Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第二話

2012/09/16 22:26:26
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『神気鳴動』




「其(そ)は、ご短慮が過ぎまする」

 というのが、ふたつの派閥から同じく出た言葉であった。

 場に幾本か立てられた灯明の光が暗闇を伏せ、政所(まんどころ)を分かつ評定(ひょうじょう)衆の顔をぼんやりと浮かび上がらせている。彼らの顔には頬といわず額といわず、汗の痕跡がぬらりと光っていた。その晩は、むわりと蒸すかのように暑いのだ。

 このごろは初夏らしい梅雨時でもある。

 ともすれば、雨が降りやむとき代わりに残していく湿気のせいで、諏訪の柵でも、あちこちに朧気な暑さが閉じ込められているみたいだった。現に格子戸の向こうでは、未だぽたぽたと雨音の残りが燻ぶっている気配もある。しかし、取りも直さず。評定衆の顔を光らせる汗も、政所に満ちる暑苦しさも、それは直ぐには結論を出しかねる厄介な問題を抱え込んでしまった、出雲人たちが感じる苦悩の熱だったのかもしれない。

「出雲本国にお伺いを立てる必要など毛頭ございませぬ。ご婚儀の件はお断り申し上げ、あとはわれらが内々に始末をつければよろしい。東国での政、八坂神に一任されたはそもそも主上の御叡慮(ごえいりょ)にござる」
「斯様な速断こそが、過ち生みだす。それでは何のために夜っぴて評定を行うておるのかが解らぬではないか。和睦のための方策として、敵と味方との婚儀の話は残しておくべきだと、わしは思うのじゃ」

 そして今また、そんな苦悩の中から何度目かの案が絞りだされた。
 二列に並んで向かい合った出雲勢の評定衆は、その数、十人ほど。
 誰もが、疲労と意地のふたつが混ざった光を両目に湛えて止まなかった。

 政にまつわる彼らの意地は、つまり誇りの謂い(いい)でもある。

 なぜなら評定衆とは、出雲人としてはいずれ劣らぬ家格と政見を持つと自負する、出雲東征軍の重鎮たちであるのだから。八坂神奈子の行く先において、政の方針を決める合議には必ず参画してきた人々なのである。彼らはいくさ神である神奈子の加護を受けた武人たちでもあったが、――たとえば後の平安時代にその萌芽を見る武士階層の人々のように、甲冑を着込み、つるぎを手に取って戦いを駆け巡る専門の軍事階級というわけでもなかった。

 武士という軍事階級の発祥。
 それは自らの土地や、土地に根差す権益を守るために武装を始めた豪族たちであるというのが、もっとも古典的な説であるらしい。より具体的には、墾田永年私財法に続く律令制度の退廃と、また力ある者が荘園というかたちで私有地の掌握が可能になったことが大きな役割を担ったと、歴史家たちは書いているようだ。ならば、未だ天皇――この称号が正式に採用されるのは、天武帝の御世のこと――によって、日本国中が公地として支配されるようになる以前の古代においては、葦原中ツ国に割拠する各地方の豪族たちの権勢は、武士のように土着的な権益を守るための、ごく素朴な意志を行動原理とする人々のものであったと想像することも、可能であるとは言えないだろうか。

 ならば、出雲の地にて累代(るいだい)の血筋を重ね、自らの国の拡張のために戦い続けてきた彼ら重鎮たちは、行動原理のうえでは武士の遠祖のようなものと考えられる面もある。しかし、あくまで彼らは“武士と似通った者たち”であるに過ぎない。突き詰めれば、その身上はやはり武士とは違うのだ。出雲という土地の権益を確保する武装豪族という以上に、国家統一を目論んで外なる国々に漕ぎ出した彼らには、権益護持を超越した、霊感とも言える矜持が誰にも備わっていた。

 大王(おおきみ)を推戴してその御許に侍ることをし、それが『名家』『名族』という意識の基盤ともなっている、どこか王朝貴族にも似た出雲豪族の末裔たち。

 言うなれば彼らの目的は、まつろわぬ東夷の異人異神を天子たる大王の権威に服せしめ、自分たちが葦原の中ツ国と呼ぶ世界観の全域を、いずれは王権の内部に組み込むことである。それを任されるだけの血筋に連なっていることが、そもそもの誇りの端緒なのだ。しかして、この評定の場に侍る出雲人たちは、未だ完全な『武官』でもなければ『武士』でもない。率いているのは、あくまで大王から借り受けた一万余の軍兵で、自らの家や権門に依った軍勢ではなかった。出雲に根を張る在地勢力が、最高の権威者から軍を借り受けて戦争をするという、分権と集権の折衷めいた、何か歪で危うい機構がそこには在った。

 いずれにせよ、確かなことは。
 政においても戦争においても――地縁血縁によって生み出された豪族と、王たる天子に仕える貴族と、いくさを生業とする武士の境界線は、『今、ここ』では未分化だったということである。

 だから、東国の地で夷狄(いてき)を相手に戦ったり統治したりするにあたり、必要欠くべからざる武断的な能力と、つつがなく政を行うための文治的な才覚の両面を期待された、半武官半文官とも言うべき者たちが、彼ら評定衆ではあった。だけれど今は、その本領を、政所(まんどころ)の内においてよく発揮するべきときである。

 彼ら出雲勢はめいめい、顔に脂汗を浮かばせながら、いつ果てるともない議論を喧々諤々(けんけんがくがく)に続けていた。二派に分かれて戦わされる議論は、それぞれに相手の意見を「短慮」と批判し、自説の方がより現実に適っていると述べる。それをまた相手が批判し、己の説を述べる。最近は昼も夜もこのくり返しだ。

 つまるところ八坂神奈子の行うべき政は、ここ数日、ずっと停滞し続けていた。
 理由といったら単純なことで、諏訪豪族たちが和睦の条件として提示した、

『新王モレヤと出雲人の女子との婚儀』

 を、受け容れるか否か――というものであった。

 つまり、諏訪のモレヤ王へ出雲人の女子を降嫁(こうか)させるべきかという議題に対して、出雲人の重臣たちが賛成派と反対派のまっぷたつに割れてしまっているのである。それくらいに、この政略結婚の問題は出雲人の陣営にとっては厄介きわまりないものだったと言える。が、それも当然かもしれない。何せ、件(くだん)の婚儀を受けるか否かということは、出雲人の手による諏訪経営の行く末を将来に渡って左右しかねないからだ。

 諏訪豪族という在地勢力の息の根を止めることなく、当地の支配と安定を確立させたい以上、出雲人たちにとっては絶対に避けては通れない問題であった。おまけに、彼らはみな出雲人の中では名家と呼べるだけの出自でもある。出自や血縁に関する意識の高さは、その辺の将士とは比べ物にならない。そんな自分たちが、諾々と東夷の土豪に従ってたまるものか。……と、そんな思いもまた、問題をこじれさせる一因であったかもしれない。

「そもそも、いかに幼いとはいえ自らの王を人質に差し出すなど、正気の沙汰とも思えませぬぞ。まずもって、この一事こそ諏訪豪族どもの不誠実、その何よりの証ではございませぬか」
「否。自ら奉じた王をこそ人質として差し出すほど、連中はわれら為すところの御いくさを恐れておるということ」

 重臣たちのなかでも比較的若い方のふたりが、各々の自説をぶつけ合う。
 最初のうち、「東夷の王に出雲の女をくれてやるなど、もってのほか! 人質などさっさと殺してしまえ!」と過激な物言いを同じくしていたふたりだが、議論がより深化した今では、まったく別の意見を主張するに至っていた。少し時間が経って、冷静さが戻って来たということであろうか。

 諏訪の旧主たる土着の神――今や出雲人の政にも当たり前に座するようになった亜相の諏訪子は、堂の上座で神奈子とともにそれを聞く。いま意見をぶつけ合わせているふたりは、双方ともいかにも若者らしい、血気盛んな色の見える物言いをするものだと、少女の見た目にも似合わず達観したところのある彼女は思う。

「その考えこそ、甘すぎる。いくさの情勢を鑑みれば、諏訪豪族たちは完膚なきまで叩きのめされたとは言いがたし。それに、幾年にも渡る東征のいくさの果てに、わが出雲勢の将兵もまた疲弊すること甚だしい。豪族輩(ごうぞくばら)はひとまず面従腹背を決め込んで、体勢を立て直したうえで再び叛旗を翻そうとしておるのやも」
「なれど、連中が求めておるのは、何よりモレヤ王が子を為し、その産まれし子が祝(はふり)にふさわしき力持つ女子であることという。豪族どもは、神を祀ることで政を手にしている。そのような者たちが出雲人に新たに叛くということは、すなわちモレヤ王が子たる、出雲と諏訪の血を受け継ぎし祝を危うき目に晒すということではないか。斯様な振る舞いは自らの権力を証する者を、われら出雲人の報復のために殺されかねない。東夷の蛮族とて、よもやそこまで愚かなはずがないであろう」

 そうじゃ、と、ふたつの意見にまったく同時に、しかし別々の派閥から賛意の声が上がる。元は生国(しょうごく)と志を同じくする者たち……よもやここで意見の相違を理由に喧嘩や斬り合いになることもないだろうが、今や少年王モレヤの存在を種とした政の混乱は、極みの域にまで達しようとしていたのかもしれなかった。幾晩同じことを話し合っても、いっこうに有意な結論が出ない。結局は、誰もがみな同じような意見を何度も並べ立て、堂々巡りをくり返し続けるのだ。

 諏訪子は、「はあ」と溜め息を吐く。

 少女の小さな声は、政所を埋め尽す出雲人たちの諤々たる大議論に呑まれて掻き消えていった。自分の溜め息が政の滞りを憂える王としてのものか、それとも日々の仕事に疲れた少女のものなのか。それは、諏訪子自身にもよく判らなかった。

 彼女が諏訪旧主の立場を尊重されて、こうして評定の場に加わってからそれほど日を経ているわけではない。それでも、今後の諏訪の政に関わる幾つかのこと――とりわけ出雲の王権が公有すべき土地の検地だの、祭祀の儀礼にまつわる租税の取り立てだのには何度も意見を求められたし、己の名と意思で政令を発することも、少しずつだが許されるようにはなっていた。

 しかし、それでもなお解決しがたいのは、諏訪人と出雲人の戦いをいったいどこで終わらせるのかという、その和睦の着地点なのである。実際の戦闘はまったく終結して、和睦自体も一応は諏訪子の折衝によって約されたとはいえ、それはあくまで仮初めのことに過ぎなかった。出雲勢のうちで未だにモレヤの処遇に対する意見の統一が為されていない以上、戦いは水面下に火種を抱え続けている。事態は、ぼろぼろの天秤がかろうじて水平を保っているのと同じようなものである。そして天秤の傾きひとつが変わっただけでも、また直ぐ次のいくさの原因にならないとも限らない。

 ――これは、まずきこと。

 と、諏訪子は桃色の唇を舌で舐め、忌々しげに眼を細めさせる。

 諏訪豪族たちにそんな意図があったのかどうかは解らないが、……もしかしたら、連中がモレヤ王の政略結婚を打診してきたのは、こうして出雲側の政を混乱させる計略なのではないだろうか。そして政が停滞している間に、今しも新たな叛乱の準備を進めているのではないだろうか。そんな荒唐無稽な疑いさえふと抱いてしまうほどには、連日連夜の果てしない評定に、諏訪子も飽いてきてはいたのであった。

 だが、評定の主役である出雲人たちは、努めて疲れを忘れようとするかのように、今また延々と議論を戦わせている。骨の隙間に土を張りつけたような痩せぎすと、革袋に脂を詰め込んだような肥満体の男が、新たに議論を引き取った。

「愚かであることと怖ろしきことは、同じことではない。窮鼠が猫を噛み、その傷から重き病を発して猫が命を失うこともあるやもしれぬ。何より警戒すべきは、諏訪豪族の心変わり。いかなる政を行うても、いつなんどき叛意を抱かれるものか知れぬ。そうなれば、出雲人が尊んできたうつくしき天子の御血筋が、モレヤ王という東夷の血を混ぜ込むことによって穢されるだけに終わってしまう」
「落ち着かれよ。それをさせぬための、モレヤ王のご婚儀ではありませぬか。モレヤ王と、主上が御血筋の女子とのあいだに新たに子が産まれれば、すなわち主上は諏訪王家の外戚(がいせき)にお成りあそばされるということ。そうなれば、産まれてきた子が男子であろうと女子であろうと、われらが天子、われらが大王は諏訪の政に対して常に一定の権限を持つことができるはず。諏訪人に不逞の輩、不埒な動きがあろうとも、大王の御稜威(みいつ)によりて抑え込むことができようよ」

 ふうん、と、諏訪子は小さな息を吐いた。

 もう何度も聞いたような話だったが、頭を冷やすためにあらためて耳を傾けることをする。神奈子の力を後ろ盾にして諏訪豪族たちと対決する道を選んだ彼女にとっては、出雲人の主上である『大王』の権威を味方につけることができるというのは、それなりに魅力的な提案と言える。彼女自身は未だ会ったこともないが、出雲本国におわす大王という者の玉体は、天上を支配する神の子孫にして、人界においては並ぶ者なき傑出した祭祀者、出雲人の言葉を借りるのであれば『現人神』ですらあるのだともいう。

 さすがに……ある程度は、大王の権威を大きく見せるための過剰な喧伝であろうと疑う気持ちが、諏訪子にもある。

 古代――それこそ、未だ人々の歩みを“歴史”として残すという感覚が希薄なほどの時代――における政治とは、すなわち祭祀ということと意味を同じくする部分が多分にあったらしい。そもそも政という言葉は、『祀りごと』に由来するとまで言われる。祭政一致の政体においては、神霊と通じるうえでより強き力と優れた血統を持つ者は、そのまま神の代弁者として人民を統治する資格をも持つ。そのように称しても過言ではないだろう。超自然的なものの意思を無視しては、人々の生存さえ立ち行かない神代であった。だからこそ、諏訪人も出雲人も、やはり諏訪の新たな祭祀王であるモレヤの血を次代に残すべきか、出雲の女子を降嫁させるか否か、こんなにも堂々巡りの議論を続けているのだ。

 それは、すなわち。
 諏訪を支配するにふさわしい血統はモレヤ王のものか、それとも出雲の大王のものか。そういう争いでもあった。

 諏訪子としては……。
 自らが諏訪を掌中に収めるためなら、八坂神奈子と密かに手を組んで互いの協力を約したごとく、現人神たる大王の御稜威にしばし頼ることもあり得る。そういう風に、利得を優先した考えをしないでもない。神奈子をもさらに凌ぐ者の血と権威が手に入るのなら、確かに政の正当性を誇示するための強力な武器ともなろう。モレヤ王はミシャグジ蛇神を祭祀する者であり、ミシャグジ蛇神を統括するのは諏訪子である。だからこそ、諏訪豪族たちは未だに諏訪子への信仰を棄てることができない。統御する者のないミシャグジは、堤の決壊した激流のような怒りの化身なのだから。そして武力に長ける出雲人もまた、ミシャグジ蛇神を従わすだけのものは未だ持ち得ていないのだ。懐に刃を秘めたまま、互いの妥協点を探らなければならない今日(こんにち)の政情ではある。

 だが、この不安定な政情の根を成す婚儀を成功裏に導き、モレヤとその子を思い通りに動かすことができるのなら、諏訪子の目論見はひとまず成就の第一段階ともなる。後は、やはり諏訪豪族たちを厄介に思っているだろう神奈子と上手く足並みを揃えて、連中を牽制する手段を押し出していけば良い。

 ――というのが、諏訪子の思い描く筋書きといえば筋書きである。

 しかし、どんなやり方にだって“諸刃のつるぎ”としての面はある。それが解らない彼女ではない。何もかもが斯様な思惑通りに進むはずはないという仮定は、謀略を巡らすうえでは必要不可欠。諏訪子は善き王である以前に、崇る神であり、荒ぶる御霊(みたま)。狡さでいえば、神奈子にも引けは取らないのである。

 だからこそ、「其許(そこ)の考えには……」と、出雲女子降嫁の際につきまとう危うさについて、諏訪子が自らの意見を語ろうとした瞬間のことである。薄くなった白髪のせいで角髪(みずら)を結うのすら難しくなっているひとりの老臣が、加熱しつつある他の評定衆を諌めるような穏やかな口調を見せた。

「確かに、それは正しい。主上たる大王の政、東国の地にてもまた強きものとなろう。だが、よう考えもみよ。モレヤ王に子がお産まれになることを豪族たちが待ち望んでおるのは、なぜか、とな。……おそらくは、幼き子を支える臣として、政を思うさま動かさんと考えるがため。と、すれば、外戚となった出雲人とはいずれ政を奪い合い、相争う事態ともなろう。それなる争いは一国の政を退廃に追い込み、果てはいくさの種になってしまう。政略のうえでご婚儀を行うのであれば、皆々、そういう一長一短があることも慮る必要がありまする」

 諏訪子の考えを見透かしたように、彼の抱く危惧は一致しているのである。
 皺だらけの顔は、どこか微笑を湛えているようにも見えた。
 他の者たちはしばし黙るが、しばらくすると再び口を開いて議論を戦わせる。

 けれど、評定衆がいかに烈しく言葉と意見をぶつけ合わせようとも、最終的な裁定を下すのは――むろん、八坂神奈子の仕事なのだ。気がつけば格子窓の向こうでは雨が止み、東の空の果てが白んできそうな気配すらある。いくさ、政、連日の評定。出雲を出てから十年余りも東国で戦い続けてきたという彼らもやはり人の子。その身体に疲れは溜まる。少しずつ、目蓋が鉄の重りに変わったように、とろとろと下がりかけている。

「八坂さま!」

 と、神奈子の裁定を求める声が上がるのは、いつもそんな眠気混じりの頃合いでのことだった。評定衆の視線がじろりと堂の上座に注がれ、諏訪子の隣に位置する神奈子を仰ぎ奉った。

「モレヤ王のご婚儀の件をお受けなさるか否か。新政発足の宣言を行うときか、あるいは遅くとも行幸(みゆき)の前までにはお決めなさらねばなりませぬぞ。いつまでもずるずると引きずっていては本来の政が滞るばかりでなく、八坂さまご自身、ひいては主上の御名にまで傷がつきまする」

 何とぞ、迅速なるご決断を……!
 
