※拙作『夏季熱と人形遣い』の続編にあたります。
前作も本作も当然のように幽アリは恋人同士です。
どちらも百合百合しい展開がございますので苦手な方はご注意ください。
知らなかったの、暑すぎると具合が悪くなるなんて
知らなかったの、人間だったら死んでしまうかもしれないだなんて
あなた、元人間って噂を聞いたわよ?
知らなかったの。あなたに…………が、こんなにも――――――
『一日千秋のち、琴瑟相和』
魔法の森の、アリス・マーガトロイド邸。
アリスの具合が悪くなった日からおよそ一週間たった。「残暑見舞い」の時期に入ったとはいえ、まだ夏真っ盛り。温度計は今日も既に三十度以上を示している。
本日アリスは人形のメンテナンスをしていた。暑さによって人形たちの身体に何か不具合が起きていないか、細部を確認するとともに服の破れやほつれのチェックをしていた。都会派の操るマリオネットだ、こちらもまたふさわしくしゃんとしてなければ。
そこへドアをノックする音がした。いつもの聞きなれた音。どうぞと声をかけるとお邪魔するわね、という声と共に幽香が入ってきた。アリスが元気そうなのを見て、ホッとした表情を見せる。それがなんだかくすぐったくて嬉しい。
今二人はソファの端っこと端っこに座っている。二人掛けのソファだから、もともとそんなにゆったりしているわけではないけれど、それでも今までにない距離が二人を隔てていた。それもこれも、先日あまりの暑さでアリスがダウンしてしまったせい。軽い熱中症だったと思われる。
その一件以来、家に遊びに来ても幽香はアリスにべたべたとひっつかなくなった。それだけでだいぶ快適だ。なにせそれまでは、ちょっと離れてとお願いしたって離れてくれなかったのだ。そんな幽香が気遣ってくれている。それがなんだか大事にされてる、愛されてる気がして、嬉しかった。
人形の服をつくろいながら、時々会話を交わす。いつもはくっついてることが多くて意識しない幽香の視線を、今日は距離があるからやたらと感じる。少し恥ずかしい気もするけど悪い気はしない。
メンテナンスが終わり、里へ一緒に行かないかと誘ったが断られてしまった。そろそろ終わりの花があるんだとか。それなら仕方がない。また明後日かその次の日くらいには来てくれるのだろうから。
しかしそう思っていたのに、三日どころか一週間たってしまった。
ちょうどキリのいいところだったので、読んでいた本をパタリと閉じた。いわゆるミステリ&ラブサスペンスの娯楽小説。登場人物の二人が、ミステリとサスペンスをひとまず棚上げにして、お互いラブなことが判明したところだ。
なんとなく、自分のラブがどうなったかが気になってしまって、それ以上読み進める気になれなくなった。別に今までだっていくらでもあるけど、一週間あくなんて珍しいな、と一息ついていたところで、ドアのノックが鳴った。待ち人来る。
一週間とあければ、話したいことも起こった出来事も増える。世間話から噂話、守矢神社の夏祭りの話、珍しい向日葵の発生、新しい魔法実験の成果、など。たまに相槌を打ちながら、ちゃんと話を聞いてくれるのが嬉しくて、たくさん話した。何より久方ぶりに目の前に幽香がいるのが嬉しかった。
相変わらず、幽香はアリスを気遣っているのか、距離を開けていた。普段座るソファではなく、テーブルに腰掛けたのがその証拠。久しぶりなのにな、と少々物足りなく感じないでもなかったが、それが幽香の思いやりだと思うたび、心がふわりとあたたかくなった。
そんなしあわせを感じながら、楽しい時間は過ぎていく。おもてなしとして出していたアイスティーを幽香が飲み干した。そのグラスを片づけ、テーブルを拭くために幽香の隣に並んだ時、幽香がアリスの腕を引いた。引かれるままに幽香の顔を見れば、どうしてか「しまった」という顔をしていた。どうかしたの?
「ん?」
短い声と目で問うたが何も答えない。あ、もしかして。そういえばまだ「ご挨拶」をしていなかった。
「キス?」
つぶやいたと同時にちゅっ、と短いキスをした。
「!」
いつもしてることをしたつもりなのに目を丸くした幽香の顔が少し気になった。けれど、驚かせてやったというのに満足して、幽香が「しまった」という顔をしていたことを、すぐに忘れてしまった。久しぶりだから照れちゃったのかしら。あとでそういう結論に達した。
その後、アリスとしてはそれなりの覚悟と気合をいれて、夕食とお泊りのお誘いをしたのに用事があるからとすげなく断られてしまった。なによ、いけず。せっかくおいしいものをご馳走しようと思ったのに。
遠ざかる幽香の背中を見送って、室内に入る。額にふき出た汗をハンカチでぬぐう。もう夕方なのにまだ暑い。人間に比べれば暑さ寒さを感じないアリスとはいえ、やっぱり暑いものは暑い。身体もじっとりと汗をかいている。
夕ご飯の支度は一人分でいいことになった。残念だけど、仕方がない。一人分だったら夕ご飯の支度をするにはまだ早い。幽香が来るまで読んでいた本を手に取る。この本が読み終わる頃、ちょうどいい時間になるだろう。
さっきと違い、登場人物のラブを上から目線で追いかけてもいいかなと思えたのだ。アリス少し充填されたから。幽香が帰ってしまった寂しさを忘れるように、物語の中に入り込むことにした。早く、涼しくならないかしら。
一時間後、台所で残ったアイスティーをちびちびしながらどっさりとある食材に目をやる。数日前に二人分以上を買い込んだのだ。だって幽香が食べると思ったから。一度は納得したはずなのに、普段より多い食材を見るとやはり悶々としてしまう。なかなか作る気になれない。
すると、ドンドンと扉を叩く音がした。この音は……幽香でも魔理沙でもない。少し荒っぽいわねぇと考えながら、ハイ、どなた?と扉を開けた。そこには暑そうに顔をしかめる紅白の巫女がいた。
「あら珍しい。いらっしゃい、霊夢」
「ちょっと邪魔するわね。はー、まだまだ暑いわー」
「今冷たいもの入れるわ。アイスティーでいい?」
「なんでも頂くわ」
「ところで今日はどういったご用向きで?」
準備をしながら問いかける。霊夢は、全く来ないわけではないが、いつも会う時は博麗神社であることが多いので、訪問者としてアリスの家に来るのは珍しい。だからたいてい来るときはちゃんとした用事があることが多い。まして、生来のめんどくさがりに加え、まだ残暑厳しい暑さの中、だ。
「ええ、うん。その、買い物帰りなんだけどね」
言われてみれば、テーブルの下に買い物かごが置かれている。かごからネギや大根が飛び出ているのが霊夢らしくてなんだかおかしい。笑いをこらえて話のつづきを待つ。
「このあいだ、倒れたって聞いたから。ちょっと様子を見に、ね」
「あらあら、気を遣わせてしまって申し訳ないわね。もうすっかり大丈夫よ。魔理沙が大げさに言ってるだけ」
「そうね。見るからに元気そうだわ。よかった」
「ええ、おかげさまで」
「ところで……さっき里から帰る途中で幽香を見たの」
「あらそう。さっきまでここにいたのよ。入れ違いかしら」
幽香に久しぶりに会えたこと、楽しくおしゃべりしたこと、不意打ちでキスしてやったことなどを思い出して、つい顔がにやけてしまう。そのことを話そうとしたのだが、そんな浮かれたアリスの心は、霊夢の問いかけによって一気に穏やかではなくなった。
「その……アリス、幽香と喧嘩でもした?」
「えっ!? してない! と思うけど……」
思いもよらぬ言葉に大きな声が出てしまう。むしろラブラブだと思うんだけどな。だって、さっきまで。惚けた思考がまだ止まらない。
「あれ、そうなの? 間違いないと思ったのに……」
「そうよ! なんでそんな……」
「え、まぁ、なんか、元気なく見えたから、なんだけど。あいつのそういうのは、アリスが関わってるとばっかり」
えっと、どういうことかしら。
さっきまでここにいた幽香を思い出す。思い返してみれば確かにいろいろと遠慮してるように見えた。だけど、それはアリスの身体を気遣ってるからであって。だからこそ、いつもに比べて多少態度が変わって見えても仕方のないことだとあまり気にしないようにしていた。
いくら霊夢が勘がいいからといって、幽香の元気がないのを自分が見逃していたなんて、少なからずショックだった。幽香はあまり自分の気持ちだとかを語らないので、態度で気づくしか、ないのに。
でもなんで? 幽香に何があったの? 私たち、喧嘩なんかしてないわよね? あれ、そう思ってるの私だけ?
いやいや、幽香が怒ってる時はわかりやすい。まず視線を合わせなくなる。アリスに触られるのを拒否する。先ほどの幽香を思い出す。そういうのはなかった。話してる時は何度も目が合ったし、それだけでなく話をしてる時も笑ってくれた。あの笑顔が偽りかどうかの区別くらいつく、はず。キスだって、嫌がって、いや、がってなかったと、思うんだけど……?
「……でも別に話したわけじゃないし、私の気のせいかも」
一人悶々と考え込むアリスに霊夢が気遣うように言った。そこまで聞いて、霊夢がここに来た理由が、アリスを見舞うというのは口実で、本当は幽香を心配したからなのだとわかってしまった。いや、有難いことにそれも理由であるなら嬉しいが、アリスが元気になったのは、きっと魔理沙から聞いているだろう。
だってめんどくさがりの霊夢が。さらに言えば買い物帰りなのに。暑いのに。自分の用事があったわけではないのに。――――つまり、霊夢が見た幽香は相当に元気がなく見えたということだ。滅多に自分からアリスのところに来ない霊夢が来ておせっかいを焼くほど。
あ、どうしよう。これって、けっこうのっぴきならない事態では?
