読み終わった本を、放り投げた。
机に落ち、少しだけ滑ってから止まった。
ベッドに身体を投げ出しながら、古明地さとりは目を細めた。ゴミ箱に、紙屑を投げ入れたかのような感覚だった。格別、楽しいものでもない。本を読むことと比べれば、それほど楽しいとは思わなかった。
横たわらせた身体を、傾ける。
スプリングの軋む感触が、音となって聞こえた。自分の身体は、間違っても重くはないのに、それでもスプリングはきちきち鳴っている。気にも留めずに、さとりはまた、身体を傾けた。
太股の半ばまで露出した足を、擦り合せるように組んだ。
細過ぎる白い足は、部屋の灯りに照らされて、艶かしい色を湛えている。自分の足であるのに、まったく別の生き物ように思えた。動かすたびに、肌の白さに目を惹かれる。自分の足であるのに、奇妙に惹かれてしまう。悪い気はしなかった。
太股に指を這わせる。
舐めるように、指の腹で撫でる。
燻すような昂ぶりは、それでも身体を起こすまでには至らなかった。
今の自分は、ひどく惨めだった。
汚泥、怠惰、退廃。
情欲、憐憫、懊悩。
絡み付くような粘りを孕んだ言葉の数々に、どっぷりと浸りたかった。肩どころか頭の先まで、潜るように浸りたくなる。息も出来ない、底なし沼のような感情の奔流に、どこまでも溺れてみたくなる。さとりには、ひどく甘美な誘惑に、思えてならなかった。
独りで、誰に向けるでもなく笑った。
乾いた唇を、舌でちろりと舐める。淫靡な舌鼓は、さとり自身にも聞こえていた。
いつも、こうだった。
本を読み終わった後は、いつもこうして物思いに耽った。
内容に、影響されてしまうのだ。
読み終えた矢先、本の内容に感化されて、振り回されてしまう。心理描写に富んだもの、文と文との見えない心情を滲ませるような読み物が、特に好みだった。そういったものを読んでしまった日には、こうしてベッドへと身体を投げ出し、何時間も独りで過ごすことが多かった。
先程、投げ出した本も、そういった類のものだった。
埋火のように火照った身体を、シーツへと擦り付けるように動かす。それだけなのに、そんな自分が、ひどく淫らな女に思えた。情欲に正直な、人間のような女だ。人間にはない第三の目を、抱くように手繰り寄せる。そんな仕草まで淫靡なものに思えたので、さとりは薄く笑った。
自室に集められた書物は、百を下らない。ペットに集めさせたものばかりだ。
その一冊一冊を、何時間も、時には何日もの時間を使って、読み耽る。それが日課であり、唯一の趣味だった。
旧い地獄の管理など、形だけだった。追われる業務はなく、仮にあったとしても、ペットを見繕って命じれば済むことだった。気侭であり自由であり、何より孤独だった。
来客はない。
さとり妖怪である自分を訪ねる者など、動物以外にはいなかった。
孤独は好きだった。今も好きである。
誰とも顔を合わせず、独りに浸っていられる今の環境に、不満などなかった。心が読めるとなれば、出歩いたところで忌避されるのだ。もとより、他人と接するのは苦手である。必要以上の関係を築くなど、苦痛でしかないのだ。心が読めなくとも面倒であり、心が読めるとなると、更に面倒なことになる。こうして地霊殿に篭もることこそが、自分にとっては幸福だった。
これで良いと、さとりは思った。
うつ伏せになって、泳ぐように身体をくねらせる。
スカートを穿いた腰を、擦り付けるようにベッドに押し付けた。スプリングの軋みが、大きく鳴った。自ずと漏れた吐息は、自分のものとは思えないほどに、艶やかに湿っていた。
上半身を、起き上がらせる。
はしたなく捲れたスカートからは、太股のほとんどが露になっていた。灯りに照らされて、陶磁器のように白い。指を這わせて、膝の上から腰にかけてを撫でた。そのまま、スカートの内側へと指を入れて、裾を摘んだ。捲ろうかとも考えたが、結局は止めた。背筋を伝った背徳と、それ以上の馬鹿馬鹿しさを感じて、さとりは笑った。
自分の身体に、自分で昂ぶるなど、馬鹿馬鹿しい。
さとり妖怪である自分が、ナルシストになれるはずがなかった。
机の本を手にして、再びベッドに倒れ込んだ。
カバーはなく、剥き出しの表紙は激しく痛んでいた。題名すら、掠れて読めなかった。内容にも目を通したが、題名と思われるものは書かれていなかった。
文庫本ほどのサイズのそれを、胸へと抱き寄せる。丁度、第三の目の傍だ。当たり前のように、読み取れるものはない。
心は読める。
題名は読めない。
さとり妖怪である自分は、人間や妖怪の心など、手に取るように読めるのだ。赤子の手を捻るよりも、簡単なことだった。
そんな自分は、本に影響されやすい。心を読みとることに慣れているからこそ、登場人物の一挙一動、文章の一字一句を読み取ろうと、集中する。たぶん、普通に読むよりも何倍も遅く、それ以上に濃密に、活字の海へと没頭する。のめり込んでしまい、結果、大きく影響されてしまうのだ。
誰の心でも読める自分が、誰かの本に心を動かされる。
皮肉のようだが、事実だった。
その事実を、心の底では面白がっている自分がいることにも、さとりは気付いていた。
仰向けのまま、顔の前へと本を持ってきた。適当に開く。このまま手を離してしまえば、丁度、顔へと覆い被さってしまうだろう。本に没頭し切って、寝潰れてしまったかのような格好だ。今まで読んだ物の中には、そんな描写もあった。仰向けに寝ている人物の顔に、開けたままの本が被さっているのだ。大抵、その人物の自堕落な性格を強調するために、書かれていた。
息苦しくないのだろうか。
まず、それだけを思った。実際に試しもしたが、予想どおり、息苦しかったのですぐに止めた。それから試したことは一度もない。本を読む途中、睡魔に苛まれることはなかった。没頭し切った頭に、眠気を覚えたことなど、さとりには一度もなかった。
手を、離した。
文庫本ほどの大きさは、顔を覆うのには充分だった。
唇に、漏れたばかりの息が、熱くかかった。自分の中の淫らな雌が、胸の奥で、また燻った。淫靡にのたうつけだものの息遣いを、熱い吐息に感じた。夢でも見るかのように、自分そっくりのけだものの姿が浮かんだ。白昼夢のように現れたそいつは、どのペットよりも醜かった。
本を、顔の上から退けた。
汗ばむように湿った唇を、舌で舐めた。
わざとらしく、舌先を蛇のように露出させて、さとりは目を細めた。
酩酊のように影響を及ぼす、本が好きだった。愛しているとか、そんな歯の浮くような言葉は、決して似合わない。もっと汚くて、だからこそ真っ直ぐに言うほうが、似合っていた。食物のように、骨肉を酔わせるのだ。催眠のように、意識を塗り潰すのだ。酔わされて、塗り潰されて、やがて捨てられるように、本の影響は解かれるのだ。一抹の寂しさに襲われるのだ。
まるで、男に捨てられた女だった。
身勝手に振り回され、襤褸のように捨てられる。どうしようもない男だと分かっているのに、求めて止まないふしだらな女。偽って、それでも情欲には正直な、人間のような女だ。読んだ本に影響されて、どうしようもなく振り回されて、飽きるように解放される。そんな自分と似ているからこそ、自分がどうしようもない女なのだと思って、さとりはまた笑った。
そんな笑いの衝動も、本の影響だった。
身勝手な男と、淫らな女。
人間の織り成す、情緒不安定な愛憎や情欲を、淡々と記した本だった。
