0
最近のフランドールは、調子が良さそうだった。
一日中引き篭もる事は稀で、部屋から出ることも多くなり、自室ではなく上の食堂で食事を摂るケースも増えてきた。
だが、そうしてフランドールが食事をしているのを見ていると、レミリアにはどうにも気になる事が一つある。
二人の前に出された赤い苺がワンポイントなショートケーキと美味しい紅茶。
それを無心に食べているフランドール。
いただきますもごちそうさまも無しで、適当に食べ散らかす姿を見ていると、ある種の懸念がレミリアの中で生まれてくるのだ。
「フランは、これが人間だって知っているのよね」
「……うん? 当たり前じゃない。私のことを馬鹿にしているの」
「なら、どうやって人間がこれになっているのか、知っているか?」
「知ってるよ。おっぱいの大きい人間から絞るんでしょ」
どうにも妹は根本から、吸血鬼という物を誤解をしていた。自分という物が分かっていない。
それでは吸血鬼ではなく、吸乳鬼ではないか。
レミリア・スカーレットは頭を抱えた。妹が完全に的外れの認識をしている事と、それを放置していた自分に絶望した。
確かにフランドールは、人間を食べ物として認識している。
だが、それは液体となった食べられる形の人間であり、どうやって生きている人間が食べられる姿になるのかを、フランドールは全く理解していなかったのだ。
子どもが海で泳いでいる魚を想像しようとして、魚肉ソーセージや切り身の遊泳を連想するようなものである。
食育が全くなっていない。
「地下暮らしが長かったからなのかね」
「なにが?」
溜め息を吐く姉と小首を傾げる妹。
やはり、教育係の問題はさっさと解決すべきだったか。レミリア・スカーレットは猛省する。
そして、この根本的な間違いは早急に正さなくてはいけないと決意した。
それも、できるだけ、妹へのダメージの少ない方法で妹の理解を促さなくてはいけない。レミリアは、それらをパチュリー・ノーレッジに全て託す事に決めた。
「そういうわけで、後はよろしく。頼んだからね」
「え?」
全部親友に丸投げしたのだ。
1 兎
フランドール・スカーレットは兎だった。
毛並みは明るいオレンジ色で、目は黒曜石のように真っ黒く、口元はなぜだかいつもモゴモゴと動き、その大きな耳はいつも忙しなくピョコピョコしているという、何処に出しても恥ずかしくない可愛い兎だ。
そんなフランドール兎は、草原のど真ん中で空を物珍しそうに見上げている。その見上げる先には、フランドール兎と同じようなオレンジ色をした明るい物体が浮かんでいた。
太陽だ。
太陽とは天の川銀河の隅っこにある太陽系の中心である主系列星で、宇宙ではありふれた存在だけれど、吸血鬼にとっては有害極まりない存在で、その光を浴びた吸血鬼は気化してしまうという、とても恐ろしい存在である。
だが、今のフランには関係ない。
なぜなら、フランドールは兎だからだ。
兎が太陽に焼かれるなど、アリゾナ砂漠かサンタナにでも行かない限りありえない。今のフランにとって太陽から注ぐ光は、ぽかぽかとする、とても気持ちのいいものである。
だから、緑に覆われた小高い丘の上で、フランは日向ぼっこを存分に堪能していた。毛皮を日光消毒して、なかなかどうしてご機嫌である。
けれど、そうしてのんびりもしていられない。
兎のフランのお腹の虫が『ぐぅ』と音を立てて鳴ったたからだ。
フランドール・スカーレットは兎である。何処にでもいるネザーランドドワーフだ。
ピーターラビットのような児童文学に登場する兎でも、バックスバーニーのようなカートゥーンの兎でもない。割とリアルな、飯を食べなくては飢え死にしてしまう普通の兎である。
けれど、フランは兎でありながら、自分が何を食べるのかを知らなかった。兎の食生活なんて全く興味が無かったからだ。
「お腹すいたっていってもさ。兎って何を食べるのよ」
兎なフランが天に向かって問いかけると、天より返答があった。
『兎は草食動物なんて言われるだけあって、だいたいの草は食べられるみたいね。そこらに生えている柔らかい草なら、大抵栄養にする事が出来るわ。フィクションだと人参が好物みたいだけど、実際には特に人参を好むかは、兎に聞いてみないと分からない所ね。ま、実際、兎は穴を掘る生き物だし、栄養価の高い地下茎の類が嫌いな理由は無いのだけれど』
そこでフランはそこらの草を観察してみる。
タンポポ、ナズナ、クローバーにオオバコとそれなりに草は生えている。フランドール兎は、そこらの草を少し食べてみたが、そんなものは結局は草の味しか連想できず、どうにも、美味いという感じがしなかった。
そもそもフランは葉っぱが嫌いだ。
少し前にクリスマスで、ケーキの上に乗っていたサンザシの葉っぱを口に入れて以来、どうにも葉っぱは不味いというイメージがある。だから、兎は葉っぱを食べるものと言われても、積極的に食べたい気分ではなかった。
それでも、今のフランは兎である。そして兎が葉っぱを食べると天の声がのたまう以上、草を食べずにはいられない。
だが、どうも草を食べてもテンションは上がらなかった。
そもそもフランは悪魔の妹などと言われる吸血鬼である。それが何が悲しくて葉っぱをもそもそ食べないといけないのか。そんなものを食べている現状に満足していて良いのか。
だが、そんなに意気込んでも、今のフランは兎である。葉っぱを食んで口元をもごもご動かすだけの兎である。更に言えば、兎に声帯は無いので叫び声一つも上げられないのである。
「……兎って、声を出せないの?」
『一部、例外はあるけどね。普通は声を出せないわ』
「でも、この前、上でパーティーしてた時、地下に進入してきた兎達は、ぎゃーぎゃー五月蝿かったんだけど」
『あれは妖怪兎だからね。普通じゃないのよ』
そうして天の声と会話をしつつ、フランは辺りを見回した。ついでに耳も動かして、辺りの音に注意を払う。
北のほうには沢山の木がある。それは、どうやら噂に聞く森という奴であるらしい。西はずっと野っ原だ。更に先に行くと北の森が東にも侵食している。そして南には切り立った崖。その先には大量の水。どうやら、それは海という奴らしい。
「図書館に作ったアレ?」
『そうね、最もそこにあるのは本物の海。途方もなく広くて大きい奴よ』
「大きいって、紅魔館ぐらい?」
『海の大きさにも拠るけどね。ここの海は瀬戸内海みたいな小さな海じゃないから、水平線は見えるわね。海の向こうにある大陸が見えないくらいに大きいわよ』
「へー、よく分かんないや」
そんな雑談を天の声としながら、フランは草原を見る。
すると、現在、フランが居る小高い丘の向こうの方に木製の箱が見えたのだった。それは何者かが立てた正方形の家である。その家は四角いの柵でできた囲いに有り、その中には正四角形の畑とか、正四角形の家畜小屋も見えた。
なんで全てが正方形なのかは分からないけど、それよりも重要な事が一つある。その家には畑があって、どうやら人参が生えているらしいのだ。
耳ほど優れてないけど、野性の兎の嗅覚は結構鋭い物が有る。実際、兎は感覚器官が全体的に高レベルでバランスが取れていて、早期警戒機のように異変に気が付く事もできる。
だから、好物の人参の匂いだって、簡単に嗅ぎ当てる事もできるのだ。
行ってみよう、とフランドール兎は跳ねる。
兎特有の発達した後ろ足を使って、誰かの家の畑のほうにぴょこぴょこと駆けていった。
『その家の周りは遠くから観察した通りに柵に囲われている。柵の高さは二メートル。下までしっかりと防がれていて、兎が入り込めるような隙間は無いわ』
「だったら、飛んで入る」
天の声の状況説明に、フランは吸血鬼的な解法を提示した。
だが、重ねて説明する事になるが、今のフランドール・スカーレットは小さな兎で吸血鬼ではない。
その大きさは三十センチにも満たなくて、後ろ足で飛び上がっても自分の身長と同じくらいの高さの段差を上るので精一杯。とてもではないが二メートルの獣避けフェンスなんて、いくら頑張っても乗り越えられない。
今のフランが見上げている柵を、平均的な人間の視点に置き換えてみた場合、高さ六メートルもの巨大な柵を見上げているようなものなのだ。
「六メートルって、どれくらい?」
『少し前、萃香が遊びに来た事があったでしょう』
「あの角の生えたちびっこ?」
『そうね。貴方と大差ない背丈だけど……ともかく、アレが、大きくなったの覚えていない?』
「あったね。そういえば」
『あれが、六メートルくらい』
「それはでっかいね」
空も飛ばずにミッシング萃香を乗り越えるのは、少しばかり骨が折れる。それほど大きな柵を前にして、空を飛べないフランドール兎はどうする事も出来なかった。
だけど、人参を食べたいという強い欲求はある。
どうしたものか。
そもそも兎には何が出来るのだろう。
体力的には悲しくなるほど兎は非力だ。感覚はかなり優れていて、特に聴覚は凄まじいものがあるけれど、攻撃能力は雀の涙。
足の速さはそこそこで、跳躍力は案外普通。そして、地面に穴を掘る能力に長けており、その能力はモグラなどの本職を除けば、相当なモノである。
そうして、兎としても能力を確かめ、フランは理解した。
「この柵は、下までは続いていないよね?」
『地面で止まっているわ』
「だったら、穴掘って柵をくぐる!」
そうしてフランドール兎は穴を掘り始めた。
なかなかどうして兎の体というものは、穴を掘るのに適している。短い前足から伸びた太い爪は、土を掘るには最適で面白いように地面を掘れるし、掘った土は発達した後ろ足を使って、どんどん後方に掻き出していくのは爽快だ。
全くもって兎とは、穴を掘る為に生まれてきたような動物である。そうして夢中になって土を掘っていると、あっと言う間に柵をくぐれる穴が出来た。
折角だから、もっとしっかりした穴にしようか。
そんな事を考えていると、フランのお腹がぐぅと鳴る。
さっき、もそもそ食べた草分のエネルギーはもう尽きてしまったらしい。どうにも兎の体は、身体が小さいだけあって、直ぐにお腹が空いてしまう。
傍から見れば気楽な兎も、なかなか不自由なもんである。
ともあれ――
「それじゃ、さっさと人参を食べに行こう」
フランは正方形の畑に向かった。しかし、どうしてこんなに正方形の建物なのだろうか。
『マップは適当に書いたのよね』
見も蓋も無い説明が天の声から返ってくる。成程、それなら仕方がない。
そんなメタな発言を天と交わしながら、フランドール兎は畑を我が物顔で闊歩する。
畑の野菜は、人参は当然の事として、キャベツやセロリ、それにアスパラガスなどと色々な野菜が、小さな畑に実っていた。
「そういや、アイツはアスパラとか好きだったね。なんか嬉しそうに食べてたのを思い出した」
『ここに生えているのはグリーンアスパラガスだけどね。レミィが好きなホワイトアスパラガスは、フランスじゃマドモアゼルの指とか、食べれる象牙なんて言われる高級品で、ここに生えているのとは少し違うものなのよ。実際、ホワイトアスパラガスは向こうじゃ、とても神聖視されていて、それを示す例としては、とある婦人が救世主を受胎したという証明を……』
「ふーん」
天の声の薀蓄はまだ続いていたけど、興味の無いフランは生返事をして、アスパラガスの脇を通り過ぎた。別にアスパラガスに罪は無いのだけど、姉の好きなものという時点で、どうにも興味が失せてしまう。
難しい年頃なのだ。
そういうわけで、他のキャベツとかセロリといった青物もグレイズながら、フランは人参の前に来た。畑の畝からは細い茎と葉、それに人参特有のオレンジの根が少し顔を出している。
やはり、青物よりも明るい色の食べ物の方が好ましい。
フランドール兎は人参を掘り出してみた。兎の手にかかれば、しっかり埋まった人参を掘り出す事ぐらいどうてことない。
オレンジ色した人参は、身体よりも少し小さいぐらいで食べ堪えは十分過ぎるほどある。フランドール兎は、真ん中から豪快に人参に齧りついた。
とても、美味しい。
この畑の人参は丹精込めて育てられていたお陰か、とっても甘くて美味しくて、食べていると身体がふわふわうきうきしてしまうくらい、この人参は美味しいのだ。
そうしてフランが、人参に舌鼓を打っていると――
『わん!』
「うわっ、吃驚した!」
甲高い鳴き声がした。
どうやら、ここでは番犬を一匹飼っていたらしく、そいつが気が付いて鳴き声を上げたのだ。その鳴き声に、耳のいいフランドール兎は朦朧状態に陥ってしまう。耳が良いのも考え物だ。
どうにか、朦朧状態から抜け出して、フランドール兎は考える。
やはりここは、文字通りに脱兎の如く逃げるべきだろうか。
鳴き声からして、自分と犬との距離は離れているだろうけど、犬と兎では根本的な体躯が違う。だから、犬の方が絶対に早い。
ならば、距離という優位がある間に逃げるべきか。だが、犬に吼えられて逃げるなんて、どうにも情けない所もある。
更なる判断材料を求めて、フランは鳴き声のする方を見た。
すると、正方形の家の脇に犬は居り、そいつは鎖に繋がれていた。
「なんだ」
それならちっとも怖くは無い。
フランは、犬に吼えられても全くに気にする事もなく、悠々と人参を食べる事にする。
『随分と余裕ね』
「そりゃそうだよ。だって、わんこはこっちに来れないんでしょう?」
『ええ、番犬は鎖に繋がれて、畑と家畜小屋には入れないようになっているわ』
「だったら、安心……」
『でも、そもそも番犬ってのは、侵入者を知らせるのがお仕事で、その仕事はしっかり果たしているのよ』
「え? でも咲夜の仕事はバンケンで……」
『いや、あれはメイド長だからね。番犬じゃないからね。確かにあの子は犬属性強いけど』
「でも、たまに吸血鬼のイヌって」
『それは比喩』
「ひゆ?」
『例えよ。たとえ。他の言葉に言い換えた表現』
「ニホンゴムツカシイネ」
『思い出したようにガイジン設定持ち出さなくてもいいのよ』
「でも、やっぱり後から覚えた言葉って難しいよ。まだ、難しい漢字は読めないし、書くのは苦手だし」
『読めるなら、それは十分立派なことよ』
ともあれ、番犬の仕事が侵入者を発見し、鳴き声によって知らせる事だとすると、それを知らされた奴が居るという事である。
少しばかり、危険に対する認識が甘すぎた。
より正確には、吸血鬼として生きて、四百九十五年も引き篭もり生活を続けていた彼女は、危機感という概念が薄すぎたのだ。
『ドアが開いたわ』
だから、兎が生態系の食物連鎖でも下のほうに位置する存在で、食物連鎖の頂点に立つソレが現れたら、絶対に太刀打ちできない事も理解していなかったのである。
大きな音を立てて、ドアが開く。
家の中からは、らっぱ銃を持った人間が現れた。
人間は登場して早々、犬の様子を見て状況把握を完了させると、空に向かって威嚇のらっぱ銃をぶっ放す。辺りに響く破裂音が、フランの敏感な耳を劈いた。
『さあ、聴覚判定に成功してしまったら、大音響にやられて、またしばらく行動不能になるからね』
「そ、そんなの成功しちゃうに決まってるじゃん」
兎は、指向性聴覚を持っていて、繊細な聴覚も有している生き物であるが、それが逆に弱点となる事もある。
大きな音に弱いのだ。
度を越した爆音を聞くと一定時間朦朧状態になってしまう。犬が洗っていない靴下を嗅いで行動不能になるのと同じ理屈だ。
フランドール兎は、大音響によって朦朧状態に陥った。
その間に天に向かってらっぱ銃を威嚇射撃した人間は、番犬の鎖を外すと、フランドール兎に向かって狙いを付ける。害獣であるフランを撃ち殺して、スープにでもしてしまおうという魂胆なのだろう。
鉄砲を向けられて、フランは戦慄した。
ふと、姉との話を思い出したからだ。
「ねえフラン。今日、鉄砲ってのに撃たれたんだけどさ」
「うん」
「アレ、凄い痛いわ」
「ふーん」
「剣とかで切られたり、槍で刺されるのって、一瞬熱くなって終わりだけど、鉄砲で撃たれると、傷口に弾がめり込んで中で変形して、ぐちゃぐちゃなるわけよ」
「お、おお……」
「で、弾は中で止まっちゃてて、そのままにもして置けないから、傷口を切り開いて取り出すわけだけど、弾が変形して肉の中に食い込んでるから、それを取り出す為に……」
「痛い痛い痛い!」
そんな聞いていて痛くなる話をされた事があった。
どうにもレミリア・スカーレットという吸血鬼はデリカシーにかけるきらいが有り、そういう痛い話をやたらとフランにしてくるのである。
だから、鉄砲の怖さをフランはよく知っていた。アレはとても痛い武器だ。
しかも、今のフランは吸血鬼ではなく兎である。
「てっぽうを喰らったら、どうなるの?」
『死ぬわね』
「絶対に?」
『余程運が良ければ生き残れるけど、まあ、普通に無理だと思うわ。兎って小さいからHP低いし』
それは絶対に当たりたくない。
朦朧状態から回復すると、フランは全力で逃げの一手を打つ。
もっとも、冷静に現実を鑑みれば、それなりに距離を取っている状態で、兎のような小さな物体を狙い打てるほど、らっぱ銃の精度は高くないのだけれど、そんな事、フランは気が付かない。
脱兎の如く逃げ出した。
人参を詰め込んだお腹が重いが、それでも頑張ってフランは逃げた。
後ろで犬がワンワンと『てめぇ、ご主人の畑に忍び込もうっていい根性しているじゃねぇか』と犬語でチンピラみたいな物言いをしているが、それは無視。兎に角、柵の下に空けた兎穴へと、命からがら逃げ込んだ。
後ろでキャインと声がする。
犬が柵に激突したのだ。
普段なら、煽り文句の一つでも言ってやるところだが、今のフランにそんな余裕は無い。そもそも声帯がない。急いで草原を駆け抜けて、森の方へと駆けて行く。
そして森に入った後も、よほどらっぱ銃が恐ろしかったのか、命を取られそうになる体験が恐ろしかったのか、人間も犬も追いかけてきていないのにまだ走り続けていた。
命からがらとは、こういう状況を言うのだろう。
そうしてフランが走っていると、目の前の茂みががさりと揺れた。
だが、走っているフランはソレに気が付かない。
気が付かないまま茂みの傍を走りぬけ、そして――
『狼が、茂みから飛び出してフランの体に齧りついたわ』
慌ててフランは、狼の牙から逃れようとする。
だが、それは完全な不意打ちで逃げる猶予などありはしなかった。そして体に食い込んだ牙を振り払おうとしても、根本的な膂力が違いすぎた。狼の体躯はフランの三倍以上あり、どうやったって振りほどけない。牙がフランドール兎の毛皮にしっかりと食い込んで、暴れたって外れやしない。
フランドール兎は叫び声を上げようとした。
だが、兎に声帯はないのだから、断末魔の声すら上げられなかった。
狼は前足でフランを押さえ込み、首の付け根に噛み付き直した。それによって、フランの抵抗は完全に無力となる。
首の骨を噛み砕かれ、フランドールは息絶えた。
○
「私、死んじゃった」
そう言いながら、吸血鬼フランドール・スカーレットは図書館で放心をしている。
そうして呆然としているフランの目の前には一枚の紙切れ、それにサイコロや筆記用具などが置かれていた。その紙切れは、ごちゃごちゃと文字や数値で占められており、その隅には可愛らしい兎のイラスト――オレンジ色の毛並みをしたネザーランドドワーフが描かれている。
「残念だったわね。最初の割にロールプレイも自然だったし、全体的な判断も悪くない。人参を手に入れて逃げるところまで上手く行っていたのに、そこから先で間違ってしまった」
そんな虚脱しているフランに対し、パチュリー・ノーレッジがさっきまで『兎を演じていた』フランの問題点を説明し始めた。その手元は厚紙でできた衝立によって隠されて、魔法使いの前に何が置かれているのか分からなくなっている。
「森には色々な食べ物がある反面、それを狙う肉食獣も居た。人間は、自分のテリトリーから害獣を追い出せば満足するけど、肉食獣は食料としてのフランを狙っている。それに草木も生い茂っていて、視界も悪い。幾ら兎の感覚器官が極めて鋭敏であるとしても、あんなに大きな音を立てて走り回っていれば、それも全く役に立たない。捕食者に食べられるのは当然の話よ」
「むー」
そうして総括するパチュリーに対して、フランは唸った。
「そう凄い目で睨まれても、それが自然なの。生存競争という奴よ」
「でも、なんで私を襲ったの? 私はただ、人間から逃げてただけなのに酷いよ」
「狼も必死だからね」
「必死?」
「兎は草とか野菜を食べないと飢え死にするけど、その餌はそこらに生えているわ。でも、狼が餌とする小型草食獣は、見つけて、追って、狩らないと手に入らないものなのよ」
「他のを食べるとか、駄目なの?」
「基本的には駄目。肉食獣なんだから」
「……そもそもさ。さっきから言っている、そのニクショクジュウって何?」
「肉を主食とする獣の事よ。他の誰かを襲い、それを食べないと生きていけない生き物」
だから、必死なのだとパチュリーは語った。
食わなければ死ぬ。
飢えて、死ぬ。
だから、襲う。
肉を得る為に、他の動物に襲い掛かるのだ。
生を求め、死を拒絶するからこそ、狼は獲物を狩るのである。
「……狼って、どうしてそんな生き方を選んだの? 頭おかしいの?」
そういう生き物が居ることは、知っていた。
だが、改めて当事者になってみて、理解に苦しむ。
他の命を日常的に奪うなんて、本当に酷い生き物だ。それも、あんなに可愛い兎を食べるなんて、ちょっと許せる事ではない。
だいたい、狼は昔から好きではないのだ。見た目からして、なんか怖いし。あの大きな口も、はみ出た牙も、なんか嫌いだ。
「別に狼も好きで狼をしているわけではないからね。生まれたから、そういう風に生きている。きっと、それだけよ」
「むー」
なんか達観したようなパチュリーの説明に、フランはジト目で唸った。それでは、フランの疑問に答えていない。そういう物だと言われたから、はいそうですかと納得などできるものか。
「じゃあ、狼はそうして生き物を襲うことをどう思っているのさ。それで良いとか思っているわけ?」
なので、半ば言いがかりめいた事をパチュリーに突きつける。
すると、何故か魔法使いは少しだけ優しい笑みを浮かべて、
「それは次のゲームで分かる事になるわ」と、思わせぶりに答えた。
「……次のゲーム? このロールプレイングゲームとかいうのって、まだ続きがあるの? また、兎になれるの?」
「兎にはなれないわ。兎のフランは死んじゃったから、それで終わり。でも、貴方はまた、別のキャラクターを演じる事になるのよ」
「別の、キャラクター」
「そうよ。role-playing gameなんだからね。いつものフランとは異なる役割を演じるのは当たり前なのよ。そういう遊びなんだから」
「遊びかー。でも、遊びって言うには、少し――」
真に迫っていたというか。
変にリアリティがあったというか。
普段、フランがしている人形遊びとか、かくれんぼとか、かごめかごめとか、それに弾幕ごっことも違う、異質な物を感じるのだ。
「つまらなかった?」
「それは……」
「さっき、フランは兎を演じた。それは、とても面白いものだったでしょう?」
「うん、面白かった。最後に死んじゃったけど、途中までは面白かったよ。兎になって、見たこと無い太陽を想像するのも。草原で草を食べるのも。大きな海を思い描くのも。みんな面白かったし、人間に追い回されるのは、怖かった」
「まあ、死ぬのは仕方がないことね。RPGとは役割演技をし、死んだり殺されたりするゲーム――なんて、言葉もあるし」
「なんかサツバツとしているね」
「殺伐だなんて難しい言葉を知っているわね。フランも案外、日本語の語彙が豊富じゃない」
そんな話をしていると、フランドールは咲夜に呼ばれた。食事の時間になったからだ。
そうして、狼の肉食を非難した吸血鬼は、メイド長に連れられて食堂に向かった。
○
「調子はどう?」
紅魔館地下にある大図書館にて、パチュリーがゲームの後片付けをしていると、紅魔館の主が顔を出した。
「……んー、まあ、悪くないと思う。それは良いけど、ダイスが一個足りないから、レミィも一緒に探してくれない?」
だが、魔法使いはそんな親友を一瞥もせず、机の下とか椅子の下を念入りに探し回っていた。
「面倒臭いな。サイコロの一個や二個、私が後で買ってあげるよ」
「駄目。アレはクリティカルが出やすいお気に入りのダイスなんだから、お金で買えない価値があるの」
「なるほど縁起物か。だったら仕方がない、手伝ってあげるわ」
そう文句を言いながらも、レミリアは机の下に潜って探し始めた。それから数分「ないなー」「みつからないわねー」などと声を掛け合いながら、どうにか紫のパールダイスを本棚の後ろで発見する。
それでようやく、ゲームの後片付けは終了した。
使い込まれたルールブックには、そこかしこに補強の後が見える。ダイスを入れた小袋には六面、八面、十面、二十面と様々なダイスが詰め込まれていて、ルールブックの上には、先ほどのゲームのシナリオと、それを隠す為の衝立であるマスタースクリーンが重ねられていた。
「それで、どうだった?」
「何が?」
「だから、さっきのフランとのゲームのことよ。上手く行きそうか、どうなのか」
「始めたばかりだから、なんとも言えないけれど……プレイヤーとしては、ちゃんと兎として演じていたし、状況判断もしっかりしている。ルールもレミィより余程把握しているし、なかなか良いプレイヤーだったわ」
「そう。なら、良いんだけどねぇ」
パチュリーの報告を満足そうに聞きながら、レミリア・スカーレットはルールブックやマスタースクリーン等の上に乗っていた一枚の紙を手に取る。
それは、フランドール・スカーレットが作成したキャラクターシートだった。自分が演じる兎のデータが記されている紙切れだ。先のゲームにおける仮想世界での、フランドールの個性の全てが詰め込まれた一枚の紙。
「なかなか良く出来ているじゃないか」
その紙には、兎としてのフランの名前、それを演じるプレイヤーとしてのフランの名前、兎の年齢、体のサイズ、筋力、知力、敏捷力、生命力、移動力、反射の速さ、意志の強さ、肉体の耐久度、毛皮の厚さ、毛皮の色、穴を掘る速度、広域視界、色素欠乏、鋭敏味覚、物陰の隠れる上手さ、周辺の地形への造詣の深さ、毛皮の色、口元をいつもモゴモゴ動かす癖等のデータと、具体的にどういう外見の兎であるかのイラストが描き込まれている。
「……このデータは全部パチェが用意したのか?」
「大体はね。兎の基礎的な能力値は、テンプレートとして用意されたものを使用しているけど、口元を動かす癖と毛の色はあの子が自分で決めたわ。そして、毛並みと癖を一個決められたご褒美に二つ技能を取らせて上げた。最も、それは何の役にも立たなかったけど、まあ、フレーバーとしての技能なんて、よくある事ね。そして、その可愛いイラストは持参のクレヨンを使って、フランドール・スカーレット画伯が描いたものよ」
そのちゃんと特徴を捉えてある兎の姿を見て、レミリアは怪訝そうな表情をする。
「フランは兎を見たことあったっけ?」
「船をお披露目したパーティーで、兎が大量にやってきた事あったでしょう」
「……いたか?」
「居たわ。かなり沢山。床に毛が残るぐらい。その時にフランは生きた兎を見ていたの。まあ、所詮は妖怪兎だけれどね」
「うん? だけど、確か、その時の兎達は全部ジャパニーズホワイトじゃなかった? この兎はどう見てもネザーランドドワーフだよ」
キャラクターシートの一角にあるポートレイトを描く空間には、一匹のオレンジの兎がクレヨンで描かれているけど、確かにそれは永遠亭の妖怪兎の元型であるジャパニーズホワイトとは全く違う、オレンジ色のネザーランドドワーフだった。
「だったら、ピーターラビットでも読んでいたのかもしれないわね、あの子。もっともピーターラビットを読んでいるなら、あんなに警戒心無く人間の家に潜り込まなかっただろうけど」
「ならば、イラスト程度は見たことがあった程度か」
「そうね。兎が何を食べるのかも、知らなかったぐらいだし」
そんな話をしながら、レミリアは妹の描いた兎のイラストをしげしげと眺め、パチュリーは疲れた顔をしながら、深く椅子に腰掛けた。
そんなお疲れな魔法使いに吸血鬼は要請する。
「とりあえず、このまま、このローリングブレイクゲームとかいうのを続けてみてよ。そうすれば、上手く行くかもしれないしさ」
「ロールプレイングゲームね。より正確を期すならテーブルトークロールプレイングゲーム」
パチュリー・ノーレッジは訂正した。
そのロールプレイングゲームとは、先にパチュリーとフランが遊んでいたゲームであり、和訳をすると役割演技遊戯という、一般的なテーブルゲームとは、少し方向性が異なるゲームである。
その前身は、中世の戦闘を扱ったウォーシュミレーションゲームである『チェインメイル』で、これは駒をユニットではなく、一人のキャラクターとして扱った点で極めて斬新なゲームであった。
このゲームの駒に個性を付与するという概念は非常に面白い物があり、これに1970年代当時、米国で根強い人気を誇っていた指輪物語の世界観を組み合わせた事で、架空のキャラクターを役割演技するという、全く新しいゲームが誕生した。
これがRPGの鼻祖となるDungeons & Dragons(通称D&D)である。プレイヤー同士が勝敗を競う事こそゲームの本質であるはずなのに、役割を演技し、プレイヤー同士が協力して楽しむ事を主眼とした、とても変なゲームはこうして産声を上げたのだ。
「けど、レミィ」
そんなゲームの進行役(通称ゲームマスター、以下GM)をしていた魔法使いが疲れ顔で不安そうに呟く。
「なに?」
「こんなので、フランは本当に理解できるようになると思う?」
「このプランを立案したのはパチェだろう」
「いや、そうだけど、何と言うか不安ではあるのよ」
「駄目という事で?」
「いんや。逆にあの子の感情移入力が高すぎて」
「それは、いい事なんじゃないのか?」
「確かに、今回の目的の為にはいい事だけどね。でも、入り込みすぎるのは少し不安よ。変な形で失敗したら……」
「大丈夫だよ」
少し不安そうなパチュリーに対し、レミリアはあくまで脳天気に言った。
「それに別に、今回のが失敗しても良いのさ。アレが理解してくれればそれに越した事はないけど、駄目だったら別の方法を考えるまでの事だから」
それに対して、仕掛け人であるレミリアは気楽な調子でそう言った。
パチュリーは、重い溜め息を吐く。
それは、あくまで脳天気なレミリアに呆れた事もあっただろう。だが、それだけではなかった。
魔法使いは、とても疲れているのだ。
実際、RPGのGMというのは非常に疲れるものなのである。セッション(RPGにおいて、集まってゲームを行い、終わらせるまでも一ゲームプレイのこと)は短くても二、三時間、長いときには七、八時間もかかる事があり、その間、GMは常にプレイヤーに対応しなければならない。ゲームに登場するプレイヤー以外のキャラクターも、風景描写も、細々としたヒントの挿入、シナリオの軌道修正、無茶なプレイヤーへの対処に、悪質なプレイヤーへの注意など、そうした事すべてをしなければならない。それはパーティーのホストのようなもので、GMというものはとても神経を使うのだ。
だから、パチュリーは疲れている。
フランは聞き分けの良いプレイヤーで、シナリオもソロ用で短かったけれど、それでもGMの消耗度合いは、かなりの物だ。
そして、今後もパチュリーはGMを続ける事になるだろう。
だから、これからの苦労を想像し、魔法使いは溜め息を重ねた。
セッションを重ねれば重ねるほど、シナリオが長くなる予定だ。つまり、苦労も増える。しかも、シナリオは半ばアドリブとなる事が決まっていて、GMの苦労が洒落にならない事になるのは、確定的に明らかなのだ。
「……やっぱりさ。箱庭療法とか別の方法に変えてみない?」
「駄目だな、こっちの方が面白そうだし、きっとフランにあっている」
軌道修正を願う魔法使いの意見を吸血鬼は即効却下する。
そして、慰めるように「まあ、私も今、このゲームのルールを覚えているから、GMが出来るようして、負担軽減をしてあげるから」等と気楽そうに語った。
そんな様子を見て、パチュリーはまた溜め息を吐く。
そうやってレミリアがGMをできるようになっても、パチュリーの負担が減らないからだ。
フランはレミリアに反発している。
姉に対して、コイツ呼ばわりし、事あるごとに反発してみせるという、反抗期真っ只中の五百歳児なのだ。
そして、ロールプレイングゲームはコミニュケーションのゲームである。プレイヤーとGMの会話によってシナリオは進行する。
それなのに、GMとプレイヤーの間で、コミニュケーションの齟齬をきたしては、RPGは成り立たない。
つまり、レミリアがGMをしたとしても、きっとフランはそれを受け入れないだろう。
だから、レミリアがマスタリングできるようになっても、パチュリーの負担は減らないのだ。
パチュリーは、何度目か分からない溜め息を吐いた。結局のところ、レミリアの案で自分が苦労する事は間違いない。
だが、それも仕方ないだろう。
RPGで一番苦労をするのはいつもGM、それは昔からずっと変わらない事だから。
○
紅魔館の食堂は簡素だった。
十人掛け程度のテーブルに、八脚ほどの背もたれが着いた座り心地がよろしい椅子、それに純白のテーブルクロスと、紅魔館の食堂は、悪魔の館に相応しくない何処にでもありそうな食堂だった。
そんな食堂でフランは椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、食事が来るのを待っていた。
「お待たせしました。今日のおやつは葡萄のタルトですよ」
すると、トレイに甘い香りのするタルトを載せて、メイド長の十六夜咲夜が台所から現れた。フランの前に出されたタルトの上には、黒い宝石のようにキラキラ輝く大粒の葡萄が山のように乗っている。とても綺麗で美味しそうだ。
「うわー、今日のは凄いね」
「取れたての葡萄を頂きまして、本日は折角だからとタルトにしました。さっき、一つ抓んでみましたがとても美味しかったですよ」
「む、先に食べるのはずるいよ」
「いえ、それはお毒見ですから。抓み食いではありません」
そうして、益体も無い話をしている間、フランは咲夜にナプキンを付けて貰った。
それでは、実食。
フォークでタルトを口に運ぶと、それは甘く、それでいながら葡萄の酸味も効いていて、フランの頬っぺたは落ちそうになる。
「おいしい!」
「それは何よりです」
そうして、フランは紅茶を啜りながら、葡萄のタルトを食べた。けれど、少しだけ量が多かったので、五分の一程残してしまう。
口の周りがジャムでべとべとになってしまったので、咲夜にナプキンで拭いて貰った。そうして、顔を綺麗にしてもらい、食事は終わる。
少し前までは、地下で一人で食べていたが、最近は咲夜に見守られながら、この食堂で食事を取る事が多くなった。実際、下で一人もそもそ食べるよりも、上で咲夜と話をしながら食べるほうが、楽しいし、ご飯も美味しくなる気もする。
「そういえば咲夜」
「はい、なんでしょうか」
「人参って、どんな味なの?」
食後の紅茶を啜りながら、フランは少し前から気になっていた事を咲夜に尋ねる。先のゲームで、フランは兎の役を演じていたけど。その時に仮想現実の中で食べた人参の事が、妙に頭に引っかかっていたのだ。
パチュリーは、それが兎の主観だと前置きをした上で『とっても甘くて美味しくて、食べていると身体がふわふわうきうきしてしまう』などと、人参の味を描写した。
そういう事を言われたら、人参を食べたいと思うのが人情だろう。
「妹様は、人参に興味がお有りで?」
「うん」
「でしたら、明日は人参を使ったケーキでも作りましょうか?」
「ほんと?」
「こんな事で嘘は吐きませんよ。吐くなら、もっと面白い嘘を吐きます」
などという捻くれた事を朗らかに言いながら、咲夜は明日はキャロットケーキを作ってくれると約束してくれた。
なんとなく、フランは嬉しくなる。
兎だった時に食べた人参が、実際に食べられるという事で、妙に浮き足立った気分になった。
「あ、そうだ」
そこで、フランは手を叩く。
「人参は、ケーキじゃなくて、生のまま食べたい」
「はあ。それはユニークな試みですね。私は、まあ、調理の手間が省けて良いですけど、きっと美味しくありませんよ?」
本当に兎が食べた時のまま、生の人参を食べたいとフランが主張すると、咲夜は不思議そうな顔をした。
けれど、フランはご満悦。
生の人参が食べられると、とても嬉しげに食堂を出たのだった
2 狼
フランドール・スカーレットは狼だった。
その体躯は長くて硬い毛皮に覆われ、少し汚れた鋭い牙が長っ細い口の端からはみ出ている。目は鋭く、鼻は黒く、毛並みは立ち込める煙のような灰色をした大きな狼だ。
その肉体は強靭にしてしなやかにして、頑健。視力も夜行性の生き物らしく暗視能力を備え、かつ動体視力に特に優れ、聴覚も極めて鋭く、嗅覚に至ってはイヌ科だけあって無類であり、風上で暢気に草を食んでいる兎の匂いをしっかりと嗅ぎ当てる程である。
フランドール狼の腹もちょうどいい具合に減っている。自然界に生きる肉食獣としては、運よく風下にいることを利用して、慎重に忍び寄り、お腹一杯になりたい所だ。
だが、フランドール狼は動かなかった。
『どうして、兎を襲わないの?』
天の声こと、GMであるパチュリーが、プレイヤーとしてのフランに尋ねた。すると、フランはどうにも複雑な顔をしながら、答える。
「だってさ。昨日は私、兎だったんだよ」
『でも、今日のフランは狼よ』
「それは、そうだけど……なんか嫌だな」
フランドールは狼だ。
つい先日、兎でプレイをしていた時、最期に襲い掛かってきた狼が、今日のフランドールのキャラクターだ。
だから、フランは狼としての役割を演技しなくてはならない。
肉食動物、つまりは他の生き物を捕食する事で生命活動を維持するという事をしなくてはいけない。それを考慮するならば、風上の兎を襲うのは、至極当然の事だろう。
だが、フランは動かない。
どうにも、その気になる事もできないし、ゲームだからと割り切ることもできない。真剣に、フランは悩んでいた。
生き物を狩って生きる事が、なんとなく嫌なのだ。
「パチェ。どうしても兎を食べなくちゃ駄目なの?」
『今の私はゲームマスター。だからGMと呼ぶように』
「う、うん。分かったよGM」
そうして、GMと呼ばれるとパチュリーは納得をしたのか、次のように説明した。
『別に兎を取ろうが何をしようが構わないのよ。今のフランのプレイヤーとしての目的は、狼を役割演技する事であり、兎を取って食う事ではないわ。一般的な狼は、兎を見かけたら襲うだろうけど、貴方が演じる狼が兎を食べないと決めたなら、それはそれで構わないの』
「でも、それで、いいの?」
『いいのよ』
その言葉で、少しだけフランの肩の荷が下りた。
是が非でも兎を殺さなければならないという事は無いらしい。
そうして、フランドール狼が天の声ことGMにかまけていると、兎もフランに気が付いたのか、慌てて近くの巣穴に逃げ込んだ。
それを見て、フランは先日逃げる時、そうすればよかったのかと得心する。兎は穴が掘れるのだから、そこらに避難経路を掘っておけばよかったのだ。
ともあれ。
『ただ、お腹は少しずつ減っていく。そしてお腹が空き過ぎれば、貴方は餓死をしてしまうのよ。だから、菜食主義の狼をするのは良いけれど、餓死する事を良しとはしないでね』
「わかったよ」
そうして、フランは兎以外の食べ物を探しに森へ入った。森はフランドール兎が死んだトラウマの地であるが、それもで色々な食べ物がある筈だ。その中には、狼が食べられる物もあるかもしれない。
一縷の希望を託して、フランは進む。
森は深く、暗く、湿っていた。
木々には蔦や苔が生え、陰気で嫌な空気が充満している。
『そこは、魔法の森みたいな場所だわ。陰気でじめじめしていて、そこらに茸の生えていそうな、悪い魔物や魔法使いが出てきそうな、そんな森』
GMが分かり易い説明をする。
ふとすると、魔理沙とか人形遣いが出てきたりしそうな森をフランドール狼は足音を殺しつつ、奥に進む。
草は、食べられないだろう。兎の時でも、もそもそしているだけでちっとも美味しくなかった草が、狼の食料になるはずも無い。果物の類ならと思ったが、果物なんて気の効いた物も見つからなかった。
