木製らしい階段は、早苗が体重を乗せる度にギィギィと軋んだ。行く手に明かりの類はなく、数段降りて床下の湿った空間を抜け、更に地下へと足を進めると直ぐに、自分の手さえ確認の出来ない濃密な暗闇に取り込まれる。
小傘の鼻歌が幾重にも反響して、まるで大きな唸り声の様にも聞こえてくる。ライトでも持ってくれば良かった、と後悔しつつ、早苗は壁に手を当てながらゆっくりと確実に階段を下りていく。壁は冷たくスベスベとしていて、どうやら石を積んで作られた物なのだろうな、と目星を付けた。
幾段降りたか見当もつかない内に、踏み出した早苗の足が板張りの床を擦る。どうやら階段は降り切ったらしい。両手を思いきり伸ばせば、指先が辛うじて両端の石壁に付く程度の広さだ。大き目な小傘の半身も、何とか引っかからずに済むだろう。
「小傘さん?」
暗闇に向けて左手を突き出しながら、右手は石壁に這わせ、早苗は一歩ずつ前へと進んだ。小傘の歌は止んでいる。自分以外の足音も聞こえない。
不意に左手が冷たい何かに触れた。驚いて早苗は手を引っ込める。今触ったのは何だろうか、と恐る恐る確認しようと前方に近づくと、右手で触れていた石壁が途切れた。どうやら、曲がり角らしい。ホッと安堵の溜め息を吐いて再度右手を壁に這わせて横に曲がる。
「早苗、大丈夫? 見える?」
小傘の声が、またも反響しながら聞こえて来た。そのせいで彼女の居場所が近いのか遠いのか早苗には判らなかった。
「何も見えませんよ。私は人間なんですから」
「そう」
小傘が呟くと、途端に蟲の羽音染みた低い響きが頭上から聞こえて来た。何も見る事の出来ない早苗の脳裏に、幾百幾千の蟲の姿が過って、彼女は思わず身を竦める。
「な、何? 何ですか、これ?」
「電気、点くみたい」
小傘が言った途端、パッと頭上でオレンジ色のライトが灯った。
「きゃ!」
早苗が眩しさに目を閉じる。さほど強くは無い明かりだったが、それでも暗闇に完全に慣れ切っていた早苗の目には堪えた。
両目の鈍痛が収まった頃、早苗が恐る恐る目を開けると小傘の姿が三、四メートルほど離れた所に見えた。こちらを向いている小傘の背後には、観音開きと思しき厳めしい扉がある。オレンジの明かりが古めかしい板張りの床と、黒い石を積み上げて作られた壁を照らしている。暖かい、というよりは寧ろ古臭い色調の様に思われた。
「最初から点けてくれれば良かったんじゃないんですか?」
今の小傘は、どうやらまともに会話が通じるらしい、と早苗は小傘の元に歩み寄りながら文句を言う。
「ゴメン、早苗は暗い所が見えないって事まで頭回らなかった」
弱弱しく小傘が微笑む。無表情でない小傘を久しぶりに見た気がして、早苗は心中で胸を撫で下ろした。
「で、何ですか? これ」
「知らない。『中を見ろ』としか言われなかったから。でも、私じゃ開けられないんだ」
小傘が指差す先を見ると、そこには簡易的なお札のような物が張られていた。紙製のそれは端が解れてボロボロにはなっているが、それでも弱い結界を張るには充分な形を残している。
「生物払いの結界……みたいですね……ネズミとか、蟲とかが入らないようにする結界ですよ……これ、妖怪にも効くんですかね?」
「触ったらビリビリってなったよ。痛かった」
「ふぅん……術式自体は簡単な物の筈なんですがねぇ……よほど、込められている思いが強いんですかね? どれくらい前の封印かは判りませんけど、普通このタイプの結界式って、持って十年か二十年程度の物でしょうに……」
早苗は目を細めて、擦れた結界札の文字を読み解いた。思った通り、術式自体は非常に簡易的な物だった。何の神通力も持たない一般人でさえも、貼り付けさえすれば扱えるほどの物だ。
それが、どうして今も効力を発揮出来ているのだろうか。
並大抵の感情では、これほどの効力をこの結界札に持たせることは不可能だ。
――家宝でも眠っているのかしら?
否、そんな程度の感情じゃ結界札はきっと持たない。
何かもっと切実で、もっと、自らの存在を掛けてでも、他者を遠ざけたいと思う物……。
「ね、早苗。早く開けてよ」
早苗の袂を掴んでグイグイと引っ張りながら、小傘が懇願して来た。
「で、でも……これは、私には無理、じゃないですかねぇ」
「嘘だ」
曖昧に笑って誤魔化そうとした早苗に、小傘が冷たく言い放つ。
ゾッとするような声の響きに驚いた早苗が小傘を見ると、小傘はまたもあの無表情を浮かべて早苗の事を睨み付けていた。
「開けてよ。早苗は開けられるでしょう? 開けたくないから、そうやって私に嘘を吐くんだ」
小傘は早苗の腕を掴み、矢庭に爪を立てて強く握りしめる。
「痛ッ……!」
細めな早苗の腕の骨が、妖怪の膂力に負けてギシギシと軋む。漸くまともに会話が成立すると安堵していただけに、小傘の豹変は早苗にとっては恐怖だった。
「判りましたよ! やればいいんでしょ! やれば!」
自暴自棄に吐き捨てながら、早苗は小傘の手を振り払う。振り払ってもなお、痛みは色濃く早苗の腕に残っていた。もう少し問答を続けていたら、本気で腕を圧し折られたかもしれない、と思うとゾッとした。
「全く……どうしてこんな所で、私は霊夢さんの真似なんかしなくちゃならないんですかねぇ……」
「ゴメンね、早苗。ありがとう」
殊勝ぶって微笑む小傘を一瞥してフン、と鼻を鳴らし虚勢を張った早苗は、結界札の解れを抓んで、一息に引き剥がした。結界は音もなく崩れ、効力を失った札は早苗の手の中でボロボロに朽ちて消滅する。
「開けますよ」
「お願い」
小傘に良い様にしてやられた、という屈辱的な思いを抱きながら、早苗は自棄になって扉の取っ手に手を掛ける。嫌な予感は強まるばかりではあったが、これ以上弱弱しい所なんて見せて堪るか、という気分に押されるがまま、早苗は重い扉の右側を引っ張った。
少しずつ、少しずつ、まるで焦らすみたいにゆっくりと扉が開いていく。向こう側は、暗くて良く見る事が出来ない。ある程度まで開いた所で小傘が早苗の横をすり抜けて中に入って行った。
「あ、ちょっと!」
扉を開ける手を止め、早苗も小傘の後を追って中へと足を踏み入れる。
異常に気付いたのはその時だった。
「う……何ですか……この、臭い……」
眉根を潜めて、早苗は袂で鼻と口を覆った。部屋の中は何かが饐えた様な酷い臭いが充満していた。食道を酸っぱい液体が走り、思わず吐きそうになる。早苗の人間としての本能が、危険を察知してざわざわと騒いでいた。
「こ、小傘さん? ちょっと?」
息を止めてなるべく中の空気を吸わないようにしながら、早苗は外からの明かりを頼りに奥へと足を踏み入れる。扉脇の壁に指を這わせると思った通り、電燈のスイッチらしき物に触れた。地下道にあったオレンジ色の電燈然り、この家の地下には当時は最先端だったであろう西洋の科学技術が使われているらしい。
電気を点けると、異臭の原因がハッキリとした。
――ああ、やっぱり、後悔したなぁ……。
早苗は立ち尽くす小傘の足元にある死体を見て、呆然と思った。
和服を身に纏った白骨死体は、部屋の隅に寝転がっている。その死体を中心にして、壁と床がどす黒く染められていた。それが血に相違ない事くらいは、早苗でも理解が出来た。
部屋の中は、死体が転がっていることを抜きにしても異様としか表現出来なかった。
死体と反対側の部屋の隅には、西洋式の天蓋付きベッドが置かれている。箪笥も、鏡台も、西洋のアンティークそのままで、屋敷の中の純和風な面持ちはどこにもない。赤いカーペットまで敷かれていて、室内を照らす明かりはガラス製のシャンデリア。その様相は本当に西洋のどこかへと飛ばされてしまったかの様だった。紅魔館の一室だと説明されてしまえば、すんなりと納得出来そうな位だ。
「……一体、何なんですか……この部屋は……」
早苗は袂で鼻と口を覆いつつ、小傘の元へと歩み寄る。饐えた臭いから腐りかけの死体をイメージしていたが、どうやら死体は完全に白骨化しているらしい事は、ほんの少しだけ早苗の後悔を和らげる。
骨だけになった右手で胸部を押えている死体の胸部の服に、穴が開いている。どうやら血はそこから流れ出たらしい。この死体は、小刀か何かで突き殺されたのだろう。
この部屋に結界を施した人物は、これを見られたくなかったのだ。
「――この部屋は寝室だよ」
背後から不意に聞きなれない声が聞こえて、早苗は心臓が飛び出んばかりに驚愕する。
「お父さんと、私の寝室。まあ、お父さんにとっては、お母さんとの寝室、だったけどね」
「誰ですか!?」
早苗は袂から御幣を抜き出しつつ、背後にあるベッドに素早く振り向く。
そこには、喪服の様に真っ黒な和服を着た十四、五歳程の少女が居た。早苗に突き付けられた御幣の先を面白くもない物を見るような目で一瞥して、ベッドの脇に腰かけている。
「――あ、貴女は……まさか、私の……」
目を見開いた小傘が、震えながら立ち上がって少女と相対する。
「――その娘と同じだよ。私も、捨てられた道具。でも、完全に捨てられた訳じゃなくて、まだ最後の役目を終えてないから、私そのものの人格も、姿も、持ってないんだ」
少女はヒラリとベッドから飛び降りて、小傘の目の前まで歩み寄った。
美しい少女だった。喪服染みた漆黒の和服に反発するかのように肌はどこまでも白く、唇は鮮血で染め抜いたかのように、紅い。そしてだからこそ、その美しさは酷く不気味な物の様に早苗には思えた。
年相応の美しさとは程遠いのだ。白粉を塗り、紅をさしたようなその顔は、十四、五歳の少女にしては余りにも大人び過ぎている。無理に背伸びをさせた様なその顔立ちは、未だ子供と大人の境界線に立つ少女には、不釣合いだった。
「君が、『お母様の好きな色の傘』だね? ふぅん……綺麗な瞳をしているね。羨ましいな。私は持ち主の分身でしかないから、君みたいに固有の姿は与えられなかったんだ」
「貴女は……貴女は、私の持ち主じゃないの? あんなに、あんなに私を大事にしてくれた、あの女の子じゃないの?」
小傘は困惑を隠せない様子で、腰を曲げて目の前の喪服の少女に顔を近づける。遠い記憶の中の持ち主に間違いない姿の少女の出現に、喜べばいいのかどうすれば良いのか、判断がまるで付いて居ないようだった。
