睨み合う。
恐怖で全身がひきつっているのが自覚できる。
そう、これは恐怖だ。
敗北の恐怖。
死への恐怖。
なにより、わたしの全てを奪われる恐怖。
負けるわけにはいかない。
勝たねばならない。勝たなければ、殺されてしまう。
殺せ。敵を殺せ。目の前の人間を殺せ。そうやってこれまでも生きてきたのだから、難しいことなんて何もない。
だけど……
――油断した――
もはや敵の間合いの内。そこまでの接近を許してしまっていた。
隙を見せたら切花にされる、と肌で感じられる位の距離。
刀を手にする目の前の敵は人間。妖怪の餌。妖怪とは相容れない存在。貧弱な存在。だけど油断してはいけなかった。
時に鍛えた人間の一部はその技量で以て、互角以上に妖怪と渡り合えるのだから。
必殺の間合いまで近づけてしまった以上、もはやわたしが勝ちを得るにはやられる前にやるしかない。
全力の一撃を、目の前の人間へと向けて解き放つ。
わたしは、死ぬわけにはいかない。
だけど……
◆ ◆ ◆
「ああ、また、死んだ……」
憎々しげにそう呟いて瞼を開けば、眼に飛び込んでくるのは見慣れた天井の木目。つまりはまだ、生きているということだ。
幽香はふっと息を吐くと、けだるげな表情でベッドから身を起こした。
「――シンダ? ――」
幽香にそう問いかける声は平坦で抑揚が無く、棒読みとは違った無機質さがある。
「ええ、そう。夢の中の話よ。ああもう、汗でべっとりして気持ち悪いわね」
言いながら幽香は髪をかきあげる。
いい歳して悪夢にうなされるなんて情けないとは思うのだが、夢をあれこれ操るのは――不可能ではないが――色々と面倒でもある。
それに夢もまた現実の延長。夜見る夢の続きとして、明日の現実があるのだ。
それを自分にとって都合の良い物へ書き換えてしまえば現実もまた同時に影響を受ける。
あるがまま。自然の美を愛する風見幽香にとって世界の改竄などに興味はない。そんなものは運命を操る吸血鬼にでも任せておけば良いのだ。
そんな事を考えながらんーっ、とベッドの上で伸びをしていた幽香は、突如として濡れ鼠へと変貌した。
先ほど幽香に問いかけた声の主――十歳程度の外見の少女が、鍋いっぱいに満たした水を幽香に向けて思い切りぶちまけたのだ。
「……喧嘩売ってるのかしら?」
「――ケンカ? ――ワルイ――イッタ」
ああ、と幽香は引きつった表情を無理やり押し込めた。
汗まみれで目を覚ました幽香は通常、そのまま寝汗を流すために浴室に向かう。それを少女は学習して、行程を一つ省略したのだろう。
(つまりは親切心、って訳ね。頭が足りない事この上ないわ……)
改めて咎める様な表情を目の前の少女に向ける。
少女は小首をかしげているが、幽香がその表情を己に向けてくるときは何か間違いを犯した時である、という事は学習済みの様でペコリと頭を下げた。
「とりあえず布団を干しましょうかね。その鍋は置いてきて床を拭きなさい。ついでに釜に火を入れておいて」
水を滴らせながら幽香はベッドから立ち上がる。
そのまま窓へ歩み寄ってカーテンと窓を開けば、指すような太陽の光と夏草の香りがそこから飛び込んでくる。
眩しさに思わず幽香は目を庇って深呼吸をした。
青く透き通り広がる空に、風に揺れる緑の草原。はて入道かと思わんばかりの密度の濃ゆい白綿の雲。
開け放った窓からわずかに入り込んでくる風が、水に濡れた幽香の肌から熱を奪っていってくれるのがとても心地よい。
風見幽香の住居に訪れるは毎年変わる事のない、そろそろ夏も終わりを告げる、幻想郷の初秋の一風景。
唯一去年と異なるのは幽香以外にもう一体、何者かがそこに居るということだ。
薄緑の衣装に身を包む、灰色がかった白い髪の少女は幽香に言われたとおり鍋を片手にキッチンへと消えていく。
幽香はベッドから布団を引っぺがすと、下着にブラウス一枚という艶姿にもかかわらず住居の扉を躊躇なく開け放った。
そしてそのあられのない姿のままサンダルを履き、軒先下の物干し竿に水浸しとなった布団を干すべく平然と屋外に出て行ってしまう。
「ああもう、先に脱いでおけばよかったかしら?」
布団を干しながら、肌に張り付くブラウスの不快感に幽香はため息をついた。
一人だったならば、間違いなくそうしていたであろう。夏場の幽香はそもそもネグリジェを纏うどころか、基本全裸での睡眠である。
ここは150坪程度の半夢幻世界に位置する幽香の一戸建て。
夢幻館とは異なるが幽香が予め許可した者だけしか進入出来ない結界住居。
故に幽香は人目を憚ることなく好きな服装でいられるし、事実昔はそうしていたのだ。
それを止めたのはちょっと前に遊びに来た幽香の数少ない友人、赤いドレスも華やかなメディスン・メランコリーの、
「大妖怪なんだから服くらい着ようよ!!! ほら、威厳とかあるでしょ!? イ・ゲ・ン!! オ・テ・ホ・ン!!!」
という至極当然なツッコミに、成る程情操教育という観点からは好ましくないかと納得したからである。
そうでなければ幽香は全裸だ。隠さねばならない様な貧相な体つきはしていない。
天子や魔理沙といった小童が己の体躯に目をやって軽くため息をつくその表情は、幽香に堪らない恍惚を与えてくれるのだ。
均衡の取れた骨格にうっすらと筋肉と脂肪を重ねて織り成した肢体。長い睫毛と紅玉の瞳に薔薇の唇。花のかんばせ。
見られて当然、視線を集めて当然のフラワーマスターの姿態には一分の隙も存在し得ないのである。
「服なんかに頼っているうちはまだまだ。メディは花として見られる覚悟が足らないのよ」
重々しく呟きながら幽香は住居内へと戻る。中では少女がバケツを傍らに雑巾で水浸しになった床の水分を丹念にふき取っている所だった。
よろしい、と幽香は頷いてバスタオルを手に取ると、簡単に水分を拭って着替えを済ませる。
いつものチェックスカートとブラウス姿へ戻った幽香は簡単に姿見で外見を確認した後、食卓の椅子へと腰を下ろした。
元々物を持たない幽香の現在の住居はワンルーム。キッチン、バストイレ別のログハウスである。
割と広めに作られているからベッド、食卓、暖炉やクローゼットといった必需品が一室にまとめられていてもさほど窮屈さは感じられない。
「一人暮らしならね」
だが、二人暮らしをするとなると若干の窮屈感を覚えなくもないな、と。
そんな事を考えながら幽香はせっせと床を拭いては絞り、拭いては絞りを繰り返す少女をぼんやりと見つめていた。
◆ ◆ ◆
フリーダムビューティー・風見幽香がその少女と同居を始めたのは二ヶ月ほど前のことだった。
長かった梅雨で多少へばっていたのか、動きにあまり普段の切れが見られなかった魔理沙を弾幕ごっこで降し、その恨めしげな目線を思い返してはゾクゾクとした歓喜にうち震えながらの帰り道。
意気揚々と帰宅した幽香を待っていたのは、件の少女を担いだメディスン・メランコリーだった。
聞いたところによるとメディスンはその少女を無縁塚で発見したはいいものの、何をやっても目を覚ます様子がなかったために幽香の所へと連れて来た、という事らしかった。
なぜ八意永琳の所ではなく自分の所に連れてきたのか。そう問おうとして幽香は口にするまでもなくその答えにたどり着いた。
「この子、花の妖怪ね?」
「うん。多分そうだと思ったからこっちにしたんだけど」
その少女が纏う気配、いや妖気は何処となく幽香自身やメディスンに似ている所がある。
だが花妖怪であり毒妖怪であり、しかし人形妖怪でもあるメディスンや、自分でもよく分かっていないけど一人一種族であり、花妖怪でもあるのだろう幽香と異なってこの少女は純粋な花から生まれた妖怪のよう。
そう結論付けた幽香だったが、その一方で少女が何の花から生まれた妖怪であるのかがさっぱり分からなかったのだ。
最初は無縁塚の桜かと思いもしたが、少女の意匠には何処にも紫の桜を指すものが見受けられないからそれは棄却。
見た目は人間で言えば十歳弱。灰色がかった癖のある白いショートボブ。薄緑の単に焦茶の帯といった外見からは、まぁなんとなく外来種でなくて在来種で、白い花なんだろう程度の判断しか出来ない。
「どうしようか。放置する?」
「いえ、私が預かるわ。ちょっと興味も出てきたし」
正直な所、幽香は興味と言うか屈辱を感じていたのである。花の妖怪である、という自分の見立てに間違いは無い。無い筈だ。
では何故フラワーマスターたる己に何の花であるのか区別が出来ないのか。著しく矜持を傷つけられた気分であった。
だからなんとしても彼女の正体を判明させてやる、それが分かるまでは手放さない、と若干意固地になっていたのである。
じゃあよろしく、とメディスンが去ってから約一日後、少女が目を覚ましたのだが……
「名前は?」
「……」
「貴女、何の妖怪?」
「……」
「無縁塚で何をやっていたのか、覚えている?」
「……」
「……」
「……」
喋れないのではないか、と幽香が最初疑う位に少女は寡黙だった。
自分自身が何処で生まれたとか、どんな妖怪であるか等は全く口にしない。
最近は幽香の問いかけに反応するようになったが、それでも自発的に口を開くことはなく、問われなければまず言葉を発さない。
そもそもからして片言しか口にしないし、それも上手く幽香が解釈しなければ言ってる意味が分からない。
多分、生まれてからそう長い年月が経っていない。おそらく10年から20年といった所だろうか。
知能、知識も目に余る。最低限の生活常識がかろうじて見受けられるだけで、先ほど幽香めがけて水をぶっ掛けたような失敗など日常茶飯事。
ただ、草木から妖怪と化したモノは鳥頭なんか目じゃない程に賢くない事を幽香はよく知っていたから、それは一向に構わなかった。
なんだかんだで二ヶ月だ。幽香の表情から幽香が憤っているのかいないか位は理解するようになったし、少しずつ成長してはいるのだ。
「けど、未だに何の妖怪かが分からない」
そう、なんだかんだで二ヶ月も経ったのに、幽香には未だ相手が何の花なのかが見当もつかないのである。
「もうこうなると、何らかの力が働いているとしか思えないわね」
見た目には防御魔術や結界術のようなものは存在しない。
しかし大妖怪、風見幽香をして己の専門分野ですら解析が出来ないとなると、もうその様な物の影響を受けているとしか考えられないのだ。
だが、何故?
そこまで思いをめぐらせた所で、幽香は目の前で少女が立ち尽くしていることに気がついた。
「終わった? じゃあ朝食にしましょうか」
コクリと頷く少女に手を洗って食器の準備をするように指示すると、幽香は一人キッチンに立つ。
魔界製の魔力式冷蔵庫から取り出した二つの卵を、フライパンの上で瞬く間に二つの半熟目玉焼きへと変える。
沸かしておいたお湯でフリーズドライの野菜スープを戻す。
フライパンから目玉焼きを皿に移し、そのままフライパンにはソーセージを投入。軽く炙って皿に盛る。
最後に全自動釜から炊き立ての白米をよそえば、和洋折衷朝ごはんの完成だ。
「いただきます」
「イタダキマス」
二人食卓に向かい合って、朝の活力を胃に流し込む。
意外なことに、少女は食事を取ることに何の抵抗もない様だった。これは植物妖怪にしては珍しい反応である。
通常の植物妖怪だったら、まず人間らしい食事というものを出された時に、困惑するか無視するかのどちらかだ。
植物から変化した彼らには、口から物を取り込むということが理解できないはずなのだ。
で、あるというのに目の前の少女は、幽香が最初の食事として提示したモーニングトーストを黙って平らげたのである……箸で。
「まだ、やっぱりお米のほうがいいのかしら?」
「パン――タベル――ニクイ――――」
そりゃそうだ。パンは箸や匙で食べるものではない。
一つ幽香が知りえた事実として、少女はナイフやフォークによる食事作法を知らないということが挙げられた。
箸や匙は普通に使える――というよりもかなり手馴れているようであったが、フォークとなると握ってザクリ。ナイフに至っては手すら伸ばさないといった有様だ。
基本洋食派だった幽香の食事は、その日から和食へと変化した。平たく言えばパンがお米になっただけではあるのだが……
「何処で箸の使い方を習ったの?」
「――――シッテル――タ――」
そろそろ答えてくれるかもしれない、と思っての問いかけに対する返答はいつもの通り。
少女は箸を操って器用に目玉焼きの黄身を型抜くと、その半熟目玉をご飯の上に乗っけて割り、ソースを垂らす。
幽香が教えたその食べ方を、彼女は今日も黄身をこぼすことなく実践してみせた。実に危なげのない箸捌きである。
知ってた。これは多分嘘だろう、と幽香は思っている。
植物妖怪は動物妖怪――即ち妖獣等と違って、妖怪化する前の事を記憶していることなどまずありえない。記憶を司る機能がその時点では存在しないのだから当然である。
だから妖怪化してから少女は人に関わっていた。それは間違いない。そうでなければ箸の使い方を知っているはずがないのだから。
……いや、この頭の悪い少女がきちんと箸を使える以上、人間と共に暮らしていたに違いない筈。
――いつかこの子を連れて人里に行ってみるのもありかもしれないわね。
「ごちそうさま」
「ゴチソウサマ」
「美味しかった?」
「マズイ――タベモノ――ナイ――」
「いつもそう言うわね。味覚が発達してなくて味の違いが分からないのかしら?にしては美味しそうに食べるし……」
些か腑に落ちない面持ちで幽香は食器を片付けるべく席を立つ……が、ついてくる少女に目をやってかぶりを振った。
多分少女は洗い物をやろうとしているのだろうが……
「いいわ。座って待っていなさい」
「――ヤル――」
「……悲しい話だけどね。貴女の身長だとつま先立ちしないとシンクに手が届かないの。だから待ってなさい」
「――? ――」
「お願いだからもうちょっと頭良くなって。出来ないの。届かないの。分かる?」
「――ヤルナ――ワカル――」
「それは結構。座って待っていなさい」
先程の長年人間と共に暮らしていたに違いない筈、という自分の判断は間違っているのだろうか?
いや、人里にはシンクなんて物がないだけか、と幽香は疲れたように一つため息をついて、スポンジを主兵装に油汚れを掃討するべく状況を開始した。
◆ ◆ ◆
コンコンコン、とノックされた玄関の扉を開けばそこに佇むは当然のようにスイートポイズン、メディスン・メランコリーである。
「久しぶり、幽香……よかった服着てるね、うん。幽香は着飾っているほうが奇麗だと思う」
「ずいぶんな挨拶ねメディ。残念ながら私は着衣でも未着衣でも輝いているわ」
「あーね、あれね。文明人なら服着ようね。お願いだから尊敬できる大妖怪風見幽香のままでいて?」
呆れる様でしかし懇願するようでもあるメディスンの言葉がむなしく空を裂く。
だがメディスン・メランコリーよ、一人暮らしというのはどうしても堕落するのである。それが世界の心理なのだ。
「……いくら私だって寝る時以外は服を着てるわよ。で、どうしたの?」
「んー? いやちょっとその子の様子を見に来たんだけど……どう?」
「ちょっと行き詰ってるわ」
隠しても仕方がないと思ったか、幽香は正直に答えて肩をすくめて見せる。
続いて親指で背後を指した幽香の仕草に従い、メディスンは家の中を覗き込んだ。目に映ったのは何をするでもなく食卓に座したまま、静かに虚空を眺めている少女の姿だ。
「いつもあんな感じなの?」
「ええ、でもおかしいことじゃないわ。純粋な植物妖怪なんて最初はあんなものよ」
「そっか。私もこの人形体抜きでスーさんだけの妖怪だったら、最初はあんな感じだったのかな?」
「多分ね。ま、貴女が周りに喧嘩売って回るのを止めるのに時間がかかったように、ゆっくりやっていくしかないんでしょう」
「そ、そんな過去の話を持ち出さないでよ!!」
生まれてすぐ、右も左も分からず周囲に喧嘩を売っていた頃を引き合いに出されてメディスンは憤慨する。
膨れるメディスンを前にひとしきりにやけ顔を続けていた幽香だったが、ふとひらめいたとばかりにポンと手を打ち鳴らした。
一度室内を振り向いた幽香はしゃがみこんで、メディスンの耳元に口を近づける。
「ねぇメディ。貴女あの子から何か聞き出せないかしら?」
「え、私?」
「そ。誰だって姿形がかけ離れているよりも近いほうが親しみやすいでしょ? 貴女のほうが私よりもあの子に体格が近いし」
「うーん、そうかもしれないけどさ」
「人形解放を諦めた訳じゃないんでしょ? 洗脳の練習にもなるし、味方になってくれたらめっけもんじゃない」
「……せめて洗脳じゃなくて説得って言ってよ。でもうん、分かった。やってみる」
「そう、ありがと。夕飯食べていくでしょ? なにがいい?」
「……ハンバーグ」
そう呟いたメディスンは幽香邸に踏み込んでいくと、ボーっと食卓に腰掛けたまま動かない少女に声をかける。
「こんにちは。ねぇ、こんな所でボーっと座っていてもつまらないでしょ? 外で弾幕ごっこやらない?」
「――ダンマク? ――」
「そ、弾幕ごっこ。一度ルールを覚えればこれを利用して喧嘩したり交渉したり異変起こしたりトラブル解決したりなんでも御座れ!」
「――ケットウ? ――」
「うん、まぁそんなもんだよ。殺し合いをしない安全な決闘。ほら、ちょっとやってみようよ!」
メディスンは少女の手をとると、そのまま幽香邸を後にすべく扉へと歩みを進める。
メディスンに手を取られた少女もまた、特に嫌そうな顔もせずに誘われるがままにメディスンの後をついていった。
「えーっとねぇ。まずはルールだけど……」
屋外に出たメディスンは身振り手振りを交えて少女に弾幕ごっこのルール説明を始める。
家の扉を閉め、敷地を覆う柵に腰掛けた幽香はホッとため息をついた。どうやらこの調子ならばメディスンに任せてしまって大丈夫なようだ。
この間に一つ検討でも進めるとしようか、と二人を視界の端に捕らえながら幽香は思考の海に埋没していく。
少女を迎え入れてから、よく見るようになった夢。
人間と対峙し、そして斬られた時点で目が覚める。
「果たしてこれはあの子の夢なのか、それとも私の夢なのか……」
大妖怪、風見幽香は最初から強靭な妖怪だったわけではない。だからこれまでの幽香の人生で夢のような危機など、実の所何度も体験してきているのである。
だけど幽香自身は戦った相手の顔を一人一人思い出せるわけでもないから、正直な所よく分からないというのが現状だ。
ただ幽香が昔の夢を見せられているにせよ、あの少女の夢を盗み見ているにせよ、幽香があの少女を迎え入れてから見るようになったということは間違いない。
「順当に考えれば、あの子は人間と対立して敗北。何らかの封じを施されて無縁塚に捨てられたというのが現状一番矛盾がないか」
であるならば少女を連れていきなり人里を来訪するのはまずい。いずれにせよ人里に連れて行く前に一回探りを入れておいたほうが良いだろう。
幽香はそう結論付けると、少女にお姉さんぶって弾幕ごっこの説明をしているメディスンを一回見やってクスリと笑う。
どうやらメディスンは自分より幼い植物妖怪を目の当たりにして擬似成長を味わっているようであった。
初めて自分より下の者が出来たことで自分が成長したかのように捉えてしまう錯覚。
これが下の者に尊敬されようと更なる自身の成長を促すか、それとも下の者に抜かれまいと他者の足を引っ張る方向に働くか。それは当人の性格次第だ。
「悪いほうに転ぶんじゃないわよ?」
圧倒的な力量差でねじ伏せて相手の顔を屈辱で歪める事が目的とはいえ、常に前進を選択してきた幽香は若干の憂慮を込めた苦笑を向けた後、邸内へと戻る。
二人分の昼食としてサンドイッチ――パンを選んだのはメディスンへのささやかな挑戦だ――を用意して食卓に置き、布巾を被せると今度は己の外出の準備だ。
スカートと揃いのベストを羽織ってブラウスの首元をリボンで括る。
髪を梳き日傘を手にとって姿見の前でくるりと一回転してみた後に、再び扉を開いて外に出た。
「メディ、ちょっと外出してくるから留守番をお願い。昼食は準備しておいたから二人で食べなさい」
「ん、分かった。喧嘩売らない様に気をつけてね」
「――ソウケン――」
「ちょっとした別れの時には使わないわよ、それ」
笑いながら幽香は結界空間の外へと足を踏み出す。踏み出した先は幻想郷の奥地、太陽の畑に設置されている郵便ポストのすぐ隣だ。
「魔理沙かブン屋か。先に捕まるのはどちらかしらね?」
晴れやかな笑顔を浮かべながら、幽香はふわりと空に舞い上がる。
「さあ、幾らで情報を買いつけようかしら」
相手に支払うのは当然金ではなくて、弾幕だ。
◆ ◆ ◆
幽香が操る鳳仙花の弾幕に周囲を完全に取り囲まれて、幻想郷のトリックスター、黒衣の魔女は両手を上げて降参の意を示す。
「と、投了、投了だ。もう勘弁!」
「ちょっと、敗北を認めるのが早すぎやしないかしら? 貴女最近しょぼくない? もうちょっと頑張りなさいな」
「無茶言うなよ! こっちは徹夜で業務に取り組んでたんだぞ!? リポDと気力だけでなんとか頑張ってたってのに……いだっ! 種痛っ!!」
「あら御免なさい。一応花は枯らせたのよ? だからそれは私の意ではないの」