歩いても歩いても、狼の食料になりそうなものはない。
喉が渇いてきた。
水分が、だいぶ減ってしまっている。
水場を探すと、案外それはすぐに見つかる。そこでは、小鳥が水を飲んでいた。
『貴重なタンパク質よ』
「う、うん……」
だが、ピヨピヨと囀る小鳥を襲う事は、フランにはどうしても出来なかった。たまに庭に出て小鳥に餌をやる事があるが、どうにも小鳥は可愛いのだ。
最も姉は――
「糞で館が汚れるから鳥に餌をやらないように。ここを餌場だと勘違いされたら、たまったものじゃないからね。餌をあげたいなら、外に行ってやりなさい」
などと、ロマンの欠片も無いことを言う。
姉のそういうところがフランは嫌いだった。
ロマンチストを気取りながらも、妙なところでリアリストなのだ。
そうして姉に対する思い出し怒りをしながら、フランドール狼は進む。すると、随分と立派な赤いきのこを発見した。傘にイボイボがついていて、随分と毒々しいきのこだ。
「このきのことかって、食べられる?」
霧雨魔理沙というきのこ好きな魔法使いのお陰で、きのこが食べられる物であるという事と、物によっては毒があるという事をフランドールは知っている。
なので、GMに訪ねてみたところ。
『知りたいなら、自然知識の技能で判定をしてね』
「……そんな技能持ってないよ」
実にクールに返された。
狼であるフランが有する技能は、格闘と隠密、それに運動くらいの物だ。そもそも狼は獣の中では知力が高いほうだけど、あくまで動物レベルである。
『だったら、技能なし値で判定を』
「自然知識の技能なし値は、知力マイナス六なんだけど。狼って知力が四しかないよ」
『判定値がマイナス二ね。判定する? 判定すると高確率で致命的な失敗するけど』
「しないよ!」
それぐらい教えてくれてもいいじゃない等とぼやきながら、フランはきのこの周りをうろうろした。
いっそ食べてしまおうか。
だが『灰色の狼、無残にもきのこに当たって死す』なんて、ちょっと恥ずかしいにも程がある。そうして、決断するのはリスクが高いが、諦めるのも惜しい『鶏肋』そのものな状況に陥り、フランはその場でマゴマゴし始めた。
『ただ、狼は鼻がとてもいいからね。刺激臭のする茸とかを見分けることなら、十分に出来るわ』
するとGMから助け舟が入る。
「だったら、鼻で調べるよ!」
フランは喜び勇んできのこを調べた。
すると、赤いきのこは刺激的な風味だった。どうも、食べては危険なきのこだったらしい。少し残念なところである。
だが、これは収穫だ。
兎には耳があったように、狼には鋭い嗅覚があると、フランドールが気付けたからだ。
かくしてフランドール狼はトリュフを探す豚のように、フンフン鼻を鳴らしながら、刺激臭のしない茸を探した。
すると、森の奥にあった倒木にて、刺激臭のしない、茶色い茸の群生地を発見する。
「これなら、きっと食べられるよね?」
『それは、食べてみないと分からないわ。無臭の毒キノコなんて幾らでもあるからね』
GMに脅されながらも、フランドール狼は茸を食べてみた。
食感は少しだけ肉に似ているけど、どうにも味は狼の好みではないらしい。だが、特に腹痛や目眩などは見受けられない。
こうして、フランドール狼は、ようやく安全な食料を手に入れたのだ。
次の日も、同じようにきのこを食べて飢えを凌いだ。
その次の日も、きのこだった。
ここのきのこは量だけはある。だから、体の大きな狼であるフランが食べてもなかなかなくなる事は無い。
だが、きのこだけでは大した栄養にならないのか、フランドール狼の体力は日に日に落ちていった。食べていても、胃袋が満たされていても、どうにも空腹感が拭えない。
『他の食べ物も食べないと、栄養失調で死んじゃうわね』
やはり、狼はきのこでは生きていけない。
もっと栄養価の高い食べ物がないと餓死してしまう。フランドール狼は、きのこの群生地を離れた。
暗い暗い森の中を、食べ物を探して彷徨った。
赤い実をつけた、背の低い植物を見つけた。
腹を空かせたフランドールは、凄い勢いでそれに齧り付く。だが、それの実は少し甘くて美味しかったものの、実はとても小さかった。量も無く、腹の足しにはなったけれど、満足できるものではなかった。
鳥だかリスだかが食い荒らした大きな果物の残骸を見つけた。それでもフランドール狼はそれに齧り付き、綺麗な果実を食べられなかった事に悔し涙を流した。
狼は、飢えていた。
とても、ひもじかった。
フランドール狼は、とてもひもじい思いをしている。
そんな仮想世界の自分を俯瞰して、プレイヤーとしてのフランドールは数年前の事を思い出す。
紅霧異変が終わってから、姉であるレミリア・スカーレットは家を空けがちになった。自分を負かした人間である博麗霊夢に興味を持ったからだ。
それ自体は別にいい。
姉が誰を気に入ったからって、フランドールには関係は無い。
だけれども、咲夜がそれに付いて行き、家を空ける事が多くなったのは困りものだった。フランのご飯は咲夜が担当していたからだ。
作り置きはしてくれたけど、当時の姉の博麗神社への逗留は、やたら長くなる事もあったから、少しずつ食べてもご飯はなくなってしまう。
だから、その頃、フランはよくすきっ腹を抱えて、二人が帰ってくるのを待っていたものだ。見かねたパチュリーがご飯を作ってくれた事もあったが、魔法使いはメシマズだった。賢者の石すら練成する魔法使いも、料理の才能は無かったのだ。
だから、ひもじかった。
そうした悲しい事を思い出して、フランドールは少し泣きたくなってくる。
どうして自分は、あそこで兎を狩っておかなかったのか。
どうして自分は、水場で小鳥を襲わなかったのか。
そんな後悔が湧き上がってきた。
そんなにひもじくて悲しい気持ちのまま、死んでいく事が嫌だった。
そうして、狼がうなだれながら歩いていると――
『何かが走ってくる音がするわ』
GMが宣言した。
フランは慌てて、茂みに隠れる。
人間を初めとする他の凶暴な生き物と遭遇したら、致命的な事だからだ。
今のフランは、ここ数日まともに飯を食べていない為、相当体力が落ちている。人間で言えば、頬がこけ、アバラが浮き出るくらい、フランドール狼は衰弱していた。同じ体躯の肉食獣に遭遇したら呆気なく負けてしまうし、大きな体躯の鹿とか、猪でも当たり負けするに違いない。
それほど、フランドール狼は弱っていたのだ。
そうして茂みに隠れると同時に、森の先から一匹の兎が飛び出してきた。
その兎は、オレンジ色の小さな兎で、何かに追い立てられているように、衰弱した狼の隠れている茂みの横を通り過ぎ――
「それに、襲い掛かる」
フランドール狼は、間髪入れず襲い掛かった。
横合いから上手く齧り付けたが、そこは獲物のお尻だった。兎は肉が厚くて丸っこくて、滑りやすいので、食い込んだ牙が外れないよう、フランドール狼は必死で齧り付く。
この獲物を逃したら、きっと次は来ない。
これを仕留めなくては、自分が死ぬ。
そう、思った。
だが、相手も必死だった。当然だ。ここでフランに食べられれば、当然、それの命はここで終わりだ。だから、小さな体躯に力の全てを振り絞って、逃げ切ろうと激しくもがく。
フランドール狼は、それの息の根を止める為、前足を使ってそいつの体を押さえ込み、尻に刺さった牙を抜いた。
もがく兎の首筋に噛み付き、狼は顎に力を込めた。ごきり、という嫌な音が、骨を通して脳髄に響く。
それで兎は、くたっと力を失った。
死んだのだろうか。
口を離してみてみると、兎は完全に息絶えている。
フランドールは、ふと思い出す。
稀に庭に遊びに来ていて、たまに妖精メイドや門番がミルクを上げていた子猫の事だ。この猫をフランはたいそう可愛がっていた。
銀色の毛並みで、子猫なりに凛々しい顔で尻尾が少し曲がっていて、なかなか個性的な猫だった。最もフランが知っている猫は、橙とかいう名前の化け猫とお燐という名の火車で、人間と大差ない姿をした奴らだが、この尻尾曲がりは触っているとゴロゴロという音を立てて、甘えてくる可愛いやつだった。
だけどある日、それは庭で冷たくなっていた。
子猫は、呆気なく死んでしまった。
その子猫の面倒を良く見てやっていた美鈴は『可哀想ですが、仕方ありません』と言った。そして紅魔館の庭の隅に墓を作った。
その時、姉はフランにこう言った。
『あの子猫はフランも可愛がっていたんでしょ。だったら、美鈴を手伝ってやらないの?』
フランドールは、困惑した。
死という物は知っていた。
けれど、それに直で接するのは初めてだったからだ。
昨日まで動いていた暖かくて柔らかかった猫が、今は冷たくて硬い。それは、空恐ろしい体験だ。フランは何もしていないのに、自分がどうしようもない間違いをしてしまったのではないかと、奇妙な後悔に苛まれてしまった。
そうして困惑しているのに、姉は子猫の墓を掘れと言う。
死と向き合えと言うのだ。
それはとても嫌だった。何とも言えない気持ちの悪さを覚えたものだ。
だが、確かにそれは筋であるような気がして、フランは内心嫌々ながら、美鈴を手伝った。
『ありがとうございます、妹様。これで、この子の魂も安らげるでしょう』
美鈴はそう、フランに礼を言う。
だが、フランはそんな事よりも、死んだ猫の死体が、埋葬をするという事が、死に触れると言う事が、嫌だった。
そして、それを強制した姉を恨んだ。
そんな、死と猫に関する思い出がチラついた。しかも、今ある兎の死は、完全に自分が起こしたことである。
罪悪感が、フランドールの頭をかすかに過ぎる。
だが、そうした無常を吹き飛ばす、極めて根源的欲求がフランドール狼の内から湧き上がって来る。
生存への欲求だ。
この兎は何日振りかも分からない、ゲーム開始してから初めてのまともな食事なのである。兎は対して大きくないけど、肉と内臓をあわせれば、一般的な体躯をした狼が十分に満足できるだけの量はあるだろう。
そうした食を求める生物の本能に突き動かされて、フランドール狼は、勢いに任せて、狼が兎の腹に齧り付こうとした刹那――
ゲームをしていたプレイヤーとしてのフランドールは、ふと神妙な顔をすると両の手を合わせて瞑目し「いただきます」と呟いた。
普段、フランは食事をする時に『いただきます』なんて、言った事も無い。そうした習慣がある事も、ここ数年で初めて知ったくらいだ。
だけど、フランドールは仮想現実の中において、自分が狩り殺した兎を食べるに至り、自然と食物への、命を頂くという事への感謝の言葉を口にする。
フランドールとパチュリーの二人の間で成立している共通幻想によって形作られている仮想現実の中だけど、その命を狩るという事に対して、それを食べるという事に対して、フランは感謝の念を込めて、『いただきます』を言った。
「それじゃ、食べるよ」
かくして、フランドール狼は兎を食べた。
食べられる部分は全部食べた。
残ったのは皮と骨だけで、その骨にしたところで、柔らかい部分を噛み砕いて、中の髄までしっかりと啜った。飢えていた狼はしっかりと兎を食べ尽くす。
そうしてようやく、フランドール狼は元気を取り戻す。キャラクターシートに書かれた満腹度も全開になった。
それが、フランの初めての狩りの顛末だった。
それから、フランドールは吹っ切れたように狩りをしつつ暮らしはじめた、
狼は獲物を見つける能力に優れている上、リアルラックにも恵まれて、フランは上手い具合に獲物を見つける事が出来た。
キジバトのような鳥の類、兎のような小型哺乳類、それに鹿を狩る事だって、成功した。特に鹿は大きくて食べ応えがあり、ゆうに二週間はお腹一杯の日々を過ごした。
そうして、肉を食べるだけでなく、林檎の木を見つけたりもした。野生の林檎は小粒で硬いけれど、それなりに甘味があったので、きのこと違って栄養価もまずまず。非常食として役立った。
そうして、狼のフランはたくましく生きる。
けれど、フランドール狼が居るのは、小さな島だ。どうしても限界はやって来る。
獲物が見つからなくなってきたのだ。
警戒心の薄い奴らは、ぜんぶフランのお腹の中に入ってしまって、他には無闇にすばしっこい雀だの、鼠だのしか見つからない。フランは獲物を狩り尽くしてしまったのだ。
また、ひもじい時間がやって来る。
バッタだとかトカゲだとか、そんなもので飢えをしのぎながら、獲物を探す日々を繰り返す。
そんな飢えた狼は、人間の家に眼を付けた。
兎として生きていた頃、そこで鶏だとかが飼育されている家畜小屋を目撃した。狼である今も、近寄れば鶏の喧しい鳴き声がするのを知っている。
あの柵の中に居る鶏は、きっと丸々太っているだろう。
それを奪えれば、またお腹一杯になる事が出来る。
「人間の家に行ってみる」
フランドール狼は、人間に家へと向かった。
それは、月の明るい夜だった。昼に近付けば、番犬に見つかってらっぱ銃で撃たれるから、それは必然的に夜になった。
家の周りの柵を回ってみると、柵の下に何者かが彫ったトンネルが見える。恐らく、兎が掘った穴だろう。
少し、目眩がした。
今のフランは狼だけれど、この穴を掘った兎も恐らくフランだ。何とも、これはややこしい。
『どうしたの?』
「ううん。なんでもない」
だが、今はそんな哲学に興じている時間は無い。フランは、頭を振って平静さを取り戻し、策を練る。
柵をよじ登る事はできないから、人間の家に入るには、脆くなった部分を壊すぐらいしか、方策はないと思っていた。
だが、この穴は使える。
このままでは小さいので、少し掘って大きくすれば、きっと狼であるフランも中に入れるだろう。そうすれば、家畜小屋を襲い放題。鶏食べ放題だ。きっとお腹一杯になって、幸せな気持ちになれるだろう。
幸いにも土は柔らかく、掘る事に慣れていないフランドール狼でも、穴を大きくする事ができた。この穴を使って、家畜小屋を襲うのだ。
フランドール狼は、土塗れになりながら大きくなったトンネルをくぐって、人間の領域に侵入する。
そして、わき目も振らず家畜小屋に直行した。
兵は神速を尊ぶとの言葉通り、こうした時はスピード勝負、少しでも遅れたら、それで終いだ。外に比べて中の警戒は緩い。家畜小屋も適当な網で覆って、鶏が逃げないようにしている程度の物。だから、フランは牙と爪で網を破って、家畜小屋の中に居る鶏に襲い掛かった。
『クックドゥードゥー!』
だが、そうなれば騒ぎは起こる。
鶏の声に飛び起きたのか、忌々しい番犬がワンワンと吼え始めた。フランは、近場の一羽を口に咥え、逃走の準備をする。
欲を言えば二、三羽と沢山持って逃げたい所だけど、やっぱり銃に撃たれたくない。
そして鶏を口に咥えたまま、穴に潜り込んで――
「ふむー!」
逃げ去る事は出来なかった。
元々、穴の大きさがフラン狼の数多より少し大きいくらいだったので、鶏を咥えた状態だと、どうにもつっかかってしまう。
そうしてまごまごしている間に、尻の方では番犬の鳴き声が大きくなる。これは一度、頭を出して鶏を捨てて逃げるしかない。そう決断を下して、顔を上げた時、らっぱのような銃口が、フランドール狼の眉間に合わされている。
「嘘」
ズドンと派手な音がする。
そして一瞬経ってから、頭がカッと熱くなる。
やられたと、気が付いたときには手遅れだった。
番犬の吼え声で現れた人間は、害獣たる狼の脳天に弾丸の一撃を当てていた。
胴体に当たれば、分厚い毛皮と筋肉で、どうにか生き残る事は出来ただろう。それから回復させるのは絶望的に難しいが、それでも希望は残ったはずだ。
だが、頭は駄目だった。
頭を撃たれた狼は、死ぬ。
フランの体はどさりと倒れた。
番犬が興奮し、けたたましく鳴く。
フランドールは、息絶えた。
○
「随分と頑張ったわね」
ゲームが終わって虚脱状態になっていたフランに、パチュリーが労いの声をかける。だが、そんな魔法使いとは対照的に、フランはあまり元気が無かった。
というか、全く反応が無かった。
まるで白痴にでもなったかのように、フランドールは虚空を見つめて放心している。ショック状態になっていた。
だが、それも無理は無い。
狼の生き方というものは、とても刺激的なものだったのだから。
生きるために奪うという事。
なりふり構わず生きる事。
生に執着するという事。
そうした生への肯定と、それに伴う他者に強制する死。
それは密室で生き続けたフランドールにしてみたら、あまりにもダイナミック過ぎて、壮絶で――
戻ってくるのに時間がかかるのも当然だ。
図書館の革張りの椅子の背もたれに、ぐったりと体重を預けて放心しているフランドールは、しばらく天井を見ていたけれど、やがて「ほぅ」と息を吐いた。
それでようやく、現実に戻って来たのか、疲れ切った顔をしてずるずると机に突っ伏した。
そんなフランの眼前には、狼のキャラクターシートが置いてある。
知力の除けば全体的に高い身体能力に鋭い知覚力。防護点が発生する厚い毛皮に鋭い牙、獲物に対する組み付きボーナスを発生させる爪に暗視能力。それらのキャラクターシートに記載された能力がフランの演じたハイイイロオオカミのすべてである。それはハイイイロオオカミが極めて優秀なハンターである事を証明していた。
ただ、開始前の狼に対する悪印象の所為か、ポートレイトは空欄のままだった。その辺りに、捕食者である狼を演じる事に対するフランドールの苦悩が読み取れる。
「……疲れたー」
そんな狼の一生を終えて、呻くように一言呟く。
先のゲームのプレイ時間は、休憩を殆ど挟まずに六時間。それなりに長いセッションだった。
だが、吸血鬼の無尽蔵の体力からすれば、その程度は疲れたに入らない。だから、これは間違いなく、精神を消耗した事による疲れだろう。
「お疲れ様」
「……うん」
改めてパチュリーは、フランに労いの言葉をかけた。だが、フランはどうにも難しそうな顔をしている。
「どうしたの?」
「いや、うん。なんていうのかな。さっきまで私は狼だったでしょ」
「そうね。最初はどうなるかと思ったけれど、立派に狼を演じていたわ」
「うん……そうなんだよね。最初は、幾らなんでも兎を食べるのは可哀想過ぎるって思ってたのに、ひもじい思いをして、ご飯を探してうろついて、生きていくのに凄い必死になって――次に兎を見つけたときは、無我夢中で襲い掛かっていた」
「偶然だったとはいえ、素晴らしい待ち伏せだったわ」
「でも、ゲームが終わって思うんだよ。あの兎を殺して、食べて――それからは迷いが無くなって、他の生き物を食べる事も、当たり前になっていて……それって、今思うと凄い怖い事だよね」
そう言葉を結び、フランドールは口を閉じた。その顔には普段見られる無根拠なテンションの高さもなく、どんより曇った顔をしている。
「そう考えたから、そんなに元気がなくなったの?」
「……うん」
「成程」
つまるところ、それは生きる上で他の生き物を犠牲にしているという罪悪感。生命というものが抱えている原罪。
それをフランは認識したという事か。
「そういう事を考える事が出来るくらい、貴方が成長したという事なのね」
そう言うとパチュリーは親戚の叔母が姪っ子にいい子いい子するように、落ち込んでいるフランを頭を撫でた。
「茶化さないでよ」
「茶化していないわ。ただ、可愛がりたいと思っただけだから」
「むー」
少しだけフランは膨れ顔をして見せた。
そんなフランが可愛いのかパチュリーは頭をなで続けながら、次のような事を教え諭す。
「ただね。生きるって事は、それだけで誰かから何かを奪い続ける事なのよ。それは狼だけの限らずに、兎も、鳥も、蝶も、花も、みんな何かを奪いながら生きているの。草食動物は植物から奪い、鳥たちは昆虫から奪い、草木だって他の草木との間で、場所や日光、養分の争奪戦を繰り広げている。どんなモノでも必死に生きているのよ」
「……それって、私も?」
「みんなよ」
そのみんなに自分も含まれていると知り、フランは少しだけ衝撃を受けた。
自分の命が他の何かの犠牲の基に存続しているなんて事、今まで考えた事も無かったからだ。
だけど、パチュリーの言っている事は、正しいような気がする。
そうなれば、自分はどうなのだろうか。
昨日食べた葡萄のタルトも、葡萄と人間と――他に色々なモノを使って作られている。そうなれば、アレも葡萄から実を奪ったり、人間のおっぱいを絞ったりして、あのタルトは作られている。
当たり前のように食べている物の、色々なものの犠牲の上で成り立っているのだ。
「生きていくのって、大変な事なんだね」
そんな当たり前のことを、ようやくフランは実感した。
○
それからフランは咲夜に呼ばれ、ご飯を食べに上に行った。
残ったのはパチュリーと、奥で本の虫干しに勤しむ小悪魔の二人だけ。魔法使いが片付けを行う音だけが、静かな図書館に響いている。
フランは、さっさとご飯に呼ばれていった前回とは異なり『片付け、手伝おうか?』と提案して来たが、魔法使いは断った。
チャートやイベント表を見られると、次のシナリオのネタバレになる。だから、フランを食事に行かせた。
そうして、片付けをしながら、使ったチャートのチェックをしていると、
「なかなかいい台詞だったな。とても感動的だった」
紅い悪魔が、実に唐突に現れた。
普通ならばそれに驚くところだが、レミリアが唐突なのはいつもの事。パチュリーは冷静な調子で、先の台詞についてレミリアに聞く。
「……いい台詞って何の事?」
「アレだよ。『生きるって事は、それだけで誰かから何かを奪い続ける事なのよ』とか『兎も、鳥も、蝶も、花も、みんな何かを奪いながら生きているの』の辺り。なかなか真に迫っていて、妙に格好良かったよ」
「えっと、その、そういう風に言われると、妙に恥ずかしいんだけど」
「いや、私は主人公っぽい、普通に格好良い事しか言えないからね。だから、ああいう脇役全開な泥臭い格好良さには、正直憧れる部分もあるわ」
「そういう貶しながら褒めるの、どうかと思う」
「私としては、普通に褒めているつもりなんだけど」
そんな益体も無いやりとりをこなしながら、レミリア・スカーレットはさっきまでフランが座っていた席に着く。
そして話は、先に終了したセッションの話題となった。
「なかなかいい調子のようで、何よりね」
「……そういえばさっきの台詞もそうだけど。レミィ、覗き見してたの?」
「今回から、こっそり見ているよ」
悪びれずにレミリアが言った。
紅魔館当主曰く――
「この館で起きている事の全てを知る義務が私にはある」との事。
そうして覗き見を胸を張って正当化しながら、レミリアは本棚の上の方にある隙間を指差した。どうやら、そんな狭い隙間から、ずっとこちらの様子を窺っていたらしい。
「あんな狭いところに……よく発狂しなかったわね」
「そんなに辛い事も無いけどね。こちらは棺桶に何年でも入りっぱなしが商売だ」
そう言って、レミリアは得意そうにする。
確かに、吸血鬼といえば棺桶に入っている事が多いが、どうやらそれは吸血鬼流のシノギであったらしい。何とも因果な商売である。
「ともあれだ、フランはどうなの? このまま上手く行きそう?」
「そうね……」
レミリアの問いに、パチュリーはセッション中のフランドールを思い出した。
新しい出来事に遭遇する度、考えて、迷い、悩む姿を――
「相変わらず、感情移入力が高すぎるのが不安だけど、割と芯の強いところもあったし、問題ないと思う。たぶん、これなら思ったよりも早く、理解に達する事が出来る」
確信を込めて、そう語る。
するとレミリアは大きく頷き、どこか誇らしげにこう言った。
「まあ、当然だ。アレは私の妹なんだから、優秀なのは当たり前だよ」
自分を持ち上げているのか、フランドールを褒めているのかよく分からない言動に、思わずパチュリーは苦笑いを浮かべる。
「それはそれとして、上手く行きそうであるのなら、このままコレを続けていって」
「ええ、それは勿論よ」
このまま終わらせたとしたら、きっとフランの中で答えのない問いがしこりとして残ってしまうだろう。
それは、失敗に終わるよりも強い悪影響をフランドールに残してしまうだろう。ならば、このまま一気に終わらせた方がフランドールの糧となる。
何よりも、必死で答えを求めようとするフランが、パチュリーにはとても好ましい物に思えた。真理を求める魔法使いとしては、ああして必死に考える幼子というのは何かと可愛いものである。
何だかんだとパチュリーは、割とやる気になっていた。
「で、全てが終わったら、みんなで何か、キャンペーンでもやろう」
そして、隠れてゲームを見ていて、自分もやりたくなったレミリアは、そんな気楽なことを楽しそうに言うのだった。
○
ご飯に呼ばれたフランドールの前に、人参のケーキと生の人参が置かれている。昨日のフランのリクエスト通りだ。
「人参を生でというリクエストでしたが、生では辛いと思うので、人参のケーキも添えさせていただきました」
咲夜はフランに人参のケーキを切り分けてくれた。甘い中に微かな人参の匂いがする。
対する生の人参は、これぞ人参という風に、強烈な人参臭を放っていた。よく、まあ、こんなものを生で食べられたものだと、フランは兎に敬服した。
取り合えず、自分でリクエストをしたのだから、フランは生人参を齧ってみる事にする。
だが、その前に。
「いただきます」
手を合わせてしっかりと、感謝の念を込めていただきますした。そして、人参の命を奪っているのだという認識と共に、それを生で齧る。
「……少し甘いね。あと、なんか、こう、くさい」
どうにもこうにも、人参という奴は匂いがきつかった。
外の世界では、人参も品種改良が進んでいて、人参独特の臭みが少ない、食べ易い人参が主流なっているのだが、ここは幻となったものが流れ着く幻想郷。臭い人参は未だに現役真っ盛り。子どもの嫌いな野菜の頂点を、ピーマンやナスと争っていた頃のニンジンがそのままの姿でここにある。
それを生は、正直辛い。
「辛かったら、ここにぺっしてください」
咲夜が優しく声をかける。
だが、それに甘えてはいけない気がした。
いただきますと命をいただく決意をした以上、これはフランが責任持って食べなくてはいけないのだ。
だから、頑張って飲み下す。
「……人参って喉に絡むんだね」
「でしょうね。これの繊維質すごいですから」
それで限界だった。
後は、ドクターストップとばかりに咲夜が人参を取り上げて、「これはキャロットグラッセにでもして置きます」と、宣言する。
無駄にしないと言うのなら、フランもそれに従わざる得ない。そういう風に決意した心が折られるほど、人参は強烈だったのだ。
「さ、お口直しを」
そして、会心の出来と自画自賛する人参のケーキをフランに勧めた。それは、先に食べた人参が入っているとは思えないほど、甘くてよい香りがする。
「いい、匂いだね」
「はい。ですが、人参はいっぱい使っていますよ」
「それじゃ、こっちをいただきます」
再び、感謝の念を込めていただきますをしてから、フランは人参ケーキを食べた。先の人参が入っているとは思えないほどに、それは美味しい。
「とっても美味しいね」
「それは何よりです」
あれだけ臭いの強かった人参をこんなに美味しくするなんて、咲夜は凄いなぁなどと考えながら、フランは人参のケーキを食べ終えた。
3 人間
約束された時間になってフランが図書館に向かうと、いつものようにパチュリーが、セッションの準備に勤しんでいた。
手元を隠す為のマスタースクリーンを広げては、その裏でシナリオだとかチャートだとかをセッティングし、厳密な位置関係が重要となる戦闘などで使用されるヘクスシートや小さな動物のフィギュア、スタミナやHPの計算を簡単にするカウンター各種、色とりどりの不思議な形をしたサイコロ、それと飲み物に小腹を満たす為の食べ物も、しっかりと用意されている。
「来たよ。今日のゲームではどんなキャラクターをプレイするの?」
そうして準備をしているパチュリーにフランが声をかけてみると、無言で一枚のキャラクターシートを渡された。
それは白紙のシートだった。
「……何も、書いてないんだけど」
「ええ、今日のキャラクターは人間だからね。折角だからフランが自分で人間のキャラクターを作ってみなさい」
その突然の申し出にフランは戸惑った。
どうにかRPGのルールは把握してきたけれど、まだキャラクターを作った事は無かったからだ。今までの、ネザーランドドワーフも、ハイイロオオカミも、用意されたキャラクターシートに少し味付けをしただけに過ぎない。
それなのに、一から自分でキャラを作るなんて――
しかも、それは人間だ。
博麗霊夢や霧雨魔理沙、それに十六夜咲夜みたいな人間を作れと魔法使いは言う。それはどう考えても兎や狼よりも複雑で、初めてのキャラクター作成にしては、難易度が高すぎる事のように思えた。
「出来ないよ。そんな難しい事は」
「そりゃ、難しく考えると出来ないわね。でも、簡単に考えればさして難しい事ではないわ」
パチュリーは、なんだかよく分からない理屈を捏ねた。
それは確かに、難しく考えれば何でも難しいし、簡単だと思い込めばどんな難題も簡単だろうけど、この場合は、明らかに難しいことではないか。
「簡単って……」
「どんなものでもゼロから作る事は難しい。でも、何かを模倣できたなら、割と簡単だったりするものよ。例えば、プレイヤーの性格だとか特技を、キャラクターに移し変えれば……ね? それは演じやすくて作りやすいキャラクターと言えるでしょう?」
「……言うだけなら簡単だけどさ」
「まあ、私がサポートしてあげるから、作って見なさいっての」
そうしてフランは『自分』を作る事になった。
まず、体のサイズは小さめで、その為に必然的に体力は低め。実際、姉のレミリアとは違ってフランは身体能力よりも魔法能力に優れた吸血鬼であるから、人間から吸血鬼へコンバートした場合、筋力やHPに直結する体力低めは相応しい。
敏捷は高め、感覚も高め、生命力はそれなりにと基礎能力は高めに設定される。生来の魔法能力は、魔法の素質という形で継承された。
後は、技能を決めるだけだ。
だが――
「フランは何が出来る?」
「えっと」
少しフランは考えてみた。
自分に何が出来るのか。何のスキルを身につけているか。
だが、四百九十五年もの間、ずっと箱入り娘をしていて殆ど何の経験も積んでこなかった。技能訓練などしてこなかった。
「…………何も無いよ」
寂しそうにフランは語る。
幾ら考えても、フランドールは自分が何かを成せるというものを思いつけなかった。
思ったよりも自分は空っぽで、何も出来ないという事を認識し、フランは少しだけ悲しげにする。
「何も無い、って事は無いわ」
「……そうかな」
パチュリーは慰めるように言うが、フランにはどうにもそうは思えない。
料理だってできないし、片づけも苦手だし、ボタンを縫い付ける事もできないし、洗濯物を取り込む事だってできない。だからと言って姉のように、偉そうにふんぞり返って、他の誰かを働かせる事もできないし、何もできないのに自分を偉いと思えるほど図太くも無い。
できる事どころか、できない事だらけだ。
「まず、フランは弾幕ごっこが得意でしょ」
「うん。まあ、それは得意だけどさ」
「残念ながら、こっちのフランは人間だから、弾幕を撃つ事はできないから、代替技能として銃器を習得しておきましょう。使える銃はらっぱ銃だけど、人間フランドールは射撃の達人という事になるわ」
「射撃のタツジン……」
何ともカッコいい事を言われて、少しだけ沈んでいたフランの気持ちが浮き上がる。タツジンという事は、つまりマイスターという事で、時代によっては弟子から、師匠とか親方などと呼ばれるほどの熟練者という事だ。
「それと、フランは推理小説は好きよね」
「う、うん」
部屋に閉じこもりっきりでは暇だから、フラン本をよく読んだ。閉じこもりのフランにとって、本を読むという事は、外界と接触する唯一の方法だったのだ。
その中でもお気に入りが、百五十年ほど前に誕生した推理小説という物で、その中でもアガサ・クリスティという作家がフランの大のお気に入りだ。スペルカードに彼女の代表作の一つである『そして、誰もいなくなった』を元ネタにするほど、フランは彼女が大好きなのだ。
「時代背景的に、まだ推理小説は誕生していないから、うーん。かといって、推理そのものだと、あまりにも便利すぎるし……ここは推理小説の一要素から切り取って、暗号解読にしておきましょうか」
「それって、黄金虫のキャプテン・キッドの暗号やホームズの踊る人形みたいな暗号を解明する事が出来るって事?」
「そうね。ついでに乱歩の二銭銅貨だって、簡単に解く事ができるでしょう」
そう考えると、なかなかどうして格好いい。
射撃の達人で暗号解読の名手とか、冒険小説の主人公みたいではないか。
「あと、フランは物理が好きよね」
「ブツリって、確か殴る事だよね?」
「いや、そっちの物理属性の事じゃなくて、科学の一分野としての物理学。フィジックスの方。より正確には、その中の光学――オプティクスがお気に入りみたいだけど」
フランのスペルカードには、光の作用を使った物が幾つかある。パチュリーはその事を言っているらしい。
そして、確かにフランはそうしたモノがわりと好きだ。背中の羽は虹色と言う光のスペクトルと同じ色である事から、光に対する興味を抱き、詳しく調べたこともあった。特に面白かったのが、フェルマーの原理という光の屈折に関わる作用で、まるで生き物のように屈折して最短経路を辿ろうとする光の動きを、とても面白く。それの動きは禁弾「カタディオプトリック」に応用している。
「だから、フランは光学を取得している」
「なんかレーザーが撃てそうだね」
「フランなら、練習すれば直ぐに撃てるようになるわよ」
そんな調子で少しずつ、フランドール・スカーレットという人間が練り込まれて行く。それは、フランドールという存在を再認識する為の作業でもあった。
何も無い、引き篭もりの吸血鬼ではなく、推理小説が好きで、光学に詳しく、弾幕ごっこが得意な、呼吸法を習得した魔法能力を有する吸血鬼。
「そういや、フランはいつ波紋なんて習得したの?」
「え? なんか波紋が登場する漫画読んでたら、『コォォォ』ってのをやってみたくて、やったら出来た」
そうして、キャラクターとしてのフランドールは完成した。
体力を除いた身体能力は高め、知力意志力感覚も悪くなく、射撃と暗号解読、それに光学と呼吸法を習得しているという、何処の冒険小説に登場させても恥ずかしくない女の子だ。
「なんか、私ってカッコいいかも……」
無事、キャラクター作成の終わったフランも空欄の埋まったキャラクターシートを眺めて、ご満悦だ。
後は、ゲームをプレイするだけである。
「……で、ここからが正念場なのよね」
そうして、浮かれるフランとは裏腹にパチュリーは少しだけ暗い声で呟いた。
○
フランドール・スカーレットは人間だった。
髪は金色で肌が白くて、蝶よ花よと育てられた箱入り娘だ。だから、光学とか、暗号解読とか、学術的な方向のスキルを取得しているけど、調理や裁縫といった年頃の女子が持っているべきスキルは持ち合わせていなかった。
年頃のオンナノコとしてはどうかと疑問を呈される諸氏も居るかもしれないが、そこはそれ。代わりに銃器の取り回しには詳しいし、呼吸法によって三分くらいは息を止めていられるから、そっちの方面で女子力の方は補って余りあるだろう。
ともあれ、フランドールは小さな島の海岸に降り立っている。
フランドールはその島で、これからたった一人で暮らしていかなくてはならない。家も無く、食べ物も無く、頼りにすることが出来るのは、一丁のらっぱ銃と己の体だけという過酷な環境で生きていかなければならない。
「ちょ、ちょっと待って!」
『なに?』
そこでフランはGMのモノローグに割り込んだ。
オープニングを邪魔されて、少しだけGMは不機嫌そうだが、そんな事には気にせずに、フランは重大な疑問を投げかける。
「えっと、家は?」
『無いわよ』
「無いって……」
『貴方はこの島にたどり着いたばかりだから、家は無いの。あ、ちなみにここは無人島ね』
「えっと、でもさ。兎や狼の時と、同じ場所なんでしょう?」
『あら、気が付いていたの』
パチュリーが感心したように言ってきたが、流石にそれは前回の時点でフランドールも気が付いていた。二回とも同じような場所に人間の家があり、そこで食べ物をゲットしていたからだ。他にも色々な類似点があったから、同じ場所で、別のキャラクターでセッションをしているのだと、フランは気が付いていた。
だから、あの畑とか家畜小屋を持っていた人間のように、人間フランドールは家持ちだと思っていたのだ。
「あの、正方形の家が何で無いの?」
『ゲームスタートの時間が違うのよ』
「違う?」
『兎や狼のスタート時間は、人間がこの島でサバイバルをして、しっかりと土台を築いていたけど、人間のフランがスタートした時間は、それより前。この島に居た人間が島に漂着した日から。つまり、狼や兎よりも前の時間軸からのスタートって事』
「だから、家はまだ無いってこと?」
『そういうことよ。それに最初から家持ちなんて、あまりに難易度が低すぎるでしょう?』
まあ、確かにそうかもしれない。
畑に家畜と揃っていたら、殆ど家の敷地から出なくてもずっと生活が出来るだろう。それは、ちょっとゲームとしてはつまらない。
ならばと探索に出ようとして、ふと気が付く。
そういえば、人間って何を食べるのか。いまいち、フランは理解していなかった。
兎は草を食べると教えてもらった。
狼は肉を食べると、ゲーム内で学習した。
だが、人間は――咲夜や魔理沙や霊夢たちは、何を食べていただろうか。何でも、手当たり次第に食べていた気がする。肉でも、魚でも、野菜でも、どんなものでも人間は食べていた。
「人間って何を食べるの?」
『食べられる物なら、何でも食べるわ。それこそザザムシとか、ホヤとか、カミキリムシとか、そういうゲテモノの類まで』
「そうなんだ」
フランドールは、大いに頷いた。
確かに、フランの知っている人間は、何でも構わずに食べていたからだ。
時には梅干とか、なめことか、フランドールにはとても食べられないようなモノですら、美味しそうに食べてみせる。そんな彼女達であれば、何でも食べるという脅威の雑食性は納得に足るものがあった。
最も悪食という点では、フランの姉も相当なものだ。レミリア・スカーレットは事もあろうか、納豆などという腐った豆を美味そうに食べる。
それどころか。
『フラン。この納豆巻きはとても美味しいわよ』
『い、いらないよ。そんなの』
『いいから食べてみなさいよ。こんなに美味しいものを食べないのはちょっと勿体無いから、ほら、一口で良いから食べてごらん』
『やだよ! やだやだ!』
そんな風に嫌がるフランに納豆を食べさせようとする。本当に姉は悪い奴だ。
ともあれ――
「それじゃ、まずは食べ物を探すよ」
人間としてのフランドールは、生存を開始した。
○
狼の時、お世話になった兎が居る。
その近くに、らっぱ銃を構えて接近してみたが、どうにも人間は狩りに向いた能力を持っていない為、簡単に気付かれて逃げられてしまった。
他にも、山鳩やらヒヨドリやらと狙ってみたが、どうにも成果は芳しくない。人間は兎や狼に比べて感知能力が普通過ぎて、探している間に逃げられてしまうのだ。
これでは、肉を食べる事は絶望的と、食べられる草を探してみる。だが、味覚、嗅覚は平均的で、自然知識も持ち合わせていないフランには、食べられる草の見分けがつく筈も無かった。
だから、安全そうな木の実だけが、フランの生命線となるだろう。狼の時にお世話になった、小ぶりな林檎が妥当なところか。
その林檎を手に入れようと、フランは林檎の実っていそうな森へと向かった。
「……実が、ない」
しかし、林檎の木は見つけても、木には何も実っていなかった。今は、林檎の実が無い時間軸なのだ。
別の方法を探るしかなかった。
こうなれば、食べられるかどうかも分からないまま、草を食べるしか道は無い。
どうにも、今回の生存は兎や狼に比べて難易度が高い。人間の、基礎能力はあまりに低すぎる所為だ。狼の頃が懐かしい。
『そろそろ夜になるわよ』
「……そっか。今までは昼だったんだっけ」
『人間は夜目が利かないから、暗くなったら動けなくなるわ』
「そ、そうなの?」
『木の枝に頭をぶつけたり、根っこに足を引っ掛けたいって言うなら、動いてもいいけど』
「う、動かないよ」
そうして人間フランドールが、じっとしていると、日が沈んだ。
