予感、と呼ぶほどのものだったかは疑わしい。
毎日同じように押し開き続けた結果、両開きの二枚の扉の左側にはうっすらとした黒ずみがある。今日もそこに手をあてた瞬間、十六夜咲夜は違和感を覚えて硬直した。
あれ。
何だろう、と思う。
右手に載せたトレーには過剰装飾としか思えないほど意匠を凝らしたティーカップとティーポット。中身は淹れたばかりの紅茶。その横のラングドシャは勿論手作りで「今日のクッキーは美味しいわね」と言われたら「ラングドシャですよお嬢様」と返す予定だ。
完璧である。瀟洒でもある。何も問題ないように思う。
――気のせいか。
頭の中のゴミ箱に違和感を捨てて、咲夜は体重をかけなおし扉を押し開いた。
「珍しいわね。一分も遅いだなんて」
そう言って咲夜を迎えたレミリア・スカーレットの声は広い部屋によく響いた。
幼い声のどこかに椿事を楽しむ音が含まれており、小さな口の端からは好奇心旺盛な犬歯が零れている。
レミリアは掛け時計へ目線を持ち上げて、
「それとも自慢の時計の針が狂ったかしら」
「私の針は狂いませんよ」
レミリアが頬杖を突いて待っているテーブルにトレーを置いて、咲夜は掛け時計へ目をやった。
体内時計を頭の中に呼び出して今の時間を秒単位で確認し、
「あら、このまえ調整したばかりなんですけどまた狂ってますね。そろそろ買い換えたほうがいいかしら」
「なんだ面白くない。期待して損した」
「何か変な期待をしていたんですか」
「そりゃ、里の歴史家が歴史の年号を間違えたら面白いでしょう。永遠亭の藪医者が薬の匙加減を間違えたら笑えるでしょう。そういうこと」
「後者は医者本人が笑ってすませそうで笑えませんわ」
「とりあえず手入れが行き届いてないことと、私に期待を抱かせたことの罪は重い。減給を覚悟してもらうわよ」
「門番にそう伝えておきます」
「じゃあ連帯責任で門番も減給だ」
咲夜は小さく笑って紅茶とお菓子をレミリアの前へ置いた。
「もしかしていつも時間を気にしていらしたんですか?」
「毎日機械のように同じ時間に入室してくるもんだから、いつそれが崩れるのか楽しみにしていただけ。ふむ、今日はクッキーか」
「ラングドシャですわお嬢様」
「そう、ね、知ってたわよ」
注意深く観察しなければ分からない程度にレミリアの頬が紅くなったのを見て咲夜の口元が緩む。
レミリアはラングドシャを口に放り込み、そこに記憶をしまっているかのように天井を見つめた。
「はふやが――」
「はしたないですわ。飲み込んでから喋ったほうがもっと素敵ですよ」
「ん……咲夜が風邪を引いたときだったかな。一度だけ遅れたことがあったね」
「そんなこと、あったでしょうか」
「あったわ。美鈴が慌てふためいていたのを覚えている。何度も寝かしつけようとしているのにもかかわらず、大したことはないと強情にしていた。意識がもうろうとしていたから記憶が飛んでいるのか、覚えてないふりをしているのか」
レミリアはもそもそと口元を拭い、ティーカップへ手を伸ばした。紅茶をゆっくりと飲み込み、ホゥと一息吐いて怪訝そうな顔で咲夜を見つめる。
その視線に気付き、咲夜は小首を傾げ見つめ返す。
レミリアはちょいちょいと咲夜を手招きした。そして、何か重大な秘密を打ち明けるかのような深刻な表情で、ちょこんと小さな舌を出した。
「あ」
真っ赤な舌の上に、銀色の髪の毛が紅茶と唾液に濡れて光っていた。
レミリアの目尻が愉快そうに垂れた。更に舌を突き出して何か言いたげにじっと待っている。
「申し訳ございません」
咲夜の言葉を受けてもレミリアは無言。舌を突き出したまま固まっている。
どうやら、取れ、ということらしい。
舌の上から銀色の髪の毛をつまみ上げようと恐る恐る差し伸ばした咲夜の指先が熱に触れる直前、レミリアは舌を引っ込めて髪の毛を飲み込んだ。
「……お腹壊しますよ」
「面白い。紅茶にこんな隠し味をしてくれるなんて初めてじゃないかしら。何かあったの?」
「……月の日で」
「それは先週でしょう」
「なんで知っているんですか」
「咲夜から美味しそうな匂いがするんだ。ああ、別にくれと言っているわけじゃないんだから睨むなって。冗談よ」
咲夜は深々と息を吐いた。
「もしかしたら知らないうちに疲れが溜まっていたのかもしれません」
「嘘ばっかり。こっそり時間を止めて昼寝しているのは知っているのよ。見ろ、その肌の潤いはどう考えても十時間は寝た人間の――あれ?」
レミリアは咲夜の手首を掴んで手の甲を撫でた。
「なんかカサカサしてる。本当に寝不足か何か?」
「えッ!」
咲夜は、不意に熱い物に触れたかのように手を引っ込めて、レミリアに触れられた部分を発火する勢いで撫でた。
今日は六時間ほど時間を止めて休息を取ったはずで、心身ともに万全のつもりだった。
万全のつもりだったのに、紅茶に髪の毛が入っていることにも気付かなかったのか。
唐突に、先程感じた奇妙な違和感が、黒々とした予感となって咲夜の中に広がっていった。
咲夜はもう一度掛け時計へ目をやる。そして引ったくるようにポケットから懐中時計を取り出して時間を確認し、
「ちょっと失礼しますね。まだやることが色々と残っているので」
軽く頭を下げて踵を返す。
トレーをテーブルの上に置き忘れていたことに気付いた。が、そのまま歩き続けた。
「咲夜」
退室の間際に声を掛けられ、
「あの時計は直さないの?」
「……後で直します」
「そう。じゃあ、あとでクッキーのおかわりを持ってきてね」
扉を引くと、背後でレミリアがティーカップをソーサーから持ち上げた音が聞こえた。廊下の空気が流れ込んできて咲夜の前髪が揺れる。早歩きで部屋を抜ける。扉が閉まる気配を背中で感じる。
――――ラングドシャですわお嬢様。
そんな軽口が、出てこなかった。
扉越しの視線から逃れでもするように、離れたところで廊下を曲がってから、咲夜は左手に握る懐中時計をもう一度見た。
自分が知覚する時間の流れとは、絶対に狂わないはずの体内時計とは明らかに違う、そこから一分も進んだ時間が刻まれている。
その〝ずれ〟に、はっとするのと――――目の前に突然現れた小さなこうもりが、ぽん、とはじけるのは同時だった。
明るめの紅をした煙がほこりをはたいたように広がって、すぐに空気の中に溶けてゆく。
しかしびっくりするほどでもなく、むしろ咲夜にしてみれば慣れたこと。ほんの一瞬前には黒いこうもりだったものが、今は四角く形を変えてじゅうたんに落ちた。
主がときおりいたずらもかねて飛ばす、伝言の使い魔だった。その場で面と向かっては伝えずに、こうやって手紙で追いかけるのがかわいいと思っているらしい。
ひろい上げたその封筒は、やはりいつも通り、これまた小さくこうもりをかたどった封がしてある。
こころなしか、普段よりも分厚い気がして、咲夜はちょっと首をかしげた。ささいな用事の書かれた手紙が一枚入っているのではなさそうだ。
ついさっきまでの焦りにもにた気持ちが、好奇心で隠れてしまう。
それでも、恐る恐る封を切ると、中からは綺麗に折られた手紙が一枚、それから、すこし厚手の紙が一枚。
咲夜が先に目を通したのは、見慣れぬ厚紙の方だった。
「……招待状?」
特徴的な、レミリアの流れるようなペン遣い。血のように赤々としたインク。
しかし咲夜の首をかしげさせたのは、何よりも不思議なその内容だった。
確かに、招待状には違いない。
何へ? ――――誕生会へ、だ。
誰の? ――――〝運命〟の、だ。
「運命……」
確かにそう書いてある。輝かしき運命の誕生、その祝いの席へ招待する、と。
ふと、咲夜は頭の中でカレンダーを経めぐらせた。誰か誕生日だったかしら、と。けれども大事な館の主たちの誕生日であれば忘れているはずもなく、これといって招待状の日付に心当たりはない。運命と言うならまっさきにレミリアが浮かぶけれど、主人の一大イベントを、まさか咲夜が忘れるはずもない。第一の不思議。
それからもうひとつ、誕生パーティの日時がおかしい。そこには、夜行性の吸血鬼ならまずあり得ない時間が書いてある。ただでさえわがままな夜の女王が、どうして自分に都合の悪い様な時間にパーティを催すのか。もちろんレミリアだって万年夜行性というわけでもなく、昼間にふらりと広い幻想郷へくりだしてゆくこともある。けれど紅魔館での催しは、たいてい夜と相場が決まっているのだ。第二の疑問。
いくら完全で瀟洒なメイドとはいえ、そこから読みとれる情報が少なすぎてはどうしようもない。
もやもやした気持ちはそのまま、一度赤々とまぶしい招待状を咲夜は封筒にしまった。きっとヒントは、もう一枚の手紙のほうにある。
手触りのよい、館ではレミリアだけが使っている紙。三つ折りにして丁寧な折り目がつけられていた。
開く。
先ほどと同じ筆跡だが、ややくだけた感じのある文字が躍っている。どちらかと言えば、咲夜になじみのある主の筆跡だ。
そこにつづられていたのは、ごくごく単純な、けれどもレミリアらしい事務連絡だった。
すなわち、パーティをするからメイド長として準備すること。万事その準備はぬかりなくすべきこと。紅魔館の皆を招待すること。そして、何より咲夜自身が常に完全で瀟洒たるべきこと。
運命。それが何かは、一言も触れられていなかった。
「輝ける、運命。その誕生会」
自分の理解しやすい言葉にして、もう一度反芻してみる。
ただの気まぐれにしては、すこし、毛色が違う気がした。もしや、自分の〝時計〟がずれていたのを気にかけた主が、急いで咲夜の気を紛らわすような行事を思いついたか。
招待状をもう一度取りだしてみる。きっと、何日か前に用意したに違いないものだった。
となれば、それは、何よりも優先すべき主命ということ。
「忙しくなるわね」
問題山積。
けれどまずやるべきことは、自分の〝時計〟を直すことなのだろう。
紅魔館の地下には常軌を逸した広さの図書館があり、そこを根城にしている者へ紅茶を持って行くのは咲夜の仕事だった。理由は簡単である。キッチンから持って行く間に紅茶が冷めるので、時間を操れる咲夜が適任なのだ。
背の高い本棚が整然と並んだ区画は神経質な迷路と何ら変わらず、雑然と並んでいる区画は今日もまた整理を命じられたメイドたちの手によって配置が変えられている。天井には『がんばれ泣くな』と書かれた迷子になったメイドを励ます貼り紙があり、迷子になることを前提にしているメイドの仕事ぶりに、咲夜はいずれ自分が何とかしなければならないだろうと覚悟だけはしていた。
「……夢見が良くない?」
図書館の中央。
動かない大図書館ことパチュリー・ノーレッジは抑揚のない声で咲夜の言葉を繰り返した。
「正確に、そう、とは判じかねますが。なにぶん初めてのことで戸惑っております」
咲夜が個人的な用件でこの日陰の魔女と話をする事は少ない。
もっとも、世間一般を知らぬ頭でっかちのきらいがある彼女への個人的な相談は、実入りが少ないのではという思いもある。
「夢見る少女なのね」
くすりとパチュリーが笑う。
音のするくらい勢いをつけて、ぽむ、と本を閉じる。パチュリーは眠たそうな瞳を持ち上げ咲夜の顔を見た。
平時から人の話を聞くときにも本へ目を落としているパチュリーが本から目を離したことに咲夜は少しだけ驚いた。
「何と言うか、あなたってば、人間じみてないでしょう? 夢見なんて言葉とは、あまり結び付かなかったわ」
「そうでしょうか、私ほど人間らしい人間もいないと思っているのですが」
「ふふ、なかなか面白い冗談ね」
あまり超人の如く認識されるのも、正直困りものである。
こと咲夜は、自分が人間である、という事への思い入れが強いだけに。
「それにしても仕事も手に付かないほど咲夜を困らせるなんてどんな悪夢かしら」
パチュリーがテーブルの端に追いやられた焦げたスコーンへ目を向けた。咲夜が紅茶と一緒に持ってきたものだった。どうぞ召し上がれとテーブルに置く瞬間までスコーンが焦げていることに咲夜は気付いていなかった。
憔悴しきっていた。目の下には化粧でも誤魔化せないほどクマができているし、充血した目はどんよりと赤黒く濁っている。寝ようとはしているのだが、その度にとんでもなく恐ろしい夢を見て飛び起きてしまう。
「夢の内容ははっきり覚えている?」
「いえ……」
「じゃあ霊夢じゃないわね」
「私は咲夜ですわ」
「霊夢っていう夢があるのよ。神託が下るありがたい夢らしいけど、幻想郷には安っぽい神様や迷惑な神様ばかりであんまりありがたくないのかもしれないわね。それに内容を忘れているようじゃその類でもないでしょう。すぐ忘れてしまう霊夢なんてまるで意味が無い」
「私は、夢の意味を問いたいのではありませんわ。お嬢様のお給仕に差し支えがあるので、パチュリー様の魔法で、この夢見の悪さをどうにかしていただけないかと」
「魔女の実用的な活用ね」
「申し訳ないとは、思っておりますわ」
「いいけど。あなたの体調が良ければレミィは喜ぶだろうし、私も美味しいお菓子を食べられる」
「私の為には、思って下さらないのですか?」
「『他ならぬあなたの頼みだから』なんて言って欲しい?」
「もう。パチュリーさまは意地悪でいらっしゃるのですね。お嬢さまのためにお願いするに決まってるじゃありませんか。私は永遠にお嬢さまのしもべですわ」
心なしか頬を染めて、咲夜は誇らしげに言った。
「あなた、それが言いたかっただけでしょ」
パチュリーは溜息一つ吐き出してから、テーブルに置かれていた呼び鈴を、リン、と鳴らした。
すぐにパタパタと羽を揺らして小悪魔が現れた。パチュリーに呼ばれたことが嬉しいのか、来る途中にお金でも拾ったのか、やけに上機嫌に見える。
「小悪魔。あなた、あの天狗の新聞を取っていたかしら」
「えー! パチュリー様いらないって言ってたじゃないですか。窓ふきに使って捨てちゃいましたよ。あ、咲夜さん知ってました? 新聞紙って窓を拭くのに便利なんですよ」
「あれはいつだったかしらね。花の異変のあたり……薬師を扱った記事があったはずよ。持ってきてちょうだい」
「第百十九季、師走の一ですね。少々お待ちください」
駆け出す小悪魔の背中を見届けてから咲夜はぽつりと、
「……窓ふきに使って捨てたんじゃ」
「嘘よ。ここに窓なんて無いもの」
しばらくして小悪魔が新聞を片手に戻ってきた。パチュリーはそれを受け取り、
「あなたのその用件なら、私に頼むより適任がいると思うわ」
ひろげた紙面に細い指が示す先。
「これね。さながら竹林に住まう貘、と言ったところかしら」
「胡蝶、夢丸?」
そこにあったのは、悪夢を晴らし寝覚めの良さを謳う「胡蝶夢丸」なる薬を開発した薬師――――八意永琳の記事であった。
「淫夢でも見られそうな名前のお薬ですね」
「咲夜なら見ても可笑しくないのかもしれないわ。そういうの好きでしょう?」
「そうかもしれませんね」
咲夜はくすくすと微笑んだ。白い頬には僅かな赤みも差さない。
面白くないと小さく鼻を鳴らしたパチュリーは、喋りすぎて乾いた唇を冷え切った紅茶で湿らそうとティーカップへ手を伸ばした。
瞬間、口を付けるには熱すぎる淹れたての紅茶へと変わっていた。
「冷めていましたので」
「意地悪」
伸ばしていた手を引っ込め、
「とにかく、レミィには私から伝えておくから、気になる内に行っておきなさい」
「永遠亭にですか? 気が進みませんわ」
「無理にとは言わないけれど」
「そういえばタケノコを切らしていましたわ」
「はいはい」
読み終えた新聞を小悪魔に手渡す。小悪魔はそれを受け取ると、さも重要な、それこそ家宝かなにかでも扱うように丁寧に持ったまま、本棚の森へと消えて行った。
「あれって文々。新聞ですよね? あんな大事に扱う資料でしたっけ」
「小悪魔の言動を素直に受けとらないことね。まあ敬うべき資料じゃないけど、捨てるほど無価値でもないわ。真実が書かれているのなら、どんなに低俗な文章でも知識になるもの」
「知識、ですか」
「そう。『知は力なり』よ。覚えておくことね。そして、夢もまたその知のひとつの表れであると言うことも。夢は、記憶という脆弱な経験の集積からも切り捨てられた哀れな力の残滓よ。けれどそれを知ることは、やはり力となるに違いないの」
「相変わらず難しい話ですね。ちっとも耳には残りませんけど」
「だったら肝に銘じておきなさい」
「その言葉、なんだか痛そうで嫌いなのですよ。でも、気が向いたらやっておきますわ。それでは」
ふわり軽い一礼を残し、咲夜は図書館を後にした。
つかの間の人声が絶え、静寂が舞い戻る。日陰の魔女は深く息を吐いた。小悪魔の遠ざかる足音に、耳を澄ませるが如く。
熱かったはずの紅茶はメイドがいなくなるのと同時に冷たいものに変えられていた。再びカップへ手を伸ばし、じっと視線を注ぐ紅茶の紅が、色素の薄い彼女の瞳を彩っている。
一言。誰にも気づかれぬほどか細い声で、魔女は言った。
「さて、どう転ぶかしらね……」
誰に向くでもなく、そのひとことはぽろりとこぼれた。
「行ってらっしゃいませ、咲夜さん」
紅魔館の門番、紅美鈴の見送りを受けて、群青と茜の混じる空に、咲夜は飛び立つ。
少しばかり肌寒い風を感じながら、目指す迷いの竹林へと、真っ直ぐに向かった。
広大な紅魔館を一人で支えるメイド長が暇を手に入れたのは、既に日が半ばまで沈みかけた頃だった。
パチュリーに相談してから今まで、咲夜は薬に頼らずこの状況を改善出来ないものかとあれこれ思案し、試して来た。
迷いの竹林に着地した咲夜は、改めて自身の行動と検証を振り返る。
手を止めなければ問題無い、考える隙さえ与えなければ問題は無い。
ただし、少しでも手を止めてしまう作業――例えば紅茶を淹れる時に、無意識の内に目の前の事が見えなくなり、霞の様な夢が視界に重なってしまっている。
その所為で、今度は5秒早かった。お蔭で今日のレミリアはご機嫌斜め30度である。
思考に自由な時間が持てないというのは、予想外に面倒な事だと、咲夜は永遠亭への道を急いだ。
咲夜が永遠亭を訪れるのは初めての事ではない。
異変解決の為乗り込んだ事も有れば、花の異変の情報を探しに乗り込んだ事も有る。基本的に咲夜は健康なのだ。妙な用事でしかやってきたことがないのは、仕方ない。
しかし今回は客として、一種の病人として永遠亭の門戸を叩く。
「すみません、診察を受けたいのですが」
追い返されるかしら――そんな予想に反して待つ事数秒、現れた一人の兎妖怪に案内されて、閑散として無機質な部屋の中、医者の前に咲夜は無事通された。
椅子に腰掛けカルテを眺める、落ち着いた雰囲気と対照的にやや派手目な服の女性。幻想郷屈指の医術を心得ている彼女の名は、八意永琳。
「あら、貴女は確か吸血鬼の所の……」
「ええ、そうです」
咲夜と永琳は、回数は多くないが面識は有る。敵として医者として、狭い幻想郷にしてようやく顔を知られる程度ではあるが。
「見た所急患という訳でも無さそうだけど、これといった体調不良にも見えないし……わざわざ永遠亭に来るなんて、何か有ったのかしら?」
永琳は、すぐにこの患者を何か訳有りと見たのか、姿勢を正して聞き始めた。
元々幻想郷では、永遠亭に住む兎達が人里や妖怪の家々に薬を常備させている為、大抵の病気なら此処に来るまでもなく対処出来るシステムが在る。
そうでなければ置き薬では対処し切れない重病奇病か、患者ばかりの多い流行り病かのどちらかだろう。
そして永琳は、どうやら咲夜を前者と踏んだらしい。
はたしてその通りだから、話が早いと咲夜は喜んで経緯を話し始めた。
数日前から見始めたよく分からない夢、仕事への影響、夢に干渉する薬を新聞で知った事。
咲夜が全てを話し終える頃には、永琳は考え込むかの様に机に身体を向けて、開かれていたノートに咲夜の症状を走り書きしていた。
「なるほど。天狗の新聞も薪代わり以外に役に立つ事も有るのね」
何処も似たようなものか、と咲夜は苦笑する。新聞の末路は暗いが、二度楽しめるとなれば得した気分になれるだろうか。
永琳は少し考えて、戸棚から紅色の丸薬の詰まった瓶を取り出す。これが胡蝶夢丸なのだろうと、咲夜の視線がその瓶を向く。
「一回三錠。といっても貴女は人間だから、一錠にしておくべきね」
「随分あっさりと処方してくれるのですね。てっきり特別な事情の無い限り頂けないと思っていたのですが」
「そんな特別なものを宣伝したって意味無いじゃないの。貴重な物でも無いし、欲しければ誰にだって渡すわよ」
夢、つまり本人の意識に介入する程の薬を簡単に処方すると言ってのける自信の根拠は、永琳への悪評の無さがその信頼性を証明している。
「だけど、人間への処方ってあまり多くないの。だからもし良ければ使った感想を聞かせて欲しいのだけど」
つまり、妖怪向けの薬の人間モニターになって欲しいという申し出らしい。無料という口車が無ければ咲夜は断っていただろう。
咲夜が了承すると、永琳は笑顔を振りまいて、咲夜に何をするべきか、何を伝えるべきかを示す。
夢の変化はどうだったか、寝起きは良いか悪いか、副作用は無いか等、個人のプライバシーに触れない程度にと前置きして項目を並べていく。
数は多くなく、無料という条件も決して悪い訳では無かった為咲夜は了承し、胡蝶夢丸の詰まった小袋を手に永遠亭を後にしたのだった。
「…………」
もう何も言う気も起きない。咲夜の見る夢は昨日より曖昧になって、その形を現していた。
こんな事になるなら永遠亭になど行かなければ良かったと、これから先も、正体の分からない夢に苛まれる自分を想像して気分が沈む。
確かに胡蝶夢丸を呑んだはずだった。用量も守り、他の薬を併用するといったミスも犯していないのに。
「……嫌な夢」
昇る朝日を鬱陶しく感じて、咲夜はその原因に向かって悪態を吐く。その原因が自分の中に有るだけに、余計に腹立たしい。
日常的に気を散らす正体不明が、従者としての自信を削り取っていく。
何せ、咲夜は胡蝶夢丸に頼っても、この夢を見てしまっているのだから。
薬師の才は彼女とて認めている。薬に関して永琳に間違いが無いとするならば、残る原因は自分だろう。
分かりきったその答えが、重く、重くのしかかる。
こんな形でも見る夢を、気にするなという方が無理な話だからだ。
しかし夢に心身を苛まれるのもそうだが、それを気にするあまり主レミリアの不興を買う事の方が咲夜には恐ろしく、また不安だった。
こうなってしまっては、矜持も何もあったものではない。再び永琳の元を訪れるのに、もはや躊躇はなかった。
「そう、確かに奇妙と言えば奇妙ね」
再び訪れた永遠亭と永琳の診察室は、変わらず閑散として無機質だった。
咲夜は前回に同じく永琳を目の前に座っている。
「奇妙と言わなくても奇妙ですわ。用量が少な過ぎたのではないのですか?」
そんな素人考えを述べてみる。モニターと言えば聞こえは良いが、要するにモルモットみたいなものだと咲夜は思っている。
ならば薬に全くの問題はなくとも、処方に多少の誤りが出るとも限らないではないか。
けれど永琳は顎に手をあてた姿勢のまま、無表情に首を横に振る。
「それは無いわね」
「どうして?」
「いかに少量とは言え、夢を見ればそれなりに精神への干渉がある筈なの。快不快で言えば、快の方へ。夢を見ている限りは、必ず」
だから不快が増すとか、現状維持とか、とにかくそうなるのはおかしいのだと言う。
ならば、やはり投薬を受ける自分に何か原因があるのか。
咲夜の開きかけた口を制したのは、永琳の一言だった。
「となると、理由は明快ね」
「……なぜ?」
永琳は、聡い。
咲夜が二重に疑問符を込めた「なぜ」を、彼女は汲み取った様だった。
微笑みがその自身を裏打ちする。
「明快じゃない。あなたが見ているものは、夢ではないからよ」
「……そう、なのですか?」
「簡単なことよ。人が夢を見る事、そして胡蝶夢丸が良夢をもたらす事。二者の関係に関するたった二つの前提と一つの仮定のみで、自ずと前者の否定は証明されるわ」
「そういうものかしら」
「そういうものよ。えらく古典的な論理学だけど」
そう言って永琳の示した証明のメモは、咲夜にはただの、無意味な記号の羅列でしかない。
A⊃B、¬B、A、B、B∧¬B、¬A……
その羅列だけで「夢を見ていない」という事の正当化を済ませたというなら、いささか煙に巻かれた心地は否めない。
けれど、自分で他に理由が見つかるでもなし、咲夜はそれを事実として受け入れることにした。
宙を掴むような、危うい事実であったけれど。
「じゃあ、夢ではないとして、『あれ』はなんだと?」
漠然とした、何か。心身を苛む不安。そして、求める様に伸ばされた腕の先にあるもの。
永琳は、淡々と答えた。
「そうね。一つには、純粋に『記憶』が再生されているというのが考えられるわ。あとこれは無いと思うのだけれど、幻覚の類」
「記憶……」
「ひょっとして心当たりはあるかしら」
覗きこむように近づいた永琳の顔に、咲夜は僅かな動揺を覚える。
けれど常の様にそれは仮面の如く動かぬ表情の下へ押し隠し、ただ言葉を紡ぐ。
「あるとも言えるし、無いとも言えるわ」
「あら。それじゃあルール違反よ」
「ルール違反?」
「イエス、ノーの二者択一で答えてほしいの。曖昧は認められないわ」
まるで会話を相手のレヴェルに合わせようとしないのは、天才ゆえか。
聞いたこともない言葉をこれでもかと並べられて、はいそうですかと納得できるはずが無い。咲夜が不快感を眉間に露わにしても、永琳は遠ざかる事なく。
咲夜は呆れ顔と共に、溜息一つで諦めた。
「私、記憶が無いんですの。お嬢様にお仕えする以前の事は、何も……」
「記憶喪失?」
「そういうのではないと思いますわ。お嬢様と共にあるのに必要ないから忘れたんだと、私てっきり」
「そんな事、あるわけないじゃない」
今度は永琳が呆れ顔をする番となる。
やれやれと首を振ると、彼女の顔がすいと離れた。不思議と安堵が咲夜を包む。
しばらく思案気にしていた永琳だったがやがて席を外し、部屋の周囲にずらり並んだ薬棚に向かった。
どこの棚の引き出しに何があるのか、目録など使わずとも彼女はいちいち記憶しているらしい。
迷いなく一つの引き出しを開き、彼女が取り出して来たのは怪しげな小瓶であった。その中には硝子を通じて黒い錠剤が詰まっているのを窺える。
「お里帰りをする勇気はある?」
挑戦的な目つきだった。
胡蝶夢丸と対を成す夢の薬、服用した者の意識に想う悪夢を現す薬だという。
「悪夢というのは、見た人の意識の中、記憶として引き出せない程の記憶の底で想う不快な夢の事。貴女の見るものが貴女が失った記憶の中に有るという事なら、その記憶を引き摺り出してやれば良いわ」
前代未聞の荒療治だけどね、と永琳は苦笑する。
そして差し出される掌には、黒い錠剤と一粒のカプセル。永琳の説明では、即効性の睡眠薬の様なものらしい。
「悪夢があなたの失われた記憶であるというなら――そして貴女がそれを知りたいと思うなら。痛みは伴うかもしれないけど、一つの手であることは確かよ」
その為の、記憶のお里帰り。それは永琳なりの諧謔だったのだろうが、それが咲夜に伝わる事は無く。
一瞬の逡巡の後、咲夜は黙然と首肯するに留まった。
永琳は、けれども満足そうに頷きを返す。
「……行ってらっしゃい」
診察室のベッドに横たわり永琳に処方された薬を嚥下すると、意識の闇はすぐ咲夜を呑み込んで行った。
最初に思った事は、目が見え難くなったという実に暢気なものだった。
目を開けても光を感じられず、端の方に靄の掛かった映像を直接認識しているかの様で、不快に思う余地も無い。
それも視覚だけではない。手足も無く耳も無く、まるで目と脳だけの姿で浮いている生き物になってしまった、そんな錯覚さえ覚える。
それでも、十六夜咲夜の意識は確かにその世界に在った。
自分が夢を見ているのだと分かる、明晰夢の様に夢の中に在りながら意識を確立出来ている。
悪夢を見る薬の作用か、咲夜自身の意識の持ち方の所為か、どちらにしろ意識しか持てないこの状況は中途半端に過ぎる。
何かが有っても触れられない、何か起きても耳で聴き取れない、まるで無声映画を見せられている様な気分だ。
それが意識を視る事だと言われれば、理解は出来ても納得は出来ないと言い切れるだろう。
あるいは、もう少し良い状況を求めても罰は当たるまいと。
やがて、咲夜の視界は一人歩きを始める。
咲夜自身の意識はこの世界を見て回りたいと思っている。それに合わせているのか、映像はあちこちに揺れて、単調な世界を映し出している。
その世界に色彩は無く、真っ白な景色の中に雑多な黒い線が輪郭を浮かび上がらせている、何も分からないのに不思議と心に焼き付けられる光景が流れて行く。
今の咲夜が見ているものが、悪夢だという事が信じられない程、平和で簡潔な夢。
等間隔に聳え立つ黒い四角形の並ぶ道を、咲夜の意識は真っ直ぐに漂って行く。
何処かの街の様にも見られるが、咲夜には見覚えは無い。 幻想郷にはこんなに無機質な街並みは存在しない。
そうして漂って行く内に、道幅が少しずつ狭まって来ていた。
ゆっくり確実に、身体を押しつぶされていく様な圧迫感、真っ白な建物の壁は近過ぎて黒い輪郭が見えない程になり、その白さ故に逆に何処までも見通せそうな壁が、視界を狂わせる。
視界の両側から迫る色の無い壁は際限無く押し寄せ、終には道を殆ど塞いでしまった。
その隙間から奥の様子を覗く様に視界が寄る、壁の向こう側には怖気立つ様な黒いぐるぐるやもじゃもじゃが、楽しげに蠢いている。
不規則に絡み合うそれを見て初めて、咲夜は自分が悪夢を見ているのだと実感させられた。
黒いぐるぐるやもじゃもじゃから逃げる様に視界が右往左往する。 まるで、見たくない、見たくないと叫んでいる様。
しかし、簡潔な形で在るが故に、蠢く不気味な物体は記憶にこびり付き、離れてはくれない。
無理矢理振り払おうと、視界は動きの速さを増して行く。 目が千切れて飛んで行きかねない程、一心不乱に。
そして振り返った先に、『それ』は存在した。
白と黒の世界の中で、それだけは記憶に有るものと全く同じ、灰色の靄が掛かった様な何かのままだった。
咲夜の視界が『それ』と対峙する、黒いぐるぐるやもじゃもじゃとは違う、ただ曖昧なだけの灰色の何か。
大事なものならばこの手で抱き寄せよう、必要の無いものならばこの手で振り払おう。
咲夜の意思に応じてか、自分の手だと認識出来る何かが『それ』に向かって伸びる。
その指先が灰色に触れて、その一点から溢れ出す様にその何かがその掌に収まる。 灰色の靄からその一部を毟り取った様な光景だ。
片手に収まった小さな何かに視界が留まる、未だ靄のままのそれを見たとしても何にもならないのではあるが、少しの間、見蕩れていた。
そして、視界が再び正面を向いた時には、既に『それ』は跡形も無く消え去ってしまっていた。
音も無く気配も無く、ただそこから居なくなった瞬間を切り取られたかの様に、『それ』は視界から姿を消した。
その後に残されたのは、右手に収まった灰色の欠片と、何処までも広がり続ける白と黒じゃない、緑と紅の道。
そして、手に握る灰色の何かが、少しずつ形と質量を持った何かに変化していくのを、直接感じる。
取り戻した現実の感覚は、悪夢の終わりを告げていた。
夢の終わりは得てしてけたたましい音の中であるとは、誰の言葉か。
身体から離脱した幽体が元に戻る様に、意識だけが夢の中から自分の身体へと戻る。 騒音どころか足音一つ無い静かなものだ。
寝覚めははっきりとしていて身体も軽く、記憶も問題無く残っている。 天才医師は睡眠薬一つにも手を抜かない様だ。
「お帰りなさい」
ベッドに横になったまま首を傾けて見れば、傍らには永琳が椅子に腰掛けて咲夜を見つめていた。
そこで咲夜は気付く、カーテンレールで区切られてはいるが此処は診察室、いつ患者が訪れても不思議は無い筈。
「もしかして、ずっと看ていてくれたのですか?」
「元々此処に来る様な患者は少ないし、来ないに越した事は無いもの。 ――それに」
永琳は身を乗り出し、手元の時計を咲夜の目の前で持ち、その針を見せ付ける。
「きっかり一時間」
眠る前に見た時より短針一つ分回った時計が、咲夜の目の前にぶら下げられていた。
「……成る程、夢の良い所で目覚めさせる薬なんですね、それは」
「人聞きの悪い。 これは夢を見させ過ぎない為の薬よ」
つまり、起きる時間が分かるのなら付きっ切りで居る必要は無いという事でもあるらしい。 単純な事ながらその技術力と応用力は並外れている。
得意気に時計を元の場所に置き、永琳は椅子に戻り診察を続けた。
「それで、何か自分の知らないものを見る事は出来たかしら?」
正直な所、咲夜の見た夢は何処までが正しいのか、見当が付かなかった。
吉夢でも悪夢でも同じものが見えるのだとしたら、それは永琳の言う通り夢ではないのかもしれない。
噛み砕いて話せるものでも無ければ、纏める余地も無い曖昧過ぎるものを話しても良いものなのか。
一笑に付される覚悟で、咲夜は夢に見た通りの事を伝えた。永琳の能力を信頼して、一切を包み隠す事無く。
「……そう」
何も言わずに咲夜の話を聞いていた永琳は、咲夜が話し終えてもその一言のみを呟き、何かを考え込んでいた。
聡明な彼女でさえ悩むのも無理は無い。見た本人ですらよく分からない曖昧な所だらけの夢物語を聞かせた所で、そう上手くは伝わらない。
咲夜とて思考を広げられない程頭が悪い訳ではなく、それでも及ばない答えに、それ以下の情報でもって辿り着けるのだろうか。
「悪いけど、貴女の持っている懐中時計を見せてもらえないかしら」
そんな心配も、天才の前には杞憂だったようだ。
咲夜は手に持っていた懐中時計の鎖を外して永琳に預ける。咲夜にとって非常に大切な物だが、永琳は信頼するに足りる人物だ。
「ちゃんと返してくださいね」
嫌味でも釘でも無い挨拶を、朗らかに添えて。
銀色の時計を優しくその手に受けると、鎖をつまんで永琳はしげしげと眺めた。
ゆるやかな回転が文字盤から裏へ、見せる面を変ずる。
「この傷は?」
永琳の細く長い眉が、僅かに寄った。つまみ上げた懐中時計の裏を、彼女はあいた左手で指差す。
そこには引っ掻きまわした跡にも見える、瀟洒な従者の持ち物には不釣り合いな程の傷が残っていた。
鋭利な刃物かなにかが、何度も何度も横に往復したかの様な。滑らかな金属の表面を痛々しげな傷が走る。
その傷を受けた時のことに、咲夜は覚えがなかった。
「さあ、気づいたらあったものです」
「気づいたら?」
「ええ。この懐中時計を手に入れたのは、お嬢様にお仕えするより前の事。だから――」
「だから、手に入れた経緯すら記憶にない。そう言うことね」
言うや永琳は再び懐中時計に視線を落とす。彼女のほっそりとした白い指が、傷跡をなぞった。
「まるで、元からあった刻印か何かを、削り潰した様ね」
「刻印、ですか」
「そう。例えば、あなたの――」
永琳が言い終わらぬうち、診察室の外で騒がしい声が起こった。
通せ通さぬだのの問答が聞こえる。文句を言っているのは先程の兎。そして、それに罵声を投げかけているのは、
「咲夜ッ」
診察室のドアを吹き飛ばさんばかりに、凄まじい剣幕で乗り込んできたのは、他ならぬ咲夜の主。
永遠に紅い幼き月、レミリア・スカーレットであった。
「お嬢様! どうしてこんな所へ!?」
「それはこっちの台詞だ。いったい何をしているの? 私に、一言の断りもなく、勝手をして」
「ですが……」
日夜彼女に接する筈の咲夜でも思わずたじろいでしまう程、レミリアの声音に怒気が満ち満ちている。口答えでもしたならば、それこそ有無を言わさず縊り殺されんばかりに。
咲夜が答えに窮していると、神槍よりも鋭いレミリアの眼光が、今度は傍の永琳へと向いた。
永琳は冷やかな表情でそれを受ける。
「薬師……余計な真似はしない事ね。咲夜は、私のモノだ」
「とんだ誤解ね、幼き吸血鬼。彼女が救いを求めたから、私は手を差し伸べた。ただそれだけの事よ。医者として当然のことをしたまで」
レミリアを見返す永琳の瞳にも、鋭い光が煌めく。凡百の人妖が遠く及ばぬ力を持った二人が、感情も露わに相対しているのである。
診察室は異様な空気に包まれた。
永琳は、しかし語気穏やかに続ける。
「知らなかったかしら? 医師は患者の為、最善を尽くすものなの」
「黙れ。その善人ぶった口を私が引き裂く前に、とっととこの娘に時計を返せ」
「言われなくとも返すわ。ほら」
差し出された懐中時計。
黙って咲夜は手を伸ばした。鎖がじゃらじゃらと音を立て、手のひらにとぐろを巻くように落ちて行く。
その裏に走る傷。消された刻印。猛る主。全てが、夢のように過ぎてゆく。夢――――
ぼんやりと、夢見心地に咲夜が時計を握りしめると、すぐさまレミリアは踵を返した。
「帰るよ」
不機嫌を隠さない一言を残し、驚きに目を丸くする兎に目もくれず。
咲夜は永琳に頭を下げ診察室を後にする。
主の背中はすでに遠く、やけに小さく見えた。
「…………」
騒がしい我儘少女の去った診察室に、永琳は一人椅子に腰掛けて、カルテを眺めていた。
