『みすちーの足は、お出しするまでに時間がかかります』
小さな板きれにそれだけ書くと、ミスティア・ローレライは満足げに筆を置く。墨で軽快に書かれた内容は一見不可解なものだが、彼女は何のためらいもなくカウンターの隅に目立つよう立てかけた。
日も暮れた幻想郷に、ぽつりと佇む古びた屋台で、それが新しいお品書き、と霧雨魔理沙はすぐに理解できない。
『みすちー』とは恐らくミスティアのことを指すのだろうし、『みすちーの足』となればミスティアの足と考えるのが自然だ。
それがお品書きに並んでいる。
店主は夜雀の妖怪だが、所詮は人間の形をした弱小妖怪である。血液があれば幾らでも再生できる吸血鬼やその他の大妖怪なんぞは別として、彼女は何度も簡単に量産できる足を持っているわけではない。
魔理沙は身を乗り出してカウンター越しにミスティアの足を覗き見た。褐色のスカートとストッキングで隠された細くしなやかな脚は、しっかりと身体の一部として定着している。
時間がかかるとはどういうことなのか、出てくるものは本当に店主の足なのか、もしかしたら彼女の足は二本ではなく大量の業務用ストックが隠されているのか、妖怪と言ってもほぼ人間の形をしたものを客は食べるのか。謎は謎を呼び、不気味な動揺アレンジを歌い続ける店主はヤツメウナギをひっくり返すばかりで何も言わない。考えたくはないが――店主は客の前で足を引き千切るのか。
空のお猪口をすすり続けることに限界を感じてきたのか、魔理沙は呻くように、
「なあ、この看板ってさ」
とそれだけ絞り出した。
「新メニュー、かしら」
少し照れた様子で返されると、魔理沙の頭は更に混乱する。
「うまいのか?」
「さあ?」
「食えるのか?」
「多分」
「材料はどこに?」
「――とりあえず、右足からね」
ミスティアは小さく微笑むと、しっかりと身体に定着している右足をさする。魔理沙は更に夜雀がわからなくなる。
魔理沙は体中の熱が奪い取られていくような気がした。
顔色一つ変えずに右足を千切り、中身をぽたぽたと垂らし朗らかな笑顔で差し出してくる店主。私が新しいメニューを快く試食してくれるだろうと信じて疑わず差し出す様子に、私は嫌だということはできないだろう。
そうなったら私は彼女を食べることが出来るのだろうか。
空想の中で魔理沙は、胃液がこみ上げてくるのを感じた。
「な、なあ。それを注文したらさ、お前の足はどうなるんだ?」
もう一度空のお猪口をすする。中身がないことを頭で理解していても、何かをしていなければこの空気に押しつぶされてしまいそうだ。
魔理沙は妖怪から視線が外せない。
妖怪は魔理沙を見てなどいない。
ただ、恍惚とした表情で、理解できないことを呟く。
「きっと、すっごくおいしいんだろうねえ」
□□
「あはっ」
魔理沙がふらふらと箒に跨り帰るとすぐに、ミスティアは腹を抱えて笑い転げそうになった。
愉快だ、どうしようもなく愉快。魔理沙の私を見る目が、口元が、手の震えが、全身で表わされる得体のしれないモノへの恐れが、私を腹の底から愉快にさせる。
視界を奪う程度では満たせない快感が、癖になりそうなほど体中を駆け巡って止まらない。
「ね、うまく行ったでしょ?」
客席から声をかけられても、ミスティアは笑うことをやめない。意識出来なかっただけで確実に居たことはわかっていたのだから驚きは少なく、かろうじて「古明地さん」とだけ呟くのが精いっぱいだった。
それほどまでに、形はどうあれ魔理沙を負かすことが出来たのが、この夜雀にはたまらなく嬉しいのだ。
「こいしでいいよー。面倒だし」
その心境を知ってか知らずか、こいしは彼女を止めることはしない。ミスティアの無意識を操り、気づかれないよう焼きあがったヤツメウナギを頂戴し続けている。
「ミスティア、それ早く片づけないと。他のお客が来たときに勘違いしちゃうよ」
「けほっ。あ、うん」
「今回のやり方は、魔理沙だからうまくいったんだからね。魔理沙は変なところで人間の常識に囚われているから怖がりやすいんであって、もし霊夢なら何の躊躇もなく足を切断にかかるかもしれないから」
「わかってる。これはもうやらないわ」
偽物のお品書きを屋台裏へとしまう。網の上で焼かれている商品が減っていたが、ミスティアは新しく数尾を網に加えた。
「でも古明地さんは凄いのね。私にはあんな方法思いつかない」
「だからこいしでいいって。まあ、心が読めたときの名残だよ」
「前は読めたの?」
「碌な事がないから閉じちゃった」
勿体ないね、と漏らすミスティアに、こいしはつまらなさそうにウナギを頬張り、今度はおでんにも箸を伸ばす。減り続けていく商品にミスティアは何の疑問も持たず、商品は補充されていく。
「でもね、ミスティア」
ミスティアは声に出さず、視線だけで返事をする。
「あそこで魔理沙が欲しいって言ったら、幾ら取るつもりだったの?」
「幾ら?」
「足だよ、足。曲がりなりにも、代えを手に入れるのは面倒なものだしさ」
手を口元にあてて、少し考えた後にミスティアは値段を告げる。それを聞いたこいしは、思わず椅子から滑り落ちそうになった。
「たかっ! グロス単位で人間買えるよ!」
「地霊殿はグロス単位で人間を買う方が驚きだわ」
「いや買わないけど。家のペットは無駄に湧いてくる怨霊を食べるから」
「経済的でいいわね」
「ほっとけば何とかしてくれるから楽だよ? それはいいとして、それでも欲しいって誰かが居たら、ミスティアはどうするのかな。千切って焼いちゃう? それとも断って相手の足を焼いちゃうのかな」
「そんなの居ないわよ。というか、嫌にスプラッタなことにこだわるのね」
買うよりも、奪い取る方が賢い。小さな屋台とはいえ、商売に慣れたミスティアは心からそう思う。通貨なんて概念を小さな幻想郷でまわすことには限界があるし、こんな弱小妖怪から物を買うくらいなら、殺して奪い取った方が早いのは誰もが知ることだ。