「違うよ。言ったでしょう? 私も道具。君と同じ、あの女の子に使われた、道具だよ」
早苗はそこで喪服の少女の右手に、何か鋭く光る物を見つける。シャンデリアの明かりに照らされて、煌めくその何かが鋭い刃のそれだと気付き、早苗は驚愕する。
「――小傘さんッ!」
小傘が腰を伸ばして早苗の方を振り向くのと、少女の右手の刃が空を切るのは、ほぼ同時だった。早苗がもう少し気付くのに遅れれば、小傘の顔は真一文字に切りつけられていた。
「あ、貴女! 一体なんなんですか!」
早苗が叫ぶことによって、漸く少女の右手に小刀が握られているのに気付いた小傘が、小さく悲鳴を上げて早苗の方へと逃げてくる。薄い微笑を浮かべる少女は、攻撃が外れてしまったにも関わらずどこか満足げに唇を歪めた。
「私は道具。私は『小刀』。あの娘がお父様を殺した時に使われて、それ以来ベッドの上に捨てられていた、道具だよ」
何を今更、と言わんばかりに少女は両手を広げて肩を竦める。
「殺した……? あの子は、お父さんを殺したの? あんなに、お父さんの事が好きだったのに……?」
小傘が早苗の袂をギュッと握りながら、少女に尋ねる。小傘の手は震えていた。早苗は御幣を握りしめ、小傘を守ろうと喪服の少女を睨み付ける。
「――私は、お母さんにとても良く似ているんだそうだよ」
小刀を握りしめながら、喪服の少女は傍らに横たわる白骨死体を見下ろす。
「成長すれば成長するほどに、お母さんと瓜二つになっていく……お母さんと私の区別が付かなくなっていく……この部屋は何の為に有ると思う? 何の為に作られたと思う? お父さんが私をこの部屋に連れて来て、後ろ手に鍵を閉めて、それから私に何を命じたと思う? 蹴鞠でも教えてくれるとでも?」
「――まさか……でも、そんな事……」
唐突に催した吐き気を堪えながら、早苗が白骨死体と喪服の少女を見比べる。
「まさかだって? ふん。男と女が密室でする事なんて、決まっているだろう?」
そう言い放って喉を鳴らすみたいに笑った少女は、不意に無表情を浮かべて横の白骨死体を蹴った。死体の顎関節が飛び、壁に当たって床へと転がる。それを一瞥した少女は、取り繕う様に微笑を浮かべて早苗と小傘の方へと向き直った。
「そこの傘ちゃんには悪い事をしたね。でもコレが、私に課せられた最後の仕事なんだよ」
「い、言っている意味が判りません! ふざけてるんですか!」
「私は真面目だよ。もう、暴かれない罪を守り続けることに疲れたんだ。もうこの悪趣味な部屋で、お父様の死体を眺めながら暮らすのは嫌だ。もう何百年経ったかな。きっと、あの子は死んだろう。もう、私も解放されて良い時期だ」
そう言うと、少女は突然天井を見上げ、手にした小刀をシャンデリアに向けて投げた。真っ直ぐに飛んだ小刀はシャンデリアの支柱を砕き、支えを失ったシャンデリアはカーペットの上に叩き落される。
小さな爆発が起きたかと思うと、シャンデリアに下敷きにされたカーペットから火の手が上がった。早苗は小傘の身体を自分の背後に回す。乾燥しきっていたカーペットはみるみる内に火の手を増し、冷たく微笑む喪服の少女を取り囲む。
「『殺せなかったら、証拠を消せ』……ふふ……わざわざこんな手順を踏まないと、私は自殺も出来ないんだね……」
炎が少女の喪服の裾に取り付いた。それでも少女は平然と、自分の和服が燃える様を眺めている。炎は天蓋付きのベッドを焼き始める。白骨死体も炎の海に飲まれた。煙が暗い地下に充満し、早苗は袂で鼻と口を覆いつつ咳き込む。
「待って! あの子の、あの子の名前を教えて!」
小傘が早苗を押し退ける様にして、燃え始めた少女に向かって手を伸ばす。
「私、忘れちゃったの! あの子の事、大好きだったのに! どうしても思い出せないの……! 他の事は全部、全部思い出せるのに! あの子の名前だけが、どうしても、思い出せないの!」
「小傘さん! 危ないですって! 貴女も燃えちゃいますよ!」
今にも炎の中に飛び込まんばかりの小傘の服の袖を掴んで、早苗は必死に彼女を引っ張った。喪服の少女は、もう胸の辺りまで炎に包まれている。それでも、一歩たりとも動こうとせず、少女は小傘を見据えた。
「――私の声に気付いてくれて、ありがとう。君が来なかったら、私はもう後何百年、この息の詰まるようなこの部屋に閉じ込められていたか判らない。感謝するよ」
「名前を! あの子の、あの子の名前を教えてッ!」
小傘が手を伸ばす。炎に舐め上げられて痛みに顔を顰めながらも、彼女は必死に手を伸ばした。喪服の少女が、小さく首を横に振る。
「残念だけど……私も、もう思い出せないよ。あの子の生きた証は、もう無いんだ。この家もきっと燃えて落ちるだろう。何も残らない。何もかも、『忘れられた世界』に消えていくんだよ」
白骨死体の方へと目線を向け、呟くように残した少女の頭までも炎に飲み込まれて見えなくなった。小傘が小さく悲鳴を上げる。肺の肉が引っ張られる様な咳を何度かしつつも、早苗は必死で小傘を引き留めていた。
部屋の中に居るだけで、皮膚が燃え上がりそうな程の熱風が吹き荒れる。早苗はまだ諦めきれない様子の小傘を掴んで、急ぎ地上へと向かう。煙の充満する地下の廊下を、咳き込みながらも二人は走った。小傘は早苗に引っ張られながら、何度も何度も背後を振り向いていた。
階段を駆け上がれば、既に家の中にも薄らと煙が充満し始めている。早苗はひっくり返ったテーブルを踏み付け、くの字に折れ曲がった襖を蹴破り、がたつく雨戸を開けて外へと躍り出た。
雑草の生い茂る庭に小傘を半ば放るように引っ張り出すと、早苗はその場に倒れこんで盛大に咳と深呼吸を繰り返した。久しぶりに吸った新鮮な空気は、微妙に青臭かった。
騒ぎを聞きつけたのか、それとも薄らと立ち上る煙を目撃したのか、里の住民たちがぞろぞろと廃屋敷の敷地の外に群がりつつあった。困惑しつつも未だ慌ててはいない住民たちの呑気にさえ思えるざわめきを聞いて、漸く早苗にも助かった実感が湧いてきた。
「おい! これは何の騒ぎだ!」
人混みを掻き分けて真っ先に敷地内に入って来たのは、上白沢慧音その人だった。彼女は蹲って荒い呼吸を繰り返す早苗を見つけて、慌てて背中を摩り始める。
「おい大丈夫か? お前、山の上の巫女だろう? ここで何してる? 息は出来るか?」
矢継ぎ早に質問を投げ掛けられた所で、呼吸に精一杯の早苗は何一つ答えることが出来なかった。力なく首を振って『今は無理です』と言葉にならない意見表明をするのがやっとの状態だ。
「おい! 誰か医者を呼べ! 何してるお前達! 火事だ馬鹿者! ボケッと見てないで水でも持ってくるなり安全な所に避難するなりしろ! お前は? 見かけない顔だな。妖怪か? 何が有ったか話せるか? いや、違うなまずは急いでここから離れるべきだなおい! お前、立てるか?」
冷静なようで居てしっかり取り乱している慧音が、早苗の右腕を引き上げてそれを自らの首に回した。そしてまだ呼吸の落ち着かない早苗を半ば引きずるようにして、彼女を廃屋敷の敷地の外へと連れ出した。丁度佃煮屋の女将さんが里の医者に声を掛けて連れて来てくれた所で、早苗の身は医者の手に預けられる事となった。
「担架はあるか!? 早めに運んでやってくれ! そこの妖怪! お前も危ないから、早く避難するんだ!」
廃屋敷の上階にまで、火の手は上って来た。野次馬根性で集まっていた里の住民たちも熱くて敵わず、遠くへと小走りで逃げていく。
それでも小傘は庭に立ち尽くしたまま呆然と、燃え盛る屋敷を眺めていた。
「おい! お前!」
慧音は小傘の元まで歩み寄り、彼女の肩を掴む。
しかし、慧音の手はすぐさま振り払われた。
「――邪魔しないで」
小傘のオッドアイが、慧音を揺らがぬ視線で威嚇する。その強い眼光に少し気圧されるも、やはり放って置けない慧音は再度小傘の肩を掴む。しかし、小傘は従おうとはしない。
「馬鹿者! お前は何を言ってる! ここに居るとお前も焼け死ぬぞ!」
「――ここは火葬場なの。見取る義務が私にはあるの。私を買ってくれた人と、私の持ち主と、もしかしたら、私だったかもしれない沢山の仲間達が、みんな、みんな、燃えていくの。灰になるの。『忘れられた世界』に消えていくの。私は見届けなくちゃいけない。目を逸らしちゃいけない。みんなが無くなっていく様子を、絶対に忘れちゃいけない。私だけが残されるんだから。捨てられた私だけが、この家でみんなが生活した証になるんだから。私は忘れちゃった。あの子の名前、あんなに大好きだったのに、あの子の顔まではっきり思い出せるのに、どうしても、名前だけが思い出せないの。だからせめて、全部無くなるこの瞬間だけは忘れたくない。どんなに熱くても、ここから離れちゃいけないの」
小傘の瞳が炎の揺らめきを反射して、泣いているみたいに輝いて見える。その視線は燃え盛る炎を直視して尚、怯む事無く真っ直ぐに屋敷へと向けられていた。
その眼光は小傘の信念の強さを語るに充分であった。事情が判らずとも、この廃屋敷が燃える光景は、彼女にとっての惜別に相違ないのだと慧音は確信した。ならば、それを邪魔する権利など、自分には無い、とも。
「……判った。私が、お前の別れを見届けてやる。危ないと感じたら、首に縄付けてでもここから引き摺り出してやるからな」
「うん。アリガト」
小傘は慧音に一瞥を投げ掛けて小さく微笑むと、再度屋敷を飲み込む炎へと目をやった。
担架に乗せられた早苗は軽い酸欠を起こしており、意識と視界がボンヤリと霞んでいた。すぐにでも新鮮な空気のある場所で休ませねばならない、と判断した医者の指示の下、手近な場所に居た金物屋の丁稚と貸本屋の親父が慧音の一喝で呼び寄せられ、二つの男手によって担架に横たわる早苗は、ひとまず医者の家へと運ばれ始めた。
去り際、グラグラと担架に揺られながらも、早苗の耳にあの小傘の歌が聞こえて来た。
鼻歌ではなく、口ずさんでいる訳でもなく、小傘の必死な歌声が、風に乗って、炎の熱風に巻き上げられて、聞こえて来る。
May be you don't think about my sadness when I walk in rainy forest.