今日はちょうど新月で、空に月が浮かぶ事も無く、瞬く星々を別とすれば、明かりの類はは全く無い。
仕方ないから寝ようとすると、GMから警告を浴びる。
『敷物無しで眠ると、体温を地面に奪われて、次の日の行動に強烈なペナルティがあるわよ』
「なにそれ。前の時はそんなの無かったのに」
『狼は分厚い毛皮があるからね。でも、人間には毛皮はないのよ。だから、人間は寒さには弱い』
「ううー、だったら、そこらの葉っぱを刈り取って、寝床を作る!」
『明かりが無いと視界が利かないわ。全ての行動に、マイナス十のペナルティを受ける』
「だったら、明かりをつける!」
幸いにして、らっぱ銃を使う関係上、火口箱は持っていた。幾ら、完全な闇の中とはいえ、火口箱で火をつけるのは、手馴れていれば難しい事ではない。
ただし、それは真っ当な状態であれば、だ。
『わおーんという、狼の遠吠えが聞こえてくるわ。完全なる闇夜にて狼の遠吠えを聞いたことにより、フランドールは根源的恐怖を呼び起こされた。さあ、恐怖判定をするように』
「なにそれ。そんなの動物の時は無かったよ」
『人間はお上品な脳みそを持ってる高等生物だからね。動物なら、今あることしか心配しないけど、人間には想像力があるから、こういう事も起きるのよ。特に、今は真っ暗闇。そこで狼が近くに居ると分かれば、怖くならないほうがおかしいわ』
そうして恐怖判定をすると、フランはつい失敗してしまう。
「うわーん。狼怖いよー」
『うん。とてもいいロールプレイね。そんないいプレイヤーであるフランには、恐怖判定の結果をプレゼント。十三秒間強烈な吐き気に襲われて、胃袋の中身を吐いてしまう』
「何も食べてないから、吐くものなんて無いね!」
「だったら、胃液でも吐いてなさい」
そんな苦労をして、だいぶ時間をかけながら、ようやくフランは火口箱を使う事に成功する。
火がついた。
真っ暗闇に、オレンジの色の花が咲く。
「……炎って、人間にとってはとても大切なものなんだね」
『そうね。人は火を手に入れて、ただの獣である事を止め、万物の霊長を僭称するようになった。彼らが猿からヒトになったのは、間違いなく火を手に入れたからこそ。だから、プロメテウスは文化英雄として、他の神では変え難い独特な地位を占めているのよ』
「ケツァルコアトルもそうだよね。あれは火だけではなく、様々な文化も与えた文化英雄の雄だ」
フランが更に解説を加えると、GMことパチュリーは、鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をして、フランドールを見た。
そして、思い出す。
この子は神話や伝承の類も結構好きであった事を。
特に北欧神話が大好きで、自分のスペルカードに『レヴァーティン』などと付けるほど、そうしたものが好きなのだ。だから、アステカのケツァルコアトルを知っていても、おかしい事は何もない。
技能欄に、神話知識や伝承知識を追加しておくべきだったかもしれない。
「そういえば、炎って暖かいよね。だったら、これをいっぱい燃やせば、寒くて辛いって事はないんだよね?」
そうして博学な一面を見せる一方で、何ともふわふわした調子で、フランは火を大きくしようとしている。
その姿はとてもアンバランスで、何とも危うい。
『それが、少しでも解消されればいのだけど……』
GMは、どうにか焚き火を大きくしようとしているフランを見ながら、そう呟いた。
その後、二度ほど火が消える事態となったが、人間フランドールは、どうにな朝まで焚き火を維持する事に成功した。
そして、新しい朝が来る。
ようやく、夜が終わったのだ。
オレンジ色の朝日が、人間フランドールにはとても愛おしく見えた。
「朝が来たー!」
歓呼の声を上げて太陽を迎えながら、フランはそれに向かって飛び跳ねた。飯も食べられず、ようやく朝を迎えただけでこのお祭り騒ぎである。
だが、それも仕方がない。
人間の肉体は、とても軟弱で頼りない。兎や狼のような、特定の能力に特化している獣に比べれば、縛りプレイをしているようなものなのだ。それが、どうにか夜を越えた。
ならば、お祭り騒ぎも致し方ない。
『それじゃ、結果的に徹夜になったから、睡眠不足のペナルティね』
「GMの鬼ー!」
仕方ないのだ。
○
そうして前途多難な出発をしたフランドールであるが、好奇心旺盛で物覚えは悪くなく、推理小説で鍛えた論理的思考も相まって、トライ&エラーを繰り返しながら、比較的順調に環境を改善し始める。
火を効率的に運用する為に木の枝を集め、その中から丈夫なものを道具として活用し、そこから道具の作成に着手する。ただの木の棒から、槍を作り、松明を作り、斧を作り、それらによって生活圏を拡大する。
しばらく採集生活を続けていたが、水溜りに落ちていた蝶をヒントにして、獲物を捕まえるのに罠を使うようになる。
ピットトラップ、スネアトラップ、スピアトラップと罠の効率的な掛け方を少しずつ学習し、動物性タンパク質を手に入れるに至った。
「お肉だー」
そして狼の時のように生で肉を食べて、三日ほど腹を下して行動不能に陥る。こうして、人間フランドールは調理を覚えた。肉は焼かなくては危険なのだ。
『むしろ、良く死なずに済んだわね』
「うん。生命力判定に失敗したら即死だった」
『基礎値が高めのお陰ね』
そうして、フランは肉食を始めたが、どうにも肉という奴はすぐに腐って日持ちがしない。だから、そうして、得た貴重なタンパク質を日干しにして、日持ちする干し肉に代えるようになる。
住居も少しずつマシになっていった。
最初は露天で焚き火して、それを寝床としていたが、洞窟を見つけてそこで寝るようになってからは、雨や夜露の心配はなくなった。それから、洞窟を整備して、出入り口に獣避けの柵を張り、内部にも干草などの敷物を敷く。
住居という概念の誕生である。
「結構、いい家」
『ようやくネアンデルタール人に肩を並べるようになったわね』
「そんなに褒められると照れるよ……」
『いや、まあ、褒めてないんだけどね』
その頃には少しだけ食料の余裕も生まれてきた。
人間フランドールは、島の探索をする。
すると、フランは島の北。森を越えた先の方で、奇妙なものを見つけた。
「……あれって、帆船だよね」
本で読んだり、応接間に飾ってある帆船模型を見た事があるので、閉じこもりだったフランも知っている。それは間違いなく帆船だった。しかも、フランの記憶が正しいなら、スマートな船体に三本マストのその船は、キャラベル船であるように思える。
『ご名答。それは間違いなく三角帆を使っているキャラベル・ラティーナで間違いないわ』
ポルトガルの探検家が良く使ったという大航海時代を代表する探検船、それが少し沖で見事で岩に乗り上げていた。
「座礁しているの?」
『そうね。船体に穴が開いているのが確認できる。フランが居る場所からは詳しい状況は確認できないけど、そこまで泳ぎ着けば中を調べる事は出来るわ』
「やだよ。私は泳げないし」
確かに、人間フランドールの技能欄に水泳の二文字は無い。それでは、座礁する帆船に近づくのはやや危険だろう。
そういう訳で、フランは遠目に座礁した帆船を観察したが、どうにも人の気配は無い。どうも、乗組員達は船を捨てて何処かに行ってしまったようだ。
「けど、何処に行ったんだろうね」
『さあね。救命ボートに乗って何処かに行ったか、あるいは他の船と船団を組んでいたので、他の船に移ったのか。そんなところでしょう』
ただ、船の乗組員は消えていたが、残っているものもある。船体に穴が開いたことで付近に散らばった積荷の何割かが、事故の残滓を物語るかのように、フランの居る海岸に打ち上げられていたのだ。
これは、なかなかのボーナスチャンスだ。
「海岸を調べるよ」
流れた積荷を調べると、良い物が二つ手に入った。
一つは人参やジャガイモといった食べ物の種や苗、種芋といった農作物である。これは、上手く育てられれば食糧事情の改善に役立つだろう。
そして、もう一つが――
『わん!』
「うわっ、吃驚した」
船の沈没から生き残った一匹の犬だった。
茶色の毛皮で長い顔をしていてなかなか愛嬌のある犬で、元々、船で飼われていたようで、かなり人懐っこく、犬はフランにじゃれ付いて来た。
「い、犬? 犬が何でこんなところに?」
『さあ、そこまでは分からないけど、探検船の場合、番犬とかに使おうと犬を乗せるのは、よくある事よ』
「な、なるほど、お前は番犬だったんだ」
それはなかなか心強い事である。
フランは犬を飼う事にした。
食い扶持が増えるのは辛いけど、農作物を作るなら番犬が居たほうが捗るし、何より一人でなくなるのは良い事だ。
「じゃ、よろしくね。犬」
『……いや、名前くらいつけてあげなさいよ』
「あ、そっか」
GMに言われてフランは気がつく。確かに、名無しは可哀想だ。
フランは大いに考え込んだ。
誰かに名前を付けるなんて、生まれて初めてのことだからだ。
『いい名前、考え付いた?』
「うーん」
その犬は、面長の愛嬌ある顔をしていてラフ・コリーの系統だと思われる。ただ、どこかで背の高い犬種が混ざっているらしく、そこそこノッポで筋肉質な有様は、とても頼りがいがありそうだ。
「そうだね。この犬は咲夜って名前にする」
なので、フランはこの犬に自分を助けて欲しいという願いを込めて、咲夜と名付けた。
『……ちょっ』
「よろしくね。咲夜」
『いや、待って』
「なに?」
『あのね。犬に咲夜の名前を付けると、咲夜が泣くわよ』
「そうなの?」
『そうよ』
GMに止められて、フランは少し困ってしまった。
ノッポで頼りがいのあるという時点で、フランにはこの犬の名前は咲夜以外にありえないと思ったからだ。
それなのに、そうすると咲夜が泣くとGMは語る。
もしも、それが本当だとすると流石にフランも心苦しい。
「小悪魔もそう思う?」
なので、後ろでずっと司書仕事をしていた小悪魔の意見も聞いてみた。
『えっ、ちょ、ちょっと待ってください。私ですか?』
今までずっと台詞無しで、黙々と仕事をしていた所に話を降られ、小悪魔は吃驚したような顔をしている。
「うん」
『え、えっと、そうですねぇ。た、確かに、自分の名前を犬に付けられるのは辛いんじゃないでしょうか』
「小悪魔だったら、泣いちゃう?」
『私の名前と申しますと……』
「小悪魔の、真の名をわんこに付けたら、泣く?」
『それは、泣くってレベルじゃすまないです』
マジな顔で小悪魔は言う。
悪魔にとって名前とは己の魂と同義である。それが犬に付けられたとあっては、屈辱以外の何者でもない。それこそ、お前を殺して俺も死ぬというレベルである。
「そっか、じゃあ、咲夜の名前はNGだね」
『それがいいわ。少なくとも顔見知りの名前を犬に付けるのは、余り良くない――」
「そういうわけで、コレの名前はレミリアにする」
『ちょっと、待ちなさい』
「私、お姉様が泣くところを見てみたい」
さらりとしたドS発言によって、GMとギャラリーをガン引きさせつつ、犬の名前はレミリアに決まった。
「おいで、レミリア」
『ワ、ワン』
フランが呼ぶと、犬は戸惑いながらも付いてくる。なかなかどうして利口な犬であるらしい。場の空気を読めるというか、逆らったらいけないものが理解できるというか。そもそも、犬を演じているのはGMのパチュリーであり、もう彼女も諦めたというか。
そうしたメタな部分はさて置いて、フランは無人島では得難い、番犬と農作物、更に流れ着いた船の残骸など、様々な物資を手に入れた。
これにより人間フランドールの生活は飛躍する。
流れ着いた船の残骸の内、金属の留め金を加工し、斧の刃や簡便なナイフなどの鉄器も製造された。
鉄器時代の夜明けである。
これによりフランドールは、ヒッタイトに肩を並べる存在となったのだ。
また、流れ着いていた木材は、既に加工済みであり、手直しをすれば建材として利用可能で、柵や柱として活用できた。
更に、手に入れた農作物も植えて育てる事にする。最初こそ、ジャガイモを埋めたけど、何処に埋めたかをすっかり忘れ、貴重な種芋を無駄にしたり、海岸の近くに埋めてしまって、塩によって駄目にしたりと失敗もあったが、経験を重ね、学習する事で小さいながらも立派な畑を作るに至った。
食料問題は、ほぼ解決をした。
ならば、次は家だ。
船の留め金から作った金属の斧。それによって木材調達は容易となり、家を作れるだけの材料が揃い始める。
これで、蛮族染みた洞窟生活に終止符を打つ。
「それじゃ、建築をするよ、レミリア!」
『ワン!』
ご飯代わりの林檎を食べながら、フランはレミリア(犬)に説明をする。
現実的に見た場合、犬に計画を説明する必要性はないのだけれど、GMに行動宣言をする事も兼ねているので、ロールプレイ的にもゲーム的にも、理に叶った行動である。
「まず、ログハウスっぽい素敵なおうちを作ります。丸太の良さを存分に生かしたセンスのいいログハウスを作るの」
実際、切った木を加工するのはかなりの面倒を伴うものだ。だから、フランは床などの加工した木材を使うことが望ましい場所にのみ、船の破材を利用して、他は木こりをして手に入れた原木をそのまま使う手抜き――ではなくて、省エネ工法で家を建てる事にした。
そして、その隣には新たに畑を作り、そこでジャガイモとか人参とか、それにトウモロコシを作るのだ。
コレでもう、暗くてごつごつした洞窟での狩猟採集生活とはさよならだ。これからのフランはとても文明的なお家に住んで、楽しい農業ライフを送るのである。
実際、農業はとてもいい。
狩猟採集はどうしても、運不運に作用され、食べ物が見つからないときは本当に見つからなくて、ひもじい思いをしなくてはいけない。そして、食べ物を見つけても、量が少なかったら悲劇だし、多くても食べきれなくなって腐らせてしまう。
だが、農業は格が違った。
まず、収穫が出来れば確実にご飯が食べられる。豊作不作と波はあるけど、複数の農作物を作っていれば、そうしたリスクも多少は軽減できる。
そして収穫できた根菜系の農作物は、埋めておけばかなりの保存が利くのである。ただ、穴を掘って埋めるだけで、新鮮な野菜がいつでも食べられるようになるのだから、根菜の何と素晴らしい事だろうか。
肉類は保存が利く干し肉にするのに、一度軽く焼いて水分を飛ばしてやってから、網にでも入れてカラス等の雑食の鳥に取られないようにして、ひたすらに天日で干さなくてはならない。
だから美味しいし、便利だけど、生産性は高くない。
だが、根菜類は地面に埋めればそれで保存が完了となるのだ。なんと素晴らしい保存性だろうか。
そんな生活の向上によって余暇は生まれ、その度にフランは様々な環境改善を行っていく。
自分が適応するのではなく、環境の方を自分に適応させるのが、人を万物の霊長に至らしめた特性だ。そうした環境改造能力があるからこそ、東西南北津々浦々、あらゆる場所にて人間が存在できるのである。
そうした観点から見た場合、間違いなくフランは『人間』となっていた。
最も、全てのおいて順調だったわけはない。
最初に、トライ&エラーを繰り返したと記述した以上、人間フランドールは、成功の裏側で沢山の失敗をしていた。
先の干し肉作成においても、フランは『干し肉』という完成形に至るまで、幾度となく失敗を繰り返した。
折角の獲物を腐らせたのが、そもそも保存という概念を考える切っ掛けだった。そこから海水を使った塩漬けへの挑戦と失敗。天日干しの干し肉の考案と、干している最中に狼に奪われるという失敗。そうした失敗を乗り越えた後、ようやくフランドールは、肉を炙って水分と飛ばしてからカラス避けの籠に入れて、狼に取られないように、高い木に吊るして乾燥させるという、干し肉の完成形に至ったのだ。
そのようにして問題を一つ一つクリアしていき、フランは何とか生活基盤を整えていった。そして、自身の生活を全力で守った。
兎が畑を荒らしたので、周りを柵で囲い、その進入を阻んだ。フランの畑はそれほど大きくないから、一度荒らされるとかなりの痛手を被るのだ。
更に、狼が近くに現れることもあった。
近くで干し肉を干していると、その匂いに惹かれたのか、それともフランを食べようなどと思っているのか、狼は幾度と無く家の傍に現れた。体躯の良い灰色狼は、小柄な人間であるフランドールにとって、かなりの脅威だった。
そうして動物が生活を脅かす度に、レミリア(犬)はよく吼えてくれた。兎を追っ払って、狼の接近を教えてくれたのだ。
「いいこいいこ。本物のお姉様よりも、役に立っているね」
『く、くぅーん』
そうして番犬としての役を果たす度、フランはレミリア(犬)を褒めてやるのだが、どうにも茶色の毛並みのわんこは、複雑な顔をする。
より正確には、犬を演じているGMのパチュリーが、どうにも上の方をチラチラ見ながら、バツの悪そうな顔をするのだ。
最も、そんな細かい事をフランドールは気にしない。
ただ、生活環境の改善に日々邁進するだけである。
かくして、人間フランドールは、苦労しながら、試行錯誤ながら、精一杯に生きた。
そして、月日は巡り、季節は移り変わり、歳月は刻まれていく。
今や、人間フランドールは無人島における生態系の頂点に君臨していた。
様々な経験は人間フランドールを鍛え、最初は銃器以外には実用的な物が全くなかった技能欄も、歳月と共に少しずつ埋まり、気が付けば多様な技能が並んでいる。
木工、調理、釣り、動物使役、農園、罠、自然知識、そして生存。
もうフランを脅かすものは、何もない。ただ、自然とあるがままに生きて、老いて、死ぬだけである。
安定したが故に、フランドールは死を意識する。
「……そっか、人間って歳を取ると、死ぬんだっけ」
開始当時は十歳程度だった人間フランドールも、既に二十歳を超えていた。今では、咲夜よりも少しお姉さんになっている。
少し、不思議な感じがした。
このまま、少しずつ老いていくのだろうか。
そして、きっと自分は誰かに殺されるのではなく、時間によって死ぬのだと意識した時、フランはある事を思い出す。
それは咲夜が夏の暑さと過労から、倒れた日の事だった。
その日、咲夜は体調が悪そうだった。
普段は何でもそつなくこなす咲夜が、どうにも小さな失敗を繰り返していた。妙に気が散っていて、様子がおかしかったのだ。
それでも、完璧で瀟洒なメイド長が、体調を崩すなんて誰も考えて居なかったので、紅魔館の誰一人、咲夜が倒れるまで、彼女が体調不良になっている事に気が付かなかった。
咲夜が倒れて、紅魔館は騒然となった。
フランは、十六夜咲夜が倒れた時、地下室に居たけれど、時間になってもご飯が来ないので、上に様子を見に行っていった。すると、ソファに寝かされて、ピクリともしないメイド長の姿を見て――怖くなったのを覚えている。
幸いにも、咲夜は大事に至らなかった。深夜だというのに叩き起こされ、紅魔館に連れてこられた八意永琳女史は、倒れた咲夜を診て、疲れが出ただけで安静にしていれば直ぐ治ると、太鼓判を押してくれた。
そうした結論が出て、安堵して、皆が咲夜の看病だの、代わりに食事を作ったりだのとしてる中、フランは姉に「話がある」と呼び出された。
「随分と心配していたようだったみたいね」
姉はバルコニーに腰掛けて、夜風に当たりながら、そう言った。
それは当然だと、フランは返す。
「咲夜が真っ白な顔をしてて、動かなくて、怖かったよ」
「うん」
レミリア・スカーレットは頷くと、しばし、何かを逡巡した後に、意を決したのか、かなり怖い事を言う。
「でも、そんなに遠くない日に、同じ事は必ず起こる」
「……必ずって、なにそれ」
「アレは人間だからね。いつかは、老いて、必ず死ぬ。私達、吸血鬼は殺されない限り死なないし、殺されても蘇る事もできる。パチュリーは、不老長寿を実現する魔法使いだし、美鈴も妖怪には違いないから、老いとも死とも無縁の存在だ。だが、咲夜は、アレは人間だ。だから、いつか必ず死ぬ」
空恐ろしいことを姉は言う。
「やだよ。やめてよ。そんな怖い事言わないでよ」
「生きている間はずっと一緒だけれど、死んだら離れ離れになってしまう」
「もう止めてよ!」
フランは、金切り声で姉を威嚇した。
どうしてこの姉は、いつも自分が嫌がる事を言うのだろうか。
痛い事、辛い事、怖い事。
そんな嫌な事、知りたくないのに、レミリア・スカーレットという吸血鬼は、そういう事ばかり自分に教えようとする。
今日も、咲夜が倒れて、そのまま居なくなってしまうみたいで、とても怖かったというのに、まだ自分を怖がらせようとする。
「フランドール」
そんなフランにレミリアは、続ける。
「どんなにお前が拒絶しても、咲夜が老いて死ぬ時は必ず来る。だから――」
その後、姉は何と言ったのか。
怖さから、耳を塞いでしまったフランには分からない。
けれど、今のフランは何と無く分かる。
『咲夜との一瞬一瞬を、大切に生きなさい』
多分、姉が言いたかった事はそういう事なのだろう。
吸血鬼には無限に近い時間がある。
でも、人間には――否、人間だけじゃない。全ての生き物は少ない時間で、精一杯生きている。
だから、姉はそれを教えようとしたのだろう。
それを認識したくなくて、耳を塞いでいた。
今なら、少しだけ分かる。
自分は恐怖して、それから眼を背けていたのだ。
あるいは、そうした事も分かるくらいには成長できたという事なのか。こうしたゲームを通してだけど、少しだけ成長できたのだろうか。
咲夜と同じ人間として、ロールプレイングゲームという仮想体験を通じてとはいえ、少しだけ人間というものが、分かったのか。
少しだけ、理解できたのかもしれない。
人間はいつか死ぬ。
だから、一瞬を全力で生きている。
そして、そんな人間と同じ時間を共有するには、同じように生きるべきなのだろう。
兎として生きて、狼として生きて、そして人間として生きてみて、フランドールは、言葉では表現し得ない何かを掴んだ気がした。
『どうしたの? さっきから黙りこくって』
そんなフランドールにGMが声をかけてきた。気が付けば、プレイ中にお地蔵のように黙りこくって、考え事に耽っていた。
「ごめん。それで、なんだっけ?」
『外で番犬をしているレミリアが、鳴き声を盛んに上げて、騒ぎ出しているわ』
「ああ、うん。そっかそっか。また兎でも出たか、狼でも近付いてきたかしたんだろうね。らっぱ銃を持って、警戒しながら外に出るよ」
慌ててフランはプレイに戻る。
どうにも長丁場になっている所為で、少し思考が飛んでいたらしい。慌てて銃を装備して、家の外に出た。
だから、そこで起こっている異変に気が付かなかった。
人間フランドールは外に出る。
その日は、満月が出ていて、夜でもかなり明るかった。
レミリア(犬)はとても騒いでいる。
だが、この年老いた犬の吼えている方向は、畑の方ではない。それは家の上に向かって吼えていた。
「上って――」
フクロウの類でも飛んできたのか。
フランドールは上を見る。
とても綺麗な満月が目に入り、続いて赤い眼をした何かと目が合ってしまった。
「な、なに?」
人間フランドールの家の屋根には、目を爛々と輝かせた一人の人間――否、人間の形をしな何かが上っていたのだ。
それは、呆然としていた人間フランドールに襲い掛かる。
完全に不意を突かれた。
それは突然の出来事に対応しきれないフランに組み付き、押し倒そうとする。だが、フランもサバイバルの達人だ。しかも、武器として、獣避けのらっぱ銃を装填して持っている。
精度が低く、遠いとなかなか当たらないらっぱ銃だが、組み付かれそうなら外れる道理もない。
「頭――いや、眼球に押し当てて、そのまま撃つよ」
人間フランドールは組み付かれながらも、容赦なく引き金を引いた。
甲高いらっぱ銃特有の銃声が、満月の夜に響き渡る。銃弾はソイツの眼球に的中し、眼窩を通り後頭部まで貫通して、脳髄を後方に撒き散らす。
相手が何者であろうとも、確実に対処できたとフランは確信していた。
だが、それは致命傷を負いながらも、全く動きが衰えない。
「な、なにそれ!」
人間フランドールは、押し倒された。
しばし、呆然としていたが、倒されてからようやく我に返って、フランはどうにかそいつを突き放そうとしてみる。だが、ソイツの力は化物染みていて、抵抗することもできなかった。
「なにこれ、こんなのおかしいよ!」
必死で積み上げてきたモノが、崩れてしまう。
一瞬一瞬を大切に生きると決めたのに、終わってしまう。
しかも、こんなわけの分からない化物に――
「そんなの、こんな事って」
腰に差していたナイフを抜き払い、フランはソイツに突き立てる。だが、頭部に銃弾を喰らっても、全く勢いを緩めなかった化物が、その程度でどうにかなる筈も無く。
それは、大きく口を開いた。
そして――
人間フランドールの喉笛に噛み付いた。
それは完全な致命傷、一撃で首の半分が千切れてしまい、フランドールは即死となる。
必死に十年を生きた少女は、断末魔すら上げる事も出来なかった。
フランドールは、息絶えた。
○
フランドールは呆然としていた。
それは当然の事だろう。
たとえそれがゲームの中でも、現実では数時間程度だとしても、苦労をして、試行錯誤して、懸命に生存を勝ち取ってきたのだ。
それが、あんなわけの分からない化物に呆気なく殺されてしまうなんて、到底容認できる事ではない。
「あれって、どういう事なのさ!」
兎として狼に殺された時も、狼として人間に殺された時も、ショックは大きかったけれど、それでも理不尽という風ではなかった。明らかにフラン側にミスがあったからだ。
だけど、今回はフランに落ち度はない。あんな化物が居たなんて、一度も示唆されていなかったし、その強さも理不尽すぎる。明らかにアレは、存在自体がアンフェアだ。
だが、フランが幾ら怒ってもパチュリーは何も言わない。フランの最後を演出してから、マスタースクリーンの裏から顔も出さない。
「……パチェ?」
恐る恐るフランがマスタースクリーンを退けてみると、そこには寝オチした魔法使いの姿があった。
「すかー」
目の下にどす黒い隈を作って、パチュリーは完全に眠っている。プレイヤーが起きているのに、寝てしまっているなんて、なんて失礼なGMだろう。
「ちょっと、パチェ! 起きてよ! なに寝落ちしているの!」
フランはパチュリーを揺り起こそうとしたが、どうにも魔法使いは目覚めない。そうして、フランが魔法使いを揺さぶっていると――
「止めときなさい。幾ら揺さぶっても、パチェは起きないから」
唐突に姉が、上から降ってきた。
「お、お姉様」
「私達のような吸血鬼ではなく、もやしっ子のパチェが二十七時間通してゲームマスターをしていたのよ。だから、今は寝かせてあげなさい」
ふと、フランは時計を見た。
ゲームを開始したのは、夜の六時だった。
だが、時計は夜の九時を指している――アレだけゲームをしていたのに、たったの三時間しか経っていないのか?
違う。
セッションは一日と三時間という超長丁場に及んでいた。
今は翌日の夜の九時で、パチュリー・ノーレッジは、殆ど休憩も挟まずに、二十七時間もゲームマスターをしていたのだ。
その疲労たるや、想像を絶するものがある。
「最もこんなに長丁場になるのは、予想外だったんだろうけど」
完全に熟睡しているパチュリーを担ぎ上げながら、レミリアは語る。
「予想外……?」
「人間は、自由度――行動の余地は多いけれど、基礎能力は割と低い。だから、サバイバルのセオリーを学習し、経験を蓄積するまでは、最初の冬は越せないとパチェは踏んでいた。そうして何回かに分けて人間を演じて貰い、それに対する理解を深める筈だった。だけど、フランが予想以上の頑張りを見せたから、二回か三回に分けるはずだった人間を、たったの一回で終わらせる事になった。それで、予想外の長丁場ってこと」
「え? それって……」
パチュリーを担いで寝室に連れて行こうとするレミリア・スカーレットの言葉に、フランは違和感を覚えた。
その口ぶりでは、まるでレミリアが、このゲームの仕掛け人の様ではないか。
「ちょっと待ってよ。一体何なのか、説明してよ!」
「必要ないわ。もうすぐ終わりを迎える事だから」
「終わるって、何が……」
「最初は兎で狼に殺されたから、狼になった。次は狼で、人間に殺されたから、人間になった。パチェはこのルールを『輪廻』なんて呼んでいたわね。言っておくけど抹香臭い坊主共の転生とは別の物だよ。こっちの転生はケルトの転生がモチーフで、蝶となった万能神ルーグの息子の魂をアルスター王の妹であるディヒティネが飲んで、クー・フリンを処女懐胎したり、魔法使いによって蝶になった女神エーダインが、人間の女に飲まれて、人間の娘に転生したという、食べられたものは、その一族に転生するという、アニミズム的なタイプの『輪廻』なんだそうだ。ならば、次にフランがプレイをするのは――いや、この場合は転生先とでも言ったほうが良いのかな。それは、さっき人間だったフランドールを殺したモノだ。そして、そこに辿り着く事が、今回のゲームの目的である」
「それが、目的って……」
フランは、姉の言っている事が理解できなくなり、混乱した。
この姉は、一体何を企んでいるのか。
そもそも、先のゲームに登場した化物をフランにプレイさせる事が、一連のロールプレイングゲームの目的であるという。つまり、姉は自分に人間を襲う化物を演じさせるために、今回の茶番をパチュリーと共謀し、組んだのだ。
兎として生きる事は、生きる事の儚さを学べた。
狼として生きる事は、生きる事の厳しさを学べた。
そして、人間として生きる事は、人間が生きる事にどれだけ懸命であるのかを学べた。
それらをロールプレイする事は、命や人間というものを理解する上で、とても役に立ったと思う。
けれど――
あの化物に、そんな物があるものか。
暗闇から唐突に現れて、人間フランドールを襲い、殺したあのアンフェアな化物に、そうした学ぶ部分があるのだろうか。
人間のような二本の手を持ちながら、圧倒的な力を持ち、銃弾を受けても平然としているという出鱈目な生命力に溢れている。あまりにアレは、アンフェア過ぎる。
そして、姉は、そんな化物になれなどと言う。
フランドール・スカーレットに化物を役割演技させる事が、この一連のゲームの目的と、レミリア・スカーレットは種明かしをしていた。
「なにそれ。意味が分からないよ。だったら、今までのゲームは何だったの。みんな、その化物をさせるために、その為にやらせていただけなの」
「そうなるかな。ついでに言えば、フランが『化物』をプレイした時、自分が奪うものがどれだけ重いものかを理解させるための準備でもあった」
そこでフランは言葉を失った。
姉の明け透けな告白が、あまりに酷くて、あまりに残酷で、何を言ってやればいいのか分からなくなったからだ。
つまり、この姉は、次のゲームで沢山フランが苦しむように、念入りに準備をしていたと言っている。
そんな嫌がらせをする為に、こんな回りくどい事をしていたのか。
「嫌いだ……」
「うん?」
「やっぱり、私はお前の事が大っ嫌いだ!」
憎しみすら込めて、敬称も忘れ、お前呼ばわりして、フランはレミリアを見た。
今までも、この姉はフランが嫌がる事ばかりしてきたが、今回のコレは余りにも酷い。あまりにも度を越している。
今回のセッションで、フランは少しだけ姉を見直そうか等と思っていた。だが、それは大きな間違いだったと強く確信した。
席を立つ。
すると、フランの勢いに負けて椅子が倒れ、カランという渇いた音が図書館に響いた。
「フラン」
姉がフランに呼びかける。
だが、フランは無視をして、凄まじい勢いでドアを開く。
「この調子では、明日にセッションは出来ないだろう。だから、次のセッションは明後日の夜六時だからね」
フランの怒りなど何処吹く風のレミリアは、いつもの調子で上からの物言いで――
「五月蝿い、馬鹿! 死んじゃえ!」
ありったけの憎悪を言葉に乗せて、フランドールは姉に叩きつけた。
凄まじい勢いで図書館のドアは閉まり、大きな音が静謐な図書館に響き渡った。
○
怒り覚めやらぬフランは、そのまま地下室に直行し、不貞寝をした。
だが、ずっとゲームをしていたし、最後には激しい業怒を解き放ったので、どうにも眼は冴えている。それでも寝てしまおうとずっとベッドで横になっていたが、いつもは起きている時間という事もあって、どうにも眠る事ができない。眠れない。
しかも、ゲームの途中でお菓子が切れていたこともあって、とってもお腹がすいている。
ぐー、ぐー
おかげでお腹の虫は鳴り放題。
これでは五月蝿くて、ひもじくて、寝られやしない。
フランドールは、ベッド脇に置かれた呼び鈴を持ち、咲夜を呼ぼうと思案する。
だが、今は誰にも会いたくない気分だった。
姉とパチュリーが共謀し、フランに嫌がらせをしていたのだ。そこに咲夜も絡んでいないと誰が断言できるだろうか。
二人とも人間ではないけれど、ちょっとした人間不信といった所か。
だから、フランはこっそり地下室を出て、一人台所に向かった。館の中をひょこひょこ歩き回ると、妖精メイドが賑々しく、家事の真似事をしているのが見える。
見つかっても、どうという事もないが、今は誰にも会いたくない気分だ。こっそり、メイドの眼を盗んで、台所に忍び込んだ。
夕食もずっと前に終わり、片付けも済んだ後という事で、厨房は暗かった。
だが、吸血鬼は夜目が利く。かすかな光があればそれだけで、物を見るには支障がない。
「クッキーとか。そういうのでいいんだよね」
何処かに入っていないだろうか。
フランは台所をゴソゴソ探す。
けれど、お菓子の作り置きはなかった。
こうなったら、角砂糖でも頂いて、もう一度寝るのにチャレンジしてみようか。そんな事を考えて、台所でゴソゴソしていると、
「つまみ食いをしているのは誰!」と、唐突に大きな声が台所に響いて、フランは「ひゃあ!」と吃驚する。
まるで泥棒がされるみたいにランプの光を向けられて、開口一番に叱られて、フランは思わず竦んでしまった。大声で怒鳴られるなんて、箱入りで育ってきたフランは、全く体験した事がなかったからだ。
そうしてフランが、固まっていると、
「……あら、妹様ですか? これは失礼しましたわ」
声の主は、少し恥ずかしそうな調子で謝ってくる。
つまみ食いを叱ったのは、咲夜だった。
「申し訳ありません。最近はつまみ食いをする妖精が多くて、つい現行犯を見つけたと意気込んでいました」
「いや、うん。ごめん。私のほうこそ、つまみ食いなんかして」
「いえ、妹様でしたら、全く問題はないのですけど……ただ、お呼びいただければ、何時でもお料理を持っていきましたのに」
咲夜が少しだけ不服そうに言う。
「それは……ちょっとだけお腹がすいているだけだから、咲夜を呼ぶまでもないかなって」
面と向かって、誰も信用したくなくなったなんて、言える訳もない。フランは適当に誤魔化した。
「そうだったんですか」
「そうだったんだよ」
咲夜は素直に信じてくれる。
それが、少しだけフランを後ろ暗い気持ちにさせる。
ふと、先のゲームで少しだけ理解した『人間のこと』を思い出す。
こうして素直にフランを信じてくれる咲夜は、ずっと居てくれる訳ではない。遅くても五十年経てば居なくなるし、不運が重なれば直ぐにでも、死んでしまう事だってある。
フランドールは吸血鬼で、長い寿命と強靭な肉体を持っているけど、人間はどれだけ強くとも、根本的な部分で、存外脆い。
とても、儚い生き物だ。
「でも、私に見つかってしまったのが運のツキですね。それでは、これより小腹の満たせるものを作りますので、妹様は食堂の方で待っていてください」
少し前に、過労で倒れたときのように、簡単に死んでしまう事だって、ありうる。
だから、
「咲夜」
「なんですか?」
「私、手伝っても良い?」
「妹様が、お手伝いですか?」
「うん。こういうのって全然やった事ないけど、咲夜の足を引っ張っちゃうかもだけど、お料理を手伝うの、駄目かな?」
「……いえ、良いですよ。それじゃ、一緒にお料理を致しましょう」
「うん」
一瞬一瞬を大切に生きなさい。
そんな姉の言葉をフランは思い出した。
あの姉は存在自体が腹の立つ、根性のひん曲がった愚姉だけど、その時の言葉だけは、きっと本物だったとフランは思う。
アレも、咲夜が好きである事だけは、本当だと思うから。
他は、最悪な姉だけど、それだけは信じる事だ出来る。
「でも、妹様のエプロンは無いですから、他の妖精メイドのを借りちゃいましょうか。小さくないですか?」
「ううん。ちょうど良いよ」
だから、フランは咲夜と一緒に料理をした。
作る料理は簡単なものが良いだろうという事で、パンケーキ。
ゲームの中では、最終的にかなりの調理スキルを有していたが、現実ではそうはいかず、卵を割るのも一苦労。砂糖を入れるときに多く入れてしまい、味の調整をする為に、結果として小腹を満たす程度どころか、三人前くらいになってしまった。
「咲夜も一緒に食べてくれる?」
すると咲夜は、少し困った顔をする。
「申し訳ありません。これはあくまで妹様やお嬢様の為の食べ物ですから、私はご相伴に預かる事はできません」
そして、とても申し訳なさそうに謝られた。
ふと、思い出す。
霊夢と初めて出会った後で、お菓子や紅茶を勧めたら、アレもフラン達の為に作られた食べ物は食べられないと断られた。
どうして、咲夜や霊夢は自分と同じものを食べないのだろうか。
フランは一生懸命考える。
そして、ようやくその事実に思い至った。
人間のおっぱいという物は、基本的に幼児のための物であるらしい。だから、大きい咲夜や霊夢は、これを食べるのは禁じられているのだ。
だったら、それは仕方がない。
「ならさ、今度は咲夜も私も食べれるの。作ろ」
「そうですね。それは良い考えです」
そうして、今度はクッキーを作る約束をしてから、フランは手作りしたパンケーキを食べた。
残ったのは、姉に持って行くと言う。
それは少し嫌だったが、無駄にするよりは良いという事でフランはそれを容認した。食べ物を粗末にする事は、命を粗末にする事と同義であるのだから、それはやむ得ぬ事である。
○
そして二日後。
フランはセッション当日、開始の時間にわざと五分ほど遅刻をして図書館に現れる。
するとそこには凄い寝癖を無理やり帽子に押しこめたパチュリー・ノーレッジが、ほっとした顔で出迎えてくれた。
「よく来たわね。私が寝オチをした後でレミィが全部話したらしいから、てっきり来ないと思っていたのに」
「うん。私も最初は来ないつもりだったんだけどね。でも、少し考えたんだけどさ。ここで引くのもなんか癪だなって」
「成程。負けず嫌いね」
「うん。そういう事」
実際、それがフランドールの動機の大半であるけれど、来た理由はそれだけではない。
少し考える事があった。
姉は咲夜が好きであり、他にも霊夢とか魔理沙も気に入っている。
そんな人間好きである姉が、あえてフランに人間を襲い、殺す化物をやらせるのには、なにか嫌がらせ以外の狙いがあるのではないか。
少しだけ、そう思った。
だから、来た。
姉の真意を確かめる為に。
真意なんて無いかもだけれど、このままで居るのはとても気持ちが悪いのだ。
「そういえば、アイツは来ているの?」
天井の辺りをフランは見回す。だが、本棚の海の中に姉の姿は見つからない。
「まあ、いつもの所には居ないけど、何処かに隠れている可能性は高そうね」
「そっか」
少しだけ不満げにフランは呟く。
そんなフランに対してパチュリーは同情めいた表情をしながら、宣言した。
「それじゃ、セッションを始めましょうか」
そして、最後のゲームは始まった。
4 吸血鬼
フランドール・スカーレットは吸血鬼である。
だが、フランは吸血鬼というモノが何なのか。どういう類の生き物か、全然理解していなかった。
辛うじて、人間とは違う事は知っていた。
人間と吸血鬼が違う生き物で、吸血鬼に比べて人間の寿命が短かく、せいぜい七十年か八十年も生きればよい方らしい。吸血鬼に比べて、脆くて儚い生き物だ。
魔法使いが吸血鬼とも違う事も知っていた。
ただ、細かい違いは知らなかった。魔法使いは、吸血鬼と同じくらい寿命が長くて、けれど、頑丈さでは吸血鬼に劣り、割と体が弱いことは同居している魔法使いを見て理解した。それと、丸一日起きていると、体力不足から寝落ちしてしまう事も先日知った。
門番は妖怪だとか怪異だとか、そういった類で一緒に括られる事は知ってた。