結末は、男は多分いなくなって、女は母となっていた。
救いなど、ひとつもない内容である。身勝手で、こだわりばかり膨張させた、男たち。振り回され、雌のように情欲に耽る、女たち。大筋と結末は、これだけで済んだ。下品な文字の羅列は、しかしながらその淡々とした情景と、滲み出すような感情の奔流とで、悪辣とは言いがたい魅力を伴っていた。内容は好みではなかった。匂い立つような文体は、好みだった。
上着の、胸の辺りを握った。
早鐘は打っておらず、もどかしさのような刺激が、胸の中にある。燻り。あえて表現するなら、それが適切だろう。或いは、もっと適した言葉があるのかも知れない。本を読むのが好きであり、書くことも好きなさとりにとって、言葉を選ぶことは重要だった。なるべく難解な、明晰な言葉を用いたくなる。それとは逆に、どうしようもなく下品で、臭く粘ついた言葉を用いたくもなる。
身悶えするように、上着越しに胸に触れた。
燻りは消えなかった。すぐに消えることは、たぶんない。
横たわらせた身体を傾ける。スプリングが鳴った。きちきちと鳴くのを聞きながら、さとりは枕の横を見た。
先程、顔から退けた本が、そのまま残されている。
内容は好みではなく、文体は好みの、どうしようもない男と女の本である。
手繰り寄せて、胸に抱いた。
燻りは消えずに、くすぐるように胸の中で燃えた。悶えるように、身体が震えた。更に身体を傾かせて膝を曲げた。スプリングがまた、きちきちと鳴くのが、奥から聞こえた。抱き寄せた腕を、シーツへと投げ出すようにした。本は、胸からは少し離れたが、身体には寄せられたままだった。
結末で、女は母となった。命が息衝いていると知らされても無表情だった。
さとりはベッドに横たわっている。
胎児のような姿勢だと思った。本は丁度、臍の辺りにあった。
臍の緒、母と子の繋がり、栄養と老廃物の行き来する管。想い起こすのは得意だったが、どれも深い意味などなかったので、すぐに忘れた。
目を閉じる。
ふしだらに求めて、満足すれば寝る。火照りも、汗ばんだ身体もそのままに、潰れるように寝るのだ。確実に、朝は爽快なものではなかったし、鉛のような頭の重さに辟易もした。それでも止められなかった。奈落の底のように、どこまでも落ちてしまいたくなる。意味もなく、どうしようもなく、自分を塵芥のように貶めたくなる。
本の一文が浮かんだ。ひどく自分に似合うなと、それだけを思った。
深く、艶かしいほどに長く、息を吐く。
意識はすぐに沈んだ。
◆◆◆
夜の顔を、男は持っていた。
危険な仕事だとは、自ずと知った。
私の家には、もっぱら仕事が終わってから訪ねるようになっていた。スーツを着崩し、酒に酔って、その日の垢を落とすかのようにシャワーを浴びる。日が変わる前に来ることもあれば、空が白んでから来ることもあった。週に、二、三度の頻度で訪ねてきた。泊まったことは、付き合いはじめて二年が経った今でも、一度もなかった。
抱かれるかは、男の機嫌次第だった。
組み敷かれて力ずくで抱かれることもあれば、こちらに委ねることもあった。変わらないのは、私がいくら求めたところで、求める限りは抱こうとしない。応じてくれないのだ。無理矢理、事を運ぼうとすると、決まって手を上げられた。顔に痣が出来て、職場に休みの電話を入れたことも、片手の指では足りなかった。
好きなのではない。愛ではない。
お前は俺のものなのだ。
殴られた際、いつも言われていた。男にとって、私は愛でるものではない。所有されるものなのだ。これまで、何度も聞かされてきた言葉だ。それが男の本音なのだと気付くのには、それでも時間が掛かってしまった。
ひどい男だと思う。
どうしようもない奴だと、頭では理解していた。
頭だけなのだ。育まれてきた道徳や良心などが、男を否定していた。それは頭の中だけの問題であり、身体や心は別だった。
欲した。
男が私を自分のものだと見ているのに対して、私もまた、男を自分のものにしたかった。
抱いた後、男は決まって泣いた。
子供のように咽び泣くのだ。力ずくで組み敷かれた時でも、事を済ませば泣きじゃくった。幅の広い肩を震わせて、嗚咽を吐き出すのだ。
それが私に火を付けた。
愉悦を煽られた。
情欲という炎を沸き立たせ、淫らにさせるのだ。組み敷かれた時には、逆に組み敷いてやった。こちらに身を委ねた時には、突っぱねて足蹴にして、思い付く限りの罵倒を吐き出した。手を上げたことも、一度や二度ではない。泥のように交わる中で、首を絞めたことも何度かあった。
私は、それが嫌ではない。
男と交わると、私はけだものになる。
淫らで、淫乱で、安物の娼婦のように振舞う。粘つくように腕を回して、男と絡み合う。交わり、犬のように舐め、畜生のような声を上げる。私の中のけだものが、私という皮を破って出てくるのだ。どうしようもない男とともに、私もまた、どうしようもないけだものへと成り果てる。泣きじゃくる男の髪を引っ掴み、汚い言葉を浴びせる。足蹴にして、首を絞めて、思い付く限りの罵倒をする。普段は口にも出来ない言葉でも、躊躇なく吐き出した。
人間はけだものなのだ。
誰もが、内側にけだものを飼っている。
どうしようもない畜生のようなけだものを、人間という皮で覆い隠しているのだ。
男は、すでに隠すことを止めていた。
私は、そんな男にこそ隠すのを止めていた。
交わる時、男と女ではないのだ。二匹のけだものが、貪り合うのだ。片方は泣きじゃくり、もう片方は淫らに求め続ける。嗚咽を上げ、それを罵り、蜘蛛の糸のように絡み合う。汗だくになり、湯気と吐息を一緒くたにして、まぐわうのだ。私はそれが嫌ではない。雄と雌のように落魄れるのは、嫌いではなかった。
落魄れるのを欲した。
淫らになり、どうしようもなくなるのを、求めた。
男も同じだった。
自分を貶めたくて仕方がないのだ。だから、危険な仕事に手を染めている。法律に反しているなど、男には願ってもないことなのだ。どうしようもなく、奈落の底へと堕ちたくなる。地獄の釜へと放り込まれるかのように、坂道を何処までも転がり落ちる小石のように、下へ下へと落ちたいのだ。
昔、偉人が言った。
人間は、放っておけば低いところへと流れていくのだ。流れる水のように、澱みの深い下流へと、流れてしまうのだ。低く低くへ、下へ下へと、落魄れるのだ。だからこそ、そんな本能に抗って生きるのが大事なのだと、偉人は締めくくっていた。
煙草を手に、男が言っていた。
仕事に失敗して、逃げた後のことだった。不味そうに煙草をくわえた顔は、不機嫌なものではなかった。
偉人の話は聞いたことがあった。本で読んだことがあったのだ。
それを伝えると、女の癖にと男は言ったが、手を上げられることはなかった。
下へと往き切った、その先が見たい。
紫煙と一緒に、男はそう吐き出していた。
自分を貶めることを、男は望んでいた。先が見たいと言ったのも、取り繕ってのことなのだろう。言葉を取り繕うところが、男にはあった。私の前では、下らないこだわりでしかなかった。こだわりなど、抱くだけ無駄だと知っているはずなのに、それでも男は抱いている。先を見ることなど、本当は望んでもいないのだ。自分を貶めたいだけなのである。私には、それが手に取るように分かっていた。
矛盾ばかりだ。意味のない鎧で覆われている。