Always, you stayed by my side, but now I can't see your shadow.
You had gone. Can you be happiness without me?
Please remember me that you had thrown over sometimes.
Hallo,Hallo,Forgotten World.
Hallo,Hallo,The World that had forget me.
Always, I’m worried about your happiness when I walk under my umbrella.
Can you live comfortably? But there is no my shadow, isn't it?
You had gone. The World is cold and sadly.
I loved the day of rain, because I could stay by your side.
Now I can't see your shadow. I hope sunny day much. Why?
Hallo,Hallo,Forgotten World.
Hallo,Hallo,The World that had forget me.
その歌声を聴きながら早苗は、
――あぁ、何だ……。捨てられた道具が恨むのって、結局道具が、その人の事を、本気で愛してたからじゃないか……。
全身全霊を掛けて愛した人に捨てられたから、悲しいんだ。
この世で一番大好きだった人に忘れられたから、恨むんだ。
――と、そんな事を考えて、訳もなく目頭が熱くなるのを感じた。
◆◆◆
里の人々が消火に尽力してはくれたものの結局廃屋敷は全焼した、と慧音から聞かされた時には、もう早苗の体調も良くなっていた。
小傘は屋敷が燃え落ちるまで、何度も何度も繰り返しあの歌を歌っていたらしい。
「で、小傘さんは今どこに?」
「判らん。アイツは本当に屋敷の火が消えるまであの場にずっと居たんだが、火が消えたら満足したのか、鼻歌交じりに里から出て行ったよ。お前の事を聞いても、無視の一点張りだった」
慧音は器用に小刀で姫林檎の皮を剥いて種とヘタを取り、二つに切って片方を早苗に手渡した。ありがとうございます、と会釈した後早苗が齧り付いた林檎は、思っていたよりもずっと酸っぱかった。
「で、お前達はあの屋敷で一体何をしてたんだ? 何で火の気もない屋敷が燃えるんだ? 火遊びでもしてたのか? そもそも、何でお前達が二人きりであの屋敷に入るんだ? お前は見境なく妖怪を退治するって専らの評判だが、あの唐傘妖怪は別なのか?」
「ちょっと、上白沢さん。質問が多過ぎますって」
「慧音で良いよ。名字で呼ばれるなんて堅苦しいのは、古老との会議だけで十分だ……大体お前達、あの屋敷の噂を知ってて這入ったのか?」
「噂……ですか?」
「何だ、てっきり里の子供達の噂でも真に受けて、中に這入った物だとばかり思っていたんだがな」
そう言って小さな溜め息を吐くと、慧音は手にしていた姫林檎のもう半分を口に含んだ。
「詳しい話は私も知らんが、どうやらあの屋敷に住んでいた一家は、神隠しに逢ってしまったらしい」
「……神隠し、ですか」
早苗は地下の部屋で見た白骨死体の様相を思い出し、よくも自分は死体を目の当たりにして平然としていられた物だ、と考えた所であの部屋の中の腐臭を思い出して、また吐き気が込み上げて来たのを思い出す。
「幻想郷が外から隔絶されるのとほぼ同時期だと聞いたから、私が生まれるよりも前の話だし、私でさえ知らない領域だ。厳密にはその事件が起きたのは幻想郷では無いからな……お前も屋敷の中に入ったんなら判るだろうが、あの家はここいらに幅を利かせる豪農だったらしい。父と、母と、娘の三人で住んでいたと聞くが、神隠しが起こる数年前に、奥方が流行病で亡くなっていたそうだ」
「え? お母さんは病死だったんですか?」
「当時の文献には、そう記してあったな」
姿見の中の自分に向かって語りかける小傘の姿が、早苗の脳裏を過ぎる。
記憶の中の少女の言葉をなぞっていたらしき小傘の口ぶりでは、てっきり間男でも作って逃げ出してしまったのだろう、と考えていただけに、その慧音の言葉は早苗にとっては衝撃的だった。
――『忘れられたモノ』に過ぎないのにねぇ……。
唐突に、幼い頃に繰り返し読み聞かせられた『かぐや姫』の最後の場面を想起する。
羽衣を纏う事で育ての親を忘れてしまったかぐや姫が月、即ち、違う世界へと旅立ってしまったように、幽明境を異にした母親が、自分の事を忘れてしまったに違いない、とあの少女は考えていたのだろうか。
「――ある晩、記録的な大嵐が村を襲った。酷い雨と風が、村の家々に襲い掛かった。翌朝被害を確かめる為に村の中を巡っていた村人の一人が、あの屋敷から父親の姿も、娘の姿も消えていることに気付いたそうだ。布団は敷かれたまま。書き物の道具は打っ棄られたまま。嵐の夜に出かける用事も有る筈がない。そういった事から、時の村人達は、嵐に紛れてやってきた天狗か、何かしらの神の類に連れ去られたんだろうと判断した。廃屋敷が取り壊されずに残って居たのも、祟りを恐れての事だ。この神隠しの数年後に人里への不可侵条約が、妖怪と人間との間に結ばれたから、事実上これが里の内部で起きた最後の神隠し――あるいは妖怪による人間の襲撃事件、ということになる」
「――そうなんですか」
早苗は溜め息交じりに寝返りを打って、慧音に表情を見られない様、背中を向ける。
早苗も小傘も、あの屋敷で起きた真実を知っている。しかし、だからと言って慧音に真実を伝える気になどなれなかった。親子二人仲良く妖怪に喰い殺された、という慧音が語った歴史上の真実の方が、まだマシに思えるほどの所業だ。
あの白骨死体を糾弾する権利は早苗には無い。彼はもう既に罰を受けている。愛する娘、愛した妻の幻影に小刀で突き殺される、という絶望的な死が彼の身に与えられている。それに、屋敷が燃え落ちた今となっては、何の証拠もない。
もう、終わった事なのだ。何百年も前に。
「――慧音さん」
早苗は傍らに座る慧音に尚も背を向けたまま、ポツリと彼女に呼びかける。
「何だ?」
「それで、文献には、その……被害者の名前、というのは?」
早苗は背徳感を覚えつつも、どうしてもそれを聞かずには居られなかった。
「名前? いや、文献には被害者一家、としか載って無かったな……。何分その文献も、妖怪や神が為したと思しき事件の覚書でしかないからなぁ……」
「そう、ですか……」
期待に反する答えが返ってきても、早苗の心中に落胆は殆ど無かった。小傘の持ち主の形を成していたあの付喪神ですら、『もう忘れてしまった』と言ったのだ。
思えば早苗は無意識に、小傘が焦がれた物はこの世から完全に失われてしまった、と気付いて居たのかもしれない。
それはきっと、小傘もまた同様だったのだろう。
廃屋敷を巡る道中、小傘は持ち主の名前が残されている可能性を探そうとはしていなかった。薄れかけた記憶を鮮明に蘇らせようとするばかりだった。道具の声が聞こえると言った彼女は、しかしその道具達に頼んで、持ち主の名前を辿ろうとはしなかった。
見つかりはしない、と諦めていたからこそ、屋敷が燃え落ちる寸前、彼女はあんなにも必死に、喪服の少女に『名前を教えて』と頼んでいたのだ。
早苗は布団から身体を引き抜きつつ喪服の少女に手を伸ばす小傘を思い出して、慧音にはそれと判らないように目頭を擦った。
「もう、良いのか?」
「えぇ、もう治りました。そろそろ失礼したいと思います」
「そうか。それは良かった。だがその前に、あの屋敷でお前達が何をしたのかを……」
「秘密です」
「……何だと?」
慧音がピクリと眉根を潜めた。表情だけは温和さを保ってはいたが、彼女の目が据わっている事に早苗は気付いていた。
「幾ら廃屋とは言え、屋敷が一軒焼け落ちたんだぞ? 里の中で火事が起きた。お前は死にかけた。大騒ぎになった。それらは全部、お前達の仕業だ。違うか? それなのに、あの中でお前達が何をしたのか言わないんなら、私はお前達を怒るかどうかの判断も出来ないじゃないか」
慧音の言葉もどこ吹く風といった様子で、早苗は黙々と帰り支度を進める。慧音が穿つような視線で早苗を睨み付けてくる。
「――慧音さんも、本当は判ってるのでしょう?」
「……何の事だ?」
「あの屋敷の中で起こった事を、私は死んでも口外しません。私には、何が起きたのかを喧伝する資格なんて無いんです。あの屋敷の中で私は部外者で、第三者で、小傘さんの付き添いでしかありませんでした。さっき私が目の当たりにした全ては、小傘さんとその家族や仲間達の間に起きたプライベートな事柄です。そこに、好奇心や体面で、関係ない誰かが口を挟んだり首を突っ込んだりしちゃいけないんです」
真剣な眼差しで述べられた早苗の言葉に、慧音は口を噤む。彼女は堅物でこそあれ朴念仁では無い。燃え盛る屋敷を見据えながら小傘が語った言葉も理解していた。