敗北を認めたというのに、幽香が展開した鳳仙花の弾幕は果実から種を飛ばして容赦なく霧雨魔理沙を打擲していく。
てめー絶対わざとだろう! と憤慨するも、それを口にしたら難癖をつけたとか言って再び開戦になるのは間違いないため、魔理沙は口を噤むしかない。
「ああもう! それでこの善良な魔法使いを強襲して一体何の用だよ!?」
「ああ、ちょっと聞きたいことがあるのだけど、最近――ここ半年位でいいわ。人里で妖怪と人間のいざこざがあったとか、そういう話を知らないかしら?」
「え? ……いや、そういった話はなかったと思うが……確かちょっとした小競り合いが師走頃にあった様な気がしたが、それくらいだ」
「本当? 魔法の研究で篭りっきりで情報が古いって事はありえないの?」
「んー? その可能性はゼロじゃないがよ、少なくとも半年前から一週間前までの間ではそんな話は聞いちゃいないぜ?」
一週間前か……メディスンがあの子を連れてきたのが二ヶ月前、文月の頭だから、ならば情報が古いということはありえないだろう。
「なんだ? やばそうなことか? だったら稗田のあっちゃんにでも聞いてみるが……どうする?」
御阿礼の子。魔理沙が一度見聞きしたものは決して忘れない求聞持の能力を持つ少女の名を挙げるが、幽香は首を横に振る。
「違うわ。あったのか、それだけを聞きたかっただけだから。つまりは過去の話よ」
「ふぅん、まあそれならそれでいいが」
「ああ、後一つ。今も人里以外にも人は住んでいたりするのよね?」
「まぁな。何時の時代だって変わり者は存在する。私が知っているので全てなら100人は超えないとは思ったがな、人里以外に住まう人間だってそりゃいるさ」
「流石、変わり者筆頭。ま、これで調査は終わりね。ああ、魔理沙。貴女胞子臭いわよ? 一応女なら少しは気を使いなさいな」
言葉と共に空を飛び、放物線を画いて魔理沙の手にストンと落ちてきたのはLinden Blossomと印された香水瓶だ。お礼、という事なのだろう。
そのまま幽香は魔理沙を一顧だにすることなくふらりと風の向くままに飛び去っていく。
「やれやれ。おい幽香! 代金を貰った以上は仕事だから簡単に調べといてやる! あとで郵便ポストを確認しとけ!」
去ってゆく幽香の背中に大声で呼びかけると。
南中高度を過ぎて既に西に傾きつつある太陽の方角――すなわち人里の方角――へ、魔理沙もまた軽快な箒捌きで飛び去っていった。
「仕事、となるとあの子も以外に真面目なのね」
念のため適当に捕まえた鴉天狗からも同様の情報を入手し、魔理沙の言と食い違いがないことを確認した後。
幽香が太陽の畑に舞い戻った時にはもう郵便ポストに魔理沙の調査結果が投函されていた。
「ただいまメディ、お留守番ありがとう。弾幕ごっこのほうはどうかしら?」
「お帰り幽香。うん、全然駄目。だってこの子避けないんだもん」
「ま、そうでしょうね」
「――オカエリ――ナサイ――」
郵便ポストの傍にある、存在が秘匿されている半夢幻空間への入り口から帰宅した幽香はげんなりとした表情のメディスンに上品な面差しを向けてクスリと笑う。
それはそうだろう。そもそも移動するという概念がない植物妖怪だ。飛んでくる弾幕を回避するなんてとてもじゃないが出来るわけがない。
最初からあまり動かず、圧倒的な火力で葬り去る戦術、即ち幽香の基本スタイルこそが植物妖怪が行き着く一つの到達点なのである。
「でも何事も鍛錬、少しずつ進めていきなさいな。あとメディ、初心、忘れるべからずよ?」
「あっ、そうだった。うん、忘れてないよ、これからやる」
「――? ――」
やはり、と幽香はため息をついた。メディスンはどうやら弾幕ごっこに気をとられて情報を聞き出す、という当初の目的を忘れていたようだった。
含むような幽香の言に対してメディスンの回答は直接的過ぎたが、あの少女は頭が悪いから大丈夫だろう。
「じゃ、夕飯の用意をしましょうか。ハンバーグっと。たまには人肉ハンバーグが食べたいわねぇ」
狩りにでも行こうかしら? なんて物騒な思考を思い浮かべながら幽香は自宅の扉を開ける。
日傘を傘立てに突っ込んでベストを脱ぎ捨て、白いエプロンを纏う姿は台所に咲く若奥様のそれであろう。
「んー、おろし大根?イタリアン?悩ましいわね」
ブラウスの袖をまくって手を洗った幽香は、鼻歌を歌いながら魔力式冷蔵庫から魔界産牛100%の轢肉を取り出して、楽しそうにそれを捏ねくり回し始めた。
「それで、どうだった?」
「あ、ハンバーグ? 美味しかったよ。って幽香、なんであの子何もかも箸で食べるんだろうね? お昼のサンドイッチも箸で食べていたし」
「メディがそれを矯正してくれることを期待していたんだけど。そうじゃなくって情報収集の件よ」
三人で夕食を平らげ、ポーカーに興じ、一人眠気を覚えた少女を寝かしつけてから。
バーボンのグラスを片手に、残る二人は今日の件について話の花を咲かせていた。
「……幽香のほうはどうだったの? と言うか何しに行ったの?」
「人里の様子を拝聴しにね。でも何もなかったみたい」
箸使いの件から少女が人間と暮らしていたであろう事、人と対立している可能性があることを続けてメディスンに説明する。
「何もなかったの?」
「少なくとも人里、ないしは人里と関わりのある人間についてはね。で、メディ。貴女のほうはどうだったの?」
「あの子は人間嫌いだよ、間違いなく」
「何故?」
「避けるのは止めて撃つほうを練習したんだけど、あ、弾幕ごっこの話ね? あの子、弾の威力を絶対一定以下に下げないんだよ」
捌くのが凄い大変だった、とメディスンは疲弊したように紫色の吐息を吐いてハイボールのグラスを傾ける。
「そんなんじゃ人間と弾幕ごっこ出来ないよ? って言ったんだけどね。むしろ反発された」
「へぇ」
見所があるじゃない、と火照った様な表情を浮かべてバーボンのロックを呷る幽香を見つめ、メディスンは呆れたように頭を振った。
「あの子はね、昔の私なんか比較にならないほどの毒を心の中に持っているの。だから断言できる。もしあの子が人に会ったら、あの子は間違いなく人を殺すよ」
「ああ、じゃあ人の中で生活していたであろうあの子は既に人を殺しているわね」
「……」
にべも無くそう口にした幽香に、メディスンは沈黙を以って答えた。
そのメディスンに、幽香は帰宅した時には既に投函されていた便箋を読み上げる。
「魔理沙の調査結果。人間と妖怪とのここ一年の諍いについて(死傷者あり)
・昨年 霜月(11月) 男性一名が里外で縊死。自殺要素なし。犯人は首吊り狸と思われる。
・昨年 師走(12月) 山に薪をとりに行った男集数名が妖獣の群れと遭遇、痛み分け。負傷者多数、死者なし。
・今年 如月(2月) 同じく山に薪をとりに行ったと思われる夫婦が死亡。犯人不明。
・今年 弥生(3月) 流し雛を流すために川を訪れた親子が妖怪に襲われる。鍵山雛が犯人の鎌鼬を迎撃、母親が重傷を負うものの生存、回復。
・今年 文月(7月) 人里近くで農作業をしていた男集数名が軽傷。犯人不明。
・今年 葉月(8月) 肝試しに参加したカップル一組が行方不明。未だ発見に至らず。犯人不明。
で、今は長月(9月)ね」
「……あれ? なんかおかしくない?」
首を傾げるメディスンに幽香はええ、と頷いてグラス内のロックアイスを爪で転がした。
「さて、疑問が残ったわね。最後の妖怪による殺人があったのは如月で、あの子を発見したのが文月だから五ヶ月。その間に殺人が起きた事は周囲に認知されていない」
「……だけどあの子は自分から移動しようとしない。あの子が居た無縁塚には死体がなかった」
「まとめると可能性があるのはこんな所かしら。
1.二ヶ月前、何処かで殺人が起きて、その痕跡が隠された上であの子は無縁塚に運ばれた。
2.二ヶ月前、無縁塚で諍いが起きて、最後にあの子だけが残った。死体は妖怪が平らげたのか、誰かが埋葬した。
3.半年以上前に無縁塚以外で殺人が起きて、彼女は二ヶ月前に無縁塚へやってきた」
4.半年以上前にどこかで殺人が起きて、彼女はそれからずっと、無縁塚に佇んでいた」
「4はないよ。私は水無月にも無縁塚に行ったけど、その時には居なかったもん」
「じゃ、1~3ね。魔理沙の調査が正しいというならば3しか残らないわけだけど。……ああ、状況によっては1もあるか。全く、ちょっとあの子が何の妖怪かを確かめるだけだったのに、面倒なことになってるわね」
口調とは裏腹に幽香は獰猛な笑みを浮かべている。顔が紅潮しているのは酒のせいではあるまい。
それを憂い顔で見つめるメディスンだったが、内心ではその実安堵してもいた。
幽香のこれまでの興味はあくまであの少女が何の花かを知る、それだけであった。だから何時幽香が興味を失って彼女を放り出してもおかしくはなかったのだ。
それが責任感か保護欲かは知らないが、メディスンは彼女を中途半端に見捨てたくはなかったのである。
「タイミングで言うと、文月の男集数名が軽傷。犯人不明、ってのが気になるけど……」
幽香はそう言うと先に読み上げた概要が記された一枚目、続いて詳細が記された二枚目と便箋を捲って三枚目で手を止めた。
「男達の怪我は打撲傷、おそらく素手での殴りあい。妖怪の仕業ではなくて当人同士の喧嘩なんじゃないか、か……生存で犯人不明っておかしいわね」
「うーん、確かにあの子の心の毒からして殴るじゃすまないと思う。って言うか殴ってる所が想像出来ない」
違いないわね、と幽香は頷いて二枚目の便箋に戻る。
「じゃあシチュエーションで怪しい方。如月の夫婦が死亡。犯人不明は匂うけど……生前は里内に在住、か」
「妖怪と一緒に生活していたら多少は目を引くよね? あ、でもあの子ほとんど移動しないし、隠れて同居できなくもないのか」
「でも空白期間が説明できないわ。空白期間中ずっと人里にいたなら、その間に一人や二人死んでてもおかしくないでしょ?」
むむむ、とメディスンが首をひねる。
「ま、現時点で結論を急ぐことはないわ。ただ人里に連れて行くのは止した方がよさそうね」
「そう思う。幽香が邪魔に思わないならゆっくり確認していけばいいんじゃないかな」
ほっと胸をなでおろしたメディスンに幽香が嗜虐的な目線を投げる。
「あら、妹分が出来てうれしくなっちゃった?」
「ち、違うわよ! ただ……」
「ただ?」
「昔の私に似てるから、ちょっと放っておけないな、って」
第120期に来るもの全てに毒を撒き散らしたメディスン・メランコリーはもういない。
此処にいるのは人形を慈しみ、人形を作成する人間にちょっとだけ敬意を払い、人形を大切にしない人間を人形に変えるメディスン・メランコリーだ。
「そ……泊まってく?」
「流石にあのベッドに三人は無理でしょ?」
今既に少女が眠っている幽香のシングルベッドを一瞥して、メディスンは肩をすくめる。
「残念ね。久しぶりにメディを抱きたかったのだけど」
「そういう危ない表現は止めようね」
それが色々と危ない発言だとメディスンが知ったのは第125期頃だっただろうか。
……実際は抱き枕をこよなく愛する幽香が誰かを抱き枕の代わりにするだけなのだが。
そろそろお暇するね、と椅子から立ちあがって扉をくぐり、幽香邸を後にしたメディスンの背中から便箋に視線を移した後、幽香はグラスの中身を一気に煽る。
「ふむ、どう転ぶのかしら。にしても無縁塚にひっそりと現れるなんて、まるで幽霊……!?」
自分の呟いた言葉に引っ掛かりを覚えた幽香はベッドを横目でちらりと見やり、小さく息を吐いた。
「そう、そういうこと。思い込みって怖いわね……でも、何故?」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
姉様は美しかった。
わたしはまだ幼い妖怪だから、姉様と違って一年の内ほんのすこししか花を咲かせることができなかったけれど。
姉様はいつだって美しかった。
わたしが花を開くと、姉様はわたしに儚げな微笑を向けてくれた。
わたしたちは二人でこうやって生きていくのだと、ずっとそう思っていたのに。
わたしたちはいつの間にか二人ではなくなっていた。
気付いたら姉様の傍には人間の男がいた。
姉様がその男に向ける笑顔は、わたしに向ける笑顔よりも僅かに華やいでいるように見えた。
姉様をそんな男に取られるのは悔しかったけど、でも、姉様が幸せそうだったから、わたしはそれを受け入れようと思った。
それに、その男は案外悪い奴じゃなかった。
自慢じゃないけどわたしの花は美しい。でも、まっとうな人間達はわたしに少なからず嫌悪を抱いているようだった。
だからわたしは人間が嫌いだし、人間が近づいてきたら攻撃する。
そんな、まだ人の姿を取れない異様な妖怪であるわたしのおいたを平然と受け流して、その男は「見事なものだ」と。
そう言ってわたしの花を見て感心したように笑っていたから。ちゃんと、わたしの美しさを理解してくれたから。
まぁ、そういう悪い奴ではなかったから。
その男は人間だったけど、こいつにならば姉様を任せてもいいかもしれない。そう思っていた。
◆ ◆ ◆
「夢が、変わったわね」
まだ霞が晴れない頭でそう呟いた後、幽香はけだるげな表情でベッドから身を起こした。
「――ユメ? ――」
幽香にそう問いかける声は平坦で抑揚が無く、棒読みとは違った無機質さがある。
「ええ、そう。夢よ。ちょっと続きが気になるわね。ま、ろくな結果にならないでしょうけど」
言いながら幽香は眼にかかる髪をかきあげる。
やはりこれは少女の夢であったようだ。幽香にはこのような記憶などないし、何より姉妹などいない一人一種族だ。
にしても、人と妖の恋とはね、と幽香は少女に聞こえない程度の声で呟いた。
――そんなものが上手くいく筈ないわね。
そんな事を考えながらんーっ、とベッドの上で伸びをしていた幽香は、突如として頭蓋へと迫ってきた椅子を反射的に妖弾で粉砕した。
少女が幽香に向けて食卓の椅子を一つ、全力で投げつけてきたのだ。
「……真相に近づきつつある私を殺す気?」
「――シンソウ? ――キニナル――イッタ」
ああ、と幽香は引きつった表情を無理やり押し込めた。
先ほど幽香が夢の続きが気になると言ったために、少女は再び幽香を眠らせようとしたのだろう。
(つまりは親切心、って訳ね。更に馬鹿になっていってないかしら……)
咎める様な表情を目の前の少女に向ける。
少女は小首をかしげているが、幽香がその表情を己に向けてくるときは何か間違いを犯した時である、という事は学習済みなのでペコリと頭を下げる。
「とりあえず椅子の残骸を片付けましょうか。バケツを持ってきて頂戴。ついで釜に火を入れておいて」
頭を押さえながら幽香はベッドから立ち上がる。
そのまま窓へ歩み寄ってカーテンと窓を開けば、心地よい太陽の光と干し草のような匂いに混じる金木犀の香り。
まどろみから覚めた幽香は大きく深呼吸をした。
青く澄み渡り広がる空に、風に揺れる黄金の草原。うっすらと空に漂ううろこ雲。
開け放った窓からわずかに入り込んでくる風はそろそろ心地よさよりも寒さを強く感じさせる。
風見幽香の住居に訪れるは毎年変わる事の無い、そろそろ秋も終わりを告げる、幻想郷の晩秋の一風景。
下着にブラウス一枚という姿のままで幽香は少女と一緒に粉砕された椅子の破片を拾ってはバケツの中に放り込んでいく。
大きな破片は更に粉砕して細かく、小さすぎる破片は後で魔力式掃除機で吸い取ればいい。
食卓の椅子が四つから三つになってしまったが、今のところは問題ないだろう。
あらかた片付け終わった所で全自動釜がアルティメットトゥルースを奏ではじめた。
炊き上がった米が胃袋へ吸い込まれる、究極たる真実の時間だ。幽々子ならそうする、幽香だってそうする。
少女に食器の準備をするように指示すると、幽香は一人キッチンに立つ。
魔界製の魔力式冷蔵庫から取り出して割った二つの卵にバターを落としてよく混ぜ、フライパンの上に移してスクランブルエッグへと変える。
沸かしておいたお湯でフリーズドライのめかぶスープを戻す。
スクランブルエッグを皿に移し、そのままフライパンにはベーコンを投入。軽く炙って皿に盛る。
最後に全自動釜から炊き立ての白米をよそえば、和洋折衷朝ごはんの完成だ。
「いただきます」
「イタダキマス」
二人食卓に向かい合って、朝の活力を胃に流し込む。
「ごちそうさま」
「ゴチソウサマ」
「美味しかった?」
「マズイ――タベモノ――ナイ――」
「たまには違うものを食べさせなきゃかしらね……」
踏み台にのって洗い物をする少女の後姿を見つめながら。
帰りにお土産でも買ってきましょうかね、と幽香は今日の予定に些か甘い思考を追加することにした。
◆ ◆ ◆
「風見、幽香さんですね?」
「いいえ、人違いです。八雲紫・十七歳ですわ。風見幽香なんぞと間違えるなんて失礼ではありませんこと? 阿礼乙女」
此処は人里のメインストリート。似たり寄ったりの切妻造の商店が立ち並ぶ一角に存在する大福と団子が評判の甘味処「白玉茶房」。
そこで買い物をしていた大妖怪、風見幽香の後姿に声をかけて。
そ知らぬ顔で出鱈目を返された稗田の子、阿礼乙女は軽い頭痛を感じて顔をしかめた。
今日も懇切丁寧に少女に弾幕ごっこを仕込むメディスンに後を任せた幽香は一人、人里を訪れていた。
念のために今年の如月に死去した夫婦とやらの屋敷を確認する、というのが来里の目的だ。
それが何処にあるのかなんて幽香は知りもしないが、そんなものはそこら辺にいる帯刀を許された男達、すなわち警邏隊の者を適当に捕まえればいくらでも聞きだすことが出来る。
美貌の大妖怪、風見幽香に腕を組まれ密着されてしまえば、二重の意味で抵抗できる男など幻想郷にはいないのである。
確保した警邏の男が「自分が同行するならば」という条件を出した為、男を伴って訪れた亡き夫婦の住居は今は空き家。
生活跡も、ましてや妖気も感じさせないそこから幽香が得られるものは人亡き家の寂寥のみ。
男に尋ねても人の出入りはないとの事であり、確かにうっすら積もった埃がそれを裏付けている。
(はずれ、ね。まあ当然か……)
空き家を後にし、意外にも(下心もあったのだろうが)協力的、かつ弁舌巧みに話術を弄し幽香を飽きさせなかった男に礼代わりに茶を奢らせて、しばしの時間をくれてやった後。
男と別れ、二人に土産をと足を向けた和菓子屋にて投げかけられた探るような声に、幽香は仮面の笑顔を貼り付けて振り返ったのだ。
「ええと、とりあえず貴女が里に来た目的を聞かせていただきたいのですが」
「勿論、永遠の十七歳として女を磨くために決まっていますわ」
最初の質問に僅かな猜疑心が含まれてしまった事を乙女は後悔した。
幽香は隠し事が暴かれる事より、こそこそ嗅ぎ回られる事のほうに怒りを感じるような性格である。
だから幽香はもはや絶対に彼女に意味のある返答をしないだろうし、その理由が本当に幽香が知っていて隠しているのか、それとも嗅ぎ回っている事に腹を立てたからまともに答えていないのかの区別ができない。
初手から完全に躓いてしまった阿礼乙女は作戦を変えた。
即ち相手への質問を止めて犯人と仮定し、言いたい事を言うだけ言ってしまう事にしたのである。
「人殺しに一切抵抗がない、されど理性はある妖怪が野放しになっている、という話をある筋から私は入手しまして」
「あら、それが私の事だとおっしゃって?」
「まさか。ただ、それはどうにも植物の妖怪らしいのですよ。なので幽香さんが何かご存じないかなぁ、と思いまして声をかけさせていただいたのですが」
「そうなの? でもゆかりってば隙間の妖怪だからわかんない」
「……そうですか。あ、ちなみにその妖怪ですが、この里中を探しても何の痕跡も出てきませんよ?」
「あらまあ、心配してくれてありがとう! ゆかりん嬉しい!」
「…………では、私はこれで」
引きつった笑顔でペコリ、と頭を下げると阿礼乙女は豆大福を購入して踵を返し、そして後ろ髪を惹かれるような表情で振り返った。
「一つだけお願いが。……貴女は部外者です。出来れば当事者達の間だけで決着が付けられるように配慮してあげてください。それでは」
最後に一つ、咎める様な表情で深々と頭を下げると、彼女はそれっきり幽香に振り向くことなく和菓子屋を後にした。
そんな棘のある物言いと態度にも幽香は淑女的に対処した。即ち憤怒の表現を日傘の手元を握り潰すのみに留めたのである。
「部外者? そんなものはこの世の何処にもいないわよ」
幽香にとって世界とは己がいる此処であり、現場とは己が行く全ての場所である。
咲き誇る花、風見幽香が行く場所に部外となる場所など何処にもないのだ。
「で、別嬪さん、何をお買い上げだい?」
事件を予感し、しかし自分には火の粉が降りかからないであろう事も同時に予感した和菓子職人の声は穏やかなものだ。
「苺大福、6つ頂戴」
ここで幽香が何を幾つ買ったか。それは稗田の耳にも届くだろう。
一度見聞きしたことを忘れない彼女ならこれまで幽香が何を幾つこの店で購入したのか、なんてつまらない事も決して忘れる事がない。だからそれと照らし合わせれば購入数が多いことに疑念を覚えるに違いないだろう。
だが、それがどうした?