実際、客席でへらへらと笑いながら座っているこの妖怪も、ミスティアから見ればかなり力のある妖怪だ。こいしがやろうと思えば高笑いをあげながら網の上であぶり焼きにされる店主も、簡単に想像できてしまうのだ。結構ぎりぎりのところを生きているんだな、と今更ながら実感し、彼女は小さくため息を漏らす。
「あー、お客さん皆より力があれば、こんな心配もなくなるのかなあ」
その言葉を聞いて、こいしは更に楽しそうに微笑んだ。裏に回って自分で注いだ大吟醸の酒を、胃に流し込み、頬を紅潮させる。
「食べられる心配?」
「ちょっと違うんだけど、私に力があれば、もっと商売範囲が広げられるのかしらと思っただけ」
「でも、白玉楼の……えっと、名前、そう西行寺幽々子。あの人より力をつけるのは産まれ変わらないと厳しいんじゃない」
「だから、食べられる心配じゃなくて……もう、それでいいわ」
やっぱり無理なのかなあ、と店主は項垂れるも、食べられる――もとい、殺される危険性はなくならない。スペルカードルールが定着して以降人間を食べづらくなったのはほとんどの妖怪共通の悩みではあるが、ミスティアのように捕食される(こともある)側の妖怪は、危険から救われていることもある。
恐らく一昔前の幻想郷なら、今頃ミスティアは西行寺幽々子の胃へと流し込まれていただろう。そこら辺をミスティア自身が理解していない。むしろ、そこまで頭がまわらないと言った方が正しいか。こいしはその辺りを理解しているため、ミスティアに一言加えて意見を言う。
「でもさ、生き残れる範囲で強くなればいいじゃない。一昔前の幻想郷でも生きられるくらいに」
「それって、どれくらい」
「そうだねえ……あの人に勝てるくらい、かな」
こいしは指で指し示す。ミスティアは鰻を焼きながら、ちらりと視線を向ける。
思わず、馬鹿じゃないの、と声が漏れた。九つの尾が目に入った途端に、ミスティアはこいしのことがわからなくなってしまう。にやついた表情のこいしが、なんだか全部を見据えて楽しんでいるように見えて、ミスティアは頬を膨らませ鰻を更に補充する。
「邪魔するよ――誰と喋っていたんだい?」
そもそもこんなのに、勝てるわけない。新しく現れた客の顔を見た瞬間、なんだか恥ずかしさが一気に体中を駆け抜けて、思わず頭を抱え店の中でうずくまってしまった。だから、そんなぽやぽやっとした空気で可愛らしく言われても、出来ないことは出来ないんだと、意味もなく三つ目の眼をぶら下げている妖怪に出来ればミスティアはわめき散らしたかった。
「……考えなしの変な妖怪とです。すぐに帰りましたけど」
こいしは無意識を操り認識出来なくなっただけなのだが、わざわざ説明することでもないと思いミスティアは流す。この大妖怪に勝てる方法なんてあるのか、視界の片隅で、魔理沙に使った看板が目に留まったが、結果は見えているのでつま先で看板を脇に押しやった。
「今晩は、藍さん」
来客はもう一度「今晩は、ミスティア」と仕切り直すと、空いているカウンターへ無意識に座る。こいしが座っていた席のちょうど隣の席だ。
「油揚げをグロスでよろしいですか」
「ははっ。なんだ、よくわからない冗談を言うようになったんだな。表情も硬いし、君は私に怯えるような、そんな柄じゃなかっただろうに。一枚と、後ろに置いてある――そう、その酒――を頼むよ」
凛とした佇まいで、八雲藍は舌をつける程度に少しずつ酒を吞む。勤めを果たし、しばしの休息に立ち寄れるこの場所には度々来ており、店主に「いつもの」と注文すれば油揚げと酒が一つ出てくる程度の親交はあった。藍は口を小さく開けてゆっくりと油揚げを齧ると、ほっと息をついて、嬉しそうに頬を緩ませる。その顔を見てミスティアも安心したのか、何となく安心して肩の力を抜き、童謡アレンジを歌い始める。
しばし耳を傾けたのち、藍は小さく拍手を送る。歌い手は頬を掻きながら、客の杯に酒を少しずつ注ぎ足していく。コップを引き寄せて酒を注ごうとしたこいしは、それが雀酒であることに気付くとあからさまに顔をしかめて脇へと追いやる。他のものはないかと魔理沙が残していった甘酒を引き寄せてみるが中身は空。カウンターを廻るしかないのか、と席を立った時に、藍が言葉を紡ぎ始めた。
「最近は大吟醸じゃなくても美味い酒が増えたな――そういえば、さっき魔理沙を見かけたんだが、何やら青い顔で飛んでいたものでね、話を聞いてみると『ミスティアがやばい』なんてうわごとみたいに言っていたよ。ただの夜雀が、どうやってあいつを負かしたのか聞きたいもんだ」
「たかが夜雀でも、やる時はやるってことですよ。あなたみたいな知恵を巡らせなくとも勝てる相手ばかりの大妖怪にはお教えできませんね」
「ふむ、弱者には弱者の秘密があるということか――。いや、言い方は悪いが、君みたいに力が無いと、どうやって奴を負かしたのか気になる手合いは多いと思うよ。妖怪は寿命が長い代償として、成長のスピードが人間に比べ非常に遅い。分をわきまえずに行動する輩は多いが、この世界、出る杭はどんなに小さくとも打たれてしまう場所だ。そこで成功したのが、たかが酒を造って人を暗闇に陥れる程度しか出来ない君ならなおさらさ」
夜雀は手を止めて、取りだした安い雀酒を一杯ひっかける。藍が「なんだ、業務中に酒を吞むのか」と笑うと、「この業界、話せるようになることも一つの仕事ですから」と無表情に答える。顔を少し紅くしても表情一つ変えないミスティアに、藍は「ほう」と小さく感嘆の息を漏らした。
「藍さん。私はね、今でも思い出すんです。何も私だって、最初から夜雀だったわけではありません。地べたを這いずって、風をまたないと高く跳び上がることすらできず、両足でぴょんぴょん飛び回らないと前へ進めないような細い手足をもち、踏めば潰れるような小動物時代もありました。私は人間になったとき、一番感動したことが、右足と左足を別々に動かして歩くことだったんです。その感覚を掴むのに一苦労して、今度は手と羽が別々の器官であることを身体に染み込ませるのにいっぱいいっぱいで。