弾ける寸前の力を前に揺るがなかった姿は為りを潜め、既に医者としての彼女に戻りつつある。
その視線の先には、十六夜咲夜と大きく書かれた下に続けて書かれた、彼女の症状。
「師匠! 今吸血鬼が乗り込んで来ましたが、大丈夫です……か?」
静かな一人きりの診察室に、今度は騒がしい兎が飛び込んで来た。
先程までの一大事が永琳に危害を加えてないか、微力な弟子ながら駆けつけてみたものの、既に嵐は去っており、診察室は平和そのものだった。
あまりの静けさに拍子抜けしてしまったのだろう、二の句も告げられずに固まってしまっていた。
「ウドンゲ、診察室では静かにしなさいと、いつも言っているでしょう」
「は、はいっ! すみません!」
ぺこぺこと何度も頭を下げる弟子に見向きもせず、永琳はカルテから目を離して、今度はノートの方へ手を伸ばした。
それを眺める月兎、鈴仙・優曇華院・イナバは、いつに無い師匠の様子に、首を傾げていた。
「――ねえ、ウドンゲ」
一人考え事をしていた鈴仙は、急な呼び掛けに、少し裏返った声ではいと答えた。
「貴女は、運命って信じるかしら?」
「運命……ですか。 どうして突然そんな事を?」
「深く考えなくても良いわ、でも、出来れば是か非で答えて欲しいわね」
そう問われ、鈴仙は黙り込む。永琳に頭の回転で遠く及ばない分、彼女はその裏を考える様にする事で師匠に応えているからだ。
そうして鈴仙の行き着いた答えは、非だった。
既に起きてしまった事を運命だと呼ぶのなら、信じるも何も事実でしかない。
そうとなれば、永琳の言う運命とは、信じる必要の有る運命、つまり未来の事なのだろう。
「……私は信じません。もしも運命が存在するのだとしたら、物を考える意味が無くなってしまいますから」
運命は便利な言葉だと、鈴仙は切り捨てる。
彼女とて重い決意の末に今此処に立っている者であり、その事を運命の一言で片付けられては、腑に落ちない。
「そうね、良い結果も悪い結果も全て運命で括られちゃ、たまらないものね」
その気持ちは、永琳もよく知っている。
無限の未来を持ち、永遠の従者の身を選んだ彼女の決意は、鈴仙のそれに劣らない、自らで掴み取った未来だからだ。
「でも、『事実に基いた未来』が存在するとしたら、それは運命と呼べるんじゃないかしら?」
同時に、運命の存在を否定する事も出来なかった。
概念的な言葉であるが故に、その存在を確実に否定出来る証拠は有りはしない。しかし、物事の陰に必ずその言葉は付き纏う。
永琳も、その言葉の陰の存在を感じ始めていた。
「……分かりません。どうして師匠がご自身で出した結論を、否定する様な事を言うのですか?」
運命は存在しないと、永琳は言った。しかし、存在するとも言った。
鈴仙の疑問に永琳は軽く頷き、簡潔に答えのみを告げる。
「私の犯した過ちは、何時までも私を苦しめる運命だったのよ、って事」
「はあ、私には何の事やら、さっぱりです」
永琳の言葉は、鈴仙の理解を超えている。
元々意味を分からせる気は無いのだろう、永琳はそれ以上を語らず、再びカルテに目を通す。
「それは、後悔しているって事かしら、永琳?」
鈴仙の後ろ、半開きになっていた襖の陰から、透き通る様な声が室内に届いた。
いつの間にか煌びやかな裾を覗かせていた誰かが襖を開き、永琳を一瞥する。
「輝夜……」
姿を現したのは、永遠亭に住む月の姫、蓬莱山輝夜。
鈴仙は慌てて一歩身を引き、師匠の主を丁寧に迎え入れる。
「過去に犯した過ちを悔いるのは止めなさい、永琳。時は戻らないのよ」
覆らない道理を永琳に説く輝夜、傍らで眺める鈴仙からしてみれば、釈迦に説法の様なものだろう。
しかし鈴仙も、言葉を受ける永琳も、何一つ文句を口にせず輝夜の言葉に耳を傾けている。
此処に居る者達は、形は違えど心に陰を持つ、似た者ばかりだ。
「私達に後悔は必要無い、後悔してはいけないの。それは蓬莱人である私達に効く数少ない毒なのよ」
形式ばった輝夜の説教は、長々と続けられる。
心なしか、輝夜の様子が得意気なものに変わって来ているのは、鈴仙の気のせいでは無いだろう。
話している事は正しいが、その態度の所為か鈴仙はまともに耳に入れず、永琳の方に意識を向けている。
輝夜の話に真面目に向き合う師匠の忍耐を、鈴仙は少し羨ましいと思った。
「……話し疲れたわ。鈴仙、そろそろご飯にしない?」
「――――はっ、はいっただ今!」
そして話は唐突に終わり、正反対に向きの変わった輝夜の笑顔の一言で、場の空気が一瞬にして様変わりした。
慌ただしく夕食の準備に走る鈴仙、いつもの雰囲気に戻った輝夜に、僅かばかり安心さえ抱き、廊下を駆けて行く。
二人が残った診察室の、開けっ放しにされた襖を輝夜が閉めて、永琳の傍に歩み寄る。
「それ、何?」
何か有るとは予想していたのか、机の上に置かれていた紙を、輝夜が摘み上げる。
説教の途中で輝夜の目に入り、今の今まで気になっていたものだった。
「そういう事です」
それなりに長さの有る文章を急いで読み進めている輝夜に、永琳が一言付け加える。
その一言以外の事が、その紙に書き綴られており、段々と輝夜の表情が移り変わって行く。
結局たっぷりと時間をかけて読み終え、箇条書きと考察で埋められた紙から目を離す輝夜、その表情に先程までの暢気さは無く、軽い驚きをもって永琳に向き直る。
永琳は一度だけ頷き、そして再びふっと一息吐いて、窓の外の空に目を向けた。
「あの吸血鬼は、どんな運命を掴み取るのかしらね」
「……そう」
二言目は必要無く、それきり二人は黙り込んだ。
疑問と心配の入り混じった顔をしている輝夜の横で、一人物思いに耽り茜色の空を見上げる永琳。
何処と無く寂しさすら透けて見えるその様子は、賢者にはとても似合わなかった。
『……貴女、私に――しに来たの?』
『――? ……何の事?』
『何の事って、私の台詞よ。 どうして貴女は此処に居るの』
『分からないわ』
『……面白いわね、貴女。本当に面白そうだから、私の元に居なさい』
『いいの?』
『ええ、良いわよ。尤も、この悪魔の館に居座る勇気が有るのなら、だけど』
薄暗い部屋の中、レミリアは一人自室のベッドに横たわり、虚空を見つめて物思いに耽っていた。
天蓋に思い浮かべるは、彼女の信頼する従者、十六夜咲夜の慄く顔。
そして今、思い返す事は彼女との最初の思い出にして、ただ一つの綻び。
「なんで、なんでこうなるの……!」
こんなはずじゃなかった。レミリアが望む〝運命〟は、こんなものじゃなかったはずなのだ。
レミリアの能力が、〝それ〟を捕まえたのはほんの数週間前のことだった。
運命を操る能力――彼女の瞳がとらえるのは、様々にこの世界の過去現在未来で絡み合う運命の糸だ。それを、あるものはつなげ、あるものは捨て去り、今のレミリアが紡いできた栄光があった。
もちろん、レミリアは全知全能の神ではないし、運命は彼女が操りきれるほど単純でもない。見通しのきく運命もあれば、まったく見えないものもあって、それらを自由に取捨選択できる能力こそが、レミリアに与えられたちからだ。運命を操る程度の能力だ。
そのちからを、信じて、選んだひとつの運命の糸。
きっと、わくわくする何かがあるはずだった。招待状に記したあの日、紅魔館で盛大な催しが開かれる。そしてそれは、紅魔館の未来を大きく開くような出来事になる。少なくとも、そう視えた。
だからこそ、その運命の糸をレミリアはつなげたのだ。
なのに、どうして。
部屋の隅に投げ出された、リボンの巻かれた小さな箱に、レミリアの視線が留まる。
ほんの数日前まで、あの箱を眺めては咲夜の喜ぶ顔を思い浮かべていたものだった。その為の準備や小道具も、レミリア自身が行ってきたものだ。
そのなれの果て――――外箱がぐしゃぐしゃに潰れたプレゼント箱や、引き裂かれた飾り付けだったものは、あまりにも滑稽で、見る度に惨めな気分にさせられる。
楽しくなる筈だった運命は、瞬く間に刃と化してレミリアの心を刺していく。
その思い出から逃げ出したくて、レミリアは柔らかい枕に力いっぱい顔を埋めて、唸る。
思い切り頭を振り、脳裏を過ぎる事実を無理矢理遠くへ吹き飛ばそうと、レミリアはもがく。
しかし、その従者を思えば思うほど、記憶が膨らみレミリアへとより重く圧し掛けてくるようだった。
吸血鬼を怯えさせている運命の欠片は、少しずつその精神までをも痛めつけ始めていた。
「……何も言わずに入って来るなんて、行儀が悪いわよ」
その傍らに音も無く佇んでいたのは、レミリアの妹であるフランドールであった。
いつからそこに居たのかはレミリアにも窺い知れなかったが、少なくとも今が彼女に居て欲しい時ではないのは、はっきりと分かる。
「咲夜が、どうしたの?」
「何でもないわ、早く部屋に戻りなさい」
顔を見せないまま、レミリアはフランを追い返そうとする。
言葉だけでは聞かないと知りつつも、今はそれが精一杯だった。
「私、知ってるよ。咲夜が昔の事を思い出しそうなのも、それをお姉様が必死に邪魔してるのも」
いつの間に、と考える前に、フランの鼻に付く言葉が、レミリアの気を逆撫でる。
邪魔、という言い方に、枕に埋もれたレミリアの眉が動く。
「せっかく、咲夜の大事な物にまで手を出したのにねぇ」
ばさりと、レミリアの羽が大きく羽ばたく。
フランの言葉の一つ一つが、レミリアの機嫌を大きく損ねていく。
「……それ以上言うのなら、フランでも容赦しないわよ」
「嬉しいわ、お姉様と本気で遊ぶなんて、久しぶり」
強大な魔力で誇張された吸血鬼の脅し文句も、同じ吸血鬼であり、遊びを喜ぶフランにはまるで通用せず、未だニヤニヤと笑みを浮かべている。
それを分かってか、レミリアはそれ以降自分から話しかけようとはせず、興味を失わせる事でフランを追い出そうと試みた。
その気持ちを知ってか知らずか、フランはレミリアの言葉を聴かず、更に藪を突付く。
「お姉様は、咲夜の事が怖いの?」
レミリアの心臓が、大きく跳ねた。
「どうしてそんな事……!」
「だって、咲夜の事になると凄く不安そうで、怯えてる様な感じがしたから。それって、咲夜の事を怖がってるからでしょ?」
当てずっぽうな筈の指摘に、レミリアは言葉を失う。
ああそうか、と、探していた答えが漸く見付かった。レミリアは、咲夜の事を信頼し、咲夜の気持ちを恐れているのだ。
いずれ、レミリアの後悔の過去を咲夜は知ってしまうから。
「違うわよ、フラン。私は咲夜の事を怖がってるんじゃなくて、信じてるのよ」
「……ふーん」
当たり前だった筈の事が、願望と成ってレミリアの口から出る。
咲夜の事は信じている。何よりも大切な従者で、吸血鬼である自分に仕えるに値する唯一の人間であると、背中を預けられる人間であると。
しかし現実はどうか。咲夜の忠誠を失う事を恐れて、情けなく駆けずり回る今が有るだけだ。
「…………」
「お姉様?」
だけど、怖い。
咲夜に忌避される事を想像するだけでも、熱く嫌なものが体の奥から込み上げて来る。
その可能性は、レミリアには計り知れない。だからこそ、その僅かな可能性から逃げる様に、レミリアは保身にひた走り続けている。
「よく分からないけど、私に壊して欲しいものが有ったら何でも言ってね」
「……ええ、頼りにさせてもらうわ」
優しいのかおかしいのかよく分からない約束を残して、フランは身体を蝙蝠に分散させ、開いていた小さな窓から夜空へと飛び去る。
再び一人になったレミリアは、ほんの少しだけ正直に、今の自分を考えた。
全幅の信頼を寄せてくれている咲夜に、何か一つでも報いてやれる事はしたのだろうか。
咲夜の運命を捻じ曲げてしまった事に、何か一つでも詫びた事が有っただろうか。
安泰の未来を信じてやまなかった故の所業の数々が、不信感を伴って今のレミリアを苦しめる。
顔を上げて、既に出て行ったフランの姿を探す。
レミリアには、壊して欲しかったものが一つだけ有った。それは人間の信じ方を忘れた、今のレミリア自身。
自棄になる程滅茶苦茶になった頭を、綺麗さっぱり破壊して欲しかった。
「咲夜……」
締め付けられる胸をきゅっと押さえ、レミリアは後悔に身を震わせる。
皮肉な事に、運命を操る吸血鬼は今、自らを傷付ける運命の只中に投げ出されていた。
「パチュリー様」
静かな、重みを含んだ声が、図書館の空気を震わせる。
広い部屋ながら、ただ一つの音は遠くまで届き、パチュリーの興味を本から逸らさせた。
「あら、失礼しますの一言も無いなんて、何の余興かしら」
呼びかけた咲夜は、怒りでも悲しみでもなく、ただ迷惑だと言わんばかりにじっとパチュリーを見ている。
「どうして、私の事をお嬢様に話したのですか?」
無礼を気に留める事も無く、咲夜は確信にも似た語気で本題を切り出した。
レミリアの様子については、既にパチュリーは知っているだろう。 あれだけ怒りを露にしていたレミリアが、その魔力を隠し切れるはずも無い。
何かが気に障ったのか、パチュリーはふうと一息吐き、本を置いた。 本の虫が本を手放した事には、咲夜も少しだけ驚いた。
「咲夜」
ただの一言、パチュリーははっきりと口に出す。 その語気は鋭く、突き刺さるかの如き魔女の威厳を含んでいるかの様だ。
しかし、咲夜はその一言に困っていた。 ただ理由が知りたいだけで、軽い気持ちで答えられても恨む事は無い、その程度に考えていた。
だが返って来たのは生返事ではなく、本を置いての重い返事。 咲夜にしてみれば、滅多に見る事の無い珍しいものであり、同時に事態の深刻さを窺い知れる返事でもあった。
「貴女は貴女の夢について、どう考える?」
質問を質問で返すパチュリー。 質問の内容自体は咲夜自身の思いを問うもので、そのままの意味しか持ち合わせていない。
しかしパチュリーは、咲夜が永遠亭で見た悪夢の事は知らない、第一咲夜しか見ておらず永琳しか聞いていない夢の事など、知っているはずが無い。
つまりその言葉には夢には関係の無い裏が有る。 巧妙な謎掛けの様な魔女の言葉には、必ず自己の利が隠されているからだ。
そこまで分かりながら、咲夜はあえて主の友人の利を優先せずに済ませられる言葉を並べる。
「そうですね……美味しい紅茶が淹れられなくなる夢なら、必要有りませんわ」
何が、ではない、ただ夢そのものの是非のみを、咲夜は簡潔に答える。
それこそが咲夜自身の思いだと、遠回しに伝えるかの様に。
「そう」
そして返事は僅か一つだけ、その音を最後に、図書館は一時の静寂を取り戻す。
咲夜の問いかけは、静寂の中に吸い込まれたかの様に、会話から跡形も無く消え去っていた。
暫く待ってみても、パチュリーにはそれ以降の言葉を続ける気は無い様だ。
よく見れば、既にパチュリーの興味は手元の本に戻ってしまっている。 このままでは、二日や三日経とうとも答えは返って来ないだろう。
「……パチュリー様?」
根競べでは勝ち目は無いと見て先に痺れを切らした咲夜は、邪魔を承知で答えを求める。
今度は本を放さず目も逸らさず、言葉だけでパチュリーは答えた。
「何よ、まだ居たの?」
「ですから、私の質問の答えを……」
やや引け気味な咲夜の言葉を遮り、パチュリーが意見を述べる。
「どうしてレミィが怒ったのか、私より咲夜の方がよく知ってると思うわよ。 脳が有るなら自分で考えなさい、貴女はとても多くのヒントを持ってるんだから」
常に平坦な心で居る彼女にしては辛辣な言葉でもって、追い返す様に答えを投げかける。
本に視線を戻したパチュリーへの深追いは、不機嫌なフランドールをからかうのと同じくらい危険であると知っている以上、これ以上詮索する事は咲夜には出来ない。
結局真意を語る気は毛頭無かったか、パチュリーは咲夜の問いに答える事は無く、咲夜は残る雑事を済ませるべく図書館を後にした。
「……何で出て来ないの、レミィ」
咲夜の去った図書館の本棚の陰、二つほど奥の角からひょこっと飛び出す片側だけの羽。
何か楽しそうにぱたぱたと揺れて、続けてその持ち主であるレミリアが、本棚から姿を現した。
「随分と幼稚な誘導ね、私でも出来そうなんじゃない?」
「レミィほどじゃないと思うけど。 言葉より行動で示す方がよっぽど子供っぽいわ」
貼り付けた様な薄い笑顔は、幼い外見とのミスマッチで、異様なまでの威圧感を発している。
それを難無く受け流すのは、長年の慣れによるものだろう。 僅かもペースを乱す事無く、再び本を捲る。
レミリアとパチュリー、行動が浅はかであるという自覚は双方に有り、怒気が膠着したまま無言の時が流れる。
そうして更に機嫌の悪くなったレミリアをよそに、静かに文字列に目を通すパチュリー。 その瞳に油断は欠片も無い。
「それで、何か用? まさかとは思うけど、私の口封じじゃないでしょうね」
「まさか。 私はパチェの意思が分かっただけで十分よ、大切な友人に手を出す筈無いわ」
「どうだか」
狂気、とすら喩えられるであろう感情に満ちたやり取りの裏側に在るのは、話の渦中に居ない十六夜咲夜の夢ただ一つ。
話を続けようとしないパチュリーに苛立ちを覚えたか、レミリアはもういいとばかりに机を叩き、踵を返す。
「咲夜は私の従者よ、今までも、これからも、ずっとね」
真剣な面持ちで明確に意思を残し、レミリアはあっさりと踵を返して、廊下へと歩いて行ってしまった。
レミリアが図書館を出て、漸く小悪魔がパチュリーの所に戻って来た。
長い来客により補充されていなかった数多の本を両手に抱えてふらふらと歩み寄り、それらを机の片隅に積み上げ、底を突いたティーカップをお盆に載せて飛び去る。
普段の雰囲気を取り戻した図書館の空気に、緊張で張り詰めていたパチュリーの心が程好く解されていく。
「レミィ、悪いけど今回ばかりは譲る事は出来ないわ。 ……それが、あの子の為だもの」
読み進めていた漫画本の頁を一つ戻し、その間に現れた一枚の紙切れ――美鈴の丁寧な字が綴られた手紙を再読し、我儘な親友への抵抗意志をより確固たる物へと改めた。
むしゃくしゃはしないけれど、釈然とせぬ気持ち。
不安とも怖れともつかない、けれど愉快ではない胸の内。
永遠亭での一件以来、咲夜の状況は全く動かない。夢は変わらず彼女の意識の底を揺さぶり続けるし、解決の糸口は一向に掴めない。
何が謎として立ちはだかっているのか、それすらも見えない五里霧中に身を置く咲夜に、けれどもレミリアは、あの日の猛々しさを見せる事は二度となかった。
咲夜の淹れる紅茶に満足の吐息を漏らし、ときに彼女を連れだって館の外に遊ぶ。以前と変わらぬ日々に、このまま永遠に主従であり続けられるとすら咲夜は思う事もあった。
主に一層の忠誠を誓いこそすれ、思い切って事の真相を尋ねる気など、咲夜に起こる筈がなかった。
少なくとも、そんな日常が続く限りは。
気難しい図書館の魔女は、ヒントは自分自身にあると言った。
その言葉の意味を考えた時、そして夢の残像に苛まれる間。言い知れぬ悪寒――まるで、今の自分を徹底的に破壊してしまいそうな、そんな怖れが身を凍らせる。
一瞬に過ぎないけれど、確実にその悪寒に自分が蝕まれるのだ。
そんな時、決まって咲夜は懐中時計を眺める様になっていた。
夢の呪縛に朦朧とした際、すぐさま時を止め、絶対の静寂の中であの刻印の跡へ視線を注ぐ。
ただそれだけのことで、あるべき場所へ自分が収まる事の出来たような、そんな安堵を得られるのだ。
そしてそれが、阿片にも似た感覚でますます平静の自分まで浸食していくのを、咲夜ははっきりと自覚していた。
「――美味しかったわ。 ありがとう、咲夜」
いつもと変わらぬお茶の時間。少しばかり素直に、レミリアは空のカップをソーサーに置き、ふっと紅茶の香混じりの吐息を漏らした。
咲夜の悪夢とレミリアの永遠亭への襲撃から二日後、咲夜の紅茶は元の正確さを十分に取り戻していた。
寸瞬の狂いも無く、全てが最高のタイミングで淹れられた紅茶は、高貴な吸血鬼の舌を満足させるに至る事が出来ている。
夢と上手く付き合えさえすれば、一種のアクセントの様に、日々の生活や心の刺激になるだろう。
そう思える様になる程度に慣れてきたのだと、咲夜は考える。
「咲夜、準備の方はどう?」
「はい。滞りなく進んでいますよ」
「そ。ならいいよ。咲夜も、楽しみでしょう?」
「え、ええ」
「ほらこれ! パーティに備えてね、特別に人里で創らせたペンダントなんだ。本当はまだお披露目するつもりじゃなかったけど、咲夜にだけ今日は見せてあげよう。とびっきりの赤を入れなさいって注文して、それで……」
瞬間、夢の呪縛が、レミリアの顔を歪めた。
「咲夜?」
レミリアの声が、吹き飛ばされかけた咲夜の意識を引き戻した。
何でもありませんと答えるその実、心の中では不信が僅かに芽生えている。
動じなくなってきたと思う裏で、あの日の出来事は確実に咲夜の中で大きなものとなり続けていたのだ。
レミリアを満足させられる紅茶を淹れられる自分に戻れたのかと問われれば、そうではない。
見えた筈の何かに怯み、逃げてしまう自身を、誤魔化し続けているだけに過ぎなかった。
既に咲夜の記憶には、怒気を露にしたレミリアの姿と心が焼き付き、恐怖と後悔を滲ませ続けている。
幾度、満足気な主の顔を眺めようとも、かの日の激昂がその顔の裏に映される。
薬師を貫く怒りと恨みに満ちた視線、僅かな間しか目を合わさなかった咲夜でさえ、鋭気を根元から断たれたと感じた程の激情。
その原因は誰かと自分に問うても、それは自分だと突き返されるばかり。
迷いの如き自問自答の繰り返しが、咲夜の自信と矜持を切り刻む。
「……顔色が悪いわよ、少し休みなさい」
訝しげな視線を送るレミリアに、咲夜は分かりましたとだけ返して、下がった。
主の心配を遠慮し、無理を押し通すという誰の得にもならない事をする気は、咲夜には無い。
それ以上に、咲夜はレミリアの傍に居る事に恐怖心を抱いてしまう事を避けられなかった。
「咲夜さん?」
気が付いた時には、咲夜の足は紅魔館の門へと向いていた。
門の内側で花の世話をしていた美鈴が咲夜に気付き、そのただならない様子に、不安な面持ちで迎える。
「ッ、あ……?」
足元しか見えていなかった、もしくは、目の前のものを見ていなかったのだろう。
門までの道のりを一瞬で踏破し、逃げ出す様に館を飛び出して、漸く咲夜は我に返り今の己と目の前の状況を知る。
息は静かに心臓だけが鼓動を速め、心に残る焦燥感が、目の前の美鈴でさえも美鈴として認識出来なくなってしまいそうに、猜疑心が高まっている。
「どうしたんですか? 凄く疲れているみたいですが……」
美鈴の心配が、冷水の様に咲夜の頭を冷やした。
衝動に任せた自分が取ろうとしていた行動がはっきりと浮かび上がり、咲夜の足を館へと引き留める。
「……御免なさい、美鈴。 何でもないわ」
外に背を向け、振り返らずに館へ戻る。
このまま最後の門を踏み越えてしまえば、後戻りはしないかもしれなかった。
「ありがとう」
まだ咲夜は、紅魔館に居られる。
美鈴の視線から逃げる様に館の中へ、興味深げに振り向くメイド妖精達に目もくれず、廊下を早足で歩き続ける。
焦る咲夜を見ながら小声で話し合う者も居たが、無視を決め込んだ。
「……どうしたものかしら」
自室に戻って溜息を一つ、ベッドに寝転んだ咲夜は、激しい自己嫌悪に苛まれていた。
何か、歯車が決定的に食い違っている。
たった一つのズレが少しずつ歪みを広げ続けていて、もう何処まで侵食されたのかも分からない。
その原因を探ろうとすればするほど、余計に歪みが広がって行き、おかしい幻覚まで咲夜に見せている。
「いっその事、全部忘れてしまえたら楽なのに」
誰にも聞かれない様小さな声で一人愚痴を零しても、ただ空しいばかりの静寂が咲夜の耳を突く。
こんな所々ひび割れた忠誠も、中途半端に心地良い夢も、何にも知らないままレミリアに仕えていられれば、今よりもずっとマシだったのかもしれない。
そんなIFの話に身を投げてしまいたくなるような今を、どうにかしたい。
ぼふぼふと枕を叩いて、ごろりと寝返って、天井を見上げて、懐中時計を握って、ふと思い出す。
「……行こう」
一度は引き返して来たが、この状況を打破するには自分から行動に出なければならない。 ただ期待に任せてじっとしていても、苦しむ時間が延びるばかりだ。
レミリアから暇は得ている、まだ日は落ちていない、今から行っても夕食には十分間に合うだろう。
咲夜はベッドからのそのそと起き上がって、恥ずかしくない程度の身だしなみだけを整えて、部屋を発った。
先程までの焦燥感に駆られたままではいけない。必ずここに戻って来ると、確かに心に決めて。
向かう先は、咲夜の夢を知るもう一人が居る、永遠亭。
行って何をするのか、咲夜の頭にこれといったプランは無い。
ただ、行けば何かを感じられる。 それは確かな事で、それが今の咲夜にとって答えを知る数少ない手がかりの一つだった。
「あっ、咲夜ー」
廊下を二つ曲がった角で、色鮮やかな羽に出会った。
その下に、嬉しそうな顔を咲夜に向けているフランドールが居て、咲夜に引っ付いている。
ゆらゆら揺れる羽に胸に詰まった空気を少し抜かれながら、咲夜はフランドールの頭を撫でて、優しく話しかけた。
「どうしました、妹様」
「んん、何となく」
「そうですか……すみません、私はこれから私用が有りますので、その後でも良いでしょうか?」
「えー」
ぶーぶー言いながらも、咲夜のお腹に顔を擦り付けるのは止めていないフラン。
その姿の向こう側に、咲夜は何故かレミリアの姿を見る気がした。
しかしフランは構わず、
「ね、咲夜」
ずい、と右手を突きだした。
握られているのは、色とりどりの紙で作られた、わっかの連なる飾りだ。
まるで彼女の背中でしゃらりしゃらりと揺れる羽のように、鮮やかな色合いが並んでいる。長くなったそれをぐるぐると腕、肩へと巻き付けていて、フランドールは全身に羽飾りがついたようにも見えた。
「すごいでしょ。パーティがあるっていうから、私、かざり作ろうと思って」
「ええ。とっても綺麗です」
「ふふ、でしょでしょ。あと100こつくれば完成なんだよ。もう、ひとりでやるのは大変でさあ」
「そうですね。なんでしたら、妖精のメイドを使ってもよろしいのですよ?」
「それじゃあ意味ないよ。私がやるって決めたんだものね。ふふ」
「あの、妹様」
なおも無邪気にすり寄って来る彼女を前に、たしなめるような声が出た。少し、どきりとしたからだ。
レミリアがあれ程までに怒り狂う原因、それはきっと夢に有る。
そして咲夜は、自分の為にその夢を求め、自分の為に永遠亭に向かおうとしている。
それは、レミリアに対して叛く行為に他ならないのではないか、そんな未来の想像が咲夜の決意に水を差す。
ちょうど、かざりは自分で作るというフランドールの子供っぽい思いが、強い決意になっているのと反対に。
「まあいいや、美鈴とでも遊んで来ようっと。 私、美鈴とお話するの好きだし」
フランが顔を離して、ようやく咲夜はフランの顔を見ることができた。
咲夜は、レミリアの為に永遠亭に行き、夢を見るのだ。そんな言い訳染みた答えが、思考に嫌に張り付いてくる。
すました顔の裏側で、咲夜は必死に記憶からいやなもの振り払い続けた。
「またね、咲夜」
ひらり、短いスカートを翻して、フランは咲夜に向かって言う。
そしてまた半回転して、角を曲がって姿を消した。
後には、呆気に取られていた咲夜だけが残された。フランの残した言葉が、中途半端に頭に入った所為で、混乱しかけていた。
それから数秒、咲夜は思い出したように足を進めて、紅魔館の門を抜けて、竹林へと向かう。
不快な言い訳は、ずっと咲夜の頭の中でこだまし続けていた。
咲夜が夢の事で永遠亭を訪れるのは、これで三度目になる。
もう此処に患者として来るのも慣れたもので、いつも通り兎の案内を受けて、診察室まですんなりと辿り着いた。
ドアを開ければ、永琳が机に向かって何かを走り書きしている、これも三度目だ。
勿論すぐにその手は止まり、咲夜の方を向いて、穏やかに微笑んだ。
「すみません、突然来てしまって」
「良いのよ。わざわざ此処まで来る患者さんなんて滅多に居ないんだし、貴女は特別だもの」
文句一つも無く、永琳は咲夜を迎える。
疑う余地も無いそれに、咲夜は不思議な安心感を感じていた。
医者と患者の関係としては、極々普通に有る事なのに、そうとは感じられない何かが、永琳には有る。
裏の感じられない会話が久しく無かったから、と咲夜は納得しておく事にした。
「それじゃあ……今日も、やるのかしら?」
黒い薬の詰まった小瓶を軽く持ち、永琳が問いかける。
それを見た途端、咲夜の目に喜色が現れる。
「はい、お願いします」
迷う時間も作らずに咲夜は了承し、部屋の角に有る寝台に横になった。
永琳も水差しとコップを手にその横へ座り、カーテンを閉めると、まるで周りの音が消え去ったかのように静かになった。
その中で咲夜は、永琳から薬を受け取り、躊躇う事無く呑み干した。
すぐに湧き上がる眠気を愛しく感じながら、永琳に見守られて、咲夜は再び夢を見る。
悪夢を見させる薬、胡蝶夢丸ナイトメア。
服用した者の精神に干渉して、悪夢を見させる夢の薬。
その悪夢であるはずのものが、今の咲夜には何よりも心を落ち着かせる薬として、日常を支えている。
「…………ん」
夢から戻って来た咲夜は、悪夢の後とは信じ難いほどに穏やかで、薄っすらと微笑みすら見える顔をしていた。
確かに、咲夜の見る夢は気味の悪い物体の蠢く、悪夢そのものだった。
しかし、その夢には救いが有る。悪夢の終わりには必ず、悪夢を引っくり返す何かが咲夜の目を覚ましてくれている。
「お帰りなさい」
永琳の声と共に頭のてっぺんに感じる、くしゃくしゃと撫でる永琳の手の平。
髪の毛から心の底まで染み込んで行く暖かさに、咲夜の口元が無意識に緩んでしまった。
それを見たのか、永琳がクスクスと笑いを零す。たまらず咲夜はシーツを持ち上げて、赤く染まった顔を目元まで覆い隠した。
「どうかしら、何か良い事は有った?」
悪夢を見た患者に良い事を聞くという、おかしな質問が平然と出る辺り、咲夜の様子が普通とは明らかな違いを見せている。
咲夜もまた、その質問を戸惑う事無く受け入れて、思いのままに永琳に返す。
「はい。 ――ですが、もう少しの所で届かないのです」
あの何かの正体が掴めれば、咲夜の記憶を取り戻すきっかけになる。
確たる証拠は何一つ無いものの、咲夜には不思議な確信が有った。
それさえ知る事が出来れば、何もかも元通りになれる、またいつも通りレミリアに美味しい紅茶を淹れてあげられるはずだと。
「また後日、お願いします」
既に日は大分傾いていて、窓に映る青空もすぐに橙色を滲ませる頃だろう。
今から紅魔館に戻れば、夕食を作る時間は十分に有る。
名残惜しくはあるものの、咲夜は暖かいベッドから離れて、深いお辞儀を永琳に向ける。
「……その事だけど」
いつに無く低い永琳の声色が、部屋の、咲夜の空気を一変させた。
たったそれだけの事で、咲夜の顔に不安の色が覗く。嫌な予感を覚える。
「もう貴女には、この薬は処方出来ないわ」
永遠亭の門を背に、咲夜は暗い面持ちで紅魔館への道を歩く。
薬を貰えなくなった事に怒りを感じている訳でも、永琳の心変わりを恨んでいる訳でもない。
ただ、現状から逃げる事に夢を利用してしまっているだけの自分が、許し難かった。
咲夜は、悪夢に溺れかけていた。
重い苦しみを越えた先の仄かな安らぎに、麻薬の様にのめり込んでしまっている。
それは目的と手段の境を曖昧にして、夢をただの逃げ道としてしか成させていなかった。
「お嬢様……」
呟く言葉に、力も意思も無い。
夢に逃げていたのはレミリアの所為であると薄々気付いてはいたものの、体がそう思ってしまうのを拒んでいる。
もしもそれを認めてしまえば、今までの咲夜の全てを否定してしまうような、そんな気がしたからだ。
ちぐはぐな自身を引き摺る様に、きりきりと痛む胸を抑えて咲夜は紅魔館へと帰る。
その時に、レミリアの顔を見られるか。そんな簡単な事でさえも、信じ切れないままで。
兎達も寝静まる永遠亭の深夜。
月夜に蒼く映える畳敷きの広い部屋の中に、輝夜はじっと佇んでいた。
音を立てず、空気に干渉せず、ただ主に気付かない従者の様子を眺め続けて、もう大分経つ。
永琳は机に向かいはしているものの、筆が紙を擦る音は無く、頁を捲る微かな音も、この静寂の中には無かった。
「――永琳?」
それから大分時は進み、輝夜の方が痺れを切らして、永琳に自分の事を気付かせる。
呼ばれて漸く振り向いた永琳は、主への非礼に謝る事無く驚きもせず、静かに答えた。
「輝夜」
「まだ起きていたの? もう月が傾き始めているわ」
薄暗い室内で、永琳は一冊の手帳を開き、時を忘れて読み耽っていた。
古く小さな手帳のたった一頁、永琳の手によって書かれた手記が、彼女の心を奪い去って行ったかの様に彼女の意識を留めている。
「まだ、そんな事をしているの?」
僅かに怒気を孕んだ声で、輝夜が言う。
主に咎められて尚、永琳は手帳を開いたまま手放そうとはせず、首だけで輝夜の方を向くに留まっていた。
輝夜が永琳の世界を邪魔する異端者であるような恨めしさを孕んだように、目を細めて輝夜を睨む。
「……輝夜には分からないでしょうね、私の心なんて」
「そんなもの、分かりたくも無いわ。後悔するような心なんて知っても無駄だもの」
冷たく言われ、冷たく、言い返す。
「こんな時間まで何を考えていたの、永琳」
「……後悔しない方法を探していました。誰も傷付かず誰も損をしない、皆が幸せになれる方法を」
そんな都合の良いものなんて存在しないと、永琳に分からない筈が無い。
だからこそ、毒を伴うそれを、叶わない願望として吐き出してしまいたかった。
「無理よ」
輝夜は永琳の理想に見向きもせず、現実だけを持って言葉を投げかける。
鋭い言葉にも関わらず永琳の顔には怒りの表情は無く、より深く影を落として輝夜から目を逸らした。
「遅かれ早かれ、その時は必ず来るわ。それが永琳の言う『運命』なんでしょう?」
「…………」
「そしてどんな運命を選んでも、永琳は必ず後悔する。そうじゃないと、永琳が此処まで悩む事なんて無いものね」
永琳の能力は、主である輝夜が一番よく知っている。
彼女ほど聡い者が長い時間を苦しむ必要が有るのなら、永遠に答えには辿り着けないのだろう。
そして、彼女に残された選択の時間は、長くは無い。
「……輝夜、輝夜ならどうしますか?」
だから、賢者は何かを頼りたかった。
自分の肩書きへの矜持を前に、答えを見つける事の出来ないものが有るという現実が、重く圧し掛かる。
賢い彼女だからこそ、棘に覆われた輝夜の言葉が深く刺さり、その痛みに耐えかねている。
「そうね、私なら永琳に永劫の後悔を味あわせてしまうような事をするわ」
迷う事無く、輝夜はあっけらかんと答えた。
主従の間柄に有りながら、あまりにも非情過ぎる答えを前に、永琳が大きく何かを言いかける。
しかし、言うより先に頭が回ってしまった彼女は、開いた口をそのまま噤み、視線を落とした。
縋る様な思いの言葉、しかしそれも逃げの口実でしかなかった。
何が起きたとしても自分は悪くない、自分に罪は無いと言い聞かせるための、都合の良い言葉だ。
それで最も苦しむのは、永琳自身の筈だというのに。
「貴女が貴女自身の心のままに決めて、胸を張って泣きなさい。それが、永琳の為にも、あの子の為にもなるから」
言い残して、永琳に背を向ける輝夜。
「……それで、早くいつもの永琳に戻ってね」
儚さを覗かせる言葉尻の後、永琳の返事を待たず輝夜は部屋を去り、永琳一人だけが残された。
静かになった部屋の中で、永琳は誰にも見られず表情を崩す。
「輝夜、貴女も……」
永遠の罪人の言葉を胸に、永琳は思う。
自分の意思を失いかけて、初めて知る。
誰よりも聡明な『賢者』だからこそ知り得ず、抗う術を持ち合わせていなかった、感情という名の行動原理。
それは永琳を本心と向き合わせるに十分過ぎる程の、毒を含んでいた。
「…………」
朝、目が覚めて懐中時計に手を伸ばす。
最早習慣を超えて癖になりつつあるこの行為に、改めて深く溜息を吐く。
事有る毎に思考にちらつく影を振り払う為、咲夜の懐中時計はあらゆる局面において、絶対に手放す事の出来ない物となっていた。
そして日が経つに連れて、時計の刻印を眺める回数は、少しずつ確実に増していく。
レミリアが、パチュリーが、その平静の裏に抱えているものが、堪らなく恐ろしいものに見えてしまう。
咲夜について何かを知っている筈なのに、咲夜がそれを知らないという不気味さが、咲夜の忠義心に鋭く喰らい付く。
痛みすら伴う心への叱責は、再び咲夜の手を鈍らせる枷となって、主の機嫌を損ねるものとなっていた。
もしもその何かが分かったとしたら、その時こそこの日常が崩れ去るその時になるだろう。
ひびの生えた日常とその延命薬を抱えたまま、咲夜は常を装い日々を過ごす。
その薬は、確実に咲夜の心に染み渡り、やがて一つの感情を奮い立たせた。
「パチュリー様」