 ひとりが額を床で削るごとくひれ伏すと、他の者たちも一斉に神奈子に向けてひれ伏した。腹に一物秘めた豪族たちの思惑に晒され続けてきた諏訪子にすれば、こんな風に一心に頭を下げてくれる臣下たちを見るのは、経験したことのないような新しい快感でもある。だが、今はそんな毒めいた権力の愉しみに浸っているときでなし。ましてや、眼前の出雲人たちは自分の部下でなく神奈子の部下なのである。

「八坂さま。わたくしからも、お願い申し上げ奉りまする。いま諏訪の地に安寧もたらすことできるか否かは、あなたさまの御叡慮にかかっているのです」

 諏訪子もまた、横目を遣ってかたわらの神奈子を見遣るのだった。
 だが。

「ん。……うん」

 神奈子は返事にもならないような曖昧な返事を返すと、呑気に大あくびをひとつ、誰はばかることもなく堂々と吐き出して見せた。それから、

「むつかしいことであるな。男と女の仲はむつかしい。ましてや、それが家と家との交わりだの、政に関わることなら、なおさらよ」

 と、決まりきったことを泰然と言ってのける。

 これには、彼女を信じて遠く出雲から従ってきたのであろう廷臣たちも、さすがにいら立ちを覚えぬわけにはいかなかったらしい。ピンと張った糸みたいな緊張が、にわかに肌を刺すのが諏訪子には解った。おそらく、ひれ伏したままの彼らがこのまま面(おもて)を上げるなら、真っ先に神奈子を睨みつけてしまうだろうというのも。諏訪子自身もまた、少しばかり眉根に皺を寄せて神奈子を見つめていた。

 それも、当然のことではあったのだろう。
 なぜなら政所の長であるべき八坂神奈子は、いま、上座に座るのではなく寝転がって頬杖を突き、気もそぞろと言った風に、果てしない議論に耳を傾けるばかりだったからなのだ。

「そう畏まるなよ、そなたら。“上”から見ておったが、気味の悪いこと甚だしい」

 薄く酒のにおい残る息を吐きながら、ようやく神奈子は起き上がる。
 諏訪子は何度目かの溜め息を吐いた気がしたけれど、今度のは王としてのものでも少女としてのものでもなく、盟友として神奈子の態度の悪さを案じるものだった。一方の神奈子自身はそんな心配などどこ吹く風で、気だるげに一座を見渡すと、あらためて声に力を込め始める。

「もいちど頭を冷やせ。そして、よう考えてもみよ」
「われらは皆、考えに考え重ね、こうして八坂さまの御裁断を仰ごうとしておるのです!」

 耐えかねて、評定衆のひとりが神奈子に反駁(はんばく)する。
 強硬にモレヤ王の婚儀に反対していた、あの若い出雲人だった。
 だが、神奈子は彼の言葉に二、三度うなずく素振りだけ見せ、自分の話を再開した。

「諏訪豪族たちと和睦結ぶべく行うた折衝の際、この諏訪子が――」

 と、神奈子は薄い笑みを浮かべながら諏訪子を見遣る。

「――諏訪子が会うたモレヤという男子(おのこ)は、確かに豪族たちから王として奉じられておったのであろう」

 突然に話を向けられて、驚きながらも諏訪子はうなずいた。

「豪族たちが、われら出雲人に叛くための旗頭とするだけの者。よもやそこらの田夫野人(でんぷやじん)を連れてきて、王でございと名乗らせているわけでもあるまいが」
「とは、いかなる仰せか読めませぬが」

 思わず口を出したのは諏訪子だった。
 出雲人たちも、諏訪子に同心する様子で「おお」と唸った。

「諏訪子。モレヤは、己のことを“神霊によりて母が身籠った子”であると称したそうだな」
「確かに。この耳でしかと聞き届けましたゆえ」
「そうか。だが、その話が……モレヤが神意を受けて産まれし子であるという斯様な言説が、“まことでなかったら”何とする」

 シン、と、一瞬にして場が鎮まった。

「八坂さまは、モレヤ王が嘘を吐いているとの仰せにございまするか」
「仮にあり得べきことを申しているまでのことだ。嘘を吐いているとまで断ずるつもりはない」

 風というものをいくら引っぱたこうと思っても、空気の塊でしかない風を引っぱたくことなどできはしない。神奈子の返答に、諏訪子はそんな風のように手応えなきものを感じさせられた。一方、評定衆はどんな言葉を賜るのかと思い、怪訝な顔つきの諏訪子とはまるで対照的に、緊張しきった眼をふたりに向けていた。神奈子は語る、道化めいた諧謔混じりの声音を使って。

「豪族たちが欲しておるのは、ミシャグジ蛇神の意を人民に伝えることのできる巫(かんなぎ)や祝(はふり)。その口よりまろび出る言葉に示されたことを、豪族たちは行うておるという建前よ。いわば諏訪王というは、豪族たちの手で御するに容易な者であろう。新たに女子を産ますために婚儀の話を持ちこむは別儀と考えても……、ひとまずいくさを続けるための旗頭として、そうそう都合良く神の血筋など引く者が、果たして見つかるであろうか」

 呼吸する音すら止まりきったように、評定堂が静まり返る。
 誰が言ったか、

「では、八坂さまはモレヤ王の御玉体に宿りし神なる血統をお疑いになると」

 という震えた声が、薄闇に満ちる沈黙に穴を開ける。

「そういうことになるな。モレヤが持つ強き霊力は、まことのものであろうと我も思うておる。だが、それが真に神意によりて授かりしものかは疑わしきものある。生国や氏素性のはっきりとはせぬ怪しげなる巫女は、決して珍しきものではない。そういう者らはな、自ら招かれし祭礼の晩には神と霊感を交わるごとく、男たちとその身を交わる。また日々の糧を得るべく、神頼みのすべに加えて、身を“ひさいで”生きねばならぬ哀れな女たちも諸国には多い。われら東征の将士もまた、そのような者たちを方々に見てきたではないか。モレヤの母もまた身を落ち着ける国持たぬ祝というなら、“神意によりて”身籠ったというのは、父の知れぬわが子を慰むるための、母の心遣いであったやもしれぬ」

 唾を飲み込むようなくぐもった音が、何度か諏訪子の耳には入った。

 言葉を失くした評定衆が発した反応であっただろうし、諏訪子自身が思わずしてしまったことでもあったかもしれない。むろん、神奈子の言ったことは可能性の一端として考えのうちに残しておいたことではある。けれど、意図して考えないようにしていた面は、諏訪子本人にも確かにあった。ひょっとすると、この場に介した出雲人たちですらそうであったかもしれない。誰もみな、戦いには飽いている。ひとりの少年の存在が犠牲になれば、きっと万民が救われるのだ。だからこの際、……少年王モレヤの氏素性など気にすべきではない。そういう冷酷とも言える判断を下しかけていたことに、諏訪子はようやく気づかされた。

 諏訪子と、それから評定衆の全員をまじまじと見渡し、にィ、と神奈子は笑う。
 どこかいたずらっぽい、皮肉な笑みだった。
 数月、彼女と一緒に過ごしてきて、諏訪子には神奈子の腹のうちが何となく解るようになっていた。神奈子がこんな顔を見せるとき。それは、たぶん何かの隠しごとをしているときらしいのだ、と。

「婚儀の話は、出雲と諏訪の両者に益ある美味きもの。だが、むざむざと諏訪豪族どもの腹から発した策動に乗りかかるは、この八坂神が自らの誇りをわが手にて謗る(そしる)に等しい。“モレヤ王がまことに神の子か否か”。其を忘れて目先の利を取り合うごとく行われる評定は、見聞きするだにおぞましい」

 それからの神奈子は――どこかわざとらしいまでに怒りをあらわにしたようである。

 胡坐(あぐら)に座り直し、いかにも激昂を演じているというように、握り拳で自らの膝を何度も何度も叩いていた。諏訪子も、評定衆も、呆気に取られて諫言もできなかったし、ひれ伏すことさえ忘れていた。事ここに至って、よもや八坂神奈子ともあろう者が、自らの誇りとか面子を気にして議論を中断させるとは思わなかった。まして、モレヤ王の出自という瑣末とも思える事情にかかずらわるなど。血統意識の強い出雲人たちでさえ、努めて話のうえに出さぬよう、取捨を選び続けてきたというのに。

 それもこれも。
 政の良し悪しには、時として人の情というものを排除してしまった方が良いこともあるというのを、よく解っていたからだ。誰も言葉にはしないながら、皆の顔には、紛れもなくそういう気持ちが浮かび上がっていた。

「我はもう寝る。婚儀については、またあとで話を進めることに致そう。そなたらも早う休め。検地、租税、労役、普請。論功行賞と土地の配分に関しても考えねばならぬし、鉄づくりの匠たちと交渉を行うて鉄の流通も握らねばならぬ。それに戦いで荒れ果てた諏訪御料の回復に御所の修繕。……モレヤのこと以外にも決めねばならぬことは山ほどあるのだ」

 早口にそう告げると、神奈子はすばやく立ち上がった。
 そして灯明を蹴倒さんばかりの勢いでずんずんと歩みを進めると、雑掌(ざっしょう)の舎人が評定堂の扉を開けようとするのもまるで構わず、自らの手で扉を押し開いて出て行ってしまった。腰に提げた剣の柄が開きかけの扉の端にぶつかり、がちゃっ、と小さな音を立てた。

「八坂さま、お待ちくださりませ!」
「八坂神! 八坂神! 評定は未だ終わっておりませぬ!」

 すっかり呆けていた評定衆もいつしか「はッ」と我に返り、身を乗り出して声を上げ、神奈子を制止しようと試みる。しかし、すべては後の祭りだった。話の受け答えが風のように掴みどころのないものなら、堂を退出する際のすばやさもまた突風のような神奈子である。廷臣たちの切実な叫びを聞いたのは、“かはたれどき”の薄闇に融けていく、彼女の背中だけだった。


――――――


「八坂さま!」

 叫ぶ声は、廊下を突き進む自分の足音でほとんどが掻き消えてしまっていた。
 が、それでも諏訪子の意が相手に届いたのは、何よりもその足音の響きのさなかに、拭いがたい憤りがほとばしっていたからではなかっただろうか。

 眠気混じりの神奈子の足取りは、戦いに赴くため鎧を着込んだ武人よりも重々しい。
対して、政を動かすという期待のために意気軒昂な諏訪子は、小柄な少女の身体のどこにそんな力があるだろうかというほどに、少々、乱暴ともいえそうな勢いで床上を突き進んでいた。

「諏訪子、夜中に大きな声を出してくれるな。それに、あまり強く床を踏むものではない。神の過剰な強力(ごうりき)で穴が開いたら何とするのだ」
「わたしの身はそこまで重々しきものでは……って、そういう冗談を申しておる場合ではありません」

 次第に歩みを緩めて立ち止まると、胡乱な仕草で自らの顎をひと撫でし、神奈子は再びあくびを見せた。夜通しの番をした男が、髭に覆われた顎を撫でまわす仕草にも似ている。

 評定堂のうちにあっては、議論をむりやり中断させるための演技としか思えない神奈子の行動だったが、いま諏訪子が眼にしたのは本当の眠気から来るあくびに違いなかった。その証拠に、諏訪子だって神奈子と同じくらいに眠いのだ。それなのに眠気を押して神奈子の元まで押しかけるのは、政を中断させたことへの抗議でもあるし、それに、仮にも盟友として約した神奈子の不誠実を、自分が何とかしなければという気持ちのせいでもある。

「それが解らぬ神奈子なものかよ。戯れにも冗談にも、諏訪子が寝物語だの伽の相手だのに応じる者でないのはよう知っている」
「では、なぜ……」

 なぜ、無理に政所を退出したのか。
 と、諏訪子は訊きたかったし、実際にそうすべきだったのだろう。

 けれど、その疑問は言葉として意味あるものにはなってくれず、溜め息となって夜の空気に融けただけだ。手遊びをする風につるぎの柄に手を掛けた神奈子は、そんな諏訪子を詳しく見もせずに背中を向けた。彼女の行宮は、もう数十歩も進めば直ぐである。雨風に濡れた禁裏守護の衛兵たちの顔々をうっとうしげに見回しながら、神奈子は「諏訪子」と呼ぶ。

「何です」
「諏訪子」
「だから、何です」

 唇を尖らせ、ムッとした顔をつくる諏訪子。
 神奈子は、そんな彼女にちらと背中越しの視線をくれてやっただけである。
 そして、またも「諏訪子」と呼んだ。今度ばかりは、諏訪子は何も答えなかった。

「そう。そなたは諏訪子だ。この八坂神が名を与えたところで、その性は依然として諏訪に棲みし崇り神なのだ。怖ろしき、ミシャグジ蛇神の元締めなのだ」

 突然に、何を申されるおつもりか……。
 小声に、そう答える。
 もう、とうの大昔に過ぎ去った愚弄を、今さら蒸し返されたようないら立ちを覚えてしまう。背の高い神奈子の眼をじいと見つめていると、「そなたと私をそれぞれにかたちづくる“根”は、元より違う」と言われているような気分にもなる。

 しばらく、ふたりは揃って押し黙る。
 やかましいのは、ただ東の空を白ませる太陽の幼さだけだった。
白々と染んでいく、いくさ神の顔つきが、ようやく諏訪子に正面から向けられたとき。神奈子の表情には、どこか失望らしいものが浮かび上がっている。それは、諏訪子が今までいちども見たことがないような八坂神奈子だった。気弱でちっぽけな。神というより、悩みに沈むひとりの人と言っても良かった。誰を相手にしても絶えることのない不遜と、ふたつとない武威に裏づけられた傲慢と、しかし、そのふたつが不思議と周りの人々を惹きつけてやまない――そんな神奈子では、どうしてか、なかったのだ。

「…………どうされました。どうして、そのように気弱いお顔を諏訪子に見せるのです」
「どうも、せぬがな。ただ、八坂にも悩むときはある。こればかりは、わがつるぎで勝手自在に断ち割ることも叶わぬ」
「では、何が御不満か。モレヤ王の婚儀が、そんなにも気にくわないとの仰せにございまするか。だから、評定の場より逃げ出したのかと諏訪子は見立てておりまする」

 われ知らず、責めるような口調になってしまったことを、密かに後悔する。
 が、神奈子はそんな諏訪子の口ぶりを、むしろ好機と判断したらしい。
 にい、と、皮肉げに唇を歪めて、言葉を選ぶごとく話を継いでいた。
 どうやら自分は、神奈子が今の感情をありのままに吐露するための“取っ掛かり”として利用されたらしい。そんな風に、諏訪子は悟った。

「モレヤの婚儀、気にくわぬかと問われれば、大いに気にくわぬと答えるよりほかあるまいが。諏訪子、そなたはどうなのだ。祟り神は、心、乱されることないのか。十(とお)にもならぬひとりの子が、われら為すところの政によって絡め取られようとしておるのだぞ」

 ひどく切迫した声である。
 相も変わらず唇を尖らせたまま、神奈子の語りに耳を傾ける。

「否、私や諏訪子だけではない。婚儀の話を持ちかけた諏訪豪族、出雲本国におわす大王まで巻き込んで、モレヤは“政のために”生かされようとしておるのだ。いくさにては、われらは征矢の一本さえ惜しむことあろう。限りある矢を如何様に使うか、それでいくさの趨勢が決まることもある。しかし同時に、千余の征矢に勝りていくさを終わらすだけの意味を持つモレヤの身を、棄てるか否かの瀬戸際に立っているのが私とそなただ。婚儀を受けるか否か。どちらを選びても、モレヤの一生は政のせいで緩慢に殺されるも同然。斯様なことは、いくさ神の誇りを自ら穢すことになると思う」

 ――――どうせならそのモレヤという男子がよ、この八坂神が手で武人として華々しき死に場所を与えてやることができるほど、成熟した男であれば良かったのに。

 最後にそうつけ加え、盛大な溜め息を神奈子は吐いた。
 怪訝な色をした諏訪子の視線に気づき、彼女はなおも言いわけめいた弁を弄するのだった。

「より良き国つくるためなら、いくさの後始末として卑しきこと、汚きこともやってみせるし、現に、この諏訪の地にても何度も行うてきた。“諏訪さま”に諏訪子の名を与え、亜相(あしょう)の官に任じ、その権威を借りて民心を宣撫し、ついには出雲人に降った諏訪豪族との折衝までそなたに任せ、出雲人に王と臣下の対立が飛び火するのも防ぐつもりであった」
「八坂さまの……そういう“小狡い”ところは、諏訪子がいちばんよう存じております」
「そうであろうよ。そなたが私を利用するごとく、私はそなたを利用しているのだから」

 と、神奈子は力なく微笑する。

「なれど、いざ戦いが終わってのち、十年二十年先を見据えねばならぬ際――ああ、笑うてくれるな、諏訪子よ――八坂はいささか臆病になる。いくさは、生くるか死ぬかを考えておれば良い。それは何よりも高潔で、清廉なことである。白刃のもとにて一瞬の命のきらめきを見るは。だが、終わりなきこの世の政は、綺麗ごとですべてが片づくわけがないではないか。十年先、二十年先、いや百年先までも。それだけの年月を築くために“人柱を選ぶ”かのような行いを、今のわれらは考えている。言うなれば……私は不安で仕方がない。モレヤを人柱として諏訪の地に国つくるは、まことに正しきことなのか。それは、ひとりの男子に対し、あまり酷に過ぎる道を歩ませることになるのではないかと」

 彼女は、雄弁だった。だが、未だ解らないこともある。
 モレヤの政略結婚に反対することが、八坂神奈子という神が発する人民への憐れみなのかどうか。いや、たぶん違うと諏訪子は見立てた。モレヤの進む道は、今や神奈子と諏訪子のふたりが握っているも同然なのだ。だから、ふたりが決断を誤れば、いずれモレヤは、そして諏訪の地は、破滅へと転がり落ちてしまうだろう。

 やはり、諏訪子はいら立った。
 端的に言うのなら、神奈子は『卑怯』なのだ。

 モレヤを案じる素振りを見せて、その実は自分が決断を誤ることで国を失うことを恐れている。それは、支配する者としては当然の気持ちであったかもしれない。忠臣を装って政を壟断(ろうだん)してきた諏訪豪族たちを恨むばかりだった諏訪子にだって、そういう暗い思いがなかったとは言えない。

 王ひとりでは、王は王たりえない。王を王と奉ずる人々を足場にしてこそ、初めて王は王なのである。だが、足場たる人々の姿はどんなときでも不明瞭である。ひょっとすると、その足場にはとうの昔に修復しがたい亀裂が入っているということだって、十分にあり得る話である。神奈子は、その亀裂を恐れている。自分の誤った判断が、未だ完成してもいない諏訪という足場を破壊してしまう事態になりはしないかと。東国の諸国諸州を踏み潰し、その御剣を数多の血と怨嗟で塗り潰してまで諏訪に新たな国を築こうとしている、八坂神奈子といういくさ神がである。

「何を! 何を今さら、斯様に甘ったれたことを申されるか!」

 朝焼けの始まった諏訪の空に、一個の怒声が響き渡った。
 突然のことに神奈子は“きょとん”とし、その大柄な身をわずかにのけ反らせてしまう。

「八坂さま!」
「お、おう」
「あなたは、何のために!」
「う、うん」
「この諏訪の地にたどり着くまで!」
「は、はあ」
「数多ある東方の国々や、異人異神たちを討ち滅ぼしてきたのでございまするか!」

 ひとつ言葉をぶつけるたびに、神奈子は一歩一歩と後ずさっていた。
 それを追い詰めるみたいにして、諏訪子も一歩一歩と神奈子に近づいていく。

「諸国諸州に住まう無辜の人民に戦い仕掛け、その勢威のもとに服せしめてきたは、己が理想とする“新しき国”をつくるため。そうではございませぬか」
「そうだ。八坂はそのために出雲を出たのだ……」
「ならば、八坂神奈子がその身に負うているものが何であるか、いちどでもお考えになったことがおありですか。いくさする王であるあなたのつるぎはその輝きを失うほど血にまみれ、その背には出雲人に滅ぼされてきた数え切れぬほどの人々の怨嗟の声、渦巻いておるのです」
「見えるのか、祟り神であるそなたには」
「見せませぬ。見えはしませぬ。しかし、少し考えれば誰にも解ること。そして、それはわれらふたりが初めて相まみえた晩に、八坂さまがこの諏訪子にお示しくだされたこと。王は人民の怨嗟を背負いて立ち、人々を恐れさせた後は同等の施しをも与えねばならぬのだと」

 神奈子は、もう何も言えない様子だった。
 諏訪子の説得に眉根を寄せながらも、殊勝に黙り込んだままでいる。

「それが解っているのなら、“いくさする神であるからこそ”相応の覚悟をお持ちなされませ。諏訪子に“王としての自覚が足りぬ”と仰せられたは、嘘だったのでございまするか。ならばいったい何のために、あえてわたしが八坂さまについていくという気になったのか」

 言うと、諏訪子は身を翻して神奈子から離れた。
 瞬間、子供じみた物欲しげな目つきをして、神奈子は諏訪子の肩口に手を伸ばす。
 けれど、その指先を諏訪子はするりと交わしてみせた。
 次に、わずかばかりも棘ある声を発したとき、彼女は、もう神奈子に背を向けている。
 郷里を攻めた憎き敵であり、また今の自分にとっては最大にして唯一の後援者でもあるいくさ神に、どんな顔を向ければ良いのかが判らないからだった。