今ではあの頃に比べて随分と出来ることが増えましたが、時々翼を一生懸命に羽ばたいて風に乗っていた時代を思い出してしまいます。すると、なぜか自分の分をはみ出して生きていくことが、呼吸をするように当たり前のことのように感じてしまうんですよ。食物連鎖の階級を一気にかけのぼってしまったせいかもしれません。あなたのような大妖怪にはわからないかもしれませんが、私たち弱小妖怪はきっと、自分の分を超えることに、力を持った方々よりも大きな憧れをもってしまうのでしょうね」
「ははっ。弱者には弱者なりのプライドがあるというわけか――これは失礼したな。私は最初から幻想で、幻想から産まれたから君のような感情は一生理解できないかもしれないが、それでも心には留めておくよ
でもねミスティア、君が物怖じせずに私へ言いたいことをずばずばと言うあたりは、実に気持ちいい。橙の友人とも時々会うのだが、彼らは怯えてるのか、いまいち会話が盛り上がらなくてね。その辺り、私は君を非常に気に入っているよ」
「ふふ。あなたに認められたってことは、私も大妖怪の仲間入りですね」
「何百年もすれば、夜雀が大妖怪になったなどと、天狗が騒ぎ立てるかもしれんな」
それからしばらく彼女たちには会話がなく、ゆったりとした時間が周囲を包み込んでいく。
ミスティアは思う。
きっと藍さんには藍さんなりの階級格差があって、私が感じるのと同じように、彼女も何かしら、より高い次元での悩みをもっているのだろう。彼女は、私よりも何倍、いや、何百倍も頭がいいのだから。
この会話を聞いて、古明地さんはどう思っているのだろうか。彼女が居るはずのテーブルに目を向けても、そこには何も認識することは出来ない。普段はふらふらとして遊び歩いてばかりの彼女にも、何か分を超えた悩みみたいなものはあるのだろうか。自分で心の目を閉ざしてしまった彼女が、自分自身の心を理解しているかどうかは、わからないけれど。
ぼんやりと、彼女の姿が目に映って、微笑みかけているのが見えた気がした。心なしか、彼女の頬がさっきよりも紅潮していて、なんだか私も嬉しくなり、思わず口元を釣り上げてしまう。すると、何もかもどうでもよくなって、私は自分が楽しければそれでいいかな、なんて思ってしまった。
「分を超えたいと言うのならな、いっそのこと異変でも起こしてみたらどうだ? 幻想郷が一度紅く包まれたのだから、今度は君の力で黒く包みこめばいい。巫女がやってきて退治されるのは当たり前だが、もし君が大妖怪になった時の参考になるとでも思えば、多少はやる気がでるのではないかな」
だから、普段ならこんな言葉に、ミスティアはのるはずなんてなかったのだ。何気なく言われた言葉に、何気なく反応した。ただ、それだけのこと。
「いいですよ。酒の席での会話ですが、約束しましょう。私は、近いうちに異変を起こします。吸血鬼に負けないくらいの、立派な空を作り上げて見せましょう。幻想郷の空が、私が命令するままに暗くなって、私より力を持つ彼らが馬鹿みたいに動き回る姿を、私は空から神のように見下してやります。そして、やってくる相手に精いっぱい反抗して、精いっぱいやられてみせますよ。精いっぱい分をはみ出してみせますよ。それくらいやってみないと、おもしろくないでしょう」
その言葉を聞くと藍は「なんとも頼もしいな」なんて呟き、隣で隠れているこいしに「お前も参加するんだろう」と肩を抱く。見つかっていると思っていなかったこいしは、思わず杯をひっくり返してしまい、何が起こったのかわからず、あわあわ言いながら藍の腕の中で目をまわしている。その光景を見ながらミスティアは、ぼんやりと、自分がただの雀だった時代を思い出し、目の前の客人たちに微笑みかけていた。
■■
数日後、幻想郷の空から光が失われた。
藍から話を聞いて面白がった紫が力を貸し、増長したミスティアは人々の視界から、空だけを暗闇に変えることに成功する。こいしは異変の正体が何者かを知らせるために、天狗のもとへ垂れこみをする。それが終わったら、計画に賛同する彼女たちは、大本へと繋がる道に立ちふさがり、解決に来るものを蹴散らす壁となった。異変は全ての生き物に平等に行きわたり、誰もが犯人を知るとその正体に驚いた。強者が揃い、勢力が均衡し始めた幻想郷においてまず先走ったのは、たかが夜雀だったからだ。吸血鬼などは、自分に都合がいいから、ここぞとばかりに羽を伸ばし、解決に向かう者たちをケラケラと笑いながら邪魔をした。亡霊も、月人も、神々も、聖人も、徳人も。誰もかもが、祭りが始まったことにそれぞれの思いを抱く。
分をわきまえろ、と誰かが言った。
わきまえてるさ、と夜雀は言った。
楽しくて、楽しくて。ミスティアは何が楽しいかもわからずに、いつまでも飛び上がりそうな心臓を抱えながら、自分を倒しにくる人間を待った。巫女だろうと、魔法使いだろうと、向かってくる相手は誰でもよくて、屋台をやっている時よりも、大勢の人間を前にして歌っているよりも、とにかく何にも代えがたい感情が体中を駆け巡り続けている。
分をわきまえろ、とまた誰かが言った。
わきまえてるから出来るんだ、と夜雀は言い放った。
たかが夜雀、されど夜雀。力を得た彼女は、向かってくる相手を尽く暗闇に落として、次の挑戦者を待ち続ける。例え借り物の力だとしても、それが本当の自分じゃないとしても、そんなこと彼女にはどうでもよかったのだ。一時的にも、自分が掴みたいものを、手に入れることが出来たのだから。それは、妖怪になりたいと願ったあの頃、ただ地べたを両足で飛んでいた自分が思い描いたものなのだから。ああ――結局、妖怪になって欲しかったのはこういうことだったのかと、体中の叫びが、ミスティアに理解させた。
気が狂ったか、と別の誰かが言った。
やっぱり、狂ってないから何もできないんだろうね、と夜雀はぼやいた。