普段と変わらぬ午後。普段と変わらぬ時間。普段と変わらぬ呼びかけ。
けれどその奥に潜む固い意志の色が、昨日までとは異なるのを図書館の主は見逃さなかった。
仄灯りに歩み寄るメイドのスカートは、鬱屈とした図書館の中で空気に軽やかに、足取りに合わせて跳ねては沈み。
軽薄とも取れるその動きが、かえって彼女の決心の重さを物語っていた。
「お茶の時間かしら。いつもいつもすまないわね」
魔女は、わざととぼけて視線を逸らす。目配せした先には司書の小悪魔。
一瞬驚きに染まった表情はすぐ頷きをもって消え、彼女はいずことなく視界の端へ動く。
「いいえ。今日はお茶の用意はございませんわ」
「そう、居候に嗜好品など贅沢と言う訳ね。レミィったら冷たいのね、百年の友誼もこれまでかしら。悲しいわ」
「お嬢様は関係ありません。これは私の一存です」
「そう。だったら早く本題に入ったら? 序章をだらだら書き連ねた本など、良書だった試しがないわ。紅茶の時間を犠牲とするにはあまりにもお粗末」
「では、そうさせていただきます」
すう、と静かに息を吸う音が、まるで轟音の響き渡る様に、不釣り合いな大きさで耳に届いた。
「話していただきたいのです、全てを」
「とんだ買いかぶりだわ。確かに私は知識の求道者だけれど、全知と言うには程遠い」
「そんな事を申し上げているのではありません。私の知らない、『私』の全てを教えていただきたいのです。あなたはご存じなのでしょう、それを」
「……脳みそがないのはレミィだけじゃなかったのね。もうすこし賢いのだと思っていたけれど、所詮人間風情といったところかしら。その上、並みの記憶力すらないなんて」
「仰ることは分かります。私自身がヒントだと……お言葉はしっかとこの胸に刻まれておりますわ。けれど、私には……」
「話すことはないわ、帰って。自分のことは、自分で解決なさい」
侮蔑を隠そうともせず、パチュリーは溜息をついた。
しかし咲夜は動かない。静かに、その眼に忍ばせていた意志がパチュリーを捉え、両者の手が力を持って揺れる。
「……聞こえなかったかしら」
「ええ、分かっております。お聞き入れ下さらないのならば、私は、咲夜は……自分の力で答えを見つけるとしましょう」
「是非そうして頂戴。……しかし呆れたことね。その覚悟があるなら、なぜ改めて私を頼ろうとしたの」
「私なりのけじめです。その覚悟も、あなたに断られる予想も。どちらも初めからありましたわ。ですから、今から私自身の力で答えを見つけだすのです――あなたから」
パチュリーの防御結界が展開したのと、咲夜の攻撃は同時だった。
「完璧なあなたらしくないわね、奇襲は失敗よ。それと、そのヒット・アンド・アウェイの趣向もね!」
初撃は阻まれた。仕損じた咲夜はすぐさま飛翔、本棚の森に舞い上がってパチュリーと距離をとろうとする。
しかし、防御と同時に放たれたパチュリーの火弾はその行く手をふさぐ様に広く展開され、咲夜の回避を制限した。
外れた火弾は壁や床、本棚にぶつかるが、その傍から熱を失い消滅してゆく。施されていた防御魔法結界が、本を障害から守っていた。
「考えなしの一撃に頼るほど脳なしではありませんわ。それよりも……」
迫る炎と追撃の光条で鮮やかにその身を照らしながら、咲夜はこともなげにそれらをすりぬけてゆく。
体躯を捻り、本棚を盾とし、機敏な動きで図書館を飛び回る彼女とは対称的に、パチュリーは初めの位置を動かず悠然と浮かんでいた。
「やはり運動はお嫌いですか? 少しは動かれないと、私ごときにも負けてしまいますよ……っ」
床を蹴って勢いを得、かすめる様に近接飛行。けれどパチュリーは動かず。
置き土産にぐるり取り囲むナイフの群れにも、魔力で応じたたき落とすのみ。
「いいのよ。私は壁なのだから。真実目指し突き進むあなたに、そうはさせじと立ちはだかる堅牢な障壁……それが今日の、私よ」
「ならばその壁、打ち破らせていただきますわ」
「ええ、できるものなら、やってみなさいな」
魔方陣が放つ光彩に一層の強さが加わる。
「――金符『メタルファティーグ』」
濃密な、しかしやや緩慢な弾幕の波。
全方位にばらまかれた金気の魔力の広がりと動きは、術者を壁とするならその壁に応じ、敵を圧する天井であった。個々の弾幕が持つ力場は大きく、隙間だらけな外見に似合わぬ圧迫をもって慎重な回避を強いる。
その名の示すように、銀ナイフの使い手はじわりじわりと疲労に追い込まれる。
咲夜は、しかし冷静だった。天井は所詮網天井、どんなにその目が細かくとも、ばらまかれるままに飛び、交差する魔力の幻惑に過ぎない。
三次元に構成されたその網はなるほど動的には面だが、縦糸と横糸が走って布を成すように、直線あるいは曲線の動きを持つ弾幕の集まりなのである。その運動と位置、そして力場の相互関係さえ捉えていれば回避は可能。
そして、空間把握は十八番の咲夜である。
しなやかにかいくぐった網目の向こう、そびえ立つ『小さな』巨壁を彼女は捉えた。
「奇術『ミスディレクション』!」
より直線的な斜行弾幕の幻惑を、今度は咲夜が放つ。
動かぬと決めた相手には、はなはだ効果的ではない花火のようなスペルである。しかし搦め手には十分、回避がないと約束された相手が防御にまわるその合間に、本命を叩きこまんと真上に回る。
しかし突如出現した魔道書が二冊、咲夜の行くてを阻んだ。
そこから大量に吐き出される大小の弾幕に加え、パチュリー自身を基点とするレーザーの回転が、咲夜に後退を余儀なくさせる。
「くっ」
紅魔館は確かに咲夜のホームグラウンド。しかし、それ以上に魔法図書館はパチュリーのホームグラウンドであった。
彼女は一歩も動かずとも、無数に仕掛けられたトラップが彼女の手となり足となり、咲夜は戦場を縦横無心に駆けている様でその実、魔女の掌をせわしく動きまわっているだけなのだ。
立ち並ぶ本棚は盾として利用できる一方で、うかつに近づけば蛇も飛び出そうかという危険な藪にもなる。
一度、既に安全と知れた本棚に身を隠し、咲夜は体勢の立て直しを図った。
そして飛び出すや時を止め、また隠れたと見せて別の本棚の影に移動し、相手の裏をかこうとする。
しかしパチュリーは木気の魔力弾の嵐で周囲を覆うと、力に任せて今度は水気の魔力を、手当たりしだいに放った。
暴力的なその力は、咲夜の隠れていた本棚の防御結界をも打ち破り、なおその先の彼女めがけて襲い来る。
――こんな、乱暴な。
心にひやりと触れたその感情は、恐怖や焦りではなかった。
舞い散る埃を浴びながら七曜の弾幕をかわし、反撃し、その最中咲夜が感じていたのは違和のそれ。
自らを壁だと言い放ち、よけることを捨てたパチュリーは、明らかに戦いを、自分に不利に運ぼうとしていた。
強大な魔力と勝手知ったる戦場は確かに利だが、それでもなお、彼女は普段の戦い方を捨てているようにしか、咲夜には見えなかった。
「どうしたの咲夜、そんなことでは本当に脳なしメイドよ。レミィでなくとも失望するわね」
挑発、そして符の発動。
火符『アグニシャイン』――灼熱の炎が再び咲夜を追いたてる。
「失望など、させませんわ。それがメイドとしての私の役割ですもの、この館にいる以上はっ」
「では逃げることを止めなさい。あなたは、立ち向かわねばならないの」
「無論ですわ、私は、逃げてなど……」
言われるがままに、銀ナイフを、反撃の矢面に立てる。
平板だが幾層にもわたって敵を斬り裂く巨大な刃を構築、一気に、解放。
「嘘を、おっしゃい」
「――嘘? アッ」
一瞬の隙。それは時を操る者に、そうでない者が報いる最大の機会。
反則の手品で回避をはかる暇もなく、十重二十重の弾幕とレーザーが各々の光を煌めかせ咲夜に殺到した。
ほんのわずかな思考停止が先手を許し、咲夜は急遽予定していた反撃を防御も兼ね当初より大技へと――不本意ながら――変更する。
「殺人、ドールッ」
無数の刃は当初のファランクスを解消し拡散すると、迫る敵弾を打ち消しつつ、魔女を目指すものあらぬ方を目指すもの、さまざまに散り行く。
不気味な静寂が、その後に訪れた。
次弾はない。パチュリーは発光し回転する魔方陣の上に依然ありながら、詠唱ではなく微笑を、その口元に漂わせていた。
咲夜もまた、空中に静止して沈黙の笑みに応じる。
「……嘘付きは鬼に嫌われるわ。そして、レミィもまた吸血『鬼』……でも、あの子が恐れているのはあなたから嫌われる事であって、そうしないために、自分が嘘つきになるのも厭わないのだから、皮肉なものね」
「お嬢様が……?」
「ええ、こんなこと私が言ったなんて知れたら、今度こそ本当に追い出されるかもしれないわね。口は固いかしら、咲夜?」
「分かり、ません。私がお嬢様を嫌うと言うのも、お嬢様が恐れると言うのも。……そして、私が、逃げているというのも」
思い出される、夢の不愉快。月の薬師と、そのもとで聞いた、レミリアの怒声。
懐中時計、刻印、そして……
「目隠しをされているのなら、それを取れば良い。立ちはだかる壁は崩してしまえばいい。その向うにあるのが、あなたの求めるものならね。自分の力で答えを見つけるのでしょう?」
「はい、それは」
「だったら、今は私が打ち破るべき壁。その力で、破って見せなさい」
図書館の魔女はそう言って、大げさに、白い手のひらを一杯に開いて両腕をひろげた。
くすり、と咲夜に笑みが浮かぶ。
「なんだか、黒白の泥棒のようですわ。パチュリー様の言葉は」
「……それだけあいつが本を盗みに来てばかりという事よ。しかし嫌ねぇ、あんな奴にこの私が染まるなんて」
「それも、全知の為ですわ」
「要らない知識というのもあるものよ……」
パチュリーの常ならぬ戦いの訳、それは、初めから答えが出されていた。
彼女は立ちはだかる壁を演じていた。それは、打ち倒されるべき敵、突破されるべき障害。
これは異変なのだ。敵はたった一人しかいない、図書館の中だけの小さな小さな異変。真実を求めて異変解決をするのは咲夜。そして異変の首謀者、謎を握る敵はパチュリー。
彼女は、パチュリーは、その役割に忠実であろうとしているに過ぎないのだ。
ならば、咲夜もまた役割を果たさねばならない。この『異変』を解決し、真相を知るという役割を。
「来なさい、咲夜」
「ええ。パチュリー、様!」
それが合図だった。
ラストスペル。
錬金術の粋を集めし石をその名に冠した弾幕が、眩い光と共に牙をむく。
術者に近づくことも困難なほど熾烈で、余力を残さぬ最後の攻撃。おそらくその魔力の限界まで耐えきれば、自ずと咲夜は勝利する。しかし、
――それでは、私の力で壁を崩したことにはならない!
パチュリーを、失望させてはならないのだ。
自分は完璧で瀟洒、そしてレミリア・スカーレットの従者なのだから。例え『真相』がどんなものであっても、そこに向き合う事を恐れ、逃げてはならないから。
懐中時計を、握る。時は止めない。
火水木金土、結晶から放たれる弾幕の嵐へ、咲夜は飛び込んだ。
パチュリーはその役割に甘んじて攻撃に手心を加えるどころか、まさしく本気で咲夜を墜としにかかる。
密疎緩急の入り混じった弾幕が絶え間なく降りかかり、追いすがり、メイド服の端々を焦がして過ぎてゆく。
しかし、咲夜の手からはまだ一本もナイフは放たれていなかった。距離を詰めたとはいえ、止むことのない弾幕の中へはなったところで打ち消されるのは分かりきっていた。
接近し、今度は咲夜が一瞬の隙を突くのだ。威力は少ない攻撃でも、一撃必殺は見込める。
つまり、機が熟すまで咲夜はリーチを保ちつつ、荒れ狂う弾幕の中に身を置いていなければならないのだ。
「ッ!」
被弾した左足が、赤い血を生々しく噴く。
けれども意に介している暇はなかった。次弾、また次弾と脅威が襲ってくる。詠唱は止むことなく、パチュリーは咲夜をもはや見ていない。
握りしめた懐中時計が、軋んだ。その一瞬――
――今っ!
懐中時計を、力一杯に、投げた。
時計はそのまま魔女の傍の卓に落ち、跳ね、パチュリーの防御障壁に触れた。その僅かな干渉に、思考の途切れが生まれる。
それが隙だった。
「銀符『シルバーバウンド』」
決して最強の一撃とは言い難いスペル。
しかし放たれたナイフの群れは床、本棚と跳ねまわり、繰り返し魔女の防御障壁を切り裂いた。
大魔法の最中、魔力の供給は全て周囲の魔力結晶へ向かっている。綻びは各所に表れ、遂には障壁そのものを、崩壊に導く。
閃光と最後の魔力が放出されると、それきり魔方陣は光を失い、その上の術者もくたりと崩れ落ちた。
咲夜は慌てて駆けよると、その身体を抱きとめた。
「……あなたの勝ちよ。まさかあんな『弾幕』を使われるとはね」
上がった息遣いの中、パチュリーは咲夜にそっと右手を差し出した。
その手には、懐中時計が握られている。スペルの直前、彼女が投げつけたものだ。
「突飛な手段でしたわ。人間というのはあさましい生き物ですから、窮地に入ればどんなものでも利用してしまいますのね」
「ふふ、良く言うわ。けど、負けは負け、しょうがないわ。決まり手がこんな原始的な弾幕と、それから凡庸なスペルでもね」
「あ、パチュリー様……」
パチュリーはゆっくり起き上ると、服についた汚れを払い始めた。
さっき崩れ落ちて見せたのは演技ではなかったかと思う程、その姿は疲労を感じさせない。
今やぼろぼろのメイド服をまとった咲夜の方が、かえって敗者に見えるほどだった。
「ああもう、散らかったわね。小悪魔はいるかしら……」
「あの、パチュリー様?」
「なによ、心配しなくても話してあげるわよ。あなたの勝ち得た答えなんだから」
「……はい」
それから、ぱたぱたと羽を揺らし、吸血鬼が姿を現した。
「お呼びでしょうか、パチュリー様」
身の毛立つ様な微笑で、レミリアは二人の前に姿を現した。
可愛らしく振舞うつもりなど毛頭無く、小悪魔を騙ってパチュリーに揺さぶりを掛けている様にも見て取れる。
「……レミィ、小悪魔はどうしたの? あなたの返答によっては私も一言言わなきゃいけなくなるのだけど」
「あら、ちゃんとあだ名で呼んでくれてありがとう。いくら私でも小悪魔と同格に扱われるのは嫌よ」
「落ち着いて、ちゃんと話を聞いて頂戴。私は小悪魔はどうしたのかと聞いているの」
今度は流石のパチュリーも動揺を隠し切れず、レミリアと目を合わせてはいるが、語気が微かに震えている。
そして当の小悪魔は、レミリアの背後、本棚の陰から苦笑いを浮かべて三人の様子を伺っていた。
「うるさいから何か有ったのかって聞いたら、慌てて何処かに飛んで行っちゃったよ。まったく、無責任なものだねぇ」
「……そう」
レミリアの言葉は事実だと分かり、安堵とも落胆とも取れる溜息を一つ、パチュリーは肩を落とす。
流石に館の主でもある吸血鬼を目の前にして、少しでも抵抗出来たのならそれだけで褒めるに値するのではあるのだが。
「それで、何が有ったの?」
レミリアは、今度はパチュリーに対して同じ質問を繰り返す。
図書館内は魔法とナイフの跡が絨毯の至る所に無数に刻まれ、激しい戦闘の後を示している。
何か一悶着、それもここまで争う必要の有るやり取りが交わされていた事は、来たばかりのレミリアにも容易に分かる。
「ちょっと新しいスペルの練習をね。小悪魔じゃ役者不足だから、咲夜にお願いしたの」
「ふーん、それなら私に言ってくれればいつでも相手になるわよ」
「最近のレミィはいつ起きていつ寝てるのか分からないもの、咲夜が丁度此処に来たから誘っただけよ」
「パチュリー様っ!」
一触即発の会話の中、咲夜の声が割って入る。
パチュリーからの答えを待ち続け、痺れを切らした咲夜は更に感情を顕わに呼びかけたのだが、咲夜へのパチュリーの反応は、机の上の本の山から一冊の本を取り出しただけだった。
「ああ、そうだ。咲夜、この本を美鈴に返しておいてもらえないかしら」
パチュリーが差し出した手には、子供向けの派手な絵が表紙を飾る一冊の本が載っていた。
不穏な会話、それも怪しんでいた咲夜とパチュリーの間のそれに、疑いを寄せていた者が見過ごす筈が無い。
咲夜が受け取るよりも早く、レミリアの視線がその本に向けられる。しかし見覚えの有る物だったのか、少し憎たらしげに、すぐに正面のパチュリーへと視線を戻した。
「中々面白かったわよ、あなたもたまには読書なんてどうかしら」
本を目の前にして、咲夜は言葉を失った。
この後に何か有るのかもしれない、というまさかを期待し、少しの間受け取らずに待っていた。
しかしそれ以上の言葉は貰えず、渋々咲夜はその本を丁重に受け取り、じっとパチュリーを見つめるだけに止めた。
「それでレミィ、その魔力を何とかしてもらえないと、落ち着いて読書も出来ないわ」
「そんなものどうだって良い、今はもっと重要な話をしているんだ」
「……とんだ邪魔者ね、白黒と良い勝負だわ」
既に咲夜の事など意にも介せず、二人は再び睨み合い、膠着状態を続けている。
「お嬢様……」
咲夜の心の中で燻り続ける、不満。
メイド長としてレミリアの傍に居る事には不満は無い。その我儘に付き合うのも、楽しいと言い切れるだろう。
それが、ただ一つこの事が引っ掛かるだけで、こんなにも不快になってしまう。
従者が求めているものを与えてくれない主に対して、咲夜の中で小さな反感が芽生えている。
本当なら、そんな事は有ってはならないはずなのに。
「どうして」
心の声が、そのまま口から漏れる。
主に仕える事は、こんなにも苦しいものだったのだろうか。
主を信じ続けるのが、こんなにも大変な事だっただろうか。
当たり前だと思っていたレミリアの元での日々が、裏返した様に咲夜に重く圧し掛かる。
咲夜が感じていた幸せな日々は、全て思い込みだったのかもしれない、と。
考えてはいけない事が頭の中をグルグル回り、思いっきり頭を振って追い払う。
それを肯定してしまったら、今までの咲夜自身を否定してしまうのと同じ事だから。
「……お嬢様」
「なに?」
パチュリーに詰め寄っていたレミリアが、キッと咲夜に振り返る。
既に怒気を隠そうという気は微塵も無いのだろう、咲夜に向けた視線ですら、低級な妖怪なら怯み、尻尾を巻いて逃げていってしまいそうだ。
咲夜も、全身にびりびりと走る威圧感に気圧されつつも、それを振り切って伝える。
「私はただ、パチュリー様に聞きたかっただけなのです。その……夢の事について――」
「うるさいッ!!」
レミリアが、吼えた。
夢、という言葉を聴いて、レミリアは我を忘れたかの様に、感情を撒き散らす。
「あんなものの事なんか、あんなやつの事なんか、忘れろッ!!」
肩を揺らすほどの荒い息と、汗を滲ませる紅潮した頬。レミリアは、今の言葉を本気で叫んでいる。
パチュリーですら僅かにたじろぐ程に、レミリアは憤怒していた。
それから先、レミリアは罵詈雑言を喚き散らしていたが、その悉くが肝心な咲夜に届かずにいる。
あんなやつ。
その一言に、咲夜は激しい憤りが昇って来るのを感じた。
あんなやつ――永琳を貶されただけなのに、何故ここまで怒りが湧いてくるのだろう。
そんな疑問も僅かの間、やり切れない感情が咲夜を苛立たせた。
永琳は、優しかった。
まだ数回しか診察に訪れていなくても、咲夜にはそう思えた。
裏表の無い穏やかな微笑みも、棘の無い優しさも、咲夜を気遣う言葉も。
日を置いた今でも鮮明に思い出せる、優しく頭を撫でてくれたあの手も。
極々ありきたりな事の中に感じた、医者として患者に接する態度ではない何かが、咲夜の心に確かに残っている。
それを、あんなやつと言われた、忘れろと命じられた。
たったそれだけの事で黒く強い感情がふつふつと湧き上がる。まるで、咲夜自身が貶されたかのように。
「い、や……!」
不快なんて生温い、嫌悪と忠誠がぎりぎりと音を立てて押し付け合っている様な、重い痛みが頭を蹂躙する。
それなのに、咲夜はレミリアに逆らう事を知らなかった。冗談や反論をする事は有っても、こんな想いを抱く事さえも考えなかった。
行き場を失った感情が咲夜の中で荒れ狂い、心臓を強く締め付けている。
思い出した様に、胸元の時計をぎゅっと強く握り締める。
確かな硬さと、大きな存在感が咲夜の苦痛を僅かに和らげる。
レミリアの事も、パチュリーの事もよく分からなくなってしまった咲夜にとって、ただ一つ信じる事の出来る物が、そこに在る。
裏表の無いそれに心を寄せている内に、その中に小さな思いが芽生えた。
パチュリーは、答えは咲夜の中に有ると言った。
今の咲夜の中に有るのは、あの曖昧でよく分からない、灰色の夢。
それもこれも、全ては永遠亭、あるいは永琳と深く関わるようになってから、もしくはもっと前、不思議な夢を見るようになってからか。
夢の事もレミリアの事も、永遠亭に行けば、解決の糸口を掴めるのかもしれない。
それが出来れば、こんなに苦しむ事も無く、夢に悩まされる事も無い、平穏な生活を再び取り戻せるはず。
そして、今までの様にレミリアに美味しい紅茶を淹れる事が出来るのなら、他の何を投げ打ったとしても後悔は無い。
永遠亭に、向かわなければいけない。胸を締め付ける苦痛が、面に表れるまでに。
永琳の忠告は、もう全部捨ててしまっていた。
視界の端が微かに歪み、それに気付いたレミリアが振り返った時には、咲夜の姿は図書館内に無かった。
主への非礼も省みず、礼の一つも無しに咲夜は時を止め、何処かに行ってしまった様だ。
「――――ッ!!」
レミリアは、再びパチュリーを睨み付ける。
先程よりも鋭さは鳴りを潜め、代わりに荒々しい感情が幼い顔を怒りへと歪めさせている。
「それで、パチェは何をしようとして、何をされたの?」
「随分卑猥な言い回しね、まだレミィには早いわよ」
「別に他意は無いわ、というかそんな事に結び付けるパチェの方がおかしいわよ」
「そうね、そういう事にしておいて」
「それと、話をはぐらかさないで。咲夜に、何をしようとしたの?」
一語一語を強く、レミリアはパチュリーに叩き付ける。
心から零れそうになった言葉を覆い隠し、咲夜の主は、友人を激しく問い詰めた。
明確な意思をもって、聞きたくない答えを聞かんが為に。
「咲夜の質問に答えていただけよ。もっとも、レミィの所為でそんな暇も貰えなかったけど」
パチュリーは、此処に来て明確な答えを避けた。レミリアが知れば、事が荒立たない筈が無い。
それを避けるのが大前提のパチュリーの言葉は、レミリアの意気を圧し折った。
「レミィ?」
「……どうして」
震える声、厳かさを失った言葉が、レミリアの口から漏れ出る。
「どうして、みんな咲夜の味方をするの――――――」
肩を震わせ、吸血鬼は涙する。
不器用に、初めての想いを抱いた大切な従者は、目の前で去っていった。
吸血鬼と人間というあらゆる垣根を越えた主従の繋がりは、強過ぎたが故に些細な罅から壊れようとしていた。
「わたし、は、咲夜に、ずっと……」
最も恐れていた運命を前にして、後悔ばかりがレミリアの心を刺し穿つ。
真実を知れば、咲夜はレミリアの元から離れていくのかもしれない、それを恐れ避け続けて、レミリアは後悔を抱く運命を選んでしまった。
こんなはずじゃなかった。
ただの気紛れが引き起こした結末を前に、威厳も何もかもを捨て去りレミリアは泣き続ける。握り締めた手に、涙が零れ落ちて行く。
「まったく、泣けば解決する事でもないでしょうに……。でも、大丈夫」
幼い吸血鬼を腕の内に収め、魔女は呟く。
パチュリーもまた、一つの後悔を抱いていた。
友人を信じず恐れ、万全を期した筈の行動の最後の最後で踏み間違えた自分に。別れの言葉の一つさえも、手向けてあげられなかった自分に。
「私も、咲夜の敵よ」
ちゃり、と金属質の音が響く。
レミリアの手から落ちた時計――蝙蝠の様な羽を象った懐中時計が、図書館の床で鈍く光っていた。
「咲夜さんっ!」
夕日の茜色も映さない曇天の下、紅魔館の門番は咲夜を呼び止めた。
わき目もふらず、館から門までを真っ直ぐに通り抜けようとする咲夜の足が止まり、そこに美鈴が駆け寄って行く。
この前の時以上に様子のおかしい咲夜を、美鈴は放っておけなかった。
「どうかしたんですか、また――――!?」
呼び止めて振り返ってもらい、そこで美鈴は咲夜の手に握られた一冊の本に気が付く。
それはあまり読書を嗜まない美鈴にも見覚えの有る、読む時に知識の要らない嗜好的な本――天狗の漫画本だった。
「……美鈴、いつから知ってたの?」
「…………そうですか」
低く静かに、咲夜が美鈴に問う。
明らかな敵意を滲ませて睨む咲夜の視線を正面から受け止めて、美鈴は答える。
「咲夜さんが二回目に永遠亭に行って、お嬢様がその後を追いかけて行った時にです。正確には、その少し前からですけど」
図書館を出て、咲夜はすぐにその本を開いた。
本の中身には興味は無く、パチュリーの言葉と渡された時の違和感――頁の隙間に挟まれた何かを見る為に、パラパラと高速で送り続ける。
程無くしてその手が止まり、咲夜の目の前に丁寧な字で綴られた、美鈴の手紙は現れた。
その手紙を咲夜に渡したのは、間違い無くパチュリーの意思である。
パチュリーの行動の意味を考える事はせず、美鈴はただパチュリーの意思に従い、その決定から想いを汲み取り話す。
「咲夜さんの夢については、パチュリー様から相談されていました。最近、特に夢についての相談が多いという事と、永遠亭を薦めた事も」
永遠亭で起こった事――永琳の診察とレミリアの襲撃、その仔細まで書き連ねられた美鈴の手紙を、咲夜はパチュリーから受け取った。
咲夜が永琳から何を聞き、レミリアが永琳に何を告げたかも、まるでその場で聞いていたかの様に、気味が悪いほど文面で再現されている。
なるほど、美鈴は外で自由に動ける、パチュリーの代わりなのだろう。咲夜はそう理解し、美鈴に対する感情を改めた。
「そして私の答えは――その手紙の通りです、咲夜さんにも、お嬢様にも内緒でパチュリー様に協力していました」
つまる所、美鈴はパチュリーと共謀し、咲夜を騙し続けていた。
理由など咲夜には知る由も無いが、少なくとも現実はそれに間違いは無い。
「そう……それじゃ、もう一つ質問しても良いかしら」
「はい。私に答えられる事なら」
「――どうして、私に知らないフリなんかしていたの?」
そして美鈴は、今の今まで、咲夜に何一つ打ち明けてはいなかった。咲夜の夢の事を知って尚それを隠し続け、咲夜と接し続けていた。
この事実が有ったからこそ咲夜は、今この場で美鈴に敵意を向けている。
最後の壁だと信じていた、美鈴に。
「それは、門番の我儘です。パチュリー様やお嬢様、咲夜さんの為の」
「我儘……ね、してやられたわ」
その事実を知らなかったからこそ、咲夜は最後の一歩を先延ばしにして、逃げる様に館での日常を求めた。
結果、咲夜の意思はより強く夢を求める様になり、今この時、最後の一歩を踏み出さんと門の前に立っている。
門番がその行く手を阻んでいなければ、もう一歩早める事も出来たのだろう。
「美鈴も、お嬢様やパチュリー様と一緒なのね」
心なしか、その表情に寂しさを含ませて、咲夜は呟く。皆が皆で咲夜に偽り続け、咲夜の忠誠をズタズタに傷付け、敵意を抱く今を嘆くように。
諦め混じりにふっと吐き出された言葉が、咲夜を騙し続けてきた美鈴の心に深く突き刺さり、傷口を広げていく。
咲夜の、言葉と気持ちのナイフを受け止め、俯き気味の美鈴の顔が持ち上がり、真っ直ぐに咲夜の背中を見据えた。
「私にはもう、咲夜さんを止める気は有りません。ですが、これだけは言わせてください」
飛び立とうとする咲夜の背に、美鈴が呟く。
咲夜は振り返らず飛ぶ事を止め、美鈴の言葉にじっと耳を傾けて、全てを覆すもしもの可能性を待つ。
もしかしたら、咲夜はここへ戻ってこないのかも知れない。――美鈴は、そんな風に思っていた。
嘘で塗り固められた関係にもしもなんて言葉は通じないと分かっていても、最後の壁を求めて。
「これから先、咲夜さんが紅魔館に戻って来ないかもしれないけど、それでも知っておいてください」
美鈴は、思う。
パチュリーの決意と、咲夜の決意を前に、門番の意志一つでは抗う事も叶わないだろう。
ならば美鈴の取るべき行動は、決して後悔しない為に、自分自身の想いを伝える事。
咲夜は振り向いて、館を背に想いを伝えようとする美鈴の姿を、見た。
「咲夜さんは、紅魔館のメイド長で、皆にとって大切な家族です。もしも、凄く悲しい事や、辛い事が有ったら、いつでも帰って来てください」
信じられる事も、叶う事も諦めて尚、美鈴は自身の想いを咲夜に憶えてもらおうとばかりに大きな声で、願う。
その言葉を聞いたのを最後に、咲夜は再び前を向き、地を蹴って飛び立った。
「……さようなら、咲夜さん」
悔いは無い、と言えば嘘になるだろう。
しかし、美鈴は自分のやるべき事をやった。それを誇りに、ぐっと悲しみを抑え付ける。
そして、遠く離れ行くその姿を、涙を湛えた瞳で、雲の彼方に消えるまで見送っていた。
暗くなり始めた曇り空を、咲夜は迷う事無く、真っ直ぐに永遠亭を目指した。
疑う事の無い平和な日常は既に崩れた。咲夜を諌める忠誠心も綻びが広がり、幼く鋭い敵意が紅魔館とその主への想いを引き裂く。
紅魔館から解き放たれた意志は咲夜の思いのまま、もう一人の咲夜、という真実を求めて夜空を飛翔する。
咲夜が永遠亭の門戸を叩いたのは、一寸先の竹も闇に紛れる程夜遅くの事だった。
明るい内はまだしも夜の竹林はその名の通り、道を知る者ですら気を抜けば道を外れてしまう、複雑な迷路でも在る。
幾度も訪れた事が有るとはいえ、無事辿り付く事が出来たのは、偶然にも等しい。
「すいません、今日はもう終わりなのです……が……」
待つ事十数秒、中から現れた兎は咲夜の姿を見るなり言葉を失い、その様相を見て固まってしまった。
彼女は今の咲夜に何を見たのか、臆病な兎の性質を差し引いてもおつりが来るほど一目瞭然だった。
それから一向に言葉を続けようとしない兎に、急ぐ咲夜の方から用件を切り出す。
「八意永琳に用事が有って、来ました」
煩わしそうにそう言うと、兎ははいっと驚き跳ね飛び、咲夜を中へ迎え入れた。
診療時間外だからといった些細な事は、今の咲夜にとって何の意味も感じられず、兎の先導を待たず真っ直ぐに目的の場所へと進み続ける。
他の兎達がなんやかんやと面白半分に集まって来るが、咲夜の道のりを邪魔する者は居らず、遠巻きに眺める程度だった。
それほどまでに、咲夜は平静を保っていられず、余裕の無い焦りを排他的な雰囲気で覆い、半ば殺気立たせながら歩いていたからだ。
「………ここ、だったわよね」
咲夜が辿り着いた所は、永遠亭の唯一の診察室であり、今この時間、永琳が居るであろう部屋。
此処に来て、戸を開こうとしていた咲夜の手が躊躇に震える。
真実を知って、それが何になるのか。冷めかけた感情が負の思考となって回り始める。
ただ、今此処で引き返したとしても、ただ苦しむばかりでしかない。ただ真実を知りたいというその決意だけが、咲夜の背中を強く押していた。
「あら、こんな夜中にどうしたの?」
予想通り、机に向かってこの日の診療結果を纏めていた永琳は、振り返りつつ言う。
その柔らかな微笑み、余裕の有る佇まい、暖かな雰囲気を前に、咲夜は微かで確かな安堵を覚える事に、何の疑問も抱かなかった。
同時に、咲夜の中で異常なまでの期待が、心から溢れ返りそうな程に湧き上がってくる。
不思議な、それでいて奇妙な安心感が、荒みかけていた咲夜の心を僅かに開く。
「……助けてください」
何を考える前に出て来た言葉は、救いを求めるもの。
心の拠り所を自らの手で潰し、ぐにゃぐにゃに捻じ曲がった忠誠と矜持の残骸を抱えて、幼子の様に縋り付く先は、優しい夢。
「貴女……」
ただならない咲夜の様子は、永琳をも驚かせた。
胸を押さえて、息も荒く、助けを求めに来た咲夜は、永琳の目にどう映ったのか。
少しの間固まっていた永琳は、咲夜の小さな呼びかけでようやく我に返る。
「――分かったわ」
理由を聞く訳でもなく永琳はそう言い、咲夜をベッドに座らせ、ドアを施錠し結界まで張り巡らせた。
物々しいまでの準備を無言のまま着々と進めているのだが、咲夜はそれに警戒をする事も無く待ち続ける。
元より永琳の評判や技術、知識を信頼していた事だけでも十二分、そしてそれ以上のものが咲夜の心を落ち着かせてくれている。
それどころか、記憶の裏で燻り続ける紅魔館への猜疑心や、今にも破裂しかねない咲夜の折れた心をも静めてくれそうな淡い期待さえ、咲夜は感じていた。
主やその友人達に対する憎悪にも似た黒い感情からの逃げ口と言ってしまえば、それを咲夜に否定する事は出来ないだろう。
何物にも縛られる事が無くなった今、咲夜は思うままにこの永遠亭へ足を運び、こうして永琳を前にして、記憶の処方を待っている。
「これ、呑んで頂戴ね」
棚と机から持って来たのは、黒い錠剤と二粒のカプセルと、少し大きめのコップに八分目まで注がれた水。
それらを小さめのお盆で手渡され、咲夜は零れない様丁寧に傍らに置いた。
すぐ横には無言で咲夜を見つめる永琳、目の前にはいつか見た薬、そこに疑う余地は僅かも無い。
躊躇う事無く薬を呑み下すと、間を置かずに意識が頭の裏側に引きずり込まれる様な錯覚と共に、視界が暗く染まる。
「…………」
眠りに落ちる咲夜を、永琳は押し黙ったまま、ただじっと見つめ続けていた。
悪魔が、笑っている。
真っ赤な口元を三日月の様に曲げて、その端からぽたぽたと同じ色の雫を零して、笑っている。
笑っている。笑っているのに、笑っていない。
視覚でしか感じられないはずのそのカタチに、高笑いが聴こえ狂気を感じ、恐怖に身体の感覚を攫われる。
その片手は悪魔よりも大きなものを軽々と持ち上げ、子供の様に苦も無く振り回す。
悪魔と呼ぶにはあまりにも似合わなさい小さな体躯だというのに、悪魔に相応しい牙と翼が、この悪魔を悪魔たらしめている。
逃げ出したかった。
恥も外聞も今この場においては紙屑に等しい。直感と経験が命の危機を目前に、警笛をけたたましく鳴らし続けている。
しかし、視界は動かない。逃げ出そうという意思を、身体が受け入れてくれていない。
閉じない視界が映し続けている、音も無く笑い続ける紅い悪魔と、その片腕が貫くもの。
その二つを、よく知ってしまっているから。
あの悪魔には、見覚えが有る。
あのものには、見覚えが有った。
記憶の破片が意識に収まるのと同時に、視界が黒く閉ざされる。
悪魔の激昂は姿を晦ましたが、心は未だ震えたまま、悪魔の姿を鮮烈に焼き付けていた。
そして休む間も無く、夢は次の幕を開ける。
周囲の空気が変わった、と思った。視覚しか残っていないはずなのに、それだけが分かる。
ぼやけた視界が少しずつ光を取り戻して行く。この曖昧さにももう大分慣れた、夢だとはっきり分かるだけに、少し気持ちが良い。
そうして現れた景色に、悪魔は居なかった。ただ白と黒の四角形だけが、自分以外を埋め尽くしている。
動く四角形、いや、視界が前へ前へと進んでいる。ぼろぼろになったであろう視界を引き摺って。
黒いぐるぐるやもじゃもじゃが、するりと物陰から現れて、隣を音も無く通り過ぎて行く。
ぞわり、と身体を虫が這いずり回った様な感触が走った様な気がして、身体が固まる。
それが何か分からない、得体の知れない何かが、あちこちを徘徊している様だ。
自分で意思を持ち動き回り、ばらばらに、重なり合って、忙しなく行ったり来たりを繰り返している。
しかしそれらは、今この場のイレギュラーであるはずの自分に何も興味を示さない。
人の形に興味が無いのか、それとも、自分だけに興味が無いのか。
自分とぐるぐるやもじゃもじゃだけの世界が、ずっと続く。
いつまでも、いつまでも、虚ろな視界を引き摺って。
まるで、人の形が自分しか存在しない様な錯覚が、懐かしさと共に心を突いてくる。
それを思い出す度に、じわりと押し寄せる心細さや不安が、小さな事の様に思えてきた。
比べるまでも無く遥かに黒い警戒心と敵意を持って、それを遠ざけてしまえば良かったから。
そうしなければ、心が負けてしまいそうだった。
生物か無生物、敵か味方かも判断出来ない、不気味な物体が跋扈する世界で、信じられるのは自分しか居ないからだ。
――――、―――
何処かから、微かな音が響いた。
聴こえるはずの無い、なのに感じられる音が、白と黒の世界を揺らがせる。
左へ、右へ、視界が激しく揺さぶられる。微かな音を頼りに、その元を見付けたいと心が叫んでいる。
味方の居ない世界で、記憶に残るものを頼りたかった、そんな幼心に身を任せて。
そうして振り向いた先に、灰色の何かが在った。
その何かから感じるものが、世界に罅を入れぐるぐるやもじゃもじゃを追い払い、白と黒の世界を揺らがせる。
いつの間にか聴こえていた音は歌になり、頭の中に直接響き渡り始めている。
この歌を知っている、はずだった。
でなければ、こんなに涙を流しているはずが、無いから。
♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪ .
悪魔の館、灰色の町、深い竹林、大きな日本家屋。
その歌に導かれて、眠っていた意識が最後の記憶と共に呼び起こされて行く。
♪♪♪♪ ♪ ♪♪♪♪ .
幼き悪魔、名も知らぬ人の形、兎の耳をした少女、銀髪の女性。
歌の進みに合わせて、灰色だったものが、形を取り戻し始める。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪♪♪♪♪♪♪♪.
恐怖、孤独、希望、幸せ。
意識が身体の自由を取り戻して、悪夢という名の記憶から、救い出される。
♪♪♪♪♪ ♪ ♪ ♪♪♪ .
八意永琳は、静かに歌っていた。
同じ言葉で、何度も、自分と相手に聞かせられるように。
そして、囁く様に、撫でる様に、優しく歌を紡ぐ永琳の膝の上で、目を覚ました。
「そう。そう……この歌……」
全て思い出せた。辛い記憶も嬉しい記憶も全て、元に戻った。
複雑に絡み合っていた記憶の断片が一つの歌によってパズルの様に綺麗に収まり、その答えを浮かび上がらせる。
失くしてしまった、永遠亭で過ごした記憶という過去を。
「……おかえり」
柔らかに、頭を撫でながら永琳が微笑む。
医者としての心遣いでも、八意永琳としての優しさでもない、
「はい……母様」
母の愛を、一杯に湛えて。
『あら、こんな所に子供……?』
『……!』
『ッ! ……どうしたの』
『ど、どうして刺さ……!』
『ほら、止めなさい。 そんな危ないもの、子供が振り回しちゃいけないわよ』
『やっ! 離し……!!』
『大丈夫。 ……こんなもの、いらない所、行きましょう』
『――――!』
辛かった?と訊ねる母を、子は無言で強く抱きしめ返す。震える肩にそっと母が手を回すと、たちまちぴたりと落ち着いた。
ぴりぴりと張り続けていたメイド長の糸がぷつりと切れて、母の身体にしな垂れかかる。
母様、そう言葉にする度に、身に掛かる重圧が身体の隅々から抜け落ちて行くかの様だった。
寄り場を無くし、自分の足で立つ事を余儀なくされた子は、よろけては堪えて、転んでは立ち上がって、必死にもがいた。
何も考えなくてもいい、ただ甘えるだけでいい、そう子供らしい時間を持つ事も叶わなかった。
他人の群れを離れて迷い込んだ竹林で、力無く崩れ落ちる手を取る者が現れるまでは。
「母様、私は……」
「いいの、何も言わないで」
母様と呼んで返事が返って来る、ただそれだけの事なのに、嬉しさに顔が綻んでいた。
片手に構えたナイフごと、抱きしめられたあの日の幸せを思い出しながら、ほわっとする安心感と充足感に、顔が熱くなる。
それを隠すようにきゅっと顔を寄せても、優しく受け入れてくれる。
幸せ過ぎて頭が茹ってしまいそうになりながら、もっとこのままで居たいと、少しだけ落ち着こうと抱きしめる手の力を緩めた。
身体を離して、もう一度母の顔を見る。あの時と変わらない母親の穏やかな微笑が、居てくれるという実感をくれている。
もう一度母と呼べば、すぐに返事は返って来る。いつ呼んでも、いつでも返って来る。
これから先、ずっとこの幸せが続くというのなら、何を投げ捨てても惜しくは無いと言い切れるだろう。
心を救われ、幸せに身を浸し、笑顔に時を費やす。そんな未来を確かなものにしたくて、もう一度母の温もりを求めた。
ふらり、寄りかかった上半身が傾いた。
慌ててしがみ付くも、体重を支え切れずベッドに倒れこむ。
訳も分からずじっと自分の手を眺める。一瞬、意識が遮断された様な強い違和感に手が緩るむ。
安心し過ぎて身体の力が抜けてしまったのだろう、手を持ち上げるのにも一苦労だった。
「……?」
不思議そうな面持ちで手の平をくるくる返す姿を、母は見ていた。
何をするでもなく、それだけだった。子に向けられていた落ち着いた微笑みも、その姿を隠して。
うんしょ、ともう一度起き上がって、もっと近くに寄り添いたいと、母の背中に手を回す。
その手は空を掻いて、その勢いに流されて再び身体が大きく揺れる。
傾く子を助けようとする手も出さず、真っ直ぐに見つめてくる子に笑顔も返さず、母は見ていた。
――さようなら。
そして、小さく、はっきりと、そう囁いた。
「あ……れ?」
身体が、力無く崩れ落ちる。
自身の意思そのものが、静かに、真っ白に消え去っていく様な喪失感が、頭の中を駆け巡る。
段々と虚ろになって行く視界に微かに見えるのは、静かに瞳を潤ませる永琳の顔。
支え切れずベッドに倒れる身体。離れて行く永琳に手を伸ばそうとして、その手も動かなかった。
「……貴方に飲ませた三つ目の薬。これは、効き始めの時間を調節した、お別れの薬なの」
「おわ……かれ……?」
永琳は、そう言う。
この、頭の中が真っ白に塗りつぶされていく感覚を、何処かで知っていた。
それも、思い出したばかりの幸せな記憶の、最後の最後で。
「……ずっと、後悔していたわ。貴方を止める為とはいえ、貴方の記憶を奪ってしまった事を」
悪魔の気紛れで孤独に追い遣られた過去、その記憶はいつでも生きる糧として燻り続けていた。
そしてその悪魔の所在を知り、復讐の念に駆られ、永遠亭を飛び出そうとした時。それが、無くした記憶の最後。
「吸血鬼に人間が復讐するなんて、昆虫が人間に牙を向けるようなものだから。
……貴方に死んで欲しくないから、と言っても弁解にもならないわね」
「あ……あ……」
「それで私は血気に逸る貴方を気絶させて、この薬を飲ませたの。もう二度と復讐なんて事を考えない様に。
……気紛れで貴方を拾い育てて来たからこそ、私がやらなくちゃって、覚悟はしていたわ」
あのまま朽ち果てていたとしたら、復讐にも孤独にも苦しむ事無く、その命を終わる事も出来ただろう。
それを一時の気分で、再び復讐に身を染められる時まで生き永らえさせてしまったのだ。
その罪は、永琳自身の手で始末を付けなければならない。例えその代償が、親子で過ごした幸せな思い出を失う事だとしても。
「そして、記憶を無くした貴方を、優しそうな人に託したの。
此処に居ると、また記憶が戻って来てしまうかもしれない、それに……私が、辛かったから。
けど、それで貴方があの吸血鬼の元に流れるというのだから、運命は残酷なものね」
図らずとも、咲夜は悪魔・レミリアの元に辿り着いてその従者となり、永琳と再会する事となった。
そして、再会してはならなかったはずの二人が再び出会い、過去を取り戻すトリガーとなってしまった。
永琳はそうなってしまう事を拒み、目を背け続けることも出来たのだろう。
そうしなかったのは、そう出来なかったのは、永琳に芽生えた母としての想いの所為。
「嫌……やっと、母様の事……思い出せたのに……!」
母に抱かれて、子は泣き続ける。
取り戻した記憶、里帰りした精神、安息の場所が今、手の平から零れ落ちるように、幻となって記憶より消え去ろうとしていた。
「貴方は貴方の幸せを手に入れたの。……だから、大丈夫」
「うぁ……あ……!!」
伸ばす手も届かなくなり、指先がしな垂れ落ちて、母の脚に寄りかかる。
微かに動いた口元から漏れる、何かを伝えようとした声は、開いてしまった僅かな距離の間に溶けていった。
「さようなら――」
必死に記憶を繋ぎ止めていた気力が、意識ごと闇に吸い込まれて行く。
力無く投げ出されたその手は、最後の、最後まで、母を求め続けていた。
『…………』
『どうしたの、そんなにしがみ付いちゃって』
『……怖い夢、見たの。 赤くて怖いのが、私に向かって笑ってきて、それで……』
『そう……ねえ、ちょっと手を出して、目を瞑ってて』
『?』
『――はい、あなたを護ってくれるおまじない』
『これ……懐中時計?』
『そう。 その時計が、あなたを怖いものから護ってくれるのよ』
『それって、母様のように?』
『ふふ、そうよ。 あなたにどんな悪い事が有っても、ね』
『ありがとうございます、母様――』
「…………」
咲夜が眠りに落ちたのを入念に確認して、ちゃり、と咲夜の首に、外していた時計を付け直す。
母と子を繋ぐ最後の欠片が刻み込まれたお守りを、二度と離れない様に、しっかりと繋ぎ止めた。
「それに……きっと私は、耐えられない。 本当の子供の様に育ってしまった貴女を失う悲しみを、永遠に背負って歩く事なんて」
永琳の時間は永遠であり、人間である咲夜の生と肩を並べるには、残酷なほどに離れ過ぎている。
しかし、自分と同じ運命を勝手な想いで他者に与えるなどという行為に走るほど、永琳は我を忘れ切れなかった。
だからせめて、幸せな姿だけを記憶に留めておきたいという自分勝手な想いを、咲夜の幸せと共に願った。
「……でも、一回だけ、ほんの僅かな間だけでも、私の子に戻って欲しかった。
貴方の姿を見て、そう想ってしまうのを抑えられなかった。
だから、私が私で居られた間に、こうしなければ……。わたし、の、せいで……」
言葉に悲しみが混じる。二度と交差する事の無い筈だった運命を、ささやかな願望の為に捻じ曲げてしまった。
そして、変わろうとしていた二つの運命の狭間で、永琳は恐怖に打ち勝てなかった
言った所で聞き入れる者も、それを許す者も居はしない。それは永琳が自らに科した罪として、永く心に残り続けるだろう。
幼い咲夜を引き取った気紛れは、永琳の心に深い傷跡を残していった。
「全部、ぜんぶ私のわがままだから……ごめんなさい、ごめんなさい……、ごめんなさい……ッ!」
始めに咲夜を送り出した時から、心の中で張り詰めていた我慢の糸が音を立てて切れ、泣き叫ぶ。
母だった者が子だった者に見せられなかった、最初で最後の贖罪の涙を、拭う事も忘れて。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
悲痛な叫びは、続く。 永遠の涙が、枯れ果てるまで。
空が白み始め、冷たい風が低い草原を撫でる夜明けの湖のほとり。
湖に住む妖精達も夢の中に居る時間の草原に、ぽつんと一つの影が落ちている。
そこには、緑の絨毯に身を投げ出して、時折唸り声を上げながら、メイド服姿の少女が横たわっていた。
「…………ん、う……」
とても幸せそうに緩んでいる寝顔の上で、風に揺れる銀髪が朝日を照り返して光る。
ころころと、何度か寝返りを打った所でその顔が苦悶のものに変化し、すぐに跳ね起きた。
「ッ――!! っあ――!!」
よたよたと振られる腕、勢いよく辺りを見回す頭、寝起きには少し厳しかったのか、痛む頭を抑えて蹲る。
痛みが引いて来た所で、自分が夢を見ていた事を確認し、今度は大きなため息を吐いた。
とても幸せな夢の最後の最後で、崖から突き落とされる様な、とても悲しい夢。
その感触が嫌に生々しく、目を覚ました今でも心臓の鼓動は速まっていた。
暫く待ち、少し落ち着いた所で深呼吸を一つ、そしてそっと手を胸元に当てる。
「時計……どこっ!!?」
そこに有ると思っていた大切な懐中時計が、その場所に無かった。
半ばパニックを引き起こしつつ、体中を両手で探る。袖の裏からソックスの内側まで、おおよそ有るはずが無い所にまで手が伸びている。
そして、背中に当たる何かに気付いて手を伸ばしてみる。身体の後ろ側に周ってぶら下がっていた懐中時計が、無事少女の手に収まった。
「よ、良かった……」
外装と中の文字盤を眺め、それが確かに自分の物である事を確認し、大きく息を吐く。
それからちゃんと見える様に、鎖を回して体の前に時計を下げる様にした。
ふと、何故この時計が大事なのか、少女はそんな事を考えた。
何の変哲も無い懐中時計、それなのに、手にしているだけで不思議と心が落ち着いてくれる、不思議な時計。
それだけでも十分だ、と満足して、時計をしっかりと握り締めて、少しの間気分を休めた。
日も昇り、太陽が丸い姿を見せる頃になって、少女は立ち上がった。
寝起きの一騒動も、落ち着かなかった気分もすっかり良くなり、もう休む必要は無いと草原に別れを告げる。
そうして周りを見渡す、しかし視界に映るのは湖ばかりで、陸地は非常に遠かった。
仕方が無い、と少女は振り返る。
その先に、見上げる様に大きく紅い洋館が見えた。
見るからに禍々しい、怪しい洋館に少女は目を丸くし、一歩足を引く。
ちょっとだけ怖い、そう思ってこの場から離れようと踵を返す。
――――もしも、凄く悲しい事や、辛い事が有ったら、いつでも帰って来てください
「……?」
ふと、そんな言葉が脳裏を過ぎった。
何処で聞いたのかははっきりとは覚えていない、しかし、聞いた様な覚えは有る。
もう少し深く思い出そうとするも、頭の中に霧が掛かったように、ぼやけた形しか見えない。
確か、記憶に有るとおりなら、その人は紅い館を背にして、そんな事を言っていた。
その紅い館というのが、目の前に聳え立つこの館なのではないだろうか。
「……」
記憶を信じる、信じないを考える前に、少女は紅い館へ足を進めていた。
何らかの、記憶に残る様な事が有った、それを知りたいが為の欲が、無意識にでも館へ向かえと体に命令している。
半ば吸い寄せられるように、少女はふらふらと木々の間を歩き続けた。
「……ッ、ぅ……」
夜明けを迎えた永遠亭の診察室、ただ一人机に顔を伏せて、呻いている女性が一人。
長い銀髪はぼさぼさに跳ねて、少し薄汚れている様にも見える。
時折肩を震わせてしゃくり上げる音だけが、静かな診察室に響いていた。
「……永琳?」
ドアが開いて、黒髪長髪の少女が顔を出し、ぱたぱたと机に駆け寄った。
永琳と呼ばれた女性は、その少女の声に気が付いて、顔を上げる。
その目は周りも含めて赤みを帯びており、その下には涙の跡が幾筋も残り、微かに隈も出来ていた。
「ああ、輝夜。おはようございます」
力無い声が、元気そうに振舞おうとしている姿を哀れなものにしている。
一晩中、泣き続けていたのだろう。両袖に大きな染みを作り、朝を迎えた今でも乾いていない。
月の頭脳、らしくない姿を見とめ、輝夜はふうと一息、緊張を崩しておはようと返した。
「……涙は枯れたかしら?」
更に輝夜は、皮肉も込めて永琳に問う。
精神も肉体も無理をし過ぎて少しやつれた顔を、無理矢理綻ばせた様な痛々しい笑顔で、永琳は言葉を返す。
「ええ、もう流す涙も有りません。一生分、泣きました」
それに合わせたか、永琳も皮肉をたっぷり込めて、そう言った。
輝夜はその答えに満足したのだろう、こくりと大きく頷いて、永琳を部屋の外へと誘う。
「朝ご飯が出来ているわ、一緒に食べましょう」
「はい、輝夜」
その手に連れられて、永琳も一緒に診察室を出る。
誰も居なくなったベッドを振り返り、ドアを閉めようとして、服に挟まっていた竹の葉が一枚、はらりと舞った。
やがて、少女は大きな門の前に辿り着く。
館を囲う塀の一箇所に、大仰に構えられた門が一つ、門番を付けて中に入ろうとする者を迎えている。
しばらく眺めていると、門番をしていた赤い長髪に緑のチャイナドレスを纏った女性が、少女の姿に気付いた。
「ん……? あ……えっ――!?」
視線が少女の顔に向くなり、その表情が驚愕の色に染まった。
そして物凄い勢いで少女に走り寄ると、その姿をまじまじと眺め始めた。
急な女性の行動に戸惑いながらも、少女は黙って待ち続ける。
その後も、何度も何度も少女との再会を喜ぶような事を言いながら、涙を流して手を取ったりと、並ではない歓迎のようである。
一言も反応しない少女を見て、女性は何かに気付いた様にはっと口を押さえた。
そして、門の傍らに戻って直立の姿勢を取り、礼を持って少女を迎え入れる。
「……お嬢様がお待ちです。どうぞ、中へお入りください」
丁寧な態度と言葉、それと同時に巨大な門があっさりと開いて、少女を館の中へと誘う。
未だ戸惑いを隠せずにいながらも、少女は言われるがままに門を通り、館の中へと入って行く。
背を向け歩く小さな後ろ姿を、女性は瞳を潤ませて、ずっと見つめていた。
その胸に、何処か懐かしいものを思い起こしながら、その姿が館の中に消えるまで、ずっと。
館の中は灯りが少なく、窓がほとんど無いからか日の光も射さないため、少し先も見難くなっている程に、薄暗い。
ドアを抜けた目の前に、中世のお城の様な大きな階段が広がり、客を圧倒している。
その上る先を少女が目で追うと、上り切った所に王座の如く背の高い椅子が鎮座していた。
ただならない雰囲気に少女はしり込みするが、門番の女性は少女を迎え入れた。
それだけを安心の頼りにして、コツコツと階段に向かって歩いて行く。
その椅子には、一対の大きな羽を持つ幼い少女が、堂々と座っていた。
羽が生えた少女という存在を前に、少女は恐れる事無く寄って行く。
一歩一歩近付く毎に、薄暗い部屋の中にその姿が浮かび上がっていく。
薄い桃色の帽子に、それに色を合わせたワンピース、青みがかったシルバーの髪が肩まで伸びている、見た目には可愛らしい少女。
その少女が、足を組んで威圧的に座り、体より大きな羽を揺らしている様は、逆に恐怖してしまいそうな奇妙さが有った。
玉座に腰掛けている少女も、来客に気が付いた。
瞬間、威圧的だった顔は驚きに目を丸め、足音が響くほど勢い良く立ち上がり、しっかりと少女の顔を確認している。
そして、くしゃくしゃになってしまいそうな顔を袖で強く拭って、それでも涙を讃えた瞳で、真っ直ぐに少女を見つめた。
『……貴女、私に復讐しに来たの?』
『復讐? ……何の事?』
『何の事って、私の台詞よ。 どうして貴女は此処に居るの』
『分からないわ』
『……面白いわね、貴女。 本当に面白そうだから、私の元に居なさい』
『……いいの?』
『ええ、良いわよ。 尤も、この悪魔の館に居座る勇気が有るのなら、だけど』
館の主、吸血鬼レミリアは、館を訪れた客を見て驚きを表しきれなかった。
レミリアが最も重用した従者、生涯を共にすると誓った従者。
そして、信じ切れなかった自分の所為で、心から離れていってしまった従者が、あの時の姿で今、目の前に居る。
諦めていた筈の運命が、レミリアの思惑の外で再び0の位置から回り始め、二人は二度目の出会いを迎えた。
「貴方、名前は何て言うの?」
歓喜と緊張で震える声を必死で抑え付けて、レミリアは少女に問いかける。
少女は少し考えて、首を横に振った。
「まあ、何でも関係無いけど。私が、貴方に名前をあげるわ」
そしてレミリアは、再び彼女と共に運命を歩み始める。
今度こそ、後悔の無い未来を、掴み取る為に。
いい?貴方の名前は――――
心地よい目覚めというものを経験したのは、まったくいつ以来だっただろうか。
そもそもうたた寝こそ珍しいというのに……そんなことを考えながら、八意永琳はむくりと机に突っ伏した上体を起こした。
机の上に乱れはない。いつも通り、急患もまれな診察室。寝起きにしてははっきりし過ぎている現実感が、かえって記憶の脱落を意識させる。
眠りに落ちる前までの行動が、目覚めの良さに洗い流されているのだ。日はいつの間にかやや西に傾き、肌に触れる空気にも熱っぽさがない。
薬の調合の最中に、ふっと瞼が降りたのだろうか。曖昧どころか微塵もその時の記憶がないのはかえって清々しくもある。
予期せぬ午睡を貪ってしまった割には、やはり不快感は起こらなかった。
「本当に……珍しいこともあるものね」
背中からするりと毛布が滑り落ちるように、ほろり、一言は口をついて出た。誰に聞かせるわけでもない、自分自身への確認。
「珍しいって、何が?」
後ろからの声に振り向けば、蓬莱山輝夜がいる。毛布を掛けてくれたのも、きっと彼女だろう。
「まさか、ずっと待ってたの?」
「ええ。永琳が居眠りなんて、あんまりないことだし」
「珍しいのはそれだけじゃないけどね」
「そうなの?」
輝夜は首を傾げながら永琳の方へ歩み寄り、すぐ隣、患者用の椅子へと腰を下ろした。二人向かい合い、ちょうど診察の格好になる。
永琳は笑み一つで応じると、机の上を片づけ始めた。居眠りしてしまうような作業など、続ける程の価値もないだろうから。
「夢を……」
「うん?」
「夢を、見たの。初めて」
「まあ……」
手を口に当てて、「いかにも」といった驚き方の輝夜だが、それが真実彼女が驚いている時の反応なのを永琳は知っている。
月人は夢を見ない。夢とは穢れの残滓に他ならず、夢を見るのは地上人たる証であった。穢れなき月の都にある限り、永琳も輝夜も、そして鈴仙でさえも、夢を見ることはなかった。
その永琳が――もっとも穢れに遠いと輝夜でさえ思う永琳が、夢を見たのだ。
驚かずにいられる方が不思議だった。
「軽蔑した?」
「まさかね。むしろ、羨ましいくらいよ」
輝夜は興奮そのままに、ぐいと身を乗り出してくる。
好奇心をいたく刺激されたらしい。
しかしあっさりと、こともなげに――永琳は夢を語る。
「輝夜の優曇華の花、咲いたのよ」
「あら。ずいぶんと夢のない夢ね」
「ええ……それで、私は見てるの。あの子と」
「永琳」
叱咤するような声が出た。それでも輝夜はかまわないのだろう。
もちろんその言わんとする事など、永琳は百も、二百も承知だった。
二度目の別れから既にひと月、いやふた月は経っただろうか。
全てが済んだ事に違いなく、感情の奴隷となっていつまでも過去の絆に目を向けている程、永琳は愚かでも弱くもなかった。
それでも、
「……輝夜。私は、正しかったのかしら」
「弱気ね。月の頭脳らしくもない」
「ふふ、まあね。慣れないことに手を出した我が身を呪えばいいかしら」
「ますますらしくないわよ、それ」
「いいじゃない、らしくなくたって」
時の流れも、変化もなかった永遠亭とて過去の事なのだ。変化に戸惑い、過去を悔い、「らしくなく」とも許容できる。それは輝夜も同じはずだった。
あの日以来、銀髪の従者の消息は絶えていた。
彼女の過去を塗りつぶし、我がものとだけしたのは永琳自身。それが最良だったとは思うが、一抹の後悔と不安は、どうしても拭えなかった。
「どうしているのかしらね。あの主従は」
「さあどうかしらね。どのみちそれはもう、あなたの物語ではないわ」
「そうしたのは他ならぬ私自身、か」
「ええ」
ただ一言でもはっきりとした口調。それは輝夜が今を、そして未来を見ている証明だった。
自分もかくあらねばならない……そうは思っても、永琳の心にくすぶる何かは、消え去りはしない。
せめて彼女がどんな道を歩んだのか。レミリア・スカーレットは、彼女にどんな運命を与えられたのか。
ただそればかりが、最後の最後に、気がかりだった。責任を負って生きる為にも、知っておきたかった。
ふっと、輝夜は立ち上がった。
「……訪ねていけばいいじゃない。会ってくればいいじゃない」
「そんな、まさか」
何を以て彼女に会えるというのか。
出来るはずがなかった。自ら、夢に終止符を打ったのだ。幕が下りてしまえばそこは現実、再び夢の中へ戻るなど、あり得ないのだ。優曇華の花が今この瞬間、決して開かぬように。
「そう言うと思った」
「期待通りで不満かしら?」
「まあまあ。五十点ってとこかしらね」
「そう?」
それだけ言うと、輝夜は診察室を去って行った。
ちょうど、入れ違いの鈴仙を避けるようにして。
「し、師匠!」
息を切らして永琳を呼ぶ鈴仙は、へたった耳を直そうともせず、余程焦って来たらしい。
相変わらず落ち着きのない弟子に、永琳は溜息を吐いた。彼女には少しくらい変化、というより成長が欲しい。
「ふう、まったく騒がしいわね」
「あ……も、申し訳ありません。ですがっ」
「用件は」
「はい、その、来たんですよ! あの二人が!」
「え……」
弟子への呆れも、師匠としての余裕も、全てが消し飛ぶ報せ。
頭で理解するより早く、心臓の鼓動が高まるのを永琳は感じた。同時に押し寄せる圧倒的な不安。
「……いったい、いったいどういう用件で」
「診察、だそうです。その……従者の夢見がよくない、と……」
「それは……」
生唾を飲み込む感覚さえも久しぶりで、新鮮で、恐ろしく感じられた。
それはまさしく、あの運命の日の再現だったから。
彼女との絆は、もう永遠に断ち切ったはずだ。
きっと悲劇が待っていたであろう、悲しみの絆は。それが、再び結びついてしまったとでも言うのか。運命の悪魔でさえも、その呪縛から解き放てなかったというのか。
目の前には、指示を求める鈴仙がいる。
だがそれに応えるよりも早く、師弟の耳は、近づく足音をとらえていた。
二人は、凍り付いたように動けない。足音はさらに近づく。比例して高まりゆく動悸。
そして開かれる扉、悪魔と従者が、二人で居る。
「まったく、患者を待たせるなんてやっぱり藪医者だね」
「あ……」
くすくすと、レミリア・スカーレットは笑った。まるで呆然とする永琳らをおかしむ様に。
隣で彼女は瀟洒に、それよりも満足げに侍している。
悪夢の始まりの日の光景は、そこにない。
瞬間、電撃に打たれたように、永琳は悟った。
素早くレミリアに目配せする。
返事の代わりにウインク一つ、全く、底抜けに明るい悪戯げな笑みだった。
全身から力が抜け、へたへたと、永琳は椅子へ崩れ落ちる。あわててそばへ鈴仙が駆け寄った。
「し、師匠!」
「ああウドンゲ……これは、これは……」
夢ではない。紛れもなく現実だった。悪魔とその従者は、新たな物語を掴みとっていたのだ。
そしてそれは、永琳さえも巻き込んだ物語。
レミリアに促され、彼女が歩み出る。小さく刻印の入ったものと、蝙蝠の羽を象った、二つの懐中時計を揺らして。
真っ直ぐに永琳を見つめる視線は、温かく、どこか恥ずかしげで。
そこには涙はない。永琳の知る、かつての彼女さえもなかった。
ただあるのは、新たな道を歩む少女の姿だ。
その産声を、永琳は永遠に忘れないだろう。
例えそれが、ごくありふれた、たった一つの言葉であっても。
――ただいま、母様
毎日同じように押し開き続けた結果、両開きの二枚の扉の左側にはうっすらとした黒ずみがある。今日もそこに手をあてた瞬間、十六夜咲夜は違和感を覚えて硬直した。
あれ。
何だろう、と思う。
右手に載せたトレーには過剰装飾としか思えないほど意匠を凝らしたティーカップとティーポット。中身は淹れたばかりの紅茶。その横のラングドシャは勿論手作りで「今日のクッキーは美味しいわね」と言われたら「ラングドシャですよお嬢様」と返す予定だ。
完璧である。瀟洒でもある。何も問題ないように思う。
――気のせいか。
頭の中のゴミ箱に違和感を捨てて、咲夜は体重をかけなおし扉を押し開いた。
「珍しいわね。一分も遅いだなんて」
そう言って咲夜を迎えたレミリア・スカーレットの声は広い部屋によく響いた。
幼い声のどこかに椿事を楽しむ音が含まれており、小さな口の端からは好奇心旺盛な犬歯が零れている。
レミリアは掛け時計へ目線を持ち上げて、
「それとも自慢の時計の針が狂ったかしら」
「私の針は狂いませんよ」
レミリアが頬杖を突いて待っているテーブルにトレーを置いて、咲夜は掛け時計へ目をやった。
体内時計を頭の中に呼び出して今の時間を秒単位で確認し、
「あら、このまえ調整したばかりなんですけどまた狂ってますね。そろそろ買い換えたほうがいいかしら」
「なんだ面白くない。期待して損した」
「何か変な期待をしていたんですか」
「そりゃ、里の歴史家が歴史の年号を間違えたら面白いでしょう。永遠亭の藪医者が薬の匙加減を間違えたら笑えるでしょう。そういうこと」
「後者は医者本人が笑ってすませそうで笑えませんわ」
「とりあえず手入れが行き届いてないことと、私に期待を抱かせたことの罪は重い。減給を覚悟してもらうわよ」
「門番にそう伝えておきます」
「じゃあ連帯責任で門番も減給だ」
咲夜は小さく笑って紅茶とお菓子をレミリアの前へ置いた。
「もしかしていつも時間を気にしていらしたんですか?」
「毎日機械のように同じ時間に入室してくるもんだから、いつそれが崩れるのか楽しみにしていただけ。ふむ、今日はクッキーか」
「ラングドシャですわお嬢様」
「そう、ね、知ってたわよ」
注意深く観察しなければ分からない程度にレミリアの頬が紅くなったのを見て咲夜の口元が緩む。
レミリアはラングドシャを口に放り込み、そこに記憶をしまっているかのように天井を見つめた。
「はふやが――」
「はしたないですわ。飲み込んでから喋ったほうがもっと素敵ですよ」
「ん……咲夜が風邪を引いたときだったかな。一度だけ遅れたことがあったね」
「そんなこと、あったでしょうか」
「あったわ。美鈴が慌てふためいていたのを覚えている。何度も寝かしつけようとしているのにもかかわらず、大したことはないと強情にしていた。意識がもうろうとしていたから記憶が飛んでいるのか、覚えてないふりをしているのか」
レミリアはもそもそと口元を拭い、ティーカップへ手を伸ばした。紅茶をゆっくりと飲み込み、ホゥと一息吐いて怪訝そうな顔で咲夜を見つめる。
その視線に気付き、咲夜は小首を傾げ見つめ返す。
レミリアはちょいちょいと咲夜を手招きした。そして、何か重大な秘密を打ち明けるかのような深刻な表情で、ちょこんと小さな舌を出した。
「あ」
真っ赤な舌の上に、銀色の髪の毛が紅茶と唾液に濡れて光っていた。
レミリアの目尻が愉快そうに垂れた。更に舌を突き出して何か言いたげにじっと待っている。
「申し訳ございません」
咲夜の言葉を受けてもレミリアは無言。舌を突き出したまま固まっている。
どうやら、取れ、ということらしい。
舌の上から銀色の髪の毛をつまみ上げようと恐る恐る差し伸ばした咲夜の指先が熱に触れる直前、レミリアは舌を引っ込めて髪の毛を飲み込んだ。
「……お腹壊しますよ」
「面白い。紅茶にこんな隠し味をしてくれるなんて初めてじゃないかしら。何かあったの?」
「……月の日で」
「それは先週でしょう」
「なんで知っているんですか」
「咲夜から美味しそうな匂いがするんだ。ああ、別にくれと言っているわけじゃないんだから睨むなって。冗談よ」
咲夜は深々と息を吐いた。
「もしかしたら知らないうちに疲れが溜まっていたのかもしれません」
「嘘ばっかり。こっそり時間を止めて昼寝しているのは知っているのよ。見ろ、その肌の潤いはどう考えても十時間は寝た人間の――あれ?」
レミリアは咲夜の手首を掴んで手の甲を撫でた。
「なんかカサカサしてる。本当に寝不足か何か?」
「えッ!」
咲夜は、不意に熱い物に触れたかのように手を引っ込めて、レミリアに触れられた部分を発火する勢いで撫でた。
今日は六時間ほど時間を止めて休息を取ったはずで、心身ともに万全のつもりだった。
万全のつもりだったのに、紅茶に髪の毛が入っていることにも気付かなかったのか。
唐突に、先程感じた奇妙な違和感が、黒々とした予感となって咲夜の中に広がっていった。
咲夜はもう一度掛け時計へ目をやる。そして引ったくるようにポケットから懐中時計を取り出して時間を確認し、
「ちょっと失礼しますね。まだやることが色々と残っているので」
軽く頭を下げて踵を返す。
トレーをテーブルの上に置き忘れていたことに気付いた。が、そのまま歩き続けた。
「咲夜」
退室の間際に声を掛けられ、
「あの時計は直さないの?」
「……後で直します」
「そう。じゃあ、あとでクッキーのおかわりを持ってきてね」
扉を引くと、背後でレミリアがティーカップをソーサーから持ち上げた音が聞こえた。廊下の空気が流れ込んできて咲夜の前髪が揺れる。早歩きで部屋を抜ける。扉が閉まる気配を背中で感じる。
――――ラングドシャですわお嬢様。
そんな軽口が、出てこなかった。
扉越しの視線から逃れでもするように、離れたところで廊下を曲がってから、咲夜は左手に握る懐中時計をもう一度見た。
自分が知覚する時間の流れとは、絶対に狂わないはずの体内時計とは明らかに違う、そこから一分も進んだ時間が刻まれている。
その〝ずれ〟に、はっとするのと――――目の前に突然現れた小さなこうもりが、ぽん、とはじけるのは同時だった。
明るめの紅をした煙がほこりをはたいたように広がって、すぐに空気の中に溶けてゆく。
しかしびっくりするほどでもなく、むしろ咲夜にしてみれば慣れたこと。ほんの一瞬前には黒いこうもりだったものが、今は四角く形を変えてじゅうたんに落ちた。
主がときおりいたずらもかねて飛ばす、伝言の使い魔だった。その場で面と向かっては伝えずに、こうやって手紙で追いかけるのがかわいいと思っているらしい。
ひろい上げたその封筒は、やはりいつも通り、これまた小さくこうもりをかたどった封がしてある。
こころなしか、普段よりも分厚い気がして、咲夜はちょっと首をかしげた。ささいな用事の書かれた手紙が一枚入っているのではなさそうだ。
ついさっきまでの焦りにもにた気持ちが、好奇心で隠れてしまう。
それでも、恐る恐る封を切ると、中からは綺麗に折られた手紙が一枚、それから、すこし厚手の紙が一枚。
咲夜が先に目を通したのは、見慣れぬ厚紙の方だった。
A Glorious Destiny requests the honour of your presence at her birthday celebration Saturday the fifth of February at 12 noon, for high tea Scarlet Manor,Far East of Eden |
「……招待状?」
特徴的な、レミリアの流れるようなペン遣い。血のように赤々としたインク。
しかし咲夜の首をかしげさせたのは、何よりも不思議なその内容だった。
確かに、招待状には違いない。
何へ? ――――誕生会へ、だ。
誰の? ――――〝運命〟の、だ。
「運命……」
確かにそう書いてある。輝かしき運命の誕生、その祝いの席へ招待する、と。
ふと、咲夜は頭の中でカレンダーを経めぐらせた。誰か誕生日だったかしら、と。けれども大事な館の主たちの誕生日であれば忘れているはずもなく、これといって招待状の日付に心当たりはない。運命と言うならまっさきにレミリアが浮かぶけれど、主人の一大イベントを、まさか咲夜が忘れるはずもない。第一の不思議。
それからもうひとつ、誕生パーティの日時がおかしい。そこには、夜行性の吸血鬼ならまずあり得ない時間が書いてある。ただでさえわがままな夜の女王が、どうして自分に都合の悪い様な時間にパーティを催すのか。もちろんレミリアだって万年夜行性というわけでもなく、昼間にふらりと広い幻想郷へくりだしてゆくこともある。けれど紅魔館での催しは、たいてい夜と相場が決まっているのだ。第二の疑問。