「先にいくさの血で自らの手を汚しておきながら、いざ平穏な諏訪に戻ってから政の卑しき穢れを厭うなど……八坂さまという王は、此度、卑怯にもほどがありまする。今の弱気、まことに同じ八坂さまの御意思とも思われない」

 はあ、と、嘆息の響きが耳を突いた。
 けれど未だ振り返ることはない。神奈子もまた、諏訪子に追いすがることはしなかった。

「……戦わずして敵を降し、無益な戦いを行わせぬ計略謀略なら、私も幾らでも選び取って見せようぞ。だが、そのために力なき者が押し潰されるのを、好かぬというだけ。つるぎとつるぎのぶつかり合う音せぬ戦いは、本当は厭なのだ。そんなものは、いくさ神の血を熱くも昂ぶらせもすることはなく、ただ誰をも凍えさせるだけではないか。口説と舌先で行われるのみの、いくさはな」

 気弱いというよりも――ゆるやかでふわりとした、優しげな声であった。
 そんなものでほだされることがないほど、諏訪子も元は強情な性根だ。だというのに、再びくるりと身を翻し、神奈子と眼を合わせてしまったのは、もしかしたら初めて見る彼女の感情への、尽きない好奇心のせいだったのかもしれない。

「まことに失礼ながら、」

 と、もういちど、ずいと神奈子のもとへと歩み寄る。
 今度は、神奈子は身を退くことはなかった。
 薄らと染み出たような不眠の証が眼の下を隈取っているのを、見逃す諏訪子ではない。

「八坂さまは、きっと連日の疲れがいちどに出てしまっているものと拝察を致しまする。このところ……昼は新政発足に伴う諏訪人民からの訴状や要望の処理、諸国からの客人(まろうど)の歓待、夜は夜で評定に次ぐ評定。神とて、いつかは休息が必要というもの。まずはお眠りなさいませ。休むことができないから、いくさ神らしからぬお弱いお気持ちにもなる」

 唐突な諌めに、神奈子は眠たげな眼を丸くして驚いた。
 そして、

「私が疲れていると思うのなら、この物言いも疲れとやらのせいにして欲しい」

 と、力なく笑って見せたのである。

「私はな、たまに諏訪子をうらやむのだ。つるぎ無きいくさは、たぶんそなたの方が上手い。謀(はかりごと)を為すという以上に、己を祀る者さえも手足のごとく使い、ときには自ら切り落とそうとさえする、その非情さが」
「王も神も、下で支える者たちなくば立ち行きませぬ。なれど、その根に当たるもの腐り果てれば王や神は消えてなくなる。そのようなとき、われら王者が為すべきことは、腐った部分を取り除き、新たな種を植えること。たとえその種が、モレヤというひとりの少年であったとしても」

『種』たるモレヤはやがて根を張り、諏訪人と出雲人、その双方の血を受け継ぐ子、次代に咲く『花』の父となる。そんなことを、諏訪子は語った。

「そうなれば、そなたの嫌う諏訪豪族たちを叩き潰すこと、難しくなろう」
「それをさせぬがため、わたしはあなたの御許に侍ることを選んだのです」
「出雲人の血が外戚となれば、政に新たな諍いを引き起こすやも知れぬ」
「そうなる前に、わが手のうちに再び政を握ってみせまする。八坂さまの御力さえ十二分に利用して」

 しばらく――喉の最奥に空気を容れていたかと思うと。

「あ、は、は、ッ、!」

 と、何の屈託もない神奈子の大笑いが、暁天を揺り動かした。
 眠気だとかあくびとか、そういう人間らしい感覚まで一時にどこかに吹き飛ばしてしまったような、そんな豪放さであった。

「諏訪子、そなたは……そなたは、ためらうということを知らぬのか。諏訪の地のためとは申せ、諏訪の血の者を敵にくれてやるなど」
「元よりこの首、いつでも出雲人に差し出すつもりで諏訪の柵に出仕しているのです。覚悟は、八坂さまに襲いかかったときより、何ひとつ変わってはおりませぬ」
「それは、あくまで諏訪子の覚悟。そなたもまた、八坂に対しても決して劣らぬ傲岸さが見ゆる」
「諏訪子の首、モレヤの血。いずれかが喪われたとしても、仮にそれで諏訪の安寧が購われるのなら良きことと思うておりまする。しかし、むろん――どちらも繋ぎ止められるがもっとも良きこと。そうでなくば、われらが手を組む意味はない」

 人に得手不得手のあるごとく、神にも大小さまざまの権能がある。
 そんなことを、神奈子は相手に応じるごとく呟いた。
 今度こそ、本当のあくび混じりである。

「神奈子には、諏訪子ほど謀に長けていると申すことのできる権能はない。権力を使うことはできても、弄ぶことはできぬ性質(たち)でなあ」

 神奈子は、何かを諦めているようだと諏訪子には見えた。
 剣の柄頭をしきりに撫でまわしながら、盛んに空へ眼を遣っている。
 未だ幼かった太陽は次第に成長し、空の暗みは西の果てに追いやられているのだ。「不安がるには及びませぬ」と、諏訪子は、心にもないことを言う。「諏訪子の力、懐に収められたは僥倖と思うがよろしい」と。

「……モレヤ王の婚儀のこと。受けるにせよ断るにせよ、きっと諏訪子が実りある結果をもたらして見せまする。いや、薄汚い謀(はかりごと)は、いっそこのわたしに任せるがよろしい。八坂さまはただ清廉なるお志にて、つるぎ振り上げ人々を導く方が性に合っておられる」

 いささかわざとらしく、己の胸を拳で“どん”と叩く仕草をする諏訪子だった。

「元より諏訪の崇り神は、出雲の神々にすれば穢れのかたまりなのでございましょう。ゆえに今さら謀のひとつやふたつ、増えたところで何の差し障りがありましょうや」
「私に表向きの政といくさばかり押しつけて、己は裏から諏訪を動かすつもりか。面白きことを考える」

 その言葉を、諏訪子が最後まで聞き取ることはできなかった。
 剣の柄から手を離した神奈子が、再び諏訪子に背を向けて行宮へと歩みを始めたせいであった。もう彼女は振り返らない。諏訪亜相である諏訪子に何の下知も与えていないながらも、腹の底では何か、彼女なりの意思が固まりつつある様子だった。それをいま直ぐに披歴しようとしないのは、八坂神奈子なりの計略であったのか。それともやはり、疲れが人に化身したその身体に溜まっていたせいだったろうか。

 その背に、諏訪子が追いすがることもない。
 あるいは――神奈子が諏訪子を、諏訪子が神奈子を信頼していたからというのは、言い過ぎだっただろうか。「そなたの考えで、モレヤの命を使うて諏訪を良き方(かた)に導いて見せよ」とでも神奈子が言い、それを諏訪子が引き受けたように。

「そういえば、少し前に誓うたことがあったな。われらは互いのつるぎを共に借り受けるごとく、戦うていこうと。……諏訪子。八坂神奈子の下に飽きたようなら、いつでも寝首を掻きに来い。それで、人民を安んずることができるのならな」

 互いの声がどうにか届くぎりぎりの距離であろう地点から、神奈子がそのように宣する声が、諏訪子には聞こえた気がした。彼女もまた、何となく唇の端が引き上げられるような、そこまで悪いものでもない感触がする。彼女は返礼をする。神奈子がそうしたように、自分もまた相手に向けてぽつりぽつりと呟くのである。こちらの意が伝わっているのかどうかは、関係がなかった。ただ、意志と意志との交感を失うわけにはいかない。それを本当に失った瞬間から、自分も神奈子も、ただ人のかたちをした肉の塊に成り果てる。そんな恐れが、いつもあった。

「そうだ。八坂神奈子よ。諏訪子は、そのために貴様に取り入ったのだ。謀によりて、諏訪の地を取り戻すために」

 だが、そう呟くと、なぜか諏訪子の胸は痛んだ。
 その朝の光は、いつもよりも刺々しく諏訪子の肌に刺さるような気がしていた。
 神奈子の大きな背は、もう行宮のうちに吸い込まれていく。


――――――


「大船に乗ったつもりで構えているがいい!」

 とまではさすがに言わないが、神奈子に対して正面から

「謀は任せろ!」

 という意味の大見得を切ってしまった以上、絞っても出てこない知恵でも何が何でも見つけ出すより他にない。これからは、権力や政だけでなく、己のうちにある妥協や甘えとの闘いだ。諏訪子はそう思っていた。とはいえ、彼女から溜め息の種が尽きることはない。

 何せ、今や彼女はかつてのような飾り物の傀儡王でも、民心宣撫のために利用される名のみの存在でもない。形式上、亜相の官を受けて神奈子に仕える諏訪の柵の次席なのだ。自然、処理しなければならない政務は増大し、のしかかってくる負担も責任も重々しくなってくる。ひとつの懸案事項――今は、モレヤ王の婚儀ということだったが――に、ずっと思索を巡らすほど贅沢な時間の使い方ができる立場にはない。

 しかも、祭祀と信仰さえ在れば永代(えいたい)に存在を紡ぐことのできる神々とは違い、人間たちの天命なるものは、せいぜい四、五十年、長くて六十年が限度といったところ。生の速さは、彼ら人民の時間に合わせなければならない。

 だから、そんな諸々の面倒ごとに取り囲まれながら、

「はあ……ああ」

 と、竹簡木簡の山にさして豊満でもない身を半ばうずめながら、盛大に溜め息を吐く諏訪子であった。

 このまま文書の束を枕として長の眠りについてしまいたい。そんなことさえ彼女は考えてしまう。亜相の政所として設けられた諏訪の柵の一室、部下として出向してきた出雲人の舎人たちの視線が痛かった。が、さすがに神奈子が選りすぐって出雲から招聘(しょうへい)した者たちだけのことはある。文机に突っ伏した亜相の姿をちらちらと見ながらも、顔色ひとつ変えることなく筆先を走らせている。今や政所は、彼らの能くする墨のにおいでいっぱいなのだった。

 まことに困ったことだが、日々の政務に忙殺されていては、謀略だの何だのを巡らす暇もない。文書の編纂だの証文の写しの確認だの、やることは地味かつ地道である。諏訪の国の華々しい前途を切り開くためには、丹念に道を“ならして”いかなければならないということだ。それも、出雲人がこの地に持ちこんできた『出雲式』のやり方で。

「…………しかし、土地の配分に関していちいち文書を残さなければならないとは。面倒とは思わぬのか、出雲人であるところの其許たちは」

 墨も生乾きな筆先を硯(すずり)の上で弄びながら、諏訪子は胡乱な眼で舎人たちに問いかけてみた。五、六人からなる彼らからは「それが、出雲のやり方にございまする」「お言葉ではございまするが、土地の境について人の記憶にのみ頼る諏訪の法にては、人々のあいだで諍いの種となりましょう」と、口々に意見が飛んできた。面食らったわけではないが、諏訪子は「うん。ま、そうであるとも思うが」と、答えるのが精一杯であった。

 仕方があるまい。諏訪人は負けたのだ。いずれ暮らしの風やものの考え方も、諏訪人と出雲人は混じり合い、まったく新しい国が産まれるのかもしれない。そう考えると、自分の政務の面倒さはその過渡ゆえのことであるのだろうとは感じられる。

 ふう、と、短い溜め息のもと、諏訪子は手元に放られていた竹簡をあらためて手に取る。ここの郡(こおり)は誰に、あそこの県(あがた)はあの人に任す。郡のなかの二ヵ村は出雲人に与え、一ヵ村は諏訪人の手に……そんな、細々(こまごま)とした土地所有者の目録とでも言うべき竹簡を。

 それは――神奈子が諏訪の地において大王の御名のもと治める公地と、諏訪子に許された御所とその周辺の御料地、豪族たちがこれまで通り私有する土地の配分と境を定めた文書であった。早い話が、諏訪とその周辺地域の土地の再配分について、公式に定めた証文なのだ。

 さても、ずいぶんと“かすめ取られた”ものだと諏訪子は思う。
 旧主諏訪子の所領と言うべき御料地が、ではない。
 それは、この期に及んで懐柔のつもりか、ほとんど手つかずのまま安堵されていた。神奈子の土地再配分政策によってかすめ取られたのは、諏訪豪族たちの土地の方である。大豪族たちの占有していた広大な土地は、今やほとんどが取り上げられ、神奈子直轄の公地に組み入れられている。謀は苦手と言っていたくせに、相変わらず妙なところで気を回すのが上手いいくさ神だと、諏訪子はひそかに苦笑した。

 なぜなら土地というのは、単に大地の上に広がった空間の区分というだけの話ではない。

 力ある者が、ある土地を手に入れるということは――――。
 そこに住まう大勢の人々を、領主として治める権利を手に入れることである。
 公の政のためにその人々から徴税する力を持つことである。
 自然から産出される恵みを独占的に手にすることである。

 土地に人が多く、自然の恵み豊かであるほど、領主の領主たる基盤は強く育っていく。
 そして、その基盤をさらに強くするのは、やはり政であった。

 人の多さと産品の豊かさとは、上手く運用すればそのまま経済力の大きさにも繋がる。それに経済力の大きさは、領主が富を蓄え、武装を揃えて人を動員し、戦争に備えることができるということをも意味している。領主の力は、土地の強さと政の巧みさに比例すると言っても良い。

 だから諏訪の土地政策は、神奈子が推し進める諏訪新政のうち、最重要課題と呼べるうちのひとつであった。モレヤ王の政略結婚について協議させるかたわら、豪族たちの所領を完全には取り上げることなく一部は安堵してやるという顔を見せて懐柔を試みつつ、いかにして出雲人に再び楯突けないよう、その勢力基盤を削ぎ落とすか。露骨といえば露骨な牽制の策なのだ。

 しかし、私有する土地の大小がその豪族の勢力を左右すると言っても過言ではない以上、止まれぬところのある施策でもあった。もしも諏訪子が出雲人で、八坂神奈子の立場であれば、迷うことなく同じことを命じただろうと思う。それに、神奈子の膝下には武力がある。中央となるべき政権が確固とした機構としての暴力、武力を持っていればこそ、政は脆さを克服し、権力を保障された存在となる。

 かつて、傀儡王だったころの諏訪子が持っていなかったのが、そうした世俗に影響するための公的な武力であった。そして諏訪豪族たちの力の源泉は、私的な武力である。出雲人が統治者と戴く大王のもと、葦原の中ツ国をひとつの国家としてまとめ上げる以上、公の支配に対抗し得る私的な武力の存在は、可能な限り排除されなければならない。いや諏訪一国に限って見ても、神奈子を中心とする中央政庁の公権力によってのみ運用可能な武力に対し、対立可能なほどの私的武力は脅威以外のなにものでもない。天下(あまのした)をより平らかに治めようとするには、そうした視点が欠かせないらしかった。だから、そんな思惑を象徴するかのような、神奈子の一策である。

 ――だが、その代償がこの面倒な仕事の束であることを思えば、手放しで喜んでもいられない。

 いま諏訪子の下で働く舎人たちは、みな出雲人の文官ゆえ文書を用いて土地の境を決めることにも慣れている。なるほど、竹簡や紙に文字で土地のことについて記述をしておけば、後々で何か土地がらみの問題が起こったときに直ぐに参照することができるということだろう。そうすれば村々の古老だの、昔からの言い伝えだの、そういうあやふやな記憶とか伝聞に頼る必要もない。その手の方法で調停を試みると、話の中身が本当に正しいのかどうかを巡り、とかく小競り合いや諍いが起きやすいのだ。

 けれど、そうした制度を輸入すること自体が、諏訪の地にあっては大きな骨折りの原因であった。

 まず、諏訪には文字というものが伝播して間もなく、それは豪族や首長層といった特権階級くらいにしか馴染みがなかったということだ。ために詳細な土地配分に使われるなどの社会機構を組み上げる道具として、文字が諏訪人に認識されるには、未だあまりに日が浅かった。

 否、あるいはまったく使われたこともないとは言い切れないが、勝手気ままに土地を切り取り自分のものにしようとする豪族たちにとって、文字による詳細な記述など都合が悪いだけだった。ゆえに土地の来歴や本来の所有者について正確に書き残すという発想が、そもそも希薄だったのである。

 そうなると当然――神奈子による諏訪新政が始まるにあたり、出雲人は諏訪豪族や村々の古老たちを訪ね歩き、どこの土地は誰のものか、境はどのあたりに存するのかをいちいち記録しなければならなかった。

 しかも、大抵の諏訪人には、土地配分に関して公文書を残すという出雲人の感覚が理解できないのだから、幾つかの用語や概念をいちいち説いて回る必要もあった。そもそも出雲の法と慣習では、土地の所有や分割はもちろん、何をするにも綸旨(りんじ)や証文が必要なのである。その方が、古老だの神々だのにいちいちお伺いを立てたり、戦争をしなくて済むので合理的である。そういうことを言っても、諏訪人はなかなか納得してくれない。「土地の持ち主の名前を書き残すってことは、おれの名前を書いた竹簡を地面に埋めときゃあ、その土地はおれのものになるってのか!」などなど、見当はずれな理解のされ方に直面することも一度や二度ではきかなかった。

 そのうえ、神奈子に一応ながら恭順の意を示したとはいえ、自らの土地を手放すのは諏訪豪族たちにとってもやはり頭の痛い事情と見える。

 とりわけ、土地の再配分政策を好機として所領拡大を目論む中小豪族にはその傾向が強かった。諏訪子に供物進物を贈り、こっそりと賂――まいない。要するに賄賂である――を忍ばせて神奈子への口利きを依頼しようとするなどは未だ序の口。さらに悪知恵のはたらく者は、自分の所領を過剰に少なく申告して憐れみを乞い、より多くの土地を賜ろうとした。また、別の領主と所領の境を巡って諍いを抱えていたある豪族は、神奈子が己に有利な調停を行ってくれることを期待し、土地の境界線を本来より広げて示し「相手の方が私の土地を侵犯しているのです!」と訴えた。

 概して、諏訪豪族たちは敗軍とはいえ権益護持、あわよくば拡大にも余念がない。
 諏訪子やモレヤを祭り上げて政に関わろうとするのは、豪族たちの中でも特に力ある者たちだけだったが、新政の始まりを好機にするつもりであれやこれやと目論んでいるのには、どうやら勢力の大小は変わらない。

 ……結構なことだと諏訪子は思う。

 それもこれも、八坂神奈子が諏訪に敷く新たな政に賭けてみようと、そういう思いがあればこそであろう。動機がいかに己の利益のためとはいえ、諍いを解決する手段として直ぐにいくさに訴えるようでは、何より民心が疲弊する。いくさで傷ついた諏訪を癒すには、まずは静けさを取り戻すことなのだ。とはいえ、そのための手段として政務が山積みになっていくのにはやはり閉口をするのだけど。

 おまけに今回の土地配分は、論功行賞と恩賞を兼ねた、あくまで“暫定”としての措置であることも否定はできない。今後は各農地の詳細な検地も行って、税として徴収可能な“上がり”の算定もしなければならないという。必要とあらば、民衆を徴用して新田を開墾することもあるかもしれない。土地の再配分は、あくまで諏訪新政の礎石に過ぎないのだ。そして、あわよくば権益を拡大しようとする者たちの政治的腐敗もまた正さねばならない。そのときは、また新たに仕事が増大するだろうことは眼に見えていた。