私の前では、繕うなど意味もないのに。
どうしようもない男だった。
頭では理解している。頭だけでは、私の衝動は止められない。
私のけだものは止められないのだ。
それが、私は嫌ではない。
男の唇に、私は唇を重ねた。淫靡な舌鼓が聞こえる。
けだものが姿を現す。ふしだらな自分が見えてくる、想い起こされる。押し倒された時、ベッドの奥からきちきちと聞こえた。スプリングの苦鳴を意にも介さず、男は覆い被さってくる。求めてくる。求められている。だから、求めた。絡み付くように、臭い立つ汗を拭いもせず、交じり合う。まぐわう。
背中に、腕が回される。
強い力だ。絞め殺さんばかりに、締め上げられる。嫌いではない。好きでもない。悦びが、嬌声となって飛び出した。
私の細い身体を、男はあらん限りの力で、抱き締めてくる。
汗ばんだ首筋が、目に留まった。蛇のように舌を這わせる。びくりと、男の身体が震えた。けだものが、鎌首をもたげる。燻りが、一際大きく、燃え上がる。
淫らになる。
人間のように私は淫らになる。情欲に正直な、人間の女のようになる。
女は嫌だった。
今の私はけだものだ。
けだものは、雌で構わない。
首筋に、噛り付いた。甘噛みではなく、強く、引き千切るように噛り付いた。男の身体が大きく震える。背中に回された腕が、一層締め上げてきた。押し潰される。ベッドと男の身体の狭間で、私はそれでも噛り付いた。男の首筋へと、一心不乱に噛り付いた。
鉄錆びに近い臭いが、唇を濡らした。
どうしようもない男の血は、どうしようもなく不味かった。
歯を引いて、傷口を舐めた。接吻のように、吸い付いた。舌先でねぶるたび、男の身体は小刻みに震える。締め上げる腕の力は、一向に衰えない。ベッドのスプリングのように、背骨が軋んでいるのが聞こえた。自分の背中が、きちきちと鳴いている。壊れるほどに、求められている。
丸裸だった。
互いに、けだものを解き放っていた。普段は付けているその首輪を、躊躇うことなく外していた。
心を丸裸にして、けだもの同士、まぐわった。
傷口から、唇を離す。
唾液が糸を引いた。自分の目と繋がる管のようだと、まずそれだけを思った。
男は涙を流していた。
ぐしゃぐしゃに歪めた顔で、それでも私を締め上げていた。私を求めている。いっそ殺されそうなほどに、求められている。堪らない。けだものが、私という皮を破いて、飛び出してくる。泣きじゃくるその嗚咽に、誘われるように、涙を流す頬へと舌を這わせる。そのまま、唇と唇とが重なる。情欲が、抑え切れなくなる。
唇を離して、私は男を蹴った。
踵が胸を打ち、男はベッドから転げ落ちる。無様だった。髪を引っ掴み、男をベッドへと引き戻す。泣きじゃくった顔はそのままだった。それもまた無様だった。落魄れるところまで、落魄れてしまえばいい。男の心は、髪を掴まれた雄のけだものの心は、それを望んでいた。心を読むまでもなかった。
耳元に息を吹き込む。
けだものめ。
私の呟きにも、男は身体を震わせた。子供のように嗚咽を漏らしていた。
けだものめ。
首筋の傷口へと、私は中指を突き込んだ。
悲鳴のような苦鳴とともに、ベッドが大きく揺れる。きちきちとスプリングの鳴く音が聞こえる。耳障りだ。穿るように、中指を曲げた。更に大きな悲鳴が聞こえた。心地良かった。けだものは、男の悲鳴にうっとりと目を細めた。
中指を引き抜く。
どうしようもなく不味い血が、唾液のように糸を引く。
足りなかった。
男が求めたように、私も男を求めていた。
自分のものにしたくて仕方がなかった。
泣きじゃくる男が、仰向けに倒れている。馬乗りとなり、まぐわった。交わりながら、男の首へと手を掛けた。汗が触れ合い、粘ついた音を立てる。首を絞めながら、男の身体へと寄り添った。私の薄い胸が、男の逞しい胸と触れ合う。鼓動が聞こえる、生きている、けだものの息遣いを感じる。
あらん限りの力で、男の首を絞めた。
第三の目で男の心を覗きながら、絞め続けた。
死んでも良いかな。手を緩めた。待ってくれもっと。締め上げた。そうそれだ。緩めた。何故なんだ。締め上げる。お願いだ。締め上げる。お前は俺のものだ。締め上げる。苦しい。締め上げる。落ちる。締め上げる。堕ちる。男の唇に、自分の唇を重ねた。
私の中のけだものは、手を緩めない。貪るように男の口内を味わう。
唇を離した。
首を絞める手は緩めなかった。
心を覗くことは、すでに止めていた。
男の、薄い膜の掛かりはじめた瞳を覗いた。
けだものが映っている。
淫らで、淫乱で、どうしようもない自分の姿が映っている。
短めの明るい紫の髪。髪と同じ色合いの瞳。胸元の第三の瞳。
古明地さとり。
男の瞳に映っているのは、間違いなく自分だった。
首を絞める手は、緩めなかった。
◆◆◆
寝覚めは最悪だった。
地霊殿の自室から、朝日は拝めない。地底深くに届く陽の光など、あるはずもなかった。壁に掛けた時計でしか、時刻を知ることは出来ない。正午を大きく過ぎているのを見て、口から重い溜め息が出た。シャワーもせず、こうして自堕落に寝潰れてしまうことは、あまり経験がなかった。
鉛のような頭が、ひどく煩わしい。
両目の瞼は腫れぼったいのに、第三の瞳はぱっちりと開いている。今日も、さとり妖怪としては健在だった。古明地さとりとしては、不健康であり不健全でもあり、何より不機嫌だった。
本には影響されやすい。
しかし、夢にまで影響を及ぼされたことは、覚えがなかった。
余程、印象に残ってしまったのだろう。本の内容は、外の世界のことが中心だった。人間が織り成す、不安定な感情の奔流を淡々と記した本だ。妖怪が読むには、最も適してないと言っても良い。読書に興味のない妖怪は勿論、興味がある妖怪でも、読み終えるのは難しかったかも知れない。
だと言うのに、途中で飽きてしまうことはなかった。
結果、こうして影響され、夢にまで見てしまった。
内容は、決して好みではない。匂い立つような文体は好みだったが、それでも夢にまで出てきてしまうのは、何か他に理由があるような気がした。本の内容に、呑まれてしまった。そんな思いさえ出てくる。
夢見た願望など、目覚めた自分には全くない。だと言うのに、夢の中の自分は、明らかに淫らだった。
皮を破り、けだものとなった。言い様のない不安と、それ以上の苛立ちを覚えた。
起き上がり、ベッドを見下ろす。
シーツには寝汗程度の湿り具合しかなかったので、そっと胸を撫で下ろした。粗相があっては、ペットたちへの説明に困る。夢の内容を誰かに話すのは、さすがに躊躇われた。要らぬ誤解は招きたくない。
ベッドから立ち上がり、本を手に取った。
夢の原因である。不愉快だったが、不思議と嫌悪感はなかった。
女のようになりたいなど、思い付きもしなかった。
男から、まるで所有物のように見なされ、それでも求めることを止めない。淫らに求めて、けだものを解き放ち、まぐわりながら堕ちてゆく。情欲に正直な、人間を象徴するかのような女だ。少なくとも、夢を見るまでは、それ以上の感想を抱かなかった。抱けなかったと言うほうが、正しいかも知れない。男女の営みには、全く興味が沸かなかった。
自分は、さとり妖怪である。
人並みの営みなど、過ごせるはずもないのだ。