慧音は半ば、早苗はきっと喋らないだろうと悟っていた。
だから今、彼女は溜め息を一つ吐いただけで追及を止めてしまう。
「――全く……今回の事を、どのように歴史にしたためれば良いと言うのだ……」
「小傘さんに聞いて、彼女が言った通りの事を書けば良いと思いますよ」
「……これは直観だが、あの妖怪にはどうも、話が通じる気がしないな」
困ったように背後の畳に手を突いて、医家の天井を仰ぐ慧音が薄く微笑を浮かべた。
「なら、それ当たってますね」
帰り支度を済ませた早苗が、疲労の色が僅かに浮かぶ慧音の顔を見下ろすようにして、小さく笑った。つられて慧音も乾いた笑いを漏らす。
秋が近づくに連れて高く青くなっていく空を、アキアカネが一匹滑った。
◆◆◆
「――思い、出した、んだ」
人里に程近い山の斜面を登る小傘が、一歩を振り下ろす度に切れ切れに言う。
付喪神としての、彼女の最初の記憶。道具としての幸福が終わるその瞬間。それが、今の彼女には、昨日の事の様に思い返せる。
「逃げる、逃げる、嵐の、中を、走る、走る、暗い、森の中、を、私、と一緒に……」
山の斜面は急で、道も舗装されてはいない。木々は無作為に生い茂り、地面は多量の根っこが顔を出してデコボコとしている。飛んでいけば楽なのだろうが、小傘は歩いてその道のりを進むことを選んだ。
一歩を踏む毎に、道具としての生涯に幕を閉じた地点が近づいていく。
一歩を送る毎に、持ち主と別れて誰の物でも無くなった地点が近づく。
『忘れる』という人間の基本的な機能に一番敏感なのは、きっと付喪神という種族だ。忘却は人間にとって余りにも自然で、余りにも日常的で、それは何かの死に直結しているということに人間たちは気付かない。気付いてはくれない。
忘れられたくない、と小傘だって望んでいる。でも、それが叶わない願いだという事くらい、長い長い付喪神としての生活が教えてくれた。
――『小刀』は、もう疲れてしまったと吐露した。
彼女の持つ役割をこなし続ける事に、耐えきれなくなったと言った。
小傘も、その気持ちは判る。付喪神は基本的に、人を恨んだ道具が成る妖怪だ。純然たる付喪神である小傘の役割は、人を憎み恨む事に有ると言っても過言ではない。
しかし、小傘もまた、疲れていた。耐えきれなくなっていた。『小刀』と同じように。
どれほど自分が人間を憎んでも、彼らの意識は変わらない。人間の機能から、『忘却』が無くなる事は決してない。叫んでも、暴れても、彼らが自分を思い出すことは無かった。
何物も、失われる運命から逃れることは出来ない。過去が常に失われ続けるからだ。未来が常に向かってくるからだ。それが、『理』だ。どれほど高尚な神でさえも傅かざるを得ない絶対のルールだ。
いつしか小傘は、人を憎むことを止めた。それよりも、能天気に生きた方が楽しいと気が付いた。気が付くまでに、ずっと『理』と一人だけで戦い続けていた。諦めるのではなく、受け入れることが出来るまでに随分と掛かった。そうして漸く、彼女は笑う事を獲得することが出来た。
あの子の名前を忘れてしまったのは、きっとその代償だ。ならば、今後一切笑うことを止めてしまえば、あの子の名前を思い出すことが出来るかもしれない。しかし、過去にそれほどの価値が有るのか? 現在に連なる未来からの糸を断ち切ってまで、欲する必要は有るのか? 今の小傘には、その問いへの回答を出すことは出来ない。
「……こー、こー、だ!」
小傘は山の八合目周辺で横へと手を伸ばすようにして伸びる崖の上で、立ち止まった。
「わぁ……」
そこからは、里を一望することが出来た。街並みが見える。矢倉も見える。人々が生活を営んでいるのが、小さく確認出来た。
更に村の向こう側へと目をやれば、そこには霧の湖がある。畔に佇む紅魔館も見えた。そこから視界を左下にずらせば、そこには真新しい命蓮寺が有る。他にも、妖怪の山の登山口も、少し元気を失いつつある太陽の畑も、ここからでも陰気な雰囲気漂う魔法の森も、相変わらず人気の無い博麗神社も、吹き上がる間欠泉も、屋台の立ち並ぶ中有の道脇の彼岸花が紅いのも、余す所なく、見ることが出来た。
――ここだ。ここで、私は捨てられたんだ。
切り立った崖に足を垂らすようにして腰かけた小傘が、記憶の奥底を掻き分け、そして攫う。
その日は雨も、風も、それまで体験した事が無いくらいに強かった。
小傘は、必死で少女を雨風から守る事しか考えられなかった。少女の様子がおかしい事など、気付く筈もなかった。
何度も何度も、少女は山道に足を取られて転んだ。泥塗れになって、傷塗れになって、それでも少女は小傘をギュッと掴んで獣道を駆け上った。
その日、少女は歌わなかった。壊れてしまったらもう歌を聞かせて貰えないと思うと気も狂わんばかりに恐ろしかった。また少女の歌を聴く為に、小傘は折れてしまわないように必死だった。
そして、少女と小傘はこの場所に至った。
少女はここからの眺めに気付いたのだろうか。酷い嵐の中、それでもここから見える景色が素晴らしい事に、少女は気付いたんだろうか。
少女は、小傘を広げたまま、展望に向けて片腕を伸ばした。小傘の下から少女の身体が抜け出た。少女が濡れてしまう、風邪をひいてしまう。小傘は少女に『早く自分の下に戻って』と声にならぬ声で叫んだ。その声は届かなかった。
『――ゴメンね』
少女が小さく呟いた。彼女は泣いていた。あ、と思う間もなく、小傘の身体は風に吹かれ、少女の手から引き剥がされていた。そしてそのまま、誰にも拾われる事の無い、必要とされる事の無い、無間地獄のような日々が始まる。
今となっては、少女がどういうつもりだったのかを知る術など無い。彼女が何故、ここで小傘と別れる事を決心したのか、きっと誰でさえもその心の奥底を除くことはできない。
彼女は命を絶ったのだろうか。それとも、妖怪に喰われてしまったのだろうか。もしくはどこかに逃げ延びて、父殺しの罪を背負いながらも懸命に生きたのだろうか。いずれにせよ、そこに居られなかったことが、小傘はちょっとだけ寂しかった。
「……でも、良いよ。許して上げる」
雲一つ無い澄んだ青空を仰いだ小傘が、ポツリと呟いた。
博麗大結界は、外界の非常識を幻想郷の常識へと還元する。
小難しい理屈は理解出来ない小傘でも、『外の世界で忘れられたモノ』が、幻想郷に流入する現象については知っている。
結界によって隔絶された幻想郷は、その瞬間から『忘れられた世界』へと変貌したのだ。その言葉は、小傘達のような付喪神の使うそれとは若干の意味を異にする。忘れられることを厭う付喪神にとって、完全なる忘却は死に他ならなかった。
しかし幻想郷の出現は、それまで消えて行くしかなかった存在を許し、保護する場所が新たに生まれたことを意味していた。それは、力の弱い他の妖怪も当然の事ながら、付喪神にとっては楽園に等しい。
『忘れられた世界』は、絶望の響きを脱したのだ。
小傘は幻想郷を見下ろしながら、鼻歌を歌い出す。かつてあの子が歌った歌を。あの子が居なくなり、あの子が育った家も燃え、今となっては自分しか継承する者の居ない、あの歌を。
「ふんふーん……Hallo,Hallo,Forgotten World.……Hallo,Hallo,The World that had forget me.……ふーんふーん……」
――即ち、『こんにちは、幻想郷』と彼女なりの新たな意味合いを含ませながら。
Fin
小傘の鼻歌が幾重にも反響して、まるで大きな唸り声の様にも聞こえてくる。ライトでも持ってくれば良かった、と後悔しつつ、早苗は壁に手を当てながらゆっくりと確実に階段を下りていく。壁は冷たくスベスベとしていて、どうやら石を積んで作られた物なのだろうな、と目星を付けた。
幾段降りたか見当もつかない内に、踏み出した早苗の足が板張りの床を擦る。どうやら階段は降り切ったらしい。両手を思いきり伸ばせば、指先が辛うじて両端の石壁に付く程度の広さだ。大き目な小傘の半身も、何とか引っかからずに済むだろう。
「小傘さん?」
暗闇に向けて左手を突き出しながら、右手は石壁に這わせ、早苗は一歩ずつ前へと進んだ。小傘の歌は止んでいる。自分以外の足音も聞こえない。
不意に左手が冷たい何かに触れた。驚いて早苗は手を引っ込める。今触ったのは何だろうか、と恐る恐る確認しようと前方に近づくと、右手で触れていた石壁が途切れた。どうやら、曲がり角らしい。ホッと安堵の溜め息を吐いて再度右手を壁に這わせて横に曲がる。
「早苗、大丈夫? 見える?」
小傘の声が、またも反響しながら聞こえて来た。そのせいで彼女の居場所が近いのか遠いのか早苗には判らなかった。
「何も見えませんよ。私は人間なんですから」
「そう」
小傘が呟くと、途端に蟲の羽音染みた低い響きが頭上から聞こえて来た。何も見る事の出来ない早苗の脳裏に、幾百幾千の蟲の姿が過って、彼女は思わず身を竦める。
「な、何? 何ですか、これ?」
「電気、点くみたい」
小傘が言った途端、パッと頭上でオレンジ色のライトが灯った。
「きゃ!」
早苗が眩しさに目を閉じる。さほど強くは無い明かりだったが、それでも暗闇に完全に慣れ切っていた早苗の目には堪えた。
