Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第二話

2012/09/16 22:26:26
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 諏訪統治の拠点として諏訪の柵なる城を築いて以来、毎朝、練兵場で弓の稽古をすることが、八坂神奈子の習慣であった。

 未だ東の空から太陽が顔を出しきってはいないような頃合いに起き出して、誰より早く練兵場を目指す。回り持ちで彼女の稽古につき合うことになっている舎人をひとりだけ従えながら、朝靄晴れぬ城中を足早に突き進んでいくのである。目覚めたばかりで朝餉も未だというのに、主のための強弓を負わされ、眠たげに目脂(めやに)をこする舎人とはまるで対照的な、溌剌(はつらつ)とした顔をしている神奈子であった。

 で、練兵場にたどり着くと、最低でも百本の矢を射るまでは絶対に稽古を終えようとはしない。ようやくにして城内の臣下や将士たちが起き出してくるのは、的が神奈子の放った矢で針鼠と化す頃合いだ。そして、朝から武芸の稽古に勤しむ神奈子にあやかろうと、彼らもまた弓を手に取る――というのが、諏訪の柵の朝であった。

 この習慣は、諏訪の地における新政が始まろうという忙しい時期になってもなお、絶えず続けられていた。いや、神奈子の仕事における比重が、いくさから政にその多くを移していくに連れ、彼女の熱中の度は深まっていったと言っても良い。

 と言うのも、蜀漢の劉備玄徳が未だ己の国を創立するよりも前、いくさから遠ざかっていたために腿に贅肉がついてしまい、それをひどく嘆いたという、いわゆる『髀肉の嘆』の故事を、神奈子はひどく怖れていたのである。仮にもいくさ神たる者が、政にばかりかまけて本来の権能である戦争で力を発揮できなくなるのは、いかにも愚かしいことである。まして、人界に在るべく人の身に化身している彼女のこと。自分自身の存在の意義が消失してしまうことへの危機感については、人間以上のものがあるのだった。

 だからその朝も、神奈子は舎人ひとりを従えて、練兵場へと姿を現した。

 女の身なる彼女とは申せ、その手で弦を引くところの弓は尋常のものではない。並の将士に射手が務まることはなく、大いに持て余すであろう強弓である。軍と武、つまりはいくさに関わることすべての司神である八坂神奈子の矜持の象徴ともなる武器でもあった。

 今朝の、稽古番ともいうべき任に当たっている舎人をかたわらに侍らせ、その手から矢を受け取りながら、ようやく靄の晴れ始める練兵場で弓を構える。もう何度も見慣れた城の一角だが、眠りから醒めてさほど時間が経っていないときに眼にすると、いつも決まって清新なものがあると思う。行宮よりも評定堂よりも、いくさ神たる八坂神奈子にとっては、朝方の練兵場こそが王者の城なのかもしれなかった。

『城』という場所に王者の御所、政の拠点としての性格が明確に付与されたのは、もっと時代が下って戦国時代も後半のことであるようだ。今日、城といえばまず思い浮かぶ天守閣も、古代には未だなかった。だから、天守閣以前の城といったらまずは要塞、砦としての性格が強かったのだという。神奈子が東夷鎮撫を主導すべく築いた諏訪の柵も、諏訪を覆う山野のさなか、西国に通じる山道の幾つかに、“ふた”でもするかのようなかたちで造営された山城(やまじろ)だった。科野州を抜けて、やがては出雲へと通じる道筋を自らの城で塞ぐごとき行為に走ったのは、己が政に対する他者の干渉を拒まんとする神奈子の決意の表れであったのかもしれない。あるいは、いくさすることすらも身のうちに封じ込めるという覚悟も相まってのことだろうか。

 その城のさなかで、神奈子は弓を取る。
 手の内に自らのための武器があるうちは、吹き渡る風が、初めてこの東国に足を踏み入れたときよりも幾らかおとなしくなっているように感ぜられた。もはや消え去っているのだ、山内から神霊たちの声が。

 かつては数多の神棲む深山であったはずの諏訪の森も、出雲人がその威勢をもって切り開き城を築いてからは、意思というほど大層なものを持ち合わせていないような無数の神霊たちのざわめきでさえ、ほとんど聞かれることがなくなった。神奈子たち出雲人が、天照大神を頂点とする己が宗教体系に当地を組み込むため、霊力甚だしき地脈を見つけては、その方々に社や祠を建立して産土の力を鎮めたゆえであろう。彼らが崇拝する神道、という観念は、だからこの場合、きわめて政治的かつ侵略的な性格を持っていたと言わなければならない。出雲人の東征事業は、天照大神を頂点とする強力な人格神の勢力が、異邦に息づく、より原始的な自然崇拝を自らの体系に取り込んで無力化する過程、とでもいうべきものであった。

 国家、という壮大な共同体に対し、あるひとつの要諦を求めるとするのなら、それは、そこに属する人々が、本来的にきわめて漠然とした存在であるはずの『国家』に依拠することを受け容れるために共有されなければならない、偉大なる意識の基盤とでも言えようか。つまりは天照大神を頂点に戴き、その裔として地上の統治を委任されたという体裁の、大王という祭祀王を最高の統治者とする統一国家を建設するためには、各地で信仰される神の体系にも、共通の根をこしらえなければならなかったということである。

 だから、――神奈子を祀るかたちで自らを浄域と成し、ミシャグジ蛇神さえ手出しできなくしてしまった諏訪の柵は、軍事施設としての城であると同時に、出雲人の文化と思考、世界観の基盤である神道が東国に本格進出するための足場たり得る、即席の神殿という意味合いをも兼ねていた。

 だが。
 自らもまた神たる神奈子ではあったが、彼女は弓を引きながら、そんな小難しい政略だの何だののことは考えたくないとも思っていた。政でもなく、いくさでもなく、ただこうして弓を握っていられるあいだだけは、自分自身は神でも人でもなく、ただ『八坂神奈子』というだけの者で在り続けられるからだ。

 土着の神霊の加護を受けずとも、太陽は東から昇り、夜はいずれ明ける。万国において天地はそれまで通りに運行されるのだ。ただ、出雲の神々が土着の異神たちに代わり、天地を動かす権を得ただけのこと。思いのすべてを弓に向けるための言いわけのように、神奈子は心中にそう繰り返す。かつてくぐり抜けた戦いのさなかには、かぐわしい鉄剣のにおい、魂を禊ぐ(みそぐ)矢風、そして相対する異神たちの猛々しい息吹が吹き荒れていた。いくさ神にとって悦ばしきものであるそれらを吸い込むことは、もうできない。武芸の鍛錬は、束の間とはいえそんな寂しさを忘れさせてくれる。けれど、そうまでして忘れてしまいたいものが、その実は罪悪感によく似た何かなのかもしれないということには、神奈子はついぞ思い至らなかった。

 矢をつがえた彼女の腕が弓弦を引き絞ると、着物の筒袖から、女らしからぬ筋肉の盛り上がりが浮かび上がってくる。が、それは決して骨肉をむやみに派手にするばかりの華美な装飾というわけはなく、実戦のなかで鍛え上げられ、いっさいの無駄というものを排除して洗練をくり返してきた、戦闘的な身体つきそのものと言っても良かった。燃え盛るような肉体とは対照的に、弦を引けば引くほど神奈子の心は澄明になっていく。やがて完全に雑念が祓われた瞬間、ほとんど無意識とも言い得るような動作でその指は弓弦から離れ、神の膂力だけが弦から矢へと伝わっていく。

 風切る音さえさせぬままに、朝に圧されて消えかかった夜の切れ端のなかを、一本の矢は敏速に駆け抜けていく。

 神奈子の手から放たれた一矢は、およそ十五間半ほど離れた場所に取りつけられた真新しい的を目標とし、微塵も過つことなくその中心を射抜いて見せたのだった。この、心を鎮めて標的を少しの過誤もなく己の弓で射抜くことが、十年ばかり方々で戦いばかり続けてきた神奈子にとっては、数少ない愉しみのひとつでもある。

 ずどん、という、雷鳴にすら似た矢の命中音を耳にし、舎人は「おみごとにございまする」と、通りいっぺんの世辞を述べる。神奈子は、あまり話をしたことのない彼の方をちらと見るだけ見つつも、特にこれといった返事をすることもなく次の矢を受け取った。舎人の顔に、自分に対するあらゆる阿諛追従(あゆついしょう)が透けて見えるように思えたからだった。

 八坂神奈子は、阿諛というものが苦手である。
 否、嫌っていると言っても良かった。

 彼女自身のいくさ神という出自がそうさせているという面もあったけれど、何より、女神であることを公式には隠して男神(おがみ)として振る舞わなければならないことも、大いに関与してはいた。女のうつくしさと見れば、世の人々は称賛であれ嫉妬であれ、ともかくもその口からまろび出る言葉において褒めそやさずにはおかない。愚かなことだと神奈子は思う。

 戦いということに専心したがる彼女にとっては、だから、女としても凛としたうつくしさを持つ方らしい自分の容姿を嫌がったこともある。男装をして、男神として振る舞っているのはそういうわけもあるのだ。ともすれば、弓を引くのには邪魔くさいだけの乳房を切り取ってしまえたら良いのにと考えたことすらも一度や二度ではなかった。いくら弓の稽古で心を鎮めても、そんな思いはそう易々とぬぐい去ることもできない。それでも、幾千幾万回と矢を放ち続ければ、やがては自分の本当に求めるものを射抜くことができるのではないかと、そう願わないではいられない神奈子でもある。

