
本来ならば娯楽のための将棋であるにも関わらず、大天狗、ないしは天魔の思惑に縛られ、息の詰まるような駆け引きを愉しむことができないのであれば、それはただ勝敗という記録をつけるための退屈な作業でしかない。烏天狗にも不評なのはそのためだ。
大方、烏天狗の面目を保ちたい連中が、もっと言えば、「烏天狗の方が優れている」という妄信に憑かれた老人たちが躍起になっているのだろうというのが、下っ端天狗たちの感想だ――が、よもや新聞の片隅に載せられた棋譜にまでケチがつくとは、さすがに文たちも思っていなかった。
上層部の良心をアテにしたわけではない。ここまで憚りなく弾圧を行えば、ただでさえ名目ばかりと言われる烏天狗と白狼天狗の平等が一層希薄化することは明白と言ってよい。故にこそ今回のような軽挙に至ることはあるまいと踏んでいたのだが、どうやら大天狗たちの頭は、彼女たちが推し量ったよりも遥かに軽いらしい。結局、文とはたては共に「発行された新聞に不適切な内容があった」として、椛は「昨今、彼女の率いる小隊が警備を担当する区画からの侵入者が多い」という理由で、それぞれ謹慎を言い渡されていた。
にとりとて、文たちの境遇が不憫でないわけではない。だが、かといって無闇に不機嫌を振り撒かれるのを許容できるかと言えば、それも否だった。
積み重なる雑音に真っ先に耐えかねたのは、やはりと言うべきか、にとりだった。五分と握っていないレンチを放り出し、彼女は渋い顔で後ろ頭を掻きながら早足に部屋の扉へ向かう。
「にとり?」
見咎めた椛が、盤面から視線を移して名を呼んだ。にとりはそんな彼女に振り返ることもなく、
「胡瓜採ってくる。好きに腐ってなよ」
言葉少なに吐き捨てて、開いた扉を後ろ手に閉めて出ていくにとりの姿を、椛はそれ以上何を言うこともできずに見送った。
金属と金属の触れ合う音を欠いた巨大な箱の中。それまでと変わらず、ぱちりと乾いた駒の音が鳴った。
「あなたの番ですよ、椛」
冷めた口調で文が言う。椛はそれでもしばらく閉じられた扉を見つめてから、小さな嘆息とともに文に向き直った。真っ直ぐに文の瞳を覗きこんだ椛は、駒を手に取ることもなく口を開く。
「やっぱり、にとりに悪いですよ」
紡がれる言葉は、表情と同じくどこまでも真摯なものだ。微かに下がった眉尻は、今この場にはいないにとりに対する申し訳なさが窺える。
何一つ嘘の無い態度の椛とは対照的に、静かに息を零す文の言葉は、不機嫌なままに軽薄だった。
「私もあなたも、にとりさんとは苦楽を共にできる仲でしょう? 遠慮した方がかえって失礼だとは思いませんか?」
「無礼を承知で申し上げれば、文様が言うと嘘臭く聞こえます」
そんな文に応える椛は、口調こそ丁寧なものの、告げる言葉と向ける視線の双方には、薄くとも確かな敵愾心が込められていた。椛の偽りない心境を一片の誤りもなく酌み取りながら、それでも文の気だるげな表情は小揺るぎ一つしない。
「一言一言の力が希薄であるからこそ、我々記者というのは多くの言葉を尽くすのです。事実を並べ、私たち自身が導き出した答えが真であると、語り聞かせる相手が自ら判断し納得できる材料を、ただ陳列する。ほんの二言三言程度では、真偽を疑われるのも仕方ないでしょう」
「そうでしょうか? 私は文様が言葉を重ねれば重ねるほどに、総体としての重みはそのままに、一言が軽くなっていくように感じるのですが」
「それはあなたが最初から私を疑っているからです。記事とは読者の感性が公平であることを前提に書かれます。色眼鏡で見られたのではどうしようもありません。第一、言葉の重みと口数のどちらが先に立つかを議論するのは、親子丼と同じですよ」
次第に表情を険しくする椛を見やりながら、文はしれっと言ってのける。
だが、彼女は短く鼻を鳴らすと、どこへともなく向けていた目をやおら椛へと移して、
「……ま、そんな言葉遊びであなたが納得しないことは分かってますし。別の答えを用意しましょうか」
「別の……?」
訝る椛。腕を組んで鷹揚に頷くと、文は先までとは一転した沈痛な表情を作り言う。
「まぁ実際のところ、にとりさんに迷惑をかけている自覚は私だってありますよ。ですから後々、お詫びとお礼を兼ねて、何かお返ししようとは思っています」
露骨な表情の変化といい態度の違いといい、その胡散臭さは先までの比ではない。が、それでも彼女の発した意味深な言葉は、胸の内に燻る苛立ち以上の興味を椛に抱かせた。
「お礼、とは? にとりが何かをしたのですか?」
「していませんよ、今は、まだ。ですが近いうちに助けてもらうことになるかもしれません。そしてそれがなるべく近いことを、私としては願っています」
椛の問いかけに、文はその問い以上の答えを寄越さない。苛立ちとはまた違った焦燥感が、椛の胸中に浸み入ってくる。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ文っ」
だが、彼女が次の質問を投げかけるより早く、そこに口を挟む者がいた。それまでずっと床に座り壁に背を預けていたはたてが、いつの間にやら二人の方へと近づいてきていた。
やや虚を突かれて彼女に振り向く椛だったが、それについては文も同じだったらしい。自分を見つめる四つの瞳に、四つん這いのまま寄ってきていたはたてが、気圧されたように一歩後退しつつも唸った。
「にとりの家にみんなして集まったのは、今の状況をどうにかするためだっていうの……?」
「ええそうですよ。それが何か?」
何ら気負う様子すらなく頷く文だったが、椛とはたては揃って驚愕に身を震わせた。二人の反応を目にしても、文は笑むことも訝ることもなく、座したまま動じない。
椛は完全に言葉を失って文を見つめていたが、はたては次なる疑問を突きつける。
「じゃ、じゃあ、私には何かさせようとしてるわけ!? 私を家から無理矢理引っ張り出してきたのも、私の手を借り――」
「ああ、それはありませんよ。特にあなたの助力を得ようとは考えていません。というか必要としていませんし」
だが、彼女が言い切るよりも早く、文がそれを遮った。気勢を削がれて口ごもるはたてに、文はぴっと一本指を突きつけて続ける。
「私があなたを連れてここへ来たのは、あくまで善意あってのことです。これに関しては椛も同様ですよ。もっと言ってしまうと、私一人の立場を回復するだけならば、今のうちからにとりさんの家に押し掛ける必要すらありません。ま、一人で自宅に籠っているのも、精神衛生上はあまり好ましいとは言えませんけどね」
一息に言い切ると、文は小さく肩を竦め、ようやく口元に微かな笑みを見せた。とはいえ苦笑じみたその笑みは、先の意図がどうであれ、今という時間を苦痛に感じていることを雄弁に示していた。
だが、彼女の語った内容は無視できない。はたては苦悶にも似た吐息とともに眉根を寄せて、今一度文を睨みつける。
「善意ぃ? あんたの口から出るにしては、随分とまたらしくない言葉ね」
「信用されないのは初めから分かっていましたけどね。そもそも信じさせる気があるなら、私ももう少し言葉を選びますし」
はたてとしては精一杯の厭味を込めた言葉だったのだが、文は平然と言いながら、一向に進まない盤面へと意識を戻してしまった。言葉の通り、はたての反応が予想と寸分違わぬものだったが故の行為だが、はたてからしてみれば、自身の言葉の何倍もの厭味としか思えない。
こめかみに青筋を浮かべつつ、はたてはやおら立ち上がった。大股で部屋の扉へと歩み寄ると、ノブに手を掛けてから文に振り返り、
「何するか知らないけど、あんたに貸しなんか作らないわよ私は! 後でどんな見返り求められるか分か――ブッ!?」
が、突如内向きに開いた扉が、彼女の言葉を遮った。頭を痛打されよろめくはたてを余所に、飛び込んできた影がずさりと床に横たわる。
動きを止めたそれを、文と椛は思わず凝視した。目を瞬き、二人はどちらからともなく口を開く。
「……ぇえと、これ」
「にとりの鞄、ですよね……?」
顔を見交わして確認するものの、やはり目の前の現実は変わらない。よく見知った緑の鞄は、常日頃にとりが背負っているものに相違なかった。
強いていつもと違う点があるとするならば、得体の知れない金属筒が左右対称にはみ出していることくらいだろうか。恐る恐る椛が手を近づけてみるが、触れなくとも分かるほどの熱を帯びている。
「……どういうことでしょう?」
「なんか、こんなのも落ちてるわよ……」
痛む頭を押さえながら、はたても結局二人のもとへと戻ってくる。その手には、一枚のメモと思しき紙片が握られていた。差し出されたそれを、文と椛は覗きこむ。
そこにはただ一言、否、一言にすら満たない言葉が綴られていた。
『さらわ れ 』
「……頭のお皿でも割れたの……?」
「いや、もともとないですから」
同じくメモの内容を認めて、はたてが首を捻りながら呟く。それを椛がツッコミ気味に否定した。
呆然としていた椛だったが、硬直していた思考が動き出すと、メモの示す意味を即座に理解する。その途端、彼女の顔色が一瞬にして褪せた。彼女は文とはたてを交互に見ながら、
「え、え!? つまりこれ、にとりが誰かに浚われたってことじゃ……」
「恐らく、そういうことなんでしょうね」
狼狽も露わな椛たちとは対照的に、文は落ち着いた様子で頷いた。その双眸は鋭く据わり、先までの掴みどころのない態度から一変した雰囲気を醸している。まさしくその眼光は、獲物を視界に捉えた狩人のものだった。
だが、小さく吊りあがった口元に、椛は頼もしさや不気味さよりも先に怒りを抱いた。
「……想定通り、とでも言いたげですね」
さながら炭火の如く、揺らぐ炎を見せぬままに燃え盛る熱を思わせる、深く凄みを利かせた声音。だが文は臆した様子もなく、大仰に両手を開き言う。
「まさか。こんな形で助成を得ることになったのは予想外です。ですがまぁ、望むべき展開であることは認めましょう」
「ッ貴女という人は――」
しれっと嘯く文を睨みつけ、椛は一歩詰め寄りながら牙を剥いた。今にも襲いかかりそうな鬼相は、気の弱い者ならば目にしただけで腰を抜かしそうなほどに凄絶だ。事実、はたてが息を詰まらせて肩をぶるりと震わせる。
そんな椛に対する文の返礼は、一つのため息だった。猛獣の眼差しを真っ直ぐ見返す文の瞳は、半ば以上が呆れに埋め尽くされている。
想像の外にあった反応に、思わず椛は鼻白んだ。言葉を失った椛に代わり、文の方が彼女に語りかける。
「ひょっとして勘違いしているかもしれませんが、私だってにとりさんが本当に危険な目にあっているとなれば、さすがに黙ってはいませんよ。今この場で平静のままいられるのは、彼女に危険がないと踏んでいるからです」
「で、でも何でそんなことが……」
たじろぎ、どもる椛。そんな彼女に、文は諭すように言葉を紡ぐ。
「簡単なことです。にとりさんはわざわざ自分が浚われた旨を、鞄を飛ばしてまで私たちに知らせました。けれどももし不逞の輩に襲われたとして、撃退するにせよ逃げるにせよ、その鞄は手元にあった方が都合がいいでしょう」
「!?」
「にとりさんは自分を浚った何者かを前に、鞄は不要と踏んで切り捨てたのです。相手の真意も分からぬうちにそれを実行に移すほど、にとりさんも馬鹿ではありません。要するに、犯人はにとりさんを拉致する目的を明白にしており、且つそれをにとりさんが承知しているということになります。となれば、今も何の危害を加えられることもなく、無事そのものである可能性が高いでしょう」
淀みなく説明を終える頃には、椛の両目は真円に見開かれていた。それほど受けた衝撃が大きかったのだろう。そんな隙を突くようにして、文はおもむろに椛の手を取った。
「まあそうは言っても、確認の必要はありますし。ちょっと来てください」
「へ? あ、文様どちらへ?」