けど、吸血鬼と門番がどういう分類で一緒なのかも分かっていなかった。同じくらい長く生きて、同じくらいに頑丈だ。けど門番は、大きな分類としての妖怪には入るけど、吸血鬼ではないらしい。
そして、姉はフランと同じ吸血鬼だ。
たった二人の姉妹であり、肉親であり、同じ吸血鬼。自分は自分で見れないから、吸血鬼というモノを認識する為には、姉を見るしかない。
けれど、フランは姉が嫌いだった。
今までも、フランは姉が大っ嫌いで、これからもずっと大っ嫌いだ。
レミリア・スカーレットという存在は、フランに嫌な事ばかりする。
銃に撃たれたら、見たくないと言うフランに撃たれた痕を見せ付ける。
ミルクを飲みに来た猫が死んだら、それを埋めるのを見届けろという。死んだものなど見たくないのに、死を見せ付けようとする。
匂いが耐えられないのに、納豆を食べさせようとする。
そして、咲夜が倒れたときは、咲夜がいつか死んでしまうと、考えるだけで嫌な事を言う。
姉は、とても厭な事ばかり言うのだ。
そして、極めつけとして、フランに人間を襲う怪物をロールプレイしろと嫌がらせのような事を姉は言う。
そんな事はフランはやりたくない。
けれど、姉はそれを強要する。
そういう事が続くから、フランドールは姉が嫌っていた。
そうして姉を嫌うから、フランドール・スカーレットは吸血鬼という物がなんであるのかを知らなかった。知ろうとはしなかった。知りたいとも思わなかった。それを知る事は姉を知ることと同義であり、そんな事は知りたくなかったからだ。
そんな吸血鬼フランドールは、今、化物をしている。
膂力は人間より遥かに優れ、極めて高い反射を有し、生命力に溢れ、再生能力は無尽蔵で、夜目も利き、空も飛べ、魔法の能力すら持ち合わせ、日光に当たれば気化し、流れる水を渡る事が出来ず、やや先端恐怖症の気があり、招かれない家に上がる事は出来ず、姿見に映る事は無く、炒り豆に触れると火傷をするという、どこかで聞いたような能力を持つ、何処に出しても恥ずかしくない化物だ。先のゲームで人間に襲い掛かって、人間を殺した怪物である。
「……あのさ。GM」
『なにかしら』
「こういう生き物って、どこかで見た事があるような気がするんだけど、なんだっけ?」
『生憎と、それは自分で気がついて貰わなければならない部分だから、私からは説明できないわ』
ともあれ、フランドールは、砂浜に一人立っている。
背後には海。
つまり、常に流動する水があって、流れる水に弱いというこの化物の体では、それに足を取られれば、痺れて動けなくなってしまうだろう。
フランは海を畏れるように、一歩退いた。
ここは何処なのか。
それは『前世』の記憶からよく理解している。
今、フランドールが居るのは無人島だ。
否、たった一人の人間が住まう有人島か。
北部から東部にかけては深い森が広がっていて其処には狼を初めとする動物が生態系を構築し、南部は切り立った崖より海が見え、西部はなだらかな丘陵があり、其処には幾つもの兎穴があって、多くの兎が繁殖をしており、更に先には北部の森が西部にまで広がっている。そして中部草原地帯には、一件の掘っ立て小屋があり、そこにはらっぱ銃を持った人間が、犬と一緒に住んでいる筈だった。
三度、フランはここで生きて、死んだ。
四度目となる今回、フランドールは化物としてこの地に降り立った。
人間を襲う、血を啜る化物として立っている。
『東の空が白み始めたわ。そろそろ身を隠す場所を見つけないと、日光をまともに浴びる事になるわよ』
そうパチュリーに促されて、フランドールはふと気がついた。
太陽の光に弱いという一点は、この化物は自分と全く同じではないか。普段は屋敷で引き篭もっていて、太陽などとは無縁の生活をしているが、最近は庭の散歩もするようになったので、そうした事はフランも知っている。
何よりも、最近姉から受けた注意が記憶に新しいからだ。、
『いい、フラン。日光を絶対に浴びてはいけない。浴びると火傷じゃすまないから」
『知ってるよ』
『いいや、分かっていない。だから、実際に吸血鬼が日の光を浴びるとどうなるか、見て貰う』
『ちょ、お姉様! やめようよ!』
『ほら、フラン。吸血鬼が日の光を浴びると、こうなる』
『やめてやめて! 痛い痛い!』
そんな事を言いながら、姉はわざわざ自分の手を窓の外に出して酷い火傷を作り、それをフランに見せ付けたのだ。それがとても痛々しくて、トラウマになって、フランは絶対に昼は外に出ないと決めた。
だから、夜が明ける前に早く、ねぐらを探すべきだろう。フランドールは急いで海岸から移動した。遮蔽が無いこの場所では、どうやったって太陽光を防げない。
行き先は森である。そこには、人間であったときに、しばらく住居に使っていた洞窟があるので、そこで太陽をやり過ごそうと考えた。
あるいは、人間に鉢合わせをするかもしれない。この時間軸がどの時点かは分からないが、場合によっては『人間フランドール』が住んでいるかもしれない。
鉢合わせをしたら、どうしようか。
今のフランは化物であるが、どうやら人語を解するらしい。しかも、使用できる言語は人間であった頃のフランと同じであるから、きっと話は通じるだろう。
だけど、通じていいのだろうか。
今のフランは、人間を襲う化物なのに。
狼で居た時は、兎とコミュニケーションなんて取れないから、問答無用に狩っていた。そうする事でしか生きられないから、そうした。罪悪感はあったけれど、それでも兎を獲物と割り切っていた。
けれど、今のフランは人間と、意思疎通をすることが出来る。
話し合いをする事もできる。
けれど、それでも人間は、今のフランドールにとって最終的に餌なのだ。この化物の体は人間の血を吸わないと死ぬ。
それはフランに架せられた絶対のルールだ。
どうしても人間を襲わなければならなくなった時、どうするのか。どうすればいいのか。
「元の私なら、そんな事も無かったのにね」
ちょっと、おっぱいを絞らせて下さいと言うだけで、状況は解決した。そして、人間と共存だってできただろう。
そんな益体も無い事を考えていると、フランは洞窟に辿りついた。森の奥にある洞窟は、かつて誰かが住んでいた形跡は残っているけれど、誰もない。
フランは弛緩したように息を吐く。
気が付けば、外は少し明るくなっている、日光が届かない場所から、外を見た。水平線が少しだけ白みを帯び始めている。危ない所だった。もう少し遅れていたら、フランは気化していただろう。
「……あのさ、GM」
『なに?』
「太陽を浴びるとヤバイ生き物って、多いの?」
『まあ、こっちの業界じゃ割と多いわね』
「そうだよね。別に珍しくも無いよね」
ふと、芽生えたある種の懸念。
それを打ち払うようにフランドールは、頭を振った。
○
そして、夜を迎えたフランドールは、採集を行う事にした。
『人間を襲いに行かないの?』
「……それは、他のモノで代用できるなら、その方がいいから」
『そう決めたのなら、そうすれば良いわ。普通のゲームとは違って、このゲームに正解はないのだから』
GMにお墨付きを貰い、フランは果物の採取をする。
力は人間の何倍もあり、空も飛べるのだから、採取も捗る。直ぐに両手で持ちきれないほどの、ラズベリーだとか、葡萄だとか、そういった小粒の実を手に入れた。籠代わりにスカートを使って持ち歩いたが、どうにも色素の強い実ばかりだったので、赤いスカートが紫に染まる。
『で、それをどうするの?』
「勿論。食べる」
『だったら、それは少しすっぱかったけど、ちょっとは甘味もあって、とても美味しかった』
「うんうん」
『それだけよ』
だが、今のフランは人間の血によってのみ上を満たせるらしく、全く空腹は解消されてくれない。
「だったら」
『だったら?』
「う、兎を狩るよ」
狼をやっていた時に、兎狩りは少し慣れた。
けれど、狼の身で兎を狩るのと、吸血鬼で兎を狩るのでは勝手が違う。
狼で兎を狩るのには様々な駆け引きがあった。風下に立つ。音を立てぬ。そして運を天に任すなど様々な条件が揃わなければ、狩りは成立しなかった。
だから、フランドール狼は、とても必死に兎を狩ったものだ。
人間であった頃も同様だ。
罠を仕掛けて、待ち。餌だけ取られて溜め息を吐き。そして稀に兎がかかる。
他の生き物を狩るというのはとても大変な事なのだ。
けれど、化物であるフランは絶対的な身体能力を有しているが故に、楽に兎を狩る事ができた。普通に追いかけて、簡単に生け捕りにできるほど。
『腕の中で、兎が逃げようともがいている』
「……うん」
片手間で、兎の命を欲しいままにできる。
『どうするの?』
「こ、殺すよ。そして、捌いて、血抜きをして、その血を……」
啜った。
だが、血液という液体はとても生臭くて、鉄臭くて、飲めたものではない。想像するだけで、フランドールは吐き気に襲われた。仮想現実の化け物は必死にそれを飲み下す。
だが、空腹は解消できなかった。
やはり、人間でなければ駄目なのだ。それを確認しただけだ。そしてフランは、その為だけに兎を殺してしまった。
強い罪悪感をフランは覚える。
完全に兎は無駄死にだ。
所詮、ゲームであるはずなのに。
存在しないものに対して、フランは強い悲しみを覚える。感情移入する力が、強すぎるが故か。だから、対話の中でしか存在しない仮想現実を現実の事の様に受け入れてしまう。
フランドールは、完全に世界に没入していた。
そうしてキャラクターと完全に同調したフランは、飢えに突き動かされたまま、食料を求めて空を飛ぶ。
その行き先は、人間の家だった。
空には月が冴え冴えとした光を放っている。お陰で夜とは思えないほどに辺りは明るく、影がくっきりと見えるほどだ。
そして、獣避けの柵を越えて、とりあえず屋根に取り付いた。そして、煙突辺りから進入しようとして、それができない事に気が付く。
今のフランは招かれないと家に入る事はできないという性質を持つ。不法侵入はできないのだ。
だったら、どうするべきかとフランが屋根の上で悩んでいると、
『わん!』
犬が吼えた。
どうにもまごまごしている間に犬に気が付かれてしまったらしい。そして、その声に釣られて、家の中に居て安全だった人間がらっぱ銃片手に外に出てきた。
人間は家から出て、辺りを見回しているので、屋根の上のフランには気が付かない。ただ、警戒して銃口をそこらに向けている。
好機だった。
それを見た瞬間、フランは覚悟も決めずに飛びかかる。
人間が悲鳴を上げた。
フランは化物の圧倒的膂力を持って組み伏せようとする。だが、人間もさるもので慌てずフランの顔面にらっぱ銃を突きつけてくる。
らっぱ銃特有の甲高い銃声が鳴り響く。
フランは頭部に重大な損傷を受けた。だが、それで怯むほど、今のフランは弱くない。脳漿を辺りにばら撒きながら、フランは動揺する人間を押し倒す。
これで、どうやっても逃げられない。だけど、人間は抵抗を辞めず、諦めず、フランにナイフを突き立てて来る。
だが、そんなものは蚊の刺す程度。
フランは構わず、その首筋に噛み付き、喉笛を噛み切った。血飛沫がフランの顔を汚す。
そこまでやって、ようやく人間は死んだ。
虚ろな目で、それはフランを見返している。なぜ、自分が死んだのかを恨むような目つきで、フランを見る。
落ち着かない。
「……眼を閉じさせる」
そうして、ようやく人心地ついた。
動かない人間、けたたましく吼える犬、そして、家の中から漏れる光。空いた眼窩が妙に寒い。これだけの傷を負ってしまったら、再生に少し時間がかかるだろう。
けど、これからお腹いっぱいになるのだから、傷の治りも早くなるはずだ。
口の中の血を飲んでみる。
鉄の味がして、生臭くて、とても不味い。
ふと、どうにかできないかと、フランは辺りを見回した。すると、家の横に小さな林檎の木が生えている。森の奥に生えていたのを、植林したのだろう。
それを一個もぎ取って、握り潰してジュースにするとそれを血と混ぜて飲んだ。そうすると、血の生臭さが消えて、美味しく、お腹も満たされて、
「ああ、そっか。やっぱり、そういう事だったんだ――」
その瞬間、フランドールは化物が、自分の事であると理解した。
○
姉のレミリア・スカーレットが『誇り高きヴァンパイア』などと言っているのを、フランは物心ついたときから聞いていた。だが、そもそもヴァンパイアという存在が、自分と姉を指すという事以外、フランは理解していなかった。
そもそもヴァンパイアという言葉は、語源すら定かではない曖昧な言葉だ。
スラヴ語族の言葉を元にしているという事以外に確証は無く、リトアニア語の飲むを意味する「wempti」に接続詞「va」をつけたものを起源を求めた説、リトアニア語起源説やセルビア・クロアチア語の飛ぶを意味する「pirati」に北方トルコ語の妖術師を意味する「uber」を組み合わせた説、ポーランド語の翼を備えたを意味する「upierzyc」を語源とする説など、様々な論説が存在する。
そうした事からヴァンパイアという言葉自体には、血を吸う化物である事を説明する言葉ではない。せいぜいその言葉の意味は、翼を持つ化物だとか、飛ぶ妖術師、あるいは啜るモノといった程度だろうか。
だから、フランドールは姉から「我々はヴァンパイアだ」と聞かされてきても、その意味を解していなかった。
それは東の果ての国に至っても、そうした現状に変わりはなかった。
そこでレミリアは東の果ての国の言語に完全に適応し、自らを「誇り高き吸血鬼」等と語るようになった。
その言葉は文字通り『血を啜る鬼』という意味を有している。だが、フランはその言葉を聞いていても、自分が血を吸う化物だと理解できなかった。それは、話し言葉として日本語を理解していても、文字として認識していなかったからだ。
だから自分達がこの国だと「キュウケツキ」とかいう生き物であると認識していたが、そこに込められた意味は読み取れなかった。そういう名前なのだと、素直に受け取っていた。
それでも、自分が食べているものは人間である事は知っていた。自分の食事は『人間』とそれなりに理解をしていた。紅茶やケーキに混ざっているものが、即ちフランドールにとっての人間である。
だが、自分の世話をする十六夜咲夜も人間である。
食べ物としての人間と、従者としての人間。
その二つが同じである事が、どうにも理解できなかった。二つの『人間』がフランドールの中で対立をし、ある種の齟齬をきたしていた。
これを解消する理屈が必要だった。
そんな折にフランドールは『乳』を知る。生き物の胸からは、その幼児を育てる為の液体を噴出し、それはとても栄養価が高いのだという。
それを知ってフランドールは合点する。自分が食べていた人間とは、そういう物だと解釈したのだ。
フランドールにとって、ヴァンパイアとは、吸血鬼とは『人間より乳を貰う生き物』だった。
ずっとずっと、自分が血を吸う化物だとフランドールは知らなかった。
吸血鬼という概念を理解せず、自分は人間から乳を貰っているだけの無害な生き物だと思いこんでいた。
だが、それは大きな間違いだった。
普段、フランドールが食べている『液体としての人間』は、つまるところ人間の血だったのだ。
フランドールは、口を開かない。
ただ、自分が人間の血を啜る化物だったと知り、その罪深さを認識するだけだ。
自分が人間を食う生き物であるという事は、自分は人間をずっと犠牲にして生きていたという事である。
フランはもう五百歳を超した。吸血鬼としてはまだ子どもも良いところだけれど、それでも普通の人間であったら、十は世代を重ねるほど齢を重ねてきた。
そして、それだけの長い時間、人間を知らず知らずの内に食っていた。
一つ前、フランは人間として生きた。
たかがゲームの中であるが、それでも懸命に、必死に生きた。知恵を絞り、工夫を重ね、あらゆる知恵を総動員して、どうにか生存を果たしていた。
そうして、必死に生きる人間達の命を食い潰して、吸血鬼フランドールは生きていたのだ。それも、百や二百では利かない数の人間の命を、知らずに食いつぶしていた。
フランは、自分が知ってる人間達の顔を思い浮かべる。
誰も、フランに対して優しかったり、世話を焼いてくれたり、仲良くなれそうな人たちだ。そうした人間達を殺して、フランドールという吸血鬼は生存している。
しかも、それはゲームなどではなく、現実。
身体が異様に重くなる。
それは、まるで今まで自分の為の死んでいった何百のも人間達が、ようやく自分に気が付いたのかと、圧し掛かってくるようで――
『フラン』
あまりの重圧に意識を失いかけた時、パチュリーから声をかけられて、どうにか意識が繋がる。
「…………なに」
『貴方は人間から血を摂取し、命を繋いでいる。それから、どうするの?』
「……どうするって」
何もしたくない。
気が付かぬうちに背負ってしまった命の重み。それにこのまま押し潰されて、意識を闇に葬り去りたい。
そうすれば、きっと楽になれるだろう。
そうだった。
元々、自分はそうしていたのだ。
暗い地下室に閉じこもって、何も知らずに居られたのに、どうして外に出てきてしまったのだろうか。
また、あそこに篭ればいい。
そうすれば、きっと――
「それは無理だね。お前は知ってしまったんだ。禁断の実を食べて、知恵を得たアダムと一緒で、己が罪深いと知ってしまった。だからもう、あんな狭暗い場所で何も知らない振りをして生きることなんてできはしない」
上から目線の声がした。
アイツは、いつも分かったような口を利いて、フランに嫌な事をする。
だから、フランは『アイツ』が嫌いだ。
そんな奴の声なんか聞きたくないのに、何故かアイツの声がする。
フランが顔を上げると、そこにはレミリア・スカーレットが座っていた。
「なんでここに居るのよ」
「妹が助けを求めているのなら、姉としてそれに答えるのが筋でしょ」
「そんなの、いらない」
もう何もかも、どうでもいい。
だから、放って置いてくれ。
吸血鬼という存在を見切り、自分自身に絶望し、フランドールは力なく姉を一瞥する。
「ずっと、地下室に閉じこもったままなら、そうしていても良かったんだけどね。けれど、お前は外に出た。ならば、無理にでも正しい方に引っ張っていくのは私の務めだよ」
黙れ。
フランは、耳を塞いで叫んだ。
生きるという事は戦いだ。
時には生き延びる為に他の命を犠牲にしなければいけない事もある。
けれど、幾ら理解をした所で、人間の命を奪って、自分が生きていたなんて事実に、フランドールは耐えられなかった。
自分が優しい人間達を犠牲にし続けたなんて、知りたくなかった。
兎を狩るのはいい。
狼を害獣として殺すことも許容する。
他の生き物だって、生きるためなら、幾らだって殺してやる。
けれど、人間だけは嫌だった。
何故なら、フランドール・スカーレットは人間が好きな吸血鬼だからだ。
咲夜や魔理沙、それに他の人間だって、嫌いな人間なんて居ないのに、それしか食べてはいけないという運命が、吸血鬼には架せられている。
なんて、おぞましい――
「けれど、私達は生きている」
そして、その命はとても、罪深く、業が深い。
基督教で語られる所には、人間は原罪という生まれながらの罪を背負って生まれてくると言う。ならば吸血鬼は、どれほどの罪と苦しみを抱いて誕生するのか。生まれてきたことが、間違いだったと思うほど、吸血鬼の生は、耐え難い苦痛に満ちている。
「なら、どうする? 座して死を待ってみるか?」
それも、良いのかも知れない。
死んでしまえば、この呪われた生を絶つこともできるだろう。吸血鬼の生はあまりにも、苦痛と苦悩に満ちている。
こんな命に価値など無い。
「生きるという事の価値を認めるのは、フランドール・スカーレット。お前だよ。お前がお前の価値を認めなければ、それはずっと無価値のままさ」
そんな権利など、自分には――
「あるさ」
あるのか。
「無きゃおかしい話だよ。お前はお前の価値を認める事ができる。これはおけらにだって、ミミズにだって、どんな生き物にも認められた絶対の権利だ。例え、神だろうが魔王だろうが、この権利は絶対に権利を侵害する事はできない」
「そう、なんだ」
「だから、良いんだよフランドール。お前は胸を張って生きれば良い」
それでも、それはとても難しい。好意を抱く人間達を犠牲にしてまで、生きる事を肯定するのは、とても難しい事だ。
「それって、とても辛い事だよ」
「まあ、そうだろ。楽に流れるなら、人間など食料だと、割り切ってしまえば心持ち楽だわ。けど、そうして人間を犠牲にする事に抵抗を感じなくなったら、私達は心無い、本物の化物になってしまう。だから、もがき苦しみながら生き続けるしかない。それが誇り高き吸血鬼というものだ」
何とも難しい事を姉は要求してきた。
いつもこの姉はそうだった。
この国の言葉が難しくて、覚えられないときも。箸の使い方がややこしくて、フォークのように使っていたときも。礼儀作法の基本を叩き込まれている時も『フランだったらできるよ』と、さも当たり前のように要求してくる。
けれど、今回のこれは、箸の使い方だとか、日本語の習得のような努力で何とかなる話ではない。
生き物としての本能の強さの問題だ。誰を犠牲にしようとも絶対に生き延びるという意志の強さの問題である。けれど、それほどの意思の強さをフランは持ち合わせていない。
姉であるレミリア。スカーレットが持つような、絶対的な自己肯定など到底持ち合わせていなかった。
すると、姉がまた口を挟んできた。
「それにだ、フラン」
「うん?」
「私はそうやって生きている」
と、レミリア・スカーレットは絵に描いたようなドヤ顔で述懐する。
その顔を見て、ついフランドールは噴出してしまった。
折角それまで良い事言っていたのに、全く持ってこの姉は、そこまで自分が格好良いとでも思っているのかと、こんな場面だと言うのに笑ってしまうではないか。
「それ、卑怯だよ」
そうやって、ちょっと滑稽な姉の姿を見たら、なんだかそれまで悩んでいた自分が逆に馬鹿馬鹿しいと思ってしまうではないか。
「うん? 別に私は小賢しい説得なんてしていないけど」
そして姉は、分かっていない。
小さななりで無闇に格好付けている姿が、逆に滑稽である事に気が付いておらず、それでいながら、格好悪い姿なりに正面切って吸血鬼の宿命に挑んでいる。
それは、格好悪いけど格好良かった。
「……それでも、いいのかな」
姉のように格好悪く無様でも、それでもいいのかもしれない。
自分を肯定できなくとも、下を向きながらでも、必死に前に進んでいく。そんな生き方も姉を見ていれば許される気がした。
みっともなくても、いい。
生きているという事に答えを出せなくても良い。
そうして、見っとも無く生きていれば何かの回答のようなものがおぼろげながらも出てくるかもしれない。
生きるために生きる事は、きっと許される。
「……そうしてみる」
「そうだな。やってみれば良い」
そして消極的に自分を肯定する旨を告げてみると、姉はしっかりと頷いた。
まるで、自分の説得が功を奏したという顔をして、やはりドヤ顔で頷いて見せるのだ。半ば、反面教師的に、こんな姉でも胸を張って生きているのだからと、フランが決意したことなど知らず、とても誇らしげに頷いている。
『いや、良かったわね。なんとか治まる所に治まって』
そうしてフランが生をどうにか肯定すると、今まで口を閉ざしていたGMことパチュリーが声を上げた。
吸血鬼ではない自分が下手に口を挟むとややこしくなると、ずっと黙っていたらしい。
「そうだな。これでフランも一つ賢くなったわけだ」
随分と上から目線で姉が言う。
だが、そんな姉の言い草をフランドールは笑って受け流した。自分が何者であるかを受け入れた事によって、少しだけ余裕が生まれた所為だろうか。
自己認識をした事による精神の安定。
今まで、情緒不安定だったのは、自己が何者であるかを理解していなかった為。
だから、己が何者であるのかを知り、それを受け入れたフランドールは、姉の偉そうな言動程度では、いちいちイラつかなくなった。
つまるところ、それは成長をしたという事である。
一つ間違えれば、意識の奈落に落ちていた。吸血鬼である自分を受け入れられなくて、全てを否定していただろう。
だが、フランドールはその寸前で、どうにか自己肯定を達成したのだ。
「まあ、私はお姉様の妹だしね」
そんな軽口を叩くと、フランは清々しい笑顔を見せる。
その顔は、とても晴れやかで、影など無く、とても眩しい笑顔だった。
了
「いや、待ってよ」
「え?」
そうして、パチュリー・ノーレッジがセッションを恙無く終わらせようとしていたら、フランドールが物言いをしてきた。
「まだ、セッションの途中じゃない。こういうのは、ちゃんと終わらせないと駄目だよ」
「いや、でも」
そもそも、今回のゲームの目的は『仮想体験によって、フランドールに吸血鬼のあり方を理解させ、成長を促す』というもので、それが見事に達成された以上、これ以上のゲームに意味は無い。
それに連日のセッションでパチュリーは酷く疲れていた。前回など丸一日マスターをするという、どこの泊りがけコンベンションだと言う苦行を行っている。
だから、もう早上がりをしてしまいたいのだ。
「こういうのは、ちゃんと終わらせないと駄目だよ」
だが、フランドールは続行を宣言する。
打ち切り中断なんて許さないとばかりに、パチュリーに続きのGMをするように要請するのだ。
しかも、魔法使いが戸惑っていると、彼女の親友であるレミリアまで『確かにそれは筋が通っている。ちゃんと最後まで面倒を見るのがGMだろう』等と、無責任な事を言う。
「けど、もうあの島には人間が居ないから、ええと私が言うのもあれだけど、吸血鬼が暮らすにしても、先は無いわよ」
「いいんだよ、それはどうにかしてみせるから」
「パチェ。本人がやりたいと言っているんだからやらせてあげればいいじゃない。それに折角フランがやる気を出しているんだ。それに、私達が答えなくてどうするのさ」
主にそれに応えるのは、自分なのだけど。
そんな事をパチュリーは口の中で呟いた。
「それじゃ、よろしくね。GM」
「……今日は、早く終わると思ったのに」
そしてGMであるパチュリーは、深い溜め息とともにゲームを再開するのだ。
RPGでGMが苦労するという事。
それは、RPGではよくある、ごく一般的な悲劇である。
○
かくして、ゲームは再開となる。
そうして再開早々にフランドールが行ったのは、人間の血を保存する事だった。
他に人間がいないとGMが宣言している以上、この島における吸血鬼の食糧問題は深刻だ。それの解決の糸口を見つけるまで、先の襲撃で手に入れた血が、フランドールの命綱となる。
だから、血を駄目にしない為に、瓶を調達し、密閉して保存した。
これで、しばらくは食い繋ぐ事ができる。
そして、次にフランが行ったのは島の周囲の海流の調査だ。船や漂着物が次々と流れ着くこの島の複雑な海流を把握する為、ブイだのウキだのを利用して、外洋へと続く海流を探したのである。
島に活路が無い以上、外に見出すのは自然な事だ。
そのように脱出経路を探りながら、フランは他の準備も平行して進める。
海上にいる限り、吸血鬼は流れる水に弱い特性から、まともな操舵は出来ないだろう。だから、海を越えて無人島から脱出するなら、大きな樽にでも入っていて、海流に身を任せるのが上策となる。
その為の、樽の作成もフランは行う。
荒波に揉まれても壊れない程度に頑丈な大樽で、それに保存食を詰め込んで、船代わりとする。そうして、一ヶ月はドンブラできるだけの準備を整えてた頃には、海流の調査も大詰めを迎える。
外洋に出るための、ちょうど良い海流をフランドールは発見したのだ。
時は来た。
兎から、狼、人間、そして吸血鬼とずっと過ごした島から離れる時が来た。
「それじゃ、出発する」
満月の夜。吸血鬼フランドールは、大樽に乗り込んだ。
それは完全な賭けだった。
確かにそれは、島から離れる海流だけれど、他の大陸とか島とかに繋がっているとは限らない。しかも、漂流している間のフランは『流れる水』の中に居るので、何かアクシデントが起こっても、それに対応する事もできない。
完全に運試しな行動だ。
それは賢明とは言えないかもしれない。
あの島は海流の関係で周囲の漂着物が流れ着く場所だった。だから、他の人間が漂着する可能性も残されていた。新しい人間が来る――食餌がやって来る目はあった。だが、フランは天に運を任せて待つ事よりも、自ずと動いて運試しをする方に賭けた。
そして、運試しは成功する。
吸血鬼フランドールを封入した樽は、エメラルドのような美しい色合いの海岸へ、漂着することができたからだ。
夜を待って外に出ると空には三日月が浮かんでいた。フランドールが周辺を散策すると、遠くには、海に突き出た城塞とそこに点る灯が見える。
街だ。
あるいは、アレが噂に聞こえた城塞都市だろうか。
空を舞い、上空から城下を見るとオレンジ色の屋根が月光の下で照らし出されている。何とも綺麗な町並みだ。
綺麗な海と堅牢な城郭、そしてその中に広がる美しい町並みに思わず見蕩れ――
そこでぐぅと腹が鳴る。
樽に入っているときは昼夜の区別など無くて、流されて何日立っているのかも分からなかったが、用意していた保存食がなくなるくらいに時間が立っていたのは事実なのだ。人間を探すと、ちょうど城塞の上を歩く兵士の姿が散見される。
見回っている彼らは、別の国や海からの襲撃を警戒はしているけれど、上空から吸血鬼に襲われるとは全く思っていない。
「急降下して、そのまま襲う」
フランドールは、再び人間を襲い、十分に腹を満たした。
以来、フランは城塞都市近辺を狩場とし、付近に居を構える。
だが、人間が多い場所というのは、なかなか苦労が付きまとう。特に捕食行動に出た場合、かなり面倒な事になった。フランがご飯を食べるという事は、都市では死人か行方不明者が一人出る事になる。そうなると、当然の如く警戒は厳しくなり、次に食事をするのは辛くなる。おかげで城塞都市にて、空を飛ぶ化物が出るらしいと妖しげな噂が広まって、夜間の警戒も厳しくなってからは、フランも城塞内での捕食を控えるようになっていた。
なので、フランは次第に、都市の住人を襲うのではなく、そこを行き交う旅人を狙うようになった。そいつらならば、例え死んだり行方不明になったとしても、生き残りを残さなければ、騒ぎにならない。
実に山賊、盗賊の発想である。
だが、そうした先人たちがやってきたことだけあって、街道の野伏は有効だった。元々、フランが辿りついた城塞都市は、この付近の交易を要であり、旅人が居なくなるという事も無かった事も幸いした。
そうして吸血鬼は安定した日々を送っていたのだが、ある日、一つの間違いを犯してしまう。襲った商隊に居た小さな子どもを見逃したのだ。
その慈悲は、厄介な来客を招いてしまう。
それは所謂、吸血鬼を狩る専門職。ヴァンパイアハンターの来襲である。
彼らはとても執拗だった。
力の強さとか、直接戦闘能力とか、そういった点は普通の人間と変わりはないのだけど、吸血鬼の生態を知り尽くしていて、その弱点をえげつなく突いて来るのである。
太陽の眩しい昼間を狙って、フランが住居としている洞窟に侵入し、隠れられそうな棺とか、樽とか、箱を見つけたら、中身も確認せず、油をかけて燃やし始める。情け容赦ない無慈悲な焼き討ちだ。
その上、ターゲットが見つからなかったら、黒色火薬を洞窟にしかけて、フランの居住地を爆破した。しかも、破壊した後で念入りに聖水まで撒く始末である。まるでカルタゴを滅ぼしたローマの所業だ。
幸い、フランは隠し部屋の奥に隠れていたので、瓦礫の中から這い出すだけで助かったが、そこで人間の恐ろしさは嫌と言うほど味わった。その容赦の無さと執拗さ、そして根性の悪さは洒落にならない。
かくして、フランは放浪する。
一箇所に留まる危険を知ったからだ。
放浪しながらフランは、色々なモノを知った。
人間には、色々な種類の人間が居るという事。
そうした人間は、互いに殺しあっているという事。
支配される人間と、支配する人間が居て、そのどちらもが結局大差が無いという事。
色々なモノを人間は作るという事。
そして、それらを壊すという事。
良い人間ばかりではなく、悪い、邪悪としか言いようのない人間も居るという事。
そして、ヴァンパイアハンターというモノは、本当に恐ろしいという事も、長い放浪の果てに再認識した。本当に、奴らは洒落にならない。一度目撃されたら、それこそ地の果てまで追いかけてくる。
どうにもフランは、性質の悪い奴らに目をつけられてしまったらしい。
だが、フランに起こったのは悪いことばかりではない。
人外の友人ができた。
それはパチュリー・ノーレッジという七曜を操る魔法使いで、年若く、喘息持ちで身体が弱いが、とても頭が良い人物だ。
そのパチュリーが語るには、フランは館を作るべきであるという。
魔力を有した吸血鬼の居城。これを作らねば、安全な生活空間を手に入れる事はできないと軍師のように魔法使いは語った。
かくしてフランドールは、領地となる館を求めて旅をする。
自分の館を求めて、世界中を旅した。
既に何百年と、フランはしぶとく生きていた。
何度も、死を意識する事もあった。特にヴァンパイアハンター達は情け無用で洒落にならない。けれど、その度に、機転と素早い判断と、ほんの少しの幸運を武器にフランは難局を乗り切って見せた。
そして、フランは紅魔館を見出す。
紅の魔力に包まれた呪われた館を物とした。
更に、それを守る為の門番となる妖怪もリクルートし、フランドールはようやく、吸血鬼としての領地を見出す。
昼は門番である美鈴に見張らせ、夜は紅魔館を拠点に食料調達。だいぶ、文明的な生活ができるようになってきた。
だが、そうして生活が安定する反面、人間達の世界はきな臭さを増していく。機械と論理的思考が世界を侵食し始めて、妖怪とか幻想の入る隙間が失せてきたのだ。
そうして生き難くなった世の中に閉口をしながらも、吸血鬼として活動をしていると、とある妖怪から声がかかった。
それは八雲紫という名前の妖怪で、幻想郷という名前の東の果てにある妖精郷にて、管理人をしているのだという。そして、どうにも最近は幻想郷の妖怪から活力が失われて久しいそうで、カンフル剤となる若い妖怪の誘致を行っているらしい。
そこでフランは、八雲紫の申し出を受けて、幻想郷に乗り込んだ。
そして――
○
「今に至る」
そんなレミリア・スカーレットの言葉によって、フランドールは現実に返った。
ふと気が付くと目の前には、目の下にどす黒い隈を作ったレミリア・スカーレットが、マスタースクリーンの向こうにいて、GMであるはずのパチュリーの姿は無く、その脇では司書をしてい筈の小悪魔が高いびきを立てて爆睡している。
「……あれ、お姉様?」
「途中でパチェが寝落ちしてね。けど、お前は完全に入り込んでいた。だから、小悪魔に手伝ってもらって、途中から私がマスターをしていたんだよ」
「そう、だったんだ」
既に、ゲームの延長を行ってから、二週間が過ぎていた。その間、フランとレミリアは不眠不休で、吸血鬼の人生をずっとロールプレイし続けていた。
だが、それももう限界だと、GMを代わっていたレミリアが切りの良いところで中断したのだ。パチュリーは城塞都市の下りで撃沈している。既にここ数日のGMで疲労が溜まっていたのだから、仕方がない。
その後、衣鉢を継いだレミリアが、残された設定やシナリオ、それに自分の人生経験を切り売りしながら、小悪魔に手伝ってもらいつつ、即興でゲームを継続していたのだ。
だが、どうしても限界となって、先の『今に至る』で強引に締めくくった。流石の吸血鬼も、二週間の不眠不休は限界だった。
「お姉様」
「……なんだ」
「吸血鬼異変は? 幻想郷に入ったら、とりあえず他の妖怪達に所構わず喧嘩を吹っかけたんでしょう。私も喧嘩とかしてみたい」
「いや、もう無理。これ以上は無理。もう眠くて限界だから……」
「そっか、残念だな。これから、もっと面白くなるはずなのに」
そう言いながらも、フランの目の下にも凄い隈ができている。体力的に限界なのは、フランだって違いない。レミリアが二週間もGMをしていたなら、フランだって二週間、一睡もせずにプレイヤーをやっていたのだ。
百歳から五百歳近くまでの四百年分のロールプレイをやってきた。何もなければ省略することもあったし、時には何年か年代ジャンプをする事もあった。それでも、三百五十万四千時間を三百三十六時間に圧縮して過ごしていたそれは、恐ろしく濃密な二週間だった。
だから、フランは姉と同じくくらい疲れている。
けれど、姉より活力に溢れていた。
最初は、このまま終わらせるのは癪であるという、ちょっとした気分の問題で続行したことだ。だが、実際にゲームを進めてみると、苦しいことや辛い事もあったけれど、楽しいことも沢山あって――
「お姉様」
「……なんだ」
「私、生きてて楽しいかも」
「…………ああ、それは、良かっ――」
それが、レミリアの限界だった。
頭を後方に仰け反らせて、えびぞった状態で姉は落ちる。
そうして、えりぞりながら寝息を立てる姉を見て。
「また今度、続きをしようね」
フランも笑顔と共に寝落ちする。
そうして二週間ぶっ通しセッションは中断し、死屍累々を残すのみ。
だが、そこで死んだように寝ている連中は、誰もが何処か満足げだった。
○
真っ白のクリームでデコレーションされた上に真っ赤な苺が乗っかって、ふんわりとしたスポンジケーキの間には、スライスされた苺とクリームが挟まっている。見ただけで口の中が甘くなってしまいそうなそれは、とても美味しそうな苺のショートケーキ。
紅魔館が誇る料理上手、十六夜咲夜の作る苺ショートだ。
それは舌の肥えた吸血鬼であるレミリア・スカーレットも満足する一品であり、フランも好物としているモノである。
それがフランドール・スカーレットの前に置かれていた。
「さあ、お腹も空いているでしょう。お代わりもありますから、沢山食べて下さいね」
咲夜はそう言って、給仕をする。
真っ赤な紅茶を注いでくれる。
真っ赤な苺のショートケーキと、真っ赤な紅茶。
それを前にしてフランは、両手を合わせた。
「いただきます」
そして、フォークを使って丁寧にショートケーキを切り取って、クリームの欠片も残さずに口の中に運ぶ。
ケーキはとても甘くて、美味しくて、そして、ほんの微かに鉄の味がした。
フランは、それを少しずつよく噛んで丁寧に食べる。そして、スポンジの欠片一つ残さず完食し、再び両手を合わせて瞑目した。
「ご馳走様でした」
最近のフランドールは、調子が良さそうだった。
一日中引き篭もる事は稀で、部屋から出ることも多くなり、自室ではなく上の食堂で食事を摂るケースも増えてきた。
だが、そうしてフランドールが食事をしているのを見ていると、レミリアにはどうにも気になる事が一つある。
二人の前に出された赤い苺がワンポイントなショートケーキと美味しい紅茶。
それを無心に食べているフランドール。
いただきますもごちそうさまも無しで、適当に食べ散らかす姿を見ていると、ある種の懸念がレミリアの中で生まれてくるのだ。
「フランは、これが人間だって知っているのよね」
「……うん? 当たり前じゃない。私のことを馬鹿にしているの」
「なら、どうやって人間がこれになっているのか、知っているか?」
「知ってるよ。おっぱいの大きい人間から絞るんでしょ」
どうにも妹は根本から、吸血鬼という物を誤解をしていた。自分という物が分かっていない。
それでは吸血鬼ではなく、吸乳鬼ではないか。
レミリア・スカーレットは頭を抱えた。妹が完全に的外れの認識をしている事と、それを放置していた自分に絶望した。
確かにフランドールは、人間を食べ物として認識している。
だが、それは液体となった食べられる形の人間であり、どうやって生きている人間が食べられる姿になるのかを、フランドールは全く理解していなかったのだ。
子どもが海で泳いでいる魚を想像しようとして、魚肉ソーセージや切り身の遊泳を連想するようなものである。
食育が全くなっていない。
「地下暮らしが長かったからなのかね」
「なにが?」
溜め息を吐く姉と小首を傾げる妹。
やはり、教育係の問題はさっさと解決すべきだったか。レミリア・スカーレットは猛省する。
そして、この根本的な間違いは早急に正さなくてはいけないと決意した。