両目の鈍痛が収まった頃、早苗が恐る恐る目を開けると小傘の姿が三、四メートルほど離れた所に見えた。こちらを向いている小傘の背後には、観音開きと思しき厳めしい扉がある。オレンジの明かりが古めかしい板張りの床と、黒い石を積み上げて作られた壁を照らしている。暖かい、というよりは寧ろ古臭い色調の様に思われた。
「最初から点けてくれれば良かったんじゃないんですか?」
今の小傘は、どうやらまともに会話が通じるらしい、と早苗は小傘の元に歩み寄りながら文句を言う。
「ゴメン、早苗は暗い所が見えないって事まで頭回らなかった」
弱弱しく小傘が微笑む。無表情でない小傘を久しぶりに見た気がして、早苗は心中で胸を撫で下ろした。
「で、何ですか? これ」
「知らない。『中を見ろ』としか言われなかったから。でも、私じゃ開けられないんだ」
小傘が指差す先を見ると、そこには簡易的なお札のような物が張られていた。紙製のそれは端が解れてボロボロにはなっているが、それでも弱い結界を張るには充分な形を残している。
「生物払いの結界……みたいですね……ネズミとか、蟲とかが入らないようにする結界ですよ……これ、妖怪にも効くんですかね?」
「触ったらビリビリってなったよ。痛かった」
「ふぅん……術式自体は簡単な物の筈なんですがねぇ……よほど、込められている思いが強いんですかね? どれくらい前の封印かは判りませんけど、普通このタイプの結界式って、持って十年か二十年程度の物でしょうに……」
早苗は目を細めて、擦れた結界札の文字を読み解いた。思った通り、術式自体は非常に簡易的な物だった。何の神通力も持たない一般人でさえも、貼り付けさえすれば扱えるほどの物だ。
それが、どうして今も効力を発揮出来ているのだろうか。
並大抵の感情では、これほどの効力をこの結界札に持たせることは不可能だ。
――家宝でも眠っているのかしら?
否、そんな程度の感情じゃ結界札はきっと持たない。
何かもっと切実で、もっと、自らの存在を掛けてでも、他者を遠ざけたいと思う物……。
「ね、早苗。早く開けてよ」
早苗の袂を掴んでグイグイと引っ張りながら、小傘が懇願して来た。
「で、でも……これは、私には無理、じゃないですかねぇ」
「嘘だ」
曖昧に笑って誤魔化そうとした早苗に、小傘が冷たく言い放つ。
ゾッとするような声の響きに驚いた早苗が小傘を見ると、小傘はまたもあの無表情を浮かべて早苗の事を睨み付けていた。
「開けてよ。早苗は開けられるでしょう? 開けたくないから、そうやって私に嘘を吐くんだ」
小傘は早苗の腕を掴み、矢庭に爪を立てて強く握りしめる。
「痛ッ……!」
細めな早苗の腕の骨が、妖怪の膂力に負けてギシギシと軋む。漸くまともに会話が成立すると安堵していただけに、小傘の豹変は早苗にとっては恐怖だった。
「判りましたよ! やればいいんでしょ! やれば!」
自暴自棄に吐き捨てながら、早苗は小傘の手を振り払う。振り払ってもなお、痛みは色濃く早苗の腕に残っていた。もう少し問答を続けていたら、本気で腕を圧し折られたかもしれない、と思うとゾッとした。
「全く……どうしてこんな所で、私は霊夢さんの真似なんかしなくちゃならないんですかねぇ……」
「ゴメンね、早苗。ありがとう」
殊勝ぶって微笑む小傘を一瞥してフン、と鼻を鳴らし虚勢を張った早苗は、結界札の解れを抓んで、一息に引き剥がした。結界は音もなく崩れ、効力を失った札は早苗の手の中でボロボロに朽ちて消滅する。
「開けますよ」
「お願い」
小傘に良い様にしてやられた、という屈辱的な思いを抱きながら、早苗は自棄になって扉の取っ手に手を掛ける。嫌な予感は強まるばかりではあったが、これ以上弱弱しい所なんて見せて堪るか、という気分に押されるがまま、早苗は重い扉の右側を引っ張った。
少しずつ、少しずつ、まるで焦らすみたいにゆっくりと扉が開いていく。向こう側は、暗くて良く見る事が出来ない。ある程度まで開いた所で小傘が早苗の横をすり抜けて中に入って行った。
「あ、ちょっと!」
扉を開ける手を止め、早苗も小傘の後を追って中へと足を踏み入れる。
異常に気付いたのはその時だった。
「う……何ですか……この、臭い……」
眉根を潜めて、早苗は袂で鼻と口を覆った。部屋の中は何かが饐えた様な酷い臭いが充満していた。食道を酸っぱい液体が走り、思わず吐きそうになる。早苗の人間としての本能が、危険を察知してざわざわと騒いでいた。
「こ、小傘さん? ちょっと?」
息を止めてなるべく中の空気を吸わないようにしながら、早苗は外からの明かりを頼りに奥へと足を踏み入れる。扉脇の壁に指を這わせると思った通り、電燈のスイッチらしき物に触れた。地下道にあったオレンジ色の電燈然り、この家の地下には当時は最先端だったであろう西洋の科学技術が使われているらしい。
電気を点けると、異臭の原因がハッキリとした。
――ああ、やっぱり、後悔したなぁ……。
早苗は立ち尽くす小傘の足元にある死体を見て、呆然と思った。
和服を身に纏った白骨死体は、部屋の隅に寝転がっている。その死体を中心にして、壁と床がどす黒く染められていた。それが血に相違ない事くらいは、早苗でも理解が出来た。
部屋の中は、死体が転がっていることを抜きにしても異様としか表現出来なかった。
死体と反対側の部屋の隅には、西洋式の天蓋付きベッドが置かれている。箪笥も、鏡台も、西洋のアンティークそのままで、屋敷の中の純和風な面持ちはどこにもない。赤いカーペットまで敷かれていて、室内を照らす明かりはガラス製のシャンデリア。その様相は本当に西洋のどこかへと飛ばされてしまったかの様だった。紅魔館の一室だと説明されてしまえば、すんなりと納得出来そうな位だ。
「……一体、何なんですか……この部屋は……」
早苗は袂で鼻と口を覆いつつ、小傘の元へと歩み寄る。饐えた臭いから腐りかけの死体をイメージしていたが、どうやら死体は完全に白骨化しているらしい事は、ほんの少しだけ早苗の後悔を和らげる。
骨だけになった右手で胸部を押えている死体の胸部の服に、穴が開いている。どうやら血はそこから流れ出たらしい。この死体は、小刀か何かで突き殺されたのだろう。
この部屋に結界を施した人物は、これを見られたくなかったのだ。
「――この部屋は寝室だよ」
背後から不意に聞きなれない声が聞こえて、早苗は心臓が飛び出んばかりに驚愕する。
「お父さんと、私の寝室。まあ、お父さんにとっては、お母さんとの寝室、だったけどね」
「誰ですか!?」
早苗は袂から御幣を抜き出しつつ、背後にあるベッドに素早く振り向く。
そこには、喪服の様に真っ黒な和服を着た十四、五歳程の少女が居た。早苗に突き付けられた御幣の先を面白くもない物を見るような目で一瞥して、ベッドの脇に腰かけている。
「――あ、貴女は……まさか、私の……」
目を見開いた小傘が、震えながら立ち上がって少女と相対する。
「――その娘と同じだよ。私も、捨てられた道具。でも、完全に捨てられた訳じゃなくて、まだ最後の役目を終えてないから、私そのものの人格も、姿も、持ってないんだ」
少女はヒラリとベッドから飛び降りて、小傘の目の前まで歩み寄った。
美しい少女だった。喪服染みた漆黒の和服に反発するかのように肌はどこまでも白く、唇は鮮血で染め抜いたかのように、紅い。そしてだからこそ、その美しさは酷く不気味な物の様に早苗には思えた。
年相応の美しさとは程遠いのだ。白粉を塗り、紅をさしたようなその顔は、十四、五歳の少女にしては余りにも大人び過ぎている。無理に背伸びをさせた様なその顔立ちは、未だ子供と大人の境界線に立つ少女には、不釣合いだった。
「君が、『お母様の好きな色の傘』だね? ふぅん……綺麗な瞳をしているね。羨ましいな。私は持ち主の分身でしかないから、君みたいに固有の姿は与えられなかったんだ」
「貴女は……貴女は、私の持ち主じゃないの? あんなに、あんなに私を大事にしてくれた、あの女の子じゃないの?」
小傘は困惑を隠せない様子で、腰を曲げて目の前の喪服の少女に顔を近づける。遠い記憶の中の持ち主に間違いない姿の少女の出現に、喜べばいいのかどうすれば良いのか、判断がまるで付いて居ないようだった。
「違うよ。言ったでしょう? 私も道具。君と同じ、あの女の子に使われた、道具だよ」
早苗はそこで喪服の少女の右手に、何か鋭く光る物を見つける。シャンデリアの明かりに照らされて、煌めくその何かが鋭い刃のそれだと気付き、早苗は驚愕する。
「――小傘さんッ!」
小傘が腰を伸ばして早苗の方を振り向くのと、少女の右手の刃が空を切るのは、ほぼ同時だった。早苗がもう少し気付くのに遅れれば、小傘の顔は真一文字に切りつけられていた。
「あ、貴女! 一体なんなんですか!」
早苗が叫ぶことによって、漸く少女の右手に小刀が握られているのに気付いた小傘が、小さく悲鳴を上げて早苗の方へと逃げてくる。薄い微笑を浮かべる少女は、攻撃が外れてしまったにも関わらずどこか満足げに唇を歪めた。
「私は道具。私は『小刀』。あの娘がお父様を殺した時に使われて、それ以来ベッドの上に捨てられていた、道具だよ」
何を今更、と言わんばかりに少女は両手を広げて肩を竦める。