「止むを得まい、止むを得まいよ。何より、出雲人は斯様な政を行うて成功しているのであろう。それが何よりの先例だ。諏訪子も、亜相として力を振るうより他にない」

 苦笑しいしい、そう独語し、硯に放り投げていた筆を再び取る。

 土地の再配分は神奈子にだけ任された権ではないのだ。
 諏訪豪族のことに関してなら自分の方がよく知っている。と、諏訪子は唇を舐めながら真新しい竹簡を取り出した。祭祀の際に献上された進物やら、土地からの上がりを溜め込む倉の数やら、擁する私兵の規模やら。そんな諸々を思い起こし、また出雲人が代わりに記録してくれた資料の束を参照しつつ、未だ引き取り手の決まっていない空白の土地に新領主の名前を書きつけようとしたときのことだった。

「おお、亜相どの! こちらに居られましたか! ずいぶんとお探し申しあげておりました!」

 突如、政所の扉が勢いよく押し開かれ、鎧姿で髭もじゃの男が入り込んできたのである。
 
 数人の舎人と部下の将士を後ろに従えるその身の丈は六尺を越え、七尺に近づこうかというほど。日本人の平均身長は、古代よりも近世の方が低かったという説があるようだから、もしかしたら身の丈六尺の男が古代の倭国を闊歩していても、意外と不思議ではないのかもしれない。そんな想像の余地もないではないが、彼のように七尺近い身長は、さすがに現代でも『大男』と呼べる部類であろう。そんな大男が晴れがましいまでの笑みを浮かべつつ、武装を解かぬまま政所に姿を現したのだ。小柄な少女の姿を取っている諏訪子にすれば、ただでさえでかい相手がさらにでかく見えるというものである。

 隆々とした頑健な体躯は、全身を覆う甲冑越しにも少しは解る。
 脱いだ兜を自ら従える舎人のひとりの手に任せた彼の眼は、子供みたいに輝いていた。
 反面、腰に提げた剣からは、いくさにも堪えうる強靭な鉄のにおいを芬々(ふんぷん)と発している。

 振るおうと思っていた筆先を再び置くと、諏訪子が彼に声をかけるより早く、政所の舎人たちが男に対してひざまずく。それを横目に見遣ると、何かひどく可笑しい絵面を目の当たりにしているようにも思えた。

「何ごとかと思えば神薙比(カムナビ)の将軍ではないか。如何(いか)にしたのだ、物具(もののぐ)も解かぬいくさ装束のまま政所に現れるなど」

 正面から男――神薙比を見上げると、彼は立ち話を諏訪子に見咎められたと思ったのか、いささか荒々しいまでに床へ腰を下ろした。直ぐさまひざまずいて弁解を始める彼の声音は、根っからの誠実さみたいなもので砥がれているようにも聞こえたのである。

「あ、いや。これは、とんだご無礼を仕りました。八坂さまの御前に罷り出る際には、あのお方は物具を解かぬ姿でもお気になさらぬゆえ。きっと亜相どのも同じに違いないと、心得違いをしておりました。どうか、平にご容赦のほどを……」
「何も怒っているのではない。ただ、慌てて入ってきたので、何か変事があったのかと思うたのだ」

 諏訪子の言葉に安堵したのか、ちら、と彼女の表情をうかがった神薙比は、ゆっくりと面(おもて)を上げた。その角髪は解かれ、長い髪が肩越しに垂れている。四十も近い歳の男らしいが、いやに若々しい。日焼けした色黒い彼に、白髪一本と混じらない髪の毛は肌との境を曖昧にしている。また、叢(くさむら)みたいに顎を覆う髭のあいだから、汗の粒が滴ったように諏訪子には見えたが、なるほど、いかにも優れた勇武を連想させる顔つきでもある。神の前にひれ伏し縮こまるその指は、絡みつく木の根にも似て無骨なかたちだ。筆などよりは、剣と馬の手綱の方を長く握ってきたのだろうと思わされる。

「はッ。変事といえば大変事。先に八坂さまに御報告を申しあげて参りましたが、直ぐに亜相どのにも報せよと命ぜられ、こうして急ぎ参ったのです」

 ずい、と、少しばかり身を乗り出す神薙比。
 一方、諏訪子はその場にて微動だにすることなく、話に耳を傾ける。威厳を持って臣下の話を聞くのもまた、王の仕事のうちである。そんな諏訪子の心底など知るはずもない神薙比は、何度か顎の先を指先で拭いながら、ようやく落ち着きを取り戻したようであった。

「実は、山々に棲む“土蜘蛛”の民のもとへ、われら出雲勢が交渉へ赴き、ついに諏訪新政への恭順の意を引き出した由(よし)。これを大変事と言わずして、何を変事と言いましょうや」

 土蜘蛛の民――――!
 その言葉を噛み締めてしばし黙考した諏訪子は、「ついにか」と呟かずには居られなかった。

「土蜘蛛の民。 ……あの蹈鞴(たたら)の民が。山の民がか」
「さようにございまする。土蜘蛛たちが、われらに従うと言うたのです。いや、この神薙比、急ぎ伝えねばと思い、交渉が終わってのち鎧も解かずに八坂さまと亜相どのにお目にかかってしまった次第」
「この諏訪にて土蜘蛛と言うは、特に鉄を産するを生業とする者たちを、そのように呼んでおるのだ。鉄の流通を手にするは、八坂さまの悲願のひとつであったな。……なるほど、これでまたあの方の国つくりが一歩進んだというわけかよ。神薙比、八坂さまが己が副将たる其許を、わざわざ遣わした甲斐があったというものであろう」

 もったいなきお言葉にござる、と、神薙比は再びひざまずいた。

 一応、諏訪子はそうして神薙比を褒める素振りを見せはした。
 それに、神奈子が山の民と何らかの交渉を行うことを考えているというのも、評定の場で何度か出た話であった。そのための使者には、自分の副将である神薙比将軍を遣わしたいとも。だが、……その神薙比が“鎧を身につけたままで”報告にやって来たということは――つまり、“そういうこと”なのだろう。まどろっこしい謀略や計略を用いることのない恫喝も、時には有効な手段たり得るということだ。

「しかし、土蜘蛛が他の勢力に靡く(なびく)とは、この諏訪子が知っている限りにおいて、古よりいちどとしてなかったと言っても良い。あれらは、自由であることを奉じる山の民。今いる場所に飽くことあれば、また別の山へ旅立つ。気ままな者たちだ」
「土蜘蛛の棟梁たる山女(ヤマメ)なる女性(にょしょう)の申すところによりますれば、自分たちもまた、この諏訪の地にて礎を築くのが望ましきことであると」

 ごほん、と、神薙比は咳払いをしつつ、

「申さば、連中は自らの商いを広げるつもりだということにございまする。出雲人と諏訪人のいくさ長引けば、それだけ鉄が入り用になるのをしかと心得ていた。ために、いずれ双方と取り引きを致すべく、出雲と諏訪の戦いではどちらにも味方することはなかったと」

 と、言った。

「ではなぜ、今になって」
「ひとつには、連中の思う以上に早く、此度のいくさが終結してしまったこと。しかし、要はそれ以上に単純なことがございまする。“出雲人の行く所、いくさが絶えた試しはない。ならば、出雲人に与した方がより多くの鉄を売り、手っ取り早く一儲けできそうだから”と、そのように申しておりました」

 神薙比のそんな説明を聞いて、諏訪子はつい苦笑せざるを得なかった。

 土蜘蛛たちの言い分は、何か出雲人に対する嫌味めいたものがあるようにも感じ取れる。しかし、それは嫌味に見えて嫌味ではないのだろう。彼らは――とりわけ土蜘蛛と呼ばれる者たちのなかでも諏訪子が知る産鉄の民は、機と利を見るに敏な者たちだ。出雲人に従って利益が上がるのなら、これまで付き合ってきた諏訪人に対してもそれほど苦でなく背を向けることであろう。土蜘蛛という民族の、ある意味ではもっとも合理的で、そして正しいとも言えるそんな信条を知っているから、諏訪子は、彼らの選択を背信と罵る気にはなれなかった。

『蹈鞴』というのは、わが国に伝わる伝統的な製鉄の技法である。

 その蹈鞴の製鉄における宿命として、鉄を産するにおいて発生した屑を川に流して処理する必要があるという。川にその屑を流せば、それらはいずれ害毒として河川を汚し、下流に棲む平地民――すなわちこの場合は諏訪人の農民たちを苦しめることになる。おまけに蹈鞴は火を使う。燃料として大量の樹木を伐採する必要がある。欲に任せて山を切り開けば、ものの数年で山々は丸裸である。

 ために、土蜘蛛たちは自らの歴史が蓄積してきた叡智に従い、平地の民とのあいだに無用の諍いを起こさぬよう農閑期にだけ蹈鞴の操業を行ってきたのだし、山が疲れていると考えれば、自分たちが生まれ育った山から直ぐに旅立ったりもする。故郷というものを持たない、漂泊の人々なのかもしれない。そんな者たちが、何年かごとの周期で入れ替わり立ち替わり、諏訪とその周辺の山々に出入りをくり返して鉄をつくり、獣を狩り、麓の民に武器や農具を売り、また旅立っていく。それが山の民と平地の民とのあいだで取り交わされた、言葉なき契約なのだ。

 だが、そんな山の民を忌み嫌う人々は、どこの国にも必ず居るものらしい。
 彼らは、山の民を『土蜘蛛』と称した。

 諏訪子自身はそこまで土蜘蛛たちを嫌っているわけでもなかったが、人々がそのように呼んでいたし、他の呼び方も無かったがため、やむをえず土蜘蛛の称を口にすることにしていた。そんな土蜘蛛たちの当代の当主である山女というやつは――直接に相まみえたことは未だなかったが――女のゆえに、どこか繊細な性根をしているのだろうか。やがて諏訪の山にやって来ると他の国に出ていくこともなく、平地の諏訪人とは、商いを軸としたゆるやかな繋がりを求め始めたのだった。

 元より、山の民に対して『土蜘蛛』という化け物じみた呼び名がつけられているのは、彼らがまつろわぬ人々であったがゆえに、その存在を貶められてきたという経緯を背負っている事情がある。『古事記』や『日本書紀』といった史書、あるいは『風土記』といった地理誌が編まれるのは、この物語の舞台である神代よりはるかに下った時代のことだが、それらの書物には大和朝廷という統一的王権に従わなかった地方豪族に対する蔑称として、土蜘蛛の名が見られるという。

 また、須佐之男命(スサノオノミコト)が討った八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は、やはり産鉄の民が朝廷によって滅ぼされたものだとする解釈もある。独自の慣習と思想に生き、中央権力に従うことも稀で、また平地の民と交わることの少ない漂泊の民が――さらに想像を広げるのであれば、蹈鞴の製鉄によって川に害毒を垂れ流してしまい、農民たちと対立することになってしまった山の民が、強大な中央政権に征伐されてその支配下に組み入れられつつあるのだとしたら。勝者が自らの『正義』を誇示するために、敗者である山の民に化け物じみた印象を塗りつけて、八岐大蛇や土蜘蛛といった“忌み嫌われた妖怪”として扱ったとしても不思議ではない。つまり、土蜘蛛たちもまた諏訪人と同じく、勃興しつつある新たな統一国家に敗北した者たちなのである。

 そして、そんな哀れな漂泊の人々が、やがて土蜘蛛と呼ばれ追い立てられることに飽いて諏訪の地に居つき、自らの商いをたくましくしていく道を選んだのだとしたら。そんな想像も、もしかしたら十分に可能なはずだ。諏訪子自身、ときとして土蜘蛛たちのことをそのように思うこともあるのだった。

「ところで、土蜘蛛たちの山はいったい誰が治めるのか。連中、出雲勢と新たに誼(よしみ)を結ばんと望むとはいえ、あまり上から押さえつけたせいで逃げ出されても堪らない」
「は。おおかたは、これまで通り土蜘蛛たち自身に任すと八坂さまの仰せにございまする。ただ、諏訪の鉄を他国に売り出すということになり、それは新たに頭(かみ)を置きて主導するとか」
「そこで、あの“銭貨”を用いた取り引きか」
「さようにござる」

 彼女の脳裏には、神奈子に見せられた刀銭の姿がありありと思い浮かんでいた。
 西海を隔てた大国では、米や絹に代わり、商いを円滑にするために使われるという道具。土蜘蛛は産鉄の民であると同時に、優れて商いの民でもある。諸国を流浪してきた者たちでもある彼らなら、もしかしたら銭貨というものにも少しは縁があるかもしれなかった。土蜘蛛たちと神奈子の利は、商いという点では一致している。土蜘蛛に対し、あるいは銭貨の鋳造を仕事として発注するということも考えられよう。

「諏訪という国の豊かさもさることながら、さらにまた山々に良き鉄なければ、八坂さまは諏訪をお攻めになることもなかったと思われまする」
「なるほど。土蜘蛛さまさま、というわけか」

 諏訪子はまたも苦笑しつつ、

「で、儲けた金で何をするおつもりであろうか、八坂さまは。銭貨なるものは、米のように食べることもできなければ、絹のように着物に仕立てることもできぬ。牛馬のごとく田畑を耕したり、荷駄を負わすこともできぬ。そのままでは、ただの“おもちゃ”ぞ」

 と、問うた。
 神薙比は、喉の奥までよく見えそうなほど大笑いをしてみせた。

「それは、さすがに諏訪子さまの思い過ごしというもの。よくお考えなさいませ。いくさする出雲人と山地に住まう諏訪人、その双方に必要なるものは……」
「塩、か」

 ふうん、と、諏訪子は鼻を鳴らした。
 いくさの際の兵糧に、塩は欠かすことができない。出雲人が諏訪経営を基盤として、さらなる東国進出をも視野に入れているのなら、やはり異人異神との戦いをくり広げることもあろう。人は、塩なくば命を繋げない。水と同じくらい、兵糧には塩が必要になってくるものだ。日本の国土はその性質上、岩塩を産しないという。だから歴史上、わが国の製塩は海に頼るべきものとされてきた。ということは、海から遠い山国であればあるほど塩は貴重であることをも同時に意味する。そして、この諏訪という国は海を抱くことのない山国であった。つまり、神奈子の考えているところは――。

「諏訪の鉄を他国に売り、儲けた金で塩を買い入れるということであろう」

 神薙比は、深々とうなずいた。

「なれど、この神薙比……商いとか政はどうも苦手でしてな。いくさに欠かせぬ塩が容易に手に入るということなら、八坂さまの行う政は、それが正しきことであるのでございましょうが。――いや、政は難しうござる! 実を申さば、稗田舎人に何度か教えを乞うたこともありましたがな。それがし、塩と鉄の商いに銭貨を用いることは解っても、どうして塩と鉄で取り引きができるだけの値打ちの算定が上手くいくのか、未だによう解ってはおり申さぬ」

 かッか、と、大笑する神薙比である。
 自分の無知をことさらにひけらかすような態度だったが、不思議と愚物としての色は見えなかった。

「だが、斯様な政で国が潤うのであれば異議異論はないのだ。今や諏訪一国のみならず、科野(しなの)の州のあちこちが八坂さまに従うと申しておるのだから」

 近くに居た舎人のひとりに、諏訪子は「科野州図を」と命じた。
 壁際の棚に収納されていた竹簡の束の端には、数枚の紙が丸められて収まっているが、舎人は迷うことなくそのうちの一枚を取り出し、恭しく諏訪子に手渡した。

「見よ、神薙比将軍。“ここ”こそが、われらの国々、科野の州なのだ」

 勢いよく、諏訪子は床の上に紙を広げた。
 その内容は、諏訪とその周辺諸州の地図である。
 彼女の“王国”である諏訪のほか、佐久、伊那など、幾つかの郡が書き入れられている。諏訪豪族たちは土地に関する文書記録を残したがらず、それは地名に関しても同じことだったから、地図にある地名に当てられた字は、あらかじめ諏訪人の用いる地名を稗田舎人が音写し、ふさわしいと思われる漢字を当てはめたものであった。

 科野の州は後に大化の改新を経、『科野国』として発足することになる。
 これが『信濃国』と改められるのは大宝四年、西暦であれば七〇四年のことであったらしい。言うまでもなく、こんにち『長野県』が設置されている領域でもある。むろん諏訪子も神薙比も、ふたりに仕える舎人や将士も、後代、そのように当地の名称が変化していくことなど知る由もない。

「佐久の地よりはテナガ、伊那よりはその弟というアシナガ、ほか高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、安曇などからの諸豪族が、八坂さまの新政に恭順を誓うてきている。そしてわれらの国たる諏訪。これら十(とお)の郡が、今や手のなか。たかだか諏訪一国の王であった儂にしてみれば、十の国を一手に握る政に関わろうとしていると考えただけでも、怖ろしいやら愉しみであるやら」

 あらためて筆を硯に置くと諏訪子はその細い人差し指を滑らせるように、地図上の地名を順繰りに指し示す。

「土地を切り分けるは苦しき仕事。いずれ諏訪以外の国々からもそれぞれに土地を召し上げ、公地とする場、私(わたくし)の土地として豪族たちに残す場、考えねばならぬときが来よう。だが、土地の大小に関わりなく諸州を富ますことが八坂さまのお考えになる新政にはできると、其許は思うか」

 少し、意地悪い問いであったかもしれない。
 成功を信じているからこそ、諏訪子自身もまた神奈子と足並みをそろえる気にもなっているのだが――やはり不安もあるのだ。何せ、彼女は未だ八坂神奈子の政の手並みを仔細に眼にしたことはない。新政の次第が上手くいくかは、この時点で未知数でしかないのであった。

 何だかはにかんだような、似合いもしない表情を浮かべ、神薙比は答える。

「おお。これらの諸州にも、そう遅くもなく八坂さまの御威光、あらためて届くことでしょうな。八坂さまのお治めになる国つくりのため、七生の果てにもいくさし奉るのが神薙比の本懐にござる」

 どこか、引っ掛かるものの残る物言いだ。
 怪訝に思い、

「神薙比よ。其許は、“大王”とか申す者のために戦うておるのではないのか。出雲人の戦いは、大王のためのものだと思うていたが」

 と、諏訪子は眉根を寄せた。

「大元はその通りにござる。しかし、それがしごとき一介の粗野なる武辺者は、神々の裔(すえ)であらせられる大王の本当の御名も知りませぬし、その龍顔を拝し奉ったこともない。それどころか、その御玉音さえ聞いたことがないのです。いやもしかしたら、大王の御玉体なるものは尋常の人と同じような骨と肉ではなく、文字通りに璧玉(へきぎょく)でできた煌びやかなものでさえあるのかもしれないと、眠れぬ夜にはそのような妄執に取りつかれることもある」

 妄執、か。
 ひどく可笑しい気持ちになり、諏訪子は口中に笑いを転がした。
 現人神としての祭祀王たる大王が妄執なら、人の身に化身した神である者たちは、いったいどんな妄念のさなかより生み出されたものか。

「ゆえに、それがしの主上は顔も声も知らぬ大王であると同時に、また強き力もてわれら将士をお導きくださる八坂神という御方でもある」

 そう言うと、彼は大きく息を吸い、また吐き出した。
 これまで胸の内に溜め込んでいた思いを吐露し、代わりに空っぽになった自らのうちに、清澄な空気を取り込もうとでもしているみたいだ。

「神薙比」

 いたずらっぽい口調で、語りかける。

「口が過ぎよう。ここに居るのは、儂と其許のふたりだけではない」
「……おや、これはしまった。下手をすれば、周りの舎人どもに謀議とでも疑われかねませぬな!」

 芝居がかった大仰な声音でまくし立てると、彼はやかましいまでの大笑を弾けさせた。諏訪子もまた、滲むような笑いをつくったものの、直ぐに、

「だが、儂は未だ其許の答えを聞いておらぬ。神薙比は、八坂さまの政が成し遂げらるること、信じておるのか」

 と、話の筋を自らのもとに引き寄せることをした。

 喉の奥底まで見えそうなほど、阿呆のごとく口を開いていた神薙比も、政のことに疎いとはいえ“ばか”ではあり得ない。白痴なれば、あの神奈子の副将など務まるはずもない。ちらとほの見える両目の奥には、理知と情熱の光が瞬いているのが諏訪子にもよく解る。神薙比の、そんな心情を引き出したいがための意地悪い問いであるのかもしれなかった。