結局、ミスティアが生み出した暗闇は、一条の光によって貫かれ終わりを迎える。知恵で勝つことは出来た相手でも、力で勝つことは結局できなかったのだ。薄れゆく意識の中、普通の魔法使いが生み出した光が失われていくとき、ミスティアの夢は終わりを告げた。
何がしたかったんだ、お前、と普通の魔法使いは言った。
きっと、魔理沙には理解できないよ、と夜雀は笑った。
■■
「はい、お疲れさん」
三対の器が、それぞれの音を鳴らす。異変解決の宴会は既に博麗神社で始まっているが、この小さな屋台でもう一つの宴会が始まっていた。力を失った夜雀と、浴びるように酒を飲み続ける九尾と、泣きべそをかくさとり妖怪。三者三様の表情で、小さな宴会は進んでいく。
「それにしても、提案しておいてなんですがこっちに居ていいんですか藍さん。紫さんが神社に居る以上、こっちに居たら怒られるんじゃないですか?」
「ああ、私など居ても居なくてもどっちでもいいのさ。どうせまた霊夢に、何も考えず思わせぶりなことを言ってるだけだろうから。それに、私はこっちで酒を吞む許可を貰っているからね。何かあったら、隙間に放り込まれて消えるだけさ――そこのさとり妖怪、いつまでも泣くんじゃない。君もこの宴会の参加者なのだから」
「ああ、そっとしておいてあげてください藍さん。たまには反省させてあげないといけないので」
「まったく、君も酷い奴だな。盗み食いに気づいていたなら気づいていたと、はっきり言ってやればよかったのに。能力に油断して、印象を消し切れていないことに気付かず食べ続けたのも酷いが、金額が貯まってから請求するなど、妖怪のやることじゃないよ。悪魔の仕業だ」
「弱小妖怪はですね、知恵を使わないと、何もできないんですよ。結局、力ある誰かに負けないよう、姑息に地べたを這いつくばるくらいがいいんです」
「おいおい、今回の黒幕にしてはやけに自虐的じゃないか。――それで、こいつの支払いは幾ら貯まったんだ」
「大体、私の足が一本買えるくらいですね」
何だそれは、と言って藍は高く笑い声をあげる。
「それにしても、魔理沙が突破してくるとは驚いたな。私と、古明地こいしと、紫様と、橙と、あとはその辺を飛び回っていた吸血鬼姉妹か。この包囲を突破して大妖怪に等しい力をもつ君まで打ち破るのは、霊夢くらいしか出来ないだろうと思っていたのだが」
「ああ、それなんですが」
そう言って、店主は店の片隅にかけてあった看板を取り出す。少々汚れてはいるものの、軽快に書かれたお品書きははっきりと読めて、藍はその詳細を聞くと尖った歯を見せて賞賛した。
「魔理沙はですね、以前この件で騙されたことを、深く根に持っていたみたいなんです。それで、霊夢や山の巫女、それに白玉楼の半霊がやられる様子を見て、今回のスペルカードを徹底的に研究していたようです。地道な努力なら魔理沙に勝てる人間はそう居ませんから、なるべくしてなった結果かもしれませんよ」
「なるほど。霊夢でもいずれ勝つことは出来たが、それより早く魔理沙の執念が勝ったという訳か。いや面白い。紫様も驚いていらっしゃったよ。霊夢の修行も兼ねていたのに、あの馬鹿は何をしてくれているんだなんて言いながら。今頃それを肴にしながら神社で吞んでいるんだろうが」
たまには異変もいいもんですね、とミスティアは笑う。
これくらい無いと幻想郷は娯楽がないのさ、と藍は微笑む。
こいしは二人の会話をむすっとした表情で聞きながら、一気に酒を吞む。
ミスティアは思う。妖怪になって、出来ることは本当にたくさん増えたけれど、それでも考えることは小鳥だった頃と何も変わらない。いつも上を見て、何かをしようと一生懸命で、でも何をしたらいいのかわからなくて、もやもやして、それでも出来ることをわからないなりにやっていく。それはきっと、もし自分が大妖怪になったとしても、誰にも襲われることが無くなったとしても、変わることはないのだろう。変わるのは環境だけで、自分自身が変わるとすれば、それは死ぬ時以外にありえないのだ。きっと、魔理沙も、こいしも、藍さんも、本当に自分が弱い時はどんなものかというのを知らないのだけれど、本当に弱い時を知っている自分だからこそ、それがわかってしまう。だったら、どこまでも自分自身を大切にするのが、一番正しいのだろう。そうすれば、今回のような馬鹿騒ぎも、その時に出来た仲間と一緒に楽しめるのだから。鳥になっても、妖怪になっても、更に上の存在になっても、それは変わらない。
「ねえミスティア、あなたの足を奪ったら、ここで買い取ってもらって私の支払いにならないかな?」
こいしがミスティアに問いかける。ミスティアは新メニューのお品書きを取り出して、目の前に掲げる。
「やっぱり、身体を売るなんて、もったいなくて出来ないわね」
そう言った直後、お品書きはバラバラに崩れていった。こいしは「ケチ」と頬を膨らませて更に酒を吞む。藍はハメを外し始めたのか、ただただ高笑いをあげてその場を盛り上げる。「三歩歩いちゃったからね、――こいしの支払いなんて忘れちゃったわ」とこいしに告げると、こいしはほっとして「よかったあ、またここに来れる」なんて言ってだらりと頬を緩ませる。
私は新しい板に、くるくると踊るような文字を書いて屋台の脇に立てかけた後、カウンター席へと移動した。
『本日は貸し切りです』
小さな板きれにそれだけ書くと、ミスティア・ローレライは満足げに筆を置く。墨で軽快に書かれた内容は一見不可解なものだが、彼女は何のためらいもなくカウンターの隅に目立つよう立てかけた。
日も暮れた幻想郷に、ぽつりと佇む古びた屋台で、それが新しいお品書き、と霧雨魔理沙はすぐに理解できない。
『みすちー』とは恐らくミスティアのことを指すのだろうし、『みすちーの足』となればミスティアの足と考えるのが自然だ。
それがお品書きに並んでいる。
店主は夜雀の妖怪だが、所詮は人間の形をした弱小妖怪である。血液があれば幾らでも再生できる吸血鬼やその他の大妖怪なんぞは別として、彼女は何度も簡単に量産できる足を持っているわけではない。