地霊殿に来客はなく、業務はもっぱら動物たちに命じている。同じさとり妖怪である妹は心を読むことを放棄し、今では地霊殿に帰って来ることも少ない。自分は自室に篭もり、本を読み、時には執筆もしている。そんな気侭な生活こそを、最も好んでいる。溺れるように他人を求めたことなど、覚えがなかった。
だから、内容は好みではなかった。
男が求めるもの、女が求めるもの、人間の皮を被ったけだものが欲するもの。さとり妖怪でも読み取り切れないほどの心の動きが、俄かには信じ難かった。自分が今までに読み取ってきた、人間たちの心。その心より、深くとも浅くとも、高貴とも下賎とも読み取れてしまう感情の奔流に、戸惑いを覚えたのだ。
一夜明け、影響の薄れた今なら、落ち着いて考えられる。
淡々とした文体は、好みだった。
上手いとは思う。自信は無かった。文章を上手いか下手かと判断するのは、ある程度の線引きまでなら可能だ。それ以上は、好みの問題だと思っている。
その淡白なほどの文章の合間に、滲み出るような奔流があった。感情か、もっと深いものかは、定かではない。
恐らく、心ではなかった。
自分が読み取れるのは、あくまで心の動きでしかないのだ。人間の前に立ち、第三の瞳で覗き込めるのは心でしかない。頭の中と言っても差し支えはないだろう。古のさとり妖怪は、それで痛い目を見た。人間が、心にも思っていなかった行為によって、足元をすくわれた。
昨夜の夢は、それに近いのかも知れない。
他人など必要ない、本だけで充分。そう思っていたからこそ、本の内容に強い衝撃を受けた。心ではなく、もっと深いのか、或いは浅いのかも分からなかったが、そんな人間の内面に大きく揺さぶられた。男と女のまぐわり、途轍もなくストレートな描写だったからこそ、求めるものの強さ、その奔流に惑わされたのだ。
内容は好みではない、と言うのは適していなかった。
正確には、内容に戸惑った、と言うところだろう。
淡々とした文体は好みであり、上手いと思った。だから余計に、戸惑いさえも信じ切れず、好みではないと錯覚した。そう言った意味では、本の内容に呑まれてしまったという思いも、あながち間違いではなかった。夢にまで見るくらい、戸惑ってしまったのだ。
今の自分に、この本は書けない。
忸怩たる思いではなく、達観するような思いだった。
他人と接することに苦痛しか見出せない自分に、この本のような文章は書けそうにもなかった。想像することは出来る。こうだと予想を立てて、憶測という霧を掻き分けるような真似なら、自分にだって出来る。それくらいには本を読んだし、書いてきたつもりだ。
しかし、男と女のまぐわりだけは、書けそうにもなかった。
夢で見たのも、所詮は夢だ。
目覚めた今となっては、夢の中では匂い立つほどだった男の身体も、おぼろげになっている。顔など全く覚えていなかった。その瞳に映った自分の姿が、やけに印象的だったのは覚えていた。ひどく淫らな笑いを浮かべて、男の首を絞めていた。その感触を思い出すことは、難しかった。
男女のまぐわり。
人間という皮を破った、二匹のけだもの。
本の中には、他にも何人かの人間が登場している。それぞれ好き勝手に、それでいながら一定の秩序を持って、複雑な人間関係を醸し出している。だと言うのに、その文体は淡々としているのだ。いっそ淡白なほどであり、思わず継ぎ足したくなる部分も、幾つか散見された。そして後で、結局は継ぎ足さず、この淡々とした文章にこそ味が出るのだと理解して、天井を仰いだりもした。
本の題名は分からない。
作者とて分からなかった。
人間だろうということは分かる。外の世界について書かれていることから、外の人間だということも想像がついた。それ以上は、読み取ることは出来なかった。男なのか、女なのか。若いのか、老いているのか。健康なのか、不健康なのか。この本を書いた人間は、そのどれもが当て嵌まりそうな気がした。
自分とは違う。
他人を知ろうともしない自分とは、確実に違うと思った。
今の自分には、この本のようなものは書けそうにもなかった。
けれど。
今の自分では無理ならば、未来の自分ではどうだろうか。
普段なら、皮肉っぽい笑みとともに、そんな思い付きなど否定しただろう。他人との関わり合いを忌避する自分が、幾ら年月を経たところで、変われるはずもないのだ。もとより、本の内容にこれだけ縛り付けられることなど、今までには一度もなかった。一夜の夢として、想い起こしたことなどなかった。
本を書いたことは何度かある。
物語も書いた。もっぱら心理描写の豊富なものだ。くどいほどに描写を記すのが、良いとも悪いとも言い難い、文体の癖だった。手に持った本の、淡々とした文体とは、何処までもかけ離れたものだった。
淡々としていたから、上手いと思ったのではない。
淡々としながらも、そこに確かな心理描写と、それ以上の内面を滲み出していたからこそ、上手いと思ったのだ。さとり妖怪である自分でも、思わずその内面に戸惑いを覚えるほどに、滲み出ていた。舌を巻いたのだ、さとり妖怪である自分が。文章描写の可能性と、その深さに。
書きたくなった。
どうしようもなく、本が書きたくて仕方がなかった。
ただ、と思い留まる。
今のままでは、同じになってしまう気がした。今までと変わらない文体で、今までと同じような物語になってしまう。それは決して、悪いことではない。変えないのが大事なことだって、沢山ある。しかし、今の自分はそんな理由で納得してしまえるほど、聞き分けは良くなかった。
ならば、どういったものが書きたいのか。
男と女のまぐわりを書きたいとは、やっぱり思わなかった。第一、それではこの本と、夢で見た光景の二の舞である。淫らに笑った自分の顔が、嫌でも想い起こされる。頭の冴えてきた今となっては、閉口するしかなかった。正直、あんなにいやらしい自分の顔は、あまり思い出したくなかった。
どんなものを書こうか。
答えは浮かばなかった。それでも良いかなと思った、自然と過ごせば妙案も浮かぶはずだ。
しかし、出来るなら。
誰かと関わりを持つような物語を、書きたいと思った。
来客はない。
地底の奥深く、地霊殿に訪れる者は、誰もいなかった。
仕方ないと思って、さとりは息をついた。
来客がないのなら出歩くしかない。旧地獄街道なども悪くないが、いっそ地上へ出てみることも考えた。滅多に当たることのない陽の光の下でなら、その陽光の如く妙案が降り注いでくるかも知れない。一人では心細い、お燐やおくうを連れて行くほうが良いだろう。ついでに、妹の行方を探してみるのも、悪くはなかった。
他人と関わりを持つのは苦手である。
しかし、それ以上に、何かを書くための妙案が欲しくなった。
本の内容に則るならば、自分の中のけだものが、それを求めているのである。男女のまぐわりほど下品ではないと思って、さとりは薄っすらと微笑んだ。
本を机に置き、乱れたシーツを整える。
まずは、シャワーを浴びたかった。猫の毛ような自分の髪は、いつも寝癖が激しい。それでなくとも、今日は外へと出歩きたくなったのだ。色々と準備が必要だった。
自室を後にする。
不意に、地上の風を思い出した。
誰にでも吹いてくれることも思い出して、さとりは笑った。
机に落ち、少しだけ滑ってから止まった。
ベッドに身体を投げ出しながら、古明地さとりは目を細めた。ゴミ箱に、紙屑を投げ入れたかのような感覚だった。格別、楽しいものでもない。本を読むことと比べれば、それほど楽しいとは思わなかった。