どうしよう。えっと。えっと。
「ところでアリス長袖着て暑くないの? また具合悪くなるんじゃないの?」
動揺しかけて考えこんでいるとまた霊夢が口を開いた。先ほどの気遣うような感じは既になく、アリスの混乱もうっちゃったような話題転換だった。自分で爆弾放っておいて、あとは自分で考えろって? 霊夢らしいわね。嘆息してそれにつき合う。
「長袖着てるくらい別に平気よ。霊夢だって長袖みたいなもんじゃない。脇は出てるけど」
「だから普通の長そでよか涼しいのよ」
「私は……布とか糸を扱うことが多いでしょ?半袖だと自分の汗で張り付いたりするのが嫌なの。人間と違ってそんなにかいてないとは思うけど」
これは嘘ではない。が、一番の本音は甘ったれでくっつきたがりの恋人が、ひっついてくる時の対策の一つだ。触れあってる時、互いの汗で滑るのがあまり好きじゃないからである。どちらかが長袖を着ていればそれは回避できる。
今でこそ幽香に慣らされたアリスだが、もともと他人の熱が苦手だ。だから「そのこと」はつきあいはじめの頃に幽香にも伝えた。それ以来幽香もたまに長袖を着てきてくれるようになった。
ちなみにそれを伝えた時のアリスの真意としては、「だからあまりくっつかないで」と暗に伝えたかったのだが、ならばとばかりに長袖を着てこられ、まったく功を奏しなかった。果たしてアリスの意図が伝わっていなかったのか、伝わっていた上で対抗してきたのかは、今となってはわからない。一度聞いたことがあるが黙秘を貫かれた。
ベッドの中では別としても……って、
「あれっ?」
心の中での問いかけが思わず声となって外に出た。我ながらすっとんきょうな声だ。
霊夢の思わぬ質問が、思わぬ閃きを導いた。さてここ二週間ほどを思い返してみれば、ぜんぜん幽香に触れてない。逆も然り。キスはした。さっきも。アリスから。そう、アリスから。幽香が、全然してこないから。
先ほどの不意打ちのキスの前後を思い出す。アリスの腕をつかんだ幽香の失敗した、という顔。さっきは流してしまったけど、あれってつまり――――
「なによ?」
アリスが声を上げたきり、考え込んでいるので霊夢が怪訝な顔で見ている。
「ごめん、霊夢! 急用!!」
霊夢の返事も待たず、家を飛び出した。
幽香はどこ?
********************
一方の幽香はといてば、とぼとぼと歩いていた。
アリスの家を出てすぐは、ぷりぷりしながら早足で歩いていた。なんなのなんなのなんなの!? なんでキスなんかするの? 人の気も知らないで。人がどれだけ……我慢してるのかもわかってないくせに。
怒りを力に。一歩一歩大股で前へ歩く。しかしすぐにその歩みはのろくなり、ぷりぷりとした気持ちは徐々にしぼんでいった。アリスの家に行く前の、ローテンションな幽香に戻ってしまった。
いいのだ。もうアリスはいない。だから、もう取り繕う必要もない。知らず、ため息が出る。アリスは知らない。幽香の葛藤を。幽香が何も言わないのだからアリスがわからないのも当然だ。責める気持ちはないけれど、アリスがご機嫌なのを見ると複雑だった。
この間、アリスが具合が悪くなったのは、暑さのせいなんかじゃなくて、別のことが原因だったんじゃないかといぶかってしまう。アリスが嬉しそうに楽しそうに話すたび、つい自分の欲求をぶつけてしまいたくなる。
触れたい。
けれど、そう思うとすぐに魔理沙の言葉が戒めの呪文のように頭をめぐる。
――――あの日、暑くて気持ちが悪いとアリスが言ったから、冷やせばいいのだと判断してチルノに頼んだのは間違いではなかった。結果としてアリスも元気になった。アリスは「ありがとう助かったわ」と幽香に言った。幽香はただ「どういたしまして」と返した。ただ、それだけ。
だからアリスに寄るな触るなと言われたわけではない。それでも、幽香は意識してアリスとの距離を開けていた。当たり前だ、また具合が悪くなったら困る。まして、もっと悪いことになったら。
あの日の翌日、神社に寄った。その時に、ただの出来事としてアリスのことを話した。軽い気持ちで。軟弱よね、というからかいの意味をこめて。そしたら同席していた魔理沙から「それは熱中症だ」と言われ延々とそれについて説明された。さすがにアリスは死にゃしないと思うが、と前置きされた上で、人間だったら最悪死んじゃうんだぜ、とも。
アリスが死ぬ? ……暑いくらいで? 真夏の暑さの中、ぞっとした。魔理沙は言った。具合が悪くなった時に冷やしたり水分補給といった対処は勿論重要だけど、なにより一番大事なことは、具合が悪くなるまで無理をしてはいけないのだと、熱中症は甘く見てはいけないと、何度も念押しされた。
いつもお調子者の魔理沙が険しい顔をし、霊夢も魔理沙の言を特に否定することはなかった。「まぁ、もう残暑でしょ?じきに涼しくなるわよ」と毒にも薬にもならないことを言われた。
そんなことがあったのでしばらくアリスのところへは行かないようにしようかしらと思うものの、また具合が悪くなってないか心配で、結局足はアリスの家へと向かった。会えて嬉しいのに、いつものように触れられないことがおかしいくらいつらかった。
アリスは基本的に幽香に甘い。だからきっと幽香のしたいようにしたら、受け入れてくれる気がする。暑いとか、この前のことがあったのに、とかブツブツ文句を言いながらも、幽香を拒否しないだろう。
しかし、アリスがぐったりする度チルノにお願いするわけにもいかない。チルノがすぐに見つかるかもわからないのに。ここは幽香が我慢するしかないのだ。自分のストレスとアリスのためやっぱり距離を置く、それしかない。そう決意してもそれは中々簡単なことではなかった。
行かない方がいいと、そばにいる方が辛いと頭ではわかっているのに、身体は逆の動きをする。ふらふらと歩みを進めて気が付くと魔法の森に足を踏み入れている。慌てて踵を返すことも、数えきれないほどあった。制御不能な自分の身体が忌々しかった。こんなこと、はじめてだ。
自分もアリスみたいに暑さのせいでおかしくなったんだろうか?
夏の暑さだろうが冬の寒さだろうが、激しい弾幕の中でだって、今までこんなふうになったことなどなかったのに。人妖どちらにも恐れられている風見幽香とは思えない。情けない。自分の芯が、どうにかなってしまったみたいだ。
今を盛りと咲いている花たちの元を訪れ、いったんは元気になるが、少し経つと飢えて焦がれてなんだか渇いた気分になる。毎日暑くて、汗で身体はじっとりとしているのに。
今までに一週間くらい会わなかったことなど、たくさんある。春の花の盛りには、夢中になってしまい何も言わないまま二週間以上会いにいかず、アリスをさびしがらせて不興を買った記憶も新しい。その時に比べれば、こんなの。
そう自分を叱咤しても、本当はわかっている。自分の意志で会わない、ふれないのと、制約があって会えない、ふれられないという今の状況は前とは違うのだ。
触れられないのに、振れている。日本語はおもしろいわね、などと、こんな有様なのに考える。まったくその通り、ぶれぶれだ。ブレがないのが風見幽香の身上の一つだったのに。
結局我慢しきれず会いに行った。一週間ぶりに訪れた幽香をアリスは嬉しそうに出迎えた。 幽香は主に話すよりは聞く方だったが、それでも楽しそうに話すアリスを見るのは幽香も楽しい。それにアリスがただ「話す」のが楽しいだけではなく、「幽香を相手に話す」のが楽しいのだと、ちゃんと伝わったから。アリスに会えなくてしぼんでいた心が、少しふくらんだ気がした。
これでまた、しばらく我慢できるかもしれない。そう思った矢先の、突然のキス。確かに、アリスの腕を衝動的につかんだのは幽香だ。近くに来た時に、ふわり、アリスの香りがして。いい香りだとか久しぶりだとか、考えたのかどうか。もう覚えていない。
あっと思った時にはもう手がアリスの腕をつかんでいて。そしてその理由をうまくごまかせなかったのも、近づいてくるアリスを拒否しなかったのも幽香だ。全部ぜんぶ、自分のせい。だけど。
幽香が努めて自重していたことを、アリスはなんなくやってのけた。心なしか、得意げすら感じた。ばかやろう。普段自分が言わないようなこともつい心で叫んでしまう。
あの時の、どっくどっくどっくどっくという激しい鼓動が蘇る。心臓の激しい高鳴りが、あの時の幽香の耳に入る音のすべてだった。今思うとなんとウブな反応をしてしまったのかと後悔している。
たかが、キスくらいで。いまさら。そう、たかが、キスなのだ。アリスだって、平然としていた。思い出しても憎らしい。ばかやろう。二回目。
あの時アリスがすぐに離れてくれてよかった。あれ以上手の届く距離にいたら、もう我慢できる自信がない。すでに決壊寸前だ。まだ夏なのに。みんなみんな、アリスも誰もかれもが暑いと言っているのに。
この暑さの中でも、幻想郷中の向日葵も見事に咲き誇っている。…つきあいはじめて二人で過ごす、初めての夏。本当はいろいろ見せたい花があった。あの一件があってから、幽香はどこにもアリスを誘えていない。まだ暑さがそこまで厳しくない初夏の頃、行ったところもあるけれど。
また一つ、ため息を落とす。大きく息を吸って吐いたのに、どうしてか胸のつかえは取れない。
ああ、なんだか息苦しい。呼吸がしづらい。
振る舞ってくれたアイスティーは全部頂戴したはずなのに、もう喉が渇いている。これはつまり水分以外の何かが足りなくて渇いているのかしら? そんなことを考える自分がやっぱりどうかしている。今考えたことを打ち消すように首を振る。
今感じている不調は、暑さのせいだと幽香は思い込もうとした。
こんな自分、知らない。知らなかった。
とにかく、どこか。アリスの家から離れなくては。日が暮れる前に里へ行こうと思って足を向けた。気分転換になるかと思って。しかし見覚えのある紅白が目に入り、方向転換した。
霊夢に会って、面と向かって会話などしたら、自分の不調がすぐにわかってしまうだろうと思ったからだ。あの博麗の巫女は恐ろしく勘がいい。以前も、アリスと大喧嘩した時にただひとり、それを指摘してきたのだから。
まさか、見られているとは思わなかった。
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チルノは紅魔湖より少し外れたのっぱらをふわふわと飛んでいた。カエルのアジトを見つけるために、尾行を続けていたのだ。ふと、見渡す限り緑の視界に赤い色が目に入った。
あっ、幽香だ!遠くに見つけて急いで近づいた。カエル尾行にも飽きていた頃だ、方向転換。いつも通りに飛びついた。
「ゆーうーかっ!」
「あらチルノ、ごきげんよう」
そう言ってくれたところまではいつも通りだった。だと思った。
けれどいつもと違ったのは、幽香がそのままチルノを抱き上げ、抱きしめたことだ。
「!?」
こんなことは初めてだった。チルノが元気のない時は優しく包むように寄り添ってくれるけれど、普段は頭を撫でられて終わりなのだ。
「ゆうか?」
「……ごめんなさい。チルノが冷たくて気持ちいいからつい、ね」
その言葉が嘘なのをチルノは知っている。チルノは夏に大人気だ。普段ろくに話もしない人妖に触られたり抱きしめられたりする。夏ばっかり。冬には来るなとさえ言うくせに。