「それを信じぬ者が、何を好き好んで神なるものに命を預けましょうや。人々が信じねば、神などただの騙り者にございまする。八坂神の為すところ、突き進む道、必ずや正しいと信じているからこそ、われら出雲勢は命棄つる覚悟を持つのです」

 そう言うと、腰に提げたつるぎの柄を手のひらでなぞり、自らの意気のほどを示して見せる。なめした獣の皮を幾重にも貼り合わせ、要所に鉄板を繋ぎ合わせて防御力を高めた彼の甲冑は、彼が腕を動かすたび胴周りを締めつけて、窮屈そうにがちゃりと鳴った。

「そうか。そうだな。――愚問であったよ、許せ」

 ふう、と、疲れもしないのに溜め息を吐く諏訪子。
 権力権勢の駆け引きなど関係なく斯様に人心を得ることのできる神奈子のことが、彼女には大いにうらやましく、また少しは嫉妬もさせられる。

 だが、そうそう心乱してばかりもいられない。
 舎人のひとりに命じて科野州図を片付けさせると、また文机に向き合って筆を取った。
土蜘蛛に対する『戦勝』報告の用を果たした神薙比も、そろそろ退出の頃合いと見てか、かたわらに控えていた部下から自らの兜を受け取り、七尺近くの身体を再び立ち上がらせた。彼が立ち上がると、まるで部屋が急に狭くなったような錯覚がして、何だかひどく可笑しかった。

「長々と、ご無礼を仕りました。では、それがしはこれにてお暇(おいとま)をいたしまする」
「帰るか、もう」

 竹簡への書き損じを小刀で削り落としながら、諏訪子はちらと眼だけで神薙比の長身を追う。

「そこまであの御方を好いておるのなら、供え物とでも思うて、何か進物でもするが良いぞ。儂や八坂さまは、元をただせば神に他ならぬ。この身は、人が信ずるほどに力増す性分でな。なにも、勝ちいくさだけが八坂さまを信ずる者の奉献でもあるまいよ」
「その儀に関しては、ご心配には及びませぬぞ。先にお話し申し上げました土蜘蛛どもから、良きものを受け取りましたゆえな」
「良きもの……」

 とは、何であろう。
 製鉄の利権――は、当然、政のうえで押さえるつもりであろう。
 となれば、土蜘蛛の匠が丹精を込めてつくり上げた宝剣か何かの類だろうか。

「いったい何を貰うたのだ。……儂にも教えよ」

 こうなると、諏訪子は見た目相応に幼さを残した少女でしかないのだった。
 燻ぶり始めた好奇心に任せて文机から身を乗り出すと、神薙比に上目を遣って続きをねだる。

 神薙比は神薙比で、さっきまで一応は威厳らしいものを湛えていた諏訪子が、子供っぽい仕草をしているのを見て少しばかり狼狽したようである。が、直ぐに思い直したらしい。「実はですな」と、やはり芝居がかった仕草で身を屈ませた。

「土蜘蛛たちが自らの山に存する氷室のひとつ、八坂さまに献上致すとの由にございまする」


――――――


『氷室』(ひむろ)とは読んで字のごとく、氷や雪を保存しておくための倉である。

 機械技術による氷の精製や冷凍保存など行うべくもなかった時代には、冷涼な洞窟や穴蔵の中、あるいは倉をつくってその中に冬の氷を保存しておき、暑い夏に食べることを楽しんだという。もっとも、そんな贅沢ができるのはごく一部の権力者や大金持ち程度であって、かつて日本の朝廷における官制には、氷室の管理を司る役職が存在していたほどであったという。庶民にまで冷たい氷という楽しみが行き渡るようになるには、江戸のころまで時代が下るのを待たなければならない。

「ん、うん」
「美味い。夏の氷ほど美味きものもあるまいよ」

 神奈子も諏訪子も、神として、祭祀のたびに人々から進物を献じられることには慣れていたが、それでも氷が手に入るのは嬉しいし、人の身で居るときに口に運べばひどく美味い。初夏の候などすでに過ぎていた。端的に言えば、彼女たちが定めた計画における当初の政は、少しばかりずれ込んでしまっていた。諏訪にも本格的な夏の影が見え始めるに及ぶまで、山積みになっていた諸々の仕事を片づけるには時間がかかったのであった。

 神奈子の行宮近くの廊下に腰かけて、ふたりは底の深い土器(かわらけ)の中身にちびちびと口をつけるのである。諏訪子は水、神奈子は酒。いずれも、その中身には氷室から採ってきた氷がひと塊ほど浮かんでいた。こうして憩うこともまた、久方ぶりと言えば言える。

「土蜘蛛が諏訪人に背を向けたことに怒りを覚えたわけではございませぬが、此度、氷室の献上を受けたというのは、僥倖とはいえ複雑な気持ちもいたしまする。斯様に気安く氷水を得ることができる日が、まさか来ようとは」
「土蜘蛛は、元々そなたたち諏訪人と結びついていた者たちだと聞いておったがな。それなのに、か」
「氷室の氷を放出することと、鉄を売ることは土蜘蛛たちにとっては別儀にございまする。夏ともなれば、氷ひとかけの支払いに絹の百疋(ひゃっぴき)や米の数十俵さえ求めてくるのが土蜘蛛なのです」
「は、は。なるほど。時機を見計らうのが上手い連中よな」

 そう言うと、神奈子の唇の奥には再び酒が吸い込まれていく。
 器の中では鑿(のみ)で乱雑に砕かれた氷が、その不揃いな断面を白い濁酒に濡らしたままのぞかせていた。

 蝉が鳴き始めるような時季には、ぎりぎりで届いていなかった。
 しかし、あちこちを飛び回る羽虫や甲虫は、春先には見られようもなかったほど大きく、でっぷりと肥り始めている。虫たちは諏訪子の視線の先を飛び回り、中庭に植わった花々の茎の緑色にその身体を紛れ込ませていく。

 あらためて――諏訪子は自分の器でカラカラと音を立てる、融けかけた氷を見つめざるを得ない。土蜘蛛から氷室が献上されたことに、神奈子は狂喜と言って良いほど喜んだ。何せ、夏のあいだ好きに氷を食べることができるというのは、ただ涼しいとか風流とかいうだけでなく、実質には強大な権力の象徴なのだ。未だ出雲人が攻め込んでくるよりも前、諏訪王であったころの諏訪子ですら、思うままに氷を用意させることまではできなかった。氷室を有する土蜘蛛たちは、あくまで諏訪人とゆるやかな互助関係を保っていたに過ぎないし、そもそも彼らの神は諏訪子ではない。土蜘蛛には土蜘蛛の信ずるべき神が他に居るということである。その辺りの棲み分けは、妙にしっかりとしている民族であった。

 だが、今や氷室の権は神奈子のものだ。
 神薙比の将軍から氷室献上の報を受けた彼女は、そののち数日中には土蜘蛛の山にまで人を遣り、氷の塊を試しに幾つか取って来させた。それがひと月ほど前のことだっただろうか。

 彼女自身は直接に氷を食べるよりも、今もそうしているように酒の中に氷を浮かべて飲むのが気に入っているらしい。さすがの“うわばみ”というもので、氷水を飲むことの方が好きな諏訪子とはまるで対照的である。それから、諏訪の柵のうちで相伴(しょうばん)に与ることができたのは――評定衆、神薙比を始めとする高級の将士たち、神奈子のそば近くに仕える舎人たちが何人か。氷は溶けるものだから、振る舞うことができたとしてもせいぜいそのくらいが限度であった。

 それでも、権力者が自らの意思で、夏場の氷という最上級の馳走を振る舞ったのだから、城中での神奈子の声望はいや増したに違いなかった。つまりは、これもまた神奈子が己の強さを誇示する政の一環である。「そのうち、諏訪豪族たちにも氷水を振る舞ってやれば良い」と、彼女は言う。そう思えば、むしろ政の遅れは時機の良さをもたらしたと言えないこともなかった。

「そろそろ夏が来るのだな、諏訪子よ」

 神奈子は酒の滴の垂れ落ちる唇を手の甲で拭い、呟く。
 溜め息から香る酒のにおいはどこか気が抜けていて、日ごろ政だの戦いだのに精を出す彼女が吐く息にも似つかない。

「私が迎える、諏訪での初めての夏だ」
「思えば長うございました。諏訪子がこの城に留め置かれてからは、もう半年以上が経っておりまする」

 神奈子の器の中に、酒は残っていない。
 融けて半分になった氷が、角を失った丸みに陽光を含む。乱れてはね返り続ける光の束は、横目で彼女を見遣る、諏訪子の視線をちくりと撫でた。

「諏訪における新たな政の土台は半年以上かけてようやく整わした。いつの間にやら延び延びになってしもうたが、この分なら、あと数月のうちには新政発足の令旨(りょうじ)をあらためて科野全州に発し、そののちはどうにか行幸ができそうだ」

 諏訪子は何も答えることなく、残った氷水をぐびりと飲み干した。
 生白い少女の喉を冷たい水が駆け抜けて、きりりとした快感が腹の奥まで通っていく。
 濡れた器をぬるりと這いまわる融けかけの氷だけ見つめながら、諏訪子は「東国の夏も、暑さでは西国に劣るものではございませぬ」と、やけに早口であった。

「で、あろうな。だが暑いからと言うて怠けるわけにも参らぬ。行幸の折は約束通り、そなたも供奉(ぐぶ)致せよ」
「心得ておりまする。いつまでも城の中に留め置かれては、気が滅入る」
「言うてくれる。もはや諏訪子は人質の身分にはない。帰りたければ、そなたの御料へ帰っても良いのだぞ」
「そうすると、八坂さまはまたわたしの意向を無視した政を行いかねぬゆえ」

 見張るつもりか、口うるさき母親のように。
 声音だけ笑って、神奈子は諏訪子を見ていた眼を手の中の器に戻す。
 氷が融けて水になり、その中では、一匹の小さな羽虫が溺れていた。

「意向を無視か。だが政など、しょせんは権勢を奪い合うていることが、上手く国家の益と噛み合うてくれることでしかないのかもしれぬと、そう思えるときもある」

 よろよろと這いあがった羽虫は、やがて神奈子の器の内側をよじ登っていき、縁(へり)の部分から飛び立とうと試みる。しかし、水に濡れた翅(はね)はもはや使い物にならなかった。“彼”はふらつきながら滑空したかと思うと、直ぐに力尽きて地面に落ち、小さな水濡れの跡を残すだけであった。ただ、その哀れな様子だけ一心に見つめた様子で、神奈子はなおも言葉を継ぐ。

「断ち割られた“氷”を口に運ぶのは、あくまで大王でなければならぬ。そのように信じて、神奈子は東国に下向して諏訪人と戦い、そなたと共に在ることを決めた。だがな、諏訪子――」

 呼ばれて、ようやく諏訪子は神奈子をはっきりと見据えることをした。
 けれど、やはり彼女に向けられていたのは言葉だけで、神奈子自身はずっと地面に落ちた羽虫を見つめているだけだった。

「今の私はこの羽虫と同じかも知れぬ。国家の益を簒奪(さんだつ)せんとする者がどのような末路をたどるのか。そういう瀬戸際に立っている」
「それは、いかなる思し召しにございまするか」

 謎かけのつもりであろうか、柄にもなく。
 要は、よ……と、神奈子はゆっくりと諏訪子へと眼を遣った。

「よりにもよってここまでこぎつけておきながら……あと少しで新政が発足するというところまで来ておきながら、私は諏訪の地を、大王に献ずるが甚だ惜しいと思えるようになってしまったのだ」

 静かな驚愕に、眼を見開いた。
 よもや。

「出雲本国へ、叛き奉るおつもりか」
「違う。そこまでのことはない」

 器の中で融け残っていた最後の氷を指先で摘まむと、神奈子はそれを自らの口中へとぽいと投じた。ガリガリと勢いよく噛み砕き、冷たくなった溜め息を中空へ吐く。

「私はそなたや評定衆との合議のうえで、諏訪はじめ科野諸州の土地を配分した。出雲におわす大王の名代として諏訪の地に政所を置き、科野中に公地として屯倉(みやけ)――つまり、それは出雲人の政が直轄する土地ということだが――を定めて、各々の屯倉を治むる県頭(あがたのかみ)、郡頭(こおりのかみ)を豪族から選び出した。それを目付する出雲人たちも内々に決めた」

 器をひっくり返して逆さにし、地面でもがく羽虫の影に最後に残った酒の滴を振りかける神奈子の心は、末期の情けか、それとも惨いいたずらだろうか。

「しかし、それすべて至尊たる大王の御稜威のため。いずれ諸国の政は大王のもとに帰らねばならぬ。東国の政がこの八坂神奈子に任されたは、いずれ主上の意をあまねく諸国に広めるための、いわば“地ならし”。それが、葦原中ツ国をひとつにまとめるたったひとつの方法であると、今でも私は疑わぬ。そのために戦うてきたのだ。しかし、」

 困ったことが起きた!

 ことさらに大きな声が“つんざく”ように聴覚を駆け抜け、諏訪子は再び驚嘆する。
 ゆっくりと振り返った先の神奈子は、その眼で諏訪子を見つめ返してくれることはなく、ただ夏に染む諏訪の空にだけ憧れてしまっていた。どこか、叶うはずもない夢を追いかける子供にも見える。

「私は、私の国が欲しい。私の政がしたい」
「それは、すなわちこれから八坂さまが大王の名代として、この諏訪子と共に――」
「違う。違うのだ! ……そういうことではない。」

 ことり、と、神奈子は器を床に置く。
 酒で湿った唇に舌の先をぺろりと這わし、彼女はひどくみじめな色を含んだ声で言った。

「八坂神奈子にも、帰るべき郷里が欲しいのだ」

 土器の縁をなぞっていた諏訪子の細い指が、わずかな感情の昂ぶりに支配される。
 この女は何を言っているのだ。郷里への憧憬をしゃあしゃあと語ってみせるのか。このわたしの眼前でか。瞬くほどのあいだ彼女の心は、土足で他人の国を踏みにじっておきながら、今になって郷里なるものを欲する神奈子に対する憎しみを思い出した。だが、同時につるぎのように鋭い憐れみにも直面せざるを得なかった。それは、あるいは諏訪子の神奈子に対する優越感のほとばしりではなかっただろうか。神奈子はかつて憎い敵であった。けれど、ときに理由の解らない弱みを見せる難儀な友人でもあった。諏訪子には、そんな神奈子の弱みにつけ込んでしまおうという気持ちは、今は不思議と兆さない。

「古巣が……出雲が恋しくなったのでございますか」

 だから、ただそんな当たり障りのないことを問うばかりだった。
 なぜだか胸がひどく締めつけられて、諏訪子の声までもみじめだった。

「そうであったら、よほどに良かった。私につき従うてくれる将士たちのごとく、恋いうる郷里としての出雲を知っておれば」

 胡坐をかいていた膝に頬杖を突き、ぎりりと上下の歯の並びを軋らせる様子は、神奈子が、他の何でもない自分自身という存在の厄介さにいら立ちを覚えてしまっている。諏訪子からはそのように見て取れる部分もある。

「諏訪人であるそなたにこう言うのは悪しきことだとは思うが、東国征討など出雲本国に蠢く政の情勢からすれば、本来の郷里に居場所を失くし、中央より放逐(ほうちく)された者が押しつけられたに等しき仕事よ。東国に在るを命ぜられたいくさ神として、嘘偽りなきところを申せばな」

 短く、神奈子は溜め息を吐く。

「…………だからこそ私は、明確に己が信仰を受くる地を持つ諏訪子がうらやましい。出雲よりの放逐を経た八坂神は、今やいくさある所こそ郷里と為す。ゆえに、郷里を持たぬ。否、血のにおいの煙る所すなわち郷里。そう言わねばならぬ。だからこそうらやましい。産土(うぶすな)の神霊、土着の神、その頂点として帰るべきところを持つ、そなたのことが」

 諏訪子には、やはり不思議だった。
 不思議だったというよりも、奇妙だったと言える部分さえ感じられた。
 神奈子は、自分を郷里なき神だという。いくさのさなかを渡り歩かなければならない神だという。流浪の王。そのように言うのだ。ならば、なぜ諏訪はじめ科野諸州に行政の府を置こうとするのだろう。“諏訪さま”はじめまつろわぬ異人異神、相まみえるたびに討ち滅ぼしておけば良いだけの話だったはずだ。それが、今は“諏訪さま”を“諏訪子”と呼び、自らの横で氷を食むというよく解らない同盟関係を築いてさえいる。

 大王の名代として科野州を神奈子が統べ、かつての叛乱者の土地を剥奪して勢力基盤を縮小させつつ、諸州に置いた屯倉を統治する県頭、郡頭には土地の豪族を任じる。しかし公益簒奪を阻止するための目付として、各々の屯倉には同時に出雲人を送り込む。これで叛乱の芽が育たないか、また税収に滞りなど起きないか、役人が不当に上前を跳ねることがないかを監視する。

 いずれも、出雲の官制をもとに神奈子が決めた制度だ。
 諏訪子の統治が、実際には諏訪豪族たちによって政を壟断されていたに過ぎないことを見て、頂点たる王の権限を強めたというところであるらしい。それだけ神奈子は己の政に自負があるということである。少なくとも諏訪子はそのように信じていた。だが、それはつまり――、神奈子が諏訪を己が国として掌中に治めるということではなかった。あくまで、彼女は大王の権威を葦原中ツ国全土に行き渡らせるために戦っていたというだけなのだ。

 ひどく不器用なやつだ、と、諏訪子は嗤いたい気持ちになった。

 もっと狡猾になれば良いのだ。たとえば、わたしを推戴した諏訪豪族たちが、“諏訪さま”の御名のもとに好き勝手な政をしていたように。大王というやつの権威を利用して、自分の国をつくる足掛かりにしてしまえば良いのだ。ここは出雲ではない。諏訪なのだ。大王とかいう現人神なんぞにどんな霊力があるにせよ、数千里の隔てを突破して神奈子を打ち殺すことができるほどしたたかというのでもあるまいに。だというのに神奈子は律儀にも、そば近くにない主上に義理立てをするつもりでいて、己が手腕で切り取った諏訪の地を献上するか否か、ひとりで悩んでいるのである。

「八坂さま」

 と、諏訪子は声を上げた。

「どうした」

 ゆっくりと、かたわらに在る諏訪子へと神奈子は眼の端を向ける。

「やはり、あなたさまは謀が苦手と見える」
「そうか。そなたが申すのなら、間違いはないのかもしれぬ」
「八坂さまは、何か妙なところで優しすぎるきらいがございまする。“利用できるものは、何でも利用する”。……そのようなご性分であるという仰せは、よう解りました。なれど、裏を返せば要らぬものとて殺すことできぬようなところもある。この諏訪子のことにても、未だ結論の出ぬ、あのモレヤの婚儀のことにても」

 ちら、と、神奈子がこちらに視線を遣るのが解った気がした。

 あの蒸し暑い評定堂の夜、勝手に議論を打ち切って退出した神奈子は、モレヤという少年を政に利用することに一抹の不安――言うなれば罪悪感さえ覚えていた。そのとき諏訪子は、神奈子には『覚悟』がひとつ足りないと思った。王であるなら、完全に王に徹するほど冷酷になれる覚悟が。いつの間にか、ふたりの立場は逆転していた。ふたりのあいだに大事が起きるときは、なぜだかいつも夜だった。諏訪子が神奈子の暗殺を企てた晩、王としての『覚悟』が足りないのは諏訪子の方だったというのに。どうして、こんなことになってしまったのだろうか。神たる諏訪子にも、やはり答えは見出せない。あるいはいくさから遠ざかるほどに、見えないつるぎで武装していた神奈子の心が裸になってしまっているというのだろうか。本当の八坂神奈子は、もしかしたら、こんなにも弱々しいやつだったというのだろうか。