それも、できるだけ、妹へのダメージの少ない方法で妹の理解を促さなくてはいけない。レミリアは、それらをパチュリー・ノーレッジに全て託す事に決めた。
「そういうわけで、後はよろしく。頼んだからね」
「え?」
全部親友に丸投げしたのだ。
1 兎
フランドール・スカーレットは兎だった。
毛並みは明るいオレンジ色で、目は黒曜石のように真っ黒く、口元はなぜだかいつもモゴモゴと動き、その大きな耳はいつも忙しなくピョコピョコしているという、何処に出しても恥ずかしくない可愛い兎だ。
そんなフランドール兎は、草原のど真ん中で空を物珍しそうに見上げている。その見上げる先には、フランドール兎と同じようなオレンジ色をした明るい物体が浮かんでいた。
太陽だ。
太陽とは天の川銀河の隅っこにある太陽系の中心である主系列星で、宇宙ではありふれた存在だけれど、吸血鬼にとっては有害極まりない存在で、その光を浴びた吸血鬼は気化してしまうという、とても恐ろしい存在である。
だが、今のフランには関係ない。
なぜなら、フランドールは兎だからだ。
兎が太陽に焼かれるなど、アリゾナ砂漠かサンタナにでも行かない限りありえない。今のフランにとって太陽から注ぐ光は、ぽかぽかとする、とても気持ちのいいものである。
だから、緑に覆われた小高い丘の上で、フランは日向ぼっこを存分に堪能していた。毛皮を日光消毒して、なかなかどうしてご機嫌である。
けれど、そうしてのんびりもしていられない。
兎のフランのお腹の虫が『ぐぅ』と音を立てて鳴ったたからだ。
フランドール・スカーレットは兎である。何処にでもいるネザーランドドワーフだ。
ピーターラビットのような児童文学に登場する兎でも、バックスバーニーのようなカートゥーンの兎でもない。割とリアルな、飯を食べなくては飢え死にしてしまう普通の兎である。
けれど、フランは兎でありながら、自分が何を食べるのかを知らなかった。兎の食生活なんて全く興味が無かったからだ。
「お腹すいたっていってもさ。兎って何を食べるのよ」
兎なフランが天に向かって問いかけると、天より返答があった。
『兎は草食動物なんて言われるだけあって、だいたいの草は食べられるみたいね。そこらに生えている柔らかい草なら、大抵栄養にする事が出来るわ。フィクションだと人参が好物みたいだけど、実際には特に人参を好むかは、兎に聞いてみないと分からない所ね。ま、実際、兎は穴を掘る生き物だし、栄養価の高い地下茎の類が嫌いな理由は無いのだけれど』
そこでフランはそこらの草を観察してみる。
タンポポ、ナズナ、クローバーにオオバコとそれなりに草は生えている。フランドール兎は、そこらの草を少し食べてみたが、そんなものは結局は草の味しか連想できず、どうにも、美味いという感じがしなかった。
そもそもフランは葉っぱが嫌いだ。
少し前にクリスマスで、ケーキの上に乗っていたサンザシの葉っぱを口に入れて以来、どうにも葉っぱは不味いというイメージがある。だから、兎は葉っぱを食べるものと言われても、積極的に食べたい気分ではなかった。
それでも、今のフランは兎である。そして兎が葉っぱを食べると天の声がのたまう以上、草を食べずにはいられない。
だが、どうも草を食べてもテンションは上がらなかった。
そもそもフランは悪魔の妹などと言われる吸血鬼である。それが何が悲しくて葉っぱをもそもそ食べないといけないのか。そんなものを食べている現状に満足していて良いのか。
だが、そんなに意気込んでも、今のフランは兎である。葉っぱを食んで口元をもごもご動かすだけの兎である。更に言えば、兎に声帯は無いので叫び声一つも上げられないのである。
「……兎って、声を出せないの?」
『一部、例外はあるけどね。普通は声を出せないわ』
「でも、この前、上でパーティーしてた時、地下に進入してきた兎達は、ぎゃーぎゃー五月蝿かったんだけど」
『あれは妖怪兎だからね。普通じゃないのよ』
そうして天の声と会話をしつつ、フランは辺りを見回した。ついでに耳も動かして、辺りの音に注意を払う。
北のほうには沢山の木がある。それは、どうやら噂に聞く森という奴であるらしい。西はずっと野っ原だ。更に先に行くと北の森が東にも侵食している。そして南には切り立った崖。その先には大量の水。どうやら、それは海という奴らしい。
「図書館に作ったアレ?」
『そうね、最もそこにあるのは本物の海。途方もなく広くて大きい奴よ』
「大きいって、紅魔館ぐらい?」
『海の大きさにも拠るけどね。ここの海は瀬戸内海みたいな小さな海じゃないから、水平線は見えるわね。海の向こうにある大陸が見えないくらいに大きいわよ』
「へー、よく分かんないや」
そんな雑談を天の声としながら、フランは草原を見る。
すると、現在、フランが居る小高い丘の向こうの方に木製の箱が見えたのだった。それは何者かが立てた正方形の家である。その家は四角いの柵でできた囲いに有り、その中には正四角形の畑とか、正四角形の家畜小屋も見えた。
なんで全てが正方形なのかは分からないけど、それよりも重要な事が一つある。その家には畑があって、どうやら人参が生えているらしいのだ。
耳ほど優れてないけど、野性の兎の嗅覚は結構鋭い物が有る。実際、兎は感覚器官が全体的に高レベルでバランスが取れていて、早期警戒機のように異変に気が付く事もできる。
だから、好物の人参の匂いだって、簡単に嗅ぎ当てる事もできるのだ。
行ってみよう、とフランドール兎は跳ねる。
兎特有の発達した後ろ足を使って、誰かの家の畑のほうにぴょこぴょこと駆けていった。
『その家の周りは遠くから観察した通りに柵に囲われている。柵の高さは二メートル。下までしっかりと防がれていて、兎が入り込めるような隙間は無いわ』
「だったら、飛んで入る」
天の声の状況説明に、フランは吸血鬼的な解法を提示した。
だが、重ねて説明する事になるが、今のフランドール・スカーレットは小さな兎で吸血鬼ではない。
その大きさは三十センチにも満たなくて、後ろ足で飛び上がっても自分の身長と同じくらいの高さの段差を上るので精一杯。とてもではないが二メートルの獣避けフェンスなんて、いくら頑張っても乗り越えられない。
今のフランが見上げている柵を、平均的な人間の視点に置き換えてみた場合、高さ六メートルもの巨大な柵を見上げているようなものなのだ。
「六メートルって、どれくらい?」
『少し前、萃香が遊びに来た事があったでしょう』
「あの角の生えたちびっこ?」
『そうね。貴方と大差ない背丈だけど……ともかく、アレが、大きくなったの覚えていない?』
「あったね。そういえば」
『あれが、六メートルくらい』
「それはでっかいね」
空も飛ばずにミッシング萃香を乗り越えるのは、少しばかり骨が折れる。それほど大きな柵を前にして、空を飛べないフランドール兎はどうする事も出来なかった。
だけど、人参を食べたいという強い欲求はある。
どうしたものか。
そもそも兎には何が出来るのだろう。
体力的には悲しくなるほど兎は非力だ。感覚はかなり優れていて、特に聴覚は凄まじいものがあるけれど、攻撃能力は雀の涙。
足の速さはそこそこで、跳躍力は案外普通。そして、地面に穴を掘る能力に長けており、その能力はモグラなどの本職を除けば、相当なモノである。
そうして、兎としても能力を確かめ、フランは理解した。
「この柵は、下までは続いていないよね?」
『地面で止まっているわ』
「だったら、穴掘って柵をくぐる!」
そうしてフランドール兎は穴を掘り始めた。
なかなかどうして兎の体というものは、穴を掘るのに適している。短い前足から伸びた太い爪は、土を掘るには最適で面白いように地面を掘れるし、掘った土は発達した後ろ足を使って、どんどん後方に掻き出していくのは爽快だ。
全くもって兎とは、穴を掘る為に生まれてきたような動物である。そうして夢中になって土を掘っていると、あっと言う間に柵をくぐれる穴が出来た。
折角だから、もっとしっかりした穴にしようか。
そんな事を考えていると、フランのお腹がぐぅと鳴る。
さっき、もそもそ食べた草分のエネルギーはもう尽きてしまったらしい。どうにも兎の体は、身体が小さいだけあって、直ぐにお腹が空いてしまう。
傍から見れば気楽な兎も、なかなか不自由なもんである。
ともあれ――
「それじゃ、さっさと人参を食べに行こう」
フランは正方形の畑に向かった。しかし、どうしてこんなに正方形の建物なのだろうか。
『マップは適当に書いたのよね』
見も蓋も無い説明が天の声から返ってくる。成程、それなら仕方がない。
そんなメタな発言を天と交わしながら、フランドール兎は畑を我が物顔で闊歩する。
畑の野菜は、人参は当然の事として、キャベツやセロリ、それにアスパラガスなどと色々な野菜が、小さな畑に実っていた。
「そういや、アイツはアスパラとか好きだったね。なんか嬉しそうに食べてたのを思い出した」
『ここに生えているのはグリーンアスパラガスだけどね。レミィが好きなホワイトアスパラガスは、フランスじゃマドモアゼルの指とか、食べれる象牙なんて言われる高級品で、ここに生えているのとは少し違うものなのよ。実際、ホワイトアスパラガスは向こうじゃ、とても神聖視されていて、それを示す例としては、とある婦人が救世主を受胎したという証明を……』
「ふーん」
天の声の薀蓄はまだ続いていたけど、興味の無いフランは生返事をして、アスパラガスの脇を通り過ぎた。別にアスパラガスに罪は無いのだけど、姉の好きなものという時点で、どうにも興味が失せてしまう。
難しい年頃なのだ。
そういうわけで、他のキャベツとかセロリといった青物もグレイズながら、フランは人参の前に来た。畑の畝からは細い茎と葉、それに人参特有のオレンジの根が少し顔を出している。
やはり、青物よりも明るい色の食べ物の方が好ましい。
フランドール兎は人参を掘り出してみた。兎の手にかかれば、しっかり埋まった人参を掘り出す事ぐらいどうてことない。
オレンジ色した人参は、身体よりも少し小さいぐらいで食べ堪えは十分過ぎるほどある。フランドール兎は、真ん中から豪快に人参に齧りついた。
とても、美味しい。
この畑の人参は丹精込めて育てられていたお陰か、とっても甘くて美味しくて、食べていると身体がふわふわうきうきしてしまうくらい、この人参は美味しいのだ。
そうしてフランが、人参に舌鼓を打っていると――
『わん!』
「うわっ、吃驚した!」
甲高い鳴き声がした。
どうやら、ここでは番犬を一匹飼っていたらしく、そいつが気が付いて鳴き声を上げたのだ。その鳴き声に、耳のいいフランドール兎は朦朧状態に陥ってしまう。耳が良いのも考え物だ。
どうにか、朦朧状態から抜け出して、フランドール兎は考える。
やはりここは、文字通りに脱兎の如く逃げるべきだろうか。
鳴き声からして、自分と犬との距離は離れているだろうけど、犬と兎では根本的な体躯が違う。だから、犬の方が絶対に早い。
ならば、距離という優位がある間に逃げるべきか。だが、犬に吼えられて逃げるなんて、どうにも情けない所もある。
更なる判断材料を求めて、フランは鳴き声のする方を見た。
すると、正方形の家の脇に犬は居り、そいつは鎖に繋がれていた。
「なんだ」
それならちっとも怖くは無い。
フランは、犬に吼えられても全くに気にする事もなく、悠々と人参を食べる事にする。
『随分と余裕ね』
「そりゃそうだよ。だって、わんこはこっちに来れないんでしょう?」
『ええ、番犬は鎖に繋がれて、畑と家畜小屋には入れないようになっているわ』
「だったら、安心……」
『でも、そもそも番犬ってのは、侵入者を知らせるのがお仕事で、その仕事はしっかり果たしているのよ』
「え? でも咲夜の仕事はバンケンで……」
『いや、あれはメイド長だからね。番犬じゃないからね。確かにあの子は犬属性強いけど』
「でも、たまに吸血鬼のイヌって」
『それは比喩』
「ひゆ?」
『例えよ。たとえ。他の言葉に言い換えた表現』
「ニホンゴムツカシイネ」
『思い出したようにガイジン設定持ち出さなくてもいいのよ』
「でも、やっぱり後から覚えた言葉って難しいよ。まだ、難しい漢字は読めないし、書くのは苦手だし」
『読めるなら、それは十分立派なことよ』
ともあれ、番犬の仕事が侵入者を発見し、鳴き声によって知らせる事だとすると、それを知らされた奴が居るという事である。
少しばかり、危険に対する認識が甘すぎた。
より正確には、吸血鬼として生きて、四百九十五年も引き篭もり生活を続けていた彼女は、危機感という概念が薄すぎたのだ。
『ドアが開いたわ』
だから、兎が生態系の食物連鎖でも下のほうに位置する存在で、食物連鎖の頂点に立つソレが現れたら、絶対に太刀打ちできない事も理解していなかったのである。
大きな音を立てて、ドアが開く。
家の中からは、らっぱ銃を持った人間が現れた。
人間は登場して早々、犬の様子を見て状況把握を完了させると、空に向かって威嚇のらっぱ銃をぶっ放す。辺りに響く破裂音が、フランの敏感な耳を劈いた。
『さあ、聴覚判定に成功してしまったら、大音響にやられて、またしばらく行動不能になるからね』
「そ、そんなの成功しちゃうに決まってるじゃん」
兎は、指向性聴覚を持っていて、繊細な聴覚も有している生き物であるが、それが逆に弱点となる事もある。
大きな音に弱いのだ。
度を越した爆音を聞くと一定時間朦朧状態になってしまう。犬が洗っていない靴下を嗅いで行動不能になるのと同じ理屈だ。
フランドール兎は、大音響によって朦朧状態に陥った。
その間に天に向かってらっぱ銃を威嚇射撃した人間は、番犬の鎖を外すと、フランドール兎に向かって狙いを付ける。害獣であるフランを撃ち殺して、スープにでもしてしまおうという魂胆なのだろう。
鉄砲を向けられて、フランは戦慄した。
ふと、姉との話を思い出したからだ。
「ねえフラン。今日、鉄砲ってのに撃たれたんだけどさ」
「うん」
「アレ、凄い痛いわ」
「ふーん」
「剣とかで切られたり、槍で刺されるのって、一瞬熱くなって終わりだけど、鉄砲で撃たれると、傷口に弾がめり込んで中で変形して、ぐちゃぐちゃなるわけよ」
「お、おお……」
「で、弾は中で止まっちゃてて、そのままにもして置けないから、傷口を切り開いて取り出すわけだけど、弾が変形して肉の中に食い込んでるから、それを取り出す為に……」
「痛い痛い痛い!」
そんな聞いていて痛くなる話をされた事があった。
どうにもレミリア・スカーレットという吸血鬼はデリカシーにかけるきらいが有り、そういう痛い話をやたらとフランにしてくるのである。
だから、鉄砲の怖さをフランはよく知っていた。アレはとても痛い武器だ。
しかも、今のフランは吸血鬼ではなく兎である。
「てっぽうを喰らったら、どうなるの?」
『死ぬわね』
「絶対に?」
『余程運が良ければ生き残れるけど、まあ、普通に無理だと思うわ。兎って小さいからHP低いし』
それは絶対に当たりたくない。
朦朧状態から回復すると、フランは全力で逃げの一手を打つ。
もっとも、冷静に現実を鑑みれば、それなりに距離を取っている状態で、兎のような小さな物体を狙い打てるほど、らっぱ銃の精度は高くないのだけれど、そんな事、フランは気が付かない。
脱兎の如く逃げ出した。
人参を詰め込んだお腹が重いが、それでも頑張ってフランは逃げた。
後ろで犬がワンワンと『てめぇ、ご主人の畑に忍び込もうっていい根性しているじゃねぇか』と犬語でチンピラみたいな物言いをしているが、それは無視。兎に角、柵の下に空けた兎穴へと、命からがら逃げ込んだ。
後ろでキャインと声がする。
犬が柵に激突したのだ。
普段なら、煽り文句の一つでも言ってやるところだが、今のフランにそんな余裕は無い。そもそも声帯がない。急いで草原を駆け抜けて、森の方へと駆けて行く。
そして森に入った後も、よほどらっぱ銃が恐ろしかったのか、命を取られそうになる体験が恐ろしかったのか、人間も犬も追いかけてきていないのにまだ走り続けていた。
命からがらとは、こういう状況を言うのだろう。
そうしてフランが走っていると、目の前の茂みががさりと揺れた。
だが、走っているフランはソレに気が付かない。
気が付かないまま茂みの傍を走りぬけ、そして――
『狼が、茂みから飛び出してフランの体に齧りついたわ』
慌ててフランは、狼の牙から逃れようとする。
だが、それは完全な不意打ちで逃げる猶予などありはしなかった。そして体に食い込んだ牙を振り払おうとしても、根本的な膂力が違いすぎた。狼の体躯はフランの三倍以上あり、どうやったって振りほどけない。牙がフランドール兎の毛皮にしっかりと食い込んで、暴れたって外れやしない。
フランドール兎は叫び声を上げようとした。
だが、兎に声帯はないのだから、断末魔の声すら上げられなかった。
狼は前足でフランを押さえ込み、首の付け根に噛み付き直した。それによって、フランの抵抗は完全に無力となる。
首の骨を噛み砕かれ、フランドールは息絶えた。
○
「私、死んじゃった」
そう言いながら、吸血鬼フランドール・スカーレットは図書館で放心をしている。
そうして呆然としているフランの目の前には一枚の紙切れ、それにサイコロや筆記用具などが置かれていた。その紙切れは、ごちゃごちゃと文字や数値で占められており、その隅には可愛らしい兎のイラスト――オレンジ色の毛並みをしたネザーランドドワーフが描かれている。
「残念だったわね。最初の割にロールプレイも自然だったし、全体的な判断も悪くない。人参を手に入れて逃げるところまで上手く行っていたのに、そこから先で間違ってしまった」
そんな虚脱しているフランに対し、パチュリー・ノーレッジがさっきまで『兎を演じていた』フランの問題点を説明し始めた。その手元は厚紙でできた衝立によって隠されて、魔法使いの前に何が置かれているのか分からなくなっている。
「森には色々な食べ物がある反面、それを狙う肉食獣も居た。人間は、自分のテリトリーから害獣を追い出せば満足するけど、肉食獣は食料としてのフランを狙っている。それに草木も生い茂っていて、視界も悪い。幾ら兎の感覚器官が極めて鋭敏であるとしても、あんなに大きな音を立てて走り回っていれば、それも全く役に立たない。捕食者に食べられるのは当然の話よ」
「むー」
そうして総括するパチュリーに対して、フランは唸った。
「そう凄い目で睨まれても、それが自然なの。生存競争という奴よ」
「でも、なんで私を襲ったの? 私はただ、人間から逃げてただけなのに酷いよ」
「狼も必死だからね」
「必死?」
「兎は草とか野菜を食べないと飢え死にするけど、その餌はそこらに生えているわ。でも、狼が餌とする小型草食獣は、見つけて、追って、狩らないと手に入らないものなのよ」
「他のを食べるとか、駄目なの?」
「基本的には駄目。肉食獣なんだから」
「……そもそもさ。さっきから言っている、そのニクショクジュウって何?」
「肉を主食とする獣の事よ。他の誰かを襲い、それを食べないと生きていけない生き物」
だから、必死なのだとパチュリーは語った。
食わなければ死ぬ。
飢えて、死ぬ。
だから、襲う。
肉を得る為に、他の動物に襲い掛かるのだ。
生を求め、死を拒絶するからこそ、狼は獲物を狩るのである。
「……狼って、どうしてそんな生き方を選んだの? 頭おかしいの?」
そういう生き物が居ることは、知っていた。
だが、改めて当事者になってみて、理解に苦しむ。
他の命を日常的に奪うなんて、本当に酷い生き物だ。それも、あんなに可愛い兎を食べるなんて、ちょっと許せる事ではない。
だいたい、狼は昔から好きではないのだ。見た目からして、なんか怖いし。あの大きな口も、はみ出た牙も、なんか嫌いだ。
「別に狼も好きで狼をしているわけではないからね。生まれたから、そういう風に生きている。きっと、それだけよ」
「むー」
なんか達観したようなパチュリーの説明に、フランはジト目で唸った。それでは、フランの疑問に答えていない。そういう物だと言われたから、はいそうですかと納得などできるものか。
「じゃあ、狼はそうして生き物を襲うことをどう思っているのさ。それで良いとか思っているわけ?」
なので、半ば言いがかりめいた事をパチュリーに突きつける。
すると、何故か魔法使いは少しだけ優しい笑みを浮かべて、
「それは次のゲームで分かる事になるわ」と、思わせぶりに答えた。
「……次のゲーム? このロールプレイングゲームとかいうのって、まだ続きがあるの? また、兎になれるの?」
「兎にはなれないわ。兎のフランは死んじゃったから、それで終わり。でも、貴方はまた、別のキャラクターを演じる事になるのよ」
「別の、キャラクター」
「そうよ。role-playing gameなんだからね。いつものフランとは異なる役割を演じるのは当たり前なのよ。そういう遊びなんだから」
「遊びかー。でも、遊びって言うには、少し――」
真に迫っていたというか。
変にリアリティがあったというか。
普段、フランがしている人形遊びとか、かくれんぼとか、かごめかごめとか、それに弾幕ごっことも違う、異質な物を感じるのだ。
「つまらなかった?」
「それは……」
「さっき、フランは兎を演じた。それは、とても面白いものだったでしょう?」
「うん、面白かった。最後に死んじゃったけど、途中までは面白かったよ。兎になって、見たこと無い太陽を想像するのも。草原で草を食べるのも。大きな海を思い描くのも。みんな面白かったし、人間に追い回されるのは、怖かった」
「まあ、死ぬのは仕方がないことね。RPGとは役割演技をし、死んだり殺されたりするゲーム――なんて、言葉もあるし」
「なんかサツバツとしているね」
「殺伐だなんて難しい言葉を知っているわね。フランも案外、日本語の語彙が豊富じゃない」
そんな話をしていると、フランドールは咲夜に呼ばれた。食事の時間になったからだ。
そうして、狼の肉食を非難した吸血鬼は、メイド長に連れられて食堂に向かった。
○
「調子はどう?」
紅魔館地下にある大図書館にて、パチュリーがゲームの後片付けをしていると、紅魔館の主が顔を出した。
「……んー、まあ、悪くないと思う。それは良いけど、ダイスが一個足りないから、レミィも一緒に探してくれない?」
だが、魔法使いはそんな親友を一瞥もせず、机の下とか椅子の下を念入りに探し回っていた。
「面倒臭いな。サイコロの一個や二個、私が後で買ってあげるよ」
「駄目。アレはクリティカルが出やすいお気に入りのダイスなんだから、お金で買えない価値があるの」
「なるほど縁起物か。だったら仕方がない、手伝ってあげるわ」
そう文句を言いながらも、レミリアは机の下に潜って探し始めた。それから数分「ないなー」「みつからないわねー」などと声を掛け合いながら、どうにか紫のパールダイスを本棚の後ろで発見する。
それでようやく、ゲームの後片付けは終了した。
使い込まれたルールブックには、そこかしこに補強の後が見える。ダイスを入れた小袋には六面、八面、十面、二十面と様々なダイスが詰め込まれていて、ルールブックの上には、先ほどのゲームのシナリオと、それを隠す為の衝立であるマスタースクリーンが重ねられていた。
「それで、どうだった?」
「何が?」
「だから、さっきのフランとのゲームのことよ。上手く行きそうか、どうなのか」
「始めたばかりだから、なんとも言えないけれど……プレイヤーとしては、ちゃんと兎として演じていたし、状況判断もしっかりしている。ルールもレミィより余程把握しているし、なかなか良いプレイヤーだったわ」
「そう。なら、良いんだけどねぇ」
パチュリーの報告を満足そうに聞きながら、レミリア・スカーレットはルールブックやマスタースクリーン等の上に乗っていた一枚の紙を手に取る。
それは、フランドール・スカーレットが作成したキャラクターシートだった。自分が演じる兎のデータが記されている紙切れだ。先のゲームにおける仮想世界での、フランドールの個性の全てが詰め込まれた一枚の紙。
「なかなか良く出来ているじゃないか」
その紙には、兎としてのフランの名前、それを演じるプレイヤーとしてのフランの名前、兎の年齢、体のサイズ、筋力、知力、敏捷力、生命力、移動力、反射の速さ、意志の強さ、肉体の耐久度、毛皮の厚さ、毛皮の色、穴を掘る速度、広域視界、色素欠乏、鋭敏味覚、物陰の隠れる上手さ、周辺の地形への造詣の深さ、毛皮の色、口元をいつもモゴモゴ動かす癖等のデータと、具体的にどういう外見の兎であるかのイラストが描き込まれている。
「……このデータは全部パチェが用意したのか?」
「大体はね。兎の基礎的な能力値は、テンプレートとして用意されたものを使用しているけど、口元を動かす癖と毛の色はあの子が自分で決めたわ。そして、毛並みと癖を一個決められたご褒美に二つ技能を取らせて上げた。最も、それは何の役にも立たなかったけど、まあ、フレーバーとしての技能なんて、よくある事ね。そして、その可愛いイラストは持参のクレヨンを使って、フランドール・スカーレット画伯が描いたものよ」
そのちゃんと特徴を捉えてある兎の姿を見て、レミリアは怪訝そうな表情をする。
「フランは兎を見たことあったっけ?」
「船をお披露目したパーティーで、兎が大量にやってきた事あったでしょう」
「……いたか?」
「居たわ。かなり沢山。床に毛が残るぐらい。その時にフランは生きた兎を見ていたの。まあ、所詮は妖怪兎だけれどね」
「うん? だけど、確か、その時の兎達は全部ジャパニーズホワイトじゃなかった? この兎はどう見てもネザーランドドワーフだよ」
キャラクターシートの一角にあるポートレイトを描く空間には、一匹のオレンジの兎がクレヨンで描かれているけど、確かにそれは永遠亭の妖怪兎の元型であるジャパニーズホワイトとは全く違う、オレンジ色のネザーランドドワーフだった。
「だったら、ピーターラビットでも読んでいたのかもしれないわね、あの子。もっともピーターラビットを読んでいるなら、あんなに警戒心無く人間の家に潜り込まなかっただろうけど」
「ならば、イラスト程度は見たことがあった程度か」
「そうね。兎が何を食べるのかも、知らなかったぐらいだし」
そんな話をしながら、レミリアは妹の描いた兎のイラストをしげしげと眺め、パチュリーは疲れた顔をしながら、深く椅子に腰掛けた。
そんなお疲れな魔法使いに吸血鬼は要請する。
「とりあえず、このまま、このローリングブレイクゲームとかいうのを続けてみてよ。そうすれば、上手く行くかもしれないしさ」
「ロールプレイングゲームね。より正確を期すならテーブルトークロールプレイングゲーム」
パチュリー・ノーレッジは訂正した。
そのロールプレイングゲームとは、先にパチュリーとフランが遊んでいたゲームであり、和訳をすると役割演技遊戯という、一般的なテーブルゲームとは、少し方向性が異なるゲームである。
その前身は、中世の戦闘を扱ったウォーシュミレーションゲームである『チェインメイル』で、これは駒をユニットではなく、一人のキャラクターとして扱った点で極めて斬新なゲームであった。
このゲームの駒に個性を付与するという概念は非常に面白い物があり、これに1970年代当時、米国で根強い人気を誇っていた指輪物語の世界観を組み合わせた事で、架空のキャラクターを役割演技するという、全く新しいゲームが誕生した。
これがRPGの鼻祖となるDungeons & Dragons(通称D&D)である。プレイヤー同士が勝敗を競う事こそゲームの本質であるはずなのに、役割を演技し、プレイヤー同士が協力して楽しむ事を主眼とした、とても変なゲームはこうして産声を上げたのだ。
「けど、レミィ」
そんなゲームの進行役(通称ゲームマスター、以下GM)をしていた魔法使いが疲れ顔で不安そうに呟く。
「なに?」
「こんなので、フランは本当に理解できるようになると思う?」
「このプランを立案したのはパチェだろう」
「いや、そうだけど、何と言うか不安ではあるのよ」
「駄目という事で?」
「いんや。逆にあの子の感情移入力が高すぎて」
「それは、いい事なんじゃないのか?」
「確かに、今回の目的の為にはいい事だけどね。でも、入り込みすぎるのは少し不安よ。変な形で失敗したら……」
「大丈夫だよ」
少し不安そうなパチュリーに対し、レミリアはあくまで脳天気に言った。
「それに別に、今回のが失敗しても良いのさ。アレが理解してくれればそれに越した事はないけど、駄目だったら別の方法を考えるまでの事だから」
それに対して、仕掛け人であるレミリアは気楽な調子でそう言った。
パチュリーは、重い溜め息を吐く。
それは、あくまで脳天気なレミリアに呆れた事もあっただろう。だが、それだけではなかった。
魔法使いは、とても疲れているのだ。
実際、RPGのGMというのは非常に疲れるものなのである。セッション(RPGにおいて、集まってゲームを行い、終わらせるまでも一ゲームプレイのこと)は短くても二、三時間、長いときには七、八時間もかかる事があり、その間、GMは常にプレイヤーに対応しなければならない。ゲームに登場するプレイヤー以外のキャラクターも、風景描写も、細々としたヒントの挿入、シナリオの軌道修正、無茶なプレイヤーへの対処に、悪質なプレイヤーへの注意など、そうした事すべてをしなければならない。それはパーティーのホストのようなもので、GMというものはとても神経を使うのだ。
だから、パチュリーは疲れている。
フランは聞き分けの良いプレイヤーで、シナリオもソロ用で短かったけれど、それでもGMの消耗度合いは、かなりの物だ。
そして、今後もパチュリーはGMを続ける事になるだろう。
だから、これからの苦労を想像し、魔法使いは溜め息を重ねた。
セッションを重ねれば重ねるほど、シナリオが長くなる予定だ。つまり、苦労も増える。しかも、シナリオは半ばアドリブとなる事が決まっていて、GMの苦労が洒落にならない事になるのは、確定的に明らかなのだ。
「……やっぱりさ。箱庭療法とか別の方法に変えてみない?」
「駄目だな、こっちの方が面白そうだし、きっとフランにあっている」
軌道修正を願う魔法使いの意見を吸血鬼は即効却下する。
そして、慰めるように「まあ、私も今、このゲームのルールを覚えているから、GMが出来るようして、負担軽減をしてあげるから」等と気楽そうに語った。
そんな様子を見て、パチュリーはまた溜め息を吐く。
そうやってレミリアがGMをできるようになっても、パチュリーの負担が減らないからだ。
フランはレミリアに反発している。
姉に対して、コイツ呼ばわりし、事あるごとに反発してみせるという、反抗期真っ只中の五百歳児なのだ。
そして、ロールプレイングゲームはコミニュケーションのゲームである。プレイヤーとGMの会話によってシナリオは進行する。
それなのに、GMとプレイヤーの間で、コミニュケーションの齟齬をきたしては、RPGは成り立たない。
つまり、レミリアがGMをしたとしても、きっとフランはそれを受け入れないだろう。
だから、レミリアがマスタリングできるようになっても、パチュリーの負担は減らないのだ。
パチュリーは、何度目か分からない溜め息を吐いた。結局のところ、レミリアの案で自分が苦労する事は間違いない。
だが、それも仕方ないだろう。
RPGで一番苦労をするのはいつもGM、それは昔からずっと変わらない事だから。
○
紅魔館の食堂は簡素だった。
十人掛け程度のテーブルに、八脚ほどの背もたれが着いた座り心地がよろしい椅子、それに純白のテーブルクロスと、紅魔館の食堂は、悪魔の館に相応しくない何処にでもありそうな食堂だった。
そんな食堂でフランは椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、食事が来るのを待っていた。
「お待たせしました。今日のおやつは葡萄のタルトですよ」
すると、トレイに甘い香りのするタルトを載せて、メイド長の十六夜咲夜が台所から現れた。フランの前に出されたタルトの上には、黒い宝石のようにキラキラ輝く大粒の葡萄が山のように乗っている。とても綺麗で美味しそうだ。
「うわー、今日のは凄いね」
「取れたての葡萄を頂きまして、本日は折角だからとタルトにしました。さっき、一つ抓んでみましたがとても美味しかったですよ」
「む、先に食べるのはずるいよ」
「いえ、それはお毒見ですから。抓み食いではありません」
そうして、益体も無い話をしている間、フランは咲夜にナプキンを付けて貰った。
それでは、実食。
フォークでタルトを口に運ぶと、それは甘く、それでいながら葡萄の酸味も効いていて、フランの頬っぺたは落ちそうになる。
「おいしい!」
「それは何よりです」
そうして、フランは紅茶を啜りながら、葡萄のタルトを食べた。けれど、少しだけ量が多かったので、五分の一程残してしまう。
口の周りがジャムでべとべとになってしまったので、咲夜にナプキンで拭いて貰った。そうして、顔を綺麗にしてもらい、食事は終わる。
少し前までは、地下で一人で食べていたが、最近は咲夜に見守られながら、この食堂で食事を取る事が多くなった。実際、下で一人もそもそ食べるよりも、上で咲夜と話をしながら食べるほうが、楽しいし、ご飯も美味しくなる気もする。
「そういえば咲夜」
「はい、なんでしょうか」
「人参って、どんな味なの?」
食後の紅茶を啜りながら、フランは少し前から気になっていた事を咲夜に尋ねる。先のゲームで、フランは兎の役を演じていたけど。その時に仮想現実の中で食べた人参の事が、妙に頭に引っかかっていたのだ。
パチュリーは、それが兎の主観だと前置きをした上で『とっても甘くて美味しくて、食べていると身体がふわふわうきうきしてしまう』などと、人参の味を描写した。
そういう事を言われたら、人参を食べたいと思うのが人情だろう。
「妹様は、人参に興味がお有りで?」
「うん」
「でしたら、明日は人参を使ったケーキでも作りましょうか?」
「ほんと?」
「こんな事で嘘は吐きませんよ。吐くなら、もっと面白い嘘を吐きます」
などという捻くれた事を朗らかに言いながら、咲夜は明日はキャロットケーキを作ってくれると約束してくれた。
なんとなく、フランは嬉しくなる。
兎だった時に食べた人参が、実際に食べられるという事で、妙に浮き足立った気分になった。
「あ、そうだ」
そこで、フランは手を叩く。
「人参は、ケーキじゃなくて、生のまま食べたい」
「はあ。それはユニークな試みですね。私は、まあ、調理の手間が省けて良いですけど、きっと美味しくありませんよ?」
本当に兎が食べた時のまま、生の人参を食べたいとフランが主張すると、咲夜は不思議そうな顔をした。
けれど、フランはご満悦。
生の人参が食べられると、とても嬉しげに食堂を出たのだった
2 狼
フランドール・スカーレットは狼だった。
その体躯は長くて硬い毛皮に覆われ、少し汚れた鋭い牙が長っ細い口の端からはみ出ている。目は鋭く、鼻は黒く、毛並みは立ち込める煙のような灰色をした大きな狼だ。
その肉体は強靭にしてしなやかにして、頑健。視力も夜行性の生き物らしく暗視能力を備え、かつ動体視力に特に優れ、聴覚も極めて鋭く、嗅覚に至ってはイヌ科だけあって無類であり、風上で暢気に草を食んでいる兎の匂いをしっかりと嗅ぎ当てる程である。
フランドール狼の腹もちょうどいい具合に減っている。自然界に生きる肉食獣としては、運よく風下にいることを利用して、慎重に忍び寄り、お腹一杯になりたい所だ。
だが、フランドール狼は動かなかった。
『どうして、兎を襲わないの?』
天の声こと、GMであるパチュリーが、プレイヤーとしてのフランに尋ねた。すると、フランはどうにも複雑な顔をしながら、答える。
「だってさ。昨日は私、兎だったんだよ」
『でも、今日のフランは狼よ』
「それは、そうだけど……なんか嫌だな」
フランドールは狼だ。
つい先日、兎でプレイをしていた時、最期に襲い掛かってきた狼が、今日のフランドールのキャラクターだ。
だから、フランは狼としての役割を演技しなくてはならない。
肉食動物、つまりは他の生き物を捕食する事で生命活動を維持するという事をしなくてはいけない。それを考慮するならば、風上の兎を襲うのは、至極当然の事だろう。
だが、フランは動かない。
どうにも、その気になる事もできないし、ゲームだからと割り切ることもできない。真剣に、フランは悩んでいた。
生き物を狩って生きる事が、なんとなく嫌なのだ。
「パチェ。どうしても兎を食べなくちゃ駄目なの?」
『今の私はゲームマスター。だからGMと呼ぶように』
「う、うん。分かったよGM」
そうして、GMと呼ばれるとパチュリーは納得をしたのか、次のように説明した。
『別に兎を取ろうが何をしようが構わないのよ。今のフランのプレイヤーとしての目的は、狼を役割演技する事であり、兎を取って食う事ではないわ。一般的な狼は、兎を見かけたら襲うだろうけど、貴方が演じる狼が兎を食べないと決めたなら、それはそれで構わないの』
「でも、それで、いいの?」
『いいのよ』
その言葉で、少しだけフランの肩の荷が下りた。
是が非でも兎を殺さなければならないという事は無いらしい。
そうして、フランドール狼が天の声ことGMにかまけていると、兎もフランに気が付いたのか、慌てて近くの巣穴に逃げ込んだ。
それを見て、フランは先日逃げる時、そうすればよかったのかと得心する。兎は穴が掘れるのだから、そこらに避難経路を掘っておけばよかったのだ。
ともあれ。
『ただ、お腹は少しずつ減っていく。そしてお腹が空き過ぎれば、貴方は餓死をしてしまうのよ。だから、菜食主義の狼をするのは良いけれど、餓死する事を良しとはしないでね』
「わかったよ」
そうして、フランは兎以外の食べ物を探しに森へ入った。森はフランドール兎が死んだトラウマの地であるが、それもで色々な食べ物がある筈だ。その中には、狼が食べられる物もあるかもしれない。
一縷の希望を託して、フランは進む。
森は深く、暗く、湿っていた。
木々には蔦や苔が生え、陰気で嫌な空気が充満している。
『そこは、魔法の森みたいな場所だわ。陰気でじめじめしていて、そこらに茸の生えていそうな、悪い魔物や魔法使いが出てきそうな、そんな森』
GMが分かり易い説明をする。
ふとすると、魔理沙とか人形遣いが出てきたりしそうな森をフランドール狼は足音を殺しつつ、奥に進む。
草は、食べられないだろう。兎の時でも、もそもそしているだけでちっとも美味しくなかった草が、狼の食料になるはずも無い。果物の類ならと思ったが、果物なんて気の効いた物も見つからなかった。
歩いても歩いても、狼の食料になりそうなものはない。
喉が渇いてきた。
水分が、だいぶ減ってしまっている。
水場を探すと、案外それはすぐに見つかる。そこでは、小鳥が水を飲んでいた。
『貴重なタンパク質よ』
「う、うん……」
だが、ピヨピヨと囀る小鳥を襲う事は、フランにはどうしても出来なかった。たまに庭に出て小鳥に餌をやる事があるが、どうにも小鳥は可愛いのだ。
最も姉は――
「糞で館が汚れるから鳥に餌をやらないように。ここを餌場だと勘違いされたら、たまったものじゃないからね。餌をあげたいなら、外に行ってやりなさい」
などと、ロマンの欠片も無いことを言う。
姉のそういうところがフランは嫌いだった。
ロマンチストを気取りながらも、妙なところでリアリストなのだ。
そうして姉に対する思い出し怒りをしながら、フランドール狼は進む。すると、随分と立派な赤いきのこを発見した。傘にイボイボがついていて、随分と毒々しいきのこだ。
「このきのことかって、食べられる?」
霧雨魔理沙というきのこ好きな魔法使いのお陰で、きのこが食べられる物であるという事と、物によっては毒があるという事をフランドールは知っている。
なので、GMに訪ねてみたところ。
『知りたいなら、自然知識の技能で判定をしてね』
「……そんな技能持ってないよ」
実にクールに返された。
狼であるフランが有する技能は、格闘と隠密、それに運動くらいの物だ。そもそも狼は獣の中では知力が高いほうだけど、あくまで動物レベルである。
『だったら、技能なし値で判定を』
「自然知識の技能なし値は、知力マイナス六なんだけど。狼って知力が四しかないよ」
『判定値がマイナス二ね。判定する? 判定すると高確率で致命的な失敗するけど』
「しないよ!」
それぐらい教えてくれてもいいじゃない等とぼやきながら、フランはきのこの周りをうろうろした。
いっそ食べてしまおうか。