「殺した……? あの子は、お父さんを殺したの? あんなに、お父さんの事が好きだったのに……?」
小傘が早苗の袂をギュッと握りながら、少女に尋ねる。小傘の手は震えていた。早苗は御幣を握りしめ、小傘を守ろうと喪服の少女を睨み付ける。
「――私は、お母さんにとても良く似ているんだそうだよ」
小刀を握りしめながら、喪服の少女は傍らに横たわる白骨死体を見下ろす。
「成長すれば成長するほどに、お母さんと瓜二つになっていく……お母さんと私の区別が付かなくなっていく……この部屋は何の為に有ると思う? 何の為に作られたと思う? お父さんが私をこの部屋に連れて来て、後ろ手に鍵を閉めて、それから私に何を命じたと思う? 蹴鞠でも教えてくれるとでも?」
「――まさか……でも、そんな事……」
唐突に催した吐き気を堪えながら、早苗が白骨死体と喪服の少女を見比べる。
「まさかだって? ふん。男と女が密室でする事なんて、決まっているだろう?」
そう言い放って喉を鳴らすみたいに笑った少女は、不意に無表情を浮かべて横の白骨死体を蹴った。死体の顎関節が飛び、壁に当たって床へと転がる。それを一瞥した少女は、取り繕う様に微笑を浮かべて早苗と小傘の方へと向き直った。
「そこの傘ちゃんには悪い事をしたね。でもコレが、私に課せられた最後の仕事なんだよ」
「い、言っている意味が判りません! ふざけてるんですか!」
「私は真面目だよ。もう、暴かれない罪を守り続けることに疲れたんだ。もうこの悪趣味な部屋で、お父様の死体を眺めながら暮らすのは嫌だ。もう何百年経ったかな。きっと、あの子は死んだろう。もう、私も解放されて良い時期だ」
そう言うと、少女は突然天井を見上げ、手にした小刀をシャンデリアに向けて投げた。真っ直ぐに飛んだ小刀はシャンデリアの支柱を砕き、支えを失ったシャンデリアはカーペットの上に叩き落される。
小さな爆発が起きたかと思うと、シャンデリアに下敷きにされたカーペットから火の手が上がった。早苗は小傘の身体を自分の背後に回す。乾燥しきっていたカーペットはみるみる内に火の手を増し、冷たく微笑む喪服の少女を取り囲む。
「『殺せなかったら、証拠を消せ』……ふふ……わざわざこんな手順を踏まないと、私は自殺も出来ないんだね……」
炎が少女の喪服の裾に取り付いた。それでも少女は平然と、自分の和服が燃える様を眺めている。炎は天蓋付きのベッドを焼き始める。白骨死体も炎の海に飲まれた。煙が暗い地下に充満し、早苗は袂で鼻と口を覆いつつ咳き込む。
「待って! あの子の、あの子の名前を教えて!」
小傘が早苗を押し退ける様にして、燃え始めた少女に向かって手を伸ばす。
「私、忘れちゃったの! あの子の事、大好きだったのに! どうしても思い出せないの……! 他の事は全部、全部思い出せるのに! あの子の名前だけが、どうしても、思い出せないの!」
「小傘さん! 危ないですって! 貴女も燃えちゃいますよ!」
今にも炎の中に飛び込まんばかりの小傘の服の袖を掴んで、早苗は必死に彼女を引っ張った。喪服の少女は、もう胸の辺りまで炎に包まれている。それでも、一歩たりとも動こうとせず、少女は小傘を見据えた。
「――私の声に気付いてくれて、ありがとう。君が来なかったら、私はもう後何百年、この息の詰まるようなこの部屋に閉じ込められていたか判らない。感謝するよ」
「名前を! あの子の、あの子の名前を教えてッ!」
小傘が手を伸ばす。炎に舐め上げられて痛みに顔を顰めながらも、彼女は必死に手を伸ばした。喪服の少女が、小さく首を横に振る。
「残念だけど……私も、もう思い出せないよ。あの子の生きた証は、もう無いんだ。この家もきっと燃えて落ちるだろう。何も残らない。何もかも、『忘れられた世界』に消えていくんだよ」
白骨死体の方へと目線を向け、呟くように残した少女の頭までも炎に飲み込まれて見えなくなった。小傘が小さく悲鳴を上げる。肺の肉が引っ張られる様な咳を何度かしつつも、早苗は必死で小傘を引き留めていた。
部屋の中に居るだけで、皮膚が燃え上がりそうな程の熱風が吹き荒れる。早苗はまだ諦めきれない様子の小傘を掴んで、急ぎ地上へと向かう。煙の充満する地下の廊下を、咳き込みながらも二人は走った。小傘は早苗に引っ張られながら、何度も何度も背後を振り向いていた。
階段を駆け上がれば、既に家の中にも薄らと煙が充満し始めている。早苗はひっくり返ったテーブルを踏み付け、くの字に折れ曲がった襖を蹴破り、がたつく雨戸を開けて外へと躍り出た。
雑草の生い茂る庭に小傘を半ば放るように引っ張り出すと、早苗はその場に倒れこんで盛大に咳と深呼吸を繰り返した。久しぶりに吸った新鮮な空気は、微妙に青臭かった。
騒ぎを聞きつけたのか、それとも薄らと立ち上る煙を目撃したのか、里の住民たちがぞろぞろと廃屋敷の敷地の外に群がりつつあった。困惑しつつも未だ慌ててはいない住民たちの呑気にさえ思えるざわめきを聞いて、漸く早苗にも助かった実感が湧いてきた。
「おい! これは何の騒ぎだ!」
人混みを掻き分けて真っ先に敷地内に入って来たのは、上白沢慧音その人だった。彼女は蹲って荒い呼吸を繰り返す早苗を見つけて、慌てて背中を摩り始める。
「おい大丈夫か? お前、山の上の巫女だろう? ここで何してる? 息は出来るか?」
矢継ぎ早に質問を投げ掛けられた所で、呼吸に精一杯の早苗は何一つ答えることが出来なかった。力なく首を振って『今は無理です』と言葉にならない意見表明をするのがやっとの状態だ。
「おい! 誰か医者を呼べ! 何してるお前達! 火事だ馬鹿者! ボケッと見てないで水でも持ってくるなり安全な所に避難するなりしろ! お前は? 見かけない顔だな。妖怪か? 何が有ったか話せるか? いや、違うなまずは急いでここから離れるべきだなおい! お前、立てるか?」
冷静なようで居てしっかり取り乱している慧音が、早苗の右腕を引き上げてそれを自らの首に回した。そしてまだ呼吸の落ち着かない早苗を半ば引きずるようにして、彼女を廃屋敷の敷地の外へと連れ出した。丁度佃煮屋の女将さんが里の医者に声を掛けて連れて来てくれた所で、早苗の身は医者の手に預けられる事となった。
「担架はあるか!? 早めに運んでやってくれ! そこの妖怪! お前も危ないから、早く避難するんだ!」
廃屋敷の上階にまで、火の手は上って来た。野次馬根性で集まっていた里の住民たちも熱くて敵わず、遠くへと小走りで逃げていく。
それでも小傘は庭に立ち尽くしたまま呆然と、燃え盛る屋敷を眺めていた。
「おい! お前!」
慧音は小傘の元まで歩み寄り、彼女の肩を掴む。
しかし、慧音の手はすぐさま振り払われた。
「――邪魔しないで」
小傘のオッドアイが、慧音を揺らがぬ視線で威嚇する。その強い眼光に少し気圧されるも、やはり放って置けない慧音は再度小傘の肩を掴む。しかし、小傘は従おうとはしない。
「馬鹿者! お前は何を言ってる! ここに居るとお前も焼け死ぬぞ!」
「――ここは火葬場なの。見取る義務が私にはあるの。私を買ってくれた人と、私の持ち主と、もしかしたら、私だったかもしれない沢山の仲間達が、みんな、みんな、燃えていくの。灰になるの。『忘れられた世界』に消えていくの。私は見届けなくちゃいけない。目を逸らしちゃいけない。みんなが無くなっていく様子を、絶対に忘れちゃいけない。私だけが残されるんだから。捨てられた私だけが、この家でみんなが生活した証になるんだから。私は忘れちゃった。あの子の名前、あんなに大好きだったのに、あの子の顔まではっきり思い出せるのに、どうしても、名前だけが思い出せないの。だからせめて、全部無くなるこの瞬間だけは忘れたくない。どんなに熱くても、ここから離れちゃいけないの」
小傘の瞳が炎の揺らめきを反射して、泣いているみたいに輝いて見える。その視線は燃え盛る炎を直視して尚、怯む事無く真っ直ぐに屋敷へと向けられていた。
その眼光は小傘の信念の強さを語るに充分であった。事情が判らずとも、この廃屋敷が燃える光景は、彼女にとっての惜別に相違ないのだと慧音は確信した。ならば、それを邪魔する権利など、自分には無い、とも。
「……判った。私が、お前の別れを見届けてやる。危ないと感じたら、首に縄付けてでもここから引き摺り出してやるからな」
「うん。アリガト」
小傘は慧音に一瞥を投げ掛けて小さく微笑むと、再度屋敷を飲み込む炎へと目をやった。
担架に乗せられた早苗は軽い酸欠を起こしており、意識と視界がボンヤリと霞んでいた。すぐにでも新鮮な空気のある場所で休ませねばならない、と判断した医者の指示の下、手近な場所に居た金物屋の丁稚と貸本屋の親父が慧音の一喝で呼び寄せられ、二つの男手によって担架に横たわる早苗は、ひとまず医者の家へと運ばれ始めた。
去り際、グラグラと担架に揺られながらも、早苗の耳にあの小傘の歌が聞こえて来た。
鼻歌ではなく、口ずさんでいる訳でもなく、小傘の必死な歌声が、風に乗って、炎の熱風に巻き上げられて、聞こえて来る。
May be you don't think about my sadness when I walk in rainy forest.