「こちらもそろそろ片を付けたいしね」
「ん? 何か言ったかい?」
「いいえ? はい十銭。お釣りはいらないわ」
「十二銭なんだがね……まぁいいや、次回は色つけてくれよ? 毎度あり!」
◆ ◆ ◆
「それで、どうだった?」
「あの子は人里を訪れたことはないみたいよ。確かな筋からの情報。ま、ブラフの可能性もあるけど一応信じてみてもいいでしょう」
「確かな筋から、って……ちょっと、幽香!」
思わず椅子を蹴って立ち上がったメディスンに、幽香はつまらなそうな瞳を向けてモルトのロックを呷る。
「騒がないの。鋭くなったわねメディ、そう、あの子は現在指名手配中って訳。明日にでも刺客がやってくるかもね」
「明日? いくらなんでも早すぎない?」
「挑発しておいたもの……メディ、落ち着いて椅子に座って、グラスを乾かしなさい。何か言いたいのならそれからよ」
冷笑を浮かべる幽香に憎々しげな目線を注ぎながらも、メディスンは腰を下ろして再び己のグラスに手を伸ばした。
激発に身を任せるのは愚か者のやること。冷静である事の価値を閻魔に教えこまれたメディスンはグラスの中の甘いハイボールを苦々しげに空にする。
「そう、それでいい。来るとしたら明日の昼でしょうね。妖怪相手にわざわざ夜を選ぶ愚か者はいないでしょうから」
「……で? 何で挑発なんてしたわけ?」
「結末が同じなら、さっさと済ませてしまえばいいでしょうに。先延ばしにする意味なんてないわ」
「そりゃ幽香はそうかも知れないけど、私は色々と準備があるのよ。幽香みたいに力押し一辺倒で勝てるほど強くないんだから……」
羨望の中に若干の嫉妬と自信を交えた瞳でメディスンは幽香を見上げる。
「あら、貴女は迎撃するの?」
「勿論よ! ここまで来て放っておけないじゃない! って、幽香は何もしないの?」
「うーん、ちょっと乗り気じゃないわ」
「どうしてよ!?」
「だってあの子、多分もう死んでるわ」
幽香の言葉にメディスンの身体は凍りついた。
「ちょっと目に力を込めて幻視してみなさいな。透けて見えるから」
言われたとおり、目に妖気を込めてベッドを眺めやったメディスンは再び硬直する。
果たして幽香の言うとおりベッドに横たわる少女の身体は半透明で、メディスンには少女の体越しに奥の壁が透けて見えたのだ。
「私に何の花妖怪か区別がつかない。昨今を調べても人と関わった痕跡が無く、突如無縁塚に現れた」
さらに幽香は人間に斬られるという、あの酸鼻な内容の夢をメディスンに語り聞かせる。
それら驚愕の内容を一度に提示されたメディスンはそれらを吟味し、咀嚼して飲み込むのに苦労しているようだったが、やがて一言だけ喘ぐ様な声で、
「化けて出た、ってこと?」
「それはなんとも言えないわね。だってあの子幽霊みたいだし」
「嘘だ! だって、触れるんだから亡霊なんじゃないの?」
「分からないわ。妖怪の亡霊って聞いた事ないもの。それに触れられる幽霊だって身近にいるじゃない……まぁあれは半霊とか騒霊だけど。それに触っても熱くないから怨霊じゃない」
妖怪の怨霊っていうのも聞いたことがないわね、と幽香はカランとグラスの中の氷を指で突付く。
ますます混乱だけが助長され、メディスンは一杯だけ酒に逃避した。
モルトのハイボールをグラスの中で回しながら、冷静であれと己に言い聞かせ、思考を整理していく。
一つずつ、理解しえない問題を片付けることが先決だ。
「……幽香は、あの子が植物妖怪じゃないから興味がなくなったの?」
「花の命は枯れたら終わりよ。枯れた花が何時までもそこに居ては次の花が咲けないじゃない」
風見幽香にとっての生とは、あくまで生きている間だけの事である。
今現在、幽霊だったり亡霊だったりする連中を白い目で見るつもりも否定するつもりも無い。
だが少なくとも幽香にとっては、花の生とはそういうものであるのだ。
「恨みを晴らさなきゃ消えられない、っていうんなら協力してもいいんだけど、なんか違うみたいだし」
「何で怨霊じゃないんだろう……ねえ幽香、一つ目の夢と二つ目の夢の男は同一人物なんでしょ?」
「多分同一人物よ。もっともあの子の視点だとあまり上手く人間が見分けられないんだけど、多分ね」
「だったら! その男って酷いじゃないの! どんな理由があって、そいつはあの子を斬ったのよ!? 義理の妹なんでしょう?」
「でもあの子は妖怪で、男は人間だった」
突き放すように幽香は答える。
この幻想郷において、人と妖怪は根底で対立しなければならないことを知っているが故に。
種族を違えて愛し合った二人も、それを許容した少女も、幽香からすれば自らリスクを背負い、それに潰されたに過ぎない。
一方、メディスンは答えなかった。
それが、そんなものが理由になる筈がない。少女は捨てられた、見限られた。
そう思うと肺腑の奥からメディスン・メランコリーの核たる毒が鎌首をもたげてくるのだ。
「殺るのね、メディ」
「もし、明日来るのがその男ならね。その男は死ぬべきだ。必ず殺るわ」
メディスンは花妖怪であり、毒妖怪であり、そして捨てられた人形妖怪である。
自分の都合で愛しておきながら、冷徹に切り捨てるその厚顔無恥さ。それは決して許容しきれるものではない。
少女が死んだというならば、男もまた死んで然るべきだ。
「そ、まぁいいわ。なら自分の身は自分で守りなさいな?」
「私だってもうある程度は、えーと、ひがの戦力差、だっけ? 位判るわよ! 全く、いつも子供扱いするんだから」
「仕方ないでしょ。私が貴女より早く生まれたという事実は変わらないもの。そして、私のほうが貴女より早く没するという結末もね」
「……」
メディスンは言葉を失い、沈黙した。
そう、風見幽香は間違いなく、メディスン・メランコリーよりも早く死ぬ。メディスンが不慮の事故で死亡したりしない限りは。
「ねぇ、幽香」
「なに?」
「その道を選んだことに、後悔はないの?」
「ないわ」
一瞬の遅滞もなく、幽香はメディスンの疑問を斬って棄てた。
幽香にはメディスンが何故それを疑問に思うのかが理解できなかった。だから自然と酔いに任せて言葉を紡ぐ。
「メディは私の生き方がおかしいと思うの?」
「分からない。でも幽香の生き方は、まるで人間みたいだよ。大妖怪とはとても思えない」
「ふん」
「な、何? 私悪い事言った?」
「その物言い。八雲紫ね?」
「……うん」
「あの泥棒猫。ついに私のメディにまで手を出し始めたのね? ぶっ潰す」
「色々と危ない発言は控えようね、幽香」
「幻想郷は全てを受け入れるのよメディ。あの女の言う事が真実ならばね」
猛禽の表情で、いや詭弁を嘲笑する皮肉屋の表情で幽香は語る。
「どうせあらゆる存在は人か、妖かに二分されるとでも言われたのでしょう? 妖怪は妖怪らしく生きるべきだと。でもよく考えなさいな。全てを受け入れるのであれば人とも妖ともつかぬ存在だって受け入れられてもいい筈よ? なのに何故八雲紫はその様な事を言うのかしら?」
「え、ええと……人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を襲わなきゃいけないからだよね? その理論で行くと曖昧な種族は何もしなくていいからずるいって事? かな?」
「残念ながらはずれね。つまるところ、八雲紫が展開する結界には境界が必要なの。あの年増が曖昧なものを愛するのはね、それが自分の手に届かないものだからよ」
「ごめん幽香。ちょっと分からなくなってきた」
メディスンが軸のぶれ始めた話題を修正しようと待ったをかけるが、アルコールの回った幽香は止まらない。
……いやむしろ、いい機会だと思ったのかもしれない。グラスの中のモルトをがぶりとやって、次を注ぐ。
「あの女はね、人間と妖怪が対立した状態の幻想郷しか維持できないのよ。あいつはあくまで境界の支配者、境界をあっちこっち移動させることは出来ても境界のないものは制御できないの」
「ちょ、ちょっと幽香?」
「だから私はあの女の一番の協力者ね。あちこち喧嘩を売って喧騒の火種をばら撒く。対立でしか世界を維持できない旧時代の存在が私達よ」
「……」
「だからあいつは対立しない存在を許さない。本当は混沌を望みながら、しかし境界を維持するために人妖を対立させる。妖怪に人間を襲えと、人間に妖怪を退治しろと囁く。それがあの女の限界」
そう語る幽香の声は僅かに憐憫を帯びていたため、メディスンははっとして幽香の顔を覗き込む。
だが幽香の表情は語る内容と同じく、変わらない冷笑に固定されていた。
「でもね。対立したいなんて、この世に生きる誰もが思っちゃいないのよ。虚栄心を満たすために相手を見下す事はある。でもそれは対立じゃなくて競争なの。それを敵対に誘導する思考は異質である。分かるかしら?」
「分からないよ、幽香が何を言いたいのか分からない」
「自然界に存在する争いの全ては競争である。対立とは社会的、人間的なもの。人間的なものとは則ち恣意的なもの、然るに幻想郷のルールとはその実、管理者の為のルール。大妖怪というのはね、それを受け入れた者達。則ちその全てが人間的で、自然じゃないのよ。だから私はルールを押し付けてくるあの女が嫌い。閻魔も嫌い。裁き?そんなのは人間が用意した後付の概念よ」
「……幽香は、それを壊したいの?」
「違うわ。私は周りがどうであろうと、あるがままに生きたいの。あるがままに私の内にある花を咲かせるのよ。好むものを愛し、嫌うものを殴る。自分が何処まで伸びるのか、それを見てみたい。分かる? メディ。私こそがもっとも『妖怪的』なの」
もっとも、その私も八雲紫のルールに組み込まれてしまっているけどね、と幽香は口惜しげな口調なれど若干賞賛するような表情でグラスを傾ける。
「それでも私は私のままよ。逆に言えば手加減している訳でもないのに未だ八雲紫のルールを飛び越えないというのは悔しくもある。……私達愚か者を肥やしに、あるがままに花を咲かせなさい、メディスン・メランコリー。それが無理なら、次に繋がる種子をつけなさい」
「……」
「しゃべりすぎて疲れた。このまま寝るわ。メディ、私は私の為にしか生きられない。悪いけどこの件は降りるわね」
そう言い放つと、幽香は己の両手を枕に食卓に突っ伏して寝息を立て始めた。
沈黙と静寂の帳に包まれた幽香邸で、メディスンは一人混乱の最中にいた。
幽香の語った内容はアルコールの薄膜に包まれていたため纏まりがなく、メディスンにとっては些か不透明である。
だがそこには無視しえない、モルトの原液の如き幽香の本心が満たされていたのは間違いなかった。
アルコールではなく、風見幽香の本心にメディスン・メランコリーの心が酔わされた心持ちだ。
「でもまぁ、呑まれちゃ駄目だよね」
酒は人生の友であり、楽しむものであって、呑まれる者ではない。
他人の意見は他人のものであり、己の心は己のものだ。
そう頷くとメディスンは一度帰宅して装備を整えるために幽香邸を後にする。
一時間後に様々な毒を用意してメディスンが戻ってきても幽香は変わらず食卓に突っ伏していた。
寝顔だけは女神だなぁ、なんて苦笑したメディスンは幽香をベッドへ運んで少女の隣に横たえると、自らは毛布を巻き付けて並べた椅子の上に寝っ転がった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
何故、どうしてこんなことに!
姉様が、姉様が殺されてしまう!
睨み合う。
恐怖で全身がこわばっているのが自覚できる。
そう、これは恐怖だ。
敗北の恐怖。
死への恐怖。
なにより、姉様を失うことへの恐怖。
負けるわけにはいかない。
勝たねばならない。勝たなければ、殺されてしまう。
姉様が、この男に!
殺せ。目の前の人間を殺せ。そうやってこれまでも生きてきたのだ、難しいことなんて何もない。
だけど……
――油断した――
まさか、この男が姉様を殺しに来るなんて!
もはや敵……そう敵の間合いの内。そこまでの接近を許してしまっていた。
隙を見せたら切花にされる、と肌で感じられる位の距離。
どうして?
どうして姉様を殺そうとするの!?
わたしたちは確かに人間達に嫌われている。人間が妖怪を嫌悪するのも、腹が立つけど理解した。でも、それでも!!
こいつだけは最後までわたしたちの、いや姉様の味方だと思っていたのに!!
刀を手にする目の前の敵は人間。妖怪の餌。されど姉様を愛してくれた存在。強靭な人。油断してはいけなかった。
鍛えに鍛えた人間の一部はその技量で以て、互角以上に妖怪と渡り合えるのだから。
必殺の間合いまで近づけてしまった以上、最早私が勝ちを得るにはやられる前にやるしかない。
この男を! 姉様が誰よりも愛している、この男を!!
全力の一撃を、目の前の人間へと向けて解き放つ。
わたしは、死ぬわけにはいかない。
姉様は、私が守るんだ!!!
◆ ◆ ◆
メディスン・メランコリーが。
風見幽香が。
結界のほころびを探知するより先に。
「……クル……」
初めて、問われずして少女が言葉を口にした。
見る見るうちにその表情が憎しみの色に染まっていく。
「遅かったわね。ま、お出迎えに行きましょうか。家を壊されちゃたまらないしね」
「……」
「そうだね……行こう?」
幽香はけだるげな。
少女は憎悪の。
メディスンはそんな二人の間で当惑したような。
そんな三者三様の表情で扉をくぐって外に出ると、そこは既に肌寒い晩秋の夜空である。そして今、その夜空が振動と共に粉砕されつつある。
バキリ、と空に割れ目が発生した直後。
幽香邸が位置している半夢幻空間はまるで硝子の檻のようにあっさりと粉砕され、彼女達は太陽の畑に唯一つポツリと設置されていた郵便ポストの隣に顕現していた。
通常空間に帰還した三者を待ち受けていたのは二人の人間。
一人は男。どうやら夢の中の出来事は十数年以上前であることを示すかのように年老いてしまっているが、十中八九幽香の夢の中に現れた男だ。
一人は女。黒衣を纏い不適に笑う、幽香やメディスンとは旧知の仲。
「私の結界を破壊したか。やるじゃないの、魔理沙」
目の前に現れた二人の人間の片割れ。おそらくは護衛兼協力者として雇われたであろう何でも屋。
箒に跨る星の魔法使い、霧雨魔理沙に幽香は惜しみない賞賛を送る。
「ま、長い付き合いだからな。そろそろお前の癖もおおむね把握できている、って訳だ。で、私が此処にいる意味はもう理解しているな?」
「未成年者略取でしょ?」
「そういう台詞は妖怪の成年を定義してから発言してもらおうか。迷惑な妖怪退治だよ」
肩をすくめる魔理沙の横に、男が一歩進み出る。
「お主らの後ろにいる幽霊を、こちらへ引き渡していただきたい」
「黙れ、下衆」
既に初老と化した夢の中の男へ向かって、メディスンはあらん限りの毒を吐く。
「恋人の命を平然と奪っておいて、今度は幽霊になったこの子の魂すら消滅させようって訳? 最低の屑だわ」
「……」
「おいメディ、そりゃ言いすぎだろ。お前は知らんだろうがな、そいつだって100を軽く超える人命を奪ってるらしいぜ? 止めなかったら、それだけじゃ済まなかった。野放しには出来ないんだよ。誰かが止めなきゃいけなかったんだ」
「……じゃ、こうしようか。そこの人間が自害したら私は抵抗をやめるよ。どう? 魔理沙」
「……それは……出来ん!」
死ね、と突きつけてくるメディスンの台詞にも男は巌のような表情を崩さない。
ただ静かに横一文字に結ばれた口を開き、胸を焼く痛みにこらえるかのような声を絞り出す。
「はっ! 本当に最低だ! あんたなんかに生きる権利なんてあるものか! ここで死ね!」
「ふん、やっぱこうなるかよ。なぁメディスン、お前や幽香からすりゃ木っ端かもしれんがな、命は命なんだぜ? ……で? 幽香。お前はどうするんだ?」
この場に存在する五者の中でおそらくは最強である存在、風見幽香は震えていた。
恐怖に?
まさか、歓喜にだ。
千年遺物と思われる直刀を手にしたこの男は手練だ。少なくとも、幽香が相手をしてもいいと思える位には!
幽香の中では人間は二種類に分けられる。即ち老いて衰える人間と、老いてなお鋭さを増す人間、この二つだ。
この男は明らかに後者。こういう人間が今も存在しているから幽香は未だ幻想郷に留まっているのだ。故に幽香の選択は一つ。風見幽香の心の赴くままに!
「ごめんなさいねメディ。やっぱり降りるのは撤回。……ご老人、お相手していただけるかしら?」
「断る。死にたくないと言った筈だ。更に言うならば斬りたくもない。斬れるとも思えぬが」
「ご謙遜はよしていただけるかしら? その剣があれば、人であっても十分に私に届く筈」
柄に刻まれた七つ星。「星だし相性がいいから」なんて理由で魔理沙が神子から『借りた』その直刀の名は七星剣。
千年以上の間、剣であったという事実を持つそれは、幻想が力となる幻想郷においてはおそらく最強格の武装であろう。
「断る。無駄な争いに興味はない」
「見た目通り頑ななのね。では条件を付けてあげるわ。貴方が私と相対するならばこの子にもメディにも手出しさせないと約束しましょう。つまり貴方は私だけを相手取って、勝てば目的を果たせるという訳」
「……それだけではあるまい?」
「当然。これ以上私の提案を断り続けるならば、私がこの子を殺すわ」
「幽香!?」
幽香の発言にメディスンは殴られたような衝撃を感じた。
あっさりと少女を殺すと言ってのけたのは――幽香らしい、と納得しつつも――やはり驚愕であった。
だが何よりメディスンを揺さぶったのは、男が退いたら少女を殺す、と言う駆け引きそのものだ。
それが取引になりうるということは、この男達は少女を殺しに来たのではない、という事ではないか?
「……いいだろう。他に道は無い様だ。僅かな勝利に望みを託すとしようか」
「無論、手加減はしてあげるから御心配なく。そういうわけだからメディ、邪魔しないでね?」
「邪魔したら私もぶっ飛ばすんでしょ? いーよ。そんぐらいで腹立ててたら幽香の友人なんてやってらんないし」
「ありがとメディ、愛してるわ。貴女も良い? ちゃんと貴女がトドメをさせるように、殺さないでおいてあげるから」
「――ワカル――タ――」
男を目にして初めての表情を、憎悪の表情を浮かべていた少女もまた、不承不承という二つ目の表情を形作りつつも幽香の提案を受け入れた。
それを目にした男の表情が初めて微動する。僅かに眉を動かしたそれは、おそらく驚愕であったのだろう。
「あー、まー予想通りの展開だな。……とりあえず相手が相手だ。勝てとは言わないけど死んでくれるなよ? 爺さん。私はタダ働きは御免だからな」
幽香と同じくふてぶてしい表情を浮かべた魔理沙が男の後ろに下がって八卦炉を取り出す。
狙うのは幽香でもメディスンでもなく、未だ憎しみ冷め遣らぬ少女だ。少女が動いたら間髪いれずに吹き飛ばすつもりなのだろう。
それを目にしたメディスンもまた未だ混乱から抜けきれぬ表情のまま、少女の手をとって幽香の遥か後方まで引き下がった。
男が直刀を抜き放ち、月光に濡れて青白い光を放つそれを上段に構える。
幽香もまた弓を引くように傘を構える。
「征くわよ?」
「参れ」
夜空にひらりと、花が舞う。
◆ ◆ ◆
踊りかかる幽香の一撃を身を捻ってかわしざま、男が返す横一閃を頸部に叩き込む。
飛び退いた幽香に追い縋る平突きは音よりも早い。
幽香が相手の心臓を狙って日傘を突き返した次の瞬間には男は半身にてそれを捌き、逆袈裟の一撃を見舞ってくる。
ハラリ、と一房、緑色の髪が宙へと舞い散った。
幽香が風を切り裂いて迫れば、男の刃はその風が去る前に反撃となる。
疾風の如き猛攻を続ける幽香と、最小限の動作で楔を打ち込むかのようにそれを阻む男。
まるで互いに示し合わせているかのように、二者は一つの竜巻となって荒れ狂っていた。
誰しもが心の中に伴侶として持っているはずの恐怖心。それを肥溜めに投げ捨てたかのような駆け引きを続ける二者の挙動は、豪胆という範囲を軽く超えている。
皮膚一枚の距離で相手の一撃を躱すその狂争には、速度を頼みに弾幕の海をかいくぐってきた魔理沙ですら舌を巻かずにはいられなかった。
魔理沙からしてそうであるのだから、ただひたすらに空気だけが切り刻まれる戦闘を見つめるメディスンなどはもはや言葉もなく、固唾を呑んで事を見守るのみだ。
ふわり、と十分近くに及ぶ死合いを中断して距離をとった幽香は歓喜に視線を泡立たせる。
「素晴らしい……まさか之程迄とは!」
「お主が体術のみ、しかも攻めるは傘だけと定めているからな。そうでなくては死んでいる」
ふ、と軽くため息を付いた男が返す。
そう、幽香は妖気による圧倒的な火力も、四肢による攻撃も封印してただ傘による刺突と打撃のみで男に迫っていた。
加えて日傘の骨組みは超硬合金製とはいえ、千年遺物の斬撃を受け止めるには至らない。
だから男の攻撃を一太刀すらも受けることが出来ず、全て躱す事で捌かなくてはならない幽香は明らかに不利。
……だが、いくら攻め手が限られているとは言え、幽香の身体能力は鬼にすら匹敵するのだ。
「理解できないわ。それほどの力を持ちながら、何故積極的に攻めてこないの?」
「攻める余裕が無いだけだ」
「攻める心算が無い、でしょう?」
真紅の瞳をすっと細めて幽香が笑う。
「どんなに気取っても、剣客には悲しみ以外を生み出せぬ。修羅の路などと言葉を飾ったとて、その実は下賎な人殺し。斬ることを喜びとする呪縛から拙者は解放されたのだ」
一切の迷いを斬り捨てた瞳で、男は笑う。
「拙者も一つ聞きたい。お主、何故それほどまでに人の技を躱せる? 読める?」
「幾度と無く人と死闘を演じてきたから、と答えればよろしいかしら?」
「自惚れるつもりは無いが、常人ではお主と勝負になるまい……いや、まさか」
風見幽香は花である。花とは、種子より芽吹いて芽となり蕾となり、そして披くものである。そして最後には……
「格好良いものだ。妖怪でありながら、刹那を望むか」
「下賎な修羅の路、ではなかったかしら?」
「いかにも。だが拙者は迷いを捨てたとは言え未だ餓鬼である故、その飾った言葉を格好良いとも思うのだ。矛盾しているがね」
「褒めるなら美しいとのみ言いなさい。花愛でるなら他に言無しよ?」
「断る。拙者その言葉はただ一人にのみ捧げている故、口に出すことは出来ても真の本心にはならぬからな」
満腔の思いを込めたその言葉に、メディスンの傍らに立つ少女が一瞬、息を呑んだ。
「仕舞いにしよう。斬ることを忌む身ゆえ攻めずにいたが、稚拙の全力如きでは逆立ちしてもお主を殺すこと能わぬという直感は正しかったようだ。全身全霊で、御相手致す。拙者を喰らい先へ行き、先の咲の先にて笑え。お主には、それが相応しい」
「こちらこそ手加減などして悪かったわね。全力で消し飛ばしてあげるわ」
男は半歩踏み出すと、直刀を正眼に構える。
風見幽香は傘の石突を男へと向けて、その先端に全妖気を集中させる。
「さあ、来なさい!」
「征く、と言ったのはそちらであろうに」
違いない、と幽香が笑い、前方全てを焼き尽くす劫火を撃ち放とうと息を吐いた、須臾の間に。
男の姿が幽香の視界から消えた。
「!?」
本能の赴くままに幽香は妖気を込めた左腕と日傘を交差して防御に回る。だが……
――守るな! 攻めろ!
これまで幽香が積み重ね、培ってきた経験が、勝利への渇望が生存のための本能を跳ね除けて吠える。
魂の叫びに従って幽香は傘から右手を離し、左脚をそこにあるであろう何かに叩きつけた。
蹴り脚に伝わった感触と同時に、初めて幽香の視界に男の姿が映る。
その姿に向けて不安定な体勢ながらも残った右腕を真っ直ぐ振り貫いた、
瞬間、幽香の両腕と脇腹に同時に衝撃が走りぬけた。
「……見事」
男は血を吐きつつ呟くと、片足では立つことがおぼつかないのだろう、幽香の目の前で崩れ落ちる。
左の肋骨と左肺、そして右脚の脛骨腓骨を粉砕されて、男は膝を屈した。
「……よく言うわ」
脇腹を流れ落ちる血と焼けるような激痛に怖気をおぼえながら幽香はそう呟いて、右手で左上腕の動脈を圧迫する。
両断された日傘と左腕、そして左脇腹に深々と刻み込まれた裂傷と引き換えに、風見幽香は未だ立ち続ける権利を手に入れた。
「勝った気が、しないわね」
「立って…る者が……勝者であろう。それに…主は全力の…分しか出し……らぬで…無いか」
肺に肋骨が刺さっているのだろう。ごほり、と咳き込み言葉を途切れさせつつも、負傷を感じさせない声の張りで男は幽香を褒め称える。
「勝った気が、しないわ」
切断されて転がっている左腕を呆然と眺めながら、幽香は久方ぶりの恐怖にぶるりと身体を振るわせた。
やはり人の技というのは恐ろしいものだ。攻勢に転じ軸足を挫けていなければ幽香の胴は真っ二つになっていた筈。
だが、それほどの斬撃ですら全身全霊ではなかったのだ。それを幽香は把握してしまっていたから、勝った気にはなれなかった。
男は言葉通り自分では全力で攻めていた心算の筈だ。だが男は既に――あの夢の出来事のせいだろう――相手が妖怪だろうと、妙齢の女性へ本気で刃を振るうことなど出来なくなっていたのだ。
明らかに踏み込みの速度に対して刃が一瞬遅れた。その遅れがなかったら幽香が胴を両断されていたかは……正直、分からない。
出来るならば、この男が全盛の時に再度全力で相対したかったものだ、と幽香は埒の明かぬ思考に囚われる。
鬼が生涯の宿敵として人に恋焦がれるのも致し方ないか、なんてらしくも無い思考にかぶりを振った、その時。
「止めろ!彼女ら…で、巻き込むつ…りか……西行妖!」
周囲の景色が、桜色に染め上げられた。
◆ ◆ ◆
「な、なにこれ!?」
メディスンの驚愕に粟立った声が周囲に響き渡る。
そこは完全に音の消えた世界だった。
周囲にはもはや晩秋の風に揺れる落ち葉も茶に染まった野草もない。
そこにあるのは唯々、桜。
満開の花を湛えし墨染の桜。
幽霊少女を中心にして、世界が桜一色に染められていく。
「ちっ、幽香達に気をとられすぎたか。私もヤキが回ったもんだぜ」
八卦炉から放たれた火線が空間を裂いて走るものの、その火線は少女の下へと届く前に雲散霧消して消え果てた。魔理沙が忌々しげに歯噛みするが、最早後の祭りだ。
桜木を狙ったメディスンの毒霧も同じ運命を辿った。それどころか、ただそこに立っているだけで体力妖気まで奪われていく感覚にメディスンは怖気を覚えて肩を震わせる。
既に此処は死を祝福する桜の杜。
あらゆるものを滅びへと誘う死の祭壇。
空に舞い散る桜の花弁が風に揺られてふわりと踊り、光塵となって消えていく。
「桜花…界、西行…無…涅槃。拙者が、倒れ…のを、勝機…見たか……」
忌々しげな表情で、男が立ち上がった。
ふらつき倒れそうになるその痩躯を魔理沙が支えるが、男の吐血で赤く染まった胸元を見て嘆息する。
霧雨魔法店は基本的に料金後払いなのだ。依頼主に勝手に死なれてはたまったもんじゃない。
「おい爺さん、それ以上喋るとマジで死ぬぜ? ……だがどうすんだこれ? 焼き払えば燃えるのか?」
「無理でしょうね。魔理沙、そのご老人を連れて下がりなさいな。メディスンも」
「ちょっと、幽香はどうするのよ?」
未だ傷口から血を滴らせている幽香にメディスンは動転した視線を向けるが、それを受け流して幽香はニタリと哂う。
「勝負の邪魔をされるのは好きじゃないのよ」
「もう決着ついてたじゃんか……それにお前だってその負傷でこの空間はヤバくないか?」
「心配ないわ。ねぇご老人、これから私はあの子をぶっ飛ばすんだけど、何か文句はあるかしら?」
「あ…ませぬ…どうか、あやつを…ろしく…願いい…し申す。……その、出…れば、なにとぞ、お手柔ら…に」
「気が向いたらね」
蕩ける様な笑みを浮かべて、幽香は一人少女へと向き直る。
「――ドウシテ――」
どうして男をかばうのか、か。どうして敵対するのか、か。
「決まっているじゃない。私は自然を愛する風見幽香よ? 目の前にある美しい自然を愛で、目の前にある美しくない不自然は踏み潰す」
ああ、これこそが風見幽香である、と魔理沙は呆れたように腕を組んで低く唸った。
「貴女の桜は、不自然で、美しくない。美しくない花が無理やり咲かせられるのを黙って見ている私ではないわ」
ああ、これこそが風見幽香である、とメディスンは納得したかのように紫色の吐息を吐く。
「じゃあ行くわよ? 西行妖だかなんだか知らないけど、花妖怪の頂点はこの私なの。それをまだ教えていなかったわね」
哂いながら、進軍する。
「さ、お馬鹿さん、教育の時間よ。その身に刻み込みなさい」
「――ナニヲ――」
「真に美しく咲き誇る花の前では、あらゆる存在が無力であるということを、よ! さあ、咲き乱れなさい!!」
哄笑と共に幽香が謳い上げたなら。
桜色の海原の一部が緑へと塗り替えられる。
桜の杜の静謐な空気を侵食するかのように埃と冬枯れの香りを纏う乾いた空気が周囲に広がる。
その中にあってさまざまな色彩を放つは秋の花。
緑と紅で防壁のように垣根を成すは山茶花。
城塞としてそそり立つは白く小さな花を付ける枇杷。
大地を覆うはポインセチアの苞葉とサルビアの唇花が織り成す猩々緋の絨毯。
それは秋の花々が織り成す生命の要塞。その中央で。
八重に花弁を重ねる菊花を侍らせて微笑むは、開いた日傘に両手を添えて優雅に佇む風見幽香だ。
「――エ? ――」
桜の杜の中心に立つ少女が驚愕に目を見開いた。
重傷を負い、血を滴らせていた風見幽香は視界の何処にも存在しない。
あるのは濃密な妖気を己の要塞にてさらに増幅し、少女をせせら笑う五体満足のフラワーマスターのみ。
「ああ、そりゃお前、ほとんどペテンじゃないか」
魔理沙が幽香の特技を思い出して感心したようにヒュウと口笛を吹く。少女にはあたかも幽香が瞬時に傷を再生したようにしか見えないことだろう。
「情けない記憶力と洞察力ね魔理沙。ご老人は最初から気付いていてよ?」
そう、相手をしていたのが幽香の分身であることに。
嘲る様な微笑を一つ魔理沙に返すと、幽香は少女へと向き直って、優雅な歩調で歩みを進める。
幽香が一歩を踏み出すたびに、秋の花々が少し、また少しと桜の世界を侵食していく。
ありとあらゆる生物を殺す死の世界が、煩雑に伸び行く生命満ち溢れる世界に潰されていく。
「――ドウシテ? ――」
どうして、勝てない?