だが『灰色の狼、無残にもきのこに当たって死す』なんて、ちょっと恥ずかしいにも程がある。そうして、決断するのはリスクが高いが、諦めるのも惜しい『鶏肋』そのものな状況に陥り、フランはその場でマゴマゴし始めた。
『ただ、狼は鼻がとてもいいからね。刺激臭のする茸とかを見分けることなら、十分に出来るわ』
するとGMから助け舟が入る。
「だったら、鼻で調べるよ!」
フランは喜び勇んできのこを調べた。
すると、赤いきのこは刺激的な風味だった。どうも、食べては危険なきのこだったらしい。少し残念なところである。
だが、これは収穫だ。
兎には耳があったように、狼には鋭い嗅覚があると、フランドールが気付けたからだ。
かくしてフランドール狼はトリュフを探す豚のように、フンフン鼻を鳴らしながら、刺激臭のしない茸を探した。
すると、森の奥にあった倒木にて、刺激臭のしない、茶色い茸の群生地を発見する。
「これなら、きっと食べられるよね?」
『それは、食べてみないと分からないわ。無臭の毒キノコなんて幾らでもあるからね』
GMに脅されながらも、フランドール狼は茸を食べてみた。
食感は少しだけ肉に似ているけど、どうにも味は狼の好みではないらしい。だが、特に腹痛や目眩などは見受けられない。
こうして、フランドール狼は、ようやく安全な食料を手に入れたのだ。
次の日も、同じようにきのこを食べて飢えを凌いだ。
その次の日も、きのこだった。
ここのきのこは量だけはある。だから、体の大きな狼であるフランが食べてもなかなかなくなる事は無い。
だが、きのこだけでは大した栄養にならないのか、フランドール狼の体力は日に日に落ちていった。食べていても、胃袋が満たされていても、どうにも空腹感が拭えない。
『他の食べ物も食べないと、栄養失調で死んじゃうわね』
やはり、狼はきのこでは生きていけない。
もっと栄養価の高い食べ物がないと餓死してしまう。フランドール狼は、きのこの群生地を離れた。
暗い暗い森の中を、食べ物を探して彷徨った。
赤い実をつけた、背の低い植物を見つけた。
腹を空かせたフランドールは、凄い勢いでそれに齧り付く。だが、それの実は少し甘くて美味しかったものの、実はとても小さかった。量も無く、腹の足しにはなったけれど、満足できるものではなかった。
鳥だかリスだかが食い荒らした大きな果物の残骸を見つけた。それでもフランドール狼はそれに齧り付き、綺麗な果実を食べられなかった事に悔し涙を流した。
狼は、飢えていた。
とても、ひもじかった。
フランドール狼は、とてもひもじい思いをしている。
そんな仮想世界の自分を俯瞰して、プレイヤーとしてのフランドールは数年前の事を思い出す。
紅霧異変が終わってから、姉であるレミリア・スカーレットは家を空けがちになった。自分を負かした人間である博麗霊夢に興味を持ったからだ。
それ自体は別にいい。
姉が誰を気に入ったからって、フランドールには関係は無い。
だけれども、咲夜がそれに付いて行き、家を空ける事が多くなったのは困りものだった。フランのご飯は咲夜が担当していたからだ。
作り置きはしてくれたけど、当時の姉の博麗神社への逗留は、やたら長くなる事もあったから、少しずつ食べてもご飯はなくなってしまう。
だから、その頃、フランはよくすきっ腹を抱えて、二人が帰ってくるのを待っていたものだ。見かねたパチュリーがご飯を作ってくれた事もあったが、魔法使いはメシマズだった。賢者の石すら練成する魔法使いも、料理の才能は無かったのだ。
だから、ひもじかった。
そうした悲しい事を思い出して、フランドールは少し泣きたくなってくる。
どうして自分は、あそこで兎を狩っておかなかったのか。
どうして自分は、水場で小鳥を襲わなかったのか。
そんな後悔が湧き上がってきた。
そんなにひもじくて悲しい気持ちのまま、死んでいく事が嫌だった。
そうして、狼がうなだれながら歩いていると――
『何かが走ってくる音がするわ』
GMが宣言した。
フランは慌てて、茂みに隠れる。
人間を初めとする他の凶暴な生き物と遭遇したら、致命的な事だからだ。
今のフランは、ここ数日まともに飯を食べていない為、相当体力が落ちている。人間で言えば、頬がこけ、アバラが浮き出るくらい、フランドール狼は衰弱していた。同じ体躯の肉食獣に遭遇したら呆気なく負けてしまうし、大きな体躯の鹿とか、猪でも当たり負けするに違いない。
それほど、フランドール狼は弱っていたのだ。
そうして茂みに隠れると同時に、森の先から一匹の兎が飛び出してきた。
その兎は、オレンジ色の小さな兎で、何かに追い立てられているように、衰弱した狼の隠れている茂みの横を通り過ぎ――
「それに、襲い掛かる」
フランドール狼は、間髪入れず襲い掛かった。
横合いから上手く齧り付けたが、そこは獲物のお尻だった。兎は肉が厚くて丸っこくて、滑りやすいので、食い込んだ牙が外れないよう、フランドール狼は必死で齧り付く。
この獲物を逃したら、きっと次は来ない。
これを仕留めなくては、自分が死ぬ。
そう、思った。
だが、相手も必死だった。当然だ。ここでフランに食べられれば、当然、それの命はここで終わりだ。だから、小さな体躯に力の全てを振り絞って、逃げ切ろうと激しくもがく。
フランドール狼は、それの息の根を止める為、前足を使ってそいつの体を押さえ込み、尻に刺さった牙を抜いた。
もがく兎の首筋に噛み付き、狼は顎に力を込めた。ごきり、という嫌な音が、骨を通して脳髄に響く。
それで兎は、くたっと力を失った。
死んだのだろうか。
口を離してみてみると、兎は完全に息絶えている。
フランドールは、ふと思い出す。
稀に庭に遊びに来ていて、たまに妖精メイドや門番がミルクを上げていた子猫の事だ。この猫をフランはたいそう可愛がっていた。
銀色の毛並みで、子猫なりに凛々しい顔で尻尾が少し曲がっていて、なかなか個性的な猫だった。最もフランが知っている猫は、橙とかいう名前の化け猫とお燐という名の火車で、人間と大差ない姿をした奴らだが、この尻尾曲がりは触っているとゴロゴロという音を立てて、甘えてくる可愛いやつだった。
だけどある日、それは庭で冷たくなっていた。
子猫は、呆気なく死んでしまった。
その子猫の面倒を良く見てやっていた美鈴は『可哀想ですが、仕方ありません』と言った。そして紅魔館の庭の隅に墓を作った。
その時、姉はフランにこう言った。
『あの子猫はフランも可愛がっていたんでしょ。だったら、美鈴を手伝ってやらないの?』
フランドールは、困惑した。
死という物は知っていた。
けれど、それに直で接するのは初めてだったからだ。
昨日まで動いていた暖かくて柔らかかった猫が、今は冷たくて硬い。それは、空恐ろしい体験だ。フランは何もしていないのに、自分がどうしようもない間違いをしてしまったのではないかと、奇妙な後悔に苛まれてしまった。
そうして困惑しているのに、姉は子猫の墓を掘れと言う。
死と向き合えと言うのだ。
それはとても嫌だった。何とも言えない気持ちの悪さを覚えたものだ。
だが、確かにそれは筋であるような気がして、フランは内心嫌々ながら、美鈴を手伝った。
『ありがとうございます、妹様。これで、この子の魂も安らげるでしょう』
美鈴はそう、フランに礼を言う。
だが、フランはそんな事よりも、死んだ猫の死体が、埋葬をするという事が、死に触れると言う事が、嫌だった。
そして、それを強制した姉を恨んだ。
そんな、死と猫に関する思い出がチラついた。しかも、今ある兎の死は、完全に自分が起こしたことである。
罪悪感が、フランドールの頭をかすかに過ぎる。
だが、そうした無常を吹き飛ばす、極めて根源的欲求がフランドール狼の内から湧き上がって来る。
生存への欲求だ。
この兎は何日振りかも分からない、ゲーム開始してから初めてのまともな食事なのである。兎は対して大きくないけど、肉と内臓をあわせれば、一般的な体躯をした狼が十分に満足できるだけの量はあるだろう。
そうした食を求める生物の本能に突き動かされて、フランドール狼は、勢いに任せて、狼が兎の腹に齧り付こうとした刹那――
ゲームをしていたプレイヤーとしてのフランドールは、ふと神妙な顔をすると両の手を合わせて瞑目し「いただきます」と呟いた。
普段、フランは食事をする時に『いただきます』なんて、言った事も無い。そうした習慣がある事も、ここ数年で初めて知ったくらいだ。
だけど、フランドールは仮想現実の中において、自分が狩り殺した兎を食べるに至り、自然と食物への、命を頂くという事への感謝の言葉を口にする。
フランドールとパチュリーの二人の間で成立している共通幻想によって形作られている仮想現実の中だけど、その命を狩るという事に対して、それを食べるという事に対して、フランは感謝の念を込めて、『いただきます』を言った。
「それじゃ、食べるよ」
かくして、フランドール狼は兎を食べた。
食べられる部分は全部食べた。
残ったのは皮と骨だけで、その骨にしたところで、柔らかい部分を噛み砕いて、中の髄までしっかりと啜った。飢えていた狼はしっかりと兎を食べ尽くす。
そうしてようやく、フランドール狼は元気を取り戻す。キャラクターシートに書かれた満腹度も全開になった。
それが、フランの初めての狩りの顛末だった。
それから、フランドールは吹っ切れたように狩りをしつつ暮らしはじめた、
狼は獲物を見つける能力に優れている上、リアルラックにも恵まれて、フランは上手い具合に獲物を見つける事が出来た。
キジバトのような鳥の類、兎のような小型哺乳類、それに鹿を狩る事だって、成功した。特に鹿は大きくて食べ応えがあり、ゆうに二週間はお腹一杯の日々を過ごした。
そうして、肉を食べるだけでなく、林檎の木を見つけたりもした。野生の林檎は小粒で硬いけれど、それなりに甘味があったので、きのこと違って栄養価もまずまず。非常食として役立った。
そうして、狼のフランはたくましく生きる。
けれど、フランドール狼が居るのは、小さな島だ。どうしても限界はやって来る。
獲物が見つからなくなってきたのだ。
警戒心の薄い奴らは、ぜんぶフランのお腹の中に入ってしまって、他には無闇にすばしっこい雀だの、鼠だのしか見つからない。フランは獲物を狩り尽くしてしまったのだ。
また、ひもじい時間がやって来る。
バッタだとかトカゲだとか、そんなもので飢えをしのぎながら、獲物を探す日々を繰り返す。
そんな飢えた狼は、人間の家に眼を付けた。
兎として生きていた頃、そこで鶏だとかが飼育されている家畜小屋を目撃した。狼である今も、近寄れば鶏の喧しい鳴き声がするのを知っている。
あの柵の中に居る鶏は、きっと丸々太っているだろう。
それを奪えれば、またお腹一杯になる事が出来る。
「人間の家に行ってみる」
フランドール狼は、人間に家へと向かった。
それは、月の明るい夜だった。昼に近付けば、番犬に見つかってらっぱ銃で撃たれるから、それは必然的に夜になった。
家の周りの柵を回ってみると、柵の下に何者かが彫ったトンネルが見える。恐らく、兎が掘った穴だろう。
少し、目眩がした。
今のフランは狼だけれど、この穴を掘った兎も恐らくフランだ。何とも、これはややこしい。
『どうしたの?』
「ううん。なんでもない」
だが、今はそんな哲学に興じている時間は無い。フランは、頭を振って平静さを取り戻し、策を練る。
柵をよじ登る事はできないから、人間の家に入るには、脆くなった部分を壊すぐらいしか、方策はないと思っていた。
だが、この穴は使える。
このままでは小さいので、少し掘って大きくすれば、きっと狼であるフランも中に入れるだろう。そうすれば、家畜小屋を襲い放題。鶏食べ放題だ。きっとお腹一杯になって、幸せな気持ちになれるだろう。
幸いにも土は柔らかく、掘る事に慣れていないフランドール狼でも、穴を大きくする事ができた。この穴を使って、家畜小屋を襲うのだ。
フランドール狼は、土塗れになりながら大きくなったトンネルをくぐって、人間の領域に侵入する。
そして、わき目も振らず家畜小屋に直行した。
兵は神速を尊ぶとの言葉通り、こうした時はスピード勝負、少しでも遅れたら、それで終いだ。外に比べて中の警戒は緩い。家畜小屋も適当な網で覆って、鶏が逃げないようにしている程度の物。だから、フランは牙と爪で網を破って、家畜小屋の中に居る鶏に襲い掛かった。
『クックドゥードゥー!』
だが、そうなれば騒ぎは起こる。
鶏の声に飛び起きたのか、忌々しい番犬がワンワンと吼え始めた。フランは、近場の一羽を口に咥え、逃走の準備をする。
欲を言えば二、三羽と沢山持って逃げたい所だけど、やっぱり銃に撃たれたくない。
そして鶏を口に咥えたまま、穴に潜り込んで――
「ふむー!」
逃げ去る事は出来なかった。
元々、穴の大きさがフラン狼の数多より少し大きいくらいだったので、鶏を咥えた状態だと、どうにもつっかかってしまう。
そうしてまごまごしている間に、尻の方では番犬の鳴き声が大きくなる。これは一度、頭を出して鶏を捨てて逃げるしかない。そう決断を下して、顔を上げた時、らっぱのような銃口が、フランドール狼の眉間に合わされている。
「嘘」
ズドンと派手な音がする。
そして一瞬経ってから、頭がカッと熱くなる。
やられたと、気が付いたときには手遅れだった。
番犬の吼え声で現れた人間は、害獣たる狼の脳天に弾丸の一撃を当てていた。
胴体に当たれば、分厚い毛皮と筋肉で、どうにか生き残る事は出来ただろう。それから回復させるのは絶望的に難しいが、それでも希望は残ったはずだ。
だが、頭は駄目だった。
頭を撃たれた狼は、死ぬ。
フランの体はどさりと倒れた。
番犬が興奮し、けたたましく鳴く。
フランドールは、息絶えた。
○
「随分と頑張ったわね」
ゲームが終わって虚脱状態になっていたフランに、パチュリーが労いの声をかける。だが、そんな魔法使いとは対照的に、フランはあまり元気が無かった。
というか、全く反応が無かった。
まるで白痴にでもなったかのように、フランドールは虚空を見つめて放心している。ショック状態になっていた。
だが、それも無理は無い。
狼の生き方というものは、とても刺激的なものだったのだから。
生きるために奪うという事。
なりふり構わず生きる事。
生に執着するという事。
そうした生への肯定と、それに伴う他者に強制する死。
それは密室で生き続けたフランドールにしてみたら、あまりにもダイナミック過ぎて、壮絶で――
戻ってくるのに時間がかかるのも当然だ。
図書館の革張りの椅子の背もたれに、ぐったりと体重を預けて放心しているフランドールは、しばらく天井を見ていたけれど、やがて「ほぅ」と息を吐いた。
それでようやく、現実に戻って来たのか、疲れ切った顔をしてずるずると机に突っ伏した。
そんなフランの眼前には、狼のキャラクターシートが置いてある。
知力の除けば全体的に高い身体能力に鋭い知覚力。防護点が発生する厚い毛皮に鋭い牙、獲物に対する組み付きボーナスを発生させる爪に暗視能力。それらのキャラクターシートに記載された能力がフランの演じたハイイイロオオカミのすべてである。それはハイイイロオオカミが極めて優秀なハンターである事を証明していた。
ただ、開始前の狼に対する悪印象の所為か、ポートレイトは空欄のままだった。その辺りに、捕食者である狼を演じる事に対するフランドールの苦悩が読み取れる。
「……疲れたー」
そんな狼の一生を終えて、呻くように一言呟く。
先のゲームのプレイ時間は、休憩を殆ど挟まずに六時間。それなりに長いセッションだった。
だが、吸血鬼の無尽蔵の体力からすれば、その程度は疲れたに入らない。だから、これは間違いなく、精神を消耗した事による疲れだろう。
「お疲れ様」
「……うん」
改めてパチュリーは、フランに労いの言葉をかけた。だが、フランはどうにも難しそうな顔をしている。
「どうしたの?」
「いや、うん。なんていうのかな。さっきまで私は狼だったでしょ」
「そうね。最初はどうなるかと思ったけれど、立派に狼を演じていたわ」
「うん……そうなんだよね。最初は、幾らなんでも兎を食べるのは可哀想過ぎるって思ってたのに、ひもじい思いをして、ご飯を探してうろついて、生きていくのに凄い必死になって――次に兎を見つけたときは、無我夢中で襲い掛かっていた」
「偶然だったとはいえ、素晴らしい待ち伏せだったわ」
「でも、ゲームが終わって思うんだよ。あの兎を殺して、食べて――それからは迷いが無くなって、他の生き物を食べる事も、当たり前になっていて……それって、今思うと凄い怖い事だよね」
そう言葉を結び、フランドールは口を閉じた。その顔には普段見られる無根拠なテンションの高さもなく、どんより曇った顔をしている。
「そう考えたから、そんなに元気がなくなったの?」
「……うん」
「成程」
つまるところ、それは生きる上で他の生き物を犠牲にしているという罪悪感。生命というものが抱えている原罪。
それをフランは認識したという事か。
「そういう事を考える事が出来るくらい、貴方が成長したという事なのね」
そう言うとパチュリーは親戚の叔母が姪っ子にいい子いい子するように、落ち込んでいるフランを頭を撫でた。
「茶化さないでよ」
「茶化していないわ。ただ、可愛がりたいと思っただけだから」
「むー」
少しだけフランは膨れ顔をして見せた。
そんなフランが可愛いのかパチュリーは頭をなで続けながら、次のような事を教え諭す。
「ただね。生きるって事は、それだけで誰かから何かを奪い続ける事なのよ。それは狼だけの限らずに、兎も、鳥も、蝶も、花も、みんな何かを奪いながら生きているの。草食動物は植物から奪い、鳥たちは昆虫から奪い、草木だって他の草木との間で、場所や日光、養分の争奪戦を繰り広げている。どんなモノでも必死に生きているのよ」
「……それって、私も?」
「みんなよ」
そのみんなに自分も含まれていると知り、フランは少しだけ衝撃を受けた。
自分の命が他の何かの犠牲の基に存続しているなんて事、今まで考えた事も無かったからだ。
だけど、パチュリーの言っている事は、正しいような気がする。
そうなれば、自分はどうなのだろうか。
昨日食べた葡萄のタルトも、葡萄と人間と――他に色々なモノを使って作られている。そうなれば、アレも葡萄から実を奪ったり、人間のおっぱいを絞ったりして、あのタルトは作られている。
当たり前のように食べている物の、色々なものの犠牲の上で成り立っているのだ。
「生きていくのって、大変な事なんだね」
そんな当たり前のことを、ようやくフランは実感した。
○
それからフランは咲夜に呼ばれ、ご飯を食べに上に行った。
残ったのはパチュリーと、奥で本の虫干しに勤しむ小悪魔の二人だけ。魔法使いが片付けを行う音だけが、静かな図書館に響いている。
フランは、さっさとご飯に呼ばれていった前回とは異なり『片付け、手伝おうか?』と提案して来たが、魔法使いは断った。
チャートやイベント表を見られると、次のシナリオのネタバレになる。だから、フランを食事に行かせた。
そうして、片付けをしながら、使ったチャートのチェックをしていると、
「なかなかいい台詞だったな。とても感動的だった」
紅い悪魔が、実に唐突に現れた。
普通ならばそれに驚くところだが、レミリアが唐突なのはいつもの事。パチュリーは冷静な調子で、先の台詞についてレミリアに聞く。
「……いい台詞って何の事?」
「アレだよ。『生きるって事は、それだけで誰かから何かを奪い続ける事なのよ』とか『兎も、鳥も、蝶も、花も、みんな何かを奪いながら生きているの』の辺り。なかなか真に迫っていて、妙に格好良かったよ」
「えっと、その、そういう風に言われると、妙に恥ずかしいんだけど」
「いや、私は主人公っぽい、普通に格好良い事しか言えないからね。だから、ああいう脇役全開な泥臭い格好良さには、正直憧れる部分もあるわ」
「そういう貶しながら褒めるの、どうかと思う」
「私としては、普通に褒めているつもりなんだけど」
そんな益体も無いやりとりをこなしながら、レミリア・スカーレットはさっきまでフランが座っていた席に着く。
そして話は、先に終了したセッションの話題となった。
「なかなかいい調子のようで、何よりね」
「……そういえばさっきの台詞もそうだけど。レミィ、覗き見してたの?」
「今回から、こっそり見ているよ」
悪びれずにレミリアが言った。
紅魔館当主曰く――
「この館で起きている事の全てを知る義務が私にはある」との事。
そうして覗き見を胸を張って正当化しながら、レミリアは本棚の上の方にある隙間を指差した。どうやら、そんな狭い隙間から、ずっとこちらの様子を窺っていたらしい。
「あんな狭いところに……よく発狂しなかったわね」
「そんなに辛い事も無いけどね。こちらは棺桶に何年でも入りっぱなしが商売だ」
そう言って、レミリアは得意そうにする。
確かに、吸血鬼といえば棺桶に入っている事が多いが、どうやらそれは吸血鬼流のシノギであったらしい。何とも因果な商売である。
「ともあれだ、フランはどうなの? このまま上手く行きそう?」
「そうね……」
レミリアの問いに、パチュリーはセッション中のフランドールを思い出した。
新しい出来事に遭遇する度、考えて、迷い、悩む姿を――
「相変わらず、感情移入力が高すぎるのが不安だけど、割と芯の強いところもあったし、問題ないと思う。たぶん、これなら思ったよりも早く、理解に達する事が出来る」
確信を込めて、そう語る。
するとレミリアは大きく頷き、どこか誇らしげにこう言った。
「まあ、当然だ。アレは私の妹なんだから、優秀なのは当たり前だよ」
自分を持ち上げているのか、フランドールを褒めているのかよく分からない言動に、思わずパチュリーは苦笑いを浮かべる。
「それはそれとして、上手く行きそうであるのなら、このままコレを続けていって」
「ええ、それは勿論よ」
このまま終わらせたとしたら、きっとフランの中で答えのない問いがしこりとして残ってしまうだろう。
それは、失敗に終わるよりも強い悪影響をフランドールに残してしまうだろう。ならば、このまま一気に終わらせた方がフランドールの糧となる。
何よりも、必死で答えを求めようとするフランが、パチュリーにはとても好ましい物に思えた。真理を求める魔法使いとしては、ああして必死に考える幼子というのは何かと可愛いものである。
何だかんだとパチュリーは、割とやる気になっていた。
「で、全てが終わったら、みんなで何か、キャンペーンでもやろう」
そして、隠れてゲームを見ていて、自分もやりたくなったレミリアは、そんな気楽なことを楽しそうに言うのだった。
○
ご飯に呼ばれたフランドールの前に、人参のケーキと生の人参が置かれている。昨日のフランのリクエスト通りだ。
「人参を生でというリクエストでしたが、生では辛いと思うので、人参のケーキも添えさせていただきました」
咲夜はフランに人参のケーキを切り分けてくれた。甘い中に微かな人参の匂いがする。
対する生の人参は、これぞ人参という風に、強烈な人参臭を放っていた。よく、まあ、こんなものを生で食べられたものだと、フランは兎に敬服した。
取り合えず、自分でリクエストをしたのだから、フランは生人参を齧ってみる事にする。
だが、その前に。
「いただきます」
手を合わせてしっかりと、感謝の念を込めていただきますした。そして、人参の命を奪っているのだという認識と共に、それを生で齧る。
「……少し甘いね。あと、なんか、こう、くさい」
どうにもこうにも、人参という奴は匂いがきつかった。
外の世界では、人参も品種改良が進んでいて、人参独特の臭みが少ない、食べ易い人参が主流なっているのだが、ここは幻となったものが流れ着く幻想郷。臭い人参は未だに現役真っ盛り。子どもの嫌いな野菜の頂点を、ピーマンやナスと争っていた頃のニンジンがそのままの姿でここにある。
それを生は、正直辛い。
「辛かったら、ここにぺっしてください」
咲夜が優しく声をかける。
だが、それに甘えてはいけない気がした。
いただきますと命をいただく決意をした以上、これはフランが責任持って食べなくてはいけないのだ。
だから、頑張って飲み下す。
「……人参って喉に絡むんだね」
「でしょうね。これの繊維質すごいですから」
それで限界だった。
後は、ドクターストップとばかりに咲夜が人参を取り上げて、「これはキャロットグラッセにでもして置きます」と、宣言する。
無駄にしないと言うのなら、フランもそれに従わざる得ない。そういう風に決意した心が折られるほど、人参は強烈だったのだ。
「さ、お口直しを」
そして、会心の出来と自画自賛する人参のケーキをフランに勧めた。それは、先に食べた人参が入っているとは思えないほど、甘くてよい香りがする。
「いい、匂いだね」
「はい。ですが、人参はいっぱい使っていますよ」
「それじゃ、こっちをいただきます」
再び、感謝の念を込めていただきますをしてから、フランは人参ケーキを食べた。先の人参が入っているとは思えないほどに、それは美味しい。
「とっても美味しいね」
「それは何よりです」
あれだけ臭いの強かった人参をこんなに美味しくするなんて、咲夜は凄いなぁなどと考えながら、フランは人参のケーキを食べ終えた。
3 人間
約束された時間になってフランが図書館に向かうと、いつものようにパチュリーが、セッションの準備に勤しんでいた。
手元を隠す為のマスタースクリーンを広げては、その裏でシナリオだとかチャートだとかをセッティングし、厳密な位置関係が重要となる戦闘などで使用されるヘクスシートや小さな動物のフィギュア、スタミナやHPの計算を簡単にするカウンター各種、色とりどりの不思議な形をしたサイコロ、それと飲み物に小腹を満たす為の食べ物も、しっかりと用意されている。
「来たよ。今日のゲームではどんなキャラクターをプレイするの?」
そうして準備をしているパチュリーにフランが声をかけてみると、無言で一枚のキャラクターシートを渡された。
それは白紙のシートだった。
「……何も、書いてないんだけど」
「ええ、今日のキャラクターは人間だからね。折角だからフランが自分で人間のキャラクターを作ってみなさい」
その突然の申し出にフランは戸惑った。
どうにかRPGのルールは把握してきたけれど、まだキャラクターを作った事は無かったからだ。今までの、ネザーランドドワーフも、ハイイロオオカミも、用意されたキャラクターシートに少し味付けをしただけに過ぎない。
それなのに、一から自分でキャラを作るなんて――
しかも、それは人間だ。
博麗霊夢や霧雨魔理沙、それに十六夜咲夜みたいな人間を作れと魔法使いは言う。それはどう考えても兎や狼よりも複雑で、初めてのキャラクター作成にしては、難易度が高すぎる事のように思えた。
「出来ないよ。そんな難しい事は」
「そりゃ、難しく考えると出来ないわね。でも、簡単に考えればさして難しい事ではないわ」
パチュリーは、なんだかよく分からない理屈を捏ねた。
それは確かに、難しく考えれば何でも難しいし、簡単だと思い込めばどんな難題も簡単だろうけど、この場合は、明らかに難しいことではないか。
「簡単って……」
「どんなものでもゼロから作る事は難しい。でも、何かを模倣できたなら、割と簡単だったりするものよ。例えば、プレイヤーの性格だとか特技を、キャラクターに移し変えれば……ね? それは演じやすくて作りやすいキャラクターと言えるでしょう?」
「……言うだけなら簡単だけどさ」
「まあ、私がサポートしてあげるから、作って見なさいっての」
そうしてフランは『自分』を作る事になった。
まず、体のサイズは小さめで、その為に必然的に体力は低め。実際、姉のレミリアとは違ってフランは身体能力よりも魔法能力に優れた吸血鬼であるから、人間から吸血鬼へコンバートした場合、筋力やHPに直結する体力低めは相応しい。
敏捷は高め、感覚も高め、生命力はそれなりにと基礎能力は高めに設定される。生来の魔法能力は、魔法の素質という形で継承された。
後は、技能を決めるだけだ。
だが――
「フランは何が出来る?」
「えっと」
少しフランは考えてみた。
自分に何が出来るのか。何のスキルを身につけているか。
だが、四百九十五年もの間、ずっと箱入り娘をしていて殆ど何の経験も積んでこなかった。技能訓練などしてこなかった。
「…………何も無いよ」
寂しそうにフランは語る。
幾ら考えても、フランドールは自分が何かを成せるというものを思いつけなかった。
思ったよりも自分は空っぽで、何も出来ないという事を認識し、フランは少しだけ悲しげにする。
「何も無い、って事は無いわ」
「……そうかな」
パチュリーは慰めるように言うが、フランにはどうにもそうは思えない。
料理だってできないし、片づけも苦手だし、ボタンを縫い付ける事もできないし、洗濯物を取り込む事だってできない。だからと言って姉のように、偉そうにふんぞり返って、他の誰かを働かせる事もできないし、何もできないのに自分を偉いと思えるほど図太くも無い。
できる事どころか、できない事だらけだ。
「まず、フランは弾幕ごっこが得意でしょ」
「うん。まあ、それは得意だけどさ」
「残念ながら、こっちのフランは人間だから、弾幕を撃つ事はできないから、代替技能として銃器を習得しておきましょう。使える銃はらっぱ銃だけど、人間フランドールは射撃の達人という事になるわ」
「射撃のタツジン……」
何ともカッコいい事を言われて、少しだけ沈んでいたフランの気持ちが浮き上がる。タツジンという事は、つまりマイスターという事で、時代によっては弟子から、師匠とか親方などと呼ばれるほどの熟練者という事だ。
「それと、フランは推理小説は好きよね」
「う、うん」
部屋に閉じこもりっきりでは暇だから、フラン本をよく読んだ。閉じこもりのフランにとって、本を読むという事は、外界と接触する唯一の方法だったのだ。
その中でもお気に入りが、百五十年ほど前に誕生した推理小説という物で、その中でもアガサ・クリスティという作家がフランの大のお気に入りだ。スペルカードに彼女の代表作の一つである『そして、誰もいなくなった』を元ネタにするほど、フランは彼女が大好きなのだ。
「時代背景的に、まだ推理小説は誕生していないから、うーん。かといって、推理そのものだと、あまりにも便利すぎるし……ここは推理小説の一要素から切り取って、暗号解読にしておきましょうか」
「それって、黄金虫のキャプテン・キッドの暗号やホームズの踊る人形みたいな暗号を解明する事が出来るって事?」
「そうね。ついでに乱歩の二銭銅貨だって、簡単に解く事ができるでしょう」
そう考えると、なかなかどうして格好いい。
射撃の達人で暗号解読の名手とか、冒険小説の主人公みたいではないか。
「あと、フランは物理が好きよね」
「ブツリって、確か殴る事だよね?」
「いや、そっちの物理属性の事じゃなくて、科学の一分野としての物理学。フィジックスの方。より正確には、その中の光学――オプティクスがお気に入りみたいだけど」
フランのスペルカードには、光の作用を使った物が幾つかある。パチュリーはその事を言っているらしい。
そして、確かにフランはそうしたモノがわりと好きだ。背中の羽は虹色と言う光のスペクトルと同じ色である事から、光に対する興味を抱き、詳しく調べたこともあった。特に面白かったのが、フェルマーの原理という光の屈折に関わる作用で、まるで生き物のように屈折して最短経路を辿ろうとする光の動きを、とても面白く。それの動きは禁弾「カタディオプトリック」に応用している。
「だから、フランは光学を取得している」
「なんかレーザーが撃てそうだね」
「フランなら、練習すれば直ぐに撃てるようになるわよ」
そんな調子で少しずつ、フランドール・スカーレットという人間が練り込まれて行く。それは、フランドールという存在を再認識する為の作業でもあった。
何も無い、引き篭もりの吸血鬼ではなく、推理小説が好きで、光学に詳しく、弾幕ごっこが得意な、呼吸法を習得した魔法能力を有する吸血鬼。
「そういや、フランはいつ波紋なんて習得したの?」
「え? なんか波紋が登場する漫画読んでたら、『コォォォ』ってのをやってみたくて、やったら出来た」
そうして、キャラクターとしてのフランドールは完成した。
体力を除いた身体能力は高め、知力意志力感覚も悪くなく、射撃と暗号解読、それに光学と呼吸法を習得しているという、何処の冒険小説に登場させても恥ずかしくない女の子だ。
「なんか、私ってカッコいいかも……」
無事、キャラクター作成の終わったフランも空欄の埋まったキャラクターシートを眺めて、ご満悦だ。
後は、ゲームをプレイするだけである。
「……で、ここからが正念場なのよね」
そうして、浮かれるフランとは裏腹にパチュリーは少しだけ暗い声で呟いた。
○
フランドール・スカーレットは人間だった。
髪は金色で肌が白くて、蝶よ花よと育てられた箱入り娘だ。だから、光学とか、暗号解読とか、学術的な方向のスキルを取得しているけど、調理や裁縫といった年頃の女子が持っているべきスキルは持ち合わせていなかった。
年頃のオンナノコとしてはどうかと疑問を呈される諸氏も居るかもしれないが、そこはそれ。代わりに銃器の取り回しには詳しいし、呼吸法によって三分くらいは息を止めていられるから、そっちの方面で女子力の方は補って余りあるだろう。
ともあれ、フランドールは小さな島の海岸に降り立っている。
フランドールはその島で、これからたった一人で暮らしていかなくてはならない。家も無く、食べ物も無く、頼りにすることが出来るのは、一丁のらっぱ銃と己の体だけという過酷な環境で生きていかなければならない。
「ちょ、ちょっと待って!」
『なに?』
そこでフランはGMのモノローグに割り込んだ。
オープニングを邪魔されて、少しだけGMは不機嫌そうだが、そんな事には気にせずに、フランは重大な疑問を投げかける。
「えっと、家は?」
『無いわよ』
「無いって……」
『貴方はこの島にたどり着いたばかりだから、家は無いの。あ、ちなみにここは無人島ね』
「えっと、でもさ。兎や狼の時と、同じ場所なんでしょう?」
『あら、気が付いていたの』
パチュリーが感心したように言ってきたが、流石にそれは前回の時点でフランドールも気が付いていた。二回とも同じような場所に人間の家があり、そこで食べ物をゲットしていたからだ。他にも色々な類似点があったから、同じ場所で、別のキャラクターでセッションをしているのだと、フランは気が付いていた。
だから、あの畑とか家畜小屋を持っていた人間のように、人間フランドールは家持ちだと思っていたのだ。
「あの、正方形の家が何で無いの?」
『ゲームスタートの時間が違うのよ』
「違う?」
『兎や狼のスタート時間は、人間がこの島でサバイバルをして、しっかりと土台を築いていたけど、人間のフランがスタートした時間は、それより前。この島に居た人間が島に漂着した日から。つまり、狼や兎よりも前の時間軸からのスタートって事』
「だから、家はまだ無いってこと?」
『そういうことよ。それに最初から家持ちなんて、あまりに難易度が低すぎるでしょう?』
まあ、確かにそうかもしれない。
畑に家畜と揃っていたら、殆ど家の敷地から出なくてもずっと生活が出来るだろう。それは、ちょっとゲームとしてはつまらない。
ならばと探索に出ようとして、ふと気が付く。
そういえば、人間って何を食べるのか。いまいち、フランは理解していなかった。
兎は草を食べると教えてもらった。
狼は肉を食べると、ゲーム内で学習した。
だが、人間は――咲夜や魔理沙や霊夢たちは、何を食べていただろうか。何でも、手当たり次第に食べていた気がする。肉でも、魚でも、野菜でも、どんなものでも人間は食べていた。
「人間って何を食べるの?」
『食べられる物なら、何でも食べるわ。それこそザザムシとか、ホヤとか、カミキリムシとか、そういうゲテモノの類まで』
「そうなんだ」
フランドールは、大いに頷いた。
確かに、フランの知っている人間は、何でも構わずに食べていたからだ。
時には梅干とか、なめことか、フランドールにはとても食べられないようなモノですら、美味しそうに食べてみせる。そんな彼女達であれば、何でも食べるという脅威の雑食性は納得に足るものがあった。
最も悪食という点では、フランの姉も相当なものだ。レミリア・スカーレットは事もあろうか、納豆などという腐った豆を美味そうに食べる。
それどころか。
『フラン。この納豆巻きはとても美味しいわよ』
『い、いらないよ。そんなの』
『いいから食べてみなさいよ。こんなに美味しいものを食べないのはちょっと勿体無いから、ほら、一口で良いから食べてごらん』
『やだよ! やだやだ!』
そんな風に嫌がるフランに納豆を食べさせようとする。本当に姉は悪い奴だ。
ともあれ――
「それじゃ、まずは食べ物を探すよ」
人間としてのフランドールは、生存を開始した。
○
狼の時、お世話になった兎が居る。
その近くに、らっぱ銃を構えて接近してみたが、どうにも人間は狩りに向いた能力を持っていない為、簡単に気付かれて逃げられてしまった。
他にも、山鳩やらヒヨドリやらと狙ってみたが、どうにも成果は芳しくない。人間は兎や狼に比べて感知能力が普通過ぎて、探している間に逃げられてしまうのだ。
これでは、肉を食べる事は絶望的と、食べられる草を探してみる。だが、味覚、嗅覚は平均的で、自然知識も持ち合わせていないフランには、食べられる草の見分けがつく筈も無かった。
だから、安全そうな木の実だけが、フランの生命線となるだろう。狼の時にお世話になった、小ぶりな林檎が妥当なところか。
その林檎を手に入れようと、フランは林檎の実っていそうな森へと向かった。
「……実が、ない」
しかし、林檎の木は見つけても、木には何も実っていなかった。今は、林檎の実が無い時間軸なのだ。
別の方法を探るしかなかった。
こうなれば、食べられるかどうかも分からないまま、草を食べるしか道は無い。
どうにも、今回の生存は兎や狼に比べて難易度が高い。人間の、基礎能力はあまりに低すぎる所為だ。狼の頃が懐かしい。
『そろそろ夜になるわよ』
「……そっか。今までは昼だったんだっけ」
『人間は夜目が利かないから、暗くなったら動けなくなるわ』
「そ、そうなの?」
『木の枝に頭をぶつけたり、根っこに足を引っ掛けたいって言うなら、動いてもいいけど』
「う、動かないよ」
そうして人間フランドールが、じっとしていると、日が沈んだ。
今日はちょうど新月で、空に月が浮かぶ事も無く、瞬く星々を別とすれば、明かりの類はは全く無い。
仕方ないから寝ようとすると、GMから警告を浴びる。
『敷物無しで眠ると、体温を地面に奪われて、次の日の行動に強烈なペナルティがあるわよ』
「なにそれ。前の時はそんなの無かったのに」
『狼は分厚い毛皮があるからね。でも、人間には毛皮はないのよ。だから、人間は寒さには弱い』
「ううー、だったら、そこらの葉っぱを刈り取って、寝床を作る!」
『明かりが無いと視界が利かないわ。全ての行動に、マイナス十のペナルティを受ける』
「だったら、明かりをつける!」
幸いにして、らっぱ銃を使う関係上、火口箱は持っていた。幾ら、完全な闇の中とはいえ、火口箱で火をつけるのは、手馴れていれば難しい事ではない。
ただし、それは真っ当な状態であれば、だ。
『わおーんという、狼の遠吠えが聞こえてくるわ。完全なる闇夜にて狼の遠吠えを聞いたことにより、フランドールは根源的恐怖を呼び起こされた。さあ、恐怖判定をするように』
「なにそれ。そんなの動物の時は無かったよ」
『人間はお上品な脳みそを持ってる高等生物だからね。動物なら、今あることしか心配しないけど、人間には想像力があるから、こういう事も起きるのよ。特に、今は真っ暗闇。そこで狼が近くに居ると分かれば、怖くならないほうがおかしいわ』
そうして恐怖判定をすると、フランはつい失敗してしまう。
「うわーん。狼怖いよー」
『うん。とてもいいロールプレイね。そんないいプレイヤーであるフランには、恐怖判定の結果をプレゼント。十三秒間強烈な吐き気に襲われて、胃袋の中身を吐いてしまう』
「何も食べてないから、吐くものなんて無いね!」
「だったら、胃液でも吐いてなさい」
そんな苦労をして、だいぶ時間をかけながら、ようやくフランは火口箱を使う事に成功する。
火がついた。