椛が戸惑いの声を上げるものの、文は有無を言わせずその手を引き、開けっぱなしの扉を潜り抜けた。たたらを踏みながら椛が後に続く。
椛を家の外へと引っ張り出し切ると、文は今度は彼女の背後に回り込んだ。もうずっと意図の読めない文の行動に、半ば為されるままとなっていた椛だったが、突如その細い腰に文の腕が絡みついた。思わず小さな悲鳴が零れ出る。
「ひゃ!? な、なにしてるんですかあなたはッ!? 早く放してください!」
もがきながら抗議する椛に、しかし文はなおも強く抱きつきながら、
「暴れないでくださいよ。バランス崩すと危ないですから。さ、飛びますよ」
「飛ぶ? って――」
「よっ」
ばさりと音を立てて翼を開き、文が掛け声をかけた瞬間、椛の視界が急変した。
文に抱えられたまま、身体は一瞬で遥か高みに達していた。眼下に見える木々の木の葉は、驚くほどちっぽけにしか見えない。
一人では見ることはできない――とは言わずとも、決して容易ではない高度への跳躍。よく見知ったはずの山でさえ見違えるような体験に息を呑む椛だったが、冷や水のような文の声が彼女の耳を打つ。
「せっかくなので、あなたの力を借りることにしました。ここからなら探し物も見つけやすいでしょう」
「……何を探すんですか?」
「交戦の形跡、あるいは負傷した見廻りの天狗、といったところですね。そのどちらかが見つかれば、ひとまず上々です」
一瞬抱いた感動を振り払って、敢えて無表情のままに問い返した椛に、文は目を合わせることなく、ただ眼下の光景を見下ろしながら答えた。椛が思わず顔を顰め唸る。
「そんなものが見つかったとして、どこに喜ぶ理由があるのですか……」
「直に分かりますよ。さあ、見つかりますか?」
何とも気乗りしない用件ではあったが、にとりの安否を確かめるためとあればそれも仕方ない。意を決して、椛は自らの両眼に意識を集中した。
千里眼。それこそが哨戒天狗としての椛を支える最大の強みだ。一気に狭まる視界を慎重に制御し、眼下の光景を走査して、彼女は文の言った通りのものを探す。
しばらくして、椛が小さく息を呑むのが聞こえた。敏感に察し、文は抱えた椛の耳元に囁きかける。
「あったようですね。何処です?」
「……俯角15度、11時方向です」
「分かりました。もう一度移動しますから、そのままでいてくださいね」
椛の指示した方向へ向けて、文が身体を傾ける。椛をしっかりと抱え直し、背の翼を一度大きく羽ばたかせる。滑空するように二人の身体は虚空を泳いだ。
地面に近づいたところで、椛が文の腕を軽く叩いた。意を酌んで、文は椛の身体を解放する。
短い距離を落下して危なげなく着地するや否や、椛はついさっき高空から認めた影へと駆け寄った。
「大丈夫ですか二人とも!?」
声を荒げ、倒れた人影の一人を抱き起こす椛。この区画を担当する哨戒の白狼天狗であり、謹慎に処された椛の代理として今は部隊を纏めている少女は、椛の腕の中でゆっくりと瞼を開いた。
目立つ外傷こそないが、顰めた表情は痛みを堪えていることを雄弁に語っている。だが少女はそれを気力で捩じ伏せると、切れ切れながらも言葉を紡いだ。
「すみませ、椛姉さま……余所者の、侵入を、防げず……」
「そんなことは構いません! それで、襲撃者の特徴は!?」
「……彼女です。いつもの、白黒の魔法使い……」
椛の剣幕に気圧されながらも、少女はそう答えた。耳にした瞬間、椛が大きく両目を見開き、
「馬鹿者ッ!! 彼女と相対したら、無理はせず退けと言っただろう!!」
激しい恫喝が草葉を揺らす。彼女に抱えられた少女だけでなく、離れた場所で身を起しかけていたもう一人も、思わずその身を縮ませた。
そんな折、怒りに燃える椛に水を差したのは文だった。
「それくらいにしておきなさい。彼女たちとて、本来の指揮官なしに十全の働きはできない。そういうことです」
「…………」
「なるほどあなたがいたのなら、足止めをしつつ退いた後、後方で味方と合流という判断もできたでしょう。しかし彼女たちはまだ未熟です。自分たちだけでその決断を下すのは難しいでしょう」
「……確かに、私にも責任があることかもしれませんが」
「いいえ、あなたに非などありませんとも」
椛が苦虫を噛み潰したような表情で肩を落とす。だが、そんな彼女に文が向ける笑みは、彼女を落ち着かせる穏やかなものではなかった。
口の端は薄い冷笑を刻み、瞳は細く絞られている。どこまでも酷薄な笑みを浮かべる文の姿に、椛の背筋を悪寒が駆け抜けた。我知らず身震いした椛へと、文が視線を移して言った。
「さて、これで襲撃者、ひいてはにとりさんを浚ったと思しき人物が誰か分かりましたね。もっとも、概ね予想通りというところではありますが」
あっけらかんとした口調とは裏腹に、彼女の纏う気配は未だ薄ら寒いままだ。たじろぐ椛の心境を知ってかしらずか、文は小首を傾げてみせながら彼女に尋ねる。
「では次です。『彼女』がにとりを山から連れ出して向かいそうな場所、となれば、どこか分かりますか?」
「……まあ、多分『あの店』だとは思いますけど」
「けれど確証がない。動くためにはそれが欲しい。そんなところですか?」
「むっ……」
「相変わらず頭が固いですねえ。動かなければ分からないこともあるんですよ?」
小さく鼻を鳴らす文を、椛はむっと睨み返す。だが、その視線には先までほどの苛烈さはない。温い視線を微笑で受け流し、文は肩を上下に揺らした。
「証拠だったらあるわよ。ほら」
唐突に、烏羽の羽音が舞い降りる。椛と文の間に降り立ったはたてを見つめ、文はわざとらしく目を瞬いて言った。
「おや、まだいたんですか、はたて?」
「っさいわね。ここまであんたの意図が見えてきた後じゃ、今さら退けないわよ」
「ほほう。要するに私に貸しを作りたいと?」
嘲笑めいた笑いとともに言う文を、はたてはこれ以上ないほどの仏頂面で見やった。髪を振り乱して手にした念写機を開くと、画面に映った画像を突きつける。
「こっちからも情報出してあげるって言ってんの! ほらこれっ」
「何ですこれ……ってああ、なるほど。椛も見てみます?」
ひとたびは眉を顰めた文だったが、すぐにその画像の示す意味に察しがついたらしい。彼女に促され、椛もまたはたての念写機を覗きこむ。そして不審げに表情を歪め、はたてを見、文を見て、再び視線を念写機へと戻した。
そこに映っていたのは、あまりにも珍妙と言わざるを得ない光景だった。眠たげな目をした、何の生き物を模したのかさえ分からない毛むくじゃらのぬいぐるみの隣には、羽根を幾つもつけた機械装置。さらに隣には茶筒、そのまた隣にはカメラ。
雑多ということすら生温い、混沌としたガラクタの集まり。だが、そんな場所を椛は一か所だけ知っていた。問題は、何故はたてがいきなりその写真を持ち出したかだ。
椛の目の色に気づくと、はたては少し得意げに鼻を鳴らし、
「前ににとりが、私の念写機と同じような形したカメラを修理してたから、試しに念写してみたのよ。撮影時刻はついさっき、撮影者は河城にとり。それとこの写真の関係は――分かるわよね?」
「あ!」
はたてに言われ、ようやく椛にも分かった。紛れもなくこれは、今にとりがいる場所を示す、これ以上ない証拠だ。
丸い目の椛を余所に、はたてと文は言葉を交わす。
「で、この後の算段はついてるのよね。にとりに協力してもらうつもりだったってことは、元は機材を借りる気だったとか?」
「ええ。予期していたよりずっと大きな貸しを作ったことになりますね。ですがまぁ、現状を早急に打開できるのならば、喜びこそすれ厭うことはありません。あなたにも貸しを――」
「少しでも早くどうにかしたいんでしょ。記事の準備は手伝うわ。それでどう?」
「邪魔になるだけのような気もするんですけどねえ……」
「あんたいい加減しばくわよ……!」
険悪な様子に見えて、しかし二人の間にはどこか和気藹々とした、『いつも通り』とも言うべき空気が流れていた。
クスリと笑みを零し、文は首を巡らせて椛に向き直る。ぴくりと椛の肩が跳ねる。それに再び楽しげな息を漏らして、
「もう十分ですね。私はこれからにとりさんを迎えに行きますが、さて、あなたはどうしますか?」
言いながら、彼女は片手を差し出した。まるで、返答など分かっているとでも言わんばかりに。
思い通りの行動をとるのが、素直に従うのが、不愉快でなかったといえば嘘だろう。文やはたてが何をするつもりなのか未だに知れないことにも、不安がないわけではない。
それでも椛は、一瞬の躊躇いもなくその手を握り返した。
「行きます。私も一緒に、にとりのもとへ」
輝く双眸に、ただ友人を助け出すという使命感だけを漲らせ、椛はこくりと頷いた。
迷いはない。文の企みも、にとりを浚った者の打算も知ったことではない。少なくとも彼女にとって、にとりを迎えに行くということは、疑う余地なく『正しいこと』なのだから。
■ ■ ■
「つーかにとりよぉ……折角連れて来てやったのに、何でお前鞄捨てちまったんだぜ?」
魔法の森に、一件の道具屋がある。
外の世界と幻想郷の特異点、無縁塚で蒐集した物品を主に取り扱うその店は、名を香霖堂といった。立地が祟り客足こそ少ないものの、独特の品揃えや店主の奇異な仁徳は、ごく一部の者たちを足繁く通わせる理由となっている。
にとりを拉致した張本人、霧雨魔理沙もそんな常連の一人だ。黒のとんがり帽子からは金色の長髪が滝のように零れ、白と黒のエプロンドレスと相まって、どこか華やかな対比を生み出している。
が、日頃から憚ることのない奔放で身勝手ともとれる性格は、彼女がまだ大人などではなく『少女』であることを示していた。
「捨ててなんかないよ。ちゃんと制御できてれば家に着いてるはずだし」
「今この場に持ってきてないんじゃ同じだろ。何だってンなことしたんだよ……お前にしたって、外の機械に触れるまたとない機会だろう? 道具箱放り出すなんて、どうかしてるぜ」
店主の不在の店内に我が物顔で踏み込んだ魔理沙は、不機嫌ながらも怪訝そうに眉根を寄せながらにとりを見下ろした。問われたにとりは、何故か少しはにかみながら、
「まぁ、私だって惜しいことしたとは思うけどさ。けど今回は何て言うか、友達の方を優先したってとこかな」
「んぁ? それはどういう――」
いまいち意味の掴めない答えに、魔理沙は首を捻りながら再び問いを投げようと口を開いた。だが、にとりの方はこんなことなどお構いなしに、小型カメラでそこら辺の棚を撮影している。ぱしゃっ、と響く電子音が、どこまでも空虚に聞こえてならない。
露骨にため息をついて、魔理沙は無人のカウンターに目をやった。
「ったく、聞いちゃいねぇ……おまけに香霖の奴までいないときやがる。さっさと帰ってきて、茶の一杯でも淹れろってーの」
「あ、魔理沙魔理沙」
「お、何だ? 面白いもんでもあっ……」
不貞腐れた魔理沙を呼ぶにとりの声。たちまち喜色を浮かべて振り返る魔理沙だったが、彼女と対面したのはにとりではなく、暗い眼窩を覗かせる鈍色の鉄だった。思わず魔理沙の思考が停止する。
大きく一度瞬きするが、再び目を開いても視界の光景は変わらない。両手で拳銃を構えたにとりが、魔理沙の額を照準しているという事態に、一切の変化は訪れなかった。
「……何してんだ?」
「ふっふっふ、ホールドアップだよ魔理沙」
「心臓に悪い冗談はやめてくれ」
楽しげにニヤニヤ笑うにとりの銃を、魔理沙は嘆息とともに片手でどけた。つれない態度に魔理沙に気を悪くした風もなく、にとりは手の中の拳銃に熱の籠った視線を注いでいる。
「いやー、やっぱり格好いいよね銃って。無駄に。今度私も作ってみようかなぁ」
「無駄に作るのか?」
「作ることは無駄なんかじゃないよ。無駄なものを作るだけで」
「違いが分からんぜ……」
呆れたような声で唸りつつ、魔理沙は薄い苦笑を浮かべてみせる。にとりは元あった場所に銃を戻しつつ、なおも棚を物色しにかかった。
びゅうっ!