「まことに殺すこと叶わぬは、喪うたはずの郷里への愛着よ」

 自らを罰するような酷薄な顔で、神奈子は笑う。

「この八坂に従う出雲人の将士どもは、主上の綸旨を受けてということもあろうが、何より東下の先にて骨うずめる覚悟で私についてきた者たちだ。中央での権勢を自ら棄て去ってまで異邦で一旗上げたいのか、あるいは権力を巡る見えぬいくさに敗れた結果か。それは、人それぞれだ。神の叡慮とても判じかねる」

 かくり、と、花の茎でも折れるようにうなずく諏訪子。

「だが神や王など人さえ居れば生きられるのだ。しかし、人は土地に根づかねば生きてはゆかれぬではないか。漂泊の民たる土蜘蛛たちでさえ、山に育ち山に生きるゆえに、山こそが郷里だ。だが、“私たち”は違う。郷里を知らぬ、山で生きるを知らぬ。この私に従うて出雲の郷里を棄てた者たちに報いるためにも、私は私の国で、私の政がしたいと思う」

 やはり自罰めいた笑みを浮かべながらも、彼女の瞳には明々とした意志が宿っていたように思う。「自分の政をしたい」とは言っていても、それはその実「自分の政をしてみせる」という強い決意が顕かに見て取れた。何か、ひどく可笑しい気分になる。やはり、妙なところで神奈子は気弱だった。戦いのために凶気殺気を身にまとっているときならいざ知らず、こうして一対一の対話をしているとき、誰にも頼るということのできない王者の孤独の一端が、自分にだけ打ち明けられたようだと、諏訪子は思う。

 それは、彼女が幾久しく味わうことのできなかった共感に近い。
 否、そうであったら良いのにと、考える。
 上に立つ者、人を支配する者は集団のさなかにあってもっとも強く、しかし同時に、常に脆く、孤独なものだ。王は王として、人々を安堵させるため、弱みを見せてはならない。ある種の傲岸さを威厳として保ち続けていなければならないのだから。たとえ政を他者に簒奪され、ただの飾り物の王であったとしても。郷里を棄て去り、異人異神との戦いという危険な仕事に明け暮れなければならないのなら、なおさらではないか。

 そんな神奈子が、弱々しくも自分の政を模索している。
 面倒なやつだと諏訪子は苦々しく思う。
しかし、諏訪の地に攻め込んできた出雲人の御首領が、この八坂神奈子で良かったとも思った。ただ自らの武力と王権を振りかざすだけの大国の走狗など、好きになれようはずもない。

「出雲という国は……」

 と、諏訪子は口にする。
 不思議そうな表情で、こちらを見遣る神奈子。

「出雲という国は、斯様に窮屈な場所なのですか」

 その言葉を聞いた神奈子はしばし思案し、言葉を選んでいる様子であった。
 放逐されたとはいえ、出雲は彼女の存在を産んだという意味では、紛れもない郷里である。むちゃくちゃな物言いをして辱めてしまうのは、やはり気が引けると見える。

「前に話したことがあったであろう。出雲人の言葉にては、天地万物に神霊の姿を認めることを八百万の神と称する。神々が多ければ多いだけ、蹴落とされ、祀り棄てられる者も増えるというわけよ。まして政とは“祀りごと”。俗界の争いにて互いの正しさを証するべく際限なく引き合いに出され、いつ果てるともなく信仰を奪い合うようになれば、われら神々とて、ひたすらに生臭き生き物にしか成り得ぬわ」

 だが、声音はどこか忌々しげなものが宿っている。
 それは出雲の地で戦われた権力闘争を嫌ってのことか、それともその渦中にあった己自身を厭う気持ちからなのだろうか。

「私はな。神と人とが入り混じりて戦われる政というものに、勝つことができなかった。それだけの話なのだ」

 はあ――ッ、と、思いきり溜め息を吐く神奈子である。
 その様子がやっぱり可笑しくて、「はは……! あ、はは!」と諏訪子は今度こそ噴き出してしまうのだった。声さえ出さないながら、神奈子もその様子をにやりと笑んで眺めている。

「八坂さまは、敗者の軍勢を率いる王ということにございまするか」
「さように申せば申せる。私と諏訪子は、敗者同士が肩を並べて国をつくったようなものよな」

 敗者同士、か。
 やはり、自分たちは似た者同士だったのかもしれない。
 神をもさらに凌ぐ天意なるものがもし在るとすれば、あるいは諏訪子と神奈子を引き合わせたのは単なる偶然ではない、巡り合わせとでもいうべきものだろうか。

 諏訪子は、巷間に流布されるような運命とかいうものを信じたことはない。それを信じるのは人々がすることであり、神であり王である彼女は、むしろ祟りや施しを介して人の運命を定める側だ。だから運命論者には決してなり得ない彼女でも――己自身にさえ左右しきれなかった神奈子との出会いを持つことが天の意図だというのであれば、それは思いのほか面白い縁(えにし)であり、そしていたずらでもあった。

 笑いの余波を胸に収め、再び神奈子へ向き直る。
 神奈子もまた、今度こそ諏訪子の顔を真っ直ぐに見つめていた。

「今は、あなたに何があったか。詳しく訊くのは止めておきましょう」
「そうだな。痛い腹を探られて傷口を広げるのは、私も大嫌いだ」

 そう言うと、ふたりは見つめ合い、あらためて微笑をした。
 偽るところのない、心底からの笑みだと思えた。

「もし、われわれの政が落ち着いて、此度とは別に新たにに行幸をするのなら――」
「行きたいところでも、あるのか」
「海、というものを見てみとうございまする」

 諏訪子からの提案に、神奈子はじっと黙りこむ。

「諏訪子は山国の神ゆえ、本当の海を見たことございませぬ。八坂さまは、その御目に海を見たことございますか」
「ある。幾度もある。……だが、広き大洋の果てにいかなる国々が広がっているものか、私には判らぬ。いやきっと、葦原中ツ国中、倭国中、見渡しても、すべてを知る者などきっとおるまい。日出ずる処のこの大地から、日没する大海を渡り、百済や新羅といった国々を行き過ぎて――さらにその先に栄える中華の大国がいかなる場所か、人づてにしか聞いたことがない。さらなる最果てには果たしていかなる土地が広がっているものか、国はあるのか、人や神は棲んでいるのか。そんなことは、未だ誰も知らぬのだ」

 しばらく、ふたりは黙り込んだ。
 諏訪子の土器の中の氷も、もう完全に融けて水になっていた。
 ちょっと唇をくっつけて、その水を飲む真似ごとだけする。
 生ぬるくはなく、未だほんのわずかに冷たさを残した水だった。
 その終わりを見計らうように、神奈子が次の言葉を継ぐ。

「そなたとともに、出雲まで行くのも悪くはないかもしれぬ。出雲では諸州の神々、一堂に会し、一年の働きを報せ合う神在りの月がある。その途上、倭国に移り住んだ渡来人(とらいびと)たちや、その裔に連なる者たちに外なる国の話を聞こう」
「また、急なお誘いを」

 少しだけ、神奈子は躊躇ったようだった。
 けれど、直ぐに思い直した色で、

「私だけがそなたから何もかもを与えられるは、割に合わぬし、何より神としての沽券に関わるからな」

 変な意地を張って……とは、諏訪子は言わなかった。
 もう、どんな言いわけをせずとも、神奈子は神奈子だと解っているのだ。
 いつの日にか――本当に彼女と一緒に、未だ見ぬ西国の風を吸い込むことができるのなら、どんなにか面白いことだろうか。けれど、それは難しいことだとも知っている。諏訪子は“諏訪さま”なのだ。産土の神や土着の神は、土地に生起する存在だから、郷里から離れて生きていくことは難しい。神奈子も、それを知らないはずはない。だというのに口にしてしまうのだから、彼女も、意外と焦っているらしい。

「その後は」
「なに」
「その後は、どこに向かうのです」
「その後、か」
「未だ見ぬ海と同じくらい、わたしもあなたも、この葦原の中ツ国という場所の隅々までをよく知らない」

 うつむいて、神奈子は言った。

「旅するは疲れる。だから再び帰ってくるのだ。われらは、この諏訪という国に。どこに行って、いかなる国を目にしたとしてもな」

 気づけば少し、日が陰ってきた。もしかしたら、にわかにひと雨、降るのかもしれない。
 しかし、諏訪子にはその偶然が大きな幸運としか思えない。諏訪子も神奈子も、もう互いの顔からは眼を背けていたけれど、なぜだか互いに相手の表情を直視できない気恥ずかしさみたいなものがないでもなかった。辺りが薄暗くなればどんなに顔が赤くなっていてもごまかせると思う。たぶん、だったが。

「そ、その後は……」
「その後とは、な、何か」
「諏訪に帰りついてのち、わわわれの国では……」

 もう諏訪子は何を言っていいのかもよく解らなかったが、ともかくも場を繋ぎ止めることだけが彼女の頭の中をいっぱいにしていた。たぶん、神奈子だって一緒だったはずだ。ややあって――眼を背け合っていたふたりは、ようやく視界の端同士がぶつかり合うほどに視線を動かし始める。そのとき。

「申し上げます!」

 と、朗々とした男の声。
 これには聞き覚えがある。
 確か、神奈子に仕える者のひとりである、逸勢舎人(はやせのとねり)という男の声だ。

 びくり、と、ふたりはまったく同時に背を震わせた。
 諏訪子など、驚きのあまり手にしていた土器を取り落としてしまった。直ぐに地面から拾い上げると、土器は割れこそしていなかったが、乾いた土埃を浴びてしまっている。それを指先で丁寧に払っていると、神奈子の方では、突然の逸勢の来訪を咎めるような声音を出した。ぐるりと振り返った彼女の顔は、もう諏訪子を見ていない。

「……お、おお! 逸勢ではないか。いかがした、火急の用事か」

 と、神奈子はいつもの鷹揚ささえ忘れたように早口である。

 逸勢はといえば、どこかためらいを残した困惑の表情をしている。
 しなやかで、無駄な肉づきというものを知らぬかのような身体つきをした俊足の舎人は、片膝を立てて廊下に留まったまま、ちらと神奈子と諏訪子の表情をうかがっていた。

「はあ。八坂神と亜相諏訪子さまのおふたりにおかれましては、何か大事なる密談を凝らしておられるご様子とお見受けいたしましたが、取り急ぎ御報告申し上げるべき事柄にて……」

 よく見ると、逸勢という男はどこか人の好い感じの誠実そうな眼をしている。あるいは、神奈子と諏訪子の話が何であれ、水を差すような真似をするのは甚だ野暮であるからと遠慮したい気持ちになっていたのかもしれない。しかし、そうと解っていても報告すべき事柄は報告すべきなのが、彼という舎人の職掌である。

「そうか。ま、まあ、諏訪子とは四方山話(よもやまばなし)というものに興じておったまでよ。で、用事とは」

 四方山話。
 決して間違った物言いをしているわけではないのだが。
 神奈子はこれまでの経緯を繕うかのように笑みをつくって逸勢に向けると、今度はちらと諏訪子の方を見た。何だか、何か言いわけでも腹に収めているような目つきをしている。――が、諏訪子が気づいたのはそんなことではなかった。神奈子の顔が、思いのほか近い。よく見ると、話をしているうちにいつの間にか、互いの位置がひどく近づいてしまっていたらしい。しかも、逸勢がやってくるまでふたりともそれに気がつかなかった。

 どうかして手をいっぱいに伸ばせば、互いの身を抱き寄せられそうなほど。

 そのことを知ってにわかに赤面したのは、ふたりのうちどちらが早かったのだろうか。逸勢が怪訝な表情を向けてくるのも構わずに、慌てて座り直して距離を取る神奈子と諏訪子であった。

「で、では、あらためて申し上げまする」
「うん、待たせた。申せ」

 しばし面食らって言葉を失っていた逸勢だが、直ぐに冷静さを取り戻したようだった。
 咳払いひとつすると、一片の伝え漏れもないようにと気をつける様子で、ゆっくりと報せを申し述べる。

「モレヤ王が、亜相どのより謁見を賜りたいとしてお見えになっておられる由」
「モレヤがか。しかも八坂さまでなく、この諏訪子に」
「はい。どうしてもお会いしたい、諏訪子さまでなければだめなのだと、そのような仰せにて」

 いかにも“ものを考え込んでいる”という風に、諏訪子は顎を撫でさすった。
 いま現在、諏訪の地の王は隣に居る八坂神奈子である。しかるに、未だ十にも満たぬ少年王であるモレヤが、年少の身とはいえ自らの意で命乞いや交渉事を嘆願しているのだとしても、諏訪子よりも神奈子に謁見を求める方がはるかに筋は通っているはずなのだが。八坂神多忙、あるいは不在につき、やむをえず亜相諏訪子が出ていくのならいざ知らず。

「モレヤは、今どこに」

 と、訊いたのは神奈子の方だった。

「は。……亜相どのは八坂さまとの評定の最中である旨、申し伝えましたが、それなら評定を終えられるまで、二の院にてお待ちする、とのこと」

 諏訪の柵のうち、二の院という場所は、城内の者が神奈子への謁見を待つあいだに待機するための部屋としてつくられたものだった。転じて、今では副王とも言うべき立場にある諏訪子への謁見を望む者たちの待機場所ともなっている。もっとも、諏訪子への謁見を望む者はそこまで多くなかった。居たとしても、せいぜい、評定衆の人々がときどきご機嫌うかがいに訪れる程度だ。だから、こうして強く諏訪子への謁見を希望する者が現れるのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。

 モレヤにどんな意図があって諏訪子との会見を望むのか。
 むろん、今の時点では解るはずもなかった。
 が、目的がやはり単なるご機嫌うかがい程度であれ、自分に会いたいと望む者を遠ざけるつもりも諏訪子にはない。何より、モレヤは祭祀王である。やはり、神は自分を祀る者に対して施しを与える義務というものがあるのであった。

「解った。せっかく向こうから訪うてくれたものを、無碍に突き放すのも悪しきこと。行こう」
「は」
「逸勢は、モレヤ王をわたしの部屋にまで案内(あない)してやってくれ。それから、今や人質の身とはいえ、彼もまた諏訪の王であったことに変わりはない。くれぐれも粗略には扱うてくれるな」
「ご心配なく。万事、心得ておりますゆえ」
「んん。任せた」
「はッ!」

 と、諏訪子の命令に対して勢いよく返事を発すると、逸勢は早足に廊下を行き過ぎて、数度ほど瞬きをするあいだに姿を消してしまっていた。まるで、人間のかたちをした風が走っているみたいな男である。

 それから「ふう」と短い溜め息を吐くと、あらためて神奈子に向き直る諏訪子。

「――と、まあ、そういうことに相成りました。もうしわけございませぬが、諏訪子はここらで退席を仕ります」
「おう、行ってくるが良い。……しかし、モレヤ王の談判につき合うて参るか。そなたも、なかなかに忙しくなってきたな、諏訪子」
「お許しくださいませ、八坂さま。ふたりの今後に関しては、またいつか、ゆっくりと」

 冗談というにも及ばない、ほんのあいさつくらいの言葉のつもりで、諏訪子はそんなことを口にした。が、ついさっきまで饒舌に彼女を送り出そうとしていた神奈子の頬には、またにわかに朱が差した様子。どうやら、『ふたりの今後』という何気ない言葉から、逸勢が来る前まで交わしていた話の中身を思い出して赤面してしまっていたらしかった。

「どうされました、神奈子さま」
「な、なんでもない! ……早く行け」

 強いるようなつもりであろう口調も、うろたえながらでは威厳も何もあったものではない。いたずらっ子のような笑みを浮かべながら、にやにやと神奈子の様子を観察する諏訪子であった。

 が、頭の中身を巡らせてようやく冷静さを取り戻したのか、ごまかすように神奈子は言う。

「お、おお。そうだ、諏訪子。良きことを思いついた」
「いかなることでしょうか」
「うん。せっかくモレヤの方からそなたに会いに来たのだ。氷のひとかけほど、あの子にくれてやるが良い」

 ずい、と、神奈子は自分の手の中の土器を、諏訪子に向けて突き出した。
 身を起こして立ち上がりかけていた諏訪子は、それを受け取ることはなかったが、神奈子の方でも特に機嫌を損ねる風でもない。「土器の一杯も氷水をおごってやれ」という、そんな意味の仕草だったらしい。

「それも、己が権勢示すための、政の一環にございますか」

 これまで神奈子がしてきたことを鑑みれば、諏訪子にも容易に想像がついた。
 彼女は土蜘蛛から献上された氷室の氷を、城中の有力者たちに振る舞っていた。で、そのうちには帰順した諏訪豪族たちにも馳走する腹積もりなのだ。だから、いささか味気ない考え方になってしまうとはいえ、未だ少年でしかないモレヤの心を自分に靡かせるために、まずは氷水でも振る舞っておこうと考えているのではないか。そんな風な謀を、諏訪子は直ぐに思いついたのである。

 けれど、神奈子は諏訪子の言を是とはしなかった。
 ただ、溜め息まじりの笑いを滲ませて、

「いいや。気まぐれに兆した、つまらぬ気遣いよ」

 と、呟いたのである。


――――――


「久しいな。モレヤ王」
「はい」
「儂と其許が最後に顔を合わせてから、どれくらい経つのかな。トムァクたち諏訪の豪族と会うたとき以来であるから、ひと月か、ふた月か」
「はい」
「諏訪の柵での暮らしはどうか。何か不足はないか。出雲人のつくる食事も、慣れてしまえばそれほど悪いものでもなかろう」
「はい」
「先ほどから顔色がすぐれぬな。……まあ、こう暑くてはいかに普段が健勝でも、堪らぬものがある」

 今度は、「はい」とは言わなかった。
 諏訪子は、顔に苦笑を滲ませながらも心では怪訝である。初めて会ったとき、モレヤという少年はこんなにも無口な性格をしていただろうかと。

 顔色がすぐれない、と言ってはみたが、諏訪子の面前に平伏すモレヤ少年の顔つきは、取り立てて体調の悪さを示しているようにも見えない。せいぜい、夏場というのにずっと部屋の中に引きこもっているせいで、少しばかり色白だという程度であろう。けれど、その色白な肌が、無口なモレヤが醸し出す沈鬱さにいっそうの拍車をかけてしまっている。それは、諏訪子にも否定しきれなかった。

 諏訪子が亜相の官に就いてから、それにふさわしい形を目指して改装された部屋は、彼女が身を落ち着けるための上座が一段高く設けられ、座れば自分に平伏す者の背がよく見えるようになっている。面(おもて)をわずか上げて上目遣いに諏訪子をうかがうモレヤの背も、むろんよく見える。まして、相手は十にも満たない少年だった。小さく見えるのは当たり前のことではあったが――しかし、以前にもまして非力になっているとも思える。

「モレヤ王。其許は、すっかり色が白くなっているな。諏訪豪族たちからこの城に人質として送られてのち、さては、ずっと部屋の中に籠りきりだったのであろう」
「そ、そうです。……人質は人質だから、王とはいえ政に関わることはできませぬ。まして、ミシャグジさまの御声を聞くこと叶わぬ諏訪の柵のうちにては」

 人質、という言葉を耳にしたとき、ぴくりとモレヤの背が動いた。
 ごくわずかなものでしかない挙動だったが、諏訪子はそこに、モレヤという少年の微細な感情の動きを感じ取らないわけにはいかなかった。まるで、狩人に矢を向けられて、これから自分が殺されてしまうことを悟ってしまった野兎のように、哀れなものと見えてしまったからなのだ。そして、モレヤにそんなにまで臆病さを植えつけてしまったものは、諏訪豪族が和睦の証として出雲勢に差し出した人質という、彼自身の境遇のために他ならなかった。