だけど幽香はそれをしない。抱き着いた時「チルノはひんやりしてていいわね」とは言ってくれても、暑いからという理由でもそのほかの理由でも、幽香から身体を寄せられることなどなかったから。いつも、抱き着いたりするのはチルノからで、幽香はそれを嫌がらないだけ。
「幽香?どうした?またアリスがぐあいわるいのか?また冷やす?」
「……ふふ、アリスは今元気だから必要ないわ。まぁこの暑さだから、行ってあげたらそりゃあ喜ぶだろうけど」
「そっか???」
「……冬のチルノの気持ちが、わかった気がしたわ。少しだけ、だけど」
「ふゆ…?」
チルノの冬の気持ちとはなんだろうか。わからない。
幽香が元気ない。それはわかる。
元気のない幽香なんて、チルノは今までほとんど見たことがなかった。いや、一度もなかったと言ってもいい。
それ以上、幽香は何も言わない。幽香の方がチルノよりもだいぶん背が高いので、チルノの足はプラプラと浮いている。幽香の力は強くて、少し息苦しい。
幽香は変わった。そう言う者は多い。チルノもそう思う。この間チルノに頼みごとをしたのだって、そう。今日のこれ、だって。具体的にどう変わったかは、言えないけれど。
なんで変わったのかはチルノにだってわかる。アリスだ。アリスと恋人になってから、幽香は変わった。大ちゃんはよく丸くなったって言う。でもこれは幽香さんには内緒だよ、とも。
元気のない幽香を初めて見たのはこの間アリスが具合悪くなった時。だからきっと、今回もアリスが関係しているのだろう。
アリスが幽香の元気のない原因で、幽香が何も言わないならチルノには何もできない。だから、チルノにできることはただ、幽香がいつもしてくれるように、その頭をなるべく優しく撫でることだけだった。
けれど、それは幽香がチルノから離れるきっかけとなってしまったようだ。
「ありがとう。すごく暑かったけど、だいぶ快適になったわ」
そう言って、幽香はチルノを降ろすといつものようにぽんぽんとチルノの頭を撫でて、じゃあねと言って行ってしまった。しばらく幽香の背中を見送る。
このままこうしていても仕方がない。そういえば大ちゃんが待っていることを思い出した。暑くてカエルの追跡は一緒に来てくれなかったのだ。湖のそばで待ってるね、と言われていたのだった。
その約束を思い出してくるりと幽香の行った方とは逆に足を前に踏み出す。それでも気になって振り返ると、幽香の姿はもう見えなかった。チルノはすっきりしない。自分が幽香に出来ることが何もないのが歯がゆかった。アリスを冷やした時のように、幽香が何かを言ってくれればまた一つ、恩返しが出来るのに。
そうだ、アリス!アリスなら、きっと幽香を元気にできる。アリスを呼んで――――――
そう、考えたまさにその時、遠くの空にアリスが飛んでくるのが見えた。こういうときこう言うんでしょ?魔理沙がよく使ってる。
「ないすたいみんぐっ」
まだ遠いアリスには聞こえなかっただろうけれど。同じ高さになるよう空へ飛んだ。チルノに出来る限り大きく手を振った。チルノに衝突せんばかりの勢いで目の前まで来た。
「アリス!幽香がへんな……「チルノ!!幽香知らないっ!?」
チルノが最後まで言う前にアリスに問われた。その勢いに押されて続きは言えず、幽香の行った方向を指して「あっち」としか言えなかった。
本当は、幽香が元気ないんだよとか、でもぎゅってしてくれたんだよとか、嘘ついたとか、いろいろ言うつもりだったのだけど。いつもは、言おうと思ってたことが言えないとすごくもやもやするけど、今日はちがった。もうこれで大丈夫と思えた。
幽香よかったね、と言葉に出して言い、大ちゃん目指して急いだ。
********************
もし霊夢の言うとおり、幽香の元気がないのだとしたら。
もし霊夢の言うとおり、幽香の元気のないのがアリスが原因なのだとしたら。
元気がないのをアリスには隠しているのだとしたら。
アリスに思い当たることは一つしかない。
そしてそれは、アリスにしか解決できないことだ。
とりあえず一刻も早く幽香を見つけ出し、その呪縛を解かなくては。チルノに教えてもらった方へ向かうと、そう遠くない場所に特徴的な緑の頭と赤のチェックが見えた。叫ぶ。
「幽香!」
叫んだ。前を行く幽香の肩がびくりと揺れた気がした。けれど、すぐには振り向かず、一拍あけて振り返った。おかげで振り向く前にアリスは幽香のすぐそばへ着いた。
「……あら、アリス。どうしたの?なにか忘れ物でもしたかしら?」
「ええ、したわ。とても大事なものを、忘れたの」
「……私も暑さでやられたのかしらね。何を忘れたかも、覚えていないなんて」
「私もってなによ。べつに私は元気よ?」
「知ってるわ」
ねぇ、なんですぐに振り返らなかったの? そんなこと聞かなくたってわかってしまう。不自然なほど、自然に見えるいつもの外向きの幽香の顔。これはアリス以外に見せる顔であって、いつもはアリスに対して見せる顔ではない。
だからアリスにはわかってしまった。確かに幽香がいつもと違うことに。霊夢に言われるまで気づかないなんて、恋人失格だ。悔しい。
――――こんなにも、自分の花がしおれていることに気付かないなんて。
霊夢が来るまで、単に幽香はアリスを気遣ってくれていると思っていた。だからこその、二人の間の距離。だが今思えば、幽香の距離の取り方はいくらなんでも過剰すぎやしないか、と。キスやハグをアリスが禁じた覚えはない。むしろ少しくらいしてくれたって、と思っていた。
けれどちがった。出さないんじゃなくて、出せなくなっていたのだ。この甘ったれで触りたがりのキス魔が二週間も。もはや気遣いというよりは恐れだったのだと今になって気づく。かわいそうなことをした。もっと早く気付いてあげられれば良かった。
一応周囲に誰もいないことを確かめてから、幽香に抱き着いた。突然のアリスの抱擁は、予期していなかったのか、幽香は「ちょっと!」と慌てた声を発してアリスの身体を引きはがそうとした。
「ちょっと、な、なによ!ま、まだ暑いわ。また、具合を悪くする、わよっ」
やっぱり。気にしていたのだ幽香は。あれからずうっと。自分の元気がなくなってしまうまで。幽香の離そうとする力はさほど強くない。だからより強く、首に回した腕に力をこめる。離れないわという意思表示。耳元で囁く。
「平気よ。もう夕方だもの。だいぶ気温も下がったし」
「……外では、やめてって言ったのはアリスでしょう?」
「ん、今は特別。いやなの?」
「そんな、こと、は、ない、けど。……近くにチルノが、いるかもしれないわ」
「そうね。会ったわ。また心配かけちゃったみたいね?」
「…………」
アリスの腕をつかんでいる幽香の手に力がこめられる。自覚はあるようだ。
「……わすれものをしたのはアンタも、私もよ」
「な、によ。どういう……」
「私のわすれものは、貴女ってこと。貴女も大事なことを忘れているのよ」
「意味が、よく、わからないわ」
「じゃあ全部、家で説明してあげる。ぜんぶ」
それにやっぱり外じゃ落ち着かないし、ねとつぶやいて、幽香に回した腕を解いた。そのまま幽香の手をつかみ、くるりと体の向きを変え歩き出す。一瞬抵抗を感じたけど、気にせずずんずん歩いたらちゃんとついてきた。手も振りとかれない。
そんなに遠くだったわけでもないが、家に着いた頃にはうす暗くなっていた。霊夢はもういなかった。当然だろう。きっとやれやれとかつぶやいて家を後にしたに違いない。人形のどれかに文句の一つでも言っていたかもしれない。近いうちに神社に冷たいゼリーでも持っていこうか。
ただいまと人形たちに声をかけて家の中に入り、幽香の手を離す。アリスは部屋の中央まで進んだのに対して、幽香はドアのそばから離れない。本当は来たくなかった、とでも言うかのように。顏を見れば、先ほどまでの外向きの顔ではもうなくなっていた。不機嫌そうにむっつりしている。
いつもの幽香は、アリスが話があると言えばきちんとそれに向き合う。それが今は早く帰りたいと言わんばかりの態度である。喧嘩して分が悪い時の負け犬っぷりはよく見せられるが、喧嘩をする前から逃げ腰な幽香など、滅多に見られない。
幽香がそこまで余裕がないことに、また少し驚いた。これはやはり重症だ。単刀直入に自分の思うところをぶつけることにする。幽香に向き直り、距離を詰める。そしたらさらにドアの方へ後ずさりされた。
アリスの方を見もしない。これは機嫌の悪い証拠。そんなに機嫌悪くすること、ないじゃない。そりゃあちょっと強引だったかもしれないけど。少しムッとしながらもとりあえず話しかける。
「ねぇ幽香、もう暗いしやっぱり今日泊まっていって?」
「……………………いや、よ」
今日どうする? という問いかけをした時にはやめておくわという返答をされることもあった。しかし、こんなにあからさまなアリスからのお誘いが拒否されたのなんて、初めてではなかろうか。なんとなくもう理由は察してるけど、それでもショックだった。
悔しくて、逃げ場をなくすみたいに幽香をドアとアリスで挟むように閉じ込めた。顏を近づけて、至近距離で敢えて問う。
「なんで?」
「……………………なんでも」
「なんでもじゃ、わからないわ?」
片手を頬に滑らせて撫でる。それを振り払うことはしなかったけれど、触れられた側の目をつぶり、眉間にしわまで寄せられた。
……ちょっとさすがに傷つくだけど?撫でていた手の形を変え、あまり痛くない程度につねる。それでも口はつぐんだまま。うつむいてるから覗き込むように見ようとしたら、さらに顔をそむけられた。なによ、もう。
だんまりを続けてもアリスが引かないのがわかったのか、長い長い沈黙の後、やっと口を開く。
「……だって、我慢、できなくなっちゃう、わ」
つたない言葉でかわいらしいことを言う。ここでなにを?と聞くのはあんまりにもかわいそうだろう。混乱してる時や、当人にとってあまり認めたくない感情を抱いてる時などは、とてつもなく口下手だったり、たどたどしい言い方になる。
余裕があるときは飄々と言ってのける時もあるのだけど、こういう時にさらりと甘い言葉が言えない性質なのはこれまでのつきあいで重々承知している。そう思ってアリスの方から助け舟を出そうとしていたところでまた幽香が口を開いた。
「その、触るの。……触れるだけじゃ、なくて」
自分から言った。さすがにその先は言われなかった。まぁ幽香にしては上出来だ。その頑張りに免じて、甘い言葉の罠をかける。
「べつに、今日は我慢しなくていいわ、って言っても?」
耳元に可能な限り近づけて、一語一語ゆっくりと区切って発音した。今の展開にどうしていいかわからなくてまごつくかわいい恋人の脳髄に直接響くように。
「だ、って、アリスが……、まだ、暑いし。アリスが具合悪くなるのは、嫌だ、わ」
「大丈夫だってば」
そのアリスの言葉には首を振って何も答えずまだ粘る。うんと言えば楽になるのに。甘ったれが、こんなに拒絶するなんて、この間の一件は相当幽香のトラウマになっているようだ。それともどこかで誰かに何か吹き込まれたのかしら?