 十二、三回ほど矢を放ち、舎人に新しい的を用意させているころになると、ようやく城全体を覆う朝靄が晴れてくる様子だった。新たな的が立てられるまで、濡れた手拭いで額に滲み始めた汗を拭く。少しも息の上がる様子がないのは、さすがに武芸に秀でたいくさ神と言えようか。だが、使い終えた手拭いを水で満たした木桶に戻しながら、彼女は自分の手のひらを見ないではいられない。

 劉備玄徳は、厠で自分の腿についた肉を見て、功業を立てられぬ不遇の身を嘆いた。
 自分は、劉備とは違う。それは、神奈子にも解っている。王として、彼より年月を掛けることなく自らの国を打ち立てて見せたという自負もある。しかし、満たされるべき心のどこかがすっぽりと欠落していて、ために虚しさを覚えているということは、きっと劉備と同じであった。

 八坂神奈子は、半年のあいだにすっかり柔らかくなった手のひらを見て、自分を取り巻くあらゆるものが変化し始めていることを悟らないわけにはいかない。かつて東国に覇を唱えるべく、将士一万を率いて山野を駆け巡っていたころ。握り締めた馬の手綱は指先の肉を硬くし、頼みとするつるぎの柄は手のひらの皮を厚くしたものだ。それが、半年前に諏訪に新政を打ち立てることを決してからは、評定において矢の代わりに言葉を射て、つるぎではなく筆で各勢力の利害調整を斬る毎日である。いつしか、剣や弓よりも筆を執る時間の方が明らかに増えてしまっている。

 それが、すべてにおいて悪いことだとは思わない。
 無用の戦いに頼ることなく、平和裏に国つくりが遂行できている何よりの証左ではないか。神奈子の理性はそれを解っている。彼女をして直ちに暗君とするのは早計だ。だがそれでも、いくさ神にとって本来の“郷里”ともいうべき戦場から遠ざかりつつあることは、確かに神奈子のなかの何かを塗り潰そうとしている。こうして毎朝、弓の稽古を欠かさないのも、自分が太平のさなかにうずもれてしまうことが、何より怖ろしいからではなかっただろうか。女であるがゆえの劣等感だとか、いくさ神としての権能を喪ってしまうことだとか、郷里なき自分が諏訪の異神たちの郷里を奪い、それがためにミシャグジ蛇神たちの怒りを買ってしまったのだという自責だとか。彼女が本当に射抜いてしまいたいのは、そういうものたちだったのかもしれないのだ。

「ばかめ。神奈子よ、おまえは何を悔いておる」

 いったい幾度忌んだか知れない自分の名を、彼女は再び噛み締めた。
 いくさとなると途端に眼の色を変える男という生き物に産まれていれば、あるいは、自分もまたもっと単純にものごとを割り切ることができたかもしれない。考えても、詮無いことではあるのだが。

 そうこうするうちに、靄はいよいよ晴れ渡っていく。

 的を立てる作業を終えた舎人が駆け戻って来、待ち構える神奈子に新しい矢を一本手渡した。それを受け取り、再び弓弦につがえる彼女であったが――――。

 たるんでいた糸を、ぴん、と、真っ直ぐ張るように、久しく研ぎ澄まされていなかったその直感が、にわかに息を吹き返した。凶気ほとばしる敵勢の駒音(こまおと)にさえ悦びを生じる武神としての性分は、しかし、突如として察せられた気配には間の抜けたものしか感じさせなかった。

 矢を、射ている者がある。
 薄靄の向こうで、神奈子の眼から隠れるようにして。

「……私の他に、稽古に来ている者があったのか」

 唐突な驚きに突き動かされ、本来“我”と称するべきところであるのさえ、彼女は失念していた。“私”という自称は、確実に舎人の耳に入ってしまったであろうが、そんなことはどうでも良かった。城のなかで、誰より早く床から抜け出して弓の鍛錬に励むことが、八坂神奈子の習慣であると同時にちょっとした自尊でもあったのだ。だから自分と同じか、もしかしたらそれよりも早くから練兵場に身を置く者が居たという事実は、彼女を少しだけとはいえ、嫉妬のためにいら立たせた。

 けれど、何より神奈子の関心を引いたのは、未だ晴れきらない靄のうちで矢を放つ『誰か』が、お世辞にも“達者”とは言いがたかったことだ。『誰か』が懸命に放つ矢は、なかなか的の立つところに届かないばかりか、届いたとしても狙いが甘すぎて横に逸れてしまっている。的を固定するための土盛りは、いつしか十数本からの矢が乱雑に生えてしまっているような惨状である。

 びィン、びィン……、という、弓弦を弾く間抜けた音は、神奈子が能くする弓の腕には似ても似つかない。幼子が興味本位でおもちゃをいじくるような音でしかなかった。ふうん、と、眉根に皺を寄せて思案する。人知れず稽古に励むのは良きことである。しかし、出雲から神奈子につき従ってきた将士たちは、十年余りの戦いでそれなりに練度も高められている。今さらになって斯様に弓が下手くそな者が居るとも思えないのだが……。

「いったい何の気紛れか知れぬが……おい」
「はっ」
「“あれ”が誰なのか、確かめよ」

 弓を引く『誰か』を指し示すこともなく命じると、舎人は主への返答もそこそこに、薄靄の向こうへと駆けだした。とはいえ、帰って来るまで退屈するほど広々とした練兵場でもない。あらためて浮かび上がったのは、命令を果たして帰って来る舎人と、そのさらに遠くで弓に新たな矢をつがえる『誰か』の影だった。

「戻ったか」
「はい」
「して、この八坂に先駆けて弓の稽古に来ている者は何者か」

 しばし咳払いをして息を整えてから、

「あそこに居られるのは、亜相諏訪子さまであるご様子」

 と、舎人は告げた。

「なに。諏訪子が弓の稽古と」
「は」
「まことか」
「この眼で確かめたことにございまする」
「そうか。――ご苦労だった」

 珍しきことも、あるものだ。
 そう思いつつ、舎人から受け取った次の矢をつがえる。
 聞くところによれば、諏訪子が束ねるミシャグジ蛇神は数多の権能を持つ神霊の集合体であるという。そのなかには、当然、いくさにまつわることも含まれている。だから、ミシャグジたちの元締めである諏訪子が武芸の鍛錬をしていてもさして不思議なこととも思えない。が、それは諏訪子が弓の不得手であることの説明にはもちろん成り得なかった。それに、早朝から神奈子と同じく練兵場に立っていることも。今までそんなことはなかったのに。

 怪訝に思いながらも、力強く引き絞った弦から神奈子渾身の一矢が放たれる。
 その矢が、ひときわ大きな音を立てて的に命中するのと同じ瞬間、靄の向こうで諏訪子が放った矢の方は、ひょろひょろと格好の悪い風切りの音を発して、的の端にかろうじて突き刺さっていた。

 自分が放った矢とのあまりの違いに、神奈子は思わず噴き出しそうになってしまう。
 どうにか頬の裏側で笑いを噛み殺していると――その、ひょひょろの矢を放った諏訪子が、靄をかき分けるみたいにして、こちらに歩み寄って来た。

「おはようございまする、八坂さま」
「おはよう。…………珍しいな、諏訪子が弓の稽古とは」
「まったく、慣れぬことはするものではございません。八坂さまのごとき弓の達者になるには、あと何百年かかることやら」
「世辞はよすのだな。口よりも手を動かした方が、弓であれ何であれ上達はしよう」
「あ、はは。それもそうでございます」

 ふわあ、と、未だ眠気の醒めきらない様子でこれ見よがしにあくびをする諏訪子である。
 神奈子は、警戒心のかけらもないような彼女の姿を、やけに可愛らしいと思う。卑しくも諏訪旧主であり、ミシャグジ蛇神の元締めである崇り神、諏訪子である。そんな強い者の、王としても神としても威厳を身にまとわない姿を、自分は見ることができる。それが、やけに嬉しかった。

「こう申すのもいささか憚られはするが、我と諏訪子が諏訪を治むるに当たっては、そなたの方で弓を取る用もあるまい。一朝(いっちょう)、ことあらば、この八坂が諏訪子に代わりて敵する者を討ち滅ぼそう。だから、我を真似て弓の稽古など」
「お気遣いは嬉しう思いまする。なれど、此度は諏訪子が軍を動かすために弓を取った
ということではございませぬ」
「では、なぜ」

 問われると、諏訪子は空き手の方で頬を掻いた。
 小柄な少女である彼女が弓を片手にしている姿は、幼い女の子が父親か母親に抱き止められているかのような可笑しさがある。

 何度か、これ見よがしに咳払いめいた声を発したかと思うと、彼女は真っ直ぐに神奈子の方を見据えながら答えた。

「他人(ひと)にせがまれて、と、いったところにございまする」
「せがまれて、と。そなたに弓の腕を披露するよう乞うた者があるのか」

 今度は答えず、神奈子の顔からちらと眼を逸らす諏訪子。
 誰か他人にせがまれてといううえは、彼女以外にもうひとりがこの場に参上しているのだろう。そう思い、神奈子の緩慢な視線は釣られるように諏訪子と同じ方を向く。すると靄の覆いを失った空間の向こうに、ひとりの少年が手持無沙汰な様子で立ち尽くしていた。その手には、やはり弓と矢がひとそろいずつ握られてはいるのだが、いかにも慣れない様子で、弦に矢をつがえるさえおぼつかないのがありありと見て取れる。