横たわらせた身体を、傾ける。
スプリングの軋む感触が、音となって聞こえた。自分の身体は、間違っても重くはないのに、それでもスプリングはきちきち鳴っている。気にも留めずに、さとりはまた、身体を傾けた。
太股の半ばまで露出した足を、擦り合せるように組んだ。
細過ぎる白い足は、部屋の灯りに照らされて、艶かしい色を湛えている。自分の足であるのに、まったく別の生き物ように思えた。動かすたびに、肌の白さに目を惹かれる。自分の足であるのに、奇妙に惹かれてしまう。悪い気はしなかった。
太股に指を這わせる。
舐めるように、指の腹で撫でる。
燻すような昂ぶりは、それでも身体を起こすまでには至らなかった。
今の自分は、ひどく惨めだった。
汚泥、怠惰、退廃。
情欲、憐憫、懊悩。
絡み付くような粘りを孕んだ言葉の数々に、どっぷりと浸りたかった。肩どころか頭の先まで、潜るように浸りたくなる。息も出来ない、底なし沼のような感情の奔流に、どこまでも溺れてみたくなる。さとりには、ひどく甘美な誘惑に、思えてならなかった。
独りで、誰に向けるでもなく笑った。
乾いた唇を、舌でちろりと舐める。淫靡な舌鼓は、さとり自身にも聞こえていた。
いつも、こうだった。
本を読み終わった後は、いつもこうして物思いに耽った。
内容に、影響されてしまうのだ。
読み終えた矢先、本の内容に感化されて、振り回されてしまう。心理描写に富んだもの、文と文との見えない心情を滲ませるような読み物が、特に好みだった。そういったものを読んでしまった日には、こうしてベッドへと身体を投げ出し、何時間も独りで過ごすことが多かった。
先程、投げ出した本も、そういった類のものだった。
埋火のように火照った身体を、シーツへと擦り付けるように動かす。それだけなのに、そんな自分が、ひどく淫らな女に思えた。情欲に正直な、人間のような女だ。人間にはない第三の目を、抱くように手繰り寄せる。そんな仕草まで淫靡なものに思えたので、さとりは薄く笑った。
自室に集められた書物は、百を下らない。ペットに集めさせたものばかりだ。
その一冊一冊を、何時間も、時には何日もの時間を使って、読み耽る。それが日課であり、唯一の趣味だった。
旧い地獄の管理など、形だけだった。追われる業務はなく、仮にあったとしても、ペットを見繕って命じれば済むことだった。気侭であり自由であり、何より孤独だった。
来客はない。
さとり妖怪である自分を訪ねる者など、動物以外にはいなかった。
孤独は好きだった。今も好きである。
誰とも顔を合わせず、独りに浸っていられる今の環境に、不満などなかった。心が読めるとなれば、出歩いたところで忌避されるのだ。もとより、他人と接するのは苦手である。必要以上の関係を築くなど、苦痛でしかないのだ。心が読めなくとも面倒であり、心が読めるとなると、更に面倒なことになる。こうして地霊殿に篭もることこそが、自分にとっては幸福だった。
これで良いと、さとりは思った。
うつ伏せになって、泳ぐように身体をくねらせる。
スカートを穿いた腰を、擦り付けるようにベッドに押し付けた。スプリングの軋みが、大きく鳴った。自ずと漏れた吐息は、自分のものとは思えないほどに、艶やかに湿っていた。
上半身を、起き上がらせる。
はしたなく捲れたスカートからは、太股のほとんどが露になっていた。灯りに照らされて、陶磁器のように白い。指を這わせて、膝の上から腰にかけてを撫でた。そのまま、スカートの内側へと指を入れて、裾を摘んだ。捲ろうかとも考えたが、結局は止めた。背筋を伝った背徳と、それ以上の馬鹿馬鹿しさを感じて、さとりは笑った。
自分の身体に、自分で昂ぶるなど、馬鹿馬鹿しい。
さとり妖怪である自分が、ナルシストになれるはずがなかった。
机の本を手にして、再びベッドに倒れ込んだ。
カバーはなく、剥き出しの表紙は激しく痛んでいた。題名すら、掠れて読めなかった。内容にも目を通したが、題名と思われるものは書かれていなかった。
文庫本ほどのサイズのそれを、胸へと抱き寄せる。丁度、第三の目の傍だ。当たり前のように、読み取れるものはない。
心は読める。
題名は読めない。
さとり妖怪である自分は、人間や妖怪の心など、手に取るように読めるのだ。赤子の手を捻るよりも、簡単なことだった。
そんな自分は、本に影響されやすい。心を読みとることに慣れているからこそ、登場人物の一挙一動、文章の一字一句を読み取ろうと、集中する。たぶん、普通に読むよりも何倍も遅く、それ以上に濃密に、活字の海へと没頭する。のめり込んでしまい、結果、大きく影響されてしまうのだ。
誰の心でも読める自分が、誰かの本に心を動かされる。
皮肉のようだが、事実だった。
その事実を、心の底では面白がっている自分がいることにも、さとりは気付いていた。
仰向けのまま、顔の前へと本を持ってきた。適当に開く。このまま手を離してしまえば、丁度、顔へと覆い被さってしまうだろう。本に没頭し切って、寝潰れてしまったかのような格好だ。今まで読んだ物の中には、そんな描写もあった。仰向けに寝ている人物の顔に、開けたままの本が被さっているのだ。大抵、その人物の自堕落な性格を強調するために、書かれていた。
息苦しくないのだろうか。
まず、それだけを思った。実際に試しもしたが、予想どおり、息苦しかったのですぐに止めた。それから試したことは一度もない。本を読む途中、睡魔に苛まれることはなかった。没頭し切った頭に、眠気を覚えたことなど、さとりには一度もなかった。
手を、離した。
文庫本ほどの大きさは、顔を覆うのには充分だった。
唇に、漏れたばかりの息が、熱くかかった。自分の中の淫らな雌が、胸の奥で、また燻った。淫靡にのたうつけだものの息遣いを、熱い吐息に感じた。夢でも見るかのように、自分そっくりのけだものの姿が浮かんだ。白昼夢のように現れたそいつは、どのペットよりも醜かった。
本を、顔の上から退けた。
汗ばむように湿った唇を、舌で舐めた。
わざとらしく、舌先を蛇のように露出させて、さとりは目を細めた。
酩酊のように影響を及ぼす、本が好きだった。愛しているとか、そんな歯の浮くような言葉は、決して似合わない。もっと汚くて、だからこそ真っ直ぐに言うほうが、似合っていた。食物のように、骨肉を酔わせるのだ。催眠のように、意識を塗り潰すのだ。酔わされて、塗り潰されて、やがて捨てられるように、本の影響は解かれるのだ。一抹の寂しさに襲われるのだ。
まるで、男に捨てられた女だった。
身勝手に振り回され、襤褸のように捨てられる。どうしようもない男だと分かっているのに、求めて止まないふしだらな女。偽って、それでも情欲には正直な、人間のような女だ。読んだ本に影響されて、どうしようもなく振り回されて、飽きるように解放される。そんな自分と似ているからこそ、自分がどうしようもない女なのだと思って、さとりはまた笑った。
そんな笑いの衝動も、本の影響だった。
身勝手な男と、淫らな女。
人間の織り成す、情緒不安定な愛憎や情欲を、淡々と記した本だった。
結末は、男は多分いなくなって、女は母となっていた。