ここで平気だ平気だと繰り返しても、すっかりビビってしまった幽香はろくに手を出したりしないだろう。我慢できないとか言いながら、結局我慢するに違いない。どうしようか。とりあえず、こんな貝のように頑なになった幽香を相手に今畳みかけるのは得策ではない。しかもこんな玄関先で。
アリスは魔女だ。魔女は魔女らしく、言葉巧みにあの手この手で獲物をたぶらかすとしようか。
「それじゃ、ちょっとずついきましょうか」
「は!?ちょっと、って」
扉についていた両腕を外して、幽香の腕をつかむ。幽香を見れば、混乱した顔で、意味が分からない、という顔をしている。あ、かわいい。最近取り澄ました顔の幽香ばっかり見ていたからなんだか新鮮。そうよ、こうでなくちゃ。つかんだ腕を引っ張る。
「こっちこっち」
「や……私は帰るって」
「全部説明するって言ったでしょ?聞かないの?」
「いい、帰る」
「ハイハイわかってるから。帰る前にちょっと、ね。」
嘘。帰らせません。もうここは魔女の腹の中なのだから。
「なん」
最後まで言わせず、先にアリスがソファに座り、隣に強引に座らせる。体勢が整っていない幽香の腕を離して、幽香の身体に腕を回す。はい、寄り添う二人の図が出来上がり。突然のことに幽香は言おうと思っていたことの続きも言えない。
ああ、暑い。頬を汗が垂れるのを感じるけど、ここは気張りなさいよ、アリス・マーガトロイド。今日今だけは、倒れることは許されないのだから。気を引き締めて、さらに幽香を抱き寄せる。密着したから幽香の香りが先ほどより濃くなる。ああ、久しぶり。今日も甘い花の匂い。なんの花かは、わからないけど。
「はい、ちょっとずつ、ね」
「何がちょっとよ。 わけわかんないこと言ってないで離して!!」
「イ・ヤ」
じたばたと動く幽香の頬にキスを。それがスイッチオフのまじないだったみたいに、フッと幽香の力が抜けた。あれ、もう抵抗終わりなの?こういうパターン珍しいから悪くないんだけどな。
「また具合が悪くなったらどうするの…………」
動きを止めたのは、暴れればそれだけアリスの体温が上がると思ったからか。ああ、愛されてるな。やっぱり喧嘩はしてなかった。するかもしれないのは、これからだ。
「しんどかったらちゃんと言うわよ。今度は倒れるまで我慢しないって誓うわ」
「………………ひとが、どれだけ」
酷く、落ち込んだ声でつぶやく。それきり黙った。アリスを見ないようにそらされた顔を両手でつかんで引き寄せて、幽香の視界に入るように覗き込む。視線はまだ合わない。ちょっと泣き そうな顔しないでよ。悪いことしてるみたいじゃない。そそられちゃうわ。幽香が言わなかった言葉を引き継ぐ。
「…………我慢、してたの? 元気がなくなっちゃうくらい?」
「そんなこと」
「霊夢が言ってたわよ。元気がないって。喧嘩したのかって聞かれちゃったわ」
幽香を心配してわざわざアリスのところに来たということは言わないでおいた。幽香は霊夢のことが気に入ってるが、人間である霊夢にそこまで気遣われたという事実は嬉しくないだろう。
「別に、元気がなかったわけじゃ」
「ホントに?」
疑わしい視線を幽香に向ける。この期に及んで取り繕わないでよ。もうバレバレなんだから。アリスの期待通り、嘘が嫌いで苦手な幽香は、少しの沈黙の後続けた。
「…………ただちょっと、調子が狂っただけ。あ、暑いから。私も暑くて具合が悪くなったのよ」
アンタ風邪の一つも引いたことないって前に言ってたじゃない。私が暑くて具合悪くした時だって、何が起こった分からないってきょとんとしちゃってたくせに。自分のことにはとんと鈍感な幽香が、調子が狂うと自覚するまで我慢するなんて。
水がもらえずしおれる花のように、アリスが触れてやらないと駄目だなんてそんなの。愛しすぎてどうにかなりそう。ばかねぇ、というのは心の中で発言した。お互いのために。
「あのね、触れられなくて調子狂っちゃうのは貴女だけじゃないのよ?」
ごめん、嘘。正直快適だと思ってました。いやいや、思い返してみれば意識してなかったけどもやもやしてたわ、たぶん。いいのだ。幽香と違ってアリスは嘘が嫌いではない。魔女だから。
幽香がすがるような目でアリスの目を見た。本当? と問うている。やっと合わさった視線。そう、だからこれはいい嘘。
「ホントだってば。じゃなきゃ暑いのにこんなことしてないわ。幽香のやせ我慢に、気づいてないフリすればいいだけじゃない」
これは偽りのない事実。それに、ふれあいがなくて物足りなさを感じたり、帰ると言われて寂しさを感じていたのは本当だもの。それからせっかく来て教えてくれた霊夢に、お礼どころかろくに何も言わず置き去りにしてしまった。アリスの家なのに。
でもわかってしまったらじっとしてはいられなかったのだ。鍵もかけずに出て行った。魔理沙や魔理沙以外の盗人に入られても文句は言えない。
「…………」
やせ我慢という言葉のせいか、また幽香がムッとした顔になってしまった。これはよくない。本題に入ろう。額と額と合わせて、言い聞かせるようにゆっくりと。
「ね、この間のことは、幽香は知らなかったんだから仕方ないじゃない。もう知ってるし、幽香は今日までずっと気を付けててくれたでしょ? さっきも言ったけど、苦しくなったらちゃんと言うから。ね?」
「……………それで、本当に大丈夫なの?」
「やってみなくちゃわからないけど。でももう夏も終わりよ。気温だって下がるでしょうし…………だからね、何も言わないのに勝手に離れていかないの」
目の前のくちびるに短くキスをして、様子をうかがう。小さく「ん……」と返事のようなものをしたけどまだしょんぼりした浮かない顔をしているから、トドメのひとこと。
「……ね、私の具合も大事なんだけど、私はそれ以上に幽香の方が大事なのよ?」
それから、さっきしたキスよりもずっとずっと長いキスを。
どちらのものとも知れない、くぐもった声がする。こんなにアリスがアピールしてるのに、まだ心配なのか以前の勢いはないけど、幽香の方からも少しずつ応えてきた。
そうそう。アンタの我慢なんて、意味がないんだって教えてあげる。アンタが耐え忍んだって、全然にいいこと、なかったでしょう? 霊夢とチルノには心配されるし。私には怒られるし。
暑さのためか、今の状況のせいか。幽香の頬を流れる汗を片手で拭った。綺麗な鼻筋に流れる雫は舐めとった。さすがに口の中と違ってしょっぱいのよね。しかしやはり暑い。つい、ぽろりとこぼしてしまった
「あっついわねぇ……」
あら大変、これって禁句よね。アリスが危惧した通り、腕の中の幽香が離れようとじたじたと動き出す。うふふ、本気じゃないくせに。怪力な幽香に本気で暴れられたらアリスの力で押さえていられるわけがない。
ああ、もうかわいいなあ。ありったけの愛と力をこめて腕の力を強くした。諦めたのか、また幽香が大人しくなる。そうそう、いいこいいこ。
「あつい、なら離しなさい、よ……」
赤い顔で、憎まれ口。無視無視。ああ、でもやっぱりアツいわね。だって少し下がったとはいえ、まだ三十度近くあるものね。
ぽたりぽたりと顎のあたりから汗が流れるのを感じる。見れば幽香の顔にも汗が流れている。はたして幽香の汗が、暑くて出たものかどうかはわからないけれど。
あ、いいこと思いついた。
「ねぇ、幽香。水風呂はいらない?」
幽香は赤い顔のままポカンとした。その後真顔になって考えこんだ。
三十秒くらいたっぷりたった後、こっくりうなずいた。ああ、かわいい。
かくして意固地になった花の妖怪は、魔女の言葉巧みどころか、どストレートな誘い文句であっさり陥落した。
ぴちゃん。
天井からバスタブへ雫の垂れる音が響いた。二人一緒のバスルーム。
お風呂の温度はさすがに水では冷たすぎるので、かなりぬるめ。
二人で密着していても暑くなりすぎない程度の温度。つまりは「ちょうどいい」。
「ねぇ、わすれものってなに」
「ああ、もう言う必要もない気がするけど…………ねぇ、私になにかし忘れてない? まだわからないならおしおきだわ。代わりにぜんぶ、それを私が、幽香にしてあげる」
「……………」
「いやがってもやめないわよ?」
だからもう諦めて、貴女が私にしたいこと、ぜんぶ、したらいいわ。
されたいのなら、べつだけど。
End.