あらゆる生命を殺す力が、どうしてそれらを殺しきれないのか?
「馬鹿ね。花というのは被せるものではなくてよ? 秋雨も終わったこの季節に、桜花が地に根付く筈がない」
理解できないとばかりに首を振る少女に、幽香はこれ以上ないと言わんばかりの恍惚に満ちた表情を浮かべる。
「花は土の中より取り出したる色。大地がこうありたいと望む色。即ち自然の具現化こそが花」
風見幽香はフラワーマスター、自然の体現者。
その言葉は自然の息吹。落ちたる種子を開花させ、秘めたる力をつむぎ出す。
「故に季節外れの桜花など、この私の開花宣言の前では無意味。さぁ、このまま何もせずに蹂躙されるか、抵抗した上で蹂躙されるか。好きなほうを選びなさいな?」
幽香と少女の距離は十歩ほど。その地点で幽香は足を止める。
気付けば少女の手の内には短刀が存在していたからだ。
男が手にしていたような伝説や幻想に彩られた刀ではないが、おそらくそれもまた千年以上の時を刀としてあった業物だ。
「そうでなくてはね。でも貴女には私に勝てない理由が三つもある」
男と瓜二つの構えを取る少女をしかし、幽香は嘲笑で迎え撃つ。
「一つ。貴女の花には今しかない。花とは見られ愛でられ視姦しつくされて価値を高めるのよ? 見た者をすぐ死体に変える貴女と、いつまでも視線を集め続ける私ではその品格に雲泥の差がある」
少女が脚に力を込める。そこから繰り出される神速の踏み込みは男と同じく、幽香の視界に映ることすらないのだろう。
「二つ。貴女の花には己がない。かつては貴女も愛でられるために花を咲かせていたのでしょうに。今の貴女の花は唯、殺すためだけに咲かせられている。駄花もいいところね」
少女の姿が幽香の視界から消える。
だが次の瞬間には少女の刃は日傘を手放した幽香の両掌で挟み込まれ、あっさりと動きを止められていた。
「――ソンナ……――」
呆然とする少女から素早く刀を奪った幽香は、それをトン、と地面に投げ打った。
「三つ。貴女の花には成長がない。花とは種子より芽吹いて目となり蕾となり、いつか開いて枯れるモノ。私は変化を続ける花よ。唯ひたすらに満開のみを維持する造花と代わらぬ貴女の花では、決して私についてこれない」
妖怪の種族間における力量差は割と明白だ。
河童は天狗には勝てないし、天狗は鬼には勝てない。それが覆ることなどほとんどない。
それは妖怪の力の源が幻想であり、そのイメージが今や概ね固まってしまった結果であるからだ。種族内における実力の幅も少ない。
そんな妖怪が種族を超えた力を得るには、神になって信仰を得るか、仙人等を食らって底上げをするしかない。
しかしそんなものはつまるところ他力本願、他人に頼った成長に過ぎないのだ。
「常に成長と変化を続ける私には、旧態依然とした全てが過去の残照」
だが、風見幽香は違う。
花である、という特性を前面に押し出した幽香は常に変化し、一所に留まることはない。
強敵との戦いを糧に現状に留まることなく延々と成長と変化を続ける風見幽香は伊達ではないのだ!
「忘れられないように頭に刻んでおいてあげるわね。お馬鹿さん」
言葉と共にギリギリと強く握り締めた拳を、
「花たるこの身に生まれたならば、咲いて魅せるがその定め! 覚えておきなさい!!」
幽香は躊躇なく少女の頭部に叩き付けた。
「「ひぃ!!」」
文字通り吹っ飛んだ少女の姿を目にしたメディスンと魔理沙の怯えたような声が背後から聞こえたが、そんなものは幽香にとっては声援にしかならない。
「ちょ、ちょっと幽香!」
「せめてパーにしろって! グーはないだろグーは!」
「何を馬鹿な。女が女のツラを殴るのに平手打ち? ありえないわ」
「「ひぃ!!!!」」
背後で魔理沙とメディスンが抱き合ってガタガタ震えだすが、そんな光景は幽香にとっては喝采でしかない。
対して震える少女達の横で男は非難の声を上げることもなく座したまま沈黙している。
文句がないのではない。容認しているのでもない。
少女がぶん殴られた瞬間にサッと血の気が引いて貧血を起こし、呼吸困難と相まって気絶してしまっているだけだ。
腰抜け共に背を向けると、幽香はつかつかと倒れ伏す少女に歩み寄り、胸倉を掴んで引きずり起こす。
幽香の拳を正面から受けてなお、少女はほとんど無傷だった。流石は千年を生きた大樹と言ったところだろうか。
ほれ見ろ、と幽香は見た目に踊らされている間抜け共を笑う。手加減する必要など何処にもないのだ。
「先に挙げた三つは貴女が私に勝てない理由だから、貴女にそうしろというつもりは無い。だけど花ならば、美しくありなさい。これはルールなんかじゃない、絶対の真理よ。分かった?」
「――ウツクシイ――ナニ? ――」
「それは自分で考えるの。牡丹の美しさと桜の美しさが同じである筈がない。同じ品種だって色が変われば印象も変わる」
「――? ――」
「……美しいモノを、探しなさい。分かった?」
「――ワカッタ――」
少女は幽香の言葉に素直に首肯する。
幽香と共に暮らすようになってから二ヶ月以上。その間どのような失敗を重ねても幽香が拳を振るうことは無かった。
だから、初めて拳と共に叩きつけられた言葉は、多分忘れてはいけないのだろう。そう思う。ただ……
――花たるこの身に生まれたならば、咲いて魅せるがその定め。
そうは言うが、しかし少女から見て幽香は美しさで魅せると言うかなんと言うか、
「――ユウカハ――カッコイイ?――」
「……そこは美しいと言うところでしょう?」
少女は頑なに首を振った。それは少女にとって姉のためにある言葉だったから。
そう、少女は姉の佇まいに美しさを感じていた。それを思い出したのだ。
何が少女の姉を、美しいと少女に感じさせたのだろうか?まだ、よく分からない。
「ま、いいわ。いい子だから焦らずゆっくり考えなさい。じゃあこれで最後」
「――ナニ? ――」
悩み始めた少女を立たせて優しく頭を撫でた後に、幽香は周囲が歪んで見える程に練り上げた妖気を纏う拳を振り上げる。
「「やめたげてよお!!」」
背後から惰弱な嘆きが聞こえるが、幽香は気にしない。
殴られずして大人になれるものか。痛みなくして成長できるものか。
さっきの一撃は言葉を刻み込むため。そしてこれは……
「おいたする子には、お仕置きよ」
ズドン、という大砲の発射音のような凄まじい轟音と共に、少女の意識は闇へと落ちる。その瞬間に、一つだけ思う。
――ボウリョク――ウツクシクナイ――
図らずもそれは、斬ることを忌む男の言と重なる思考だった。
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「此度は我が家族、西行妖の為に尽力頂けたこと感謝に耐えませぬ。まこと、なんとお礼を申してよいやら」
此処は再び結界が修復された、半夢幻世界における幽香邸。
食卓の椅子に腰掛ける魔理沙、幽香、メディスンに対面して、眠る幽霊少女の頭を膝に乗せた男がベッドに腰掛けている。
永遠亭に運ばれて手当てを終え、絶対安静を言い渡されたにもかかわらずその足で退院した男は幽香とメディスンに――複雑な表情で――深々と頭を下げた。
「礼なんて何の役にも立たない物はいらないわ。……ただまぁ、メディがなんか消化不良みたいだし、ちゃんと説明してあげてくれない?」
「うむ、それでは何処から話せばよろしいやら……」
「まずは自己紹介じゃないか? 爺さん」
「む、確かに。遅ればせながら拙者、西行寺家先代庭師にして今は流浪の半人半霊、妖忌と申します。そしてこやつが冥界西行寺家が誇る妖怪桜、西行妖」
膝に乗せた少女の髪を優しく撫でる男、いや妖忌にメディスンが困ったような目線を向けた。
メディスンの記憶が正しければ半人半霊は一抱えほどの大きさの幽霊を引き連れている筈だったが、何故かこの老人にはそれがない。その上、
「西行妖って……見たことあるけど桜の巨木だよね? それがどうしてこんな所で幽霊になってるの? 死んだの?」
「いえ、正確に申すならば此処にいるこやつは西行妖の半霊、ということになりましょうか」
「木の半霊? ……ああご老人、私あんまり敬語って好きじゃないのよ。言葉を崩していただけるかしら?」
「了解いたした……では多少遠回りになるものの順を追って説明しよう。拙者は現在世界中を旅しておってな。その目的の一つが、この西行妖に広い世界と人の生き様を見せることであった」
「人の生き様?」
「然様。かつてこやつは幻想郷で死の猛威を振るい、幻想郷を滅ぼしかけたが為に現在は冥界白玉楼で封印されておる。だがな、こやつが死を振りまいたのは命の尊さというものを知らなかったが故なのだ」
一瞬だけ胸に去来した悔恨に目を細めた妖忌はそこで言葉を切った。
「なぁ爺さん、何であんたが旅することがこいつに世界を見せることに繋がるんだ?」
「うむ。幸いというべきか否か、その時の封印の影響で拙者とこやつは精神の一部が繋がっておってな。それ故に感覚の一部だけであるが、拙者とこやつはそれを共有しておるのだ」
「貴方の周囲には半人半霊の特徴とでも言うべき半霊が見当たらないようだけど、もしかして見張り代わりに一緒に封印したのかしら?」
興味深げに瞳を細めた幽香に、妖忌は幽香の更に先、遥か遠くを望む様な目を向けて頷いた。
「……鋭いな。まぁ、そのようなものだ」
「ふーん。封印前の西行妖を瀕死に追いやったのもあんたなのね? ……じゃあ姉様っていうのは?」
「はて? こやつは唯一本、西行寺家庭園にあった桜であるが……」
メディスンの問いかけに首をかしげる妖忌に幽香が簡単に夢の内容を説明する。
その内容を把握した妖忌は思わず苦笑した。
「ああ、それはおそらく我が主にして当時の西行寺家当主のことであろう。なにせあやつは当主の父たる聖人の死をきっかけに妖怪としての自我を持ち始めたがゆえに……それにどちらも人を死に誘うという能力を持っていたしな」
「つまり、姉様は人間だったって事ね……じゃあなによあんた、あんたは同じ人間である恋人を殺したってわけ? やっぱり下衆じゃないの!」
「……介錯か?」
「聡いな、霧雨の。その通りだ。だが殺したことに変わりはない」
椅子を蹴って怒髪に立ち上がったメディスンだったが、その発言を聞いて思わず呆然と立ち尽くした。自分がどれだけ人を傷つける暴言を吐いていたのかを理解したのだ。
「……その、ごめんなさい」
「構わぬ。殺めた事実に違いはないのだ。そもそも拙者が主の御心を御守りする事が出来ていれば、そのような事にはならなかったのだから」
「成る程。介錯しようとする様がそいつには裏切りのように見えたって訳ね……ま、仕方ないか」
そもそもが人間と妖怪である己が姉妹であると錯覚するぐらいなのだ。年若い樹木の妖怪にそんな人間の感情など理解できないだろう。
「つまり人を死に至らしめる能力を持つ当時の西行寺家当主と西行妖が人に迫害されて、当主が死を選んで、西行妖がぶち切れて大暴れしてあんたがそれを封印したって事で良いのか?」
「まとめるのが上手いな、霧雨の。その通りだ。そして拙者は何一つ守ることが出来なかったのだ。もう拙者はそんな悲劇を繰り返したくないのだよ」
「ああ、成る程ね」
ようやく幽香とメディスンの中で夢の内容と現実が噛み合った。一方からの目線では中々真実に辿り着けないものだ、と顔を見合わせて肩をすくめる。
「だから、先ずは手始めに西行妖に人の命の尊さを教える、と?」
「その通りだ。そして時間はかかったがこやつは成長した。拙者の目を通して世界を見つめたこやつはもっと身近に、即ち自分自身の目で世界を見たいと思うようになったのだよ」
まるで孫の成長を喜ぶかのような甘い表情を浮かべる妖忌に図らずも少女達は三者同じ表情を返した。即ち苦笑したのである。
「だがまぁ、西行妖は冥界で封印されていて移動することすらままならない。ならどうやれば己が外の世界を見に行けるのか、そう考えたこやつははたと気がついたわけだ。一つの意思の下に統一された二つの身体を持つ種族が身近にいるじゃないか、と」
「つまり、半人半霊ね?」
「そう。で、こやつだ。こやつには己を目にした相手を思うがままに操る〈テンプテーション〉という能力があってな。封印前もそれで余多の者達を自刃に追いやったのだが……今回もやってくれおった」
「ああ、その能力で幽霊達を集めて自分の半霊を作る材料にしたって訳か」
「うむ。幽々子様達にばれないように少しずつ少しずつ取り込んでいった様だ。一応本人曰く今回はあまり幽霊達に強制はせず、大部分は『協力してもらって』取り込んだらしいのだが……」
春雪異変の際に西行妖の開花を目にし、その美しさに見惚れたことがある魔理沙はそれを思い出して不快感に肩を震わせた。
満開に至らぬ花ですら正直魔理沙には危なかったのだ。もしあれが満開であったならばどうなっていたことか。
「む、無茶苦茶やるわね……」
「全くだ。お陰で拙者、紫様と共謀して是非曲直庁に忍び込み、食われた幽霊達の審判結果を『西行妖に転生する』と書き換える犯罪紛いの行為を行わねばならなくなったしな」
「それ、完全に犯罪よ」
いつかゆすりのネタにでも使うつもりなのだろう。八雲紫の犯罪の尻尾を掴んだ幽香が楽しげに笑う。
それを見て余計な事を言ったか? と肩をすくめた妖忌はゴホン、と咳払いをして佇まいを正した。
「話を戻そうか。そうやって材料を集めたはいいがこやつは馬鹿ゆえ、どうやれば半霊なんぞを作れるのか皆目見当がつかなかったようでな」
「っつーかよ、爺さん。そんな簡単に後付けの半霊なんて作れるのか?」
「……拙者とこやつに関しては色々と複雑でな。少なくともこやつにはそれを作れる余地があった、とだけ言っておこう。だがまあ、頭の悪いこやつのやること。結果、出来上がったのはまんま拙者の半霊の複製であった」
「おいおい、無茶苦茶が何処までも続くな……」
「始まりからして無茶苦茶だもん。そりゃ上手くいく筈ないか」
「うむ、で、その半霊は当然のように拙者と繋がるゆえ、拙者は何が起きているのかをより正確に知ることが出来るようになったのだが、当時拙者は外界の、しかも別大陸におったのでな。すぐに幻想郷に帰還という訳にはいかなかったのだ。その間にこやつはその半霊に己自身の魂と記憶を転写していったのだが、こやつ物心ついた頃の記憶から順々に転写していきおって……」
ほとほと疲れたかのように妖忌は肩を落として深い深い溜息をついた。
魔理沙と幽香も呆れたような表情で天を仰いだが、メディスンだけは何が悪いのかが理解できず首をかしげている。
「ほらあれだメディスン。昔の記憶から順番に、って事はよ。どこかのタイミングで「姉様が殺される、って思考でいっぱいな状態」のこいつが出来ちまうって事だろ?」
「あ……」
「然様。結果、激昂して今を千年以上前と錯覚した半霊のこやつはすぐさま人型を取って、拙者を抹殺すべく地上を目指したのだが……半霊の動かし方なんぞその時点では知らぬわけでな。冥界から離れ本体との接続が切れた瞬間に行動不能に陥ったわけだ」
「……人間は脳ある生物でよかったよ、本当」
「喜劇ね」
「……突っ込みどころ満載過ぎて何処から突っ込んでいいか分からない……」
幽香の言うとおり、完全に喜劇である。事を起こした本人は至って大真面目であるが故にそれがさらに哀愁を誘った。
「で、こやつは人里近くに落下して、そこでまぁ人里の男連中が一切の身動きを取らないこやつを発見したわけだが……ほれ、こやつは少しばかり幽々子様に似て実に可愛らしいであろう?」
「身内自慢は蕁麻疹が出来るからその辺にしておいて貰おうか。だがまぁ、そういうことか」
「下衆ね」
「??」
一切の行動を取ろうとしない妖怪であろう少女を里外で人間の男が見つけたらどうなるか。
それを想像した魔理沙と幽香が侮蔑の表情を浮かべた。
この場で唯一の男である妖忌は若干気まずそうに言葉を紡ぐ。
「元々この半霊は拙者の複製であったのが幸いして、身体制御をこやつから奪えたのは僥倖であった。故にその男共は先手を打ってフルボッコにしてやったのだが……」
「ああ、文月の男集数名が軽傷。犯人不明ってのがそれね。そりゃ犯人を秘密にせざるをえないわけよね」
流石にそんなオチは予想できなかったわ、と魔理沙から渡された資料を思い返した幽香は思わず自嘲した。
「そのまま拙者がこやつの制御を乗っ取っていられれば良かったのだが、こやつが体の動かし方を知ったせいか、長距離からの遠隔操作に無理があるのか、すぐに制御が効かなくなっていってな。完全に制御がこやつに戻る前に人が訪れることが無いであろう場所、即ち無縁塚に移動することにしたのだ」
冥界まで戻るだけの時間があればよかったのだが、と妖忌は口惜しげに吐息を洩らした。
「ああ、ようやく全てが一本に繋がったわ」
「そこで私がこの子を見つけたのか……あれ? もしかして私ものすごい余計なことをしたんじゃ……」
慌てて外界から幻想郷、そして無縁塚に舞い戻った妖忌はさぞ慌てたのだろう、とメディスンは頭を抱えた。
四方八方手を尽くして探してみても、一切の痕跡すら見当たらない。それもその筈、その間ずっと半霊は幽香の半夢幻空間で過ごしていたのだから。
「とんでもない。安全の保証が無い無縁塚に放置するよりは遥かに良手。まこと、御礼申し上げる」
「え、あ、うん……どういたしまして」
「それで? 今その子はどうなっているの?」
「今は拙者を通じて本体と同期を取っている最中だな。これが完了すれば多少、いやほんの極僅かばかりは今までより賢くなるだろう……と、同期が終わったようだ」
目を擦りながら妖忌の膝から起き上がった西行妖は、ボーっとした表情で周囲を見回している。
「意識はしっかりしているか? 一回幽体に戻してみろ」
言われるがままに少女の体が霊魂のそれへと変わる。
白く尾を引いて周回する幽霊を得た男に目をやって、ようやく半人半霊らしくなったな、と魔理沙は一人頷いた。
「うむ、機能は完全のようだな。戻って迷惑をかけた連中に何か言うがいい」
半霊が再び十歳前後の少女の姿に戻る。だがその衣の色は薄緑の単に焦茶の帯ではなく、空色の単に濃紺の帯へと色合いを変えている。
冠する髪色も灰白色に若干の薄桃が掛かっており、成る程どこかの亡霊と姉妹の様だ、と頬を僅かにほころばせた面々の前で少女は薄い胸を張り、一言
「――計画――通り――」
「「「「嘘付け」」」」
妖忌の拳が振り下ろされる。
嘘をつく子には、お仕置きが必要だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「行っちゃったね」
秋の夜長も明け方近く。
魔理沙と妖忌、そして西行妖の後姿が見えなくなるまでずっと手を振っていたメディスンが寂しそうに手を下ろした。
「そうね、妹分がいなくなって寂しくなっちゃった?」
「樹齢千年以上の大先輩だけどね」
未だに信じられない、とばかりにメディスンは肩をすくめた。
西行妖は妖忌と共に旅に出るという事だった。
千年以上前には敵対していた二者だったが元々の両者の関係は悪くないようで、家族……そう妖忌が語ったように家族のようだ、という印象をメディスンに与えていた。
いつか西行妖が美しいものを得た後に、彼らは白玉楼へと帰るのだろう。それがいつの日になるのかメディスンには想像もつかなかった。
「馬鹿だもんなぁ」
「ええ、ご老人はあの子の知能と記憶力が悪いのは封印のせいで変化が抑制されているからだ、と言っていたけど、身内贔屓にしか聞こえなかったわね」
「あの爺さんも馬鹿だよね。足折れてるのに普通に歩いてるし……手加減した?」
「まさか。せっかくあのご老人が本気になってくれてたのに手加減なんてするわけないじゃない」
「……幽香はさ、あの老人が拒否したらホントにあの子を殺すつもりだったの?」
「ああ言えばあのご老人は絶対拒否しなかったわよ。それにねメディ。私にはあの子は殺せないわ」
「なんで?」
「だって私は幽霊の殺し方を知らないもの」
楽しそうに笑う幽香の横顔を見つめて、メディスンはちきしょう、と呟いた。あの状況で気付いていなかったのが自分だけだったとしたら凄く恥ずかしい、と心の中で地団太を踏む。
全く、親しい筈の自分に対してすらこれだ。本当に喧嘩を売って歩いてるな、とメディスンは心底呆れ果てる。
「幽香はさ」
「何?」
「……なんでもない」
――その道を選んだことに、後悔はないの?
その問いかけに対する答えは、もう示されている。
花である、という特性を前面に押し出した幽香は常に変化し、一所に留まることはない。
だがそれは、成長するといった妖怪らしからぬ特性を得る代わりに、いつしか幽香が衰えて死ぬことをも意味しているのに。
そのことに、後悔はないと幽香は言い切った。
いつの日か魔理沙やメディスンにすら太刀打ちできなくなる日が来るとしても、それでも構わないと。
あるがまま、生まれたものは滅びるのだと。それが自然だと。その限られた中で自分が何処まで伸びるのか、それを見てみたいと。
少しずつ、水平線の向こうから太陽が顔を出し始めた。
「幽香はさ」
「何?」
「格好いいね」
「そこは美しいと言うところでしょう?」
そういえば幽香に対する皆の評価は揃いも揃って「格好いい」だったなとメディスンは苦笑しそうになり、慌ててそれを胸中に押し込めた。幽香としてはそれは不本意な評価に違いなかろうから。
だが日光を浴びて気だるげに髪をかき上げる幽香を見ると、メディスンはやっぱり美しいと思うより先に格好いいと思うのだ。
――私は、どんな妖怪になるんだろう……
毒妖怪であり、花妖怪であり、人形妖怪でもあるメディスン・メランコリーは。
そんな事を考えながら、今日も風見幽香の隣にいるのである。
fin.