 その少年には、見覚えがあった。
 取り立てて顔を合わせることはほとんどなく、ただ、評定など政の合議の場でだけ頻繁に名の挙がる存在。神奈子にとっては、政の道具として使いきるにはいささか持て余す相手でもあった。

「モレヤ王、か」
「さようにございまする。諏訪子に弓をせがんだは、あのモレヤにて」

 ふたりの神の視線に気づいたモレヤは、誰に呼ばれるまでもなくこちらに駆け寄って来る。転びはしないかと思わず心配になってしまうような、たどたどしさの残る足取りであった。少なくとも、あんな風に足下がおぼつかないようでは長距離の行軍にも耐え得まい。いくさ神としての本能でそんなことを考えつつ、神奈子はモレヤに相対する。

「おはようございまする。八坂さまにおかれましては、変わらぬご健勝と勇武のほどと拝察いたし、まことに恐悦至極に存じ上げ奉ります。諏訪王モレヤにございます」
「おお、モレヤか。そなたも変わらぬ健勝ぶりであるな。最後に会うたは、諏訪子に連れられてこの八坂の元まで顔見せに参ったときであったか」
「はい、十日と少し前に。再びの参上が遅れ、まことに申しわけございません」

 さして面白みのないあいさつを互いに交わすと、モレヤは神奈子に向かって下げていた頭をゆっくりと上げた。ん……と、その表情を見て神奈子は少しばかり驚かされる。

 言葉つきは、即席仕込みの王さまとはいえそれなりに様になっている。
 人の子は育つのも老いるのも早いものだが、モレヤが諏訪の柵に送られてから半年余り、指の一、二本分でも背は伸びているのだろうか。が、神奈子の眼についたのは、そんな外見(そとみ)によく表れる変化ではなかった。彼女の持つ直感は、モレヤという少年の顔つきとか、そこにある意思とかが、幼いながらにどこか精悍さの端緒のようなものを得始めている気がすると、そんな風に告げ始めていたのだった。

「モレヤ。そなた、何となく顔つきが変わったように思う」
「そ、そのように仰せられたは、八坂さまが初めてにございまする」
「男ぶりを上げた……というのは、さすがに十にもならぬ子供に対しては大袈裟であろうがな。しかし、“男子三日会わざれば括目して相待つべし”という言葉もある。少なくとも前までのようなひ弱さは無(の)うなっておるやに見受けられる。さては、諏訪子に良からぬことでも吹き込まれたかな」
「良からぬことと申し上ぐるべきかどうかは解りませぬが、王たる者は、ひとたびいくさあらば自ら起って民百姓を護るべく、武芸に秀でておらねばならぬとのお話を賜りました」
「ほう。諏訪子が、そのようにな」

 ちら、と、当の諏訪子に眼を遣ると、半分笑いながら弓の弦を指で弾いて遊んでいた。どうやら、事態の『主犯』はやはり彼女であるらしい。本人に武芸の心得があまりないのに、目下の者にそういうことを言ってからかうものでもあるまいが。神奈子はそのようにたしなめたい気分になったが、ふと、モレヤの境遇に思い当たる。もしかしたら、諏訪子はモレヤの無聊(ぶりょう)と孤独とを慰めるために、あえてそういうことを言って気を遣ったのかも知れぬと考えたのだ。

 十日余り前、初めてモレヤとまともに話をしたときのことを、彼女はぼやりと思い浮かべる。

 土蜘蛛から献上された氷を諏訪子とふたりで食み、天下国家を語る真似ごとに興じた日があった。その直後、モレヤが諏訪子と面会を乞うたので、諏訪子はそれに応じたのだ。で、その諏訪子がモレヤを伴って、改めて神奈子への謁見に参上したのはさらに翌日のことである。
 
 神奈子とモレヤとの対面は取り立てて面白い話もない、互いに互いの顔と名を確かめる程度のもの、せいぜいが代わり映えのないあいさつであった。普通、出雲人に帰順した土着の勢力の長と呼べる人々は、人質を差し出すにしてもさらなる恭順の証として、砂金、絹、獣皮、玉石とかの進物や、一等の土地だとかを加えてよこすのが通例かのようになっていた。勢力の大小を問わず、科野諸州の豪族連中も多かれ少なかれ新政への便宜を図ってほしいという思惑を秘め、夜に日を継いで貢ぎ物の献上に余念がなかったものである。

 しかるに、諏訪豪族によって送り込まれたモレヤには、そのような“心づけ”がない。

 が、それは諏訪豪族たちの不誠実というよりも、モレヤ王という少年の玉体が持つ政治的な意味まで含めての贈り物であるというのは、神奈子には直ぐに察しがつく。モレヤと出雲人の女子が婚儀を結べば、確かに諏訪豪族は臣下として政に関与する余地が残るかもしれない。が、それは同時に出雲人が外戚として諏訪の政を左右する可能性も生じるという諸刃の剣でもある。そのような覚悟を汲んでくれ、という無言の嘆願、そしてこの和睦成らねば再びいくさを選ぶかも知れぬという圧力でもあろう。つまりは、モレヤの存在自体が一種の『脅し』なのだ。

 何せ、豪族どもの後ろ盾となっていたミシャグジたちの軍勢は、完全に神奈子に屈服したわけではない。そればかりか、彼らの力を弱めるために諏訪の方々に社や祠を立てて回り、蛇神たちの棲みかを狭めたことによって、出雲人はよけいにその怒りを買っている恐れすら在ったのだ。出雲人の勝利と諏訪新政は、未だ薄氷の上の歩みと言い得る部分が在った。だからこそ、神奈子はモレヤという少年の未だ小さな双肩に、出雲諏訪双方の思惑が重々しくのしかかる様に憐れみを覚えていたのである。

 が、そうは言っても。
 しょせん神奈子が感じる憐れは出雲人のものであり、勝者の余裕であった。
 諏訪人である諏訪子が、諏訪に関わりある者に賜う同胞(はらから)の意識とは、やはりどこか違うものであったのかもしれない。

 今や同じ諏訪人同士、共にうち揃って神奈子の面前に平伏した諏訪子とモレヤ、新旧の諏訪王のあいだには、何か神奈子には神の耳目とてはっきりと察すること叶わない、特別な繋がりが築かれているように思えて仕方がなかった。態度や仕草、言葉のうちにそういうものが表れていたというわけでは決してない。いわば、八坂神奈子をひとかどのいくさ神たらしめている霊力、直感力が、時と場所を選ばず効いてしまった結果といえるだろうか。

 親子兄弟、師弟、君臣。あらゆる『親密さ』の可能性が、その瞬間の神奈子の脳裏を駆け抜けていった。だが、そのどれもが正解であり、間違いであるような感じがした。男女の仲というやつは、あえてもっとも遠くに置かれた想像だった。当たり前である、モレヤは未だ子供なのだ。それが、たかが一晩と少しで自らの主上と深い仲に陥るわけもない。

 いやむしろ、諏訪子とモレヤの親密さとして映った“何か”は、城内で孤独を食んでいるだろうモレヤに対し、諏訪子が特別に親しみと共感の情を抱いてやっているからだとして、神奈子はそのときは納得した。何せ、諏訪子も一時は人質として諏訪の柵に留め置かれた。その負い目みたいなものも、さすがに感じない神奈子ではない。

 ただ、諏訪子とモレヤの関係が人質同士という関係からくる友情であれ――モレヤという子供相手でありながら、妙にもやもやとした黒い霧みたいなものが神奈子のうちに残っていたのも本当の話だった。だが、彼女とて分別のつかない子供ではなし、今や十年余りの流浪と転戦を経て一国を統べるひとりの王である。政に下らぬ私情を差し挟むことなきよう、今日、こうして練兵場でモレヤと再会したときも、いつもと変わらぬ鷹揚さを見せるだけの余裕と度量を備えているという自負はあった。

「見聞きしたところによれば、モレヤと諏訪子はあの後も頻繁に顔を合わせていた様子であるが、」

 と、神奈子は努めて朗らかに笑い、

「さては、この八坂の与り知らぬところで謀議を凝らしているのではあるまいな」

 そんな冗談を飛ばすことさえも、もうできるのである。
 諏訪子がモレヤに代わってそれを受け、

「妬けますか、八坂さまにおかれましては」

 などと言い出した。

「そのようなこと尋ねて何になる」
「政を簒奪するために、われらふたりは策を巡らしているのかもしれませぬ」
「それがどうした」

 舎人が差し出した新たな矢を受け取り、微笑しながら弓へつがえる。
 弓術の不得手な諏訪子とモレヤに模範を示すかのようにして、新たな的を正確に射抜いた。おお、と、あらためて感嘆の声が神奈子を取り巻く。「見事」とも「上手い」とも言わない。舎人が発するおべっか混じりの称賛ではなく、驚異を目の当たりにして思わず喉の奥から漏れ出てきた、諏訪子とモレヤの純粋な感情の産物であるらしかった。