魔理沙は身を乗り出してカウンター越しにミスティアの足を覗き見た。褐色のスカートとストッキングで隠された細くしなやかな脚は、しっかりと身体の一部として定着している。
時間がかかるとはどういうことなのか、出てくるものは本当に店主の足なのか、もしかしたら彼女の足は二本ではなく大量の業務用ストックが隠されているのか、妖怪と言ってもほぼ人間の形をしたものを客は食べるのか。謎は謎を呼び、不気味な動揺アレンジを歌い続ける店主はヤツメウナギをひっくり返すばかりで何も言わない。考えたくはないが――店主は客の前で足を引き千切るのか。
空のお猪口をすすり続けることに限界を感じてきたのか、魔理沙は呻くように、
「なあ、この看板ってさ」
とそれだけ絞り出した。
「新メニュー、かしら」
少し照れた様子で返されると、魔理沙の頭は更に混乱する。
「うまいのか?」
「さあ?」
「食えるのか?」
「多分」
「材料はどこに?」
「――とりあえず、右足からね」
ミスティアは小さく微笑むと、しっかりと身体に定着している右足をさする。魔理沙は更に夜雀がわからなくなる。
魔理沙は体中の熱が奪い取られていくような気がした。
顔色一つ変えずに右足を千切り、中身をぽたぽたと垂らし朗らかな笑顔で差し出してくる店主。私が新しいメニューを快く試食してくれるだろうと信じて疑わず差し出す様子に、私は嫌だということはできないだろう。
そうなったら私は彼女を食べることが出来るのだろうか。
空想の中で魔理沙は、胃液がこみ上げてくるのを感じた。
「な、なあ。それを注文したらさ、お前の足はどうなるんだ?」
もう一度空のお猪口をすする。中身がないことを頭で理解していても、何かをしていなければこの空気に押しつぶされてしまいそうだ。
魔理沙は妖怪から視線が外せない。
妖怪は魔理沙を見てなどいない。
ただ、恍惚とした表情で、理解できないことを呟く。
「きっと、すっごくおいしいんだろうねえ」
□□
「あはっ」
魔理沙がふらふらと箒に跨り帰るとすぐに、ミスティアは腹を抱えて笑い転げそうになった。
愉快だ、どうしようもなく愉快。魔理沙の私を見る目が、口元が、手の震えが、全身で表わされる得体のしれないモノへの恐れが、私を腹の底から愉快にさせる。
視界を奪う程度では満たせない快感が、癖になりそうなほど体中を駆け巡って止まらない。
「ね、うまく行ったでしょ?」
客席から声をかけられても、ミスティアは笑うことをやめない。意識出来なかっただけで確実に居たことはわかっていたのだから驚きは少なく、かろうじて「古明地さん」とだけ呟くのが精いっぱいだった。
それほどまでに、形はどうあれ魔理沙を負かすことが出来たのが、この夜雀にはたまらなく嬉しいのだ。
「こいしでいいよー。面倒だし」
その心境を知ってか知らずか、こいしは彼女を止めることはしない。ミスティアの無意識を操り、気づかれないよう焼きあがったヤツメウナギを頂戴し続けている。
「ミスティア、それ早く片づけないと。他のお客が来たときに勘違いしちゃうよ」
「けほっ。あ、うん」
「今回のやり方は、魔理沙だからうまくいったんだからね。魔理沙は変なところで人間の常識に囚われているから怖がりやすいんであって、もし霊夢なら何の躊躇もなく足を切断にかかるかもしれないから」
「わかってる。これはもうやらないわ」
偽物のお品書きを屋台裏へとしまう。網の上で焼かれている商品が減っていたが、ミスティアは新しく数尾を網に加えた。
「でも古明地さんは凄いのね。私にはあんな方法思いつかない」
「だからこいしでいいって。まあ、心が読めたときの名残だよ」
「前は読めたの?」
「碌な事がないから閉じちゃった」
勿体ないね、と漏らすミスティアに、こいしはつまらなさそうにウナギを頬張り、今度はおでんにも箸を伸ばす。減り続けていく商品にミスティアは何の疑問も持たず、商品は補充されていく。
「でもね、ミスティア」
ミスティアは声に出さず、視線だけで返事をする。
「あそこで魔理沙が欲しいって言ったら、幾ら取るつもりだったの?」
「幾ら?」
「足だよ、足。曲がりなりにも、代えを手に入れるのは面倒なものだしさ」
手を口元にあてて、少し考えた後にミスティアは値段を告げる。それを聞いたこいしは、思わず椅子から滑り落ちそうになった。
「たかっ! グロス単位で人間買えるよ!」
「地霊殿はグロス単位で人間を買う方が驚きだわ」
「いや買わないけど。家のペットは無駄に湧いてくる怨霊を食べるから」
「経済的でいいわね」
「ほっとけば何とかしてくれるから楽だよ? それはいいとして、それでも欲しいって誰かが居たら、ミスティアはどうするのかな。千切って焼いちゃう? それとも断って相手の足を焼いちゃうのかな」
「そんなの居ないわよ。というか、嫌にスプラッタなことにこだわるのね」
買うよりも、奪い取る方が賢い。小さな屋台とはいえ、商売に慣れたミスティアは心からそう思う。通貨なんて概念を小さな幻想郷でまわすことには限界があるし、こんな弱小妖怪から物を買うくらいなら、殺して奪い取った方が早いのは誰もが知ることだ。
実際、客席でへらへらと笑いながら座っているこの妖怪も、ミスティアから見ればかなり力のある妖怪だ。こいしがやろうと思えば高笑いをあげながら網の上であぶり焼きにされる店主も、簡単に想像できてしまうのだ。結構ぎりぎりのところを生きているんだな、と今更ながら実感し、彼女は小さくため息を漏らす。
「あー、お客さん皆より力があれば、こんな心配もなくなるのかなあ」
その言葉を聞いて、こいしは更に楽しそうに微笑んだ。裏に回って自分で注いだ大吟醸の酒を、胃に流し込み、頬を紅潮させる。
「食べられる心配?」
「ちょっと違うんだけど、私に力があれば、もっと商売範囲が広げられるのかしらと思っただけ」
「でも、白玉楼の……えっと、名前、そう西行寺幽々子。あの人より力をつけるのは産まれ変わらないと厳しいんじゃない」