恐怖で全身がひきつっているのが自覚できる。
そう、これは恐怖だ。
敗北の恐怖。
死への恐怖。
なにより、わたしの全てを奪われる恐怖。
負けるわけにはいかない。
勝たねばならない。勝たなければ、殺されてしまう。
殺せ。敵を殺せ。目の前の人間を殺せ。そうやってこれまでも生きてきたのだから、難しいことなんて何もない。
だけど……
――油断した――
もはや敵の間合いの内。そこまでの接近を許してしまっていた。
隙を見せたら切花にされる、と肌で感じられる位の距離。
刀を手にする目の前の敵は人間。妖怪の餌。妖怪とは相容れない存在。貧弱な存在。だけど油断してはいけなかった。
時に鍛えた人間の一部はその技量で以て、互角以上に妖怪と渡り合えるのだから。
必殺の間合いまで近づけてしまった以上、もはやわたしが勝ちを得るにはやられる前にやるしかない。
全力の一撃を、目の前の人間へと向けて解き放つ。
わたしは、死ぬわけにはいかない。
だけど……
◆ ◆ ◆
「ああ、また、死んだ……」
憎々しげにそう呟いて瞼を開けば、眼に飛び込んでくるのは見慣れた天井の木目。つまりはまだ、生きているということだ。
幽香はふっと息を吐くと、けだるげな表情でベッドから身を起こした。
「――シンダ? ――」
幽香にそう問いかける声は平坦で抑揚が無く、棒読みとは違った無機質さがある。
「ええ、そう。夢の中の話よ。ああもう、汗でべっとりして気持ち悪いわね」
言いながら幽香は髪をかきあげる。
いい歳して悪夢にうなされるなんて情けないとは思うのだが、夢をあれこれ操るのは――不可能ではないが――色々と面倒でもある。
それに夢もまた現実の延長。夜見る夢の続きとして、明日の現実があるのだ。
それを自分にとって都合の良い物へ書き換えてしまえば現実もまた同時に影響を受ける。
あるがまま。自然の美を愛する風見幽香にとって世界の改竄などに興味はない。そんなものは運命を操る吸血鬼にでも任せておけば良いのだ。
そんな事を考えながらんーっ、とベッドの上で伸びをしていた幽香は、突如として濡れ鼠へと変貌した。
先ほど幽香に問いかけた声の主――十歳程度の外見の少女が、鍋いっぱいに満たした水を幽香に向けて思い切りぶちまけたのだ。
「……喧嘩売ってるのかしら?」
「――ケンカ? ――ワルイ――イッタ」
ああ、と幽香は引きつった表情を無理やり押し込めた。
汗まみれで目を覚ました幽香は通常、そのまま寝汗を流すために浴室に向かう。それを少女は学習して、行程を一つ省略したのだろう。
(つまりは親切心、って訳ね。頭が足りない事この上ないわ……)
改めて咎める様な表情を目の前の少女に向ける。
少女は小首をかしげているが、幽香がその表情を己に向けてくるときは何か間違いを犯した時である、という事は学習済みの様でペコリと頭を下げた。
「とりあえず布団を干しましょうかね。その鍋は置いてきて床を拭きなさい。ついでに釜に火を入れておいて」
水を滴らせながら幽香はベッドから立ち上がる。
そのまま窓へ歩み寄ってカーテンと窓を開けば、指すような太陽の光と夏草の香りがそこから飛び込んでくる。
眩しさに思わず幽香は目を庇って深呼吸をした。
青く透き通り広がる空に、風に揺れる緑の草原。はて入道かと思わんばかりの密度の濃ゆい白綿の雲。
開け放った窓からわずかに入り込んでくる風が、水に濡れた幽香の肌から熱を奪っていってくれるのがとても心地よい。
風見幽香の住居に訪れるは毎年変わる事のない、そろそろ夏も終わりを告げる、幻想郷の初秋の一風景。
唯一去年と異なるのは幽香以外にもう一体、何者かがそこに居るということだ。
薄緑の衣装に身を包む、灰色がかった白い髪の少女は幽香に言われたとおり鍋を片手にキッチンへと消えていく。
幽香はベッドから布団を引っぺがすと、下着にブラウス一枚という艶姿にもかかわらず住居の扉を躊躇なく開け放った。
そしてそのあられのない姿のままサンダルを履き、軒先下の物干し竿に水浸しとなった布団を干すべく平然と屋外に出て行ってしまう。
「ああもう、先に脱いでおけばよかったかしら?」
布団を干しながら、肌に張り付くブラウスの不快感に幽香はため息をついた。
一人だったならば、間違いなくそうしていたであろう。夏場の幽香はそもそもネグリジェを纏うどころか、基本全裸での睡眠である。
ここは150坪程度の半夢幻世界に位置する幽香の一戸建て。
夢幻館とは異なるが幽香が予め許可した者だけしか進入出来ない結界住居。
故に幽香は人目を憚ることなく好きな服装でいられるし、事実昔はそうしていたのだ。
それを止めたのはちょっと前に遊びに来た幽香の数少ない友人、赤いドレスも華やかなメディスン・メランコリーの、
「大妖怪なんだから服くらい着ようよ!!! ほら、威厳とかあるでしょ!? イ・ゲ・ン!! オ・テ・ホ・ン!!!」
という至極当然なツッコミに、成る程情操教育という観点からは好ましくないかと納得したからである。
そうでなければ幽香は全裸だ。隠さねばならない様な貧相な体つきはしていない。
天子や魔理沙といった小童が己の体躯に目をやって軽くため息をつくその表情は、幽香に堪らない恍惚を与えてくれるのだ。
均衡の取れた骨格にうっすらと筋肉と脂肪を重ねて織り成した肢体。長い睫毛と紅玉の瞳に薔薇の唇。花のかんばせ。
見られて当然、視線を集めて当然のフラワーマスターの姿態には一分の隙も存在し得ないのである。
「服なんかに頼っているうちはまだまだ。メディは花として見られる覚悟が足らないのよ」
重々しく呟きながら幽香は住居内へと戻る。中では少女がバケツを傍らに雑巾で水浸しになった床の水分を丹念にふき取っている所だった。
よろしい、と幽香は頷いてバスタオルを手に取ると、簡単に水分を拭って着替えを済ませる。
いつものチェックスカートとブラウス姿へ戻った幽香は簡単に姿見で外見を確認した後、食卓の椅子へと腰を下ろした。
元々物を持たない幽香の現在の住居はワンルーム。キッチン、バストイレ別のログハウスである。
割と広めに作られているからベッド、食卓、暖炉やクローゼットといった必需品が一室にまとめられていてもさほど窮屈さは感じられない。
「一人暮らしならね」
だが、二人暮らしをするとなると若干の窮屈感を覚えなくもないな、と。
そんな事を考えながら幽香はせっせと床を拭いては絞り、拭いては絞りを繰り返す少女をぼんやりと見つめていた。
◆ ◆ ◆
フリーダムビューティー・風見幽香がその少女と同居を始めたのは二ヶ月ほど前のことだった。
長かった梅雨で多少へばっていたのか、動きにあまり普段の切れが見られなかった魔理沙を弾幕ごっこで降し、その恨めしげな目線を思い返してはゾクゾクとした歓喜にうち震えながらの帰り道。
意気揚々と帰宅した幽香を待っていたのは、件の少女を担いだメディスン・メランコリーだった。
聞いたところによるとメディスンはその少女を無縁塚で発見したはいいものの、何をやっても目を覚ます様子がなかったために幽香の所へと連れて来た、という事らしかった。
なぜ八意永琳の所ではなく自分の所に連れてきたのか。そう問おうとして幽香は口にするまでもなくその答えにたどり着いた。
「この子、花の妖怪ね?」
「うん。多分そうだと思ったからこっちにしたんだけど」
その少女が纏う気配、いや妖気は何処となく幽香自身やメディスンに似ている所がある。
だが花妖怪であり毒妖怪であり、しかし人形妖怪でもあるメディスンや、自分でもよく分かっていないけど一人一種族であり、花妖怪でもあるのだろう幽香と異なってこの少女は純粋な花から生まれた妖怪のよう。
そう結論付けた幽香だったが、その一方で少女が何の花から生まれた妖怪であるのかがさっぱり分からなかったのだ。
最初は無縁塚の桜かと思いもしたが、少女の意匠には何処にも紫の桜を指すものが見受けられないからそれは棄却。
見た目は人間で言えば十歳弱。灰色がかった癖のある白いショートボブ。薄緑の単に焦茶の帯といった外見からは、まぁなんとなく外来種でなくて在来種で、白い花なんだろう程度の判断しか出来ない。
「どうしようか。放置する?」
「いえ、私が預かるわ。ちょっと興味も出てきたし」
正直な所、幽香は興味と言うか屈辱を感じていたのである。花の妖怪である、という自分の見立てに間違いは無い。無い筈だ。
では何故フラワーマスターたる己に何の花であるのか区別が出来ないのか。著しく矜持を傷つけられた気分であった。
だからなんとしても彼女の正体を判明させてやる、それが分かるまでは手放さない、と若干意固地になっていたのである。
じゃあよろしく、とメディスンが去ってから約一日後、少女が目を覚ましたのだが……
「名前は?」
「……」
「貴女、何の妖怪?」
「……」
「無縁塚で何をやっていたのか、覚えている?」
「……」
「……」
「……」
喋れないのではないか、と幽香が最初疑う位に少女は寡黙だった。
自分自身が何処で生まれたとか、どんな妖怪であるか等は全く口にしない。
最近は幽香の問いかけに反応するようになったが、それでも自発的に口を開くことはなく、問われなければまず言葉を発さない。
そもそもからして片言しか口にしないし、それも上手く幽香が解釈しなければ言ってる意味が分からない。
多分、生まれてからそう長い年月が経っていない。おそらく10年から20年といった所だろうか。
知能、知識も目に余る。最低限の生活常識がかろうじて見受けられるだけで、先ほど幽香めがけて水をぶっ掛けたような失敗など日常茶飯事。
ただ、草木から妖怪と化したモノは鳥頭なんか目じゃない程に賢くない事を幽香はよく知っていたから、それは一向に構わなかった。
なんだかんだで二ヶ月だ。幽香の表情から幽香が憤っているのかいないか位は理解するようになったし、少しずつ成長してはいるのだ。
「けど、未だに何の妖怪かが分からない」
そう、なんだかんだで二ヶ月も経ったのに、幽香には未だ相手が何の花なのかが見当もつかないのである。
「もうこうなると、何らかの力が働いているとしか思えないわね」
見た目には防御魔術や結界術のようなものは存在しない。
しかし大妖怪、風見幽香をして己の専門分野ですら解析が出来ないとなると、もうその様な物の影響を受けているとしか考えられないのだ。
だが、何故?
そこまで思いをめぐらせた所で、幽香は目の前で少女が立ち尽くしていることに気がついた。
「終わった? じゃあ朝食にしましょうか」
コクリと頷く少女に手を洗って食器の準備をするように指示すると、幽香は一人キッチンに立つ。
魔界製の魔力式冷蔵庫から取り出した二つの卵を、フライパンの上で瞬く間に二つの半熟目玉焼きへと変える。
沸かしておいたお湯でフリーズドライの野菜スープを戻す。
フライパンから目玉焼きを皿に移し、そのままフライパンにはソーセージを投入。軽く炙って皿に盛る。
最後に全自動釜から炊き立ての白米をよそえば、和洋折衷朝ごはんの完成だ。
「いただきます」
「イタダキマス」
二人食卓に向かい合って、朝の活力を胃に流し込む。
意外なことに、少女は食事を取ることに何の抵抗もない様だった。これは植物妖怪にしては珍しい反応である。
通常の植物妖怪だったら、まず人間らしい食事というものを出された時に、困惑するか無視するかのどちらかだ。
植物から変化した彼らには、口から物を取り込むということが理解できないはずなのだ。
で、あるというのに目の前の少女は、幽香が最初の食事として提示したモーニングトーストを黙って平らげたのである……箸で。
「まだ、やっぱりお米のほうがいいのかしら?」
「パン――タベル――ニクイ――――」
そりゃそうだ。パンは箸や匙で食べるものではない。
一つ幽香が知りえた事実として、少女はナイフやフォークによる食事作法を知らないということが挙げられた。
箸や匙は普通に使える――というよりもかなり手馴れているようであったが、フォークとなると握ってザクリ。ナイフに至っては手すら伸ばさないといった有様だ。
基本洋食派だった幽香の食事は、その日から和食へと変化した。平たく言えばパンがお米になっただけではあるのだが……
「何処で箸の使い方を習ったの?」
「――――シッテル――タ――」
そろそろ答えてくれるかもしれない、と思っての問いかけに対する返答はいつもの通り。
少女は箸を操って器用に目玉焼きの黄身を型抜くと、その半熟目玉をご飯の上に乗っけて割り、ソースを垂らす。
幽香が教えたその食べ方を、彼女は今日も黄身をこぼすことなく実践してみせた。実に危なげのない箸捌きである。
知ってた。これは多分嘘だろう、と幽香は思っている。
植物妖怪は動物妖怪――即ち妖獣等と違って、妖怪化する前の事を記憶していることなどまずありえない。記憶を司る機能がその時点では存在しないのだから当然である。
だから妖怪化してから少女は人に関わっていた。それは間違いない。そうでなければ箸の使い方を知っているはずがないのだから。
……いや、この頭の悪い少女がきちんと箸を使える以上、人間と共に暮らしていたに違いない筈。
――いつかこの子を連れて人里に行ってみるのもありかもしれないわね。
「ごちそうさま」
「ゴチソウサマ」
「美味しかった?」
「マズイ――タベモノ――ナイ――」
「いつもそう言うわね。味覚が発達してなくて味の違いが分からないのかしら?にしては美味しそうに食べるし……」
些か腑に落ちない面持ちで幽香は食器を片付けるべく席を立つ……が、ついてくる少女に目をやってかぶりを振った。
多分少女は洗い物をやろうとしているのだろうが……
「いいわ。座って待っていなさい」
「――ヤル――」
「……悲しい話だけどね。貴女の身長だとつま先立ちしないとシンクに手が届かないの。だから待ってなさい」
「――? ――」
「お願いだからもうちょっと頭良くなって。出来ないの。届かないの。分かる?」
「――ヤルナ――ワカル――」
「それは結構。座って待っていなさい」
先程の長年人間と共に暮らしていたに違いない筈、という自分の判断は間違っているのだろうか?
いや、人里にはシンクなんて物がないだけか、と幽香は疲れたように一つため息をついて、スポンジを主兵装に油汚れを掃討するべく状況を開始した。
◆ ◆ ◆
コンコンコン、とノックされた玄関の扉を開けばそこに佇むは当然のようにスイートポイズン、メディスン・メランコリーである。
「久しぶり、幽香……よかった服着てるね、うん。幽香は着飾っているほうが奇麗だと思う」
「ずいぶんな挨拶ねメディ。残念ながら私は着衣でも未着衣でも輝いているわ」
「あーね、あれね。文明人なら服着ようね。お願いだから尊敬できる大妖怪風見幽香のままでいて?」
呆れる様でしかし懇願するようでもあるメディスンの言葉がむなしく空を裂く。
だがメディスン・メランコリーよ、一人暮らしというのはどうしても堕落するのである。それが世界の心理なのだ。
「……いくら私だって寝る時以外は服を着てるわよ。で、どうしたの?」
「んー? いやちょっとその子の様子を見に来たんだけど……どう?」
「ちょっと行き詰ってるわ」
隠しても仕方がないと思ったか、幽香は正直に答えて肩をすくめて見せる。
続いて親指で背後を指した幽香の仕草に従い、メディスンは家の中を覗き込んだ。目に映ったのは何をするでもなく食卓に座したまま、静かに虚空を眺めている少女の姿だ。
「いつもあんな感じなの?」
「ええ、でもおかしいことじゃないわ。純粋な植物妖怪なんて最初はあんなものよ」
「そっか。私もこの人形体抜きでスーさんだけの妖怪だったら、最初はあんな感じだったのかな?」
「多分ね。ま、貴女が周りに喧嘩売って回るのを止めるのに時間がかかったように、ゆっくりやっていくしかないんでしょう」
「そ、そんな過去の話を持ち出さないでよ!!」
生まれてすぐ、右も左も分からず周囲に喧嘩を売っていた頃を引き合いに出されてメディスンは憤慨する。
膨れるメディスンを前にひとしきりにやけ顔を続けていた幽香だったが、ふとひらめいたとばかりにポンと手を打ち鳴らした。
一度室内を振り向いた幽香はしゃがみこんで、メディスンの耳元に口を近づける。
「ねぇメディ。貴女あの子から何か聞き出せないかしら?」
「え、私?」
「そ。誰だって姿形がかけ離れているよりも近いほうが親しみやすいでしょ? 貴女のほうが私よりもあの子に体格が近いし」
「うーん、そうかもしれないけどさ」
「人形解放を諦めた訳じゃないんでしょ? 洗脳の練習にもなるし、味方になってくれたらめっけもんじゃない」
「……せめて洗脳じゃなくて説得って言ってよ。でもうん、分かった。やってみる」
「そう、ありがと。夕飯食べていくでしょ? なにがいい?」
「……ハンバーグ」
そう呟いたメディスンは幽香邸に踏み込んでいくと、ボーっと食卓に腰掛けたまま動かない少女に声をかける。
「こんにちは。ねぇ、こんな所でボーっと座っていてもつまらないでしょ? 外で弾幕ごっこやらない?」
「――ダンマク? ――」
「そ、弾幕ごっこ。一度ルールを覚えればこれを利用して喧嘩したり交渉したり異変起こしたりトラブル解決したりなんでも御座れ!」
「――ケットウ? ――」
「うん、まぁそんなもんだよ。殺し合いをしない安全な決闘。ほら、ちょっとやってみようよ!」
メディスンは少女の手をとると、そのまま幽香邸を後にすべく扉へと歩みを進める。
メディスンに手を取られた少女もまた、特に嫌そうな顔もせずに誘われるがままにメディスンの後をついていった。
「えーっとねぇ。まずはルールだけど……」
屋外に出たメディスンは身振り手振りを交えて少女に弾幕ごっこのルール説明を始める。
家の扉を閉め、敷地を覆う柵に腰掛けた幽香はホッとため息をついた。どうやらこの調子ならばメディスンに任せてしまって大丈夫なようだ。
この間に一つ検討でも進めるとしようか、と二人を視界の端に捕らえながら幽香は思考の海に埋没していく。
少女を迎え入れてから、よく見るようになった夢。
人間と対峙し、そして斬られた時点で目が覚める。
「果たしてこれはあの子の夢なのか、それとも私の夢なのか……」
大妖怪、風見幽香は最初から強靭な妖怪だったわけではない。だからこれまでの幽香の人生で夢のような危機など、実の所何度も体験してきているのである。
だけど幽香自身は戦った相手の顔を一人一人思い出せるわけでもないから、正直な所よく分からないというのが現状だ。
ただ幽香が昔の夢を見せられているにせよ、あの少女の夢を盗み見ているにせよ、幽香があの少女を迎え入れてから見るようになったということは間違いない。
「順当に考えれば、あの子は人間と対立して敗北。何らかの封じを施されて無縁塚に捨てられたというのが現状一番矛盾がないか」
であるならば少女を連れていきなり人里を来訪するのはまずい。いずれにせよ人里に連れて行く前に一回探りを入れておいたほうが良いだろう。
幽香はそう結論付けると、少女にお姉さんぶって弾幕ごっこの説明をしているメディスンを一回見やってクスリと笑う。
どうやらメディスンは自分より幼い植物妖怪を目の当たりにして擬似成長を味わっているようであった。
初めて自分より下の者が出来たことで自分が成長したかのように捉えてしまう錯覚。
これが下の者に尊敬されようと更なる自身の成長を促すか、それとも下の者に抜かれまいと他者の足を引っ張る方向に働くか。それは当人の性格次第だ。
「悪いほうに転ぶんじゃないわよ?」
圧倒的な力量差でねじ伏せて相手の顔を屈辱で歪める事が目的とはいえ、常に前進を選択してきた幽香は若干の憂慮を込めた苦笑を向けた後、邸内へと戻る。
二人分の昼食としてサンドイッチ――パンを選んだのはメディスンへのささやかな挑戦だ――を用意して食卓に置き、布巾を被せると今度は己の外出の準備だ。
スカートと揃いのベストを羽織ってブラウスの首元をリボンで括る。
髪を梳き日傘を手にとって姿見の前でくるりと一回転してみた後に、再び扉を開いて外に出た。
「メディ、ちょっと外出してくるから留守番をお願い。昼食は準備しておいたから二人で食べなさい」
「ん、分かった。喧嘩売らない様に気をつけてね」
「――ソウケン――」
「ちょっとした別れの時には使わないわよ、それ」
笑いながら幽香は結界空間の外へと足を踏み出す。踏み出した先は幻想郷の奥地、太陽の畑に設置されている郵便ポストのすぐ隣だ。
「魔理沙かブン屋か。先に捕まるのはどちらかしらね?」
晴れやかな笑顔を浮かべながら、幽香はふわりと空に舞い上がる。
「さあ、幾らで情報を買いつけようかしら」
相手に支払うのは当然金ではなくて、弾幕だ。
◆ ◆ ◆
幽香が操る鳳仙花の弾幕に周囲を完全に取り囲まれて、幻想郷のトリックスター、黒衣の魔女は両手を上げて降参の意を示す。
「と、投了、投了だ。もう勘弁!」
「ちょっと、敗北を認めるのが早すぎやしないかしら? 貴女最近しょぼくない? もうちょっと頑張りなさいな」
「無茶言うなよ! こっちは徹夜で業務に取り組んでたんだぞ!? リポDと気力だけでなんとか頑張ってたってのに……いだっ! 種痛っ!!」
「あら御免なさい。一応花は枯らせたのよ? だからそれは私の意ではないの」
敗北を認めたというのに、幽香が展開した鳳仙花の弾幕は果実から種を飛ばして容赦なく霧雨魔理沙を打擲していく。
てめー絶対わざとだろう! と憤慨するも、それを口にしたら難癖をつけたとか言って再び開戦になるのは間違いないため、魔理沙は口を噤むしかない。
「ああもう! それでこの善良な魔法使いを強襲して一体何の用だよ!?」
「ああ、ちょっと聞きたいことがあるのだけど、最近――ここ半年位でいいわ。人里で妖怪と人間のいざこざがあったとか、そういう話を知らないかしら?」
「え? ……いや、そういった話はなかったと思うが……確かちょっとした小競り合いが師走頃にあった様な気がしたが、それくらいだ」
「本当? 魔法の研究で篭りっきりで情報が古いって事はありえないの?」
「んー? その可能性はゼロじゃないがよ、少なくとも半年前から一週間前までの間ではそんな話は聞いちゃいないぜ?」
一週間前か……メディスンがあの子を連れてきたのが二ヶ月前、文月の頭だから、ならば情報が古いということはありえないだろう。
「なんだ? やばそうなことか? だったら稗田のあっちゃんにでも聞いてみるが……どうする?」
御阿礼の子。魔理沙が一度見聞きしたものは決して忘れない求聞持の能力を持つ少女の名を挙げるが、幽香は首を横に振る。
「違うわ。あったのか、それだけを聞きたかっただけだから。つまりは過去の話よ」
「ふぅん、まあそれならそれでいいが」
「ああ、後一つ。今も人里以外にも人は住んでいたりするのよね?」
「まぁな。何時の時代だって変わり者は存在する。私が知っているので全てなら100人は超えないとは思ったがな、人里以外に住まう人間だってそりゃいるさ」
「流石、変わり者筆頭。ま、これで調査は終わりね。ああ、魔理沙。貴女胞子臭いわよ? 一応女なら少しは気を使いなさいな」
言葉と共に空を飛び、放物線を画いて魔理沙の手にストンと落ちてきたのはLinden Blossomと印された香水瓶だ。お礼、という事なのだろう。
そのまま幽香は魔理沙を一顧だにすることなくふらりと風の向くままに飛び去っていく。
「やれやれ。おい幽香! 代金を貰った以上は仕事だから簡単に調べといてやる! あとで郵便ポストを確認しとけ!」
去ってゆく幽香の背中に大声で呼びかけると。
南中高度を過ぎて既に西に傾きつつある太陽の方角――すなわち人里の方角――へ、魔理沙もまた軽快な箒捌きで飛び去っていった。
「仕事、となるとあの子も以外に真面目なのね」
念のため適当に捕まえた鴉天狗からも同様の情報を入手し、魔理沙の言と食い違いがないことを確認した後。
幽香が太陽の畑に舞い戻った時にはもう郵便ポストに魔理沙の調査結果が投函されていた。
「ただいまメディ、お留守番ありがとう。弾幕ごっこのほうはどうかしら?」
「お帰り幽香。うん、全然駄目。だってこの子避けないんだもん」
「ま、そうでしょうね」
「――オカエリ――ナサイ――」
郵便ポストの傍にある、存在が秘匿されている半夢幻空間への入り口から帰宅した幽香はげんなりとした表情のメディスンに上品な面差しを向けてクスリと笑う。
それはそうだろう。そもそも移動するという概念がない植物妖怪だ。飛んでくる弾幕を回避するなんてとてもじゃないが出来るわけがない。
最初からあまり動かず、圧倒的な火力で葬り去る戦術、即ち幽香の基本スタイルこそが植物妖怪が行き着く一つの到達点なのである。
「でも何事も鍛錬、少しずつ進めていきなさいな。あとメディ、初心、忘れるべからずよ?」
「あっ、そうだった。うん、忘れてないよ、これからやる」
「――? ――」
やはり、と幽香はため息をついた。メディスンはどうやら弾幕ごっこに気をとられて情報を聞き出す、という当初の目的を忘れていたようだった。
含むような幽香の言に対してメディスンの回答は直接的過ぎたが、あの少女は頭が悪いから大丈夫だろう。
「じゃ、夕飯の用意をしましょうか。ハンバーグっと。たまには人肉ハンバーグが食べたいわねぇ」
狩りにでも行こうかしら? なんて物騒な思考を思い浮かべながら幽香は自宅の扉を開ける。
日傘を傘立てに突っ込んでベストを脱ぎ捨て、白いエプロンを纏う姿は台所に咲く若奥様のそれであろう。
「んー、おろし大根?イタリアン?悩ましいわね」
ブラウスの袖をまくって手を洗った幽香は、鼻歌を歌いながら魔力式冷蔵庫から魔界産牛100%の轢肉を取り出して、楽しそうにそれを捏ねくり回し始めた。
「それで、どうだった?」
「あ、ハンバーグ? 美味しかったよ。って幽香、なんであの子何もかも箸で食べるんだろうね? お昼のサンドイッチも箸で食べていたし」
「メディがそれを矯正してくれることを期待していたんだけど。そうじゃなくって情報収集の件よ」
三人で夕食を平らげ、ポーカーに興じ、一人眠気を覚えた少女を寝かしつけてから。
バーボンのグラスを片手に、残る二人は今日の件について話の花を咲かせていた。
「……幽香のほうはどうだったの? と言うか何しに行ったの?」
「人里の様子を拝聴しにね。でも何もなかったみたい」
箸使いの件から少女が人間と暮らしていたであろう事、人と対立している可能性があることを続けてメディスンに説明する。
「何もなかったの?」
「少なくとも人里、ないしは人里と関わりのある人間についてはね。で、メディ。貴女のほうはどうだったの?」
「あの子は人間嫌いだよ、間違いなく」
「何故?」
「避けるのは止めて撃つほうを練習したんだけど、あ、弾幕ごっこの話ね? あの子、弾の威力を絶対一定以下に下げないんだよ」
捌くのが凄い大変だった、とメディスンは疲弊したように紫色の吐息を吐いてハイボールのグラスを傾ける。