 はっ、……と、短く息を吐き、神奈子はふたりへ順繰りと眼を遣る。

「この諏訪の柵にては、モレヤには友と呼べる者も居るまい。さりとて、使命といえば政のためにその玉体を動かされるに等しい。ただいたずらに時を空費するだけということの虚しさに、人と神との隔てはあるまい。せめて諏訪子くらい話相手になってやらねば、モレヤ。そなたを退屈という猛毒をもって殺す酷薄な王であると、八坂神は後世まで謗られようが」

 恐れ入りまする、と、モレヤが再び頭を下げる。
 難しい事情は解っていないようだったが、ともかくも八坂さまのお気遣いには感謝しています――という、そんな色を持った仕草と見えた。

「それに、諏訪人同士で何かの謀議を凝らしているのかもしれぬと言うても、この城中にてはモレヤはむろん諏訪子にさえ、ミシャグジ蛇神たちの声は届かぬ。この場においてそなたたちは、見た目に相応の男子(おのこ)、女子(おなご)でしかない。さらに出雲人が諏訪を経営するうえは、いずれ各所に社や祠を置き、出雲式のやり方で神を祀ることになる。つまり、諏訪人の条理に則って神霊の託宣を得、それを根拠に兵を挙げようとしてももはや容易なことではない。…………どうだ、諏訪子。この八坂にも、謀の妙というものが少しは備わったように思わぬか」

 けらけらと、諏訪子は笑う。

「なるほど。ここまで徹底して布石を打たれては、そう容易く八坂さまに叛くことも叶いますまい」
「いちばん良いのは、諏訪子が叛かぬことだがな」
「さよう。後は、せいぜい人をやって社や祠といったものを打ち壊させるか……」
「できるか、そなたに」
「諏訪子の名と声が、今もなお諏訪人民のうちに生き残っておりますれば、さのみ難しきことではございますまい」

 少し、気を許しすぎたか。
 神奈子はしばし口をつぐむ。
『諏訪子を恋うている』とはいえ、相手の本性は数万の祟り神を統御する狡知の神なのだということを忘れかけていた。色恋に溺れて王の本道を忘れるはもっとも軽蔑すべきことなのだというのに。相手に弱みを握られるなら、自分はその首筋に刃を奔らせるだけの覚悟を新たにする神奈子でもある。

 神奈子が考える駆け引きを知ってから知らずか、諏訪子は悪びれもせずに言を継いだ。

「では、この諏訪子も将来の反逆に備えて布石を打っておきたく存じまする」
「何とでもやってみせよ。初めてそなたと顔を合わせた晩のごとく、組み伏せてみせる」

 互いに笑みを交わしつつも、しかし、諏訪子の眼は直ぐに神奈子から離れていく。
 怪訝に思って訊き返す間もない。

「いずれ反逆するのなら、諏訪子はモレヤを王に立てて、自身は高座から胡坐をかいてあれこれと指図するに留まることでございましょう」
「ふうん。それで」
「ですからそのときのために。いま八坂さまには、その弓の術をモレヤにご教授いただきとうございまする」

 へっ!? ……と、情けない声を出したのはモレヤである。
 神奈子も多少は驚きはしたが、その精悍な顔つきまで崩してしまことはなかった。せいぜい、眉の端がぴくりと震える程度。が、諏訪子はといえば、そんなふたりの様子を交互に見比べて、さも愉しげに笑みをいっそう深くするのだった。

「其は、いったいいかなる思し召しにございまするか」
「いかなるも何も。弓の上手たる八坂神より、直々に弓をご教授賜るということ。いくさ神直伝の神弓なれば、長じて後、いくさ働きでは兜首を十も二十も仕留めて参るであろう」
「わ、私はただ。朝、未だ城内の将士が居らない時を見計らって練兵場に足を運べば、誰に遠慮もせずに稽古ができると諏訪子さまが仰せられたゆえ……」

 なるほど、そういうことか。
 嘆息した神奈子を、モレヤはいかにも申しわけが立たないというような眼で見つめている。さっき、神奈子は彼のことを『顔つきが変わった』と思ったが、どうやらまだまだ成長の途上にある少年と考えた方が良かったらしい。突然の諏訪子の申し出に困惑するモレヤは、いつの間にか弱々しい人質の少年に立ち戻ってしまっている。

「諏訪子。そなた、初めからこれが狙いでモレヤを連れだしたのだな」

 しかも、モレヤの様子を見る限りでは本人にさえ意図は秘していたのだろう。

「さあて、何のことやら。早朝であれば、人も少なに弓の稽古ができると考えたは本当のこと。そこで東国一のいくさ神である八坂さまから弓を教わるは、まさに二倍の幸運というものにございます」
「我には、そなたの腹が読めぬ。なぜ、そうまでしてモレヤをこの八坂神にけしかける」
「腹のうちが見えぬは、おそらくお互いさまにて。古来より神霊さきわう諏訪の森に、いったい誰の許しを得て出雲式の社だの祠だのをお建てになったのか。あの“鳥居”とか申す奇ッ怪至極な二又の柱の赤色が東国の民の流した血にはあらずと、まさか言い逃れする気でもございますまいが……まったく、どおりで諏訪子にさえミシャグジどもの声が聞こえぬはずにございまする。あんなものを城の周りに建てられ幾重にも結界を張られては、このわたしを除き弱き力しか持たぬ土着神たちは、諏訪の柵に近づくことすら容易ではない」

 言葉尻だけなら、諏訪子のはらわたは出雲人の行った『宗教政策』によって煮えくりかえっているようにも思えたことだろう。けれど、半年以上を彼女と共に過ごしてきた神奈子には、諏訪子が本心から怒りを覚えているわけではないことが直ぐに解った。これは、彼女なりの交渉術のようなものだ。自分の我を押し通すために、神奈子にとっての痛い“腹”を巧みに突いているつもりなのである。

 事実上、諏訪の地に対する侵略者である神奈子には、性質(たち)の悪い冗談のようなものとはいえ、諏訪子の言葉は確かに耳に痛かった。思わず、諏訪統治の相棒と頼んだ彼女から眼を逸らすと、諏訪子はその小さな身体をくるりと巡らして、再び神奈子の正面に立とうとする。袖の袂(たもと)で口元を覆いながら、その表情はくすくすと神奈子を手玉に取る笑いをしていたのだ。

「ふふ……諏訪子め。この八坂同様、そなたもまた相当に厄介な者よ。そこまでする理由(わけ)を申せ」

 神奈子の行おうとしてる新政は、いわば諏訪の地に胎を借りて産まれる子だ。新たな母たる諏訪には、孕み女(はらみめ)の味わう相応の痛みがある。要するに、「だから手っ取り早く借りを返すために、わたしに協力せよ」という諏訪子からの催促であった。

 本当は、見た目ほど怒っているわけでもあるまいに。
 阿吽の呼吸、と言うべきだろうか。
 神奈子が言おうとした言葉が、声として発されるよりも早く、諏訪子は返事をしていたのである。

「ま、確かに。今さら諏訪子とて何ぞ怒っているわけではございませぬ。言うなれば、親心にございます」
「親心だと」
「その通り。諏訪はじめ、出雲人のもとで科野諸州の次代を担うはモレヤ王とその御子たち。だからモレヤをひとかどの王者に育て上げるためには、八坂さまの武もまた伝うる必要ありまする。仮に神なるわが身滅びようとも、神の勲し(いさおし)知る人の世こそ永代に続きゆくために」
「なるほど。それは――」
「人民のため政のため、ひいてはわが郷里たる諏訪のため」

 道理かも知れぬ。
 と、言いかけて、さすがに上手く言いくるめられている気もしないではなかった。
 神奈子自身もまたモレヤを嫌っているわけでもない。その身の上を気にはかけている。だが、今まで特別に何かの施しを与えてきたわけでもなかった。

 神奈子は阿諛が嫌いだ。
 が、一方では武人らしく、己の武威に自負と誇りを抱いてもいる。

 人は老い易い。不慮の事故や病であっけなく死ぬ。
 夫も居なければ子も為さない彼女にとって、自らの誉れと技を伝える後進はいずれ必要なのかもしれなかった。むろん、祭祀者としての王であるモレヤに己が技を見せるのなら、それがいずれは人民よりの信仰に結びつくかもしれないという打算的な観測も瞬時にはたらく。信仰は、すなわち為政者に与えられる信任である。神や祭祀者を王として戴く政体――神権政治とは、つまりはそういうことでもあるのだ。

 諏訪子がモレヤに弓を教えて欲しいと言い出したのは、だから、諏訪新政の将来に向けて、信仰……言うなれば政権に対する賛同者を増やし、支持基盤を強固なものにしておきたいという思惑もあるのだろうと予想がついた。とは申せ、彼女がまったくのお人好しから神奈子にモレヤからの信仰を捧げさせる目論見があるとも思えない。たぶん、真意はもっと別のところにある。あるいは、諏訪の森に出雲の神を祀らんとすることへの牽制であろうか。今の神奈子にはそこまで――諏訪子の本当に画策している“何か”までを読み切ることは、未だ難しかった。