「ぅおわ!?」
そんな時だ。暖簾をはためかせて、一陣の風が店内に吹き込んだ。翻りかけるスカートの裾を慌てて押さえ、魔理沙は目を風上へと向ける。
押し上げられた暖簾、それが垂れ下がるよりも早く、一人の人影が駆けこんできた。咄嗟に身構える魔理沙の脇を抜け、影は一直線ににとりに跳びついた。ぎょっとしたにとりの顔が、白い服に覆い隠されて見えなくなる。
「にとりっ! 良かった、大丈夫だった!? 怪我とかない!?」
「ちょ、椛、落ち着きなよ。大丈夫だよ」
「だーから絶対に無事でいますって言ったじゃないですか。もうちょっと信用してくださいよ」
「心配症って言うか、にとりが愛されてるっていうか……」
颶風とともに現れたのは、椛だけではなかった。縺れじゃれ合う椛とにとりをどことなく白けた目で眺めながら、文とはたてが遅れて香霖堂に踏み込んでくる。
完全に店内に入ってから実に一分ほども経ち、そこで文はようやく魔理沙を見た。わざとらしく目を丸め、
「おや、魔理沙さんじゃありませんか。今日は一体どのようなご用件で?」
「その台詞、そっくりそのまま打ち返してやるよ。お前らこそこんな辺鄙なところまで、何しに来たっていうんだぜ?」
そう言う魔理沙の顔は苦り切っている。だが、そんな彼女に向けられたのは、文にしては珍しい、屈託のない満面の笑みだった。間の当たりにした魔理沙が思わずたじろぐのにも構わず、文は彼女の放った問いに答える。
「決まってるじゃないですか。山から拉致された河童を一名、救出しにきたんですよ。他の誰でもない私たちの手で、ね」
「拉致ってもなぁ。本人の同意は得たぜ」
「でも警備を倒して押し入りましたよね?」
「さあ? 手こずった覚えはないな」
悪びれる様子など微塵もなく言ってのける魔理沙だが、文の意図が読めない不安から、その表情は僅かに曇っている。竦めた肩を戻すと、彼女は単刀直入に問いかけた。
「で、結局だ。本当にお前ら、何しに来たんだよ」
再度の問いに、文はちらりとはたてに視線を投げる。気づいたはたては、無言で首を左右に振る。顰めた表情が、言葉にするまでもなく『面倒くさい』と語っていた。
「まぁ、ただの確認ですよ。『妖怪の山に押し入った賊が、山の住人を連れ去った』という事実さえあれば、我々としては十分です。それが誰かや、まして報復などに興味はありません」
片手をひらひら揺らしつつ、文が言う。相変わらず明確な意味が見えない文の回答に、しかし魔理沙は少しだけ楽しげに目を光らせた。何より、自分に実害がないことが分かったというだけで十分だ。
「何だよ、よく分からないけど楽しそうじゃないか。私にも一枚噛ませろよ」
「生憎ですがそれは無理――というより、むしろ既に噛んでいらっしゃいますからねえ。これ以上は天狗という種族の問題なので、立ち入りは御遠慮願いますが」
「ほほぅ、そりゃますます面白そうだ。なら、せめて片がついたら記事にでもしろよ。その号だけ買ってやるから」
ニヤリと笑みながら言う魔理沙だったが、文が浮かべた笑みは彼女以上に細く、鋭いものだった。さっきまでとは一転した、ぞっとするほど酷薄な笑み。魔理沙が小さく片眉を跳ね上げる。
「すみません、それもちょっと無理なんですよ。なにせ、頭の固い馬鹿どもを従わせるための、大事な大事な材料なので」
「……ま、別にいいけどさ、無理だってんなら」
ため息にも似た吐息を漏らし、魔理沙は文から視線を外した。改めて店内を見渡せば、さっきまでのにとりよろしく辺りを物色しては撮影に勤しむはたてと、未だ椛の腕に収まったままもがくにとり、彼女を抱きすくめる椛の三人がひしめいている。すし詰めと言っても過言ではない状況だ。
そんな折、おもむろに店の奥で物音がした。
「――誰かいるのかい? さては魔理沙だな。店は閉めておいたはず、だが……」
カウンターのさらに向こう、居住スペースから顔を覗かせた店主の森近霖之助が、姦しいと言うにも二人ほど多い状況を目にして言葉を詰まらせる。
魔理沙と文が彼に目をやるものの、他の三人はまるで彼の存在を気に留めようともしない。霖之助は呆気にとられた様子で店の端から端までを目で追った後、説明を求めて魔理沙を見た。
「どういうことだい?」
問われ、魔理沙は微笑とともに肩を竦めて、
「私にもさっぱり分からん」
そう答えるしかなかった。
■ ■ ■
「して、謹慎に処された身で一体何用だ、射命丸文よ」
片膝をつき面を伏せた文に、重々しい声で問う者があった。簾の奥には声の主の他に、さらに二人の影がある。暗がり故に輪郭さえもはっきりとしないが、それでも背に負った一対の黒翼が見て取れる。
三名の大天狗を前にして、文もまた凛とした声で答える。
「はい。この度見かけました新聞にて、大天狗様方の目に留めて頂きたい記事がございましたが故、こうして馳せ参じました――これを」
言いつつ文は身を低くしたまま簾に近づき、懐から取り出した一部の新聞を簾の下から差し込んだ。下がる文と入れ代わるように、大天狗の一人が新聞を拾い上げ、ばさりと一面を広げる。
厚さは大したことはない。一面に大書されている通り、どうやら号外らしい。だが奇妙なことに、その新聞には名前も発行者の名も記されてはいなかった。
怪訝に思いながら読み進める大天狗だったが、徐々にその手が戦慄き始める。何事かと隣で見守っていた他の大天狗たちが、広げられたままの記事へと目を通し――やがて彼らもまた、同じように全身を小刻みに震わせるようになった。
無言となった大天狗たちへと、文は頃合いを見計らって囁きかける。
「――どうされましたか、大天狗様?」
「ッ射命丸っ、貴様ァ!!」
激昂した一人の大喝が、真正面から文へと浴びせられる。だが、当の文は涼しい表情のまま、
「私に怒りを向けられても困ります。私はあくまで、その新聞を見かけてここへ持ってきただけの、ただの部外者ですので」
淀みなく言ってのける彼女を、大天狗たちは揃って殺気の籠った目で睨みつけた。
掲載されていた記事は大別して、三つ。一つは非公式に将棋を指した射命丸文と犬走椛の棋譜――先日の花果子念報に掲載されたものと同じだ――そしてその勝敗についても触れている。そして次に、その文と椛、その棋譜を自身の新聞にて公開した姫海堂はたての三名が、揃って謹慎に処されたという事実。
そして三つめが、つい先の一件。犬走椛が警備隊長を担当していた区域から部外者が山へと侵入し、一名の河童を拉致、その後無事に保護されたという内容だ。また、椛が警備を外された後、それに対するフォローが為されていなかったことにも触れられている。つまるところ、彼女の謹慎を言い渡した大天狗たちの決断に対する疑問を呈していることになる。
これまで下されてきた大天狗たちの決断にも、反発する声がなかったわけではない。だが、今回は実際にそれによって問題が起きたのだ。事が明るみに出れば、彼らは大きな非難の材料を与えることになってしまう。まして、そのそもそもの発端が私怨にあるとなれば――無論それは否定するだろうが、だとしても――スキャンダルとしての規模は最早計り知れない。
そして、それを世間に知らしめ得る紙が今、眼前にある。
椛の不在がいずれ問題を引き起こすであろうことは、文も予見していた。にとりの家に押しかけたのも、その日が来たら印刷用の機材を借りるつもりでいたからだ。まさか彼女自身が記事のネタになってくれるとは、さすがに思っていなかったのだが。
「ですがご安心ください。私も天狗社会に生きる身、ご要望とあれば、この新聞が公開されないよう働きかけることもやぶさかではありません。ただし――」
怒りに震えながらもそれ以上の言葉が出ない大天狗たちに、文は身を低くしたまま顔を上げ、細く鋭い眼光をともにニヤリと笑んだ。
「ただし、そうすることで守られるのが、真に守るに値する社会であるならば、ではありますが」
「……望みは何だ」
苦々しい声色で、大天狗の一人が吐き捨てる。文はそれに満足げに頷き、答えを返した。
「まず一つ。私と姫海堂はたて、そして犬走椛。以上三名の謹慎を、即刻解いて頂きたく存じ上げます」
前置きの後に、そう告げる。彼女の言葉を受けて、簾の奥で大天狗たちは目配せを交わし合った。だが、言葉にして相談するまでもない。少なくともその程度で最悪の事態が回避できるのならば、応じない手はない。
しばしの間を開けて、最初に文に問いを投げた大天狗が再び口を開く。
「他に要求があるというなら、言うがいい」
言葉を受け、文は改めて面を上げる。シルエットしか見えない三人を舐めるように見回して、彼女はそっと言葉を紡いだ。
「ではもう一つ。大天狗様方のお口から直接、出して頂きたい声明がございます」
「申してみせよ」
「簡単なことです。『烏天狗、白狼天狗の双方ともに、今後の将棋大会における一切の手加減を禁ずる』と――」
がたんっ
突如、坐していた大天狗が肘掛を蹴倒し立ち上がる。簾を押し退けて今にも文へ迫ろうとするのを、左右の二人が必死で押さえていた。
「戯けたことを抜かすのも大概にせよ! 射命丸文、貴様は我らと同じ烏天狗でありながら、その誇りに泥を塗るつもりか!?」
それでも立ち上がった大天狗は、簾越しに文へと指を突きつけ、憎悪とさえ呼べるほどの凄烈な怒気を叩きつける。それを見返した文の口元に浮かぶのは、嘲弄に満ちた冷ややかな微笑だった。
あっけらかんとした口調で、文は率直に告げる。
「私と致しましては、大天狗様の仰る誇りとやらの在り様は、まるで理解できません。烏天狗の力を誇りたいというのなら、他に然るべき手段というものがあるかと存じますが。それをなさらず、過去の成り行きだけで手に入れた権力を振るい自らを高い位置に飾ることに、一体どんな矜持をお持ちで?」
「口を慎めッ、射命丸!」
彼女の言葉に、ギリギリの位置で平静を保っていた残る二人の大天狗も、揃って目を剥き声を張った。彼らが持つのは権力だけではない。単純な力においても、それぞれが軽く文を凌駕している。
文の言葉は普通なら、自らの命を危機に晒すも同然のものだ。が、それでも文は余裕の笑みを崩さない。
「主導権がこちらにあることはお忘れなく。私がその新聞の発行を差し止められるということは、逆もまた然り。私以外の当事者がこの場にいないことも併せて、冷静な判断を下して頂けるという私の期待が、愚考でないことを祈りますよ」
あくまで挑発的な態度を崩さない文へと、大天狗たちは殺気を叩きつける。誰かの歯軋りが届いたような錯覚を覚え、文は涼しい顔の裏側で、一筋の冷や汗を流した。
大天狗へと放った最後の一言は、まさしく彼女の混じり気ない本音だ。目の前の三人が少しでも冷静であれば、自分の命に危険はない。だが――もしも彼らが、文が最低限と見込んだ程度よりもなお短慮であったなら。
その場合、彼女は無残な骸を仲間たちに晒すことになる。そして今の大天狗たちの様子を見る限り、あるいはそれは杞憂で済んでくれないかもしれない。
「――ならぬ。貴様の要求、断じて呑むわけには行かぬッ!」
一体どれほどの時間が経ったことか。唸るように言い放ち、大天狗の一人が簾を跳ね上げて進み出る。片膝を立てた体勢のまま、文が微かに肩を震わせた。
「……ご再考頂けませんか、大天狗様」
「くどい!」
文の言葉にもにべもなく答えて、さらに一歩。見た目こそ老いているものの、その矮躯が纏う妖気は文の比ではない。物理的な衝撃にすら等しいプレッシャーを浴び、文はいよいよ逃走を試みるべく、背の両翼に力を込めて――
「そこまでだ。双方、鎮まるがよい」
だが、文の背後からかかった声が、彼女のみならず大天狗の動きをも止めた。大天狗たちは三人とも先までの威勢が嘘のように、顔面を蒼白にして声の主を見つめている。文でさえ驚愕の表情を浮かべ、振り返ることすらできず硬直した。
決して、よく聞き知った声ではない。だがそれでも、山に住まう天狗ならば知らないはずがない声。大天狗よりもなお上位に君臨する、遍く天狗たちにとって絶対の存在。
即ち、天魔。
「無粋を承知で立ち聞きさせてもらった。もっとも、粋を感じるには些か、粗末な茶番ではあったがな」
文が背後に感じる妖気は、先の大天狗など及びもしないほどに強大だった。にも関わらず、その口調は重々しくはあろうとも、殺気や敵意を含んだものではない。ただの何気ない話でもしているような調子だ。
意図の読めない登場に全員が沈黙する中、天魔はおもむろに眼下を見下ろす。
「射命丸文、だったな。そう畏まるな。こちらを向いて面を上げよ」
「……恐れ多きお言葉にございます、天魔様」
天魔が言う。それに文は、面を伏せたまま振り返り、そう言葉を返した。その言葉尻が隠しようもなく震えていることを、文は凍りついた表情とともに自覚する。
「私め如きが、直にお顔を拝見するなど失礼の極み。どうか、ここままでお応えすることをお許しください」
それにも構わず文は続けるが、天魔はそれに「呵っ」と笑い、
「それなら案ずることはない。戯れでな、面をしておる」
そう、惚けた調子で言ってのける。
「だが、おぬしがそのままを望むのであれば、無理にとは言わぬ。それより、だ――」
だがその直後、にわかに彼の声が険呑な響きを帯びた。ただそれだけで、その場の全員が肩に重石を乗せられたような感覚に襲われた。
天魔は己の告げた通りの朱塗りの天狗面越しに、鋭く眼光を走らせた。向けた先は、簾を払って進み出た大天狗。威圧感に貫かれ、たちまち彼は動きを奪われる。