救いなど、ひとつもない内容である。身勝手で、こだわりばかり膨張させた、男たち。振り回され、雌のように情欲に耽る、女たち。大筋と結末は、これだけで済んだ。下品な文字の羅列は、しかしながらその淡々とした情景と、滲み出すような感情の奔流とで、悪辣とは言いがたい魅力を伴っていた。内容は好みではなかった。匂い立つような文体は、好みだった。
上着の、胸の辺りを握った。
早鐘は打っておらず、もどかしさのような刺激が、胸の中にある。燻り。あえて表現するなら、それが適切だろう。或いは、もっと適した言葉があるのかも知れない。本を読むのが好きであり、書くことも好きなさとりにとって、言葉を選ぶことは重要だった。なるべく難解な、明晰な言葉を用いたくなる。それとは逆に、どうしようもなく下品で、臭く粘ついた言葉を用いたくもなる。
身悶えするように、上着越しに胸に触れた。
燻りは消えなかった。すぐに消えることは、たぶんない。
横たわらせた身体を傾ける。スプリングが鳴った。きちきちと鳴くのを聞きながら、さとりは枕の横を見た。
先程、顔から退けた本が、そのまま残されている。
内容は好みではなく、文体は好みの、どうしようもない男と女の本である。
手繰り寄せて、胸に抱いた。
燻りは消えずに、くすぐるように胸の中で燃えた。悶えるように、身体が震えた。更に身体を傾かせて膝を曲げた。スプリングがまた、きちきちと鳴くのが、奥から聞こえた。抱き寄せた腕を、シーツへと投げ出すようにした。本は、胸からは少し離れたが、身体には寄せられたままだった。
結末で、女は母となった。命が息衝いていると知らされても無表情だった。
さとりはベッドに横たわっている。
胎児のような姿勢だと思った。本は丁度、臍の辺りにあった。
臍の緒、母と子の繋がり、栄養と老廃物の行き来する管。想い起こすのは得意だったが、どれも深い意味などなかったので、すぐに忘れた。
目を閉じる。
ふしだらに求めて、満足すれば寝る。火照りも、汗ばんだ身体もそのままに、潰れるように寝るのだ。確実に、朝は爽快なものではなかったし、鉛のような頭の重さに辟易もした。それでも止められなかった。奈落の底のように、どこまでも落ちてしまいたくなる。意味もなく、どうしようもなく、自分を塵芥のように貶めたくなる。
本の一文が浮かんだ。ひどく自分に似合うなと、それだけを思った。
深く、艶かしいほどに長く、息を吐く。
意識はすぐに沈んだ。
◆◆◆
夜の顔を、男は持っていた。
危険な仕事だとは、自ずと知った。
私の家には、もっぱら仕事が終わってから訪ねるようになっていた。スーツを着崩し、酒に酔って、その日の垢を落とすかのようにシャワーを浴びる。日が変わる前に来ることもあれば、空が白んでから来ることもあった。週に、二、三度の頻度で訪ねてきた。泊まったことは、付き合いはじめて二年が経った今でも、一度もなかった。
抱かれるかは、男の機嫌次第だった。
組み敷かれて力ずくで抱かれることもあれば、こちらに委ねることもあった。変わらないのは、私がいくら求めたところで、求める限りは抱こうとしない。応じてくれないのだ。無理矢理、事を運ぼうとすると、決まって手を上げられた。顔に痣が出来て、職場に休みの電話を入れたことも、片手の指では足りなかった。
好きなのではない。愛ではない。
お前は俺のものなのだ。
殴られた際、いつも言われていた。男にとって、私は愛でるものではない。所有されるものなのだ。これまで、何度も聞かされてきた言葉だ。それが男の本音なのだと気付くのには、それでも時間が掛かってしまった。
ひどい男だと思う。
どうしようもない奴だと、頭では理解していた。
頭だけなのだ。育まれてきた道徳や良心などが、男を否定していた。それは頭の中だけの問題であり、身体や心は別だった。
欲した。
男が私を自分のものだと見ているのに対して、私もまた、男を自分のものにしたかった。
抱いた後、男は決まって泣いた。
子供のように咽び泣くのだ。力ずくで組み敷かれた時でも、事を済ませば泣きじゃくった。幅の広い肩を震わせて、嗚咽を吐き出すのだ。
それが私に火を付けた。
愉悦を煽られた。
情欲という炎を沸き立たせ、淫らにさせるのだ。組み敷かれた時には、逆に組み敷いてやった。こちらに身を委ねた時には、突っぱねて足蹴にして、思い付く限りの罵倒を吐き出した。手を上げたことも、一度や二度ではない。泥のように交わる中で、首を絞めたことも何度かあった。
私は、それが嫌ではない。
男と交わると、私はけだものになる。
淫らで、淫乱で、安物の娼婦のように振舞う。粘つくように腕を回して、男と絡み合う。交わり、犬のように舐め、畜生のような声を上げる。私の中のけだものが、私という皮を破って出てくるのだ。どうしようもない男とともに、私もまた、どうしようもないけだものへと成り果てる。泣きじゃくる男の髪を引っ掴み、汚い言葉を浴びせる。足蹴にして、首を絞めて、思い付く限りの罵倒をする。普段は口にも出来ない言葉でも、躊躇なく吐き出した。
人間はけだものなのだ。
誰もが、内側にけだものを飼っている。
どうしようもない畜生のようなけだものを、人間という皮で覆い隠しているのだ。
男は、すでに隠すことを止めていた。
私は、そんな男にこそ隠すのを止めていた。
交わる時、男と女ではないのだ。二匹のけだものが、貪り合うのだ。片方は泣きじゃくり、もう片方は淫らに求め続ける。嗚咽を上げ、それを罵り、蜘蛛の糸のように絡み合う。汗だくになり、湯気と吐息を一緒くたにして、まぐわうのだ。私はそれが嫌ではない。雄と雌のように落魄れるのは、嫌いではなかった。
落魄れるのを欲した。
淫らになり、どうしようもなくなるのを、求めた。
男も同じだった。
自分を貶めたくて仕方がないのだ。だから、危険な仕事に手を染めている。法律に反しているなど、男には願ってもないことなのだ。どうしようもなく、奈落の底へと堕ちたくなる。地獄の釜へと放り込まれるかのように、坂道を何処までも転がり落ちる小石のように、下へ下へと落ちたいのだ。
昔、偉人が言った。
人間は、放っておけば低いところへと流れていくのだ。流れる水のように、澱みの深い下流へと、流れてしまうのだ。低く低くへ、下へ下へと、落魄れるのだ。だからこそ、そんな本能に抗って生きるのが大事なのだと、偉人は締めくくっていた。
煙草を手に、男が言っていた。
仕事に失敗して、逃げた後のことだった。不味そうに煙草をくわえた顔は、不機嫌なものではなかった。
偉人の話は聞いたことがあった。本で読んだことがあったのだ。
それを伝えると、女の癖にと男は言ったが、手を上げられることはなかった。
下へと往き切った、その先が見たい。
紫煙と一緒に、男はそう吐き出していた。
自分を貶めることを、男は望んでいた。先が見たいと言ったのも、取り繕ってのことなのだろう。言葉を取り繕うところが、男にはあった。私の前では、下らないこだわりでしかなかった。こだわりなど、抱くだけ無駄だと知っているはずなのに、それでも男は抱いている。先を見ることなど、本当は望んでもいないのだ。自分を貶めたいだけなのである。私には、それが手に取るように分かっていた。
矛盾ばかりだ。意味のない鎧で覆われている。
私の前では、繕うなど意味もないのに。
どうしようもない男だった。
頭では理解している。頭だけでは、私の衝動は止められない。
私のけだものは止められないのだ。