前作も本作も当然のように幽アリは恋人同士です。
どちらも百合百合しい展開がございますので苦手な方はご注意ください。
知らなかったの、暑すぎると具合が悪くなるなんて
知らなかったの、人間だったら死んでしまうかもしれないだなんて
あなた、元人間って噂を聞いたわよ?
知らなかったの。あなたに…………が、こんなにも――――――
『一日千秋のち、琴瑟相和』
魔法の森の、アリス・マーガトロイド邸。
アリスの具合が悪くなった日からおよそ一週間たった。「残暑見舞い」の時期に入ったとはいえ、まだ夏真っ盛り。温度計は今日も既に三十度以上を示している。
本日アリスは人形のメンテナンスをしていた。暑さによって人形たちの身体に何か不具合が起きていないか、細部を確認するとともに服の破れやほつれのチェックをしていた。都会派の操るマリオネットだ、こちらもまたふさわしくしゃんとしてなければ。
そこへドアをノックする音がした。いつもの聞きなれた音。どうぞと声をかけるとお邪魔するわね、という声と共に幽香が入ってきた。アリスが元気そうなのを見て、ホッとした表情を見せる。それがなんだかくすぐったくて嬉しい。
今二人はソファの端っこと端っこに座っている。二人掛けのソファだから、もともとそんなにゆったりしているわけではないけれど、それでも今までにない距離が二人を隔てていた。それもこれも、先日あまりの暑さでアリスがダウンしてしまったせい。軽い熱中症だったと思われる。
その一件以来、家に遊びに来ても幽香はアリスにべたべたとひっつかなくなった。それだけでだいぶ快適だ。なにせそれまでは、ちょっと離れてとお願いしたって離れてくれなかったのだ。そんな幽香が気遣ってくれている。それがなんだか大事にされてる、愛されてる気がして、嬉しかった。
人形の服をつくろいながら、時々会話を交わす。いつもはくっついてることが多くて意識しない幽香の視線を、今日は距離があるからやたらと感じる。少し恥ずかしい気もするけど悪い気はしない。
メンテナンスが終わり、里へ一緒に行かないかと誘ったが断られてしまった。そろそろ終わりの花があるんだとか。それなら仕方がない。また明後日かその次の日くらいには来てくれるのだろうから。
しかしそう思っていたのに、三日どころか一週間たってしまった。
ちょうどキリのいいところだったので、読んでいた本をパタリと閉じた。いわゆるミステリ&ラブサスペンスの娯楽小説。登場人物の二人が、ミステリとサスペンスをひとまず棚上げにして、お互いラブなことが判明したところだ。
なんとなく、自分のラブがどうなったかが気になってしまって、それ以上読み進める気になれなくなった。別に今までだっていくらでもあるけど、一週間あくなんて珍しいな、と一息ついていたところで、ドアのノックが鳴った。待ち人来る。
一週間とあければ、話したいことも起こった出来事も増える。世間話から噂話、守矢神社の夏祭りの話、珍しい向日葵の発生、新しい魔法実験の成果、など。たまに相槌を打ちながら、ちゃんと話を聞いてくれるのが嬉しくて、たくさん話した。何より久方ぶりに目の前に幽香がいるのが嬉しかった。
相変わらず、幽香はアリスを気遣っているのか、距離を開けていた。普段座るソファではなく、テーブルに腰掛けたのがその証拠。久しぶりなのにな、と少々物足りなく感じないでもなかったが、それが幽香の思いやりだと思うたび、心がふわりとあたたかくなった。
そんなしあわせを感じながら、楽しい時間は過ぎていく。おもてなしとして出していたアイスティーを幽香が飲み干した。そのグラスを片づけ、テーブルを拭くために幽香の隣に並んだ時、幽香がアリスの腕を引いた。引かれるままに幽香の顔を見れば、どうしてか「しまった」という顔をしていた。どうかしたの?
「ん?」
短い声と目で問うたが何も答えない。あ、もしかして。そういえばまだ「ご挨拶」をしていなかった。
「キス?」
つぶやいたと同時にちゅっ、と短いキスをした。
「!」
いつもしてることをしたつもりなのに目を丸くした幽香の顔が少し気になった。けれど、驚かせてやったというのに満足して、幽香が「しまった」という顔をしていたことを、すぐに忘れてしまった。久しぶりだから照れちゃったのかしら。あとでそういう結論に達した。
その後、アリスとしてはそれなりの覚悟と気合をいれて、夕食とお泊りのお誘いをしたのに用事があるからとすげなく断られてしまった。なによ、いけず。せっかくおいしいものをご馳走しようと思ったのに。
遠ざかる幽香の背中を見送って、室内に入る。額にふき出た汗をハンカチでぬぐう。もう夕方なのにまだ暑い。人間に比べれば暑さ寒さを感じないアリスとはいえ、やっぱり暑いものは暑い。身体もじっとりと汗をかいている。
夕ご飯の支度は一人分でいいことになった。残念だけど、仕方がない。一人分だったら夕ご飯の支度をするにはまだ早い。幽香が来るまで読んでいた本を手に取る。この本が読み終わる頃、ちょうどいい時間になるだろう。
さっきと違い、登場人物のラブを上から目線で追いかけてもいいかなと思えたのだ。アリス少し充填されたから。幽香が帰ってしまった寂しさを忘れるように、物語の中に入り込むことにした。早く、涼しくならないかしら。
一時間後、台所で残ったアイスティーをちびちびしながらどっさりとある食材に目をやる。数日前に二人分以上を買い込んだのだ。だって幽香が食べると思ったから。一度は納得したはずなのに、普段より多い食材を見るとやはり悶々としてしまう。なかなか作る気になれない。
すると、ドンドンと扉を叩く音がした。この音は……幽香でも魔理沙でもない。少し荒っぽいわねぇと考えながら、ハイ、どなた?と扉を開けた。そこには暑そうに顔をしかめる紅白の巫女がいた。
「あら珍しい。いらっしゃい、霊夢」
「ちょっと邪魔するわね。はー、まだまだ暑いわー」
「今冷たいもの入れるわ。アイスティーでいい?」
「なんでも頂くわ」
「ところで今日はどういったご用向きで?」
準備をしながら問いかける。霊夢は、全く来ないわけではないが、いつも会う時は博麗神社であることが多いので、訪問者としてアリスの家に来るのは珍しい。だからたいてい来るときはちゃんとした用事があることが多い。まして、生来のめんどくさがりに加え、まだ残暑厳しい暑さの中、だ。
「ええ、うん。その、買い物帰りなんだけどね」
言われてみれば、テーブルの下に買い物かごが置かれている。かごからネギや大根が飛び出ているのが霊夢らしくてなんだかおかしい。笑いをこらえて話のつづきを待つ。
「このあいだ、倒れたって聞いたから。ちょっと様子を見に、ね」
「あらあら、気を遣わせてしまって申し訳ないわね。もうすっかり大丈夫よ。魔理沙が大げさに言ってるだけ」
「そうね。見るからに元気そうだわ。よかった」
「ええ、おかげさまで」
「ところで……さっき里から帰る途中で幽香を見たの」
「あらそう。さっきまでここにいたのよ。入れ違いかしら」
幽香に久しぶりに会えたこと、楽しくおしゃべりしたこと、不意打ちでキスしてやったことなどを思い出して、つい顔がにやけてしまう。そのことを話そうとしたのだが、そんな浮かれたアリスの心は、霊夢の問いかけによって一気に穏やかではなくなった。
「その……アリス、幽香と喧嘩でもした?」
「えっ!? してない! と思うけど……」
思いもよらぬ言葉に大きな声が出てしまう。むしろラブラブだと思うんだけどな。だって、さっきまで。惚けた思考がまだ止まらない。
「あれ、そうなの? 間違いないと思ったのに……」
「そうよ! なんでそんな……」
「え、まぁ、なんか、元気なく見えたから、なんだけど。あいつのそういうのは、アリスが関わってるとばっかり」
えっと、どういうことかしら。
さっきまでここにいた幽香を思い出す。思い返してみれば確かにいろいろと遠慮してるように見えた。だけど、それはアリスの身体を気遣ってるからであって。だからこそ、いつもに比べて多少態度が変わって見えても仕方のないことだとあまり気にしないようにしていた。
いくら霊夢が勘がいいからといって、幽香の元気がないのを自分が見逃していたなんて、少なからずショックだった。幽香はあまり自分の気持ちだとかを語らないので、態度で気づくしか、ないのに。
でもなんで? 幽香に何があったの? 私たち、喧嘩なんかしてないわよね? あれ、そう思ってるの私だけ?
いやいや、幽香が怒ってる時はわかりやすい。まず視線を合わせなくなる。アリスに触られるのを拒否する。先ほどの幽香を思い出す。そういうのはなかった。話してる時は何度も目が合ったし、それだけでなく話をしてる時も笑ってくれた。あの笑顔が偽りかどうかの区別くらいつく、はず。キスだって、嫌がって、いや、がってなかったと、思うんだけど……?
「……でも別に話したわけじゃないし、私の気のせいかも」
一人悶々と考え込むアリスに霊夢が気遣うように言った。そこまで聞いて、霊夢がここに来た理由が、アリスを見舞うというのは口実で、本当は幽香を心配したからなのだとわかってしまった。いや、有難いことにそれも理由であるなら嬉しいが、アリスが元気になったのは、きっと魔理沙から聞いているだろう。
だってめんどくさがりの霊夢が。さらに言えば買い物帰りなのに。暑いのに。自分の用事があったわけではないのに。――――つまり、霊夢が見た幽香は相当に元気がなく見えたということだ。滅多に自分からアリスのところに来ない霊夢が来ておせっかいを焼くほど。
あ、どうしよう。これって、けっこうのっぴきならない事態では?