いくら完全で瀟洒なメイドとはいえ、そこから読みとれる情報が少なすぎてはどうしようもない。
もやもやした気持ちはそのまま、一度赤々とまぶしい招待状を咲夜は封筒にしまった。きっとヒントは、もう一枚の手紙のほうにある。
手触りのよい、館ではレミリアだけが使っている紙。三つ折りにして丁寧な折り目がつけられていた。
開く。
先ほどと同じ筆跡だが、ややくだけた感じのある文字が躍っている。どちらかと言えば、咲夜になじみのある主の筆跡だ。
そこにつづられていたのは、ごくごく単純な、けれどもレミリアらしい事務連絡だった。
すなわち、パーティをするからメイド長として準備すること。万事その準備はぬかりなくすべきこと。紅魔館の皆を招待すること。そして、何より咲夜自身が常に完全で瀟洒たるべきこと。
運命。それが何かは、一言も触れられていなかった。
「輝ける、運命。その誕生会」
自分の理解しやすい言葉にして、もう一度反芻してみる。
ただの気まぐれにしては、すこし、毛色が違う気がした。もしや、自分の〝時計〟がずれていたのを気にかけた主が、急いで咲夜の気を紛らわすような行事を思いついたか。
招待状をもう一度取りだしてみる。きっと、何日か前に用意したに違いないものだった。
となれば、それは、何よりも優先すべき主命ということ。
「忙しくなるわね」
問題山積。
けれどまずやるべきことは、自分の〝時計〟を直すことなのだろう。
紅魔館の地下には常軌を逸した広さの図書館があり、そこを根城にしている者へ紅茶を持って行くのは咲夜の仕事だった。理由は簡単である。キッチンから持って行く間に紅茶が冷めるので、時間を操れる咲夜が適任なのだ。
背の高い本棚が整然と並んだ区画は神経質な迷路と何ら変わらず、雑然と並んでいる区画は今日もまた整理を命じられたメイドたちの手によって配置が変えられている。天井には『がんばれ泣くな』と書かれた迷子になったメイドを励ます貼り紙があり、迷子になることを前提にしているメイドの仕事ぶりに、咲夜はいずれ自分が何とかしなければならないだろうと覚悟だけはしていた。
「……夢見が良くない?」
図書館の中央。
動かない大図書館ことパチュリー・ノーレッジは抑揚のない声で咲夜の言葉を繰り返した。
「正確に、そう、とは判じかねますが。なにぶん初めてのことで戸惑っております」
咲夜が個人的な用件でこの日陰の魔女と話をする事は少ない。
もっとも、世間一般を知らぬ頭でっかちのきらいがある彼女への個人的な相談は、実入りが少ないのではという思いもある。
「夢見る少女なのね」
くすりとパチュリーが笑う。
音のするくらい勢いをつけて、ぽむ、と本を閉じる。パチュリーは眠たそうな瞳を持ち上げ咲夜の顔を見た。
平時から人の話を聞くときにも本へ目を落としているパチュリーが本から目を離したことに咲夜は少しだけ驚いた。
「何と言うか、あなたってば、人間じみてないでしょう? 夢見なんて言葉とは、あまり結び付かなかったわ」
「そうでしょうか、私ほど人間らしい人間もいないと思っているのですが」
「ふふ、なかなか面白い冗談ね」
あまり超人の如く認識されるのも、正直困りものである。
こと咲夜は、自分が人間である、という事への思い入れが強いだけに。
「それにしても仕事も手に付かないほど咲夜を困らせるなんてどんな悪夢かしら」
パチュリーがテーブルの端に追いやられた焦げたスコーンへ目を向けた。咲夜が紅茶と一緒に持ってきたものだった。どうぞ召し上がれとテーブルに置く瞬間までスコーンが焦げていることに咲夜は気付いていなかった。
憔悴しきっていた。目の下には化粧でも誤魔化せないほどクマができているし、充血した目はどんよりと赤黒く濁っている。寝ようとはしているのだが、その度にとんでもなく恐ろしい夢を見て飛び起きてしまう。
「夢の内容ははっきり覚えている?」
「いえ……」
「じゃあ霊夢じゃないわね」
「私は咲夜ですわ」
「霊夢っていう夢があるのよ。神託が下るありがたい夢らしいけど、幻想郷には安っぽい神様や迷惑な神様ばかりであんまりありがたくないのかもしれないわね。それに内容を忘れているようじゃその類でもないでしょう。すぐ忘れてしまう霊夢なんてまるで意味が無い」
「私は、夢の意味を問いたいのではありませんわ。お嬢様のお給仕に差し支えがあるので、パチュリー様の魔法で、この夢見の悪さをどうにかしていただけないかと」
「魔女の実用的な活用ね」
「申し訳ないとは、思っておりますわ」
「いいけど。あなたの体調が良ければレミィは喜ぶだろうし、私も美味しいお菓子を食べられる」
「私の為には、思って下さらないのですか?」
「『他ならぬあなたの頼みだから』なんて言って欲しい?」
「もう。パチュリーさまは意地悪でいらっしゃるのですね。お嬢さまのためにお願いするに決まってるじゃありませんか。私は永遠にお嬢さまのしもべですわ」
心なしか頬を染めて、咲夜は誇らしげに言った。
「あなた、それが言いたかっただけでしょ」
パチュリーは溜息一つ吐き出してから、テーブルに置かれていた呼び鈴を、リン、と鳴らした。
すぐにパタパタと羽を揺らして小悪魔が現れた。パチュリーに呼ばれたことが嬉しいのか、来る途中にお金でも拾ったのか、やけに上機嫌に見える。
「小悪魔。あなた、あの天狗の新聞を取っていたかしら」
「えー! パチュリー様いらないって言ってたじゃないですか。窓ふきに使って捨てちゃいましたよ。あ、咲夜さん知ってました? 新聞紙って窓を拭くのに便利なんですよ」
「あれはいつだったかしらね。花の異変のあたり……薬師を扱った記事があったはずよ。持ってきてちょうだい」
「第百十九季、師走の一ですね。少々お待ちください」
駆け出す小悪魔の背中を見届けてから咲夜はぽつりと、
「……窓ふきに使って捨てたんじゃ」
「嘘よ。ここに窓なんて無いもの」
しばらくして小悪魔が新聞を片手に戻ってきた。パチュリーはそれを受け取り、
「あなたのその用件なら、私に頼むより適任がいると思うわ」
ひろげた紙面に細い指が示す先。
「これね。さながら竹林に住まう貘、と言ったところかしら」
「胡蝶、夢丸?」
そこにあったのは、悪夢を晴らし寝覚めの良さを謳う「胡蝶夢丸」なる薬を開発した薬師――――八意永琳の記事であった。
「淫夢でも見られそうな名前のお薬ですね」
「咲夜なら見ても可笑しくないのかもしれないわ。そういうの好きでしょう?」
「そうかもしれませんね」
咲夜はくすくすと微笑んだ。白い頬には僅かな赤みも差さない。
面白くないと小さく鼻を鳴らしたパチュリーは、喋りすぎて乾いた唇を冷え切った紅茶で湿らそうとティーカップへ手を伸ばした。
瞬間、口を付けるには熱すぎる淹れたての紅茶へと変わっていた。
「冷めていましたので」
「意地悪」
伸ばしていた手を引っ込め、
「とにかく、レミィには私から伝えておくから、気になる内に行っておきなさい」
「永遠亭にですか? 気が進みませんわ」
「無理にとは言わないけれど」
「そういえばタケノコを切らしていましたわ」
「はいはい」
読み終えた新聞を小悪魔に手渡す。小悪魔はそれを受け取ると、さも重要な、それこそ家宝かなにかでも扱うように丁寧に持ったまま、本棚の森へと消えて行った。
「あれって文々。新聞ですよね? あんな大事に扱う資料でしたっけ」
「小悪魔の言動を素直に受けとらないことね。まあ敬うべき資料じゃないけど、捨てるほど無価値でもないわ。真実が書かれているのなら、どんなに低俗な文章でも知識になるもの」
「知識、ですか」
「そう。『知は力なり』よ。覚えておくことね。そして、夢もまたその知のひとつの表れであると言うことも。夢は、記憶という脆弱な経験の集積からも切り捨てられた哀れな力の残滓よ。けれどそれを知ることは、やはり力となるに違いないの」
「相変わらず難しい話ですね。ちっとも耳には残りませんけど」
「だったら肝に銘じておきなさい」
「その言葉、なんだか痛そうで嫌いなのですよ。でも、気が向いたらやっておきますわ。それでは」
ふわり軽い一礼を残し、咲夜は図書館を後にした。
つかの間の人声が絶え、静寂が舞い戻る。日陰の魔女は深く息を吐いた。小悪魔の遠ざかる足音に、耳を澄ませるが如く。
熱かったはずの紅茶はメイドがいなくなるのと同時に冷たいものに変えられていた。再びカップへ手を伸ばし、じっと視線を注ぐ紅茶の紅が、色素の薄い彼女の瞳を彩っている。
一言。誰にも気づかれぬほどか細い声で、魔女は言った。
「さて、どう転ぶかしらね……」
誰に向くでもなく、そのひとことはぽろりとこぼれた。
「行ってらっしゃいませ、咲夜さん」
紅魔館の門番、紅美鈴の見送りを受けて、群青と茜の混じる空に、咲夜は飛び立つ。
少しばかり肌寒い風を感じながら、目指す迷いの竹林へと、真っ直ぐに向かった。
広大な紅魔館を一人で支えるメイド長が暇を手に入れたのは、既に日が半ばまで沈みかけた頃だった。
パチュリーに相談してから今まで、咲夜は薬に頼らずこの状況を改善出来ないものかとあれこれ思案し、試して来た。
迷いの竹林に着地した咲夜は、改めて自身の行動と検証を振り返る。
手を止めなければ問題無い、考える隙さえ与えなければ問題は無い。
ただし、少しでも手を止めてしまう作業――例えば紅茶を淹れる時に、無意識の内に目の前の事が見えなくなり、霞の様な夢が視界に重なってしまっている。
その所為で、今度は5秒早かった。お蔭で今日のレミリアはご機嫌斜め30度である。
思考に自由な時間が持てないというのは、予想外に面倒な事だと、咲夜は永遠亭への道を急いだ。
咲夜が永遠亭を訪れるのは初めての事ではない。
異変解決の為乗り込んだ事も有れば、花の異変の情報を探しに乗り込んだ事も有る。基本的に咲夜は健康なのだ。妙な用事でしかやってきたことがないのは、仕方ない。
しかし今回は客として、一種の病人として永遠亭の門戸を叩く。
「すみません、診察を受けたいのですが」
追い返されるかしら――そんな予想に反して待つ事数秒、現れた一人の兎妖怪に案内されて、閑散として無機質な部屋の中、医者の前に咲夜は無事通された。
椅子に腰掛けカルテを眺める、落ち着いた雰囲気と対照的にやや派手目な服の女性。幻想郷屈指の医術を心得ている彼女の名は、八意永琳。
「あら、貴女は確か吸血鬼の所の……」
「ええ、そうです」
咲夜と永琳は、回数は多くないが面識は有る。敵として医者として、狭い幻想郷にしてようやく顔を知られる程度ではあるが。
「見た所急患という訳でも無さそうだけど、これといった体調不良にも見えないし……わざわざ永遠亭に来るなんて、何か有ったのかしら?」
永琳は、すぐにこの患者を何か訳有りと見たのか、姿勢を正して聞き始めた。
元々幻想郷では、永遠亭に住む兎達が人里や妖怪の家々に薬を常備させている為、大抵の病気なら此処に来るまでもなく対処出来るシステムが在る。
そうでなければ置き薬では対処し切れない重病奇病か、患者ばかりの多い流行り病かのどちらかだろう。
そして永琳は、どうやら咲夜を前者と踏んだらしい。
はたしてその通りだから、話が早いと咲夜は喜んで経緯を話し始めた。
数日前から見始めたよく分からない夢、仕事への影響、夢に干渉する薬を新聞で知った事。
咲夜が全てを話し終える頃には、永琳は考え込むかの様に机に身体を向けて、開かれていたノートに咲夜の症状を走り書きしていた。
「なるほど。天狗の新聞も薪代わり以外に役に立つ事も有るのね」
何処も似たようなものか、と咲夜は苦笑する。新聞の末路は暗いが、二度楽しめるとなれば得した気分になれるだろうか。
永琳は少し考えて、戸棚から紅色の丸薬の詰まった瓶を取り出す。これが胡蝶夢丸なのだろうと、咲夜の視線がその瓶を向く。
「一回三錠。といっても貴女は人間だから、一錠にしておくべきね」
「随分あっさりと処方してくれるのですね。てっきり特別な事情の無い限り頂けないと思っていたのですが」
「そんな特別なものを宣伝したって意味無いじゃないの。貴重な物でも無いし、欲しければ誰にだって渡すわよ」
夢、つまり本人の意識に介入する程の薬を簡単に処方すると言ってのける自信の根拠は、永琳への悪評の無さがその信頼性を証明している。
「だけど、人間への処方ってあまり多くないの。だからもし良ければ使った感想を聞かせて欲しいのだけど」
つまり、妖怪向けの薬の人間モニターになって欲しいという申し出らしい。無料という口車が無ければ咲夜は断っていただろう。
咲夜が了承すると、永琳は笑顔を振りまいて、咲夜に何をするべきか、何を伝えるべきかを示す。
夢の変化はどうだったか、寝起きは良いか悪いか、副作用は無いか等、個人のプライバシーに触れない程度にと前置きして項目を並べていく。
数は多くなく、無料という条件も決して悪い訳では無かった為咲夜は了承し、胡蝶夢丸の詰まった小袋を手に永遠亭を後にしたのだった。
「…………」
もう何も言う気も起きない。咲夜の見る夢は昨日より曖昧になって、その形を現していた。
こんな事になるなら永遠亭になど行かなければ良かったと、これから先も、正体の分からない夢に苛まれる自分を想像して気分が沈む。
確かに胡蝶夢丸を呑んだはずだった。用量も守り、他の薬を併用するといったミスも犯していないのに。
「……嫌な夢」
昇る朝日を鬱陶しく感じて、咲夜はその原因に向かって悪態を吐く。その原因が自分の中に有るだけに、余計に腹立たしい。
日常的に気を散らす正体不明が、従者としての自信を削り取っていく。
何せ、咲夜は胡蝶夢丸に頼っても、この夢を見てしまっているのだから。
薬師の才は彼女とて認めている。薬に関して永琳に間違いが無いとするならば、残る原因は自分だろう。
分かりきったその答えが、重く、重くのしかかる。
こんな形でも見る夢を、気にするなという方が無理な話だからだ。
しかし夢に心身を苛まれるのもそうだが、それを気にするあまり主レミリアの不興を買う事の方が咲夜には恐ろしく、また不安だった。
こうなってしまっては、矜持も何もあったものではない。再び永琳の元を訪れるのに、もはや躊躇はなかった。
「そう、確かに奇妙と言えば奇妙ね」
再び訪れた永遠亭と永琳の診察室は、変わらず閑散として無機質だった。
咲夜は前回に同じく永琳を目の前に座っている。
「奇妙と言わなくても奇妙ですわ。用量が少な過ぎたのではないのですか?」
そんな素人考えを述べてみる。モニターと言えば聞こえは良いが、要するにモルモットみたいなものだと咲夜は思っている。
ならば薬に全くの問題はなくとも、処方に多少の誤りが出るとも限らないではないか。
けれど永琳は顎に手をあてた姿勢のまま、無表情に首を横に振る。
「それは無いわね」
「どうして?」
「いかに少量とは言え、夢を見ればそれなりに精神への干渉がある筈なの。快不快で言えば、快の方へ。夢を見ている限りは、必ず」
だから不快が増すとか、現状維持とか、とにかくそうなるのはおかしいのだと言う。
ならば、やはり投薬を受ける自分に何か原因があるのか。
咲夜の開きかけた口を制したのは、永琳の一言だった。
「となると、理由は明快ね」
「……なぜ?」
永琳は、聡い。
咲夜が二重に疑問符を込めた「なぜ」を、彼女は汲み取った様だった。
微笑みがその自身を裏打ちする。
「明快じゃない。あなたが見ているものは、夢ではないからよ」
「……そう、なのですか?」
「簡単なことよ。人が夢を見る事、そして胡蝶夢丸が良夢をもたらす事。二者の関係に関するたった二つの前提と一つの仮定のみで、自ずと前者の否定は証明されるわ」
「そういうものかしら」
「そういうものよ。えらく古典的な論理学だけど」
そう言って永琳の示した証明のメモは、咲夜にはただの、無意味な記号の羅列でしかない。
A⊃B、¬B、A、B、B∧¬B、¬A……
その羅列だけで「夢を見ていない」という事の正当化を済ませたというなら、いささか煙に巻かれた心地は否めない。
けれど、自分で他に理由が見つかるでもなし、咲夜はそれを事実として受け入れることにした。
宙を掴むような、危うい事実であったけれど。
「じゃあ、夢ではないとして、『あれ』はなんだと?」
漠然とした、何か。心身を苛む不安。そして、求める様に伸ばされた腕の先にあるもの。
永琳は、淡々と答えた。
「そうね。一つには、純粋に『記憶』が再生されているというのが考えられるわ。あとこれは無いと思うのだけれど、幻覚の類」
「記憶……」
「ひょっとして心当たりはあるかしら」
覗きこむように近づいた永琳の顔に、咲夜は僅かな動揺を覚える。
けれど常の様にそれは仮面の如く動かぬ表情の下へ押し隠し、ただ言葉を紡ぐ。
「あるとも言えるし、無いとも言えるわ」
「あら。それじゃあルール違反よ」
「ルール違反?」
「イエス、ノーの二者択一で答えてほしいの。曖昧は認められないわ」
まるで会話を相手のレヴェルに合わせようとしないのは、天才ゆえか。
聞いたこともない言葉をこれでもかと並べられて、はいそうですかと納得できるはずが無い。咲夜が不快感を眉間に露わにしても、永琳は遠ざかる事なく。
咲夜は呆れ顔と共に、溜息一つで諦めた。
「私、記憶が無いんですの。お嬢様にお仕えする以前の事は、何も……」
「記憶喪失?」
「そういうのではないと思いますわ。お嬢様と共にあるのに必要ないから忘れたんだと、私てっきり」
「そんな事、あるわけないじゃない」
今度は永琳が呆れ顔をする番となる。
やれやれと首を振ると、彼女の顔がすいと離れた。不思議と安堵が咲夜を包む。
しばらく思案気にしていた永琳だったがやがて席を外し、部屋の周囲にずらり並んだ薬棚に向かった。
どこの棚の引き出しに何があるのか、目録など使わずとも彼女はいちいち記憶しているらしい。
迷いなく一つの引き出しを開き、彼女が取り出して来たのは怪しげな小瓶であった。その中には硝子を通じて黒い錠剤が詰まっているのを窺える。
「お里帰りをする勇気はある?」
挑戦的な目つきだった。
胡蝶夢丸と対を成す夢の薬、服用した者の意識に想う悪夢を現す薬だという。
「悪夢というのは、見た人の意識の中、記憶として引き出せない程の記憶の底で想う不快な夢の事。貴女の見るものが貴女が失った記憶の中に有るという事なら、その記憶を引き摺り出してやれば良いわ」
前代未聞の荒療治だけどね、と永琳は苦笑する。
そして差し出される掌には、黒い錠剤と一粒のカプセル。永琳の説明では、即効性の睡眠薬の様なものらしい。
「悪夢があなたの失われた記憶であるというなら――そして貴女がそれを知りたいと思うなら。痛みは伴うかもしれないけど、一つの手であることは確かよ」
その為の、記憶のお里帰り。それは永琳なりの諧謔だったのだろうが、それが咲夜に伝わる事は無く。
一瞬の逡巡の後、咲夜は黙然と首肯するに留まった。
永琳は、けれども満足そうに頷きを返す。
「……行ってらっしゃい」
診察室のベッドに横たわり永琳に処方された薬を嚥下すると、意識の闇はすぐ咲夜を呑み込んで行った。
最初に思った事は、目が見え難くなったという実に暢気なものだった。
目を開けても光を感じられず、端の方に靄の掛かった映像を直接認識しているかの様で、不快に思う余地も無い。
それも視覚だけではない。手足も無く耳も無く、まるで目と脳だけの姿で浮いている生き物になってしまった、そんな錯覚さえ覚える。
それでも、十六夜咲夜の意識は確かにその世界に在った。
自分が夢を見ているのだと分かる、明晰夢の様に夢の中に在りながら意識を確立出来ている。
悪夢を見る薬の作用か、咲夜自身の意識の持ち方の所為か、どちらにしろ意識しか持てないこの状況は中途半端に過ぎる。
何かが有っても触れられない、何か起きても耳で聴き取れない、まるで無声映画を見せられている様な気分だ。
それが意識を視る事だと言われれば、理解は出来ても納得は出来ないと言い切れるだろう。
あるいは、もう少し良い状況を求めても罰は当たるまいと。
やがて、咲夜の視界は一人歩きを始める。
咲夜自身の意識はこの世界を見て回りたいと思っている。それに合わせているのか、映像はあちこちに揺れて、単調な世界を映し出している。
その世界に色彩は無く、真っ白な景色の中に雑多な黒い線が輪郭を浮かび上がらせている、何も分からないのに不思議と心に焼き付けられる光景が流れて行く。
今の咲夜が見ているものが、悪夢だという事が信じられない程、平和で簡潔な夢。
等間隔に聳え立つ黒い四角形の並ぶ道を、咲夜の意識は真っ直ぐに漂って行く。
何処かの街の様にも見られるが、咲夜には見覚えは無い。 幻想郷にはこんなに無機質な街並みは存在しない。
そうして漂って行く内に、道幅が少しずつ狭まって来ていた。
ゆっくり確実に、身体を押しつぶされていく様な圧迫感、真っ白な建物の壁は近過ぎて黒い輪郭が見えない程になり、その白さ故に逆に何処までも見通せそうな壁が、視界を狂わせる。
視界の両側から迫る色の無い壁は際限無く押し寄せ、終には道を殆ど塞いでしまった。
その隙間から奥の様子を覗く様に視界が寄る、壁の向こう側には怖気立つ様な黒いぐるぐるやもじゃもじゃが、楽しげに蠢いている。
不規則に絡み合うそれを見て初めて、咲夜は自分が悪夢を見ているのだと実感させられた。
黒いぐるぐるやもじゃもじゃから逃げる様に視界が右往左往する。 まるで、見たくない、見たくないと叫んでいる様。
しかし、簡潔な形で在るが故に、蠢く不気味な物体は記憶にこびり付き、離れてはくれない。
無理矢理振り払おうと、視界は動きの速さを増して行く。 目が千切れて飛んで行きかねない程、一心不乱に。
そして振り返った先に、『それ』は存在した。
白と黒の世界の中で、それだけは記憶に有るものと全く同じ、灰色の靄が掛かった様な何かのままだった。
咲夜の視界が『それ』と対峙する、黒いぐるぐるやもじゃもじゃとは違う、ただ曖昧なだけの灰色の何か。
大事なものならばこの手で抱き寄せよう、必要の無いものならばこの手で振り払おう。
咲夜の意思に応じてか、自分の手だと認識出来る何かが『それ』に向かって伸びる。
その指先が灰色に触れて、その一点から溢れ出す様にその何かがその掌に収まる。 灰色の靄からその一部を毟り取った様な光景だ。
片手に収まった小さな何かに視界が留まる、未だ靄のままのそれを見たとしても何にもならないのではあるが、少しの間、見蕩れていた。
そして、視界が再び正面を向いた時には、既に『それ』は跡形も無く消え去ってしまっていた。
音も無く気配も無く、ただそこから居なくなった瞬間を切り取られたかの様に、『それ』は視界から姿を消した。
その後に残されたのは、右手に収まった灰色の欠片と、何処までも広がり続ける白と黒じゃない、緑と紅の道。
そして、手に握る灰色の何かが、少しずつ形と質量を持った何かに変化していくのを、直接感じる。
取り戻した現実の感覚は、悪夢の終わりを告げていた。
夢の終わりは得てしてけたたましい音の中であるとは、誰の言葉か。
身体から離脱した幽体が元に戻る様に、意識だけが夢の中から自分の身体へと戻る。 騒音どころか足音一つ無い静かなものだ。
寝覚めははっきりとしていて身体も軽く、記憶も問題無く残っている。 天才医師は睡眠薬一つにも手を抜かない様だ。
「お帰りなさい」
ベッドに横になったまま首を傾けて見れば、傍らには永琳が椅子に腰掛けて咲夜を見つめていた。
そこで咲夜は気付く、カーテンレールで区切られてはいるが此処は診察室、いつ患者が訪れても不思議は無い筈。
「もしかして、ずっと看ていてくれたのですか?」
「元々此処に来る様な患者は少ないし、来ないに越した事は無いもの。 ――それに」
永琳は身を乗り出し、手元の時計を咲夜の目の前で持ち、その針を見せ付ける。
「きっかり一時間」
眠る前に見た時より短針一つ分回った時計が、咲夜の目の前にぶら下げられていた。
「……成る程、夢の良い所で目覚めさせる薬なんですね、それは」
「人聞きの悪い。 これは夢を見させ過ぎない為の薬よ」
つまり、起きる時間が分かるのなら付きっ切りで居る必要は無いという事でもあるらしい。 単純な事ながらその技術力と応用力は並外れている。
得意気に時計を元の場所に置き、永琳は椅子に戻り診察を続けた。
「それで、何か自分の知らないものを見る事は出来たかしら?」
正直な所、咲夜の見た夢は何処までが正しいのか、見当が付かなかった。
吉夢でも悪夢でも同じものが見えるのだとしたら、それは永琳の言う通り夢ではないのかもしれない。
噛み砕いて話せるものでも無ければ、纏める余地も無い曖昧過ぎるものを話しても良いものなのか。
一笑に付される覚悟で、咲夜は夢に見た通りの事を伝えた。永琳の能力を信頼して、一切を包み隠す事無く。
「……そう」
何も言わずに咲夜の話を聞いていた永琳は、咲夜が話し終えてもその一言のみを呟き、何かを考え込んでいた。
聡明な彼女でさえ悩むのも無理は無い。見た本人ですらよく分からない曖昧な所だらけの夢物語を聞かせた所で、そう上手くは伝わらない。
咲夜とて思考を広げられない程頭が悪い訳ではなく、それでも及ばない答えに、それ以下の情報でもって辿り着けるのだろうか。
「悪いけど、貴女の持っている懐中時計を見せてもらえないかしら」
そんな心配も、天才の前には杞憂だったようだ。
咲夜は手に持っていた懐中時計の鎖を外して永琳に預ける。咲夜にとって非常に大切な物だが、永琳は信頼するに足りる人物だ。
「ちゃんと返してくださいね」
嫌味でも釘でも無い挨拶を、朗らかに添えて。
銀色の時計を優しくその手に受けると、鎖をつまんで永琳はしげしげと眺めた。
ゆるやかな回転が文字盤から裏へ、見せる面を変ずる。
「この傷は?」
永琳の細く長い眉が、僅かに寄った。つまみ上げた懐中時計の裏を、彼女はあいた左手で指差す。
そこには引っ掻きまわした跡にも見える、瀟洒な従者の持ち物には不釣り合いな程の傷が残っていた。
鋭利な刃物かなにかが、何度も何度も横に往復したかの様な。滑らかな金属の表面を痛々しげな傷が走る。
その傷を受けた時のことに、咲夜は覚えがなかった。
「さあ、気づいたらあったものです」
「気づいたら?」
「ええ。この懐中時計を手に入れたのは、お嬢様にお仕えするより前の事。だから――」
「だから、手に入れた経緯すら記憶にない。そう言うことね」
言うや永琳は再び懐中時計に視線を落とす。彼女のほっそりとした白い指が、傷跡をなぞった。
「まるで、元からあった刻印か何かを、削り潰した様ね」
「刻印、ですか」
「そう。例えば、あなたの――」
永琳が言い終わらぬうち、診察室の外で騒がしい声が起こった。
通せ通さぬだのの問答が聞こえる。文句を言っているのは先程の兎。そして、それに罵声を投げかけているのは、
「咲夜ッ」
診察室のドアを吹き飛ばさんばかりに、凄まじい剣幕で乗り込んできたのは、他ならぬ咲夜の主。
永遠に紅い幼き月、レミリア・スカーレットであった。
「お嬢様! どうしてこんな所へ!?」
「それはこっちの台詞だ。いったい何をしているの? 私に、一言の断りもなく、勝手をして」
「ですが……」
日夜彼女に接する筈の咲夜でも思わずたじろいでしまう程、レミリアの声音に怒気が満ち満ちている。口答えでもしたならば、それこそ有無を言わさず縊り殺されんばかりに。
咲夜が答えに窮していると、神槍よりも鋭いレミリアの眼光が、今度は傍の永琳へと向いた。
永琳は冷やかな表情でそれを受ける。
「薬師……余計な真似はしない事ね。咲夜は、私のモノだ」
「とんだ誤解ね、幼き吸血鬼。彼女が救いを求めたから、私は手を差し伸べた。ただそれだけの事よ。医者として当然のことをしたまで」
レミリアを見返す永琳の瞳にも、鋭い光が煌めく。凡百の人妖が遠く及ばぬ力を持った二人が、感情も露わに相対しているのである。
診察室は異様な空気に包まれた。
永琳は、しかし語気穏やかに続ける。
「知らなかったかしら? 医師は患者の為、最善を尽くすものなの」
「黙れ。その善人ぶった口を私が引き裂く前に、とっととこの娘に時計を返せ」
「言われなくとも返すわ。ほら」
差し出された懐中時計。
黙って咲夜は手を伸ばした。鎖がじゃらじゃらと音を立て、手のひらにとぐろを巻くように落ちて行く。
その裏に走る傷。消された刻印。猛る主。全てが、夢のように過ぎてゆく。夢――――
ぼんやりと、夢見心地に咲夜が時計を握りしめると、すぐさまレミリアは踵を返した。
「帰るよ」
不機嫌を隠さない一言を残し、驚きに目を丸くする兎に目もくれず。
咲夜は永琳に頭を下げ診察室を後にする。
主の背中はすでに遠く、やけに小さく見えた。
「…………」
騒がしい我儘少女の去った診察室に、永琳は一人椅子に腰掛けて、カルテを眺めていた。
弾ける寸前の力を前に揺るがなかった姿は為りを潜め、既に医者としての彼女に戻りつつある。
その視線の先には、十六夜咲夜と大きく書かれた下に続けて書かれた、彼女の症状。
「師匠! 今吸血鬼が乗り込んで来ましたが、大丈夫です……か?」
静かな一人きりの診察室に、今度は騒がしい兎が飛び込んで来た。
先程までの一大事が永琳に危害を加えてないか、微力な弟子ながら駆けつけてみたものの、既に嵐は去っており、診察室は平和そのものだった。
あまりの静けさに拍子抜けしてしまったのだろう、二の句も告げられずに固まってしまっていた。
「ウドンゲ、診察室では静かにしなさいと、いつも言っているでしょう」
「は、はいっ! すみません!」
ぺこぺこと何度も頭を下げる弟子に見向きもせず、永琳はカルテから目を離して、今度はノートの方へ手を伸ばした。
それを眺める月兎、鈴仙・優曇華院・イナバは、いつに無い師匠の様子に、首を傾げていた。
「――ねえ、ウドンゲ」
一人考え事をしていた鈴仙は、急な呼び掛けに、少し裏返った声ではいと答えた。
「貴女は、運命って信じるかしら?」
「運命……ですか。 どうして突然そんな事を?」
「深く考えなくても良いわ、でも、出来れば是か非で答えて欲しいわね」
そう問われ、鈴仙は黙り込む。永琳に頭の回転で遠く及ばない分、彼女はその裏を考える様にする事で師匠に応えているからだ。
そうして鈴仙の行き着いた答えは、非だった。
既に起きてしまった事を運命だと呼ぶのなら、信じるも何も事実でしかない。
そうとなれば、永琳の言う運命とは、信じる必要の有る運命、つまり未来の事なのだろう。
「……私は信じません。もしも運命が存在するのだとしたら、物を考える意味が無くなってしまいますから」
運命は便利な言葉だと、鈴仙は切り捨てる。
彼女とて重い決意の末に今此処に立っている者であり、その事を運命の一言で片付けられては、腑に落ちない。
「そうね、良い結果も悪い結果も全て運命で括られちゃ、たまらないものね」
その気持ちは、永琳もよく知っている。
無限の未来を持ち、永遠の従者の身を選んだ彼女の決意は、鈴仙のそれに劣らない、自らで掴み取った未来だからだ。
「でも、『事実に基いた未来』が存在するとしたら、それは運命と呼べるんじゃないかしら?」
同時に、運命の存在を否定する事も出来なかった。
概念的な言葉であるが故に、その存在を確実に否定出来る証拠は有りはしない。しかし、物事の陰に必ずその言葉は付き纏う。
永琳も、その言葉の陰の存在を感じ始めていた。
「……分かりません。どうして師匠がご自身で出した結論を、否定する様な事を言うのですか?」
運命は存在しないと、永琳は言った。しかし、存在するとも言った。
鈴仙の疑問に永琳は軽く頷き、簡潔に答えのみを告げる。
「私の犯した過ちは、何時までも私を苦しめる運命だったのよ、って事」
「はあ、私には何の事やら、さっぱりです」
永琳の言葉は、鈴仙の理解を超えている。
元々意味を分からせる気は無いのだろう、永琳はそれ以上を語らず、再びカルテに目を通す。
「それは、後悔しているって事かしら、永琳?」
鈴仙の後ろ、半開きになっていた襖の陰から、透き通る様な声が室内に届いた。
いつの間にか煌びやかな裾を覗かせていた誰かが襖を開き、永琳を一瞥する。
「輝夜……」
姿を現したのは、永遠亭に住む月の姫、蓬莱山輝夜。
鈴仙は慌てて一歩身を引き、師匠の主を丁寧に迎え入れる。
「過去に犯した過ちを悔いるのは止めなさい、永琳。時は戻らないのよ」
覆らない道理を永琳に説く輝夜、傍らで眺める鈴仙からしてみれば、釈迦に説法の様なものだろう。
しかし鈴仙も、言葉を受ける永琳も、何一つ文句を口にせず輝夜の言葉に耳を傾けている。
此処に居る者達は、形は違えど心に陰を持つ、似た者ばかりだ。
「私達に後悔は必要無い、後悔してはいけないの。それは蓬莱人である私達に効く数少ない毒なのよ」
形式ばった輝夜の説教は、長々と続けられる。
心なしか、輝夜の様子が得意気なものに変わって来ているのは、鈴仙の気のせいでは無いだろう。
話している事は正しいが、その態度の所為か鈴仙はまともに耳に入れず、永琳の方に意識を向けている。
輝夜の話に真面目に向き合う師匠の忍耐を、鈴仙は少し羨ましいと思った。
「……話し疲れたわ。鈴仙、そろそろご飯にしない?」
「――――はっ、はいっただ今!」
そして話は唐突に終わり、正反対に向きの変わった輝夜の笑顔の一言で、場の空気が一瞬にして様変わりした。
慌ただしく夕食の準備に走る鈴仙、いつもの雰囲気に戻った輝夜に、僅かばかり安心さえ抱き、廊下を駆けて行く。
二人が残った診察室の、開けっ放しにされた襖を輝夜が閉めて、永琳の傍に歩み寄る。
「それ、何?」
何か有るとは予想していたのか、机の上に置かれていた紙を、輝夜が摘み上げる。
説教の途中で輝夜の目に入り、今の今まで気になっていたものだった。
「そういう事です」
それなりに長さの有る文章を急いで読み進めている輝夜に、永琳が一言付け加える。
その一言以外の事が、その紙に書き綴られており、段々と輝夜の表情が移り変わって行く。
結局たっぷりと時間をかけて読み終え、箇条書きと考察で埋められた紙から目を離す輝夜、その表情に先程までの暢気さは無く、軽い驚きをもって永琳に向き直る。
永琳は一度だけ頷き、そして再びふっと一息吐いて、窓の外の空に目を向けた。
「あの吸血鬼は、どんな運命を掴み取るのかしらね」
「……そう」