Always, you stayed by my side, but now I can't see your shadow.
You had gone. Can you be happiness without me?
Please remember me that you had thrown over sometimes.
Hallo,Hallo,Forgotten World.
Hallo,Hallo,The World that had forget me.
Always, I’m worried about your happiness when I walk under my umbrella.
Can you live comfortably? But there is no my shadow, isn't it?
You had gone. The World is cold and sadly.
I loved the day of rain, because I could stay by your side.
Now I can't see your shadow. I hope sunny day much. Why?
Hallo,Hallo,Forgotten World.
Hallo,Hallo,The World that had forget me.
その歌声を聴きながら早苗は、
――あぁ、何だ……。捨てられた道具が恨むのって、結局道具が、その人の事を、本気で愛してたからじゃないか……。
全身全霊を掛けて愛した人に捨てられたから、悲しいんだ。
この世で一番大好きだった人に忘れられたから、恨むんだ。
――と、そんな事を考えて、訳もなく目頭が熱くなるのを感じた。
◆◆◆
里の人々が消火に尽力してはくれたものの結局廃屋敷は全焼した、と慧音から聞かされた時には、もう早苗の体調も良くなっていた。
小傘は屋敷が燃え落ちるまで、何度も何度も繰り返しあの歌を歌っていたらしい。
「で、小傘さんは今どこに?」
「判らん。アイツは本当に屋敷の火が消えるまであの場にずっと居たんだが、火が消えたら満足したのか、鼻歌交じりに里から出て行ったよ。お前の事を聞いても、無視の一点張りだった」
慧音は器用に小刀で姫林檎の皮を剥いて種とヘタを取り、二つに切って片方を早苗に手渡した。ありがとうございます、と会釈した後早苗が齧り付いた林檎は、思っていたよりもずっと酸っぱかった。
「で、お前達はあの屋敷で一体何をしてたんだ? 何で火の気もない屋敷が燃えるんだ? 火遊びでもしてたのか? そもそも、何でお前達が二人きりであの屋敷に入るんだ? お前は見境なく妖怪を退治するって専らの評判だが、あの唐傘妖怪は別なのか?」
「ちょっと、上白沢さん。質問が多過ぎますって」
「慧音で良いよ。名字で呼ばれるなんて堅苦しいのは、古老との会議だけで十分だ……大体お前達、あの屋敷の噂を知ってて這入ったのか?」
「噂……ですか?」
「何だ、てっきり里の子供達の噂でも真に受けて、中に這入った物だとばかり思っていたんだがな」
そう言って小さな溜め息を吐くと、慧音は手にしていた姫林檎のもう半分を口に含んだ。
「詳しい話は私も知らんが、どうやらあの屋敷に住んでいた一家は、神隠しに逢ってしまったらしい」
「……神隠し、ですか」
早苗は地下の部屋で見た白骨死体の様相を思い出し、よくも自分は死体を目の当たりにして平然としていられた物だ、と考えた所であの部屋の中の腐臭を思い出して、また吐き気が込み上げて来たのを思い出す。
「幻想郷が外から隔絶されるのとほぼ同時期だと聞いたから、私が生まれるよりも前の話だし、私でさえ知らない領域だ。厳密にはその事件が起きたのは幻想郷では無いからな……お前も屋敷の中に入ったんなら判るだろうが、あの家はここいらに幅を利かせる豪農だったらしい。父と、母と、娘の三人で住んでいたと聞くが、神隠しが起こる数年前に、奥方が流行病で亡くなっていたそうだ」
「え? お母さんは病死だったんですか?」
「当時の文献には、そう記してあったな」
姿見の中の自分に向かって語りかける小傘の姿が、早苗の脳裏を過ぎる。
記憶の中の少女の言葉をなぞっていたらしき小傘の口ぶりでは、てっきり間男でも作って逃げ出してしまったのだろう、と考えていただけに、その慧音の言葉は早苗にとっては衝撃的だった。
――『忘れられたモノ』に過ぎないのにねぇ……。
唐突に、幼い頃に繰り返し読み聞かせられた『かぐや姫』の最後の場面を想起する。
羽衣を纏う事で育ての親を忘れてしまったかぐや姫が月、即ち、違う世界へと旅立ってしまったように、幽明境を異にした母親が、自分の事を忘れてしまったに違いない、とあの少女は考えていたのだろうか。
「――ある晩、記録的な大嵐が村を襲った。酷い雨と風が、村の家々に襲い掛かった。翌朝被害を確かめる為に村の中を巡っていた村人の一人が、あの屋敷から父親の姿も、娘の姿も消えていることに気付いたそうだ。布団は敷かれたまま。書き物の道具は打っ棄られたまま。嵐の夜に出かける用事も有る筈がない。そういった事から、時の村人達は、嵐に紛れてやってきた天狗か、何かしらの神の類に連れ去られたんだろうと判断した。廃屋敷が取り壊されずに残って居たのも、祟りを恐れての事だ。この神隠しの数年後に人里への不可侵条約が、妖怪と人間との間に結ばれたから、事実上これが里の内部で起きた最後の神隠し――あるいは妖怪による人間の襲撃事件、ということになる」
「――そうなんですか」
早苗は溜め息交じりに寝返りを打って、慧音に表情を見られない様、背中を向ける。
早苗も小傘も、あの屋敷で起きた真実を知っている。しかし、だからと言って慧音に真実を伝える気になどなれなかった。親子二人仲良く妖怪に喰い殺された、という慧音が語った歴史上の真実の方が、まだマシに思えるほどの所業だ。
あの白骨死体を糾弾する権利は早苗には無い。彼はもう既に罰を受けている。愛する娘、愛した妻の幻影に小刀で突き殺される、という絶望的な死が彼の身に与えられている。それに、屋敷が燃え落ちた今となっては、何の証拠もない。
もう、終わった事なのだ。何百年も前に。
「――慧音さん」
早苗は傍らに座る慧音に尚も背を向けたまま、ポツリと彼女に呼びかける。
「何だ?」
「それで、文献には、その……被害者の名前、というのは?」
早苗は背徳感を覚えつつも、どうしてもそれを聞かずには居られなかった。
「名前? いや、文献には被害者一家、としか載って無かったな……。何分その文献も、妖怪や神が為したと思しき事件の覚書でしかないからなぁ……」
「そう、ですか……」
期待に反する答えが返ってきても、早苗の心中に落胆は殆ど無かった。小傘の持ち主の形を成していたあの付喪神ですら、『もう忘れてしまった』と言ったのだ。
思えば早苗は無意識に、小傘が焦がれた物はこの世から完全に失われてしまった、と気付いて居たのかもしれない。
それはきっと、小傘もまた同様だったのだろう。
廃屋敷を巡る道中、小傘は持ち主の名前が残されている可能性を探そうとはしていなかった。薄れかけた記憶を鮮明に蘇らせようとするばかりだった。道具の声が聞こえると言った彼女は、しかしその道具達に頼んで、持ち主の名前を辿ろうとはしなかった。
見つかりはしない、と諦めていたからこそ、屋敷が燃え落ちる寸前、彼女はあんなにも必死に、喪服の少女に『名前を教えて』と頼んでいたのだ。
早苗は布団から身体を引き抜きつつ喪服の少女に手を伸ばす小傘を思い出して、慧音にはそれと判らないように目頭を擦った。
「もう、良いのか?」
「えぇ、もう治りました。そろそろ失礼したいと思います」
「そうか。それは良かった。だがその前に、あの屋敷でお前達が何をしたのかを……」
「秘密です」
「……何だと?」
慧音がピクリと眉根を潜めた。表情だけは温和さを保ってはいたが、彼女の目が据わっている事に早苗は気付いていた。
「幾ら廃屋とは言え、屋敷が一軒焼け落ちたんだぞ? 里の中で火事が起きた。お前は死にかけた。大騒ぎになった。それらは全部、お前達の仕業だ。違うか? それなのに、あの中でお前達が何をしたのか言わないんなら、私はお前達を怒るかどうかの判断も出来ないじゃないか」
慧音の言葉もどこ吹く風といった様子で、早苗は黙々と帰り支度を進める。慧音が穿つような視線で早苗を睨み付けてくる。