「だから、食べられる心配じゃなくて……もう、それでいいわ」
やっぱり無理なのかなあ、と店主は項垂れるも、食べられる――もとい、殺される危険性はなくならない。スペルカードルールが定着して以降人間を食べづらくなったのはほとんどの妖怪共通の悩みではあるが、ミスティアのように捕食される(こともある)側の妖怪は、危険から救われていることもある。
恐らく一昔前の幻想郷なら、今頃ミスティアは西行寺幽々子の胃へと流し込まれていただろう。そこら辺をミスティア自身が理解していない。むしろ、そこまで頭がまわらないと言った方が正しいか。こいしはその辺りを理解しているため、ミスティアに一言加えて意見を言う。
「でもさ、生き残れる範囲で強くなればいいじゃない。一昔前の幻想郷でも生きられるくらいに」
「それって、どれくらい」
「そうだねえ……あの人に勝てるくらい、かな」
こいしは指で指し示す。ミスティアは鰻を焼きながら、ちらりと視線を向ける。
思わず、馬鹿じゃないの、と声が漏れた。九つの尾が目に入った途端に、ミスティアはこいしのことがわからなくなってしまう。にやついた表情のこいしが、なんだか全部を見据えて楽しんでいるように見えて、ミスティアは頬を膨らませ鰻を更に補充する。
「邪魔するよ――誰と喋っていたんだい?」
そもそもこんなのに、勝てるわけない。新しく現れた客の顔を見た瞬間、なんだか恥ずかしさが一気に体中を駆け抜けて、思わず頭を抱え店の中でうずくまってしまった。だから、そんなぽやぽやっとした空気で可愛らしく言われても、出来ないことは出来ないんだと、意味もなく三つ目の眼をぶら下げている妖怪に出来ればミスティアはわめき散らしたかった。
「……考えなしの変な妖怪とです。すぐに帰りましたけど」
こいしは無意識を操り認識出来なくなっただけなのだが、わざわざ説明することでもないと思いミスティアは流す。この大妖怪に勝てる方法なんてあるのか、視界の片隅で、魔理沙に使った看板が目に留まったが、結果は見えているのでつま先で看板を脇に押しやった。
「今晩は、藍さん」
来客はもう一度「今晩は、ミスティア」と仕切り直すと、空いているカウンターへ無意識に座る。こいしが座っていた席のちょうど隣の席だ。
「油揚げをグロスでよろしいですか」
「ははっ。なんだ、よくわからない冗談を言うようになったんだな。表情も硬いし、君は私に怯えるような、そんな柄じゃなかっただろうに。一枚と、後ろに置いてある――そう、その酒――を頼むよ」
凛とした佇まいで、八雲藍は舌をつける程度に少しずつ酒を吞む。勤めを果たし、しばしの休息に立ち寄れるこの場所には度々来ており、店主に「いつもの」と注文すれば油揚げと酒が一つ出てくる程度の親交はあった。藍は口を小さく開けてゆっくりと油揚げを齧ると、ほっと息をついて、嬉しそうに頬を緩ませる。その顔を見てミスティアも安心したのか、何となく安心して肩の力を抜き、童謡アレンジを歌い始める。
しばし耳を傾けたのち、藍は小さく拍手を送る。歌い手は頬を掻きながら、客の杯に酒を少しずつ注ぎ足していく。コップを引き寄せて酒を注ごうとしたこいしは、それが雀酒であることに気付くとあからさまに顔をしかめて脇へと追いやる。他のものはないかと魔理沙が残していった甘酒を引き寄せてみるが中身は空。カウンターを廻るしかないのか、と席を立った時に、藍が言葉を紡ぎ始めた。
「最近は大吟醸じゃなくても美味い酒が増えたな――そういえば、さっき魔理沙を見かけたんだが、何やら青い顔で飛んでいたものでね、話を聞いてみると『ミスティアがやばい』なんてうわごとみたいに言っていたよ。ただの夜雀が、どうやってあいつを負かしたのか聞きたいもんだ」
「たかが夜雀でも、やる時はやるってことですよ。あなたみたいな知恵を巡らせなくとも勝てる相手ばかりの大妖怪にはお教えできませんね」
「ふむ、弱者には弱者の秘密があるということか――。いや、言い方は悪いが、君みたいに力が無いと、どうやって奴を負かしたのか気になる手合いは多いと思うよ。妖怪は寿命が長い代償として、成長のスピードが人間に比べ非常に遅い。分をわきまえずに行動する輩は多いが、この世界、出る杭はどんなに小さくとも打たれてしまう場所だ。そこで成功したのが、たかが酒を造って人を暗闇に陥れる程度しか出来ない君ならなおさらさ」
夜雀は手を止めて、取りだした安い雀酒を一杯ひっかける。藍が「なんだ、業務中に酒を吞むのか」と笑うと、「この業界、話せるようになることも一つの仕事ですから」と無表情に答える。顔を少し紅くしても表情一つ変えないミスティアに、藍は「ほう」と小さく感嘆の息を漏らした。
「藍さん。私はね、今でも思い出すんです。何も私だって、最初から夜雀だったわけではありません。地べたを這いずって、風をまたないと高く跳び上がることすらできず、両足でぴょんぴょん飛び回らないと前へ進めないような細い手足をもち、踏めば潰れるような小動物時代もありました。私は人間になったとき、一番感動したことが、右足と左足を別々に動かして歩くことだったんです。その感覚を掴むのに一苦労して、今度は手と羽が別々の器官であることを身体に染み込ませるのにいっぱいいっぱいで。
今ではあの頃に比べて随分と出来ることが増えましたが、時々翼を一生懸命に羽ばたいて風に乗っていた時代を思い出してしまいます。すると、なぜか自分の分をはみ出して生きていくことが、呼吸をするように当たり前のことのように感じてしまうんですよ。食物連鎖の階級を一気にかけのぼってしまったせいかもしれません。あなたのような大妖怪にはわからないかもしれませんが、私たち弱小妖怪はきっと、自分の分を超えることに、力を持った方々よりも大きな憧れをもってしまうのでしょうね」
「ははっ。弱者には弱者なりのプライドがあるというわけか――これは失礼したな。私は最初から幻想で、幻想から産まれたから君のような感情は一生理解できないかもしれないが、それでも心には留めておくよ