「鉄斎。二つに一つだ、答えるがよい。白狼天狗が烏天狗に手加減をせねばならぬという話、これは真か? それとも流言飛語の類なのか?」
「りゅ、流言にございま――」
鉄斎と呼ばれた大天狗がどもりながら答えようとした瞬間、文の視界にあった天魔の影が消え失せた。
遅れて聞こえたのは、意識を失った鉄斎が床にくずおれる、どさりという重たい音。反射的に文が振り返れば、そこではいつの間にか移動した天魔が、まだ簾の奥に姿を隠したままの二人の大天狗を、面をつけたままの顔で睨みつけていた。
恐怖のあまり、今にも腰を抜かしそうな大天狗たちへと、天魔は静かな声で語りかける。
「棋譜を見たのだ」
最初、誰しもが何のことを言っているのか分からなかった。だが、この場で話題にするものがあるとするなら恐らくは、文と椛のあの一局のことであろう。
文の予想を裏付けるように、天魔はさらに語る。
「心躍る一局であった。棋譜を見るだけでそれが分かった。儂はその棋士たちを一目窺うべく、山の頂きを降りた。だが――どうだ。聞けばその二人、ぬしらの命にて処分を言い渡されたそうではないか」
言葉を口にする余裕のある者など、もはや天魔以外にはいない。それでも構わぬとばかりに、天魔はなお続けた。
「これはどういうことだ? よもや烏天狗が白狼天狗に破れたから、というわけではあるまい。鉄斎の言を信ずるならばなおのこと、な。しかし、それならば納得のいく回答を得られねば気が済まぬ。さあ言え。如何なる理由があって、射命丸文と犬走椛を罰した?」
「ぁ……ぅ……」
「さあ、答えぬかッ!!」
大喝。
天魔がほんの一瞬、怒りを露わにして放ったその大音声に、残る二人の大天狗は先の鉄斎よろしく、総身から力を失って倒れ伏した。
何も、天魔が特別な力を行使したわけではない。恐怖と緊張のあまり気絶しただけだ。何とも呆気ない配下たちの様に、天魔は見下すように鼻を鳴らす。
そうして、彼はぽかんと呆ける文へと振り向いた。思わず顔を上げていた文は、天魔の朱い天狗面と対面することとなった。
強張った表情で固まる文へと、天魔は先までとは一転した穏やかな声で言う。
「此度の件、こ奴らに代わって詫びよう。儂がもう少し、こ奴らの手綱に気を配っておれば、このようなことにはならなんだ」
「い、いえそれは……」
「大天狗三名、近々解任することとなるであろう。次代は烏天狗が増長せぬよう、一人か二人は白狼の者を任ずるもよかろうな。それについては、儂一人が決めることではないが」
世間話のように言う天魔だが、その声には微かに苦さが混じっていた。まがりなりにも信用していた大天狗たちの実状がこれだったのだから、それも分からなくはない。
「おぬしらの処分は即刻解こう。射命丸文、犬走椛、それに姫海堂はたて――あの棋譜の新聞の製作者だな。三名とも、今後とも励むがよい」
そう告げて、天魔は歩を進めて文とすれ違った。そのまま立ち去ろうとする天魔を慌てて振り返り、文はその背に声を投げかける。
「あの、天魔様っ! もう一つの件は……」
「ん、おぉ。将棋大会に関する声明の件だな。無論、儂から呼びかけておく。案ずるでない」
振り返ることもなく答える大天狗に、文は安堵の息を吐いた。
それが聞こえたのだろうか。足を止めていた天魔がふいに、やはり振り返らぬまま言った。
「そうだ、射命丸よ。一つ、申しておくことがある」
「は、はい。何でございましょうか?」
途端に身を固くして、半ば反射的に返す文へと、天魔はどこか冗談めかした口調で、
「近頃将棋を指す相手もおらぬでな。いずれ、おぬしと犬走、我が元へ呼ぶこともあるやもしれん。その時は応じてくれるか?」
「ぅえっ!? い、いいいえそんな恐れ多いこと……!」
「呵々、そう言うでない。本にあの一局、叶うなら我が目で見たかったものよ。ぬしらはそれほどの棋士であるのだと、胸を張るがよい」
大笑しながら、天魔はあくまでも文に背を向けたまま語った。戸惑いを隠せない文だったが、しばし返答に迷った後、無難な言葉を選んで言う。
「えぇ、その……勿体なきお言葉です」
「うむ。まあ、儂の招集に応じるか否かは、そのときのおぬしたちに任せるとしよう。よい返事を期待しておる」
天魔はひとつ頷き、ばっ、と背の両翼を広げた。
次の瞬間、その姿は跡形もなく消え失せた。目を丸くする文の視界でただひとつ動いていたのは、彼の背から抜け落ちた黒い羽根が一枚だけ。ひらりと風に躍るそれを、文は呆然と口を開けたまま見送って、
「……はぁ」
まるで狐にでも抓まれたような、腑に落ちないため息を漏らしたのだった。
■ ■ ■
ぱちっ
「これで詰み、ですね」
「むむむ……」
眉根を寄せる椛に言って、文は得意げに笑った。
あの一件が片付いた、すぐ翌日のことである。場所は再びにとりの家。ただし部屋を包む雰囲気は前日とは一転し、とても和やかだ。にとりは席を外しているが、はたては文と椛の対局を終始眺めていた。
一局を打ち終えて、文は胡坐をかいたまま大きく伸びをする。すると、見計らったようなタイミングでにとりがお茶を手に戻ってきた。
「お疲れ~。はいお茶」
「ありがとうございますー」
礼を言い湯呑みを受け取って、文は中の茶をずず、と啜る。
向かいでは椛が差し出されたお茶を受け取りつつ、盤上を睨みながらぶつぶつと呟いていた。はたては逐一撮影していた写真を遡り、対局の流れを追い直しているらしい。また記事にでもするつもりだろうか。
それもいいかもしれない。何せ今度は絶対に、咎められることなどないのだから。
「いっそ、花果子念報を将棋新聞に変えてみたらどうです、はたて?」
「う!? うっさいわね! 余計なお世話よ!」
鎌を掛けるつもりで文が言ってやると、はたては赤い顔で叫び返してきた。どうやら本当に記事にすることを検討していたらしい。思わずクスリと笑いを零すと、ますますはたての表情が険しく歪んだ。
下手な念写記事よりも余程人気が出るだろうとは思うが、かといって本当に将棋一辺倒の内容にするには、まだはたての腕では及ばないだろう。そう考えはしたが、敢えて文は口を噤んだ。さすがにそれは、はたて自身だって気づいていることだろう。
「……はたてさんっ、写真見せてください、最初から全部!」
「ちょっと、待ちなさいよ! 私だって今見てるとこなんだから」
「じゃあ今見てるとこからでいいですから!」
やがて、椛が噛みつくようにはたての傍に張り付き、渋る彼女の手元に食いついた。嫌々といった体で、それでも画像を順に送っていくはたてを、文とにとりは小さく笑いながら見つめる。
と、ふいににとりが、文の袖を軽く引っ張った。おや、と表情で問いかける文に、にとりは無言で扉を指で指し示す。
「ふむ……」
意図は読めないが、かといって断る理由は何もない。文は湯呑みを傍らに置いて、念写機の画面を一心不乱に見つめるはたてと椛を残し、にとりと連れたって家を出た。
外気に触れると、少しひやりとした。季節も時間も決して寒い時期ではないが、にとりの家は滝のすぐ傍にある。今も轟々と激しい水音が、二人の耳を打っていた。むしろこの音が室内に一切入ってこない、にとりの家の防音性こそ驚嘆すべきなのかもしれない。
「それで、一体どうしたんです?」
勿体をつけずに文が問う。片やにとりは曖昧な笑みを浮かべて、
「いやぁ。ああなっちゃうと椛は当分動かないだろうからさ。構ってもらえない寂しさのあまり、浮気でもしちゃおっかな~、とかね」
冗談めかして言うにとりに、文も小さく肩を竦めて言葉を返す。
「生憎とあの子の怨みを買う気はありません。まあ長引かないのであれば、浮気『ごっこ』にくらいは付き合っても構いませんが」
「意外にそういうとこ真面目だよね、文は」
「優しい、と言ってくださっても構わないんですよ?」
呆れともつかない吐息とともににとりが言う。そんな彼女に、文はおどけたように片目を瞑った。
が、ふいににとりがニマリと笑う。予想外の反応が、文の背筋を微かにくすぐった。
「うん。確かに文は優しいよね。すごく」
「ぅ、う……?」
いきなり手放しに褒めそやされ、文がたじろいだ。にとりはそんな彼女の反応を楽しむように、下から見上げながら囁く。
「いやぁ、ほんと優しいと思うよ。わざわざ椛やはたての謹慎まで一緒に解こうとするしさ」
「そ、そりゃ別に手間が変わるわけじゃありませんから。何も見返りがないことをしたわけではありませんよ? 二人に貸しを作るいい機会だったわけですし……」
「でもその貸し、返させる気なんてないでしょ」
文の声を遮ってにとりが言うと、文は一瞬言葉を詰まらせる。肯定に等しい沈黙に、にとりはただ笑うことで応えた。
「それに、あの新聞。いきなりばら撒いて大天狗たちを失脚させれば、事はもっと簡単だったのにさ。危ないのを承知で、大天狗たちの面目を保ったままで済むように交渉に行ったりね」
「う……」
「しかも、椛やはたてが何か言いだす前に、一人でこっそり飛び出していったし。万が一、二人が一緒に行くなんてことになったら、椛たちが危ないもんねぇ」
次々並べられる言葉に、文はただただ黙って表情を渋らせた。心なしか、彼女の頬が赤くなっているようにも見える。
満足げに頷いて、にとりは同じ言葉を繰り返した。
「うんうん。文は優しいね。いつもは斜に構えた態度のくせに、実はとっても仲間思いだもんねぇ」
「いや、別にそういう……というか何やらとても気分が悪いので、それ、やめていただけませんか?」
「どうしてさ? 『優しい』って言ってもいいんでしょ?」
「いや、だってまさかこんな……ねぇ」
「優しい文さんが友達で、椛もはたても幸せ者だな~。もちろん私も」
優しい、優しいと連呼するにとりを前に、文は見る間にその肩を縮めた。むずかるような表情は、彼女には珍しい、恥ずかしさと照れくささに染まっていた。
そんな彼女の姿を、にとりは嬉しそうに、誇らしそうに笑顔で見つめる。誰よりも優しい捻くれ者の友人の存在を、どこかの誰かに自慢するように、
「あーやーは~、やっさしぃーな――!」
「ぅわあああんもう黙ってくださいお願いだからぁ――っ!!」
唸る滝音にすら負けない大きさで、にとりと文の声が木霊した。
駒が盤面を叩き、乾いた音が一室に響く。背後から届くその音に、河城にとりは幾度目とも知れぬため息を吐き出した。
ぱちり、ぱちりと、駒の音は断続的に響いている。彼女の家に詰めかけた友人たちが今、将棋を指している最中だからだ。それ自体については、にとりとしても何ら文句はない。
だが、駒が置かれる間隔は、明らかに熟考しているとは思えぬほどに早く、またどこかふぬけた音色は、背後の二人にまるで真剣味のないことを如実に示していた。
それも当然だろう。彼女たちはもう何局も、同じ試合の顛末をなぞっているだけのだから。
募る苛立ちに、にとりが次の嘆息を吐きだそうとした瞬間、唐突に駒の音が途切れた。僅かに遅れて聞こえるのは、平坦な少女の声。
「詰みですよ、文様」
「あややー、負けてしまいました。強くなりましたね、椛」
対局の終着を示す声に、にとりはため息のために吸いこんだ空気を、そのまま安堵へと変えて思い切り吐き出した。
思わず緩みかける気持ちを慌てて引き締め、家主たる少女はくるりと踵を返し、改めて駒を並べ直そうとする二人に向けて、憮然とした声色で問いを放つ。
「で、二人はいつまでそんな不毛なことしてるつもり?」
ぴくり、と、二人の肩が小さく跳ねた。ややあって同時ににとりへと向けられた目は、双方ともに不貞腐れたように曇っていた。
片や、白狼天狗。白の装束と、黒地に赤をあしらったスカートを纏った白髪の少女だ。椛と呼ばれた彼女は、う~っ、と唸りながら頬を膨らませている。不機嫌な心境を憚る様子は一切ない。
他方、将棋盤を挟んで対面に坐していた少女は、さも居心地が悪そうに背の黒翼を縮めて肩を竦めた。白のシャツと黒のスカート、黒の髪と羽根という、コントラストのくっきりした出で立ちの少女は、文と呼ばれた烏天狗だ。
にとりの言葉に、先に応じたのは文の方だった。
「そりゃあ腐りたくもなりますよ。こんな理不尽に謹慎喰らったんですから」
「だからってその鬱憤をうちに持ち込まないでよ……」
にとりの声に含まれる呆れの色が一層濃くなる。言われて初めて申し訳なさそうに目元を歪める椛とは対照的に、文は眉ひとつ動かさぬままに、一人で駒を盤の上で滑らせた。
「いーじゃないですかたまには。一人でうじうじしていたら、それこそ命に関わります……椛、次は普通に指しましょうか」
駒の配置を整え終えた将棋盤を示して文が言う。椛はちらり、と一瞬にとりを盗み見てから、文へと向き直って頷いた。
「分かりました。遠慮はしませんからね」
真剣な表情を目の前に、文はどこか苦笑めいた鼻息を漏らして、
「当然です――もっとも、それを弁えない馬鹿もいるようですが」
「文様、お言葉が過ぎますよ」
それに椛がぽそりと言った。言葉だけは窘めるように、だがその口ぶりは到底本気には聞こえない。彼女もまた、「馬鹿」と称された誰かを擁護する気などないのだろう。
まるで場の和やかさを取り戻そうとしない二人に、にとりは胃痛すら感じながら、部屋の隅に目をやった。期待の欠片も宿さない瞳が、そこに在った三人目の影をぼんやりと捉える。
「はぁ……そっちからも何か言ってやってくれない?」