「――慧音さんも、本当は判ってるのでしょう?」
「……何の事だ?」
「あの屋敷の中で起こった事を、私は死んでも口外しません。私には、何が起きたのかを喧伝する資格なんて無いんです。あの屋敷の中で私は部外者で、第三者で、小傘さんの付き添いでしかありませんでした。さっき私が目の当たりにした全ては、小傘さんとその家族や仲間達の間に起きたプライベートな事柄です。そこに、好奇心や体面で、関係ない誰かが口を挟んだり首を突っ込んだりしちゃいけないんです」
真剣な眼差しで述べられた早苗の言葉に、慧音は口を噤む。彼女は堅物でこそあれ朴念仁では無い。燃え盛る屋敷を見据えながら小傘が語った言葉も理解していた。
慧音は半ば、早苗はきっと喋らないだろうと悟っていた。
だから今、彼女は溜め息を一つ吐いただけで追及を止めてしまう。
「――全く……今回の事を、どのように歴史にしたためれば良いと言うのだ……」
「小傘さんに聞いて、彼女が言った通りの事を書けば良いと思いますよ」
「……これは直観だが、あの妖怪にはどうも、話が通じる気がしないな」
困ったように背後の畳に手を突いて、医家の天井を仰ぐ慧音が薄く微笑を浮かべた。
「なら、それ当たってますね」
帰り支度を済ませた早苗が、疲労の色が僅かに浮かぶ慧音の顔を見下ろすようにして、小さく笑った。つられて慧音も乾いた笑いを漏らす。
秋が近づくに連れて高く青くなっていく空を、アキアカネが一匹滑った。
◆◆◆
「――思い、出した、んだ」
人里に程近い山の斜面を登る小傘が、一歩を振り下ろす度に切れ切れに言う。
付喪神としての、彼女の最初の記憶。道具としての幸福が終わるその瞬間。それが、今の彼女には、昨日の事の様に思い返せる。
「逃げる、逃げる、嵐の、中を、走る、走る、暗い、森の中、を、私、と一緒に……」
山の斜面は急で、道も舗装されてはいない。木々は無作為に生い茂り、地面は多量の根っこが顔を出してデコボコとしている。飛んでいけば楽なのだろうが、小傘は歩いてその道のりを進むことを選んだ。
一歩を踏む毎に、道具としての生涯に幕を閉じた地点が近づいていく。
一歩を送る毎に、持ち主と別れて誰の物でも無くなった地点が近づく。
『忘れる』という人間の基本的な機能に一番敏感なのは、きっと付喪神という種族だ。忘却は人間にとって余りにも自然で、余りにも日常的で、それは何かの死に直結しているということに人間たちは気付かない。気付いてはくれない。
忘れられたくない、と小傘だって望んでいる。でも、それが叶わない願いだという事くらい、長い長い付喪神としての生活が教えてくれた。
――『小刀』は、もう疲れてしまったと吐露した。
彼女の持つ役割をこなし続ける事に、耐えきれなくなったと言った。
小傘も、その気持ちは判る。付喪神は基本的に、人を恨んだ道具が成る妖怪だ。純然たる付喪神である小傘の役割は、人を憎み恨む事に有ると言っても過言ではない。
しかし、小傘もまた、疲れていた。耐えきれなくなっていた。『小刀』と同じように。
どれほど自分が人間を憎んでも、彼らの意識は変わらない。人間の機能から、『忘却』が無くなる事は決してない。叫んでも、暴れても、彼らが自分を思い出すことは無かった。
何物も、失われる運命から逃れることは出来ない。過去が常に失われ続けるからだ。未来が常に向かってくるからだ。それが、『理』だ。どれほど高尚な神でさえも傅かざるを得ない絶対のルールだ。
いつしか小傘は、人を憎むことを止めた。それよりも、能天気に生きた方が楽しいと気が付いた。気が付くまでに、ずっと『理』と一人だけで戦い続けていた。諦めるのではなく、受け入れることが出来るまでに随分と掛かった。そうして漸く、彼女は笑う事を獲得することが出来た。
あの子の名前を忘れてしまったのは、きっとその代償だ。ならば、今後一切笑うことを止めてしまえば、あの子の名前を思い出すことが出来るかもしれない。しかし、過去にそれほどの価値が有るのか? 現在に連なる未来からの糸を断ち切ってまで、欲する必要は有るのか? 今の小傘には、その問いへの回答を出すことは出来ない。
「……こー、こー、だ!」
小傘は山の八合目周辺で横へと手を伸ばすようにして伸びる崖の上で、立ち止まった。
「わぁ……」
そこからは、里を一望することが出来た。街並みが見える。矢倉も見える。人々が生活を営んでいるのが、小さく確認出来た。
更に村の向こう側へと目をやれば、そこには霧の湖がある。畔に佇む紅魔館も見えた。そこから視界を左下にずらせば、そこには真新しい命蓮寺が有る。他にも、妖怪の山の登山口も、少し元気を失いつつある太陽の畑も、ここからでも陰気な雰囲気漂う魔法の森も、相変わらず人気の無い博麗神社も、吹き上がる間欠泉も、屋台の立ち並ぶ中有の道脇の彼岸花が紅いのも、余す所なく、見ることが出来た。
――ここだ。ここで、私は捨てられたんだ。
切り立った崖に足を垂らすようにして腰かけた小傘が、記憶の奥底を掻き分け、そして攫う。
その日は雨も、風も、それまで体験した事が無いくらいに強かった。
小傘は、必死で少女を雨風から守る事しか考えられなかった。少女の様子がおかしい事など、気付く筈もなかった。
何度も何度も、少女は山道に足を取られて転んだ。泥塗れになって、傷塗れになって、それでも少女は小傘をギュッと掴んで獣道を駆け上った。
その日、少女は歌わなかった。壊れてしまったらもう歌を聞かせて貰えないと思うと気も狂わんばかりに恐ろしかった。また少女の歌を聴く為に、小傘は折れてしまわないように必死だった。
そして、少女と小傘はこの場所に至った。
少女はここからの眺めに気付いたのだろうか。酷い嵐の中、それでもここから見える景色が素晴らしい事に、少女は気付いたんだろうか。
少女は、小傘を広げたまま、展望に向けて片腕を伸ばした。小傘の下から少女の身体が抜け出た。少女が濡れてしまう、風邪をひいてしまう。小傘は少女に『早く自分の下に戻って』と声にならぬ声で叫んだ。その声は届かなかった。
『――ゴメンね』
少女が小さく呟いた。彼女は泣いていた。あ、と思う間もなく、小傘の身体は風に吹かれ、少女の手から引き剥がされていた。そしてそのまま、誰にも拾われる事の無い、必要とされる事の無い、無間地獄のような日々が始まる。
今となっては、少女がどういうつもりだったのかを知る術など無い。彼女が何故、ここで小傘と別れる事を決心したのか、きっと誰でさえもその心の奥底を除くことはできない。
彼女は命を絶ったのだろうか。それとも、妖怪に喰われてしまったのだろうか。もしくはどこかに逃げ延びて、父殺しの罪を背負いながらも懸命に生きたのだろうか。いずれにせよ、そこに居られなかったことが、小傘はちょっとだけ寂しかった。
「……でも、良いよ。許して上げる」
雲一つ無い澄んだ青空を仰いだ小傘が、ポツリと呟いた。
博麗大結界は、外界の非常識を幻想郷の常識へと還元する。
小難しい理屈は理解出来ない小傘でも、『外の世界で忘れられたモノ』が、幻想郷に流入する現象については知っている。
結界によって隔絶された幻想郷は、その瞬間から『忘れられた世界』へと変貌したのだ。その言葉は、小傘達のような付喪神の使うそれとは若干の意味を異にする。忘れられることを厭う付喪神にとって、完全なる忘却は死に他ならなかった。
しかし幻想郷の出現は、それまで消えて行くしかなかった存在を許し、保護する場所が新たに生まれたことを意味していた。それは、力の弱い他の妖怪も当然の事ながら、付喪神にとっては楽園に等しい。
『忘れられた世界』は、絶望の響きを脱したのだ。
小傘は幻想郷を見下ろしながら、鼻歌を歌い出す。かつてあの子が歌った歌を。あの子が居なくなり、あの子が育った家も燃え、今となっては自分しか継承する者の居ない、あの歌を。
「ふんふーん……Hallo,Hallo,Forgotten World.……Hallo,Hallo,The World that had forget me.……ふーんふーん……」
――即ち、『こんにちは、幻想郷』と彼女なりの新たな意味合いを含ませながら。
Fin
終わり方が前向きで好きです。
人里で火事があって、そこに妖怪がいたら、まっさきに疑われるような気もするけどそこは小傘の人柄をみんな良く知ってるからだろうか。
オリキャラとの関係性はなかなかつくり込まれていると思いましたが、早苗と小傘の結びつきももう少し盛り込んだ方が、さらに奥行きが出たんじゃないか? と思います。