どうしよう。えっと。えっと。
「ところでアリス長袖着て暑くないの? また具合悪くなるんじゃないの?」
動揺しかけて考えこんでいるとまた霊夢が口を開いた。先ほどの気遣うような感じは既になく、アリスの混乱もうっちゃったような話題転換だった。自分で爆弾放っておいて、あとは自分で考えろって? 霊夢らしいわね。嘆息してそれにつき合う。
「長袖着てるくらい別に平気よ。霊夢だって長袖みたいなもんじゃない。脇は出てるけど」
「だから普通の長そでよか涼しいのよ」
「私は……布とか糸を扱うことが多いでしょ?半袖だと自分の汗で張り付いたりするのが嫌なの。人間と違ってそんなにかいてないとは思うけど」
これは嘘ではない。が、一番の本音は甘ったれでくっつきたがりの恋人が、ひっついてくる時の対策の一つだ。触れあってる時、互いの汗で滑るのがあまり好きじゃないからである。どちらかが長袖を着ていればそれは回避できる。
今でこそ幽香に慣らされたアリスだが、もともと他人の熱が苦手だ。だから「そのこと」はつきあいはじめの頃に幽香にも伝えた。それ以来幽香もたまに長袖を着てきてくれるようになった。
ちなみにそれを伝えた時のアリスの真意としては、「だからあまりくっつかないで」と暗に伝えたかったのだが、ならばとばかりに長袖を着てこられ、まったく功を奏しなかった。果たしてアリスの意図が伝わっていなかったのか、伝わっていた上で対抗してきたのかは、今となってはわからない。一度聞いたことがあるが黙秘を貫かれた。
ベッドの中では別としても……って、
「あれっ?」
心の中での問いかけが思わず声となって外に出た。我ながらすっとんきょうな声だ。
霊夢の思わぬ質問が、思わぬ閃きを導いた。さてここ二週間ほどを思い返してみれば、ぜんぜん幽香に触れてない。逆も然り。キスはした。さっきも。アリスから。そう、アリスから。幽香が、全然してこないから。
先ほどの不意打ちのキスの前後を思い出す。アリスの腕をつかんだ幽香の失敗した、という顔。さっきは流してしまったけど、あれってつまり――――
「なによ?」
アリスが声を上げたきり、考え込んでいるので霊夢が怪訝な顔で見ている。
「ごめん、霊夢! 急用!!」
霊夢の返事も待たず、家を飛び出した。
幽香はどこ?
********************
一方の幽香はといてば、とぼとぼと歩いていた。
アリスの家を出てすぐは、ぷりぷりしながら早足で歩いていた。なんなのなんなのなんなの!? なんでキスなんかするの? 人の気も知らないで。人がどれだけ……我慢してるのかもわかってないくせに。
怒りを力に。一歩一歩大股で前へ歩く。しかしすぐにその歩みはのろくなり、ぷりぷりとした気持ちは徐々にしぼんでいった。アリスの家に行く前の、ローテンションな幽香に戻ってしまった。
いいのだ。もうアリスはいない。だから、もう取り繕う必要もない。知らず、ため息が出る。アリスは知らない。幽香の葛藤を。幽香が何も言わないのだからアリスがわからないのも当然だ。責める気持ちはないけれど、アリスがご機嫌なのを見ると複雑だった。
この間、アリスが具合が悪くなったのは、暑さのせいなんかじゃなくて、別のことが原因だったんじゃないかといぶかってしまう。アリスが嬉しそうに楽しそうに話すたび、つい自分の欲求をぶつけてしまいたくなる。
触れたい。
けれど、そう思うとすぐに魔理沙の言葉が戒めの呪文のように頭をめぐる。
――――あの日、暑くて気持ちが悪いとアリスが言ったから、冷やせばいいのだと判断してチルノに頼んだのは間違いではなかった。結果としてアリスも元気になった。アリスは「ありがとう助かったわ」と幽香に言った。幽香はただ「どういたしまして」と返した。ただ、それだけ。
だからアリスに寄るな触るなと言われたわけではない。それでも、幽香は意識してアリスとの距離を開けていた。当たり前だ、また具合が悪くなったら困る。まして、もっと悪いことになったら。
あの日の翌日、神社に寄った。その時に、ただの出来事としてアリスのことを話した。軽い気持ちで。軟弱よね、というからかいの意味をこめて。そしたら同席していた魔理沙から「それは熱中症だ」と言われ延々とそれについて説明された。さすがにアリスは死にゃしないと思うが、と前置きされた上で、人間だったら最悪死んじゃうんだぜ、とも。
アリスが死ぬ? ……暑いくらいで? 真夏の暑さの中、ぞっとした。魔理沙は言った。具合が悪くなった時に冷やしたり水分補給といった対処は勿論重要だけど、なにより一番大事なことは、具合が悪くなるまで無理をしてはいけないのだと、熱中症は甘く見てはいけないと、何度も念押しされた。
いつもお調子者の魔理沙が険しい顔をし、霊夢も魔理沙の言を特に否定することはなかった。「まぁ、もう残暑でしょ?じきに涼しくなるわよ」と毒にも薬にもならないことを言われた。
そんなことがあったのでしばらくアリスのところへは行かないようにしようかしらと思うものの、また具合が悪くなってないか心配で、結局足はアリスの家へと向かった。会えて嬉しいのに、いつものように触れられないことがおかしいくらいつらかった。
アリスは基本的に幽香に甘い。だからきっと幽香のしたいようにしたら、受け入れてくれる気がする。暑いとか、この前のことがあったのに、とかブツブツ文句を言いながらも、幽香を拒否しないだろう。
しかし、アリスがぐったりする度チルノにお願いするわけにもいかない。チルノがすぐに見つかるかもわからないのに。ここは幽香が我慢するしかないのだ。自分のストレスとアリスのためやっぱり距離を置く、それしかない。そう決意してもそれは中々簡単なことではなかった。
行かない方がいいと、そばにいる方が辛いと頭ではわかっているのに、身体は逆の動きをする。ふらふらと歩みを進めて気が付くと魔法の森に足を踏み入れている。慌てて踵を返すことも、数えきれないほどあった。制御不能な自分の身体が忌々しかった。こんなこと、はじめてだ。
自分もアリスみたいに暑さのせいでおかしくなったんだろうか?
夏の暑さだろうが冬の寒さだろうが、激しい弾幕の中でだって、今までこんなふうになったことなどなかったのに。人妖どちらにも恐れられている風見幽香とは思えない。情けない。自分の芯が、どうにかなってしまったみたいだ。
今を盛りと咲いている花たちの元を訪れ、いったんは元気になるが、少し経つと飢えて焦がれてなんだか渇いた気分になる。毎日暑くて、汗で身体はじっとりとしているのに。
今までに一週間くらい会わなかったことなど、たくさんある。春の花の盛りには、夢中になってしまい何も言わないまま二週間以上会いにいかず、アリスをさびしがらせて不興を買った記憶も新しい。その時に比べれば、こんなの。
そう自分を叱咤しても、本当はわかっている。自分の意志で会わない、ふれないのと、制約があって会えない、ふれられないという今の状況は前とは違うのだ。
触れられないのに、振れている。日本語はおもしろいわね、などと、こんな有様なのに考える。まったくその通り、ぶれぶれだ。ブレがないのが風見幽香の身上の一つだったのに。
結局我慢しきれず会いに行った。一週間ぶりに訪れた幽香をアリスは嬉しそうに出迎えた。 幽香は主に話すよりは聞く方だったが、それでも楽しそうに話すアリスを見るのは幽香も楽しい。それにアリスがただ「話す」のが楽しいだけではなく、「幽香を相手に話す」のが楽しいのだと、ちゃんと伝わったから。アリスに会えなくてしぼんでいた心が、少しふくらんだ気がした。
これでまた、しばらく我慢できるかもしれない。そう思った矢先の、突然のキス。確かに、アリスの腕を衝動的につかんだのは幽香だ。近くに来た時に、ふわり、アリスの香りがして。いい香りだとか久しぶりだとか、考えたのかどうか。もう覚えていない。
あっと思った時にはもう手がアリスの腕をつかんでいて。そしてその理由をうまくごまかせなかったのも、近づいてくるアリスを拒否しなかったのも幽香だ。全部ぜんぶ、自分のせい。だけど。
幽香が努めて自重していたことを、アリスはなんなくやってのけた。心なしか、得意げすら感じた。ばかやろう。普段自分が言わないようなこともつい心で叫んでしまう。
あの時の、どっくどっくどっくどっくという激しい鼓動が蘇る。心臓の激しい高鳴りが、あの時の幽香の耳に入る音のすべてだった。今思うとなんとウブな反応をしてしまったのかと後悔している。
たかが、キスくらいで。いまさら。そう、たかが、キスなのだ。アリスだって、平然としていた。思い出しても憎らしい。ばかやろう。二回目。
あの時アリスがすぐに離れてくれてよかった。あれ以上手の届く距離にいたら、もう我慢できる自信がない。すでに決壊寸前だ。まだ夏なのに。みんなみんな、アリスも誰もかれもが暑いと言っているのに。
この暑さの中でも、幻想郷中の向日葵も見事に咲き誇っている。…つきあいはじめて二人で過ごす、初めての夏。本当はいろいろ見せたい花があった。あの一件があってから、幽香はどこにもアリスを誘えていない。まだ暑さがそこまで厳しくない初夏の頃、行ったところもあるけれど。
また一つ、ため息を落とす。大きく息を吸って吐いたのに、どうしてか胸のつかえは取れない。
ああ、なんだか息苦しい。呼吸がしづらい。
振る舞ってくれたアイスティーは全部頂戴したはずなのに、もう喉が渇いている。これはつまり水分以外の何かが足りなくて渇いているのかしら? そんなことを考える自分がやっぱりどうかしている。今考えたことを打ち消すように首を振る。
今感じている不調は、暑さのせいだと幽香は思い込もうとした。
こんな自分、知らない。知らなかった。
とにかく、どこか。アリスの家から離れなくては。日が暮れる前に里へ行こうと思って足を向けた。気分転換になるかと思って。しかし見覚えのある紅白が目に入り、方向転換した。
霊夢に会って、面と向かって会話などしたら、自分の不調がすぐにわかってしまうだろうと思ったからだ。あの博麗の巫女は恐ろしく勘がいい。以前も、アリスと大喧嘩した時にただひとり、それを指摘してきたのだから。
まさか、見られているとは思わなかった。
********************
チルノは紅魔湖より少し外れたのっぱらをふわふわと飛んでいた。カエルのアジトを見つけるために、尾行を続けていたのだ。ふと、見渡す限り緑の視界に赤い色が目に入った。
あっ、幽香だ!遠くに見つけて急いで近づいた。カエル尾行にも飽きていた頃だ、方向転換。いつも通りに飛びついた。
「ゆーうーかっ!」
「あらチルノ、ごきげんよう」
そう言ってくれたところまではいつも通りだった。だと思った。
けれどいつもと違ったのは、幽香がそのままチルノを抱き上げ、抱きしめたことだ。
「!?」
こんなことは初めてだった。チルノが元気のない時は優しく包むように寄り添ってくれるけれど、普段は頭を撫でられて終わりなのだ。
「ゆうか?」
「……ごめんなさい。チルノが冷たくて気持ちいいからつい、ね」
その言葉が嘘なのをチルノは知っている。チルノは夏に大人気だ。普段ろくに話もしない人妖に触られたり抱きしめられたりする。夏ばっかり。冬には来るなとさえ言うくせに。