「そんなんじゃ人間と弾幕ごっこ出来ないよ? って言ったんだけどね。むしろ反発された」
「へぇ」
見所があるじゃない、と火照った様な表情を浮かべてバーボンのロックを呷る幽香を見つめ、メディスンは呆れたように頭を振った。
「あの子はね、昔の私なんか比較にならないほどの毒を心の中に持っているの。だから断言できる。もしあの子が人に会ったら、あの子は間違いなく人を殺すよ」
「ああ、じゃあ人の中で生活していたであろうあの子は既に人を殺しているわね」
「……」
にべも無くそう口にした幽香に、メディスンは沈黙を以って答えた。
そのメディスンに、幽香は帰宅した時には既に投函されていた便箋を読み上げる。
「魔理沙の調査結果。人間と妖怪とのここ一年の諍いについて(死傷者あり)
・昨年 霜月(11月) 男性一名が里外で縊死。自殺要素なし。犯人は首吊り狸と思われる。
・昨年 師走(12月) 山に薪をとりに行った男集数名が妖獣の群れと遭遇、痛み分け。負傷者多数、死者なし。
・今年 如月(2月) 同じく山に薪をとりに行ったと思われる夫婦が死亡。犯人不明。
・今年 弥生(3月) 流し雛を流すために川を訪れた親子が妖怪に襲われる。鍵山雛が犯人の鎌鼬を迎撃、母親が重傷を負うものの生存、回復。
・今年 文月(7月) 人里近くで農作業をしていた男集数名が軽傷。犯人不明。
・今年 葉月(8月) 肝試しに参加したカップル一組が行方不明。未だ発見に至らず。犯人不明。
で、今は長月(9月)ね」
「……あれ? なんかおかしくない?」
首を傾げるメディスンに幽香はええ、と頷いてグラス内のロックアイスを爪で転がした。
「さて、疑問が残ったわね。最後の妖怪による殺人があったのは如月で、あの子を発見したのが文月だから五ヶ月。その間に殺人が起きた事は周囲に認知されていない」
「……だけどあの子は自分から移動しようとしない。あの子が居た無縁塚には死体がなかった」
「まとめると可能性があるのはこんな所かしら。
1.二ヶ月前、何処かで殺人が起きて、その痕跡が隠された上であの子は無縁塚に運ばれた。
2.二ヶ月前、無縁塚で諍いが起きて、最後にあの子だけが残った。死体は妖怪が平らげたのか、誰かが埋葬した。
3.半年以上前に無縁塚以外で殺人が起きて、彼女は二ヶ月前に無縁塚へやってきた」
4.半年以上前にどこかで殺人が起きて、彼女はそれからずっと、無縁塚に佇んでいた」
「4はないよ。私は水無月にも無縁塚に行ったけど、その時には居なかったもん」
「じゃ、1~3ね。魔理沙の調査が正しいというならば3しか残らないわけだけど。……ああ、状況によっては1もあるか。全く、ちょっとあの子が何の妖怪かを確かめるだけだったのに、面倒なことになってるわね」
口調とは裏腹に幽香は獰猛な笑みを浮かべている。顔が紅潮しているのは酒のせいではあるまい。
それを憂い顔で見つめるメディスンだったが、内心ではその実安堵してもいた。
幽香のこれまでの興味はあくまであの少女が何の花かを知る、それだけであった。だから何時幽香が興味を失って彼女を放り出してもおかしくはなかったのだ。
それが責任感か保護欲かは知らないが、メディスンは彼女を中途半端に見捨てたくはなかったのである。
「タイミングで言うと、文月の男集数名が軽傷。犯人不明、ってのが気になるけど……」
幽香はそう言うと先に読み上げた概要が記された一枚目、続いて詳細が記された二枚目と便箋を捲って三枚目で手を止めた。
「男達の怪我は打撲傷、おそらく素手での殴りあい。妖怪の仕業ではなくて当人同士の喧嘩なんじゃないか、か……生存で犯人不明っておかしいわね」
「うーん、確かにあの子の心の毒からして殴るじゃすまないと思う。って言うか殴ってる所が想像出来ない」
違いないわね、と幽香は頷いて二枚目の便箋に戻る。
「じゃあシチュエーションで怪しい方。如月の夫婦が死亡。犯人不明は匂うけど……生前は里内に在住、か」
「妖怪と一緒に生活していたら多少は目を引くよね? あ、でもあの子ほとんど移動しないし、隠れて同居できなくもないのか」
「でも空白期間が説明できないわ。空白期間中ずっと人里にいたなら、その間に一人や二人死んでてもおかしくないでしょ?」
むむむ、とメディスンが首をひねる。
「ま、現時点で結論を急ぐことはないわ。ただ人里に連れて行くのは止した方がよさそうね」
「そう思う。幽香が邪魔に思わないならゆっくり確認していけばいいんじゃないかな」
ほっと胸をなでおろしたメディスンに幽香が嗜虐的な目線を投げる。
「あら、妹分が出来てうれしくなっちゃった?」
「ち、違うわよ! ただ……」
「ただ?」
「昔の私に似てるから、ちょっと放っておけないな、って」
第120期に来るもの全てに毒を撒き散らしたメディスン・メランコリーはもういない。
此処にいるのは人形を慈しみ、人形を作成する人間にちょっとだけ敬意を払い、人形を大切にしない人間を人形に変えるメディスン・メランコリーだ。
「そ……泊まってく?」
「流石にあのベッドに三人は無理でしょ?」
今既に少女が眠っている幽香のシングルベッドを一瞥して、メディスンは肩をすくめる。
「残念ね。久しぶりにメディを抱きたかったのだけど」
「そういう危ない表現は止めようね」
それが色々と危ない発言だとメディスンが知ったのは第125期頃だっただろうか。
……実際は抱き枕をこよなく愛する幽香が誰かを抱き枕の代わりにするだけなのだが。
そろそろお暇するね、と椅子から立ちあがって扉をくぐり、幽香邸を後にしたメディスンの背中から便箋に視線を移した後、幽香はグラスの中身を一気に煽る。
「ふむ、どう転ぶのかしら。にしても無縁塚にひっそりと現れるなんて、まるで幽霊……!?」
自分の呟いた言葉に引っ掛かりを覚えた幽香はベッドを横目でちらりと見やり、小さく息を吐いた。
「そう、そういうこと。思い込みって怖いわね……でも、何故?」
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姉様は美しかった。
わたしはまだ幼い妖怪だから、姉様と違って一年の内ほんのすこししか花を咲かせることができなかったけれど。
姉様はいつだって美しかった。
わたしが花を開くと、姉様はわたしに儚げな微笑を向けてくれた。
わたしたちは二人でこうやって生きていくのだと、ずっとそう思っていたのに。
わたしたちはいつの間にか二人ではなくなっていた。
気付いたら姉様の傍には人間の男がいた。
姉様がその男に向ける笑顔は、わたしに向ける笑顔よりも僅かに華やいでいるように見えた。
姉様をそんな男に取られるのは悔しかったけど、でも、姉様が幸せそうだったから、わたしはそれを受け入れようと思った。
それに、その男は案外悪い奴じゃなかった。
自慢じゃないけどわたしの花は美しい。でも、まっとうな人間達はわたしに少なからず嫌悪を抱いているようだった。
だからわたしは人間が嫌いだし、人間が近づいてきたら攻撃する。
そんな、まだ人の姿を取れない異様な妖怪であるわたしのおいたを平然と受け流して、その男は「見事なものだ」と。
そう言ってわたしの花を見て感心したように笑っていたから。ちゃんと、わたしの美しさを理解してくれたから。
まぁ、そういう悪い奴ではなかったから。
その男は人間だったけど、こいつにならば姉様を任せてもいいかもしれない。そう思っていた。
◆ ◆ ◆
「夢が、変わったわね」
まだ霞が晴れない頭でそう呟いた後、幽香はけだるげな表情でベッドから身を起こした。
「――ユメ? ――」
幽香にそう問いかける声は平坦で抑揚が無く、棒読みとは違った無機質さがある。
「ええ、そう。夢よ。ちょっと続きが気になるわね。ま、ろくな結果にならないでしょうけど」
言いながら幽香は眼にかかる髪をかきあげる。
やはりこれは少女の夢であったようだ。幽香にはこのような記憶などないし、何より姉妹などいない一人一種族だ。
にしても、人と妖の恋とはね、と幽香は少女に聞こえない程度の声で呟いた。
――そんなものが上手くいく筈ないわね。
そんな事を考えながらんーっ、とベッドの上で伸びをしていた幽香は、突如として頭蓋へと迫ってきた椅子を反射的に妖弾で粉砕した。
少女が幽香に向けて食卓の椅子を一つ、全力で投げつけてきたのだ。
「……真相に近づきつつある私を殺す気?」
「――シンソウ? ――キニナル――イッタ」
ああ、と幽香は引きつった表情を無理やり押し込めた。
先ほど幽香が夢の続きが気になると言ったために、少女は再び幽香を眠らせようとしたのだろう。
(つまりは親切心、って訳ね。更に馬鹿になっていってないかしら……)
咎める様な表情を目の前の少女に向ける。
少女は小首をかしげているが、幽香がその表情を己に向けてくるときは何か間違いを犯した時である、という事は学習済みなのでペコリと頭を下げる。
「とりあえず椅子の残骸を片付けましょうか。バケツを持ってきて頂戴。ついで釜に火を入れておいて」
頭を押さえながら幽香はベッドから立ち上がる。
そのまま窓へ歩み寄ってカーテンと窓を開けば、心地よい太陽の光と干し草のような匂いに混じる金木犀の香り。
まどろみから覚めた幽香は大きく深呼吸をした。
青く澄み渡り広がる空に、風に揺れる黄金の草原。うっすらと空に漂ううろこ雲。
開け放った窓からわずかに入り込んでくる風はそろそろ心地よさよりも寒さを強く感じさせる。
風見幽香の住居に訪れるは毎年変わる事の無い、そろそろ秋も終わりを告げる、幻想郷の晩秋の一風景。
下着にブラウス一枚という姿のままで幽香は少女と一緒に粉砕された椅子の破片を拾ってはバケツの中に放り込んでいく。
大きな破片は更に粉砕して細かく、小さすぎる破片は後で魔力式掃除機で吸い取ればいい。
食卓の椅子が四つから三つになってしまったが、今のところは問題ないだろう。
あらかた片付け終わった所で全自動釜がアルティメットトゥルースを奏ではじめた。
炊き上がった米が胃袋へ吸い込まれる、究極たる真実の時間だ。幽々子ならそうする、幽香だってそうする。
少女に食器の準備をするように指示すると、幽香は一人キッチンに立つ。
魔界製の魔力式冷蔵庫から取り出して割った二つの卵にバターを落としてよく混ぜ、フライパンの上に移してスクランブルエッグへと変える。
沸かしておいたお湯でフリーズドライのめかぶスープを戻す。
スクランブルエッグを皿に移し、そのままフライパンにはベーコンを投入。軽く炙って皿に盛る。
最後に全自動釜から炊き立ての白米をよそえば、和洋折衷朝ごはんの完成だ。
「いただきます」
「イタダキマス」
二人食卓に向かい合って、朝の活力を胃に流し込む。
「ごちそうさま」
「ゴチソウサマ」
「美味しかった?」
「マズイ――タベモノ――ナイ――」
「たまには違うものを食べさせなきゃかしらね……」
踏み台にのって洗い物をする少女の後姿を見つめながら。
帰りにお土産でも買ってきましょうかね、と幽香は今日の予定に些か甘い思考を追加することにした。
◆ ◆ ◆
「風見、幽香さんですね?」
「いいえ、人違いです。八雲紫・十七歳ですわ。風見幽香なんぞと間違えるなんて失礼ではありませんこと? 阿礼乙女」
此処は人里のメインストリート。似たり寄ったりの切妻造の商店が立ち並ぶ一角に存在する大福と団子が評判の甘味処「白玉茶房」。
そこで買い物をしていた大妖怪、風見幽香の後姿に声をかけて。
そ知らぬ顔で出鱈目を返された稗田の子、阿礼乙女は軽い頭痛を感じて顔をしかめた。
今日も懇切丁寧に少女に弾幕ごっこを仕込むメディスンに後を任せた幽香は一人、人里を訪れていた。
念のために今年の如月に死去した夫婦とやらの屋敷を確認する、というのが来里の目的だ。
それが何処にあるのかなんて幽香は知りもしないが、そんなものはそこら辺にいる帯刀を許された男達、すなわち警邏隊の者を適当に捕まえればいくらでも聞きだすことが出来る。
美貌の大妖怪、風見幽香に腕を組まれ密着されてしまえば、二重の意味で抵抗できる男など幻想郷にはいないのである。
確保した警邏の男が「自分が同行するならば」という条件を出した為、男を伴って訪れた亡き夫婦の住居は今は空き家。
生活跡も、ましてや妖気も感じさせないそこから幽香が得られるものは人亡き家の寂寥のみ。
男に尋ねても人の出入りはないとの事であり、確かにうっすら積もった埃がそれを裏付けている。
(はずれ、ね。まあ当然か……)
空き家を後にし、意外にも(下心もあったのだろうが)協力的、かつ弁舌巧みに話術を弄し幽香を飽きさせなかった男に礼代わりに茶を奢らせて、しばしの時間をくれてやった後。
男と別れ、二人に土産をと足を向けた和菓子屋にて投げかけられた探るような声に、幽香は仮面の笑顔を貼り付けて振り返ったのだ。
「ええと、とりあえず貴女が里に来た目的を聞かせていただきたいのですが」
「勿論、永遠の十七歳として女を磨くために決まっていますわ」
最初の質問に僅かな猜疑心が含まれてしまった事を乙女は後悔した。
幽香は隠し事が暴かれる事より、こそこそ嗅ぎ回られる事のほうに怒りを感じるような性格である。
だから幽香はもはや絶対に彼女に意味のある返答をしないだろうし、その理由が本当に幽香が知っていて隠しているのか、それとも嗅ぎ回っている事に腹を立てたからまともに答えていないのかの区別ができない。
初手から完全に躓いてしまった阿礼乙女は作戦を変えた。
即ち相手への質問を止めて犯人と仮定し、言いたい事を言うだけ言ってしまう事にしたのである。
「人殺しに一切抵抗がない、されど理性はある妖怪が野放しになっている、という話をある筋から私は入手しまして」
「あら、それが私の事だとおっしゃって?」
「まさか。ただ、それはどうにも植物の妖怪らしいのですよ。なので幽香さんが何かご存じないかなぁ、と思いまして声をかけさせていただいたのですが」
「そうなの? でもゆかりってば隙間の妖怪だからわかんない」
「……そうですか。あ、ちなみにその妖怪ですが、この里中を探しても何の痕跡も出てきませんよ?」
「あらまあ、心配してくれてありがとう! ゆかりん嬉しい!」
「…………では、私はこれで」
引きつった笑顔でペコリ、と頭を下げると阿礼乙女は豆大福を購入して踵を返し、そして後ろ髪を惹かれるような表情で振り返った。
「一つだけお願いが。……貴女は部外者です。出来れば当事者達の間だけで決着が付けられるように配慮してあげてください。それでは」
最後に一つ、咎める様な表情で深々と頭を下げると、彼女はそれっきり幽香に振り向くことなく和菓子屋を後にした。
そんな棘のある物言いと態度にも幽香は淑女的に対処した。即ち憤怒の表現を日傘の手元を握り潰すのみに留めたのである。
「部外者? そんなものはこの世の何処にもいないわよ」
幽香にとって世界とは己がいる此処であり、現場とは己が行く全ての場所である。
咲き誇る花、風見幽香が行く場所に部外となる場所など何処にもないのだ。
「で、別嬪さん、何をお買い上げだい?」
事件を予感し、しかし自分には火の粉が降りかからないであろう事も同時に予感した和菓子職人の声は穏やかなものだ。
「苺大福、6つ頂戴」
ここで幽香が何を幾つ買ったか。それは稗田の耳にも届くだろう。
一度見聞きしたことを忘れない彼女ならこれまで幽香が何を幾つこの店で購入したのか、なんてつまらない事も決して忘れる事がない。だからそれと照らし合わせれば購入数が多いことに疑念を覚えるに違いないだろう。
だが、それがどうした?
「こちらもそろそろ片を付けたいしね」
「ん? 何か言ったかい?」
「いいえ? はい十銭。お釣りはいらないわ」
「十二銭なんだがね……まぁいいや、次回は色つけてくれよ? 毎度あり!」
◆ ◆ ◆
「それで、どうだった?」
「あの子は人里を訪れたことはないみたいよ。確かな筋からの情報。ま、ブラフの可能性もあるけど一応信じてみてもいいでしょう」
「確かな筋から、って……ちょっと、幽香!」
思わず椅子を蹴って立ち上がったメディスンに、幽香はつまらなそうな瞳を向けてモルトのロックを呷る。
「騒がないの。鋭くなったわねメディ、そう、あの子は現在指名手配中って訳。明日にでも刺客がやってくるかもね」
「明日? いくらなんでも早すぎない?」
「挑発しておいたもの……メディ、落ち着いて椅子に座って、グラスを乾かしなさい。何か言いたいのならそれからよ」
冷笑を浮かべる幽香に憎々しげな目線を注ぎながらも、メディスンは腰を下ろして再び己のグラスに手を伸ばした。
激発に身を任せるのは愚か者のやること。冷静である事の価値を閻魔に教えこまれたメディスンはグラスの中の甘いハイボールを苦々しげに空にする。
「そう、それでいい。来るとしたら明日の昼でしょうね。妖怪相手にわざわざ夜を選ぶ愚か者はいないでしょうから」
「……で? 何で挑発なんてしたわけ?」
「結末が同じなら、さっさと済ませてしまえばいいでしょうに。先延ばしにする意味なんてないわ」
「そりゃ幽香はそうかも知れないけど、私は色々と準備があるのよ。幽香みたいに力押し一辺倒で勝てるほど強くないんだから……」
羨望の中に若干の嫉妬と自信を交えた瞳でメディスンは幽香を見上げる。
「あら、貴女は迎撃するの?」
「勿論よ! ここまで来て放っておけないじゃない! って、幽香は何もしないの?」
「うーん、ちょっと乗り気じゃないわ」
「どうしてよ!?」
「だってあの子、多分もう死んでるわ」
幽香の言葉にメディスンの身体は凍りついた。
「ちょっと目に力を込めて幻視してみなさいな。透けて見えるから」
言われたとおり、目に妖気を込めてベッドを眺めやったメディスンは再び硬直する。
果たして幽香の言うとおりベッドに横たわる少女の身体は半透明で、メディスンには少女の体越しに奥の壁が透けて見えたのだ。
「私に何の花妖怪か区別がつかない。昨今を調べても人と関わった痕跡が無く、突如無縁塚に現れた」
さらに幽香は人間に斬られるという、あの酸鼻な内容の夢をメディスンに語り聞かせる。
それら驚愕の内容を一度に提示されたメディスンはそれらを吟味し、咀嚼して飲み込むのに苦労しているようだったが、やがて一言だけ喘ぐ様な声で、
「化けて出た、ってこと?」
「それはなんとも言えないわね。だってあの子幽霊みたいだし」
「嘘だ! だって、触れるんだから亡霊なんじゃないの?」
「分からないわ。妖怪の亡霊って聞いた事ないもの。それに触れられる幽霊だって身近にいるじゃない……まぁあれは半霊とか騒霊だけど。それに触っても熱くないから怨霊じゃない」
妖怪の怨霊っていうのも聞いたことがないわね、と幽香はカランとグラスの中の氷を指で突付く。
ますます混乱だけが助長され、メディスンは一杯だけ酒に逃避した。
モルトのハイボールをグラスの中で回しながら、冷静であれと己に言い聞かせ、思考を整理していく。
一つずつ、理解しえない問題を片付けることが先決だ。
「……幽香は、あの子が植物妖怪じゃないから興味がなくなったの?」
「花の命は枯れたら終わりよ。枯れた花が何時までもそこに居ては次の花が咲けないじゃない」
風見幽香にとっての生とは、あくまで生きている間だけの事である。
今現在、幽霊だったり亡霊だったりする連中を白い目で見るつもりも否定するつもりも無い。
だが少なくとも幽香にとっては、花の生とはそういうものであるのだ。
「恨みを晴らさなきゃ消えられない、っていうんなら協力してもいいんだけど、なんか違うみたいだし」
「何で怨霊じゃないんだろう……ねえ幽香、一つ目の夢と二つ目の夢の男は同一人物なんでしょ?」
「多分同一人物よ。もっともあの子の視点だとあまり上手く人間が見分けられないんだけど、多分ね」
「だったら! その男って酷いじゃないの! どんな理由があって、そいつはあの子を斬ったのよ!? 義理の妹なんでしょう?」
「でもあの子は妖怪で、男は人間だった」
突き放すように幽香は答える。
この幻想郷において、人と妖怪は根底で対立しなければならないことを知っているが故に。
種族を違えて愛し合った二人も、それを許容した少女も、幽香からすれば自らリスクを背負い、それに潰されたに過ぎない。
一方、メディスンは答えなかった。
それが、そんなものが理由になる筈がない。少女は捨てられた、見限られた。
そう思うと肺腑の奥からメディスン・メランコリーの核たる毒が鎌首をもたげてくるのだ。
「殺るのね、メディ」
「もし、明日来るのがその男ならね。その男は死ぬべきだ。必ず殺るわ」
メディスンは花妖怪であり、毒妖怪であり、そして捨てられた人形妖怪である。
自分の都合で愛しておきながら、冷徹に切り捨てるその厚顔無恥さ。それは決して許容しきれるものではない。
少女が死んだというならば、男もまた死んで然るべきだ。
「そ、まぁいいわ。なら自分の身は自分で守りなさいな?」
「私だってもうある程度は、えーと、ひがの戦力差、だっけ? 位判るわよ! 全く、いつも子供扱いするんだから」
「仕方ないでしょ。私が貴女より早く生まれたという事実は変わらないもの。そして、私のほうが貴女より早く没するという結末もね」
「……」
メディスンは言葉を失い、沈黙した。
そう、風見幽香は間違いなく、メディスン・メランコリーよりも早く死ぬ。メディスンが不慮の事故で死亡したりしない限りは。
「ねぇ、幽香」
「なに?」
「その道を選んだことに、後悔はないの?」
「ないわ」
一瞬の遅滞もなく、幽香はメディスンの疑問を斬って棄てた。
幽香にはメディスンが何故それを疑問に思うのかが理解できなかった。だから自然と酔いに任せて言葉を紡ぐ。
「メディは私の生き方がおかしいと思うの?」
「分からない。でも幽香の生き方は、まるで人間みたいだよ。大妖怪とはとても思えない」
「ふん」
「な、何? 私悪い事言った?」
「その物言い。八雲紫ね?」
「……うん」
「あの泥棒猫。ついに私のメディにまで手を出し始めたのね? ぶっ潰す」
「色々と危ない発言は控えようね、幽香」
「幻想郷は全てを受け入れるのよメディ。あの女の言う事が真実ならばね」
猛禽の表情で、いや詭弁を嘲笑する皮肉屋の表情で幽香は語る。
「どうせあらゆる存在は人か、妖かに二分されるとでも言われたのでしょう? 妖怪は妖怪らしく生きるべきだと。でもよく考えなさいな。全てを受け入れるのであれば人とも妖ともつかぬ存在だって受け入れられてもいい筈よ? なのに何故八雲紫はその様な事を言うのかしら?」
「え、ええと……人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を襲わなきゃいけないからだよね? その理論で行くと曖昧な種族は何もしなくていいからずるいって事? かな?」
「残念ながらはずれね。つまるところ、八雲紫が展開する結界には境界が必要なの。あの年増が曖昧なものを愛するのはね、それが自分の手に届かないものだからよ」
「ごめん幽香。ちょっと分からなくなってきた」
メディスンが軸のぶれ始めた話題を修正しようと待ったをかけるが、アルコールの回った幽香は止まらない。
……いやむしろ、いい機会だと思ったのかもしれない。グラスの中のモルトをがぶりとやって、次を注ぐ。
「あの女はね、人間と妖怪が対立した状態の幻想郷しか維持できないのよ。あいつはあくまで境界の支配者、境界をあっちこっち移動させることは出来ても境界のないものは制御できないの」
「ちょ、ちょっと幽香?」
「だから私はあの女の一番の協力者ね。あちこち喧嘩を売って喧騒の火種をばら撒く。対立でしか世界を維持できない旧時代の存在が私達よ」
「……」
「だからあいつは対立しない存在を許さない。本当は混沌を望みながら、しかし境界を維持するために人妖を対立させる。妖怪に人間を襲えと、人間に妖怪を退治しろと囁く。それがあの女の限界」
そう語る幽香の声は僅かに憐憫を帯びていたため、メディスンははっとして幽香の顔を覗き込む。
だが幽香の表情は語る内容と同じく、変わらない冷笑に固定されていた。
「でもね。対立したいなんて、この世に生きる誰もが思っちゃいないのよ。虚栄心を満たすために相手を見下す事はある。でもそれは対立じゃなくて競争なの。それを敵対に誘導する思考は異質である。分かるかしら?」
「分からないよ、幽香が何を言いたいのか分からない」
「自然界に存在する争いの全ては競争である。対立とは社会的、人間的なもの。人間的なものとは則ち恣意的なもの、然るに幻想郷のルールとはその実、管理者の為のルール。大妖怪というのはね、それを受け入れた者達。則ちその全てが人間的で、自然じゃないのよ。だから私はルールを押し付けてくるあの女が嫌い。閻魔も嫌い。裁き?そんなのは人間が用意した後付の概念よ」
「……幽香は、それを壊したいの?」
「違うわ。私は周りがどうであろうと、あるがままに生きたいの。あるがままに私の内にある花を咲かせるのよ。好むものを愛し、嫌うものを殴る。自分が何処まで伸びるのか、それを見てみたい。分かる? メディ。私こそがもっとも『妖怪的』なの」
もっとも、その私も八雲紫のルールに組み込まれてしまっているけどね、と幽香は口惜しげな口調なれど若干賞賛するような表情でグラスを傾ける。
「それでも私は私のままよ。逆に言えば手加減している訳でもないのに未だ八雲紫のルールを飛び越えないというのは悔しくもある。……私達愚か者を肥やしに、あるがままに花を咲かせなさい、メディスン・メランコリー。それが無理なら、次に繋がる種子をつけなさい」
「……」
「しゃべりすぎて疲れた。このまま寝るわ。メディ、私は私の為にしか生きられない。悪いけどこの件は降りるわね」
そう言い放つと、幽香は己の両手を枕に食卓に突っ伏して寝息を立て始めた。
沈黙と静寂の帳に包まれた幽香邸で、メディスンは一人混乱の最中にいた。
幽香の語った内容はアルコールの薄膜に包まれていたため纏まりがなく、メディスンにとっては些か不透明である。
だがそこには無視しえない、モルトの原液の如き幽香の本心が満たされていたのは間違いなかった。
アルコールではなく、風見幽香の本心にメディスン・メランコリーの心が酔わされた心持ちだ。
「でもまぁ、呑まれちゃ駄目だよね」
酒は人生の友であり、楽しむものであって、呑まれる者ではない。
他人の意見は他人のものであり、己の心は己のものだ。
そう頷くとメディスンは一度帰宅して装備を整えるために幽香邸を後にする。
一時間後に様々な毒を用意してメディスンが戻ってきても幽香は変わらず食卓に突っ伏していた。
寝顔だけは女神だなぁ、なんて苦笑したメディスンは幽香をベッドへ運んで少女の隣に横たえると、自らは毛布を巻き付けて並べた椅子の上に寝っ転がった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
何故、どうしてこんなことに!