「……私が一体、何を言えっていうのよ」
にとり以上に疲れた声音の返答が、暗がりから響いた。声に少し遅れて灯った光が、声の主を照らし出す。小さくも確かな光が映しだしたのは、体操座りの姿勢でうずくまった少女のものだった。
白のシャツに、黒と紫のチェックのスカート。茶色の髪はツインテールに束ねられており、背には文のものと同じような一対の黒翼が生えている。そんな姿を露わにする光源は、彼女の握った一機の小型カメラ、その液晶画面だった。
折りたたみ式のカメラであり、念写機。そんな物を持つ者など二人といない。彼女もまた烏天狗、名を姫海堂はたてという。
彼女もまた、文や椛に劣らず濁った瞳で、起動した念写機をカコカコと弄っている。が、恐らく確たる意味を持った行動ではないだろう。ただの手持無沙汰か、或いはいつもの癖か。少なくとも本来の目的――新聞製作のためではあり得ない。
何故なら今、彼女は新聞を作ることができないのだから。
「あぁもう、分かったよ。そんなにいじけていたいなら勝手にしてよもぅ……」
結局、にとりはそれ以上の状況の改善を諦めた。大仰に頭を振ると、手元のレンチを荒っぽく掴んで、机に置いてあった得体も知れぬ機械を睨みつける。
まさしくそれは、文たちと同じ不貞腐れが増えた瞬間に他ならないのだが、にとり自身にそんなことを気に掛ける余裕はもはやない。
目尻を吊り上げるにとりを余所に、文たちは各々の手を止める気配はない。将棋盤を駒が叩く音。はたてが念写機を操作する音。にとりが機械を解体する音。それぞれは調和の欠片もなく、ただ乱雑に部屋を満たしていった。
■ ■ ■
そもそも、にとりの知る限りの顛末は、こうだ。
ある日、文と椛が暇つぶしに将棋を指していたときのことである。その日珍しく、椛は文を打ち負かした。非常に白熱した一局に、文と椛だけでなく、観戦していたはたてもまた、興奮に目を丸くしたという。
対局していた二人の許可を得て、はたては自分の新聞、花果子念報にその対局の棋譜を公開した。如何に人気のない新聞とはいえ、それでもその一局の顛末は多くの天狗の知るところとなった。そんな折、大天狗の一人が、その勝敗を見咎めたのである。
名目上は烏天狗と白狼天狗の平等を謳っている今の天狗社会だが、その実状は大きく異なる。総ての天狗の統領たる天魔、そしてその直下に位置する三人の大天狗、これらは全て烏天狗が務めている。自然、そんな彼らの治世は、烏天狗寄りのものとなっていた。
待遇の差は多方面に及ぶが、その中に白狼天狗だけでなく烏天狗にも評判の悪いものがある。将棋大会における八百長である。
烏天狗と白狼天狗の五番勝負に際し、白狼天狗が勝ち星を上げた場合、対局していた両者に後々何らかの理由で謹慎や減給に処されるというもので、明確な指示があるわけではない。そうは言っても、「白狼天狗は手加減すべし」という暗黙の了解は、既に拭いようもないほど浸透してしまっている。
本来ならば娯楽のための将棋であるにも関わらず、大天狗、ないしは天魔の思惑に縛られ、息の詰まるような駆け引きを愉しむことができないのであれば、それはただ勝敗という記録をつけるための退屈な作業でしかない。烏天狗にも不評なのはそのためだ。
大方、烏天狗の面目を保ちたい連中が、もっと言えば、「烏天狗の方が優れている」という妄信に憑かれた老人たちが躍起になっているのだろうというのが、下っ端天狗たちの感想だ――が、よもや新聞の片隅に載せられた棋譜にまでケチがつくとは、さすがに文たちも思っていなかった。
上層部の良心をアテにしたわけではない。ここまで憚りなく弾圧を行えば、ただでさえ名目ばかりと言われる烏天狗と白狼天狗の平等が一層希薄化することは明白と言ってよい。故にこそ今回のような軽挙に至ることはあるまいと踏んでいたのだが、どうやら大天狗たちの頭は、彼女たちが推し量ったよりも遥かに軽いらしい。結局、文とはたては共に「発行された新聞に不適切な内容があった」として、椛は「昨今、彼女の率いる小隊が警備を担当する区画からの侵入者が多い」という理由で、それぞれ謹慎を言い渡されていた。
にとりとて、文たちの境遇が不憫でないわけではない。だが、かといって無闇に不機嫌を振り撒かれるのを許容できるかと言えば、それも否だった。
積み重なる雑音に真っ先に耐えかねたのは、やはりと言うべきか、にとりだった。五分と握っていないレンチを放り出し、彼女は渋い顔で後ろ頭を掻きながら早足に部屋の扉へ向かう。
「にとり?」
見咎めた椛が、盤面から視線を移して名を呼んだ。にとりはそんな彼女に振り返ることもなく、
「胡瓜採ってくる。好きに腐ってなよ」
言葉少なに吐き捨てて、開いた扉を後ろ手に閉めて出ていくにとりの姿を、椛はそれ以上何を言うこともできずに見送った。
金属と金属の触れ合う音を欠いた巨大な箱の中。それまでと変わらず、ぱちりと乾いた駒の音が鳴った。
「あなたの番ですよ、椛」
冷めた口調で文が言う。椛はそれでもしばらく閉じられた扉を見つめてから、小さな嘆息とともに文に向き直った。真っ直ぐに文の瞳を覗きこんだ椛は、駒を手に取ることもなく口を開く。
「やっぱり、にとりに悪いですよ」
紡がれる言葉は、表情と同じくどこまでも真摯なものだ。微かに下がった眉尻は、今この場にはいないにとりに対する申し訳なさが窺える。
何一つ嘘の無い態度の椛とは対照的に、静かに息を零す文の言葉は、不機嫌なままに軽薄だった。
「私もあなたも、にとりさんとは苦楽を共にできる仲でしょう? 遠慮した方がかえって失礼だとは思いませんか?」
「無礼を承知で申し上げれば、文様が言うと嘘臭く聞こえます」
そんな文に応える椛は、口調こそ丁寧なものの、告げる言葉と向ける視線の双方には、薄くとも確かな敵愾心が込められていた。椛の偽りない心境を一片の誤りもなく酌み取りながら、それでも文の気だるげな表情は小揺るぎ一つしない。
「一言一言の力が希薄であるからこそ、我々記者というのは多くの言葉を尽くすのです。事実を並べ、私たち自身が導き出した答えが真であると、語り聞かせる相手が自ら判断し納得できる材料を、ただ陳列する。ほんの二言三言程度では、真偽を疑われるのも仕方ないでしょう」
「そうでしょうか? 私は文様が言葉を重ねれば重ねるほどに、総体としての重みはそのままに、一言が軽くなっていくように感じるのですが」
「それはあなたが最初から私を疑っているからです。記事とは読者の感性が公平であることを前提に書かれます。色眼鏡で見られたのではどうしようもありません。第一、言葉の重みと口数のどちらが先に立つかを議論するのは、親子丼と同じですよ」
次第に表情を険しくする椛を見やりながら、文はしれっと言ってのける。
だが、彼女は短く鼻を鳴らすと、どこへともなく向けていた目をやおら椛へと移して、
「……ま、そんな言葉遊びであなたが納得しないことは分かってますし。別の答えを用意しましょうか」
「別の……?」
訝る椛。腕を組んで鷹揚に頷くと、文は先までとは一転した沈痛な表情を作り言う。
「まぁ実際のところ、にとりさんに迷惑をかけている自覚は私だってありますよ。ですから後々、お詫びとお礼を兼ねて、何かお返ししようとは思っています」
露骨な表情の変化といい態度の違いといい、その胡散臭さは先までの比ではない。が、それでも彼女の発した意味深な言葉は、胸の内に燻る苛立ち以上の興味を椛に抱かせた。
「お礼、とは? にとりが何かをしたのですか?」
「していませんよ、今は、まだ。ですが近いうちに助けてもらうことになるかもしれません。そしてそれがなるべく近いことを、私としては願っています」
椛の問いかけに、文はその問い以上の答えを寄越さない。苛立ちとはまた違った焦燥感が、椛の胸中に浸み入ってくる。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ文っ」
だが、彼女が次の質問を投げかけるより早く、そこに口を挟む者がいた。それまでずっと床に座り壁に背を預けていたはたてが、いつの間にやら二人の方へと近づいてきていた。
やや虚を突かれて彼女に振り向く椛だったが、それについては文も同じだったらしい。自分を見つめる四つの瞳に、四つん這いのまま寄ってきていたはたてが、気圧されたように一歩後退しつつも唸った。
「にとりの家にみんなして集まったのは、今の状況をどうにかするためだっていうの……?」
「ええそうですよ。それが何か?」
何ら気負う様子すらなく頷く文だったが、椛とはたては揃って驚愕に身を震わせた。二人の反応を目にしても、文は笑むことも訝ることもなく、座したまま動じない。
椛は完全に言葉を失って文を見つめていたが、はたては次なる疑問を突きつける。
「じゃ、じゃあ、私には何かさせようとしてるわけ!? 私を家から無理矢理引っ張り出してきたのも、私の手を借り――」
「ああ、それはありませんよ。特にあなたの助力を得ようとは考えていません。というか必要としていませんし」
だが、彼女が言い切るよりも早く、文がそれを遮った。気勢を削がれて口ごもるはたてに、文はぴっと一本指を突きつけて続ける。
「私があなたを連れてここへ来たのは、あくまで善意あってのことです。これに関しては椛も同様ですよ。もっと言ってしまうと、私一人の立場を回復するだけならば、今のうちからにとりさんの家に押し掛ける必要すらありません。ま、一人で自宅に籠っているのも、精神衛生上はあまり好ましいとは言えませんけどね」
一息に言い切ると、文は小さく肩を竦め、ようやく口元に微かな笑みを見せた。とはいえ苦笑じみたその笑みは、先の意図がどうであれ、今という時間を苦痛に感じていることを雄弁に示していた。
だが、彼女の語った内容は無視できない。はたては苦悶にも似た吐息とともに眉根を寄せて、今一度文を睨みつける。
「善意ぃ? あんたの口から出るにしては、随分とまたらしくない言葉ね」
「信用されないのは初めから分かっていましたけどね。そもそも信じさせる気があるなら、私ももう少し言葉を選びますし」
はたてとしては精一杯の厭味を込めた言葉だったのだが、文は平然と言いながら、一向に進まない盤面へと意識を戻してしまった。言葉の通り、はたての反応が予想と寸分違わぬものだったが故の行為だが、はたてからしてみれば、自身の言葉の何倍もの厭味としか思えない。
こめかみに青筋を浮かべつつ、はたてはやおら立ち上がった。大股で部屋の扉へと歩み寄ると、ノブに手を掛けてから文に振り返り、
「何するか知らないけど、あんたに貸しなんか作らないわよ私は! 後でどんな見返り求められるか分か――ブッ!?」
が、突如内向きに開いた扉が、彼女の言葉を遮った。頭を痛打されよろめくはたてを余所に、飛び込んできた影がずさりと床に横たわる。
動きを止めたそれを、文と椛は思わず凝視した。目を瞬き、二人はどちらからともなく口を開く。
「……ぇえと、これ」
「にとりの鞄、ですよね……?」
顔を見交わして確認するものの、やはり目の前の現実は変わらない。よく見知った緑の鞄は、常日頃にとりが背負っているものに相違なかった。
強いていつもと違う点があるとするならば、得体の知れない金属筒が左右対称にはみ出していることくらいだろうか。恐る恐る椛が手を近づけてみるが、触れなくとも分かるほどの熱を帯びている。
「……どういうことでしょう?」
「なんか、こんなのも落ちてるわよ……」
痛む頭を押さえながら、はたても結局二人のもとへと戻ってくる。その手には、一枚のメモと思しき紙片が握られていた。差し出されたそれを、文と椛は覗きこむ。
そこにはただ一言、否、一言にすら満たない言葉が綴られていた。
『さらわ れ 』
「……頭のお皿でも割れたの……?」
「いや、もともとないですから」
同じくメモの内容を認めて、はたてが首を捻りながら呟く。それを椛がツッコミ気味に否定した。
呆然としていた椛だったが、硬直していた思考が動き出すと、メモの示す意味を即座に理解する。その途端、彼女の顔色が一瞬にして褪せた。彼女は文とはたてを交互に見ながら、
「え、え!? つまりこれ、にとりが誰かに浚われたってことじゃ……」
「恐らく、そういうことなんでしょうね」
狼狽も露わな椛たちとは対照的に、文は落ち着いた様子で頷いた。その双眸は鋭く据わり、先までの掴みどころのない態度から一変した雰囲気を醸している。まさしくその眼光は、獲物を視界に捉えた狩人のものだった。
だが、小さく吊りあがった口元に、椛は頼もしさや不気味さよりも先に怒りを抱いた。
「……想定通り、とでも言いたげですね」
さながら炭火の如く、揺らぐ炎を見せぬままに燃え盛る熱を思わせる、深く凄みを利かせた声音。だが文は臆した様子もなく、大仰に両手を開き言う。
「まさか。こんな形で助成を得ることになったのは予想外です。ですがまぁ、望むべき展開であることは認めましょう」
「ッ貴女という人は――」
しれっと嘯く文を睨みつけ、椛は一歩詰め寄りながら牙を剥いた。今にも襲いかかりそうな鬼相は、気の弱い者ならば目にしただけで腰を抜かしそうなほどに凄絶だ。事実、はたてが息を詰まらせて肩をぶるりと震わせる。
そんな椛に対する文の返礼は、一つのため息だった。猛獣の眼差しを真っ直ぐ見返す文の瞳は、半ば以上が呆れに埋め尽くされている。