「男子たるもの、弓馬の道に邁進するはひとつの誉れと八坂は思う。……モレヤ」
「あ、は、はい」
「後は、そなたの問題ぞ。モレヤは、八坂に習うてまで弓を覚えたいと思うのか」

 神奈子と諏訪子の腹の探り合いを眼を白黒させて見つめていたモレヤだったが、突然、自分に水を向けられて、しどろもどろになり始める。むりやり王とされ、人質として敵地に送られた哀れな子。出雲と諏訪、両陣営の策謀の次第で容易に惨殺されかねない命。しかし、神奈子は再び彼に対する認識を改めなければならなかった。「はい」と答えたモレヤの眼の奥には、声こそ震えていながら、ただの弱い人間とは違う芯の強さが、はっきりと根づいているのが解ったからだ。

「私は、八坂さまより弓をご教授いただきたいと思いまする」
「それは、なぜか。諏訪子がそう申したからか」
「ち、違います!」

 ぐっ、と、吐き出したい何かをこらえ、モレヤは言った。

「モレヤは、強くなりたいのです。誰にもむざむざと殺されはしないだけの、強い男でありたいのです」

 彼は、『強い王』ではなく『強い男』になりたいと叫んだ。
 ときおり、人が発することのあるそういう熱い単純さが、神奈子は好きだった。


――――――


「弦を引く際、むだに力みすぎている。肩から余計な力を抜け」
「はい」

 低く重々しい声がモレヤを叱咤すると、彼は飼い慣らされた犬のような従順さで神奈子に従おうとした。

 けれど元の素性が旅の祝ゆえ、武芸の心得など無きに等しく、矢を射た経験もまた子供の玩具の小さな弓しかないというモレヤには、その真摯な思いに反して身体の方がついていかない。今だ! と、思って渾身の一矢を放っても、その矢は十五間半向こうの的の中心には届くことなく、円を幾重か描いた的の外周部にかろうじて命中するに留まった。

 神奈子は、それでもモレヤを見捨てるつもりにはどうしてもなれなかった。

 一応、最初よりも上達してきてはいる。
 習い始めのころなど、彼が弓弦を弾く音は爺の屁みたいに情けなく、放たれた矢もまた、到底、的には届き得ない下手くそなものだった。それが、今ではどうにか的まで届いて鏃が突き刺さりはするようになっていた。教え方の良し悪しとか、弟子の才能に関してとか、そういうことはよく解らない。ただ、夫も子もなく、色恋も友情もいくさと政に奉じてきた彼女にとっては、はるかに年下の相手に自分の技を伝える機会を持てたということが――はじめこそ政のうえでの目論見が多分にあったにせよ――どうしてか、無性に嬉しいと思えるのは確かだった。

「力を抜けとは言うたが、気まで抜けとはひとことも申しておらぬ。……遠くの的をよく見据え、落ち着いて息を整えよ」
「も、申しわけございませぬ」
「謝るために口を動かす暇があるなら、次の矢をつがえるべく手を動かせ。いくさ場ではな、敵というものは、こちらが矢を外した一瞬の隙を突いて攻め込んでくる。しまった、と、思う間もなく向こうの矢に首や眉間を射られ、あえなく討ち取られるのも珍しきことではない」

 そうたしなめると、モレヤは無言のまますばやくうなずき、次の矢を取った。
 ぎりり、と、彼が弓弦を引き絞る音は、神奈子自身、久しく遠ざかっているあの懐かしい戦場に響き渡る、矢風の音とよく似ていた。やはり――と、無性に気分が昂揚してくる。モレヤもまた、ひとりの男子だ。闘争に向ける覚悟や凶気のその雛形とでも言うべき何かが、自分の手のうちで少しずつ育っているのだと。その思いは、かつて諏訪子が未だ“諏訪さま”として、神奈子の暗殺を目論んだときに感じたものと同じである。いくさ神たる八坂は、強く、うつくしきものを何より好む。

 喉仏すらその影を見せていない。
 未だ節々に骨も出っ張っていない。
 筋肉の盛り上がりもさほどではない。
 武器を扱うことへの畏れは少年の肩をぶるぶると震わせている。
 けれどこんなにも脆弱な子が、いずれは戦いを知ってその名と命を懸けるようになる。
 この私のように。そしてあの諏訪子のごとく。
 
 少年は『人殺し』のすべを知っていくのではない。
 彼は、『戦い』のやり方を学んでいるのだ。
 いくさ神として、それに勝る悦びはなかった。

 幾千幾万の将士軍勢を率いていくさに赴くときとは違う、自らの手で未来に連なるものを少しずつ積み上げ、つくり上げていく感触――そういうものが、今の八坂神奈子を満ち足りたものにしてくれている。

 未だ誰にも打ち明けたこともない密かな快感を胸に秘めつつ、落ち着きを取り戻すかのように、弦引くモレヤに眼を向けた。矢を放つべき瞬間を未だ読みかねている様子の少年は、緊張からくる浅い呼吸をできる限り深いものに変えようとしていた。息を整えよ、という神奈子の助言を実践しようとしているのだろう。彼の肺まで空気が届くたび、華奢な身体が微細に揺れる。髪の毛の生え際に浮かぶ汗の珠が流れ落ちてくるには、未だ少し時がかかりそうに思われた。

 次第に冷静さが宿っていく鏃の先に、神奈子はじいと視線を移す。
 彼女には、もう今の矢がたどるべき道筋が解っているのではないだろうか。とはいえ、決して見えなどしてはいなかっただろう。だがそれでも、武神……否、ひとりの『武人』としての眼力には、モレヤが次に放つ矢の軌道がはっきりと知れているのだ。その猛るまでの直感こそが、数多の戦場で八坂神奈子に危機からの脱出と勝利とをもたらしてくれた、幾多のつるぎや征矢にも勝る最大の武器であると言えるのかもしれない。

 引き絞られた弓弦は、いよいよちぎれそうなばかりにまで伸びきっていた。
 未だ足りないとばかりにモレヤは力を込める。だが洗練され、むだな覆いが削ぎ落された武力だと、神奈子には解るのだ。

「……そう、その調子だ」

 ごくりと唾を飲み込んだのが、自分なのか、モレヤなのか。
 直ぐには判じかねるほど興奮している神奈子が居た。

「そなたも、もう幾度か経験しているはず。そのうち、鏃の先と的の真ん中がぴたりと重なるのが容易に見えるようになる。そんな、霊妙の力が己が腕に宿る一瞬を」

 やがて、絶え間なく揺れていた鏃がぴたりとその挙動を止めるときが訪れる。
 モレヤは果たして気づいているのだろうか。否、気づいていなかったとしても、朧に感覚しているはずであっただろう。神奈子にそうと命じられるより速く、確実に、彼の手指は矢を放つ体勢に入っていたのだから。

「その瞬間を狙って――射る!」

 その言葉は、瞬間、矢の尾羽が打ち鳴らす風切りの音に退けられた。
 一瞬の後に的に鏃がぶち当たる鈍い音が“こだま”し、神奈子も、モレヤも、じいと眼を剥かずにはいられなかった。

 モレヤの放った矢は、過つことなく的の中心に突き刺さっている。
 師である神奈子が放つものとは比べるべくもない弱々しい一矢ではあったが、風を越え、空気の膜を突き破り、確かに的の中心へと命中していた。

「あ、……当たった」

 そう驚いたのは、誰よりもまずモレヤ本人であった。

 何かの見間違い、誰かのいたずらではないかと感じながら、何度も何度もその眼をしばたたいている。神奈子には、彼の両眼は潤んでいるようにすら見えた。武人として在る以上、いくさする者としての彼女は産まれながらに弓の達者となる宿命を背負っていたと言っても良い。いわば、それは八坂神奈子の中に存するひとつの天才がそうさせるのだ。だから、思わず涙を流さないばかりに喜びを噛み締めるモレヤのことを、どこか好奇心さえ含んだ表情で見つめる彼女。けれど、決して弟子の腕を自分に劣ると考えて優越を覚えているのではなかった。ただ、少しだけ、モレヤと同じ喜びを感じるのに時間がかかっただけだ。

「八坂さま、命中しました! 初めて的の真ん中に当たりました!」

 普段の鷹揚な態度など矢と一緒に的まで放ってしまったのか、弓を手にしたままモレヤは叫ぶ。が、微笑を浮かべたまま微動だにしない神奈子に怪訝なものを思い、「もしかして、何か私自身が気づかない失敗をしてしまったのでしょうか……」と呟く。

「ん……いや。ようやった。そなたも、だいぶ上達したな。これでようやく、我もさらなる教え甲斐を得られるというもの」
「恐れ入りまする」

 浅く、頭を下げるモレヤ。

「なれど、どうして八坂さまは斯様にぎこちない笑みをお見せになるのです。やはり、モレヤの弓に未だ至らぬところございましたのでしょう」
「それぁ、そなたは弓を手にとってより日が浅いからな。至らぬところを探せばきりがない。ただ……」
「ただ――?」
「モレヤを見ておると、我がことを思い出す。我が、いくさ場において初めて勝ちをもぎ取ったときのことなどな」