でもねミスティア、君が物怖じせずに私へ言いたいことをずばずばと言うあたりは、実に気持ちいい。橙の友人とも時々会うのだが、彼らは怯えてるのか、いまいち会話が盛り上がらなくてね。その辺り、私は君を非常に気に入っているよ」
「ふふ。あなたに認められたってことは、私も大妖怪の仲間入りですね」
「何百年もすれば、夜雀が大妖怪になったなどと、天狗が騒ぎ立てるかもしれんな」
それからしばらく彼女たちには会話がなく、ゆったりとした時間が周囲を包み込んでいく。
ミスティアは思う。
きっと藍さんには藍さんなりの階級格差があって、私が感じるのと同じように、彼女も何かしら、より高い次元での悩みをもっているのだろう。彼女は、私よりも何倍、いや、何百倍も頭がいいのだから。
この会話を聞いて、古明地さんはどう思っているのだろうか。彼女が居るはずのテーブルに目を向けても、そこには何も認識することは出来ない。普段はふらふらとして遊び歩いてばかりの彼女にも、何か分を超えた悩みみたいなものはあるのだろうか。自分で心の目を閉ざしてしまった彼女が、自分自身の心を理解しているかどうかは、わからないけれど。
ぼんやりと、彼女の姿が目に映って、微笑みかけているのが見えた気がした。心なしか、彼女の頬がさっきよりも紅潮していて、なんだか私も嬉しくなり、思わず口元を釣り上げてしまう。すると、何もかもどうでもよくなって、私は自分が楽しければそれでいいかな、なんて思ってしまった。
「分を超えたいと言うのならな、いっそのこと異変でも起こしてみたらどうだ? 幻想郷が一度紅く包まれたのだから、今度は君の力で黒く包みこめばいい。巫女がやってきて退治されるのは当たり前だが、もし君が大妖怪になった時の参考になるとでも思えば、多少はやる気がでるのではないかな」
だから、普段ならこんな言葉に、ミスティアはのるはずなんてなかったのだ。何気なく言われた言葉に、何気なく反応した。ただ、それだけのこと。
「いいですよ。酒の席での会話ですが、約束しましょう。私は、近いうちに異変を起こします。吸血鬼に負けないくらいの、立派な空を作り上げて見せましょう。幻想郷の空が、私が命令するままに暗くなって、私より力を持つ彼らが馬鹿みたいに動き回る姿を、私は空から神のように見下してやります。そして、やってくる相手に精いっぱい反抗して、精いっぱいやられてみせますよ。精いっぱい分をはみ出してみせますよ。それくらいやってみないと、おもしろくないでしょう」
その言葉を聞くと藍は「なんとも頼もしいな」なんて呟き、隣で隠れているこいしに「お前も参加するんだろう」と肩を抱く。見つかっていると思っていなかったこいしは、思わず杯をひっくり返してしまい、何が起こったのかわからず、あわあわ言いながら藍の腕の中で目をまわしている。その光景を見ながらミスティアは、ぼんやりと、自分がただの雀だった時代を思い出し、目の前の客人たちに微笑みかけていた。
■■
数日後、幻想郷の空から光が失われた。
藍から話を聞いて面白がった紫が力を貸し、増長したミスティアは人々の視界から、空だけを暗闇に変えることに成功する。こいしは異変の正体が何者かを知らせるために、天狗のもとへ垂れこみをする。それが終わったら、計画に賛同する彼女たちは、大本へと繋がる道に立ちふさがり、解決に来るものを蹴散らす壁となった。異変は全ての生き物に平等に行きわたり、誰もが犯人を知るとその正体に驚いた。強者が揃い、勢力が均衡し始めた幻想郷においてまず先走ったのは、たかが夜雀だったからだ。吸血鬼などは、自分に都合がいいから、ここぞとばかりに羽を伸ばし、解決に向かう者たちをケラケラと笑いながら邪魔をした。亡霊も、月人も、神々も、聖人も、徳人も。誰もかもが、祭りが始まったことにそれぞれの思いを抱く。
分をわきまえろ、と誰かが言った。
わきまえてるさ、と夜雀は言った。
楽しくて、楽しくて。ミスティアは何が楽しいかもわからずに、いつまでも飛び上がりそうな心臓を抱えながら、自分を倒しにくる人間を待った。巫女だろうと、魔法使いだろうと、向かってくる相手は誰でもよくて、屋台をやっている時よりも、大勢の人間を前にして歌っているよりも、とにかく何にも代えがたい感情が体中を駆け巡り続けている。
分をわきまえろ、とまた誰かが言った。
わきまえてるから出来るんだ、と夜雀は言い放った。
たかが夜雀、されど夜雀。力を得た彼女は、向かってくる相手を尽く暗闇に落として、次の挑戦者を待ち続ける。例え借り物の力だとしても、それが本当の自分じゃないとしても、そんなこと彼女にはどうでもよかったのだ。一時的にも、自分が掴みたいものを、手に入れることが出来たのだから。それは、妖怪になりたいと願ったあの頃、ただ地べたを両足で飛んでいた自分が思い描いたものなのだから。ああ――結局、妖怪になって欲しかったのはこういうことだったのかと、体中の叫びが、ミスティアに理解させた。
気が狂ったか、と別の誰かが言った。
やっぱり、狂ってないから何もできないんだろうね、と夜雀はぼやいた。
結局、ミスティアが生み出した暗闇は、一条の光によって貫かれ終わりを迎える。知恵で勝つことは出来た相手でも、力で勝つことは結局できなかったのだ。薄れゆく意識の中、普通の魔法使いが生み出した光が失われていくとき、ミスティアの夢は終わりを告げた。
何がしたかったんだ、お前、と普通の魔法使いは言った。
きっと、魔理沙には理解できないよ、と夜雀は笑った。
■■
「はい、お疲れさん」
三対の器が、それぞれの音を鳴らす。異変解決の宴会は既に博麗神社で始まっているが、この小さな屋台でもう一つの宴会が始まっていた。力を失った夜雀と、浴びるように酒を飲み続ける九尾と、泣きべそをかくさとり妖怪。三者三様の表情で、小さな宴会は進んでいく。