姉様が、姉様が殺されてしまう!
睨み合う。
恐怖で全身がこわばっているのが自覚できる。
そう、これは恐怖だ。
敗北の恐怖。
死への恐怖。
なにより、姉様を失うことへの恐怖。
負けるわけにはいかない。
勝たねばならない。勝たなければ、殺されてしまう。
姉様が、この男に!
殺せ。目の前の人間を殺せ。そうやってこれまでも生きてきたのだ、難しいことなんて何もない。
だけど……
――油断した――
まさか、この男が姉様を殺しに来るなんて!
もはや敵……そう敵の間合いの内。そこまでの接近を許してしまっていた。
隙を見せたら切花にされる、と肌で感じられる位の距離。
どうして?
どうして姉様を殺そうとするの!?
わたしたちは確かに人間達に嫌われている。人間が妖怪を嫌悪するのも、腹が立つけど理解した。でも、それでも!!
こいつだけは最後までわたしたちの、いや姉様の味方だと思っていたのに!!
刀を手にする目の前の敵は人間。妖怪の餌。されど姉様を愛してくれた存在。強靭な人。油断してはいけなかった。
鍛えに鍛えた人間の一部はその技量で以て、互角以上に妖怪と渡り合えるのだから。
必殺の間合いまで近づけてしまった以上、最早私が勝ちを得るにはやられる前にやるしかない。
この男を! 姉様が誰よりも愛している、この男を!!
全力の一撃を、目の前の人間へと向けて解き放つ。
わたしは、死ぬわけにはいかない。
姉様は、私が守るんだ!!!
◆ ◆ ◆
メディスン・メランコリーが。
風見幽香が。
結界のほころびを探知するより先に。
「……クル……」
初めて、問われずして少女が言葉を口にした。
見る見るうちにその表情が憎しみの色に染まっていく。
「遅かったわね。ま、お出迎えに行きましょうか。家を壊されちゃたまらないしね」
「……」
「そうだね……行こう?」
幽香はけだるげな。
少女は憎悪の。
メディスンはそんな二人の間で当惑したような。
そんな三者三様の表情で扉をくぐって外に出ると、そこは既に肌寒い晩秋の夜空である。そして今、その夜空が振動と共に粉砕されつつある。
バキリ、と空に割れ目が発生した直後。
幽香邸が位置している半夢幻空間はまるで硝子の檻のようにあっさりと粉砕され、彼女達は太陽の畑に唯一つポツリと設置されていた郵便ポストの隣に顕現していた。
通常空間に帰還した三者を待ち受けていたのは二人の人間。
一人は男。どうやら夢の中の出来事は十数年以上前であることを示すかのように年老いてしまっているが、十中八九幽香の夢の中に現れた男だ。
一人は女。黒衣を纏い不適に笑う、幽香やメディスンとは旧知の仲。
「私の結界を破壊したか。やるじゃないの、魔理沙」
目の前に現れた二人の人間の片割れ。おそらくは護衛兼協力者として雇われたであろう何でも屋。
箒に跨る星の魔法使い、霧雨魔理沙に幽香は惜しみない賞賛を送る。
「ま、長い付き合いだからな。そろそろお前の癖もおおむね把握できている、って訳だ。で、私が此処にいる意味はもう理解しているな?」
「未成年者略取でしょ?」
「そういう台詞は妖怪の成年を定義してから発言してもらおうか。迷惑な妖怪退治だよ」
肩をすくめる魔理沙の横に、男が一歩進み出る。
「お主らの後ろにいる幽霊を、こちらへ引き渡していただきたい」
「黙れ、下衆」
既に初老と化した夢の中の男へ向かって、メディスンはあらん限りの毒を吐く。
「恋人の命を平然と奪っておいて、今度は幽霊になったこの子の魂すら消滅させようって訳? 最低の屑だわ」
「……」
「おいメディ、そりゃ言いすぎだろ。お前は知らんだろうがな、そいつだって100を軽く超える人命を奪ってるらしいぜ? 止めなかったら、それだけじゃ済まなかった。野放しには出来ないんだよ。誰かが止めなきゃいけなかったんだ」
「……じゃ、こうしようか。そこの人間が自害したら私は抵抗をやめるよ。どう? 魔理沙」
「……それは……出来ん!」
死ね、と突きつけてくるメディスンの台詞にも男は巌のような表情を崩さない。
ただ静かに横一文字に結ばれた口を開き、胸を焼く痛みにこらえるかのような声を絞り出す。
「はっ! 本当に最低だ! あんたなんかに生きる権利なんてあるものか! ここで死ね!」
「ふん、やっぱこうなるかよ。なぁメディスン、お前や幽香からすりゃ木っ端かもしれんがな、命は命なんだぜ? ……で? 幽香。お前はどうするんだ?」
この場に存在する五者の中でおそらくは最強である存在、風見幽香は震えていた。
恐怖に?
まさか、歓喜にだ。
千年遺物と思われる直刀を手にしたこの男は手練だ。少なくとも、幽香が相手をしてもいいと思える位には!
幽香の中では人間は二種類に分けられる。即ち老いて衰える人間と、老いてなお鋭さを増す人間、この二つだ。
この男は明らかに後者。こういう人間が今も存在しているから幽香は未だ幻想郷に留まっているのだ。故に幽香の選択は一つ。風見幽香の心の赴くままに!
「ごめんなさいねメディ。やっぱり降りるのは撤回。……ご老人、お相手していただけるかしら?」
「断る。死にたくないと言った筈だ。更に言うならば斬りたくもない。斬れるとも思えぬが」
「ご謙遜はよしていただけるかしら? その剣があれば、人であっても十分に私に届く筈」
柄に刻まれた七つ星。「星だし相性がいいから」なんて理由で魔理沙が神子から『借りた』その直刀の名は七星剣。
千年以上の間、剣であったという事実を持つそれは、幻想が力となる幻想郷においてはおそらく最強格の武装であろう。
「断る。無駄な争いに興味はない」
「見た目通り頑ななのね。では条件を付けてあげるわ。貴方が私と相対するならばこの子にもメディにも手出しさせないと約束しましょう。つまり貴方は私だけを相手取って、勝てば目的を果たせるという訳」
「……それだけではあるまい?」
「当然。これ以上私の提案を断り続けるならば、私がこの子を殺すわ」
「幽香!?」
幽香の発言にメディスンは殴られたような衝撃を感じた。
あっさりと少女を殺すと言ってのけたのは――幽香らしい、と納得しつつも――やはり驚愕であった。
だが何よりメディスンを揺さぶったのは、男が退いたら少女を殺す、と言う駆け引きそのものだ。
それが取引になりうるということは、この男達は少女を殺しに来たのではない、という事ではないか?
「……いいだろう。他に道は無い様だ。僅かな勝利に望みを託すとしようか」
「無論、手加減はしてあげるから御心配なく。そういうわけだからメディ、邪魔しないでね?」
「邪魔したら私もぶっ飛ばすんでしょ? いーよ。そんぐらいで腹立ててたら幽香の友人なんてやってらんないし」
「ありがとメディ、愛してるわ。貴女も良い? ちゃんと貴女がトドメをさせるように、殺さないでおいてあげるから」
「――ワカル――タ――」
男を目にして初めての表情を、憎悪の表情を浮かべていた少女もまた、不承不承という二つ目の表情を形作りつつも幽香の提案を受け入れた。
それを目にした男の表情が初めて微動する。僅かに眉を動かしたそれは、おそらく驚愕であったのだろう。
「あー、まー予想通りの展開だな。……とりあえず相手が相手だ。勝てとは言わないけど死んでくれるなよ? 爺さん。私はタダ働きは御免だからな」
幽香と同じくふてぶてしい表情を浮かべた魔理沙が男の後ろに下がって八卦炉を取り出す。
狙うのは幽香でもメディスンでもなく、未だ憎しみ冷め遣らぬ少女だ。少女が動いたら間髪いれずに吹き飛ばすつもりなのだろう。
それを目にしたメディスンもまた未だ混乱から抜けきれぬ表情のまま、少女の手をとって幽香の遥か後方まで引き下がった。
男が直刀を抜き放ち、月光に濡れて青白い光を放つそれを上段に構える。
幽香もまた弓を引くように傘を構える。
「征くわよ?」
「参れ」
夜空にひらりと、花が舞う。
◆ ◆ ◆
踊りかかる幽香の一撃を身を捻ってかわしざま、男が返す横一閃を頸部に叩き込む。
飛び退いた幽香に追い縋る平突きは音よりも早い。
幽香が相手の心臓を狙って日傘を突き返した次の瞬間には男は半身にてそれを捌き、逆袈裟の一撃を見舞ってくる。
ハラリ、と一房、緑色の髪が宙へと舞い散った。
幽香が風を切り裂いて迫れば、男の刃はその風が去る前に反撃となる。
疾風の如き猛攻を続ける幽香と、最小限の動作で楔を打ち込むかのようにそれを阻む男。
まるで互いに示し合わせているかのように、二者は一つの竜巻となって荒れ狂っていた。
誰しもが心の中に伴侶として持っているはずの恐怖心。それを肥溜めに投げ捨てたかのような駆け引きを続ける二者の挙動は、豪胆という範囲を軽く超えている。
皮膚一枚の距離で相手の一撃を躱すその狂争には、速度を頼みに弾幕の海をかいくぐってきた魔理沙ですら舌を巻かずにはいられなかった。
魔理沙からしてそうであるのだから、ただひたすらに空気だけが切り刻まれる戦闘を見つめるメディスンなどはもはや言葉もなく、固唾を呑んで事を見守るのみだ。
ふわり、と十分近くに及ぶ死合いを中断して距離をとった幽香は歓喜に視線を泡立たせる。
「素晴らしい……まさか之程迄とは!」
「お主が体術のみ、しかも攻めるは傘だけと定めているからな。そうでなくては死んでいる」
ふ、と軽くため息を付いた男が返す。
そう、幽香は妖気による圧倒的な火力も、四肢による攻撃も封印してただ傘による刺突と打撃のみで男に迫っていた。
加えて日傘の骨組みは超硬合金製とはいえ、千年遺物の斬撃を受け止めるには至らない。
だから男の攻撃を一太刀すらも受けることが出来ず、全て躱す事で捌かなくてはならない幽香は明らかに不利。
……だが、いくら攻め手が限られているとは言え、幽香の身体能力は鬼にすら匹敵するのだ。
「理解できないわ。それほどの力を持ちながら、何故積極的に攻めてこないの?」
「攻める余裕が無いだけだ」
「攻める心算が無い、でしょう?」
真紅の瞳をすっと細めて幽香が笑う。
「どんなに気取っても、剣客には悲しみ以外を生み出せぬ。修羅の路などと言葉を飾ったとて、その実は下賎な人殺し。斬ることを喜びとする呪縛から拙者は解放されたのだ」
一切の迷いを斬り捨てた瞳で、男は笑う。
「拙者も一つ聞きたい。お主、何故それほどまでに人の技を躱せる? 読める?」
「幾度と無く人と死闘を演じてきたから、と答えればよろしいかしら?」
「自惚れるつもりは無いが、常人ではお主と勝負になるまい……いや、まさか」
風見幽香は花である。花とは、種子より芽吹いて芽となり蕾となり、そして披くものである。そして最後には……
「格好良いものだ。妖怪でありながら、刹那を望むか」
「下賎な修羅の路、ではなかったかしら?」
「いかにも。だが拙者は迷いを捨てたとは言え未だ餓鬼である故、その飾った言葉を格好良いとも思うのだ。矛盾しているがね」
「褒めるなら美しいとのみ言いなさい。花愛でるなら他に言無しよ?」
「断る。拙者その言葉はただ一人にのみ捧げている故、口に出すことは出来ても真の本心にはならぬからな」
満腔の思いを込めたその言葉に、メディスンの傍らに立つ少女が一瞬、息を呑んだ。
「仕舞いにしよう。斬ることを忌む身ゆえ攻めずにいたが、稚拙の全力如きでは逆立ちしてもお主を殺すこと能わぬという直感は正しかったようだ。全身全霊で、御相手致す。拙者を喰らい先へ行き、先の咲の先にて笑え。お主には、それが相応しい」
「こちらこそ手加減などして悪かったわね。全力で消し飛ばしてあげるわ」
男は半歩踏み出すと、直刀を正眼に構える。
風見幽香は傘の石突を男へと向けて、その先端に全妖気を集中させる。
「さあ、来なさい!」
「征く、と言ったのはそちらであろうに」
違いない、と幽香が笑い、前方全てを焼き尽くす劫火を撃ち放とうと息を吐いた、須臾の間に。
男の姿が幽香の視界から消えた。
「!?」
本能の赴くままに幽香は妖気を込めた左腕と日傘を交差して防御に回る。だが……
――守るな! 攻めろ!
これまで幽香が積み重ね、培ってきた経験が、勝利への渇望が生存のための本能を跳ね除けて吠える。
魂の叫びに従って幽香は傘から右手を離し、左脚をそこにあるであろう何かに叩きつけた。
蹴り脚に伝わった感触と同時に、初めて幽香の視界に男の姿が映る。
その姿に向けて不安定な体勢ながらも残った右腕を真っ直ぐ振り貫いた、
瞬間、幽香の両腕と脇腹に同時に衝撃が走りぬけた。
「……見事」
男は血を吐きつつ呟くと、片足では立つことがおぼつかないのだろう、幽香の目の前で崩れ落ちる。
左の肋骨と左肺、そして右脚の脛骨腓骨を粉砕されて、男は膝を屈した。
「……よく言うわ」
脇腹を流れ落ちる血と焼けるような激痛に怖気をおぼえながら幽香はそう呟いて、右手で左上腕の動脈を圧迫する。
両断された日傘と左腕、そして左脇腹に深々と刻み込まれた裂傷と引き換えに、風見幽香は未だ立ち続ける権利を手に入れた。
「勝った気が、しないわね」
「立って…る者が……勝者であろう。それに…主は全力の…分しか出し……らぬで…無いか」
肺に肋骨が刺さっているのだろう。ごほり、と咳き込み言葉を途切れさせつつも、負傷を感じさせない声の張りで男は幽香を褒め称える。
「勝った気が、しないわ」
切断されて転がっている左腕を呆然と眺めながら、幽香は久方ぶりの恐怖にぶるりと身体を振るわせた。
やはり人の技というのは恐ろしいものだ。攻勢に転じ軸足を挫けていなければ幽香の胴は真っ二つになっていた筈。
だが、それほどの斬撃ですら全身全霊ではなかったのだ。それを幽香は把握してしまっていたから、勝った気にはなれなかった。
男は言葉通り自分では全力で攻めていた心算の筈だ。だが男は既に――あの夢の出来事のせいだろう――相手が妖怪だろうと、妙齢の女性へ本気で刃を振るうことなど出来なくなっていたのだ。
明らかに踏み込みの速度に対して刃が一瞬遅れた。その遅れがなかったら幽香が胴を両断されていたかは……正直、分からない。
出来るならば、この男が全盛の時に再度全力で相対したかったものだ、と幽香は埒の明かぬ思考に囚われる。
鬼が生涯の宿敵として人に恋焦がれるのも致し方ないか、なんてらしくも無い思考にかぶりを振った、その時。
「止めろ!彼女ら…で、巻き込むつ…りか……西行妖!」
周囲の景色が、桜色に染め上げられた。
◆ ◆ ◆
「な、なにこれ!?」
メディスンの驚愕に粟立った声が周囲に響き渡る。
そこは完全に音の消えた世界だった。
周囲にはもはや晩秋の風に揺れる落ち葉も茶に染まった野草もない。
そこにあるのは唯々、桜。
満開の花を湛えし墨染の桜。
幽霊少女を中心にして、世界が桜一色に染められていく。
「ちっ、幽香達に気をとられすぎたか。私もヤキが回ったもんだぜ」
八卦炉から放たれた火線が空間を裂いて走るものの、その火線は少女の下へと届く前に雲散霧消して消え果てた。魔理沙が忌々しげに歯噛みするが、最早後の祭りだ。
桜木を狙ったメディスンの毒霧も同じ運命を辿った。それどころか、ただそこに立っているだけで体力妖気まで奪われていく感覚にメディスンは怖気を覚えて肩を震わせる。
既に此処は死を祝福する桜の杜。
あらゆるものを滅びへと誘う死の祭壇。
空に舞い散る桜の花弁が風に揺られてふわりと踊り、光塵となって消えていく。
「桜花…界、西行…無…涅槃。拙者が、倒れ…のを、勝機…見たか……」
忌々しげな表情で、男が立ち上がった。
ふらつき倒れそうになるその痩躯を魔理沙が支えるが、男の吐血で赤く染まった胸元を見て嘆息する。
霧雨魔法店は基本的に料金後払いなのだ。依頼主に勝手に死なれてはたまったもんじゃない。
「おい爺さん、それ以上喋るとマジで死ぬぜ? ……だがどうすんだこれ? 焼き払えば燃えるのか?」
「無理でしょうね。魔理沙、そのご老人を連れて下がりなさいな。メディスンも」
「ちょっと、幽香はどうするのよ?」
未だ傷口から血を滴らせている幽香にメディスンは動転した視線を向けるが、それを受け流して幽香はニタリと哂う。
「勝負の邪魔をされるのは好きじゃないのよ」
「もう決着ついてたじゃんか……それにお前だってその負傷でこの空間はヤバくないか?」
「心配ないわ。ねぇご老人、これから私はあの子をぶっ飛ばすんだけど、何か文句はあるかしら?」
「あ…ませぬ…どうか、あやつを…ろしく…願いい…し申す。……その、出…れば、なにとぞ、お手柔ら…に」
「気が向いたらね」
蕩ける様な笑みを浮かべて、幽香は一人少女へと向き直る。
「――ドウシテ――」
どうして男をかばうのか、か。どうして敵対するのか、か。
「決まっているじゃない。私は自然を愛する風見幽香よ? 目の前にある美しい自然を愛で、目の前にある美しくない不自然は踏み潰す」
ああ、これこそが風見幽香である、と魔理沙は呆れたように腕を組んで低く唸った。
「貴女の桜は、不自然で、美しくない。美しくない花が無理やり咲かせられるのを黙って見ている私ではないわ」
ああ、これこそが風見幽香である、とメディスンは納得したかのように紫色の吐息を吐く。
「じゃあ行くわよ? 西行妖だかなんだか知らないけど、花妖怪の頂点はこの私なの。それをまだ教えていなかったわね」
哂いながら、進軍する。
「さ、お馬鹿さん、教育の時間よ。その身に刻み込みなさい」
「――ナニヲ――」
「真に美しく咲き誇る花の前では、あらゆる存在が無力であるということを、よ! さあ、咲き乱れなさい!!」
哄笑と共に幽香が謳い上げたなら。
桜色の海原の一部が緑へと塗り替えられる。
桜の杜の静謐な空気を侵食するかのように埃と冬枯れの香りを纏う乾いた空気が周囲に広がる。
その中にあってさまざまな色彩を放つは秋の花。
緑と紅で防壁のように垣根を成すは山茶花。
城塞としてそそり立つは白く小さな花を付ける枇杷。
大地を覆うはポインセチアの苞葉とサルビアの唇花が織り成す猩々緋の絨毯。
それは秋の花々が織り成す生命の要塞。その中央で。
八重に花弁を重ねる菊花を侍らせて微笑むは、開いた日傘に両手を添えて優雅に佇む風見幽香だ。
「――エ? ――」
桜の杜の中心に立つ少女が驚愕に目を見開いた。
重傷を負い、血を滴らせていた風見幽香は視界の何処にも存在しない。
あるのは濃密な妖気を己の要塞にてさらに増幅し、少女をせせら笑う五体満足のフラワーマスターのみ。
「ああ、そりゃお前、ほとんどペテンじゃないか」
魔理沙が幽香の特技を思い出して感心したようにヒュウと口笛を吹く。少女にはあたかも幽香が瞬時に傷を再生したようにしか見えないことだろう。
「情けない記憶力と洞察力ね魔理沙。ご老人は最初から気付いていてよ?」
そう、相手をしていたのが幽香の分身であることに。
嘲る様な微笑を一つ魔理沙に返すと、幽香は少女へと向き直って、優雅な歩調で歩みを進める。
幽香が一歩を踏み出すたびに、秋の花々が少し、また少しと桜の世界を侵食していく。
ありとあらゆる生物を殺す死の世界が、煩雑に伸び行く生命満ち溢れる世界に潰されていく。
「――ドウシテ? ――」
どうして、勝てない?