それが、私は嫌ではない。
男の唇に、私は唇を重ねた。淫靡な舌鼓が聞こえる。
けだものが姿を現す。ふしだらな自分が見えてくる、想い起こされる。押し倒された時、ベッドの奥からきちきちと聞こえた。スプリングの苦鳴を意にも介さず、男は覆い被さってくる。求めてくる。求められている。だから、求めた。絡み付くように、臭い立つ汗を拭いもせず、交じり合う。まぐわう。
背中に、腕が回される。
強い力だ。絞め殺さんばかりに、締め上げられる。嫌いではない。好きでもない。悦びが、嬌声となって飛び出した。
私の細い身体を、男はあらん限りの力で、抱き締めてくる。
汗ばんだ首筋が、目に留まった。蛇のように舌を這わせる。びくりと、男の身体が震えた。けだものが、鎌首をもたげる。燻りが、一際大きく、燃え上がる。
淫らになる。
人間のように私は淫らになる。情欲に正直な、人間の女のようになる。
女は嫌だった。
今の私はけだものだ。
けだものは、雌で構わない。
首筋に、噛り付いた。甘噛みではなく、強く、引き千切るように噛り付いた。男の身体が大きく震える。背中に回された腕が、一層締め上げてきた。押し潰される。ベッドと男の身体の狭間で、私はそれでも噛り付いた。男の首筋へと、一心不乱に噛り付いた。
鉄錆びに近い臭いが、唇を濡らした。
どうしようもない男の血は、どうしようもなく不味かった。
歯を引いて、傷口を舐めた。接吻のように、吸い付いた。舌先でねぶるたび、男の身体は小刻みに震える。締め上げる腕の力は、一向に衰えない。ベッドのスプリングのように、背骨が軋んでいるのが聞こえた。自分の背中が、きちきちと鳴いている。壊れるほどに、求められている。
丸裸だった。
互いに、けだものを解き放っていた。普段は付けているその首輪を、躊躇うことなく外していた。
心を丸裸にして、けだもの同士、まぐわった。
傷口から、唇を離す。
唾液が糸を引いた。自分の目と繋がる管のようだと、まずそれだけを思った。
男は涙を流していた。
ぐしゃぐしゃに歪めた顔で、それでも私を締め上げていた。私を求めている。いっそ殺されそうなほどに、求められている。堪らない。けだものが、私という皮を破いて、飛び出してくる。泣きじゃくるその嗚咽に、誘われるように、涙を流す頬へと舌を這わせる。そのまま、唇と唇とが重なる。情欲が、抑え切れなくなる。
唇を離して、私は男を蹴った。
踵が胸を打ち、男はベッドから転げ落ちる。無様だった。髪を引っ掴み、男をベッドへと引き戻す。泣きじゃくった顔はそのままだった。それもまた無様だった。落魄れるところまで、落魄れてしまえばいい。男の心は、髪を掴まれた雄のけだものの心は、それを望んでいた。心を読むまでもなかった。
耳元に息を吹き込む。
けだものめ。
私の呟きにも、男は身体を震わせた。子供のように嗚咽を漏らしていた。
けだものめ。
首筋の傷口へと、私は中指を突き込んだ。
悲鳴のような苦鳴とともに、ベッドが大きく揺れる。きちきちとスプリングの鳴く音が聞こえる。耳障りだ。穿るように、中指を曲げた。更に大きな悲鳴が聞こえた。心地良かった。けだものは、男の悲鳴にうっとりと目を細めた。
中指を引き抜く。
どうしようもなく不味い血が、唾液のように糸を引く。
足りなかった。
男が求めたように、私も男を求めていた。
自分のものにしたくて仕方がなかった。
泣きじゃくる男が、仰向けに倒れている。馬乗りとなり、まぐわった。交わりながら、男の首へと手を掛けた。汗が触れ合い、粘ついた音を立てる。首を絞めながら、男の身体へと寄り添った。私の薄い胸が、男の逞しい胸と触れ合う。鼓動が聞こえる、生きている、けだものの息遣いを感じる。
あらん限りの力で、男の首を絞めた。
第三の目で男の心を覗きながら、絞め続けた。
死んでも良いかな。手を緩めた。待ってくれもっと。締め上げた。そうそれだ。緩めた。何故なんだ。締め上げる。お願いだ。締め上げる。お前は俺のものだ。締め上げる。苦しい。締め上げる。落ちる。締め上げる。堕ちる。男の唇に、自分の唇を重ねた。
私の中のけだものは、手を緩めない。貪るように男の口内を味わう。
唇を離した。
首を絞める手は緩めなかった。
心を覗くことは、すでに止めていた。
男の、薄い膜の掛かりはじめた瞳を覗いた。
けだものが映っている。
淫らで、淫乱で、どうしようもない自分の姿が映っている。
短めの明るい紫の髪。髪と同じ色合いの瞳。胸元の第三の瞳。
古明地さとり。
男の瞳に映っているのは、間違いなく自分だった。
首を絞める手は、緩めなかった。
◆◆◆
寝覚めは最悪だった。
地霊殿の自室から、朝日は拝めない。地底深くに届く陽の光など、あるはずもなかった。壁に掛けた時計でしか、時刻を知ることは出来ない。正午を大きく過ぎているのを見て、口から重い溜め息が出た。シャワーもせず、こうして自堕落に寝潰れてしまうことは、あまり経験がなかった。
鉛のような頭が、ひどく煩わしい。
両目の瞼は腫れぼったいのに、第三の瞳はぱっちりと開いている。今日も、さとり妖怪としては健在だった。古明地さとりとしては、不健康であり不健全でもあり、何より不機嫌だった。
本には影響されやすい。
しかし、夢にまで影響を及ぼされたことは、覚えがなかった。
余程、印象に残ってしまったのだろう。本の内容は、外の世界のことが中心だった。人間が織り成す、不安定な感情の奔流を淡々と記した本だ。妖怪が読むには、最も適してないと言っても良い。読書に興味のない妖怪は勿論、興味がある妖怪でも、読み終えるのは難しかったかも知れない。
だと言うのに、途中で飽きてしまうことはなかった。
結果、こうして影響され、夢にまで見てしまった。
内容は、決して好みではない。匂い立つような文体は好みだったが、それでも夢にまで出てきてしまうのは、何か他に理由があるような気がした。本の内容に、呑まれてしまった。そんな思いさえ出てくる。
夢見た願望など、目覚めた自分には全くない。だと言うのに、夢の中の自分は、明らかに淫らだった。
皮を破り、けだものとなった。言い様のない不安と、それ以上の苛立ちを覚えた。
起き上がり、ベッドを見下ろす。
シーツには寝汗程度の湿り具合しかなかったので、そっと胸を撫で下ろした。粗相があっては、ペットたちへの説明に困る。夢の内容を誰かに話すのは、さすがに躊躇われた。要らぬ誤解は招きたくない。
ベッドから立ち上がり、本を手に取った。
夢の原因である。不愉快だったが、不思議と嫌悪感はなかった。
女のようになりたいなど、思い付きもしなかった。
男から、まるで所有物のように見なされ、それでも求めることを止めない。淫らに求めて、けだものを解き放ち、まぐわりながら堕ちてゆく。情欲に正直な、人間を象徴するかのような女だ。少なくとも、夢を見るまでは、それ以上の感想を抱かなかった。抱けなかったと言うほうが、正しいかも知れない。男女の営みには、全く興味が沸かなかった。
自分は、さとり妖怪である。
人並みの営みなど、過ごせるはずもないのだ。
地霊殿に来客はなく、業務はもっぱら動物たちに命じている。同じさとり妖怪である妹は心を読むことを放棄し、今では地霊殿に帰って来ることも少ない。自分は自室に篭もり、本を読み、時には執筆もしている。そんな気侭な生活こそを、最も好んでいる。溺れるように他人を求めたことなど、覚えがなかった。