 数多あるつるぎの森と矢風の嵐をくぐり抜け、いつの間にか老獪さのようなものを身につけてきた神奈子にも、今のモレヤのようにひとつの成功を真摯に喜ぶころがあった。それは紛れもなく研ぎ澄まされた子供の感覚で、人殺しを旨とし、己が心を名誉という鑢(やすり)で磨滅させなければならない戦争という行為には、おそらくもっとも不要なものだ。未だ『子供』だったころの神奈子にも、確かにモレヤのような純情が備わっていたのが『大人』になった今ならば解る気がした。

 だが、八坂神奈子はいくさ神である。

 戦場を懸ける士卒に、何より勝利をもたらさなければならない者なのだ。
 子供のような勝利の喜びを、血と刃で斬り砕かれた人々の心に植えつけなければならない。久しく感じていなかった罪悪感を、神奈子は思い出す。皮肉なことだと思った。武芸の上達を喜ぶ弟子を褒めてやりながら、その心のうちでは人を戦いに導く自らの権能を呪わぬでもなかった。自分は『戦い』の神だ、『人殺し』の神ではない。彼女のそんな矜持は己が、そしてモレヤが弓を取っているあいだだけは、正しく機能してくれる。けれど、こうしてものを考え始めると――――途端に、口をつぐんでしまう。

「いかがなされました、八坂さま」
「……何でもない。それより、勝って兜の緒を締めよということもある。正面の敵に矢を当てて小躍りしている間に、自分の眼には入らぬ敵が矢を放ってくることもある。いくさでの緊張はし過ぎるということはないが、同時に己が心は絹糸がごとく思わねばならぬ。強く引っ張りすぎることあれば、引きちぎられるは何より自分」

 神奈子の講釈に、モレヤはいちいち深々とうなずいていた。
 これといって何か気の利いた返事をしてくれることもない彼だが、稽古で身体を動かしたゆえわずかに赤みの指した頬からは、健康的で邪念というもののない様子が見て取れた。

「いずれの日にか折良き日に、モレヤは八坂さまのいくさぶり、もっとよく聞いてみとうございまする。私はまことのいくさ知りませぬゆえ、いくさ神の口になさるお言葉からでも、知りとうございます」
「我の話など、聞いてもつまらぬと思うがなあ」
「八坂さまは十幾年よりの昔から、この諏訪に至るまで戦い続けてきたと耳にしました。ですから、その武勇伝からは諸国諸州の様々な国情などが知れるかもしれぬからと、諏訪子さまが――」
「なに。また、あいつか。どこまでも小狡いやつよ」

 と、口を“へ”の字に曲げつつも、どこか苦にも思わない自分が居ることを神奈子は少し驚いていた。今まで戦いと政にばかりしがみついてきた自分が、こうして誰かと何でもない話を交わしていると、胸の奥にじわりと染み広がるものがあることに気づく。それは、あるいは諏訪子と初めて出会った日に湧きあがってきた、劣情と征服欲が混じり合った恋心ではなかった。むしろふたりが氷を食み、これからの新政を語り合った夏の日に感じた、不思議な気恥かしさに似通っている。

 愉しい、と、神奈子は思う。
 戦いとか武芸に直ぐ交わることではないのに、ただ話をしているだけでこんなに愉しい。
 しまった、と、臍(ほぞ)を噛みたい気持ちだった。
 他人と話をするだけでこんなに愉しい気持ちになるなど、出雲本国に居たころにはいちどもなかった。諏訪を侵略せんと目論んでいたのに、今では自分の方が諏訪子に侵略されている――――?

 う、ふふ、……と、あまりの可笑しさを耐えることができなかった。
 なるほど、これが諏訪子の謀だ。いくさ場では勝てぬとみて、こちらの心を思うさまあやつるすべに出たつもりなのだ。面白き女、厄介至極な崇り神。だが、それでこそ八坂神奈子が恋う価値がある。やはり私の見立てに間違いはなかった。

 あはは! と、周囲の耳目も憚ることなく神奈子は大笑し続けた。
 早朝、未だ他に人の居ない時間のこととはいえ、城内の将士はもう起き出している。ふたり以外には誰も居ない練兵場の周りにも、人の気配が幾つかあるのだ。けれど自分の感情以外の何にも構うことなく、神奈子は笑い続けていた。何の屈託もない、浄化されたかのような笑いだった。

「解った。八坂神のいくさ話は、朝餉の時にでもゆっくりと話してやる」
「本当でございまするか! ありがとうございます!」
「ああ。ゆっくりと話してやるから、早く向こうで汗を拭いてくると良い。汗でべたついたままでは、夏とはいえ身体が冷える」

 弟子の手から半ば強引に弓を取り上げると、神奈子はその背をちょっと強い力を込めて二、三度叩いてやった。思わずよろけるモレヤだったが、嫌がる素振りもなく彼女へ向き直り、あらためて辞儀を見せてから練兵場を出ていく。練兵場を取り囲む道々には、神奈子に倣って朝の稽古にやって来た将士が幾人かたむろしている。小走りでかたわらを駆け抜けていくモレヤ王に形ばかりも頭を下げていた彼らだが、モレヤの方ではそんなことにお構いなしで、湯殿の方に駆け去っていった。

 鼻から抜けるような溜め息をしながら、ようやく神奈子は笑いを鎮める。
 その手に、モレヤの小さな背中を叩いたときの感触が、その幼い熱が、まだほんのわずかに残っていたせいだ。感情の熱量は、それほど時を経ずしてひとつの不安に結実していく。それは、八坂神奈子がいくさ神であるがゆえに、決して避け得ないひとつの命題にも等しいものであった。

「いずれはあの子をも――愛弟子たるモレヤをも、戦場に送り出すことになるかもしれぬ」

 と。


――――――


「あっ、八坂さま」
「おお、諏訪子」
「このような廊下の途上でお会いするとは奇遇ではございまするが、諏訪子、火急の用件にて速やかに退散致したく」
「同じ城に住み、毎日のように政所で顔を合わせておきながら何が奇遇か」

 小さな身体を翻すように自分の真横をすり抜けようとする諏訪子を、神奈子は相手の首根っこをつかんでむりやり引き戻した。「ぐえっ」という古ぼけた蛙みたいな、悲鳴というかうめき声は、少女の姿に似つかわしくもなく濁った声である。もっとも、どこまで本当に苦しんでいる声なのかは解らないのだけれど。

「いったい何をなさる」
「それはこちらの言うべき台詞ぞ。未だ私が何も言うてはおらぬのに、逃げるかのごとく」

 さて、何のお話でございますやら……と、そんなとぼけたことさえ嘯き(うそぶき)ながら、諏訪子は神奈子に引っつかまれたせいで乱れた着物の襟元を、ちょいちょいと直すのであった。が、それでも自分をじいと見つめてくる神奈子の視線からは巧みに逃れようと、頭をじわと振り動かしていた。「白々しい。わざとらしくもある」と神奈子は思ったが、あえてその場で深く追求することはしなかった。諏訪子に問うておきたいことは幾つかあるけれど、さすがに廊下で話をするには都合が悪い。秘密の事柄を誰かに聞かれたら大変だし、記録のために祐筆の稗田舎人を呼びに遣るのも面倒である。

 たださえ、近ごろは近郷の領主どもがご機嫌うかがいとしてひっきりなしに城に訪れるのの相手をしなければならず、八坂神奈子の一日はその仕事に食まれているのだ。どうせ新政に取り入るために賂とか進物を献上しにやって来るだけなのだから、あいさつとかゴマすりなどせずにさっさと自分の館なり邸に帰れば良いものを――と思わないでもない。が、それをいちいち正直に口には出せないのも、彼女の立場の辛いところであった。本当は、ひとりの舎人もつけずにこうして城中を歩きまわっていること自体、時間のむだとして糾弾されるべきことなのである。

 そんな彼女の事情など知る由もない諏訪子の呑気さに、ちょっとばかりいら立ちを感じないでもなかった神奈子ではある。が、ともかくも相手に用事があったのは事実だった。山積する庶務雑務の息抜きであるかのように、ふらふらとその辺をさまよい歩いているのは、きっとふたりともが同じであったのであろう。

「……まあ良い。そなたの部屋まで訪うつもりでおったが、諏訪子自身と廊下で出くわすとは手間が省けた。ちょっと話がある。顔を貸せ」

 少々の強引さを混ぜ込みながらそんな風に命じると、諏訪子はにやと笑んでは、なおも着物の襟を直しつつ、

「そのような怖いお顔を見せずに。同じ諏訪の米を食ろうておる仲ではございませぬか」

 と、言った。
 
 またこの顔だ。
 と、神奈子は気づく。
 あのモレヤを、早朝の練兵場で自分にけしかけたときの微笑だ。腹黒いやつめと思う。が、その腹黒さが自分にだけ向いているのならさいわいだとも考えていた。探れる腹は、今のうちに探れるだけ探るに限る。

「諏訪の米を食ろうておる誼(よしみ)あるからこそ、確かめたきことがある。とにかくこっちに」
 
 今度は首ではなく諏訪子の手を引いて十幾歩ほど歩き、適当な扉を開いて空き部屋にその身を押し込んでしまう。部屋のなかに家具調度や荷物、誰かの私物といった類の物はいっさい置かれていない。在るのはただ薄暗がりばかり。広さはそれほどでもないが、十数人くらいなら余裕をもって収容できる程度の所であった。将兵の詰め所や戦時の救護所、武器兵器の臨時の置き場など、後々の拡張性を考え諏訪の柵の各所には、その建設時から意図的に空き部屋が残されていた。今ふたりが入ったのも、そんな部屋のひとつである。