 モレヤ王が諏訪の柵に送られてから、はや一月が経過していた。
 一月のあいだの次第は、腐った油のようにどろりとしたものだった。

 諏訪子自身は、やはり臣下が自ら推戴した王を――そこにいかなる理由があれ――敵方に人質として差し出すことを、そう易々と了承するほど腑抜けではない。彼女の感情には、今まで自分から政の実権を奪い続けてきた諏訪豪族たちに対する反感も多分には混じっていた。何よりも、相手がたとえ主君であれ平気で裏切りに準ずるかのごとき判断をくだすトムァクたち諏訪豪族を、苦々しく思っている部分もあった。

 けれど。

 諏訪子に成り代わって王にされたモレヤの身柄を出雲人のもとに預けることが、もっとも手っ取り早く戦いを終息させるための手段であることは、彼女のなかに存在する狡猾な部分が確かに算段に入れてしまっていたこともまた、否めない。実情、神奈子と諏訪子のふたりと、諏訪豪族との思惑は一致しているところが大きかったと言っても良い。双方の陣営が共に早期の和睦を望んでいたのである。そのための仮初めの鎹(かすがい)の役目を負わされたのが、いま諏訪子の面前に侍るモレヤに他ならなかった。彼の身柄は、諏訪と出雲の和睦の証として、早々に諏訪の柵に送り込まれてきたのである。

 そして、この和睦の眼目は何より政略結婚なのだ。

 モレヤに出雲人の女子をあてがい、その結果として見神を能くする子が産まれれば、諏訪豪族はその子の臣下として、神奈子の手のうちとなった政を再び奪取できる可能性が生まれる。また出雲人は、外戚となって政に参画することができるであろう。互いの政略にほとばしる利害の計算は諏訪子にもまた幾度も予想され得る事態であった。だが、モレヤの婚儀を是とも非とも言わなかった人こそが、他ならぬ八坂神奈子なのだ。神奈子がモレヤの婚儀に関する決断を先送りにし続けていたために、彼は人質としてひと月のあいだ、城のなかで幽閉にも等しい境遇に置かれ続けていたことになる。

 モレヤは諏訪子にも神奈子にも、あいさつのひとつも入れに来ることがなかった。
 非礼といえば確かに非礼の極みとも言える行状ではある。しかし、そうした非礼をはたらいてもなお、何の問題にもならないことが、モレヤという少年にどれほどの価値があるかを示す、何よりの証左ではないか。諏訪子は、そんなことをも危惧している。

 神奈子の、意外といえば意外な優柔不断は、いくさ神としての彼女が奉じる正義のゆえだというのは今やよく理解している諏訪子でもある。だから、今さらになって彼女の決断の遅さを批判するという気にはなれない。

 しかし、それが結果的にモレヤの周りに流れていく一月という時間を重苦しいものにしてしまったのではないだろうか。今このときになってから、ようやくそのような想像がついた。

 神奈子が、評定の晩に言っていたことを思い出す。

 モレヤという少年は、見神の才があるというだけで豪族たちから王に祭り上げられ、神奈子の虜とされた“諏訪さま”の代わりに旗頭となった人物だ。母は、諸国を巡る巫女だという。それらの『歩き巫女』とでも称すべき人々は、神霊よりの託宣と同じほどに自らの身を売って生きている。モレヤの能力が母より受け継がれたものであるのは、おそらく真実のことだと言えるだろうが、まことに神の意を受け、神の血に連なる少年であるのかは疑わしい。

 否――おそらくは、「母が父の居ないわが子を慰めるために考えた優しさである」という神奈子の推測こそがモレヤの出自を真に言い当てているのだと、そんな直感さえ諏訪子にはあった。そして、傑出した能力を持つ者であれば、勢力の正当性を誇示する旗頭には適任で、称する血筋が真実のものであるかどうかはそれほど重要な話でもない。

 つまりは豪族たち、ひいては出雲人たちまでもが、政を思うさま動かすための道具として掌中に収めたがっているのがモレヤという少年であった。だが、見神の才に支えられた王の地位は、同時にひどく危ういものでもあると考えられた。そのような能力に依拠した王位は、下手をすれば属する人が“替えの利く”ものということでもある。元が、神奈子に捕らえられた諏訪子の代理としてのみ王位に就けられた少年なのだ。政のうえでの価値がなくなれば、直ぐさま命を奪われてしまう危険が、確かにあった。

 モレヤの境遇について、じっくりと思案を巡らせば巡らすほど、諏訪子の心は重々しくなっていく。

 ひとりの友もなく、味方もなく。
 敵国の人々がつくった城のさなかで、いつ殺されるか解らぬような不安な一月を過ごしてきたに違いなかった。王としてのモレヤは、常に危うい綱渡りを強いられているも同然だったのである。

「モレヤ。母御(ははご)は、どちらにおられるのであろう」

 だから、そんな風に問うてしまったのは、モレヤが孤独ではないという証を、どうにかして引き出したいという気持ちが兆してしまったせいなのかもしれない。

「私の母、に、ございまするか」
「そうだ。其許の母御。確か、諸国を経巡る(へめぐる)巫(かんなぎ)だったとか」

 瞬間、モレヤはぱッと顔を上げ、少しだけ嬉しそうな顔をする。
 彼に表れた幼い感情の根が何だったのか、見ただけでは判じがたい。
 が、その正体を突き止める間もなく、萎れた花のようにうつむいてしまう。

「わが母の身をお案じくだされ、ありがたく存じ上げ奉ります。……しかし、モレヤの母は、もうおりません」
「それは、“お隠れになられた”、ということで良いのか」
「お隠れに……はい。そういうことです。モレヤの母は、亡くなりました」

 途端、胸の奥が詰まるような自責を諏訪子は覚えた。

「そうか。……それは、気の毒なことを尋ねてしまったと思う。許してくれ」
「諏訪子さま、私は怒ってなどおりません。いずれ、お話ししなければならぬこととも思っておりました。神さまの前で隠しごとをしてはいけないと、その母がよく申していたのです」
「隠し事、か。そういえば、儂は其許の身の上にまつわること、あまりにも知らな過ぎた。今日を良き折、と申すのは少し違うとも思うが、心さえ向くのなら、少し話してくれる気はないか」
「諏訪子さまが、それをお望みと仰せらるるならば」

 と言うと、モレヤは居ずまいを正す。
 少女に化身している諏訪子よりもさらに小さな背丈が、先ほどまでとは種類の異なる緊張で満たされていくのが見て取れた。

「其許の、生国はどこなのか」
「生国にまつわる憶えは、私にはもうありません。西国か、東国か。あるいは北の方(かた)なのか。気がついたときには、母の背に負われて諸国諸州を旅しておりましたから」
「諏訪には、いつごろやって来た」
「モレヤが、確か五つのころです。諏訪豪族の筆頭であるトムァクの邸に招かれ、たびたび吉凶を占っておりました。母から伝え聞いたところでは、私が産まれる前から、トムァクの所にはたびたび世話になっていたそうです。命ぜられれば、一月も二月も滞在したということにございまする」

 うん、と、諏訪子は無言にうなずいた。
 相手の話に相槌を打つ、ごく何気ない仕草であるとモレヤには見えたことだろう。
 しかし、その実は彼の経歴の一端に対し、推測を巡らした結果としてのうなずきであった。歩き巫女とは定住をしない女性宗教者であると同時に、流浪の遊び女(あそびめ)なのだ。モレヤ母子が、諏訪豪族筆頭であるトムァクの邸に留め置かれたということは、歩き巫女である母御が、卜占(ぼくせん)を口実にトムァクから愛妾のごとく扱われていたのであろう推測まで容易にできる。モレヤの見神の才にも、トムァクはおそらくそのときに気がついたのではないだろうか。

 だが、同時にひどく醜悪な想像がはたらいてもいた。
 それは、トムァクがモレヤという少年を諏訪の王位に就けた理由として想定できることのひとつではあった。だが、決して真相を確かめようのない下卑た好奇心の産物でもあった。モレヤ自身が産まれる前から、その母がトムァクの元を訪れていたというのなら。モレヤの実の父とは、よもや――。

「母御は、いつごろお隠れになられた」

 だが、諏訪子はその考えをおくびにも出さず、続けて問いを発することをした。
 余計なことを言って、話をこじらせてしまうのは彼女も望むところではない。

「はい。出雲人が、諏訪に攻めてくる少し前のことにございまする。西の方より土煙を蹴立てるように近づいてくる戦いの凶気に耐えること叶わず、わが母はにわかに正気を失うたまま命を落としました。それが、諏訪の地にたどり着く少し前。私は、ただひとりでトムァクの邸に留め置かれることとなりました。今のように王位に就けられたのは、それからのことです。この諏訪に、母の墓はございませぬ」
「諏訪に、モレヤの母の墓はないと申すのか」

 いずことも知れぬ地で彼の母は野垂れ死に、その死は今もなお雨風に晒されていると言うのか。ごくり、と、息を呑まないわけにはいかなかった。残酷なもの、血を流さずにはおかない生贄の儀式や進物なども、崇り神たる諏訪子は知っている。が、それでも彼女はやはり御所のうちに座することを責務とする王という意味では、そういう惨たらしい世間を知らないところがあったのかもしれない。否、それとも、むしろ王として眼の前の少年の身を案じる気持ちのせいだったのだろうか。いずれにせよ、あまりにも一瞬のことゆえ、諏訪子自身にも判じがたい感情だった。

 モレヤは、諏訪子の顔を見ることなく話を続けた。

「はい。しかし、旅の巫に立派な墓など望むべくもありません。モレヤもいずれは死んだとき、土を枕とし、骨肉が風に運ばれて消え去る定めだったはずでした。それが未だに生き永らえているのも、あるいはミシャグジ諸神の加護によるものかもしれませぬ」

 彼の言葉には、自らの過去を懐かしむような色があった。
 だが決して、肯定的な響きとも考えられない。
 諏訪の地に“諏訪さま”無き以上、ミシャグジたちは人間たちに自らの意を伝えるため、“諏訪さま”の代理を立てる必要があったはずである。本来、諏訪に定住することのなかったモレヤが、出雲人との戦いのさなかで怒り叫ぶミシャグジ蛇神に余所者として崇り殺されなかったのは、やはりその見神の力に利用価値があったからに他ならない。諏訪鎮護を目的とする蛇神たちは原始的な信仰の怒りをもって、自身の権益を護持せんとする諏訪豪族たちと目的を同じくし、俗界の支配者である彼らの戦いに正当性を与えるべく、「出雲人を滅ぼせ、侵略者を殺し尽くせ」と、モレヤの口を借りて語らせたのだ。

 ミシャグジたちの元締めとして祀られていた諏訪子だからこそ、諏訪の柵に居る以上は話もできぬ蛇神たちの腹がよく解る。どこまで行っても、少年の命は政の道具であった。

 これでは、だめだと諏訪子は歯噛みをする。
 こんな、いかにも子供騙しの問答などくり返していても埒(らち)が明かない。
 モレヤの不思議そうな眼を受けながらも、二、三度、深々と息をした。
 それから、あらためて相手をよく見据える。弱々しく力ない、しかし何かを探し求める強い意志だけは持つ瞳をした、少年王モレヤがそこには居た。これなら自分の問いに耐えきってくれることだろう。諏訪子は、そう信じたい気持だった。

「モレヤ。もうひとつ、問うておきたいことがある」
「はい。何なりと」
「この諏訪の柵の城内には、其許の出自を疑う者がある。つまり、モレヤは神の子である、神霊の血筋を引いている。そういうことが、ただの方便なのではないかとな」

 あえて、神奈子の名前は出さないことにした。
 狡い笑みさえ見せながら、言を継ぐ。

「トムァクたちの政には、かつてこの諏訪子も手を焼かされた。彼(か)の者たちは、自らの意に王命であるという正しさを加え、世に押し通すためのやり口として、王を奉ずることをしている。もしや、其許の出自もまた……」

 諏訪豪族たちが考えだした、方便ではないのか。
 と、そのように言うべきではあった。
 しかし、なぜか口ごもる。
 モレヤに対して不用意な憐れみを覚えてしまったからなのか。それとも、やはり話をこじらせたくはないという迂遠な保身をどこかで欲していたせいか。いずれにせよ、瞬時に彼女自身の結論は出なかった。諏訪子の言葉の続きを待たずに、モレヤがそれを引き取り、口を開いたからである。

「私は、神霊の子です。この東国の天地(あめつち)に満ちる神の息吹を吸い込んだからこそ母はモレヤを身籠り、私は見神の才を得たのです。周りの皆がそう言うので、私もそう思うことにしています。でも、なぜか皆が、私たち母子を嗤っている気がする。私の眼には見えずとも、耳に語りかけてくる神霊たちが、そのように囁き合っているのです」

 顔からも声の奥底からも、モレヤが泣いている気配は少しもなかった。
 しかし、どこか解決しようのない虚しさを彼が抱いているということを、諏訪子はつぶさに感覚する。いら立ちに似た心でなおもモレヤの話に耳を傾ける。それほど長くもない話のうちに、彼の身体は不用意に体力を使い過ぎたのか、息はわずかに荒くなっていた。

「ミシャグジたちか、魑魅魍魎たちか。いずれ其許の耳には、何と聞こゆる」
「“モレヤは神の子にあらず。賤しき歩き巫女の子なり”と」

 はっきりとそう伝えてから、モレヤ再び平伏す。
 諏訪子は指一本分ほども身を乗り出して、モレヤの様子をうかがっている。
 彼は、やはり泣いてなどいない。怒ってもいない。ただ眼前に座する神の威容に服し、自分の知っていることを、抱いている虚しさを、流れ出すように仕向けているだけだったのだ。

「悔しいか、斯様に嘲られることが」
「悔しくなど……ありません。ただ、“そうでなければ”、私は生きては行かれないのでしょう。だからこそ、モレヤはトムァクたちに拾われたのです。“誰が父かも知れぬ、賤しき神の子だからこそ”」

 賤しき、神の子。
 甚だしく矛盾した物言いであった。彼のような少年に、そんな自らを傷つけるようなことを言わせるものがいったい何であるのか、神である諏訪子にさえ次第に解らなくなりつつあった。彼を王として祭り上げた諏訪豪族たちか、神の子と吹聴する市井の人々なのか、彼に自らの意を与える神霊や魑魅魍魎どもなのか。否、と、諏訪子は直感する。そのいずれもがモレヤを絡め取り、彼の運命をこんなにも数奇なものにしてしまっているのだと。歩き巫女の母から見神の才を受け継ぎ、流浪の祝として生涯を終えるはずだったちっぽけな少年を、神の姿を直接に眼に刻まなければならないような立場に追いやってしまったのだ。

 諏訪子は、神としてモレヤを救えるという気がしなかった。
 自分と彼との対面は、あるいは何かの戦いではないかとさえ思えるほどだった。
 そして、彼女はモレヤとの戦いに負けたのだ。諏訪子という神は。

「よく解った。――しかし、前置きが長くなってしまった。此度、其許は何用あって諏訪子に会いたいというのだ」
「それは……」
「何の用事もなしに訪うてくる相手に易々と謁見を許すほど、諏訪亜相も暇な職ではない。儂は、モレヤが何か理由あってここに参るのであろうと感じたからこそ、こうして話をしているのだよ」

 にィ、と、意地悪く諏訪子は笑んだ。
 可憐な少女の微笑に見えなくもないが、その底には相手の譲歩なり真意を引き出す策のようなものが巡っている。少なくとも、普通なら。だが、相手はモレヤだ。ひとりの孤独な少年なのだ。神として敗北した諏訪子が、王として彼と戦うためにくり出した武器が、そこにはあった。神としてひとりの人を救うことができないのなら、王として導くことはできるはずだと。

 突然に笑んだ相手の意を図り損ねた様子で、モレヤは眼を泳がせる。さっきまで雄弁に己の身の上を語っていた口ぶりも、途端に狼狽しきったものとなる。

「その、あの……そう! そうです! いちど、諏訪子さまのもとにごあいさつにうかがわなければならないと思っておりましたゆえ、それで……」

 ふうん、と、唇を指先でなぞりながら。
 嘘だな、と、諏訪子は直感した。
 夏の暑さか、話に熱が入ってしまったせいかな、と。
 ともかくも、モレヤは何か真意を隠して諏訪子に謁見を乞うてきたらしい。

「誰(たれ)か。誰か、ある」

 はッ! と、直ぐにしゃがれた声が、閉め切られた扉の向こうから飛び込んできた。
 諏訪子の侍者として仕えている、初老の舎人の声である。
 諏訪子とモレヤの会見のあいだ、部屋のそば近くで控えていよと申しつけられたがため、扉の向こうで下知のあるに備えていたのだった。きい、と、扉が軋むと、わずかに開いたその隙間からは、主からの用向きをうかがおうとする件の舎人の顔が見えた。

「蔵の中に、山の氷室から受け取った氷が未だ残っていたであろう。それをひとり分、適当な器に水とともに満たして持って来てはくれぬか」
「はあ。しかし、氷室の権は八坂神の御手に委ねられしものにて、まことに失礼ながら、亜相どののご権限では……」
「その八坂神から、此度に限って特別に許しを貰うている。気になるなら確認をしてみると良い。もっとも、氷がぜんぶ融けてしまう前にだが」
「そういうことであるのなら。……直ぐに、ご用意いたします」

 未だ少し疑いを含んだ声音を発しながら、舎人が歩き去っていく気配。諏訪子は、何だか可笑しくなる。顔に薄い皺の刻まれた男が、しきりに首を傾げながら廊下を渡っていくところが容易く想像できてしまうからだ。

「少々待たれよ、モレヤ。いま、八坂さまより賜った珍しきものを馳走しようと思う」
「はい」

 ――――待つこと、少し。
「申し上げます」と、先ほどの舎人の声がした。今度はやけに落ち着き払った色がある。

「ん。入れ」
「は」

 きいい、と、扉が開く。
 やはり、諏訪子の侍者の舎人が、身を低くしたままふたりの眼前に進み出た。

「氷水のご用意ができましてございます」
「うん。モレヤ王に供せよ」

 命ぜられると、その舎人に目で合図を受けた別の舎人が、三方(さんぽう)をひとつ捧げ持って、モレヤの御前にそれを供した。諏訪子の指示通り、一杯の氷水で満たされた土器が三方には捧げられていたのである。仕事を終えると、ふたりの舎人は命ぜられるまでもなく部屋を退出し、場には再び諏訪子とモレヤ、ふたりの息づかいだけが満ちていく。

「其許が大人の男であれば、酒でも振る舞って心を解きほぐそうかと目論むところであるのだが、未だ十にもならないうえでは止むを得まい。此度は、八坂さまより諏訪子が賜った氷水を馳走することとしよう」

 と、諏訪子のそんな言葉もどこへやら。
 モレヤは、格子戸から差し込む夏の日差しを浴びて絶えずきらめく氷のうつくしさに、すっかり眼を奪われてしまっているようであった。涼を取るとか氷の美味しさとか、そういうところは後回しになった顔をしている。大人びた態度と言葉を能くする彼にも子供らしい好奇心があるのだということを、ようやく確かめることができたとつい安堵させられる。

「な、夏場の氷が斯様にうつくしきものだとは、知りませんでした」
「うつくしいだけでなく、口に含みてもまた好いものなのだよ。元は、諏訪新政に帰順した土蜘蛛の民から八坂さまが献上を受けたものでな。生ぬるい夏場の水でも、氷を入れれば冬のさなかから持ってきたかのように、きりりと冷たくなってしまう
「…………この氷水を、私に賜うとの仰せなのですか」
「むろん。そのために人を呼んだ」