想像の外にあった反応に、思わず椛は鼻白んだ。言葉を失った椛に代わり、文の方が彼女に語りかける。
「ひょっとして勘違いしているかもしれませんが、私だってにとりさんが本当に危険な目にあっているとなれば、さすがに黙ってはいませんよ。今この場で平静のままいられるのは、彼女に危険がないと踏んでいるからです」
「で、でも何でそんなことが……」
たじろぎ、どもる椛。そんな彼女に、文は諭すように言葉を紡ぐ。
「簡単なことです。にとりさんはわざわざ自分が浚われた旨を、鞄を飛ばしてまで私たちに知らせました。けれどももし不逞の輩に襲われたとして、撃退するにせよ逃げるにせよ、その鞄は手元にあった方が都合がいいでしょう」
「!?」
「にとりさんは自分を浚った何者かを前に、鞄は不要と踏んで切り捨てたのです。相手の真意も分からぬうちにそれを実行に移すほど、にとりさんも馬鹿ではありません。要するに、犯人はにとりさんを拉致する目的を明白にしており、且つそれをにとりさんが承知しているということになります。となれば、今も何の危害を加えられることもなく、無事そのものである可能性が高いでしょう」
淀みなく説明を終える頃には、椛の両目は真円に見開かれていた。それほど受けた衝撃が大きかったのだろう。そんな隙を突くようにして、文はおもむろに椛の手を取った。
「まあそうは言っても、確認の必要はありますし。ちょっと来てください」
「へ? あ、文様どちらへ?」
椛が戸惑いの声を上げるものの、文は有無を言わせずその手を引き、開けっぱなしの扉を潜り抜けた。たたらを踏みながら椛が後に続く。
椛を家の外へと引っ張り出し切ると、文は今度は彼女の背後に回り込んだ。もうずっと意図の読めない文の行動に、半ば為されるままとなっていた椛だったが、突如その細い腰に文の腕が絡みついた。思わず小さな悲鳴が零れ出る。
「ひゃ!? な、なにしてるんですかあなたはッ!? 早く放してください!」
もがきながら抗議する椛に、しかし文はなおも強く抱きつきながら、
「暴れないでくださいよ。バランス崩すと危ないですから。さ、飛びますよ」
「飛ぶ? って――」
「よっ」
ばさりと音を立てて翼を開き、文が掛け声をかけた瞬間、椛の視界が急変した。
文に抱えられたまま、身体は一瞬で遥か高みに達していた。眼下に見える木々の木の葉は、驚くほどちっぽけにしか見えない。
一人では見ることはできない――とは言わずとも、決して容易ではない高度への跳躍。よく見知ったはずの山でさえ見違えるような体験に息を呑む椛だったが、冷や水のような文の声が彼女の耳を打つ。
「せっかくなので、あなたの力を借りることにしました。ここからなら探し物も見つけやすいでしょう」
「……何を探すんですか?」
「交戦の形跡、あるいは負傷した見廻りの天狗、といったところですね。そのどちらかが見つかれば、ひとまず上々です」
一瞬抱いた感動を振り払って、敢えて無表情のままに問い返した椛に、文は目を合わせることなく、ただ眼下の光景を見下ろしながら答えた。椛が思わず顔を顰め唸る。
「そんなものが見つかったとして、どこに喜ぶ理由があるのですか……」
「直に分かりますよ。さあ、見つかりますか?」
何とも気乗りしない用件ではあったが、にとりの安否を確かめるためとあればそれも仕方ない。意を決して、椛は自らの両眼に意識を集中した。
千里眼。それこそが哨戒天狗としての椛を支える最大の強みだ。一気に狭まる視界を慎重に制御し、眼下の光景を走査して、彼女は文の言った通りのものを探す。
しばらくして、椛が小さく息を呑むのが聞こえた。敏感に察し、文は抱えた椛の耳元に囁きかける。
「あったようですね。何処です?」
「……俯角15度、11時方向です」
「分かりました。もう一度移動しますから、そのままでいてくださいね」
椛の指示した方向へ向けて、文が身体を傾ける。椛をしっかりと抱え直し、背の翼を一度大きく羽ばたかせる。滑空するように二人の身体は虚空を泳いだ。
地面に近づいたところで、椛が文の腕を軽く叩いた。意を酌んで、文は椛の身体を解放する。
短い距離を落下して危なげなく着地するや否や、椛はついさっき高空から認めた影へと駆け寄った。
「大丈夫ですか二人とも!?」
声を荒げ、倒れた人影の一人を抱き起こす椛。この区画を担当する哨戒の白狼天狗であり、謹慎に処された椛の代理として今は部隊を纏めている少女は、椛の腕の中でゆっくりと瞼を開いた。
目立つ外傷こそないが、顰めた表情は痛みを堪えていることを雄弁に語っている。だが少女はそれを気力で捩じ伏せると、切れ切れながらも言葉を紡いだ。
「すみませ、椛姉さま……余所者の、侵入を、防げず……」
「そんなことは構いません! それで、襲撃者の特徴は!?」
「……彼女です。いつもの、白黒の魔法使い……」
椛の剣幕に気圧されながらも、少女はそう答えた。耳にした瞬間、椛が大きく両目を見開き、
「馬鹿者ッ!! 彼女と相対したら、無理はせず退けと言っただろう!!」
激しい恫喝が草葉を揺らす。彼女に抱えられた少女だけでなく、離れた場所で身を起しかけていたもう一人も、思わずその身を縮ませた。
そんな折、怒りに燃える椛に水を差したのは文だった。
「それくらいにしておきなさい。彼女たちとて、本来の指揮官なしに十全の働きはできない。そういうことです」
「…………」
「なるほどあなたがいたのなら、足止めをしつつ退いた後、後方で味方と合流という判断もできたでしょう。しかし彼女たちはまだ未熟です。自分たちだけでその決断を下すのは難しいでしょう」
「……確かに、私にも責任があることかもしれませんが」
「いいえ、あなたに非などありませんとも」
椛が苦虫を噛み潰したような表情で肩を落とす。だが、そんな彼女に文が向ける笑みは、彼女を落ち着かせる穏やかなものではなかった。
口の端は薄い冷笑を刻み、瞳は細く絞られている。どこまでも酷薄な笑みを浮かべる文の姿に、椛の背筋を悪寒が駆け抜けた。我知らず身震いした椛へと、文が視線を移して言った。
「さて、これで襲撃者、ひいてはにとりさんを浚ったと思しき人物が誰か分かりましたね。もっとも、概ね予想通りというところではありますが」
あっけらかんとした口調とは裏腹に、彼女の纏う気配は未だ薄ら寒いままだ。たじろぐ椛の心境を知ってかしらずか、文は小首を傾げてみせながら彼女に尋ねる。
「では次です。『彼女』がにとりを山から連れ出して向かいそうな場所、となれば、どこか分かりますか?」
「……まあ、多分『あの店』だとは思いますけど」
「けれど確証がない。動くためにはそれが欲しい。そんなところですか?」
「むっ……」
「相変わらず頭が固いですねえ。動かなければ分からないこともあるんですよ?」
小さく鼻を鳴らす文を、椛はむっと睨み返す。だが、その視線には先までほどの苛烈さはない。温い視線を微笑で受け流し、文は肩を上下に揺らした。
「証拠だったらあるわよ。ほら」
唐突に、烏羽の羽音が舞い降りる。椛と文の間に降り立ったはたてを見つめ、文はわざとらしく目を瞬いて言った。
「おや、まだいたんですか、はたて?」
「っさいわね。ここまであんたの意図が見えてきた後じゃ、今さら退けないわよ」
「ほほう。要するに私に貸しを作りたいと?」
嘲笑めいた笑いとともに言う文を、はたてはこれ以上ないほどの仏頂面で見やった。髪を振り乱して手にした念写機を開くと、画面に映った画像を突きつける。
「こっちからも情報出してあげるって言ってんの! ほらこれっ」
「何ですこれ……ってああ、なるほど。椛も見てみます?」
ひとたびは眉を顰めた文だったが、すぐにその画像の示す意味に察しがついたらしい。彼女に促され、椛もまたはたての念写機を覗きこむ。そして不審げに表情を歪め、はたてを見、文を見て、再び視線を念写機へと戻した。
そこに映っていたのは、あまりにも珍妙と言わざるを得ない光景だった。眠たげな目をした、何の生き物を模したのかさえ分からない毛むくじゃらのぬいぐるみの隣には、羽根を幾つもつけた機械装置。さらに隣には茶筒、そのまた隣にはカメラ。
雑多ということすら生温い、混沌としたガラクタの集まり。だが、そんな場所を椛は一か所だけ知っていた。問題は、何故はたてがいきなりその写真を持ち出したかだ。
椛の目の色に気づくと、はたては少し得意げに鼻を鳴らし、
「前ににとりが、私の念写機と同じような形したカメラを修理してたから、試しに念写してみたのよ。撮影時刻はついさっき、撮影者は河城にとり。それとこの写真の関係は――分かるわよね?」
「あ!」
はたてに言われ、ようやく椛にも分かった。紛れもなくこれは、今にとりがいる場所を示す、これ以上ない証拠だ。
丸い目の椛を余所に、はたてと文は言葉を交わす。
「で、この後の算段はついてるのよね。にとりに協力してもらうつもりだったってことは、元は機材を借りる気だったとか?」
「ええ。予期していたよりずっと大きな貸しを作ったことになりますね。ですがまぁ、現状を早急に打開できるのならば、喜びこそすれ厭うことはありません。あなたにも貸しを――」
「少しでも早くどうにかしたいんでしょ。記事の準備は手伝うわ。それでどう?」
「邪魔になるだけのような気もするんですけどねえ……」
「あんたいい加減しばくわよ……!」
険悪な様子に見えて、しかし二人の間にはどこか和気藹々とした、『いつも通り』とも言うべき空気が流れていた。
クスリと笑みを零し、文は首を巡らせて椛に向き直る。ぴくりと椛の肩が跳ねる。それに再び楽しげな息を漏らして、
「もう十分ですね。私はこれからにとりさんを迎えに行きますが、さて、あなたはどうしますか?」
言いながら、彼女は片手を差し出した。まるで、返答など分かっているとでも言わんばかりに。
思い通りの行動をとるのが、素直に従うのが、不愉快でなかったといえば嘘だろう。文やはたてが何をするつもりなのか未だに知れないことにも、不安がないわけではない。
それでも椛は、一瞬の躊躇いもなくその手を握り返した。
「行きます。私も一緒に、にとりのもとへ」
輝く双眸に、ただ友人を助け出すという使命感だけを漲らせ、椛はこくりと頷いた。
迷いはない。文の企みも、にとりを浚った者の打算も知ったことではない。少なくとも彼女にとって、にとりを迎えに行くということは、疑う余地なく『正しいこと』なのだから。
■ ■ ■
「つーかにとりよぉ……折角連れて来てやったのに、何でお前鞄捨てちまったんだぜ?」
魔法の森に、一件の道具屋がある。
外の世界と幻想郷の特異点、無縁塚で蒐集した物品を主に取り扱うその店は、名を香霖堂といった。立地が祟り客足こそ少ないものの、独特の品揃えや店主の奇異な仁徳は、ごく一部の者たちを足繁く通わせる理由となっている。
にとりを拉致した張本人、霧雨魔理沙もそんな常連の一人だ。黒のとんがり帽子からは金色の長髪が滝のように零れ、白と黒のエプロンドレスと相まって、どこか華やかな対比を生み出している。
が、日頃から憚ることのない奔放で身勝手ともとれる性格は、彼女がまだ大人などではなく『少女』であることを示していた。
「捨ててなんかないよ。ちゃんと制御できてれば家に着いてるはずだし」
「今この場に持ってきてないんじゃ同じだろ。何だってンなことしたんだよ……お前にしたって、外の機械に触れるまたとない機会だろう? 道具箱放り出すなんて、どうかしてるぜ」
店主の不在の店内に我が物顔で踏み込んだ魔理沙は、不機嫌ながらも怪訝そうに眉根を寄せながらにとりを見下ろした。問われたにとりは、何故か少しはにかみながら、
「まぁ、私だって惜しいことしたとは思うけどさ。けど今回は何て言うか、友達の方を優先したってとこかな」
「んぁ? それはどういう――」
いまいち意味の掴めない答えに、魔理沙は首を捻りながら再び問いを投げようと口を開いた。だが、にとりの方はこんなことなどお構いなしに、小型カメラでそこら辺の棚を撮影している。ぱしゃっ、と響く電子音が、どこまでも空虚に聞こえてならない。
露骨にため息をついて、魔理沙は無人のカウンターに目をやった。
「ったく、聞いちゃいねぇ……おまけに香霖の奴までいないときやがる。さっさと帰ってきて、茶の一杯でも淹れろってーの」
「あ、魔理沙魔理沙」
「お、何だ? 面白いもんでもあっ……」
不貞腐れた魔理沙を呼ぶにとりの声。たちまち喜色を浮かべて振り返る魔理沙だったが、彼女と対面したのはにとりではなく、暗い眼窩を覗かせる鈍色の鉄だった。思わず魔理沙の思考が停止する。
大きく一度瞬きするが、再び目を開いても視界の光景は変わらない。両手で拳銃を構えたにとりが、魔理沙の額を照準しているという事態に、一切の変化は訪れなかった。
「……何してんだ?」
「ふっふっふ、ホールドアップだよ魔理沙」
「心臓に悪い冗談はやめてくれ」
楽しげにニヤニヤ笑うにとりの銃を、魔理沙は嘆息とともに片手でどけた。つれない態度に魔理沙に気を悪くした風もなく、にとりは手の中の拳銃に熱の籠った視線を注いでいる。
「いやー、やっぱり格好いいよね銃って。無駄に。今度私も作ってみようかなぁ」
「無駄に作るのか?」
「作ることは無駄なんかじゃないよ。無駄なものを作るだけで」
「違いが分からんぜ……」
呆れたような声で唸りつつ、魔理沙は薄い苦笑を浮かべてみせる。にとりは元あった場所に銃を戻しつつ、なおも棚を物色しにかかった。
びゅうっ!