真っ暗闇に、オレンジの色の花が咲く。
「……炎って、人間にとってはとても大切なものなんだね」
『そうね。人は火を手に入れて、ただの獣である事を止め、万物の霊長を僭称するようになった。彼らが猿からヒトになったのは、間違いなく火を手に入れたからこそ。だから、プロメテウスは文化英雄として、他の神では変え難い独特な地位を占めているのよ』
「ケツァルコアトルもそうだよね。あれは火だけではなく、様々な文化も与えた文化英雄の雄だ」
フランが更に解説を加えると、GMことパチュリーは、鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をして、フランドールを見た。
そして、思い出す。
この子は神話や伝承の類も結構好きであった事を。
特に北欧神話が大好きで、自分のスペルカードに『レヴァーティン』などと付けるほど、そうしたものが好きなのだ。だから、アステカのケツァルコアトルを知っていても、おかしい事は何もない。
技能欄に、神話知識や伝承知識を追加しておくべきだったかもしれない。
「そういえば、炎って暖かいよね。だったら、これをいっぱい燃やせば、寒くて辛いって事はないんだよね?」
そうして博学な一面を見せる一方で、何ともふわふわした調子で、フランは火を大きくしようとしている。
その姿はとてもアンバランスで、何とも危うい。
『それが、少しでも解消されればいのだけど……』
GMは、どうにか焚き火を大きくしようとしているフランを見ながら、そう呟いた。
その後、二度ほど火が消える事態となったが、人間フランドールは、どうにな朝まで焚き火を維持する事に成功した。
そして、新しい朝が来る。
ようやく、夜が終わったのだ。
オレンジ色の朝日が、人間フランドールにはとても愛おしく見えた。
「朝が来たー!」
歓呼の声を上げて太陽を迎えながら、フランはそれに向かって飛び跳ねた。飯も食べられず、ようやく朝を迎えただけでこのお祭り騒ぎである。
だが、それも仕方がない。
人間の肉体は、とても軟弱で頼りない。兎や狼のような、特定の能力に特化している獣に比べれば、縛りプレイをしているようなものなのだ。それが、どうにか夜を越えた。
ならば、お祭り騒ぎも致し方ない。
『それじゃ、結果的に徹夜になったから、睡眠不足のペナルティね』
「GMの鬼ー!」
仕方ないのだ。
○
そうして前途多難な出発をしたフランドールであるが、好奇心旺盛で物覚えは悪くなく、推理小説で鍛えた論理的思考も相まって、トライ&エラーを繰り返しながら、比較的順調に環境を改善し始める。
火を効率的に運用する為に木の枝を集め、その中から丈夫なものを道具として活用し、そこから道具の作成に着手する。ただの木の棒から、槍を作り、松明を作り、斧を作り、それらによって生活圏を拡大する。
しばらく採集生活を続けていたが、水溜りに落ちていた蝶をヒントにして、獲物を捕まえるのに罠を使うようになる。
ピットトラップ、スネアトラップ、スピアトラップと罠の効率的な掛け方を少しずつ学習し、動物性タンパク質を手に入れるに至った。
「お肉だー」
そして狼の時のように生で肉を食べて、三日ほど腹を下して行動不能に陥る。こうして、人間フランドールは調理を覚えた。肉は焼かなくては危険なのだ。
『むしろ、良く死なずに済んだわね』
「うん。生命力判定に失敗したら即死だった」
『基礎値が高めのお陰ね』
そうして、フランは肉食を始めたが、どうにも肉という奴はすぐに腐って日持ちがしない。だから、そうして、得た貴重なタンパク質を日干しにして、日持ちする干し肉に代えるようになる。
住居も少しずつマシになっていった。
最初は露天で焚き火して、それを寝床としていたが、洞窟を見つけてそこで寝るようになってからは、雨や夜露の心配はなくなった。それから、洞窟を整備して、出入り口に獣避けの柵を張り、内部にも干草などの敷物を敷く。
住居という概念の誕生である。
「結構、いい家」
『ようやくネアンデルタール人に肩を並べるようになったわね』
「そんなに褒められると照れるよ……」
『いや、まあ、褒めてないんだけどね』
その頃には少しだけ食料の余裕も生まれてきた。
人間フランドールは、島の探索をする。
すると、フランは島の北。森を越えた先の方で、奇妙なものを見つけた。
「……あれって、帆船だよね」
本で読んだり、応接間に飾ってある帆船模型を見た事があるので、閉じこもりだったフランも知っている。それは間違いなく帆船だった。しかも、フランの記憶が正しいなら、スマートな船体に三本マストのその船は、キャラベル船であるように思える。
『ご名答。それは間違いなく三角帆を使っているキャラベル・ラティーナで間違いないわ』
ポルトガルの探検家が良く使ったという大航海時代を代表する探検船、それが少し沖で見事で岩に乗り上げていた。
「座礁しているの?」
『そうね。船体に穴が開いているのが確認できる。フランが居る場所からは詳しい状況は確認できないけど、そこまで泳ぎ着けば中を調べる事は出来るわ』
「やだよ。私は泳げないし」
確かに、人間フランドールの技能欄に水泳の二文字は無い。それでは、座礁する帆船に近づくのはやや危険だろう。
そういう訳で、フランは遠目に座礁した帆船を観察したが、どうにも人の気配は無い。どうも、乗組員達は船を捨てて何処かに行ってしまったようだ。
「けど、何処に行ったんだろうね」
『さあね。救命ボートに乗って何処かに行ったか、あるいは他の船と船団を組んでいたので、他の船に移ったのか。そんなところでしょう』
ただ、船の乗組員は消えていたが、残っているものもある。船体に穴が開いたことで付近に散らばった積荷の何割かが、事故の残滓を物語るかのように、フランの居る海岸に打ち上げられていたのだ。
これは、なかなかのボーナスチャンスだ。
「海岸を調べるよ」
流れた積荷を調べると、良い物が二つ手に入った。
一つは人参やジャガイモといった食べ物の種や苗、種芋といった農作物である。これは、上手く育てられれば食糧事情の改善に役立つだろう。
そして、もう一つが――
『わん!』
「うわっ、吃驚した」
船の沈没から生き残った一匹の犬だった。
茶色の毛皮で長い顔をしていてなかなか愛嬌のある犬で、元々、船で飼われていたようで、かなり人懐っこく、犬はフランにじゃれ付いて来た。
「い、犬? 犬が何でこんなところに?」
『さあ、そこまでは分からないけど、探検船の場合、番犬とかに使おうと犬を乗せるのは、よくある事よ』
「な、なるほど、お前は番犬だったんだ」
それはなかなか心強い事である。
フランは犬を飼う事にした。
食い扶持が増えるのは辛いけど、農作物を作るなら番犬が居たほうが捗るし、何より一人でなくなるのは良い事だ。
「じゃ、よろしくね。犬」
『……いや、名前くらいつけてあげなさいよ』
「あ、そっか」
GMに言われてフランは気がつく。確かに、名無しは可哀想だ。
フランは大いに考え込んだ。
誰かに名前を付けるなんて、生まれて初めてのことだからだ。
『いい名前、考え付いた?』
「うーん」
その犬は、面長の愛嬌ある顔をしていてラフ・コリーの系統だと思われる。ただ、どこかで背の高い犬種が混ざっているらしく、そこそこノッポで筋肉質な有様は、とても頼りがいがありそうだ。
「そうだね。この犬は咲夜って名前にする」
なので、フランはこの犬に自分を助けて欲しいという願いを込めて、咲夜と名付けた。
『……ちょっ』
「よろしくね。咲夜」
『いや、待って』
「なに?」
『あのね。犬に咲夜の名前を付けると、咲夜が泣くわよ』
「そうなの?」
『そうよ』
GMに止められて、フランは少し困ってしまった。
ノッポで頼りがいのあるという時点で、フランにはこの犬の名前は咲夜以外にありえないと思ったからだ。
それなのに、そうすると咲夜が泣くとGMは語る。
もしも、それが本当だとすると流石にフランも心苦しい。
「小悪魔もそう思う?」
なので、後ろでずっと司書仕事をしていた小悪魔の意見も聞いてみた。
『えっ、ちょ、ちょっと待ってください。私ですか?』
今までずっと台詞無しで、黙々と仕事をしていた所に話を降られ、小悪魔は吃驚したような顔をしている。
「うん」
『え、えっと、そうですねぇ。た、確かに、自分の名前を犬に付けられるのは辛いんじゃないでしょうか』
「小悪魔だったら、泣いちゃう?」
『私の名前と申しますと……』
「小悪魔の、真の名をわんこに付けたら、泣く?」
『それは、泣くってレベルじゃすまないです』
マジな顔で小悪魔は言う。
悪魔にとって名前とは己の魂と同義である。それが犬に付けられたとあっては、屈辱以外の何者でもない。それこそ、お前を殺して俺も死ぬというレベルである。
「そっか、じゃあ、咲夜の名前はNGだね」
『それがいいわ。少なくとも顔見知りの名前を犬に付けるのは、余り良くない――」
「そういうわけで、コレの名前はレミリアにする」
『ちょっと、待ちなさい』
「私、お姉様が泣くところを見てみたい」
さらりとしたドS発言によって、GMとギャラリーをガン引きさせつつ、犬の名前はレミリアに決まった。
「おいで、レミリア」
『ワ、ワン』
フランが呼ぶと、犬は戸惑いながらも付いてくる。なかなかどうして利口な犬であるらしい。場の空気を読めるというか、逆らったらいけないものが理解できるというか。そもそも、犬を演じているのはGMのパチュリーであり、もう彼女も諦めたというか。
そうしたメタな部分はさて置いて、フランは無人島では得難い、番犬と農作物、更に流れ着いた船の残骸など、様々な物資を手に入れた。
これにより人間フランドールの生活は飛躍する。
流れ着いた船の残骸の内、金属の留め金を加工し、斧の刃や簡便なナイフなどの鉄器も製造された。
鉄器時代の夜明けである。
これによりフランドールは、ヒッタイトに肩を並べる存在となったのだ。
また、流れ着いていた木材は、既に加工済みであり、手直しをすれば建材として利用可能で、柵や柱として活用できた。
更に、手に入れた農作物も植えて育てる事にする。最初こそ、ジャガイモを埋めたけど、何処に埋めたかをすっかり忘れ、貴重な種芋を無駄にしたり、海岸の近くに埋めてしまって、塩によって駄目にしたりと失敗もあったが、経験を重ね、学習する事で小さいながらも立派な畑を作るに至った。
食料問題は、ほぼ解決をした。
ならば、次は家だ。
船の留め金から作った金属の斧。それによって木材調達は容易となり、家を作れるだけの材料が揃い始める。
これで、蛮族染みた洞窟生活に終止符を打つ。
「それじゃ、建築をするよ、レミリア!」
『ワン!』
ご飯代わりの林檎を食べながら、フランはレミリア(犬)に説明をする。
現実的に見た場合、犬に計画を説明する必要性はないのだけれど、GMに行動宣言をする事も兼ねているので、ロールプレイ的にもゲーム的にも、理に叶った行動である。
「まず、ログハウスっぽい素敵なおうちを作ります。丸太の良さを存分に生かしたセンスのいいログハウスを作るの」
実際、切った木を加工するのはかなりの面倒を伴うものだ。だから、フランは床などの加工した木材を使うことが望ましい場所にのみ、船の破材を利用して、他は木こりをして手に入れた原木をそのまま使う手抜き――ではなくて、省エネ工法で家を建てる事にした。
そして、その隣には新たに畑を作り、そこでジャガイモとか人参とか、それにトウモロコシを作るのだ。
コレでもう、暗くてごつごつした洞窟での狩猟採集生活とはさよならだ。これからのフランはとても文明的なお家に住んで、楽しい農業ライフを送るのである。
実際、農業はとてもいい。
狩猟採集はどうしても、運不運に作用され、食べ物が見つからないときは本当に見つからなくて、ひもじい思いをしなくてはいけない。そして、食べ物を見つけても、量が少なかったら悲劇だし、多くても食べきれなくなって腐らせてしまう。
だが、農業は格が違った。
まず、収穫が出来れば確実にご飯が食べられる。豊作不作と波はあるけど、複数の農作物を作っていれば、そうしたリスクも多少は軽減できる。
そして収穫できた根菜系の農作物は、埋めておけばかなりの保存が利くのである。ただ、穴を掘って埋めるだけで、新鮮な野菜がいつでも食べられるようになるのだから、根菜の何と素晴らしい事だろうか。
肉類は保存が利く干し肉にするのに、一度軽く焼いて水分を飛ばしてやってから、網にでも入れてカラス等の雑食の鳥に取られないようにして、ひたすらに天日で干さなくてはならない。
だから美味しいし、便利だけど、生産性は高くない。
だが、根菜類は地面に埋めればそれで保存が完了となるのだ。なんと素晴らしい保存性だろうか。
そんな生活の向上によって余暇は生まれ、その度にフランは様々な環境改善を行っていく。
自分が適応するのではなく、環境の方を自分に適応させるのが、人を万物の霊長に至らしめた特性だ。そうした環境改造能力があるからこそ、東西南北津々浦々、あらゆる場所にて人間が存在できるのである。
そうした観点から見た場合、間違いなくフランは『人間』となっていた。
最も、全てのおいて順調だったわけはない。
最初に、トライ&エラーを繰り返したと記述した以上、人間フランドールは、成功の裏側で沢山の失敗をしていた。
先の干し肉作成においても、フランは『干し肉』という完成形に至るまで、幾度となく失敗を繰り返した。
折角の獲物を腐らせたのが、そもそも保存という概念を考える切っ掛けだった。そこから海水を使った塩漬けへの挑戦と失敗。天日干しの干し肉の考案と、干している最中に狼に奪われるという失敗。そうした失敗を乗り越えた後、ようやくフランドールは、肉を炙って水分と飛ばしてからカラス避けの籠に入れて、狼に取られないように、高い木に吊るして乾燥させるという、干し肉の完成形に至ったのだ。
そのようにして問題を一つ一つクリアしていき、フランは何とか生活基盤を整えていった。そして、自身の生活を全力で守った。
兎が畑を荒らしたので、周りを柵で囲い、その進入を阻んだ。フランの畑はそれほど大きくないから、一度荒らされるとかなりの痛手を被るのだ。
更に、狼が近くに現れることもあった。
近くで干し肉を干していると、その匂いに惹かれたのか、それともフランを食べようなどと思っているのか、狼は幾度と無く家の傍に現れた。体躯の良い灰色狼は、小柄な人間であるフランドールにとって、かなりの脅威だった。
そうして動物が生活を脅かす度に、レミリア(犬)はよく吼えてくれた。兎を追っ払って、狼の接近を教えてくれたのだ。
「いいこいいこ。本物のお姉様よりも、役に立っているね」
『く、くぅーん』
そうして番犬としての役を果たす度、フランはレミリア(犬)を褒めてやるのだが、どうにも茶色の毛並みのわんこは、複雑な顔をする。
より正確には、犬を演じているGMのパチュリーが、どうにも上の方をチラチラ見ながら、バツの悪そうな顔をするのだ。
最も、そんな細かい事をフランドールは気にしない。
ただ、生活環境の改善に日々邁進するだけである。
かくして、人間フランドールは、苦労しながら、試行錯誤ながら、精一杯に生きた。
そして、月日は巡り、季節は移り変わり、歳月は刻まれていく。
今や、人間フランドールは無人島における生態系の頂点に君臨していた。
様々な経験は人間フランドールを鍛え、最初は銃器以外には実用的な物が全くなかった技能欄も、歳月と共に少しずつ埋まり、気が付けば多様な技能が並んでいる。
木工、調理、釣り、動物使役、農園、罠、自然知識、そして生存。
もうフランを脅かすものは、何もない。ただ、自然とあるがままに生きて、老いて、死ぬだけである。
安定したが故に、フランドールは死を意識する。
「……そっか、人間って歳を取ると、死ぬんだっけ」
開始当時は十歳程度だった人間フランドールも、既に二十歳を超えていた。今では、咲夜よりも少しお姉さんになっている。
少し、不思議な感じがした。
このまま、少しずつ老いていくのだろうか。
そして、きっと自分は誰かに殺されるのではなく、時間によって死ぬのだと意識した時、フランはある事を思い出す。
それは咲夜が夏の暑さと過労から、倒れた日の事だった。
その日、咲夜は体調が悪そうだった。
普段は何でもそつなくこなす咲夜が、どうにも小さな失敗を繰り返していた。妙に気が散っていて、様子がおかしかったのだ。
それでも、完璧で瀟洒なメイド長が、体調を崩すなんて誰も考えて居なかったので、紅魔館の誰一人、咲夜が倒れるまで、彼女が体調不良になっている事に気が付かなかった。
咲夜が倒れて、紅魔館は騒然となった。
フランは、十六夜咲夜が倒れた時、地下室に居たけれど、時間になってもご飯が来ないので、上に様子を見に行っていった。すると、ソファに寝かされて、ピクリともしないメイド長の姿を見て――怖くなったのを覚えている。
幸いにも、咲夜は大事に至らなかった。深夜だというのに叩き起こされ、紅魔館に連れてこられた八意永琳女史は、倒れた咲夜を診て、疲れが出ただけで安静にしていれば直ぐ治ると、太鼓判を押してくれた。
そうした結論が出て、安堵して、皆が咲夜の看病だの、代わりに食事を作ったりだのとしてる中、フランは姉に「話がある」と呼び出された。
「随分と心配していたようだったみたいね」
姉はバルコニーに腰掛けて、夜風に当たりながら、そう言った。
それは当然だと、フランは返す。
「咲夜が真っ白な顔をしてて、動かなくて、怖かったよ」
「うん」
レミリア・スカーレットは頷くと、しばし、何かを逡巡した後に、意を決したのか、かなり怖い事を言う。
「でも、そんなに遠くない日に、同じ事は必ず起こる」
「……必ずって、なにそれ」
「アレは人間だからね。いつかは、老いて、必ず死ぬ。私達、吸血鬼は殺されない限り死なないし、殺されても蘇る事もできる。パチュリーは、不老長寿を実現する魔法使いだし、美鈴も妖怪には違いないから、老いとも死とも無縁の存在だ。だが、咲夜は、アレは人間だ。だから、いつか必ず死ぬ」
空恐ろしいことを姉は言う。
「やだよ。やめてよ。そんな怖い事言わないでよ」
「生きている間はずっと一緒だけれど、死んだら離れ離れになってしまう」
「もう止めてよ!」
フランは、金切り声で姉を威嚇した。
どうしてこの姉は、いつも自分が嫌がる事を言うのだろうか。
痛い事、辛い事、怖い事。
そんな嫌な事、知りたくないのに、レミリア・スカーレットという吸血鬼は、そういう事ばかり自分に教えようとする。
今日も、咲夜が倒れて、そのまま居なくなってしまうみたいで、とても怖かったというのに、まだ自分を怖がらせようとする。
「フランドール」
そんなフランにレミリアは、続ける。
「どんなにお前が拒絶しても、咲夜が老いて死ぬ時は必ず来る。だから――」
その後、姉は何と言ったのか。
怖さから、耳を塞いでしまったフランには分からない。
けれど、今のフランは何と無く分かる。
『咲夜との一瞬一瞬を、大切に生きなさい』
多分、姉が言いたかった事はそういう事なのだろう。
吸血鬼には無限に近い時間がある。
でも、人間には――否、人間だけじゃない。全ての生き物は少ない時間で、精一杯生きている。
だから、姉はそれを教えようとしたのだろう。
それを認識したくなくて、耳を塞いでいた。
今なら、少しだけ分かる。
自分は恐怖して、それから眼を背けていたのだ。
あるいは、そうした事も分かるくらいには成長できたという事なのか。こうしたゲームを通してだけど、少しだけ成長できたのだろうか。
咲夜と同じ人間として、ロールプレイングゲームという仮想体験を通じてとはいえ、少しだけ人間というものが、分かったのか。
少しだけ、理解できたのかもしれない。
人間はいつか死ぬ。
だから、一瞬を全力で生きている。
そして、そんな人間と同じ時間を共有するには、同じように生きるべきなのだろう。
兎として生きて、狼として生きて、そして人間として生きてみて、フランドールは、言葉では表現し得ない何かを掴んだ気がした。
『どうしたの? さっきから黙りこくって』
そんなフランドールにGMが声をかけてきた。気が付けば、プレイ中にお地蔵のように黙りこくって、考え事に耽っていた。
「ごめん。それで、なんだっけ?」
『外で番犬をしているレミリアが、鳴き声を盛んに上げて、騒ぎ出しているわ』
「ああ、うん。そっかそっか。また兎でも出たか、狼でも近付いてきたかしたんだろうね。らっぱ銃を持って、警戒しながら外に出るよ」
慌ててフランはプレイに戻る。
どうにも長丁場になっている所為で、少し思考が飛んでいたらしい。慌てて銃を装備して、家の外に出た。
だから、そこで起こっている異変に気が付かなかった。
人間フランドールは外に出る。
その日は、満月が出ていて、夜でもかなり明るかった。
レミリア(犬)はとても騒いでいる。
だが、この年老いた犬の吼えている方向は、畑の方ではない。それは家の上に向かって吼えていた。
「上って――」
フクロウの類でも飛んできたのか。
フランドールは上を見る。
とても綺麗な満月が目に入り、続いて赤い眼をした何かと目が合ってしまった。
「な、なに?」
人間フランドールの家の屋根には、目を爛々と輝かせた一人の人間――否、人間の形をしな何かが上っていたのだ。
それは、呆然としていた人間フランドールに襲い掛かる。
完全に不意を突かれた。
それは突然の出来事に対応しきれないフランに組み付き、押し倒そうとする。だが、フランもサバイバルの達人だ。しかも、武器として、獣避けのらっぱ銃を装填して持っている。
精度が低く、遠いとなかなか当たらないらっぱ銃だが、組み付かれそうなら外れる道理もない。
「頭――いや、眼球に押し当てて、そのまま撃つよ」
人間フランドールは組み付かれながらも、容赦なく引き金を引いた。
甲高いらっぱ銃特有の銃声が、満月の夜に響き渡る。銃弾はソイツの眼球に的中し、眼窩を通り後頭部まで貫通して、脳髄を後方に撒き散らす。
相手が何者であろうとも、確実に対処できたとフランは確信していた。
だが、それは致命傷を負いながらも、全く動きが衰えない。
「な、なにそれ!」
人間フランドールは、押し倒された。
しばし、呆然としていたが、倒されてからようやく我に返って、フランはどうにかそいつを突き放そうとしてみる。だが、ソイツの力は化物染みていて、抵抗することもできなかった。
「なにこれ、こんなのおかしいよ!」
必死で積み上げてきたモノが、崩れてしまう。
一瞬一瞬を大切に生きると決めたのに、終わってしまう。
しかも、こんなわけの分からない化物に――
「そんなの、こんな事って」
腰に差していたナイフを抜き払い、フランはソイツに突き立てる。だが、頭部に銃弾を喰らっても、全く勢いを緩めなかった化物が、その程度でどうにかなる筈も無く。
それは、大きく口を開いた。
そして――
人間フランドールの喉笛に噛み付いた。
それは完全な致命傷、一撃で首の半分が千切れてしまい、フランドールは即死となる。
必死に十年を生きた少女は、断末魔すら上げる事も出来なかった。
フランドールは、息絶えた。
○
フランドールは呆然としていた。
それは当然の事だろう。
たとえそれがゲームの中でも、現実では数時間程度だとしても、苦労をして、試行錯誤して、懸命に生存を勝ち取ってきたのだ。
それが、あんなわけの分からない化物に呆気なく殺されてしまうなんて、到底容認できる事ではない。
「あれって、どういう事なのさ!」
兎として狼に殺された時も、狼として人間に殺された時も、ショックは大きかったけれど、それでも理不尽という風ではなかった。明らかにフラン側にミスがあったからだ。
だけど、今回はフランに落ち度はない。あんな化物が居たなんて、一度も示唆されていなかったし、その強さも理不尽すぎる。明らかにアレは、存在自体がアンフェアだ。
だが、フランが幾ら怒ってもパチュリーは何も言わない。フランの最後を演出してから、マスタースクリーンの裏から顔も出さない。
「……パチェ?」
恐る恐るフランがマスタースクリーンを退けてみると、そこには寝オチした魔法使いの姿があった。
「すかー」
目の下にどす黒い隈を作って、パチュリーは完全に眠っている。プレイヤーが起きているのに、寝てしまっているなんて、なんて失礼なGMだろう。
「ちょっと、パチェ! 起きてよ! なに寝落ちしているの!」
フランはパチュリーを揺り起こそうとしたが、どうにも魔法使いは目覚めない。そうして、フランが魔法使いを揺さぶっていると――
「止めときなさい。幾ら揺さぶっても、パチェは起きないから」
唐突に姉が、上から降ってきた。
「お、お姉様」
「私達のような吸血鬼ではなく、もやしっ子のパチェが二十七時間通してゲームマスターをしていたのよ。だから、今は寝かせてあげなさい」
ふと、フランは時計を見た。
ゲームを開始したのは、夜の六時だった。
だが、時計は夜の九時を指している――アレだけゲームをしていたのに、たったの三時間しか経っていないのか?
違う。
セッションは一日と三時間という超長丁場に及んでいた。
今は翌日の夜の九時で、パチュリー・ノーレッジは、殆ど休憩も挟まずに、二十七時間もゲームマスターをしていたのだ。
その疲労たるや、想像を絶するものがある。
「最もこんなに長丁場になるのは、予想外だったんだろうけど」
完全に熟睡しているパチュリーを担ぎ上げながら、レミリアは語る。
「予想外……?」
「人間は、自由度――行動の余地は多いけれど、基礎能力は割と低い。だから、サバイバルのセオリーを学習し、経験を蓄積するまでは、最初の冬は越せないとパチェは踏んでいた。そうして何回かに分けて人間を演じて貰い、それに対する理解を深める筈だった。だけど、フランが予想以上の頑張りを見せたから、二回か三回に分けるはずだった人間を、たったの一回で終わらせる事になった。それで、予想外の長丁場ってこと」
「え? それって……」
パチュリーを担いで寝室に連れて行こうとするレミリア・スカーレットの言葉に、フランは違和感を覚えた。
その口ぶりでは、まるでレミリアが、このゲームの仕掛け人の様ではないか。
「ちょっと待ってよ。一体何なのか、説明してよ!」
「必要ないわ。もうすぐ終わりを迎える事だから」
「終わるって、何が……」
「最初は兎で狼に殺されたから、狼になった。次は狼で、人間に殺されたから、人間になった。パチェはこのルールを『輪廻』なんて呼んでいたわね。言っておくけど抹香臭い坊主共の転生とは別の物だよ。こっちの転生はケルトの転生がモチーフで、蝶となった万能神ルーグの息子の魂をアルスター王の妹であるディヒティネが飲んで、クー・フリンを処女懐胎したり、魔法使いによって蝶になった女神エーダインが、人間の女に飲まれて、人間の娘に転生したという、食べられたものは、その一族に転生するという、アニミズム的なタイプの『輪廻』なんだそうだ。ならば、次にフランがプレイをするのは――いや、この場合は転生先とでも言ったほうが良いのかな。それは、さっき人間だったフランドールを殺したモノだ。そして、そこに辿り着く事が、今回のゲームの目的である」
「それが、目的って……」
フランは、姉の言っている事が理解できなくなり、混乱した。
この姉は、一体何を企んでいるのか。
そもそも、先のゲームに登場した化物をフランにプレイさせる事が、一連のロールプレイングゲームの目的であるという。つまり、姉は自分に人間を襲う化物を演じさせるために、今回の茶番をパチュリーと共謀し、組んだのだ。
兎として生きる事は、生きる事の儚さを学べた。
狼として生きる事は、生きる事の厳しさを学べた。
そして、人間として生きる事は、人間が生きる事にどれだけ懸命であるのかを学べた。
それらをロールプレイする事は、命や人間というものを理解する上で、とても役に立ったと思う。
けれど――
あの化物に、そんな物があるものか。
暗闇から唐突に現れて、人間フランドールを襲い、殺したあのアンフェアな化物に、そうした学ぶ部分があるのだろうか。
人間のような二本の手を持ちながら、圧倒的な力を持ち、銃弾を受けても平然としているという出鱈目な生命力に溢れている。あまりにアレは、アンフェア過ぎる。
そして、姉は、そんな化物になれなどと言う。
フランドール・スカーレットに化物を役割演技させる事が、この一連のゲームの目的と、レミリア・スカーレットは種明かしをしていた。
「なにそれ。意味が分からないよ。だったら、今までのゲームは何だったの。みんな、その化物をさせるために、その為にやらせていただけなの」
「そうなるかな。ついでに言えば、フランが『化物』をプレイした時、自分が奪うものがどれだけ重いものかを理解させるための準備でもあった」
そこでフランは言葉を失った。
姉の明け透けな告白が、あまりに酷くて、あまりに残酷で、何を言ってやればいいのか分からなくなったからだ。
つまり、この姉は、次のゲームで沢山フランが苦しむように、念入りに準備をしていたと言っている。
そんな嫌がらせをする為に、こんな回りくどい事をしていたのか。
「嫌いだ……」
「うん?」
「やっぱり、私はお前の事が大っ嫌いだ!」
憎しみすら込めて、敬称も忘れ、お前呼ばわりして、フランはレミリアを見た。
今までも、この姉はフランが嫌がる事ばかりしてきたが、今回のコレは余りにも酷い。あまりにも度を越している。
今回のセッションで、フランは少しだけ姉を見直そうか等と思っていた。だが、それは大きな間違いだったと強く確信した。
席を立つ。
すると、フランの勢いに負けて椅子が倒れ、カランという渇いた音が図書館に響いた。
「フラン」
姉がフランに呼びかける。
だが、フランは無視をして、凄まじい勢いでドアを開く。
「この調子では、明日にセッションは出来ないだろう。だから、次のセッションは明後日の夜六時だからね」
フランの怒りなど何処吹く風のレミリアは、いつもの調子で上からの物言いで――
「五月蝿い、馬鹿! 死んじゃえ!」
ありったけの憎悪を言葉に乗せて、フランドールは姉に叩きつけた。
凄まじい勢いで図書館のドアは閉まり、大きな音が静謐な図書館に響き渡った。
○
怒り覚めやらぬフランは、そのまま地下室に直行し、不貞寝をした。
だが、ずっとゲームをしていたし、最後には激しい業怒を解き放ったので、どうにも眼は冴えている。それでも寝てしまおうとずっとベッドで横になっていたが、いつもは起きている時間という事もあって、どうにも眠る事ができない。眠れない。
しかも、ゲームの途中でお菓子が切れていたこともあって、とってもお腹がすいている。
ぐー、ぐー
おかげでお腹の虫は鳴り放題。
これでは五月蝿くて、ひもじくて、寝られやしない。
フランドールは、ベッド脇に置かれた呼び鈴を持ち、咲夜を呼ぼうと思案する。
だが、今は誰にも会いたくない気分だった。
姉とパチュリーが共謀し、フランに嫌がらせをしていたのだ。そこに咲夜も絡んでいないと誰が断言できるだろうか。
二人とも人間ではないけれど、ちょっとした人間不信といった所か。
だから、フランはこっそり地下室を出て、一人台所に向かった。館の中をひょこひょこ歩き回ると、妖精メイドが賑々しく、家事の真似事をしているのが見える。
見つかっても、どうという事もないが、今は誰にも会いたくない気分だ。こっそり、メイドの眼を盗んで、台所に忍び込んだ。
夕食もずっと前に終わり、片付けも済んだ後という事で、厨房は暗かった。
だが、吸血鬼は夜目が利く。かすかな光があればそれだけで、物を見るには支障がない。
「クッキーとか。そういうのでいいんだよね」
何処かに入っていないだろうか。
フランは台所をゴソゴソ探す。
けれど、お菓子の作り置きはなかった。
こうなったら、角砂糖でも頂いて、もう一度寝るのにチャレンジしてみようか。そんな事を考えて、台所でゴソゴソしていると、
「つまみ食いをしているのは誰!」と、唐突に大きな声が台所に響いて、フランは「ひゃあ!」と吃驚する。
まるで泥棒がされるみたいにランプの光を向けられて、開口一番に叱られて、フランは思わず竦んでしまった。大声で怒鳴られるなんて、箱入りで育ってきたフランは、全く体験した事がなかったからだ。
そうしてフランが、固まっていると、
「……あら、妹様ですか? これは失礼しましたわ」
声の主は、少し恥ずかしそうな調子で謝ってくる。
つまみ食いを叱ったのは、咲夜だった。
「申し訳ありません。最近はつまみ食いをする妖精が多くて、つい現行犯を見つけたと意気込んでいました」
「いや、うん。ごめん。私のほうこそ、つまみ食いなんかして」
「いえ、妹様でしたら、全く問題はないのですけど……ただ、お呼びいただければ、何時でもお料理を持っていきましたのに」
咲夜が少しだけ不服そうに言う。
「それは……ちょっとだけお腹がすいているだけだから、咲夜を呼ぶまでもないかなって」
面と向かって、誰も信用したくなくなったなんて、言える訳もない。フランは適当に誤魔化した。
「そうだったんですか」
「そうだったんだよ」
咲夜は素直に信じてくれる。
それが、少しだけフランを後ろ暗い気持ちにさせる。
ふと、先のゲームで少しだけ理解した『人間のこと』を思い出す。
こうして素直にフランを信じてくれる咲夜は、ずっと居てくれる訳ではない。遅くても五十年経てば居なくなるし、不運が重なれば直ぐにでも、死んでしまう事だってある。
フランドールは吸血鬼で、長い寿命と強靭な肉体を持っているけど、人間はどれだけ強くとも、根本的な部分で、存外脆い。
とても、儚い生き物だ。
「でも、私に見つかってしまったのが運のツキですね。それでは、これより小腹の満たせるものを作りますので、妹様は食堂の方で待っていてください」
少し前に、過労で倒れたときのように、簡単に死んでしまう事だって、ありうる。
だから、
「咲夜」
「なんですか?」
「私、手伝っても良い?」
「妹様が、お手伝いですか?」
「うん。こういうのって全然やった事ないけど、咲夜の足を引っ張っちゃうかもだけど、お料理を手伝うの、駄目かな?」
「……いえ、良いですよ。それじゃ、一緒にお料理を致しましょう」
「うん」
一瞬一瞬を大切に生きなさい。
そんな姉の言葉をフランは思い出した。
あの姉は存在自体が腹の立つ、根性のひん曲がった愚姉だけど、その時の言葉だけは、きっと本物だったとフランは思う。
アレも、咲夜が好きである事だけは、本当だと思うから。
他は、最悪な姉だけど、それだけは信じる事だ出来る。
「でも、妹様のエプロンは無いですから、他の妖精メイドのを借りちゃいましょうか。小さくないですか?」
「ううん。ちょうど良いよ」
だから、フランは咲夜と一緒に料理をした。
作る料理は簡単なものが良いだろうという事で、パンケーキ。
ゲームの中では、最終的にかなりの調理スキルを有していたが、現実ではそうはいかず、卵を割るのも一苦労。砂糖を入れるときに多く入れてしまい、味の調整をする為に、結果として小腹を満たす程度どころか、三人前くらいになってしまった。
「咲夜も一緒に食べてくれる?」
すると咲夜は、少し困った顔をする。
「申し訳ありません。これはあくまで妹様やお嬢様の為の食べ物ですから、私はご相伴に預かる事はできません」
そして、とても申し訳なさそうに謝られた。
ふと、思い出す。
霊夢と初めて出会った後で、お菓子や紅茶を勧めたら、アレもフラン達の為に作られた食べ物は食べられないと断られた。
どうして、咲夜や霊夢は自分と同じものを食べないのだろうか。
フランは一生懸命考える。
そして、ようやくその事実に思い至った。
人間のおっぱいという物は、基本的に幼児のための物であるらしい。だから、大きい咲夜や霊夢は、これを食べるのは禁じられているのだ。
だったら、それは仕方がない。
「ならさ、今度は咲夜も私も食べれるの。作ろ」
「そうですね。それは良い考えです」
そうして、今度はクッキーを作る約束をしてから、フランは手作りしたパンケーキを食べた。
残ったのは、姉に持って行くと言う。
それは少し嫌だったが、無駄にするよりは良いという事でフランはそれを容認した。食べ物を粗末にする事は、命を粗末にする事と同義であるのだから、それはやむ得ぬ事である。
○
そして二日後。
フランはセッション当日、開始の時間にわざと五分ほど遅刻をして図書館に現れる。
するとそこには凄い寝癖を無理やり帽子に押しこめたパチュリー・ノーレッジが、ほっとした顔で出迎えてくれた。
「よく来たわね。私が寝オチをした後でレミィが全部話したらしいから、てっきり来ないと思っていたのに」
「うん。私も最初は来ないつもりだったんだけどね。でも、少し考えたんだけどさ。ここで引くのもなんか癪だなって」
「成程。負けず嫌いね」
「うん。そういう事」
実際、それがフランドールの動機の大半であるけれど、来た理由はそれだけではない。
少し考える事があった。
姉は咲夜が好きであり、他にも霊夢とか魔理沙も気に入っている。
そんな人間好きである姉が、あえてフランに人間を襲い、殺す化物をやらせるのには、なにか嫌がらせ以外の狙いがあるのではないか。
少しだけ、そう思った。
だから、来た。
姉の真意を確かめる為に。
真意なんて無いかもだけれど、このままで居るのはとても気持ちが悪いのだ。
「そういえば、アイツは来ているの?」
天井の辺りをフランは見回す。だが、本棚の海の中に姉の姿は見つからない。
「まあ、いつもの所には居ないけど、何処かに隠れている可能性は高そうね」
「そっか」
少しだけ不満げにフランは呟く。
そんなフランに対してパチュリーは同情めいた表情をしながら、宣言した。
「それじゃ、セッションを始めましょうか」
そして、最後のゲームは始まった。
4 吸血鬼
フランドール・スカーレットは吸血鬼である。
だが、フランは吸血鬼というモノが何なのか。どういう類の生き物か、全然理解していなかった。
辛うじて、人間とは違う事は知っていた。
人間と吸血鬼が違う生き物で、吸血鬼に比べて人間の寿命が短かく、せいぜい七十年か八十年も生きればよい方らしい。吸血鬼に比べて、脆くて儚い生き物だ。
魔法使いが吸血鬼とも違う事も知っていた。
ただ、細かい違いは知らなかった。魔法使いは、吸血鬼と同じくらい寿命が長くて、けれど、頑丈さでは吸血鬼に劣り、割と体が弱いことは同居している魔法使いを見て理解した。それと、丸一日起きていると、体力不足から寝落ちしてしまう事も先日知った。
門番は妖怪だとか怪異だとか、そういった類で一緒に括られる事は知ってた。
けど、吸血鬼と門番がどういう分類で一緒なのかも分かっていなかった。同じくらい長く生きて、同じくらいに頑丈だ。けど門番は、大きな分類としての妖怪には入るけど、吸血鬼ではないらしい。
そして、姉はフランと同じ吸血鬼だ。
たった二人の姉妹であり、肉親であり、同じ吸血鬼。自分は自分で見れないから、吸血鬼というモノを認識する為には、姉を見るしかない。
けれど、フランは姉が嫌いだった。
今までも、フランは姉が大っ嫌いで、これからもずっと大っ嫌いだ。
レミリア・スカーレットという存在は、フランに嫌な事ばかりする。
銃に撃たれたら、見たくないと言うフランに撃たれた痕を見せ付ける。
ミルクを飲みに来た猫が死んだら、それを埋めるのを見届けろという。死んだものなど見たくないのに、死を見せ付けようとする。
匂いが耐えられないのに、納豆を食べさせようとする。
そして、咲夜が倒れたときは、咲夜がいつか死んでしまうと、考えるだけで嫌な事を言う。
姉は、とても厭な事ばかり言うのだ。
そして、極めつけとして、フランに人間を襲う怪物をロールプレイしろと嫌がらせのような事を姉は言う。
そんな事はフランはやりたくない。
けれど、姉はそれを強要する。
そういう事が続くから、フランドールは姉が嫌っていた。
そうして姉を嫌うから、フランドール・スカーレットは吸血鬼という物がなんであるのかを知らなかった。知ろうとはしなかった。知りたいとも思わなかった。それを知る事は姉を知ることと同義であり、そんな事は知りたくなかったからだ。
そんな吸血鬼フランドールは、今、化物をしている。
膂力は人間より遥かに優れ、極めて高い反射を有し、生命力に溢れ、再生能力は無尽蔵で、夜目も利き、空も飛べ、魔法の能力すら持ち合わせ、日光に当たれば気化し、流れる水を渡る事が出来ず、やや先端恐怖症の気があり、招かれない家に上がる事は出来ず、姿見に映る事は無く、炒り豆に触れると火傷をするという、どこかで聞いたような能力を持つ、何処に出しても恥ずかしくない化物だ。先のゲームで人間に襲い掛かって、人間を殺した怪物である。