 が、しばし使われていないのならそれなりに汚れもする。
 咳き込むほどではないが埃っぽい部屋に特有の、わずかな甘みを伴う空気が神奈子に不快感を催した。部屋に蔀はなく、採光の場所といったら廊下に面した格子戸がふたつ。そこから差し込む目の大きな網のような光の帯が、ふたりの顔に黄色い縞をつくっていた。

 遠くで雑談を交わしながら歩いていく舎人や兵卒たちの足音を聞きながら、神奈子も諏訪子もしばらくのあいだ何も言わず黙り込んで、ただじいと互いの眼を見つめ合っているだけだった。無言のうちに相手の意図を探り出そうなどとは、ふたりともが考えていなかったのだろう。凝り固まった空気の重さは暗がりのなかに沈み込んで、ふたりに対して同時に「はああ……」と溜め息を吐かせることになる。

「急に斯様な狭き所に押し込んで――――おからかいめさるな。よもや、このような暗がりで諏訪子を手籠めにせんとする目論見でもございますまい」
「阿呆が。このいくさ神、最低限の礼節はわきまえておるつもりだ」

 そう言うと、くるりと諏訪子に背を向ける。
 別に、卑猥な冗句に気恥ずかしくなったわけではない。今ので、話を切り出す機会をちょっとつかみ損ねてしまったというだけだ。

「何の用もございませぬのなら、諏訪子は今度こそ本当に退散致しとうございまする。これから、モレヤと少し語ろうてくる約束がありますゆえ」
「おう。そうだ。そのモレヤのことで訊きたきことある」

 意図せず、諏訪子の方から最大の懸念事項が漏れ出てきた。
 いったいいつ自分の話を切り出そうかと迷っていた神奈子ではあったが、これは渡りに船とばかりに欣喜し、ぺろりと唇を舐める。乾いた唇にくっついた埃の粒は、指先で拭わなければならないほど気持ちが悪かった。

「モレヤのこと、に、ございまするか」
「その通り。諏訪子、そなた……」

 未だ少し口ごもりながらも、言を継ぐ。

「あの者を、モレヤをこの八坂にけしかけて何とする」
「あ、はは。けしかけるとは面妖至極な物言いにございまする。以前も申し上げました通り、すべては諏訪子のささやかな親心に端を発したこと。いずれ諏訪を担うモレヤ王に、八坂さま直々に武芸を仕込んでいただくこと叶えば、より良きいくさ働きが…………」
「聞きたいのは、そのような通り一片の建前ではない」

 諏訪子の言葉を遮る神奈子の声音は、落ち着きながらも、ありったけの膂力を注ぎ込んで振り下ろされる御剣の鋭さを秘めていた。怒りに支えられているわけでは決してない。ただ、いつまでものらりくらりとこちらの追及を交わそうとする諏訪子に対して、その不誠実を批判したい気持ちから出た声であった。神奈子自身、思いのほか恫喝じみた物言いになってしまったことで、胸の鼓動が緊張を“ばね”としてどんどん跳ね上がっていくのがよく解った。嫌いな相手になら、こんな気持ちにはならなかったことだろう。自分の右腕として、友として、また恋いうる人として、諏訪子を思っていたからこその緊張だった。

「そなた、いったい何を目論んでおる。いい加減に、その臭い三文芝居は止すことだ。かつてモレヤの処遇について、任せておけと八坂に申したそなたのこと。本気でモレヤを王として仕立て上げ、この私に叛こうと思うているとも考えられぬ。自らの拠って立つ政やいくさの基盤整わぬ今の状況では、そなたが出雲人より政を奪い返すことのできる公算は無きに等しいからな。だが、まったくの無思慮で動いているわけでもあるまい。何の意図あって、この八坂神とモレヤ王を近づけようと画策する」

 振り返り、一息にそう吐ききった。
 面罵されたかのように神奈子の言葉を呑むばかりだった諏訪子は、くッ、くッ、と肩を震わせるように「やはり、すべてお見通しでございましたか」と微笑する。ちらと見えた崇り神の眼の輝きは、格子戸から差し込む縞の光に照らされて、うつくしく照り映えていた。

「八坂神とモレヤとの融和は、信仰の基盤を得ることに繋がる。初めは私もそう思うていた。だが、どこか疑わしくもある。向こうは、いずれ政の都合で使い潰されるやもしれぬ命だ。哀れに思うが、モレヤに近づきすぎても実のところは益が少ない。よもや私を罠にはめようとしたのかと疑うたこともある。しかし……」
「しかし……どうしたのです」
「八坂は、諏訪子とは無二の関係を築いておきたい。頭からそなたに疑心を抱き続けるようなことは、嫌なのだ」

 それに、モレヤに弓を教えることはなかなか愉しい。
 そこのところは、諏訪子に感謝もしているのだぞ。

 ――とは、照れが先行したために口にできない神奈子であった。
 半歩ほど身を引き諏訪子はじいと彼女を見つめていた。顎に手指を当ててしかつめらしく思案する顔を見せ、ぺろりと舌を出して唇の端を舐める仕草。あらゆる論理や条理や思想に凝り固まった大人のそれではない、純然に子供特有の残虐さの欠片が見て取れるような気がした。

 ふふン、と、儚げな笑みを見せる諏訪子。

「意図など、別にございませぬ。ただ……」
「ただ、何だ」
「八坂さまが仰せられたことと同じことを覚えるに至ったのです。諏訪子もまた、モレヤの境遇に一抹の同情を感じたゆえ」

 どういうことか、と、問う間もなかった。

「あの子は、孤独にございまする」

 そう述べる彼女は、口の端だけで笑みながらも眼にはいっぱいに憂いの昏さを湛えている。今度は、神奈子が諏訪子の言葉を呑む番であった。

「母はすでに亡く、父も知れず。郷里を持たずに旅の祝としてこの諏訪に住まうことと相成った。八坂さまのお見立て通り、その見神の力は神意天意ではなく、歩き巫女たる母の血によりて受け継がれしもの。一介の血筋卑しき者として一生を終えるはずだった少年が、今や諏訪豪族どもの策動によりて祭祀の王に祭り上げられ、出雲と諏訪の和睦のために使い潰されようとしておりまする」

 浅く、うなずいた。
 そこまでは、概ね神奈子も知っている事柄だったからだ。
 その出自のために、政略結婚の道具とするにしても、神奈子自身がどこか憐れみを含みながら持て余していたことも。

「放っておけば、モレヤはただ政のためにのみ生かされ、政のためにのみ殺されるだけの少年。それが止むを得ざることと申すのであれば、確かにそうなのでございましょう。なれど」

 握り締めた両の拳にじわりと力を込める様子で、諏訪子は語る。

「それをそのままに受け容れモレヤ王を“使って”しまえば、たとえ諏訪新政が平らかなれども、諸国諸州にあまねく醜聞広まり、われらは天下(あまのした)よりの謗りを免れない。すなわち、」

“新旧の諏訪国主は政のために少年ひとり平気で見殺しにした、暴虐の神であると”。

 暴虐。
 その言葉を耳にした神奈子の身に、雷撃をさえ思い起こさせるためらいが走った。
 爾来(じらい)、いくさに生涯のすべてを捧げてきた、潔癖といえば潔癖すぎるきらいさえある彼女である。国家のためであれ主君のためであれ、自ら命捧げるにふさわしいと思ういくさに参ずるとき、人の心は何よりも穢れなき高潔さを獲得するものだ。大王という主上のためのいくさ働きを旨とし、今はまた自身が志す諏訪新政に邁進する八坂神奈子にとっては、世人より暴虐との謗りを受けることは、まさしく彼女の戦いに在るはずの正義が否定されかねないほどの、死活に関わる問題であった。まして、それが神として人々を導かんと欲する彼女の立場にすれば、ただの人間に倍するほどの大問題である。

 だが、自らが打ち立てた政権の正当性がモレヤひとりの命によって左右されかねないという以上に、神奈子の潔癖さにとっては、諏訪子の物言いが妙に心に引っ掛かるようなものに思われて仕方のない部分がある。

 眉根に皺を寄せ、強く強く、何度も眼をしばたたきながらつぶやいた。

「諏訪子は、私に“保身のためにあの子を重んぜよ”と。そのように言うておるのか」

 諏訪子はまた笑う。
 いよいよいたずらっ子の笑みであった。

「表向きには。しかし、なあに。あくまで、建前にございまする。政の場では、斯様に申した方がきっと通りが良いゆえ」

 言って、どこか“ばつ”が悪そうに彼女は頬を掻いた様子だ。

「本当は、もっと単純なこと。今、この神の眼前にてひとり苦しみ、それでもなお自ら生きんと足掻く者を救わねばならぬ。人ひとりさえ我が意のままに救えずして、いったいどうやって八坂さまより政を奪い返すことできるか。そういう思いにございまする」

 諏訪子の吐く息に動かされ、中空に舞い飛ぶ埃の渦が、ふたりのあいだをゆるやかに流れていくのが見えた。彼女と同じくらい、神奈子もまた自らの拳を握り締めた。何というやつだろうと思う、いま自分の眼の前で真意を明かす諏訪子は。それが、この王にして神の甘さなのだ。だけれどその甘さこそが、たとえ豪族どもに祭り上げられ、政を良いように動かすためのあやつり人形でしかなかったとしても、“諏訪さま”が、諏訪子が、この諏訪という一国の王たるにふさわしい資格なのではなかったか。