だけど幽香はそれをしない。抱き着いた時「チルノはひんやりしてていいわね」とは言ってくれても、暑いからという理由でもそのほかの理由でも、幽香から身体を寄せられることなどなかったから。いつも、抱き着いたりするのはチルノからで、幽香はそれを嫌がらないだけ。
「幽香?どうした?またアリスがぐあいわるいのか?また冷やす?」
「……ふふ、アリスは今元気だから必要ないわ。まぁこの暑さだから、行ってあげたらそりゃあ喜ぶだろうけど」
「そっか???」
「……冬のチルノの気持ちが、わかった気がしたわ。少しだけ、だけど」
「ふゆ…?」
チルノの冬の気持ちとはなんだろうか。わからない。
幽香が元気ない。それはわかる。
元気のない幽香なんて、チルノは今までほとんど見たことがなかった。いや、一度もなかったと言ってもいい。
それ以上、幽香は何も言わない。幽香の方がチルノよりもだいぶん背が高いので、チルノの足はプラプラと浮いている。幽香の力は強くて、少し息苦しい。
幽香は変わった。そう言う者は多い。チルノもそう思う。この間チルノに頼みごとをしたのだって、そう。今日のこれ、だって。具体的にどう変わったかは、言えないけれど。
なんで変わったのかはチルノにだってわかる。アリスだ。アリスと恋人になってから、幽香は変わった。大ちゃんはよく丸くなったって言う。でもこれは幽香さんには内緒だよ、とも。
元気のない幽香を初めて見たのはこの間アリスが具合悪くなった時。だからきっと、今回もアリスが関係しているのだろう。
アリスが幽香の元気のない原因で、幽香が何も言わないならチルノには何もできない。だから、チルノにできることはただ、幽香がいつもしてくれるように、その頭をなるべく優しく撫でることだけだった。
けれど、それは幽香がチルノから離れるきっかけとなってしまったようだ。
「ありがとう。すごく暑かったけど、だいぶ快適になったわ」
そう言って、幽香はチルノを降ろすといつものようにぽんぽんとチルノの頭を撫でて、じゃあねと言って行ってしまった。しばらく幽香の背中を見送る。
このままこうしていても仕方がない。そういえば大ちゃんが待っていることを思い出した。暑くてカエルの追跡は一緒に来てくれなかったのだ。湖のそばで待ってるね、と言われていたのだった。
その約束を思い出してくるりと幽香の行った方とは逆に足を前に踏み出す。それでも気になって振り返ると、幽香の姿はもう見えなかった。チルノはすっきりしない。自分が幽香に出来ることが何もないのが歯がゆかった。アリスを冷やした時のように、幽香が何かを言ってくれればまた一つ、恩返しが出来るのに。
そうだ、アリス!アリスなら、きっと幽香を元気にできる。アリスを呼んで――――――
そう、考えたまさにその時、遠くの空にアリスが飛んでくるのが見えた。こういうときこう言うんでしょ?魔理沙がよく使ってる。
「ないすたいみんぐっ」
まだ遠いアリスには聞こえなかっただろうけれど。同じ高さになるよう空へ飛んだ。チルノに出来る限り大きく手を振った。チルノに衝突せんばかりの勢いで目の前まで来た。
「アリス!幽香がへんな……「チルノ!!幽香知らないっ!?」
チルノが最後まで言う前にアリスに問われた。その勢いに押されて続きは言えず、幽香の行った方向を指して「あっち」としか言えなかった。
本当は、幽香が元気ないんだよとか、でもぎゅってしてくれたんだよとか、嘘ついたとか、いろいろ言うつもりだったのだけど。いつもは、言おうと思ってたことが言えないとすごくもやもやするけど、今日はちがった。もうこれで大丈夫と思えた。
幽香よかったね、と言葉に出して言い、大ちゃん目指して急いだ。
********************
もし霊夢の言うとおり、幽香の元気がないのだとしたら。
もし霊夢の言うとおり、幽香の元気のないのがアリスが原因なのだとしたら。
元気がないのをアリスには隠しているのだとしたら。
アリスに思い当たることは一つしかない。
そしてそれは、アリスにしか解決できないことだ。
とりあえず一刻も早く幽香を見つけ出し、その呪縛を解かなくては。チルノに教えてもらった方へ向かうと、そう遠くない場所に特徴的な緑の頭と赤のチェックが見えた。叫ぶ。
「幽香!」
叫んだ。前を行く幽香の肩がびくりと揺れた気がした。けれど、すぐには振り向かず、一拍あけて振り返った。おかげで振り向く前にアリスは幽香のすぐそばへ着いた。
「……あら、アリス。どうしたの?なにか忘れ物でもしたかしら?」
「ええ、したわ。とても大事なものを、忘れたの」
「……私も暑さでやられたのかしらね。何を忘れたかも、覚えていないなんて」
「私もってなによ。べつに私は元気よ?」
「知ってるわ」
ねぇ、なんですぐに振り返らなかったの? そんなこと聞かなくたってわかってしまう。不自然なほど、自然に見えるいつもの外向きの幽香の顔。これはアリス以外に見せる顔であって、いつもはアリスに対して見せる顔ではない。
だからアリスにはわかってしまった。確かに幽香がいつもと違うことに。霊夢に言われるまで気づかないなんて、恋人失格だ。悔しい。
――――こんなにも、自分の花がしおれていることに気付かないなんて。
霊夢が来るまで、単に幽香はアリスを気遣ってくれていると思っていた。だからこその、二人の間の距離。だが今思えば、幽香の距離の取り方はいくらなんでも過剰すぎやしないか、と。キスやハグをアリスが禁じた覚えはない。むしろ少しくらいしてくれたって、と思っていた。
けれどちがった。出さないんじゃなくて、出せなくなっていたのだ。この甘ったれで触りたがりのキス魔が二週間も。もはや気遣いというよりは恐れだったのだと今になって気づく。かわいそうなことをした。もっと早く気付いてあげられれば良かった。
一応周囲に誰もいないことを確かめてから、幽香に抱き着いた。突然のアリスの抱擁は、予期していなかったのか、幽香は「ちょっと!」と慌てた声を発してアリスの身体を引きはがそうとした。
「ちょっと、な、なによ!ま、まだ暑いわ。また、具合を悪くする、わよっ」
やっぱり。気にしていたのだ幽香は。あれからずうっと。自分の元気がなくなってしまうまで。幽香の離そうとする力はさほど強くない。だからより強く、首に回した腕に力をこめる。離れないわという意思表示。耳元で囁く。
「平気よ。もう夕方だもの。だいぶ気温も下がったし」
「……外では、やめてって言ったのはアリスでしょう?」
「ん、今は特別。いやなの?」
「そんな、こと、は、ない、けど。……近くにチルノが、いるかもしれないわ」
「そうね。会ったわ。また心配かけちゃったみたいね?」
「…………」
アリスの腕をつかんでいる幽香の手に力がこめられる。自覚はあるようだ。
「……わすれものをしたのはアンタも、私もよ」
「な、によ。どういう……」
「私のわすれものは、貴女ってこと。貴女も大事なことを忘れているのよ」
「意味が、よく、わからないわ」
「じゃあ全部、家で説明してあげる。ぜんぶ」
それにやっぱり外じゃ落ち着かないし、ねとつぶやいて、幽香に回した腕を解いた。そのまま幽香の手をつかみ、くるりと体の向きを変え歩き出す。一瞬抵抗を感じたけど、気にせずずんずん歩いたらちゃんとついてきた。手も振りとかれない。
そんなに遠くだったわけでもないが、家に着いた頃にはうす暗くなっていた。霊夢はもういなかった。当然だろう。きっとやれやれとかつぶやいて家を後にしたに違いない。人形のどれかに文句の一つでも言っていたかもしれない。近いうちに神社に冷たいゼリーでも持っていこうか。
ただいまと人形たちに声をかけて家の中に入り、幽香の手を離す。アリスは部屋の中央まで進んだのに対して、幽香はドアのそばから離れない。本当は来たくなかった、とでも言うかのように。顏を見れば、先ほどまでの外向きの顔ではもうなくなっていた。不機嫌そうにむっつりしている。
いつもの幽香は、アリスが話があると言えばきちんとそれに向き合う。それが今は早く帰りたいと言わんばかりの態度である。喧嘩して分が悪い時の負け犬っぷりはよく見せられるが、喧嘩をする前から逃げ腰な幽香など、滅多に見られない。
幽香がそこまで余裕がないことに、また少し驚いた。これはやはり重症だ。単刀直入に自分の思うところをぶつけることにする。幽香に向き直り、距離を詰める。そしたらさらにドアの方へ後ずさりされた。
アリスの方を見もしない。これは機嫌の悪い証拠。そんなに機嫌悪くすること、ないじゃない。そりゃあちょっと強引だったかもしれないけど。少しムッとしながらもとりあえず話しかける。
「ねぇ幽香、もう暗いしやっぱり今日泊まっていって?」
「……………………いや、よ」
今日どうする? という問いかけをした時にはやめておくわという返答をされることもあった。しかし、こんなにあからさまなアリスからのお誘いが拒否されたのなんて、初めてではなかろうか。なんとなくもう理由は察してるけど、それでもショックだった。
悔しくて、逃げ場をなくすみたいに幽香をドアとアリスで挟むように閉じ込めた。顏を近づけて、至近距離で敢えて問う。
「なんで?」
「……………………なんでも」
「なんでもじゃ、わからないわ?」
片手を頬に滑らせて撫でる。それを振り払うことはしなかったけれど、触れられた側の目をつぶり、眉間にしわまで寄せられた。
……ちょっとさすがに傷つくだけど?撫でていた手の形を変え、あまり痛くない程度につねる。それでも口はつぐんだまま。うつむいてるから覗き込むように見ようとしたら、さらに顔をそむけられた。なによ、もう。
だんまりを続けてもアリスが引かないのがわかったのか、長い長い沈黙の後、やっと口を開く。
「……だって、我慢、できなくなっちゃう、わ」
つたない言葉でかわいらしいことを言う。ここでなにを?と聞くのはあんまりにもかわいそうだろう。混乱してる時や、当人にとってあまり認めたくない感情を抱いてる時などは、とてつもなく口下手だったり、たどたどしい言い方になる。
余裕があるときは飄々と言ってのける時もあるのだけど、こういう時にさらりと甘い言葉が言えない性質なのはこれまでのつきあいで重々承知している。そう思ってアリスの方から助け舟を出そうとしていたところでまた幽香が口を開いた。
「その、触るの。……触れるだけじゃ、なくて」
自分から言った。さすがにその先は言われなかった。まぁ幽香にしては上出来だ。その頑張りに免じて、甘い言葉の罠をかける。
「べつに、今日は我慢しなくていいわ、って言っても?」
耳元に可能な限り近づけて、一語一語ゆっくりと区切って発音した。今の展開にどうしていいかわからなくてまごつくかわいい恋人の脳髄に直接響くように。
「だ、って、アリスが……、まだ、暑いし。アリスが具合悪くなるのは、嫌だ、わ」
「大丈夫だってば」
そのアリスの言葉には首を振って何も答えずまだ粘る。うんと言えば楽になるのに。甘ったれが、こんなに拒絶するなんて、この間の一件は相当幽香のトラウマになっているようだ。それともどこかで誰かに何か吹き込まれたのかしら?