 未だ融けかけたばかりの氷のかたまりが、土器のなかで水にぷかりと浮かぶのを見て、モレヤがごくりと唾を飲み込むのが諏訪子には解った。

「さ、遠慮せずに飲んでみよ」
「は、はい。では」

 おそるおそる、土器の端に口をつけるモレヤ。
 一度、二度、未だ喉仏さえ出っ張ってきてはいない生白い少年の喉が、小さく動く。
 そして、ひび割れた小さな氷のかたまりを水と一緒に頬張り、がりり、と、噛み砕く音が聞こえてきた。硬い氷を噛んでいるはずなのに、なぜかとても柔らかい音が、諏訪子の耳には聞こえたような気がしていた。

「おいしい! ……夏の氷は、すごくおいしいです! ――――あ! 申しわけございません。おいしうございます。斯様なものを賜ることができるとは、恐悦至極の極みで……」
「そう慌てて取り繕うことはない。素直に喜んでもらえる方が、諏訪子にも嬉しい」

 無礼な口ぶりだったと思って慌てて訂正するモレヤを、諏訪子はそのように制した。
 彼女の言葉に嘘はなかった。モレヤという少年の態度や言葉の殊勝さは、政の場で使うために諏訪豪族たちからむりやり叩き込まれたものなのであろう。その欺瞞の覆いが束の間ではあるが取り払われて、何の屈託もなく笑うモレヤの表情に、ようやく彼という少年の“本当”を垣間見た気がした。

 こくこくと、一滴一滴も逃すまいとするかのように大事に残りの水を飲むモレヤに、諏訪子は微笑みかける。

「ようやく笑うてくれたな。泣いたり怒ったりするよりも、朗らかに笑うておるのが、子供にはよう似合う」
「突然のご無礼を、平にご容赦くださいませ。なにぶん、モレヤはにわか仕込みで王となった不作法者なのです」
「それがいけないのだ。諏訪子は、モレヤが隠しているまことのものが見たい」
「まことのもの、で、ございまするか」
「そう。――ああ、少しずるい話をしよう」

 冷たさに痺れた舌先を口の中で愛撫するかのように、モレヤは少しだけ舌足らずになっていた。だが、諏訪子は構わない。さきほどまでと同じ笑みを湛えつつ、しかし内心ではささやかな謀を固めている。

「八坂さまより、儂は亜相として格別のご高配を賜っている。新政における所領の配分も、諏訪人のなかでは一番だ。此度など、特別に氷室の氷を賜る許しも得ている。いわば、諏訪子こそが神奈子さまに次いで大きな力を持つ諏訪の豪族ということ。まして、儂は神である。いくさに負けたとはいえ、八坂さまとともに当地を治むることとなった神である」

 モレヤの表情は、にわかに曇り始める。
 やはり聡い子だ、こちらの意図を直ぐに察することのできる程度には。
 そう確信し、諏訪子はぺろりと舌を出してけらけら笑い出したい気分だった。

「モレヤ。未だ幼いとはいえ、祭祀の王たる其許にはよう解るはず。神が人々に施しを与えるには何が必要か」
「信仰にございまする。また、信仰を証するための供物進物も必要にございます」
「そう。このふたつは切っても切れぬもの。いま諏訪子は、いまモレヤに氷水という施しを与えた。だから、其許は代わりに供物を捧げねばならない」

 少女の赤い唇に、それ以上の赤みを持った舌が這う。

「諏訪子は、モレヤの“心”を欲する。其許が何ゆえ、此度、儂のもとへ参ったのか。あらためて、そのわけが聞きたい」

 土器が、三方の上に戻された。
 さっきまで屈託なく笑っていたモレヤは、今また最初と同じように、石を彫り込んだよな堅苦しい表情に戻っていく。しばらく、彼は迷っていた様子だった。視線は泳ぎ回り、諏訪子を正面から見ようとはしない。氷水で冷やされた口のなかが、今度は恐怖から来る寒気でカチカチと上下の歯をぶつけさせている。

 やがて、小さな震え声が耳を刺した。

「諏訪子さまは、人の命を奪うことがおありですか」
「やむを得ぬとき、奪う。ことさらに神々を穢さんと欲する者、貴き者の責務果たさず、自らの利益を貪りて人民を蔑ろにする者、あるいはこの諏訪を侵す異邦よりの敵。出雲人との戦いに負けはしたが、神としての諏訪子は、そうした者たちに祟りというかたちで死を賜うことある」
「しかし、その祟りはまことに神さまの御心によるものなのでしょうか。諏訪豪族たちに利用され、政のために祟りという名で人々を畏れさせることになってしまったものが」

 やはりためらいがちな顔ではある。
 しかし、今度ははっきりと諏訪子を見据えてモレヤは言った。
 諏訪子の下す天罰とか祟りとかいったものが、その実は「“諏訪さま”を推戴するわれわれに逆らうと祟りがあるぞ」というかたちで豪族たちに利用されていたという経緯を知っているのだ。凛たるものさえ感じさせる彼を、しかし、諏訪子はどこか冷ややかに見つめている。

「モレヤは、政が怖ろしうございまする。政は、それが利になると判れば白いものをも黒と言い、祟りでさえもその名だけを好き勝手に引き出して“脅し”の手段に使われてしまうもの。そして、」
「流浪の祝であった少年を、王として祭り上げてしまうことさえできるもの」

 言葉を取り上げられて息を呑んだモレヤ。
 言いたいことは諏訪子にまるっきり言われてしまったものらしい。その諏訪子の声音は、あくまでも優しげだった。これで――――モレヤ王の本当の心が解った。そう思ったからこそ、冷ややかさは冷静さと意味を同じくしていく。

「私には、諏訪子さまが善き御方か悪しき御方かが、もう解りませぬ」
「善き者にも悪しき者にも、諏訪子は成るぞ。人々が望むものに」
「ならば、私のために善き御方になっていただくこと、叶いまするか。このモレヤがために」

 返答を、直ぐにしなかった。
 何を衒う(てらう)も意図もなく、的確と思える答えを見つけあぐねたせいである。

 彼は、モレヤという少年は、臆病なのだ。
 子供だからなのか、無理に政の場に引き上げられた哀れな人の常か、それともその両方か。どんな理由(わけ)が作用しているにせよ、臆病者とて生きなければならない。いざいくさに駆り立てられれば、今まで鍬(くわ)や鋤(すき)しか握ったことのないような純朴な農民でさえ、まずは戦いの場で己が生き残るために血にまみれる道を選ぶことだろう。それは、人間という生き物が臆病にできているからだ。臆病だからこそ、人間は恐れを知らないかのごとく自己を装いながらも、生きていくことができる。

 モレヤもまた、特別な地位に就かされているとはいえ、ひとりの人間なのだった。
 彼もまた、戦っていると諏訪子は知った。
 一本の矢もひと振りのつるぎも使われることのない、政という戦いである。
 そして、彼は孤独なのだ。自分以外に誰も頼る者のない、ひとりぼっちの王なのだ。
 多数の権勢と欲がぶつかり合い暗闘をくり返す、醜いとも言える政の場で、孤独なモレヤは自分が丸腰とも言えるほど脆弱な存在であることに、とうに気づいていたのであろう。出自が卑賤とは申せ、王として過不足なく諏訪子と話ができるくらいには頭の方もついてきている。そんな少年が、自分を取り巻く悪意にさえ似た無数の意図に、気づかないはずはないのだった。いつの日か、諏訪人と出雲人の政に磨り潰されて、自分という人間が殺されてしまうのではないかという危惧を。

 少しばかり、諏訪子は恥じ入る気持ちになった。

 モレヤという存在を政略結婚の道具にするということに、いつしか躊躇を忘れかけていたことにだ。少なくとも、モレヤは自分よりかは幾分か真摯であるようにも見えた。彼の幼い臆病さは、武力も謀略も持たないゆえに、拙い嘘をつくことしかできなかった。だがそれでもなお、剥き出しの権力欲がぶつかり合う諏訪新政の場において、諏訪子が自分に味方してくれるのではないかという、そんな一縷(いちる)の望みだけを頼りに、謁見を望んだのであろう。

 最大限の旨味を持って利害を取りまとめようとする狡猾な諏訪子と、いつ殺されるかも知れない眼前の少年を憐れむ諏訪子が、いま少女の肉体のなかでは果てしないにらみ合いを続けていると言っても良かった。本来であれば……と、悔やむ思いが兆してもくる。姿持たぬ神霊としての本来の“諏訪さま”であれば、ただ一か二か、黒か白かで迷いなく決断をすることができたものを。それが、人の姿に化身したせいか、考え方まで人の心がまま行うような、逡巡というものに毒されてしまったかのようだった。

 あるいは、神奈子とのつき合いが自分を変えてしまっただろうか。
 きっとモレヤの身を案じる彼女の心を知らなければ、モレヤが死んだところで、神や政に対して供された数多くある供物進物のひとつとして、「やむを得ぬこと」と受け止めてしまっていたことだろう。人民を安んずるための手段のひとつとして。

 今は、それが怖いのだ。
 神と王とを兼ねる者として、諏訪の太平をただ願ってきたはずである。
 だというのに、郷里の太平とただひとりの少年の命とを天秤にかけることが、今はこんなにも怖いのである。

「モレヤよ。其許のために諏訪子が善き者となることが、諏訪の地に平穏もたらすことと意味を同じくするわけではない」
「それは…………解っておりまする」
「――今いちど訊く。怖ろしいか」
「は。怖ろしいとは、何が」
「政が。諏訪人と出雲人のあいだで板挟みにされることが。そして、その次第によっては命奪われるかもしれぬことが」

 口にすべき言葉を吟味しつつも、ほんのわずかな逡巡の影だけ感じさせてモレヤは答える。

「本当を申せば、諏訪子さまに代わりて諏訪新王とされてよりこの方、政のことで怖ろしくないと思ったことなど、ひとつもございません」

 ひざまずく背をぴんと伸ばしあらためる、モレヤの眼。
 諏訪子と彼との視線は、ようやく真っ直ぐに交錯した。

「政を行うた果てにモレヤが出雲人の女子と婚儀を取り結び、やがて子供が産まれれば、この身は用済みと相成りましょう。そうなれば、私はきっと殺されます。政とはそういうものだと思うのです。多くを生かすために小さな一を殺さなければならないことを、上手く取り繕うためのすべこそが政だと。諏訪人や出雲人の政に操られて、城とか御所の奥深くに閉じ込められて、何が何だか解らないまま殺される。私は、そんな風にして死にたくなどありません。死にたくなど……」

 彼が、膝の上で握り締めた小さな拳は、強い力のあまり肌が真っ白に染まりきっていた。
 幼い身にそこまでさせるものは怒りではない。恐怖なのだ。ただ純粋な、生きたいという渇望なのである。

 もはやひざまずくことすらも忘れ、モレヤはその場からがたりと身を乗り出した。
 小さな身体を載せる床板がぎしりと軋みを見せ、諏訪子とモレヤとの距離を一瞬にして縮めでもしたかのようだ。眉の根を寄せて、モレヤの懇願を諏訪子は見届けんとする。未だ、自分の感情を押し包む理性の覆いを外すべき頃合いではない。

「諏訪子さま! どうかモレヤをお助けくだされませ! 捧げものに猪や鹿の御頭も差し上げます。もしお求めであるのなら、出雲人の首のひとつやふたつだって取ってきて見せまする。何を仰せられてもお言葉には叛き奉りません。ですから、私の味方になってくだされませ!」

 わずかに汗ばみの度を増した自身のこめかみに指を這わせながら、諏訪子は渇きでべたつく口を開く。不思議なことにモレヤが必死に自分の窮状を訴えれば訴えるだけ、反対に彼女自身が冷静になっていくのだった。

「本当に、儂の意に叛かぬ覚悟があるか」
「は、はい……!」
「其許の判断は、甚だしき見誤りであるかも知れぬ。諏訪子がモレヤに味方すれば、天地の因果は巡り巡りて諏訪の地に再び騒乱を呼び起こし、其許自身の身も破滅する。そうした恐れを“否”と言い切ることはできぬのだぞ」
「失敗すれども、後悔など致しませぬ。モレヤが、己が心で選んだ主上が、他ならぬ諏訪子さまだからです」

 後悔などしないか。と、歯噛みしたい気持ちにもなった。
 そうやって、戸惑いもためらいもなく己が進む道の間違いなさを言いきれるだけの若さを、諏訪子はもう喪っているのかもしれなかった。否、むしろそれは幼さとしか形容しようのないモレヤの心情であるには違いない。老いとは、肉体に訪れるものではない。真の老いは、ただ精神が自らの行うところに妥協した瞬間に訪れる、かなしみをかなしみとも思わぬ諦観の謂いなのである。その意味では、諏訪の地にて数多の政を眼にし、そして神なるものである以上の逃れがたい非力さを思い知った諏訪子は、確かにひどく老いきっている。

 いま彼女のなかには、ふたりの『若者』が存在した。
 そして、その真っ直ぐさは老獪でなければならなかった自分にはかつてなかった、鮮やかな生き方そのものだった。

 失敗をしても、後悔などするな。
 ふたりの若者のうちのひとり――八坂神奈子だったら、やはり傲然とそのように言い放っていたことだろう。なぜなら、それが王たる者に必要な傲岸さというものだからだ。ちょっとやそっとのことでは揺るがぬ意志持つ王でなくば、人は決してついてこないのだからと。

 そして、諏訪子に羨望の念を抱かせるもうひとりの若者――モレヤもまた、己が命を賭して“闘って”いる。名も誉れもなく、それでも生きたいと願うがゆえの純粋な闘いだ。

「……仮に。仮に其許を後見することで、この諏訪子に何の益ある」
「それは、」

 口ごもるモレヤ。
 しかし、直ぐに思い直し、

「わが身を政の道具としてお使いいただくことで、諏訪子さまにおかれましては、新政の場において御自らのお立場をよりお強きものにしていただくこと、できまする」
「政によりて殺されることを、モレヤは厭うのではなかったか」
「むざむざと意味なき死を晒すくらいであれば、私の命は自ら選んだ主上に捧げたいのです。何も持たぬモレヤには、わが命だけを諏訪子さまへの進物とするより他に、道がございませぬ」

 言うと、彼は倒れ伏すかのようにひざまずいた。
 可笑しいな、実に可笑しい。
 その言葉だけがぐるぐると頭の内側を巡り、思わず笑いがこみ上げてくる。
 気がつくと、どうがんばっても堪え切れないだけの笑いが肺腑の奥底を満たし、諏訪子は半身が弾け飛ぶかのような大笑を見せていたのだった。

「うん。どうやら、儂は己でも気づかぬうちに、八坂さまより多大の影響を被っていたようだ」
「は、はあ。どういうことでしょうか」
「強くうつくしきもの、好まずにはおられぬようになっているということ」

 諏訪子は、自らの座から立ち上がった。
 鷹揚な仕草でモレヤの元まで歩み寄ると、その震える肩に少女を模した手を置いてみせる。自らの主上と頼んだ人に直接触れられることへの緊張という以上に、異性の香りを間近く知ってしまうことへの悦びや恥じらいを、彼が感じているのが否応なしに伝わってくる。思わず眼を背けたがるモレヤを制し、諏訪子は彼の顔を自分のところへと向けさせる。

「獣の頭、出雲人の首。いずれの用意も此度は要らぬ。ただ、諏訪子がひとつだけ欲するものがある」
「それは……いったいなんです」

 彼女のいたずら心は、そのとき、最高潮に達する気配を見せた。
 唇が触れぬばかりモレヤの耳に顔を近づけ、彼の眼がこちらの眼を追うことのできない場所から言葉を告げる。淫靡、というにはいささか足りない色がある。男女の機微さえ未だほとんど知らないはずのモレヤなのだ。諏訪子のそのような悪ふざけを、悪ふざけという以上の意味では解釈できなかっただろう。諏訪子は、それを見越していた。自分がモレヤの味方となるのなら、モレヤもまた自分の味方に引き入れる用意をしなければならなかった。

「モレヤの一生、儂が其許の主上としてもらい受ける」

 途端、相手から離れて元の座へと身を翻す諏訪子。
 冷や汗をかいたように見えるモレヤは、肩を震わせながら諏訪子の姿にじいと見入っていた。

「命をよこせという贅沢は申さぬ。しかし、ひとりの人を従わす、これは数十年の歳月を要し、その命を供物としてもらい受けるも同じこと」

 かっくり、と、モレヤは無言にうなずいた。
 たぶん、返事をしなければならないという心だけで見せた動きに違いなかった。諏訪子の言葉の意味までは、おそらく伝わっていない。少々、悪ふざけが過ぎたようでもある。内心に苦笑をしつつも、彼女は決していら立ってはいなかった。自分はモレヤからその命を託されたという、自負が生まれている。それは、神奈子に己が命運を託さなければならなかった諏訪子自身だからこそ解ったことだ。

「カッコウという鳥のこと、モレヤもきっと知っておろう」
「はい。諏訪はじめ、いずこの地にても珍しくもなく見受けられます」

 姿勢も表情も崩しながらの話は、束の間に産まれていた緊迫を解きほぐしていく。
 さっきまで見ていた諏訪子のすべてが夢だったかのように、モレヤはまた聡明な自分に戻ろうと必死なようであった。

「カッコウという鳥は、親鳥が雛鳥を別の鳥の巣に預け、図々しくもその巣の中で、まったく見ず知らずの別の親鳥にわが子を育てさせるという」

 諏訪子は、語る。
 黙ってその意図を図ろうとするモレヤには構わないでいるかのように。

「だが、諏訪子はこう思うときがある。別の鳥を親としなければならなくなったカッコウの雛も、ときとしては寂しさに打ちひしがれることがあるのではないかと」

 何か大事なことに気がついた様子で、モレヤは眼を見開いた。

「カッコウの雛鳥は自ら育つ巣の中から、育てられるはずであった本来の雛鳥を蹴落としてしまう。狡知に長けた、強き鳥よ。しかし、そうしなければ天地のさなかにて、瞬く間に滅びてしまう理由(わけ)が、きっと彼の鳥どもにもあるのであろう」

 どうやら、こちらの言いたいことは概ね伝わってくれたらしい。
 諏訪子がそう考えたのは、モレヤが力強く、何に怖じる様子もなくうなずいたからだ。ただ一度だけのうなずきである。しかし、そのただ一度のなかに、言葉にするも惜しいほどの意志のようなものが芯まで詰まっているのだと思う。

「モレヤ。諏訪人は、負けたからこそ強く在らなければならないのだ。諏訪の地は今や出雲人のものとなり、諏訪が出雲と呼ばれることになるのも、きっとそう遠くのことでもあるまいよ。だが、出雲と呼ばれる大国を他の鳥の巣としてさえも、われら出雲人は生き残らなければならぬ。まして、王である其許は、親鳥から離れる孤独に耐えなければならぬのだ」

 はい、と、モレヤが答えた。
 声は未だ少し震えている。
 けれど、眼の前の神にして王を疑う気持ちなど、少しも抱いてはいないのだ。

「だからこそ、忘るるな。諏訪子は――いや、“諏訪さま”は、自らを祀る者に無間の益を与うる王。諏訪の地を鎮護する産土の神、土着の神、その頂点であるということを。そなたの身に危うきこと起こったとき、儂の力が必ずや助けとなろう」

 今まで、この小さな少年王の身に降りかかってきたあらゆる不安を、彼自身に代わってぬぐい去るかのように、諏訪子は満面の笑みを見せてやる。屈託もない、見た目にも相応の笑みである。

「案ずるな。今日からは、この諏訪子がモレヤの味方となる」

そして、自分とともにモレヤの味方になってくれそうな『親鳥』のことを、考えずにはいられなかった――――。


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