「それにしても、提案しておいてなんですがこっちに居ていいんですか藍さん。紫さんが神社に居る以上、こっちに居たら怒られるんじゃないですか?」
「ああ、私など居ても居なくてもどっちでもいいのさ。どうせまた霊夢に、何も考えず思わせぶりなことを言ってるだけだろうから。それに、私はこっちで酒を吞む許可を貰っているからね。何かあったら、隙間に放り込まれて消えるだけさ――そこのさとり妖怪、いつまでも泣くんじゃない。君もこの宴会の参加者なのだから」
「ああ、そっとしておいてあげてください藍さん。たまには反省させてあげないといけないので」
「まったく、君も酷い奴だな。盗み食いに気づいていたなら気づいていたと、はっきり言ってやればよかったのに。能力に油断して、印象を消し切れていないことに気付かず食べ続けたのも酷いが、金額が貯まってから請求するなど、妖怪のやることじゃないよ。悪魔の仕業だ」
「弱小妖怪はですね、知恵を使わないと、何もできないんですよ。結局、力ある誰かに負けないよう、姑息に地べたを這いつくばるくらいがいいんです」
「おいおい、今回の黒幕にしてはやけに自虐的じゃないか。――それで、こいつの支払いは幾ら貯まったんだ」
「大体、私の足が一本買えるくらいですね」
何だそれは、と言って藍は高く笑い声をあげる。
「それにしても、魔理沙が突破してくるとは驚いたな。私と、古明地こいしと、紫様と、橙と、あとはその辺を飛び回っていた吸血鬼姉妹か。この包囲を突破して大妖怪に等しい力をもつ君まで打ち破るのは、霊夢くらいしか出来ないだろうと思っていたのだが」
「ああ、それなんですが」
そう言って、店主は店の片隅にかけてあった看板を取り出す。少々汚れてはいるものの、軽快に書かれたお品書きははっきりと読めて、藍はその詳細を聞くと尖った歯を見せて賞賛した。
「魔理沙はですね、以前この件で騙されたことを、深く根に持っていたみたいなんです。それで、霊夢や山の巫女、それに白玉楼の半霊がやられる様子を見て、今回のスペルカードを徹底的に研究していたようです。地道な努力なら魔理沙に勝てる人間はそう居ませんから、なるべくしてなった結果かもしれませんよ」
「なるほど。霊夢でもいずれ勝つことは出来たが、それより早く魔理沙の執念が勝ったという訳か。いや面白い。紫様も驚いていらっしゃったよ。霊夢の修行も兼ねていたのに、あの馬鹿は何をしてくれているんだなんて言いながら。今頃それを肴にしながら神社で吞んでいるんだろうが」
たまには異変もいいもんですね、とミスティアは笑う。
これくらい無いと幻想郷は娯楽がないのさ、と藍は微笑む。
こいしは二人の会話をむすっとした表情で聞きながら、一気に酒を吞む。
ミスティアは思う。妖怪になって、出来ることは本当にたくさん増えたけれど、それでも考えることは小鳥だった頃と何も変わらない。いつも上を見て、何かをしようと一生懸命で、でも何をしたらいいのかわからなくて、もやもやして、それでも出来ることをわからないなりにやっていく。それはきっと、もし自分が大妖怪になったとしても、誰にも襲われることが無くなったとしても、変わることはないのだろう。変わるのは環境だけで、自分自身が変わるとすれば、それは死ぬ時以外にありえないのだ。きっと、魔理沙も、こいしも、藍さんも、本当に自分が弱い時はどんなものかというのを知らないのだけれど、本当に弱い時を知っている自分だからこそ、それがわかってしまう。だったら、どこまでも自分自身を大切にするのが、一番正しいのだろう。そうすれば、今回のような馬鹿騒ぎも、その時に出来た仲間と一緒に楽しめるのだから。鳥になっても、妖怪になっても、更に上の存在になっても、それは変わらない。
「ねえミスティア、あなたの足を奪ったら、ここで買い取ってもらって私の支払いにならないかな?」
こいしがミスティアに問いかける。ミスティアは新メニューのお品書きを取り出して、目の前に掲げる。
「やっぱり、身体を売るなんて、もったいなくて出来ないわね」
そう言った直後、お品書きはバラバラに崩れていった。こいしは「ケチ」と頬を膨らませて更に酒を吞む。藍はハメを外し始めたのか、ただただ高笑いをあげてその場を盛り上げる。「三歩歩いちゃったからね、――こいしの支払いなんて忘れちゃったわ」とこいしに告げると、こいしはほっとして「よかったあ、またここに来れる」なんて言ってだらりと頬を緩ませる。
私は新しい板に、くるくると踊るような文字を書いて屋台の脇に立てかけた後、カウンター席へと移動した。
『本日は貸し切りです』
異変解決直後の魔理沙とみすちーのやり取りの軽さが逆に深くていい
ああ幻想郷なんだなーって実感させるものがありました
動機こそ人間くさいのに、実際に力を持ってそれがなくなっても腐ったりしないところが人と妖怪の違うところなのかね。
誤字報告
>古明寺さん
古明地。キャラの名前間違えるのは許早苗って人多いよ。
つかみはオッケーって感じですね。最後まで楽しめました。
とても面白かったです
鳥はより高く飛んでいくために生きているんですね。
弱い者は、知恵で生き残る。動物でも人間でも妖怪でも、一緒なんですね。
短編なのに、まるで長編を一本読んだような満足感がありました。
これは異変の様子もじっくりと見てみたいですね
いい雰囲気のお話でした。
弱者が強者に己の知恵と努力で一泡吹かせる!爽快!
そしてやはり皆、悩みがあって足掻いているのです。
読後感が最高でした。
魔理沙や藍様もとても魅力的なキャラクターでした。
強弱の人物がテンポよく話に絡んできて面白かったです。
あー幻想郷って感じがすごくしました
みすちーのキャラクターもすごく好き
そうだよねぇ。このSSを読んで、元気が出たよ。ありがとう
いいミスティアだ
そして盗み食いがバレて大金請求されてお金無いし…お姉ちゃんはにどう言えばいいのみたいな感じのこいしちゃんかわいいペロペロしたい
にしてもこいしちゃんは泣くほど請求されたのか。どれだけ盗み食いしたの ?w