「……あのさ。GM」
『なにかしら』
「こういう生き物って、どこかで見た事があるような気がするんだけど、なんだっけ?」
『生憎と、それは自分で気がついて貰わなければならない部分だから、私からは説明できないわ』
ともあれ、フランドールは、砂浜に一人立っている。
背後には海。
つまり、常に流動する水があって、流れる水に弱いというこの化物の体では、それに足を取られれば、痺れて動けなくなってしまうだろう。
フランは海を畏れるように、一歩退いた。
ここは何処なのか。
それは『前世』の記憶からよく理解している。
今、フランドールが居るのは無人島だ。
否、たった一人の人間が住まう有人島か。
北部から東部にかけては深い森が広がっていて其処には狼を初めとする動物が生態系を構築し、南部は切り立った崖より海が見え、西部はなだらかな丘陵があり、其処には幾つもの兎穴があって、多くの兎が繁殖をしており、更に先には北部の森が西部にまで広がっている。そして中部草原地帯には、一件の掘っ立て小屋があり、そこにはらっぱ銃を持った人間が、犬と一緒に住んでいる筈だった。
三度、フランはここで生きて、死んだ。
四度目となる今回、フランドールは化物としてこの地に降り立った。
人間を襲う、血を啜る化物として立っている。
『東の空が白み始めたわ。そろそろ身を隠す場所を見つけないと、日光をまともに浴びる事になるわよ』
そうパチュリーに促されて、フランドールはふと気がついた。
太陽の光に弱いという一点は、この化物は自分と全く同じではないか。普段は屋敷で引き篭もっていて、太陽などとは無縁の生活をしているが、最近は庭の散歩もするようになったので、そうした事はフランも知っている。
何よりも、最近姉から受けた注意が記憶に新しいからだ。、
『いい、フラン。日光を絶対に浴びてはいけない。浴びると火傷じゃすまないから」
『知ってるよ』
『いいや、分かっていない。だから、実際に吸血鬼が日の光を浴びるとどうなるか、見て貰う』
『ちょ、お姉様! やめようよ!』
『ほら、フラン。吸血鬼が日の光を浴びると、こうなる』
『やめてやめて! 痛い痛い!』
そんな事を言いながら、姉はわざわざ自分の手を窓の外に出して酷い火傷を作り、それをフランに見せ付けたのだ。それがとても痛々しくて、トラウマになって、フランは絶対に昼は外に出ないと決めた。
だから、夜が明ける前に早く、ねぐらを探すべきだろう。フランドールは急いで海岸から移動した。遮蔽が無いこの場所では、どうやったって太陽光を防げない。
行き先は森である。そこには、人間であったときに、しばらく住居に使っていた洞窟があるので、そこで太陽をやり過ごそうと考えた。
あるいは、人間に鉢合わせをするかもしれない。この時間軸がどの時点かは分からないが、場合によっては『人間フランドール』が住んでいるかもしれない。
鉢合わせをしたら、どうしようか。
今のフランは化物であるが、どうやら人語を解するらしい。しかも、使用できる言語は人間であった頃のフランと同じであるから、きっと話は通じるだろう。
だけど、通じていいのだろうか。
今のフランは、人間を襲う化物なのに。
狼で居た時は、兎とコミュニケーションなんて取れないから、問答無用に狩っていた。そうする事でしか生きられないから、そうした。罪悪感はあったけれど、それでも兎を獲物と割り切っていた。
けれど、今のフランは人間と、意思疎通をすることが出来る。
話し合いをする事もできる。
けれど、それでも人間は、今のフランドールにとって最終的に餌なのだ。この化物の体は人間の血を吸わないと死ぬ。
それはフランに架せられた絶対のルールだ。
どうしても人間を襲わなければならなくなった時、どうするのか。どうすればいいのか。
「元の私なら、そんな事も無かったのにね」
ちょっと、おっぱいを絞らせて下さいと言うだけで、状況は解決した。そして、人間と共存だってできただろう。
そんな益体も無い事を考えていると、フランは洞窟に辿りついた。森の奥にある洞窟は、かつて誰かが住んでいた形跡は残っているけれど、誰もない。
フランは弛緩したように息を吐く。
気が付けば、外は少し明るくなっている、日光が届かない場所から、外を見た。水平線が少しだけ白みを帯び始めている。危ない所だった。もう少し遅れていたら、フランは気化していただろう。
「……あのさ、GM」
『なに?』
「太陽を浴びるとヤバイ生き物って、多いの?」
『まあ、こっちの業界じゃ割と多いわね』
「そうだよね。別に珍しくも無いよね」
ふと、芽生えたある種の懸念。
それを打ち払うようにフランドールは、頭を振った。
○
そして、夜を迎えたフランドールは、採集を行う事にした。
『人間を襲いに行かないの?』
「……それは、他のモノで代用できるなら、その方がいいから」
『そう決めたのなら、そうすれば良いわ。普通のゲームとは違って、このゲームに正解はないのだから』
GMにお墨付きを貰い、フランは果物の採取をする。
力は人間の何倍もあり、空も飛べるのだから、採取も捗る。直ぐに両手で持ちきれないほどの、ラズベリーだとか、葡萄だとか、そういった小粒の実を手に入れた。籠代わりにスカートを使って持ち歩いたが、どうにも色素の強い実ばかりだったので、赤いスカートが紫に染まる。
『で、それをどうするの?』
「勿論。食べる」
『だったら、それは少しすっぱかったけど、ちょっとは甘味もあって、とても美味しかった』
「うんうん」
『それだけよ』
だが、今のフランは人間の血によってのみ上を満たせるらしく、全く空腹は解消されてくれない。
「だったら」
『だったら?』
「う、兎を狩るよ」
狼をやっていた時に、兎狩りは少し慣れた。
けれど、狼の身で兎を狩るのと、吸血鬼で兎を狩るのでは勝手が違う。
狼で兎を狩るのには様々な駆け引きがあった。風下に立つ。音を立てぬ。そして運を天に任すなど様々な条件が揃わなければ、狩りは成立しなかった。
だから、フランドール狼は、とても必死に兎を狩ったものだ。
人間であった頃も同様だ。
罠を仕掛けて、待ち。餌だけ取られて溜め息を吐き。そして稀に兎がかかる。
他の生き物を狩るというのはとても大変な事なのだ。
けれど、化物であるフランは絶対的な身体能力を有しているが故に、楽に兎を狩る事ができた。普通に追いかけて、簡単に生け捕りにできるほど。
『腕の中で、兎が逃げようともがいている』
「……うん」
片手間で、兎の命を欲しいままにできる。
『どうするの?』
「こ、殺すよ。そして、捌いて、血抜きをして、その血を……」
啜った。
だが、血液という液体はとても生臭くて、鉄臭くて、飲めたものではない。想像するだけで、フランドールは吐き気に襲われた。仮想現実の化け物は必死にそれを飲み下す。
だが、空腹は解消できなかった。
やはり、人間でなければ駄目なのだ。それを確認しただけだ。そしてフランは、その為だけに兎を殺してしまった。
強い罪悪感をフランは覚える。
完全に兎は無駄死にだ。
所詮、ゲームであるはずなのに。
存在しないものに対して、フランは強い悲しみを覚える。感情移入する力が、強すぎるが故か。だから、対話の中でしか存在しない仮想現実を現実の事の様に受け入れてしまう。
フランドールは、完全に世界に没入していた。
そうしてキャラクターと完全に同調したフランは、飢えに突き動かされたまま、食料を求めて空を飛ぶ。
その行き先は、人間の家だった。
空には月が冴え冴えとした光を放っている。お陰で夜とは思えないほどに辺りは明るく、影がくっきりと見えるほどだ。
そして、獣避けの柵を越えて、とりあえず屋根に取り付いた。そして、煙突辺りから進入しようとして、それができない事に気が付く。
今のフランは招かれないと家に入る事はできないという性質を持つ。不法侵入はできないのだ。
だったら、どうするべきかとフランが屋根の上で悩んでいると、
『わん!』
犬が吼えた。
どうにもまごまごしている間に犬に気が付かれてしまったらしい。そして、その声に釣られて、家の中に居て安全だった人間がらっぱ銃片手に外に出てきた。
人間は家から出て、辺りを見回しているので、屋根の上のフランには気が付かない。ただ、警戒して銃口をそこらに向けている。
好機だった。
それを見た瞬間、フランは覚悟も決めずに飛びかかる。
人間が悲鳴を上げた。
フランは化物の圧倒的膂力を持って組み伏せようとする。だが、人間もさるもので慌てずフランの顔面にらっぱ銃を突きつけてくる。
らっぱ銃特有の甲高い銃声が鳴り響く。
フランは頭部に重大な損傷を受けた。だが、それで怯むほど、今のフランは弱くない。脳漿を辺りにばら撒きながら、フランは動揺する人間を押し倒す。
これで、どうやっても逃げられない。だけど、人間は抵抗を辞めず、諦めず、フランにナイフを突き立てて来る。
だが、そんなものは蚊の刺す程度。
フランは構わず、その首筋に噛み付き、喉笛を噛み切った。血飛沫がフランの顔を汚す。
そこまでやって、ようやく人間は死んだ。
虚ろな目で、それはフランを見返している。なぜ、自分が死んだのかを恨むような目つきで、フランを見る。
落ち着かない。
「……眼を閉じさせる」
そうして、ようやく人心地ついた。
動かない人間、けたたましく吼える犬、そして、家の中から漏れる光。空いた眼窩が妙に寒い。これだけの傷を負ってしまったら、再生に少し時間がかかるだろう。
けど、これからお腹いっぱいになるのだから、傷の治りも早くなるはずだ。
口の中の血を飲んでみる。
鉄の味がして、生臭くて、とても不味い。
ふと、どうにかできないかと、フランは辺りを見回した。すると、家の横に小さな林檎の木が生えている。森の奥に生えていたのを、植林したのだろう。
それを一個もぎ取って、握り潰してジュースにするとそれを血と混ぜて飲んだ。そうすると、血の生臭さが消えて、美味しく、お腹も満たされて、
「ああ、そっか。やっぱり、そういう事だったんだ――」
その瞬間、フランドールは化物が、自分の事であると理解した。
○
姉のレミリア・スカーレットが『誇り高きヴァンパイア』などと言っているのを、フランは物心ついたときから聞いていた。だが、そもそもヴァンパイアという存在が、自分と姉を指すという事以外、フランは理解していなかった。
そもそもヴァンパイアという言葉は、語源すら定かではない曖昧な言葉だ。
スラヴ語族の言葉を元にしているという事以外に確証は無く、リトアニア語の飲むを意味する「wempti」に接続詞「va」をつけたものを起源を求めた説、リトアニア語起源説やセルビア・クロアチア語の飛ぶを意味する「pirati」に北方トルコ語の妖術師を意味する「uber」を組み合わせた説、ポーランド語の翼を備えたを意味する「upierzyc」を語源とする説など、様々な論説が存在する。
そうした事からヴァンパイアという言葉自体には、血を吸う化物である事を説明する言葉ではない。せいぜいその言葉の意味は、翼を持つ化物だとか、飛ぶ妖術師、あるいは啜るモノといった程度だろうか。
だから、フランドールは姉から「我々はヴァンパイアだ」と聞かされてきても、その意味を解していなかった。
それは東の果ての国に至っても、そうした現状に変わりはなかった。
そこでレミリアは東の果ての国の言語に完全に適応し、自らを「誇り高き吸血鬼」等と語るようになった。
その言葉は文字通り『血を啜る鬼』という意味を有している。だが、フランはその言葉を聞いていても、自分が血を吸う化物だと理解できなかった。それは、話し言葉として日本語を理解していても、文字として認識していなかったからだ。
だから自分達がこの国だと「キュウケツキ」とかいう生き物であると認識していたが、そこに込められた意味は読み取れなかった。そういう名前なのだと、素直に受け取っていた。
それでも、自分が食べているものは人間である事は知っていた。自分の食事は『人間』とそれなりに理解をしていた。紅茶やケーキに混ざっているものが、即ちフランドールにとっての人間である。
だが、自分の世話をする十六夜咲夜も人間である。
食べ物としての人間と、従者としての人間。
その二つが同じである事が、どうにも理解できなかった。二つの『人間』がフランドールの中で対立をし、ある種の齟齬をきたしていた。
これを解消する理屈が必要だった。
そんな折にフランドールは『乳』を知る。生き物の胸からは、その幼児を育てる為の液体を噴出し、それはとても栄養価が高いのだという。
それを知ってフランドールは合点する。自分が食べていた人間とは、そういう物だと解釈したのだ。
フランドールにとって、ヴァンパイアとは、吸血鬼とは『人間より乳を貰う生き物』だった。
ずっとずっと、自分が血を吸う化物だとフランドールは知らなかった。
吸血鬼という概念を理解せず、自分は人間から乳を貰っているだけの無害な生き物だと思いこんでいた。
だが、それは大きな間違いだった。
普段、フランドールが食べている『液体としての人間』は、つまるところ人間の血だったのだ。
フランドールは、口を開かない。
ただ、自分が人間の血を啜る化物だったと知り、その罪深さを認識するだけだ。
自分が人間を食う生き物であるという事は、自分は人間をずっと犠牲にして生きていたという事である。
フランはもう五百歳を超した。吸血鬼としてはまだ子どもも良いところだけれど、それでも普通の人間であったら、十は世代を重ねるほど齢を重ねてきた。
そして、それだけの長い時間、人間を知らず知らずの内に食っていた。
一つ前、フランは人間として生きた。
たかがゲームの中であるが、それでも懸命に、必死に生きた。知恵を絞り、工夫を重ね、あらゆる知恵を総動員して、どうにか生存を果たしていた。
そうして、必死に生きる人間達の命を食い潰して、吸血鬼フランドールは生きていたのだ。それも、百や二百では利かない数の人間の命を、知らずに食いつぶしていた。
フランは、自分が知ってる人間達の顔を思い浮かべる。
誰も、フランに対して優しかったり、世話を焼いてくれたり、仲良くなれそうな人たちだ。そうした人間達を殺して、フランドールという吸血鬼は生存している。
しかも、それはゲームなどではなく、現実。
身体が異様に重くなる。
それは、まるで今まで自分の為の死んでいった何百のも人間達が、ようやく自分に気が付いたのかと、圧し掛かってくるようで――
『フラン』
あまりの重圧に意識を失いかけた時、パチュリーから声をかけられて、どうにか意識が繋がる。
「…………なに」
『貴方は人間から血を摂取し、命を繋いでいる。それから、どうするの?』
「……どうするって」
何もしたくない。
気が付かぬうちに背負ってしまった命の重み。それにこのまま押し潰されて、意識を闇に葬り去りたい。
そうすれば、きっと楽になれるだろう。
そうだった。
元々、自分はそうしていたのだ。
暗い地下室に閉じこもって、何も知らずに居られたのに、どうして外に出てきてしまったのだろうか。
また、あそこに篭ればいい。
そうすれば、きっと――
「それは無理だね。お前は知ってしまったんだ。禁断の実を食べて、知恵を得たアダムと一緒で、己が罪深いと知ってしまった。だからもう、あんな狭暗い場所で何も知らない振りをして生きることなんてできはしない」
上から目線の声がした。
アイツは、いつも分かったような口を利いて、フランに嫌な事をする。
だから、フランは『アイツ』が嫌いだ。
そんな奴の声なんか聞きたくないのに、何故かアイツの声がする。
フランが顔を上げると、そこにはレミリア・スカーレットが座っていた。
「なんでここに居るのよ」
「妹が助けを求めているのなら、姉としてそれに答えるのが筋でしょ」
「そんなの、いらない」
もう何もかも、どうでもいい。
だから、放って置いてくれ。
吸血鬼という存在を見切り、自分自身に絶望し、フランドールは力なく姉を一瞥する。
「ずっと、地下室に閉じこもったままなら、そうしていても良かったんだけどね。けれど、お前は外に出た。ならば、無理にでも正しい方に引っ張っていくのは私の務めだよ」
黙れ。
フランは、耳を塞いで叫んだ。
生きるという事は戦いだ。
時には生き延びる為に他の命を犠牲にしなければいけない事もある。
けれど、幾ら理解をした所で、人間の命を奪って、自分が生きていたなんて事実に、フランドールは耐えられなかった。
自分が優しい人間達を犠牲にし続けたなんて、知りたくなかった。
兎を狩るのはいい。
狼を害獣として殺すことも許容する。
他の生き物だって、生きるためなら、幾らだって殺してやる。
けれど、人間だけは嫌だった。
何故なら、フランドール・スカーレットは人間が好きな吸血鬼だからだ。
咲夜や魔理沙、それに他の人間だって、嫌いな人間なんて居ないのに、それしか食べてはいけないという運命が、吸血鬼には架せられている。
なんて、おぞましい――
「けれど、私達は生きている」
そして、その命はとても、罪深く、業が深い。
基督教で語られる所には、人間は原罪という生まれながらの罪を背負って生まれてくると言う。ならば吸血鬼は、どれほどの罪と苦しみを抱いて誕生するのか。生まれてきたことが、間違いだったと思うほど、吸血鬼の生は、耐え難い苦痛に満ちている。
「なら、どうする? 座して死を待ってみるか?」
それも、良いのかも知れない。
死んでしまえば、この呪われた生を絶つこともできるだろう。吸血鬼の生はあまりにも、苦痛と苦悩に満ちている。
こんな命に価値など無い。
「生きるという事の価値を認めるのは、フランドール・スカーレット。お前だよ。お前がお前の価値を認めなければ、それはずっと無価値のままさ」
そんな権利など、自分には――
「あるさ」
あるのか。
「無きゃおかしい話だよ。お前はお前の価値を認める事ができる。これはおけらにだって、ミミズにだって、どんな生き物にも認められた絶対の権利だ。例え、神だろうが魔王だろうが、この権利は絶対に権利を侵害する事はできない」
「そう、なんだ」
「だから、良いんだよフランドール。お前は胸を張って生きれば良い」
それでも、それはとても難しい。好意を抱く人間達を犠牲にしてまで、生きる事を肯定するのは、とても難しい事だ。
「それって、とても辛い事だよ」
「まあ、そうだろ。楽に流れるなら、人間など食料だと、割り切ってしまえば心持ち楽だわ。けど、そうして人間を犠牲にする事に抵抗を感じなくなったら、私達は心無い、本物の化物になってしまう。だから、もがき苦しみながら生き続けるしかない。それが誇り高き吸血鬼というものだ」
何とも難しい事を姉は要求してきた。
いつもこの姉はそうだった。
この国の言葉が難しくて、覚えられないときも。箸の使い方がややこしくて、フォークのように使っていたときも。礼儀作法の基本を叩き込まれている時も『フランだったらできるよ』と、さも当たり前のように要求してくる。
けれど、今回のこれは、箸の使い方だとか、日本語の習得のような努力で何とかなる話ではない。
生き物としての本能の強さの問題だ。誰を犠牲にしようとも絶対に生き延びるという意志の強さの問題である。けれど、それほどの意思の強さをフランは持ち合わせていない。
姉であるレミリア。スカーレットが持つような、絶対的な自己肯定など到底持ち合わせていなかった。
すると、姉がまた口を挟んできた。
「それにだ、フラン」
「うん?」
「私はそうやって生きている」
と、レミリア・スカーレットは絵に描いたようなドヤ顔で述懐する。
その顔を見て、ついフランドールは噴出してしまった。
折角それまで良い事言っていたのに、全く持ってこの姉は、そこまで自分が格好良いとでも思っているのかと、こんな場面だと言うのに笑ってしまうではないか。
「それ、卑怯だよ」
そうやって、ちょっと滑稽な姉の姿を見たら、なんだかそれまで悩んでいた自分が逆に馬鹿馬鹿しいと思ってしまうではないか。
「うん? 別に私は小賢しい説得なんてしていないけど」
そして姉は、分かっていない。
小さななりで無闇に格好付けている姿が、逆に滑稽である事に気が付いておらず、それでいながら、格好悪い姿なりに正面切って吸血鬼の宿命に挑んでいる。
それは、格好悪いけど格好良かった。
「……それでも、いいのかな」
姉のように格好悪く無様でも、それでもいいのかもしれない。
自分を肯定できなくとも、下を向きながらでも、必死に前に進んでいく。そんな生き方も姉を見ていれば許される気がした。
みっともなくても、いい。
生きているという事に答えを出せなくても良い。
そうして、見っとも無く生きていれば何かの回答のようなものがおぼろげながらも出てくるかもしれない。
生きるために生きる事は、きっと許される。
「……そうしてみる」
「そうだな。やってみれば良い」
そして消極的に自分を肯定する旨を告げてみると、姉はしっかりと頷いた。
まるで、自分の説得が功を奏したという顔をして、やはりドヤ顔で頷いて見せるのだ。半ば、反面教師的に、こんな姉でも胸を張って生きているのだからと、フランが決意したことなど知らず、とても誇らしげに頷いている。
『いや、良かったわね。なんとか治まる所に治まって』
そうしてフランが生をどうにか肯定すると、今まで口を閉ざしていたGMことパチュリーが声を上げた。
吸血鬼ではない自分が下手に口を挟むとややこしくなると、ずっと黙っていたらしい。
「そうだな。これでフランも一つ賢くなったわけだ」
随分と上から目線で姉が言う。
だが、そんな姉の言い草をフランドールは笑って受け流した。自分が何者であるかを受け入れた事によって、少しだけ余裕が生まれた所為だろうか。
自己認識をした事による精神の安定。
今まで、情緒不安定だったのは、自己が何者であるかを理解していなかった為。
だから、己が何者であるのかを知り、それを受け入れたフランドールは、姉の偉そうな言動程度では、いちいちイラつかなくなった。
つまるところ、それは成長をしたという事である。
一つ間違えれば、意識の奈落に落ちていた。吸血鬼である自分を受け入れられなくて、全てを否定していただろう。
だが、フランドールはその寸前で、どうにか自己肯定を達成したのだ。
「まあ、私はお姉様の妹だしね」
そんな軽口を叩くと、フランは清々しい笑顔を見せる。
その顔は、とても晴れやかで、影など無く、とても眩しい笑顔だった。
了
「いや、待ってよ」
「え?」
そうして、パチュリー・ノーレッジがセッションを恙無く終わらせようとしていたら、フランドールが物言いをしてきた。
「まだ、セッションの途中じゃない。こういうのは、ちゃんと終わらせないと駄目だよ」
「いや、でも」
そもそも、今回のゲームの目的は『仮想体験によって、フランドールに吸血鬼のあり方を理解させ、成長を促す』というもので、それが見事に達成された以上、これ以上のゲームに意味は無い。
それに連日のセッションでパチュリーは酷く疲れていた。前回など丸一日マスターをするという、どこの泊りがけコンベンションだと言う苦行を行っている。
だから、もう早上がりをしてしまいたいのだ。
「こういうのは、ちゃんと終わらせないと駄目だよ」
だが、フランドールは続行を宣言する。
打ち切り中断なんて許さないとばかりに、パチュリーに続きのGMをするように要請するのだ。
しかも、魔法使いが戸惑っていると、彼女の親友であるレミリアまで『確かにそれは筋が通っている。ちゃんと最後まで面倒を見るのがGMだろう』等と、無責任な事を言う。
「けど、もうあの島には人間が居ないから、ええと私が言うのもあれだけど、吸血鬼が暮らすにしても、先は無いわよ」
「いいんだよ、それはどうにかしてみせるから」
「パチェ。本人がやりたいと言っているんだからやらせてあげればいいじゃない。それに折角フランがやる気を出しているんだ。それに、私達が答えなくてどうするのさ」
主にそれに応えるのは、自分なのだけど。
そんな事をパチュリーは口の中で呟いた。
「それじゃ、よろしくね。GM」
「……今日は、早く終わると思ったのに」
そしてGMであるパチュリーは、深い溜め息とともにゲームを再開するのだ。
RPGでGMが苦労するという事。
それは、RPGではよくある、ごく一般的な悲劇である。
○
かくして、ゲームは再開となる。
そうして再開早々にフランドールが行ったのは、人間の血を保存する事だった。
他に人間がいないとGMが宣言している以上、この島における吸血鬼の食糧問題は深刻だ。それの解決の糸口を見つけるまで、先の襲撃で手に入れた血が、フランドールの命綱となる。
だから、血を駄目にしない為に、瓶を調達し、密閉して保存した。
これで、しばらくは食い繋ぐ事ができる。
そして、次にフランが行ったのは島の周囲の海流の調査だ。船や漂着物が次々と流れ着くこの島の複雑な海流を把握する為、ブイだのウキだのを利用して、外洋へと続く海流を探したのである。
島に活路が無い以上、外に見出すのは自然な事だ。
そのように脱出経路を探りながら、フランは他の準備も平行して進める。
海上にいる限り、吸血鬼は流れる水に弱い特性から、まともな操舵は出来ないだろう。だから、海を越えて無人島から脱出するなら、大きな樽にでも入っていて、海流に身を任せるのが上策となる。
その為の、樽の作成もフランは行う。
荒波に揉まれても壊れない程度に頑丈な大樽で、それに保存食を詰め込んで、船代わりとする。そうして、一ヶ月はドンブラできるだけの準備を整えてた頃には、海流の調査も大詰めを迎える。
外洋に出るための、ちょうど良い海流をフランドールは発見したのだ。
時は来た。
兎から、狼、人間、そして吸血鬼とずっと過ごした島から離れる時が来た。
「それじゃ、出発する」
満月の夜。吸血鬼フランドールは、大樽に乗り込んだ。
それは完全な賭けだった。
確かにそれは、島から離れる海流だけれど、他の大陸とか島とかに繋がっているとは限らない。しかも、漂流している間のフランは『流れる水』の中に居るので、何かアクシデントが起こっても、それに対応する事もできない。
完全に運試しな行動だ。
それは賢明とは言えないかもしれない。
あの島は海流の関係で周囲の漂着物が流れ着く場所だった。だから、他の人間が漂着する可能性も残されていた。新しい人間が来る――食餌がやって来る目はあった。だが、フランは天に運を任せて待つ事よりも、自ずと動いて運試しをする方に賭けた。
そして、運試しは成功する。
吸血鬼フランドールを封入した樽は、エメラルドのような美しい色合いの海岸へ、漂着することができたからだ。
夜を待って外に出ると空には三日月が浮かんでいた。フランドールが周辺を散策すると、遠くには、海に突き出た城塞とそこに点る灯が見える。
街だ。
あるいは、アレが噂に聞こえた城塞都市だろうか。
空を舞い、上空から城下を見るとオレンジ色の屋根が月光の下で照らし出されている。何とも綺麗な町並みだ。
綺麗な海と堅牢な城郭、そしてその中に広がる美しい町並みに思わず見蕩れ――
そこでぐぅと腹が鳴る。
樽に入っているときは昼夜の区別など無くて、流されて何日立っているのかも分からなかったが、用意していた保存食がなくなるくらいに時間が立っていたのは事実なのだ。人間を探すと、ちょうど城塞の上を歩く兵士の姿が散見される。
見回っている彼らは、別の国や海からの襲撃を警戒はしているけれど、上空から吸血鬼に襲われるとは全く思っていない。
「急降下して、そのまま襲う」
フランドールは、再び人間を襲い、十分に腹を満たした。
以来、フランは城塞都市近辺を狩場とし、付近に居を構える。
だが、人間が多い場所というのは、なかなか苦労が付きまとう。特に捕食行動に出た場合、かなり面倒な事になった。フランがご飯を食べるという事は、都市では死人か行方不明者が一人出る事になる。そうなると、当然の如く警戒は厳しくなり、次に食事をするのは辛くなる。おかげで城塞都市にて、空を飛ぶ化物が出るらしいと妖しげな噂が広まって、夜間の警戒も厳しくなってからは、フランも城塞内での捕食を控えるようになっていた。
なので、フランは次第に、都市の住人を襲うのではなく、そこを行き交う旅人を狙うようになった。そいつらならば、例え死んだり行方不明になったとしても、生き残りを残さなければ、騒ぎにならない。
実に山賊、盗賊の発想である。
だが、そうした先人たちがやってきたことだけあって、街道の野伏は有効だった。元々、フランが辿りついた城塞都市は、この付近の交易を要であり、旅人が居なくなるという事も無かった事も幸いした。
そうして吸血鬼は安定した日々を送っていたのだが、ある日、一つの間違いを犯してしまう。襲った商隊に居た小さな子どもを見逃したのだ。
その慈悲は、厄介な来客を招いてしまう。
それは所謂、吸血鬼を狩る専門職。ヴァンパイアハンターの来襲である。
彼らはとても執拗だった。
力の強さとか、直接戦闘能力とか、そういった点は普通の人間と変わりはないのだけど、吸血鬼の生態を知り尽くしていて、その弱点をえげつなく突いて来るのである。
太陽の眩しい昼間を狙って、フランが住居としている洞窟に侵入し、隠れられそうな棺とか、樽とか、箱を見つけたら、中身も確認せず、油をかけて燃やし始める。情け容赦ない無慈悲な焼き討ちだ。
その上、ターゲットが見つからなかったら、黒色火薬を洞窟にしかけて、フランの居住地を爆破した。しかも、破壊した後で念入りに聖水まで撒く始末である。まるでカルタゴを滅ぼしたローマの所業だ。
幸い、フランは隠し部屋の奥に隠れていたので、瓦礫の中から這い出すだけで助かったが、そこで人間の恐ろしさは嫌と言うほど味わった。その容赦の無さと執拗さ、そして根性の悪さは洒落にならない。
かくして、フランは放浪する。
一箇所に留まる危険を知ったからだ。
放浪しながらフランは、色々なモノを知った。
人間には、色々な種類の人間が居るという事。
そうした人間は、互いに殺しあっているという事。
支配される人間と、支配する人間が居て、そのどちらもが結局大差が無いという事。
色々なモノを人間は作るという事。
そして、それらを壊すという事。
良い人間ばかりではなく、悪い、邪悪としか言いようのない人間も居るという事。
そして、ヴァンパイアハンターというモノは、本当に恐ろしいという事も、長い放浪の果てに再認識した。本当に、奴らは洒落にならない。一度目撃されたら、それこそ地の果てまで追いかけてくる。
どうにもフランは、性質の悪い奴らに目をつけられてしまったらしい。
だが、フランに起こったのは悪いことばかりではない。
人外の友人ができた。
それはパチュリー・ノーレッジという七曜を操る魔法使いで、年若く、喘息持ちで身体が弱いが、とても頭が良い人物だ。
そのパチュリーが語るには、フランは館を作るべきであるという。
魔力を有した吸血鬼の居城。これを作らねば、安全な生活空間を手に入れる事はできないと軍師のように魔法使いは語った。
かくしてフランドールは、領地となる館を求めて旅をする。
自分の館を求めて、世界中を旅した。
既に何百年と、フランはしぶとく生きていた。
何度も、死を意識する事もあった。特にヴァンパイアハンター達は情け無用で洒落にならない。けれど、その度に、機転と素早い判断と、ほんの少しの幸運を武器にフランは難局を乗り切って見せた。
そして、フランは紅魔館を見出す。
紅の魔力に包まれた呪われた館を物とした。
更に、それを守る為の門番となる妖怪もリクルートし、フランドールはようやく、吸血鬼としての領地を見出す。
昼は門番である美鈴に見張らせ、夜は紅魔館を拠点に食料調達。だいぶ、文明的な生活ができるようになってきた。
だが、そうして生活が安定する反面、人間達の世界はきな臭さを増していく。機械と論理的思考が世界を侵食し始めて、妖怪とか幻想の入る隙間が失せてきたのだ。
そうして生き難くなった世の中に閉口をしながらも、吸血鬼として活動をしていると、とある妖怪から声がかかった。
それは八雲紫という名前の妖怪で、幻想郷という名前の東の果てにある妖精郷にて、管理人をしているのだという。そして、どうにも最近は幻想郷の妖怪から活力が失われて久しいそうで、カンフル剤となる若い妖怪の誘致を行っているらしい。
そこでフランは、八雲紫の申し出を受けて、幻想郷に乗り込んだ。
そして――
○
「今に至る」
そんなレミリア・スカーレットの言葉によって、フランドールは現実に返った。
ふと気が付くと目の前には、目の下にどす黒い隈を作ったレミリア・スカーレットが、マスタースクリーンの向こうにいて、GMであるはずのパチュリーの姿は無く、その脇では司書をしてい筈の小悪魔が高いびきを立てて爆睡している。
「……あれ、お姉様?」
「途中でパチェが寝落ちしてね。けど、お前は完全に入り込んでいた。だから、小悪魔に手伝ってもらって、途中から私がマスターをしていたんだよ」
「そう、だったんだ」
既に、ゲームの延長を行ってから、二週間が過ぎていた。その間、フランとレミリアは不眠不休で、吸血鬼の人生をずっとロールプレイし続けていた。
だが、それももう限界だと、GMを代わっていたレミリアが切りの良いところで中断したのだ。パチュリーは城塞都市の下りで撃沈している。既にここ数日のGMで疲労が溜まっていたのだから、仕方がない。
その後、衣鉢を継いだレミリアが、残された設定やシナリオ、それに自分の人生経験を切り売りしながら、小悪魔に手伝ってもらいつつ、即興でゲームを継続していたのだ。
だが、どうしても限界となって、先の『今に至る』で強引に締めくくった。流石の吸血鬼も、二週間の不眠不休は限界だった。
「お姉様」
「……なんだ」
「吸血鬼異変は? 幻想郷に入ったら、とりあえず他の妖怪達に所構わず喧嘩を吹っかけたんでしょう。私も喧嘩とかしてみたい」
「いや、もう無理。これ以上は無理。もう眠くて限界だから……」
「そっか、残念だな。これから、もっと面白くなるはずなのに」
そう言いながらも、フランの目の下にも凄い隈ができている。体力的に限界なのは、フランだって違いない。レミリアが二週間もGMをしていたなら、フランだって二週間、一睡もせずにプレイヤーをやっていたのだ。
百歳から五百歳近くまでの四百年分のロールプレイをやってきた。何もなければ省略することもあったし、時には何年か年代ジャンプをする事もあった。それでも、三百五十万四千時間を三百三十六時間に圧縮して過ごしていたそれは、恐ろしく濃密な二週間だった。
だから、フランは姉と同じくくらい疲れている。
けれど、姉より活力に溢れていた。
最初は、このまま終わらせるのは癪であるという、ちょっとした気分の問題で続行したことだ。だが、実際にゲームを進めてみると、苦しいことや辛い事もあったけれど、楽しいことも沢山あって――
「お姉様」
「……なんだ」
「私、生きてて楽しいかも」
「…………ああ、それは、良かっ――」
それが、レミリアの限界だった。
頭を後方に仰け反らせて、えびぞった状態で姉は落ちる。
そうして、えりぞりながら寝息を立てる姉を見て。
「また今度、続きをしようね」
フランも笑顔と共に寝落ちする。
そうして二週間ぶっ通しセッションは中断し、死屍累々を残すのみ。
だが、そこで死んだように寝ている連中は、誰もが何処か満足げだった。
○
真っ白のクリームでデコレーションされた上に真っ赤な苺が乗っかって、ふんわりとしたスポンジケーキの間には、スライスされた苺とクリームが挟まっている。見ただけで口の中が甘くなってしまいそうなそれは、とても美味しそうな苺のショートケーキ。
紅魔館が誇る料理上手、十六夜咲夜の作る苺ショートだ。
それは舌の肥えた吸血鬼であるレミリア・スカーレットも満足する一品であり、フランも好物としているモノである。
それがフランドール・スカーレットの前に置かれていた。
「さあ、お腹も空いているでしょう。お代わりもありますから、沢山食べて下さいね」
咲夜はそう言って、給仕をする。
真っ赤な紅茶を注いでくれる。
真っ赤な苺のショートケーキと、真っ赤な紅茶。
それを前にしてフランは、両手を合わせた。
「いただきます」
そして、フォークを使って丁寧にショートケーキを切り取って、クリームの欠片も残さずに口の中に運ぶ。
ケーキはとても甘くて、美味しくて、そして、ほんの微かに鉄の味がした。
フランは、それを少しずつよく噛んで丁寧に食べる。そして、スポンジの欠片一つ残さず完食し、再び両手を合わせて瞑目した。
「ご馳走様でした」
フランの名言、人間って飲み物でしか見たことないのを、アイディアで掘り下げた感じでしょうか。お見事です。東方+RPGの新しい形を見せて頂きました。
というかこのRPG実際に小学校でやっていいと思う。いや実際にあるのかな?……GM出来る先生が居ないか。
面白かったです。
ウサミミフランちゃんを想像してました。
ゲーム内フランと現実フランのリンクが自然で、とても説得力があったと思います。
しっかりとオチもついて面白かったです。
ある程度下地がないと言われてもわかりませんよね。私もまだまだそうですが。
よかったです。
短くもないのに一気に読み進めてしまいました
吸血鬼の生に幸あれ
最近は某アニメの中でTRPGやっていたりもしましたが、それで一本書き上げてしまうのはすごいと思います。
自分がTRPGで遊ぶという点もあり、より楽しむことができました。堪能いたしました。
あなたの描く紅魔館は人間臭くて好きです
このフランちゃんは生きてるんだなぁ、って実感が、なまなましくありました。
発想、はあるだろうけれど、形作る構成力が半端ない。
とても丁寧に書かれているという印象で、100kb越えの長さもまるで気になりませんでした
了の部分で終わらせずここに至るまでのロールプレイで締めるのも
TRPGを上手く使ってて良かったと思う
狩られる側から狩る側に移り変わっていく仕組みに気づいたときは、これすごいなと思ったけど、無為に消えた四百年をまさかこんな形でやり直すとは・・・
吸血鬼も血は不味いと感じているところが意外でしたね。素晴らしかった。
>>今や、人間フランドールは無人島における生態系と頂点に君臨していた。
生態系の?
>>アニズム的な
アニミズム?
いいもの読ませてくれてありがとう。
劇中のフランちゃん並にのめりこんでしまった・・・。
濃い時間をありがとおおお
ところどころ誤字や不自然な点は見受けられるけど、間違いなく名作。
TRPGを通じて、成長していくフランちゃんがよかった。
TRPGは詳しくないのですが、パチュリーの魔法で役になりきれるゲームは本当に面白そうでした
とても丁寧に構成されたフランちゃん成長記、素晴らしかったです
生きるという事を、殺すという事を知ったフランが成長して言うのがすがすがしいです。
marutaさんの深い作風にも通じる事になりますね。
こういうのに直面するのを慣れていない人がいるので、思いのほか評価は伸びないのはそこかなあ。
僕はこのくらいのテイストが大好きなので、こういう作品のも必要とする人は間違いなくいますけど、難しいですね。
・・・フランのウサギが狼の首を刎ねる展開を幻視しました。
マンチキンでなくて良かった。
>「海岸の調べるよ」流れた積荷を調べると、良い物が二つ手に入った。
→海岸を?
>それは、呆然としていた人間フランドールに襲い掛かる。完全に不意を疲れた。
→不意を突かれた
つまり吸血鬼は人間が見つけた難破船に乗っていたと。
伏線のはりかたが凄い。どんなに簡単な伏線(トリック)であっても、後から気がつく伏線というものは素晴らしい。これが構成力かと脱帽です。
ただ本由来の知識を豊富に持っていそうなフランがキュウケツキに全く知識がないのは不自然かなあと。でもそういった部分が『すこし気が触れている』『妖怪』と解釈できるのかとも妄想が膨らむ。
いやはや始まりから終いまで感服いたしました。スカーレット姉妹に幸あれ!
色んなキャラを演じるフランが可愛いいし、フランが成長するお話としてとても楽しめました。
特に事件も起こっていないのに、ただ生きるということだけでこの濃密さ。
長さも気にならず読み耽ってしまいました。
素晴らしい
読んだ
読まされてしまった
題材も構成も素晴らしいです。
ありがとうございました。