ここで平気だ平気だと繰り返しても、すっかりビビってしまった幽香はろくに手を出したりしないだろう。我慢できないとか言いながら、結局我慢するに違いない。どうしようか。とりあえず、こんな貝のように頑なになった幽香を相手に今畳みかけるのは得策ではない。しかもこんな玄関先で。
アリスは魔女だ。魔女は魔女らしく、言葉巧みにあの手この手で獲物をたぶらかすとしようか。
「それじゃ、ちょっとずついきましょうか」
「は!?ちょっと、って」
扉についていた両腕を外して、幽香の腕をつかむ。幽香を見れば、混乱した顔で、意味が分からない、という顔をしている。あ、かわいい。最近取り澄ました顔の幽香ばっかり見ていたからなんだか新鮮。そうよ、こうでなくちゃ。つかんだ腕を引っ張る。
「こっちこっち」
「や……私は帰るって」
「全部説明するって言ったでしょ?聞かないの?」
「いい、帰る」
「ハイハイわかってるから。帰る前にちょっと、ね。」
嘘。帰らせません。もうここは魔女の腹の中なのだから。
「なん」
最後まで言わせず、先にアリスがソファに座り、隣に強引に座らせる。体勢が整っていない幽香の腕を離して、幽香の身体に腕を回す。はい、寄り添う二人の図が出来上がり。突然のことに幽香は言おうと思っていたことの続きも言えない。
ああ、暑い。頬を汗が垂れるのを感じるけど、ここは気張りなさいよ、アリス・マーガトロイド。今日今だけは、倒れることは許されないのだから。気を引き締めて、さらに幽香を抱き寄せる。密着したから幽香の香りが先ほどより濃くなる。ああ、久しぶり。今日も甘い花の匂い。なんの花かは、わからないけど。
「はい、ちょっとずつ、ね」
「何がちょっとよ。 わけわかんないこと言ってないで離して!!」
「イ・ヤ」
じたばたと動く幽香の頬にキスを。それがスイッチオフのまじないだったみたいに、フッと幽香の力が抜けた。あれ、もう抵抗終わりなの?こういうパターン珍しいから悪くないんだけどな。
「また具合が悪くなったらどうするの…………」
動きを止めたのは、暴れればそれだけアリスの体温が上がると思ったからか。ああ、愛されてるな。やっぱり喧嘩はしてなかった。するかもしれないのは、これからだ。
「しんどかったらちゃんと言うわよ。今度は倒れるまで我慢しないって誓うわ」
「………………ひとが、どれだけ」
酷く、落ち込んだ声でつぶやく。それきり黙った。アリスを見ないようにそらされた顔を両手でつかんで引き寄せて、幽香の視界に入るように覗き込む。視線はまだ合わない。ちょっと泣き そうな顔しないでよ。悪いことしてるみたいじゃない。そそられちゃうわ。幽香が言わなかった言葉を引き継ぐ。
「…………我慢、してたの? 元気がなくなっちゃうくらい?」
「そんなこと」
「霊夢が言ってたわよ。元気がないって。喧嘩したのかって聞かれちゃったわ」
幽香を心配してわざわざアリスのところに来たということは言わないでおいた。幽香は霊夢のことが気に入ってるが、人間である霊夢にそこまで気遣われたという事実は嬉しくないだろう。
「別に、元気がなかったわけじゃ」
「ホントに?」
疑わしい視線を幽香に向ける。この期に及んで取り繕わないでよ。もうバレバレなんだから。アリスの期待通り、嘘が嫌いで苦手な幽香は、少しの沈黙の後続けた。
「…………ただちょっと、調子が狂っただけ。あ、暑いから。私も暑くて具合が悪くなったのよ」
アンタ風邪の一つも引いたことないって前に言ってたじゃない。私が暑くて具合悪くした時だって、何が起こった分からないってきょとんとしちゃってたくせに。自分のことにはとんと鈍感な幽香が、調子が狂うと自覚するまで我慢するなんて。
水がもらえずしおれる花のように、アリスが触れてやらないと駄目だなんてそんなの。愛しすぎてどうにかなりそう。ばかねぇ、というのは心の中で発言した。お互いのために。
「あのね、触れられなくて調子狂っちゃうのは貴女だけじゃないのよ?」
ごめん、嘘。正直快適だと思ってました。いやいや、思い返してみれば意識してなかったけどもやもやしてたわ、たぶん。いいのだ。幽香と違ってアリスは嘘が嫌いではない。魔女だから。
幽香がすがるような目でアリスの目を見た。本当? と問うている。やっと合わさった視線。そう、だからこれはいい嘘。
「ホントだってば。じゃなきゃ暑いのにこんなことしてないわ。幽香のやせ我慢に、気づいてないフリすればいいだけじゃない」
これは偽りのない事実。それに、ふれあいがなくて物足りなさを感じたり、帰ると言われて寂しさを感じていたのは本当だもの。それからせっかく来て教えてくれた霊夢に、お礼どころかろくに何も言わず置き去りにしてしまった。アリスの家なのに。
でもわかってしまったらじっとしてはいられなかったのだ。鍵もかけずに出て行った。魔理沙や魔理沙以外の盗人に入られても文句は言えない。
「…………」
やせ我慢という言葉のせいか、また幽香がムッとした顔になってしまった。これはよくない。本題に入ろう。額と額と合わせて、言い聞かせるようにゆっくりと。
「ね、この間のことは、幽香は知らなかったんだから仕方ないじゃない。もう知ってるし、幽香は今日までずっと気を付けててくれたでしょ? さっきも言ったけど、苦しくなったらちゃんと言うから。ね?」
「……………それで、本当に大丈夫なの?」
「やってみなくちゃわからないけど。でももう夏も終わりよ。気温だって下がるでしょうし…………だからね、何も言わないのに勝手に離れていかないの」
目の前のくちびるに短くキスをして、様子をうかがう。小さく「ん……」と返事のようなものをしたけどまだしょんぼりした浮かない顔をしているから、トドメのひとこと。
「……ね、私の具合も大事なんだけど、私はそれ以上に幽香の方が大事なのよ?」
それから、さっきしたキスよりもずっとずっと長いキスを。
どちらのものとも知れない、くぐもった声がする。こんなにアリスがアピールしてるのに、まだ心配なのか以前の勢いはないけど、幽香の方からも少しずつ応えてきた。
そうそう。アンタの我慢なんて、意味がないんだって教えてあげる。アンタが耐え忍んだって、全然にいいこと、なかったでしょう? 霊夢とチルノには心配されるし。私には怒られるし。
暑さのためか、今の状況のせいか。幽香の頬を流れる汗を片手で拭った。綺麗な鼻筋に流れる雫は舐めとった。さすがに口の中と違ってしょっぱいのよね。しかしやはり暑い。つい、ぽろりとこぼしてしまった
「あっついわねぇ……」
あら大変、これって禁句よね。アリスが危惧した通り、腕の中の幽香が離れようとじたじたと動き出す。うふふ、本気じゃないくせに。怪力な幽香に本気で暴れられたらアリスの力で押さえていられるわけがない。
ああ、もうかわいいなあ。ありったけの愛と力をこめて腕の力を強くした。諦めたのか、また幽香が大人しくなる。そうそう、いいこいいこ。
「あつい、なら離しなさい、よ……」
赤い顔で、憎まれ口。無視無視。ああ、でもやっぱりアツいわね。だって少し下がったとはいえ、まだ三十度近くあるものね。
ぽたりぽたりと顎のあたりから汗が流れるのを感じる。見れば幽香の顔にも汗が流れている。はたして幽香の汗が、暑くて出たものかどうかはわからないけれど。
あ、いいこと思いついた。
「ねぇ、幽香。水風呂はいらない?」
幽香は赤い顔のままポカンとした。その後真顔になって考えこんだ。
三十秒くらいたっぷりたった後、こっくりうなずいた。ああ、かわいい。
かくして意固地になった花の妖怪は、魔女の言葉巧みどころか、どストレートな誘い文句であっさり陥落した。
ぴちゃん。
天井からバスタブへ雫の垂れる音が響いた。二人一緒のバスルーム。
お風呂の温度はさすがに水では冷たすぎるので、かなりぬるめ。
二人で密着していても暑くなりすぎない程度の温度。つまりは「ちょうどいい」。
「ねぇ、わすれものってなに」
「ああ、もう言う必要もない気がするけど…………ねぇ、私になにかし忘れてない? まだわからないならおしおきだわ。代わりにぜんぶ、それを私が、幽香にしてあげる」
「……………」
「いやがってもやめないわよ?」
だからもう諦めて、貴女が私にしたいこと、ぜんぶ、したらいいわ。
されたいのなら、べつだけど。
End.
>>……ちょっとさすがに傷つくだけど?
傷つくんだけど?
もっともっと読みたい気分に。。
このシリーズ大好きです。