 諏訪子は、本当ならば“祟る神”である。
 諏訪に棲むミシャグジ数万を自身の意のもとに置き、ひとたびその気になれば、自らの意を阻む者ことごとくを死滅させることも可能なほどの。それをやらなかったのは、しょせん、自分の王権の正当性が豪族たちに祀られなければ保証されなかったという虚しい現実以上の理由がある。むやみに己が欲望のまま呪詛を振り乱し君側の奸どもを討ち果たせば、次なる権力の座を巡って果てしない擾乱(じょうらん)が起きかねない。だから諏訪子は、たとえ自分の政が奪われたままになっていても、自らの郷里を乱すことを望まなかったのかもしれない。そう、神奈子のなかにはじわと気づきが広がっていく。おそらくは、モレヤのことについても同じなのだろう。諏訪子という王の意志のなかでは、人への憐れみと政を自らのものとする策略が、根の部分で結びついている。

 それは、たぶん。
 己が奉ずる国家の正義のままに、敵する者を服せしめることしか知らなかった神奈子にとっては、まったく未知なる王権の姿と言っても良かった。

「それが――それが、諏訪子の“王道”か」

 感嘆のまま、ただそれだけを口に出す。
 諏訪子は否定も肯定もすることはなく、ただ首筋に指をやってぽりぽりと掻く仕草を見せるのみだ。

「そこまで大層なものではない……のです。たぶん。志と言うにも未だ足りない。ま、要するに、諏訪子の“わがまま”にございまする」

 わがまま、か。
 王たる者、衆生に威を示すために傲然と構えるべき。
 神奈子はそう信じて十余年の戦いを突き進んできたのだし、今でもそう思っている。だというのに、モレヤを救いたいと正面から論ずる諏訪子のわがままは、何と手には負えない彼女なりの傲然さだったことだろか。元をただせば、政のうえで互いに利用し合うつもりの関係だった。そのはずが、こうまで彼女は自分の内側に入り込もうとしている。それが怖ろしくもあり、少しだけ嬉しくもある。

「だから、なのだな。だから諏訪子は、この八坂とモレヤの仲を取り持たんと、上手くもない芝居を打っていたわけだ。そなたと私で、モレヤに加護を与うるべく」

 深々と、諏訪子はうなずいた。

「神としては、その通りにございまする。しかし王としては、八坂さまにはモレヤ王の後見役となっていただきたい。下手くそな芝居を打ってまでふたりの仲を近づけんと欲したのは、他人同士をいきなり引き合わせて頼みごとをしても、無理があると思うたゆえ」

 これで、すべて合点がいった。
 頬の真裏で舌を転がしながら、神奈子は幾度目か思案する。
 後見役ときたかよ。この私が、モレヤ王の――!
熱の高さを測るかのように額に手を置くと、いつの間にか、ぬるりとした汗が噴き出している。不快な汗は、心地よい熱情が姿を変えて神奈子のもとに表れている。

「やれやれ。……憐れみを感ずることと、むやみに情けをかけることは違うものだと思うておったのだがな」

 ここまできたら、と、神奈子は観念してしまうつもりだった。
 どうせ諏訪子の謀に乗せられて、まんまとモレヤの弓の師になってしまった身だ。彼女の王道に、私もまた拠りかかってみるのもそう悪いことではないと、なぜかすんなりとそう思えている自分が居た。それは、彼女が諏訪子のことを好きだからとか、そういう生ぐさい理由では決してなかったのかもしれない。否、あるいは――と、もうひとつ別の考えが頭をかすめていく。情けをかけられていたのは、モレヤではなく自分の方だったのではないだろうかと。
 
「あの子を妹の力持つ子が産まれるまでの中継ぎではなく、正真のわが後継として育て上げるべく後見を引き受ければ、少なくとも婚儀を通して直ぐさま諏訪豪族の思うに任せるということにはならず、また出雲本国に対しても諏訪統治の面目が立とう。つまりは、時間稼ぎをする窮余の一策。それなりに考えられたものだとは思う」

 すべては、諏訪に創立する新たな政のため。
 神奈子も諏訪子も思うところはひとつのはずであった。
 いずれにせよ、そのどちらもが滑稽なまでの不器用さを持った友情であることに、ふたりは未だ気づいてさえいない。

 ゆっくりと扉を押し開き、神奈子は自分から部屋を出た。
 足音はほとんど立てることなく、諏訪子もまた彼女に続く。
 元より城中にても空き部屋の多い区画であったから、人声(ひとこえ)も人の気配もずっと遠くにしか感じられなかった。今日の偶然は僥倖であった。密談をするには、うってつけの場所でふたりが顔を合わせてしまったのだから。

「モレヤの後見役を引き受けるという話、考えるに値しよう」
「では……」
「急(せ)くな。ものごとには順序があろうよ」

 小さな背丈で小躍りしないばかりに喜びかけた諏訪子を制し、「そなたの策は悪くない。が、モレヤという少年がまことに八坂が後見を務めるにふさわしき者であるのか。今いちど確かめねばならぬ」と、神奈子はあくまで冷徹、冷静であった。

「だから、諏訪子。そなたが己のためにひと芝居打ったように、次はこの八坂のためにもひと芝居打ってもらう」

 いったい何が始まるのやら。
 そんなことを言いたげに、諏訪子はただ苦笑するばかりである。

(続く)
作者の根気が続けば第三話が出ると思います。
9/17 誤字を修正しました。コメントでのご指摘に感謝。
こうず
http://twitter.com/kouzu
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コメント



0.340簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
完結を願って
3.100名前が無い程度の能力削除
前回に比べると格段に読みやすくなっているように思います。薀蓄・考証の部分をきっぱり切り分けに走ったためもあるのでしょうが、だというのに、前にあったような派手な展開や息詰まる攻防がなくなって、代わりに話題の著しいループと遅々として話が進まなくなっている。
しかし面白い。たぶんこれは日常系SSに似た楽しさなんじゃないかなと思う。見方を変えればかなすわが冷たいもの食ったりどっか行きたいねーって話をしたりダイエットに勤しんでいたりしているわけで、ダラダラと日常を送っているように見えなくもないし。
かといって政に関する描写をないがしろにしているかというとそんなことはなく、原理原則をしっかり押さえているのでとても参考になりました。
続きが楽しみです。
4.100奇声を発する程度の能力削除
ますます面白くなってきました
続きが気になります
6.100名前が無い程度の能力削除
待ってました!
これが幻想郷におけるお馴染みの祝と二柱の元となるのでしょうか。
続きがとても楽しみです。

衍字の報告です。
つまりは、m時間稼ぎをする窮余の一策。それなりに考えられたものだとは思う」
7.100名前が無い程度の能力削除
いいぞ、私の理想とするかなすわがここにあった!
続きが読みたくて仕方のない物語というのを久しぶりに発見した気分です。
頼む、続いてくれこうずさんの根気!
9.90名前が無い程度の能力削除
土蜘蛛と山女の文字を見て俺大歓喜
この二人の物語に絡むのは難しいだろうけど、こういうフレーバーの有無でグッと違ったりするし
モ「私にエロいことする気でしょう!例大祭みたいに!」展開はいつになりますか?(鼻息
10.100名前が無い程度の能力削除
暴れだしたくなるくらい素晴らしかったです。かなすわ二柱の掛け合いがもうカッコカワイイのなんの。
11.100名前が無い程度の能力削除
前回にも増して、世界観がホントにしっかりしてる。書くの難しい時代のはずなのに。アンタ凄えよ。
キャラに深みがあるから、どんどん面白くなっていくと思います。今回の話はなんだかエロティックな場面が多かった。
すわかなとかモリヤ君との絡みとか。赤面する神奈子さまと腹黒諏訪子とか俺得すぎる。
これから一体なにが始まり、三人はどうなってしまうのか、楽しみです。首を長くしてお待ちしております。
12.100名前が無い程度の能力削除
実は諏訪子様萌えssなんじゃないかと思ってる。
13.100名前が無い程度の能力削除
14.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい、こういう雰囲気を待ってたんだ
15.100名前が無い程度の能力削除
凛とした美しさの神奈子と、少し意地悪な諏訪子のやりとりがとても面白いです。
ただ個人的に一番気になっているのはモレヤ王の今後だったりします。
続きを首を長くしてお待ちしております。
17.100愚迂多良童子削除
三人寄れば文殊の知恵と言うけれど、この孤独が三人寄れば、一体どんな国が出来るだろうか。期待せぬわけにはいくまいて。
18.100名前が無い程度の能力削除
儚くも生きもがくモレヤ王がたまりません。
こうずさんこういう人物好きそうですよね。

一話に比べて、全体的に(特に前半)散漫になった印象は持ちましたが、
これだけの文量をしっかり書き切る意思に尊敬をこめて。
20.100非現実世界に棲む者削除
2話目も面白かったです。
やっぱり良いなあこの二柱は。
21.100名前が無い程度の能力削除
世界観が素晴らしいです。
この時代はわからない事も多く創作の余地が広いのがいいですね。