二言目は必要無く、それきり二人は黙り込んだ。
疑問と心配の入り混じった顔をしている輝夜の横で、一人物思いに耽り茜色の空を見上げる永琳。
何処と無く寂しさすら透けて見えるその様子は、賢者にはとても似合わなかった。
『……貴女、私に――しに来たの?』
『――? ……何の事?』
『何の事って、私の台詞よ。 どうして貴女は此処に居るの』
『分からないわ』
『……面白いわね、貴女。本当に面白そうだから、私の元に居なさい』
『いいの?』
『ええ、良いわよ。尤も、この悪魔の館に居座る勇気が有るのなら、だけど』
薄暗い部屋の中、レミリアは一人自室のベッドに横たわり、虚空を見つめて物思いに耽っていた。
天蓋に思い浮かべるは、彼女の信頼する従者、十六夜咲夜の慄く顔。
そして今、思い返す事は彼女との最初の思い出にして、ただ一つの綻び。
「なんで、なんでこうなるの……!」
こんなはずじゃなかった。レミリアが望む〝運命〟は、こんなものじゃなかったはずなのだ。
レミリアの能力が、〝それ〟を捕まえたのはほんの数週間前のことだった。
運命を操る能力――彼女の瞳がとらえるのは、様々にこの世界の過去現在未来で絡み合う運命の糸だ。それを、あるものはつなげ、あるものは捨て去り、今のレミリアが紡いできた栄光があった。
もちろん、レミリアは全知全能の神ではないし、運命は彼女が操りきれるほど単純でもない。見通しのきく運命もあれば、まったく見えないものもあって、それらを自由に取捨選択できる能力こそが、レミリアに与えられたちからだ。運命を操る程度の能力だ。
そのちからを、信じて、選んだひとつの運命の糸。
きっと、わくわくする何かがあるはずだった。招待状に記したあの日、紅魔館で盛大な催しが開かれる。そしてそれは、紅魔館の未来を大きく開くような出来事になる。少なくとも、そう視えた。
だからこそ、その運命の糸をレミリアはつなげたのだ。
なのに、どうして。
部屋の隅に投げ出された、リボンの巻かれた小さな箱に、レミリアの視線が留まる。
ほんの数日前まで、あの箱を眺めては咲夜の喜ぶ顔を思い浮かべていたものだった。その為の準備や小道具も、レミリア自身が行ってきたものだ。
そのなれの果て――――外箱がぐしゃぐしゃに潰れたプレゼント箱や、引き裂かれた飾り付けだったものは、あまりにも滑稽で、見る度に惨めな気分にさせられる。
楽しくなる筈だった運命は、瞬く間に刃と化してレミリアの心を刺していく。
その思い出から逃げ出したくて、レミリアは柔らかい枕に力いっぱい顔を埋めて、唸る。
思い切り頭を振り、脳裏を過ぎる事実を無理矢理遠くへ吹き飛ばそうと、レミリアはもがく。
しかし、その従者を思えば思うほど、記憶が膨らみレミリアへとより重く圧し掛けてくるようだった。
吸血鬼を怯えさせている運命の欠片は、少しずつその精神までをも痛めつけ始めていた。
「……何も言わずに入って来るなんて、行儀が悪いわよ」
その傍らに音も無く佇んでいたのは、レミリアの妹であるフランドールであった。
いつからそこに居たのかはレミリアにも窺い知れなかったが、少なくとも今が彼女に居て欲しい時ではないのは、はっきりと分かる。
「咲夜が、どうしたの?」
「何でもないわ、早く部屋に戻りなさい」
顔を見せないまま、レミリアはフランを追い返そうとする。
言葉だけでは聞かないと知りつつも、今はそれが精一杯だった。
「私、知ってるよ。咲夜が昔の事を思い出しそうなのも、それをお姉様が必死に邪魔してるのも」
いつの間に、と考える前に、フランの鼻に付く言葉が、レミリアの気を逆撫でる。
邪魔、という言い方に、枕に埋もれたレミリアの眉が動く。
「せっかく、咲夜の大事な物にまで手を出したのにねぇ」
ばさりと、レミリアの羽が大きく羽ばたく。
フランの言葉の一つ一つが、レミリアの機嫌を大きく損ねていく。
「……それ以上言うのなら、フランでも容赦しないわよ」
「嬉しいわ、お姉様と本気で遊ぶなんて、久しぶり」
強大な魔力で誇張された吸血鬼の脅し文句も、同じ吸血鬼であり、遊びを喜ぶフランにはまるで通用せず、未だニヤニヤと笑みを浮かべている。
それを分かってか、レミリアはそれ以降自分から話しかけようとはせず、興味を失わせる事でフランを追い出そうと試みた。
その気持ちを知ってか知らずか、フランはレミリアの言葉を聴かず、更に藪を突付く。
「お姉様は、咲夜の事が怖いの?」
レミリアの心臓が、大きく跳ねた。
「どうしてそんな事……!」
「だって、咲夜の事になると凄く不安そうで、怯えてる様な感じがしたから。それって、咲夜の事を怖がってるからでしょ?」
当てずっぽうな筈の指摘に、レミリアは言葉を失う。
ああそうか、と、探していた答えが漸く見付かった。レミリアは、咲夜の事を信頼し、咲夜の気持ちを恐れているのだ。
いずれ、レミリアの後悔の過去を咲夜は知ってしまうから。
「違うわよ、フラン。私は咲夜の事を怖がってるんじゃなくて、信じてるのよ」
「……ふーん」
当たり前だった筈の事が、願望と成ってレミリアの口から出る。
咲夜の事は信じている。何よりも大切な従者で、吸血鬼である自分に仕えるに値する唯一の人間であると、背中を預けられる人間であると。
しかし現実はどうか。咲夜の忠誠を失う事を恐れて、情けなく駆けずり回る今が有るだけだ。
「…………」
「お姉様?」
だけど、怖い。
咲夜に忌避される事を想像するだけでも、熱く嫌なものが体の奥から込み上げて来る。
その可能性は、レミリアには計り知れない。だからこそ、その僅かな可能性から逃げる様に、レミリアは保身にひた走り続けている。
「よく分からないけど、私に壊して欲しいものが有ったら何でも言ってね」
「……ええ、頼りにさせてもらうわ」
優しいのかおかしいのかよく分からない約束を残して、フランは身体を蝙蝠に分散させ、開いていた小さな窓から夜空へと飛び去る。
再び一人になったレミリアは、ほんの少しだけ正直に、今の自分を考えた。
全幅の信頼を寄せてくれている咲夜に、何か一つでも報いてやれる事はしたのだろうか。
咲夜の運命を捻じ曲げてしまった事に、何か一つでも詫びた事が有っただろうか。
安泰の未来を信じてやまなかった故の所業の数々が、不信感を伴って今のレミリアを苦しめる。
顔を上げて、既に出て行ったフランの姿を探す。
レミリアには、壊して欲しかったものが一つだけ有った。それは人間の信じ方を忘れた、今のレミリア自身。
自棄になる程滅茶苦茶になった頭を、綺麗さっぱり破壊して欲しかった。
「咲夜……」
締め付けられる胸をきゅっと押さえ、レミリアは後悔に身を震わせる。
皮肉な事に、運命を操る吸血鬼は今、自らを傷付ける運命の只中に投げ出されていた。
「パチュリー様」
静かな、重みを含んだ声が、図書館の空気を震わせる。
広い部屋ながら、ただ一つの音は遠くまで届き、パチュリーの興味を本から逸らさせた。
「あら、失礼しますの一言も無いなんて、何の余興かしら」
呼びかけた咲夜は、怒りでも悲しみでもなく、ただ迷惑だと言わんばかりにじっとパチュリーを見ている。
「どうして、私の事をお嬢様に話したのですか?」
無礼を気に留める事も無く、咲夜は確信にも似た語気で本題を切り出した。
レミリアの様子については、既にパチュリーは知っているだろう。 あれだけ怒りを露にしていたレミリアが、その魔力を隠し切れるはずも無い。
何かが気に障ったのか、パチュリーはふうと一息吐き、本を置いた。 本の虫が本を手放した事には、咲夜も少しだけ驚いた。
「咲夜」
ただの一言、パチュリーははっきりと口に出す。 その語気は鋭く、突き刺さるかの如き魔女の威厳を含んでいるかの様だ。
しかし、咲夜はその一言に困っていた。 ただ理由が知りたいだけで、軽い気持ちで答えられても恨む事は無い、その程度に考えていた。
だが返って来たのは生返事ではなく、本を置いての重い返事。 咲夜にしてみれば、滅多に見る事の無い珍しいものであり、同時に事態の深刻さを窺い知れる返事でもあった。
「貴女は貴女の夢について、どう考える?」
質問を質問で返すパチュリー。 質問の内容自体は咲夜自身の思いを問うもので、そのままの意味しか持ち合わせていない。
しかしパチュリーは、咲夜が永遠亭で見た悪夢の事は知らない、第一咲夜しか見ておらず永琳しか聞いていない夢の事など、知っているはずが無い。
つまりその言葉には夢には関係の無い裏が有る。 巧妙な謎掛けの様な魔女の言葉には、必ず自己の利が隠されているからだ。
そこまで分かりながら、咲夜はあえて主の友人の利を優先せずに済ませられる言葉を並べる。
「そうですね……美味しい紅茶が淹れられなくなる夢なら、必要有りませんわ」
何が、ではない、ただ夢そのものの是非のみを、咲夜は簡潔に答える。
それこそが咲夜自身の思いだと、遠回しに伝えるかの様に。
「そう」
そして返事は僅か一つだけ、その音を最後に、図書館は一時の静寂を取り戻す。
咲夜の問いかけは、静寂の中に吸い込まれたかの様に、会話から跡形も無く消え去っていた。
暫く待ってみても、パチュリーにはそれ以降の言葉を続ける気は無い様だ。
よく見れば、既にパチュリーの興味は手元の本に戻ってしまっている。 このままでは、二日や三日経とうとも答えは返って来ないだろう。
「……パチュリー様?」
根競べでは勝ち目は無いと見て先に痺れを切らした咲夜は、邪魔を承知で答えを求める。
今度は本を放さず目も逸らさず、言葉だけでパチュリーは答えた。
「何よ、まだ居たの?」
「ですから、私の質問の答えを……」
やや引け気味な咲夜の言葉を遮り、パチュリーが意見を述べる。
「どうしてレミィが怒ったのか、私より咲夜の方がよく知ってると思うわよ。 脳が有るなら自分で考えなさい、貴女はとても多くのヒントを持ってるんだから」
常に平坦な心で居る彼女にしては辛辣な言葉でもって、追い返す様に答えを投げかける。
本に視線を戻したパチュリーへの深追いは、不機嫌なフランドールをからかうのと同じくらい危険であると知っている以上、これ以上詮索する事は咲夜には出来ない。
結局真意を語る気は毛頭無かったか、パチュリーは咲夜の問いに答える事は無く、咲夜は残る雑事を済ませるべく図書館を後にした。
「……何で出て来ないの、レミィ」
咲夜の去った図書館の本棚の陰、二つほど奥の角からひょこっと飛び出す片側だけの羽。
何か楽しそうにぱたぱたと揺れて、続けてその持ち主であるレミリアが、本棚から姿を現した。
「随分と幼稚な誘導ね、私でも出来そうなんじゃない?」
「レミィほどじゃないと思うけど。 言葉より行動で示す方がよっぽど子供っぽいわ」
貼り付けた様な薄い笑顔は、幼い外見とのミスマッチで、異様なまでの威圧感を発している。
それを難無く受け流すのは、長年の慣れによるものだろう。 僅かもペースを乱す事無く、再び本を捲る。
レミリアとパチュリー、行動が浅はかであるという自覚は双方に有り、怒気が膠着したまま無言の時が流れる。
そうして更に機嫌の悪くなったレミリアをよそに、静かに文字列に目を通すパチュリー。 その瞳に油断は欠片も無い。
「それで、何か用? まさかとは思うけど、私の口封じじゃないでしょうね」
「まさか。 私はパチェの意思が分かっただけで十分よ、大切な友人に手を出す筈無いわ」
「どうだか」
狂気、とすら喩えられるであろう感情に満ちたやり取りの裏側に在るのは、話の渦中に居ない十六夜咲夜の夢ただ一つ。
話を続けようとしないパチュリーに苛立ちを覚えたか、レミリアはもういいとばかりに机を叩き、踵を返す。
「咲夜は私の従者よ、今までも、これからも、ずっとね」
真剣な面持ちで明確に意思を残し、レミリアはあっさりと踵を返して、廊下へと歩いて行ってしまった。
レミリアが図書館を出て、漸く小悪魔がパチュリーの所に戻って来た。
長い来客により補充されていなかった数多の本を両手に抱えてふらふらと歩み寄り、それらを机の片隅に積み上げ、底を突いたティーカップをお盆に載せて飛び去る。
普段の雰囲気を取り戻した図書館の空気に、緊張で張り詰めていたパチュリーの心が程好く解されていく。
「レミィ、悪いけど今回ばかりは譲る事は出来ないわ。 ……それが、あの子の為だもの」
読み進めていた漫画本の頁を一つ戻し、その間に現れた一枚の紙切れ――美鈴の丁寧な字が綴られた手紙を再読し、我儘な親友への抵抗意志をより確固たる物へと改めた。
むしゃくしゃはしないけれど、釈然とせぬ気持ち。
不安とも怖れともつかない、けれど愉快ではない胸の内。
永遠亭での一件以来、咲夜の状況は全く動かない。夢は変わらず彼女の意識の底を揺さぶり続けるし、解決の糸口は一向に掴めない。
何が謎として立ちはだかっているのか、それすらも見えない五里霧中に身を置く咲夜に、けれどもレミリアは、あの日の猛々しさを見せる事は二度となかった。
咲夜の淹れる紅茶に満足の吐息を漏らし、ときに彼女を連れだって館の外に遊ぶ。以前と変わらぬ日々に、このまま永遠に主従であり続けられるとすら咲夜は思う事もあった。
主に一層の忠誠を誓いこそすれ、思い切って事の真相を尋ねる気など、咲夜に起こる筈がなかった。
少なくとも、そんな日常が続く限りは。
気難しい図書館の魔女は、ヒントは自分自身にあると言った。
その言葉の意味を考えた時、そして夢の残像に苛まれる間。言い知れぬ悪寒――まるで、今の自分を徹底的に破壊してしまいそうな、そんな怖れが身を凍らせる。
一瞬に過ぎないけれど、確実にその悪寒に自分が蝕まれるのだ。
そんな時、決まって咲夜は懐中時計を眺める様になっていた。
夢の呪縛に朦朧とした際、すぐさま時を止め、絶対の静寂の中であの刻印の跡へ視線を注ぐ。
ただそれだけのことで、あるべき場所へ自分が収まる事の出来たような、そんな安堵を得られるのだ。
そしてそれが、阿片にも似た感覚でますます平静の自分まで浸食していくのを、咲夜ははっきりと自覚していた。
「――美味しかったわ。 ありがとう、咲夜」
いつもと変わらぬお茶の時間。少しばかり素直に、レミリアは空のカップをソーサーに置き、ふっと紅茶の香混じりの吐息を漏らした。
咲夜の悪夢とレミリアの永遠亭への襲撃から二日後、咲夜の紅茶は元の正確さを十分に取り戻していた。
寸瞬の狂いも無く、全てが最高のタイミングで淹れられた紅茶は、高貴な吸血鬼の舌を満足させるに至る事が出来ている。
夢と上手く付き合えさえすれば、一種のアクセントの様に、日々の生活や心の刺激になるだろう。
そう思える様になる程度に慣れてきたのだと、咲夜は考える。
「咲夜、準備の方はどう?」
「はい。滞りなく進んでいますよ」
「そ。ならいいよ。咲夜も、楽しみでしょう?」
「え、ええ」
「ほらこれ! パーティに備えてね、特別に人里で創らせたペンダントなんだ。本当はまだお披露目するつもりじゃなかったけど、咲夜にだけ今日は見せてあげよう。とびっきりの赤を入れなさいって注文して、それで……」
瞬間、夢の呪縛が、レミリアの顔を歪めた。
「咲夜?」
レミリアの声が、吹き飛ばされかけた咲夜の意識を引き戻した。
何でもありませんと答えるその実、心の中では不信が僅かに芽生えている。
動じなくなってきたと思う裏で、あの日の出来事は確実に咲夜の中で大きなものとなり続けていたのだ。
レミリアを満足させられる紅茶を淹れられる自分に戻れたのかと問われれば、そうではない。
見えた筈の何かに怯み、逃げてしまう自身を、誤魔化し続けているだけに過ぎなかった。
既に咲夜の記憶には、怒気を露にしたレミリアの姿と心が焼き付き、恐怖と後悔を滲ませ続けている。
幾度、満足気な主の顔を眺めようとも、かの日の激昂がその顔の裏に映される。
薬師を貫く怒りと恨みに満ちた視線、僅かな間しか目を合わさなかった咲夜でさえ、鋭気を根元から断たれたと感じた程の激情。
その原因は誰かと自分に問うても、それは自分だと突き返されるばかり。
迷いの如き自問自答の繰り返しが、咲夜の自信と矜持を切り刻む。
「……顔色が悪いわよ、少し休みなさい」
訝しげな視線を送るレミリアに、咲夜は分かりましたとだけ返して、下がった。
主の心配を遠慮し、無理を押し通すという誰の得にもならない事をする気は、咲夜には無い。
それ以上に、咲夜はレミリアの傍に居る事に恐怖心を抱いてしまう事を避けられなかった。
「咲夜さん?」
気が付いた時には、咲夜の足は紅魔館の門へと向いていた。
門の内側で花の世話をしていた美鈴が咲夜に気付き、そのただならない様子に、不安な面持ちで迎える。
「ッ、あ……?」
足元しか見えていなかった、もしくは、目の前のものを見ていなかったのだろう。
門までの道のりを一瞬で踏破し、逃げ出す様に館を飛び出して、漸く咲夜は我に返り今の己と目の前の状況を知る。
息は静かに心臓だけが鼓動を速め、心に残る焦燥感が、目の前の美鈴でさえも美鈴として認識出来なくなってしまいそうに、猜疑心が高まっている。
「どうしたんですか? 凄く疲れているみたいですが……」
美鈴の心配が、冷水の様に咲夜の頭を冷やした。
衝動に任せた自分が取ろうとしていた行動がはっきりと浮かび上がり、咲夜の足を館へと引き留める。
「……御免なさい、美鈴。 何でもないわ」
外に背を向け、振り返らずに館へ戻る。
このまま最後の門を踏み越えてしまえば、後戻りはしないかもしれなかった。
「ありがとう」
まだ咲夜は、紅魔館に居られる。
美鈴の視線から逃げる様に館の中へ、興味深げに振り向くメイド妖精達に目もくれず、廊下を早足で歩き続ける。
焦る咲夜を見ながら小声で話し合う者も居たが、無視を決め込んだ。
「……どうしたものかしら」
自室に戻って溜息を一つ、ベッドに寝転んだ咲夜は、激しい自己嫌悪に苛まれていた。
何か、歯車が決定的に食い違っている。
たった一つのズレが少しずつ歪みを広げ続けていて、もう何処まで侵食されたのかも分からない。
その原因を探ろうとすればするほど、余計に歪みが広がって行き、おかしい幻覚まで咲夜に見せている。
「いっその事、全部忘れてしまえたら楽なのに」
誰にも聞かれない様小さな声で一人愚痴を零しても、ただ空しいばかりの静寂が咲夜の耳を突く。
こんな所々ひび割れた忠誠も、中途半端に心地良い夢も、何にも知らないままレミリアに仕えていられれば、今よりもずっとマシだったのかもしれない。
そんなIFの話に身を投げてしまいたくなるような今を、どうにかしたい。
ぼふぼふと枕を叩いて、ごろりと寝返って、天井を見上げて、懐中時計を握って、ふと思い出す。
「……行こう」
一度は引き返して来たが、この状況を打破するには自分から行動に出なければならない。 ただ期待に任せてじっとしていても、苦しむ時間が延びるばかりだ。
レミリアから暇は得ている、まだ日は落ちていない、今から行っても夕食には十分間に合うだろう。
咲夜はベッドからのそのそと起き上がって、恥ずかしくない程度の身だしなみだけを整えて、部屋を発った。
先程までの焦燥感に駆られたままではいけない。必ずここに戻って来ると、確かに心に決めて。
向かう先は、咲夜の夢を知るもう一人が居る、永遠亭。
行って何をするのか、咲夜の頭にこれといったプランは無い。
ただ、行けば何かを感じられる。 それは確かな事で、それが今の咲夜にとって答えを知る数少ない手がかりの一つだった。
「あっ、咲夜ー」
廊下を二つ曲がった角で、色鮮やかな羽に出会った。
その下に、嬉しそうな顔を咲夜に向けているフランドールが居て、咲夜に引っ付いている。
ゆらゆら揺れる羽に胸に詰まった空気を少し抜かれながら、咲夜はフランドールの頭を撫でて、優しく話しかけた。
「どうしました、妹様」
「んん、何となく」
「そうですか……すみません、私はこれから私用が有りますので、その後でも良いでしょうか?」
「えー」
ぶーぶー言いながらも、咲夜のお腹に顔を擦り付けるのは止めていないフラン。
その姿の向こう側に、咲夜は何故かレミリアの姿を見る気がした。
しかしフランは構わず、
「ね、咲夜」
ずい、と右手を突きだした。
握られているのは、色とりどりの紙で作られた、わっかの連なる飾りだ。
まるで彼女の背中でしゃらりしゃらりと揺れる羽のように、鮮やかな色合いが並んでいる。長くなったそれをぐるぐると腕、肩へと巻き付けていて、フランドールは全身に羽飾りがついたようにも見えた。
「すごいでしょ。パーティがあるっていうから、私、かざり作ろうと思って」
「ええ。とっても綺麗です」
「ふふ、でしょでしょ。あと100こつくれば完成なんだよ。もう、ひとりでやるのは大変でさあ」
「そうですね。なんでしたら、妖精のメイドを使ってもよろしいのですよ?」
「それじゃあ意味ないよ。私がやるって決めたんだものね。ふふ」
「あの、妹様」
なおも無邪気にすり寄って来る彼女を前に、たしなめるような声が出た。少し、どきりとしたからだ。
レミリアがあれ程までに怒り狂う原因、それはきっと夢に有る。
そして咲夜は、自分の為にその夢を求め、自分の為に永遠亭に向かおうとしている。
それは、レミリアに対して叛く行為に他ならないのではないか、そんな未来の想像が咲夜の決意に水を差す。
ちょうど、かざりは自分で作るというフランドールの子供っぽい思いが、強い決意になっているのと反対に。
「まあいいや、美鈴とでも遊んで来ようっと。 私、美鈴とお話するの好きだし」
フランが顔を離して、ようやく咲夜はフランの顔を見ることができた。
咲夜は、レミリアの為に永遠亭に行き、夢を見るのだ。そんな言い訳染みた答えが、思考に嫌に張り付いてくる。
すました顔の裏側で、咲夜は必死に記憶からいやなもの振り払い続けた。
「またね、咲夜」
ひらり、短いスカートを翻して、フランは咲夜に向かって言う。
そしてまた半回転して、角を曲がって姿を消した。
後には、呆気に取られていた咲夜だけが残された。フランの残した言葉が、中途半端に頭に入った所為で、混乱しかけていた。
それから数秒、咲夜は思い出したように足を進めて、紅魔館の門を抜けて、竹林へと向かう。
不快な言い訳は、ずっと咲夜の頭の中でこだまし続けていた。
咲夜が夢の事で永遠亭を訪れるのは、これで三度目になる。
もう此処に患者として来るのも慣れたもので、いつも通り兎の案内を受けて、診察室まですんなりと辿り着いた。
ドアを開ければ、永琳が机に向かって何かを走り書きしている、これも三度目だ。
勿論すぐにその手は止まり、咲夜の方を向いて、穏やかに微笑んだ。
「すみません、突然来てしまって」
「良いのよ。わざわざ此処まで来る患者さんなんて滅多に居ないんだし、貴女は特別だもの」
文句一つも無く、永琳は咲夜を迎える。
疑う余地も無いそれに、咲夜は不思議な安心感を感じていた。
医者と患者の関係としては、極々普通に有る事なのに、そうとは感じられない何かが、永琳には有る。
裏の感じられない会話が久しく無かったから、と咲夜は納得しておく事にした。
「それじゃあ……今日も、やるのかしら?」
黒い薬の詰まった小瓶を軽く持ち、永琳が問いかける。
それを見た途端、咲夜の目に喜色が現れる。
「はい、お願いします」
迷う時間も作らずに咲夜は了承し、部屋の角に有る寝台に横になった。
永琳も水差しとコップを手にその横へ座り、カーテンを閉めると、まるで周りの音が消え去ったかのように静かになった。
その中で咲夜は、永琳から薬を受け取り、躊躇う事無く呑み干した。
すぐに湧き上がる眠気を愛しく感じながら、永琳に見守られて、咲夜は再び夢を見る。
悪夢を見させる薬、胡蝶夢丸ナイトメア。
服用した者の精神に干渉して、悪夢を見させる夢の薬。
その悪夢であるはずのものが、今の咲夜には何よりも心を落ち着かせる薬として、日常を支えている。
「…………ん」
夢から戻って来た咲夜は、悪夢の後とは信じ難いほどに穏やかで、薄っすらと微笑みすら見える顔をしていた。
確かに、咲夜の見る夢は気味の悪い物体の蠢く、悪夢そのものだった。
しかし、その夢には救いが有る。悪夢の終わりには必ず、悪夢を引っくり返す何かが咲夜の目を覚ましてくれている。
「お帰りなさい」
永琳の声と共に頭のてっぺんに感じる、くしゃくしゃと撫でる永琳の手の平。
髪の毛から心の底まで染み込んで行く暖かさに、咲夜の口元が無意識に緩んでしまった。
それを見たのか、永琳がクスクスと笑いを零す。たまらず咲夜はシーツを持ち上げて、赤く染まった顔を目元まで覆い隠した。
「どうかしら、何か良い事は有った?」
悪夢を見た患者に良い事を聞くという、おかしな質問が平然と出る辺り、咲夜の様子が普通とは明らかな違いを見せている。
咲夜もまた、その質問を戸惑う事無く受け入れて、思いのままに永琳に返す。
「はい。 ――ですが、もう少しの所で届かないのです」
あの何かの正体が掴めれば、咲夜の記憶を取り戻すきっかけになる。
確たる証拠は何一つ無いものの、咲夜には不思議な確信が有った。
それさえ知る事が出来れば、何もかも元通りになれる、またいつも通りレミリアに美味しい紅茶を淹れてあげられるはずだと。
「また後日、お願いします」
既に日は大分傾いていて、窓に映る青空もすぐに橙色を滲ませる頃だろう。
今から紅魔館に戻れば、夕食を作る時間は十分に有る。
名残惜しくはあるものの、咲夜は暖かいベッドから離れて、深いお辞儀を永琳に向ける。
「……その事だけど」
いつに無く低い永琳の声色が、部屋の、咲夜の空気を一変させた。
たったそれだけの事で、咲夜の顔に不安の色が覗く。嫌な予感を覚える。
「もう貴女には、この薬は処方出来ないわ」
永遠亭の門を背に、咲夜は暗い面持ちで紅魔館への道を歩く。
薬を貰えなくなった事に怒りを感じている訳でも、永琳の心変わりを恨んでいる訳でもない。
ただ、現状から逃げる事に夢を利用してしまっているだけの自分が、許し難かった。
咲夜は、悪夢に溺れかけていた。
重い苦しみを越えた先の仄かな安らぎに、麻薬の様にのめり込んでしまっている。
それは目的と手段の境を曖昧にして、夢をただの逃げ道としてしか成させていなかった。
「お嬢様……」
呟く言葉に、力も意思も無い。
夢に逃げていたのはレミリアの所為であると薄々気付いてはいたものの、体がそう思ってしまうのを拒んでいる。
もしもそれを認めてしまえば、今までの咲夜の全てを否定してしまうような、そんな気がしたからだ。
ちぐはぐな自身を引き摺る様に、きりきりと痛む胸を抑えて咲夜は紅魔館へと帰る。
その時に、レミリアの顔を見られるか。そんな簡単な事でさえも、信じ切れないままで。
兎達も寝静まる永遠亭の深夜。
月夜に蒼く映える畳敷きの広い部屋の中に、輝夜はじっと佇んでいた。
音を立てず、空気に干渉せず、ただ主に気付かない従者の様子を眺め続けて、もう大分経つ。
永琳は机に向かいはしているものの、筆が紙を擦る音は無く、頁を捲る微かな音も、この静寂の中には無かった。
「――永琳?」
それから大分時は進み、輝夜の方が痺れを切らして、永琳に自分の事を気付かせる。
呼ばれて漸く振り向いた永琳は、主への非礼に謝る事無く驚きもせず、静かに答えた。
「輝夜」
「まだ起きていたの? もう月が傾き始めているわ」
薄暗い室内で、永琳は一冊の手帳を開き、時を忘れて読み耽っていた。
古く小さな手帳のたった一頁、永琳の手によって書かれた手記が、彼女の心を奪い去って行ったかの様に彼女の意識を留めている。
「まだ、そんな事をしているの?」
僅かに怒気を孕んだ声で、輝夜が言う。
主に咎められて尚、永琳は手帳を開いたまま手放そうとはせず、首だけで輝夜の方を向くに留まっていた。
輝夜が永琳の世界を邪魔する異端者であるような恨めしさを孕んだように、目を細めて輝夜を睨む。
「……輝夜には分からないでしょうね、私の心なんて」
「そんなもの、分かりたくも無いわ。後悔するような心なんて知っても無駄だもの」
冷たく言われ、冷たく、言い返す。
「こんな時間まで何を考えていたの、永琳」
「……後悔しない方法を探していました。誰も傷付かず誰も損をしない、皆が幸せになれる方法を」
そんな都合の良いものなんて存在しないと、永琳に分からない筈が無い。
だからこそ、毒を伴うそれを、叶わない願望として吐き出してしまいたかった。
「無理よ」
輝夜は永琳の理想に見向きもせず、現実だけを持って言葉を投げかける。
鋭い言葉にも関わらず永琳の顔には怒りの表情は無く、より深く影を落として輝夜から目を逸らした。
「遅かれ早かれ、その時は必ず来るわ。それが永琳の言う『運命』なんでしょう?」
「…………」
「そしてどんな運命を選んでも、永琳は必ず後悔する。そうじゃないと、永琳が此処まで悩む事なんて無いものね」
永琳の能力は、主である輝夜が一番よく知っている。
彼女ほど聡い者が長い時間を苦しむ必要が有るのなら、永遠に答えには辿り着けないのだろう。
そして、彼女に残された選択の時間は、長くは無い。
「……輝夜、輝夜ならどうしますか?」
だから、賢者は何かを頼りたかった。
自分の肩書きへの矜持を前に、答えを見つける事の出来ないものが有るという現実が、重く圧し掛かる。
賢い彼女だからこそ、棘に覆われた輝夜の言葉が深く刺さり、その痛みに耐えかねている。
「そうね、私なら永琳に永劫の後悔を味あわせてしまうような事をするわ」
迷う事無く、輝夜はあっけらかんと答えた。
主従の間柄に有りながら、あまりにも非情過ぎる答えを前に、永琳が大きく何かを言いかける。
しかし、言うより先に頭が回ってしまった彼女は、開いた口をそのまま噤み、視線を落とした。
縋る様な思いの言葉、しかしそれも逃げの口実でしかなかった。
何が起きたとしても自分は悪くない、自分に罪は無いと言い聞かせるための、都合の良い言葉だ。
それで最も苦しむのは、永琳自身の筈だというのに。
「貴女が貴女自身の心のままに決めて、胸を張って泣きなさい。それが、永琳の為にも、あの子の為にもなるから」
言い残して、永琳に背を向ける輝夜。
「……それで、早くいつもの永琳に戻ってね」
儚さを覗かせる言葉尻の後、永琳の返事を待たず輝夜は部屋を去り、永琳一人だけが残された。
静かになった部屋の中で、永琳は誰にも見られず表情を崩す。
「輝夜、貴女も……」
永遠の罪人の言葉を胸に、永琳は思う。
自分の意思を失いかけて、初めて知る。
誰よりも聡明な『賢者』だからこそ知り得ず、抗う術を持ち合わせていなかった、感情という名の行動原理。
それは永琳を本心と向き合わせるに十分過ぎる程の、毒を含んでいた。
「…………」
朝、目が覚めて懐中時計に手を伸ばす。
最早習慣を超えて癖になりつつあるこの行為に、改めて深く溜息を吐く。
事有る毎に思考にちらつく影を振り払う為、咲夜の懐中時計はあらゆる局面において、絶対に手放す事の出来ない物となっていた。
そして日が経つに連れて、時計の刻印を眺める回数は、少しずつ確実に増していく。
レミリアが、パチュリーが、その平静の裏に抱えているものが、堪らなく恐ろしいものに見えてしまう。
咲夜について何かを知っている筈なのに、咲夜がそれを知らないという不気味さが、咲夜の忠義心に鋭く喰らい付く。
痛みすら伴う心への叱責は、再び咲夜の手を鈍らせる枷となって、主の機嫌を損ねるものとなっていた。
もしもその何かが分かったとしたら、その時こそこの日常が崩れ去るその時になるだろう。
ひびの生えた日常とその延命薬を抱えたまま、咲夜は常を装い日々を過ごす。
その薬は、確実に咲夜の心に染み渡り、やがて一つの感情を奮い立たせた。
「パチュリー様」
普段と変わらぬ午後。普段と変わらぬ時間。普段と変わらぬ呼びかけ。
けれどその奥に潜む固い意志の色が、昨日までとは異なるのを図書館の主は見逃さなかった。
仄灯りに歩み寄るメイドのスカートは、鬱屈とした図書館の中で空気に軽やかに、足取りに合わせて跳ねては沈み。
軽薄とも取れるその動きが、かえって彼女の決心の重さを物語っていた。
「お茶の時間かしら。いつもいつもすまないわね」
魔女は、わざととぼけて視線を逸らす。目配せした先には司書の小悪魔。
一瞬驚きに染まった表情はすぐ頷きをもって消え、彼女はいずことなく視界の端へ動く。
「いいえ。今日はお茶の用意はございませんわ」
「そう、居候に嗜好品など贅沢と言う訳ね。レミィったら冷たいのね、百年の友誼もこれまでかしら。悲しいわ」
「お嬢様は関係ありません。これは私の一存です」
「そう。だったら早く本題に入ったら? 序章をだらだら書き連ねた本など、良書だった試しがないわ。紅茶の時間を犠牲とするにはあまりにもお粗末」
「では、そうさせていただきます」
すう、と静かに息を吸う音が、まるで轟音の響き渡る様に、不釣り合いな大きさで耳に届いた。
「話していただきたいのです、全てを」
「とんだ買いかぶりだわ。確かに私は知識の求道者だけれど、全知と言うには程遠い」
「そんな事を申し上げているのではありません。私の知らない、『私』の全てを教えていただきたいのです。あなたはご存じなのでしょう、それを」
「……脳みそがないのはレミィだけじゃなかったのね。もうすこし賢いのだと思っていたけれど、所詮人間風情といったところかしら。その上、並みの記憶力すらないなんて」
「仰ることは分かります。私自身がヒントだと……お言葉はしっかとこの胸に刻まれておりますわ。けれど、私には……」
「話すことはないわ、帰って。自分のことは、自分で解決なさい」
侮蔑を隠そうともせず、パチュリーは溜息をついた。
しかし咲夜は動かない。静かに、その眼に忍ばせていた意志がパチュリーを捉え、両者の手が力を持って揺れる。
「……聞こえなかったかしら」
「ええ、分かっております。お聞き入れ下さらないのならば、私は、咲夜は……自分の力で答えを見つけるとしましょう」
「是非そうして頂戴。……しかし呆れたことね。その覚悟があるなら、なぜ改めて私を頼ろうとしたの」
「私なりのけじめです。その覚悟も、あなたに断られる予想も。どちらも初めからありましたわ。ですから、今から私自身の力で答えを見つけだすのです――あなたから」
パチュリーの防御結界が展開したのと、咲夜の攻撃は同時だった。
「完璧なあなたらしくないわね、奇襲は失敗よ。それと、そのヒット・アンド・アウェイの趣向もね!」