あらゆる生命を殺す力が、どうしてそれらを殺しきれないのか?
「馬鹿ね。花というのは被せるものではなくてよ? 秋雨も終わったこの季節に、桜花が地に根付く筈がない」
理解できないとばかりに首を振る少女に、幽香はこれ以上ないと言わんばかりの恍惚に満ちた表情を浮かべる。
「花は土の中より取り出したる色。大地がこうありたいと望む色。即ち自然の具現化こそが花」
風見幽香はフラワーマスター、自然の体現者。
その言葉は自然の息吹。落ちたる種子を開花させ、秘めたる力をつむぎ出す。
「故に季節外れの桜花など、この私の開花宣言の前では無意味。さぁ、このまま何もせずに蹂躙されるか、抵抗した上で蹂躙されるか。好きなほうを選びなさいな?」
幽香と少女の距離は十歩ほど。その地点で幽香は足を止める。
気付けば少女の手の内には短刀が存在していたからだ。
男が手にしていたような伝説や幻想に彩られた刀ではないが、おそらくそれもまた千年以上の時を刀としてあった業物だ。
「そうでなくてはね。でも貴女には私に勝てない理由が三つもある」
男と瓜二つの構えを取る少女をしかし、幽香は嘲笑で迎え撃つ。
「一つ。貴女の花には今しかない。花とは見られ愛でられ視姦しつくされて価値を高めるのよ? 見た者をすぐ死体に変える貴女と、いつまでも視線を集め続ける私ではその品格に雲泥の差がある」
少女が脚に力を込める。そこから繰り出される神速の踏み込みは男と同じく、幽香の視界に映ることすらないのだろう。
「二つ。貴女の花には己がない。かつては貴女も愛でられるために花を咲かせていたのでしょうに。今の貴女の花は唯、殺すためだけに咲かせられている。駄花もいいところね」
少女の姿が幽香の視界から消える。
だが次の瞬間には少女の刃は日傘を手放した幽香の両掌で挟み込まれ、あっさりと動きを止められていた。
「――ソンナ……――」
呆然とする少女から素早く刀を奪った幽香は、それをトン、と地面に投げ打った。
「三つ。貴女の花には成長がない。花とは種子より芽吹いて目となり蕾となり、いつか開いて枯れるモノ。私は変化を続ける花よ。唯ひたすらに満開のみを維持する造花と代わらぬ貴女の花では、決して私についてこれない」
妖怪の種族間における力量差は割と明白だ。
河童は天狗には勝てないし、天狗は鬼には勝てない。それが覆ることなどほとんどない。
それは妖怪の力の源が幻想であり、そのイメージが今や概ね固まってしまった結果であるからだ。種族内における実力の幅も少ない。
そんな妖怪が種族を超えた力を得るには、神になって信仰を得るか、仙人等を食らって底上げをするしかない。
しかしそんなものはつまるところ他力本願、他人に頼った成長に過ぎないのだ。
「常に成長と変化を続ける私には、旧態依然とした全てが過去の残照」
だが、風見幽香は違う。
花である、という特性を前面に押し出した幽香は常に変化し、一所に留まることはない。
強敵との戦いを糧に現状に留まることなく延々と成長と変化を続ける風見幽香は伊達ではないのだ!
「忘れられないように頭に刻んでおいてあげるわね。お馬鹿さん」
言葉と共にギリギリと強く握り締めた拳を、
「花たるこの身に生まれたならば、咲いて魅せるがその定め! 覚えておきなさい!!」
幽香は躊躇なく少女の頭部に叩き付けた。
「「ひぃ!!」」
文字通り吹っ飛んだ少女の姿を目にしたメディスンと魔理沙の怯えたような声が背後から聞こえたが、そんなものは幽香にとっては声援にしかならない。
「ちょ、ちょっと幽香!」
「せめてパーにしろって! グーはないだろグーは!」
「何を馬鹿な。女が女のツラを殴るのに平手打ち? ありえないわ」
「「ひぃ!!!!」」
背後で魔理沙とメディスンが抱き合ってガタガタ震えだすが、そんな光景は幽香にとっては喝采でしかない。
対して震える少女達の横で男は非難の声を上げることもなく座したまま沈黙している。
文句がないのではない。容認しているのでもない。
少女がぶん殴られた瞬間にサッと血の気が引いて貧血を起こし、呼吸困難と相まって気絶してしまっているだけだ。
腰抜け共に背を向けると、幽香はつかつかと倒れ伏す少女に歩み寄り、胸倉を掴んで引きずり起こす。
幽香の拳を正面から受けてなお、少女はほとんど無傷だった。流石は千年を生きた大樹と言ったところだろうか。
ほれ見ろ、と幽香は見た目に踊らされている間抜け共を笑う。手加減する必要など何処にもないのだ。
「先に挙げた三つは貴女が私に勝てない理由だから、貴女にそうしろというつもりは無い。だけど花ならば、美しくありなさい。これはルールなんかじゃない、絶対の真理よ。分かった?」
「――ウツクシイ――ナニ? ――」
「それは自分で考えるの。牡丹の美しさと桜の美しさが同じである筈がない。同じ品種だって色が変われば印象も変わる」
「――? ――」
「……美しいモノを、探しなさい。分かった?」
「――ワカッタ――」
少女は幽香の言葉に素直に首肯する。
幽香と共に暮らすようになってから二ヶ月以上。その間どのような失敗を重ねても幽香が拳を振るうことは無かった。
だから、初めて拳と共に叩きつけられた言葉は、多分忘れてはいけないのだろう。そう思う。ただ……
――花たるこの身に生まれたならば、咲いて魅せるがその定め。
そうは言うが、しかし少女から見て幽香は美しさで魅せると言うかなんと言うか、
「――ユウカハ――カッコイイ?――」
「……そこは美しいと言うところでしょう?」
少女は頑なに首を振った。それは少女にとって姉のためにある言葉だったから。
そう、少女は姉の佇まいに美しさを感じていた。それを思い出したのだ。
何が少女の姉を、美しいと少女に感じさせたのだろうか?まだ、よく分からない。
「ま、いいわ。いい子だから焦らずゆっくり考えなさい。じゃあこれで最後」
「――ナニ? ――」
悩み始めた少女を立たせて優しく頭を撫でた後に、幽香は周囲が歪んで見える程に練り上げた妖気を纏う拳を振り上げる。
「「やめたげてよお!!」」
背後から惰弱な嘆きが聞こえるが、幽香は気にしない。
殴られずして大人になれるものか。痛みなくして成長できるものか。
さっきの一撃は言葉を刻み込むため。そしてこれは……
「おいたする子には、お仕置きよ」
ズドン、という大砲の発射音のような凄まじい轟音と共に、少女の意識は闇へと落ちる。その瞬間に、一つだけ思う。
――ボウリョク――ウツクシクナイ――
図らずもそれは、斬ることを忌む男の言と重なる思考だった。
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「此度は我が家族、西行妖の為に尽力頂けたこと感謝に耐えませぬ。まこと、なんとお礼を申してよいやら」
此処は再び結界が修復された、半夢幻世界における幽香邸。
食卓の椅子に腰掛ける魔理沙、幽香、メディスンに対面して、眠る幽霊少女の頭を膝に乗せた男がベッドに腰掛けている。
永遠亭に運ばれて手当てを終え、絶対安静を言い渡されたにもかかわらずその足で退院した男は幽香とメディスンに――複雑な表情で――深々と頭を下げた。
「礼なんて何の役にも立たない物はいらないわ。……ただまぁ、メディがなんか消化不良みたいだし、ちゃんと説明してあげてくれない?」
「うむ、それでは何処から話せばよろしいやら……」
「まずは自己紹介じゃないか? 爺さん」
「む、確かに。遅ればせながら拙者、西行寺家先代庭師にして今は流浪の半人半霊、妖忌と申します。そしてこやつが冥界西行寺家が誇る妖怪桜、西行妖」
膝に乗せた少女の髪を優しく撫でる男、いや妖忌にメディスンが困ったような目線を向けた。
メディスンの記憶が正しければ半人半霊は一抱えほどの大きさの幽霊を引き連れている筈だったが、何故かこの老人にはそれがない。その上、
「西行妖って……見たことあるけど桜の巨木だよね? それがどうしてこんな所で幽霊になってるの? 死んだの?」
「いえ、正確に申すならば此処にいるこやつは西行妖の半霊、ということになりましょうか」
「木の半霊? ……ああご老人、私あんまり敬語って好きじゃないのよ。言葉を崩していただけるかしら?」
「了解いたした……では多少遠回りになるものの順を追って説明しよう。拙者は現在世界中を旅しておってな。その目的の一つが、この西行妖に広い世界と人の生き様を見せることであった」
「人の生き様?」
「然様。かつてこやつは幻想郷で死の猛威を振るい、幻想郷を滅ぼしかけたが為に現在は冥界白玉楼で封印されておる。だがな、こやつが死を振りまいたのは命の尊さというものを知らなかったが故なのだ」
一瞬だけ胸に去来した悔恨に目を細めた妖忌はそこで言葉を切った。
「なぁ爺さん、何であんたが旅することがこいつに世界を見せることに繋がるんだ?」
「うむ。幸いというべきか否か、その時の封印の影響で拙者とこやつは精神の一部が繋がっておってな。それ故に感覚の一部だけであるが、拙者とこやつはそれを共有しておるのだ」
「貴方の周囲には半人半霊の特徴とでも言うべき半霊が見当たらないようだけど、もしかして見張り代わりに一緒に封印したのかしら?」
興味深げに瞳を細めた幽香に、妖忌は幽香の更に先、遥か遠くを望む様な目を向けて頷いた。
「……鋭いな。まぁ、そのようなものだ」
「ふーん。封印前の西行妖を瀕死に追いやったのもあんたなのね? ……じゃあ姉様っていうのは?」
「はて? こやつは唯一本、西行寺家庭園にあった桜であるが……」
メディスンの問いかけに首をかしげる妖忌に幽香が簡単に夢の内容を説明する。
その内容を把握した妖忌は思わず苦笑した。
「ああ、それはおそらく我が主にして当時の西行寺家当主のことであろう。なにせあやつは当主の父たる聖人の死をきっかけに妖怪としての自我を持ち始めたがゆえに……それにどちらも人を死に誘うという能力を持っていたしな」
「つまり、姉様は人間だったって事ね……じゃあなによあんた、あんたは同じ人間である恋人を殺したってわけ? やっぱり下衆じゃないの!」
「……介錯か?」
「聡いな、霧雨の。その通りだ。だが殺したことに変わりはない」
椅子を蹴って怒髪に立ち上がったメディスンだったが、その発言を聞いて思わず呆然と立ち尽くした。自分がどれだけ人を傷つける暴言を吐いていたのかを理解したのだ。
「……その、ごめんなさい」
「構わぬ。殺めた事実に違いはないのだ。そもそも拙者が主の御心を御守りする事が出来ていれば、そのような事にはならなかったのだから」
「成る程。介錯しようとする様がそいつには裏切りのように見えたって訳ね……ま、仕方ないか」
そもそもが人間と妖怪である己が姉妹であると錯覚するぐらいなのだ。年若い樹木の妖怪にそんな人間の感情など理解できないだろう。
「つまり人を死に至らしめる能力を持つ当時の西行寺家当主と西行妖が人に迫害されて、当主が死を選んで、西行妖がぶち切れて大暴れしてあんたがそれを封印したって事で良いのか?」
「まとめるのが上手いな、霧雨の。その通りだ。そして拙者は何一つ守ることが出来なかったのだ。もう拙者はそんな悲劇を繰り返したくないのだよ」
「ああ、成る程ね」
ようやく幽香とメディスンの中で夢の内容と現実が噛み合った。一方からの目線では中々真実に辿り着けないものだ、と顔を見合わせて肩をすくめる。
「だから、先ずは手始めに西行妖に人の命の尊さを教える、と?」
「その通りだ。そして時間はかかったがこやつは成長した。拙者の目を通して世界を見つめたこやつはもっと身近に、即ち自分自身の目で世界を見たいと思うようになったのだよ」
まるで孫の成長を喜ぶかのような甘い表情を浮かべる妖忌に図らずも少女達は三者同じ表情を返した。即ち苦笑したのである。
「だがまぁ、西行妖は冥界で封印されていて移動することすらままならない。ならどうやれば己が外の世界を見に行けるのか、そう考えたこやつははたと気がついたわけだ。一つの意思の下に統一された二つの身体を持つ種族が身近にいるじゃないか、と」
「つまり、半人半霊ね?」
「そう。で、こやつだ。こやつには己を目にした相手を思うがままに操る〈テンプテーション〉という能力があってな。封印前もそれで余多の者達を自刃に追いやったのだが……今回もやってくれおった」
「ああ、その能力で幽霊達を集めて自分の半霊を作る材料にしたって訳か」
「うむ。幽々子様達にばれないように少しずつ少しずつ取り込んでいった様だ。一応本人曰く今回はあまり幽霊達に強制はせず、大部分は『協力してもらって』取り込んだらしいのだが……」
春雪異変の際に西行妖の開花を目にし、その美しさに見惚れたことがある魔理沙はそれを思い出して不快感に肩を震わせた。
満開に至らぬ花ですら正直魔理沙には危なかったのだ。もしあれが満開であったならばどうなっていたことか。
「む、無茶苦茶やるわね……」
「全くだ。お陰で拙者、紫様と共謀して是非曲直庁に忍び込み、食われた幽霊達の審判結果を『西行妖に転生する』と書き換える犯罪紛いの行為を行わねばならなくなったしな」
「それ、完全に犯罪よ」
いつかゆすりのネタにでも使うつもりなのだろう。八雲紫の犯罪の尻尾を掴んだ幽香が楽しげに笑う。
それを見て余計な事を言ったか? と肩をすくめた妖忌はゴホン、と咳払いをして佇まいを正した。
「話を戻そうか。そうやって材料を集めたはいいがこやつは馬鹿ゆえ、どうやれば半霊なんぞを作れるのか皆目見当がつかなかったようでな」
「っつーかよ、爺さん。そんな簡単に後付けの半霊なんて作れるのか?」
「……拙者とこやつに関しては色々と複雑でな。少なくともこやつにはそれを作れる余地があった、とだけ言っておこう。だがまあ、頭の悪いこやつのやること。結果、出来上がったのはまんま拙者の半霊の複製であった」
「おいおい、無茶苦茶が何処までも続くな……」
「始まりからして無茶苦茶だもん。そりゃ上手くいく筈ないか」
「うむ、で、その半霊は当然のように拙者と繋がるゆえ、拙者は何が起きているのかをより正確に知ることが出来るようになったのだが、当時拙者は外界の、しかも別大陸におったのでな。すぐに幻想郷に帰還という訳にはいかなかったのだ。その間にこやつはその半霊に己自身の魂と記憶を転写していったのだが、こやつ物心ついた頃の記憶から順々に転写していきおって……」
ほとほと疲れたかのように妖忌は肩を落として深い深い溜息をついた。
魔理沙と幽香も呆れたような表情で天を仰いだが、メディスンだけは何が悪いのかが理解できず首をかしげている。
「ほらあれだメディスン。昔の記憶から順番に、って事はよ。どこかのタイミングで「姉様が殺される、って思考でいっぱいな状態」のこいつが出来ちまうって事だろ?」
「あ……」
「然様。結果、激昂して今を千年以上前と錯覚した半霊のこやつはすぐさま人型を取って、拙者を抹殺すべく地上を目指したのだが……半霊の動かし方なんぞその時点では知らぬわけでな。冥界から離れ本体との接続が切れた瞬間に行動不能に陥ったわけだ」
「……人間は脳ある生物でよかったよ、本当」
「喜劇ね」
「……突っ込みどころ満載過ぎて何処から突っ込んでいいか分からない……」
幽香の言うとおり、完全に喜劇である。事を起こした本人は至って大真面目であるが故にそれがさらに哀愁を誘った。
「で、こやつは人里近くに落下して、そこでまぁ人里の男連中が一切の身動きを取らないこやつを発見したわけだが……ほれ、こやつは少しばかり幽々子様に似て実に可愛らしいであろう?」
「身内自慢は蕁麻疹が出来るからその辺にしておいて貰おうか。だがまぁ、そういうことか」
「下衆ね」
「??」
一切の行動を取ろうとしない妖怪であろう少女を里外で人間の男が見つけたらどうなるか。
それを想像した魔理沙と幽香が侮蔑の表情を浮かべた。
この場で唯一の男である妖忌は若干気まずそうに言葉を紡ぐ。
「元々この半霊は拙者の複製であったのが幸いして、身体制御をこやつから奪えたのは僥倖であった。故にその男共は先手を打ってフルボッコにしてやったのだが……」
「ああ、文月の男集数名が軽傷。犯人不明ってのがそれね。そりゃ犯人を秘密にせざるをえないわけよね」
流石にそんなオチは予想できなかったわ、と魔理沙から渡された資料を思い返した幽香は思わず自嘲した。
「そのまま拙者がこやつの制御を乗っ取っていられれば良かったのだが、こやつが体の動かし方を知ったせいか、長距離からの遠隔操作に無理があるのか、すぐに制御が効かなくなっていってな。完全に制御がこやつに戻る前に人が訪れることが無いであろう場所、即ち無縁塚に移動することにしたのだ」
冥界まで戻るだけの時間があればよかったのだが、と妖忌は口惜しげに吐息を洩らした。
「ああ、ようやく全てが一本に繋がったわ」
「そこで私がこの子を見つけたのか……あれ? もしかして私ものすごい余計なことをしたんじゃ……」
慌てて外界から幻想郷、そして無縁塚に舞い戻った妖忌はさぞ慌てたのだろう、とメディスンは頭を抱えた。
四方八方手を尽くして探してみても、一切の痕跡すら見当たらない。それもその筈、その間ずっと半霊は幽香の半夢幻空間で過ごしていたのだから。
「とんでもない。安全の保証が無い無縁塚に放置するよりは遥かに良手。まこと、御礼申し上げる」
「え、あ、うん……どういたしまして」
「それで? 今その子はどうなっているの?」
「今は拙者を通じて本体と同期を取っている最中だな。これが完了すれば多少、いやほんの極僅かばかりは今までより賢くなるだろう……と、同期が終わったようだ」
目を擦りながら妖忌の膝から起き上がった西行妖は、ボーっとした表情で周囲を見回している。
「意識はしっかりしているか? 一回幽体に戻してみろ」
言われるがままに少女の体が霊魂のそれへと変わる。
白く尾を引いて周回する幽霊を得た男に目をやって、ようやく半人半霊らしくなったな、と魔理沙は一人頷いた。
「うむ、機能は完全のようだな。戻って迷惑をかけた連中に何か言うがいい」
半霊が再び十歳前後の少女の姿に戻る。だがその衣の色は薄緑の単に焦茶の帯ではなく、空色の単に濃紺の帯へと色合いを変えている。
冠する髪色も灰白色に若干の薄桃が掛かっており、成る程どこかの亡霊と姉妹の様だ、と頬を僅かにほころばせた面々の前で少女は薄い胸を張り、一言
「――計画――通り――」
「「「「嘘付け」」」」
妖忌の拳が振り下ろされる。
嘘をつく子には、お仕置きが必要だ。
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「行っちゃったね」
秋の夜長も明け方近く。
魔理沙と妖忌、そして西行妖の後姿が見えなくなるまでずっと手を振っていたメディスンが寂しそうに手を下ろした。
「そうね、妹分がいなくなって寂しくなっちゃった?」
「樹齢千年以上の大先輩だけどね」
未だに信じられない、とばかりにメディスンは肩をすくめた。
西行妖は妖忌と共に旅に出るという事だった。
千年以上前には敵対していた二者だったが元々の両者の関係は悪くないようで、家族……そう妖忌が語ったように家族のようだ、という印象をメディスンに与えていた。
いつか西行妖が美しいものを得た後に、彼らは白玉楼へと帰るのだろう。それがいつの日になるのかメディスンには想像もつかなかった。
「馬鹿だもんなぁ」
「ええ、ご老人はあの子の知能と記憶力が悪いのは封印のせいで変化が抑制されているからだ、と言っていたけど、身内贔屓にしか聞こえなかったわね」
「あの爺さんも馬鹿だよね。足折れてるのに普通に歩いてるし……手加減した?」
「まさか。せっかくあのご老人が本気になってくれてたのに手加減なんてするわけないじゃない」
「……幽香はさ、あの老人が拒否したらホントにあの子を殺すつもりだったの?」
「ああ言えばあのご老人は絶対拒否しなかったわよ。それにねメディ。私にはあの子は殺せないわ」
「なんで?」
「だって私は幽霊の殺し方を知らないもの」
楽しそうに笑う幽香の横顔を見つめて、メディスンはちきしょう、と呟いた。あの状況で気付いていなかったのが自分だけだったとしたら凄く恥ずかしい、と心の中で地団太を踏む。
全く、親しい筈の自分に対してすらこれだ。本当に喧嘩を売って歩いてるな、とメディスンは心底呆れ果てる。
「幽香はさ」
「何?」
「……なんでもない」
――その道を選んだことに、後悔はないの?
その問いかけに対する答えは、もう示されている。
花である、という特性を前面に押し出した幽香は常に変化し、一所に留まることはない。
だがそれは、成長するといった妖怪らしからぬ特性を得る代わりに、いつしか幽香が衰えて死ぬことをも意味しているのに。
そのことに、後悔はないと幽香は言い切った。
いつの日か魔理沙やメディスンにすら太刀打ちできなくなる日が来るとしても、それでも構わないと。
あるがまま、生まれたものは滅びるのだと。それが自然だと。その限られた中で自分が何処まで伸びるのか、それを見てみたいと。
少しずつ、水平線の向こうから太陽が顔を出し始めた。
「幽香はさ」
「何?」
「格好いいね」
「そこは美しいと言うところでしょう?」
そういえば幽香に対する皆の評価は揃いも揃って「格好いい」だったなとメディスンは苦笑しそうになり、慌ててそれを胸中に押し込めた。幽香としてはそれは不本意な評価に違いなかろうから。
だが日光を浴びて気だるげに髪をかき上げる幽香を見ると、メディスンはやっぱり美しいと思うより先に格好いいと思うのだ。
――私は、どんな妖怪になるんだろう……
毒妖怪であり、花妖怪であり、人形妖怪でもあるメディスン・メランコリーは。
そんな事を考えながら、今日も風見幽香の隣にいるのである。
fin.
まさか西行妖を持ってくるとは思わなかった。意外性あふれる面白い話でした。
このゆうかりんにはかっこいいよ!と言わずにはおれない。
今回も面白い話がありがとうございます。
まさかの西行妖。そっからは桜霊廟後日談だヒャッハー!でしたがw
桜霊廊的に考えると、幽香でも勝てそうにないというか
勝負が成立しそうにないんだよなぁ妖忌さんの本気って。
ストーリーももちろん面白かったのですが、西行妖はじめとした全登場キャラの魅力に始終悶えておりました。妖忌たんもすんごくかわいかったです。もちろん最終的にゆうかりんヒャッハーという結論に至るのですが。
いやあ。ご褒美SSありがとうございました。
この作品でのゆうかりんの強さは、一般的な、妖怪としての性質よりも花や植物の性質に傾いてるからこそ花妖怪としての力がより強く発現しているのかなーとか色々考えてしまいます。
そうか、幽々子様は妖忌との食べ歩きの旅にやっと行けたのですね...よかったです。
あなたの書くお話は本当に面白いな!
そこが格好良いし美しい
相容れないが故にか紫の理解者になってる所も素敵。この二人の邂逅も見たくはあるけど、逢わないんだろうなという気も強い。
あと西行妖ちゃんが一気にダメキャラ臭をさせて好感度アップしました。新路線すぎるよ…
花映塚から成長してるんだなー
それでいて違和感が無かったから良かった。