「ぅおわ!?」
そんな時だ。暖簾をはためかせて、一陣の風が店内に吹き込んだ。翻りかけるスカートの裾を慌てて押さえ、魔理沙は目を風上へと向ける。
押し上げられた暖簾、それが垂れ下がるよりも早く、一人の人影が駆けこんできた。咄嗟に身構える魔理沙の脇を抜け、影は一直線ににとりに跳びついた。ぎょっとしたにとりの顔が、白い服に覆い隠されて見えなくなる。
「にとりっ! 良かった、大丈夫だった!? 怪我とかない!?」
「ちょ、椛、落ち着きなよ。大丈夫だよ」
「だーから絶対に無事でいますって言ったじゃないですか。もうちょっと信用してくださいよ」
「心配症って言うか、にとりが愛されてるっていうか……」
颶風とともに現れたのは、椛だけではなかった。縺れじゃれ合う椛とにとりをどことなく白けた目で眺めながら、文とはたてが遅れて香霖堂に踏み込んでくる。
完全に店内に入ってから実に一分ほども経ち、そこで文はようやく魔理沙を見た。わざとらしく目を丸め、
「おや、魔理沙さんじゃありませんか。今日は一体どのようなご用件で?」
「その台詞、そっくりそのまま打ち返してやるよ。お前らこそこんな辺鄙なところまで、何しに来たっていうんだぜ?」
そう言う魔理沙の顔は苦り切っている。だが、そんな彼女に向けられたのは、文にしては珍しい、屈託のない満面の笑みだった。間の当たりにした魔理沙が思わずたじろぐのにも構わず、文は彼女の放った問いに答える。
「決まってるじゃないですか。山から拉致された河童を一名、救出しにきたんですよ。他の誰でもない私たちの手で、ね」
「拉致ってもなぁ。本人の同意は得たぜ」
「でも警備を倒して押し入りましたよね?」
「さあ? 手こずった覚えはないな」
悪びれる様子など微塵もなく言ってのける魔理沙だが、文の意図が読めない不安から、その表情は僅かに曇っている。竦めた肩を戻すと、彼女は単刀直入に問いかけた。
「で、結局だ。本当にお前ら、何しに来たんだよ」
再度の問いに、文はちらりとはたてに視線を投げる。気づいたはたては、無言で首を左右に振る。顰めた表情が、言葉にするまでもなく『面倒くさい』と語っていた。
「まぁ、ただの確認ですよ。『妖怪の山に押し入った賊が、山の住人を連れ去った』という事実さえあれば、我々としては十分です。それが誰かや、まして報復などに興味はありません」
片手をひらひら揺らしつつ、文が言う。相変わらず明確な意味が見えない文の回答に、しかし魔理沙は少しだけ楽しげに目を光らせた。何より、自分に実害がないことが分かったというだけで十分だ。
「何だよ、よく分からないけど楽しそうじゃないか。私にも一枚噛ませろよ」
「生憎ですがそれは無理――というより、むしろ既に噛んでいらっしゃいますからねえ。これ以上は天狗という種族の問題なので、立ち入りは御遠慮願いますが」
「ほほぅ、そりゃますます面白そうだ。なら、せめて片がついたら記事にでもしろよ。その号だけ買ってやるから」
ニヤリと笑みながら言う魔理沙だったが、文が浮かべた笑みは彼女以上に細く、鋭いものだった。さっきまでとは一転した、ぞっとするほど酷薄な笑み。魔理沙が小さく片眉を跳ね上げる。
「すみません、それもちょっと無理なんですよ。なにせ、頭の固い馬鹿どもを従わせるための、大事な大事な材料なので」
「……ま、別にいいけどさ、無理だってんなら」
ため息にも似た吐息を漏らし、魔理沙は文から視線を外した。改めて店内を見渡せば、さっきまでのにとりよろしく辺りを物色しては撮影に勤しむはたてと、未だ椛の腕に収まったままもがくにとり、彼女を抱きすくめる椛の三人がひしめいている。すし詰めと言っても過言ではない状況だ。
そんな折、おもむろに店の奥で物音がした。
「――誰かいるのかい? さては魔理沙だな。店は閉めておいたはず、だが……」
カウンターのさらに向こう、居住スペースから顔を覗かせた店主の森近霖之助が、姦しいと言うにも二人ほど多い状況を目にして言葉を詰まらせる。
魔理沙と文が彼に目をやるものの、他の三人はまるで彼の存在を気に留めようともしない。霖之助は呆気にとられた様子で店の端から端までを目で追った後、説明を求めて魔理沙を見た。
「どういうことだい?」
問われ、魔理沙は微笑とともに肩を竦めて、
「私にもさっぱり分からん」
そう答えるしかなかった。
■ ■ ■
「して、謹慎に処された身で一体何用だ、射命丸文よ」
片膝をつき面を伏せた文に、重々しい声で問う者があった。簾の奥には声の主の他に、さらに二人の影がある。暗がり故に輪郭さえもはっきりとしないが、それでも背に負った一対の黒翼が見て取れる。
三名の大天狗を前にして、文もまた凛とした声で答える。
「はい。この度見かけました新聞にて、大天狗様方の目に留めて頂きたい記事がございましたが故、こうして馳せ参じました――これを」
言いつつ文は身を低くしたまま簾に近づき、懐から取り出した一部の新聞を簾の下から差し込んだ。下がる文と入れ代わるように、大天狗の一人が新聞を拾い上げ、ばさりと一面を広げる。
厚さは大したことはない。一面に大書されている通り、どうやら号外らしい。だが奇妙なことに、その新聞には名前も発行者の名も記されてはいなかった。
怪訝に思いながら読み進める大天狗だったが、徐々にその手が戦慄き始める。何事かと隣で見守っていた他の大天狗たちが、広げられたままの記事へと目を通し――やがて彼らもまた、同じように全身を小刻みに震わせるようになった。
無言となった大天狗たちへと、文は頃合いを見計らって囁きかける。
「――どうされましたか、大天狗様?」
「ッ射命丸っ、貴様ァ!!」
激昂した一人の大喝が、真正面から文へと浴びせられる。だが、当の文は涼しい表情のまま、
「私に怒りを向けられても困ります。私はあくまで、その新聞を見かけてここへ持ってきただけの、ただの部外者ですので」
淀みなく言ってのける彼女を、大天狗たちは揃って殺気の籠った目で睨みつけた。
掲載されていた記事は大別して、三つ。一つは非公式に将棋を指した射命丸文と犬走椛の棋譜――先日の花果子念報に掲載されたものと同じだ――そしてその勝敗についても触れている。そして次に、その文と椛、その棋譜を自身の新聞にて公開した姫海堂はたての三名が、揃って謹慎に処されたという事実。
そして三つめが、つい先の一件。犬走椛が警備隊長を担当していた区域から部外者が山へと侵入し、一名の河童を拉致、その後無事に保護されたという内容だ。また、椛が警備を外された後、それに対するフォローが為されていなかったことにも触れられている。つまるところ、彼女の謹慎を言い渡した大天狗たちの決断に対する疑問を呈していることになる。
これまで下されてきた大天狗たちの決断にも、反発する声がなかったわけではない。だが、今回は実際にそれによって問題が起きたのだ。事が明るみに出れば、彼らは大きな非難の材料を与えることになってしまう。まして、そのそもそもの発端が私怨にあるとなれば――無論それは否定するだろうが、だとしても――スキャンダルとしての規模は最早計り知れない。
そして、それを世間に知らしめ得る紙が今、眼前にある。
椛の不在がいずれ問題を引き起こすであろうことは、文も予見していた。にとりの家に押しかけたのも、その日が来たら印刷用の機材を借りるつもりでいたからだ。まさか彼女自身が記事のネタになってくれるとは、さすがに思っていなかったのだが。
「ですがご安心ください。私も天狗社会に生きる身、ご要望とあれば、この新聞が公開されないよう働きかけることもやぶさかではありません。ただし――」
怒りに震えながらもそれ以上の言葉が出ない大天狗たちに、文は身を低くしたまま顔を上げ、細く鋭い眼光をともにニヤリと笑んだ。
「ただし、そうすることで守られるのが、真に守るに値する社会であるならば、ではありますが」
「……望みは何だ」
苦々しい声色で、大天狗の一人が吐き捨てる。文はそれに満足げに頷き、答えを返した。
「まず一つ。私と姫海堂はたて、そして犬走椛。以上三名の謹慎を、即刻解いて頂きたく存じ上げます」
前置きの後に、そう告げる。彼女の言葉を受けて、簾の奥で大天狗たちは目配せを交わし合った。だが、言葉にして相談するまでもない。少なくともその程度で最悪の事態が回避できるのならば、応じない手はない。
しばしの間を開けて、最初に文に問いを投げた大天狗が再び口を開く。
「他に要求があるというなら、言うがいい」
言葉を受け、文は改めて面を上げる。シルエットしか見えない三人を舐めるように見回して、彼女はそっと言葉を紡いだ。
「ではもう一つ。大天狗様方のお口から直接、出して頂きたい声明がございます」
「申してみせよ」
「簡単なことです。『烏天狗、白狼天狗の双方ともに、今後の将棋大会における一切の手加減を禁ずる』と――」
がたんっ
突如、坐していた大天狗が肘掛を蹴倒し立ち上がる。簾を押し退けて今にも文へ迫ろうとするのを、左右の二人が必死で押さえていた。
「戯けたことを抜かすのも大概にせよ! 射命丸文、貴様は我らと同じ烏天狗でありながら、その誇りに泥を塗るつもりか!?」
それでも立ち上がった大天狗は、簾越しに文へと指を突きつけ、憎悪とさえ呼べるほどの凄烈な怒気を叩きつける。それを見返した文の口元に浮かぶのは、嘲弄に満ちた冷ややかな微笑だった。
あっけらかんとした口調で、文は率直に告げる。
「私と致しましては、大天狗様の仰る誇りとやらの在り様は、まるで理解できません。烏天狗の力を誇りたいというのなら、他に然るべき手段というものがあるかと存じますが。それをなさらず、過去の成り行きだけで手に入れた権力を振るい自らを高い位置に飾ることに、一体どんな矜持をお持ちで?」
「口を慎めッ、射命丸!」
彼女の言葉に、ギリギリの位置で平静を保っていた残る二人の大天狗も、揃って目を剥き声を張った。彼らが持つのは権力だけではない。単純な力においても、それぞれが軽く文を凌駕している。
文の言葉は普通なら、自らの命を危機に晒すも同然のものだ。が、それでも文は余裕の笑みを崩さない。
「主導権がこちらにあることはお忘れなく。私がその新聞の発行を差し止められるということは、逆もまた然り。私以外の当事者がこの場にいないことも併せて、冷静な判断を下して頂けるという私の期待が、愚考でないことを祈りますよ」
あくまで挑発的な態度を崩さない文へと、大天狗たちは殺気を叩きつける。誰かの歯軋りが届いたような錯覚を覚え、文は涼しい顔の裏側で、一筋の冷や汗を流した。
大天狗へと放った最後の一言は、まさしく彼女の混じり気ない本音だ。目の前の三人が少しでも冷静であれば、自分の命に危険はない。だが――もしも彼らが、文が最低限と見込んだ程度よりもなお短慮であったなら。
その場合、彼女は無残な骸を仲間たちに晒すことになる。そして今の大天狗たちの様子を見る限り、あるいはそれは杞憂で済んでくれないかもしれない。
「――ならぬ。貴様の要求、断じて呑むわけには行かぬッ!」
一体どれほどの時間が経ったことか。唸るように言い放ち、大天狗の一人が簾を跳ね上げて進み出る。片膝を立てた体勢のまま、文が微かに肩を震わせた。
「……ご再考頂けませんか、大天狗様」
「くどい!」
文の言葉にもにべもなく答えて、さらに一歩。見た目こそ老いているものの、その矮躯が纏う妖気は文の比ではない。物理的な衝撃にすら等しいプレッシャーを浴び、文はいよいよ逃走を試みるべく、背の両翼に力を込めて――
「そこまでだ。双方、鎮まるがよい」
だが、文の背後からかかった声が、彼女のみならず大天狗の動きをも止めた。大天狗たちは三人とも先までの威勢が嘘のように、顔面を蒼白にして声の主を見つめている。文でさえ驚愕の表情を浮かべ、振り返ることすらできず硬直した。
決して、よく聞き知った声ではない。だがそれでも、山に住まう天狗ならば知らないはずがない声。大天狗よりもなお上位に君臨する、遍く天狗たちにとって絶対の存在。
即ち、天魔。
「無粋を承知で立ち聞きさせてもらった。もっとも、粋を感じるには些か、粗末な茶番ではあったがな」