初撃は阻まれた。仕損じた咲夜はすぐさま飛翔、本棚の森に舞い上がってパチュリーと距離をとろうとする。
しかし、防御と同時に放たれたパチュリーの火弾はその行く手をふさぐ様に広く展開され、咲夜の回避を制限した。
外れた火弾は壁や床、本棚にぶつかるが、その傍から熱を失い消滅してゆく。施されていた防御魔法結界が、本を障害から守っていた。
「考えなしの一撃に頼るほど脳なしではありませんわ。それよりも……」
迫る炎と追撃の光条で鮮やかにその身を照らしながら、咲夜はこともなげにそれらをすりぬけてゆく。
体躯を捻り、本棚を盾とし、機敏な動きで図書館を飛び回る彼女とは対称的に、パチュリーは初めの位置を動かず悠然と浮かんでいた。
「やはり運動はお嫌いですか? 少しは動かれないと、私ごときにも負けてしまいますよ……っ」
床を蹴って勢いを得、かすめる様に近接飛行。けれどパチュリーは動かず。
置き土産にぐるり取り囲むナイフの群れにも、魔力で応じたたき落とすのみ。
「いいのよ。私は壁なのだから。真実目指し突き進むあなたに、そうはさせじと立ちはだかる堅牢な障壁……それが今日の、私よ」
「ならばその壁、打ち破らせていただきますわ」
「ええ、できるものなら、やってみなさいな」
魔方陣が放つ光彩に一層の強さが加わる。
「――金符『メタルファティーグ』」
濃密な、しかしやや緩慢な弾幕の波。
全方位にばらまかれた金気の魔力の広がりと動きは、術者を壁とするならその壁に応じ、敵を圧する天井であった。個々の弾幕が持つ力場は大きく、隙間だらけな外見に似合わぬ圧迫をもって慎重な回避を強いる。
その名の示すように、銀ナイフの使い手はじわりじわりと疲労に追い込まれる。
咲夜は、しかし冷静だった。天井は所詮網天井、どんなにその目が細かくとも、ばらまかれるままに飛び、交差する魔力の幻惑に過ぎない。
三次元に構成されたその網はなるほど動的には面だが、縦糸と横糸が走って布を成すように、直線あるいは曲線の動きを持つ弾幕の集まりなのである。その運動と位置、そして力場の相互関係さえ捉えていれば回避は可能。
そして、空間把握は十八番の咲夜である。
しなやかにかいくぐった網目の向こう、そびえ立つ『小さな』巨壁を彼女は捉えた。
「奇術『ミスディレクション』!」
より直線的な斜行弾幕の幻惑を、今度は咲夜が放つ。
動かぬと決めた相手には、はなはだ効果的ではない花火のようなスペルである。しかし搦め手には十分、回避がないと約束された相手が防御にまわるその合間に、本命を叩きこまんと真上に回る。
しかし突如出現した魔道書が二冊、咲夜の行くてを阻んだ。
そこから大量に吐き出される大小の弾幕に加え、パチュリー自身を基点とするレーザーの回転が、咲夜に後退を余儀なくさせる。
「くっ」
紅魔館は確かに咲夜のホームグラウンド。しかし、それ以上に魔法図書館はパチュリーのホームグラウンドであった。
彼女は一歩も動かずとも、無数に仕掛けられたトラップが彼女の手となり足となり、咲夜は戦場を縦横無心に駆けている様でその実、魔女の掌をせわしく動きまわっているだけなのだ。
立ち並ぶ本棚は盾として利用できる一方で、うかつに近づけば蛇も飛び出そうかという危険な藪にもなる。
一度、既に安全と知れた本棚に身を隠し、咲夜は体勢の立て直しを図った。
そして飛び出すや時を止め、また隠れたと見せて別の本棚の影に移動し、相手の裏をかこうとする。
しかしパチュリーは木気の魔力弾の嵐で周囲を覆うと、力に任せて今度は水気の魔力を、手当たりしだいに放った。
暴力的なその力は、咲夜の隠れていた本棚の防御結界をも打ち破り、なおその先の彼女めがけて襲い来る。
――こんな、乱暴な。
心にひやりと触れたその感情は、恐怖や焦りではなかった。
舞い散る埃を浴びながら七曜の弾幕をかわし、反撃し、その最中咲夜が感じていたのは違和のそれ。
自らを壁だと言い放ち、よけることを捨てたパチュリーは、明らかに戦いを、自分に不利に運ぼうとしていた。
強大な魔力と勝手知ったる戦場は確かに利だが、それでもなお、彼女は普段の戦い方を捨てているようにしか、咲夜には見えなかった。
「どうしたの咲夜、そんなことでは本当に脳なしメイドよ。レミィでなくとも失望するわね」
挑発、そして符の発動。
火符『アグニシャイン』――灼熱の炎が再び咲夜を追いたてる。
「失望など、させませんわ。それがメイドとしての私の役割ですもの、この館にいる以上はっ」
「では逃げることを止めなさい。あなたは、立ち向かわねばならないの」
「無論ですわ、私は、逃げてなど……」
言われるがままに、銀ナイフを、反撃の矢面に立てる。
平板だが幾層にもわたって敵を斬り裂く巨大な刃を構築、一気に、解放。
「嘘を、おっしゃい」
「――嘘? アッ」
一瞬の隙。それは時を操る者に、そうでない者が報いる最大の機会。
反則の手品で回避をはかる暇もなく、十重二十重の弾幕とレーザーが各々の光を煌めかせ咲夜に殺到した。
ほんのわずかな思考停止が先手を許し、咲夜は急遽予定していた反撃を防御も兼ね当初より大技へと――不本意ながら――変更する。
「殺人、ドールッ」
無数の刃は当初のファランクスを解消し拡散すると、迫る敵弾を打ち消しつつ、魔女を目指すものあらぬ方を目指すもの、さまざまに散り行く。
不気味な静寂が、その後に訪れた。
次弾はない。パチュリーは発光し回転する魔方陣の上に依然ありながら、詠唱ではなく微笑を、その口元に漂わせていた。
咲夜もまた、空中に静止して沈黙の笑みに応じる。
「……嘘付きは鬼に嫌われるわ。そして、レミィもまた吸血『鬼』……でも、あの子が恐れているのはあなたから嫌われる事であって、そうしないために、自分が嘘つきになるのも厭わないのだから、皮肉なものね」
「お嬢様が……?」
「ええ、こんなこと私が言ったなんて知れたら、今度こそ本当に追い出されるかもしれないわね。口は固いかしら、咲夜?」
「分かり、ません。私がお嬢様を嫌うと言うのも、お嬢様が恐れると言うのも。……そして、私が、逃げているというのも」
思い出される、夢の不愉快。月の薬師と、そのもとで聞いた、レミリアの怒声。
懐中時計、刻印、そして……
「目隠しをされているのなら、それを取れば良い。立ちはだかる壁は崩してしまえばいい。その向うにあるのが、あなたの求めるものならね。自分の力で答えを見つけるのでしょう?」
「はい、それは」
「だったら、今は私が打ち破るべき壁。その力で、破って見せなさい」
図書館の魔女はそう言って、大げさに、白い手のひらを一杯に開いて両腕をひろげた。
くすり、と咲夜に笑みが浮かぶ。
「なんだか、黒白の泥棒のようですわ。パチュリー様の言葉は」
「……それだけあいつが本を盗みに来てばかりという事よ。しかし嫌ねぇ、あんな奴にこの私が染まるなんて」
「それも、全知の為ですわ」
「要らない知識というのもあるものよ……」
パチュリーの常ならぬ戦いの訳、それは、初めから答えが出されていた。
彼女は立ちはだかる壁を演じていた。それは、打ち倒されるべき敵、突破されるべき障害。
これは異変なのだ。敵はたった一人しかいない、図書館の中だけの小さな小さな異変。真実を求めて異変解決をするのは咲夜。そして異変の首謀者、謎を握る敵はパチュリー。
彼女は、パチュリーは、その役割に忠実であろうとしているに過ぎないのだ。
ならば、咲夜もまた役割を果たさねばならない。この『異変』を解決し、真相を知るという役割を。
「来なさい、咲夜」
「ええ。パチュリー、様!」
それが合図だった。
ラストスペル。
錬金術の粋を集めし石をその名に冠した弾幕が、眩い光と共に牙をむく。
術者に近づくことも困難なほど熾烈で、余力を残さぬ最後の攻撃。おそらくその魔力の限界まで耐えきれば、自ずと咲夜は勝利する。しかし、
――それでは、私の力で壁を崩したことにはならない!
パチュリーを、失望させてはならないのだ。
自分は完璧で瀟洒、そしてレミリア・スカーレットの従者なのだから。例え『真相』がどんなものであっても、そこに向き合う事を恐れ、逃げてはならないから。
懐中時計を、握る。時は止めない。
火水木金土、結晶から放たれる弾幕の嵐へ、咲夜は飛び込んだ。
パチュリーはその役割に甘んじて攻撃に手心を加えるどころか、まさしく本気で咲夜を墜としにかかる。
密疎緩急の入り混じった弾幕が絶え間なく降りかかり、追いすがり、メイド服の端々を焦がして過ぎてゆく。
しかし、咲夜の手からはまだ一本もナイフは放たれていなかった。距離を詰めたとはいえ、止むことのない弾幕の中へはなったところで打ち消されるのは分かりきっていた。
接近し、今度は咲夜が一瞬の隙を突くのだ。威力は少ない攻撃でも、一撃必殺は見込める。
つまり、機が熟すまで咲夜はリーチを保ちつつ、荒れ狂う弾幕の中に身を置いていなければならないのだ。
「ッ!」
被弾した左足が、赤い血を生々しく噴く。
けれども意に介している暇はなかった。次弾、また次弾と脅威が襲ってくる。詠唱は止むことなく、パチュリーは咲夜をもはや見ていない。
握りしめた懐中時計が、軋んだ。その一瞬――
――今っ!
懐中時計を、力一杯に、投げた。
時計はそのまま魔女の傍の卓に落ち、跳ね、パチュリーの防御障壁に触れた。その僅かな干渉に、思考の途切れが生まれる。
それが隙だった。
「銀符『シルバーバウンド』」
決して最強の一撃とは言い難いスペル。
しかし放たれたナイフの群れは床、本棚と跳ねまわり、繰り返し魔女の防御障壁を切り裂いた。
大魔法の最中、魔力の供給は全て周囲の魔力結晶へ向かっている。綻びは各所に表れ、遂には障壁そのものを、崩壊に導く。
閃光と最後の魔力が放出されると、それきり魔方陣は光を失い、その上の術者もくたりと崩れ落ちた。
咲夜は慌てて駆けよると、その身体を抱きとめた。
「……あなたの勝ちよ。まさかあんな『弾幕』を使われるとはね」
上がった息遣いの中、パチュリーは咲夜にそっと右手を差し出した。
その手には、懐中時計が握られている。スペルの直前、彼女が投げつけたものだ。
「突飛な手段でしたわ。人間というのはあさましい生き物ですから、窮地に入ればどんなものでも利用してしまいますのね」
「ふふ、良く言うわ。けど、負けは負け、しょうがないわ。決まり手がこんな原始的な弾幕と、それから凡庸なスペルでもね」
「あ、パチュリー様……」
パチュリーはゆっくり起き上ると、服についた汚れを払い始めた。
さっき崩れ落ちて見せたのは演技ではなかったかと思う程、その姿は疲労を感じさせない。
今やぼろぼろのメイド服をまとった咲夜の方が、かえって敗者に見えるほどだった。
「ああもう、散らかったわね。小悪魔はいるかしら……」
「あの、パチュリー様?」
「なによ、心配しなくても話してあげるわよ。あなたの勝ち得た答えなんだから」
「……はい」
それから、ぱたぱたと羽を揺らし、吸血鬼が姿を現した。
「お呼びでしょうか、パチュリー様」
身の毛立つ様な微笑で、レミリアは二人の前に姿を現した。
可愛らしく振舞うつもりなど毛頭無く、小悪魔を騙ってパチュリーに揺さぶりを掛けている様にも見て取れる。
「……レミィ、小悪魔はどうしたの? あなたの返答によっては私も一言言わなきゃいけなくなるのだけど」
「あら、ちゃんとあだ名で呼んでくれてありがとう。いくら私でも小悪魔と同格に扱われるのは嫌よ」
「落ち着いて、ちゃんと話を聞いて頂戴。私は小悪魔はどうしたのかと聞いているの」
今度は流石のパチュリーも動揺を隠し切れず、レミリアと目を合わせてはいるが、語気が微かに震えている。
そして当の小悪魔は、レミリアの背後、本棚の陰から苦笑いを浮かべて三人の様子を伺っていた。
「うるさいから何か有ったのかって聞いたら、慌てて何処かに飛んで行っちゃったよ。まったく、無責任なものだねぇ」
「……そう」
レミリアの言葉は事実だと分かり、安堵とも落胆とも取れる溜息を一つ、パチュリーは肩を落とす。
流石に館の主でもある吸血鬼を目の前にして、少しでも抵抗出来たのならそれだけで褒めるに値するのではあるのだが。
「それで、何が有ったの?」
レミリアは、今度はパチュリーに対して同じ質問を繰り返す。
図書館内は魔法とナイフの跡が絨毯の至る所に無数に刻まれ、激しい戦闘の後を示している。
何か一悶着、それもここまで争う必要の有るやり取りが交わされていた事は、来たばかりのレミリアにも容易に分かる。
「ちょっと新しいスペルの練習をね。小悪魔じゃ役者不足だから、咲夜にお願いしたの」
「ふーん、それなら私に言ってくれればいつでも相手になるわよ」
「最近のレミィはいつ起きていつ寝てるのか分からないもの、咲夜が丁度此処に来たから誘っただけよ」
「パチュリー様っ!」
一触即発の会話の中、咲夜の声が割って入る。
パチュリーからの答えを待ち続け、痺れを切らした咲夜は更に感情を顕わに呼びかけたのだが、咲夜へのパチュリーの反応は、机の上の本の山から一冊の本を取り出しただけだった。
「ああ、そうだ。咲夜、この本を美鈴に返しておいてもらえないかしら」
パチュリーが差し出した手には、子供向けの派手な絵が表紙を飾る一冊の本が載っていた。
不穏な会話、それも怪しんでいた咲夜とパチュリーの間のそれに、疑いを寄せていた者が見過ごす筈が無い。
咲夜が受け取るよりも早く、レミリアの視線がその本に向けられる。しかし見覚えの有る物だったのか、少し憎たらしげに、すぐに正面のパチュリーへと視線を戻した。
「中々面白かったわよ、あなたもたまには読書なんてどうかしら」
本を目の前にして、咲夜は言葉を失った。
この後に何か有るのかもしれない、というまさかを期待し、少しの間受け取らずに待っていた。
しかしそれ以上の言葉は貰えず、渋々咲夜はその本を丁重に受け取り、じっとパチュリーを見つめるだけに止めた。
「それでレミィ、その魔力を何とかしてもらえないと、落ち着いて読書も出来ないわ」
「そんなものどうだって良い、今はもっと重要な話をしているんだ」
「……とんだ邪魔者ね、白黒と良い勝負だわ」
既に咲夜の事など意にも介せず、二人は再び睨み合い、膠着状態を続けている。
「お嬢様……」
咲夜の心の中で燻り続ける、不満。
メイド長としてレミリアの傍に居る事には不満は無い。その我儘に付き合うのも、楽しいと言い切れるだろう。
それが、ただ一つこの事が引っ掛かるだけで、こんなにも不快になってしまう。
従者が求めているものを与えてくれない主に対して、咲夜の中で小さな反感が芽生えている。
本当なら、そんな事は有ってはならないはずなのに。
「どうして」
心の声が、そのまま口から漏れる。
主に仕える事は、こんなにも苦しいものだったのだろうか。
主を信じ続けるのが、こんなにも大変な事だっただろうか。
当たり前だと思っていたレミリアの元での日々が、裏返した様に咲夜に重く圧し掛かる。
咲夜が感じていた幸せな日々は、全て思い込みだったのかもしれない、と。
考えてはいけない事が頭の中をグルグル回り、思いっきり頭を振って追い払う。
それを肯定してしまったら、今までの咲夜自身を否定してしまうのと同じ事だから。
「……お嬢様」
「なに?」
パチュリーに詰め寄っていたレミリアが、キッと咲夜に振り返る。
既に怒気を隠そうという気は微塵も無いのだろう、咲夜に向けた視線ですら、低級な妖怪なら怯み、尻尾を巻いて逃げていってしまいそうだ。
咲夜も、全身にびりびりと走る威圧感に気圧されつつも、それを振り切って伝える。
「私はただ、パチュリー様に聞きたかっただけなのです。その……夢の事について――」
「うるさいッ!!」
レミリアが、吼えた。
夢、という言葉を聴いて、レミリアは我を忘れたかの様に、感情を撒き散らす。
「あんなものの事なんか、あんなやつの事なんか、忘れろッ!!」
肩を揺らすほどの荒い息と、汗を滲ませる紅潮した頬。レミリアは、今の言葉を本気で叫んでいる。
パチュリーですら僅かにたじろぐ程に、レミリアは憤怒していた。
それから先、レミリアは罵詈雑言を喚き散らしていたが、その悉くが肝心な咲夜に届かずにいる。
あんなやつ。
その一言に、咲夜は激しい憤りが昇って来るのを感じた。
あんなやつ――永琳を貶されただけなのに、何故ここまで怒りが湧いてくるのだろう。
そんな疑問も僅かの間、やり切れない感情が咲夜を苛立たせた。
永琳は、優しかった。
まだ数回しか診察に訪れていなくても、咲夜にはそう思えた。
裏表の無い穏やかな微笑みも、棘の無い優しさも、咲夜を気遣う言葉も。
日を置いた今でも鮮明に思い出せる、優しく頭を撫でてくれたあの手も。
極々ありきたりな事の中に感じた、医者として患者に接する態度ではない何かが、咲夜の心に確かに残っている。
それを、あんなやつと言われた、忘れろと命じられた。
たったそれだけの事で黒く強い感情がふつふつと湧き上がる。まるで、咲夜自身が貶されたかのように。
「い、や……!」
不快なんて生温い、嫌悪と忠誠がぎりぎりと音を立てて押し付け合っている様な、重い痛みが頭を蹂躙する。
それなのに、咲夜はレミリアに逆らう事を知らなかった。冗談や反論をする事は有っても、こんな想いを抱く事さえも考えなかった。
行き場を失った感情が咲夜の中で荒れ狂い、心臓を強く締め付けている。
思い出した様に、胸元の時計をぎゅっと強く握り締める。
確かな硬さと、大きな存在感が咲夜の苦痛を僅かに和らげる。
レミリアの事も、パチュリーの事もよく分からなくなってしまった咲夜にとって、ただ一つ信じる事の出来る物が、そこに在る。
裏表の無いそれに心を寄せている内に、その中に小さな思いが芽生えた。
パチュリーは、答えは咲夜の中に有ると言った。
今の咲夜の中に有るのは、あの曖昧でよく分からない、灰色の夢。
それもこれも、全ては永遠亭、あるいは永琳と深く関わるようになってから、もしくはもっと前、不思議な夢を見るようになってからか。
夢の事もレミリアの事も、永遠亭に行けば、解決の糸口を掴めるのかもしれない。
それが出来れば、こんなに苦しむ事も無く、夢に悩まされる事も無い、平穏な生活を再び取り戻せるはず。
そして、今までの様にレミリアに美味しい紅茶を淹れる事が出来るのなら、他の何を投げ打ったとしても後悔は無い。
永遠亭に、向かわなければいけない。胸を締め付ける苦痛が、面に表れるまでに。
永琳の忠告は、もう全部捨ててしまっていた。
視界の端が微かに歪み、それに気付いたレミリアが振り返った時には、咲夜の姿は図書館内に無かった。
主への非礼も省みず、礼の一つも無しに咲夜は時を止め、何処かに行ってしまった様だ。
「――――ッ!!」
レミリアは、再びパチュリーを睨み付ける。
先程よりも鋭さは鳴りを潜め、代わりに荒々しい感情が幼い顔を怒りへと歪めさせている。
「それで、パチェは何をしようとして、何をされたの?」
「随分卑猥な言い回しね、まだレミィには早いわよ」
「別に他意は無いわ、というかそんな事に結び付けるパチェの方がおかしいわよ」
「そうね、そういう事にしておいて」
「それと、話をはぐらかさないで。咲夜に、何をしようとしたの?」
一語一語を強く、レミリアはパチュリーに叩き付ける。
心から零れそうになった言葉を覆い隠し、咲夜の主は、友人を激しく問い詰めた。
明確な意思をもって、聞きたくない答えを聞かんが為に。
「咲夜の質問に答えていただけよ。もっとも、レミィの所為でそんな暇も貰えなかったけど」
パチュリーは、此処に来て明確な答えを避けた。レミリアが知れば、事が荒立たない筈が無い。
それを避けるのが大前提のパチュリーの言葉は、レミリアの意気を圧し折った。
「レミィ?」
「……どうして」
震える声、厳かさを失った言葉が、レミリアの口から漏れ出る。
「どうして、みんな咲夜の味方をするの――――――」
肩を震わせ、吸血鬼は涙する。
不器用に、初めての想いを抱いた大切な従者は、目の前で去っていった。
吸血鬼と人間というあらゆる垣根を越えた主従の繋がりは、強過ぎたが故に些細な罅から壊れようとしていた。
「わたし、は、咲夜に、ずっと……」
最も恐れていた運命を前にして、後悔ばかりがレミリアの心を刺し穿つ。
真実を知れば、咲夜はレミリアの元から離れていくのかもしれない、それを恐れ避け続けて、レミリアは後悔を抱く運命を選んでしまった。
こんなはずじゃなかった。
ただの気紛れが引き起こした結末を前に、威厳も何もかもを捨て去りレミリアは泣き続ける。握り締めた手に、涙が零れ落ちて行く。
「まったく、泣けば解決する事でもないでしょうに……。でも、大丈夫」
幼い吸血鬼を腕の内に収め、魔女は呟く。
パチュリーもまた、一つの後悔を抱いていた。
友人を信じず恐れ、万全を期した筈の行動の最後の最後で踏み間違えた自分に。別れの言葉の一つさえも、手向けてあげられなかった自分に。
「私も、咲夜の敵よ」
ちゃり、と金属質の音が響く。
レミリアの手から落ちた時計――蝙蝠の様な羽を象った懐中時計が、図書館の床で鈍く光っていた。
「咲夜さんっ!」
夕日の茜色も映さない曇天の下、紅魔館の門番は咲夜を呼び止めた。
わき目もふらず、館から門までを真っ直ぐに通り抜けようとする咲夜の足が止まり、そこに美鈴が駆け寄って行く。
この前の時以上に様子のおかしい咲夜を、美鈴は放っておけなかった。
「どうかしたんですか、また――――!?」
呼び止めて振り返ってもらい、そこで美鈴は咲夜の手に握られた一冊の本に気が付く。
それはあまり読書を嗜まない美鈴にも見覚えの有る、読む時に知識の要らない嗜好的な本――天狗の漫画本だった。
「……美鈴、いつから知ってたの?」
「…………そうですか」
低く静かに、咲夜が美鈴に問う。
明らかな敵意を滲ませて睨む咲夜の視線を正面から受け止めて、美鈴は答える。
「咲夜さんが二回目に永遠亭に行って、お嬢様がその後を追いかけて行った時にです。正確には、その少し前からですけど」
図書館を出て、咲夜はすぐにその本を開いた。
本の中身には興味は無く、パチュリーの言葉と渡された時の違和感――頁の隙間に挟まれた何かを見る為に、パラパラと高速で送り続ける。
程無くしてその手が止まり、咲夜の目の前に丁寧な字で綴られた、美鈴の手紙は現れた。
その手紙を咲夜に渡したのは、間違い無くパチュリーの意思である。
パチュリーの行動の意味を考える事はせず、美鈴はただパチュリーの意思に従い、その決定から想いを汲み取り話す。
「咲夜さんの夢については、パチュリー様から相談されていました。最近、特に夢についての相談が多いという事と、永遠亭を薦めた事も」
永遠亭で起こった事――永琳の診察とレミリアの襲撃、その仔細まで書き連ねられた美鈴の手紙を、咲夜はパチュリーから受け取った。
咲夜が永琳から何を聞き、レミリアが永琳に何を告げたかも、まるでその場で聞いていたかの様に、気味が悪いほど文面で再現されている。
なるほど、美鈴は外で自由に動ける、パチュリーの代わりなのだろう。咲夜はそう理解し、美鈴に対する感情を改めた。
「そして私の答えは――その手紙の通りです、咲夜さんにも、お嬢様にも内緒でパチュリー様に協力していました」
つまる所、美鈴はパチュリーと共謀し、咲夜を騙し続けていた。
理由など咲夜には知る由も無いが、少なくとも現実はそれに間違いは無い。
「そう……それじゃ、もう一つ質問しても良いかしら」
「はい。私に答えられる事なら」
「――どうして、私に知らないフリなんかしていたの?」
そして美鈴は、今の今まで、咲夜に何一つ打ち明けてはいなかった。咲夜の夢の事を知って尚それを隠し続け、咲夜と接し続けていた。
この事実が有ったからこそ咲夜は、今この場で美鈴に敵意を向けている。
最後の壁だと信じていた、美鈴に。
「それは、門番の我儘です。パチュリー様やお嬢様、咲夜さんの為の」
「我儘……ね、してやられたわ」
その事実を知らなかったからこそ、咲夜は最後の一歩を先延ばしにして、逃げる様に館での日常を求めた。
結果、咲夜の意思はより強く夢を求める様になり、今この時、最後の一歩を踏み出さんと門の前に立っている。
門番がその行く手を阻んでいなければ、もう一歩早める事も出来たのだろう。
「美鈴も、お嬢様やパチュリー様と一緒なのね」
心なしか、その表情に寂しさを含ませて、咲夜は呟く。皆が皆で咲夜に偽り続け、咲夜の忠誠をズタズタに傷付け、敵意を抱く今を嘆くように。
諦め混じりにふっと吐き出された言葉が、咲夜を騙し続けてきた美鈴の心に深く突き刺さり、傷口を広げていく。
咲夜の、言葉と気持ちのナイフを受け止め、俯き気味の美鈴の顔が持ち上がり、真っ直ぐに咲夜の背中を見据えた。
「私にはもう、咲夜さんを止める気は有りません。ですが、これだけは言わせてください」
飛び立とうとする咲夜の背に、美鈴が呟く。
咲夜は振り返らず飛ぶ事を止め、美鈴の言葉にじっと耳を傾けて、全てを覆すもしもの可能性を待つ。
もしかしたら、咲夜はここへ戻ってこないのかも知れない。――美鈴は、そんな風に思っていた。
嘘で塗り固められた関係にもしもなんて言葉は通じないと分かっていても、最後の壁を求めて。
「これから先、咲夜さんが紅魔館に戻って来ないかもしれないけど、それでも知っておいてください」
美鈴は、思う。
パチュリーの決意と、咲夜の決意を前に、門番の意志一つでは抗う事も叶わないだろう。
ならば美鈴の取るべき行動は、決して後悔しない為に、自分自身の想いを伝える事。
咲夜は振り向いて、館を背に想いを伝えようとする美鈴の姿を、見た。
「咲夜さんは、紅魔館のメイド長で、皆にとって大切な家族です。もしも、凄く悲しい事や、辛い事が有ったら、いつでも帰って来てください」
信じられる事も、叶う事も諦めて尚、美鈴は自身の想いを咲夜に憶えてもらおうとばかりに大きな声で、願う。
その言葉を聞いたのを最後に、咲夜は再び前を向き、地を蹴って飛び立った。
「……さようなら、咲夜さん」
悔いは無い、と言えば嘘になるだろう。
しかし、美鈴は自分のやるべき事をやった。それを誇りに、ぐっと悲しみを抑え付ける。
そして、遠く離れ行くその姿を、涙を湛えた瞳で、雲の彼方に消えるまで見送っていた。
暗くなり始めた曇り空を、咲夜は迷う事無く、真っ直ぐに永遠亭を目指した。
疑う事の無い平和な日常は既に崩れた。咲夜を諌める忠誠心も綻びが広がり、幼く鋭い敵意が紅魔館とその主への想いを引き裂く。
紅魔館から解き放たれた意志は咲夜の思いのまま、もう一人の咲夜、という真実を求めて夜空を飛翔する。
咲夜が永遠亭の門戸を叩いたのは、一寸先の竹も闇に紛れる程夜遅くの事だった。
明るい内はまだしも夜の竹林はその名の通り、道を知る者ですら気を抜けば道を外れてしまう、複雑な迷路でも在る。
幾度も訪れた事が有るとはいえ、無事辿り付く事が出来たのは、偶然にも等しい。
「すいません、今日はもう終わりなのです……が……」
待つ事十数秒、中から現れた兎は咲夜の姿を見るなり言葉を失い、その様相を見て固まってしまった。
彼女は今の咲夜に何を見たのか、臆病な兎の性質を差し引いてもおつりが来るほど一目瞭然だった。
それから一向に言葉を続けようとしない兎に、急ぐ咲夜の方から用件を切り出す。
「八意永琳に用事が有って、来ました」
煩わしそうにそう言うと、兎ははいっと驚き跳ね飛び、咲夜を中へ迎え入れた。
診療時間外だからといった些細な事は、今の咲夜にとって何の意味も感じられず、兎の先導を待たず真っ直ぐに目的の場所へと進み続ける。
他の兎達がなんやかんやと面白半分に集まって来るが、咲夜の道のりを邪魔する者は居らず、遠巻きに眺める程度だった。
それほどまでに、咲夜は平静を保っていられず、余裕の無い焦りを排他的な雰囲気で覆い、半ば殺気立たせながら歩いていたからだ。
「………ここ、だったわよね」
咲夜が辿り着いた所は、永遠亭の唯一の診察室であり、今この時間、永琳が居るであろう部屋。
此処に来て、戸を開こうとしていた咲夜の手が躊躇に震える。
真実を知って、それが何になるのか。冷めかけた感情が負の思考となって回り始める。
ただ、今此処で引き返したとしても、ただ苦しむばかりでしかない。ただ真実を知りたいというその決意だけが、咲夜の背中を強く押していた。
「あら、こんな夜中にどうしたの?」
予想通り、机に向かってこの日の診療結果を纏めていた永琳は、振り返りつつ言う。
その柔らかな微笑み、余裕の有る佇まい、暖かな雰囲気を前に、咲夜は微かで確かな安堵を覚える事に、何の疑問も抱かなかった。
同時に、咲夜の中で異常なまでの期待が、心から溢れ返りそうな程に湧き上がってくる。
不思議な、それでいて奇妙な安心感が、荒みかけていた咲夜の心を僅かに開く。
「……助けてください」
何を考える前に出て来た言葉は、救いを求めるもの。
心の拠り所を自らの手で潰し、ぐにゃぐにゃに捻じ曲がった忠誠と矜持の残骸を抱えて、幼子の様に縋り付く先は、優しい夢。
「貴女……」
ただならない咲夜の様子は、永琳をも驚かせた。
胸を押さえて、息も荒く、助けを求めに来た咲夜は、永琳の目にどう映ったのか。
少しの間固まっていた永琳は、咲夜の小さな呼びかけでようやく我に返る。
「――分かったわ」
理由を聞く訳でもなく永琳はそう言い、咲夜をベッドに座らせ、ドアを施錠し結界まで張り巡らせた。
物々しいまでの準備を無言のまま着々と進めているのだが、咲夜はそれに警戒をする事も無く待ち続ける。
元より永琳の評判や技術、知識を信頼していた事だけでも十二分、そしてそれ以上のものが咲夜の心を落ち着かせてくれている。
それどころか、記憶の裏で燻り続ける紅魔館への猜疑心や、今にも破裂しかねない咲夜の折れた心をも静めてくれそうな淡い期待さえ、咲夜は感じていた。
主やその友人達に対する憎悪にも似た黒い感情からの逃げ口と言ってしまえば、それを咲夜に否定する事は出来ないだろう。
何物にも縛られる事が無くなった今、咲夜は思うままにこの永遠亭へ足を運び、こうして永琳を前にして、記憶の処方を待っている。
「これ、呑んで頂戴ね」
棚と机から持って来たのは、黒い錠剤と二粒のカプセルと、少し大きめのコップに八分目まで注がれた水。
それらを小さめのお盆で手渡され、咲夜は零れない様丁寧に傍らに置いた。
すぐ横には無言で咲夜を見つめる永琳、目の前にはいつか見た薬、そこに疑う余地は僅かも無い。
躊躇う事無く薬を呑み下すと、間を置かずに意識が頭の裏側に引きずり込まれる様な錯覚と共に、視界が暗く染まる。
「…………」
眠りに落ちる咲夜を、永琳は押し黙ったまま、ただじっと見つめ続けていた。
悪魔が、笑っている。
真っ赤な口元を三日月の様に曲げて、その端からぽたぽたと同じ色の雫を零して、笑っている。
笑っている。笑っているのに、笑っていない。
視覚でしか感じられないはずのそのカタチに、高笑いが聴こえ狂気を感じ、恐怖に身体の感覚を攫われる。
その片手は悪魔よりも大きなものを軽々と持ち上げ、子供の様に苦も無く振り回す。
悪魔と呼ぶにはあまりにも似合わなさい小さな体躯だというのに、悪魔に相応しい牙と翼が、この悪魔を悪魔たらしめている。
逃げ出したかった。
恥も外聞も今この場においては紙屑に等しい。直感と経験が命の危機を目前に、警笛をけたたましく鳴らし続けている。
しかし、視界は動かない。逃げ出そうという意思を、身体が受け入れてくれていない。
閉じない視界が映し続けている、音も無く笑い続ける紅い悪魔と、その片腕が貫くもの。
その二つを、よく知ってしまっているから。
あの悪魔には、見覚えが有る。
あのものには、見覚えが有った。
記憶の破片が意識に収まるのと同時に、視界が黒く閉ざされる。
悪魔の激昂は姿を晦ましたが、心は未だ震えたまま、悪魔の姿を鮮烈に焼き付けていた。
そして休む間も無く、夢は次の幕を開ける。
周囲の空気が変わった、と思った。視覚しか残っていないはずなのに、それだけが分かる。
ぼやけた視界が少しずつ光を取り戻して行く。この曖昧さにももう大分慣れた、夢だとはっきり分かるだけに、少し気持ちが良い。
そうして現れた景色に、悪魔は居なかった。ただ白と黒の四角形だけが、自分以外を埋め尽くしている。
動く四角形、いや、視界が前へ前へと進んでいる。ぼろぼろになったであろう視界を引き摺って。
黒いぐるぐるやもじゃもじゃが、するりと物陰から現れて、隣を音も無く通り過ぎて行く。
ぞわり、と身体を虫が這いずり回った様な感触が走った様な気がして、身体が固まる。
それが何か分からない、得体の知れない何かが、あちこちを徘徊している様だ。
自分で意思を持ち動き回り、ばらばらに、重なり合って、忙しなく行ったり来たりを繰り返している。
しかしそれらは、今この場のイレギュラーであるはずの自分に何も興味を示さない。
人の形に興味が無いのか、それとも、自分だけに興味が無いのか。
自分とぐるぐるやもじゃもじゃだけの世界が、ずっと続く。
いつまでも、いつまでも、虚ろな視界を引き摺って。
まるで、人の形が自分しか存在しない様な錯覚が、懐かしさと共に心を突いてくる。
それを思い出す度に、じわりと押し寄せる心細さや不安が、小さな事の様に思えてきた。
比べるまでも無く遥かに黒い警戒心と敵意を持って、それを遠ざけてしまえば良かったから。
そうしなければ、心が負けてしまいそうだった。
生物か無生物、敵か味方かも判断出来ない、不気味な物体が跋扈する世界で、信じられるのは自分しか居ないからだ。
――――、―――
何処かから、微かな音が響いた。
聴こえるはずの無い、なのに感じられる音が、白と黒の世界を揺らがせる。
左へ、右へ、視界が激しく揺さぶられる。微かな音を頼りに、その元を見付けたいと心が叫んでいる。
味方の居ない世界で、記憶に残るものを頼りたかった、そんな幼心に身を任せて。
そうして振り向いた先に、灰色の何かが在った。
その何かから感じるものが、世界に罅を入れぐるぐるやもじゃもじゃを追い払い、白と黒の世界を揺らがせる。
いつの間にか聴こえていた音は歌になり、頭の中に直接響き渡り始めている。
この歌を知っている、はずだった。
でなければ、こんなに涙を流しているはずが、無いから。
♪♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪ .
悪魔の館、灰色の町、深い竹林、大きな日本家屋。
その歌に導かれて、眠っていた意識が最後の記憶と共に呼び起こされて行く。
♪♪♪♪ ♪ ♪♪♪♪ .
幼き悪魔、名も知らぬ人の形、兎の耳をした少女、銀髪の女性。
歌の進みに合わせて、灰色だったものが、形を取り戻し始める。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪♪♪♪♪♪♪♪.
恐怖、孤独、希望、幸せ。
意識が身体の自由を取り戻して、悪夢という名の記憶から、救い出される。
♪♪♪♪♪ ♪ ♪ ♪♪♪ .
八意永琳は、静かに歌っていた。
同じ言葉で、何度も、自分と相手に聞かせられるように。
そして、囁く様に、撫でる様に、優しく歌を紡ぐ永琳の膝の上で、目を覚ました。
「そう。そう……この歌……」
全て思い出せた。辛い記憶も嬉しい記憶も全て、元に戻った。
複雑に絡み合っていた記憶の断片が一つの歌によってパズルの様に綺麗に収まり、その答えを浮かび上がらせる。
失くしてしまった、永遠亭で過ごした記憶という過去を。
「……おかえり」
柔らかに、頭を撫でながら永琳が微笑む。
医者としての心遣いでも、八意永琳としての優しさでもない、
「はい……母様」
母の愛を、一杯に湛えて。
『あら、こんな所に子供……?』
『……!』
『ッ! ……どうしたの』
『ど、どうして刺さ……!』
『ほら、止めなさい。 そんな危ないもの、子供が振り回しちゃいけないわよ』
『やっ! 離し……!!』
『大丈夫。 ……こんなもの、いらない所、行きましょう』
『――――!』
辛かった?と訊ねる母を、子は無言で強く抱きしめ返す。震える肩にそっと母が手を回すと、たちまちぴたりと落ち着いた。
ぴりぴりと張り続けていたメイド長の糸がぷつりと切れて、母の身体にしな垂れかかる。
母様、そう言葉にする度に、身に掛かる重圧が身体の隅々から抜け落ちて行くかの様だった。
寄り場を無くし、自分の足で立つ事を余儀なくされた子は、よろけては堪えて、転んでは立ち上がって、必死にもがいた。
何も考えなくてもいい、ただ甘えるだけでいい、そう子供らしい時間を持つ事も叶わなかった。
他人の群れを離れて迷い込んだ竹林で、力無く崩れ落ちる手を取る者が現れるまでは。
「母様、私は……」
「いいの、何も言わないで」
母様と呼んで返事が返って来る、ただそれだけの事なのに、嬉しさに顔が綻んでいた。
片手に構えたナイフごと、抱きしめられたあの日の幸せを思い出しながら、ほわっとする安心感と充足感に、顔が熱くなる。
それを隠すようにきゅっと顔を寄せても、優しく受け入れてくれる。
幸せ過ぎて頭が茹ってしまいそうになりながら、もっとこのままで居たいと、少しだけ落ち着こうと抱きしめる手の力を緩めた。
身体を離して、もう一度母の顔を見る。あの時と変わらない母親の穏やかな微笑が、居てくれるという実感をくれている。
もう一度母と呼べば、すぐに返事は返って来る。いつ呼んでも、いつでも返って来る。
これから先、ずっとこの幸せが続くというのなら、何を投げ捨てても惜しくは無いと言い切れるだろう。
心を救われ、幸せに身を浸し、笑顔に時を費やす。そんな未来を確かなものにしたくて、もう一度母の温もりを求めた。
ふらり、寄りかかった上半身が傾いた。
慌ててしがみ付くも、体重を支え切れずベッドに倒れこむ。
訳も分からずじっと自分の手を眺める。一瞬、意識が遮断された様な強い違和感に手が緩るむ。
安心し過ぎて身体の力が抜けてしまったのだろう、手を持ち上げるのにも一苦労だった。
「……?」
不思議そうな面持ちで手の平をくるくる返す姿を、母は見ていた。
何をするでもなく、それだけだった。子に向けられていた落ち着いた微笑みも、その姿を隠して。
うんしょ、ともう一度起き上がって、もっと近くに寄り添いたいと、母の背中に手を回す。
その手は空を掻いて、その勢いに流されて再び身体が大きく揺れる。
傾く子を助けようとする手も出さず、真っ直ぐに見つめてくる子に笑顔も返さず、母は見ていた。
――さようなら。
そして、小さく、はっきりと、そう囁いた。
「あ……れ?」
身体が、力無く崩れ落ちる。
自身の意思そのものが、静かに、真っ白に消え去っていく様な喪失感が、頭の中を駆け巡る。
段々と虚ろになって行く視界に微かに見えるのは、静かに瞳を潤ませる永琳の顔。
支え切れずベッドに倒れる身体。離れて行く永琳に手を伸ばそうとして、その手も動かなかった。
「……貴方に飲ませた三つ目の薬。これは、効き始めの時間を調節した、お別れの薬なの」
「おわ……かれ……?」
永琳は、そう言う。
この、頭の中が真っ白に塗りつぶされていく感覚を、何処かで知っていた。
それも、思い出したばかりの幸せな記憶の、最後の最後で。
「……ずっと、後悔していたわ。貴方を止める為とはいえ、貴方の記憶を奪ってしまった事を」
悪魔の気紛れで孤独に追い遣られた過去、その記憶はいつでも生きる糧として燻り続けていた。
そしてその悪魔の所在を知り、復讐の念に駆られ、永遠亭を飛び出そうとした時。それが、無くした記憶の最後。
「吸血鬼に人間が復讐するなんて、昆虫が人間に牙を向けるようなものだから。
……貴方に死んで欲しくないから、と言っても弁解にもならないわね」
「あ……あ……」
「それで私は血気に逸る貴方を気絶させて、この薬を飲ませたの。もう二度と復讐なんて事を考えない様に。
……気紛れで貴方を拾い育てて来たからこそ、私がやらなくちゃって、覚悟はしていたわ」
あのまま朽ち果てていたとしたら、復讐にも孤独にも苦しむ事無く、その命を終わる事も出来ただろう。
それを一時の気分で、再び復讐に身を染められる時まで生き永らえさせてしまったのだ。
その罪は、永琳自身の手で始末を付けなければならない。例えその代償が、親子で過ごした幸せな思い出を失う事だとしても。
「そして、記憶を無くした貴方を、優しそうな人に託したの。
此処に居ると、また記憶が戻って来てしまうかもしれない、それに……私が、辛かったから。
けど、それで貴方があの吸血鬼の元に流れるというのだから、運命は残酷なものね」
図らずとも、咲夜は悪魔・レミリアの元に辿り着いてその従者となり、永琳と再会する事となった。
そして、再会してはならなかったはずの二人が再び出会い、過去を取り戻すトリガーとなってしまった。
永琳はそうなってしまう事を拒み、目を背け続けることも出来たのだろう。
そうしなかったのは、そう出来なかったのは、永琳に芽生えた母としての想いの所為。
「嫌……やっと、母様の事……思い出せたのに……!」
母に抱かれて、子は泣き続ける。
取り戻した記憶、里帰りした精神、安息の場所が今、手の平から零れ落ちるように、幻となって記憶より消え去ろうとしていた。
「貴方は貴方の幸せを手に入れたの。……だから、大丈夫」
「うぁ……あ……!!」
伸ばす手も届かなくなり、指先がしな垂れ落ちて、母の脚に寄りかかる。
微かに動いた口元から漏れる、何かを伝えようとした声は、開いてしまった僅かな距離の間に溶けていった。
「さようなら――」
必死に記憶を繋ぎ止めていた気力が、意識ごと闇に吸い込まれて行く。
力無く投げ出されたその手は、最後の、最後まで、母を求め続けていた。
『…………』
『どうしたの、そんなにしがみ付いちゃって』
『……怖い夢、見たの。 赤くて怖いのが、私に向かって笑ってきて、それで……』
『そう……ねえ、ちょっと手を出して、目を瞑ってて』
『?』
『――はい、あなたを護ってくれるおまじない』
『これ……懐中時計?』
『そう。 その時計が、あなたを怖いものから護ってくれるのよ』
『それって、母様のように?』
『ふふ、そうよ。 あなたにどんな悪い事が有っても、ね』
『ありがとうございます、母様――』
「…………」
咲夜が眠りに落ちたのを入念に確認して、ちゃり、と咲夜の首に、外していた時計を付け直す。
母と子を繋ぐ最後の欠片が刻み込まれたお守りを、二度と離れない様に、しっかりと繋ぎ止めた。
「それに……きっと私は、耐えられない。 本当の子供の様に育ってしまった貴女を失う悲しみを、永遠に背負って歩く事なんて」
永琳の時間は永遠であり、人間である咲夜の生と肩を並べるには、残酷なほどに離れ過ぎている。
しかし、自分と同じ運命を勝手な想いで他者に与えるなどという行為に走るほど、永琳は我を忘れ切れなかった。
だからせめて、幸せな姿だけを記憶に留めておきたいという自分勝手な想いを、咲夜の幸せと共に願った。
「……でも、一回だけ、ほんの僅かな間だけでも、私の子に戻って欲しかった。
貴方の姿を見て、そう想ってしまうのを抑えられなかった。
だから、私が私で居られた間に、こうしなければ……。わたし、の、せいで……」
言葉に悲しみが混じる。二度と交差する事の無い筈だった運命を、ささやかな願望の為に捻じ曲げてしまった。
そして、変わろうとしていた二つの運命の狭間で、永琳は恐怖に打ち勝てなかった
言った所で聞き入れる者も、それを許す者も居はしない。それは永琳が自らに科した罪として、永く心に残り続けるだろう。
幼い咲夜を引き取った気紛れは、永琳の心に深い傷跡を残していった。
「全部、ぜんぶ私のわがままだから……ごめんなさい、ごめんなさい……、ごめんなさい……ッ!」
始めに咲夜を送り出した時から、心の中で張り詰めていた我慢の糸が音を立てて切れ、泣き叫ぶ。
母だった者が子だった者に見せられなかった、最初で最後の贖罪の涙を、拭う事も忘れて。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
悲痛な叫びは、続く。 永遠の涙が、枯れ果てるまで。
空が白み始め、冷たい風が低い草原を撫でる夜明けの湖のほとり。
湖に住む妖精達も夢の中に居る時間の草原に、ぽつんと一つの影が落ちている。
そこには、緑の絨毯に身を投げ出して、時折唸り声を上げながら、メイド服姿の少女が横たわっていた。
「…………ん、う……」
とても幸せそうに緩んでいる寝顔の上で、風に揺れる銀髪が朝日を照り返して光る。
ころころと、何度か寝返りを打った所でその顔が苦悶のものに変化し、すぐに跳ね起きた。
「ッ――!! っあ――!!」
よたよたと振られる腕、勢いよく辺りを見回す頭、寝起きには少し厳しかったのか、痛む頭を抑えて蹲る。
痛みが引いて来た所で、自分が夢を見ていた事を確認し、今度は大きなため息を吐いた。
とても幸せな夢の最後の最後で、崖から突き落とされる様な、とても悲しい夢。
その感触が嫌に生々しく、目を覚ました今でも心臓の鼓動は速まっていた。
暫く待ち、少し落ち着いた所で深呼吸を一つ、そしてそっと手を胸元に当てる。
「時計……どこっ!!?」
そこに有ると思っていた大切な懐中時計が、その場所に無かった。
半ばパニックを引き起こしつつ、体中を両手で探る。袖の裏からソックスの内側まで、おおよそ有るはずが無い所にまで手が伸びている。
そして、背中に当たる何かに気付いて手を伸ばしてみる。身体の後ろ側に周ってぶら下がっていた懐中時計が、無事少女の手に収まった。
「よ、良かった……」
外装と中の文字盤を眺め、それが確かに自分の物である事を確認し、大きく息を吐く。
それからちゃんと見える様に、鎖を回して体の前に時計を下げる様にした。
ふと、何故この時計が大事なのか、少女はそんな事を考えた。
何の変哲も無い懐中時計、それなのに、手にしているだけで不思議と心が落ち着いてくれる、不思議な時計。
それだけでも十分だ、と満足して、時計をしっかりと握り締めて、少しの間気分を休めた。
日も昇り、太陽が丸い姿を見せる頃になって、少女は立ち上がった。
寝起きの一騒動も、落ち着かなかった気分もすっかり良くなり、もう休む必要は無いと草原に別れを告げる。
そうして周りを見渡す、しかし視界に映るのは湖ばかりで、陸地は非常に遠かった。
仕方が無い、と少女は振り返る。
その先に、見上げる様に大きく紅い洋館が見えた。
見るからに禍々しい、怪しい洋館に少女は目を丸くし、一歩足を引く。
ちょっとだけ怖い、そう思ってこの場から離れようと踵を返す。
――――もしも、凄く悲しい事や、辛い事が有ったら、いつでも帰って来てください
「……?」
ふと、そんな言葉が脳裏を過ぎった。
何処で聞いたのかははっきりとは覚えていない、しかし、聞いた様な覚えは有る。
もう少し深く思い出そうとするも、頭の中に霧が掛かったように、ぼやけた形しか見えない。
確か、記憶に有るとおりなら、その人は紅い館を背にして、そんな事を言っていた。
その紅い館というのが、目の前に聳え立つこの館なのではないだろうか。
「……」
記憶を信じる、信じないを考える前に、少女は紅い館へ足を進めていた。
何らかの、記憶に残る様な事が有った、それを知りたいが為の欲が、無意識にでも館へ向かえと体に命令している。
半ば吸い寄せられるように、少女はふらふらと木々の間を歩き続けた。
「……ッ、ぅ……」
夜明けを迎えた永遠亭の診察室、ただ一人机に顔を伏せて、呻いている女性が一人。
長い銀髪はぼさぼさに跳ねて、少し薄汚れている様にも見える。
時折肩を震わせてしゃくり上げる音だけが、静かな診察室に響いていた。
「……永琳?」
ドアが開いて、黒髪長髪の少女が顔を出し、ぱたぱたと机に駆け寄った。
永琳と呼ばれた女性は、その少女の声に気が付いて、顔を上げる。
その目は周りも含めて赤みを帯びており、その下には涙の跡が幾筋も残り、微かに隈も出来ていた。
「ああ、輝夜。おはようございます」
力無い声が、元気そうに振舞おうとしている姿を哀れなものにしている。
一晩中、泣き続けていたのだろう。両袖に大きな染みを作り、朝を迎えた今でも乾いていない。
月の頭脳、らしくない姿を見とめ、輝夜はふうと一息、緊張を崩しておはようと返した。
「……涙は枯れたかしら?」
更に輝夜は、皮肉も込めて永琳に問う。
精神も肉体も無理をし過ぎて少しやつれた顔を、無理矢理綻ばせた様な痛々しい笑顔で、永琳は言葉を返す。
「ええ、もう流す涙も有りません。一生分、泣きました」
それに合わせたか、永琳も皮肉をたっぷり込めて、そう言った。
輝夜はその答えに満足したのだろう、こくりと大きく頷いて、永琳を部屋の外へと誘う。
「朝ご飯が出来ているわ、一緒に食べましょう」
「はい、輝夜」
その手に連れられて、永琳も一緒に診察室を出る。
誰も居なくなったベッドを振り返り、ドアを閉めようとして、服に挟まっていた竹の葉が一枚、はらりと舞った。
やがて、少女は大きな門の前に辿り着く。
館を囲う塀の一箇所に、大仰に構えられた門が一つ、門番を付けて中に入ろうとする者を迎えている。
しばらく眺めていると、門番をしていた赤い長髪に緑のチャイナドレスを纏った女性が、少女の姿に気付いた。
「ん……? あ……えっ――!?」
視線が少女の顔に向くなり、その表情が驚愕の色に染まった。
そして物凄い勢いで少女に走り寄ると、その姿をまじまじと眺め始めた。
急な女性の行動に戸惑いながらも、少女は黙って待ち続ける。
その後も、何度も何度も少女との再会を喜ぶような事を言いながら、涙を流して手を取ったりと、並ではない歓迎のようである。
一言も反応しない少女を見て、女性は何かに気付いた様にはっと口を押さえた。
そして、門の傍らに戻って直立の姿勢を取り、礼を持って少女を迎え入れる。
「……お嬢様がお待ちです。どうぞ、中へお入りください」
丁寧な態度と言葉、それと同時に巨大な門があっさりと開いて、少女を館の中へと誘う。
未だ戸惑いを隠せずにいながらも、少女は言われるがままに門を通り、館の中へと入って行く。
背を向け歩く小さな後ろ姿を、女性は瞳を潤ませて、ずっと見つめていた。
その胸に、何処か懐かしいものを思い起こしながら、その姿が館の中に消えるまで、ずっと。
館の中は灯りが少なく、窓がほとんど無いからか日の光も射さないため、少し先も見難くなっている程に、薄暗い。
ドアを抜けた目の前に、中世のお城の様な大きな階段が広がり、客を圧倒している。
その上る先を少女が目で追うと、上り切った所に王座の如く背の高い椅子が鎮座していた。
ただならない雰囲気に少女はしり込みするが、門番の女性は少女を迎え入れた。
それだけを安心の頼りにして、コツコツと階段に向かって歩いて行く。
その椅子には、一対の大きな羽を持つ幼い少女が、堂々と座っていた。
羽が生えた少女という存在を前に、少女は恐れる事無く寄って行く。
一歩一歩近付く毎に、薄暗い部屋の中にその姿が浮かび上がっていく。
薄い桃色の帽子に、それに色を合わせたワンピース、青みがかったシルバーの髪が肩まで伸びている、見た目には可愛らしい少女。
その少女が、足を組んで威圧的に座り、体より大きな羽を揺らしている様は、逆に恐怖してしまいそうな奇妙さが有った。
玉座に腰掛けている少女も、来客に気が付いた。
瞬間、威圧的だった顔は驚きに目を丸め、足音が響くほど勢い良く立ち上がり、しっかりと少女の顔を確認している。
そして、くしゃくしゃになってしまいそうな顔を袖で強く拭って、それでも涙を讃えた瞳で、真っ直ぐに少女を見つめた。
『……貴女、私に復讐しに来たの?』
『復讐? ……何の事?』
『何の事って、私の台詞よ。 どうして貴女は此処に居るの』
『分からないわ』
『……面白いわね、貴女。 本当に面白そうだから、私の元に居なさい』
『……いいの?』
『ええ、良いわよ。 尤も、この悪魔の館に居座る勇気が有るのなら、だけど』
館の主、吸血鬼レミリアは、館を訪れた客を見て驚きを表しきれなかった。
レミリアが最も重用した従者、生涯を共にすると誓った従者。
そして、信じ切れなかった自分の所為で、心から離れていってしまった従者が、あの時の姿で今、目の前に居る。
諦めていた筈の運命が、レミリアの思惑の外で再び0の位置から回り始め、二人は二度目の出会いを迎えた。
「貴方、名前は何て言うの?」
歓喜と緊張で震える声を必死で抑え付けて、レミリアは少女に問いかける。
少女は少し考えて、首を横に振った。
「まあ、何でも関係無いけど。私が、貴方に名前をあげるわ」
そしてレミリアは、再び彼女と共に運命を歩み始める。
今度こそ、後悔の無い未来を、掴み取る為に。
いい?貴方の名前は――――
心地よい目覚めというものを経験したのは、まったくいつ以来だっただろうか。
そもそもうたた寝こそ珍しいというのに……そんなことを考えながら、八意永琳はむくりと机に突っ伏した上体を起こした。
机の上に乱れはない。いつも通り、急患もまれな診察室。寝起きにしてははっきりし過ぎている現実感が、かえって記憶の脱落を意識させる。
眠りに落ちる前までの行動が、目覚めの良さに洗い流されているのだ。日はいつの間にかやや西に傾き、肌に触れる空気にも熱っぽさがない。
薬の調合の最中に、ふっと瞼が降りたのだろうか。曖昧どころか微塵もその時の記憶がないのはかえって清々しくもある。
予期せぬ午睡を貪ってしまった割には、やはり不快感は起こらなかった。
「本当に……珍しいこともあるものね」
背中からするりと毛布が滑り落ちるように、ほろり、一言は口をついて出た。誰に聞かせるわけでもない、自分自身への確認。
「珍しいって、何が?」
後ろからの声に振り向けば、蓬莱山輝夜がいる。毛布を掛けてくれたのも、きっと彼女だろう。
「まさか、ずっと待ってたの?」
「ええ。永琳が居眠りなんて、あんまりないことだし」
「珍しいのはそれだけじゃないけどね」
「そうなの?」
輝夜は首を傾げながら永琳の方へ歩み寄り、すぐ隣、患者用の椅子へと腰を下ろした。二人向かい合い、ちょうど診察の格好になる。
永琳は笑み一つで応じると、机の上を片づけ始めた。居眠りしてしまうような作業など、続ける程の価値もないだろうから。
「夢を……」
「うん?」
「夢を、見たの。初めて」
「まあ……」
手を口に当てて、「いかにも」といった驚き方の輝夜だが、それが真実彼女が驚いている時の反応なのを永琳は知っている。
月人は夢を見ない。夢とは穢れの残滓に他ならず、夢を見るのは地上人たる証であった。穢れなき月の都にある限り、永琳も輝夜も、そして鈴仙でさえも、夢を見ることはなかった。
その永琳が――もっとも穢れに遠いと輝夜でさえ思う永琳が、夢を見たのだ。
驚かずにいられる方が不思議だった。
「軽蔑した?」
「まさかね。むしろ、羨ましいくらいよ」
輝夜は興奮そのままに、ぐいと身を乗り出してくる。
好奇心をいたく刺激されたらしい。
しかしあっさりと、こともなげに――永琳は夢を語る。
「輝夜の優曇華の花、咲いたのよ」
「あら。ずいぶんと夢のない夢ね」
「ええ……それで、私は見てるの。あの子と」
「永琳」
叱咤するような声が出た。それでも輝夜はかまわないのだろう。
もちろんその言わんとする事など、永琳は百も、二百も承知だった。
二度目の別れから既にひと月、いやふた月は経っただろうか。
全てが済んだ事に違いなく、感情の奴隷となっていつまでも過去の絆に目を向けている程、永琳は愚かでも弱くもなかった。
それでも、
「……輝夜。私は、正しかったのかしら」
「弱気ね。月の頭脳らしくもない」
「ふふ、まあね。慣れないことに手を出した我が身を呪えばいいかしら」
「ますますらしくないわよ、それ」
「いいじゃない、らしくなくたって」
時の流れも、変化もなかった永遠亭とて過去の事なのだ。変化に戸惑い、過去を悔い、「らしくなく」とも許容できる。それは輝夜も同じはずだった。
あの日以来、銀髪の従者の消息は絶えていた。
彼女の過去を塗りつぶし、我がものとだけしたのは永琳自身。それが最良だったとは思うが、一抹の後悔と不安は、どうしても拭えなかった。
「どうしているのかしらね。あの主従は」
「さあどうかしらね。どのみちそれはもう、あなたの物語ではないわ」
「そうしたのは他ならぬ私自身、か」
「ええ」
ただ一言でもはっきりとした口調。それは輝夜が今を、そして未来を見ている証明だった。
自分もかくあらねばならない……そうは思っても、永琳の心にくすぶる何かは、消え去りはしない。
せめて彼女がどんな道を歩んだのか。レミリア・スカーレットは、彼女にどんな運命を与えられたのか。
ただそればかりが、最後の最後に、気がかりだった。責任を負って生きる為にも、知っておきたかった。
ふっと、輝夜は立ち上がった。
「……訪ねていけばいいじゃない。会ってくればいいじゃない」
「そんな、まさか」
何を以て彼女に会えるというのか。
出来るはずがなかった。自ら、夢に終止符を打ったのだ。幕が下りてしまえばそこは現実、再び夢の中へ戻るなど、あり得ないのだ。優曇華の花が今この瞬間、決して開かぬように。
「そう言うと思った」
「期待通りで不満かしら?」
「まあまあ。五十点ってとこかしらね」
「そう?」
それだけ言うと、輝夜は診察室を去って行った。
ちょうど、入れ違いの鈴仙を避けるようにして。
「し、師匠!」
息を切らして永琳を呼ぶ鈴仙は、へたった耳を直そうともせず、余程焦って来たらしい。
相変わらず落ち着きのない弟子に、永琳は溜息を吐いた。彼女には少しくらい変化、というより成長が欲しい。
「ふう、まったく騒がしいわね」
「あ……も、申し訳ありません。ですがっ」
「用件は」
「はい、その、来たんですよ! あの二人が!」
「え……」
弟子への呆れも、師匠としての余裕も、全てが消し飛ぶ報せ。
頭で理解するより早く、心臓の鼓動が高まるのを永琳は感じた。同時に押し寄せる圧倒的な不安。
「……いったい、いったいどういう用件で」
「診察、だそうです。その……従者の夢見がよくない、と……」
「それは……」
生唾を飲み込む感覚さえも久しぶりで、新鮮で、恐ろしく感じられた。
それはまさしく、あの運命の日の再現だったから。
彼女との絆は、もう永遠に断ち切ったはずだ。
きっと悲劇が待っていたであろう、悲しみの絆は。それが、再び結びついてしまったとでも言うのか。運命の悪魔でさえも、その呪縛から解き放てなかったというのか。
目の前には、指示を求める鈴仙がいる。
だがそれに応えるよりも早く、師弟の耳は、近づく足音をとらえていた。
二人は、凍り付いたように動けない。足音はさらに近づく。比例して高まりゆく動悸。
そして開かれる扉、悪魔と従者が、二人で居る。
「まったく、患者を待たせるなんてやっぱり藪医者だね」
「あ……」
くすくすと、レミリア・スカーレットは笑った。まるで呆然とする永琳らをおかしむ様に。
隣で彼女は瀟洒に、それよりも満足げに侍している。
悪夢の始まりの日の光景は、そこにない。
瞬間、電撃に打たれたように、永琳は悟った。
素早くレミリアに目配せする。
返事の代わりにウインク一つ、全く、底抜けに明るい悪戯げな笑みだった。
全身から力が抜け、へたへたと、永琳は椅子へ崩れ落ちる。あわててそばへ鈴仙が駆け寄った。
「し、師匠!」
「ああウドンゲ……これは、これは……」
夢ではない。紛れもなく現実だった。悪魔とその従者は、新たな物語を掴みとっていたのだ。
そしてそれは、永琳さえも巻き込んだ物語。
レミリアに促され、彼女が歩み出る。小さく刻印の入ったものと、蝙蝠の羽を象った、二つの懐中時計を揺らして。
真っ直ぐに永琳を見つめる視線は、温かく、どこか恥ずかしげで。
そこには涙はない。永琳の知る、かつての彼女さえもなかった。
ただあるのは、新たな道を歩む少女の姿だ。
その産声を、永琳は永遠に忘れないだろう。
例えそれが、ごくありふれた、たった一つの言葉であっても。
――ただいま、母様
永琳のあの驚きを掘り下げた作品って意外と少ないので、そういう意味でも嬉しかった。
素敵な作品をありがとう。
作者さん。誰なんだろう…
空気と魔法と嘘ですかね?
ゲーム一本分くらいの裏設定って一体なんなんだろう・・・