だから、内容は好みではなかった。
男が求めるもの、女が求めるもの、人間の皮を被ったけだものが欲するもの。さとり妖怪でも読み取り切れないほどの心の動きが、俄かには信じ難かった。自分が今までに読み取ってきた、人間たちの心。その心より、深くとも浅くとも、高貴とも下賎とも読み取れてしまう感情の奔流に、戸惑いを覚えたのだ。
一夜明け、影響の薄れた今なら、落ち着いて考えられる。
淡々とした文体は、好みだった。
上手いとは思う。自信は無かった。文章を上手いか下手かと判断するのは、ある程度の線引きまでなら可能だ。それ以上は、好みの問題だと思っている。
その淡白なほどの文章の合間に、滲み出るような奔流があった。感情か、もっと深いものかは、定かではない。
恐らく、心ではなかった。
自分が読み取れるのは、あくまで心の動きでしかないのだ。人間の前に立ち、第三の瞳で覗き込めるのは心でしかない。頭の中と言っても差し支えはないだろう。古のさとり妖怪は、それで痛い目を見た。人間が、心にも思っていなかった行為によって、足元をすくわれた。
昨夜の夢は、それに近いのかも知れない。
他人など必要ない、本だけで充分。そう思っていたからこそ、本の内容に強い衝撃を受けた。心ではなく、もっと深いのか、或いは浅いのかも分からなかったが、そんな人間の内面に大きく揺さぶられた。男と女のまぐわり、途轍もなくストレートな描写だったからこそ、求めるものの強さ、その奔流に惑わされたのだ。
内容は好みではない、と言うのは適していなかった。
正確には、内容に戸惑った、と言うところだろう。
淡々とした文体は好みであり、上手いと思った。だから余計に、戸惑いさえも信じ切れず、好みではないと錯覚した。そう言った意味では、本の内容に呑まれてしまったという思いも、あながち間違いではなかった。夢にまで見るくらい、戸惑ってしまったのだ。
今の自分に、この本は書けない。
忸怩たる思いではなく、達観するような思いだった。
他人と接することに苦痛しか見出せない自分に、この本のような文章は書けそうにもなかった。想像することは出来る。こうだと予想を立てて、憶測という霧を掻き分けるような真似なら、自分にだって出来る。それくらいには本を読んだし、書いてきたつもりだ。
しかし、男と女のまぐわりだけは、書けそうにもなかった。
夢で見たのも、所詮は夢だ。
目覚めた今となっては、夢の中では匂い立つほどだった男の身体も、おぼろげになっている。顔など全く覚えていなかった。その瞳に映った自分の姿が、やけに印象的だったのは覚えていた。ひどく淫らな笑いを浮かべて、男の首を絞めていた。その感触を思い出すことは、難しかった。
男女のまぐわり。
人間という皮を破った、二匹のけだもの。
本の中には、他にも何人かの人間が登場している。それぞれ好き勝手に、それでいながら一定の秩序を持って、複雑な人間関係を醸し出している。だと言うのに、その文体は淡々としているのだ。いっそ淡白なほどであり、思わず継ぎ足したくなる部分も、幾つか散見された。そして後で、結局は継ぎ足さず、この淡々とした文章にこそ味が出るのだと理解して、天井を仰いだりもした。
本の題名は分からない。
作者とて分からなかった。
人間だろうということは分かる。外の世界について書かれていることから、外の人間だということも想像がついた。それ以上は、読み取ることは出来なかった。男なのか、女なのか。若いのか、老いているのか。健康なのか、不健康なのか。この本を書いた人間は、そのどれもが当て嵌まりそうな気がした。
自分とは違う。
他人を知ろうともしない自分とは、確実に違うと思った。
今の自分には、この本のようなものは書けそうにもなかった。
けれど。
今の自分では無理ならば、未来の自分ではどうだろうか。
普段なら、皮肉っぽい笑みとともに、そんな思い付きなど否定しただろう。他人との関わり合いを忌避する自分が、幾ら年月を経たところで、変われるはずもないのだ。もとより、本の内容にこれだけ縛り付けられることなど、今までには一度もなかった。一夜の夢として、想い起こしたことなどなかった。
本を書いたことは何度かある。
物語も書いた。もっぱら心理描写の豊富なものだ。くどいほどに描写を記すのが、良いとも悪いとも言い難い、文体の癖だった。手に持った本の、淡々とした文体とは、何処までもかけ離れたものだった。
淡々としていたから、上手いと思ったのではない。
淡々としながらも、そこに確かな心理描写と、それ以上の内面を滲み出していたからこそ、上手いと思ったのだ。さとり妖怪である自分でも、思わずその内面に戸惑いを覚えるほどに、滲み出ていた。舌を巻いたのだ、さとり妖怪である自分が。文章描写の可能性と、その深さに。
書きたくなった。
どうしようもなく、本が書きたくて仕方がなかった。
ただ、と思い留まる。
今のままでは、同じになってしまう気がした。今までと変わらない文体で、今までと同じような物語になってしまう。それは決して、悪いことではない。変えないのが大事なことだって、沢山ある。しかし、今の自分はそんな理由で納得してしまえるほど、聞き分けは良くなかった。
ならば、どういったものが書きたいのか。
男と女のまぐわりを書きたいとは、やっぱり思わなかった。第一、それではこの本と、夢で見た光景の二の舞である。淫らに笑った自分の顔が、嫌でも想い起こされる。頭の冴えてきた今となっては、閉口するしかなかった。正直、あんなにいやらしい自分の顔は、あまり思い出したくなかった。
どんなものを書こうか。
答えは浮かばなかった。それでも良いかなと思った、自然と過ごせば妙案も浮かぶはずだ。
しかし、出来るなら。
誰かと関わりを持つような物語を、書きたいと思った。
来客はない。
地底の奥深く、地霊殿に訪れる者は、誰もいなかった。
仕方ないと思って、さとりは息をついた。
来客がないのなら出歩くしかない。旧地獄街道なども悪くないが、いっそ地上へ出てみることも考えた。滅多に当たることのない陽の光の下でなら、その陽光の如く妙案が降り注いでくるかも知れない。一人では心細い、お燐やおくうを連れて行くほうが良いだろう。ついでに、妹の行方を探してみるのも、悪くはなかった。
他人と関わりを持つのは苦手である。
しかし、それ以上に、何かを書くための妙案が欲しくなった。
本の内容に則るならば、自分の中のけだものが、それを求めているのである。男女のまぐわりほど下品ではないと思って、さとりは薄っすらと微笑んだ。
本を机に置き、乱れたシーツを整える。
まずは、シャワーを浴びたかった。猫の毛ような自分の髪は、いつも寝癖が激しい。それでなくとも、今日は外へと出歩きたくなったのだ。色々と準備が必要だった。
自室を後にする。
不意に、地上の風を思い出した。
誰にでも吹いてくれることも思い出して、さとりは笑った。
そんな感じがした
ストーリーと言えるほどの物語性も無く、たださとりが本を読んで寝て夢見て起きて心機一転するだけの話なのに、読み進めるほどにさとりの心情が気になってしまい、あっという間に読み終えてしまいました。
非情に興味深く、面白く読ませていただきました。
やはりさとりは抑制の美が映えますね。
なんせ中学二年生の頃を想起しましたから(笑)