文が背後に感じる妖気は、先の大天狗など及びもしないほどに強大だった。にも関わらず、その口調は重々しくはあろうとも、殺気や敵意を含んだものではない。ただの何気ない話でもしているような調子だ。
意図の読めない登場に全員が沈黙する中、天魔はおもむろに眼下を見下ろす。
「射命丸文、だったな。そう畏まるな。こちらを向いて面を上げよ」
「……恐れ多きお言葉にございます、天魔様」
天魔が言う。それに文は、面を伏せたまま振り返り、そう言葉を返した。その言葉尻が隠しようもなく震えていることを、文は凍りついた表情とともに自覚する。
「私め如きが、直にお顔を拝見するなど失礼の極み。どうか、ここままでお応えすることをお許しください」
それにも構わず文は続けるが、天魔はそれに「呵っ」と笑い、
「それなら案ずることはない。戯れでな、面をしておる」
そう、惚けた調子で言ってのける。
「だが、おぬしがそのままを望むのであれば、無理にとは言わぬ。それより、だ――」
だがその直後、にわかに彼の声が険呑な響きを帯びた。ただそれだけで、その場の全員が肩に重石を乗せられたような感覚に襲われた。
天魔は己の告げた通りの朱塗りの天狗面越しに、鋭く眼光を走らせた。向けた先は、簾を払って進み出た大天狗。威圧感に貫かれ、たちまち彼は動きを奪われる。
「鉄斎。二つに一つだ、答えるがよい。白狼天狗が烏天狗に手加減をせねばならぬという話、これは真か? それとも流言飛語の類なのか?」
「りゅ、流言にございま――」
鉄斎と呼ばれた大天狗がどもりながら答えようとした瞬間、文の視界にあった天魔の影が消え失せた。
遅れて聞こえたのは、意識を失った鉄斎が床にくずおれる、どさりという重たい音。反射的に文が振り返れば、そこではいつの間にか移動した天魔が、まだ簾の奥に姿を隠したままの二人の大天狗を、面をつけたままの顔で睨みつけていた。
恐怖のあまり、今にも腰を抜かしそうな大天狗たちへと、天魔は静かな声で語りかける。
「棋譜を見たのだ」
最初、誰しもが何のことを言っているのか分からなかった。だが、この場で話題にするものがあるとするなら恐らくは、文と椛のあの一局のことであろう。
文の予想を裏付けるように、天魔はさらに語る。
「心躍る一局であった。棋譜を見るだけでそれが分かった。儂はその棋士たちを一目窺うべく、山の頂きを降りた。だが――どうだ。聞けばその二人、ぬしらの命にて処分を言い渡されたそうではないか」
言葉を口にする余裕のある者など、もはや天魔以外にはいない。それでも構わぬとばかりに、天魔はなお続けた。
「これはどういうことだ? よもや烏天狗が白狼天狗に破れたから、というわけではあるまい。鉄斎の言を信ずるならばなおのこと、な。しかし、それならば納得のいく回答を得られねば気が済まぬ。さあ言え。如何なる理由があって、射命丸文と犬走椛を罰した?」
「ぁ……ぅ……」
「さあ、答えぬかッ!!」
大喝。
天魔がほんの一瞬、怒りを露わにして放ったその大音声に、残る二人の大天狗は先の鉄斎よろしく、総身から力を失って倒れ伏した。
何も、天魔が特別な力を行使したわけではない。恐怖と緊張のあまり気絶しただけだ。何とも呆気ない配下たちの様に、天魔は見下すように鼻を鳴らす。
そうして、彼はぽかんと呆ける文へと振り向いた。思わず顔を上げていた文は、天魔の朱い天狗面と対面することとなった。
強張った表情で固まる文へと、天魔は先までとは一転した穏やかな声で言う。
「此度の件、こ奴らに代わって詫びよう。儂がもう少し、こ奴らの手綱に気を配っておれば、このようなことにはならなんだ」
「い、いえそれは……」
「大天狗三名、近々解任することとなるであろう。次代は烏天狗が増長せぬよう、一人か二人は白狼の者を任ずるもよかろうな。それについては、儂一人が決めることではないが」
世間話のように言う天魔だが、その声には微かに苦さが混じっていた。まがりなりにも信用していた大天狗たちの実状がこれだったのだから、それも分からなくはない。
「おぬしらの処分は即刻解こう。射命丸文、犬走椛、それに姫海堂はたて――あの棋譜の新聞の製作者だな。三名とも、今後とも励むがよい」
そう告げて、天魔は歩を進めて文とすれ違った。そのまま立ち去ろうとする天魔を慌てて振り返り、文はその背に声を投げかける。
「あの、天魔様っ! もう一つの件は……」
「ん、おぉ。将棋大会に関する声明の件だな。無論、儂から呼びかけておく。案ずるでない」
振り返ることもなく答える大天狗に、文は安堵の息を吐いた。
それが聞こえたのだろうか。足を止めていた天魔がふいに、やはり振り返らぬまま言った。
「そうだ、射命丸よ。一つ、申しておくことがある」
「は、はい。何でございましょうか?」
途端に身を固くして、半ば反射的に返す文へと、天魔はどこか冗談めかした口調で、
「近頃将棋を指す相手もおらぬでな。いずれ、おぬしと犬走、我が元へ呼ぶこともあるやもしれん。その時は応じてくれるか?」
「ぅえっ!? い、いいいえそんな恐れ多いこと……!」
「呵々、そう言うでない。本にあの一局、叶うなら我が目で見たかったものよ。ぬしらはそれほどの棋士であるのだと、胸を張るがよい」
大笑しながら、天魔はあくまでも文に背を向けたまま語った。戸惑いを隠せない文だったが、しばし返答に迷った後、無難な言葉を選んで言う。
「えぇ、その……勿体なきお言葉です」
「うむ。まあ、儂の招集に応じるか否かは、そのときのおぬしたちに任せるとしよう。よい返事を期待しておる」
天魔はひとつ頷き、ばっ、と背の両翼を広げた。
次の瞬間、その姿は跡形もなく消え失せた。目を丸くする文の視界でただひとつ動いていたのは、彼の背から抜け落ちた黒い羽根が一枚だけ。ひらりと風に躍るそれを、文は呆然と口を開けたまま見送って、
「……はぁ」
まるで狐にでも抓まれたような、腑に落ちないため息を漏らしたのだった。
■ ■ ■
ぱちっ
「これで詰み、ですね」
「むむむ……」
眉根を寄せる椛に言って、文は得意げに笑った。
あの一件が片付いた、すぐ翌日のことである。場所は再びにとりの家。ただし部屋を包む雰囲気は前日とは一転し、とても和やかだ。にとりは席を外しているが、はたては文と椛の対局を終始眺めていた。
一局を打ち終えて、文は胡坐をかいたまま大きく伸びをする。すると、見計らったようなタイミングでにとりがお茶を手に戻ってきた。
「お疲れ~。はいお茶」
「ありがとうございますー」
礼を言い湯呑みを受け取って、文は中の茶をずず、と啜る。
向かいでは椛が差し出されたお茶を受け取りつつ、盤上を睨みながらぶつぶつと呟いていた。はたては逐一撮影していた写真を遡り、対局の流れを追い直しているらしい。また記事にでもするつもりだろうか。
それもいいかもしれない。何せ今度は絶対に、咎められることなどないのだから。
「いっそ、花果子念報を将棋新聞に変えてみたらどうです、はたて?」
「う!? うっさいわね! 余計なお世話よ!」
鎌を掛けるつもりで文が言ってやると、はたては赤い顔で叫び返してきた。どうやら本当に記事にすることを検討していたらしい。思わずクスリと笑いを零すと、ますますはたての表情が険しく歪んだ。
下手な念写記事よりも余程人気が出るだろうとは思うが、かといって本当に将棋一辺倒の内容にするには、まだはたての腕では及ばないだろう。そう考えはしたが、敢えて文は口を噤んだ。さすがにそれは、はたて自身だって気づいていることだろう。
「……はたてさんっ、写真見せてください、最初から全部!」
「ちょっと、待ちなさいよ! 私だって今見てるとこなんだから」
「じゃあ今見てるとこからでいいですから!」
やがて、椛が噛みつくようにはたての傍に張り付き、渋る彼女の手元に食いついた。嫌々といった体で、それでも画像を順に送っていくはたてを、文とにとりは小さく笑いながら見つめる。
と、ふいににとりが、文の袖を軽く引っ張った。おや、と表情で問いかける文に、にとりは無言で扉を指で指し示す。
「ふむ……」
意図は読めないが、かといって断る理由は何もない。文は湯呑みを傍らに置いて、念写機の画面を一心不乱に見つめるはたてと椛を残し、にとりと連れたって家を出た。
外気に触れると、少しひやりとした。季節も時間も決して寒い時期ではないが、にとりの家は滝のすぐ傍にある。今も轟々と激しい水音が、二人の耳を打っていた。むしろこの音が室内に一切入ってこない、にとりの家の防音性こそ驚嘆すべきなのかもしれない。
「それで、一体どうしたんです?」
勿体をつけずに文が問う。片やにとりは曖昧な笑みを浮かべて、
「いやぁ。ああなっちゃうと椛は当分動かないだろうからさ。構ってもらえない寂しさのあまり、浮気でもしちゃおっかな~、とかね」
冗談めかして言うにとりに、文も小さく肩を竦めて言葉を返す。
「生憎とあの子の怨みを買う気はありません。まあ長引かないのであれば、浮気『ごっこ』にくらいは付き合っても構いませんが」
「意外にそういうとこ真面目だよね、文は」
「優しい、と言ってくださっても構わないんですよ?」
呆れともつかない吐息とともににとりが言う。そんな彼女に、文はおどけたように片目を瞑った。
が、ふいににとりがニマリと笑う。予想外の反応が、文の背筋を微かにくすぐった。
「うん。確かに文は優しいよね。すごく」
「ぅ、う……?」
いきなり手放しに褒めそやされ、文がたじろいだ。にとりはそんな彼女の反応を楽しむように、下から見上げながら囁く。
「いやぁ、ほんと優しいと思うよ。わざわざ椛やはたての謹慎まで一緒に解こうとするしさ」
「そ、そりゃ別に手間が変わるわけじゃありませんから。何も見返りがないことをしたわけではありませんよ? 二人に貸しを作るいい機会だったわけですし……」
「でもその貸し、返させる気なんてないでしょ」
文の声を遮ってにとりが言うと、文は一瞬言葉を詰まらせる。肯定に等しい沈黙に、にとりはただ笑うことで応えた。
「それに、あの新聞。いきなりばら撒いて大天狗たちを失脚させれば、事はもっと簡単だったのにさ。危ないのを承知で、大天狗たちの面目を保ったままで済むように交渉に行ったりね」
「う……」
「しかも、椛やはたてが何か言いだす前に、一人でこっそり飛び出していったし。万が一、二人が一緒に行くなんてことになったら、椛たちが危ないもんねぇ」
次々並べられる言葉に、文はただただ黙って表情を渋らせた。心なしか、彼女の頬が赤くなっているようにも見える。
満足げに頷いて、にとりは同じ言葉を繰り返した。
「うんうん。文は優しいね。いつもは斜に構えた態度のくせに、実はとっても仲間思いだもんねぇ」
「いや、別にそういう……というか何やらとても気分が悪いので、それ、やめていただけませんか?」
「どうしてさ? 『優しい』って言ってもいいんでしょ?」
「いや、だってまさかこんな……ねぇ」
「優しい文さんが友達で、椛もはたても幸せ者だな~。もちろん私も」
優しい、優しいと連呼するにとりを前に、文は見る間にその肩を縮めた。むずかるような表情は、彼女には珍しい、恥ずかしさと照れくささに染まっていた。
そんな彼女の姿を、にとりは嬉しそうに、誇らしそうに笑顔で見つめる。誰よりも優しい捻くれ者の友人の存在を、どこかの誰かに自慢するように、
「あーやーは~、やっさしぃーな――!」
「ぅわあああんもう黙ってくださいお願いだからぁ――っ!!」
唸る滝音にすら負けない大きさで、にとりと文の声が木霊した。
それとこれは解釈次第ですが、千年妖怪で幻想郷でも有数の力量のはずの文がそうは見えないあたりといった違和感が拭えませんでした
ただ、そもそもの謹慎事由がいくらなんでも無茶な気がする。あんな暗黙のルールがあるなら白狼と鴉は対局しなくなると思う。
>>姫海堂はたて
姫海棠
いびつな天狗社会の一面を切り取るという意味では成功ではないかと。
それぞれのキャラに見せ場を作ろうという意図は感じられましたが、
そこにとらわれ過ぎた感もあります。